「ほら、あれがお城だよ」
私は振り返った。私の背後からは
円い
麦稈帽に金と黒とのリボンをひらひらさして、
白茶の背広に濃い花色のネクタイを結んだ、やっと五歳と四ヶ月の幼年紳士がとても
潔よく口をへの字に引き
緊めて、しかもゆたりゆたりと歩いていた。
地蔵眉の、眼が大きく、汗がじりじりとその両の頬に輝いている。
名鉄の電車を乗り捨てて、差しかかった白い白い大鉄橋――
犬山橋――の
鮮かな近代風景の裏のことである。
暑い、暑い。パナマ帽に黒の
上衣は脱いで、抱えて、ワイシャツの片手には
鶏の首のついたマホガニーの農民美術のステッキをついてゆく、その子の父の私であった。
「うん、そうか」
父と子とはその鉄橋の中ほどで立ちどまると、
下手向きの白い
欄干に寄り添って行った。
隆太郎は一所懸命に爪立ち爪立ちした。
頤が欄干の上に届かないのだ。
ちょうど八月四日の正午、しんしんと降る両岸の
蝉時雨であった。
汪洋たる木曾川の水、雨後の、濁って凄まじく増水した日本ライン、噴き
騰る乱雲の層は南から西へ、
重畳して、何か
底光のする、むしむしと紫に曇った奇怪な一脈の連峰をさえ現出している、その
白金の
覆輪がまた何よりも強く眼を
射ったのである。その下流の右岸には秀麗な
角錘形の山(それは
夕暮富士だと
後で聞いたが)山の
頂辺に細い
縦の裂目のある小松色の山が、白い
河洲の
緩い
彎曲線と
程よい近景を
成して、
遥には暗雲の低迷したそれは恐らく
驟雨の最中であるであろうところの伊吹山のあたりまでをバックに、ひろびろと
霞んだうち
展けた平野の
青田も眺められた。
その左岸の犬山の城である。
まことに
白帝城は老樹
蓊鬱たる丘陵の上に現れて
粉壁鮮明である。
小さな白い
三層楼、何と
典麗なしかもまた均斉した、美しい天守閣であろう。この城あって初めてこの景勝の大観は生きる。生きた脳髄であり、レンズの焦点である。まったくかの城こそは日本ラインの白い
兜である。
「お城には
誰がいるの」
「今は
誰もいないんだ。むかしね兵隊がいたんだよ」
私はその子の
麦稈帽を軽くたたいた。かの小さな美しい城の
白光が
果していつまでこのおさない
童子の記憶に
明り
得るであろうか。そしてあの蒼空が、雲の輝きが。
父はまたその子の麦稈帽を二つたたいた。私は心ひそかに微笑した。「すこし強くたたいて置け」。
私の長男である
彼隆太郎は、神経質だが、意思は強そうである。一緒に行く、機関車に取りついてでもついて行くといってきかないので、やむなく小さなリュックサックを背負わして連れて出たものだが、
下りの特急の展望車で、大きな廻転椅子に絵本をひろげていた時にもこの子は一個の独自の存在であった。食堂のテーブルに
向い合った
僅な時間のひまにも、この子はおぼつかないながら、ナイフとフオクとは
確に自分の物として、焼きたてのパンや黄色いバタや塩っぱいオムレツの上にのぞんで、決して自分を取り乱さなかった。箱根の
嶮路にかかって、後部の大きな
硝子戸に、機関車がぴったりとくっつき、そのまま
轟々と真っ黒い正面をとどろかして押し昇った時にもそれを見たこの子は、それこそひとりで大喜びであった。その夕方、名古屋の親戚の家の玄関に立った時にも、別に鼻白みもしなかった。彼が生れた日だけしか彼を見なかったその
伯母さんが「ほう、おまえが隆坊。まあ大きくなりましたね、おお。よく似ているわね、うちの子に。ほほほ」。
よくまあお父さんについて来られましたね、と驚いて、その
式台で微笑された時にも、この子は
うんとだけいって笑った。そうして自分で靴をぬぐとすぐに飛び込んで行った。生みの母に初めて離れて遠い旅に出るこの子に、この子の母はよくいってきかした。「ね、坊や。自分のことはみんな自分でするのですよ」。
だから、その晩にも、かれはひとりで必死になって上衣を脱いだり、パンツや、シャツの
釦をはずしたり、
寝衣に
着更えたり、帯を結んだり、寝床にころがったり、眠ったりした。
その翌朝の今日のことである。
柳橋駅から犬山橋までの電車の沿線には
桑が肥え、梨が実り、青い水田のところどころには、ほのかな
紅い
蓮の花が、「朝」の「八月」の
香いを
爽かな空気と日光との中に漂わしていた。そうしたすがすがしい眺めと
薫りとをこの子はどんなに
貪り吸ったことか。父とまた初めて旅するこの子の瞳はどんなに黒く
生々と燃えていたことか。そうして
酒徒としての私にはやや差し障りそうな
道連ではあったが時とすると
侮り難い小さな監督者であろうも知れぬが、だが、私自身にも
寧ろ
或はそれを望んだ心もちもあった。
私はわが子の両手を強く握った――よく一緒に
遣って来た。来てほんとによかったのだ。
まことに
白帝城は日本ラインの白い
兜である。
おお、そうして、白い
臈たけた昼のかたわれ月が、おお、ちょうどその白い兜の
八幡座にある。
白帝城に登ったのは、その上の麓の
彩雲閣(名鉄経営)の
楼上で、隆太郎のいわゆる「
香いのする
魚」を冷たいビールの乾杯で、初めて
爽快に風味して、ややしばらく
飽満した、その
後のことであった。
その白帝園の裏手から葉桜の土手を歩いて右へ、
緩るいだらだら
阪を少しのぼると、
犬山焼の同じ構えの店が並んでいる。それから廻ると、公園の広場になる。ところで、極彩色の
孔雀がきらきらと
尾羽を
円くひろげた夏の
暑熱と光線とは、この旅にある父と子とを
少からず喜ばせた。その隣の
檻の金網の中には
嬉戯する小猿が幾匹となく、
頓狂に、その桃色の眼のまわりを動かすのである。
そうだ、ここだったなと私は思った。
金と
黝朱の羽根の色をした
鳶の子が、ちょうどこの
対いの
角の
棒杭に
止っていたのを
観た七、八年前のことを
憶い出したのである。私はあの時
木兎かと思った、ちかぢかと寄って見る鳶は頭のまるい、ほんとに罪のない
童顔の持主であった。
そうだった、これが
針綱神社だったと私はまた微笑した。
あの冬の名古屋市はまったく恐怖と寒気とで、その繁華な、心臓の鼓動もとまりそうであった。悪性の流行
感冒は日に幾十となくその善良な市民を火葬場に送った。私もまた同じ
戦慄のうちに
病臥して、きびしい
霜と、小さい太陽と、凍った月の光ばかりとを眺むるより
外なかった。旅で病むのは何と心細かったことだろう。それに私は貧しいかぎりであった。島村抱月先生の
傷ましい
訃報を新聞で知ったのもその時であった。
今、私の愛児は、幼年紳士は、急斜面の弧状の、白い石の太鼓橋を
欄干につかまり
遮二無二はい登ろうとしている。一行の
誰彼が
哄笑して、やんややんやと
背後から押しあげている。隆太郎は
嬉々として声を立てる。やっと
上ったところで、半ズボンの両脚を前へつるつるつるである。父の私も前廻りして手をうって
囃し立てる。
昔と今と、変れば変るものだと、私は思う。そうだ、あの頃はまだ日本ラインという名すらさして知られてなかったのだ。
「日本ラインという名称は感心しないね、卑下と
追従と生ハイカラは
止してもらいたいな。
毛唐がライン川をドイツの木曾川とも
蘇川峡とも呼ばないかぎりはね。お
恥かしいじゃないか」
「そうですとも、日本は日本で、ここは木曾川でいいはずなんで」
木曾川
橋畔の雀のお宿の主人野田
素峰子が
直と私に和した。
「みんながよくそういいますで」
私たちはいつのまにか、城の正面の柵内にはいりつつあった、軽い足どりで。
浴衣に
袴の、
白扇を持った痩せ形の老人が
謹厳に私達を迎えた。役場から見えていたのである。
旧記に観ると、この犬山の城は、
永享の末に
斯波氏の家臣
織田氏がこの地を領し、斯波
満桓が初めて築いたとある。斯波氏が滅びてから織田、徳川の一族が
拠って
武威を張った。
小牧山合戦の際には秀吉も入城したことがあったというのだが、天下が家康に帰してからは、
尾州侯の家老
成瀬隼人が
封ぜられ、以来明治維新まで連綿として同家九代の居城として光った。
現存の天守閣は慶長四年の秋に、家康が
濃州金山の城主
森忠政を信州川中島に
転封したおり、その天守閣と
楼櫓とを時の犬山城主石川光吉に与えた、それを
明る年の五月に木曾川を
下してこの犬山に運び、これを築きあげたものである。斎藤
大納言正成の建築だそうである。
この白帝城は美しい。その綜合的美観はその位置と丘陵の高さとが、明らかにして
洋々たる河川の
大景と
相俟って、よく調和して
映照しているにある。加えて、
蒼古な森林相がその麓からうちのぼっている。展望するに、はてしない平野の銀と緑と紫の
煙霞がある。
山城としてのこのプランは桃山時代の
粋を尽くした
城堡建築の好模型だというが、そういえばよく
肯かれる。
ただ
僅に残って、今にそびえる天守閣の正しい均斉、その
高欄をめぐらし、各層に屋根をつけた
入母屋作りの
いらか、その
白堊の城。
外観こそは三層であるが、内部に入れば、それは五層に高まってゆく。
その五層の、昔ながらの木の階段を昇る時、隆太郎は危くころびかけた。そうしてその
従兄の三高生から引っ抱えてもらった。
「何でこんなに暗いの、何でこんなに暗いの」
といいいいして
上って来た。
「あ、名古屋城が見える」と、
誰かが叫んだ。
天守閣の最上層の
勾欄へ出たところで、私たちはまず両方の大平野を
瞰望した。きのう電車で
駛って来た沿線の
曠田の緑と
蓮池の
薄紅とが
遥に
模糊とした
曇天光まで続いて、ただ一つの
巒色の濃い、低い小牧山が小さく
鬱屈している。その左に
ほうふつとして立つ紫の幻塔が見える、それが金の
鱗のお城だというのである。そう聞けば何か
閃々たる
気魄が光っているようでもある。
その地平線は白の地に、黄と少量の朱と、
藍と黒とを交ぜた雲と
霞とであった。その雲と霞は数条の太い
煤煙で掻き乱されている。
鮮麗な電光飾の輝く二時間
前の名古屋市である。
東から北へと
勾欄へついて眼を移すと、柔かな物悲しい赤と
乾酪色の丘陵のうねりが
閑かな日光の反射にうき出している隣に、二つの
円い緑の丘陵が大和絵さながらの色調で並んで、その一つの小高みに
閑雅な古典的の
堂宇が
隠見する。
瑞泉寺山だと人がいった。
瑞泉寺山から
継鹿尾、
鴉ヶ
峰と
重畳して、その背後から白い巨大な積雲の層がむくりむくりと噴き出ていた。そのすばらしい白と金との
向うに
恵那、駒ヶ岳、
御岳の諸峰が競って天を
摩しているというのだ。見えざる山岳の
気韻は
彼方にある。何と
籠もった
ぶどう鼠の曇り。
と、
蕭々として、白い鉄橋の方へ
時雨るる
蝉のコーラスである。
爆音がする。左岸の
城山に洞門を
穿つのである。奇岩
突兀として
聳え立つその頂上に近代のホテルを建て更に岩石層の
縦の
隧道をくりぬき、しんしんとエレヴェーターで旅客を迎える計画だそうである。遊覧船は
屋形、
或は白のテントを張って、日本ラインの上流より矢のように走って来る。その光、光、光。
恰も
中古伝説の中の王子の小船のように
ちかりちかりとその光は笑って来る。
「おうい」と呼びたくなる。
中仙道は
鵜沼駅を麓とした
翠巒の層に続いて西へと
連るのは
多度の山脈である。
鈴鹿は
幽かに、
伊吹は未だに吹きあげる風雲の
猪色にその
嶺を吹き乱されている。
眼の下の大河を隔てた夕暮富士を越えて、
鮮かな
平蕪の中に点々と格納庫の輝くのは
各務ヶ原の飛行場である。
西は
渺々たる伊勢の海を眼界の外に
霞ませて
桑名へ至る石船の白帆は風を
孕んで、壮大な三角洲の
白砂と水とに照り
明って、かげって、通り過ぎる、低く、また、ひろびろと
相隔たった両岸の松と
楊と
竹藪と、そうして走る自転車の輪の光。
白帝城は絶勝の位置にある。
私は更に
俯瞰して、二層目の
入母屋の
甍にほのかに、それは奥ゆかしく、薄くれないの線状の
合歓の花の咲いているのを見た。樹木の花を上からこれほど近く
親く観ることは初めてである。いかにも季節は夏だと感じられる。
絶壁の上の
楓の老樹も手に届くばかりに
参差と枝を分ち、葉を交えて、鮮明に澄んで
閑かな、ちらちらとした光線である。
幾百年と経った大木の
樟は樹皮は
禿げ、枝は裂けていい
寂色に古びている。その
梢の
群青を
鴉がはたはたと動かしてとまる。
かおォかおォである。古風な白帝城。
水道の取入口は河に臨んで、その城の絶壁の下にあった。
私たちは城を降りると、再び
暑熱と外光の中の点景人物となった。ひらひらと、しきりに白い扇が羽ばたき出した。
公園からだらだらの
阪を
西谷の方へ、日かげを
選み選み小急ぎになると、桑畑の中へ折れたところで、しおらしい赤い
鳳仙花が目についた。もう秋だなと思う。
簡素な洋風の家がある。入口は開けっぱなしで、粗末な卓に何か仕事しているワイシャツの人がある。役場の老人が寄って行って
挨拶する。
幽かに私の名をいっている。
私たちは洞門に入る。外へ出ると
豁然とひらけて、前は木曾の大河である。
この大河の水は岩礁を
割いた水道のコンクリートの
堰と赤さびた鉄の扉の上を
僅に越えて、流れ注いで、外には濁った白い
水沫と
塵埃とを平らかに溜めているばかりだ。何の
奇もなく
閑けさである。
「この水が名古屋全市民の生命をつないでいるのです」と
詰襟をはだけた制帽の若者が説明する。
私たちは引返して、洞門をくぐると、二台の計量機の前に出た。
幽かに廻っている円筒の方眼紙の上に青いインキが針から
滲んで
殆ど動くか動かぬかに水量と速度とをじりじりと
鋸形に
印して進む。そこで若者は
三和土の間の方五、六尺の鉄板の
蓋を持ちあげる。暗々たる穴の底から冷気が吹きあげる。水は音なく流れて、地下十八尺の深さを、
遥の大都会へ休むなく
奔りつつ
圧しつつある。しんしんとしたその
奔入。
詩歌の本流というものもちょうどこうした
深処にあって
幽に、力強く流るるものだ。この本流のまことの生命力を思わねばならない。
私は隆太郎の手をしっかと握った。
彩雲閣へ戻ると、小坊主は
直と名古屋へ帰るといい出した。名古屋の伯母さんは昨夜、この子の母に長距離の電話をかけていた。
「病気でもされると申し訳がありませんしね。それにお菊さんもまだ一度も里帰りしないのですから丁度いい折ですし、呼びましょうか」ということであった。それに
従兄弟たちは大勢だし、汽車や電車のおもちゃはあるし、都会は壮麗だし、何か早く帰りたいらしかった。
「じゃあ、そうするか、たのむよ」と私は
甥の三高生にその子を託した。
空は
薄明となる、パッと園内のカンツリー・ホテルに電灯がつく。白、白、白、給仕とテーブル。
かえろかえろと、どこまでかえる。
赤い
灯のつく三丁さきまでかえる。
かえろが
啼くからかァえろ。
並木の
鈴懸の間を夏の
遊蝶花の咲き
盛った円形花壇と緑の芝生に添って、たどたどと帰ってゆく幼年紳士の歌声がきこえる。
「おうい」
私は二階の
欄干へ出て両手をあげる。
「ほうい」
向うでもこちらを見て両手をあげる。
白いかたわれ月は
臈たけて黄に
明って来る。ほのかに白い白帝城を、私の小さい分身の子供が、立って
停って仰いでいる。
舟は
遡る。この高瀬舟の船尾には赤の
枠に黒で
彩雲閣と
奔放に染め出したフラフが
翻っている。前に
棹さすのが一人、
後に
櫓をこぐのが一人、客は私と案内役の
名鉄のM君である。私は今日初めて明るい
紫紺に
金釦の
上衣を引っかけて見た。
藍鼠の大柄のズボンの、このゴルフの服は
些か
はで過ぎて
市中は歩かれなかった。だが、この鮮麗な大河の
風色と
熾烈な日光の中では決して不調和ではない。私は南国の大きい
水禽のように
碧流を遡るのだ。
爽快である。それに泡だったコップのビール、枝豆の緑、はためく白いテントの反射光だ。
五日の午後一時、昨日のすさまじい濁流はいくらか青みを
冴え立たして来たが、
一旦激増した水量はなかなかひきそうに見えない。だが、裸の子供が飛び込む、飛び込む。
燦々たる岩の
群と、ごろた石の河原と両岸のいきるる雑草の花とだ。
泳げよ泳げ。
左は
楊と
稚松と雑木の緑と
鬱した青とで
野趣そのままであるが、遊園地側の白い道路は直立した細い赤松の並木が続いて、一、二の
氷店や西洋料理亭の
煩雑な色彩が
畸形な三角の旅館と白い大鉄橋風景の右
袂に仕切られる。鉄橋を潜ると、左が
石頭山、俗に城山である。その洞門のうがたれつつある
巌壁の前には黄の
菰莚、バラック、
鶴はし、
印半纒、小舟が一、二
艘、爆音、爆音、爆音である。
と、それから、人造石の
樺と白との
迫持や
角柱ばかし目だった、俗悪な無用の
贅を
凝らした大洋館があたりの均斉を突如と破って見えて来る。「や、あれはなんです」。
「京都のモスリン会社の別荘で」とM君が枝豆をつまむ。
「悪趣味だ」
だが、ここまでである。それより上は全くの
神斧鬼鑿の
蘇川峡となるのだ。彩雲閣から
僅に五、六丁足らずで、早くも
人寰を離れ、
俗塵の濁りを留めないところ、
峻峭相連なって
少からず目をそばだたしめる。いわゆる日本ラインの特色はここにある。
日は光り、屋形の、三角帆の、赤の、青のフラフの遊覧船が三々五々と私たちの前を行くのだ。
遡航は
氷室山の麓は赤松の林と断崖のほそぼそとした
嶮道に沿って右へ右へと寄るのが法とみえる。「これが
犬帰でなも」と
後から
赤銅の声がする。
烏帽子岩、
風戻、
大梯子、そこでこの犬帰の
石門、
遮陽石というのだそうな。
「ほれ、あの屋根が
鳥瞰図を描くYさんのお宅ですよ」
幽邃な繁りである。
蝉、蝉、蝉。つくつくほうし。
「この高い山は」
「
継鹿尾山、
叡光院という寺があります。不老の滝というのもありますが
上って御覧になりますか」
「いや、ぐんぐん
遡ろう」
風が涼しい、
潭は澄み、
碧流は渦巻く。
紫紺の
水禽は、
遡る。遡る。
「あれが不老閣」
「閑静だなも」
と、これより
先き、中流に中岩というのがあった。振り返ると、いつになく左後ろ
斜に岩は岩と白い
飛沫をあげている。
それから、千尺の
翠巒と断崖は
浣華渓となるのである。
波、波、波、波、波、
波、波、波、波、波、
波、波、波、波、波、波、
波、波、波、波、
波、波、波、波、波、波、
「
爽快爽快」
「富士ヶ瀬です」
すばらしい
飛沫、飛沫、飛沫、奔流しつつ、飛躍しつつ、
擾乱しつつだ。
一面
淙々たり。
「や」
「赤岩です」とM君。
まさしく
瑠璃の、
群青の
深潭を
擁して、赤褐色の
奇巌の
群々がかっと反射したところで、しんしんと
沁み入る
蝉の声がする。
稚い
雌松の林があり、こんもりとした
孟宗藪がある。藪の外にはほのぼのとした薄くれないの木の花も咲いている。
「あれは何の木の花だね」
「
漆の花だなも」で、
巧に
棹を操る
舳の船頭である。白の
まんじゅう笠に黒色
鮮かに秀山霊水と書いてある。
そのあたりが
栗栖の里。
と、書き
落したが、その漆の花が目に
入るまでに、
石床の大きなでこでこの岩、お
富与曾松の岩というのがあった。恋は悲しい、
遂に添われぬ身の
果を嘆いて、お富もまた離ればなれに
上の手の岩から身を躍らしたと
俚俗にいう。
「これがローレライで」
ローレライはちと苦笑される。
新赤壁は左にあった。その前を昔の中仙道が通って、ひとつうねると岩屋観音がある。白い汚れた
幟が見える。
ここで再び
蕭々たる
急湍にかかる。観音の瀬である。
「まだひどい水で」と前のがのめる。
やっとのことで、その瀬をのぼり切ると、いよいよ河幅は狭くなる。いよいよ
差迫った奇岩怪石の層層層、荒削りの絶壁がまたこれらに脈々と連なりそびえて、見る目も凄い急流となる。惜しいことには水がたかく、岩は半没して、その
神工の
斧鉞の跡も十分には見るを得ないが、まさに
蘇川峡の最勝であろう。
斎藤
拙堂の「
木蘇川を下るの記」に
曰く、
石皆奇状両岸に羅列す、或は峙立して柱の若く、或は折裂して門の如く、或は渇驥の間に飲むが如く、或は臥牛の道に横たわる如く、五色陸離として相間わり、皴率ね大小の斧劈を作す、間ま荷葉披麻を作すものあり、波浪を濯うて以て出ず、交替去来、応接に暇あらず、けだし譎詭変幻中清秀深穏の態を帯ぶ。
兜岩、
駱駝岩、眼鏡岩、ライオン岩、亀岩などの名はあらずもがなである。色を観、形を観、しかして奇に驚き、
神悸き、
気眩すべきである。
拙堂も観た五色岩こそまた光彩陸離として衆人の目を奪うものであろうか。
ただ私の見たところでは、この蘇川峡のみを
以てすれば、その
岩相の
奇峭は
豊の
耶馬渓、
紀の
瀞八丁、
信の天竜峡におよばず、その水流の急なること
肥の
球磨川にしかず、
激湍はまた筑後川の
或個処にも劣るものがある。これ以上の
大江としてまた利根川がある。ただこの川のかれらに
遥に超えたゆえんは変幻極まりなき河川としての綜合美と、白帝城の風致と、交通に利便であって近代の文化的施設余裕多き事であろう。原始的にしてまた未来の風景がこの水にある。船は
翠嶂山の下、
深沈とした
碧潭に来て、その
棹をとめた。
清閑にしてまた
飄々としている。
巉峭の樹林には
野猿が
啼き、時には
出でて現れて遊ぶそうである。
私は舟より
上って、とある
巌頭に
攀じのぼった。
蓋し天女ここに嘆き、
清躯鶴のごとき
黄巾の道士が
来って、ひそかに
丹を練り金を練る、その
深妙境をしてここに夢み、
或は
遊仙ヶ
岡と名づけられたものであろう。
遺憾なは「これより上へはどうしても今日はのぼれませんで」と
舟人はまた棹をいっぱいに岩に当てて張り切ったことである。
たちまち舟は矢のように下る。
千里の
江陵一日にかえる。
おお、隆坊はどうしている。
自動車は
駛る。
犬山の町長さんは若い
白面の
瀟洒な背広服の紳士であった。白帝園はカンツリー・クラブの大食堂で私たち三人――私と
素峰子と運転手と――が、この八月六日の極めて簡素な
午餐を
認めていた時に、たまたま給仕を通じて私に
挨拶に見えた。はいって来ると、名刺を一々運転手君にまでうやうやしく
手交した。
若しそうと知ってしたのならば美しいことだと微笑された。またそれほど黒背広の運転手君もひとかどの紳士らしく見えた。すなわち近代の日本ラインである。
カンツリー・クラブは
緩い勾配の屋根の、
錆色の
羽目の中二階で、簡素ないい趣味の建築である。バンガロー風で、正面と横とに広い階段がついている。その正面の階段の下の、明るい色彩の花壇の前で、私は改めて一礼すると、車上の人となった。雀のお宿の
素峰子はきのうの朝から激しい
胃痙攣で顔色がなかった。今日も案内がおぼつかないので、犬山橋駅に廻って、赤い腕章の旅客課の制帽君の同乗をたのむことにした。
自動車は
駛る。鉄橋を北へ、まっしぐらに駛って行く。と、ちらっと、白帝城と夕暮富士とが目を
掠める。
きのうの夕焼は実によかったと思う。その
返照はいつまでも透明な黄の
霞んだ青磁や
水浅葱の西の空に、
紅く紅く地平の
積巻雲を燃え立たせた。そうして紫ばんで来た秀麗な夕暮富士の上に引きはえた吹き流し形の、
天蓋の、
華鬘の、
金襴の帯の、雲の幾流は、
緋になびき、なびきて朱となり、
褪紅となり、
灰銀をさえ
交えたやわらかな毛ばだちの
樺となり、また葡萄紫となった。天守閣のかすかに黄に輝き残る
白堊。そうして大江の
匂深い色の推移、それが同じく緋となり、褪紅となり、やわらかな
乳酪色となり、藤紫となり、
瑠璃紺の
上びかりとなった。そうして東の
瑞泉寺山に
涌出した
脳漿形の積雲と、雷鳴をこめた積乱雲との層が見る見る黄金色の光度を強めて今にも爆裂しそうに蒸し返すと、また南の葉桜の土手の空にもむくりむくりと同じ色と形の入道雲が噴きあがっていた。この夕焼けもラインとよく似た美しい一つの天象だという。伊吹山の気流の関係で、この日本ラインにのみ恵まれた雲と夕日の季節の祭りである。
私たちの
軽舟は急流に乗って、まだ
大円日の金の光輝が十方に放射する、その夕焼けの真近をまたたく間に走り
下って来た。そうして白帝城下の名も彩雲閣の河原に
錨を下ろし
纜をもやったのであった。と、名古屋から電話がかかっていて隆太郎の母は
直にも見えるはずだということであった。
それが今日は
生憎早暁からの曇りとなった。
四方の雨と霧と微々たる
雫とはしきりに私の旅情をそそった。
宿酔の疲れも湿って来た。
この六日は
下の河原で年に一度の花火の大会がある
筈であった。名古屋の
甥たちや隆太郎にも見に来るように通知はしたが、それもどうやら怪しくなって来る。
果然雨天順延となって、私の旅行日程にもまた一日の狂いが生じて来たので、
無聊に苦しむよりは雨の日本ラインの情趣でも探勝しようかとなった訳である。
自動車は
駛る。
と、気がつくといつのまにか北へ向かったので南へ駛りつつあった。や、例の
樺と白との別荘だなと思うと、中仙道は川添いの松原と桃林との間を東へ東へと
驀進しつつある。
新赤壁の裾を幾折れして、岩屋観音にかかる。漢画風の山水である。トンネルがあり、橋がある。
路はやや沿岸を離れて
桑畑と
雌松の林間に
入る。農家がある。
鳳仙花や百日草が咲き、村の子が遊び、
鶏がけけっこっこっこっである。高原の感じである。
秋、秋、秋、秋。
太田の
宿にはいる。右へ折れて鉄橋を渡れば、対岸の
今渡から
土田へ行けるのだが、それがライン遊園地への最も近い順路であるのだが、私は
真直にぐんぐん
駛らせる。なるべく上流へ出て迂回しようと思ったのである。
ストップ!
古井の白い鉄橋の上で、私は驚いて自動車を飛び降りた。その相迫った峡谷の
翠の深さ、水の
碧くて豊かさ。何とまた
鬱蒼として
幽邃な
下手の一つ小島の風致であろう。煙霧は
模糊として、島の
向うの合流点の明るく広い水面を去来し、濡れに濡れた高瀬舟は墨絵の中の
蓑と笠との
舟人に操られてすべって行く。
私たちがその青柳橋の上に立っていると、何が珍しいのかぞろぞろと年寄や子供たちが周囲にたかって来た。この川はと聞くと飛騨川と
誰か答えた。
高山の上の水源地から流れて来てこの
古井で初めて木曾川に
入るのだとまた一人が
傍から教えてくれた。じゃあ、あの広いのが木曾川だなと思えて来た。
「あの島にお堂が見えますが、あれは何様ですね」
「
小山観音」
「
縁日でもありますか」
「ちょうど七月の九日が
御開帳でして、へえ、毎年です」
「店も出ましょうね」
「ええ、河原は
見世屋でそれはもういっぱいになりますで」
水に映って、それは
閑雅な
灯のちらちらであろうと思えた、この支流である飛騨川の峡谷はまた本流の蘇川峡とは別趣の
気韻をもって私に迫った。
上手の眺めにもうち
禿た岩石層は
少く、すべてが微光をひそめた
巒色の丘陵であった。
深沈としたその
碧潭。
私たちはまた車上の人となる。
藍鼠と
燻銀との曇天、丘と桑畑、台が高いので、川の所在は右手にそれぞと思うばかりで、対岸の峰々や、
北国風の人家を透かし透かし、どこまでもと自動車は躍ってゆく。土の
香がする。草のかおりがする。雨と空気と新鮮な嵐と、
山蔭は
咽ぶばかりの
松脂のにおいである。
駛る、駛る、新世界の大きな昆虫。
「見えた。あの鉄橋からまわりますか」
「よし」
そこでハンドルを右へきゅっと廻す。
囂囂囂とそのつり橋を渡ってまた右折する。
兼山の
宿である。と風光はすばらしく一変する。爽快爽快、今来た峡谷の上の高台が
向うになる。薄黄の傾斜面と緑の平面、平面、平面、
鉾杉の層、竹藪、人家思いきり濃く、また淡く
霞む
畳峰連山、雨の木曾川はその
此方の田や畑や樹林や板屋根の間から、
突として開けたり離れたりする。岩礁が見える。船が見える。あ、
檜だ、
瓦だ、絵看板だ。
遥にまた煙突、煙突、煙突である。あの黒い煙はと聞くと、あれは太田だという。よくも上まで来たものだと思う。いや、かれこれ二時間は走っていますと運転手が笑う。こうして兼山から
伏見、伏見から
広見、
今渡とかっ飛ばすのである。
土田は
名鉄の犬山口から分岐する今渡線の終点に近い。ちらとその駅をのぞいて、また右へ、ライン遊園地へ向けて、またまた
驀進驀進驀進である。行けるところまで行って、危く何かにぶつかりそうにしてとまると、奇橋がある。「土田の
刎橋」である。この小峡谷は常に霧が湧き
易くて、こめると
上も
下も深く姿を隠すという。
重畳した岩のぬめりを水は
湍ち、
碧く澄んで流れて、いうところの
鷺の瀬となる。
橋の
袂で
敷島を買って、遊園地の方へほつりほつりと私たちは歩いてゆく。雨はあがりかけて日の光は微かに道端の
早稲の穂にさしかけて来る。
七夕の
紅や黄や紫の色紙がしっとりとぬれにじんでその穂や
桑の葉にこびりついている。死んだ
蛍のにおいか何かが
咽んで来る。あけっぱなしの
小舎がある。
蚕糞や
繭のにおいがする。
莚が雑然と積んである。表に「自転車無料であずかります」と
貼札してある。この道七、八丁。
宏壮な北陽館の前に出る。二階の渡り廊下の下の道路を裏へ抜けると、ここに驚くべき
大洞可児合の壮観が眼下に大渦巻をまきあげる。断崖百尺の上の、何と小さな人間、白の黒の
紫紺のぽつり、ぽつり、ぽつりだ。
大洞可児合は
蘇川中の一大難所である。その本流と
可児川の
合するところ、
急奔し衝突し、抱合し、反撥する余勢は、
一旦、一大
鉄城のごとく
峭立し突出する
黒褐の岩石層の絶壁に殺到し、遮断されて水は水と
撃ち、力は力と
抗い、波は岩を、岩は波を噛んで、ここに
囂々、
淙々の音を
成しつつ、再び変圧し、転廻し、
捲騰し、
擾乱する豪快無比の壮観を現出する。
藍と
碧と
群青と、また
水浅葱と白と銀と緑と、
渦と
飛沫と
水と、泡と、泡と、泡と。
膚粟を生ずとはこのことだろう。私は驚いて数歩
下った。
そこで、また
踵をめぐらして
岩角と雑草の間の
小径を
香木峡の乗船地へと
向っておりた。
しかも明るくひろくうち開けた上流の空の、連峰と
翠巒、
濛々たる田園の
黄緑、人家、煙。霧、霧、霧。
どこかで茶でも飲もうではないか、
茶見世ぐらいはあるだろうといえば、ありますありますと答えながら、赤い腕章の制帽はそれでも一軒の
葭簀の茶亭は通り越してしまう。途中に白いペンキ塗の洋館の天狗
何々と赤い看板を出したそのドアの前にかかったが、窓のガラスもことごとくしめきって「当分休業中」であった。夏でもここまでの遊覧客はさして見えないらしい。ライン遊園地もまだ完成しないで、自然の
雑木原に近い。窪地にスケート・リンクなどがあるくらいだから
沍寒はきびしいのであろう。崖の
縁へ出ると
漸く休憩所の一つを見出した。人の気配もせぬので、のぞいて見ると
隅っこの青く
透いたサイダー瓶の棚の前に、
鱗光の
河魚の精のような
爺が一人、しょぼんと坐っていた。ぼうと立つのは
水気である。
翠嶂山と呼ぶこのあたり、何かわびしい岩礁と
白砂との間に高瀬舟の幾つかが水にゆれ、波に漂って、
舷々相摩するところ、
誰がつけたかその名も香木峡という。左に
碧くそそり立つのが
碧巌峰である。
そこで屋形の船のひとつを私は
小手招く、そこここの
薄墨の、また朱のこもった上の空の、霧はいよいよ薄れて、この時、雲のきれ間から、怪しい
黄色の光線が放射し出した。これからまたひとしきり
なぎになって蒸し暑く蒸し暑くなるのである。
「じゃあ、ここでお別れします。私は
土田へ出てこの山の裏手を廻って帰りますが、どちらが早いかひとつ競争して見ますかな」
自動車の運転手が笑った。
「よかろう」と私たちは舟に乗り込む。船頭はやはり二人で、
棹をつつッと
突張るや否や、
後のが
櫓べそを調べると、櫓をからからとやって、「そおれ出るぞぉ」である。
白帝城下まで二里半だということである。
舟は走る、
五色の日本ライン
鳥瞰図が私の手にある。
「ほう、あれが少女の滝かね」その滝は左の
緑蔭から
懸ってあまりに
幽かな水の線、線、線であった。
右にうずくまるのがライオン岩、
深厳として
赭黒である。と、舟は
直に遊仙ヶ岡の
碧潭にさしかかる。
その仙境を離れると、流れはいよいよ急である。昨日に比して
少からず減じた水量のために
河中の
巌石という巌石は、ことごとく高く高くせり
上って、重積した横の、
斜の
斧劈も露わに千状
万態の奇景を眼前に
聳立せしめて、しかも雨後の
雫は
燦々と所在の
岩角、洞門にうち響きうち響き、降るかとばかりに
滾れしきる。
河峡はいよいよ狭く、流れはいよいよ急に、舟は危うく触れんとして
畳岩絶壁のすれすれを走り
下る。
「や、あれは」
と、目をみはった。
一羽、ふり仰ぐ一大岩壁の上に
黄褐の猛鳥、英気
颯爽としてとまって、天の北方を
睨んでいる。
鉤形の
硬嘴、
爛々たるその両眼、
微塵ゆるがぬ
脚爪の、しっかと
岩角にめりこませて、そしてまた、かいつくろわぬ尾の羽根のかすかな伸び毛のそよぎである。
「
鷹だね」
「え、」と驚いて旅客課「そうです。鷹です」
冷気一道に襲って、さすがに
蘇川は深山幽谷の面影が立った。
「身動きもしないんだね、船が下を通っても」
私は驚いたのである。
心音の
動悸が
止まぬのに、またしても一羽、右手の
駱駝岩の第一の起隆の上に、
厳然としてとまっている。相対した上の鷹、おそらくはつがいであろう。
いいものを見たと私は思った。
野猿の声こそは聞けなかったが、それにも増して私は偶然の、時の
恩寵を感じずにはいられなかった。
私は幾度も幾度も
振返った。
激湍、白い
飛沫の
奔騰する観音の瀬にかかって、舟はゆれにゆれて傾く。
鷹は絶壁の
遥に黒く、しかも確実に二個の点として
厳としている。小さく小さくなる。一個は消えても、一羽の英姿はいつまでもいつまでも残ってみえる。その
向うの空のぬれた
黝朱の乱雲、それがやがては
褐となり、黄となり、朱に
丹に染まるであろう。日本ラインの夕焼けにだ。
あ、白帝城が見え出した。
香木峡から四十分、彩雲閣の河原に着いて、
上ると、その白帝園のカンツリー・クラブの前へ、無料休憩所の方から、驚いたスピードで大型の昆虫の黒に
藍の自動車がはしって来た。ハンドルを両手に、パナマを
阿弥陀に頭の毛を振り振り、例の快活な笑いの持ち主だ。
「や、
万歳、勝負なし」
「ほら、坊や、さよならだ、帽子をお振り」
「さようならァ――」
「もひとつ」
「さようならァ――」
下りの高瀬舟に坐っているのは私たち親子と雀のお宿の主人との三人である。
彩雲閣の二階からは盛んに白いハンカチーフがゆれて光る。女中たちである。
私たちも
一寸芝居気を出して、パナマや
雀頭巾を振る。童話の中の小さな王子のお蔭で、
朗らかに朗らかに私たちも帽子が振れるというものだ。
私たちは
下る。赤い
雌松の五、六本をあしらった二重舞台の
楼閣が次第次第に白帝城の
翠巒に隠れてゆく。
ちらとまたその隙間から白いひらひらが見えたかと思うと、また老樹の
樫や
楓の
鬱蒼たる枝の繁みに遮られてしまう。と、それっきりで、八月八日は午前十一時の
閑寂な
せみ時雨になる。日本ラインとのお別れである。
水道の取入口も過ぎ、
西谷は
迎帆楼の前も過ぎた。あの前での昨日の人だかりというものは昼の花火の
黄煙菊よりも
埃をあげた。
丁髷鬘の
赤陣羽織に
裁付袴の
爺どもが拍子木に
鉦や太鼓でライン
酒とかの
広告の
口上をまくし立てる。その
幟の蔭から、盆の上のリキュウグラスに手を出して無料じゃ無料じゃという赤いのを一杯試し飲みして見たところで、「これは
焼酎かね」と聞けば「いや別製でなも、原料水は、へへん、ラインの水で」と扇を叩いた。「赤いのは」と聞けば「色で
染やしたで」とまた扇を叩いた。色は
樺太[#ルビの「かばふと」はママ]のフレップ酒に似て、地の味はやはり焼酎の刺激がある。土地の名産
忍苳酒は
味淋に強い特殊の香気を持たしたものらしい。
それは
兎に
角、舟は今、
三光稲荷の下にかかって来る。三光稲荷の夏祭は津島祭の
逆鉾舟――一年十二ヶ月は三百六十五の
提灯を山と飾った華麗と涼味とを極めた
囃子舟である――にならって、これもおなじく水の祭が
極彩色でと町長の話であった。今後はいよいよ盛んに奨励する意向にも聞いた。民衆の祭は盛んであるほど郷土の意気が勇む。水を祭るは
水郷のほこりである。精華である。私の
郷国筑後の
柳河は沖の端の水天宮の
水祭には、杉の葉と桜の造花で装飾され、
簾を巻き
蓆張りの化粧部屋を取りつけた大きな舟舞台が、幕あいには笛や太鼓や三味線の
囃子もおもしろく町の水路を三日三
夜さも上下する。そうして町のかわるたびに幕をかえ、日をかうるたびに歌舞伎の
芸題も取りかえる。そうした小運河はまた近在の小舟でうずまってしまう。その五月の喜ばしさというものはなかった。まことに水は祭られてよい。夏は、風は、
魚は、岩は、砂は、この日本ラインにしていよいよ
煌々と祭らるべきである。その
三光稲荷の水の祭もほんのすこし前に過ぎたばかりだということであった。
「坊や、
昨夜の花火は奇麗だったね」
「うん、奇麗だったね」
ちょうど河の中の白い三角洲の横を舟はまた走りつつあった。その
洲には赤い旗がひるがえり、数百の花火筒が林立した前の日であった。
隆太郎はその朝、
従兄弟たちと名古屋から来た。彼の母はとうとう見えないことになった。すっかり期待を裏切られた幼童の失望はどれほど大きかったか。それでも彼は
堪えに堪えていた。一生懸命に口を結んで泣くまいとしていた痛々しさが父の胸にはひたひたと響き返した。この暑さにこの幼い子を十余日の旅に連れあるくことは危険でもあり、少々
果断にも過ぎた。それで来られるものならその母に預けて、私は単独に気軽にあるき廻ろうかと思っても見た。何でも余りに便通がないので、名古屋では
挙って心痛したということであった。「そりゃあね、庭の
鳳仙花の中か、裏の
玉蜀黍畠にでも連れてきゃよかったんだよ」と私は三高生に笑って見せたが、「それでも下剤薬を飲ましたので通じましたよ」とその
甥がまた笑い出した。そうして、「ちょっと泣きましたよ」と顔を赤くした。病気にでもなられては困るが、
兎も
角、それでは一緒に
連て行こうとなった。よしスパルタ教育だ。この旅行は隆太郎にとっては生れて初めての意義ある見学であるのだ。幼児の
叡智と感情と感覚と意志との上に増大し生長し洗練さるる何物かは
寧ろ危険以上のものであるに違いない。で、私も決行したのであった。
「や、花火の
椀殻だな」
炸裂した
後の黒い半分ずつの椀殻が水にぽかりぽかりと漂っている。
おしどりのようだ。
まったく、長い、
薄明がいよいよ暮つくして短い夏の
夜に
入ってからの花火の壮観はすばらしかった。
菊花壇、
菊先乱発、二尺玉、三尺玉、大菊花壇、二百発三百発の
早打、電光万雷、
銀錦変花、
菊先錦群蝶、青光残月、等等等。
燦爛たる孔雀玉の紫と
瑠璃と、
翡翠と、
青緑。
紅と緑の光弾、
円蓋、
火箭、ああ、その銀光の
投網、
傘下し、爆裂し、
奔流し、
分枝し、交錯し、
粉乱し、
重畳し、
傘下し、傘下し、傘下し、八方に
爛々として一瞬にしてまた
闇々たる、清秀とも、鮮麗とも、
絢爛とも、
崇美とも、
驕奢とも、
譬うるに言葉も絶えた。加えて
波上の炎々たる
水雷火、その
魚鱗火、連弾光、
鵜舟の
篝、遊覧船の
万灯、
提灯、手投げの白金光、五彩の変々たる点々光、
流出柳箭、けだし
参と
信との花火芸術の最高を極め精を尽くし
神を
凝らしたものであった。
空には月明らかに雲薄く、あまつさえ白帝城の
甍と
白堊とを
耿々と照らし出したのである。
然しまた、そうした一夜の歓楽も過ぎた。祭りの後の
果敢なさ、そのあわれさは、この水にしてひとしおである。
舟はいま夕暮富士を右手に、その三角洲の
緩い彎曲線に沿うて左寄りの分流を走りつつすべりつつある。
阪下という、ごろた石の土手の斜面に
舟夫はちょいと舟をとめる。十二、三ばかりの、女の子が前かがみに何か線の細かな
菜の
葉をすすいでいる、
芹かときいてみるとかすかに顔を赤らめながら、
人参の葉だという。その
傍で
半襦袢の
毛脛の男たちが、
養蚕用の
円座をさっさっと水に浸して勢いよく洗い立てる。
空の高瀬舟が二、三
艘。
船はまた岸を離れる。振り返ると、おお何と
典麗な白帝城であろう。
蓊鬱たる、いつも目に親しんで来たあの例の丘陵の上の、何と
閑雅な
甍、白い
楼閣、この
下手から観るこの眺めこそは絶勝であろう。私はつくづく下って来てよかったと思った。
「坊や、ほら、お城が見えるよ」
「ほんとだ、お城だ」
だが、その白帝城とも、じきにお別れである。
分流は時に細い早瀬となり、
蘆荻に添い、また長い長い
木津の
堤の並木について走る。堤には風になびく
枝垂柳も見える。純朴な古風の純日本の駅亭もある。そうして
昔作の農家。
私たちはまた振り返る。「さようならお城」はるかのはるかの白帝城。
船はまた
大江の
河心に出る。石船の帆が白く、時に薄い、紫の影の層をはらんで、光りつつ輝きつつ下をまた真近を、群れつつ、離れつつ去来する。
それよりも、実に驚いたのは、宏大な三角洲の
白砂のかがやきであった。実に白い、雪以上の、白以上の強い、輝く白、その「白」がその全面をもって、直射する、また
氾濫する日光を照りかえす、その「白」の美感は崇高そのもの、
神采そのものでなくて何であろう。常に「白」の
気韻を香気を幻惑を愛する私にとって、これほどのこうごうしい魅惑はむしろ私を
円寂境の思慕にまで誘う。私はこれほどまでの石や砂の白い実相をかつて見たことがない。
そうして
汪洋たる本流、輝く白のあなたの分流、対岸の、また下流の
煙霞、
「海、海」と隆太郎は叫ぶ。
ところで、その子はビールの
空瓶を
舷から、ぽんと水に投げる。瓶は初め
茶褐に、
後は黒く、首だけもたげもたげして
流に浮く。青の紫の
鴨の首、うしろにうしろに遠くなる。それほど舟が早いのだ。
「まだあかないの、まだあかないの」
「坊や、そんなに飲めるかい、待ってくれ」
それでも
空のビール瓶がほしさの、立ち
上っては両手に、しゅうっとコップにむりやりである。
「困るよ、困るよ、ほら飛行場が見える」
と、岸には黒人種風景の、裸の童子と童女がいる。松と
草藪と
水辺の地面と外光と、
筵目も光っている。そうして薄あかい
合歓の木の花、花、花、そこが北島、
向う
遥かが草井の渡し。
前波不動の幽雅な
小丘を右に見て、また耳に聞く左は
梭の音のしずかな
絵絹織る松倉の里である。
と、本流の水はまた一つの三角洲を今度は左に押しつめて、広く広く
斜に、河幅を右へ右へと開いてゆく。おお、また
渺々として
模糊たる下流。
笠島の渡しというところを過ぎる。右の斜面の鼠色じみた帆の幌の
小舎の内では、
褌ひとつの船大工が船の内側を
河心へ向けて、
ととんとん、
ととんとんとんと釘を打ち打ちしている。ほれぼれとしたものだ。遊ぶようなその
鉄槌の手。
私たちの舟はまた
櫓の音も
緩く緩く波上に遊んでゆく、流れはもはや急ではない、
大江の
浩蕩とした
漣である。
北方村
本郷というところで、私たちは三
艘の水車船を見た。また下流で二艘の同じような船を見た。船には家があり横の両側には二台ずつの軽い
小板の水車が廻っていた。内部には
杵の音がし、
小糠のにおいがこめ、男女の声がしていた。支那の戦車のような形の船であった。これらは流れの瀬の替わるにつれて、昨日は
下、明日は
上へとのぼるのである。簡素ないい情趣である。
「これは、童謡になるな」と、私は眺め眺めすれちがってゆく。
東海道線は長い長い木曾川の鉄橋が近づいて来た。
「あ、あの右
袂が笠松の四季の里です、
向うが雀のお宿」
素峰子は
舳に立って、白に赤の黒の彩雲閣のフラフを高く高く
振なびかす。ちょうど鉄橋をくぐって出たところである。見ると、やや
下手の左岸の松林の外では何かしきりに叫んで騒いでいる
群があった。裸の
童たちである。
童ヶ丘とはそのお宿の砂丘にかつてたのまれて私が名付けたものであったが、こうしてちかぢかと来て眺めるのは今が初めてである。
「呼んでますわァ」
「君のとこの林間学校の子供たちだね。幾人ぐらい来る」
「昨年は百六十名ほど来ましたが、この夏は六十名くらいでしょうか、それに岐阜
加納竹ヶ鼻笠松の子供が一週に四、五回は先生に
連られて参りました。そうです。五、七十名ずつ一ノ宮、奥町の子供も遊びに来ますで」
「それは盛んだな」と私はまた、一人が飛び、
翻った
向うの
投水台の強いかがやきをうち見やった。警戒標の旗の先だけが、その下の
河心に赤い点をうっている。雨後の増水に流されて位置を変えたのであろう。
「
起の水泳場というのはどこだね」
「ずっと
下でなも」と
蹲っていたのが、また立ちかける、
先棹である。
「
起はどうもあかんで」と
後の
櫓の手が右斜へいささか引き気味に、ここで刻みかけると、何鳥か白く光って空をば過ぎた。
と、私たちの小舟は
小豆色のひろびろとした
洲の浅みに沿って、いきれたつ
蘆や
薄のあいだにすれすれと横になってとまった。四季の里である。
と、その時、その裏の岸辺に早くも出迎えていたその里の老主人と笠松の町長さんとであった。
そこで「とうとうお
連れ申したで」と
雀頭巾は素峰子の眼鏡が光った。
「美濃側の笠松へ第一に舟は着けてお貰いしないと承知せぬで。尾張側の雀のお宿は
後まわし後まわし」で笑って、「木曾川下りといえば昔はこの笠松までときまっていたものだ。日本ラインばかりで独占するとは
怪しからん」とその家の主人がいきまいたと、それは昨日聞いた話であった。そう聞いて、今日の眺めに接すると、全くそうに違いないと思えた。河口はとにかく、犬山からこの笠松までの
悠容たる大景を下流にして、初めて中流の日本ライン、上流の
寝覚、
恵那の諸峡が生きるのである。河川として他に比類のない多種多様の変化が、そうしてそれらの綜合美が。
水に臨んだ広い
楼上に登って、私は下りに下って来た鉄橋の
遥を
顧みた。蘇川峡の奇勝、岩壁の
鷹、白帝城、雨と朱の夕焼けと花火と、今はただ眼に
入るものは雲である、江陵である。つい一、二時間前に見た白く輝く三角洲、分流の早瀬、船大工のとんとん、水車船の野趣、何だか遠い日の
向うの
煙霞と隔たってしまったような気がする。
私はまたこの晴れた日の
大江の
下のあなたを展望した。長堤は走り、両岸の
模糊たる彎曲線の
末は空よりやや濃く
黒んで、さて、花は盛りの
紅と白とのこの庭の
百日紅の近景である。幽雅な繁みと茶亭と、晩夏の日射と
蝉の声と。
籐の卓と
籠の椅子と、
冷した麦茶のコップと鉢の緑の
羊羹と
鮎の餅菓子。
東と南とに
欄干は
繞り、
廂にはまた
藤の棚がその葉の青い光線から、おなじくまだ青い実の
莢を幾
条も幾
条も垂らしてはいるが、そうして昼間の岐阜
提灯にもが、風はそよともしないのである。
暑い、なかなか激しい。
蝋塗りの白い
団扇が乱れ出した。
午後一時。見おろす一面の
河幅は光り、光の中に更に
燦々たるものが光って、その点々を
舷側に、声なく浮ぶ小舟がある。小舟には一、二の人かげの水にうつって、何やらしきりに
棹で
河心を探っている。それは明るいしずかな画趣である。
河底の砂にうもれた「
木はし」をあさるのだそうな。「木はし」は流木の
髄であると聞いた。洪水に
押流されてきた樹木の磨き尽くし洗い尽くされた
末の髄である。
焚木としてこれほどのものはなかろう。
烈々として燃え
滓ひとつ残らないという。
河畔の貧しい生活者にもこうした天与の恩恵はある。
うち
興じていると、「しこらん」という土地の名菓が出る。豊太閤が賞美してこの名を与えたそうである。形は
兜の
錣のごとく、かおりは
蘭のごとしというのだそうな。略して「しこらん」。私は
和蘭陀語かと思った。おこしの
類で、細く
小切にした、かりかりと歯にあたって、気品のある
杏仁水の風味がある。
この笠松はその昔「
葦の
洲」と
称えた
蘆荻の三角洲で、氾濫する大洪水の
度ごとにひたった。この
狐狸の
巣窟を
発いて初めて
拓いたのが
三ツ
家の漂流民だと伝えている。その後秀吉が築堤してから、元は尾張に属していたのを何か心あって美濃の所領に移したものだと、「旧幕の頃には天領として
郡代が置かれたものでして、ついこの
下の土手に
梟首場の跡がございますが」と町長、椅子から伸び
上った。
鉄道開通以来、土地の人が頑固で、
折角の停車場の設置を
肯ぜなかったばかりに、木曾下流の渡船場として
殷賑であったこの笠松街道もさっぱり寂れてしまったということであった。
この四季の里は俳名
馬好と号した常に馬を
楽んだ風狂の
伯楽が初めて営んだものだそうであった。その馬好ももう五十年
前とかに亡くなり、今は県会議員である当主が老後の楽みに買取って、おなじく幽雅な料亭としてその跡を
承け
継いでいる。
じいじい
蝉がまたそこらの
木立に
熬りつき出した。じいじい蝉の声も時には雲と
梢を
閑かにする。
進められるままに私は隆太郎と
階下の白い浴室にはいる。何かの
蔓が
葡った窓から、覗くと
蘆荻が見え、
河面が見える。白い浴槽の内では、そこで私が
河童の真似をする。隆坊はきゃっきゃっと逃げあがる。
「昨日はおもしろかったかい。岩がたくさんあったろう」
「うむ」
「お猿がいなかった」
「いなかった。僕、奇麗な銀のおしっこをしたよ」
「ふうん」とその父は乱れた髪の毛を
石鹸で洗いかける。
実は
宵の花火までの間を
是非その子にも見学させて置きたいと思って、
甥たちに
連れて出てもらった。そこで
土田まで電車で、
香木峡から舟でこの父とおなじに、日本ラインを下って来たのであった。
「何でもよく見ておくんだ。今度来てよかったね」
「よかったね」
上ろうとすると、きさくな女中が大きな桃色のタオルを両手にふうわりとふくらまして来た。
「さあ、かわいいお坊っちゃん、お拭きしましょかなも」
「いやだ」という裸のを、きゅっとかき抱くようにする。逃げかかる。そうなると、いよいよ女中もかまって来る。「ね、いい子だなも、いい子」さあ小坊主怒るまいか「馬鹿野郎、こん畜生」爪で引ッ掻く
打ってかかる、彼は彼で一個の独自の存在であり、個の人格として
取扱われないかぎり、
少くとも自尊心を傷つけられたと感じたろう。狂人が狂人としての待遇を受くればきっと怒る。おなじ心理で、幼児もあまりに幼くちやほやされると
憤る。童謡の創作にもここはよほど注意すべきところだ。「うっちゃって置いてくれたまえ、自分で拭くから」と私は声をかけた「そうかなも、気の強いお子はんやなも」
二階には
上ったが、隆太郎
余憤が晴れないと見えて、窓の障子紙をぴりぴりぴりと裂き初める。だが、こちらは
堆く持って出された画帖や色紙や短冊をそうはばりばりとやる訳にはゆかない。
少憩の
後、私たちは立ち
上った。対岸の雀のお宿を訪ねようというのである。
「お坊っちゃん、早くお帰り、今夜はわたしがだいてあげるぞなも」
「いやだ、僕、北原白秋と寝るんだ」
「へへえ、この子はん、変ってやはりますなあ」
自動車が走り出した。
雀のお宿の
素峰子は、自ら
行乞子と称している。かつては書店の主人であったが、愛妻の病没により、
哀傷の極は
発願して、
奮って無一物の真の清貧に富もうと努めた。
一灯園にもはいった、その木曾川橋畔に現在の学園を創立するまでの辛苦は並々でなかったらしい。ただこうした事業は気を負いやすいものである。過ぎれば俗情の
禍が来る。
童ヶ丘がどれほどの童ヶ丘になりきたったか。この機会に
親く観て置きたいと私は思ったのである。
雀のお宿の位置は笠松の対岸になる。低い砂丘のその松原は予想外に
閑寂であった。松ヶ根の
萩むら、
孟宗の影の映った
萱家の黄いろい荒壁、
機の音、いかにも
昔噺の中の
鄙びた村の日ざかりであった。
莚などしきちらして、郵便配達夫までが仰向けに昼寝している。その
傍に杉の皮で
葺いた風流な門があった。額には青い字で
掬水園と題してあった。
縁側や
見透しの狭い庭には男女の村童が
群って遊んでいる。玄関の左には人間愛道場掬水園の板がかかり、ふり仰ぐと雀のお宿の
大字の額に延命十句観音経まで散らして彫り、右には所用
看鐘として竹に鐘がつるしてあり、下には
照顧脚下と
書してある。けだし寺であり、学園であり、在家であるというのだろう。ただ趣味としての風雅が形式として勝ち過ぎる。
寧ろ飾らぬがよくはないかと私はいった。仏間が教室で良寛和尚を
斎ぎ、小さな図書室が表に、裏には
琅荘の別棟がある。琅
荘では男女の小学教師たちが二、三十人ほど集まって私を待っていた。私は民謡や童謡の話などをして、すぐとまた席を立った。
松林にも
腕白らが騒いでいた。良寛堂の敷地には
亭々たる赤松の五、六がちょうどその
前廂の
斜に位置して、そのあたりと、日光と影と、
白砂と
落松葉と、
幽寂ないい風致を保っていた。
「こんないいところが、対岸にあろうとは思わなかった」と四季の里の主人も感嘆した。「とにかく、よくこれまでにやりとおして来た、見あげた」と私も微笑した。
然し、これからが大事である。形式が精神を超えると
名利の家となる。「
素峰、これからやかましくいうぞ」と私は笑った。
私たちは
桑畑と松林の間を木曾川の左岸に出た。また松林があった。テントと投水台と。
西には養老の山脈、
遥には伊吹山、北には鉄橋を越えて、岐阜の金華山、
幽かに御岳。つい水の
向うが四季の里の
百日紅。
「さあ、これから帰って一杯
差上げますで」とその老主人公がさっさと
踵をめぐらした。
藤棚の多い四季の里の一夜の饗宴には土地の警察署長や農会長、旧知の歌人の
黙々子などが加わった。私たちは幾度か庭の茶亭から茶亭へ席を代え代えした。夜がふけて私はたったひとりで仰向きに胸や腹をつん出して眠りころげている隆太郎の
蚊帳にもぐりこんだ。そうして、そのでっかちな
毬くり頭をはずれた枕へ持ちあげ、
借着の
寝衣の前を深く深く合せてやると、そのままぐっすりと眠ってしまって、すぐと
河霧の白い白い夜あけが来た。
私たちはその翌日、養老へ立った。そこで二泊、名古屋に引き返して一泊、それから
恵那へ行った。
八月十二日、午後五時。
恵那峡口は遊船会社附近の鉄橋風景である。対岸に簡素な二階建ちの洋館が一つ、清流を隔てたこちらの土手の雑木、草藪、岸には空色に白のモーター・ボート、赤い線の
エのフラフをひるがえした屋形船。それに乗り込んだ私たち一行――私と隆太郎と同伴の
素峰子、その義弟のT少年、それにその地の「山峡」の歌人たち七、八
子――である。肉いろの、緑の、桃いろの、パラソルを畳んで、水際に
蹲った
浴衣の女学生らしいのが二、三人、これらは私たちの
連ではない。たまたま雲のごとく水鳥のごとくに現れて、この風景を明るく可憐に点彩したまでのことである。
旧暦は
盂蘭盆の十五日、ちょうど今夜は満月である。空ははれ、風は
爽かに、日の光は未だ強い。その
良夜の前の二、三時間を慌ただしい旅の心が
騒めきやまぬ。駅から駅への電話が、この中津川で行先不明の私たちをやっと捉えると、
直にも引き返さねばならぬ重大用件を取りついだのである。で、上流の福島や
寝覚の
床探勝の予定も中止すると、どうでも
明十三日の朝には
此処を立たねばならなくなった。で、日の暮までの
僅な時間を屋形船はモーター・ボートのぼッぼッぼッぼッに
曳かせて、大急ぎで恵那峡一帯を乗り廻ろうというのである。
席が定まってから、「おや、あの印刷屋さんはどうしたね」と、私は驚いて笑った。
多治見にいち早く私たちを出迎えてくれて、それから中津川に着くまでの汽車中を
分時も宣伝の
饒舌を絶たなかった、いささか
豸へんの恵那峡人Yという、鼻の白くて高い痩せ形の熱狂者が、いつのまにか掻き消すようにいなくなったものである。
「あはは、またお出迎いでさあ、何でも活動の撮影団が来るとかいってましたから。とても夢中で」
とその
従兄の民謡詩人がツルリと
禿上ったその
前額を指で弾く。
「ほう、いそがしいね、愛郷心もあそこまで行けば命懸けだ」
何でも八景投票の恵那峡の騒ぎというものは
凄じかったらしい。うっかり悪口でもいおうものなら殺される。
と、雲と山と水との四囲の風景が走り出した。
「やれ飛べ観音というのは」
「もっと
上です。
惜いことしました、ゆっくり御案内できないで」
光る、光る、光る、光る。銀、銀、銀、銀の
水面、水面――水面。
「あれが
御番所の森です」
幽邃な左岸の林に釣人がいる。一人、二人、三人、四人。
麦稈帽で半シャツ、かがんで、細い
棹の糸をおなじく
しんかんと水に垂らしている。木の影が
老緑色に澄んで、
ぴちりぴちりと何か光るけはいがある。
鯉や
鮠を釣るのだという。あの森にはまた鶴が棲んでいたこともあったと
誰かがいった。木曾谷の
下る
筏を見張った御番所の跡であるらしい。
苗木の
城址はこれに対して高く頂上の岩層にうら
寂びた疎林がある。日本唯一の
赤壁の城の
趾があれだという。この淵の
主である
蟠竜が
白堊を嫌ったという伝説がある。
私は「恵那峡
舟遊案内」と
見較べ見較べ、いそがしい、いそがしい。
風、風、風、風。
光る、光る、すばらしく光る
朴の葉裏である。
翠巒、翠巒。
下手の
空際には高圧線の鉄塔が見える。大同電力のダムで
堰かれた河流は百八十尺の高さにその水深を増したというのだ。
風、風、風、風。
水は波は、ともすると逆流する。河というより
たんたんと
湛えた湖水の
面である。両岸には、木の
梢や、思いもかけぬ枝の
半上などが水に露われて、さながら洪水にひたされた林相である。こうして急流は変じて
深潭となり、山峡の湖水となり、岩はその根を没して
重畳奇峭の
趣を
少からず減じてしまったと聞いた。
然しながらその
為にまた水は
紺碧を加え、容量は豊富に
深沈たる山中の幽寂境を現出した。
この恵那峡は木曾川の中流である中津川駅の
傍から大井町に至る水程三里の間にあって、
岐蘇渓谷中の最勝の奇景であるといわれている。日本ラインの奇岩怪石は多く相迫って河中
聳立するが恵那峡の岩石美は
寧ろ山上にあり
千仞の
懸崖にある。
「あれが
青崖」
眼を遮るは
濃青の脈々たる岩壁である。その下の
鞍掛岩。その左は
展けた下流の空の
笠置山。雲だ、雲だ、雲だ。
右には
武光岩、鬼岩、
蟇岩、帽子岩、ただ見あぐる岩石の
突屹相、
乱錯相、飛躍相、
蟠居相、怪異相、
趺坐相相相である。
点綴するには赤松がある、黒松がある、
矮樹がある、疎林がある。
光る、光る、光る、光る
朴の葉裏である。
ぼッぼッぼッぼッ、煙、煙、煙。
「や、あれが
月待ヶ
丘です」
「今夜の満月はさぞいいだろうな」と私はその丘の
空際をふり仰いだ。それにしてもあまりに慌ただしい舟の速力である。
「
誰か踊らないか」と一人がビールをあおった。
「あ、あれが
村雨の滝です」
峡中の美橋、
美恵橋が現れて来た。一名
褌橋というのがそれだ。褌の節約と
馬糞の
拾集とから得た利益を積み立てて架橋したのが大正三年の洪水で流出した。
「褌橋が落ちた。と
歌[#ルビの「うつ」はママ]ったものです」で、みんなが笑い出した。今のは鉄橋。
「山峡」同人の
指呼はいよいよ急がしくなる。天狗岩です。ほら、枕石だ、
後阿弥陀岩だ、砲台岩岩岩岩。
そこで
品の
字岩というのが眼界に
聳えて来る。文字どおりの
角の巨岩が相対し
重積して、
懸崖の頂きにあるのだ。ただ私にはそうした奇趣に興味を持たぬ。
画とし詩とするには
索然たるものがあるからである。
その本流と
付知川との合流点を右折して、その支流一名
緑川を
遡航する
舷に、早くも照り映ったのは
実にその
深潭の
藍碧であった。日本ラインにもかつて見なかったその
水色のすさまじさは、まことに
深沈たる冷徹そのものであった。山中において恐らくいかなる湖面といえどもこれほどの水深を
蔵する凄みは
少いであろう。大同ダムで
堰き止められて、本来の懸崖の三分の一以上、二百
仞も高く盛り
上ったその
水際には、すなわち現実における
魚は緑樹の
梢にのぼり
巉岩は
河底の暗処に没して
幽明さらに分ちがたい。しかもまた
峭々として相迫った岩壁の間に翼を休めた
蒼い蒼い真上の空の一角である。雲は白く
綿々として去来し、
巒気はふりしきる
蝉の声々にひとしおに澄みわたる、その峡中に白いボートを漕ぐ白シャツの三、五
子がいる。この奇異な対照こそ
寧ろ観るべからざるを観る一種の
戦慄をさえ感ぜしめる。
朝鮮金剛の
勝に私たちは当面したのである。この渓谷のいさぎよくして
閑かな、またこの
重畳たる
岩峭の不壊力と重圧とは極めて
蒼古な
墨画風の景情である。
夫婦岩、
蓬莱岩、岩戸不動滝、
垂釣潭、宝船、重ね岩、宝塔
等等等の名はまたあらずもがな、真の
気魄はただに天崖より
必逼する。
安子穴というのがあった。
白狗と
白馬との天正時代の伝説がある。
後、お
安という女人が
零落してここに玉のような童子を育てた。以前は岸辺伝いからどうにか
上れたであろうところも今は変じて湖上の絶壁となった。
船止めの
葦毛潭から引かえして本流に出る。
源斎巌が左に、
対って高く
聳つ天柱岩がある。このあたりから丘陵の間はやや斜面に
展けて赤松の細い幹が
縁辺に林立し、怪奇な岩層の風致に一種の繊細味を
交えてゆく。
対松崖はこれと
映照する。
続いて、私たちの屋形船は屏風岩の岩壁に
ひたひたと
舷を寄せた。朝鮮金剛の
勝以上の大観である。
参差たる
松ヶ枝、根に
上り、横に
葡い、空にうねって、いうところの
松籟般若を弾ずるの
神境である。
巒気と
水光と変幻する雲、雲、雲。
右には
蕭々たる滝がある。あ、水車がある。釣人は
幽かに
棹をかついで細い
径をのぼってゆく。
簡素な別荘がある。近代の料亭もある。
鉦鼓淵、
盗人谷、その天上の風格は
亭々と
聳立する将軍台、また
厳として
平なる
金床台。
金色の日光。
と、展望がここで明るくなって左に船着場があった。
エの朱線のフラフ、屋形、モーター・ボート、輝く波々、桟橋の
童、風、風、風。
木の
間がくれの茶亭の下へ、さて
上って、ズボンの
釦をはずす男もいる。
その正面こそ大同電力の白い白いダム
堰堤である。古典的の
幽邃と
奇峭とはここに変転して、近代の白と
灰銀との一大コンクリート風景を
顕現する。水は
まんまんとして、そのダムに
堰かれて
湛え、橋梁の
連灯はまだ白く
玻璃球のみ光って、丘陵の上、また
水辺に反照する鮮明なる洋風建築、このダムこそ東洋一の壮観だとせられる。その堰堤の高さ百八十尺、長さ一千尺コンクリート、貯水量十億立方尺、堰堤上流三里十二町、面積百七十一町、水量流域百二十三方里、発電機四台、
励磁機二台、電力四万二千九百キロワット。惜しむらくは下流に立ってこれを仰視し
得る機会を得なかったことである。
私たちはその壮麗なるダムの前の広々とした湖面を一周して、さて、いよいよ帰路についた。急速力でである。
遊船会社の前の
峡口は高い高い白い石の橋台に立って、驚くべき長い
釣棹を垂れている人影も見えた。橋の下にも
幾群か糸を投げて
魚を待つ影も見えた。
夕焼けが来た。さわりさわりとその肩の長い棹を
弧に、その
先きを線路につけて、その鉄橋の枕木の上を拾い拾い渡る男も見えた。
私たちは
上って、撮影をすると、すでに
灯のともった臨時電車に
ぞろぞろと乗り込む、走る、走る、走る。
私は思った。恵那峡の
幽邃はともすると日本ラインの
豪宕を
凌ぐ。ここまで
上って来なければ木曾川の綜合美は解せられない。すばらしい、すばらしい。
さて散策して見た中津の町は電飾が
鮮かではあったが、いかにも
北国の小都市らしく、簡素で、また陰暗たるところがあった。
その晩、
梅信亭で饗宴が
催された。この町の若い
美技が輪になって、そこで、
紅い頭巾に花笠、
裁付袴のそろいで、本場の木曾踊りを踊った。だがあまりに
巧緻に過ぎ、柔軟に過ぎた。「民謡とはそんなもんじゃない、おうい、俺が
御手本を示してやる」私も酔っていた。隣室に飛び込むと、それ何、それ何、それ何という騒ぎになった。
紅い頭巾で、背中に花笠で、
裁付袴で、やあよいかとゆらりと出て行くと、若い町長初め、一同がやんやと拍手した。
そこで、ちょっと紅い頭巾の頭を掻いて、私も笑い出した。大胆というより無鉄砲なのだ。
「おうい、坊や、いっしょに踊ろう。ヨイヨイヨイのヨイヨイヨイだ」
この夜こそ旧暦の
盂蘭盆であった。明るい明るい満月である。