冷吉は自分には考へる女がなかつたものだから、讀んだ物の中の、赤い鳥を遁がして出て行く女を、自分の女にして考へてゐた。そのために自分に女のないのが餘計に暗愁を増すやうな事もあつたけれど、それでも外に何もないのだから、やつぱりその女を考へずにはゐられなかつた。
それは表紙が好きだから買つて來た、譯したものを集めた、或本に出てゐた小説であつた。冷吉はいつも、その女が家から遁げて出かけて、窓の鳥籠を下しに引き返すパセイジを考へ浮べるのが癖になつてゐた。
その本は母に見附けられて、間もなく取り上げられて了つたから、その小説の作者の名前も、耳馴れぬ長い外國名前だつたといふ事しか記憶してゐなかつた。けれども、冷吉にはもとよりそんな事はどうでもよかつた。何の本でもたゞ戀の事さへ書いてあれば、解らないところがあつてもいゝから、ずん/″\貪つて讀んでゐた。
戀の女はグレツチエンといふ女である。そこはオランダの、何とかいふ、昔からの物の蹟の多い、古い町であつた。相手の青年畫家は、フランスからこの町へ來て、こゝの女のしめりつぽい碧い目と、琥珀色の絹のやうなふさ/\しい髮と、純白な裾長い着物を着た、典雅な姿を寫し取るために
青年はそれからは毎日その姿を求めて町をさまよふのであつた。さうして話の記載の何頁かを置いて、再び夕方の或物古い町角で、その、わが悲しい妻となるべきグレツチエンが、圖らずも、小さい雨の中を、この男の戀ひ求める目の前を過ぎるのに會ふ事が出來た。
男は急いで跡を附けて行つた。けれども、それは全く自分の目の迷ひであつたかのやうに、いつしかその女の姿を見失つて、雨の足のみ蜘蛛の絲のやうに絶え/″\に落ち續く、靜かな町筋の路上に空しく立ち
男はそれからは幾
「わが戀ふるマグダーレンに似た女よ。」と書いては入れて行き/\した。女は夕日の沈む時刻にその鳥を取り入れる度に、いく度も得る同じ手の同じ文字の紙切れをいくつも溜めて、やつと自分を戀ひる男だと知ると共に、日夜小さき胸を轟かせて、その誰だとも別らぬ男を戀ひる。男はその前に畫のマググーレンに戀ひた。女には生れてはじめての戀であつた。
かくして、遂に女は男から熱した心を私語かれる或日が來た。やがて男は、女をつれて、晝と夜との麗しい、人に見られぬ國へ落ちようといふ。女は小鳥のやうな驚きに惑ひつゝも、たゞ男のいふ何事にも從ひたいために、何を考へ返す餘裕もなくそれを肯うて、一人小さい胸を戰かせる。
翌る日の夕方、男は馬車を町角に待たせて窓の下に立つた。窃かに待つてゐた女は、身も空にそつと拔け出して、たそがれの蔭りの石段を下りて男の肘に投ずる。
「いゝか?」と男はわく/\して私語く。女は打ち顫へつゝ、
「待つて下さい。一寸待つて。」と、遂に女は男に請うて一人走せ歸つた。
あの鳥。出し忘れたあの鳥。――女は背延をして窃つと窓の鳥籠を下すと、せか/\とその金網の口を開けて、鳥を取り出して放して了ふ。鳥はぱた/\と夕方の目を掠めて立ち上つた。女はわが久しく飼ひつゝ馴れたその赤い色が、どちらへどう飛んだかを見極めるいとまもなく、そのまゝ走せて馬車に乘る。
女はかうして男のものになつて家を出て行つて了つたけれど、男はしばらく伴らつてゐる内に、いつしか女に對して段々に石膏のやうな冷い男になつて來る。男は自分の女の價を忘れて、再び
果して男は、しまひに、女に畫のマグダーレンの儘の扮裝をさせて、それをカンバスの前に立たせて、自分の戀ひるマグダーレンを、この女を通して自分の手で
冷吉はこのしまひのところで、自分がこの女のやうにほろ/\と涙が出た。それほど女の心が哀れであるだけに、さきに女が籠から遁がして出た鳥の赤い色が、それだけ悲しい色を増して、どうしても女が自分の女のやうにしか考へられなくなるのであつた。
毎日頭の痛い冷吉は、何をするのも厭で、いつも灰色のやうなさびしい心に、この鳥の女の事なぞばかり考へて怠惰けてゐたが、
冷吉は汽車に乘り遲れて、じと/″\と雨になつた午後を、薄汚いベンチにかゝつて、いら/\した頭を抱へて次の列車を待ち飽ぐんだ。何だか自分がさうして出た事を悔いるやうなその時の陰鬱な心持は、あとで考へると、飛んでもない
行つた先は、父のゐた時分から
時が時だから
それでも
冷吉は頭が疲れて來ると、門の外に茫んやり立ち盡して、薄寒くしぶく、果てもない大洋を見た。人と口を聞いたりするのも厭であつた。それには、この
かうして冷吉は時々當てもなく、自分を知るものゝ一人もゐない、この古けた町の裏筋なぞを、例の見失つたマグダーレンに似た女を求めて彷徨ふやうな心持を包んで、剥げ黒ずんだ、物さびしい家ばかり並んだ、日影もない、どんよりした
たゞ町の表筋へは厭だから出なかつた。その町筋の或部分には、やつぱりぼろ/″\の草屋根の下に、思ひ/\の、惡どい色をしたのれんの
「ちよいと/\。容子がいゝよお前さん。」
「へん、つん/\して行くわよう。憎つたらしい。」
「あら、何だと思つたらまだ十六七の子供ぢやないの?」
こんな、しわがれた惡體をついて、大勢でげら/″\笑つた。冷吉はかういふ墮落した女の慘ましいさまを見るのに堪へないやうな氣がして、こゝを通るのが不愉快であつた。
冷吉がこの町筋で思ひも設けぬ災害に會つたのは、來てから六日目の
冷吉は母へ出す手紙を郵便局へ出しに行くために、仕方なくこの町筋を通りかゝると、さうした或あいまい屋で、破れたやうな、下手な三味線を彈いてゐる店先に、ぼろけた重くろしさうなどてらを着た、船乘りらしい汚い男が二三人、板の間に乘さばつて、コツプ酒の息で互にふざけ合つてゐた。
冷吉がその前を通り過ぎて、物の小半町も行きかけると、
「畜生。どこへ行きやがつた。何とか。」と呼び立てながら、よろけ/\冷吉の側を通り拔けて向うへ行つた。すると、隱れてゐた一方の男は、甘く相手を
冷吉はさつきから、この男たちは、今通つた店でわい/\言つてゐた連中らしいといふ事を考へたゞけで、もとより何の氣もなく、その立ち
「何だおい。」と、その男は下駄に壓へられた帶を引つ手繰つた。
「どうも濟みません。」
「おい待て。何だと?」
「御免なさい。つひ暗かつたもんですから。」と、そこ/\に遁げるやうにして行くと、
「待てこの野郎。」と、いつまでも絡まつて來た。
「何です?」
冷吉は仕方なしに足を
「何だとは何だ。」と、わざと餘計に醉つた振をするやうな口調でさう言ひつゝ、よろけかゝつて、節ばつた手でぐいと冷吉の肩を掴んだ。
「何をするんです? もうあんなに謝罪つたんだから怺へてくれたつていゝぢやないか。」
「何でえ。」と、ぐつと小突く。
「ではどうすればいゝんだ、亂暴ぢやないか、そんなに。」と冷吉も癪に障つた。
「何が亂暴でえ。貴樣こそ小僧の癖に、人の帶を蹈んどきやがつて何をつべこべ理窟を垂れやがるんでえ。全てえ貴樣はのらくらと、ど、どこに泊つてる書生つぽか貴樣は。」と放さない。
冷吉はわざと意地惡く困らせるのだと思つたから、隙を見てすつと振り放して逃げかけると、
「待て、野郎。」と言ひさま、提灯を振り上げて、ぴしやりと目の上を喰はせた。
冷吉はぐづ/″\してゐるだけ損だから、その儘撲ぐられ損にしてすた/\遁げ延びたが、何かしら水々したものが目の上から頬へかけて流れ落ちるのに氣が附いて、傍の小店の
「おや、ま、どうなすつたんです?」と、店の
「ま、あなた、そんなにやみくもにお障りなすつちやいけません。ハンケチか何かでじつと押へてゐなさらなけや。……あれ、目ですね。目から出るのですかい。まあ、どうなすつたんでせう。」
女房さんはあたふたした。けれど目ではない。右の目の上に傷を負うたのである。冷吉はその方の目を
やがて冷吉は忌々しく目の上の傷に醫者の手當を受けて、その足で警察へ行つた。外には人がどや/″\たかつた。
「けれどもあんたも何とか惡口かなんか言つたんでせう? 何かなければ、あんたの言ふやうな、たゞそれだけの事でさういふ非度い事をする譯はないぢやないか。」と、巡査は冷吉の陳述を信じないやうな受け附け方をして、とにかくこちらで加害者を探し出して取調べるからと、何でもない事件のやうに言ふのであつた。それからのろ/\原籍や何かを聞かれてゐると、そこへ、「どいて下さい。一寸どいて下さい。」と言ひつゝ、入口に覗いてゐる人を押し別けて、息を切らした宿屋の
「あなたどうなさりましたのです? だれがしたんでございます? どこでゞございます?」
と、主婦さんは愕いておろ/\してゐるのであつた。
翌る朝早く、
「どうしてもあなたが先に下駄を投げ附けたんだと主張して曲げないのですが、確にさうではないんですね? かうなればすべて有の儘に言つて下さらんと、もし
冷吉は何だか警察が間拔け切つてゐるやうにじれつたくて、もうどつちが
冷吉は見えぬ左の目がどうなるのかといふ大事な事よりも、かういふ心配ばかりに捕はれて、恰も母たちの見る目から隱れてゐるやうな心持をして、不愉快に蒲團に這入つたまゝ、傷の上を冷し/\してゐた。
つく/″\考へ返すと、やつ張り相手の奴が恨めしくてならない。主婦さんは
行きがけに、係りの醫者のところへ車を
冷吉は病院へ着くまでの間、いかに悔んでも仕方がないと思つて、つとめて
病院で診察された結果では、どうしてもその儘この病院に入院するより外はなかつた。左の目は眼球の黄褐色をした部分の内部が壞れて、
「まあ、何と言つてお宅さまへ言ひ譯をすればいゝでせう。」と、こゝへ來るまでは、たゞ傷の跡が殘る殘らないといふやうな事ばかり心配してゐた主婦さんは、今更のやうにかう言つてわく/\したが、出來た事は最早仕方がない。こんなところにかうしてぐづ/″\してゐたつて片附かないからと冷吉に言はれて、主婦さんはまご/\しながら、受附へ行つて入院の手續をした後、
「あなたしつかりしてゐて下さいましよ。私は一寸急いで郵便局まで行つてまゐりますから。もうお宅へ默つてはゐられません。」と、冷吉を看護婦に託して、急いで出て行つた。かうなつては
看護婦は院長から注意されて、搖れ壞れるものを引いて行くやうに、そろり/\默つて導いたが、
「さ、こゝから梯子段でございますよ。」と、やがてかう言つて、梯子段の手擦りに片方の手をかけさせた。冷吉は、もしかかうして、これなり取り返しの附かない
二階へ上ると、看護婦は取り附きの室らしい硝子戸を開けて、少しの間こゝで待つてゐて下さい、あちらの室を拵へますからと、假りに中へ這入らせた。
そこは疊敷になつてゐた。冷吉は周圍を探るやうにして、這入つたばかりのところに坐つて、看護婦が他の事を考へたやうにのそり/\
何だか壁の剥げた、疂の汚れさゝくれた室に入れられてゐるやうな氣がするけれど、目を掩はれてゐるのだから、元より實際を知り得る譯もない。どんな町へ
今こゝで繃帶が
地方の都會の私設の眼科病院だから、そんなに大きな立派な病院だとも思はれない。冷吉が今坐つてゐる附近の部屋には、だれ一人、人の這入つてゐるらしい
と、間もなくとこ/\と階段を上つて來る足音がして來たので、さつきの看護婦だらうかと待ち設けたが、さうではないらしく、冷吉のゐる前を通つて
冷吉は繃帶の下の傷のちき/\
冷吉は看護婦が來るまで
下から誰だかばた/″\と急いで
冷吉は蒲團の上に寢せられると直ぐから目を
「もうすつかり
「冷さん目がさめたかい。」と、それは自分の母であつた。
「もうさつきから來てゐます。御覽な冷吉、お前が私の言ふ事を聞いておくれでないからこんな事になつて了つたんだよ。みんなお前さんが自分で招いた事だ。私はお
母は見る/\やるせない涙を浮べたやうにかう言つて、叱り出すのであつた。そんな事を言つて自分を責めたつて、あゝした亂暴なものに出會はすのを知つてゐて出て來たのではないから仕方がない。そんな事を言はれる位ならもつと隱してゐればよかつた。
冷吉は口の聞きやうがないので、
「そしてお主婦さんはどうしたの?」と
「冷さん、これでもうお前さんの我儘には懲りて下さいよ。何でもない事からたうと大事な片目を潰して了つたぢやありませんか。それがお祖父さんに對してはみんな私の罪になつて了ふのだもの。ちつとは私の心持にもなつて見ておくれよ。」
かう言ひつゝ母は言葉を途切つて、悲しく考へ入つてゐるらしかつたが、やがて氣を換へたやうに、
「けれど言はゞやつ張り私が惡かつた。本當はお前さんがどんなに言つたつて、私が飽くまで出さないで置けば言ふ事はなかつたんだけれど、ほんとに何といふ災難に會つたものだらうね。かうして生れもつかぬ片輪になつて了つて……」と、溜息をしつゝ、いつしか自分で自分を責め悔いるやうに言ふのであつた。
冷吉は何だか自分よりも母が氣の毒なやうな氣になつて、知らず/\繃帶の下に涙ぐまれた。一人の母の口から、自分が片輪になつたと言はれるのを聞く、その片輪といふ言葉も、自分と母とのために悲しく心に
やがて母は、
「冷さん、冷えるといけないからもう蒲團をお着なさい。」と一枚だけ着せかけたが、
「それからお前、何か食べなければお
かう言ひつゝ蒲團の肩先を押へた。
そこへ
「やつぱり
「とにかく先刻申しました容體

「でももう何と言つたつて取りかへせない事なんですから、そつちの方はどうでもようございます。みんなこの子が平生我儘をする罰なんですから。」
母はかうなつた段にいくら
「ですけど、何と思つて見ましてもいま/\しいぢやございませんか。――いゝえ、どういたしまして、あなた。奧さまの御心をお察し申しませば私なぞはどんな目をいたしましても申譯は立ちませんのでございます。――おや、お目ざめで入らつしやいますか。」
主婦さんは例の冷し藥の土鍋に藥を
「もうさつきなさらなけやならなかつたのでございますけど、餘りよくお
「おや、これは罐がちやんと口が切つてあるんですね。それではその
「ですけどミルクよりか奧さま、ざうさはございませんから一寸お粥を何いたしませう。その積りでお米もそこに少しだけ買つて來てございますのですよ。つひその廊下に水も出るやうになつてゐるのでございますから。」
二人でこんな事を言つてゐる。
暫くして、
「これはハミガキに楊子に、これは片栗ですか?」と母がいふ。
「私はつひ浮つかりして、お砂糖を買ふのを忘れました。」
「まあまあなた、お大抵ぢやございませんでしたねえ。何から何まですつかりかうして置いて下すつて、本當にお蔭さまでございます。」
「何ですか、まだいろ/\足りないものがございますが、
冷吉は、かう言つたやうな、二人のひそ/\した片隅の話を聞きつゝ、蒲團を被つてゐたが、何だか左の目が、ひゞれが入つたやうにびり/″\するのが、この先どんな事になるのかと物暗く案じられ出した。
「冷吉一寸起きて目のあれをおしよ。」と母は言つた。主婦さんは側へ來て繃帶を解くのに手を添へた。母は默つて傷がどんなに
冷吉は、右の目は
「これは電燈ですか?」と言ひつゝ、
時計が外の廊下の方で二時を打つ。
「もうそんなになりますかね。お主婦さん、あなたはいゝ加減で
主婦さんは何をか
「おや、お星さまが流れました。」と、獨り言のやうに小聲にかう言ひつゝ、そつと戸を閉ぢて、足音を盜むやうに廊下を向うへ出て行つた。
「冷吉お前こちらの目は
二時と言へば眞夜中である。死のやうにしんとした外には、木立にざわ/″\とまばらな風が渡つた。
「となりの部屋にはだれかゐるの?」と冷吉は目を冷しつゝ聞く。
「何故?」
「何かがさごそ言はせてるやうだから。」
「――さうね。だれかゐるらしいね。こちらでどさくさ出たり這入つたりするから目がさめたのだらう。小さい聲をなさい。――もうそれでいゝの?」
九時からの診察のベルが鳴つたので、冷吉はやがて母に伴れられて、そろり/\病室を出た。このやうにして自分の母が來て附いてゐるために、昨日來た時とは違つて、何だかもう長くかうして居着いてゐる、當り前のところにでも生活してゐるやうな或物が感じられた。
下には大分ごた/″\外來の患者が來てゐるやうで、女たちが濁つた訛りでひそ/\話してゐたりするのが聞えた。
ベンチにかけて待つてゐると、四つ五つの男の子のやうに思はれるのが、冷吉の直き側へ來て、ベンチへ上つたり下りたりして、目まぐろしくて堪らない。伴れて來てゐる下女らしいものが、人前の體裁だけに

診察室からは昨日の看護婦が、淋しい女のやうな聲をして、次々に患者の名を呼んだ。藥でも
「これは五錢銅かね、もし。ひゝゝどうもすみましねえ。さつぱり見えねいでございまして。」
と、受附の方で年寄りらしいものが頓狂な聲をして金を拂つてゐる。すべての容子が、どうしても、薄汚い、剥げ古りたやうな小さい病院のやうに思はれた。
冷吉は間もなく
「ね、そら、びり/″\動くだらう? そ、肉眼でも見える。」と、院長は助手の醫員に、例の四角な金屬板の穴から覗かせた。母もいつしか側へ來て立つてゐた。
「どうも少し込み入つた症候ですから、」と、院長は何かを警戒させるやうにかう言ひつゝ、右の方のガーゼを
「まあ隨分ひどい事をしたものでございますねえ。」と、母は初めて傷を見て痛々しさうに沈んだ口を開いた。
「もうはつきり見えますか? こちら。これを見て下さい。――曇つてゐる。――でも最うこちらは大丈夫です。神經が疲れてるから少しもや/\するのでせう。もう何でもありません。――これはどうしても少しは跡が附くなあ。痛いですか?」と、院長は傷口の附近を指で押へて見た。
それから診察室へ歸ると、兩方の目へ
さうしてゐる内に、女らしい
患者は代る/″\這入つては出た。五分ばかりも立つたと思ふ頃、冷吉はもう一度左の目に藥を
「もうこちらは押へてゐなくてもいゝです。」と言はれたので手を下したが、何だか目を開けて周圍の容子が見たくなつたので、傷がたくれるやうに痛いのを我慢して、僅かに小さく開いて室内を見

と、院長の前には頭に手拭を被つた、
冷吉と向ひ合つた方の、汚れた白木綿のカーテンの下にも、四五人の患者がソーフアにかけて、同じやうに目を押へてゐた。大方は手織縞の古けた着物を着た、在方の男のやうなのばかりで、帶をだらしなく結んで、窮窟さうな恰好に
冷吉は傷が釣られるやうに障るので、目を閉つては開けて、すべての容子を納得するために、そろり/\順々にあたりを見た。鴨居の壁には、月球の圖を見たやうなものを血のやうな色で摺り出した掛圖がずつと並べて掛けてある。それは何か目に關した標本圖だらうと思はれた。
再び院長の方を見ると、後の、向うへ出這入りする襖の引手が取れて穴があいて、裾のあたりの破れ目へ違つた紙がべつたり貼つてあるのが目についた。室内のすべての光景は、何だか自分が平生贅澤ばかりしてゐるのを戒められるやうな、質素な感じを與へるのであつた。そこには一寸も尊大や厭味の或物がないために、冷吉には、少し開けてゐればすぐ疲れて曇つて來る、小暗い心持のする目に取つて、何となくすべての人が親しいやうな家庭的な心持がした。
冷吉はもう久しくかうして毎日來てゐる續きのやうな氣がした。となりにゐる婦人はこの時二囘目の藥をさゝれるやうであつた。
「そんなに非度く浸み附きますか?」と院長が聞く。
「はい。少うし。」と、女は氣のやさしい、しつとりした婦人のやうに靜に答へた。冷吉はどんな女か見たいやうな氣がするけれど、押へてゐる方の目の

「冷さん、私は一寸上へ行つて來るからね。」と、母がどこからか側へ來てかう言つた。冷吉は女の事はそれで忘れて
やがてまた、再び何ものも見えぬやうに繃帶をかけられて了つた。さうして上へ上つて暗い眠りに落ちた。
主婦さんは、まだいろ/\足りなかつたものを買つて來といてくれて、
冷吉はかうして日に二囘の診察の際の外は、晝と
冷吉は氣の疲れといふものか、じつとしてゐるとすぐに寢入つて、いくらでも寢られた。
「だつてあんまり寢てばかりゐてもいけないよ。これをお上りな。」と母は氣にして時々目をさまさせて、ウエイフアーや何かをくれたり、話をしかけたりして氣を紛らせた。
或時母は、
「冷さんこゝにもく/\あつたかい日向があるから出てお坐りなさい。」と言つて、徐かに蒲團から出させた。外の往來に面した方に硝子窓が二つあつて、黒い色のカーテンがかゝつてゐるのださうであつた。
右手の方の窓を開けて跨ぐと、外の小さいバルコニーに出られるのだといふ。母はそこのカーテンを
「このあたりはずつと小さい家ばかり續いてるのよ。
母は獨り言のやうにかう言つて、あちらの
「ずつと遠くまで見えますか?」と冷吉は言つた。
「あゝ隨分先迄見えるよ。向うに火の見の柱があるのが今氣がついた。玩具のやうに小さく見えるわ。――一たい海の方はどつちだらうね。」
「この方角だろ。」
「嘘。どうして?」
「でもさういふ氣がするもの。」
「違ふよ。」
母は見えない目を劬はるやうに淋しく笑つた。
冷吉は何でもして見たい小さい子供のやうに、坐つたまゝ探り/\に硝子窓を開けた。閉ぢて坐つてゐる日向はあたゝかいけれど、外は膚にほろゝ
「もうお閉めなさい。火鉢の灰が飛ぶから。」と母は制した。母は盆を膝に載せて、夕方の
冷吉はかうしてゐてもやがて飽きて、また蒲團の中に這入つて夕方まで寢た。そんなにしては夜中になると不圖目がさめて、それぎりどうしても寢附かれないやうな事があつた。
冷吉はそんな時に、
それでも、療治を受けた
四日目の
冷吉は診察室へ下りて來るのが一ん


もう右の目ははつきり物が見えるやうになつた。外部の傷も癒着しかけたから、四五日もしたら片方だけは繃帶が取れるさうであつた。
「こちらはどうもまだしつかり見當が附かないのですがね。とにかく容易な症状ではないのですから。」と、院長は仕まひは愼重にかう言つた。
冷吉は、例のやうに目の角を押へてゐる間、ちよい/\右の方を開けてあたりを見た。中には師範學校の女子部かなぞの生徒を見るやうな、粗末な、田舍/\した女學生の患者が、診察が濟んでから、歸る時間を書いたらしい帳面へ院長の印を捺して貰ふのもあつた。不自由に慣れたやうな、氣の毒な氣のする女であつた。
冷吉は入院患者の一人に、とき/″\並んで坐つてゐる
「一寸、何があるか當てゝ御覽なさいな。」と握り手を出した。この男は釘に撲つ附かつて目を突いたのだと言つた。來年が檢査だといふのに、全で子供/\した、人のいゝ田舍の百姓であつた。手の中に持つてゐたのは、鉛で拵へた、押へれば潰れさうな小さい玩具の時計であつた。今外に小さい藥師さんの縁日があるのへ出かけて、一錢で吹矢を吹いてこれを當てたのだと言つた。懷には青い色の、安つぽさうな紙入れを買つて持つてゐた。
「は、籾殼を中に入れて膨らしてやがる。ひゝゝ。」と、小さい聲で言つて獨りで喜んでゐた。時計をくれようといふから、冷吉は馬鹿げてゐるやうな氣がしたけれど仕方なしに貰つた。この男はこの病院の事を何でも話して聞かせた。
「受附の隱居を
入院患者は
「女の方の部屋にはあの人がたつた一人です。」と、その男が指したのを見ると、それは下女のやうに髮を汚くして、赤い小帶をくる/\卷にした、薄汚い女であつた。
この間となりに腰をかけた、綺麗な人らしい氣のした女は、あれきり一度も見かけない。或は見たかもしれないけれど、少くともその人だと思ふやうな女は一人も見當らなかつた。一人、前垂れがけの、商家の手代らしい男で、兩眼とも繃帶をされてゐるのに、手も引いて貰はずに、壁をたどり/\して、馴れ切つたやうにさつさと一人で病室の方へ歸つて行くのがあつた。あれは
その
「かういふものださうですが、
「誰でせうね。かういふ人は私の方ではどうも心當りがないのですが。――あゝ、ではあの船頭か何かのやうな容子の男ぢやありませんか?」と母は聞いた。
「さうでございますね。さうお言ひですとやつぱり、かう、さう言つたやうな、はい。」
「ではね、御面倒さまですが、あの、かういふ心づかひなぞをされてはこちらで迷惑しますからつて、しづかにさう言つて、これを返して下さいませんか。そして、一切の事は綱浦館の方で、――綱浦館――その方で取計つてくれるやうにしてあるのだから、言ふ事があるならそちらへ行くやうにね。私の方では一さいあなたがたにはお會ひ申しませんからつて、恐れ入りますが、さう言つて歸して了つて下さいまし。多分さういへば通じるところからまゐつたのでせうから。」
「へい、/\。」と大木さんは下りて行つた。例の加害者が出て來たものらしい。
「あいつが一人で來たんだらうか?」
「どうだか。」
「ことわりを言ひに來たのかも知れないね。」
「さうかもしれない。」
「何を持つて來たの?」
「何だつたかろくに見もしなかつた。」と、母は、考へたくもない忌々しい事を考へさせられるやうに、不愉快さうに言つた。
「もうお前、あの事はどうでもいゝからつて綱浦館の主人にもさう言つて置いたんだし、うるさいから
「あそこの亭主が許しとくだらうか?」
「そんな事はどうでもいゝよ。」
冷吉は、あの夜、生れてはじめて警察の一室に這入つた事なぞを、最早疾つくに隔つた昔の事のやうに思ひ出しながら目を冷した。
やがてまた大木さんが引き返して來て、
「たゞ今のはたうとその儘歸つて行きましてございます。一寸でいゝから一と
「さうですか。どうもお厄介さまでした。――ちよいとお待ちなさい。つまらない物ですけれど。」と、母はもうそんな事を忘れて了つたやうに言ひつゝ、大木さんに何か手の平へ入れてやるやうであつた。
「へい/\これはどうも、へい、もう澤山でございます。たび/\どうも。」と大木さんはあつぷ/\した口で禮を言つた。
冷吉は
「もうこんなところにゐるのは厭になつた。いつそ
「だつて仕方がないぢやないか。そんなに譯もなく歸つて行けるものならお母さんだつてかういふ處にゐたくはないけども。」
「まだ中々
「あんな事をいふ。まだ
「だつて切りもしないのに。」
「見たよ、ちやんと。」
冷吉はする事がないから、時々手を延べて探つては、蒲團の綴糸をぷつり/\切つた。母はさつきから、お
冷吉は最う綴糸も切れないので、少し逆せた唇の皮をぷき/\


さう思ふと弟をこゝから撲つてやりたいやうな氣もするけれど、
冷吉とこの弟との間には、男の子ばかりがまだ二人もゐたのであつたけれど、いづれも小さい内に亡くなつて了つた。次の分なぞは顏もよく記憶してゐない位である。下から二番目の弟は、三年前までは生きてゐたのだから、考へればまだゐるやうに目に浮ぶ。冷吉は、その、病身でぐづ/″\してばかりゐた、物蔭のやうな弟の事をも考へた。
やがてそれにも飽きて、母が
「鳥ですか今のは?」と突然母に聞いた。
「さうかい?」と、母は氣附かなかつたらしく、やつぱり手紙を書き續けるやうであつた。
「もう飛んでつた。鳥だらう?」と冷吉は、母の後の片隅に、用事もなく手先を
「へ、ゝ。」といふだけで、あとは
「ね。おい。」と冷吉が言つたので、女は徐つと立つて窓のところへ來て、カーテンを開けて外を見るらしかつた。
「えゝ、そこにゐますよ。」と、母が手紙を書く耳障りになるのを憚つたやうに小さい聲でいふ。
「どこに?」
「ぢきそこに置いてあるのでございます。」
「そこに寫つてる影は鳥籠かい、あれは。」と、母はざわ/″\と手紙を卷きつゝ言ふ。
「さつきから何だらうと思つてゐた。お隣の方が飼つていらつしやるのかい?」
「へい。」と女は言つた。
母も冷吉も今までそれには氣が附かなかつたけれど、それはいつも向うの方の窓の釘に懸けてあつたからなので、もう前からゐるのださうであつた。この小女は、前にも一度、入院してる人に傭はれて來た事があるので、それを知つてゐるのであつた。今日はぶりき屋が來て、いつも鳥籠をかけて置く板壁のそばの、
さういへば成程先つきから向うの方でぶりきを叩いてゐる音が、外のどこかでのやうに聞えてゐた。鳥はこちらへ置いては、前にもどこからか黒猫が來て籠を引つくり返した事があつたから險呑だと、女は默り込んでばかりゐる癖に何でもよく知つてゐた。冷吉は隣にどういふ人がゐるのかといふ事さへ知らない位であつた。
母と小女とはその鳥を飼つてる人の噂をする。
「さうね。どこかのお孃さんのやうね。」と母は何をかしつゝさう言つた。女は、
「へい。」と言つてるだけである。
「大變にお靜な方。
「どうでございますか。さうでございませう。」
母はそれきりで話を切つた。一體、
冷吉はどんな鳥がゐるのだらうかと
あの人が隣にゐるのならいゝのにと、何といふ譯もなくさう思ふ。あの婦人だつたらいゝのに。けれどもあの人は最うあれきりこの間から診察を受けに來たのを見ない。だから隣のはあの人ではないかも知れぬけれど、どんな人だといふ事が解らない限りは、やつ張りあの婦人だと思つてゐる方が物なつかしい。さうして鳥を飼つてゐる。目がどう惡くて入院してゐるのだらう。何となくたゞ仄かに暗い目を久しく病んで、悲しいといふ程でもなく物悲しい、沈んだ日夜を見守る女なのだつたら、あの時分に聲なぞで想像した容子に似合はしい。――
冷吉はこんな事を考へ辿りつゝ、ふいと、さういふ女のあそこで飼つてゐる鳥は、例の悲しい戀の印のやうな赤い鳥でなければならぬと考へ合はせた。また實際がその通りであるかも解らない。かう思ひつゝ冷吉は、この病院へ來て以來しばらく忘れてゐた、例の鳥の女の事を考へた。
「おい。」と冷吉は言つて、小女に聞かうとした。
「へい?」と女は返事をする。さうではないだらうか。何だか、聞いて見てそれが赤い鳥でなかつたらせいがない。――冷吉はそれなり默つて了つた。
やがて、
「冷さん、/\。」と母がいふので、冷吉は我に返つて、またあの鳥を遁して出て行くシーンを考へ入つてゐた事に氣がついた。
「もうぢきに診察の時間ですよ。目をさましてゐなさいよ。」と母はいふ。寢てゐはしないのだから大丈夫である。
「ではお前、あとで冷吉を下へつれて行つたら、その序にこの手紙を出して來ておくれな。何、今でなくてもいゝのだから。」と、母は女に言つてゐる。
「さうしたら、もう
といふ。
もうバルコニーの鳥は鳴かなかつた。冷吉はやがてこの小女に手を引かれて、例の通りそろり/\梯子段を
「あの鳥ね、おい。」と遂に女に鳥の事を話しかけた。
その晩
「どうなりとして、一寸私に歸つて來いと書いてあるのだけれどね。」と母は言つた。
「詳しく書いて送つた積りでも手紙では事情が盡せないから、いろ/\に心配して入らつしやるのだらうよ。一寸歸つて容子を話して來れば私も安心して出てゐられるのだけども。」
「でも、さつきも手紙を出したぢやありませんか。」
「それにお前、私もかうして來の身着の儘みたやうなものだから、どうしても一寸歸つて、あれこれ持つて來たいものもあるし、出るなら出てゐるやうに、
「どうだか。」
「浮つかりしてゐたけど、もうかれこれ
「ぢや歸つて來ればいゝぢやありませんか。」
「だつて歸つて行くと言つたつて、あとがどうにもならないのだから、その間由やにでも來てゐてもらはなければ。」と、困つたやうにいふ。
冷吉は一ん日二日
「あら、赤い鳥といふものがゐるでございませうか。私は見た事がございません。」だ。馬鹿な女である。自分は目を掩うてゐるのだからまだいゝけれど、目が見えたら、どんな汚い小女だか。――
冷吉は
翌る朝、母はどうでも一寸歸つて來る事に極めた。
「一寸の
留守の間の事は小女ではしやうがないから、看護婦が出來るだけ世話をすると言つて引き受けてくれたさうである。九時の診察が濟むと、母は仕度をして出かけた。看護婦はそのとき
「あの奧さま、食麺麭はどこにもないのださうでございますが。」と、廊下で母と何か言つてゐた。母はその儘下りて行つた。看護婦は跡を引き受けてよくするから心配はないといふ事を示すためのやうに、入れちがひに室へ這入つて來て物を言ひかけた。冷吉は寢た風をしてゐた。
「お
一度罨法をしてから、うと/\してゐたと思ふ内に、もう午になつた。看護婦が三度目に來て食事を運んで給仕に附いた。
「お淋しいでせう、急に。早く傷の方の繃帶が取れますとちつとはお氣が紛れるでせうがね。おや、あなたは肉はおきらひでございますの? どういたしませう。それでは召し上る物がございませんわね。」と言ふ。こんな雪駄の皮のやうなのが食へるものか。箸で突つゝいて見たつて分る。默つて給仕をしてゐればいゝのだ。厭な女でもないけれど、母にまた金でもひねつてもらつたものだから、
冷吉は
と、昨日の鳥がまたちつちと啼いた。外は黄色い濃い日が當つてゐるやうな、あたゝかい日であつた。鳥はやつぱり今日もあそこに置いてあるのと見える。もう駄目だ。あんな赤くない鳥が何になる。さうしてあの婦人より外の女が隣にゐたつても
冷吉はかうしてまた今まで考へた續きを考へた。なぜ自分には戀をする女がないのだらう。女がゐて、戀ひても會はれないで、かうして暗く寢てゐるのだつたらいゝのにと思つて見る。けれども、いくら考へても自分には女がないのだから駄目である。
何だか
看護婦が目を冷すのを世話をしに來た。それから二度目の診察の時間が來た。
ベンチに待つてゐると、例の子供等が今日もわい/\言つてゐる。自分の側へかけて、獨でこそ/\何かしてゐるものがゐたので、冷吉は退屈まぎれに話しかけて見たが、返事もしずに向うへ行つて了ふ。それが、何だか自分を相手にしてくれるものもないやうに物足りない。例の目を押へてゐても、今日もまたどこかへ出かけてまだ歸らないのか、
冷吉は氣の拔けたやうな
飯をすましてから、そのまゝじつと坐つてゐると、もう段々に暗くなつて行くやうな氣がする。少くとも日は疾くに蔭つて了つたらしく、部屋の内が、晝間のやうでなく、
「あら、さうですか。」と、となりの部屋で何か面白さうに低い聲で言つて、年の入つたやうな女が笑つた。何だか自分ばかりが淋しいやうで忌々しい。
ふいと、晝間小女が來た時に、あんなににべもなく追ひ歸したのが冷酷な事をしたやうに考へ返された。がさごそいふから誰かと聞くと、私でございます。午まへにまゐりましたが、看護婦さんが今日はいゝからといふ故、その儘歸りましたのですけれど、と言ふのをろくに聞きもしない儘、もういゝから行けと面倒臭さうに言つたので、小女は叱られでもしたやうに、默つて悄々したやうに出て行つた。物を考へてゐるのにこんな薄汚いものがゐては厭だから追ひ歸したのだけれど、貧乏人の女だから、そんなに厭さうにされたら情なかつたらうと思ふ。
冷吉はこんな事を考へたりしつゝ、物淋しく坐つてゐた。今日は晝間だいぶ寢たから、今から直ぐには寢られさうもない。
やがて冷吉は何をするためともなく立ち上つて、壁に傳はつて出口の戸のところへ來て、
すると、下の方で四五人のものがどたばた爪先で廊下を走り

さう思ひ/\冷吉は、何をするすべもないので、手擦りに沿うて一と足づゝ階段の方へにじつて行つた。隣の部屋を通り越すと直に梯子段の
と、ふと隣の戸が
「どこへ行らつしやいますの?」といふ。
「私ですか。」と
「行らつしやいますなら手を引いてお上げ申しませう。
「いゝえ、いゝんです。こゝにかうしてゐるだけですから。」と冷吉は言つた。知らない人間だからそれ以上にいふ事もない。
「お一人ではお淋しうございますわねえ。」と、人のいゝ婆さんのやうにしんみり言ひつゝ下りて行く。この近所の田舍の婆さんでもないらしい。
下ではまだがさごそとだれかゞ遁げ

すると、下の方で、
「あら、いけない/\、そんなところに隱れてるんだもの。」と、汗ばんだ聲をして、不平らしく一人が言つた。
「ふゝゝ。」と田舍の女のやうに笑ひつゝ、だれか知らこそ/\と梯子段を下りた。
「ま、およしなさい。痛いわよ、お前さん。」
「いけない。今度はお前さんが目を隱すんだ。」
「さうだ、罰だもの。
冷吉はその儘しばらくそこに彳んだ。
もうすつかり夜である。
冷吉は蒲團に這入つた儘、取りとめもなく物を考へた。
看護婦が罨法をさせて下りて行つた
いつそ兩方の目が少しも見えない、盲目になつて了へばいゝやうな氣がする。さうなれば
「もう鳥を寢せませう。また日が出るまで暗く寢せませう。」と、自分の女は淋しくかう言つて、そこの柱に懸つた籠を下す。鳥は死んだやうに音もたてずに、小さく籠の薄暗がりに縮こまつてゐる。たゞ赤い鳥と聞いてゐるだけで、いつまでたつても自分はその赤い姿を見る事は出來ぬ。自分はその鳥の色の赤いといふ事を心元なく疑ふやうに、いつもはじめて聞くやうに女に聞くのが癖である。私の着てゐる着物のやうに薄い赤い色、と、やつぱりいつもはじめてのやうに女は答へる。
だから女は自分がもう取り返す事の出來ない、目の見えた日の事を戀ひ返す心持に似た、薄い仄かな赤い絹を、悲しく纏うてゐるのでなければならぬ。
「私の着てゐる色のやうに、」と、この夕方も同じ事を答へつゝ鳥籠を下に置いたが、それなりそこに坐つて了つたやうに、じつと何をか考へ入つてゐる。
「どうしたの?」と自分は暗く聞く。女は何を考へ出したのか、しく/\泣いてゐる。グレツチエンが悲しい暗い妻となつての後のやうに泣いてゐる。なぜ泣くのか、何を考へたのかと自分は聞く。女は何も言はずにたゞしく/\と泣く。自分も何とも知らず悲しくなつて泣く。
と、女は背中に漂ひかゝる髮を搖がせて伏し沈むに、自分の暗い涙はほろ/\落ちてその亂れた髮にかゝる。
「悲しいわが戀。悲しい暗い人。」と言ひつゝ女は泣く。――
冷吉はさういふ女が得たい。さうして悲しく戀したい。戀して悲しい自分が見たい。それには自分はこの先々、小さいバルコニーの附いた家にゐなければならぬ。そのバルコニーに出て考へ沈んでゐると、下を、赤い鳥の籠を提げた小女が通る。女は目の見えぬ自分を見て戀ひる。さうしていつも自分がそこに出て物を考へる時刻に、女は鳥を持つて通りつゝ自分を見る。自分は赤い鳥の女と聞いてその女を戀ひる。――
冷吉はかうしてまた女の事を考へ續けるのであつた。しまひにはいつもの通りにもどかしくなる。頭が熱したやうに茫うとなつて、熱が浮いたやうに
冷吉は寢飽きたやうに
冷吉は堪へられぬやうにそつと立つて、右の方のカーテンを引いた。さうして、掛金を探つて硝子戸を兩方に開いた。外は暗いのだらうか。何だか自分の頭のせゐか、
冷吉は室を出てバルコニーに立つて見たくなつて、しづかに足場を探つて出た。
星のある
「あなたそこは危うございますからお止しなさいまし。」と、不意に隣の窓からだらう、すぐ
「そこの手擦りが腐つてぶら/″\になつてゐるのですから。」と
「こゝに椅子がありますからおかけなさいまし。――靜ないゝ晩ですこと。」女の言葉は私語くやうに低いけれど、自分に附いてゐてくれる女でゞもあるやうにしめやかに言ふのであつた。
「私は澤山です。あなたのがなくなりますから。」と冷吉は、もじ/\する心持を押へるやうにして
「もう私は充分かけてゐました。おかけなさいな。」と自分の考の中で思ふ女のやうにいふ。冷吉は何にも知らない、たゞの子供のやうにしてゐれば、女の側へ行つても何も變に取られる譯もないと考へつゝ、言はれるとほりにそちらへ行つて見た。
「もつとこちら。――ね。」
探ると
「あなたは何にもお見えなさらないのですから御不自由ですわねえ。――お母さまはいつ歸つて入らつしやるのです?」と、女はもう
「いつですか。――明日でせう。」と冷吉は、極りが惡いやうな氣がして、目には見えぬ椅子の肘掛の、粗い編み目の間を指先でいぢくりながら、默つてかけてゐた。何か言ひ出したいやうにそは/\するけれど、何を言へばいゝのか分らない。
「お母さまがいらつしやらないと、淋しいでせう? あなたは始めからずつとさうして目を
「えゝ。」と冷吉も小さくいふ。
「それでは皆んな、こゝに入らつしやる方のお顏も御存じないわね?」
「えゝ。」
「私は?」
「……」
「ほゝゝ御存じ?」
「いゝえ。」と言ひつゝ冷吉は、それよりもこの女の飼つてゐる鳥の事を聞いて見ようかと思つた。
女はそれきりで稍しばらく默して、目の前に廣がる
と、默つて立ち盡してゐた女は、氣をかへたやうに、
「あなた、こちらへ入らつしやいませんか。私のところでお話をしませう。ね、いゝでせう?」と、もう外に出てゐるにも飽きたやうに言ふ。
「入らつしやいな。」と女は先に立つた。どういふ人だとも知れない上に、はじめて口を聞いたゞけなのだけれど、冷吉はもう久しく
「待つて入らつしやい。椅子を引つ込めて置きますから。――こちらです。」と女は手を貸した[#「貸した」は底本では「借した」]。冷吉は入口を跨いで中へ這入る。
「ようございますか。」と女も這入つた。
「あなたのお部屋も電氣が點いてゐるのでせう?」と言ひつゝ冷吉は、勝手が解らないから、這入つたばかりのところに立つてゐた。
「そして鳥は?」
女は這入つた
「私の鳥?」と言ふ。
冷吉が自分の室に歸つて蒲團に這入つたのはもう遲かつた、間もなく看護婦が最後の罨法をさせに上つて來たから、最早下ではみんな寢てゐるのであつた。冷吉は、さつきからよく寢入つてゐた續きのやうな
それから本當に寢ようとしたけれど、何だかいつまでも寢つかれなくて、色んな事を考へた。
その内に下の入口に車が下りた。冷吉は別に何とも思はずに、
「冷吉。――冷吉。もう出て口をお
「……でも頭が痛くて氣分が惡いんだもの。」と、いゝ加減な事を言つて濁して置く。
「それではお前どうでも風を引いて熱でもあるのだらう? あんなに窓を開け放しにしたまゝで寢てゐるのだもの。きつとあれで風を引いたんだよ。」
母はこんな事を言つた。
冷吉は口を濯ぎに伴れて行かれるのに、となりの部屋の前を通るのが氣恥かしいやうな心持がした。何だか母だつて
やがて朝飯代りの牛乳を飮んでゐる中に、もう今朝は診察のベルが鳴るのであつた。冷吉は間もなく母に伴れられて下へ下りて行つた。
女ももう來てゐはしないだらうか。さうして自分に話しかけはしないだらうかと思ふと、氣がどき/″\する。それと同時に、物の話のやうに、
冷吉は看護婦に名を呼ばれて暗室に這入つたが、昨夜の事が、何か目に變つた徴候を來してはゐないだらうかと、急にそれが心配になつた。
さうしてるところへ、冷酷にこの不安を襲ふためのやうに、院長がついと這入つて來た。もうどうなるものかと思ふ。神經のせゐか、どうも目がもや/\するやうな氣がする。
「どうですか。」と言ひつゝ、院長は繃帶を解いて、看護婦が
「ふゝん。どうも相變らず……。併し餘程よくなりましたよ。もう、少し視力が出やせんかと思ふんだが。――この指を見て御覽なさい。見えますか?――見えない。ではこつちを見て御覽なさい、火の方を。――どうです、同じ茫うとしてると言ふにも、先頃よりは火の影が少し明るいやうでせう? さうぢやありませんか?」
「はじめよりか幾らか違ふやうですが、でも
「もう一度こつちを向いて御覽。まだびり/″\瞳が動くけれど、併しあなたのやうに幸運なのはありませんよ。どうも不思議だ。どうしてもこちらは失はねばなるまいと思つたのですがねえ。とにかく水晶體が――目の中の黄色い部分ですね――そいつが脱落してゐないのは確かです。――最初はそれが壞れてゐるに相違ないと見たのでしたが。――どうも不思議。ま、もう少しじつと經過を見ないと。――ほう。傷は大抵
それから例の椅子にかけてゐる間、ちよい/\盜むやうに右の目を開けて見た。女はまだ來てゐないやうである。いつでもしまひ際に人が少くなつた
と、母が向うに人の通り路を避けて立つて、こちらを見守つてゐた。
冷吉は診察がすむと、歸つて蒲團の中に這入つて、じつと寢ようとしたけれど、もや/\と
冷吉はそれから昨夜バルコニーへ出てからの女の言葉を一々考へ拾つた。一語も漏らさずみんな記憶してゐる。はじめて診察室で隣り合つてかけた時に自分に言つた言葉も、院長に言つたのも、みんな覺えてゐる。冷吉は順序立てゝはじめから一々繰り返して見た。さうして甘いやうな心持に少し疲れて來ると、やがてうと/\となつた。
ふと、はつきり目さめた意識に返ると、看護婦が來て母と話してゐた。冷吉はそれには耳を置かずして、自分の考へるべき事を追うてゐようとしたが、その内に隣といふ言葉が耳に這入つたので、二人の言つてゐる事に注意を欹てずにはゐられなかつた。
「それにあちらの方が疊も新らしうございますし、こちらの方角も見渡せますでございますから、直ぐにお移りなさいましよ。」
「さうですね。だけどまた御厄介をかけますから。」
「いゝえ、そんな事は何でもございませんわ。」
と、こんな事を言つてゐる。
看護婦が行つてから冷吉は母に聞いた。
「お母さん。部屋を換るの?」
「何、どうでもいゝよ。
「どこへ移るの? 移れば。」
「何ね、となりが
「となりが? いつ?」
「まあ、何です、愕いたやうに。」
「いつ空いたのだらう。」
「ふゝゝ急に小さな聲をするわ。つい今だろ。」
「それでは私が寢てゐた
「どうだか。」と、母は何の譯も知らないのだから、どうでもいゝ事だと言つたやうに言ふのである。
冷吉はそれきりで默つて了つた。なぜそんなに欺くやうに急に出て行つて了つたのだらうと、出し拔れでもしたやうな、あつけない心持を禁する事が出來ない。どうした譯なのだらう。昨夜あれだけ話したのに、そんなにもう翌る日になれば行つて了ふといふ容子は一つもなかつた。何だか狐につまゝれたやうな氣がする。たつた一
冷吉は、徒にその
冷吉は物を
「どうかしたの?」と母が聞く。
「なぜ?」
「何か食べたいのかい? 退屈なのだろ。」
「そんな事ぢやないんた。」と冷吉は口の内で言つて、夢の跡を探るやうに、
「ね、村井さん。」と聞き出した。
「となりの人はもう今日歸るといふ事は前から極めてゐたの?」
「どうでございましたか。私は一向存じませんでしたけど、何だか急でしたわね。」
「そして婆やさんももうゐないの?」
「えゝ。患者の方が先に朝早く出てお出でなすつて、婆やさんは跡を片附けるので午まへまでごそ/″\してゐましたが、」
「さうして鳥は?」
「ふゝゝ何だらうそんなに一々お前。」と母は言つた。
「鳥はどうでございますか。婆やさんが持つて歸りましたでせう。」
「駄目だな。」
「あなたは鳥がお好きですか?」
「だつてあんな鳥は拙らないつてこの間はさう言つたくせに。」と母がはたから言つた。冷吉はそれきり默つてゐた。何故、あの鳥が赤い鳥で、それを女はこゝを出る時に籠から放して行つて了はなかつたのだらうと思ふ。
冷吉はやがて失くしたものを探しでもするやうにバルコニーに出た。
「お前さん、危いよ、そんなところへ出て。」と、母は内から言つた。
冷吉は昨夜のはじめからを考へ返しつゝ彳んだ。さうして、あれはやつぱり自分の考の中の事ではなかつたらうかと疑つた。
外は日向のもく/\あたゝかい日であつたけれど、じつと、あの鳥のやうに遁げた女を考へて立つ冷吉には、何だか、かうした日向は、物悲しい心持を
なぜ女は、これがはじめて會つた
會ひたい。もう一度會ひたい。これぎりで最早二度と物をいふ事が出來ないのなら、何といふ、女は冷やかなものなのだらう。自分にこの戀しさを注いで置いて、それを心にはかけないのだらうか。女は自分よりも年上である。女に取つては自分はたゞあゝした一夜のために、氣まぐれに選ばれた一
けれども女の言つた事はいまでも耳に聞くやうである。その何してゐて話した言葉の今耳に浮く心持は、必ずもう一度會ふ、もう一度會ふ日が來ると、この女がどこかにゐて心に言つてゐるやうに感じられる。會はなければならない。どうしても會はなければならない。小雨のふる町の或窓に、赤い鳥の籠を取り入れる姿を見出すやうに、いつか再び會ふ日が來るのでなければならぬ。
「冷さん。」と母が呼ぶ。冷吉はどうしてもその日が來るのだと、もう
「何です?」と母に返事をした。さうしてそれまで女はどこかで赤い鳥を飼つてゐるのだと考へたかつた。
冷吉はそれからは毎日、どこかで赤い鳥を飼つてゐてほしいその女の事を、話のやうに消えたその女の事ばかりを考へ續けた。さうして、何かその女に關して或事が見出されるやうな期待を持つて、戀しい晝と
その内に、もう疾くに片方の目は開けてゐられるやうになつた。兩方の目を掩はれてゐる間は、早く片方が
冷吉は、あれきり人がゐないで
女はどこにどうして何を考へてゐるであらう。どんな女でどうした人だとも知らずに、たゞ暗い中の影のやうに逢つた女。さうして翌る日にはもう去つてゐない。いつまでもどんな女だつたかを知る期もなく去つたのである。たとへもう一度どこかで會ふにしても、自分はいつまでも、それをその女と知り別けるすべもない。戀といふには餘りにあつけない。このやうなのを自分のした戀だといふには餘りに夢のやうである。やつぱりマグダーレンの女のやうに、自分の讀んだ物の中の話だと思ひたい。さうして女は赤い鳥を飼つてゐたのだといふ事にしたい。去つてもどこかでやつぱり赤い鳥を飼つてゐるのだといふことに。
一
冷吉はさうして活字の上で記憶してゐるやうに、女から聞き得たすべての言葉を考へ返しつゝ、下の病室の窓の根の、大きな椿の花のぽた/\と落ちてゐるのを拾つて上つては、バルコニーに出て、女のゐた部屋の窓のふちに並べた。窓は硝子が
最早少しは外へ出歩いてもいゝのだつたけれど、知らぬ小汚い町筋へは出て見たくもない。このバルコニーがあれば澤山である。向うの
それは入院してから二十二日目の午後であつた。どうせ長い目なのだから、いつまでゐても區切がないゆゑ、母は、汽車へ乘る事を許されさへすれば、一
もう荷物はすつかり下へおろされて車が來るのを待つてゐた。大木さんも看護婦も時計をくれた百姓も戸口に下り立つてゐた。冷吉は何だか、かうした段になると、こんなに急いでこの病院を去つて了ふのが惜しくもあつた。
冷吉はもう一度引き返して隣の部屋の中に這入つて、そこから窓を開けてバルコニーに立つた。手擦りの取れかゝつたバルコニーには、五六日前に母とこのあたりの夜店で買つて來たナスタシヤムの朱黄色の花が、まだ一つ、鉢に散り殘つてゐた。
「冷吉。/\。」と母が下で呼んでゐる。
「え?」と冷吉は上から言つた。
「どこ?」と母は下から出て、
「おや何です、またそんなところなぞへ上つて。
「ね、お
「そんな事はどうでもいゝから早くお下りよ。用事があるのだから。」
「さうして赤い鳥を。」と冷吉は心に言ひつゝ、いつまでも下りたくないバルコニーを、殘り惜しく去らなければならなかつた。自分はどうしても赤い鳥を買つて、それをあの女の紀念にしていつまでも逃がさずに飼つて置くのだ。それには何だか自分がもう目が暗くないのが拙らない。もう一度暗い目になりたい。暗い
冷吉はこのやうな事を考へつゝ、わざとぐづ/″\して梯子段を下りた。
(明治四十四年三月)