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黒檜の沈静なる、花塵をさまりて或は識るを得べきか。
薄明二年有半、我がこの境涯に住して、僅かにこの風懐を遣る。もとより病苦と闘つて敢て之に克たむとするにもあらず、幽暗を恃みて亦之を世に愬へむとにもあらず、ただ煙霞余情の裡、平生の和敬ひとへに我と我が好める道に終始したるのみ。
「黒檜」一巻、秘して寧ろ密かに我といつくしむべく、梓に上して些か我が真実の謬られむことをおそる。他に言ふところなし。
庚辰孟夏
白秋
[#改丁]
照る月の
冷さだかなるあかり戸に眼は
凝らしつつ
盲ひてゆくなり
月読は光澄みつつ
外に
坐せりかく思ふ我や水の
如かる
鶏の声けぶかき闇にたちにしがよく聴けば市の病院にして
お茶の水電車ひびくに朝早やも爽涼の空気感じゐるなり
杏雲堂側面
未明は暗き
あけて
混み合ひの屋根に霜の置く見つ
暁の
にニコライ堂の
円頂閣が見え看護婦は白し尿の瓶持てり
屋上の胸壁にして朝あがる一つの気球みつめつ我は
菊の鉢は我が家の子久吉爺の丹精になるものなり
逆光の玉の白菊
仰臥に見つつはなげけやがて見ざらむ
我が
眼先しろきに
蘊む菊の香の硝子戸あけて乱れたるらし
視力とぼし
掌にさやりつつ白菊のおとろふる花の弁熱ばみぬ
影にのみ
匂やかなる
ぎはのその花むらも暮れて
来りぬ
冬曇り明大の塔にこごりゐて一つ
黝きは赤き旗ならむ
雲厚く冬は日ざしかとどこほる聖堂の
黝き樹立うごかず
失明を予断せられ、I眼科医院を出づ
犬の
佇ち
冬日黄に照る街角の
何ぞはげしく我が眼には沁む
病院街冬の薄日に行く影の
盲目づれらし曲りて消えぬ
昭和十一年盛夏、多磨第一回全国大会の節に拝しまつりし唐招提寺は鑑真和上の像を思ふこと切なり
目の
盲ひて幽かに
坐しし
仏像に日なか風ありて
触りつつありき
盲ひはててなほし
柔らとます
目見に
聖なにをか宿したまひし
唐寺の日なかの照りに
物思はず
勢ひし夏は眼も
清みにけり
童女像
朱の
輝り
霧らひ今朝見れば手に持つ葡萄その房見えず
焔だち林檎一つぞ燃えにける
上皿一キロ自動計量器
両の眼を白く蔽へる兵ひとり見やる方だにおもほえなくに
ニコライ堂
円頂閣青さび雲低しこの重圧は夜にか持ち越す
ニコライ堂この
夜揺りかへり鳴る鐘の大きあり小さきあり小さきあり大きあり
暖房は
後冷きびし夜にさへや眼帯白くあてて寝むとす
鳥籠に黒き
蔽布をかけしめて
灯は消しにけり今は寝ななむ
花かともおどろきて見しよく見ればしろき八つ手のかへし
陽にして
我が宿よ冬日ぬくとき
端居には隣もよろし松の音して
今朝見えて置く霜さへや我が眼には
谷地田も畦も隈
黝みあり
冬、ぴしりと氷ひびく石くれは
子か打ちつけし沈みて止みぬ
瞼しめしつくづくとゐる
冬日中畳の目など見むはすべなし
眼を病めば
起居をぐらし
冬合歓の日ざしあたれる
片枝のみ見ゆ
折ふしに冬木見えくる
眼先もたちまち暗し
虚しかりけり
こがらしの背戸に音やむ小夜ふけて温罨法の
息吹眼に
当つ
(吸入器にて)
文鳥の影移りする鳥籠は日なたの軒にかけてこそ置け
蘭の香や冬は日向に
面寄せてただにひとつの
命養ふ
木俣修より贈り来る
冬
冷き皿の上には山鳥の
瞼しろし閉ぢしまなぶた
高空に富士はま白き冬いよよ我が
眼力敢なかりけり
眼を洗ふ冬光無し
雑木々のいつひらきなむ
柔き若葉ぞ
眼にたのむ何ひとつなき芝庭の冬なりながら薄日照りたる
冬ひと日堪へてありしか池水の
冰れる
面に風の吹き当つ
冬
三月ただにましろく引くものに方丈の屏風
襞冷えにけり
白きものまた白からじ立つ
襞の六曲の屏風影もこそもて
我がみ冬しろき屏風に引きかけてラヂオの線の影も
凍てゐる
白磁の八角の壺の
稜線引きてほの
上光るみ冬なるなり
眼は
閉ぢて
毛にさやる眼帯の
冷きはみけり月夜かも沁む
影さへや
蕾は
硬き冬の薔薇ただ三葉四葉の
灯映りにして
聴耳に
胡桃食みゐる影我は
坐る
太尾の栗鼠にかも似る
何しらに灰
掻きならす夜のなぐさまぶれあやしく
蝿かはばたく
手を当ててまたほてるなき鉄瓶の胴はじきつつすべな
夜寒は
春立ちて月の幾夜ぞ
雑木々の風
騒ぐ枝に我が眼閃く
冬
雑木こずゑほそきに照りいでて鏡の如く月
坐せりとふ
父われに冴ゆる月夜を戸は
鎖して
書よみにけり
女童この子
万巻の
書をい照らす
灯うつりに鼠は啼くかさむき鼠は
夜の鼠小耳かき立て声も無しうしろけはひをうかがふらしき
古書の
帙のぼる鼠の尾は引きて夜の
咳に乱れたりけり
物の
文繁にし
思へばかいさぐる我が
指頭に眼はのるごとし
春蘭の
冷やき
葉叢の香の
蘊み
点滴の音は鉢の
外にあり
春蘭のかをる
葉叢に
指入れ
象ある花にひた触れむとす
眼さきに
眼さきに片手さし寄せしぱしぱと見入るならひもおのづとなりぬ
能のなげきを
片手のみ眼にさしかざし声は無し泣くなる姿こころには観よ
春
夜寒白の小屏風
超ゆとして
面出す鼠声落ちにけり
風すごし
愛しふたつのあなうらに赤外線の
燈は当てて寝む
雪降りてしづけかりとふ朝庭に春の時雨か音わたり
来る
我が
内障眼すべないたはり日も暗し春早き
外に
土旋風巻く
春塵のいづ方となき日のまぎれ
渡鳥のこゑを聴くと切なり
水ぐるま春めく聴けば
一方にのる瀬の音もかがやくごとし
何知れず
眩き雲やはげしくぞ眼をしばたたき我はありける
朝の
餉の
堆朱の膳に散らひ
来る粉雪は松の揺りにたるらし
女童は雛祭るとぞ言問ひて
朱の
氈など部屋に取りに
来
女の子ろに
傾ぐ思は積む雪の枝しづりつつ春待ちがてぬ
楢山に菫咲くとふその色のどれが菫ぞ見つつわかぬに
乾反葉にまじる
菫をおぼつかな陽炎をのみ見つつあやなし
まさに鳴く音はヒーカタカタなり
日方とよ
鶲啼くなり
玉蘭のまだ蕾なる枝の揺れ見よ
玉蘭は空すがすがし光
発す
一朝にしてひらき満ちたる
木高きは
現あらぬか
玉蘭の花
多にしてむしろ
幽けき
春昼はあやかしふかし
玉蘭の下照る篁子影二人
笑む
観るほどは
敢なかるらし日を経りて物のあいろの暗くなりゆく
日の光月のごときに
玉蘭の花さゆれつつあるが
清しさ
我が眼には月の色なる日の照りを雀
歩けり庭片寄りに
玉蘭は花うやうやし
散るとして散りつつ冴えぬその
下枝に
玉蘭は
木末より散りやすけらし
下枝の花ぞ日に照らひつつ
土に帰る時なりけらし
玉蘭のいや澄みまさる散りがたの花
花落ちてただち萌ゆるか
玉蘭の
立枝の芽ぶき雷に
勢ふ
春ふかむ
隣家のしろき花
一樹透影ゆゑにいよよおもほゆ
春田中ねもごろ人のいふ聴けばげんげは遅し菫いま咲く
承塵には池の
水照の影ゆらぎまだ春早し鼠のをどり
註、水陽炎の影を壁鼠と云ふ
壺にして影ぞおぼめけ盛る色の
薔薇とを見れば
薔薇とし見ゆ
籠鳥の揺りつつ遊ぶさま聴けば夕とのぐもり久しかるらし
春の陽に輝き
笑まふ
女の
童瞼の
外に置きて思へや
女童を今朝
出だしやり
午まけて早や待ちがたし山辺かすむに
(受験の日)
春日すら霞をぐらき雑木山
木の芽もただにたちて匂ふを
雲といへば光
恋しき玻璃の戸にあまりてしろく春は
闌けつつ
かねて懇望したりしかば、遂に越後長岡の知人よりやうやく届け来る。喜びかぎりなし。この鞠、見るからに円く稚く、赤と青とにてかがりたるが、手垢黒くついていとめでたし。小函に入れ、その函の蓋には良寛遺愛の鞠、裏には第十七代の孫新木吟雨とあり。吟雨六十二翁は与板の人、蓋し良寛の父以南の実家新木氏の子孫なる由。乃ちその鞠の歌
その一
我が
籠り楽しくもあるか春日さす君が手鞠をかたへ置きつつ
春ひねもす鞠のこもりの音聴くと
幽かよ吾れの
手触り飽かなく
霞立つ永き春日を子どもらと手鞠つきつつこの日暮らしつ 良寛
乙宮の春はひねもす子どもらと
手触り遊びし君が鞠これ
何の香かこむる春野ぞ手もすまにつきて遊びし君が鞠これ
鉢の子と鞠といづれぞ陽にあてて鞠はすみれの花の
香のする
春日さす鞠はかなしもうつしとる感光板にうつら影引く
その二
ぬくとさは
縁の
端居の
春日向われも
袂の鞠とり
出す
手に
撫でてつくづくと居れこの鞠のかがりの
綾は透かせど見えず
女
童がふふむ
笑ひはこの鞠のかがりの手垢
愛しがりつつ
手垢つく君が
手鞠のあや糸は赤しとを見えず青しともまた
春日向ぬくむ手鞠は
掌にのせて綾は見えずもほの光りさす
聞くほどは
人香こもらへこれの鞠
手触りすべなもなにかゆがみて
陽に
明る
瞼さし寄せ嗅ぐ鞠の影
黝きかもやかゆきこの鞠
つきて見よ一二三四五六七八九の十、とをとをさめてまたはじまるを 良寛
つきて見む
一二三四五六七八九の
十手もて数へてこれの手鞠を
霞立つかかる春日に子らとゐてつかしし鞠ぞいま手にはずむ
おぼつかな鞠のありどの手を
逸れて音なかりけり霞むこの昼
技びとや
技に遊ぶといにしへは
一生の命かけて
愛惜みき
めでたかる世々の
匠は言挙げずただ
恍れゐつその楽しみに
言さやぐけだし寒けし匂ふらく幽けききはぞ道に
哭かしむ
新万葉審査所懐、四首
和み魂楽しみ思へば苦しくもただに言はまく
言すらも無し
我敢て道に言はずも読み読みて
盲ひしふたつの
眼かくあり
道により敢て楽しと言はまくは楽しびあまり声泣かむかに
読み読みき選び選びきひたむきを眼は楽しみき
喰ひ入るまでに
唐招提寺金堂追想
観音の千手の
中に筆もたすみ手一つありき涙す我は
観世音像千手の指のことごとに
眼坐しにき
清みかがやかに
紫磨金の匂おだしき
御座にして文珠の
笑はてなかるらし
本尊の石仏は悲願によつて日本海に正面したまひ、洞窟はその朝※[#「口+敦」、U+564B、32-7]の光により微妙に荘厳せられたり
東の海さしわたる朝日影石仏は
坐しぬこよなき
目見に
再び唐招提寺の和上を憶ふ。芭蕉に句あり 若葉しておん眼の雫拭はばや
み
眼は
閉ぢておはししかなや
面もちのなにか湛へて匂へる
笑を
春邦画伯を訪ふ
輝るばかりたわわに匂ふ雪柳君が門辺は寒からなくに
咲きしだり匂
清みゐる雪柳ただ白してふものにあらなくに
春ゆふべ眼に白らけゆく
燠の色のもの
柔きかなや火桶かい
撫づ
そことなき春の蚊にすら聴くものは
愛しかりけり若葉たをやぐ
水楢の若葉ほたほたと雨
重り何ぞここだく雫
線引く
萱の根に鼠あらはれ小走りを
此方見しとふ我も
其方見る
糸檜葉にしろくこもらふ
春曇のこのかがやきは底しれぬなり
隣にて鳴く雛聴けば群れはしり眼は
開かぬもや若葉山吹
現身は春も
背の
経絡に火をつづらせて
愛しがるなり
註、経絡は灸の筋
朝間干す白き
衾の日に照るは夜ににほふよりせつなかりけり
山吹の黄に咲きしだる色かとも見つつは
籠れ若葉とも見ゆ
日おもての庭の
此面の白つつじ
蕋長なれや春
酣に
草ごめや
蛙のこゑの、夜に聴けば
くくくとふくむ。おもしろよ
盲目の蛙、
かいろ、
くく、暗しとを啼く。
盲ひぬ
盲ひぬ、
くくく。惜しや惜しや、
くくく。すべな右すでに盲ひぬと、左の眼早やあやしとぞ。春の田のげんげの小田の、水のるや鋤きかへし田を、その蛙、
ころろ、
かいろ、
くくく、草ごもり暗しとぞ跳ぶ。をかしとよ、早や見えずとよ、
後脚はねてまた水くぐる。
反歌
春の田の草間の
蛙眼をあけて啼くなるのみと子らは思はむ
丘の翼家にて
眼は見えて啼くがままなる
蛙らに
春雨づつみ風そよぎつつ
声あがる田居の蛙を
上居りて眼はふたぎゐる親蛙われは
春の田の
柔ら浅茅生
風向を色走りつつ子らが追ひがてぬ
女童を
手触りなげかひげんげ田の春の日向は行き飽かぬかも
1 庭にて
春の日の
朱鷺色牡丹
女童が跳ぶ足音に揺れつつ照りぬ
ほのあかき
朱鷺の白羽の香の
蘊み牡丹ぞと思ふ花は
闌けつつ
2 病室にて
豊けきは葉ぐみととのふ
牡丹のひと花
紅き
穏しさにして
香ひたつ
朱鷺いろ牡丹籠にあふれ時計と置くにひと花しづか
蕋つつむ幾重花びら
内紅き朝の牡丹は
食ままく
柔ら
禿髪垂る黒きかほばせあどなくてあてなる
際は
物思はずらし
匂満ちて
全けき牡丹
二日まり我と在りしがくづれてちりぬ
3 居間の縁にて
蕾添ふ黒き牡丹は一鉢の花重きから縁にさし置く
女童や
穏し牡丹の靄だちを
禿髪かき垂り父にゐずまふ
牡丹の弁なごしくつつむ靄すらや我が
眼先には揺れてくるしき
靄ごもり
層む若葉の
緑金はただ
一方を陽の照らふらし
うち
層む若葉くらきに子が遊ぶ鏡の反射そこらひらめく
影
黝む
照やすからず夏山のこの
靄立を我が眼おとろふ
よく
点きて
当りかなしく柔らかき
艾は妻が揉むべかるらし
火のうつり
繁にし沁むる
艾には蓬の
汁を
先濡らしてむ
背は向けて
灸こらふる若葉どき妻が
手触の
繁に
来るかも
若葉照りいぶる
艾は押しすゑて熱き三里がよくきくよくきく
谷地の靄こむるかぎりは日の射して色おぎろなし若葉かも蒸す
靄ごめと香に蒸す緑くるしくて蛙は鳴くか声盛りあがる
おぼほしく若葉
黝ずむこの眺め
梅雨のま待たず我が眼
盲ひむか
若葉靄けふただならず爆弾機関銃弾漢口の空に火を噴くとふはや
激しく火を噴き墜つるたまゆらの機上
幾干を
眼見すゑし
朝早やもたぎる風呂釜の湯を
浴ぶとひたかぶる時し我
適きにけり
朝鳥の声乱れ来る夏山は
ひきあけてただちすずしさ
山蝉の
翅かがやかす声聴けば
合歓の若葉か
最もをさなき
陽にまがふ何かしらけし眺めには若葉もわかずえごの
鈴花
花しろきえごの
木のまを日ごもりと
手斧は音に楽しむごとし
女童は父が人づゑ蔓薔薇の白きは見つつ寄りて言ふかも
女童や
香ふ人づゑ肩触りてはずむ
温みの
艶ひ母めく
女童は
愛し人づゑ行かしめて行きつつ父の
笑あかるを
§
眼に触りてしろく匂ふは夏薔薇の揺りやはらかき空気なるらし
夏の鳥朝のラヂオに啼き乱りその山と思ふ滝津瀬鳴りぬ
夕待たず我が眼くらきに聴きほくる早慶戦もラヂオに止みぬ
犬の声ラヂオの中に群れ起り
外に吠え
継ぎて月の夜ふけぬ
睡蓮の花
泛けりとふ池の
面は日の照りつけて観る色も無し
な悲しみ
霧りてをぐらき我が眼にももろもろの
頭は
光りて見ゆるに
弟の撮し来し水郷柳河と北支大同の映画を観る。天然色のそれらもありき
眼のうらに光る
汲水場を
蛇の
奔る影さへすばやかりしか
石仏は
正面向きおはし
須臾に見る空
現しけく
涯なかりにし
ひと度は相見まつりき
縁なり日光菩薩加護あらせたまへ
物のはし黄金にあかる夕すらもただにし塵の舞ふと思へや
夏菊のしろき
籬の角にして日のいちじるき光に遇ひぬ
庭を観つつ
梅雨の庭おぼおぼしきに
鉄線蓮の花見えてゐてまた降りこめぬ
ふりこむる
梅雨は
霖雨の日ぐらしを硯に向ひ書くこともなし
ふる雨にベンチ濡れゐるそれのみの影なりながら眼には頼みき
谷地の水
上と
下とに瀬鳴りて
気ごもり重しここの
梅雨時
日癖雨
梅雨はけ長しふきぶりとふりこむるきはぞむしろすがしき
木深くも
繁に
異なる物の雨
瞼へだててひびくを聴けば
隣の松
梅雨ぐもり
気重き松や靄ごめと隣は
邃き色のこめつつ
隣の松、舞台の松に似たれば、お能の松と我が呼びならはしぬ
靄ごめや
三階松の塗笠の笠揺り畳ね今は
梅雨時
森にひびき鳴ける
蛙を梅雨早やも
茅蜩の声のきざむかと聴く
雨がへる
日中啼き
継ぎ声
速し
矢筈檀の根にひびかひぬ
我がほかは日の
白光にこだましてラヂオ体操の響くあるのみ
暑の霞はてなきごとし
熬りつつやにいにい蝉の声沁むるかに
父八十三翁、四年前、手術の甲斐ありて幸に明を得たまひたれどこの頃再びよろしからず、我が視界も亦渾沌たり
ま
白髯長かる父の目は
盲ひて
端然と
坐すに月押し照りき
父の
老内障眼はかなくなりましてひたすらと
執らす母の手なりき
立秋を白き
木槿の花咲きて見る眼すがしく
開きましし父や
閉ぢしみ眼ひらくただちを咲き
笑まふ少女が
面輪こよなかりしと
老のみ眼とかく曇らへ年なれば早や
諦めておはすかよ父よ
そのごとも
盲ふる子が眼を乞ひ
祷むと
手触りなげかす父は子が眼を
盲ふる眼の
梅雨の
霖雨を日ぐらしと子は父を思ふ父は子を
蓋し
父と子や
霖雨けなるき
起臥を
盲ひつつ
坐すに
盲ひにつつあり
土もぐるメンコン
蛙眼ばかりを上のぞかせて吼ゆとふかなや
ラヂオにはメンコン
蛙くくみ啼き鳴る瀬のうつつ蛍が飛ぶも
茅蜩のこの日啼きそめ
山方やまだ
夕淡き
合歓のふさ花
雨けむる合歓の
条花夕淡きこの見おろしも今は暮れなむ
小綬鶏の雛うち連れて過ぎりしはまだ朝かげの山寄りにして
小綬鶏の雛を
守りつつ降り行ける
谷地をぞ思ふその夏霞
我が庭は
莠にまじる
桔梗の紫しらけ朝から暑し
朝顔は白く
柔らにひらきゐて
葉映あをし蔓も濡れつつ
何なるや白くすずしくひらき来て朝顔の花といま匂ふもの
眼かも蔓にはあらし
一方と伸び向ふなり朝顔
絡む
ある日のラヂオ
苔清水ひびきつたふる
幽かなる金閣寺の庭を
我家にぞ聴く
金閣は細みちよろろぐ水の
音のただもはらなる夏の日にして
火のごとや夏は
木高く咲きのぼるのうぜんかづらありと思はむ
夏山は我が知る方の夕霧に
緋秧鶏飛びて風もつらしき
谷地の東宝撮影所、日々に戦火起る
閑けきを人は戦ふ夏
闌けて模擬地雷火を爆発せしむ
葉ごもりと
合歓のうれの秋霧に尾長は
居らしその飛ぶ一羽
風の
先つぎつぎと飛ぶ雛見れば尾長や秋を
気色だちたる
眼力けだし
敢なし夕顔の色見さだめむ
睫毛触りたり
夕顔は
端居の膳に見さだめて月より白し満ちひらきつつ
篁子の傍らにて
端渓の硯に向ふ
女の
童髪黒う垂れて
面照りにけり
また磨らな硯にうつる空のいろの消えつつしあるに墨の乾くに
よく磨らむ
愛し
女童七夕は磨る墨のいろの
金に
顕つまで
端渓の硯の
魚眼すがしくて立秋はいま水のごとあり
澄みつつし
沁むる暑さか西日さししづけき幹に蔦ひかり見ゆ
いよいよに濃く黒き眼鏡をかけて
うち沈む黒き
微塵の照りにして
暑は果しなし
金の
向日葵
日中レコードのみをかく
何聴かむこの日のうちぞ
指触りあてゆく針の
鋭くも短かき
深大寺水
多ならし我が聴くに早や涼しかる滝の音ひびく
むくろじの実のまだあをき庫裏の前もの申すこゑの我はありつつ
深大寺の池、水澄みたらし下照りて
紫金の鯉の影行く見れば
御厨子には
倚像の仏
坐しまして秋さなかなり響くせせらぎ
はてしらぬ仏の
笑まひ
面あかる
灯映りにしてみ
掌の欠けたる
ここの山我が聴く
方ゆ
日照雨して
庫裏戸に濡るる秋海棠の花
雲とありて月の光の流らふる
屋の空ならし
坐りて飽かず
子等がいふ欠くることなき望月も父我の眼には
二日三日の月
風に見ゆる月の光を涼しくはにじり
出て仰げ暗きかも木々
薄雲にひらめく月の光かも風にかもあれや我が眼
過ぎぬる
月い照るかかるか
黝く
厳しき地表の
皴を我が
思はなくに
山河に
輝れる
今宵の望月の
円けき
思へば我
盲ひにけり
女童の読みとどこほり声無きは
灯に見てかあらむ瞳
凝らすと
渡り鳥飛ぶとふ空も雨雲のいや降りつぎて暗きかもただ
安寿恋しやほうやれほ、厨子王恋しやほうやれほ
佐渡ヶ島
雑太の庄に目は盲ひて干すさ莚の粟の粒はや
啄む粟の
薄日あはれとほうやれと追ふ鳥すらや眼には見なくに
短日は
盲ふる
眼先に
朱の
寂びし童女像ありて暮れてゆきにけり
夜の池にうごきて
繊き
月形はかがやく
箆のゑぐれる如し
夜のふけの冬の池水か黒くて深沈たるに月映りけり
田鼠ら硝子戸のぼりあわただし
谷地の月夜も
凍みて
明きか
物
欲ると鼠つい居る
燈かげには霜こごる
夜の微動がありぬ
夜々
出づる鼠ひとつにこだはるは何ぞとも
思へその尾引くなり
書画箋や鼠
被ぶる
間をおきて聴くに
穏止みまた引き裂きぬ
護摩壇に鼠むらがる夜半にして頼豪阿闍梨狂ひたまひき
ラヂオには赤き
翼といふ曲の楽すすむなり
夜ただ寒きに
篁子一銭新貨といふものを持てくる
冬夜さりひとつ光れる手に載せて吹きて見よちふ吹けば飛ぶ
貨
鼠よあはれ
鼠子は
後も見ざらしするすると柱に消えて
夜寒なるなり
吉植庄亮君より送り来たる、二首
眼にさぐる
雑魚の
熬り
煮は箸つけて暗きかもやあはれ
霜夜燈火
冬ざれの
印旛郡ゆ
熬りて
来し小蝦のひげが
繁こごりけり
藪雑木谷地の日かげのしづけきは一朝にしもみ冬寂びたる
小綬鶏の群れつつ
黙む雑木原冬は日すぢの目に立たずして
冬ひと日なにかきこえてある山のまだしづかにて
明らなりける
瀬の音のひと日ひびかふ冬まけて鉄瓶の湯気我も立たしむ
冬むかふ
谷地田の日かげ瀬の
音して照る山方ぞす枯れはてたる
陽にあてて
瞼温もるほどほどは聴かゆる
方の音きこえつつ
積むのみぞ冬の
書塵のもろもろは我が読まずなりてすでにしづけき
玉蘭の落葉掻き
集め焚く風呂のねもごろ
柔き湯気に立つめり
我が山は落葉
繁なり風呂立てて
二十日まり焚きていまだ散り敷く
大霜の田川ひびかふのみなるを我が聴きに出て朝は居りける
霜
下りて近くなりたる冬山を
の声は
繁くもぞ
来る
眼を
開き歩む林の小綬鶏は霜踏み越えて
清しかるべし
讃岐金刀比羅宮の襖絵を思ひ出でて
虎の
貌啖ひ飽きたるさましてぞ愚かなりしかその眼とろめつ
猛々し群虎の月に
嘯くを
呆けたるがひとり
澗水なめぬ
書読みて楽しかりにし
昨思へば
燠掻きほぜり冬よるべなし
楽しみと
書は読みしか味気なしゆとりとてあらず読むを聴きつつ
書読みてひたり味ふしづけさを声ありやとも聴きぬ霜夜は
読みさしてゆとりあるまのうら
和ぎや
自が楽しみと
書は読みける
聴きてゐつ心に読むと沁む文字の声ことごとく
象ありにし
いたりける妻なるならしねもごろとかたへ寄りつつこの夜読みつぐ
我が
二人いたりつくらし何くれと
言には出でね依り合ふ思へば
聴くとして
書読ませゆく気づまりも妻には
思はず心
隔かずも
家妻は心おきなし読む
書の声ねむたげに落ちゆく聴けば
口授しつつうしろ寒けき
短日を
懸巣は飛びてするどかりしか
その母の父とこもるにいつか来て子らはあるなり居るともなしに
面火照り
炉に寄る子らが影見ればあかあかとけぶり煮立つものあり
ありやうは春の
朝の
飲食も色に見ずてはつひに寒けき
山にして
幽けかりしか
蔀戸に冬はここだくの
小さきめの絵馬
めの絵馬は
掌を合せゐる幼児に一刷毛の空を青く流しき
眺めとて何の色なき冬山の雑木端山も見ずばさぶしき
冬山は雑木のかげり
夕早し
灯を
点けよとぞ
諸に
点けしむ
明き
燈に人ははばかる我が影を鼠
牙研ぎ噛む音立てぬ
明笛の
竹紙すらだに舌ねぶる鼠なりきや
啖ひやぶりける
眼を開くをさな夜床の
灯かげには鼠の法師大きかりにし
鉢の蘭くらひゐにしか
夜の
凍みを障子ゆるがし鼠去りぬ
貂ならむ我が冷えわぶる
後夜にして鼠ひた追ふ音駈けめぐる
壁うらに食はるる鼠声啼けり飽くなき
貂もはたや寒かる
冬夜さり鼠の
業も果てけらし
貂の
眼も
食に和むか
松風やさわたるらしき
灯を消してその松の姿いまは見えつつ
池水に
黝き八つ手の葉はひたりなまじひに月夜見えてあるなり
うちみはり
眼うつろに居る我を月昼のごと照りて
闌くるか
東宝撮影所
トーキーは夜の
寒にして騎馬隊の蹄の音も
撮るにかあらむ
めらめらと火の燃えつきし幻覚も障子に消えて雪曇りなり
雪空の暗く閉ぢたる降り出でてことごとが白く楽しく舞ひぬ
我が堪へて
瞼たぎる日暮れ方雪はけはひに降り乱れつつ
一つ来て
瞼に煮ゆる
雪片の須臾とどまらず水と
滴りにけり
睫毛より涙したたる両眼を映画にて見にきその大写し
枯山に雪しらしらと降れりとふ枯山にすらも人目遊ぶを
降る雪に
灯向けしめその雪のほたほたと出でて飛ぶに
胆冷ゆ
庭に観て眼もひらく今朝のよろこびは雪つもる木々の立体感なり
冬わたる
紅腹鷽は雪ぶりの
後晴にして声にこそ来め
新春と今朝たてまつる
豊御酒のとよとよとありてまたたのたのと
父母に
寿詞まうさく
歳の
旦仰ぎまみえむ視力早や無し
ゑずまひに
眼先貴なる
杯やとよりと屠蘇の
注がれたるかに
汝兄今は屠蘇も召さぬかあはれよと母嘆かすやしづけき我を
弟どもが酒に吼ゆるを
寿詞とも元日は聴け日もかたむきぬ
人より贈られて
妻を呼ぶ
小さき木魚は
掌に据ゑてうつによろしも
足音ちかづく
呼ぶとしてたたく木魚も見えぬ
外に手元
逸れつつ畳をうちぬ
§
明笛はひやるろほろろと吹きいでてすべしらぬかなや指を
遣るすべ
指触り冬は頼めし明笛の
竹紙のつよき張りぞひびらぐ
春早やも蛙鳴きそめ幾夜さか真闇つづきて月ほそく
出ぬ
へうへらと
蟇は土より
音哭きして春なりけりや月夜はつかに
世は献金の盛りなるに
ほそき
金何ぞ秘むやと夜を覚めて妻に訊きゐつをさな蟇の音
夜哭きする食用蛙風にゐて
春寒なれや
咽喉つづかず
或る絵をもらひて
夜は暗し皿なる鰯
冰れるが片照る青き脊すぢそろへぬ
冴えかへる
蘭の香に寒波押し
来る夜の闇や春
酣といふに
間はあり
春蘭の根に置く卵
殻なるを鼠は出でて触れゐるらしき
春蘭の鉢跳びおりる夜の鼠そのひと跳びの尾は冴えかへる
春夜寒
鼠
出てもこりと居るは畳目のけばをかひろふ
夜寒灯あかり
承塵に
水月のかげのぼるとき鼠は居りき
面を
出だして
註、承塵は長押
電燈のコード咬み切るふてぶてし鼠
彼奴は感ぜぬらしき
温ときは鼠らしきが小走りに体あたりして早や消えしなり
冷えまさる闇に目を
瞑ぢ我が居ればおのれ鼠の親なるごとし
闇にゐる鼠思へば立つ鬚に眼のするどかる啼く音引くなり
春惜む
春惜む我が方丈の闇にしてさうさうと群るる鼠
暫あり
薄眼にぞ走る鼠の影追ひて何すとならし春も暮るるに
梁や春来てかじる野鼠のおもしろと聴けばなほと居るなり
風狂
歳時記をかじる鼠はげんげ田の
畔をかも
来らすその日がへりを
花さぐる鼠
和上は身ぐるみに濡れてかまさめ春雨な降り
朧
春朧ろかがむ鼠のをさなきは
両肢持ちそへ物ふふみ
食む
朧月の匂ふ
面を行く刻み定刻九時四十分の時報今
点つ
花塵
牡丹しろく香を吐く夜々は
陰のみを鼠跳梁し早や在らずあはれ
花塵をさまりて
幽けく暑くなるものか
梁を走る鼠すら無し
百千鳥聴くによろしき春山も眺むるにしかずこれの霞を
聴くになほ匂ふ霞か春山のわたりの野鳥羽ぶりしじなり
そこらくは萌ゆる
端山の
藪雑木春の鳴る瀬のかがよひにけり
盲ひむより見る眼まされり楽しみとただに聴けとふ何のなぐさめ
色に見ずもただに聴けとふ明らなる両眼にして人言ひにけり
聴くものに春はのどけき
鑿かんな昼の鼠のそことなきこゑ
鶯に
蛙鳴きつぐ庭ありて我が
春日は
果なきごとし
盲ひてなほ
浄慧の人は明らけし
面もちしろく春を
寂びてぞ
聊斎志異の瞳人を思ひあはせて
のんのんと瞳の中に言ふ聴けば
春昼にして花か咲きたる
夜にまさる黒き眼鏡の視野にして桜の花はひらきそめにし
靖国神社を偲びて、一首
映画には桜浮び
出揺れゐしが影日向ありて真昼なりにし
塑像を置く縁にて
風はまだ
繁しらけ立つ
春塵に
眼洗はむ
朝とてなし
立ちにけり
空にさまよふあるかなき春の蚊すらも眼は持つらしき
我が塑像ふくらみ黒き
瞼に
夕柔らなる
春陽かぎろふ
短歌新聞百号の祝に
百と積むけだし稀なり
香の果の影さへや然り歌に敢て積む
人ならば百に
垂ん翁にて言ひてめでたし新聞を君は
夜行くはむしろ安けしひと色と見つつ馴れにし闇の眼にして
真闇にはまぎらふ光あらなくに
瞼慧しにほひのみして
闇いとど
春夜は
愛しこの道のにほふかぎりを聞きて行くがね
ガソリン・コールター・
材香・沈丁と感じ来て春
繁しもよ
暗夜行くなり
春の夜と時計うごけるアトリエは
表の
闇も
光さすごとし
土移る桜の花にありけらし夜風うごきて将たしづまりぬ
春しぐれ夜を行く人の間隔はけだしけはひに濡れて知りつつ
闇ながら
戦盲い
寝る
家の棟は蛙鳴く田をのぼりきりて見ゆ
夜目にして黒きはふかき藤浪のしだれたりけり
隣家なるらし
物の
和沈むを聴けば草堀の春
闌けにつつ
雨夜ひさしき
燈や消えし眼のあきらけきあはれとぞ沈痛に人の言ひて笑ひき
若葉しておん眼の雫ぬぐはばや 芭蕉
水楢の
柔き
嫩葉はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ
一
豊けくや匂ふ藤浪房垂れてひと鉢の空をその色とせり
莟みける短かかりしか臈たけて房ことごとに長き藤浪
糸づくり光る
魚はすずしくて早や夏近し鉢の藤浪
触りよきは
空にしだるる藤浪の
下重りつつとどめたる房
牡丹の
四方の
明りはしづけくて色無きがごとしこもる蚊のこゑ
白牡丹光
発ちつつ
和久し自界荘厳の
際にあらむか
陰にして紫紺の
香ひすさまじき藤浪にあれや
夜の
灯闌けたる
藤浪は
重りしだるる夜のしじま世界動乱の
気先観むとす
二
隆太郎富山高校に入りてより早や四十日にもなりぬ
鉢の藤かかへ危ふきその母と畳にぞ
下ろす房ゆらゆらに
ひと鉢を藤は
老木の片寄りに房しだれたり
空しき椅子に
藤といへば早やも夏場所
夕こめて
鉄傘の
揺ぎラヂオとよもす
我が眼には
黝きのみなる藤浪の散りかつ散りぬけ長き房を
鉢うづむ藤の
散花干からびて手に触るるほどは音に立つめり
花ひとつ
片枝に
留むる
玉蘭の我が視野にして煙霞はてなし
裏端山匂ふ霞のおほよそは聴きつつ居らむ聴くに
幽けき
春山はえごの
のとわたりを
闌けつつかあらしきよろろ鶯
閑けさは
[#「閑けさは」は底本では「閉けさは」]春の蚊をすら羽ぶき澄む浅間の鷹のごとも聴き居つ
春すでに
闌けてほけゆく
紫雲英田は我が木戸過ぎて打越橋まで
下空に沈みかがやく花見えて我が夕闇は迫れるごとし
表には月夜あかるき我が山を春のしぐれか背戸わたりゆく
黒き
檜の沈静にして
現しけき、花をさまりて
後にこそ観め
か
黝葉にしづみて匂ふ夏霞若かる我は見つつ観ざりき
我が眼はや今はたとへば
食甚に秒はつかなる月のごときか
視ると聴くとそのいづれとふいよをかし視て而も聴くに豈まさらめや
我ならぬ言ひたやすかり
縦しや眼は耳に聴けちふ心に観よちふ
我が暗き人にここだくきこゆるは
勢ふに似たり言ひて何せむ
馴れにけり暗き視界もよのつねはかくあるごとく見つつ安らに
春蝉の早や鳴きそむる我が山を向ひにもこの日じじと声立つ
激しかる我が
性をしも
言撓めて堪へ堪へて居れ蝉の鳴きいづ
若葉森に雨呼ぶ蛙湯に聴けば煙筒を揺りて声湧くごとし
野鳥レコード
郭公の録音聴くと楢わか葉風あざやけき庭に眼は留む
眼もひらく初夏の
清しさ
我聴けりかつこうかつこうの光の録音
深かりし霧霽れゆきて
谷地田には月照れりとふ
明日から暑し
靄ごもり
大暑の照りのしづけきは寒むかるがごとし蝶ひらら居る
白栄の靄たちこむる真昼にぞげんのしようこはよく煮立つらし
鳥猫大暑の照りに耳立てて蚊を追ふ見れば
体かろく
跳ぶ
茅蜩は
合歓の夕花咲きそむる
山方にして
気色添ひつつ
雨とふる朝ひぐらしの声きけば常あるに似たり
繁き杉山
夏山に波の音荒く起りしがあはれあはれトーキーの模擬音にして
すべて模造花らし
夏
撮す林檎の花は光れども
現ならねば早やあはれなり
夜の零時火星赤々と迫り来て模擬市たちまちにネオン
消したり
街建てて夜々華やぎし今朝聴けばぐわらぐわらとすでに
壊しつつあり
憤ることありて
反高の青かまきりを打つべくは
一撃にしてその斧ともに
蟷螂のはらわた頼めすぢ黒き針金虫の生くらくあはれ
樹相に寄せて
大き木の鬱然たるは
然ありてその雲吐けり年を
経にける
短歌マラソンのともがらを、我家の方へ出しやるとて
日の
透り影と乱るる秋ざくらよく見て来むぞ庭つきぬけて
庭なべて落葉のみなるありやうをこの凪の陽に思ひみるべし
夕光の
諸葉かがよふ黄の銀杏わが腰掛は庭に置きたる
村童、あまりに現実的なる
眼にうとく我がつきそれし風船は
童が地よりさらひて逃げぬ
鉛筆の一二本ゆゑに我れがちと子らひた競ふあの駈けざまや
井上理吉夫人弔歌一首
額髪の幼なかりにし俤は
五十歳過ぎてその亡きあとも
玉蘭は
黄葉乾びし落ちはてて庭のはひりの音ひびきけり
夕かげはここだをぐらき我が眼にも
楓の紅葉
火照するなり
日おもてに
黄葉はららく声するは
日陰の雑木風か吹き越す
背戸わきを我が蹴つまづくバケツには落葉かきためあかつきの霜
おのがじし華は咲かせてゆたかなるみ園のあるじ今よき
老に
我が園と眺め足らはす
竹柏の園牡丹の花も咲きて明るき
五百あまり華の
慶積みましてなほかがやかしみ園は久に
女の
童篁子が削る鉛筆に
朱き粉の飛び
短日いまは
灯のもとに篁子がすなる英習字菊さし寄せてその父われは
髪揺りて父に
笑み寄る夜の寝ぎは手のつめたきは少女ゆゑにぞ
榛名
巓の裏行く低き冬の雲
榛名の
湖は山のうへの
湖
上つ毛榛名のみ
湖雲のうへのいただきにして冬の陽
映す
雲過ぎて陽のあたりたる湖面には
漁舟ひとつ見ゆとふかなや
榛名富士
明く日あたり
暖しとふ
鬢櫛山は早や白しとふ
はろばろに神楽きこゆる雲の上
埴山姫や
巌の
秀に
坐す
日すぢ降る雲こそ透けれ冬山榛名の宮はいや石高に
榛名の宮冬日薄きに妻と我が鶯笛を吹きつつ下る
この下りいまだ日のある山路とて残んの
黄葉目にとまりつつ
上越線を湯沢へ、水上より
水上は
屋群片寄る高岸に瀬の
音ぞひびく
冬陽さしつつ
こごしかる
湯檜曾の村や
片谿と日ざしたのめて冬はありつつ
岩ひとつ白かりしかなや
冬谿水上の瀬は澄みにしかなや
短日の分水嶺に我が立てば
二方へくだる水の瀬早し
上つ毛利根の水上我が越えてすでにぞくだる
越の山がは
北の
峡雲ひたひたと押しかぶし
降雪ちかし紅葉も過ぎぬ
上つ毛は
明き
黄葉を
越へ来てほとほと過ぎぬのこれる見れば
ふりさけて空に寒けき裾山を奥なる峯は
隠りて見えず
湯沢の宿
山国はすでに雪待つ
外がまへ簾垂りたり戸ごと
鎖しつつ
冬の
宿屋内暗きに人居りて
木蓼食むかひそと
木蓼
父が曳く
柴積み
車子が乗りてその頬かぶり寒がり行きぬ
鯉市
鯉市ぞ本城寺前に立てりとふ早や
短日を
競りてあらむか
門川は黒きのみなる鯉生きて初冬の
真水ほそりたりけり
雪降らむ雲は低きに荒々し
山袴づれが
真鯉競りあぐ
山びとが鯉を
愛づるは常無くて徹り澄みたる姿観にけり
白鱗の
三色の鯉の
清けきは氷中花とも澄みて
真水に
観るものとはぐくむ鯉は常
愛でてなほ思ふから色に出づちふ
水に澄む端厳の相これをかも豊けしといはむ鯉ぞ老いたる
生くらくは鯉市にしもしかもなほ青淵の
鎮み鯉たもちたり
黒の鯉三十六鱗みな張りて息ととのへれ
寒きはまらむ
山国は冬のものなる鯉市も日の目みじかく数よまずけり
短日の市の盥や手づかみと鯉は投げられ少くなりぬ
市はてて
気どほきごとし鯉あらぬせせらぎに菊のうつれる見れば
み湯のしりとろむお池の湯ごもりに息づきてあるか鯉は
老けつつ
(高半旅館にて)
冬渓
風ひびく冬山岸にはららくは白樺の清き
黄葉なりけり
冬山のつまさきあがり早や
凍みて
日光はじかぬここだ石ころ
冬渓にこもる
椙森夕日さしかかる
鎮みの雪を待つなり
山柿のここだ
朱かる豆柿も
正眼仰ぎて色によむなし
手にひろふものの落葉はつくづくと
眼さきすがめて見るべかるらし
柴積は莚かけ置く霜ながらまだあをあをし
田の湯田
月夜
天の月川の瀬照らす
更闌けてここにしぞ思ふ四方の
鎮もり
潭水の自力発電の音澄みて
飯士の山に月照りわたる
穂積忠が処女歌集「雪祭」に寄せて
雪祭は睦月の神事
雪祭は
睦月の
神事、その雪は田の面の
鎮め、雪こそは
豊の年の、穂に穂積む
稔のしるし、その雪を神に祈ると、その雪に神と遊ぶと、山峡や
小峡の子らが、あな
幽か、鬼の子鬼が、雪祭
四方の鎮めと、
幣立てて、小松植ゑてな、あな
清けおもしろ、雪よ雪こんこよ、ハレヤとう、ヤソレたたらと、夜すがら遊ぶ。
反歌
天竜の
水上清み雪祭る
族が鬼はよに遊びける
「雪祭」幽けきかも
「雪祭」
幽けきかも、
忠はうれしきかも。その窓に富士を見さけて、
狩野の瀬に月を仰ぎて、豊かなる心ばえやなほも、ほのぼのと朝夜あらし。ちちのみの父のみ身、ははそばの母のみ
魂、老いませば、常無けばあはれ。
風花や
天城の杉を、うらら日を、何とはなくて吹きちらふその影にかも、心は寄する。
反歌
うら歎く父母の子は
風花の
消ぬかに散らふ
和ぎにかも行く
おもしろの雪祭や
おもしろの雪祭や。
風花の空に
顕ちて、
日和うららよとの。遠山は霜月祭、
新野にては
睦月、
西浦は
田楽、
北設楽は花祭とよの。さてもめでたや、雪祭のとりどり。国は信濃よ三河遠江、水は天竜の流、
水上よ、下り下りに春うらかすむ。
反歌
春
天城雪の鎮めと伊豆びとは何をもて遊ぶ歌をもて遊ぶ
神業ぞ雪祭
神業ぞ雪祭、鬼の子の出でて遊ぶは、ひたぶるぞ雪の上の
田楽、
鎮みこそ
四方に響くに、まことのみぞ神と遊ぶに、おもしろとこれをや聴く、をかしとよそをや
笑ららぐ。な巧みそ歌に遊ぶと、早や選りそ
言のをかしと。心にぞはじめて満ちて、匂ひ
出るその
外ならし。遊びつつ
将たや忘れよ、そのいのち
命とをせよ、
穂積の
忠。
反歌
神遊び忘るるきはよ鬼の子がひたぶるに
笑らぐ命とをあれ
三百五十年遠忌によせて、その墓所、京の聚光院へ贈れる懐紙の歌一首
茶をわびと
和敬きよらに常ありてそのおのづから
坐りたまひき
池辺
池の面に匂へる影を雲ぞとは知らで過ぎしか今は見さだむ
池水に映る
繊雲あふぎみて霞むのみなるあはれ白雲
十方射光霞むのみなる浮雲のまうへ照りつつ春なるかなや
門前新月
眼にとめて月のをさなさいふこゑはまかる人らし
門の
夜寒に
月暦睦月二日の
新月の眉をさなかる西に見ゆとふ
白辛夷
春邦画伯の銀屏によせて
白辛夷花さく枝にとまりたる頬白見れば春冴えにけり
春雷
春雷の
行かそけかる夜なりけり
寒餅の水の雫切らしむ
うち霞む
三階松の空にして尾長は
喚ぶかその尾ひらめく
春山の松に群れ
来る尾の長き空いろの鳥といふがめでたし
ひらきかけて黄にぞこごれる
玉蘭は時ならぬ
寒波昨夜かいたりし
その母の子らかきおこす声きけば
白木蓮の咲きて
夜明ちかきか
玉蘭の花咲きてより
来る鳥の尾長・
鷽・
鶲・雀みなあはれ
玉蘭の下照る土に歩めるは野の小綬鶏か
長閑になり来し
春日照る庭の枯芝しづかやとただ白くもぞ観てを居りける
蝶の飛ぶ春なるかなと見てをるを小鳥ぞといふに
微笑尽きず
春日照る庭の芝生を
鶏じもの我は掻きをり
白けたる芝
冬旱長かるあひだ
乾び来し
雑の落葉もはららき失せぬ
うちしらけ色無き芝生下萌えず日は春にして
眼霧らひ泣かゆ
うち見には
枯山芝生春日照りねもごろ聞けば濃すみれ咲きぬ
吾が犬の
呆けてあくなきい寝ざまにうらら春日の照りこそなごめ
春といへば菓子などめして犬じもの我の
坐しけり渇くものから
口出づる「おばこ」のどかや用のない
煙草売など春はふれて
来る
我がこもり春は匂へば照り
美し物のあいろよ強ひてしも見ず
成城十九番地月まどかなる
春夕の暮れつつはありて
明りつつあり
花ひとつ枝にとどめぬ
玉蘭の夏むかふなり我も移らむ
[#改丁]
昭和十三年九月十五日独逸青少年使節団一行を迎へて、日本古武道型大会開かる、会場神田国民体育館、主催は日本文化聯盟なり、我視力乏しけれども行きて参観す
建御雷響きわたらし夏雲やすでに
向伏す
下つ国原
大船の香取の海に
潮とよみ
弓弭輝りわたらす
経津主の神
ひもろぎ香取の山は鷺
多に梢とよめり
清の明りを
荒み魂しかも
和すと明らけし
遠つ
祖先は討ちに討たしき
神とある弓矢のまことうやうやしひとたび立ちてたぢろがめやも
剣執り闘ふかぎり
斎庭なり塵だにとめじ朝
潔めつつ
陣貝は裃正し高々と
両手持ちにぞ吹きあげにけれ
陣貝の法螺貝聴けば武者押しに今ぞ押しゆく
昧爽の空
音に
止む陣の法螺貝緋ぶさ垂りしづけかるかも吹きをさめける
真竹を
立身の居合抜く手見せずすぱりずんとぞ切りはなちける
見たりけり
斎庭に立つる青竹の試し切りこそうべな一と太刀
その一
弓構や
差矢前型いざとこそ片折り敷きぬ物見正しく
矢を
番へ物見安らぐ
跼のよに
落居たる姿よく見む
物見しばし
しづもる
際ありてきりり引きしぼる張りのよろしさ
姿なり
構正しく張る弓の矢と一つなる心澄みつつ
引く弓はいよよ張り詰め一筋や
眼先の
鏃まで引く
満を持してまさに射はなすたまゆらは
幽けかるらし
ふるへつ
詰いよよ張りて堪へたる
右手の
肱矢頃はよろしひようとはなしつ
射てはなし見入る我かのしばらくは楽しきがごとしいまだ
名残に
矢をはなしくるりと返る
弓返りの
よろしも君が
押手に
的はいざ
神明らに引く弓の矢は音たてつ
徹りたらしも
その二
矢継ぎ早に
管矢継ぎ射るしばらくは矢筈あてゆくひまもなく見ゆ
つぎつぎと矢継早にぞ引く弓の
弦は鳴りぬしづけきまでに
甲矢乙矢射継ぎはなちてつく息の事なかりけり弓はをさめつ
相むかひ声無き太刀の
鋒鋩はむしろ凄まじき気合なるなり
気先には撃つと見せつつまじろがず張り満つる
力極みなむとす
青眼にひたとつけたるしづかなる時たちにけりひらめく一太刀
真向より打ちおろす太刀雷撃のこの太刀風は息もつかせず
一太刀にひた打ちおろす、響あり何を
思はむぞ小手先のわざ
体あたりかららと
絡む火のごとき気合
鍔にして敢て押しにけり
白刃取極む
捨身の入り早し飛鳥の如くその手抑へぬ
男童ら
構凛々しく肱立ててゐずまふ見れば張り切るごとし
母はいざ国の
童男が相搏つと
対ひ構へぬ小さき
柔ら手
相むかふ今か
搏んず
面がまへ丹田にして気合満ちたる
えやと掛けおうと
応ふる張り満てる
童が気合相搏つかすでに
身をあげてすべて相搏つひたごころ
童なれや響き合ひにつつ
男童は稚なかるとも相搏つとひとたび
対ひ
面ふらぬかも
手は
疾し
礼してぞ
退くすなはちをじりりじりりと寄り身にはゆく
早技とすくふただちのこのきまり
大外刈の型のよろしさ
師の道におのれ鍛ふとたじろがず力尽くしてその型学ぶ
薙刀の
一手ひらめきいつくしき真夏なるなりしづもる塵に
しやつ
小女童小太刀するどし老刀自の薙刀ぐるまたとうちとめぬ
十の指
諸に
手挟む手裏剣のつぎつぎ
疾しうつ手は見えず
手裏の
技神にもかもや的の戸にうちし小柄は
我と
礼し抜く
天地に構ふる
杖の音無きはただ水のごとし無念無想の型
杖の手は眼にもとまらず引くと見せ打つと返すと
十方無礙なり
青雲に
直にひびかふ
剣太刀古へありきいまもこの道
靖光は陸軍省贈の将官刀なり。征戦一ヶ年、而も我眼を病みて今為す無し
晴けふを暗きかもやとうちなげきひたと
瞻り居りわが太刀
靖光
父の子はつくづくと見よ我が太刀と
鞘はらふ太刀に曇りひとつ無し
一方に力あつむる我が
眼先鋒鋩の蒼み光
発し見ゆ
ひたひたと攀ぢてうばへる
塁にて何を叫びしつはもの彼ら
つはものはあへぐいまはもをたけびてこゑあげにけむ天皇陛下万歳
先き駆くとただに
勢ふ軍の犬ひとたび吼えてかへらざりけり
伝書鳩荒野の空に行き消えてたより無しとふその鳩泣かゆ
斃れ伏す軍馬あはれと我が水のひとしづくつけて死にし兵はや
昭和十三年九月廿六日、大日本聯合青年団第十四回大会に際して、秩父宮殿下には会場日本青年館に台臨あらせられ、畏くも令旨を賜ふ。一同感激措く能はず、我また席末を忝うすれども、眼疾の篤きをもつて幽かにただ拝し奉るのみ。この日、我が新作大日本青年団々歌初めて合唱さる
澄みわたりいよよ静けき時今を
宮成らすらしみ
気配聴かゆ
金屏の映えて畏き
真正面に
宮おはすらしあたりしづけき
秩父嶺に
神立ちわたる朝の雲み声いさぎよし若き
直の
宮
朗かと国の若らに
下したぶ力雄々しきみ声なるはや
聞えあげ
応へまつれる人
誰ぞ涙せきあへずその声
歔欷る
みそなはせ
天もとよめとけふ今ぞ声揺りあがる大日本青年団の歌
その一 応召
昭和十三年五月、応召兵我家に宿る。その中にひとりの老兵ありき
老いし兵
笑落しつかきかぞへ
一二三四五六七八九人の子
召されけり老いし
兵若やぐと
面もふらね多きかも子ら
小童らかよ末は名すらも忘れつと兵
後言はず
将たや忘れし
老いし兵強き日差に歩を張れりむしろ叫びて駈けたかるべし
点呼なり若葉しづもる
午行くと兵は照る陽の地に
灼くる踏む
死ぬべくぞ兵は戦へかりそめと病みてな還り草も灼くるに
手もすまに
養ふ
蚕かなしびまた書かず
兵が妻や
九人の母や
立つとして今は安きか兵彼ら
生死の
外に遊べるごとし
壺口の防毒マスク
管長し若葉光るにをどり
出て来る
蒸しむしと
夜眼に
撲ち来る土ほこりトラックとどろき兵
発ちはじむ
その二 その家
初夏、我家に宿りし兵士の一人今既に中支に奮戦しつつあり、我等とその妻子との消息絶ゆることなし
兵の妻
九人とふ子の母のまた細るらし家貧しきに
兵の
家事に
嘆たず貧しくも国を
頼めて
養ふ
蚕あげにき
山と言へば子ら
九人母のみにかつかつ暮らす
冬日おもほゆ
兵の
家雑木端山の
後空も朝寒むからむ子らの
騒ぎて
前線に今ぞ
発つとふ文ありて
生死もわかね
戦勝ちぬ
秋ざくら花みだれゆく庭にして何くれとなく干す日はつづく
霜夜着る
幼な
小衾継ぎあてて仕立て送らな
内のさがりを
小ぎれもの
掻集め送る菰巻に古綿
畳ねキャラメル
九つ
戦場の眼
じりじりと匍匐しつつも寄り進む兵をぞ思ふその
眼力
ひたおもて戦車にあるはまじろがずその眼射たれけり
両つのその眼
銃向けて
壕に押し
並む鉄兜眼には堪ふるか待つある時を
動ぜぬはいよよ見据うと
塹にして未だは射たず敵引き寄せぬ
白昼に思ふ
日のさかり
眼射たれて聴きにける兵の命の
四方のしづもり
夜戦
夜戦は月をこもれば黍の根に鳴き澄む虫のその
翅すら見む
眼先に友の
屍凍れるを
月夜堪へつつ
七夜経しとふ
廃馬
ましぐらに進み行きける
軍のあと馬
縡切れぬ草は喰みつつ
砲火絶え今はあやなき夜の沼に馬沈まんずまた嘶きて
ひと
棟は
盲目のみなる兵にして真昼
明きに坐りてありしと
もの言はず光る戸口へ
面向けて兵はありきと
盲目なりしと
面あげし兵の一人はそれぞとふ眼も無かりきと見て来て言ひぬ
戦盲兵見て来しといふ人見れば眼はあきらけく頼むあるらし
面笑ひ照る日に群るる兵見れば
呆けたるがごとし耳
聾ひにけり
夕河鹿また聴かざらし
戦聾の
幾人の兵青葉見てあり
空は見て答ふるなきは音絶えし兵の
起居の
性とやなりにし
爆撃音今は
玄けくありぬらし聾兵は碁に余念無しとぞ
手嶋多賀美君の英霊に捧ぐ
つはものはかくしあるべし
先行くと
面もふらず戦ひ死にぬ
ちちははは国に捧ぐとひとり
子の
愛児先立たし老いつつ言はず
我が一族、陸軍航空兵少佐(当時大尉)鶴田静三君、昭和十三年初夏、南昌空中に於て散華す 九月十一日、郷里柳河にて葬儀盛大に行はる
我が
族すでに一人はいさぎよしくわうくわうと空に散りつつ消えぬ
夏空を
翼はららかし錐揉むと激し若鷹
眼見据ゑき
誉とぞ
世人讃へむ
我も然りその老いし父も
厳かしくあらむ
電送歌
口授し
勢ひし今出でて秋草の中にうづくまりぬる
故郷や
今日し
響まむ秋草の
闌けて
閑けき
[#「閑けき」は底本では「閉けき」]かかる日差を
見る見る
黝き蝗の
大群の空おほひ
来る恐れを言ひぬ
長江の大き出水は見るさへや空をのみ
映し白き
積雲
或る船員
揚子江遡江しつつも夜ふけには耳に入り
来と
後引く波
下航する
夜のおそろしさ言ひにけり兵揚げて来て
後のむなしさ
あますなき戦車爆撃を軍言ひて虱つぶしに撃ちに撃ちにけり
哈爾哈河
朝越え来てほろびたる蘇蒙の兵に
白夜け長し
戦車
来る音のとどろを地に伏して待つま澄みつつ
神はあるらむ
大草原沙塵捲きつつ響き
来し百の戦車の
骸燃えにけり
編隊機けだし進むは
山形と
列並む雁の一機
先かゆく
ノモンハン火を
噴き戦ふ国境の
上空にして夏もをはるか
ホロンバイル
夕湖岸にうつ砲の煙噴きつぎて
未し暑からむ
掃射戦のすさまじかりし
後冷えてパン焼き車
香立てつと
国境線敢て守りてしづかなる月夜にしあるか笛を吹きつつ
口をつくハロンアルシャンといふ
語韻新秋にして我も癒えなむ
ながむらくしづけきがごとしまともにぞ敢てしぬぎて大き荒波
辰の歳に寄せて、二首
竜巻の幾はしら立つ
冥き海リーダアの
画は影繁かりき
海を雲へ竜巻き
騰る幾はしら
覆る船は小さくゑがきつ
§
海洋の西洋木版画
帆船描き地球の円き弧線があはれ
§
コロンブスが卵立てをるその画など時に笑ましく思ふことあり
めらめらと人馬も草も
燬きつくす火焔砲とふに冬ひた恐る
火焔砲重戦車ピアノ鋼線あはれあはれ子らが遊びも昂じ来にけり
戦はいつ止むとしもあらなくに米ひた惜む冬にぞ入りぬ
独居る暗き眼にして頼めたる一と
擦りのマチの火すら惜みつ
ハルハ河あはれとしいふ
言すらも冬来にけらし口を
衝かずも
町に遇ふ小さき兵隊バンドには代用らしき締めてみ冬なり
§
北支那に砲とどろきし頃よりぞ
目見闇くなりて我は籠りつ
かうがうし菊の御紋は透かし
漉き人つつましも紙あつく
漉く
閑けくて
偉き機構の刷り出づる百円
紙幣は
現しけなくに
長江の流もかくやたうたうと刷りいづる
紙幣の
清の
洪水
国の
紙幣日を夜をただにかく刷りて幾百億円刷るにやあらむ
截ち切るや刷る
間ただちを香に澄みて百円
紙幣手も切れぬべし
うち羽ぶき常にもがもな刷られゆく
紙幣夜昼なし
戦長きに
五色旗の満州紙幣
手童がただに
愛しぶものならなくに
紙幣・債券・印紙・郵便貯金帳虹なして刷りいづるところ人鼠なす
円陣に
秘ゐる少女
鋭眼速く
紙幣検しをれ早やおそれつつ
網の目の蟻なす
花文うつしけき百円
紙幣を指はじくなり
豊けかる
退けて
出る子がゆふぐれは身のほそりして悲しかるべし
大御代と刷りいづる
紙幣や我は見て
大臣のごとく
闊く歩みき
年の瀬一首
我が
戦疑ふとにはあらなくに紀元二千五百九十九年の年の瀬今は
前橋理研工場所見
機械とは
将たやしづけき鉄削る旋盤のかくも
艶澄みつつ
複雑の単純化とふ
一方に機械はこころこめゐるごとし
旋盤やひねもす
速れ事といへばただにリングの
幅削るのみ
旋盤に立つ微塵見れば鉄と鉄や触れあひのただち声いづるなり
鉄微塵
短日にして
現しけき色盛りあがれ旋盤
速む
冬といへば精密機械
気先にもリングの
寸分ひた感じつつ
戦艦のピストンリング大きなるこの
円輪に我はなごまむ
おなじ作業ただに繰り返すのみなるを
愛し機械や倦みもせなくに
旋盤工は少年のみなり、一首
れうれうと子ら一つなれやリング削り単純にただにうごくを見れば
香にほくる鉄の微塵や
気色すら旋盤も人も
別ししらずも
風荒れて黄に
霾らす下つ空大き年けさの初日ぞのぼる
国挙げて事に惑へりかくしてぞ年明けたりといふもおろかや
かきほぜる埋火すらに早や
消ちて
後継ぎ足さむ炭とてもなし
ゆゆしくも照りつつ降らぬ冬空の
寒にもちこし水尽きむとぞ
我が観るはむしろ用なしけだしただ
盲ひつつくらき眼にぞ堪へゐむ
読売新聞社募集奉讃歌選者吟
天雲の青くたなびく大き
陸かくいにしへも
和したまひき
大日本歌人協会奉祝歌集に
遥けくも今に澄みたる
天の原その蒼雲に
直むかふ我は
[#改丁]
本集『黒檜』は前集『渓流唱』(未完)に次ぐものである。
昭和十二年十一月、眼疾いよいよ昂じて、駿河台の杏雲堂病院に入院して以来、同十五年四月、砧の成城よりこの杉並の阿佐ヶ谷に転住するに至る、約二年有半の期間に於ける薄明吟の集成が之である。
収むるところ長歌五章短歌六百五十一首、之等がそのすべてである。
本来病中生活の吟詠であるゆゑ、自らの歌誌「多磨」以外にはさして発表せず、知らるることも欲しなかつた。ここにはじめて取りまとめて諸賢の清鑑を仰ぐのである。
此の集の歌は、別に選ぶところ無く、作したほどのものは洩れなくここに蒐めた。ただ一々に検して、その磨くべきは改めて磨き直した。
私の眼疾は遠因を肉体の上に加へた多年の精神的暴虐に発し、糖と蛋白との漏出が激甚となり、遂に、新万葉選歌に於ける日夜の苦業が眼底の出血と共に極度の視神経の衰弱を来し、失明直前の薄明状態に坐らねばならなくなつた。この一生の重患に於て、他に補うてあまりある道の楽しみを得たことは、私の欣びである。私は寧ろ現在の境涯に於て幸せられてゐる。
本集は歌集であるゆゑ、作品にすべてを委ね、病気の経過その他心境の如何等に就いてはここに贅しない。短歌以外の詩作、或は随感、消息等は、各年度の白秋年纂「全貌」に全部を収録してある。
なほ、病中吟の外に、正統「郷土飛翔吟」その他の覊旅歌六百余首も、その後半期には氾濫した。しかし之等はその性質上前々集『夢殿』に収めてある。で、創作の順序歌風の推移に就いては、これも「全貌」によつて知つてほしく思ふ。その「全貌」にはこの『黒檜』の諸作も、原形のままに保存して置いた。異同も亦録したい考である。
終りに、此の集の中に時局の歌が少いのは、恰も発病が北支事変と同じ頃に当つて作歌の機を逸したのである。これは短歌作品のみならず他の詩歌にも禍した。甚だ残念に思ふがいづれ大成してその責を果したいと思ふ。ここには「戦時雑唱」としてその片鱗のみを示すにとどめた。
視力は一進一退して、今日に至つたが、やや小康を得て、薄明にも馴れた。ただ四方は暗くなりつつある。(昭和十五年七月廿四日夜)