木曾川

北原白秋





「ほら、あれがお城だよ」
 私は振り返った。私の背後からはまる麦稈帽むぎわらぼうに金と黒とのリボンをひらひらさして、白茶しろちゃの背広に濃い花色のネクタイを結んだ、やっと五歳と四ヶ月の幼年紳士がとてもいさぎよく口をへの字に引きめて、しかもゆたりゆたりと歩いていた。地蔵眉じぞうまゆの、眼が大きく、汗がじりじりとその両の頬に輝いている。
 名鉄めいてつの電車を乗り捨てて、差しかかった白い白い大鉄橋――犬山いぬやま橋――のあざやかな近代風景の裏のことである。
 暑い、暑い。パナマ帽に黒の上衣うわぎは脱いで、抱えて、ワイシャツの片手にはにわとりの首のついたマホガニーの農民美術のステッキをついてゆく、その子の父の私であった。
「うん、そうか」
 父と子とはその鉄橋の中ほどで立ちどまると、下手しもて向きの白い欄干らんかんに寄り添って行った。隆太郎りゅうたろうは一所懸命に爪立ち爪立ちした。あごが欄干の上に届かないのだ。
 ちょうど八月四日の正午、しんしんと降る両岸の蝉時雨せみしぐれであった。
 汪洋おうようたる木曾川の水、雨後の、濁って凄まじく増水した日本ライン、噴きあがる乱雲の層は南から西へ、重畳ちょうじょうして、何か底光そこひかりのする、むしむしと紫に曇った奇怪な一脈の連峰をさえ現出している、その白金はっきん覆輪ふくりんがまた何よりも強く眼をったのである。その下流の右岸には秀麗な角錘形かくすいけいの山(それは夕暮ゆうぐれ富士だとあとで聞いたが)山の頂辺てっぺんに細いたての裂目のある小松色の山が、白い河洲かわすゆる彎曲線わんきょくせんほどよい近景をして、はるかには暗雲の低迷したそれは恐らく驟雨しゅううの最中であるであろうところの伊吹山のあたりまでをバックに、ひろびろとかすんだうちひらけた平野の青田あおだも眺められた。
 その左岸の犬山の城である。
 まことに白帝城はくていじょうは老樹蓊鬱おううつたる丘陵の上に現れて粉壁ふんへき鮮明である。
 小さな白い三層楼さんそうろう、何と典麗てんれいなしかもまた均斉した、美しい天守閣であろう。この城あって初めてこの景勝の大観は生きる。生きた脳髄であり、レンズの焦点である。まったくかの城こそは日本ラインの白いかぶとである。
「お城にはたれがいるの」
「今はたれもいないんだ。むかしね兵隊がいたんだよ」
 私はその子の麦稈帽むぎわらぼうを軽くたたいた。かの小さな美しい城の白光はっこうはたしていつまでこのおさない童子どうしの記憶にあかるであろうか。そしてあの蒼空が、雲の輝きが。
 父はまたその子の麦稈帽を二つたたいた。私は心ひそかに微笑した。「すこし強くたたいて置け」。
 私の長男であるかれ隆太郎は、神経質だが、意思は強そうである。一緒に行く、機関車に取りついてでもついて行くといってきかないので、やむなく小さなリュックサックを背負わして連れて出たものだが、くだりの特急の展望車で、大きな廻転椅子に絵本をひろげていた時にもこの子は一個の独自の存在であった。食堂のテーブルにむかい合ったわずかな時間のひまにも、この子はおぼつかないながら、ナイフとフオクとはたしかに自分の物として、焼きたてのパンや黄色いバタや塩っぱいオムレツの上にのぞんで、決して自分を取り乱さなかった。箱根の嶮路けんろにかかって、後部の大きな硝子戸がらすどに、機関車がぴったりとくっつき、そのまま轟々ごうごうと真っ黒い正面をとどろかして押し昇った時にもそれを見たこの子は、それこそひとりで大喜びであった。その夕方、名古屋の親戚の家の玄関に立った時にも、別に鼻白みもしなかった。彼が生れた日だけしか彼を見なかったその伯母おばさんが「ほう、おまえが隆坊。まあ大きくなりましたね、おお。よく似ているわね、うちの子に。ほほほ」。
 よくまあお父さんについて来られましたね、と驚いて、その式台しきだいで微笑された時にも、この子はうんとだけいって笑った。そうして自分で靴をぬぐとすぐに飛び込んで行った。生みの母に初めて離れて遠い旅に出るこの子に、この子の母はよくいってきかした。「ね、坊や。自分のことはみんな自分でするのですよ」。
 だから、その晩にも、かれはひとりで必死になって上衣を脱いだり、パンツや、シャツのぼたんをはずしたり、寝衣ねまき着更きかえたり、帯を結んだり、寝床にころがったり、眠ったりした。
 その翌朝の今日のことである。柳橋やなぎばし駅から犬山橋までの電車の沿線にはくわが肥え、梨が実り、青い水田のところどころには、ほのかなあかはすの花が、「朝」の「八月」のにおいをさわやかな空気と日光との中に漂わしていた。そうしたすがすがしい眺めとかおりとをこの子はどんなにむさぼり吸ったことか。父とまた初めて旅するこの子の瞳はどんなに黒く生々いきいきと燃えていたことか。そうして酒徒しゅととしての私にはやや差し障りそうな道連みちづれではあったが時とするとあなどり難い小さな監督者であろうも知れぬが、だが、私自身にもむしあるいはそれを望んだ心もちもあった。
 私はわが子の両手を強く握った――よく一緒にって来た。来てほんとによかったのだ。
 まことに白帝城はくていじょうは日本ラインの白いかぶとである。
 おお、そうして、白いろうたけた昼のかたわれ月が、おお、ちょうどその白い兜の八幡座はちまんざにある。
 白帝城に登ったのは、その上の麓の彩雲閣さいうんかく(名鉄経営)の楼上ろうじょうで、隆太郎のいわゆる「においのするうお」を冷たいビールの乾杯で、初めて爽快そうかいに風味して、ややしばらく飽満ほうまんした、そののことであった。
 その白帝園の裏手から葉桜の土手を歩いて右へ、るいだらだらさかを少しのぼると、犬山焼いぬやまやきの同じ構えの店が並んでいる。それから廻ると、公園の広場になる。ところで、極彩色の孔雀くじゃくがきらきらと尾羽おばまるくひろげた夏の暑熱しょねつと光線とは、この旅にある父と子とをすくなからず喜ばせた。その隣のおりの金網の中には嬉戯きぎする小猿が幾匹となく、頓狂とんきょうに、その桃色の眼のまわりを動かすのである。
 そうだ、ここだったなと私は思った。きん黝朱うるみの羽根の色をしたとびの子が、ちょうどこのむかいのかど棒杭ぼうぐいとまっていたのをた七、八年前のことをおもい出したのである。私はあの時木兎みみずくかと思った、ちかぢかと寄って見る鳶は頭のまるい、ほんとに罪のない童顔どうがんの持主であった。
 そうだった、これが針綱はりつな神社だったと私はまた微笑した。
 あの冬の名古屋市はまったく恐怖と寒気とで、その繁華な、心臓の鼓動もとまりそうであった。悪性の流行感冒かんぼうは日に幾十となくその善良な市民を火葬場に送った。私もまた同じ戦慄せんりつのうちに病臥びょうがして、きびしいしもと、小さい太陽と、凍った月の光ばかりとを眺むるよりほかなかった。旅で病むのは何と心細かったことだろう。それに私は貧しいかぎりであった。島村抱月先生のいたましい訃報ふほうを新聞で知ったのもその時であった。
 今、私の愛児は、幼年紳士は、急斜面の弧状の、白い石の太鼓橋を欄干らんかんにつかまり遮二無二しゃにむにはい登ろうとしている。一行の誰彼たれかれ哄笑こうしょうして、やんややんやと背後うしろから押しあげている。隆太郎は嬉々ききとして声を立てる。やっとのぼったところで、半ズボンの両脚を前へつるつるつるである。父の私も前廻りして手をうってはやし立てる。
 昔と今と、変れば変るものだと、私は思う。そうだ、あの頃はまだ日本ラインという名すらさして知られてなかったのだ。
「日本ラインという名称は感心しないね、卑下と追従ついしょうと生ハイカラはしてもらいたいな。毛唐けとうがライン川をドイツの木曾川とも蘇川そせん峡とも呼ばないかぎりはね。おはずかしいじゃないか」
「そうですとも、日本は日本で、ここは木曾川でいいはずなんで」
 木曾川橋畔きょうはんの雀のお宿の主人野田素峰子そほうしすぐと私に和した。
「みんながよくそういいますで」
 私たちはいつのまにか、城の正面の柵内にはいりつつあった、軽い足どりで。
 浴衣ゆかたはかまの、白扇はくせんを持った痩せ形の老人が謹厳きんげんに私達を迎えた。役場から見えていたのである。
 旧記に観ると、この犬山の城は、永享えいきょうの末に斯波しば氏の家臣織田おだ氏がこの地を領し、斯波満桓みつたけが初めて築いたとある。斯波氏が滅びてから織田、徳川の一族がって武威ぶいを張った。小牧山こまきやま合戦の際には秀吉も入城したことがあったというのだが、天下が家康に帰してからは、尾州びしゅう侯の家老成瀬隼人なるせはやとほうぜられ、以来明治維新まで連綿として同家九代の居城として光った。
 現存の天守閣は慶長四年の秋に、家康が濃州のうしゅう金山かなやまの城主森忠政もりただまさを信州川中島に転封てんぽうしたおり、その天守閣と楼櫓やぐらとを時の犬山城主石川光吉に与えた、それをあくる年の五月に木曾川をくだしてこの犬山に運び、これを築きあげたものである。斎藤大納言正成だいなごんまさしげの建築だそうである。
 この白帝城は美しい。その綜合的美観はその位置と丘陵の高さとが、明らかにして洋々ようようたる河川の大景たいけい相俟あいまって、よく調和して映照えいしょうしているにある。加えて、蒼古そうこな森林相がその麓からうちのぼっている。展望するに、はてしない平野の銀と緑と紫の煙霞えんかがある。山城さんじょうとしてのこのプランは桃山時代のすいを尽くした城堡じょうほう建築の好模型だというが、そういえばよくうなずかれる。
 ただわずかに残って、今にそびえる天守閣の正しい均斉、その高欄こうらんをめぐらし、各層に屋根をつけた入母屋いりもや作りのいらか、その白堊はくあの城。
 外観こそは三層であるが、内部に入れば、それは五層に高まってゆく。
 その五層の、昔ながらの木の階段を昇る時、隆太郎は危くころびかけた。そうしてその従兄いとこの三高生から引っ抱えてもらった。
「何でこんなに暗いの、何でこんなに暗いの」
 といいいいしてのぼって来た。
「あ、名古屋城が見える」と、たれかが叫んだ。
 天守閣の最上層の勾欄こうらんへ出たところで、私たちはまず両方の大平野を瞰望かんぼうした。きのう電車ではしって来た沿線の曠田こうでんの緑と蓮池はすいけ薄紅うすべにとがはるか模糊もことした曇天光どんてんこうまで続いて、ただ一つの巒色らんしょくの濃い、低い小牧山が小さく鬱屈うっくつしている。その左にほうふつとして立つ紫の幻塔が見える、それが金のうろこのお城だというのである。そう聞けば何か閃々せんせんたる気魄きはくが光っているようでもある。
 その地平線は白の地に、黄と少量の朱と、あいと黒とを交ぜた雲とかすみとであった。その雲と霞は数条の太い煤煙ばいえんで掻き乱されている。鮮麗せんれいな電光飾の輝く二時間ぜんの名古屋市である。
 東から北へと勾欄こうらんへついて眼を移すと、柔かな物悲しい赤と乾酪チーズ色の丘陵のうねりがのどかな日光の反射にうき出している隣に、二つのまるい緑の丘陵が大和絵さながらの色調で並んで、その一つの小高みに閑雅かんがな古典的の堂宇どうう隠見いんけんする。瑞泉寺ずいせんじ山だと人がいった。
 瑞泉寺山から継鹿尾つがのおからすみね重畳ちょうじょうして、その背後から白い巨大な積雲の層がむくりむくりと噴き出ていた。そのすばらしい白と金とのむこうに恵那えな、駒ヶ岳、御岳おんたけの諸峰が競って天をしているというのだ。見えざる山岳の気韻きいん彼方かなたにある。何ともったぶどうねずみの曇り。
 と、蕭々しょうしょうとして、白い鉄橋の方へ時雨しぐるるせみのコーラスである。
 爆音がする。左岸の城山しろやまに洞門を穿うがつのである。奇岩突兀とっこつとしてそびえ立つその頂上に近代のホテルを建て更に岩石層のたて隧道トンネルをくりぬき、しんしんとエレヴェーターで旅客を迎える計画だそうである。遊覧船は屋形やかたあるいは白のテントを張って、日本ラインの上流より矢のように走って来る。その光、光、光。あたか中古伝説レジェントの中の王子の小船のようにちかりちかりとその光は笑って来る。
「おうい」と呼びたくなる。
 中仙道は鵜沼うぬま駅を麓とした翠巒すいらんの層に続いて西へとつらなるのは多度たどの山脈である。鈴鹿すずかかすかに、伊吹いぶきは未だに吹きあげる風雲のいのしし色にそのいただきを吹き乱されている。
 眼の下の大河を隔てた夕暮富士を越えて、あざやかな平蕪へいぶの中に点々と格納庫の輝くのは各務かがみヶ原の飛行場である。
 西は渺々びょうびょうたる伊勢の海を眼界の外にかすませて桑名くわなへ至る石船の白帆は風をはらんで、壮大な三角洲の白砂はくしゃと水とに照りあかって、かげって、通り過ぎる、低く、また、ひろびろと相隔あいへだたった両岸の松とやなぎ竹藪たけやぶと、そうして走る自転車の輪の光。
 白帝城は絶勝の位置にある。
 私は更に俯瞰ふかんして、二層目の入母屋いりもやいらかにほのかに、それは奥ゆかしく、薄くれないの線状の合歓ねむの花の咲いているのを見た。樹木の花を上からこれほど近くしたしく観ることは初めてである。いかにも季節は夏だと感じられる。
 絶壁の上のかえでの老樹も手に届くばかりに参差しんしと枝を分ち、葉を交えて、鮮明に澄んでのどかな、ちらちらとした光線である。
 幾百年と経った大木のくすのきは樹皮は禿げ、枝は裂けていい寂色さびいろに古びている。そのこずえ群青ぐんじょうからすがはたはたと動かしてとまる。かおォかおォである。古風な白帝城。
 水道の取入口は河に臨んで、その城の絶壁の下にあった。
 私たちは城を降りると、再び暑熱しょねつと外光の中の点景人物となった。ひらひらと、しきりに白い扇が羽ばたき出した。
 公園からだらだらのさか西谷にしたにの方へ、日かげをえらみ選み小急ぎになると、桑畑の中へ折れたところで、しおらしい赤い鳳仙花ほうせんかが目についた。もう秋だなと思う。
 簡素な洋風の家がある。入口は開けっぱなしで、粗末な卓に何か仕事しているワイシャツの人がある。役場の老人が寄って行って挨拶あいさつする。かすかに私の名をいっている。
 私たちは洞門に入る。外へ出ると豁然かつぜんとひらけて、前は木曾の大河である。
 この大河の水は岩礁をいた水道のコンクリートのせきと赤さびた鉄の扉の上をわずかに越えて、流れ注いで、外には濁った白い水沫すいまつ塵埃じんあいとを平らかに溜めているばかりだ。何のもなくのどけさである。
「この水が名古屋全市民の生命をつないでいるのです」と詰襟つめえりをはだけた制帽の若者が説明する。
 私たちは引返して、洞門をくぐると、二台の計量機の前に出た。かすかに廻っている円筒の方眼紙の上に青いインキが針からにじんでほとんど動くか動かぬかに水量と速度とをじりじりとのこぎり形にしるして進む。そこで若者は三和土たたきの間の方五、六尺の鉄板のふたを持ちあげる。暗々たる穴の底から冷気が吹きあげる。水は音なく流れて、地下十八尺の深さを、はるかの大都会へ休むなくはしりつつしつつある。しんしんとしたその奔入ほんにゅう
 詩歌の本流というものもちょうどこうした深処しんしょにあってかすかに、力強く流るるものだ。この本流のまことの生命力を思わねばならない。
 私は隆太郎の手をしっかと握った。
 彩雲閣へ戻ると、小坊主はすぐと名古屋へ帰るといい出した。名古屋の伯母さんは昨夜、この子の母に長距離の電話をかけていた。
「病気でもされると申し訳がありませんしね。それにお菊さんもまだ一度も里帰りしないのですから丁度いい折ですし、呼びましょうか」ということであった。それに従兄弟いとこたちは大勢だし、汽車や電車のおもちゃはあるし、都会は壮麗だし、何か早く帰りたいらしかった。
「じゃあ、そうするか、たのむよ」と私はおいの三高生にその子を託した。
 空は薄明はくめいとなる、パッと園内のカンツリー・ホテルに電灯がつく。白、白、白、給仕とテーブル。
 かえろかえろと、どこまでかえる。
 赤いのつく三丁さきまでかえる。
 かえろがくからかァえろ。
 並木の鈴懸すずかけの間を夏の遊蝶花ゆうちょうげの咲きさかった円形花壇と緑の芝生に添って、たどたどと帰ってゆく幼年紳士の歌声がきこえる。
「おうい」
 私は二階の欄干てすりへ出て両手をあげる。
「ほうい」
 むこうでもこちらを見て両手をあげる。
 白いかたわれ月はろうたけて黄にあかって来る。ほのかに白い白帝城を、私の小さい分身の子供が、立ってとまって仰いでいる。


 舟はさかのぼる。この高瀬舟の船尾には赤のわくに黒で彩雲閣さいうんかく奔放ほんぽうに染め出したフラフがひるがえっている。前にさおさすのが一人、うしろをこぐのが一人、客は私と案内役の名鉄めいてつのM君である。私は今日初めて明るい紫紺しこん金釦きんぼたん上衣うわぎを引っかけて見た。藍鼠あいねずみの大柄のズボンの、このゴルフの服はいささはで過ぎて市中しちゅうは歩かれなかった。だが、この鮮麗な大河の風色ふうしょく熾烈しれつな日光の中では決して不調和ではない。私は南国の大きい水禽みずどりのように碧流へきりゅうを遡るのだ。
 爽快である。それに泡だったコップのビール、枝豆の緑、はためく白いテントの反射光だ。
 五日の午後一時、昨日のすさまじい濁流はいくらか青みをえ立たして来たが、一旦いったん激増した水量はなかなかひきそうに見えない。だが、裸の子供が飛び込む、飛び込む。燦々さんさんたる岩のむれと、ごろた石の河原と両岸のいきるる雑草の花とだ。
 泳げよ泳げ。
 左はやなぎ稚松わかまつと雑木の緑とうつした青とで野趣やしゅそのままであるが、遊園地側の白い道路は直立した細い赤松の並木が続いて、一、二の氷店こおりみせや西洋料理亭の煩雑はんざつな色彩が畸形きけいな三角の旅館と白い大鉄橋風景の右たもとに仕切られる。鉄橋を潜ると、左が石頭せきとう山、俗に城山である。その洞門のうがたれつつある巌壁がんぺきの前には黄の菰莚むしろ、バラック、つるはし印半纒しるしばんてん、小舟が一、二そう、爆音、爆音、爆音である。
 と、それから、人造石のかばと白との迫持せりもち角柱かくばしらばかし目だった、俗悪な無用のぜいらした大洋館があたりの均斉を突如と破って見えて来る。「や、あれはなんです」。
「京都のモスリン会社の別荘で」とM君が枝豆をつまむ。
「悪趣味だ」
 だが、ここまでである。それより上は全くの神斧鬼鑿しんぷきさく蘇川そせん峡となるのだ。彩雲閣からわずかに五、六丁足らずで、早くも人寰じんかんを離れ、俗塵ぞくじんの濁りを留めないところ、峻峭しゅんしょう相連あいつらなってすくなからず目をそばだたしめる。いわゆる日本ラインの特色はここにある。
 日は光り、屋形の、三角帆の、赤の、青のフラフの遊覧船が三々五々と私たちの前を行くのだ。
 遡航そこう氷室ひむろ山の麓は赤松の林と断崖のほそぼそとした嶮道けんどうに沿って右へ右へと寄るのが法とみえる。「これが犬帰いぬがえりでなも」とうしろから赤銅しゃくどうの声がする。
 烏帽子えぼうし岩、風戻かざもどし大梯子おおはしご、そこでこの犬帰の石門せきもん遮陽石しゃようせきというのだそうな。
「ほれ、あの屋根が鳥瞰図ちょうかんずを描くYさんのお宅ですよ」
 幽邃ゆうすいな繁りである。せみ、蝉、蝉。つくつくほうし。
「この高い山は」
継鹿尾つがのお山、叡光院えいこういんという寺があります。不老の滝というのもありますがあがって御覧になりますか」
「いや、ぐんぐんのぼろう」
 風が涼しい、たんは澄み、碧流へきりゅうは渦巻く。紫紺しこん水禽みずどりは、さかのぼる。遡る。
「あれが不老閣」
「閑静だなも」
 と、これよりき、中流に中岩というのがあった。振り返ると、いつになく左後ろななめに岩は岩と白い飛沫しぶきをあげている。
 それから、千尺の翠巒すいらんと断崖は浣華渓かんかけいとなるのである。
波、波、波、波、波、
 波、波、波、波、波、
波、波、波、波、波、波、
 波、波、波、波、
波、波、波、波、波、波、
爽快そうかい爽快」
「富士ヶ瀬です」
 すばらしい飛沫しぶき、飛沫、飛沫、奔流しつつ、飛躍しつつ、擾乱じょうらんしつつだ。
 一面淙々そうそうたり。
「や」
「赤岩です」とM君。
 まさしく瑠璃るりの、群青ぐんじょう深潭しんたんようして、赤褐色の奇巌きがん群々むれむれがかっと反射したところで、しんしんとみ入るせみの声がする。
 わか雌松めまつの林があり、こんもりとした孟宗藪もうそうやぶがある。藪の外にはほのぼのとした薄くれないの木の花も咲いている。
「あれは何の木の花だね」
うるしの花だなも」で、たくみさおを操るともの船頭である。白のまんじゅう笠に黒色あざやかに秀山霊水と書いてある。
 そのあたりが栗栖くりすの里。
 と、書きおとしたが、その漆の花が目にるまでに、石床いしどこの大きなでこでこの岩、おとみ与曾松よそまつの岩というのがあった。恋は悲しい、ついに添われぬ身のはてを嘆いて、お富もまた離ればなれにかみの手の岩から身を躍らしたと俚俗りぞくにいう。
「これがローレライで」
 ローレライはちと苦笑される。
 新赤壁しんせきへきは左にあった。その前を昔の中仙道が通って、ひとつうねると岩屋観音がある。白い汚れたのぼりが見える。
 ここで再び蕭々しょうしょうたる急湍きゅうたんにかかる。観音の瀬である。
「まだひどい水で」と前のがのめる。
 やっとのことで、その瀬をのぼり切ると、いよいよ河幅は狭くなる。いよいよ差迫さしせまった奇岩怪石の層層層、荒削りの絶壁がまたこれらに脈々と連なりそびえて、見る目も凄い急流となる。惜しいことには水がたかく、岩は半没して、その神工しんこう斧鉞ふえつの跡も十分には見るを得ないが、まさに蘇川そせん峡の最勝であろう。
 斎藤拙堂せつどうの「木蘇きそ川を下るの記」にいわく、

 いしみな奇状両岸に羅列す、あるい峙立じりつして柱のごとく、或は折裂せつれつして門のごとく、或は渇驥かっきの間に飲むが如く、或は臥牛がぎゅうの道に横たわる如く、五色ごしき陸離りくりとして相間あいまじわり、しゅんおおむね大小の斧劈ふへきす、たまた荷葉かよう披麻ひますものあり、波浪をあろうてもっず、交替去来、応接にいとまあらず、けだし譎詭けっき変幻中へんげんちゅう清秀せいしゅう深穏しんおんたいぶ。

 かぶと岩、駱駝らくだ岩、眼鏡岩、ライオン岩、亀岩などの名はあらずもがなである。色を観、形を観、しかして奇に驚き、神悸しんおののき、気眩きげんすべきである。
 拙堂も観た五色岩こそまた光彩陸離として衆人の目を奪うものであろうか。
 ただ私の見たところでは、この蘇川峡のみをもってすれば、その岩相がんそう奇峭きしょうほう耶馬渓やばけい瀞八丁どろはっちょうしんの天竜峡におよばず、その水流の急なること球磨くま川にしかず、激湍げきたんはまた筑後川の或個処あるかしょにも劣るものがある。これ以上の大江たいこうとしてまた利根川がある。ただこの川のかれらにはるかに超えたゆえんは変幻極まりなき河川としての綜合美と、白帝城の風致と、交通に利便であって近代の文化的施設余裕多き事であろう。原始的にしてまた未来の風景がこの水にある。船は翠嶂すいしょう山の下、深沈しんちんとした碧潭へきたんに来て、そのさおをとめた。清閑せいかんにしてまた飄々ひょうひょうとしている。巉峭ざんしょうの樹林には野猿やえんき、時にはでて現れて遊ぶそうである。
 私は舟よりあがって、とある巌頭がんとうじのぼった。
 けだし天女ここに嘆き、清躯せいく鶴のごとき黄巾こうきんの道士がきたって、ひそかにたんを練り金を練る、その深妙境しんみょうきょうをしてここに夢み、あるい遊仙ゆうせんおかと名づけられたものであろう。
 遺憾なは「これより上へはどうしても今日はのぼれませんで」と舟人かこはまた棹をいっぱいに岩に当てて張り切ったことである。
 たちまち舟は矢のように下る。
 千里の江陵こうりょう一日にかえる。
 おお、隆坊はどうしている。
 自動車ははしる。
 犬山の町長さんは若い白面はくめん瀟洒しょうしゃな背広服の紳士であった。白帝園はカンツリー・クラブの大食堂で私たち三人――私と素峰子そほうしと運転手と――が、この八月六日の極めて簡素な午餐ごさんしたためていた時に、たまたま給仕を通じて私に挨拶あいさつに見えた。はいって来ると、名刺を一々運転手君にまでうやうやしく手交しゅこうした。しそうと知ってしたのならば美しいことだと微笑された。またそれほど黒背広の運転手君もひとかどの紳士らしく見えた。すなわち近代の日本ラインである。
 カンツリー・クラブはゆるい勾配の屋根の、さび色の羽目はめの中二階で、簡素ないい趣味の建築である。バンガロー風で、正面と横とに広い階段がついている。その正面の階段の下の、明るい色彩の花壇の前で、私は改めて一礼すると、車上の人となった。雀のお宿の素峰子そほうしはきのうの朝から激しい胃痙攣いけいれんで顔色がなかった。今日も案内がおぼつかないので、犬山橋駅に廻って、赤い腕章の旅客課の制帽君の同乗をたのむことにした。
 自動車ははしる。鉄橋を北へ、まっしぐらに駛って行く。と、ちらっと、白帝城と夕暮富士とが目をかすめる。
 きのうの夕焼は実によかったと思う。その返照へんしょうはいつまでも透明な黄のかすんだ青磁や水浅葱みずあさぎの西の空に、あかく紅く地平の積巻雲せきけんうんを燃え立たせた。そうして紫ばんで来た秀麗な夕暮富士の上に引きはえた吹き流し形の、天蓋てんがいの、華鬘けまんの、金襴きんらんの帯の、雲の幾流は、になびき、なびきて朱となり、褪紅たいこうとなり、灰銀かいぎんをさえまじえたやわらかな毛ばだちのかばとなり、また葡萄紫となった。天守閣のかすかに黄に輝き残る白堊はくあ。そうして大江のにおい深い色の推移、それが同じく緋となり、褪紅となり、やわらかな乳酪にゅうらく色となり、藤紫となり、瑠璃紺るりこんうわびかりとなった。そうして東の瑞泉寺ずいせんじ山に涌出ゆうしゅつした脳漿形のうしょうがたの積雲と、雷鳴をこめた積乱雲との層が見る見る黄金色の光度を強めて今にも爆裂しそうに蒸し返すと、また南の葉桜の土手の空にもむくりむくりと同じ色と形の入道雲が噴きあがっていた。この夕焼けもラインとよく似た美しい一つの天象だという。伊吹山の気流の関係で、この日本ラインにのみ恵まれた雲と夕日の季節の祭りである。
 私たちの軽舟けいしゅうは急流に乗って、まだ大円日だいえんじつの金の光輝が十方に放射する、その夕焼けの真近をまたたく間に走りくだって来た。そうして白帝城下の名も彩雲閣の河原にいかりを下ろしともづなをもやったのであった。と、名古屋から電話がかかっていて隆太郎の母はすぐにも見えるはずだということであった。
 それが今日は生憎あいにく早暁そうぎょうからの曇りとなった。四方よもの雨と霧と微々たるしずくとはしきりに私の旅情をそそった。宿酔しゅくすいの疲れも湿って来た。
 この六日はしもの河原で年に一度の花火の大会があるはずであった。名古屋のおいたちや隆太郎にも見に来るように通知はしたが、それもどうやら怪しくなって来る。果然かぜん雨天順延となって、私の旅行日程にもまた一日の狂いが生じて来たので、無聊ぶりょうに苦しむよりは雨の日本ラインの情趣でも探勝しようかとなった訳である。
 自動車ははしる。
 と、気がつくといつのまにか北へ向かったので南へ駛りつつあった。や、例のかばと白との別荘だなと思うと、中仙道は川添いの松原と桃林との間を東へ東へと驀進ばくしんしつつある。
 新赤壁しんせきへきの裾を幾折れして、岩屋観音にかかる。漢画風の山水である。トンネルがあり、橋がある。みちはやや沿岸を離れてくわ畑と雌松めまつの林間にる。農家がある。鳳仙花ほうせんかや百日草が咲き、村の子が遊び、にわとりがけけっこっこっこっである。高原の感じである。
 秋、秋、秋、秋。
 太田の宿しゅくにはいる。右へ折れて鉄橋を渡れば、対岸の今渡いまわたりから土田どたへ行けるのだが、それがライン遊園地への最も近い順路であるのだが、私は真直まっすぐにぐんぐんはしらせる。なるべく上流へ出て迂回しようと思ったのである。
 ストップ! 古井こいの白い鉄橋の上で、私は驚いて自動車を飛び降りた。その相迫った峡谷のみどりの深さ、水のあおくて豊かさ。何とまた鬱蒼うっそうとして幽邃ゆうすい下手しもての一つ小島の風致であろう。煙霧は模糊もことして、島のむこうの合流点の明るく広い水面を去来し、濡れに濡れた高瀬舟は墨絵の中のみのと笠との舟人かこに操られてすべって行く。
 私たちがその青柳橋の上に立っていると、何が珍しいのかぞろぞろと年寄や子供たちが周囲にたかって来た。この川はと聞くと飛騨川とたれか答えた。高山たかやまの上の水源地から流れて来てこの古井こいで初めて木曾川にるのだとまた一人がかたわらから教えてくれた。じゃあ、あの広いのが木曾川だなと思えて来た。
「あの島にお堂が見えますが、あれは何様ですね」
小山こやま観音」
縁日えんにちでもありますか」
「ちょうど七月の九日が御開帳おかいちょうでして、へえ、毎年です」
「店も出ましょうね」
「ええ、河原は見世屋みせやでそれはもういっぱいになりますで」
 水に映って、それは閑雅かんがのちらちらであろうと思えた、この支流である飛騨川の峡谷はまた本流の蘇川峡とは別趣の気韻きいんをもって私に迫った。上手かみての眺めにもうち禿はげた岩石層はすくなく、すべてが微光をひそめた巒色らんしょくの丘陵であった。深沈しんちんとしたその碧潭へきたん
 私たちはまた車上の人となる。藍鼠あいねずみ燻銀いぶしぎんとの曇天、丘と桑畑、台が高いので、川の所在は右手にそれぞと思うばかりで、対岸の峰々や、北国風ほっこくふうの人家を透かし透かし、どこまでもと自動車は躍ってゆく。土のがする。草のかおりがする。雨と空気と新鮮な嵐と、山蔭やまかげむせぶばかりの松脂まつやにのにおいである。はしる、駛る、新世界の大きな昆虫。
「見えた。あの鉄橋からまわりますか」
「よし」
 そこでハンドルを右へきゅっと廻す。囂囂囂ごうごうごうとそのつり橋を渡ってまた右折する。兼山かねやま宿しゅくである。と風光はすばらしく一変する。爽快爽快、今来た峡谷の上の高台がむこうになる。薄黄の傾斜面と緑の平面、平面、平面、鉾杉ほこすぎの層、竹藪、人家思いきり濃く、また淡くかす畳峰じょうほう連山、雨の木曾川はその此方こなたの田や畑や樹林や板屋根の間から、とつとして開けたり離れたりする。岩礁が見える。船が見える。あ、ひのきだ、かわらだ、絵看板だ。
 はるかにまた煙突、煙突、煙突である。あの黒い煙はと聞くと、あれは太田だという。よくも上まで来たものだと思う。いや、かれこれ二時間は走っていますと運転手が笑う。こうして兼山から伏見ふしみ、伏見から広見ひろみ今渡いまわたりとかっ飛ばすのである。
 土田どた名鉄めいてつの犬山口から分岐する今渡線の終点に近い。ちらとその駅をのぞいて、また右へ、ライン遊園地へ向けて、またまた驀進ばくしん驀進驀進である。行けるところまで行って、危く何かにぶつかりそうにしてとまると、奇橋がある。「土田の刎橋はねばし」である。この小峡谷は常に霧が湧きやすくて、こめるとうえしたも深く姿を隠すという。重畳ちょうじょうした岩のぬめりを水はたぎち、あおく澄んで流れて、いうところのさぎの瀬となる。
 橋のたもと敷島しきしまを買って、遊園地の方へほつりほつりと私たちは歩いてゆく。雨はあがりかけて日の光は微かに道端の早稲わせの穂にさしかけて来る。七夕たなばたあかや黄や紫の色紙がしっとりとぬれにじんでその穂やくわの葉にこびりついている。死んだほたるのにおいか何かがむせんで来る。あけっぱなしの小舎こやがある。蚕糞こくそまゆのにおいがする。むしろが雑然と積んである。表に「自転車無料であずかります」と貼札はりふだしてある。この道七、八丁。
 宏壮こうそうな北陽館の前に出る。二階の渡り廊下の下の道路を裏へ抜けると、ここに驚くべき大洞可児合だいどうかにごうの壮観が眼下に大渦巻をまきあげる。断崖百尺の上の、何と小さな人間、白の黒の紫紺しこんのぽつり、ぽつり、ぽつりだ。
 大洞可児合は蘇川そせん中の一大難所である。その本流と可児かに川のがっするところ、急奔きゅうほんし衝突し、抱合し、反撥する余勢は、一旦いったん、一大鉄城てつじょうのごとく峭立しょうりつし突出する黒褐こっかつの岩石層の絶壁に殺到し、遮断されて水は水とち、力は力とさからい、波は岩を、岩は波を噛んで、ここに囂々ごうごう淙々そうそうの音をしつつ、再び変圧し、転廻し、捲騰けんとうし、擾乱じょうらんする豪快無比の壮観を現出する。あいあお群青ぐんじょうと、また水浅葱みずあさぎと白と銀と緑と、うず飛沫ひまつ※(「さんずい+區」、第3水準1-87-4)すいおうと、泡と、泡と、泡と。
 膚粟はだえあわを生ずとはこのことだろう。私は驚いて数歩くだった。
 そこで、またくびすをめぐらして岩角がんかくと雑草の間の小径こみち香木こうぼく峡の乗船地へとむかっておりた。
 しかも明るくひろくうち開けた上流の空の、連峰と翠巒すいらん濛々もうもうたる田園の黄緑こうりょく、人家、煙。霧、霧、霧。
 どこかで茶でも飲もうではないか、茶見世ちゃみせぐらいはあるだろうといえば、ありますありますと答えながら、赤い腕章の制帽はそれでも一軒の葭簀よしずの茶亭は通り越してしまう。途中に白いペンキ塗の洋館の天狗何々なになにと赤い看板を出したそのドアの前にかかったが、窓のガラスもことごとくしめきって「当分休業中」であった。夏でもここまでの遊覧客はさして見えないらしい。ライン遊園地もまだ完成しないで、自然の雑木原ぞうきはらに近い。窪地にスケート・リンクなどがあるくらいだから沍寒ごかんはきびしいのであろう。崖のふちへ出るとようやく休憩所の一つを見出した。人の気配もせぬので、のぞいて見るとすみっこの青くいたサイダー瓶の棚の前に、鱗光りんこう河魚かわうおの精のようなおやじが一人、しょぼんと坐っていた。ぼうと立つのは水気すいきである。
 翠嶂すいしょう山と呼ぶこのあたり、何かわびしい岩礁と白砂はくさとの間に高瀬舟の幾つかが水にゆれ、波に漂って、舷々げんげん相摩あいまするところ、たれがつけたかその名も香木峡という。左にあおくそそり立つのが碧巌峰へきがんほうである。
 そこで屋形の船のひとつを私は小手招こてまねく、そこここの薄墨うすずみの、また朱のこもった上の空の、霧はいよいよ薄れて、この時、雲のきれ間から、怪しい黄色おうじきの光線が放射し出した。これからまたひとしきりなぎになって蒸し暑く蒸し暑くなるのである。
「じゃあ、ここでお別れします。私は土田どたへ出てこの山の裏手を廻って帰りますが、どちらが早いかひとつ競争して見ますかな」
 自動車の運転手が笑った。
「よかろう」と私たちは舟に乗り込む。船頭はやはり二人で、さおをつつッと突張つっぱるや否や、あとのがべそを調べると、櫓をからからとやって、「そおれ出るぞぉ」である。
 白帝城下まで二里半だということである。
 舟は走る、五色ごしきの日本ライン鳥瞰図ちょうかんずが私の手にある。
「ほう、あれが少女の滝かね」その滝は左の緑蔭りょくいんからかかってあまりにかすかな水の線、線、線であった。
 右にうずくまるのがライオン岩、深厳しんげんとして赭黒しゃこくである。と、舟はただちに遊仙ヶ岡の碧潭へきたんにさしかかる。
 その仙境を離れると、流れはいよいよ急である。昨日に比してすくなからず減じた水量のために河中かちゅう巌石がんせきという巌石は、ことごとく高く高くせりあがって、重積した横の、ななめ斧劈ふへきも露わに千状万態ばんたいの奇景を眼前に聳立しょうりつせしめて、しかも雨後のしずく燦々さんさんと所在の岩角がんかく、洞門にうち響きうち響き、降るかとばかりにこぼれしきる。
 河峡はいよいよ狭く、流れはいよいよ急に、舟は危うく触れんとして畳岩じょうがん絶壁のすれすれを走りくだる。
「や、あれは」
 と、目をみはった。
 一羽、ふり仰ぐ一大岩壁の上に黄褐こうかつの猛鳥、英気颯爽さっそうとしてとまって、天の北方をにらんでいる。鉤形かぎがた硬嘴こうし爛々らんらんたるその両眼、微塵みじんゆるがぬ脚爪あしつめの、しっかと岩角がんかくにめりこませて、そしてまた、かいつくろわぬ尾の羽根のかすかな伸び毛のそよぎである。
たかだね」
「え、」と驚いて旅客課「そうです。鷹です」
 冷気一道に襲って、さすがに蘇川そせんは深山幽谷の面影が立った。
「身動きもしないんだね、船が下を通っても」
 私は驚いたのである。
 心音の動悸どうきまぬのに、またしても一羽、右手の駱駝らくだ岩の第一の起隆の上に、厳然げんぜんとしてとまっている。相対した上の鷹、おそらくはつがいであろう。
 いいものを見たと私は思った。野猿やえんの声こそは聞けなかったが、それにも増して私は偶然の、時の恩寵おんちょうを感じずにはいられなかった。
 私は幾度も幾度も振返ふりかえった。
 激湍げきたん、白い飛沫ひまつ奔騰ほんとうする観音の瀬にかかって、舟はゆれにゆれて傾く。
 鷹は絶壁のはるかに黒く、しかも確実に二個の点としてげんとしている。小さく小さくなる。一個は消えても、一羽の英姿はいつまでもいつまでも残ってみえる。そのむこうの空のぬれた黝朱うるみの乱雲、それがやがてはかつとなり、黄となり、朱にあかに染まるであろう。日本ラインの夕焼けにだ。
 あ、白帝城が見え出した。
 香木峡から四十分、彩雲閣の河原に着いて、あがると、その白帝園のカンツリー・クラブの前へ、無料休憩所の方から、驚いたスピードで大型の昆虫の黒にあいの自動車がはしって来た。ハンドルを両手に、パナマを阿弥陀あみだに頭の毛を振り振り、例の快活な笑いの持ち主だ。
「や、万歳ばんざい、勝負なし」


「ほら、坊や、さよならだ、帽子をお振り」
「さようならァ――」
「もひとつ」
「さようならァ――」
 下りの高瀬舟に坐っているのは私たち親子と雀のお宿の主人との三人である。
 彩雲閣の二階からは盛んに白いハンカチーフがゆれて光る。女中たちである。
 私たちも一寸ちょっと芝居気しばいぎを出して、パナマや雀頭巾すずめずきんを振る。童話の中の小さな王子のお蔭で、ほがらかに朗らかに私たちも帽子が振れるというものだ。
 私たちはくだる。赤い雌松めまつの五、六本をあしらった二重舞台の楼閣ろうかくが次第次第に白帝城の翠巒すいらんに隠れてゆく。ちらとまたその隙間から白いひらひらが見えたかと思うと、また老樹のかしかえで鬱蒼うっそうたる枝の繁みに遮られてしまう。と、それっきりで、八月八日は午前十一時の閑寂かんじゃくせみ時雨しぐれになる。日本ラインとのお別れである。
 水道の取入口も過ぎ、西谷にしたに迎帆楼げいはんろうの前も過ぎた。あの前での昨日の人だかりというものは昼の花火の黄煙菊おうえんきくよりもほこりをあげた。丁髷鬘ちょんまげかずら赤陣羽織あかじんばおり裁付袴たっつけばかまおやじどもが拍子木にかねや太鼓でラインしゅとかの広告ひろめ口上こうじょうをまくし立てる。そののぼりの蔭から、盆の上のリキュウグラスに手を出して無料じゃ無料じゃという赤いのを一杯試し飲みして見たところで、「これは焼酎しょうちゅうかね」と聞けば「いや別製でなも、原料水は、へへん、ラインの水で」と扇を叩いた。「赤いのは」と聞けば「色でそめやしたで」とまた扇を叩いた。色は樺太かばふと[#ルビの「かばふと」はママ]のフレップ酒に似て、地の味はやはり焼酎の刺激がある。土地の名産忍苳酒にんとうしゅ味淋みりんに強い特殊の香気を持たしたものらしい。
 それはかく、舟は今、三光さんこう稲荷の下にかかって来る。三光稲荷の夏祭は津島祭の逆鉾さかほこ舟――一年十二ヶ月は三百六十五の提灯ちょうちんを山と飾った華麗と涼味とを極めた囃子はやし舟である――にならって、これもおなじく水の祭が極彩色ごくさいしきでと町長の話であった。今後はいよいよ盛んに奨励する意向にも聞いた。民衆の祭は盛んであるほど郷土の意気が勇む。水を祭るは水郷すいきょうのほこりである。精華である。私の郷国きょうこく筑後の柳河やなかわは沖の端の水天宮の水祭みずまつりには、杉の葉と桜の造花で装飾され、すだれを巻き蓆張むしろばりの化粧部屋を取りつけた大きな舟舞台が、幕あいには笛や太鼓や三味線の囃子はやしもおもしろく町の水路を三日三さも上下する。そうして町のかわるたびに幕をかえ、日をかうるたびに歌舞伎の芸題げだいも取りかえる。そうした小運河はまた近在の小舟でうずまってしまう。その五月の喜ばしさというものはなかった。まことに水は祭られてよい。夏は、風は、うおは、岩は、砂は、この日本ラインにしていよいよ煌々こうこうと祭らるべきである。その三光さんこう稲荷の水の祭もほんのすこし前に過ぎたばかりだということであった。
「坊や、昨夜ゆうべの花火は奇麗だったね」
「うん、奇麗だったね」
 ちょうど河の中の白い三角洲の横を舟はまた走りつつあった。そのには赤い旗がひるがえり、数百の花火筒が林立した前の日であった。
 隆太郎はその朝、従兄弟いとこたちと名古屋から来た。彼の母はとうとう見えないことになった。すっかり期待を裏切られた幼童の失望はどれほど大きかったか。それでも彼はえに堪えていた。一生懸命に口を結んで泣くまいとしていた痛々しさが父の胸にはひたひたと響き返した。この暑さにこの幼い子を十余日の旅に連れあるくことは危険でもあり、少々果断かだんにも過ぎた。それで来られるものならその母に預けて、私は単独に気軽にあるき廻ろうかと思っても見た。何でも余りに便通がないので、名古屋ではこぞって心痛したということであった。「そりゃあね、庭の鳳仙花ほうせんかの中か、裏の玉蜀黍畠とうもろこしばたけにでも連れてきゃよかったんだよ」と私は三高生に笑って見せたが、「それでも下剤薬を飲ましたので通じましたよ」とそのおいがまた笑い出した。そうして、「ちょっと泣きましたよ」と顔を赤くした。病気にでもなられては困るが、かく、それでは一緒につれて行こうとなった。よしスパルタ教育だ。この旅行は隆太郎にとっては生れて初めての意義ある見学であるのだ。幼児の叡智えいちと感情と感覚と意志との上に増大し生長し洗練さるる何物かはむしろ危険以上のものであるに違いない。で、私も決行したのであった。
「や、花火の椀殻わんがらだな」
 炸裂さくれつしたのちの黒い半分ずつの椀殻が水にぽかりぽかりと漂っている。おしどりのようだ。
 まったく、長い、薄明はくめいがいよいよ暮つくして短い夏のってからの花火の壮観はすばらしかった。菊花壇きくかだん菊先乱発きくさきらんぱつ、二尺玉、三尺玉、大菊花壇、二百発三百発の早打はやうち、電光万雷、銀錦変花ぎんにしきへんか菊先錦群蝶きくさきにしきぐんちょう、青光残月、等等等。燦爛さんらんたる孔雀玉の紫と瑠璃るりと、翡翠ひすいと、青緑せいりょくべにと緑の光弾、円蓋えんがい火箭ひや、ああ、その銀光の投網とあみ傘下からかさおろし、爆裂し、奔流ほんりゅうし、分枝ぶんしし、交錯し、粉乱ふんらんし、重畳ちょうじょうし、傘下からかさおろし、傘下し、傘下し、八方に爛々らんらんとして一瞬にしてまた闇々あんあんたる、清秀とも、鮮麗とも、絢爛けんらんとも、崇美すうびとも、驕奢きょうしゃとも、たとうるに言葉も絶えた。加えて波上はじょうの炎々たる水雷火すいらいか、その魚鱗火ぎょりんか、連弾光、鵜舟うぶねかがり、遊覧船の万灯まんとう提灯ちょうちん、手投げの白金光、五彩の変々たる点々光、流出柳箭りゅうしゅつりゅうせん、けだしさんしんとの花火芸術の最高を極め精を尽くししんらしたものであった。
 空には月明らかに雲薄く、あまつさえ白帝城のいらか白堊はくあとを耿々こうこうと照らし出したのである。
 しかしまた、そうした一夜の歓楽も過ぎた。祭りの後の果敢はかなさ、そのあわれさは、この水にしてひとしおである。
 舟はいま夕暮富士を右手に、その三角洲のゆるい彎曲線に沿うて左寄りの分流を走りつつすべりつつある。
 阪下さかしたという、ごろた石の土手の斜面に舟夫かこはちょいと舟をとめる。十二、三ばかりの、女の子が前かがみに何か線の細かなをすすいでいる、せりかときいてみるとかすかに顔を赤らめながら、人参にんじんの葉だという。そのそば半襦袢はんじゅばん毛脛けずねの男たちが、養蚕ようさん用の円座えんざをさっさっと水に浸して勢いよく洗い立てる。からの高瀬舟が二、三ぞう
 船はまた岸を離れる。振り返ると、おお何と典麗てんれいな白帝城であろう。蓊鬱おううつたる、いつも目に親しんで来たあの例の丘陵の上の、何と閑雅かんがいらか、白い楼閣ろうかく、この下手しもてから観るこの眺めこそは絶勝であろう。私はつくづく下って来てよかったと思った。
「坊や、ほら、お城が見えるよ」
「ほんとだ、お城だ」
 だが、その白帝城とも、じきにお別れである。
 分流は時に細い早瀬となり、蘆荻ろてきに添い、また長い長い木津きづつつみの並木について走る。堤には風になびく枝垂柳しだれやなぎも見える。純朴な古風の純日本の駅亭もある。そうして昔作むかしづくりの農家。
 私たちはまた振り返る。「さようならお城」はるかのはるかの白帝城。
 船はまた大江たいこう河心かしんに出る。石船の帆が白く、時に薄い、紫の影の層をはらんで、光りつつ輝きつつ下をまた真近を、群れつつ、離れつつ去来する。
 それよりも、実に驚いたのは、宏大な三角洲の白砂はくさのかがやきであった。実に白い、雪以上の、白以上の強い、輝く白、その「白」がその全面をもって、直射する、また氾濫はんらんする日光を照りかえす、その「白」の美感は崇高そのもの、神采しんさいそのものでなくて何であろう。常に「白」の気韻きいんを香気を幻惑を愛する私にとって、これほどのこうごうしい魅惑はむしろ私を円寂境えんじゃくきょうの思慕にまで誘う。私はこれほどまでの石や砂の白い実相をかつて見たことがない。
 そうして汪洋おうようたる本流、輝く白のあなたの分流、対岸の、また下流の煙霞えんか
「海、海」と隆太郎は叫ぶ。
 ところで、その子はビールの空瓶あきびんふなべりから、ぽんと水に投げる。瓶は初め茶褐ちゃかつに、のちは黒く、首だけもたげもたげしてながれに浮く。青の紫のかもの首、うしろにうしろに遠くなる。それほど舟が早いのだ。
「まだあかないの、まだあかないの」
「坊や、そんなに飲めるかい、待ってくれ」
 それでもからのビール瓶がほしさの、立ちあがっては両手に、しゅうっとコップにむりやりである。
「困るよ、困るよ、ほら飛行場が見える」
 と、岸には黒人種風景の、裸の童子と童女がいる。松と草藪くさやぶ水辺すいへんの地面と外光と、筵目むしろめも光っている。そうして薄あかい合歓ねむの木の花、花、花、そこが北島、むこはるかが草井の渡し。
 前波まえなみ不動の幽雅な小丘しょうきゅうを右に見て、また耳に聞く左はおさの音のしずかな絵絹えきぬ織る松倉の里である。
 と、本流の水はまた一つの三角洲を今度は左に押しつめて、広く広くななめに、河幅を右へ右へと開いてゆく。おお、また渺々びょうびょうとして模糊もこたる下流。
 笠島の渡しというところを過ぎる。右の斜面の鼠色じみた帆の幌の小舎こやの内では、ふんどしひとつの船大工が船の内側を河心かしんへ向けて、ととんとんととんとんとんと釘を打ち打ちしている。ほれぼれとしたものだ。遊ぶようなその鉄槌かなづちの手。
 私たちの舟はまたの音もゆるく緩く波上に遊んでゆく、流れはもはや急ではない、大江たいこう浩蕩こうとうとしたさざなみである。
 北方きたかた本郷ほんごうというところで、私たちは三ぞうの水車船を見た。また下流で二艘の同じような船を見た。船には家があり横の両側には二台ずつの軽い小板こいたの水車が廻っていた。内部にはきねの音がし、小糠こぬかのにおいがこめ、男女の声がしていた。支那の戦車のような形の船であった。これらは流れの瀬の替わるにつれて、昨日はしも、明日はかみへとのぼるのである。簡素ないい情趣である。
「これは、童謡になるな」と、私は眺め眺めすれちがってゆく。
 東海道線は長い長い木曾川の鉄橋が近づいて来た。
「あ、あの右たもとが笠松の四季の里です、むこうが雀のお宿」
 素峰子そほうしへさきに立って、白に赤の黒の彩雲閣のフラフを高く高くふりなびかす。ちょうど鉄橋をくぐって出たところである。見ると、やや下手しもての左岸の松林の外では何かしきりに叫んで騒いでいるむれがあった。裸のわらべたちである。わらべヶ丘おかとはそのお宿の砂丘にかつてたのまれて私が名付けたものであったが、こうしてちかぢかと来て眺めるのは今が初めてである。
「呼んでますわァ」
「君のとこの林間学校の子供たちだね。幾人ぐらい来る」
「昨年は百六十名ほど来ましたが、この夏は六十名くらいでしょうか、それに岐阜加納かのう竹ヶ鼻笠松の子供が一週に四、五回は先生につれられて参りました。そうです。五、七十名ずつ一ノ宮、奥町の子供も遊びに来ますで」
「それは盛んだな」と私はまた、一人が飛び、ひるがえったむこうの投水台とうすいだいの強いかがやきをうち見やった。警戒標の旗の先だけが、その下の河心かしんに赤い点をうっている。雨後の増水に流されて位置を変えたのであろう。
おこしの水泳場というのはどこだね」
「ずっとしもでなも」とうずくまっていたのが、また立ちかける、先棹さきさおである。
おこしはどうもあかんで」とあとの手が右斜へいささか引き気味に、ここで刻みかけると、何鳥か白く光って空をば過ぎた。
 と、私たちの小舟は小豆あずき色のひろびろとしたの浅みに沿って、いきれたつあしすすきのあいだにすれすれと横になってとまった。四季の里である。
 と、その時、その裏の岸辺に早くも出迎えていたその里の老主人と笠松の町長さんとであった。
 そこで「とうとうおれ申したで」と雀頭巾すずめずきんは素峰子の眼鏡が光った。
「美濃側の笠松へ第一に舟は着けてお貰いしないと承知せぬで。尾張側の雀のお宿はあとまわし後まわし」で笑って、「木曾川下りといえば昔はこの笠松までときまっていたものだ。日本ラインばかりで独占するとはしからん」とその家の主人がいきまいたと、それは昨日聞いた話であった。そう聞いて、今日の眺めに接すると、全くそうに違いないと思えた。河口はとにかく、犬山からこの笠松までの悠容ゆうようたる大景を下流にして、初めて中流の日本ライン、上流の寝覚ねざめ恵那えなの諸峡が生きるのである。河川として他に比類のない多種多様の変化が、そうしてそれらの綜合美が。
 水に臨んだ広い楼上ろうじょうに登って、私は下りに下って来た鉄橋のはるかかえりみた。蘇川峡の奇勝、岩壁のたか、白帝城、雨と朱の夕焼けと花火と、今はただ眼にるものは雲である、江陵である。つい一、二時間前に見た白く輝く三角洲、分流の早瀬、船大工のとんとん、水車船の野趣、何だか遠い日のむこうの煙霞えんかと隔たってしまったような気がする。
 私はまたこの晴れた日の大江たいこうしものあなたを展望した。長堤は走り、両岸の模糊もこたる彎曲線のすえは空よりやや濃くくろんで、さて、花は盛りのべにと白とのこの庭の百日紅さるすべりの近景である。幽雅な繁みと茶亭と、晩夏の日射とせみの声と。
 とうの卓とかごの椅子と、ひやした麦茶のコップと鉢の緑の羊羹ようかんあゆの餅菓子。
 東と南とに欄干てすりめぐり、ひさしにはまたふじの棚がその葉の青い光線から、おなじくまだ青い実のさやを幾すじも幾すじも垂らしてはいるが、そうして昼間の岐阜提灯ちょうちんにもが、風はそよともしないのである。
 暑い、なかなか激しい。蝋塗ろうぬりの白い団扇うちわが乱れ出した。
 午後一時。見おろす一面の河幅かふくは光り、光の中に更に燦々さんさんたるものが光って、その点々を舷側げんそくに、声なく浮ぶ小舟がある。小舟には一、二の人かげの水にうつって、何やらしきりにさお河心かしんを探っている。それは明るいしずかな画趣である。河底かていの砂にうもれた「はし」をあさるのだそうな。「木はし」は流木のずいであると聞いた。洪水に押流おしながされてきた樹木の磨き尽くし洗い尽くされたすえの髄である。焚木たきぎとしてこれほどのものはなかろう。烈々れつれつとして燃えかすひとつ残らないという。河畔かはんの貧しい生活者にもこうした天与の恩恵はある。
 うちきょうじていると、「しこらん」という土地の名菓が出る。豊太閤が賞美してこの名を与えたそうである。形はかぶとしころのごとく、かおりはらんのごとしというのだそうな。略して「しこらん」。私は和蘭陀オランダ語かと思った。おこしのるいで、細く小切こぎりにした、かりかりと歯にあたって、気品のある杏仁水きょうにんすいの風味がある。
 この笠松はその昔「あし」ととなえた蘆荻ろてきの三角洲で、氾濫する大洪水のたびごとにひたった。この狐狸こり巣窟そうくつあばいて初めてひらいたのがの漂流民だと伝えている。その後秀吉が築堤してから、元は尾張に属していたのを何か心あって美濃の所領に移したものだと、「旧幕の頃には天領として郡代ぐんだいが置かれたものでして、ついこのしもの土手に梟首場さらしくびばの跡がございますが」と町長、椅子から伸びあがった。
 鉄道開通以来、土地の人が頑固で、折角せっかくの停車場の設置をがえんぜなかったばかりに、木曾下流の渡船場として殷賑いんしんであったこの笠松街道もさっぱり寂れてしまったということであった。
 この四季の里は俳名馬好ばこうと号した常に馬をたのしんだ風狂の伯楽ばくろが初めて営んだものだそうであった。その馬好ももう五十年ぜんとかに亡くなり、今は県会議員である当主が老後の楽みに買取って、おなじく幽雅な料亭としてその跡をいでいる。
 じいじいせみがまたそこらの木立こだちりつき出した。じいじい蝉の声も時には雲とこずえしずかにする。
 進められるままに私は隆太郎と階下したの白い浴室にはいる。何かのつるった窓から、覗くと蘆荻ろてきが見え、河面かめんが見える。白い浴槽の内では、そこで私が河童かっぱの真似をする。隆坊はきゃっきゃっと逃げあがる。
「昨日はおもしろかったかい。岩がたくさんあったろう」
「うむ」
「お猿がいなかった」
「いなかった。僕、奇麗な銀のおしっこをしたよ」
「ふうん」とその父は乱れた髪の毛を石鹸シャボンで洗いかける。
 実はよいの花火までの間を是非ぜひその子にも見学させて置きたいと思って、おいたちにれて出てもらった。そこで土田どたまで電車で、香木こうぼく峡から舟でこの父とおなじに、日本ラインを下って来たのであった。
「何でもよく見ておくんだ。今度来てよかったね」
「よかったね」
 あがろうとすると、きさくな女中が大きな桃色のタオルを両手にふうわりとふくらまして来た。
「さあ、かわいいお坊っちゃん、お拭きしましょかなも」
「いやだ」という裸のを、きゅっとかき抱くようにする。逃げかかる。そうなると、いよいよ女中もかまって来る。「ね、いい子だなも、いい子」さあ小坊主怒るまいか「馬鹿野郎、こん畜生」爪で引ッ掻くってかかる、彼は彼で一個の独自の存在であり、個の人格として取扱とりあつかわれないかぎり、すくなくとも自尊心を傷つけられたと感じたろう。狂人が狂人としての待遇を受くればきっと怒る。おなじ心理で、幼児もあまりに幼くちやほやされるといきどおる。童謡の創作にもここはよほど注意すべきところだ。「うっちゃって置いてくれたまえ、自分で拭くから」と私は声をかけた「そうかなも、気の強いお子はんやなも」
 二階にはあがったが、隆太郎余憤よふんが晴れないと見えて、窓の障子紙をぴりぴりぴりと裂き初める。だが、こちらはうずたかく持って出された画帖や色紙や短冊をそうはばりばりとやる訳にはゆかない。
 少憩ののち、私たちは立ちあがった。対岸の雀のお宿を訪ねようというのである。
「お坊っちゃん、早くお帰り、今夜はわたしがだいてあげるぞなも」
「いやだ、僕、北原白秋と寝るんだ」
「へへえ、この子はん、変ってやはりますなあ」
 自動車が走り出した。
 雀のお宿の素峰子そほうしは、自ら行乞子こうきつしと称している。かつては書店の主人であったが、愛妻の病没により、哀傷あいしょうの極は発願ほつがんして、ふるって無一物の真の清貧に富もうと努めた。一灯園いっとうえんにもはいった、その木曾川橋畔に現在の学園を創立するまでの辛苦は並々でなかったらしい。ただこうした事業は気を負いやすいものである。過ぎれば俗情のわざわいが来る。わらべヶ丘おかがどれほどの童ヶ丘になりきたったか。この機会にしたしく観て置きたいと私は思ったのである。
 雀のお宿の位置は笠松の対岸になる。低い砂丘のその松原は予想外に閑寂かんじゃくであった。松ヶ根のはぎむら、孟宗もうそうの影の映った萱家かややの黄いろい荒壁、はたの音、いかにも昔噺むかしばなしの中のひなびた村の日ざかりであった。むしろなどしきちらして、郵便配達夫までが仰向けに昼寝している。そのそばに杉の皮でいた風流な門があった。額には青い字で掬水園きくすいえんと題してあった。縁側えんがわ見透みとおしの狭い庭には男女の村童がたかって遊んでいる。玄関の左には人間愛道場掬水園の板がかかり、ふり仰ぐと雀のお宿の大字だいじの額に延命十句観音経まで散らして彫り、右には所用看鐘かんしょうとして竹に鐘がつるしてあり、下には照顧脚下しょうこきゃっかしょしてある。けだし寺であり、学園であり、在家であるというのだろう。ただ趣味としての風雅が形式として勝ち過ぎる。むしろ飾らぬがよくはないかと私はいった。仏間が教室で良寛和尚をいつぎ、小さな図書室が表に、裏には※(「王+干」、第3水準1-87-83)ろうかんそうの別棟がある。琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)荘では男女の小学教師たちが二、三十人ほど集まって私を待っていた。私は民謡や童謡の話などをして、すぐとまた席を立った。
 松林にも腕白わんぱくらが騒いでいた。良寛堂の敷地には亭々ていていたる赤松の五、六がちょうどその前廂まえひさしななめに位置して、そのあたりと、日光と影と、白砂はくさ落松葉おちまつばと、幽寂ゆうじゃくないい風致を保っていた。
「こんないいところが、対岸にあろうとは思わなかった」と四季の里の主人も感嘆した。「とにかく、よくこれまでにやりとおして来た、見あげた」と私も微笑した。しかし、これからが大事である。形式が精神を超えると名利めいりの家となる。「素峰そほう、これからやかましくいうぞ」と私は笑った。
 私たちはくわ畑と松林の間を木曾川の左岸に出た。また松林があった。テントと投水台と。
 西には養老の山脈、はるかには伊吹山、北には鉄橋を越えて、岐阜の金華山、かすかに御岳。つい水のむこうが四季の里の百日紅さるすべり
「さあ、これから帰って一杯差上さしあげますで」とその老主人公がさっさとくびすをめぐらした。
 藤棚の多い四季の里の一夜の饗宴には土地の警察署長や農会長、旧知の歌人の黙々子もくもくしなどが加わった。私たちは幾度か庭の茶亭から茶亭へ席を代え代えした。夜がふけて私はたったひとりで仰向きに胸や腹をつん出して眠りころげている隆太郎の蚊帳かやにもぐりこんだ。そうして、そのでっかちないがくり頭をはずれた枕へ持ちあげ、借着かりぎ寝衣ねまきの前を深く深く合せてやると、そのままぐっすりと眠ってしまって、すぐと河霧かわぎりの白い白い夜あけが来た。
 私たちはその翌日、養老へ立った。そこで二泊、名古屋に引き返して一泊、それから恵那えなへ行った。


 八月十二日、午後五時。
 恵那峡口は遊船会社附近の鉄橋風景である。対岸に簡素な二階建ちの洋館が一つ、清流を隔てたこちらの土手の雑木、草藪、岸には空色に白のモーター・ボート、赤い線ののフラフをひるがえした屋形船。それに乗り込んだ私たち一行――私と隆太郎と同伴の素峰子そほうし、その義弟のT少年、それにその地の「山峡」の歌人たち七、八――である。肉いろの、緑の、桃いろの、パラソルを畳んで、水際にうずくまった浴衣ゆかたの女学生らしいのが二、三人、これらは私たちのつれではない。たまたま雲のごとく水鳥のごとくに現れて、この風景を明るく可憐に点彩したまでのことである。
 旧暦は盂蘭盆うらぼんの十五日、ちょうど今夜は満月である。空ははれ、風はさわやかに、日の光は未だ強い。その良夜りょうやの前の二、三時間を慌ただしい旅の心がさわめきやまぬ。駅から駅への電話が、この中津川で行先不明の私たちをやっと捉えると、すぐにも引き返さねばならぬ重大用件を取りついだのである。で、上流の福島や寝覚ねざめとこ探勝の予定も中止すると、どうでもみょう十三日の朝には此処ここを立たねばならなくなった。で、日の暮までのわずかな時間を屋形船はモーター・ボートのぼッぼッぼッぼッにかせて、大急ぎで恵那峡一帯を乗り廻ろうというのである。
 席が定まってから、「おや、あの印刷屋さんはどうしたね」と、私は驚いて笑った。多治見たじみにいち早く私たちを出迎えてくれて、それから中津川に着くまでの汽車中を分時ふんじも宣伝の饒舌じょうぜつを絶たなかった、いささかけものへんの恵那峡人Yという、鼻の白くて高い痩せ形の熱狂者が、いつのまにか掻き消すようにいなくなったものである。
「あはは、またお出迎いでさあ、何でも活動の撮影団が来るとかいってましたから。とても夢中で」
 とその従兄いとこの民謡詩人がツルリと禿上はげあがったその前額ぜんがくを指で弾く。
「ほう、いそがしいね、愛郷心もあそこまで行けば命懸けだ」
 何でも八景投票の恵那峡の騒ぎというものはすさまじかったらしい。うっかり悪口でもいおうものなら殺される。
 と、雲と山と水との四囲の風景が走り出した。
「やれ飛べ観音というのは」
「もっとかみです。おしいことしました、ゆっくり御案内できないで」
 光る、光る、光る、光る。銀、銀、銀、銀の水面すいめん、水面――水面。
「あれが御番所ごばんしょの森です」
 幽邃ゆうすいな左岸の林に釣人がいる。一人、二人、三人、四人。麦稈帽むぎわらぼうで半シャツ、かがんで、細いさおの糸をおなじくしんかんと水に垂らしている。木の影が老緑おいみどり色に澄んで、ぴちりぴちりと何か光るけはいがある。こいはえを釣るのだという。あの森にはまた鶴が棲んでいたこともあったとたれかがいった。木曾谷のくだいかだを見張った御番所の跡であるらしい。
 苗木の城址じょうしはこれに対して高く頂上の岩層にうらびた疎林がある。日本唯一の赤壁せきへきの城のあとがあれだという。この淵のぬしである蟠竜ばんりゅう白堊はくあを嫌ったという伝説がある。
 私は「恵那峡舟遊しゅうゆう案内」と見較みくらべ見較べ、いそがしい、いそがしい。
 風、風、風、風。
 光る、光る、すばらしく光るほうの葉裏である。
 翠巒すいらん、翠巒。
 下手しもて空際そらぎわには高圧線の鉄塔が見える。大同電力のダムでかれた河流は百八十尺の高さにその水深を増したというのだ。
 風、風、風、風。
 水は波は、ともすると逆流する。河というよりたんたんたたえた湖水のめんである。両岸には、木のこずえや、思いもかけぬ枝の半上なかばうえなどが水に露われて、さながら洪水にひたされた林相である。こうして急流は変じて深潭しんたんとなり、山峡の湖水となり、岩はその根を没して重畳ちょうじょう奇峭きしょうおもむきすくなからず減じてしまったと聞いた。しかしながらそのためにまた水は紺碧こんぺきを加え、容量は豊富に深沈しんちんたる山中の幽寂境を現出した。
 この恵那峡は木曾川の中流である中津川駅のそばから大井町に至る水程三里の間にあって、岐蘇きそ渓谷中の最勝の奇景であるといわれている。日本ラインの奇岩怪石は多く相迫って河中聳立しょうりつするが恵那峡の岩石美はむしろ山上にあり千仞せんじん懸崖けんがいにある。
「あれが青崖あおがけ
 眼を遮るは濃青のうせいの脈々たる岩壁である。その下の鞍掛くらかけ岩。その左はひらけた下流の空の笠置かさぎ山。雲だ、雲だ、雲だ。
 右には武光むこう岩、鬼岩、がま岩、帽子岩、ただ見あぐる岩石の突屹相とっきつそう乱錯相らんさくそう、飛躍相、蟠居相ばんきょそう、怪異相、趺坐相ふざそう相相である。点綴てんてつするには赤松がある、黒松がある、矮樹わいじゅがある、疎林がある。
 光る、光る、光る、光るほうの葉裏である。
 ぼッぼッぼッぼッ、煙、煙、煙。
「や、あれが月待つきまちおかです」
「今夜の満月はさぞいいだろうな」と私はその丘の空際そらぎわをふり仰いだ。それにしてもあまりに慌ただしい舟の速力である。
たれか踊らないか」と一人がビールをあおった。
「あ、あれが村雨むらさめの滝です」
 峡中の美橋、美恵みえ橋が現れて来た。一名ふんどし橋というのがそれだ。褌の節約と馬糞ばふん拾集しゅうしゅうとから得た利益を積み立てて架橋したのが大正三年の洪水で流出した。
「褌橋が落ちた。とうつ[#ルビの「うつ」はママ]ったものです」で、みんなが笑い出した。今のは鉄橋。
「山峡」同人の指呼しこはいよいよ急がしくなる。天狗岩です。ほら、枕石だ、後阿弥陀うしろあみだ岩だ、砲台岩岩岩岩。
 そこでしな岩というのが眼界にそびえて来る。文字どおりのかくの巨岩が相対し重積じゅうせきして、懸崖けんがいの頂きにあるのだ。ただ私にはそうした奇趣に興味を持たぬ。とし詩とするには索然さくぜんたるものがあるからである。
 その本流と付知つけち川との合流点を右折して、その支流一名みどり川を遡航そこうするふなべりに、早くも照り映ったのはじつにその深潭しんたん藍碧らんぺきであった。日本ラインにもかつて見なかったその水色すいしょくのすさまじさは、まことに深沈しんちんたる冷徹そのものであった。山中において恐らくいかなる湖面といえどもこれほどの水深をぞうする凄みはすくないであろう。大同ダムでき止められて、本来の懸崖の三分の一以上、二百じんも高く盛りあがったその水際みずぎわには、すなわち現実におけるうおは緑樹のこずえにのぼり巉岩ざんがん河底かていの暗処に没して幽明ゆうめいさらに分ちがたい。しかもまた峭々しょうしょうとして相迫った岩壁の間に翼を休めたあおい蒼い真上の空の一角である。雲は白く綿々めんめんとして去来し、巒気らんきはふりしきるせみの声々にひとしおに澄みわたる、その峡中に白いボートを漕ぐ白シャツの三、五がいる。この奇異な対照こそむしろ観るべからざるを観る一種の戦慄せんりつをさえ感ぜしめる。
 朝鮮金剛のしょうに私たちは当面したのである。この渓谷のいさぎよくしてのどかな、またこの重畳ちょうじょうたる岩峭がんしょうの不壊力と重圧とは極めて蒼古そうこ墨画すみえ風の景情である。夫婦めおと岩、蓬莱ほうらい岩、岩戸不動滝、垂釣潭すいちょうたん、宝船、重ね岩、宝塔とう等等の名はまたあらずもがな、真の気魄きはくはただに天崖より必逼ひつひつする。
 安子穴やすこあなというのがあった。白狗はくぐ白馬はくばとの天正時代の伝説がある。のち、おやすという女人が零落れいらくしてここに玉のような童子を育てた。以前は岸辺伝いからどうにかのぼれたであろうところも今は変じて湖上の絶壁となった。
 船止めの葦毛潭いもうたんから引かえして本流に出る。
 源斎巌げんさいがんが左に、むかって高くそばだつ天柱岩がある。このあたりから丘陵の間はやや斜面にひらけて赤松の細い幹が縁辺えんぺんに林立し、怪奇な岩層の風致に一種の繊細味をまじえてゆく。対松崖たいしょうがいはこれと映照えいしょうする。
 続いて、私たちの屋形船は屏風岩の岩壁にひたひたふなべりを寄せた。朝鮮金剛のしょう以上の大観である。参差しんしたるまつヶ枝、根にあがり、横にい、空にうねって、いうところの松籟般若しょうらいはんにゃを弾ずるの神境しんきょうである。
 巒気らんき水光すいこうと変幻する雲、雲、雲。
 右には蕭々しょうしょうたる滝がある。あ、水車がある。釣人はかすかにさおをかついで細いこみちをのぼってゆく。
 簡素な別荘がある。近代の料亭もある。
 鉦鼓淵しょうこえん盗人ぬすと谷、その天上の風格は亭々ていてい聳立しょうりつする将軍台、またげんとしてたいらなる金床台きんしょうだい
 金色こんじきの日光。
 と、展望がここで明るくなって左に船着場があった。の朱線のフラフ、屋形、モーター・ボート、輝く波々、桟橋のわらべ、風、風、風。
 がくれの茶亭の下へ、さてあがって、ズボンのぼたんをはずす男もいる。
 その正面こそ大同電力の白い白いダム堰堤えんていである。古典的の幽邃ゆうすい奇峭きしょうとはここに変転して、近代の白と灰銀かいぎんとの一大コンクリート風景を顕現けんげんする。水はまんまんとして、そのダムにかれてたたえ、橋梁の連灯れんとうはまだ白く玻璃球はりきゅうのみ光って、丘陵の上、また水辺みなべに反照する鮮明なる洋風建築、このダムこそ東洋一の壮観だとせられる。その堰堤の高さ百八十尺、長さ一千尺コンクリート、貯水量十億立方尺、堰堤上流三里十二町、面積百七十一町、水量流域百二十三方里、発電機四台、励磁機れいじき二台、電力四万二千九百キロワット。惜しむらくは下流に立ってこれを仰視しる機会を得なかったことである。
 私たちはその壮麗なるダムの前の広々とした湖面を一周して、さて、いよいよ帰路についた。急速力でである。
 遊船会社の前の峡口きょうこうは高い高い白い石の橋台に立って、驚くべき長い釣棹つりさおを垂れている人影も見えた。橋の下にも幾群いくむれか糸を投げてうおを待つ影も見えた。
 夕焼けが来た。さわりさわりとその肩の長い棹をゆみに、そのきを線路につけて、その鉄橋の枕木の上を拾い拾い渡る男も見えた。
 私たちはあがって、撮影をすると、すでにのともった臨時電車にぞろぞろと乗り込む、走る、走る、走る。
 私は思った。恵那峡の幽邃ゆうすいはともすると日本ラインの豪宕ごうとうしのぐ。ここまでのぼって来なければ木曾川の綜合美は解せられない。すばらしい、すばらしい。
 さて散策して見た中津の町は電飾があざやかではあったが、いかにも北国ほっこくの小都市らしく、簡素で、また陰暗たるところがあった。
 その晩、梅信亭ばいしんていで饗宴がもよおされた。この町の若い美技びぎが輪になって、そこで、あかい頭巾に花笠、裁付袴たっつけばかまのそろいで、本場の木曾踊りを踊った。だがあまりに巧緻こうちに過ぎ、柔軟に過ぎた。「民謡とはそんなもんじゃない、おうい、俺が御手本おてほんを示してやる」私も酔っていた。隣室に飛び込むと、それ何、それ何、それ何という騒ぎになった。
 紅い頭巾で、背中に花笠で、裁付袴たっつけばかまで、やあよいかとゆらりと出て行くと、若い町長初め、一同がやんやと拍手した。
 そこで、ちょっと紅い頭巾の頭を掻いて、私も笑い出した。大胆というより無鉄砲なのだ。
「おうい、坊や、いっしょに踊ろう。ヨイヨイヨイのヨイヨイヨイだ」
 この夜こそ旧暦の盂蘭盆うらぼんであった。明るい明るい満月である。





底本:「日本八景 八大家執筆」平凡社ライブラリー、平凡社
   2005(平成17)年3月10日初版第1刷
底本の親本:「日本八景―十六大家執筆」大阪毎日新聞社、東京日日新聞社
   1928(昭和3)年8月15日再版
※「船」と「舟」の混用は、底本通りです。
入力:sogo
校正:岡村和彦
2015年5月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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