父上に献ぐ
父上、父上ははじめ望み給はざりしかども、児は遂にその生れたるところにあこがれて、わかき日をかくは歌ひつづけ候ひぬ。もはやもはや咎め給はざるべし。
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邪宗門扉銘
ここ過ぎて
曲節の悩みのむれに、
ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。
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詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、縹渺たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。されば我らは神秘を尚び、夢幻を歓び、そが腐爛したる頽唐の紅を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也。暗紅にうち濁りたる埃及の濃霧に苦しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマンチツシユの音楽と幼児磔殺の前後に起る心状の悲しき叫也。かの黄臘の腐れたる絶間なき痙攣と、
オロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇硝子にうち噎ぶウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄の色したる毒艸の匂深きためいきと、官能の魔睡の中に疲れ歌ふ鶯の哀愁もさることながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵞絨の手触の棄て難さよ。
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昔よりいまに
渡り
来る
黒船縁がつくれば
鱶の
餌となる。サンタマリヤ。
『長崎ぶり』
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例言
一、本集に収めたる六章約百二十篇の詩は明治三十九年の四月より同四十一年の臘月に至る、即最近三年間の所作にして、集中の大半は殆昨一年の努力に成る。就中『古酒』中の「よひやみ」「柑子」「晩秋」の類最も旧くして『魔睡』中に載せたる「室内庭園」「曇日」の二篇はその最も新しきものなり。
一、予が真に詩を知り初めたるは僅に此の二三年の事に属す。されば此の間の前後に作られたる種々の傾向の詩は皆予が初期の試作たるを免れず。従て本集の編纂に際しては特に自信ある代表作物のみを精査し、少年時の長篇五六及その後の新旧作七十篇の余は遺憾なく割愛したり。この外百篇に近き『断章』と『思出』五十篇の著作あれども、紙数の制限上、これらは他の新しき機会を待ちて出版するの已むなきに到れり。
一、予が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とを主とす。故に、凡て予が拠る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と刺戟苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強ひて詩を作為するが如きを嫌忌す。されば予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり。要するに予が最近の傾向はかの内部生活の幽かなる振動のリズムを感じその儘の調律に奏でいでんとする音楽的象徴を専とするが故に、そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり。
一、或人の如きは此の如き詩を嗤ひて甚しき跨張と云ひ、架空なる空想を歌ふものと做せども、予が幻覚には自ら真に感じたる官能の根抵あり。且、人の天分にはそれそれ自らなる相違あり、強ひて自己の感覚を尺度として他を律するは謬なるべし。
一、本来、詩は論ふべききはのものにはあらず。嘗て幾多の譏笑と非議と謂れなき誤解とを蒙りたるにも拘らず、予の単に創作にのみ執して、一語もこれに答ふる所なかりしは、些か自己の所信に安じたればなり。
一、終に、現時の予は文芸上の如何なる結社にも与らず、又、如何なる党派の力をも恃む所なき事を明にす。要は只これらの羈絆と掣肘とを放れて、予は予が独自なる個性の印象に奔放なる可く、自由ならんことを欲するものなり。
一、尚、本集を世に公にする事を得たる所以のものは、これ一に蒲原有明、鈴木皷村両氏の深厚なる同情に依る、ここに謹謝す。
明治四十二年一月
著者識
[#改丁]
魔睡
余は内部の世界を熟視めて居る。陰鬱な死の節奏は絶えず快く響き渡る……と神経は一斉に不思議の舞踏をはじめる。すすりなく黒き薔薇、歌うたふ硝子のインキ壺、誘惑の色あざやかな猫眼石の腕環、笑ひつづける空眼の老女等はこまかくしなやかな舞踏をいつまでもつづける。余は一心に熟視めて居る……いつか余は朱の房のついた長い剣となつて渠等の内に舞踏つてゐる………
長田秀雄
[#改ページ]
邪宗門秘曲
われは思ふ、
末世の
邪宗、
切支丹でうすの
魔法。
黒船の
加比丹を、
紅毛の
不可思議国を、
色赤きびいどろを、
匂鋭きあんじやべいいる、
南蛮の
桟留縞を、はた、
阿刺吉、
珍の酒を。
目見青きドミニカびとは
陀羅尼誦し夢にも語る、
禁制の
宗門神を、あるはまた、血に染む
聖磔、
芥子粒を林檎のごとく見すといふ
欺罔の
器、
波羅葦僧の
空をも
覗く
伸び
縮む
奇なる
眼鏡を。
屋はまた石もて造り、
大理石の白き
血潮は、
ぎやまんの
壺に盛られて
夜となれば火
点るといふ。
かの
美しき
越歴機の夢は
天鵝絨の
薫にまじり、
珍らなる月の世界の
鳥獣映像すと聞けり。
あるは聞く、
化粧の
料は
毒草の花よりしぼり、
腐れたる石の
油に
画くてふ
麻利耶の
像よ、
はた
羅甸、
波爾杜瓦爾らの
横つづり青なる
仮名は
美くしき、さいへ悲しき
歓楽の
音にかも満つる。
いざさらばわれらに
賜へ、
幻惑の
伴天連尊者、
百年を
刹那に
縮め、血の
磔脊にし死すとも
惜しからじ、願ふは
極秘、かの
奇しき
紅の夢、
善主麿、
今日を
祈に
身も
霊も
薫りこがるる。
四十一年八月
室内庭園
晩春の
室の
内、
暮れなやみ、暮れなやみ、
噴水の水はしたたる……
そのもとに
あまりりす赤くほのめき、
やはらかにちらぼへるヘリオトロオブ。
わかき日のなまめきのそのほめき
静こころなし。
尽きせざる
噴水よ………
黄なる
実の
熟るる草、
奇異の
香木、
その空にはるかなる
硝子の青み、
外光のそのなごり、鳴ける
鶯、
わかき日の
薄暮のそのしらべ
静こころなし。
いま、
黒き
天鵝絨の
にほひ、ゆめ、その
感触………
噴水に
縺れたゆたひ、
うち
湿る
革の
函、
饐ゆる
褐色
その空に暮れもかかる
空気の
吐息……
わかき日のその夢の
香の
腐蝕静こころなし。
三層の
隅か、さは
腐れたる
黄金の
縁の
中、
自鳴鐘の
刻み……
ものなべて
悩ましさ、
盲ひし
少女の
あたたかに
匂ふかき
感覚のゆめ、
わかき日のその靄に
音は
響く、
静こころなし。
晩春の
室の
内、
暮れなやみ、暮れなやみ、
噴水の水はしたたる……
そのもとに
あまりりす赤くほのめき、
甘く、またちらぼひぬ、ヘリオトロオブ。
わかき日は
暮るれども夢はなほ
静こころなし。
四十一年十二月
陰影の瞳
夕となればかの
思曇硝子をぬけいでて、
廃れし
園のなほ
甘きときめきの
香に
顫へつつ、
はや
饐え
萎ゆる
芙蓉花の
腐れの
紅きものかげと、
縺れてやまぬ
秦皮の
陰影にこそひそみしか。
如何に
呼べども
静まらぬ
瞳に
絶えず涙して、
帰るともせず、
密やかに、はた、
果しなく
見入りぬる。
そこともわかぬ森かげの
鬱憂の
薄闇に、
ほのかにのこる
噴水の青きひとすぢ……
四十一年十月
赤き僧正
邪宗の僧ぞ
彷徨へる……瞳
据ゑつつ、
黄昏の
薬草園の
外光に浮きいでながら、
赤々と毒のほめきの
恐怖して、
顫ひ
戦く
陰影のそこはかとなきおぼろめき
まへに、うしろに……さはあれど、月の光の
水の
面なる
葦のわか
芽に
顫ふ時。
あるは、靄ふる
遠方の窓の
硝子に
ほの青きソロのピアノの
咽ぶ時。
瞳
据ゑつつ
身動かず、長き
僧服
爛壊する
暗紅色のにほひしてただ暮れなやむ。
さて在るは、
曩に
吸ひたる
Hachisch の毒のめぐりを待てるにか、
あるは
劇しき
歓楽の後の
魔睡や忍ぶらむ。
手に持つは黒き
梟
爛々と
眼は光る……
……そのすそに蟋蟀の啼く……
四十一年十二月
WHISKY.
夕暮のものあかき
空、
その
空に
百舌啼きしきる。
Whisky の
罎の
列
冷やかに
拭く
少女、
見よ、あかき
夕暮の
空、
その
空に
百舌啼きしきる。
四十一年十一月
天鵝絨のにほひ
やはらかに腐れつつゆく
暗の
室。
その
片隅の
薄あかり、
背にうけて
天鵝絨の
赤きふくらみうちかつぎ、
にほふともなく
在るとなく、
蹲み居れば。
暮れてゆく夏の思と、
日向葵の
凋れの甘き
香もぞする。……ああ見まもれど
おもむろに
悩みまじろふ色の
陰影
それともわかね……
熱病の闇のをののき……
Hachisch か、
酢か、
茴香酒か、くるほしく
溺れしあとの日の
疲労……
縺れちらぼふ
Wagner の
恋慕の
楽の
音のゆらぎ
耳かたぶけてうち
透かし、
在りは
在れども。
それらみな
素足のもとのくらがりに
爛壊の光
放つとき、そのかなしみの
腐れたる
曲の
緑を
如何にせむ。
君を思ふとのたまひしゆめの
言葉も。
わかき日の
赤きなやみに織りいでし
にほひ、いろ、ゆめ、おぼろかに
嗅ぐとなけれど、
ものやはに暮れもかぬれば、わがこころ
天鵝絨深くひきかつぎ、
今日も涙す。
四十一年十二月
濃霧
濃霧はそそぐ……
腐れたる
大理の石の
生くさく
吐息するかと蒸し暑く、
はた、
冷やかに
官能の
疲れし光――
月はなほ
夜の
氛囲気の
朧なる
恐怖に
懸る。
濃霧はそそぐ……そこここに虫の
神経
鋭く、甘く、
圧しつぶさるる
嗟嘆して
飛びもあへなく
耽溺のくるひにぞ入る。
薄ら闇、
盲唖の
院の
角硝子暗くかがやく。
濃霧はそそぐ……さながらに
戦く窓は
亜刺比亜の
魔法の
館の
薄笑。
麻痺薬の
酸ゆき
香に日ねもす
噎せて
聾したる、はた、
盲ひたる
円頂閣か、壁の
中風。
濃霧はそそぐ……甘く、また、重く、くるしく、
いづくにか
凋れし花の息づまり、
苑のあたりの
泥濘に落ちし燕や、
月の色
半死の
生に
悩むごとただかき曇る。
濃霧はそそぐ……いつしかに虫も
盲ひつつ
聾したる光のそこにうち
痺れ、
唖とぞなる。そのときにひとつの
硝子
幽魂の
如くに青くおぼろめき、ピアノ鳴りいづ。
濃霧はそそぐ……
数の、見よ、人かげうごき、
闌くる
夜の
恐怖か、
痛きわななきに
ただかいさぐる手のさばき――
霊の
弾奏、
盲目弾き、
唖と
聾者円ら
眼に
重なり
覗く。
濃霧はそそぐ……声もなき声の
密語や。
官能の
疲れにまじるすすりなき
霊の
震慄の
音も甘く
聾しゆきつつ、
ちかき野に
喉絞めらるる
淫れ
女のゆるき
痙攣。
濃霧はそそぐ……
香の
腐蝕、
肉の
衰頽、――
呼吸深く
謨や吸ひ入るる
朧たる暑き
夜の
魔睡……重く、いみじく、
音もなき
盲唖の
院の
氛囲気に月はしたたる。
四十一年十月
赤き花の魔睡
日は
真昼、ものあたたかに
光素の
波動は
甘く、また、
緩るく、
戸に照りかへす、
その
濁る
硝子のなかに
音もなく、
謨の
香ぞ
滴る……
毒の
言……
遠くきく、
電車のきしり……
………
棄てられし
水薬のゆめ……
やはらかき
猫の
柔毛と、
蹠の
ふくらのしろみ
悩ましく
過ぎゆく
時よ。
窓の
下、
生の
痛苦に
只赤く
戦ぎえたてぬ
草の花
亜鉛の
管の
湿りたる
筧のすそに……いまし
魔睡す……
四十一年十二月
麦の香
嬰児泣く……麦の
香の
湿るあなたに、
続け泣く……やはらかに、なやましげにも、
香に
噎び、
香に
噎び、あはれまた、
嬰児泣きたつ……
夏の雨さと
降り
過ぎて
新にもかをり
蒸す野の
畑いくつ
湿るあなたに、
赤き
衣一きは
若く、にほやかにけぶる
揺籃や、
磨硝子、あるは
窓枠、
濡れ
濡れて
夕日さしそふ。
四十一年十二月
曇日
曇日の
空気のなかに、
狂ひいづる
樟の
芽の
鬱憂よ……
そのもとに
桐は咲く。
Whisky の
香のごときしぶき、かなしみ……
そこここにいぎたなき
駱駝の
寝息、
見よ、
鈍き
綿羊の色のよごれに
饐えて
病む
藁のくさみ、
その
湿る
泥濘に花はこぼれて
紫の
薄き色
鋭になげく……
はた、
空のわか
葉の
威圧。
いづこにか、またもきけかし。
餌に
饑ゑしベリガンのけうとき
叫、
山猫のものさやぎ、なげく
鶯、
腐れゆく
沼の水
蒸すがごとくに。
そのなかに桐は
散る……
Whisky の強きかなしみ……
もの
甘き風のまた
生あたたかさ、
猥らなる
獣らの
囲内のあゆみ、
のろのろと
枝に
下るなまけもの、あるは、
貧しく
眼を
据ゑて
毛虫啄む
嗟歎のほろほろ
鳥よ。
そのもとに花はちる……桐のむらさき……
かくしてや日は
暮れむ、ああひと日。
病院を
逃れ
来し
患者の
恐怖、
赤子らの
眼のなやみ、
笑ふ
黒奴
酔ひ
痴れし
遊蕩児の
縦覧のとりとめもなく。
その
空に
桐はちる……
新しきしぶき、かなしみ……
はたや、また、
園の
外ゆく
軍楽の
黒き
不安の
壊れ落ち、
夜に入る
時よ、
やるせなく
騒ぎいでぬる
鳥獣。
また、その
中に、
狂ひいづる
北極熊の氷なす
戦慄の
声。
その
闇に花はちる……
Whisky の
香の
頻吹……桐の
紫……
四十一年十二月
秋の瞳
晩秋の
濡れにたる
鉄柵のうへに、
黄なる葉の河やなぎほつれてなげく
やはらかに
葬送のうれひかなでて、
過ぎゆきし
Trombone いづちいにけむ。
はやも見よ、暮れはてし
吊橋のすそ、
瓦斯点る……いぎたなき馬の
吐息や、
騒ぎやみし
曲馬師の
楽屋なる幕の青みを
ほのかにも
掲げつつ、
水の
面見る
女の
瞳。
四十一年十二月
空に真赤な
空に
真赤な
雲のいろ。
玻璃に
真赤な
酒の
色。
なんでこの
身が
悲しかろ。
空に
真赤な
雲のいろ。
四十一年五月
秋のをはり
腐れたる
林檎のいろに
なほ
青きにほひちらぼひ、
水薬の
汚みし
卓に
瓦斯焜炉ほのかに
燃ゆる。
病人は
肌ををさめて
愁はしくさしぐむごとし。
何ぞ
湿る、
医局のゆふべ、
見よ、ほめく
劇薬もあり。
色冴えぬ
室にはあれど、
声たててほのかに
燃ゆる
瓦斯焜炉………
空と、こころと、
硝子戸に
鈍ばむさびしさ。
しかはあれど、
寒きほのほに
黄の
入日さしそふみぎり、
朽ちはてし
秋の
オロン
ほそぼそとうめきたてぬる。
四十一年十二月
十月の顔
顔なほ
赤し……うち曇り
黄ばめる
夕、
『
十月』は
熱を
病みしか、
疲れしか、
濁れる
河岸の
磨硝子脊に凭りかかり、
霧の
中、
入日のあとの
河の
面をただうち
眺む。
そことなき
櫂のうれひの
音の
刻み……
涙のしづく……頬にもまたゆるきなげきや……
ややありて
麪包の
破片を手にも取り、
さは
冷やかに
噛みしめて、
来るべき日の
味もなき悲しきゆめをおもふとき……
なほもまた
廉き
石油の
香に
噎び、
腐れちらぼふ
骸炭に足も
汚ごれて、
小蒸汽の
灰ばみ
過ぎし
船腹に
一きは
赤く
輝やきしかの
枠を忍ぶとき……
月光ははやもさめざめ……涙さめざめ……
十月の暮れし
片頬を
ほのかにもうつしいだしぬ。
四十一年十二月
接吻の時
薄暮か、
日のあさあけか、
昼か、はた、
ゆめの
夜半にか。
そはえもわかね、
燃えわたる若き
命の
眩暈、
赤き
震慄の
接吻にひたと
身顫ふ
一刹那。
あな、見よ、青き
大月は西よりのぼり、
あなや、また
瘧病む
終の
顫して
東へ落つる日の光、
大ぞらに星はなげかひ、
青く
盲ひし
水面にほ
薬香にほふ。
あはれ、また、わが立つ
野辺の草は皆色も
干乾び、
折り伏せる人の
骸の
夜のうめき、
人霊色の
木の
列は、あなや、わが
挽歌うたふ。
かくて、はや
落穂ひろひの
農人が寒き瞳よ。
歓楽の穂のひとつだに
残さじと、
はた、刈り入るる鎌の
刃の
痛き光よ。
野のすゑに
獣らわらひ、
血に
饐えて
汽車鳴き
過ぐる。
あなあはれ、あなあはれ、
二人がほかの
霊のありとあらゆるその
呪咀。
朝明か、
死の
薄暮か、
昼か、なほ
生れもせぬ日か、
はた、いづれともあらばあれ。
われら知る赤き
唇。
四十一年六月
濁江の空
腐れたる
林檎の如き日のにほひ
円らに、さあれ、光なく
甘げに沈む
晩春の
濁重たき靄の
内、
ふと、カキ
色の
軽気球くだるけはひす。
遠方の
曇れる
都市の
屋根の色
たゆげに
仰ぐ人はいま
鈍くもきかむ、
濁江のねぶたき、あるは、やや
赤き
にほひの空のいづこにか
洩るる
鉄の
音。
なやましき、さは
江の
泥の
沈澱より
あかるともなき
灰紅の帆のふくらみに
伝へくる
潜水夫が
作業にか、
饐えたる
吐息そこはかと
水面に
黄ばむ。
河岸になほ
物見る子らはうづくまり、
はや
倦ましげに
人形をそが手に泣かす。
日暮どき、
入日に濁る
靄の
内、
また、ふくらかに
軽気球くだるけはひす。
四十一年八月
魔国のたそがれ
うち
曇る
暗紅色の
大き日の
魔法の国に
病ましげの
笑して入れば、
もの
甘き
驢馬の鳴く
音にもよほされ、
このもかのもに
悩ましき
吐息ぞおこる。
そのかみの
激しき夢や
忍ぶらむ。
鬱黄の
百合は
血ににじむ
眸をつぶり、
人間の
声して
挑み、飛びかはし
鸚鵡の鳥はかなしげに
翅ふるはす。
草も木もかの
誘惑に
化されつる
旅のわかうど、暮れ行けば心ひまなく
えもわかぬ
毒の
怨言になやまされ、
われと悲しき
歓楽に
怕れて
顫ふ。
日は沈み、たそがれどきの
空の色
青き
魔薬の
薫して
古りつつゆけば、
ほのかにも
誘はれ
来る
隊商の
鈴鳴る……あはれ、
今日もまた
恐怖の
予報。
はとばかり
黙み
戦くものの
息。
色天鵝絨を
擦るごとき
裳裾のほかは
声もなく甘く
重たき
靄の
闇、
はやも
王女の
領らすべき
夜とこそなりぬ。
四十一年八月
蜜の室
薄暮の
潤みにごれる
室の
内、
甘くも
腐る
百合の
蜜、はた、
靄ぼかし
色赤きいんくの
罎のかたちして
ひそかに
点る豆らんぷ
息づみ曇る。
『
豊国』のぼやけし
似顔生ぬるく、
曇硝子の
のそと
外光なやむ。
ものの
本、あるはちらぼふ日のなげき、
暮れもなやめる
霊の
金字のにほひ。
接吻の
長き甘さに
倦きぬらむ。
そと手をほどき靄の
内さぐる
心地に、
色盲の
瞳の
女うらまどひ、
病めるペリガンいま遠き
湿地になげく。
かかるとき、おぼめき
摩る
Violon の
なやみの
絃の
手触のにほひの
重さ。
鈍き
毛の
絨氈に甘き
蜜の
闇
澱み
饐えつつ……血のごともらんぷは消ゆる。
四十一年八月
酒と煙草に
酒と
煙草にうつとりと、
倦めるこころを見まもれば、
それとしもなき
霊のいろ
曇りながらに泣きいづる。
なにか
嘆かむ、うきうきと、
三味に
燥やぐわがこころ。
なにか
嘆かむ、さいへ、また
霊はしくしく泣きいづる。
四十一年五月
鈴の音
日は赤し、
窓の
上に
恐怖の
烏
ひた
黙み暮れかかる
砂漠を
熟視む。
今日もまたもの
鈍き
駱駝をつらね、
一群のわがやから
消えさりゆきぬ。
もの甘き鈴の
音、ああそを
聴けよ。
からら、からら、ら、ら、ら……
暮れのこるピラミドの
暗紅色よ。
そが空のうち
濁る重き
空気よ。
いづこにか月の色ほのめくごとし。
からら、からら、ら、ら、ら……
かの
群よ、
靄ふかく、いまかひろぐる
色
鈍き、
幽鬱の
毛織の
天幕。
駱駝らのためいきもそこはかとなく。
からら、からら、ら、ら、ら……
もの青く暮れてみな蒸しも見わかね。
饐え
温るむ
空のをち、
薄らあかりに、
ほのかにも
此方見るスフィンクスの瞳。
からら、からら、ら、ら、ら……
あはれ、その
静かなるスフィンクスの瞳。
ああ
暗示……えもわかぬ夢の
象徴。
またくいま
埃及の
夜とやなるらむ。
からら、からら、ら、ら、ら……
烏いまはたはたと遠く飛び去り、
窓にただ色あかき
燈火点る。
四十一年八月
夢の奥
ほのかにもやはらかきにほひの
園生。
あはれ、そのゆめの
奥。
日と
夜のあはひ。
薄あかる空の色ひそかに
顫ひ
暮れもゆくそのしばし、声なく立てる
真白なる
大理石の
男の
像、
微妙じくもまた
貴に
瞑目りながら
清らなる
面の色かすかにゆめむ。
ものなべてさは
妙に
女の
眼ざし
あはれそが夢ふかき
空色しつつ、
にほやかになやましの
思はうるむ。
そがなかに
埋もれたる
素馨のなげき、
蒸し甘き
沈丁のあるは
刺せども
なにほどの
香の
痛み身にしおぼえむ。
わかうどは声もなし、
清く、かなしく。
薄暮にせきもあへぬ
女の
吐息
あはれその
愁如し、しぶく
噴水
そことなう
節ゆるうゆらゆるなべに、
いつしかとほのめきぬ月の光も。
その空に、その
苑に、ほのの青みに
静かなる
欷歔泣きもいでつつ、
いづくにか、さまだるる
愛慕のなげき。
やはらかきほの
熱る女の
足音
あはれそのほめき
如し、
燃えも
生れゆく
ゆめにほふ
心音のうつつなきかな。
大理石の身の
白み、
面もほのかに、
ひらきゆくその
眼ざし、なかば閉ぢつつ、
ゆめのごと空
仰ぎ、いまぞ
見惚るる。
色わかき
夜の星、うるむ
紅。
四十一年七月
窓
かかる窓ありとも知らず、
昨日まで
過ぎし
河岸。
今日は見よ、
色赤き花に日の照り、かなしくも
依依児匂ふ。
あはれまた
病める
Piano も……
四十一年九月
昨日と今日と
わかうどのせはしさよ。
さは
昨日世をも厭ひて
重格魯密母求めも泣きしか、
今朝ははや林檎吸ひつつ霧深き
河岸路を辿る。
歌楽し、鳴らす
木履に……
四十一年十一月
わかき日
『かくまでも、かくまでも、
わかうどは悲しかるにや。』
『さなり、
女、
わかき日には、
ましてまた
才ある身には。』
四十一年十一月
[#改丁]
朱の伴奏
凡て情緒也。静かなる精舎の庭にほのめきいでて紅の戦慄に盲ひたる
オロンの響はわが内心の旋律にして、赤き絶叫のなかにほのかに啼けるこほろぎの音はこれ亦わが情緒の一絃によりて密かに奏でらるる愁也。なげかひ也。その他おほむね之に倣ふ。
[#改ページ]
謀坂
ひと日、わが
精舎の
庭に、
晩秋の静かなる
落日のなかに、
あはれ、また、
薄黄なる
噴水の
吐息のなかに、
いとほのに
オロンの、その
絃の、
その夢の、
哀愁の、いとほのにうれひ
泣く。
蝋の火と
懺悔のくゆり
ほのぼのと、
廊いづる白き
衣は
夕暮に
言もなき
修道女の長き
一列。
さあれ、いま、
オロンの、くるしみの、
刺すがごと火の酒の、その
絃のいたみ泣く。
またあれば
落日の
色に、
夢
燃ゆる、
噴水の
吐息のなかに、
さらになほ歌もなき
白鳥の
愁のもとに、
いと強き
硝薬の、黒き火の、
地の底の
導火燬き、
オロンぞ狂ひ泣く。
跳り
来る
車輌の
響、
毒の
弾丸、
血の
烟、
閃めく
刃、
あはれ、
驚破、火とならむ、
噴水も、
精舎も、空も。
紅の、
戦慄の、その
極の
瞬間の
叫喚燬き、
オロンぞ
盲ひたる。
四十年十二月
こほろぎ
微にいまこほろぎ
啼ける。
日か落つる――
眼をみひらけば
朱の
畏怖くわと
照りひびく。
内心の
苦きおびえか、
めくるめく
痛き日の色
眼つぶれど、はた、照りひびく。
そのなかにこほろぎ啼ける。
とどろめく
銃音しばし、
痍つける
悪のうごめき
そこここに、あるは
疲れて
轢きなやむ
砲車のあへぎ、
逃げまどふ赤きもろごゑ。
そのなかにこほろぎ啼ける。
盲ひ、ゆく恋のまぼろし――
その底に
疼きくるしむ
肉の
鋭き
絶叫、
はた、
暗き
曲の
死の
楽
霊ぞ弾きも
連れぬる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
あなや、また
呻吟は
洩るる。
鉛めく首のあたりゆ
幽界の
呪咀か洩るる。
寝がへれば血に染み
顫ふ
わが
敵面ぞ死にたる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
はた、
裂くる赤き火の
弾丸
たと笑ふ、と見る、
我燬き
我ならぬ
獣のつらね
真黒なる
楽して
奔る。
執念の闇曳き
奔る。
そのなかにこほろぎ啼ける。
日や暮るる。我はや死ぬる。
野をあげて
末期のあらび――
暗き血の海に
溺るる
赤き
悲苦、赤きくるめき、
ああ、今し、くわとこそ狂へ。
微になほこほろぎ
啼ける。
四十年十二月
序楽
ひと日、わが
想の
室の日もゆふべ、
光、もののね、色、にほひ――声なき
沈黙
徐にとりあつめたる
室の
内、いとおもむろに、
薄暮のタンホイゼルの
譜のしるし
ながめて人はゆめのごとほのかにならぶ。
壁はみな
鈍き
愁ゆなりいでし
象の
香の色まろらかに
想鎖しぬれ、
その隅に瞳の色の窓ひとつ、
玻璃の
遠見に
冷えはてしこの世のほかの夢の空
かはたれどきの
薄明ほのかにうつる。
あはれ、見よ、そのかみの
苦悩むなしく
壁はいたみ、
円柱熔けくづれて
朽ちはてし
熔岩に
埋るるポンペイを、わが
幻を。
ひとびとはいましゆるかに
絃の弓、
はた、もろもろの
調楽の
器をぞ執る。
暗みゆく
室内よ、暗みゆきつつ
想の
沈黙重たげに
音なく沈み、
そことなき月かげのほの
淡くさし入るなべに、
はじめまづ
オロンのひとすすりなき、
鈍色長き
衣みな瞳をつぶる。
燃えそむるヴヱス
アス、空のあなたに
色
新しき
紅の火ぞ
噴きのぼる。
廃れたる夢の
古墟、さとあかる
我室の内、
ひとときに
渦巻きかへす
序のしらべ
管絃楽部のうめきより
夜には入りぬる。
四十一年二月
納曾利
入日のしばし、空はいま雲の
震慄のあかあかと
鋭にわかく、はた、
苦く狂ひただるる
楽の色。
また、高
の
鬱金香。かげに
斃るる
白牛の
眉間のいたみ、
憤怒。血に
笑む人がさけびごゑ。
さあれ、いま納曾利のなげき……
鈍き思の灰色の壁の家内に、
吹き鳴らす古き舞楽の笙の節、
納曾利のなげき……
納曾利のなげき、ひとしなみ
おほらににほふ雅楽寮の古きいみじき日の愁、
納曾利の舞の
人のゆめ、鈍くものうき足どりの裾ゆるらかに、
おもむろの振のみやびの舞あそび、
納曾利のなげき……
くりかへし、さはくりかへし、
ゆめのごと後に連るる笙の節、
笛のねとりもすずろかに、広き家内に、
おなじことおなじ嫋にくりかへし、
舞へる思の
倦める思のにほやかさ、
ゆるき鞨皷の
音もにぶく、
古き納曾利の舞をさめ……
今しも
街の
空高く
消ゆる
光のわななきに、
ほのかに
青く、なほ
苦く
顫ひくづるる
雲の
色。
また、
浮きのこる
鬱金香。
暮れて
果てたる
白牛の
声なき
骸。
人だかり、
血を
見て
黙す
冷笑。
四十一年七月
ほのかにひとつ
罌粟ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……
やはらかき
麦生のなかに、
軟風のゆらゆるそのに。
薄き日の暮るとしもなく、
月しろの
顫ふゆめぢを、
縺れ入るピアノの
吐息
ゆふぐれになぞも泣かるる。
さあれ、またほのに
生れゆく
色あかきなやみのほめき。
やはらかき
麦生の靄に、
軟風のゆらゆる胸に、
罌粟ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……
四十一年二月
耽溺
あな
悲し、
紅き
帆きたる。
聴けよ、
今、
紅き
帆きたる。
白日の光の
水脈に、
わが恋の
器楽の海に。
あはれ、聴け、光は
噎び、
海顫ひ、
清掻焦がれ
眩暈めく
悲愁の
極、
苦悶そふ
歓楽のせて
キユラソオの
紅き
帆ひびく。
弾けよ、
弾け、
毒の
オロン
吹けよ、また
媚薬の嵐。
あはれ歌、あはれ
幻、
その海に
紅き
帆光る。
海の歌きこゆ、このとき、
『
噫、かなし、
炎よ、
慾よ、
接吻よ。』
聴けよ、また
苦き
愛着、
肉のおびえと
恐怖、
『死ねよ、死ね』、
紅き
帆響く、
『恋よ、
汝よ。』
弾けよ、
弾け、毒の
オロン
吹けよ、また
媚薬の嵐。
一瞬よ、――光よ、
水脈よ、
楽の
音よ――酒のキユラソオ、
接吻の
非命の
快楽、
毒水の火のわななきよ。
狂へ、
狂へ、
破滅の
渚、
聴くははや
楽の
大極、
狂乱の日の光
吸ふ
紅き帆の
終のはためき。
死なむ、死なむ、
二人は死なむ。
紅き
帆きゆる。
紅き
帆きゆる。
四十年十二月
といき
大空に
落日ただよひ、
旅しつつ燃えゆく
黄雲。
そのしたの
伽藍の
甍
半黄になかばほのかに、
薄闇に
蝋の火にほひ、
円柱またく暮れたる。
ほのめくは鳩の
白羽か、
敷石の闇にはひとり
盲の子ひたと膝つけ、
ほのかにも
尺八吹ける、
あはれ、その
追分のふし。
四十年十二月
黒船
黒煙ほのにひとすぢ。――
あはれ、日は血を吐く
悶あかあかと
濡れつつ
淀む
悪の雲そのとどろきに
燃え狂ふ
恋慕の
楽の
断末魔。
遠目に濁る
蒼海の色こそあかれ、
黒潮の
水脈のはたての水けぶり、
はた、とどろ
撃つ毒の
砲弾、
清しき
喇叭、
薄暮の
朱のおびえの
戦に
疲れくるめく
衰ぞああ
音を
搾る。
黒煙またもふたすぢ。――
序のしらべ
絶えつ続きつ、いつしかに
黒き
悩の
旋律ぞ
渦巻き起る。
逃げ
来るは
密猟船の旗じるし、
痍き
噎ぶ血と
汚穢、はた
憤怒
おしなべて黄ばみ
騒立つ
楽の色。
空には
苦き
嘲笑に雲かき乱れ、
重りゆく
煩悶のあらびはやもまた
黒き
恐怖のはたためき海より煙る。
黒煙三すぢ、五すぢ。――
幻法のこれや
苦しき
脅迫
いと
淫らかに蒸し
挑む
疾風のもとに、
現れて
真黒に
歎く
楽の船、
生あをじろき
鱶の腹ただほのぼのと、
暮れがての赤きくるしみ、うめきごゑ、
血の
甲板のうへにまた
爛れて叫ぶ
楽慾の
破片の
砲弾ぞ
慄ける。
ああその空にはたためく黒き帆のかげ。
黒煙終に七すぢ。――
吹きかはす
銀の喇叭もたえだえに、
渦巻き
猛る
楽の
極、
蒼海けぶり、
悪の雲とどろとどろの
乱擾に
急忙しくも
呪はしき
夜のたたずまひ。
濡れ
焙ぶる水無月ぞらの日の
名残
はた掻き濁し、
暗澹と、あはれ
黒船、
真黒なる
管絃楽の帆の
響
死と
悔恨の闇
擾し
壊れくづるる。
四十一年二月
地平
あな
哀れ、
今日もまた
銅の雲をぞ生める。
あな
哀れ、
明日も亦
鈍き血の
毒をや吐かむ。
見るからにただ
熱し、心は重し。
察るだにいや
苦し、
愁はおもし。
かの青き
国のあこがれ、
つねに見る
地平のはてに、
大空の
真昼の色と、
連れて
弾く
緑ひとつら。
その
緑琴柱にはして、
弾きなづむ鳩の羽の夢、
幌の
星、
剣のなげき、
清掻はほのかに
薫ゆる。
さては、日の白き
恐怖に
静かなる
太鼓のとろぎ、
昼領らす神か
拊たせる、
ころころとまたゆるやかに。
また絶えず、
吐息のつらね
かなたより笛してうかび、
こなたより
絃して消ゆる、――
ほのかなる夢のおきふし。
しかはあれ、ものなべて
圧す
南国の
熱病雲ぞ
猥らなる
毒の
言
とどろかに歌かき
濁す。
おもふ、いま水に
華さき、
野に赤き
駒は
斃れむ。
うらうへに
病ましき
現象
今日もまたどよみわづらふ。
あな
哀れ、
昨の日も
銅のなやみかかりき。
あな
哀れ、
明日もまた
鈍き血の
濁かからむ。
聴くからにただ
熱し、心は重し。
思ふだにいやくるし、愁は重し。
四十年十二月
ふえのね
ほのかに見ゆる青き
頬、
あな、あな、
玻璃のおびゆる。
かなたにひびく笛のね、……
青き
頬ほのに消えゆく。
室にもつのるふえのね、……
ふたつのにほひ
盲ひゆく。
きこえずなりぬふえのね、……
内と
外とのなげかひ。
またしも見ゆる青き
頬。
あな、また
玻璃のおびゆる。
四十一年二月
下枝のゆらぎ
日はさしぬ、
白楊の
梢に赤く、
さはあれど、暮れ
惑ふ
下枝のゆらぎ……
水の
面のやはらかきにほひの
嘆
波もなき
病ましさに、
瀞みうつれる
晩春の
閉す
片側街よ、
暮れなやむ靄の
内皷をうてる。
いづこにか、もの甘き蜂の
巣のこゑ。
幼子のむれはまた
吹笛鳴らし、
白楊の
岸にそひ曇り
黄ばめる
教会の
硝子ながめてくだる。
日はのこる
両側の
梢にあかく、
さはあれど、暮れ
惑ふ
下枝のゆらぎ……
またあれば、公園の長椅子にもたれ、
かなたには恋慕びと苦悩に抱く。
そのかげをのどやかに嬰児匍ひいで
鵞の鳥を捕らむとて岸ゆ落ちぬる。
水面なるひと騒擾、さあれ、このとき、
驀然に急ぎくる一列の郵便馬車よ、
薄闇ににほひゆく赤き曇の
快さ、人はただ街をばながむ。
灯点る、さあれなほ
梢はにほひ、
全くいま暮れはてし
下枝のゆらぎ……
四十一年八月
雨の日ぐらし
ち、ち、ち、ち、と、もののせはしく
刻む
音……
河岸のそば、
黴の
香のしめりも暗し、
かくてあな暮れてもゆくか、
駅逓の
局の
長壁
灰色に、暗きうれひに、
おとつひも、
昨日も、
今日も。
さあれ、なほ
薫りのこれる
一列の
紅き
花罌粟
かたかげの草に濡れつつ、
うちしめり浮きもいでぬる。
雨はまたくらく、あかるく、
やはらかきゆめの
曲節……
ち、ち、ち、ち、と絶えずせはしく
刻む音……
角
の
玻璃のくらみを
死の
報知ひまなく
打電てる。
さてあればそこはかとなく
出でもゆく
薄ぐらき
思のやから
その
歩行夜にか入るらむ。
しばらくは
事もなし。
かかる日の雨の日ぐらし。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻む
音……
さもあれや、
雨はまたゆるにしとしと
暮れもゆくゆめの
曲節……
いづこにか
鈴の
音しつつ、
近く、
はた、速のく
軋、
待ちあぐむ
郵便馬車の
旗の
色見えも来なくに、
うち曇る馬の
遠嘶。
さあれ、ふと
夕日さしそふ。
瞬間の夕日さしそふ。
あなあはれ、
あなあはれ、
泣き入りぬ
罌粟のひとつら、
最終に
燃えてもちりぬ。
日の光かすかに消ゆる。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻む
音……
雨の
曲節……
ものなべて、
ものなべて、
さは入らむ、暗き愁に。
あはれ、また、出でゆきし思のやから
帰り来なくに。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻む
音……
雨の
曲節……
灰色の
局は
夜に入る。
四十一年五月
狂人の音楽
空気は甘し……また赤し……
黄に……はた、
緑……
晩夏の午後五時半の
日光は
を見せて、
蒸し暑く
噴水に
濡れて照りかへす。
瘋癲院の
陰鬱に
硝子は光り、
草場には青き
飛沫の
茴香酒冷えたちわたる。
いま
狂人のひと
群は空うち仰ふぎ――
饗宴の
楽器とりどりかき
抱き、
自棄に、しみらに、
傷つける
獣のごとき雲の
面
ひたに怖れて
色盲の
幻覚を見る。
空気は重し……また赤し……共に……はた
緑……
* * * *
* * * *
オボイ鳴る……また、トロムボオン……
狂ほしき
オラの
唸……
一人の
酸ゆき
音は飛びて
怜羊となり、
ひとつは赤き顔ゑがき、
笑ひわななく
音の
恐怖……はた、ほのしろき
髑髏舞……
弾け
弾け……鳴らせ……また
舞踏れ……
セロの、
喇叭の
蛇の
香よ、
はた、
爛れ泣く
オロンの空には赤子飛びみだれ、
妄想狂のめぐりにはバツソの
盲目
小さなる
骸色の
呪咀して
逃れふためく。
弾け弾け……鳴らせ……また
舞踏れ……
クラリネッ卜の
槍尖よ、
曲節のひらめき
緩く、また
急く、
アルト
歌者のなげかひを
暈ましながら、
一列、血しほしたたる
神経の
壁の
煉瓦のもとを
行く……
弾け弾け……鳴らせ……また
舞踏れ……、
かなしみの
蛇、
緑の
眼
槍に
貫かれてまた
歎く……
弾け弾け……鳴らせ……また
舞踏れ……
はた、
吹笛の
香のしぶき、
青じろき花どくだみの
鋭さに、
濁りて光る
山椒魚、
沼の
調に
音は
瀞む。
弾け弾け……鳴らせ……また
舞踏れ……
傷きめぐる
観覧車、
はたや、
太皷の
悶絶に
列なり
走る
槍尖よ、
の
硝子に火は
叫び、
月琴の雨ふりそそぐ……
弾け
弾け……鳴らせ……また
舞踏れ……
赤き
神経……
盲ひし血……
聾せる脳の
鑢の
音……
弾け弾け……鳴らせ……また
舞踏れ……
* * * *
* * * *
空気は
酸し……いま青し……
黄に……なほ赤く……
はやも見よ、日の入りがたの雲の色
狂気の
楽の
音につれて波だちわたり、
悪獣の
蹠のごと血を
滴す。
そがもとに
噴水のむせび
濡れ濡れて
薄闇に入る……
空気は重し……なほ赤し……
黄に……また
緑……
いつしかに
蒸汽の
鈍き
船腹の
ごとくに光りかぎろひし
瘋癲院も暮れゆけば、
ただ
冷えしぶく
茴香酒、
鋭き
玻璃のすすりなき。
草場の赤き
一群よ、
眼ををののかし、
躍り泣き
弾きただらかす
歓楽の
はてしもあらぬ
色盲のまぼろしのゆめ……
午後の七時の
印象はかくて
夜に入る。
空気は
苦し……はや
暗し……
黄に……なほ青く……
四十一年九月
風のあと
夕日はなやかに、
こほろぎ
啼く。
あはれ、ひと日、木の葉ちらし吹き
荒みたる風も落ちて、
夕日はなやかに、
こほろぎ啼く。
四十一年八月
月の出
ほのかにほのかに
音色ぞ
揺る。
かすかにひそかににほひぞ鳴る。
しみらに
列立つわかき
白楊、
その葉のくらみにこころ
顫ふ。
ほのかにほのかに
吐息ぞ揺る。
かすかにひそかに
雫ぞ鳴る。
あふげばほのめくゆめの
白楊、
愁の
水の
面を
櫂はすべる。
吐息のをののき、君が
眼ざし
やはらに
縺れてたゆたふとき、
光のひとすぢ――
顫ふ
白楊
文月の
香炉に濡れてけぶる。
さてしもゆるけくにほふ
夢路、
したたりしたたる
櫂のしづく、
薄らに
沁みゆく月のでしほ
ほのかにわれらが
小舟ぞゆく。
ほのめく
接吻、からむ
頸、
いづれか
恋慕の
吐息ならぬ。
夢見てよりそふわれら、
白楊、
水上透かしてこころ
顫ふ。
四十一年二月
[#改丁]
外光と印象
近世仏国絵画の鑑賞者をわかき旅人にたとへばや。もとより Watteau の羅曼底、Corot の叙情詩は唯微かにそのおぼろげなる記憶に残れるのみ。やや暗き Fontainebleau の森より曇れる道を巴里の市街に出づれば Seine の河、そが上の船、河に臨める Caf
の、皆「刹那」の如くしるく明かなる Manet の陽光に輝きわたれるに驚くならむ。そは Velazquez の灰色より俄に現れいでたる午后の日なりき。あはれ日はやうやう暮れてぞゆく。金緑に紅薔薇を覆輪にしたりけむ Monet の波の面も青みゆき、青みゆき、ほのかになつかしくはた悲しき Cafin の夕は来る。燈の薄黄は Whistler の好みの色とぞ。月出づ。Pissarro のあをき衢を Verlaine の白月の賦など口荒みつつ過ぎゆくは誰が家の子ぞや。
太田正雄
[#改ページ]
冷めがたの印象
あわただし、旗ひるがへし、
朱の色の
駅逓馬車跳りゆく。
曇日の色なき
街は
清水さす
石油の
噎、
轢かれ泣く
停車場の
鈴、
溝の
毒、
昼の
三味、
鑢磨る歌、
茴香酒の青み泡だつ火の
叫、
絶えず
眩めく
白楊、遂に疲れて
マンドリン
奏でわづらふ風の
群、
あなあはれ、そのかげに
乞食ゆきかふ。
くわと来り、
燃えゆく旗は
死に
堕つる、夏の光のうしろかげ。
灰色の
亜鉛の屋根に、
青銅の
擬宝珠の
錆に、
また寒き
万象の
愁のうへに、
爛れ
弾く
猩紅熱の火の
調、
狂気の色と
冷めがたの
疲労に、今は
ひた
嘆く、
悔と、
悩と、
戦慄と。
あかあかとひらめく旗は
猥らなるその
最終の夏の
曲。
あなあはれ、あなあはれ、
あなあはれ、光消えさる。
四十年十一月
赤子
赤子啼く、
急き瀬の中。
壁重き
女囚の
牢獄、
鉄の
門、
淫慾の蛇の
紋章
くわとおびえ、
水に、
落日に
照りかへし、
黄ばむひととき。
赤子啼く、
急き瀬の中。
四十一年六月
暮春
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
なやまし、
河岸の日のゆふべ、
日の光。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
眼科の
窓の
磨硝子、しどろもどろの
白楊の
温き
吐息にくわとばかり、
ものあたたかに、くるほしく、やはく、まぶしく、
蒸し
淀む
夕日の光。
黄のほめき。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
なやまし、またも
いづこにか、
なやまし、あはれ、
音も
妙に
紅き
嘴ある小鳥らのゆるきさへづり。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
はた、
大河の
饐え
濁る、
河岸のまぢかを
ぎちぎちと
病ましげにとろろぎめぐる
灰色黄ばむ
小蒸汽の
温るく、まぶしく、
またゆるくとろぎ
噴く
湯気
いま
懈ゆく、
また絶えず。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
いま
病院の
裏庭に、煉瓦のもとに、
白楊のしどろもどろの
香のかげに、
窓の
硝子に、
まじまじと
日向求むる
病人は
目も
悩ましく
見ぞ夢む、
暮春の空と、もののねと、
水と、にほひと。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
なやまし、ただにやはらかに、くらく、まぶしく、
また
懈ゆく。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
四十一年三月
噴水の印象
噴水のゆるきしたたり。――
霧しぶく
苑の奥、
夕日の光、
水盤の
黄なるさざめき、
なべて、いま
ものあまき
嗟嘆の色。
噴水の
病めるしたたり。――
いづこにか
病児啼き、ゆめはしたたる。
そこここに
接吻の
音。
空は、はた、
暮れかかる夏のわななき。
噴水の甘きしたたり。――
そがもとに
痍つける
女神の瞳。
はた、赤き
眩暈の
中、
冷み入る
銀の
節、雲のとどろき。
噴水の暮るるしたたり。――
くわとぞ
蒸す日のおびえ、
晩夏のさけび、
濡れ黄ばむ
憂鬱症のゆめ
青む、あな
しとしとと夢はしたたる。
四十一年七月
顔の印象 六篇
A 精舎
うち沈む
広額、
夜のごとも
凹める
眼――
いや深く、いや重く、泣きしづむ
霊の
精舎。
それか、
実に声もなき
秦皮の森のひまより
熟視むるは
暗き池、谷そこの水のをののき。
いづこにか
薄日さし、
きしりこきり斑鳩なげく
寂寥や、空の色なほ
紅ににほひのこれど、
静かなる、はた
孤独、
山間の霧にうもれて
悔と
夜のなげかひを
懇に
通夜し見まもる。
かかる
間も、底ふかく
青の魚
盲ひあぎとひ、
口そそぐ夢の
豹水の
面に
血音たてつつ、
みな
冷やき石の
世と
化りぞゆく、あな
恐怖より。
かくてなほ声もなき
秦皮よ、
秘に火ともり、
精舎また水晶と
凝る
時愁やぶれて
響きいづ、響きいづ、
最終の
霊の
梵鐘。
以下五篇――四十一年三月
B 狂へる街
赭らめる
暗き鼻、なめらかに
禿げたる
額、
痙攣れる
唇の
端、光なくなやめる
眼
なにか見る、
夕栄のひとみぎり
噎ぶ
落日に、
熱病の
響する
煉瓦家か、狂へる
街か。
見るがまに
焼酎の
泡しぶきひたぶる
歎く
そが
街よ、立てつづく
尖屋根血ばみ
疲れて
雲赤くもだゆる日、
悩ましく
馬車駆るやから
霊のありかをぞうち
惑ひ
窓ふりあふぐ。
その
窓に
盲ひたる
爺ひとり
鈍き
刃研げる。
はた、
唖朱に笑ひ
痺れつつ
女を
説ける。
次なるは
聾しぬる清き
尼三味線弾ける。
しかはあれ、照り狂ふ
街はまた酒と歌とに
しどろなる
舞の
列あかあかと
淫れくるめき、
馬車のあと見もやらず、
意味もなく歌ひ
倒るる。
C 醋の甕
蒼ざめし
汝が
面饐えよどむ
瞳のにごり、
薄暮に
熟視めつつ
撓みちる髪の
香きけば――
醋の
甕のふたならび人もなき
室に沈みて、
ほの
暗き
玻璃の窓ひややかに
愁ひわななく。
外面なる
嗟嘆よ、波もなき
いんくの河に
旗青き
独木舟そこはかと
巡り漕ぎたみ、
見えわかぬ
悩より
錨曳き
鎖巻かれて、
伽羅まじり消え
失する
黒蒸汽笛ぞ
呻ける。
吊橋の
灰白よ、
疲れたる
煉瓦の
壁よ、
たまたまに
整はぬ
夜のピアノ
淫れさやげど、
ひとびとは声もなし、河の
面をただに
熟視むる。
はた、
甕のふたならび、さこそあれ夢はたゆたひ、
内と
外かぎりなき
懸隔に
帷堕つれば、
あな悲し、あな
暗し、
醋の
沈黙長くひびかふ。
D 沈丁花
なまめけるわが
女、
汝は
弾きぬ夏の日の
曲、
悩ましき
眼の色に、
髪際の
紛おしろひに、
緘みたる色あかき
唇に、あるはいやしく
肉の
香に
倦める
猥らなる
頬のほほゑみに。
響かふは
呪はしき
執と
欲、ゆめもふくらに
頸巻く毛のぬくみ、
真白なるほだしの
環
そがうへに我ぞ
聴く、
沈丁花たぎる
畑を、
堪へがたき夏の日を、
狂はしき
甘きひびきを。
しかはあれ、またも聴く、そが
畑に
隣る
河岸側、
色ざめし
浅葱幕しどけなく張りもつらねて、
調ぶるは
下司のうた、はしやげる
曲馬の
囃子。
その幕の
羅馬字よ、くるしげに馬は
嘶き、
大喇叭鄙びたる
笑してまたも
挑めば
生あつき色と
香とひとさやぎ
歎きもつるる。
E 不調子
われは見る
汝が
不調、――
萎びたる瞳の
光沢に、
衰の
頬ににほふおしろひの厚き
化粧に、
あはれまた
褪せはてし髪の
髷強きくゆりに、
肉の
戦慄を、いや甘き
欲の
疲労を。
はた思ふ、
晩夏の
生あつきにほひのなかに、
倦みしごと
縺れ入るいと
冷やき風の
吐息を。
新開の
街は
びて、色赤く
猥るる屋根を、
濁りたる
看板を、入り残る窓の
落日を。
なべてみな
整はぬ色の
曲……ただに
鋭き
最高音の入り
雑り、
埃たつ
家なみのうへに、
色にぶき
土蔵家の
江戸芝居ひとり古りたる。
露はなる日の光、そがもとに
三味はなまめき、
拍子木の
歎またいと
痛し古き
痍に、
かくてあな
衰のもののいろ
空は暮れ初む。
F 赤き恐怖
わかうどよ、
汝はくるし、
尋めあぐむ
苦悶の
瞳、
秀でたる眉のゆめ、ひたかわく赤き
唇
みな恋の響なり、
熟視むれば――
調かなでて
火のごとき馬ぐるま
燃え過ぐる窓のかなたを。
はた、辻の
真昼どき、
白楊にほひわななき、
雲浮かぶ
空の色
生あつく蒸しも
汗ばむ
街よ、あな音もなし、鐘はなほ鳴りもわたらね、
炎上の光また
眼にうつり、壁ぞ
狂へる。
人もなき路のべよ、しとしとと血を
滴らし
胆抜きて走る鬼、そがあとにただに
餞ゑつつ
色赤き
郵便函のみくるしげにひとり立ちたる。
かくてなほ窓の
内すずしげに
室は
濡るれど、
戸外にぞ火は
熾る、………
哀れ、
哀れ、
棚の
上に見よ、
水もなき
消火器のうつろなる赤き
戦慄。
盲ひし沼
午後六時、
血紅色の日の光
盲ひし沼にふりそそぎ、
濁の水の
声もなく
傷き
眩む
生おびえ。
鉄の
匂のひと
冷み
沁みは入れども、
影うつす
煙草工場の
煉瓦壁。
眼も
痛ましき
香のけぶり、
機械とどろく。
鳴ききたる鵝島のうから
しらしらと水に飛び入る。
午後六時、また
噴きなやむ
管の
湯気、
壁に
凭りたる
素裸の
若者ひとり
腕拭き
鉄の匂にうち
噎ぶ。
はた、あかあかと
蒸気鑵音なく叫び、
そこここに咲きこぼれたる
芹の花、
あなや、しとどにおしなべて日ぞ照りそそぐ。
声もなき鵞鳥のうから
色みだし水に消え入る
午後六時、
鵞鳥の見たる
水底は
血潮したたる
沼の
面の
負傷の光
かき濁る
泥の
臭みに
疲れつつ、
水死の人の骨のごとちらぼふなかに
もの
鈍き鉛の魚のめくるめき、
はた
浮びくる
妄念の赤きわななき。
逃げいづる鵞鳥のうから
鳴きさやぎ汀を走る。
午後六時、あな
水底より浮びくる
赤きわななき――妄念の
猛ると見れば、
強き煙草に、
鉄の
香に、わかき男に、
顔いだす
硝子の窓の
少女らに血潮したたり、
歓楽の
極の
恐怖の日のおびえ、
顫ひ高まる
苦痛ぞ
朱にくづるる。
刹那、ふと太く湯気吐き
吼えいづる休息の笛。
四十一年七月
青き光
哀れ、みな
悩み入る、夏の
夜のいと青き光のなかに、
ほの白き
鉄の橋、
洞円き
穹窿の
煉瓦、
かげに来て米
炊ぐ
泥舟の
鉢の
撫子、
そを見ると
見下せる
人々が
倦みし
面も。
はた絶えず、
悩ましの
角光り電車すぎゆく
河岸なみの白き壁あはあはと瓦斯も
点れど、
うち向ふ暗き
葉柳震慄きつ、さは
震慄きつ、
後よりはた泣くは青白き
屋の
幽霊。
いと青きソプラノの沈みゆく光のなかに、
饐えて病むわかき日の
薄暮のゆめ。――
幽霊の
屋よりか洩れきたる
呪はしの
音の
交響体のくるしみのややありて
交りおびゆる。
いづこにかうち
囃す
幻燈の
伴奏の
進行曲、
かげのごと
往来する
白の
衣うかびつれつつ、
映りゆく
絵のなかのいそがしさ、さは繰りかへす。――
そのかげに
苦痛の
暗きこゑまじりもだゆる。
なべてみな
悩み入る、夏の
夜のいと青き光のなかに。――
蒸し
暑き
軟ら
風もの
甘き
汗に
揺れつつ、
ほつほつと
点もれゆく
水の
面のなやみの
燈、
鹹からき
執の
譜よ………み空には星ぞうまるる。
かくてなほ悩み
顫ふわかき日の
薄暮のゆめ。――
見よ、
苦き
闇の
滓街衢には
淀みとろげど、
新にもしぶきいづる星の
華――
泡のなげきに
色青き酒のごと
空は、はた、なべて澄みゆく。
四十一年七月
樅のふたもと
うちけぶる
樅のふたもと。
薄暮の山の
半腹のすすき
原、
若草色の
夕あかり濡れにぞ濡るる
雨の日のもののしらべの
微妙さに、
なやみ
幽けき
Chopin の
楽のしたたり
やはらかに絶えず霧するにほやかさ。
ああ、さはあかれ、
嗟嘆の
樅のふたもと。
はやにほふ
樅のふたもと。
いつしかに色にほひゆく靄のすそ、
しみらに
燃ゆる日の
薄黄、
映らふみどり、
ひそやかに
暗き夢
弾く
列並の
遠の
山々おしなべてものやはらかに、
近ほとりほのめきそむる
歌の
曲。
ああ、はやにほへ、
嗟嘆の
樅のふたもと。
燃えいづる
樅のふたもと。
濡れ
滴る
柑子の色のひとつらね、
深き青みの
重りにまじらひけぶる
山の
端の
縺れのなやみ、あるはまた
かすかに
覗く空のゆめ、雲のあからみ、
晩夏の
入日に
噎ぶ
夕ながめ。
ああ、また
燃ゆれ、
嗟嘆の
樅のふたもと。
色うつる
樅のふたもと。
しめやげる
葬の
曲のかなしみの
幽かにもののなまめきに
揺曳くなべに、
沈みゆく雲の青みの
階調、
はた、さまざまのあこがれの
吐息の
薫、
薄れつつうつらふきはの日のおびえ。
ああ、はた、響け、
嵯嘆の
樅のふたもと。
饐え
暗む樅のふたもと。
燃えのこる
想のうるみひえびえと、
はや
夜の
沈黙しのびねに弾きも絶え入る
列並の山のくるしみ、ひと
叢の
柑子の靄のおぼめきも
音にこそ
呻け、
おしなべて
御龕の
空ぞ
饐えよどむ。
ああ、見よ、
悩む、
嗟嘆の
樅のふたもと。
暮れて立つ
樅のふたもと。
声もなき
悲願の
通夜のすすりなき
薄らの闇に深みゆく、あはれ、
法悦、
いつしかに
篳篥あかる谷のそら、
ほのめき
顫ふ
月魄のうれひ沁みつつ
夢青む
忘我の原の靄の色。
ああ、さは
顫へ
嗟嘆の
樅のふたもと。
四十一年二月
夕日のにほひ
晩春の
夕日の
中に、
順礼の子はひとり
頬をふくらませ、
濁りたる
眼をあげて
管うち吹ける。
腐れゆく
襤褸のにほひ、
酢と
石油……にじむ
素足に
落ちちれる
果実の皮、赤くうすく、あるは
汚なく……
片手には
噛りのこせし
林檎をばかたく
握りぬ。
かくてなほ
頬をふくらませ
怖おづと吹きいづる………
珠の
石鹸よ。
さはあれど、
珠のいくつは
なやましき
夕暮のにほひのなかに
ゆらゆらと
円みつつ、ほつと
消えたる。
ゆめ、にほひ、その
吐息……
彼はまた、
怖々と、
怖々と、……
眩しげに
頬をふくらませ
蒸し
淀む
空気にぞ吹きもいでたる。
あはれ、見よ、
いろいろのかがやきに
濡れもしめりて
円らにものぼりゆく
大きなるひとつの
珠よ。
そをいまし見あげたる
無心の
瞳。
背後には、血しほしたたる
拳あげ、
霞める
街の
大時計睨みつめたる
山門の
仁王の
赤き
幻想……
その
裏を
ちやるめらのゆく……
四十一年十二月
浴室
水落つ、
たたと………
浴室の真白き
湯壺
大理石の
苦悩に
湯気ぞたちのぼる。
硝子の
外の
濁川、日にあかあかと
小蒸汽の
船腹光るひとみぎり、太鼓ぞ鳴れる。
水落つ、
たたと………‥
灰色の
亜鉛の屋根の
繋留所、わが窓近き
陰鬱に
行徳ゆきの人はいま見つつ声なし、
川むかひ、
黄褐色の雲のもと、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、
たたと…………
両国の
大吊橋は
うち
煤け、
上手斜に日を
浴びて、
色薄
黄ばみ、はた重く、ちやるめらまじり
忙しげに
夜に入る子らが身の
運び、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、
たたと…………もの甘く、あるひは赤く、
うらわかきわれの
素肌に
沁みきたる
鉄のにほひと、
腐れゆく
石鹸のしぶき。
水面には
荷足の暮れて呼ぶ声す、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、
たたと…………
たたとあな
音色柔らに、
大理石の
苦悩に
湯気は
濃く、
温るく、
鈍きどよみと
外光のなまめく靄に
疲れゆく赤き
都会のらうたげさ、太皷ぞ鳴れる。
四十一年八月
入日の壁
黄に
潤る港の
入日、
切支丹邪宗の寺の
入口の
暗めるほとり、色古りし
煉瓦の壁に射かへせば、
静かに起る日の
祈祷、
『ハレルヤ』と、奥にはにほふ
讃頌の
幽けき
夢路。
あかあかと
精舎の入日。――
ややあれば
大風琴の
音の
吐息
たゆらに
嘆き、
白蝋の
盲ひゆく涙。――
壁のなかには
埋もれて
眩暈き、
素肌に立てるわかうどが赤き
幻。
ただ赤き
精舎の壁に、
妄念は
熔くるばかりおびえつつ
全身落つる日を
浴びて
真夏の海をうち
睨む。
『
聖マリヤ、イエスの
御母。』
一斉に
礼拝終る
老若の消え入るさけび。
はた、
白む入日の色に
しづしづと
白衣の人らうちつれて
湿潤も暗き
戸口より浮びいでつつ、
眩しげに
数珠ふりかざし
急げども、
など知らむ、
素肌に
汗し
熔けゆく
苦悩の
思。
暮れのこる
邪宗の
御寺
いつしかに
薄らに青くひらめけば
ほのかに
薫る
沈の
香、
波羅葦増のゆめ。
さしもまた
埋れて
顫ふ
妄念の
血に染みし
踵のあたり、
蟋蟀啼きもすずろぐ。
四十一年八月
狂へる椿
ああ、
暮春。
なべて
悩まし。
溶けゆく雲のまろがり、
大ぞらのにほひも、ゆめも。
ああ、暮春。
大理石のまぶしきにほひ――
幾基の墓の
日向に
照りかへし、
くわと入る光。
ものやはき
眩暈の甘き
恐怖よ。
あかあかと狂ひいでぬる
薮椿、
自棄に
熱病む
霊か、見よ、枝もたわわに
狂ひ咲き、
狂ひいでぬる赤き花、
赤き
言。
そがかたへなる
崖の
上、
うち
湿り、
熱り、まぶしく、また、ねぶく
大路に
淀むもののおと。
人力車夫は
ひとつらね
青白の
幌をならべぬ。
客を待つこころごころに。
ああ、暮春。
さあれ、また、うちも向へる
いと高く暗き
崖には、
窓もなき
牢獄の壁の
長き
列、はては
閉せる
灰黒の重き
裏門。
はたやいま落つる日ひびき、
照りあかる
窪地のそらの
いづこにか、
さはひとり、
湿り吹きゆく
幼ごころの日のうれひ、
そのちやるめらの
笛の
曲。
笛の
曲…………
かくて、はた、
病みぬる
椿、
赤く、赤く、
狂へる
椿。
四十一年六月
吊橋のにほひ
夏の日の
激しき光
噴きいづる
銀の
濃雲に照りうかび、
雲は
熔けてひたおもて
大河筋に射かへせば、
見よ、
眩暈く水の
面、波も真白に
声もなき潮のさしひき。
そがうへに
懸る吊橋。
煤けたる
黝の
鉄の
桁構、
半月形の
幾円み絶えつつ続くかげに、見よ、
薄らに青む水の色、あるは
煉瓦の
円柱映ろひ、あかみ、たゆたひぬ。
銀色の光のなかに、
そろひゆく
櫂のなげきしらしらと、
或は
仄の
水鳥のそことしもなき
音のうれひ、
河岸の
氷室の壁も、はた、ただに真昼の
白蝋の
冷みの
沈黙。
かくてただ
悩む
吊橋、
なべてみな真白き
水の
面、はた、光、
ただにたゆたふ
眩暈の、
恐怖の、
仄の
哀愁の
銀の
真昼に、色重き
鉄のにほひぞ
鬱憂に吊られ
圧さるる。
鋼鉄のにほひに
噎び、
絶えずまた
直裸なる男の子
真白に光り、ひとならび、
力あふるる
面して
柵の上より
躍り入る、水の
飛沫や、
白金に
濡れてかがやく。
真白なる
真夏の
真昼。
汗滴るしとどの
熱に
薄曇り、
暈みて
歎く吊橋のにほひ
目当にたぎち来る
小蒸汽船の
灰ばめる
鈍き
唸や、
日は光り、煙うづまく。
四十一年八月
硝子切るひと
君は切る、
色あかき
硝子の
板を。
落日さす
暮春の窓に、
いそがしく
撰びいでつつ。
君は切る、
金剛の石のわかさに。
茴香酒のごときひとすぢ
つと引きつ、切りつ、忘れつ。
君は切る、
色あかき
硝子の板を。
君は切る、君は切る。
四十年十二月
悪の窓 断篇七種
一 狂念
あはれ、あはれ、
青白き日の光西よりのぼり、
薄暮の灯のにほひ昼もまた
点りかなしむ。
わが
街よ、わが窓よ、なにしかも
焼酎叫び、
鶴嘴のひとつらね日に光り
悶えひらめく。
汽車ぞ
来る、
汽車ぞ
来る、
真黒げに夢とどろかし、
窓もなき
灰色の
貨物輌豹ぞ積みたる。
あはれ、はや、
焼酎は
醋とかはり、人は
轢かれて、
盲ひつつ血に叫ぶ
豹の声
遠に
泡立つ。
二 疲れ
あはれ、いま
暴びゆく
接吻よ、
肉の
曲。……
かくてはや青白く
疲れたる
獣の
面
今日もまた
我見据ゑ、
果敢なげに、いと
果敢なげに、
色
濁る
窓硝子外面より
呪ひためらふ。
いづこにかうち
狂ふ
オロンよ、わが
唇よ、
身をも
燬くべき
砒素の
壁夕日さしそふ。
三 薄暮の負傷
血潮したたる。
薄暮の
負傷なやまし、かげ
暗き
溝のにほひに、
はた、胸に、
床の
鉛に……
さあれ、夢には
列なめて
駱駝ぞ
過ぐる。
埃及のカイロの
街の
古煉瓦
壁のひまには
砂漠なるオアシスうかぶ。
その空にしたたる
紅きわが星よ。……
血潮したたる。
四 象のにほひ
日をひと日。
日をひと日。
日をひと日、光なし、色も
盲ひて
ふくだめる、はた、
病めるなやましきもの
ふたぎ
ふたぎ
気倦るげに
唸りもぞする。
あはれ、わが
幽鬱の
象
亜弗利加の
鈍きにほひに。
日をひと日。
日をひと日。
五 悪のそびら
おどろなす髪の
亜麻色
背向け、
今日もうごかず、
さあれ、また、絶えずほつほつ
息しぼり『死』にぞ吹くめる、
血のごとき
石鹸の
珠を。
六 薄暮の印象
うまし
接吻……
歓語……
さあれ、空には
眼に見えぬ
血潮したたり、
なにものか
負傷ひくるしむ
叫ごゑ、
など
痛む、あな
薄暮の
曲の色、――光の
沈黙。
うまし
接吻……
歓語……
七 うめき
暮れゆく日、血に濁る
床の上にひとりやすらふ。
街しづみ、
しづみ、わが心もの
音もなし。
載せきたる
板硝子過ぐるとき車
燬きつつ
落つる日の照りかへし、そが
面噎びあかれば
室内の
汚穢、はた、古壁に朽ちし
鉞
一斉に
屠らるる牛の夢くわとばかり
呻き
悶ゆる。
街の子は
戯れに
空虚なる
乳の
鑵たたき、
よぼよぼの
飴売は、あなしばし、ちやるめらを吹く。
くわとばかり、くわとばかり、
黄に光る
向ひの
煉瓦
くわとばかり、あなしばし。――
悪の
畢――四十一年二月
蟻
おほらかに、
いとおほらかに、
大きなる
鬱金の色の花の
面。
日は
真昼、
時は
極熱、
ひたおもて
日射に
くわつと照りかへる。
時に、われ
世の
蜜もとめ
雄蕋の林の底をさまよひぬ。
光の
斑
燬けつ、
断れつ、
豹のごと
燃えつつ
湿める
径の
隈。
風吹かず。
仰ふげば
空は
烈々と
鬱金を
篩ふ
蕋の花。
さらに、聞く、
爛れ、
饐えばみ、
ふつふつと
苦痛をかもす蜜の息。
楽欲の
極みか、甘き
寂寞の
大光明、に
喘ぐ時。
人界の
七谷隔て、
丁々と
白檀を
伐つ
斧の
音。
四十年三月
華のかげ
時は夏、血のごと
濁る
毒水の
鰐住む
沼の
真昼時、夢ともわかず、
日に
嘆く
無量の
広葉かきわけて
ほのかに青き
青蓮の
白華咲けり。
ここ過ぎり街にゆく者、――
婆羅門の苦行の沙門、あるはまた
生皮漁る旃陀羅が鈍き刃の色、
たまたまに火の布巻ける奴隷ども
石油の鑵を地に投げて鋭に泣けど、
この旱何時かは止まむ。これやこれ、
饑に堕ちたる天竺の末期の苦患。
見るからに気候風吹く空の果
銅色のうろこ雲湿潤に燃えて
恒河の鰐の脊のごとはらばへど、
日は爛れ、大地はあはれ柚色の
熱黄疸の苦痛に吐息も得せず。
この恐怖何に類へむ。ひとみぎり
地平のはてを大象の群御しながら
槍揮ふ土人が昼の水かひも
終へしか、消ゆる後姿に代れる列は
こは如何に殖民兵の黒奴らが
喘ぎ曳き来る真黒なる火薬の車輌
掲ぐるは危嶮の旗の朱の光
絶えず饑ゑたる心臓の呻くに似たり。
さはあれど、ここなる
華と、
円き葉の
あはひにうつる色、
匂、青みの光、
ほのほのと
沼の
水面の毒の香も
薄らに
交り、昼はなほかすかに
顫ふ。
四十年十二月
幽閉
色
濁るぐらすの
戸もて
封じたる、
白日の日のさすひと
間、
そのなかに
蝋のあかりのすすりなき。
いましがた、
蓋閉したる
風琴の
忍びのうめき。
そがうへに
瞳盲ひたる
嬰児ぞ戯れあそぶ。
あはれ、さは
赤裸なる、
盲ひなる、ひとり
笑みつつ、
声たてて小さく
愛しき
生の
臍をまさぐりぬ。
物
病ましさのかぎりなる
室のといきに、
をりをりは忍び入るらむ
戯けたる
街衢の
囃子、
あはれ、また、
嬰児笑ふ。
ことことと、ひそかなる母のおとなひ
幾度となく戸を押せど、はては
敲けど、
色濁る
扉はあかず。
室の
内暑く
悒鬱く、またさらに
嬰児笑ふ。
かくて、はた、
硝子のなかのすすりなき
蝋のあかりの
夜を待たず尽きなむ時よ。
あはれ、また母の
愁の
恐怖とならむそのみぎり。
あはれ、子はひたに聴き入る、
珍らなるいとも
可笑しきちやるめらの
外の
一節。
四十一年六月
鉛の室
いんきは赤し。――さいへ、見よ、
室の
腐蝕に
うちにじみ
倦じつつゆくわがおもひ、
暮春の
午後をそこはかと
朱をば
引けども。
油じむ
末黒の
文字のいくつらね
悲しともなく
誦しゆけど、
響らぐ
声は
びてゆく
鉛の
悔、しかすがに、
強き
薫のなやましさ、
鉛の
室は
くわとばかり
火酒のごとき
噎びして
壁の
湿潤を
玻璃に蒸す光の
痛さ。
力なき
活字ひろひの
淫れ
歌、
病める
機械の
羽たたきにあるは沁み
来し
新らしき紙の
刷られの
香も
消ゆる。
いんきや尽きむ。――はやもわがこころのそこに
聴くはただ
饐えに
饐えゆく
匂のみ、――
はた、
滓よどむ
壺を見よ。つとこそ
一人、
手を
棚へ
延すより早く、とくとくと、
赤き
硝子の
いんき罎傾むけそそぐ
一刹那、
壺にあふるる火のゆらぎ。
さと
燃えあがる
間こそあれ、
飜ると見れば
手に
平む
吸取紙の
骸色
爛れぬ――あなや、血は
しと、と
卓に
滴る。
四十年九月
真昼
日は
真昼――野づかさの、
寂寥の
心の
臓にか、
ただひとつ声もなく照りかへす
硝子の
破片。
そのほとり
WHISKY の
匂蒸す
銀色の
内、
声するは、
密かにも露吸ひあぐる、
色赤き、色赤き花の
吐息……
四十一年十二月
[#改丁]
このさんたくるすは三百年まへより大江村の切支丹のうちに忍びかくして守りつたへたるたつときみくるすなり。これは野中に見いでたり。
天草島大江村天主堂秘蔵
天草雅歌
四十年八月、新詩社の諸友とともに遠く天草島に遊ぶ。こはその紀念作なり。
「四十年十月作」
[#改ページ]
天艸雅歌
角を吹け
わが
佳よ、いざともに野にいでて
歌はまし、
水牛の
角を吹け。
視よ、すでに
美果実あからみて
田にはまた
足穂垂れ、風のまに
山鳩のこゑきこゆ、
角を吹け。
いざさらば
馬鈴薯の
畑を越え
瓜哇びとが園に入り、かの岡に
鐘やみて
蝋の火の消ゆるまで
無花果の
乳をすすり、ほのぼのと
歌はまし、
汝が
頸の
角を吹け。
わが
佳よ、鐘きこゆ、野に下りて
葡萄
樹の
汁滴る
邑を過ぎ、
いざさらば、パアテルの黒き
袈裟
はや朝の
看経はて、しづしづと
見えがくれ
棕櫚の葉に消ゆるまで、
無花果の
乳をすすり、ほのぼのと
歌はまし、いざともに
角を吹け、
わが
佳よ、起き来れ、野にいでて
歌はまし、
水牛の
角を吹け。
ほのかなる蝋の火に
いでや子ら、日は高し、風たちて
棕櫚の葉のうち
戦ぎ
冷ゆるまで、
ほのかなる
蝋の火に
羽をそろへ
鴿のごと歌はまし、
汝が母も。
好き日なり、
媼たち、さらばまづ
祷らまし
賛美歌の
十五番、
いざさらば
風琴を子らは弾け、
あはれ、またわが
爺よ、なにすとか、
老眼鏡ここにこそ、
座はあきぬ、
いざともに
祷らまし、ひとびとよ、
さんた・まりや。さんた・まりや。さんた・まりや。
拝めば
香炉の火身に燃えて
百合のごとわが
霊のうちふるふ。
あなかしこ、
鴿の子ら
羽をあげて
御龕なる
蝋の火をあらためよ。
黒船の笛きこゆいざさらば
ほどもなくパアテルは見えまさむ、
さらにまた
他の
燭をたてまつれ。
あなゆかし、ロレンゾか、鐘鳴らし、
まめやかに
安息の日を
祝ぐは、
あな楽し、
真白なる羽をそろへ
鴿のごと歌はまし、わが子らよ。
あはれなほ日は高し、風たちて
棕櫚の葉のうち
戦ぎ
冷ゆるまで、
ほのかなる
蝋の火に羽をそろへ
鴿のごと歌はまし、はらからよ。
を抜けよ
はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、
御堂にははや
夕の歌きこえ、
蝋の火もともるらし、
を
抜けよ。
もろもろの
美果実籠に盛りて、
汝が
鴿ら
畑に下り、しらしらと
帰るらし
夕づつのかげを見よ。
われらいま、
空色の
帆のやみに
新なる
大海の
香炉採り
籠に
きぬ、ひるがへる魚を見よ。
さるほどに、跪き、ひとびとは
目見青き
上人と夜に
祷り、
捧げます
御くるすの
香にや酔ふ、
うらうらと咽ぶらし、歌をきけ。
われらまた
祖先らが血によりて
洗礼がれし
仮名文の
御経にぞ
主よ
永久に恵みあれ、われらも、と
鴿率つつ祷らまし、帆をしぼれ。
はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、
御堂にははや
夕の歌きこえ、
蝋の火もくゆるらし、
を抜けよ、
汝にささぐ
女子よ、
汝に
捧ぐ、
ただひとつ。
然はあれ、
汝も知らむ。
このさんた・くるすは、かなた
檳榔樹の
実の落つる国、
夕日さす
白琺瑯の石の
階
そのそこの心の心、――
えめらるど、あるは
紅玉、
褐の
埴八千層敷ける
真底より、
汝が愛を
讃へむがため、
また、清き
接吻のため、
水晶の
柄をすげし
白銀の鍬をもて、
七つほど
先の
世ゆ世を
継ぎて
ひたぶるに、われとわが
採りいでし
型、
その
型を
汝に
捧ぐ、
女子よ。
ただ秘めよ
曰ひけるは、
あな、わが
少女、
天艸の
蜜の
少女よ。
汝が髪は
烏のごとく、
汝が
唇は
木の
実の
紅に
没薬の
汁滴らす。
わが
鴿よ、わが友よ、いざともに
擁かまし。
薫濃き葡萄の酒は
玻璃の
壺に
盛るべく、
もたらしし
麝香の
臍は
汝が肌の百合に染めてむ。
よし、さあれ、
汝が父に、
よし、さあれ、
汝が母に、
ただ
秘めよ、ただ守れ、
斎き死ぬまで、
虐の罪の
鞭はさもあらばあれ、
ああただ
秘めよ、
御くるすの
愛の
徴を。
さならずば
わが
家の
わが
家の
可愛ゆき
鴿を
その
雛を
汝せちに恋ふとしならば、
いでや子よ、
逃れよ、早も
邪宗門外道の
教
かくてまた遠き
祖より
伝ヘこし
秘密の
聖磔
とく柱より取りいでよ。もし、さならずば
もろもろの
麝香のふくろ、
桂枝、はた、
没薬、
蘆薈
および
乳、島の
無花果、
如何に世のにほひを積むも、――
さならずば、
もしさならずば――
汝いかに
陳じ泣くとも、あるは、また
護摩き修し、
伴天連の
救よぶとも、
ああ遂に
詮業なけむ。いざさらば
接吻の
妙なる
蜜に、
女子の葡萄の
息に、
いで『ころべ』いざ歌へ、わかうどよ。
嗅煙艸
『あはれ、あはれ、
深江の
媼よ。
髪も
頬も
煙艸色なる、
棕櫚の根に
蹲む
媼よ。
汝が持てる
象牙の
壺は
また
薫る
褐なる
粉は
何ぞ。また、せちに鼻つけ
涙垂れ、あかき
眼擦るは。』
このときに
渡の
媼
呻ぶらく。『わが
葡萄牙、
こを
嗅ぎてわかきは思ふ。』
『さらば、
汝は。』『
責めそ、さな、さな、
養生を
骸はただ
欲れ。
さればこそ、この
嗅煙艸。』
鵠
わかうどなゆめ近よりそ、
かのゆくは
邪宗の
鵠、
日のうちに
七度八度
潮あび
化粧すといふ
伴天連の
秘の
少女ぞ。
地になびく髪には
蘆薈、
嘴にまたあかき
実を
塗る
淫らなる鳥にしあれば、
絶えず、その
真白羽ひろげ
乳香の水したたらす。
されば、子なゆめ近よりそ。
視よ、持つは
炎か、
華か、
さならずば
実の
無花果か、
兎にもあれ、かれこそ
邪法。
わかうどなゆめ近よりそ。
日ごとに
日ごとにわかき
姿して
日ごとに歌ふわが
族よ、
日ごとに
紅き
実の
乳房
日ごとにすてて
漁りゆく。
黄金向日葵
あはれ、あはれ、
黄金向日葵
汝また
太陽にも
倦きしか、
南国の空の
真昼を
かなしげに
疲れて見ゆる。
一
香炉いま
一のかをり。
あはれ、火はこころのそこに。
さあれ、その
一のけむり、
かの
空の青き
龕に。
[#改丁]
青き花
南紀旅行の紀念として且はわが羅曼底時代のあえかなる思出のために、この幼き一章を過ぎし日の友にささぐ。
「四十年二、三両月中作」
[#改ページ]
青き花
そは
暗きみどりの空に
むかし見し
幻なりき。
青き花
かくてたづねて、
日も知らず、また、
夜も知らず、
国あまた
巡りありきし
そのかみの
われや、わかうど。
そののちも人とうまれて、
微妙くも
奇しき
幻
ゆめ、うつつ、
香こそ忘れね、
かの青き花をたづねて、
ああ、またもわれはあえかに
人の
世の
旅路に迷ふ。
君
かかる野に
何時かありけむ。
仏手柑の青む
南国
薫る日の光なよらに
身をめぐりほめく物の
香、
鳥うたひ、
天もゆめみぬ。
何時の世か
君と
識りけむ。
黄金なす髪もたわたわ、
みかへるか、あはれ、つかのま
ちらと見ぬ、わかき
瞳に
にほひぬる
かの青き花。
桑名
夜となりぬ、
神世に通ふやすらひに
早や
門鎖す
古伊勢の
桑名の
街は
路も
狭に高き
屋づくり
音もなく、
陰森として物の
隈ひろごるにほひ。
おほらかに
零落の戸を
瞰下して
愁ふるがごと
月光は青に照せり。
参宮の
衆にかあらむ、
旅びとの
二人三人はさきのほどひそかに
過ぎぬ。
貸旅籠札のみ白き壁つづき
ほとほと遠く、物ごゑの
夜風に消えて、
今ははた
数添はりゆく星くづの
天なる
調やはらかに、地は
闌けまさる。
時になほ
街はづれなる
老舗の戸
少し
明りて火は
路へひとすぢ
射しぬ。
行燈のかげには清き
女の
童物縫ふけはひ、
そがなかにたわやの
一人髪あげて
戸外すかしぬ。――事もなき
夜のしづけさに。
朝
――汽車のなかにて――
わが友よ、はや
眼をさませ。
玻璃の戸にのこる
灯ゆらぎ、
夜はわかきうれひに明けぬ。
順礼はつとにめざめて
あえかなる友をかおもふ。
清しげの髪のそよぎに
笈のいろもほのぼの。
わが友よ、はや
眼をさませ。
かなた、いま
白む野のそら、
薔薇にはほのかに
薄く
菫よりやや
濃きあはひ、
かのわかき
瞳さながら
あけぼのの夢より
醒めて
わだつみはかすかに
顫ふ。
紅玉
かかるとき、
海ゆく船に
まどはしの
人魚か
蹤ける。
美くしき
術の
夕に、
まどろみの
香油したたり、
こころまた
けぶるともなく、
幻の黒髪きたり、
夜のごとも
わが
眼蔽へり。
そことなく
おほくのひとの
あえかなるかたらひおぼえ、
われはただ
ひしと
凝視めぬ。
夢ふかき黒髪の
奥
朱に喘ぐ
紅玉ひとつ、
これや、わが胸より落つる
わかき血の
燃る
滴。
海辺の墓
われは見き、
いつとは知らね、
薄あかるにほひのなかに
夢ならずわかれし
一人、
ものみなは涙のいろに
消えぬとも。
ああ、えや忘る。
かのわかき黒髪のなか、
星のごと濡れてにほひし
天色の
勾玉七つ。
われは見ぬ、
漂浪ひながら、
見もなれぬ海辺の墓に
うつつにも眠れる
一人
そことなき髪のにほひの
ほのめきも、
ああ、えや忘る。
いま寒き
夕闇のそこ、
星のごと濡れてにほへる
天色の
露草七つ。
渚の薔薇
紀の
南、
白良の
渚、
荒き
灘高く
砕けて
天暗う
轟くほとり、
ひとならび
夕陽をうけて
面ほてり、むらがり咲ける
色
紅き
薔薇の
族よ。
瞬く間、間近に寄せて
崩れうつ浪の穂を見よ。
今し
さと
滴るばかり
激瀾の
飛沫に濡れて、
弥さらに匂ひ
閃めく
火のごとき
少女のむれよ。
寄せ返し、遠く消えゆく
塩暗き
音を聴け。
ああ
薔薇、
汝にむかへば
わかき日のほこりぞ躍る。
薔薇、
薔微、あてなる
薔薇。
紐
海の霧にほやかなるに
灯も見ゆる夕暮のほど、
ほのかなる
旅籠の窓に
在るとなく
暮れもなやめば、
やはらかき
私語まじり
咽びきぬ、そこはかとなく、
火に焼くる
薔薇のにほひ。
ああ、
薔薇、暮れゆく
今日を
そぞろなり、わかき
喘に
図らずも思ひぞいづる。
そは
熱き夏の
渚辺、
濡髪のなまめかしさに、
女つと
寝がへりながら、
みだらなる手して結びし
色
紅き
韈の
紐。
昼
蜜柑船凪にうかびて
壁白き浜のかなたは
あたたかに物売る声す。
波もなき港の
真昼、
白銀の
挿櫛撓み
いま遠く二つら三つら
水の
上をすべると見つれ。
波もなき港の真昼、
また近く、二つら三つら
飛の魚すべりて
安し。
夕
あたたかに海は
笑ひぬ。
花あかき夕日の窓に、
手をのべて聴くとしもなく
薔薇摘み、ほのかに
愁ふ。
いま聴くは
市の
遠音か、
波の
音か、過ぎし
昨日か、
はた、
淡き
今日のうれひか。
あたたかに海は笑ひぬ。
ふと思ふ、かかる
夕日に
白銀の
絹衣ゆるがせ、
いまあてに花
摘みながら
かく
愁ひ、かくや
聴くらむ、
紅の
南極星下
われを思ふ人のひとりも。
羅曼底の瞳
この少女はわが稚きロマンチツクの幻象也、仮にソフィヤと呼びまゐらす。
美くしきソフィヤの
君。
悲しくも
恋しくも見え給ふわがわかきソフィヤの
君。
なになれば日もすがら
今日はかく
瞑目り給ふ。
美くしきソフィヤの
君、
われ泣けば、朝な
夕なに、
悲しくも
静かにも見ひらき給ふ青き
華――
少女の
瞳。
ソフィヤの
君。
[#改丁]
古酒
こは邪宗門の古酒なり。近代白耳義の所謂フアンドシエクルの神経には柑桂酒の酸味に竪笛の音色を思ひ浮かべ梅酒に喇叭を嗅ぎ、甘くして辛き茴香酒にフルウトの鋭さをたづね、あるはまたウヰスキイをトロムボオンに、キユムメル、ブランデイを嚠喨として鼻音を交へたるオボイの響に配して、それそれ匂強き味覚の合奏に耽溺すと云へど、こはさる驕りたる類にもあらず。黴くさき穴倉の隅、曇りたる色硝子の
より洩れきたる外光の不可思議におぼめきながら煤びたるフラスコのひとつに湛ゆるは火酒か、阿刺吉か、又はかの紅毛の※
[#「酉+珍のつくり」、169-8]の酒か、えもわかねど、われはただ和蘭わたりのびいどろの深き古色をゆかしみて、かのわかき日のはじめに秘め置きにたる様々の夢と匂とに執するのみ。
[#改ページ]
恋慕ながし
春ゆく
市のゆふぐれ、
角なる
地下室の
玻璃透き
うつらふ色とにほひと
見惚れぬ。――
潤るむ笛の
音。
しばしは雲の
縹と、
灯うつる
路の
濡色、
また行く
素足しらしら、――
あかりぬ、笛の
音色も。
古き
醋甕と
街衢の
物焼く
薫いつしか
薄らひ
饐ゆれ。――澄みゆく
紅き
音色の
揺曳
このとき、
玻璃も
真黒に
四輪車軋るはためき、
獣の
温き
肌の
香
過ぎりぬ。――
濁る
夜の色。
ああ
眼にまどふ
音色の
はやも見わかぬかなしさ。
れんほ、れれつれ、消えぬる
恋慕ながしの
一曲。
四十年二月
煙草
黄のほてり、夢のすががき、
さはあまきうれひの
華よ。
ほのに
汝を
嗅ぎゆくここち、
QURACIO の酒もおよばじ。
いつはあれ、ものうき胸に
痛知るささやきながら、
わかき火のにほひにむせて
はばたきぬ、
快楽のうたは。
そのうたを誰かは
解かむ。
あえかなる罪のまぼろし、――
濃き華の
褐に沁みゆく
愛欲の
千々のうれひを。
向日葵の日に蒸すにほひ、
かはたれのかなしき
怨言
ゆるやかにくゆりぬ、いまも
絶間なき火のささやきに。
かくてわがこころひねもす
傷むともなくてくゆりぬ、
あな、あはれ、
汝が
香の小鳥
そらいろのもやのつばさに。
四十年九月
舗石
夏の
夜あけのすずしさ、
氷載せゆく車の
いづちともなき
軋に、
潤みて消ゆる
瓦斯の火。
海へか、
路次ゆみだれて
大族なす
鵞の鳥
鳴きつれ、霧のまがひに
わたりぬ――しらむ
舗石。
人みえそめぬ。
煙草の
ただよひ
湿るたまゆら、
辻なる
の
絵硝子
あがりぬ――ひびく
舗石。
見よ、
女が髪のたわめき
濡れこそかかれ、このとき
つと
寄り、男、みだらの
接吻――にほふ
舗石。
ほど経て
を
閑す
音。
枝垂柳のしげみを、
赤き港の
自働車
けたたましくも
過ぎぬる。
ややあり、ほのに
緋の帯、
水色うつり
過ぐれば、
縺れぬ、はやも、からころ、
かろき
木履のすががき。
四十年九月
驟雨前
長月の
鎮守の
祭
からうじてどよもしながら、
雨もよひ、
夜もふけゆけば、
蒸しなやむ
濃き雲のあし
をりをりに
赤くただれて、
月あかり、
稲妻すなる。
このあたり、だらだらの
坂、
赤楊高き小学校の
柵尽きて、
下は
黍畑
こほろぎぞ闇に鳴くなる。
いづこぞや
女声して
重たげに
雨戸繰る
音。
わかれ
路、
辻の
濃霧は
馬やどののこるあかりに
幻燈のぼかしのごとも
蒸し
青み、
破れし
土馬車
ふたつみつ
泥にまみれて
ひそやかに影を
落しぬ。
泥濘の物の
汗ばみ
生ぬるく、重き
空気に
新しき
木犀まじり、
馬槽の
臭気ふけつつ、
懶うげのさやぎはたはた
暑き
夜のなやみを
刻む。
足音す、
生血の
滴り
しとしととまへを人かげ、
おちうどか、ほたや、
六部か、
背に高き
龕をになひ、
青き火の消えゆくごとく
呻きつつ闇にまぎれぬ。
生騒ぎ野をひとわたり。
とある
枝に蝉は
寝おびれ、
ぢと
嘆き、鳴きも落つれば
洞円き
橋台のをち、
はつかにも
断れし
雲間に
月
黄ばみ、病める
笑ひす。
夜の汽車の重きとどろき。
凄まじき
驟雨のまへを、
黒烟深き
峡は
一面に血潮ながれて、
いま赤く人
轢くけしき。
稲妻す。――嗚呼
夜は
一時。
三十九年九月
解纜
解纜す、
大船あまた。――
ここ
肥前長崎港のただなかは
長雨ぞらの
幽闇に
海づら
鈍み、
悶々と
檣けぶるたたずまひ、
鎖のむせび、帆のうなり、
伝馬のさけび、
あるはまた
阿蘭船なる
黒奴が
気も
狂ほしき諸ごゑに、
硝子切る
音、
うち
湿り――
嗚呼午後七時――ひとしきり、
落居ぬ
騒擾。
解纜す、大船あまた。
あかあかと
日暮の
街に
吐血して
落日喘ぐ
寂寥に鐘鳴りわたり、
陰々と、
灰色重き
曇日を
死を
告げ知らすせはしさに、響は
絶えず
天主より。――
闇澹として
二列、
海波の
鳴咽、
赤の
浮標、なかに
黄ばめる
帆は
瘧に――
嗚呼午後七時――わなわなとはためく
恐怖。
解纜す、
大船あまた。――
黄髪の
伴天連信徒蹌踉と
闇穴道を
磔負ひ
駆られゆくごと
生ぬるき
悔の
唸順々に、
流るる血しほ
黒煙り
動揺しつつ、
印度、はた、
南蛮、羅馬、
目的はあれ、
ただ
生涯の船がかり、いづれは
黄泉へ
消えゆくや、――
嗚呼午後七時――
鬱憂の心の海に。
三十九年七月
日ざかり
嗚呼、
今し
午砲のひびき
おほどかにとどろきわたり、
遠近の
汽笛しばらく
饑うるごと
呻きをはれば、
柳原熱き
街衢は
また、もとの
沈黙にかへる。
河岸なみは赤き
煉瓦家。
牢獄めく
工場の奥ゆ
印刷の
響たまたま
薄鉄葉切る
鋏の
音と、
柩うつ槌と、
鑢と、
懶うげにまじりきこえぬ。
片側の
古衣屋つづき、
衣紋掛重き
恐怖に
肺やみの
咳洩れて、
饐えてゆく物のいきれに、
陰湿のにほひつめたく
照り
白み、人は
黙坐す。
ゆきかへり、やをら、
電気車
鉛だつ
体をとどめて
ぐどぐどとかたみに語り、
鬱憂の
唸重げに
また
軋る、
熱く垂れたる
ひた
赤き
満員の
札。
恐ろしき
沈黙ふたたび
酷熱の日ざしにただれ、
ぺんき
塗褪めし
看板
毒滴らし、
河岸のあちこち
ちぢれ
毛の
痩犬見えて
苦しげに
肉を
求食りぬ。
油うく
線路の
正面、
鉄重き橋の
構に
雲ひとつまろがりいでて
くらくらとかがやく
真昼、
汗ながし、車
曳きつつ
匍匐ふがごと
撒水夫きたる。
三十九年九月
軟風
ゆるびぬ、
潤む
罌粟の火は
わかき瞳の
濡色に。
熟視めよ、ゆるる麦の穂の
たゆらの色のつぶやきを。
たわやになびく黒髪の
君の
水脈こそ身に
翻れ。――
うかびぬ、消えぬ、火の
雫
匂の海のたゆたひに。
ふとしも
歎く蝶のむれ
ころりんころと……
頬のほめき、
触るる
吐息に
縺るれば、
色も、にほひも、つぶやきも、
同じ
音色の
揺曳に
倦じぬ、かくて君が目も。――
あはれ、
皐月の
軟風に
ゆられてゆめむわがおもひ。
四十年六月
大寺
大寺の
庫裏のうしろは、
枇杷あまた
黄金たわわに、
六月の
天いろ洩るる
路次の隅、
竿かけわたし
皮交り、
襁褓を
乾せり。
そのかげに
穢き
姿して
面子うち、子らはたはぶれ、
裏店の
洗流の日かげ、
顔青き
野師の女房ら
首いだし、煙草吸ひつつ、
鈍き目に
甍あふぎて、
はてもなう罵りかはす。
凋れたるもののにほひは
溝板の
臭気まじりに
蒸し
暑く、いづこともなく。
赤黒き肉屋の旗は
屋根越に垂れて動かず。
はや十時、
街の
沈黙を
しめやかに
沈の香しづみ、
しらじらと日は高まりぬ。
三十九年八月
ひらめき
十月のとある
夜の空。
北国の
郊野の林檎
実は赤く
梢にのこれ、
はや、里の
果物採は
影絶えぬ、遠く
灯つけて
ただ
軋る
耕作ぐるま。
鬱憂に海は
鈍みて
闇澹と
氷雨やすらし。
灰濁める
暮雲のかなた
血紅の
火花ひらめき
燦として
音なく消えぬ。
沈痛の
呻吟この時、
闇重き
夜色のなかに
蓬髪の男
蹌踉き
落涙す、
蒼白き
頬に。
三十九年八月
立秋
憂愁のこれや野の国、
柑子だつ灰色のすゑ
夕汽車の
遠音もしづみ、
信号柱のちさき
燈
淡々とみどりにうるむ。
ひとしきり、
小野に
細雲。
南瓜畑北へ
練りゆく
旗赤き
異形の
列は
戯けたる
広告の
囃子
賑やかに遠くまぎれぬ。
うらがなし、
落日の
黄金
片岡の
槐にあかり、
鳴きしきる
蜩、あはれ
誰葬るゆふべなるらむ。
三十九年八月
玻璃罎
うすぐらき
窖のなか、
瓢状、なにか
湛へて、
十あまり
円うならべる
夢いろの
薄ら
玻璃罎。
静けさや、
靄の
古びを
黄蝋は
燻りまどかに
照りあかる。
吐息そこ、ここ、
哀楽のつめたきにほひ。
今しこそ、ゆめの
歓楽
降りそそげ。
生命の
脈は
ゆらぎ、かつ、壁にちらほら
玻璃透きぬ、赤き火の色。
三十九年八月
微笑
朧月か、
眩ゆきばかり
髪むすび
紅き帯して
あらはれぬ、
春夜の
納屋に
いそいそと、あはれ、
女子。
あかあかと
据ゑし
蝋燭
薔薇潮す
片頬にほてり、
すずろけば
夜霧火のごと、
いづこにか
林檎のあへぎ。
嗚呼愉楽、
朱塗の
樽の
差口抜き、酒つぐわかさ、
玻璃器に
古酒の
薫香
なみなみと……遠く人ごゑ。
やや
暫時、瞳かがやき、
髪かしげ、
微笑みながら
なに
紅む、わかき
女子。
母屋にまた、おこる
歓語……
三十九年八月
砂道
日の
真昼、ひとり、
懶く
真白なる
砂道を歩む。
市遠く赤き旗見ゆ、
風もなし。
荒蕪地つづき、
廃れ立つ
礎燃えて
烈々と
煉瓦の
火気に
爛れたる
果実のにほひ
そことなく
漂湿る。
数百歩、
娑婆に音なし。
ふと、空に
苦熱のうなり、
見あぐれば、名しらぬ
大樹
千万の
羽音に
糜け、
鈴状に
熟るる火の粒
潤やかに甘き
乳しぶく。
楽欲の
渇たちまち
かのわかき
接吻思ひ、
目ぞ
暈む。
真夏の原に
真白なる
砂道とぎれて
また続く
恐怖の日なか、
寂として
過ぎる人なし。
三十九年八月
凋落
寂光土、はたや、
墳塋、
夕暮の古き
牧場は
なごやかに光黄ばみて
うつらちる
楡の
落葉、
そこ、かしこ。――
暮秋の
大日
あかあかと海に沈めば、
凋落の
市に鐘鳴り、
絡繹と
寺門をいづる
老若の
力なき顔、
あるはみな青き旗垂れ
灰濁める
水路の靄に
寂寞と
繋る
猪木舟、
店々の
装飾まばらに、
甃石ちらほら軋る
空ぐるま、寒き石橋。――
鈍き
眼に
頭もたげて
黄牛よ、
汝はなにおもふ。
三十九年八月
晩秋
神無月、
下浣の
七日、
病ましげに
落日黄ばみて
晩秋の
乾風光り、
百舌啼かず、木の葉沈まず、
空高き柿の
上枝を
実はひとつ赤く落ちたり。
刹那、野を北へ
人霊、
鉦うちぬ、遠く死の歌。
君死にき、かかる
夕に。
三十九年五月
あかき木の実
暗きこころのあさあけに、
あかき
木の
実ぞほの見ゆる。
しかはあれども、昼はまた
君といふ日にわすれしか。
暗きこころのゆふぐれに、
あかき
木の
実ぞほの見ゆる。
四十年十月
かへりみ
みかへりぬ、ふたたび、みたび、
暮れてゆく
幼の
歩
なに
惜みさしもたゆたふ。
あはれ、また、
野辺の
番紅花
はやあかきにほひに満つを。
四十年十二月
なわすれぐさ
面のにほひに
洩れて、
その
眸すすり泣くとも、――
空いろに
透きて、葉かげに
今日も咲く、なわすれの花。
四十一年五月
わかき日の夢
水透ける
玻璃のうつはに、
果のひとつみづけるごとく、
わが夢は
燃えてひそみぬ。
ひややかに、きよく、かなしく。
四十一年五月
よひやみ
うらわかきうたびとのきみ、
よひやみのうれひきみにも
ほの沁むや、青みやつれて
木のもとに、みればをみなも。
な怨みそ。われはもくせい、
ほのかなる花のさだめに、
目見しらみ、うすらなやめば
あまき
香もつゆにしめりぬ。
さあれ、きみ、こひのうれひは
よひのくち、それもひととき、
かなしみてあらばありなむ、
われもまた。――月はのぼれり。
三十九年四月
一瞥
大月は赤くのぼれり。
あら、青む
最愛びとよ。
へだてなき恋の
怨言は
見るが
間に朽ちてくだけぬ。
こは人か、
何らの
色ぞ、
凋落の
鵠か、
鷭か。
後より、
冷笑す、あはれ、
一瞥。
我、こころ君を
殺しき。
三十九年七月
旅情
――さすらへるミラノひとのうた。
零落の
宿泊はやすし。
海ちかき
下層の
小部屋は、
ものとなき
鹹の
汚ごれに、
煤けつつ
匂ふ
壁紙。
広重の名をも
思出づ。
ほどちかき
庖厨のほてり、
絵草子の
匂にまじり
物あぶる
騒ぎこもごも、
焼酎のするどき
吐息
針のごと
肌刺す
夕。
ながむれば
葉柳つづき、
色硝子濡るる
巷を、
横浜の子が
智慧のはやさよ、
支那料理、よひの
灯影に
みだらうたあはれに
歌ふ。
ややありて月はのぼりぬ。
清らなる
出窓のしたを
からころと
軋む
櫓の
音。
鉄格子ひしとすがりて
黄金髪わかきをおもふ。
数おほき罪に
古りぬる
初恋のうらはかなさは
かかる
夜の
黒き
波間を
舟かせぎ、わたりさすらふ
わかうどが
歌にこそきけ。
色ふかき、ミラノのそらは
日本のそれと
似たれど、
ここにして
摘むによしなき
素馨、海のあなたに
接吻のかなしきもあり。
国を去り、
昨にわかれて
逃れ来し身にはあれども、
なほ遠く君をしぬべば、
ほうほう……と笛はうるみて、
いづらへか、
黒船きゆる。
廊下ゆく重き
足音。
みかへれば
暗きひと
間に
残る火は血のごと赤く、
腐れたる
林檎のにほひ、
そことなく涙をさそふ。
三十九年九月
柑子
蕭やかにこの日も
暮れぬ、
北国の古き
旅籠屋。
物焙ぶる
炉のほとり
頸垂れ
愁ひしづめば
漂浪の
暗き
山川そこはかと。――さあれ、
密かに
物ゆかし、わかき
匂のいづこにか濡れてすずろぐ。
女あるじは
柴折り
燻べ、
自在鍵低くすべらし、
鍋かけぬ。赤ら顔して
旅語る
商人ふたり。
傍より、
笑みて静かに
籠なる木の実
撰りつつ、
家の子は
卓にならべぬ。そのなかに
柑子の
匂。
ああ、
柑子、
黄金の
熱味嗅ぎつつも思ひぞいづる。
晩秋の空ゆく
黄雲、
畑のいろ、見る
眼のどかに
夕凪の沖に帆あぐる
蜜柑ぶね、暮れて入る
汽笛。
温かき南の島の
幼子が夢のかずかず。
また思ふ、
柑子の
店の
愛想よき
肥満たる
主婦、
あるはまた顔もかなしき
亭主の
流す
新内、
暮れゆけば
紅き
夜の
灯に
蒸し
薫ゆる物の
香のなか、
夕餉時、
街に入り
来る旅人がわかき歩みを。
さては、われ、岡の
木かげに
夢心地、
在りし静けさ
忍ばれぬ。
目籠擁へ、
黄金摘み、袖もちらほら
鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。――
ああ、耳に
鈴の
清しき、鳴りひびく
沈黙の
声音。
柴はまた
音して
爆ぜぬ、
燃えあがる
炎のわかさ。
ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ
薫のなかに、
箸とりて
笑らぐ赤ら
頬、
夕餉盛る
主婦、家の子、
皆、古き
喜劇のなかの
姿なり。涙ながるる。
三十九年五月
内陣
ほのかなる香炉のくゆり、
日のにほひ、燈明のかげ、――
文月のゆふべ、蒸し
薫る
三十三間堂の
奥
空色しづむ
内陣の闇ほのぐらき
静寂に、
千一体の
観世音かさなり立たす
香の
古び
いと
蕭やかに
後背のにぶき
列ぞ
白みたる。
いづちとも、いつとも知らに、
かすかなる素足のしめり。
そと軋むゆめのゆかいた
なよらかに、はた、うすらかに。
ほのめくは髪のなよびか、
衣の香か、えこそわかたね。
女子の片頬のしらみ
忍びかの息の香ぞする。
舞ごろも近づくなべに、
うつらかにあかる薄闇。
初恋の燃ゆるためいき、
帯の色、身内のほてり。
だらりの
姿おぼろかになまめき
薫ゆる
舞姫の
ほのかに
今したたずめば、
本尊仏のうすあかり
静かなること水のごと
沈みて匂ふ
香のそらに、
仰ぐともなき
目見のゆめ、やはらに涙さそふ
時。
甍より鴿か立ちけむ、
はたはたとゆくりなき音に。
ふとゆれぬ、長の振袖
かろき緋のひるがへりにぞ、
ほのかなる香炉のくゆり、
日のにほひ、燈明のかげ、――
もろもろの光はもつれ、
あな、しばし、闇にちらぼふ。
四十年七月
懶き島
明けぬれどものうし。
温き
土の香を
軟風ゆたにただ
懈く
揺り吹くなべに、
あかがねの
淫の夢ゆのろのろと
寝恍れて
醒むるさざめ
言、
起つもものうし。
眺むれどものうし、のぼる日のかげも、
大海原の空
燃えて、
今日も
緩ゆる
縦にのみ
湧くなる雲の火のはしら
重げに色もかはらねば見るもものうし。
行きぬれどものうし、波ののたくりも、
懈たき砂もわが
悩ものうければぞ、
信天翁もそろもそろの
吐息して
終日うたふ
挽歌きくもものうし。
寝そべれどものうし、
円に
屯して
正覚坊の
痴ごこち、日を
嗅ぎながら
女らとなすこともなきたはれごと、
かくて抱けど、
飽きぬれば吸ふもものうし。
貪れどものうし、
椰子の
実の酒も、
あか
裸なる身の
倦るさ、
酌めども、あほれ、
懶怠の心の
欲のものうげさ。
遠雷のとどろきも昼はものうし。
暮れぬれどものうし、甘き髪の香も、
益なし、あるは木を
擦りて火ともすわざも。
空腹の心は
暗きあなぐらに
蝮のうねりのにほひなし、入れどものうし。
ああ、なべてものうし、
夜はくらやみの
濁れる空に、
熟みつはり落つる実のごと
流星血を引き消ゆるなやましさ。
一人ならねど、とろにとろ、
寝れどものうし。
四十年十二月
灰色の壁
灰色の
暗き壁、見るはただ
恐ろしき
一面の壁の
色。
臘月の
十九日、
丑満の
夜の
館。
龕めく
唐銅の
櫃の
上、
燭青うまじろがずひとつ
照る。
時にわれ、
朦朧と
黒衣して
天鵝絨のもの
鈍き
床に立ち、
ひたと身は
鉄の
屑
磁石にか吸はれよる。
足はいま
釘つけに
痺れ、かの
黄泉の
扉はまのあたり
額を
圧す。
灰色の
暗き壁、見るはただ
恐ろしき
一面の壁の
色。
暗澹と
燐の火し
奈落へか
虚する。
表面ただ
古地図に似て
煤け、
縦横にかず知れず走る
罅
青やかに
火光吸ひ、じめじめと
陰湿の
汗うるみ
冷ゆる時、
鉄の
気はうしろより
さかしまに髪を
梳く。
はと
竦む
節々の
凍る
音。
生きたるは
黒漆の瞳のみ。
灰色の
暗き壁、見るはただ
恐ろしき
一面の壁の
色。
熟視む、いま、あるかなき
一点の血の
雫。
朱の
鈍み星のごと
潤味帯び
光る。聞く、この暗き壁ぶかに
くれなゐの
皷うつ
心の
臓
刻々にあきらかに
熱り
来れ。
血けぶり。
刹那ほと
かすかなる人の
息。
みるがまに
罅はみなつやつやと
金髪の
千筋なし、さと
乱る。
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき
一面の壁の色。
なほ
熟視む。……
髣髴と
浮びいづ、女の
頬
大理石のごと
腐れ、
仰向くや
鼻冷えてほの
笑ふちひさき歯
しらしらと
薄玻璃の
音を立つる。
眼をひらく。
絶望のくるしみに
手はかたく
十字拱み、
みだらなる
媚の色
きとばかり。
燭の火の青み
射し、
銀色の
夜の
絹衣ひるがへる。
灰色の
暗き壁、見るはただ
恐ろしき
一面の
壁の
色。
『彼。』とわが
憎悪心
むらむらとうちふるふ。
一斉に
冷血のわななきは
釘つけの身を
逆にゑぐり
刺す。
ぎくと手は
音刻み、
節ごとに
機械のごと
動く。いま
怪し、
おぼえあるくらがりに
落ちちれる
埴と
鏝。
つと取るや、ひとつ
当て、
左より
額をまづひしひしと
塗りつぶす。
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき
一面の壁の色。
朱のごとき
怨念は
燃え、われを
凍らしむ。
刹那、かの
驕りたる
眼鼻ども
胸かけて、
生ぬるき
埴の色
ひと息に
鏝の手に
葬られ
生きながら
苦しむか、ひくひくと
うち皺む壁の
罅、
今、暗き
他界より
凄きまで
面変り、人と世を
呪ふにか、すすりなき、うめきごゑ。
灰色の
暗き壁、見るはただ
恐ろしき
一面の壁の色。
悪業の
終りたる
時に、ふとわれの手は
物
握るかたちして
見出さる。
ながむれば
埴あらず、
鏝もなし。
ただ暗き壁の
面冷々と、
うは
湿り、
一点の血ぞ光る。
前の世の恋か、なほ
骨髄に沁みわたる
この
怨恨、この
呪咀、まざまざと
人ひとり
幻影に殺したる。
灰色の
暗き壁、見るはただ
恐ろしき
一面の壁の
色。
臘月の
十九日、
丑満の
夜の
館。
龕めく
唐銅の
櫃の
上
燭青うまじろがずひとつ照る。
時になほ、
朦朧と
黒衣して
天鵝絨のものにぶき
床に立ち、
わなわなと壁
熟視め、
ひとり、また
戦慄す。
掌ひらけば
汗はあな
生なまと
さながらに
人間の血のにほひ。
三十九年十二月
失くしつる
失くしつる。
さはあるべくもおもはれね。
またある日には、
探しなば、なほあるごともおもはるる。
色青き
真珠のたまよ。
四十一年七月
[#改ページ]
装幀………………………………………………………………石井柏亭
「エツキスリプリス」及「幼児磔殺」………………………石井柏亭
挿画『澆季』……………………………………………………石井柏亭
挿画『真昼』……………………………………………………山本 鼎
私信『四十一年七月廿一日便』………………………………太田正雄
挿画『硝子吹く家』………………………………………………石井柏亭
扉絵及欄画十葉………………………………………………石井柏亭
彫版………………………………………………………………山本 鼎