[#ページの左右中央]
[#改ページ]
大正十二年二月一日午後、何処といふあてもなくアルスの牧野君と小田原駅から汽車に乗つた。その車室に前田夕暮君が居た。何処へ行くと訊かれたのでまだわからぬと答へた。君はと云つたら大島へ行くつもりだつたけれど汽船に乗り遅れたので引返すところだと云つた。ぢやあ一緒に何処かへ行かう、それもおもしろいと云ふ事になつた。で結局三崎行ときめて、横須賀へ出た。出て見るとその駅の前にはもう薄ら寒い日の暮の風が吹きしきつてゐた。
ぼろ自動車の上
日の暮のぼろ自動車にすくみゐつ赤き
風空に造船場の高く赤き鉄柱が焼け暮ならんとす
日暮れぬ路いつぱいに埋まり来る職工の群にひたと真向ふ
前まへと堰き溢れ来る人の顔どれもどれも青し押しわけてゆけば
雪のこる片山蔭の板びさし今は見て安し
外見ると幌ひきはづす手のつめたさ遥かの不二は吹雪雲の影
雪ふるは天城かと見る次の眼に夕焼の赤きまばら松見ゆ
山峡を遥に小さき人の影寒むざむと追ふ
遥かの山ぎざぎざに白し半島の上をわが自動車はまつしぐらなる
良夜行
あまりに月が良いので自動車を下りる。三崎の一里てまへ、引橋の茶屋の少し先き、そこらが半島の最も高い道である。
この空の澄みの寒さや満月の辺に立ち
満月の辺に立ち
山は暮れぬましぐらに
月明き半島の夜を歩まむとし汐ふかき風をまづ吸ひにけり
とりどりに歩む姿ぞおもしろき松の並木のきさらぎの寒を
青く真澄む幻燈の空に枝さしかはす山松が景も早や二月なる
月の坂に我ら追ひ越す自動車の埃の立ちの
太鼓うつ音のきこゆる月の森そこかここかと聴けば遠しも
おのづから岡の歩みは太鼓うつ月照る磯に近づきにけり
北条入江
この
宵はまだ月の入江の枯葦の影くきやかに汐あかり満つ
枯葦や入江の潟にのる汐の上づら寒し月はかがよふ
月と太鼓
私の雲母集中の異人館はその後海嘯で流されたとかで、もはや跡方もなくなつてゐた。
今は無き我家の跡に櫓かけて磯の
月がたたく太鼓ならしとおもひきや我家の跡の子らが興なる
春あさき囃子
来て見ればいよいよ近き月明り通り矢も見ゆ城ヶ島も見ゆ
照り曇る月の夜ながら
童らがたたく太鼓は月の夜とこだましにけり島の森より
何がなし心安きはたぷたぷと石垣をうつ満ち汐の音
臨江閣
元の私の家の隣である。当時親しくしてゐたその家も代が変つて今は旅館になつてゐる。ここに私達は泊ることにした。
この宿は小松にまじる枯葦の影し騒げど月明りせり
月
沖釣の宵の夜ふけの
灘遠く連れてまたたく
あれだあれだ城ヶ島のとつぱづれに燈台の
雨雲に月飛ぶ迅し
この宿の
友よ飲まむ寂しと言葉落したり音せぬは汐も満ちたるらしき
草臥ぶれておのれ素直になりにけり酒やふふまな歌はせ
われ酔ひぬ君もうたへよ
頭に火をつけよ線香花火の火の
童うた「金魚の鉢」ぞあなかしこおのれよろしよ「金魚の鉢」は
二月二日八景原に遊ぶ。
椿
この坂の椿の紅さ先のぼる一人は早くも佇ちて仰げり
女仏
あなかしこ
つめたけど触りて
椿葉の
崖の上
崖の上の高畑道のはだら雪踏みほそりつつ一人は遠し
日は高きに雪と小松のほそり道人には逢はね下は波の音
雪うすき小松が
八景原
昆布噛み
はるばるに潮満つらしく思ふとき手をかざしたり迎への舟より
午ちかきひたひた潮の岩照りを迎への舟が揺れてはひり
舟上
八景原より城ヶ島へ
昼潮の照りの明りに漕ぎ馴れて遠く遊びし昔かなしも
昼潮に雙手ひたして思ふことかく父母と常に遊びき
満潮のゆたのたゆたに揺れゆかなゆくらゆくら漕げようつらうつら行けよ
昼潮の満ちのたたへに漕ぐ舟のねもごろにとろき櫓の
二月二日午後
萱原
萱わくる音こそすなれわがほかは先ゆく人も遠しと思ふに
萱原の萱の遥かに思はずも先ゆく友が頭見せたり
萱刈る人ひとり居りけり枯れかれし萱の中ふかく身をうづめつつ
島山に深き萱刈る鎌の音青空にひびき
日小さしまだ遅からず仰ぎ
老媼
草刈りの七十ばかりのお婆さんに前田君がたづねてゐた。「お婆さん、この島でも盆踊の歌があるかね。」「お盆には無えだ、お正月には盆踊があるだ。」「なんと云ふ唄かね、」お婆さんはどう思つたか、ふと唄ひ出した。おもしろい手つきをして、唄つてゐる時はなんとも云へぬうれしさうな若やいだ顔をしてゐた。が唄ひをはるとむつりとした元の顔になつて黙つてまた刈り初めた。その唄はかうである。
つくばねの峰より落つるみなの川恋ぞつもりて負けてやる
私たち二人は腹をかかへて笑つた。さうしてまた寂しくなつて了つた。
萱刈りやめ
歌ひをはり済まぬ顔しぬ島媼また枯草を刈りいそぎつつ
媼居り萱を刈りけり子らは来て萱を負ひけり日の
萱負ひて子らは子らとて下りゆけり媼は刈りぬひたむきの刈り
島鶉
島鶉啼きつと思ひぬ深き萱のそよぎの照りのしづもりの中に
島山の萱の
すれすれに鶉飛び立つ萱の風また一羽立ちぬこもりたらしも
遊びが崎
昼潮に櫓臍漕ぎ落し思はずも幼なごゑ立てぬそれがをかしき
大椿寺
同日薄暮、城ヶ島より宿へ帰つて後、散歩のついでに立ち寄つて見た。椿御所がこれである。宿の近く、同じ向ヶ崎にある。
この寺が大椿寺ぞとはひり来て寂しと出でぬ日暮を二人
この寺も古うなりぬと陽の隈に尿しつつ云ふ我も寒むかり
さびさびと暮れしづもれば磯寺の障子はかげる寒しとなしに
二月三日薄暮、三崎より乗合自動車での帰途半で下車、長井で一泊することになつた。翌四日、その磯を散歩し、裏道から県道へ出、逗子行の立場まで行きその日暮れに其処を立つた。その間の所見である。
水あかり
黒川の浅夜の
黒川の葦辺の
安旅籠
この晩は少し疲れて苦しかつた。心臓を弱めたのである。
磯宿は下の
安宿のこれの硝子戸夜風に鳴り佐島の
磯宿のこの
友とゐてさびしとは思はね一つの蜜柑いつまでもむきて酒うまからず
寂しけどなにか今宵の気の安さこの磯宿の磯香くさきも
鰯子の函
雨かとも夜すがらききし点滴は朝起きて見れば幟竿の揺れ
この磯は半ば枯れたる
磯に干す鰯子のかがやき目馴れねばうら寂しかり朝の
まじまじと眺めて蜜柑むきゐたり硝子戸越しの鰯子の
今朝はまだ太鼓たたかず磯の鼻に竹馬の子が遠く沖見る
入江の波いまだかがやかずつつましく箸さしおきて今朝
遠浅の春さきの江か今朝は晴れて風烈しけれど波の穂低し
風波の穂立の迅さ
春と云へど横の出崎の日あたりもまださむざむし枯木三四本
寒い風の入江の潮にすれすれ出てる枯草の島に日があたるところ
海苔
潮ふくむ浅きみどりの青海苔の
この朝や風は高けど片磯の石垣に青く海苔
老らくの
小竹の村
この磯は枯
磯村は風を荒みか背戸ごとに矢竹篠竹家垣にせり
家垣の篠の枯藪風をしげみほほけなびけりの障子に
この枯れし竹は矢竹か女竹かと立ちとまり見つつ見つつ行きけり
家垣の矢竹の裏の
丘窪
丘窪は刈田の泥も刈株もさびつくしたれ日のあたりつつ
丘窪は刈田に泥ぢし稲株のさびさびにけりそのこちごちに
丘窪の刈田のへりの溝川の青の水藻は目に新しき
群松の日かげのあをきはだら雪見て通るなりこころ
日のあたる枯篠藪の円丘のところどころのしら梅の花
目にとめてはや寒からず柴刈る子ら日あたりの丘に何か笑へり
日蔭田をむつりむつりと群れ来る子ら早や日あたりへ一人は出づも
何祭る二月の子らぞ青榊手に手に持ちてつつましく来る
春浅き片山蔭の女松原つばらつばらに日のあたりたり
岡裾も青みそめたり
牛ひとつほつり出たり下丘の日照る畑の青きはづれに
雪ふかき窪田の畔の蚕豆のみづみづしさに見ておどろきぬ
誰かゐて豚小屋のぞく日のいとま安けからしと見て通りゐる
春あさき小葱がそばの草ぐみの実のつめたさを食べて見んとす
立枯銀杏
目にとめてはや寒からず冬銀杏かうかうと白う寂び明りたる
銀杏の立枯の枝の白金光のほうほうとして実にこまかさ
暇あり
梅はまだそこらここらの雑木山眺めつつ行かな遊び遊びに
たまさかの
高畑道
風烈しき高畑越えて耳
青麦の高畑道の日の光斑らの仔牛眼もさだまらず
春はいまだ風かはげしきこの丘や警報球を赤くかかげつ
風の下り坂
雪どけのぬかるみ坂を吹きあぐる早春の風はまだ頬につめたし
浅黄の外套に頬かむりしぬこの風の磯山道は梅ところどころ
長井遠望
かくばかり
ここから出て見ようかと出て見てる洲崎の下の小竹の薄い陽
薯がらの
県道へ出る道
道を問へばどの家も障子ひらかずしておつとりと答ふ
早や青む
風
林新道
向うの切りくづし崖の黄の壁に陽があたつてる菜畑も見えて
もう春だ春だほうれトロッコが走る走る走る誰か手をあげる
あの頃のあのこころもち手をあげてトロッコで走るちやうどあれです
どこやらから春が来さうな雪の
さうだあの気合ださうださうだ一息に辷るトロッコの走り
入江の上
引き潮にほとほと涸れし江の
潮の路こちごちに光れ黒き洲のおほかたは涸れぬ葦むらの
風の向をりふし変る荻むらはたださわさわし眺めに出ても
枯葦が枯葦のかげを落してゐるただそれだけの
へうへうと心はかろし旅ゆくとけふ春風に吹かれてぞゆく
青梅街道の春いまだ浅し山椒の魚
早春の
枯欅目にとめていそぐ畑の道は行きつくるなし武蔵野に来ぬ
国分寺、立川、青梅
吹きさらす
み冬なり曠野の駅に遅れて来る二時過ぎの汽車の煙いま見ゆ
枯桑のほろほろと白く汽車のの
枯桑の曠野つつ切つてまつすぐな道がどこまでもどこまでも北へ向つてる
時をり話
日の暮の枯桑原に火がぽつと燃えて時のま消えぬ赤かりしかも
寒いさむい曠野の中を走つてゆく日の暮の汽車の白い煙だ
この曠野の
枯桑の曠野の窪のところどころ煙たてゐてかげる村のある
山近く雪まだ残る桑の原の
廂ふかく陽の照るとなき
風雲は気球のごとし冬枯の桑の曠野にただ一つ見ゆ
ああ
雪の山のつつましく近くあらはれ来て桑の枯野も今は末ならむ
雛店に
鉾杉の春の
冬山の山ふところの
山裾は枯芝原のひと
多摩川原
多摩川原清き川瀬に採る砂のかがやき白しうち響きつつ
多摩川の
春は早や向つ岸辺の栂の
この水のみなもと遠くほのぼのし
春あさき川瀬の崖の老樫の風烈しけれやしきり光れり
隣り立つ樫と棕櫚との日のひかり春早き風に冷えみだれつつ
樫の葉に常しづもらぬ日の光なほさへや風の瀬を越えて吹く
この
杉谿の
山菅に
谿くまの
山がはの岩間の
谿岨をいそぐひとりかたまたまはふり仰ぎ見居り真日の
おかめ笹日かげにそよぎところづら日向に枯れぬその
日の
吹きさらしの岩に
雪
鉾杉の鉾の
音せしは老杉が上の雪の
今落ちし杉の葉の雪はすこし砕け地の
白雪のこごりの
雪しろき山畑は
山畑の雪の
ああ早春雪はだらなる山の尾を電信線は空まで走れり
いただきの雪にしたしく煙あげて群ゐる屋根見ゆ
御師須崎氏に宿る。
風出でて
ひようひようと風吹きとほる山の
雪ふかき山の尾の上に啼く
きさらぎや多摩の山方 、まだ寒き障子 の内、人影の、手に織る機の、ていほろよ筬 うつらしき。立ちどまり、うつらに聴けばからりこよ、杼 の鳴るらしき。三 の花咲き湿 る、山の井よ、下井の水も滴 るらしき。
反歌
山かげの
水きよき多摩のみなかみ、南むく山のなぞへ、老杉の三鉾五鉾、常 寂 びて立てらくがもと、古りし世の家居さながら、大うから今も居りけり。西多摩や造酒屋 は門櫓 いかしく高く、棟さはに倉建て竝 め、殿づくり、朝日夕日の押し照るや、八隅かがやく。八尺 なす桶のここだく、新しぼりしたたる袋、庭広に干しも列 ぬと、咽喉太 の老いしかけろも、かうかうとうちふる鶏冠 、尾長鳥垂り尾のおごり、七妻 の雌 をし引き連れ、七十羽 の雛を引き具し、春浅く閑 かなる陽 に、うち羽ぶき、しじに呼ばひぬ。ゆゆしくもゆかしきかをり、内外 にも満ち溢るれば、ここ過ぐと人は仰ぎ見、道行くと人はかへりみ、むらぎもの心もしぬに、踏む足のたどきも知らず、草まくら、旅のありきのたまたまや、我も見ほけて、見も飽かず眺め入りけり。過ぎがてにいたも酔ひけり。酒の香の世々に幸 はふ、うまし国うましこの家 ぞ、うべも富みたる。
反歌
大御代の多摩の酒屋の
西多摩の山の酒屋の鉾杉は三もと五もと青き鉾杉
武蔵野や多摩のみなかみ、御嶽道 払沢 の口、春浅き日南 のそとに、餅搗くや爺は杵とり、臼のべや婆は手に捏ね、ぽたらことのどに対 ひぬ、ぽたらこよゆるにとめぐる。閑 かなるここらの里も、雛祭ちかづきぬらし。御形 咲き蓬萌えたり。古りぬれど雛もかざれり。山もあり川もありけり。こもり啼く子ろも居るらし。道埃 しろじろ立てて、吹き過ぐと風はさむけど、雲ゆけば日ざし洩れ来て、おのづからうら安の世や、ぽたらこと爺は杵とり、ぽたらこと婆は捏ねつつ、水すする。
反歌
春なれば草の蓬も搗きこめてのどかなるらし
道のべののどの餅搗きおもしろと見つつあかずも杵の手ぶりを
めぐり見つ見つつあかずも搗くたびに杵にのり来る餅のふくらみ
搗きたての
§
山道にかかる
しろじろと埃あげくる道の風やや
人も見えね
五月中旬、千葉県人会よりの帰途、千葉より印旛沼の吉植宅にゆく。
この己は鰌になりぬ天然更新の君は鯰になるならよしも 夕暮へ
うれしくておれは鰌を踊るなりこれは大きい印旛沼の鰌 牧水へ
両国の一ぜんめし屋でわかれたるそののち恋し伯林の茂吉 茂吉へ 二首
ざるふりてすくふお前がうれしくておれは鰌になりにけるかも
おもしろとうれしうれしと尻ふりておれが踊ればほめられにけり
下総や
はろばろし葦原かけて湛ふれば空よりも明し大き
草食むと
印旛びと出水かしこみはろばろし葦原かけて植ゑし楊
印旛沼家居とぼしき
印旛びと印旛の津々に屯して
友が家は
註・葦野(アシヤ)はその地の俗語である
二人は遅れて行つた。久しぶりで汽車の中から飲んだ。この辺では四合瓶一本と大きな白い盃を二つ持つてゐた。尠いので大切に飲んだ。
日の照りて
風あそぶ土手の蓬生たわたわに
蓬生にいとど沁み照る酒の
酒を惜しみ春を惜しむと印旛沼や土手の長手をあかず飲み行く
枯葦にとまるすなはち揺れ揺れてよしきりが鳴けり若葦の原に
この友と酒をふふめばねもごろに見つつよかりしあの頃おもほゆ
事
酒飲みてまことよろしといふひととまことよろしくのむがうれしさ
菱の花菱の実となるあはれさも早やただよへり舟にて見れば
朝刈の戻りなるらし草負ひて渡し舟待つ姉と弟
ねもごろの印旛びとかも白の馬木につなぐとし一まはりすも
昼ながらこの幽けさは印旛沼の湛への澄みの響かふならむ
一つゐる葭切のこゑはすがすがし広間
しみじみと酒を控へて涼しきはこの大き
大き家の外の日の照りあはれなり
印旛沼の出水ふせぐと
印旛沼の
蓮うゑて楽しまむよとほのぼのと酒のみていふ
印旛沼の大きたたへとさながらに常を湛へつ上おほらかに
やさし妻ころも更へつつすがすがと笑ます君かも髪に手をあてて
あさみどり葦間の小田の
時ぐもり印旛落しを
時ぐもり
ついそこの枯葦束の裏に来て日和よろしく葭切鳴くも
ふと見てし水のほとりの湿り花なでしこは
印旛沼狭き水曲の水の手の若葦の伸びの
夏ごとに出水に
とのぐもり
ねもごろに老木の楊絮つけておのづから離し立ちの
楊より楊の絮が離れてをり穏かならし今日の曇りも
風たちぬ沼の
元棹に早や
垂りふかき
鯉ひそむ
鯉ひそむ張りのしまりを引き引きて網たぐる手に水はねあがる
印旛
早やゆふべ水
印旛びと鯉網は張れ鯉の巣に日にし重ねず
数百町歩の荻と莎草と葦の原である。
朝草は朝に刈り干し夕草は夕べに刈り
出津の夏いよよ深むか荻の葉の荻臭くしてすべし知らぬを
浅宵のかやつり草に似て大き莎草ちふ草を藉きて
荻がくり莎草も
ほのぼのと莎草の花さく荻むらは残暑の照りに
早や涼し葦原行けばしら玉の露上りをり
友が
この出津の
仔の馬も前の荻生の日の照りに涼かぜ食ふと出て馴れにけり
春生れし仔馬はいまだ乳のみて遊ぶのみなり蛍草の花
仔の馬の露けきまみに飛ぶ
若荻原夕風吹けばあはれなり仔馬はかへる母に添ひつつ
葦むらに舟とめて久し湿り風ソフトにも感じ水透かしをる
水の上の影はすべなし菅は菅葦は葦としさやにかがよふ
すべはなし水面に映る葦茎の太きは太き細きは細き
かの水の明るき
明らかに
葦茎のうぶの
陽の映えてまたあかあかとすべなきは穂のちぎれたるばんばらの葦
印旛沼の
印旛沼日の舂けば鳰のこゑこちごちに明る遠の靄より
水鳥の鳰の浮巣のさだめなさ
夕沼のこちごちに浮く鳰の子は一羽は浮かず連れつつぞ鳴く
津の
ほのぼのと鳰の浮巣も
印旛
昼捕りし鯉の洗ひの水紅は
印旛沼の真夜のあやしき小つぶ雨鯉鮒どもが光りつつあらむ
夜宴は農人たちの印旛囃子から始まつた。その讃唱歌。
印旛びと印旛囃子を葦原やよしきりが
印旛びと津々の葦間にたむろしてこぞり葦刈り囃す歌これ
大沼のここの
常生くと
朝の出がけに出て山見れば雲のかからぬ山はない
筑波根に朝ゐ夕ゐる旗雲の
いにしへの印旛の神が
よく遊ぶ印旛びとかも鉦うちて遊ぶみぎりは
寒の鯉水にしめつつかつぐ子も夏は浅夜の鉦たたきけり
農人たちの群の中から、紅い手拭の頬かぶりにひよつとこ面、派手な友禅模様の短い衣裳をつけて踊り出したものがある。里神楽の囃子が起つた。
里神楽
こを見よ笑へ笑へとをどりをり笑へざりけりひたぶるなるは
おもしろくなつて、今度はこちらも飛び出した。なかなかうまいをどりである。
踊るとて早もうれしくなりにけり頤に吾が結ふ手拭の紅
くれなゐの里の手ぬぐひうれしくて頬にかぶるきはよ何も思はず
こはわるしかはつたなしと常云ふは遊ぶ心を常もたぬらし 尾山に戯れて 二首
酒のみて恍れて遊ぶを酒のまず恍れず遊ばぬ蒼き顔せり
このをどる
ようをどるおのれ
麦搗踊がまた始まつた。千樫君と私とが飛び入りにまた踊り出した。
世の中は常しさびしよ麦ほこり浅夜立てつつ搗きてめぐらむ
すべもなく常なかる世に鉦つづみ振りて鳴らして遊ぶ子らはも
おもしろと手うちはやしてはや立ちていつかをどるとをどりゐにけり
おもしろの
杵はかく持て麦はかく搗け然見せつえやとをどりつ連れてつきつつ
やと下ろす杵の手ぶりのおもしろさえやととめぐる麦搗きをどり
麦を搗くをどりをかしとおもしろと手振りをどれど足取はまだ
えやおもしろそやおもしろとをどりをりこれの浅夜の麦搗きのとも
麦搗くと搗きてをどりてすべなけどをどりあかさむ鶏の啼くまで
杵とりて麦は搗かねど麦搗くとつれてをどれば香に酔ひにけり
なみなみと酒は注がしめややさめぬをどりをどりて吾は草臥れぬ
これの輪の小夜のをどりの身につきていよよよろしくなりてくるかも
ほのぼのと歌ひをさめてをどりの輪あはれとめたり鶏の啼くとき
その後に
踊りはてて残り酒すふ口あたり末苦うして
寝かされてふすまかぶりて夜のほどろ手だしをどらせ叱られてゐる
踊はててさがる厨に里びとがいただく酒はまたうまからむ
この里の麦搗きをどり夜の明けは早や憂かりけりよしきり鳴きゐる
あなかしこ童ごころもつゆなくて童さびしつ許されぬかも
大正十二年四月、妻子を伴ひ、信濃小県郡の大屋に義弟山本鼎の経営に成る農民美術研究所に臨む。旁々七久里の別所、或は追分沓掛等に淹留、碓氷を越えて下る。
別所より追分へ、追分より沓掛へ、その落葉松林より落葉松林の中へ、淹留すること半月。
落葉松林に添ひて
浅間
うち
小諸過ぎ
夕せまる落葉松山にすぐろ木の高木は寒し目に久に在り
春浅き落葉松渓の線路ぎは哩標の白き杭がまた在り
霧雨の田中に囲ふ菰櫓いまだも寒し氷採りつつ
から松の
渓かけてうねりふくらむ汽車の腹のぞきゐる頬に煤吹きあがる
末黒の落葉松材の
夕かげの線路のさきに丸太木積み仮駅ならしややに明り来
から松の渓間の駅に今日から停まり
この渓に汽車見に来り夕遊ぶ子等が騒ぎも雨ならむとす
から松の渓間のぼると子を連れてから松の原をかへり見つ我は
追分の油屋まで
この山は
夕せまる落葉松原のこぬか雨傘さして妻に子を負はせをる
から松は
霧雨の落葉松原の白かんばまだすがれつつ白う光れる
から松の林の道はから松積み二輪馬車がとほるそれだけの道
この雨や芽立の萌黄かをすかにから松の原を行けば
から松の芽立の林見にと来しまだすぐろ木の雨にぬれつつ
白樺は幹は白けどほそり木のこずゑの
雨後の夕
夕明るこの雨あとを出て見るとから松の靄に向ひて歩めり
このゆふべ傘たたみもちて見てゆくは雨あとの橋のてすりの光
雨とめてゆふべあかるき浅芝のへりかぢりゆく曳かれ山羊はも
たれこめてきけるかはづをゆふべ出てこゑの明るくきくがうれしさ
このあたり、から松の細枝を編みて垣とす、風致雅なり。
この門の夕明るみはから松の垣根ならしとほめて見にけり
落葉松原茜さしそふ雨靄の
細雨の朝
雨の玉とめてあかるき
田の
春あさきこの溜池の
芹青む小田の田べりのちよろろ水けさ見に来れば
この背戸は桑の根さむし姫笹の枯れし
追分の小田の窪田の初蛙こゑのをさなにふふみそめつつ
雨にこもれる
この雨にをさなかはづも鳴きつぐとこゑととのひぬ二日三日して
今朝の田に雨よぶかはづをさなけどころろと鳴けば春田めかしも
雨しげし下田の根芹つみに出て濡れゐる
畑つものいまだ乏しか炬燵して芹のひたしを今朝もすすめぬ
あぶらうく鯉の味噌汁味噌くさし芹を
靄しげき山の田見れば小舟ゆく
山かげの田を鋤く人は馬持たず高き
家裏の
雨の間は
雨なりしきのふをあれの
追分の宿
追分は脇本陣のむら青の蛇腹の獅子の
軒並は旅籠の名のみゆゆしくてこの追分の
春だ春だ木小屋の羽目にぶらついてゐる山火事警戒の赤いポスタア
春の日も古き
から松の夕かげおよぶ
浅間嶺の野分おそると屋根低く葺き竝べけむから松の原に
屋根低くひとつなき側面に夕日いつぱいにあたる冬なり
桑の根に枯れて光らぬ薄の穂根刈りすべくは春雨ののち
追分は
あきらかに春とし
二十三日、山本夫妻、沓掛よりガタ馬車に揺られて来る。夕刻、うちつれて追分の岐れ道を見、惆悵として帰る。
馬子ぶしの古き追分夕陽さしぺんぺん草の二三本の花
追分の辻の浅芝
追分の辻に出て見て簡素なり馬頭観音の四月の夕陽
馬頭観世音の裏の夕陽に出でてゐて
うつせみの仮宿過ぎて追分の道の
春浅き大名行列ここ過ぎて江戸は近しといそぎけらしも
この松は松笠多し枯なむと夕陽あかきに歩みとどめつ
信州小県郡別所温泉(古名七久里の湯)北向観世音の絵馬を観て詠める歌七十五首。絵馬には独立ちの馬を画けるもの、或は二頭立ちのものあれども、その中に特に異彩を放てるは大額一面に数百となき放牧の馬を画けるものならん。その全額面は、ただ僅かに地平に青空を残すのみにて、凡ては群馬を以て満さる。芸術品としてはさしたるものにあらざるべきもまことに信濃の風土色を現はしておもしろし。これらの歌は主として大額の絵馬の記憶について歌へり。但し、表現の上に於て、その全体の或は個々の神を伝へんとするに必ずしもその形態の写生に執せず。半ば以上は予が平生の「馬」そのものに於ける観照と、連想の自由にまかせたり。故にこれらは精神に於て新に予自身の絵馬として創作されたりと為す方当れり。ただかの絵馬は予に此の機会を些か暗示したるに過ぎず。
序歌
観音の春ののどかに詣でゐて我愁ふなしまかせまつりつ
我がこころ今は
旅に来て今はた安しむらぎもの心放ちて遊びてをれば
この旅は妻と子を
旅ごころ今日うら安し子を抱きて絵馬のかずかず眺めまはりつ
絵馬師
青雲のそぎへのかぎり遊べよと絵馬師心あれや馬放ち遊ぶ
信濃の山の
馬は描け轡手綱のいましめは描かず放ちぬよき絵馬師かも
野に遊ぶ馬は描きつつ
群なす馬描き放つ
馬の顔馬の顔してゐたりけれ萱やすすきを吹く風の
ねんねんに絵馬師が描ける
馬主
奉納の絵馬の青駒よき馬によき名しるせり佐久の馬主
佐久びとはゆたかなるかも
ひたむきの馬ぬしかもや観音と云へば馬頭観音のほか御名しらぬなり
馬市にむらがる馬は数しあらめ
雲のごと市にむらがるいななきは北佐久の馬
野に放ち
群馬
野をうづみ馬のかぎりが遊ぶ絵馬眺めあかずよ子にも見せつつ
牧の野に馬のかぎりが食み足りて遊べる絵馬を見るがゆたけさ
この絵馬の馬のかぎりが食み足りて遊べる牧は北佐久の牧
みすずかる信濃の駒は鈴蘭の花さく牧に放たれにけり
青雲にきほひいななき牧の馬の
信濃の山の
空ぎはに
野分来るや
胸高に風にいななく牧の馬やいとど白きは遠駆ける馬
薄吹く風にいななく青駒は力の張りや
前掻き掻きはやり堪へゐる赤駒の尻尾の垂りに力こもれり
跳ね立ちて今飛ばむずる雄の馬の
をどり立ち
牧馬のきほへる中にゆゆしきは脚そろへ立つ大黒の馬
黒駒はゆゆしかしこし北佐久や野分しき吹けさゆるぎもせず
連銭の葦毛がむるるひとたむろ
寂しくもつくばふ馬かたまたまは首向けて見居りおのが尾の振り
この牧の
日のさかり坐りゆたけき大鹿毛のねむりは深し萱むらのまへ
身もたまもをどりゆるがせ仔の馬の遊べる見れば心ゆらぐを
蹴り蹴合ふ仔馬は
秋風の黒の母駒仔を
母馬は
母が目を
風光る川はわたらず鹿毛の仔の小さきは戻る水のそばより
水のむと夕うなかぶし鹿毛の駒まだあはれなり眼をひらきつつ
まさびしく
風向ふ群の葦毛のたてがみはそろひて黒し揺れなびきつつ
青の瀬にをどり越ゆとし青の瀬に鹿毛の若駒いななきにけり
揺りおよぐ鹿毛の尻毛の垂り重くたぷたぷと沈み白き渦波
垂り重く尻尾沈めて
たじたじと
ものの蔓引きさぐる馬の長ら顔ゆふべはあかし陽に照られをる
朴の辺に日かげ求めつつ目のうすき月毛は
駈け駒はうしろ振り向くたまゆらも尻毛平になびかせにけり
駈け駒は四つの膝瘤力こもり蹄の裏し空向けつ皆
駈け駒は
目も
近き馬は太くゆたけく遠き馬は小さく描きたり幽かなる群
誰知らぬ深萱むらにかくれゐる
薄より赤き顔だけ突きいだし馬あはれなり秋風ぞ吹く
この馬は吹きぬき風に草食みて耳ひとつだに動かさずあり
汗あゆる鹿毛の
空見ると老馬のまなこ大きけどしばしば閉ぢて目やにたまれり
水のむと白と黒とがうなかぶし白かがやけりこなたべの馬
すがし
絵馬ながら馬はさびしよ白は白黒は黒とし遊ぶほか無き
風の萱行き遇ひ馬のたてがみは
春駒
春駒や背に
おほどかに額いつぱいにゑがかれて群青剥げし独立ちの馬
観音のこの大前に奉る絵馬は信濃の春風の駒
をはりに
子よ
四月中旬、妻子を率て、信州別所温泉、古名七久里の湯に遊ぶ。滞在数日。宿所たる柏屋本店は北向観音堂に隣接す。楼上より築地見え、境内見ゆ。遠くまた一望の平野みゆ。幽寂にしてよし。
観音の暁色
湯どころの春のねざめのおもしろさ鐘と太鼓の互み鳴りつつ
観音の太鼓とどろく夜のほどろ下田はるかに啼く蛙あり
観音の春はあけぼの紫の甍の反りの隅ずみの
遠べにも観音さまの反り甍早う眺めて起きる子もあらむ
ふるさとは清水観音の雉子車を思ひて 一首
父恋し母恋してふ子の雉子は赤と青もて染められにけり
春暁
別所に男神女神の両嶽あり。その御手洗の末合して相染川となる。
八重雲の豊の
雲分きて男神は明くれほのぼのと女神はいまだ
ほのぼのと相染川の水越えて連翹の花に遊ぶ風あり
春朝浴泉
起きぬけに
ほのかをる硫黄のこもりよろしよと今朝安らなり湯にこもりつつ
ふくらかに空気こもらふ白タオル固うむすびて湯をよろこべり
浴泉のこの安けさに射しこもる朝かげ
ごむの毬湯には浮かしてあそぶ子とあかき
をさなかるいのちゆるがせ遊ぶ子の
つくづくと身をいとほしむもとごころ湯にひたりつつ
観音の春昼
観音の
鰐口の音ゆらぐもよ子を連れて或は妻か詣でたらしも
観音の金鼓揺りつつ子にとらす黄と赤の緒のねぢり緒のたま
観音の
湯の町 春昼散策の一
春昼、宿の若主人の案内にて散策す。同君はカメラ党なり。
護摩たくと
七久里のみ湯の湯川は橋竝に蒲団干したり春の日をよみ
裏透きて
早鐘うちすぐうちやめぬ春もやや山火事うとくなりにたるらし
安楽寺 春昼散策の二
日のあたる築地のもとに
萱ふかき御堂は
おとなひて待つ
寺庭の春の日向の閑けさよ山杉の風まれに音して
寺の子は日蔭の砌つたひ飛び素足さみしか
老松少し。伝肇寺を思ひて 一首
吾が寺は豊かなるかも春かけて山松の風さはに音しつ
独活畑 春昼散策の三
朝にけに芽独活かなしと
山びとは春もふけぬと棚畑の芽独活かきほりのどにかがめる
独活の芽のかなしき
いや遠き昼の山火はのどのどと見もかすむらし芽独活ほりつつ
山畑にあれの独活ほるうしろでは君がカメラに
独活畑に莨吸ひをるあのすがた春はのどかによう
常楽寺 春昼散策の四
薄束たかだかと積む御堂横日はあたりつついささか寒し
木蘭の花のかたちは帰依びとが
干葡萄酢にひたしつつこはよしと仰向きて食めば人が撮しつ
野の宮の二つ幟がこもごもに照りつかげりつ春はのどかさ
柴木たく野山ならしとながめゐて煙しき湧けばのどならぬかも
春夕散策
向畑に
高畑の柿の老木の下通さくらはあかくふふみそめにし
観音の矢場の日永にきそふ矢の的矢はおほく当らざりけり
路に西行の戻り橋あり。往昔、西行上人此地を過ぎ、畑の麦を見、村童を顧みて何の草ぞと戯れたまひしに、童すなはち冬茎立の夏枯草とし答へたりければ、何思ひたまひけむ、そのまま元来し道に歩み返したまひにけり。その名ここより出づと云ふ。
夏は枯れ冬は茎立つ草の穂のいまだは伸びね逢はむ子もがも
夕明る橋の
往還に出づ。余五将軍維茂の塚あり。
春は早や
道を出てやや歩ますと子が手とり夕うらさびし旅に来てゐる
ほれほれ馬が
蕗茎の七久里漬を売る子ろに声かけてとほる馬子の足どり
往還の積木に下ろす子の重さ腰かけてわれも遠田見てゐつ
春山の下田の
観音の甍ながめて帰るころ早や夕明る
このあたり鎮守の祭らし。
葱坊主夕づく遅し
別所の裏山づたひに半里余をのぼれば氷沢にいたる。山高く、夏は三伏の盛夏と雖も氷雪ありと云ふ。ここに風穴を穿ち、蚕卵紙を貯蔵す。予がのぼりし陽春の候にも冷風絶えず。風穴の氷柱また深く、山椒の魚生れ、名知らぬ高山植物の花むれ咲きたり。この行、妻と伴なり。なほ湯川は一名相染川と称す。この温泉町を貫通する小流なり。石湯はその名の湯なり。岩石の湯床を以て名あり。
一
七久里のにほふ湯川は山吹の一重の花ににぎはひにけり
この道はよろし山道吾が好きな山吹咲きてよろし山道
二
山ゆけば蕗畑多し蕗の葉の畑にあまるは路へ萌え出ぬ
七久里は蕗の名どころ窪畑の蕗のかぎりが薹に立ちつつ
出はづれて山路へかかる日おもての棚畑の蕗は大き葉の蕗
三
猫やなぎ咲きほほけたる山路につき自由画持ちてとよみゆく子等
学童らクレオンで写生してゐしが雲浅き山へいつか消えたり
四
山畑にいくつ燃す火のすゑなびきこもごも白し春たけにつつ
山畑や赤き
五
雲あかる山の
六
山の井にさびしく髪はかいなでて子を思ふ妻か今はいそがな
山の井の下井にひたす
早蕨の
七
浅芝や
ひようとして寒き風来る山はなに
八
苔水に山椒の魚はうまれゐてまだこまごまし
山椒の魚いまだちひさし追ひつめて杉の落葉のあかき
岩清水
九
高山やここには白きすがし花雪間の枯れに群れてふふめり
岩が根の
雪のべににほひはふふむ群花の春のいとなみ深からむとす
むら燃えの
十
山里は桑の葉肥ゆる陽の
雪かよふ山の
花盛る山の榛生の裏かけてしきり飛び啼くは四十雀らし
草刈のもどりならし
声はすれ向ふ
大正十二年四月、信州小県郡の大屋村に農民美術研究所が開かれた。
鐘が鳴る
鐘が鳴る丘の研究所の鐘が鳴る雪が消えたよ春が来たよと鐘が鳴る鳴る
もうすぐだ農民美術の展覧会だ信濃の春も目に見えて来た
これからまた
開所式と丘の上の宴会
シルクハットの県知事さんが出て見てる
うちの子があかい林檎をにぎつてゐるシルクハット抱いたほら笑つてる
あの光るのは千曲川ですと指さした山高帽の野菜くさい手
輝く果実とその影とだ盛つたばかりだ楊の籠には竹のナイフだ
いま注いだ麦酒のコップと瓶の黒とにはたはたとあふる
簡単に穂麦を染めた白い
風だ四月のいい光線だ新鮮な林檎だ旅だ信濃だ
いい言葉だまつたく素朴な雄弁だ村長さんだなと林檎むいてる
さあプロジットだ地面いつぱいに敷きつめた
おれがほんとにうれしいことはそつと云はうか兄さんとここで見られてる事
固い
食べさしの林檎とバナナを包んでゐる折目のついたハンケチの白光
木の鉢 其他
木の鉢に赤い漆でぽたりぽたりとなすりつけてある
もう春だな赤い漆をたらたら
麦の穂をすうつと緑で
ざつとただ塗つたばかりだニス塗りの荒くゑぐつた
朱に金で落花生の花を描いてあるこれは露西亜塗だ百姓の鉢
ふかしたての
荒くゑぐつたこの木の鉢の鑿目にも春が来ました輝く春が
浅い春です白樺の皮を
木を挽き切りぱんと二つにぶち割つた巻煙草入れの函と蓋です
荒彫の小さい書架です菓子のやうな赤い詩集を載せて冬です
臼見たいなこの椅子を見ろゑぐつた木の根つこだ林檎畑の昼めしの椅子だ
見ろまるでゴッホの画室だ椅子だ椅子だこのゆがゆがの栗の木の脚
木の皿に一つごろりと描いてある紫の芽の出かかつた
青木の春だな花托の白地にころがした赤と青とのぽつとりした
栗の木の花が咲きます農民美術の木彫のナイフが日に光ります
彫刻人形
荒彫のでろの葉かげの白い家田には女が
おおこれは両手をあげてる
冬の日の炉ばたで彫つたか豆人形胡桃かなにか割つて食べてる
寒い寒い信濃の冬の豆人形みんな頭から
赤に黄の風呂敷かぶつて葱をかかへてまだ娘だろかたい雪道
北国のしやくんだ固い泣きつ
髪を洗ふ人形は春を待つてゐる首の根つこで手を合してる
染色――図案
何もかも畑や丘から写して来たわしが図案だそのまま染めろ
どの村も桐の原つぱどの桐にも蝉がしいつく鳴いて朝です
雀の声だな雀の宮といふ駅だなやはり旅だなまた発車だな
旅さきで講演をして暑い日だのうぜんかづらが咲いて市街だ
この日 摂政宮殿下の行啓があつた。その少し前である。
暑さうにシルクハットがたかつてゐる立秋の駅のつばくらのこゑ
西那須野だれも汽車から眺めてる夕顔の花の昼の強い陽
秋が来て夏が
西那須の青い曠野のあら草は風にまくれてきつい残暑だ
馬がゐて草も刈らいで放つたらかしだここの那須野の乳いろの花
何の穂かよく実がついた草土手の反射に沿つて汽車の午後です
宮さまのお通りを待つ沿道の薄あかい花はみんな煙草だ
教科書の
西那須野行啓のまへのしんとした農園の白いいつぽんの道
朱の枠の幌馬車のかげが遠くに見えたんばこの花の秋の日ざしだ
どの馬の白い
へそ
この道はまつしろな道葛の花の紫の穂もとても埃だ
渓崖のひでりつづきに褪せかけた葛の花ですこの紫は
朴の葉の一枚の
ちやうどかうした山擬宝珠の花だつたよいつだつたか二つ蕾んで一つ咲いてた
黙つてろと親友の子の肩を押へた朴の木にほら
塩原の塩の湯、対岸の岩壁の下、渓流のへりに湯の湧くところがある。湯は水に交り、水は湯に温まつてゐる。ここに常にひたるのである。この渓の湯は高い楼上より俯瞰する時にいよいよ仙家のものとなる。
渓の湯に裸の男女がつかつてゐて一面に射す青い葉洩日
渓の湯だみんなはだかだ男もをんなも円光が
渓に見れば人間も自然のよい一部だ日がかがやいて波が揺れてる
あの渓に男と女がゐるそれだけでも夏は素朴な光に燃える
子が手を曳き浅瀬をわたる裸婦ひとり青く明るい陽と漣だ
渓の湯に髪洗つてゐる裸婦がある薔薇いろの手だ群青だ水は
夏だ夏男は立つてすつ裸だ渓流の水で背をこすつてる
裸婦ばかり渓の湯に寝て笑つてる天に小さな日が廻つてる
まるで
今はもう子どもばかりだ渓の湯が金色に揺れて空が焼けてる
渓がはの岩のぬめりを越す水に小さい素足がまるで魚だ
渓の湯をながめ見ほれてをさない眼だときをりは乳に水かけてをる
うすべにのほのかな少女ほそぼそとなにか歌つてる腰に手をあてて
ほうこれは牛蒡の花だな湯の
二本の穂の穂草にとまる二羽のてふ揺れてゐる
山の田の
首のべて母と仔とゐる馬小屋に刈りためた草は二番刈りの草
仔の馬が口で選つてるぼんぼんはまぐさの中のわれもかうの花
われもかうだ見ろ一茎ごとに海老いろの珠がついてるああ秋だ秋だ
母馬はうしろ向いてる仔の馬は
[#改丁]
[#ページの左右中央]
[#改ページ]
小序
大正十三年正月五日、智学田中先生の懇招に応じて、伊豆修善寺を発して三保の最勝閣に赴く。この行父母を奉じ、妻子と伴なり。淹留五日、或は晴れ、或は雨。而も不二の観望第一なる有徳の間の朝夕は我をして感懐禁ぜざらしむ。羽衣の松竜華寺の探勝ともにまた清閑極りなし。乃ち成るところの長歌一首ならびに短歌百七十二首を献げて些か先生の慈情に酬いむとす。記して小序となす。
大正十三年正月五日、智学田中先生の懇招に応じて、伊豆修善寺を発して三保の最勝閣に赴く。この行父母を奉じ、妻子と伴なり。淹留五日、或は晴れ、或は雨。而も不二の観望第一なる有徳の間の朝夕は我をして感懐禁ぜざらしむ。羽衣の松竜華寺の探勝ともにまた清閑極りなし。乃ち成るところの長歌一首ならびに短歌百七十二首を献げて些か先生の慈情に酬いむとす。記して小序となす。
沼津より江尻にいたる途上、汽車の窓より 五日
天つ辺にただに
不二ヶ嶺は
天ゆけば薄ら映ろふ雲のかげ不二のおもての尾の
雪しろき不二のなだりのひとところげそりと崩えて紫深し
雪しろくいとど晴れたれ御殿場の真上の不二は低く厚く見ゆ
鈴川の不二の眺めぞおもしろき寒き刈田ゆ絵凧あげたる
天そそり白く
常しろき山は不二の嶺あれ見よと為すなき父や子には見せつつ
よく見れば白くさやけき不二の
不二ヶ嶺はいただき白く積む雪の
清水港より渡船にて渡る 五日午後
大船の心たのめて三保が崎君が
風吹きてさむきみ冬を
小松生ふるここの
めづらかに
反歌
この殿はうべもかしこししろたへの不二の高嶺をまともにぞ見る
最勝閣より
天そそる不二をまともに我が見るとこの高殿に
ここゆ見る不二のすがたは二方に
天そそりしろく反り立つ不二ヶ嶺の大き
駿河なる不二の裾廻のおのづから張りつつし及ぶ
不二ヶ嶺はいよよ
朝ぼらけ不二の尾の
ほのぼのと不二の裾廻にしらむ
不二ヶ嶺はこごし裾廻の
ほのぼのと明けゆく不二のいただきは空いろふかし天の戸に見ゆ
空いろの
不二の尾はいまだはねむれ天つ辺の
愛鷹へ尾を曳く不二の片空の樺いろの晴れはいよよ凪ぞも
明る妙たなびく雲の百重にも不二の芝山
豊かなる不二の茜の
朝びらき明けゆく不二の大前に
有徳の間より眺む
笠雲の
清見潟満干の潮の
朝凪の海苔とり舟はほの寒し棹さし連れぬ二人づつゐて
海苔とるとたづきありけり朝びらき
海苔とると浜
海苔の田は
春はまだ潮干に見ゆる海苔粗朶の
この眺め
海苔の田は
蜑の子は
こもりゐて
河野桐谷君夫妻と令息の宿るところ。六日、散策の後、我らここに小憩す。
大き実の柑子照り満つこの宿は見てあたたかしここにあがらむ
旅に来て
不二ヶ嶺の眺めゆたけく煮る酒のあなねもごろや父とよろしき
こぞり来しよしと
これの子とあの子と遊ぶ日のたむろ柑子も
藁すだれ掛け干す浦の日たむろは海苔とる
干す海苔の
春は早や三保の砂地の日おもての白豌豆の
松の間にここだ
さざら波来寄る浜辺の
三保の春うつらうつらに榜ぐ舟の榜ぐとは見えね行き進みつつ
不二ヶ嶺にいや
押し移り
片空に不二は晴れたれ風雲のゆふべはあかく吹き立ちにけり
不二ヶ嶺は見れど見あかね巻雲の夕照早し
清見潟
昼の間を干潟に黒き海苔粗朶のゆふべは
夕明き
舟べりに小笊うちたたき蜑が子の海苔洗ふ見れば冬も過ぎたり
不二ヶ嶺はまた雪ならし笠雲の
天霧らひ不二はかくりぬ三保が崎いたも濡れゆく千本松見ゆ
天霧らしふる雨ながら三保が崎いやしろじろに辺波寄る見ゆ
うち霧らしふりつぐ雨はひまなけど早や春めかし葦辺かすめり
潮ぐもり春の
§
砂畑の浅き井のべにふる雨のいろこそ無けれふるが親しさ
父母無聊なり
松風のさやけき聴けば生れ来しをさなき我の
松風に白き
この浜の
§
日の真昼つくづく
父母を高く思へば不二の嶺の後べの空のはてなきがごと
これの子をしみみ思へば小松原松の千本の数わかぬごと
ただただに
父は父母は母とて
酒よしと喜ぶ父の老らくを
母父に妻がかしづくすがしさを
日はぬくしほのりほのりとたまたまは出でても見ませ不二を見がてら
母父やたづきなからしをりをりは打ち出歩りかす不二を見がてら
見の飽かず不二を眺めてます母のうしろでゆゑに我は泣かゆも
ましろ髯
吾が父や浜の小浜の行き還り何
あかあかと
霜の
子には子の白の毛帽子かぶらせつなにしか
この磯の浜防風に置く霜の濃くも薄くも見てを通らむ
ここらにも蠣は附くやと
寂しくも見つつ
八日、桐谷君(令息同伴)の案内にて一同御穂宮に詣づ。麗明、風無し
三保びとやまだ春寒く
風速の御穂の御宮のきだはしは真砂吹きあげて松葉
風速の三保の浦廻やこの宮にかかげし絵馬は皆船の絵馬
大船の波乗りごころゆたけくと絵馬やささげし三保の浦びと
浜宮の御宮の松に掛け干して
松ぼくりひろふ
皆行きぬ
松ぼくりしじに蹴あてつ松原や羽衣の松に行くはこの道
まことにも
ひさかたの天つをとめがゆり掛けし羽ごろもの松はこれのこの松
さゐさゐし
さにづらふ天つをとめが真素肌の乳房の
天向ふひとか羽ごろもうすごろも見えつつすべな夕さりにけり
ましら羽の天の羽ごろも夕羽振り消えにしひとのあやにかなしも
御穂宮より松原へ出づ。ここに世に謂ふ羽衣の松あり
風向ふ
父母ようち出て見ませむら松の斜めみぎりに不二の秀が見ゆ
風速のまこと三保はやまさやかに
風速の三保の砂やま
おのづから玉敷き
朝羽振る沖つしら浪辺に寄ると揺りとよもせり
不二ヶ嶺を高みさやけみ三保の崎けふ父母とうち出来にける
世に
しら玉のをさなごころの揺りごころあなたづたづし母に寄りつる
遊び足り楽しききはも陽炎の燃えて跡なし浜の長手に
§
うつつなく笑ふ子ゆゑに砂やまの砂すべりくだるも砂まぶれ我も
砂なだりもとなくづるれ踏み踏みてのぼらむ
砂まろび遊びほれつつこれの子や
帰途
砂畑の苺の
幼などち何か睦びてしなへ葉の苺のもみぢ踏みて来るかも
三保の松原より清水港へ出で、俥に乗る。短日、風寒し。
冬の田の刈田の眺めわびつつぞ俥つらねぬ風の畷を
冬の日も
寒き田をあれや寺かと目にとめて俥
竜華寺や
さむざむと御堂の縁に端居して眼を放つ不二の明る妙はも
見のよろし不二の眺めはこの寺にまさるなしてふ今は眺めぬ
不二見ると君が住みたる
不二見ると君が
吹きわかれ雲立ちわたる不二の尾の夕影寒うなりにけるかも
一いろに蘇鉄の気のみこもらへば夕さり寒しこれの御庭は
日の暮は
短か日の御堂の障子かげり来て絵葉書選らむ時過ぎにけり
かの赤きは蘇鉄の実かと竜華寺を出でつつ訊かす父は
風速の三保の日和のさだまらでけざむく不二の尾根も暮れたり
山裾の柿の老木のはかな陽のたのみずくなに冬は宿れり
さむざむと詣でて帰る刈田道かもかく今日も暮れにけるかも
清水港より三保へ、竜華寺参詣の帰途なり。 八日
月わかく
眉引の
月ほそくまだ
ほのしろき
星あかり
夜に見れば不二の
夜、迎晨台にのぼる
高き屋にのぼりて仰ぐ星の座のいや遥けくも
目にとめて寒き夜空に澄む星の群多からし満ちにけるかも
夜の空に充ち満つ星の少くも目に見えぬ外もまたたきにけり
星の座の連れつつ隣る夜の天は見の親しかも
ひむがしの
まつぶさに
夜の
寂しくも
我の星
かの紅き妻が
幼な星
空のむた闇はあやなし星の座の
おぎろなき夜天の宿は幽けけど人こそ知らね
天宮の
押し移る夜空の澄みやおのづから星座の
天雲の
夜の雲の白木綿雲の寄り畳む五百重が奥に不二は
天雲の不二の高嶺の雪雲は五百重も千重も下り畳むらし
望月の月映なして照る雪の不二のいただき暁ならむとす
大正十二年二月、香取より潮来へ、潮来より鹿島へ、また舟行して帰る。
深靄に朝の間あかる日の
黄にまろきをさな童の日の居処靄はふかしと舟ゆあふぎつ
朝花の黄のたんぽぽはいとけなし波揺り来ればざぶり濡れつつ
靄ふかき河心に吼ゆるをさなごゑ
榜ぎ着きて火もほのぼのと焚くならし沖田のガスの裾紅み見ゆ
つぶつぶと
舟揺りて子ら取つ組みぬ水ぎはにとてもあざやけき朝花たんぽぽ
牛連れて棹手つぎゆく舟の子ろ繁みおもふや紅の帯まく
ひと萌えの
香取より鹿島へまゐる舟の路物思はずあらむゆたに榜ぎつつ
靄ごもり鹿島
露くさの花いろふかき沼波は榜ぎつつ繁し靄に見え来て
赤の牛乗せ来る舟のひとうから夕風沼の広みにとあり
家の牛かい乗せもどる
櫓の
夕凪の遍照光となりにける
舟
遠明り
おほかたに真菰は焼きぬ沼の辺の芽の青しもよ母と子と居る
沼のべに黄のたんぽぽを摘む
牛の
この眺めゆたかに
櫓をあげて棹さしつぐと夕沼や細長堀へ舟はひりつつ
夕沼は遍照ひろしまれに来てかかる安らに会ひにけるかも
この安ら暮れであらめやよくぞ来て
櫓を榜ぐと帆は巻き入れて
舟びとや
舟びとは榜ぎぞ足らへれ少くも櫓をし
たぷたぷとあたる水の
日の暮の
けけろ鳴く声は放てど夕照の日の方附くか
舟にゐて春は炬燵のうづみ火のはつかに赤し
宵空の
微塵光夕さり永し芽やなぎに燕のむれは頬をそろへつつ
色の
たぶんたぶんとざんざら真菰揺る水のながれは絶えず榜がで流さむ
十二橋三つはくぐりぬ糠星にせんだんの実の
夜の靄に焚火する子の面あかりちかぢかと見つ潮来には来し
落椿多し
落ちつばき
春雨の
しつとりと雨がなじんだ籾がらに明りさしてる
籾がらも紅い椿も暮れかけてゐる暮れて動いてゐる雨がふつかけるのだ
花だまり椿のあかき背戸道はふる春雨の日暮らしどころ
春雨繁し
板わたす用水堀のこぬか雨
魚すくふ童が
背戸堀はふる雨繁し飼ひ鳰のつけ糸曳きて泳ぎつめつつ
雨はまだ
雨空にせんだんの実は明るけど簑笠つけてとほる人あり
この里の春やさみしきおとなびて莚織る子が
春雨に藁すぐる子らひめもすや顔はあげずて暮れてしまふらむ
つらつらに遊ぶ
この雨や春雨ならし芽やなぎに帆檣ぬれて船ももやひぬ
裏妙義つつじにほへり日の道やいただき近う寄り明るらし
熊蜂の翅音かがやきおびただし春山ふかく営みにける
こちごちに若葉かがやく日のさかり四十雀飛ぶ山片附けば
深山路はおどろきやすし家鳥の白き
山吹の一重の花の咲きしだる
上つ毛へ碓氷をくだる春のくれ岨うづみ咲く山吹のはな
こなたさす使ひ童か見えつつも躑躅あかりをなかなか来ぬかも
山路来てひたすらひもじ蕗の葉に満ちあふれゐる光を見れば
谿高くガアドそぎたち夏ちかし
物のこゑひびかふきけばおほかたの若葉は
谿ふかくたぎつ瀬の
春山の道のたをりにちりそめて板屋かへでは
蓬伸び
日はかすめ
山すそは夏の日ざしのいちじるし楓の花もちらひそめたる
ほうほうと
製材の響けざむき
幅広き谿岨寒し
採氷池青みそめたりかへる子や頭重くも揺りをどりつつ
鷹来りおたまじやくしは
明るけど洩れ陽はさびし久しくも村にはこもる風かとおもひぬ
枯れはてて見のなごやかになりにける谿の河原の穂すすきの群
日向べにほのあたたまるわびごころ
押しあててかたき胡桃は
ほろぬくき今日にもあるかしばしばも胡桃の殻を膝にはたきつ
§
夕雨に踏みやはらかき落葉松の落葉は
ゆたに立ちて乳をしぼらせてゐたりけり
おもおもと桶にたぶつく
子の眠れるまを妻と出て
天つ日の光はわかし翁ぐさ
山原の
をさなごやまだ覚めざらむ妻と出て翁ぐさ踏むこのしめらひを
林道を車きしませ来し鹿毛の眼が光りたり翁ぐさの花
黄の蝶の林に住むは幽けかり
うち響き山のこだまのけ寒きは唐松の枝
山原は轍とも思ふ道の窪に光り出て紅し花翁ぐさ
翁ぐさあかき手にとり土つきて
落葉松のす黒き林露はなりまだ照り寒き
から松にから松の影うつりをり月の山路にながめて来れば
芽に匂ふ落葉松原の夕月夜かすかにひびく田蛙のこゑ
月の夜の自動車道のか広さよ山蔭遠く蛙の鳴きゐる
小山田は早や水張れりいまだしも
山茶花に雪ふりつもり
雪早ししきり膨るる
七面鳥けけろ歎けば
両つばさ地に張り歩む傲り鳥七面鳥は見らくしよしも
雄に添ひてかがよふ青き頸のへり七面鳥の雌の細みかも
世に愛し雌にし矜ると張る尾羽の七面鳥は
七面鳥おほらかなるかな雌を追ふと広庭をまろく大きくまはる
印旛沼の紫
膨れ来てたまゆら停る七面鳥
七面鳥翼ひびかし歩をやめず白き蛾のごと雪乱り来ぬ
七面鳥車輪のごとく張る尾羽のゐさらひ紅し雪吹きつけぬ
紫の
雪の間を硝子障子に来寄り澄む七面鳥の
泡雪の
刈跡はつむ雪早しこちごちを葦づか白う見えまさりつつ
印旛沼の狭き細江の向ひ丘早や目にしろし雪つもりつつ
刈り継ぎて夕照寒き出津の野や葦づかおほく見はるかしつつ
西寒し萱野の遥に落つる日のこよなく赤く一つころげぬ
夕土間の
土間の
吊棚にい寄りくぐもる数の
おのがじし
吊りとぼす提灯の紋の抱茗荷湯にぬくみつつ見てをり吾れは
夜は寒しひとさしくべし風呂の火に鶩は啼きぬ炭櫃のまへ
夜はふけぬねむりまどけき土間の
霜の置
霜の野に朝日さし照りあはれなり鶏と鶩と七面鳥のこゑ
七面鳥
霜ふかし霜ふかしとて出でて見て一面の冬の朝日の光
朝を出て褞袍かかぶり聴きゐたり萱の濃霜のとけてひびくを
張る尾羽の白孔雀
いつの日か馬に食まれて葦茎の伸びはそろはで霜に枯れにけり
火をつけて萱の刈穂の束なりに燃えさかり来る音のよろしさ
野の土手を蜆触れ来る声はして
霜の
水禽の鶩水かく屋敷堀楊は寒しいまだ芽ぶかず
印旛沼しろき明りのとほどほに葦鴨啼けり月の
印旛沼
印旛沼の出津の萱原萌えそめぬ夜頃は月の冴え返りつつ
畷路の芽張柳のあさみどり何かになへる人揺りて来る
春過ぎて夏は日射の明らけし七面鳥のかがよふ見れば
夏もやや
張り来りたたら足踏む七面鳥いや照りしらむ陽の
真昼日のかぎろひ白き庭のうち七面鳥の足踏深し
落ちたまり黄なるつばきの腐れ花七面鳥はよそよそしかも
七面鳥なにかいらだつ日のさかりむら碧の朱の
七面鳥ひた迫りつつまじろがず肉嘴燃え伸ぶ
かぎりなき陽の照り白し留り立つ七面鳥の影の大きさ
七面鳥照りゆるぎつつ
七面鳥尾羽鳴らしつつ廻り居り春埃立つ明るき庭を
春まひる七面鳥の尾の張りの照り円うしてそよぎやまなくに
張る尾羽の真横見せゆく揺り歩み七面鳥は音深めつつ
鳴り深む七面鳥のしづけさよ
ほのぼのとまなぶた紅き巣守り鳥七面鳥は卵いだきぬ
栖に向ふ雄の七面鳥真昼なり張りふくれつつおもむろにはひる
夕遅き厩のまへの日の光七面鳥は行きとどまらず
さうさうとい行きめぐらへ
出津の野は
二つゐる雲雀とし聴きうら安し吾がつむ芹は籠にふえつつ
二つあがる囀りはあれうらがなし雲雀啼くとしただに聴きつつ
右ひだり生きの真鯉をひとつづつ手づかみて来る印旛びとなれ
[#改丁]
[#ページの左右中央]
[#改ページ]
烏賊乾してただ
修道院へ行く道暑し絮しろき河原ははこも目につきにけり
山独活の花明らけしおのづから洩れづる息をうれしみ休む
空のもとトラピスト修道院建てりけりこの正面の昼のしづかさ
裏山の
女人禁制の札あり
修道院の玄関の前に立ちにけり麦稈帽をとりつつ我は
修道院朝凪暑し小手鞠や花あぢさゐの藍も褪せつつ
聖堂のステンドグラス午ちかしをさなかるかもこの基督は
乳をふふみ幼きいえすいますなり時計の針もめぐりつぎつつ
基督の受難の額の裏のかげ廊下の青きこの光線を
照りつづき白き帷の真昼なりひたけうとしもトラピストの寝間
とことはにまかずめとらぬ修道士のむなし寝部屋よ日のほてりつつ
祈り且つ働けと云ふすなはちよしかの修道士は丘に群れたり
日とともに出でてちらばりうやうやし彼等は空をいただきにけり
牧ぐさのくれなゐ
修道院の昼はてしなしぽこぽこと人歩むらしき
よく掃きて日のさしあかる道ほそし林檎のもみぢちりそめにけり
更にうしろは畑である
墓地があつた。外国人の神父たちも埋められてゐる。
から松の
トラピストの墓原の
真夏日の光に聴けば遠どほし緬羊の声は人に似るなり
ルルドの洞窟にて
牛舎近くに出て見る
夏だ夏だトラピスト修道院の柵の外に遊ぶ子供がまだはしやいでる
照り強しいゆきかへらひ憤るここの七面鳥は
青刈の花ひまはりを食む牛のはてなき
草積みて
赤松林を通ると蘿風君の旧居があつた。
岩清水しんしんとして夕近し赤松の幹の映れる見れば
谷隈の小さき泉の夕ひかりわれはひたにし口をつけつも
赤松の林を過ぎて夕づきし広原は見つ馬車の駈くるを
夕づきて何かひもじきひたごころ赤松の原をくだりつつ来し
つつましく君が住みけむ跡どころ谷沢越えて我は見に来し 消息
フオクとは木製の一間ばかりある草掻きのことである。
フオク持つ人もくもくと掻き掻けり
修道院鐘を鳴らしぬ安らけくけふのひと日も晴れて暮れたる
修道院夕さり安し栗いろの群の毛ごろも竝み帰りつつ
月出でて明るき宵や修道士たち今は帰り
丘の
夕闇の御堂のいのり声もなしあかき
こよなくも
客館で私たちは晩餐にあづかつた。赤いボルドオはぽんぽん抜かれるし、アルコールぬきの麦酒も出た。
修道院のあけはなち晩餐なり
修道院こよなく明し
われ立ちて今は踊らむ月あかり深めば鐘もゆり
月がいい。前庭に私たちも出た。「おんこ」とは「いちゐ」のことである。
円刈のおんこに光る月のかげまさしくここは修道院の庭
聖堂の夜の連祷もはてぬらし月に出でてをりふたりみたりのかげ
修道院の玄関の前の月夜なり
天の露いよよ繁みか後の野に馬放たれて涼しこの
丘の
月の夜をしきり傾く
客館の横にポプラ並木がある。
ポプラ葉のかがやく見れば常ながら空のあなたよ見の
修道院鐘の音
空晴れて鐘の音
空晴れてまた事もなし山なだり茶の毛ごろもの群れのぼりつつ
乳酪工場の附近を逍遥した。
山鳩の居りて閑けき葡萄畑青うこぼるる日ざしなるかも
さみどりのキヤベツの地より湧くところ人つくりをり新しき
わが歩みひたすらさびし昨日見し木槿の花は白かりしかも
師団道夜の明けて広しさゐさゐと唐黍売もふれて来にけり
この朝かげすばらしくよし毛のあかき唐黍を呼べば馬車にはふりこむ
ひた駈けに馬車を
朝の日を馬車はかへしてあゆむなる大豆畑の露くさのはな
畑つもの豆の葉よりも露くさの瑠璃いろ深しすぐアイヌ村
朝の気の流らふ広き大豆畠旭川郊外に来てをりわれは
耳とめてこの野は広しこちごちにひびかふものの音のかそけさ
水の音今は聴きゐつこのあたり隠元豆の花がしろしも
あるアイヌの家にはいつて、お婆さんに唐黍を焼いてもらつた。 二首
たうもろこし焦げてにほへりはるばると遠来し旅を堪へてゐるかも
唐黍の焦ぐる待つ間よつくづくと摂政の宮の
おんこ彫る
日の澄みを毛深きアイヌ立てりけりほろびつつあるその
往還に
韃靼の海、波のうねりに揺られゐて遊べる鴨か大きうねりを
平らにぞ凪ぎ青みたれ泛く鴨のかくろふ見れば大きうねり波
うねりの深き凹みへ辷る見し盛りあがる波を鴨の乗り来る
揺れあがる波の平になりにけりしばしとどまり鴨の
韃靼の
かき坐り仰げば巨き帆ばしらなり我この
耳あけて深くしづもる四五本の通風筒の前の照なり
波の上にぽつかりとありはてしなし走れる黒き煙突のかげ
日ざかりの道のべゆけば株だちてまだ柔かき箒草のいろ
除虫菊白きを見れば
歩み来て林檎畑にはひりたり日の明りつつ広く閑けさ
夏山の林檎畠の日のくもり白き
日は近しつくばふ牛の鼻づらを見つつ過ぎたりかむぼちやの花
牛小屋のおもての紅き巴旦杏手のとどくところはみなもぎりたり
蓮のはなほのけく赤しはひり来てここの牝牛の乳をもらひをる
澱粉靴といふものを子らははいたりける林檎畠を出て来る見れば
常掃きて
家の戸に去勢無料としるしたり
北海道深川町の郊外、音江村にさる林檎園あり。たまたま町のK氏を訪るるに、今は人妻ながらそのKのそのかみの恋人なりと云ふ女性ありて茶を供し、まだ小さき林檎などむく。我もただ庭を見、池をながめて、言葉なくゐぬ。
寂しくてなにかまぶしき日のくもり青き林檎をながめゐにけり
うすうすと林檎の
つぎほなく閑けき夏や時あかる蜜蜂の翅音そこら響かふ
風たちて涼しく皺む池の面に百日草の影もうつれり
役場の前のさる歌人の牛飼の家にて
音江村一覧表をもらひたり役場のまへの鶉豆の花
傾斜地の虫除け菊のしろき花いまはつぶさに見て下るなり
遠山に白虹
白壁の
のうのうと
海に来てはたやあはれか老らくの
豊けくてかへてあはれぞまさりける謡のこゑの凪にそろへる
能のワキの囃の笛を吹く人あり
能の笛ひやうへうふれうと起りけりオホツク海の真夏日の凪
空のむた
いつしかと
オホツクの波は光らずたどきなし甲板にひとつ我の足音
オホツクの凪はてしなし日の洩れて末あかりしが照らず止みたり
雲の上を日の行きながれさむざむしオホツクの海いまは観にけり
巻きなだりいやつぎつぎに
日の遠き北に来にけりこの海やたえて光らぬかぐろき荒波
名も知らぬ黄なる花むらなだり咲き目もあはれなり
凄まじく海ぞ荒れたれ目じろがず人は乗り来る舟の
ぺんぺんとなづな実りて群れにけりとどろきくらき波なだり来ぬ
日の光薄き浜びの板びさし春の鰊は燻し了へにし
マントの黒き頭巾のふつかけ雨巡査は佇てり蕗の葉のかげ
浜びさし雨あぢきなし紙旗の日の丸の紅も垂りにじみつつ
ふたつ眼の毛皮の
この雨の樺太
夏、夏、夏、露西亜ざかひの黄の蕋の花じやがいもの大ぶりの雨
夏もなか黄なる鈴菜が明るなり北の日本のいやはての村
日のひかりいとど薄きを菜のはなのうつしく咲きて黄なりこの浜
菜の花に藻くづ
鰊粕
あかき実のななかまどといふ藪の崖子供飛びをり鳥のまねして
ぎやをと啼きまた声
玉ぼこの道つくりびとすがすがし蕗と萱とを
ぬかるみの
吹きつけて息づき
茎高の葉広蕗うつ雨の音今はたしかに国境に来し
鷲ひとつ石のうらべに彫りにけりそなたにあらき
雨、雨、雨、虫くらひ葉の音繁きこの虎杖は露西亜領の花
ここの空きびしく寒し椴松のうれを久しく霧はながれぬ
北樺太ピレオの村も寒むからし蝦夷松疎く雲こごり見ゆ
国思ふ心はもとなとどまらず雨はさ青の
雨は
韃靼海
小学校にて番茶を饗せらる
黄の花の鈴菜畑のざんざ雨鴎あがれりまろき眼をして
日本のいやはての北の小学校
隆盛の大き目の額見つつ出てすずろに
電信局にて
ワレライマヤコクキヤウニアリ、むらさきの花じやがいもの盛りに打電す
じやがいもの花の香しるき頼信紙このふきぶりに濡らしけるかな
缶詰工場は休みて商品陳列所となれり
雨しげき
樺太犬のそりとを居れ雨しとど吸ひふくれたる葱の玉鉾
われさぶし
こんこんとしみみゆり湧く旅ごころ水は
うらさぶしうらさぶしとを選りゐたり
夕づきて遊ぶ
山方はけはひ幽けくなりにけり馬車ひとつ行けり
幌の馬車とめつつさびし虎杖の虫くらひ葉の日ざかりの照り
波のみね千重しくしくにかがやかず海豹島も目路にかくりぬ
みちのくの千賀の塩釜雨ながら網かけ竝めぬほばしらのとも
みちのくの千賀の塩釜雨に来て木の橋わたる大き木の橋
千賀の浦夕立つ雨に船立てて雄島のはなに着けば暮れたり
松が根にきちかうの花開きけりこの松島に今朝は思はむ
松島の海岸どほりまれまれに人あそびゐて日射秋なり
大寺の厨のそとの水ために清水あふれて朝焼けにけり
瑞巌寺の
僧たちと朝餐の席にならびたりつつましくしてほがらかにあり
飯櫃にたきたての飯の湯気たてり大寺はよしこのあかときを
瑞巌寺をまかりいでつつ朝早く松島が見ゆ雨後の松島
松島瑞巌寺前のさざら波施餓鬼すみたるあとのすずしさ
潮のいろ深むを見ればみちのくの金華山沖に今かかるらし
海に見て地球のかたち
帆綱張りゆゆし安けし
かたむくと見つつ待つまをとどろかず
まなかひに落ち来る濤の
躍り立ち羽
巻き
潮の消ゆと浮ぶとおもしろと見つつ見あかず
まさしく津軽海峡に入りにけり早や見る
とどろと雲噴き
岬の
津軽の海
煙曳く煙筒竝び爽かなり高麗丸はよしこの海峡を
この
津軽の海雲はろばろしいにしへや
津軽海峡はや秋ちかし雲の
仮装行列あり
この汽船や笑らぎ照り恍けはてはなし海峡の午後をゆきすすむなり
大船に日は照り満ちぬ紅つけてをどる一人が影の短かさ
ひと船の愛し戯けもはてにけり津軽のかたに日は隠りつつ
津軽の海凪に群れ寄る味鳧の命なりけり粒黒くゐる
つらつらに鴨の泛き来る蒼の波うねり大きく見えにけるかも
渡島の縦の赤雲竝び立ち見のはろばろし星の透き見ゆ
天に三層あり、中なる天を「星のゐる空」或は「騰れる空」と呼ぶ(アイヌ昔噺)
ぬか星の騰れる空にさ霧立ち今宵は
月のもといとど巻き立つ赤雲のかがやき近し崩れずあらなむ
沖つ鳥鴨のかしらのま
もこもことまだ盛りあがるたづきなき波の胴腹に鴨は
まなかひにおほにそびやぐ
つれづれと鴨のすべるぞおもしろきこなたなぞへになり来る波を
夕凪の海、波のあひさにゐる鴨のかなしき声は空にとほれり
ここ過ぎて草は空より新なり
正眼にも夏は光りてとどろきぬ汐首岬の雑草のいろ