露子さんは
夜は毎晩おそくまで御飯のあと片付けをしたり、お使いに遣られたりしました。寝る時はまた、お台所の
ようやく寒いつめたい冬が過ぎてあたたかくなりましたので、露子さんは大喜びでした。けれどもそれと一所に悲しくてならぬ事が出来ました。
露子さんは尋常の四年生でしたが、六年生にも負けぬ位学校がよく出来ましたので、今年から女学校に這入りたいと思って、或る日思い切ってお父さまやお母様に願って見たのですが、お父様は
「女の癖に女学校へ行くなんて余計な事です。女学校へ這入るには試験を受けねばならぬでしょう。試験を受けるために勉強するからといって、うちの仕事をなまけようと思うから、そんな事を云うのです。試験の前に勉強して女学校に這入れたって、本当に這入れたのではありませぬ。勉強しないで這入れたのが本当です。まだ尋常四年の癖に生意気な事を云うものではありませぬ」
こう云って、お母さんは何といっても御承知なさいませんでした。
露子さんも勉強しないではとても女学校へ這入れまいと思って、泣く泣くだまってしまいました。そうして静かに台所の電気を消して寝ました。
けれども露子さんは、女学校に這入りたくて這入りたくてたまりませんでした。床に就いてから涙が
その
雨戸の真中あたりと思う処から、
「キキリココリ。ククリキキリ。フフリチチリ。リリリツツリ」
と小さな音が面白く調子よく聞こえて来ます。
露子さんはそっと起き上って、そっと電気をひねって、音のする方に近寄りました。
見ると、その雨戸の
露子さんは驚いて眼をまん丸くしていると、虫は小さな赤い帽子を取って、椅子に腰をかけたまま露子さんにていねいにお辞儀をしました。露子さんも何だか変に思いながら、相手が丁寧ですからこちらもていねいにお辞儀を返しますと、虫は二本の長い髯を動かしながら、椅子をゆすりゆすり小さな声で口を利き初めました。
「キリリコロコロ、私はいつもこの雨戸の
と椅子をゆすりながら、横にある小さな虫穴を指さしました。露子さんは只もう呆れて眼を
「あなたが毎日お母様の云い付けをよく聞いて働いておいでになる事は、私はよく存じています。キキリキキリ、チチリチチリチチリチチリ、いつも御同情申し上げておりますので、一度はお眼にかかってお話したいと考えておりましたが、今度はほんとに
露子さんはハッとしました。お父さんやお母様がいけないとおっしゃった事を他のものに云い、付け口をするのは悪い事のように思いましたので、只顔を真赤にして眼に泪を一パイ
「ココリ、リリリ、リリリ、リリリ。露子様、よくわかっておりますよ。私はよくわかっております。ツツリツツリキキリキキリ、御安心なさいまし、御安心なさいまし。あなたはきっと女学校にお這入りになれるようにして差し上げましょう。イヤ、今でも女学校にお這入りになれるのですが、只御両親のお許しが出るようにして上げます」
「まあ、あなたが」
「ハイ、私が。私は小さい虫ですけれども、私が持っている正しい同情の心は世界よりも大きく、山よりも重とう御座います。では左様なら、キキリツツリ」
と云う
その夜露子さんは、どうしてあんな小さな虫が
露子さんは、もしや自分の事ではないかと思って胸がドキンとしましたが、校長さんがニコニコしておられるので安心して、丁寧にお辞儀をして別れましたが、校長さんはそのまま露子さんのお
それから学校へ行って、その日の学課を済まして帰ろうとしますと、校長さんから一寸来いと云われましたので、又胸がドキンとしました。
こわごわ校長室に這入って見ると、校長さんは矢張り
「露子さん。私は今日あなたのおうちへ行って、あなたの御両親にお眼にかかって、あなたを女学校に入れて下さるかどうかお尋ねしたのです。そうしたらあなたの御両親は、女の児に学問は要らぬと云ってお嫌いになりましたから、私は、そんな事はありませぬ。これからの女は出来るだけ学問をしなければ外国に負けることをお話して、お許しを受けて来ました。そのうえ毎晩九時から十時まではあなたに勉強のおひまをいただくようにお母様にお願いしておきましたから、そのつもりで勉強して立派に女学校に這入って下さい」
露子さんは夢かとばかり驚いて、嬉し涙をハラハラとこぼしました。そうして
「私は先生に済みませんけれど、夜勉強しないでもよろしゅう御座います。お母様は、試験の前に勉強をして学校がよく出来るのは、本当に出来るのじゃないと云われました。私はほんとうと思います。これからふだんの学課の時間もっともっと気をつけて、先生の教えて下さる事を覚えようと思っています。私が勉強するためにお母さんに御心配かけては済みませんから」
とニッコリ笑いました。
校長さんは思わず露子さんの手を握りしめて涙を流して、
「おお露子さん、よく云って下さった。
校長さんはすぐに露子さんをつれてお
「今まで
とお父さんや校長さんにお
女学校に這入ってからも露子さんは、あの虫がどうしてあんなに不思議な事が出来たか不思議でなりませんでした。おおかたあの赤い帽子を冠った虫が、あの夜校長さんの処に行って妾の事を云ってくれたに違いないと思いましたが、それを校長さんに聞くのは何だか変なような気がして、とうとう聞かずじまいになりました。それから毎晩毎晩、あの赤い帽子を冠った虫に一度会ってお礼を云おうと思いましたが、その後あの虫は一度も音も立てなければ姿も見せず、只小さな虫穴ばかりが露子さんの家の雨戸の桟にいつまでもいつまでも残っていました。