一
「足音が高いぞ。気付かれてはならん。早くかくれろっ」
突然、鋭い声があがったかと思うと一緒に、バラバラと黒い影が
影は、五つだった。
吸いこまれるように、黒い板塀の中へとけこんだ黒い五つの影は、そのままじっと息をころし
チロ、チロと、虫の
京の夜は、もう秋だった。
明治二年! ――長らく吹きすさんでいた血なまぐさい風は、その御一新の大号令と一緒に、東へ、東へと吹き荒れていって、久方ぶりに京にも、平和な秋がおとずれたかと思ったのに、突如としてまたなまぐさい殺気が動いて来たのである。
五人は、
狙われているのは、その黒板塀の中に宿をとっている大村益次郎だった。――その昔、
国民皆兵主義の提唱がその一つだった。
第二は、軍器製造所創設の案だった。
「のぼせるにも程がある。町人や土百姓に鉄砲をかつがせてなんになるかい」
「
その門地を倒し、そのお家柄を破壊して、四民平等の天下を
その声に、不平、嫉妬、陰謀の手が加わって、おそろしい暗殺の計画が成り立った。
「奴を
「大村初め長州のろくでもない奴等が大体のさ張りすぎる。あんな
「きゃつを屠ったら、政府は
五人は、その大楽源太郎の
隊長は、
狙ったとなったらまた、斬り損じるような五人ではない。兵器廠設置の敷地検分のために、わずかな衛兵を引きつれてこの京へ
「どうします。隊長。すぐに押し入りますか」
斬らぬうちから、もう血の匂いでもがしているとみえて、鼻のひしゃげた市原小次郎が、ひしゃげたその鼻をくんくんと犬のように鳴らし乍ら、隣りの神代の袖をそっと引いてささやいた。
「奴、
「左様……」
「左様という返事はありますまい。待つなら、待つ、斬りこむなら斬りこむように早く取り決めませぬと、嗅ぎつけられるかも知れませぬぞ」
「…………」
しかし、神代直人は、どうしたことか返事がなかった。――
「変な商売だのう……」
アハハ、と大きく笑った。
同じ刺客は刺客でも、神代直人は不思議な刺客だった。これまで直人が手にかけたのは、実に八人の多数だった。しかし、そのひとりとして、自分から斬ろうと思い立って斬ったものはなかった。八人が八人とも、みんな人から頼まれて斬ったものばかりだった。
それを今、直人は思い出したのである。
「しょうもない。大村を斬ったら九人目じゃ。アハ……。世の中には全く変な商売があるぞ」
「
「せくな。神代直人が斬ろうと狙ったら、もうこっちのものじゃ。そんなに
「へえ」
「へえとはなんじゃい。今から町人の
「ござりまするが――」
「
「一向に――」
「知らんのかよ。人を斬ろうというほどの男が、その位の学問をしておらんようではいかんぞよ。坊主は、
「馬鹿なっ。なんのかんのと言うて、隊長急におじけづいたんですか!」
「…………」
「
「…………」
「あっ、しまった隊長! ――二階の
「…………」
「奴、気がついたかも知れませんぞ!」
せき立てるように言った声をきき流し乍ら、直人は、黙々と首を垂れて、カラリコロリと、足元の小石を
「では、斬って来るか。――小次! おまえ気が立っている。さきへ
飛び出した市原小次郎につづいて、バラバラと黒い影が塀を離れた。
あとから、直人がのそりのそりと宿の土間へ這入っていった。
二
「どこへ参ります! お待ちなさりませ!」
「…………」
「どなたにご用でござります!」
異様な覆面姿の五人を
あとから、カラリコロリと下駄を引いて、直人も、のそのそと二階へあがった。
敷地の選定もきまり、兵器廠と一緒に
「藪医者! 直れっ」
しかし、藪医者は藪医者でも、この医者は只の医者ではなかった。彰義隊討伐、会津討伐と、息もつかずに戦火の間を駈けめぐったおそろしく
「来たのう、なん人じゃ……」
ちらりとふりかえって、呑みかけていた盃を、うまそうにぐびぐびと呑み
人物の
「どけっ。おまえなんぞ
掻き分けるようにして、直人が下駄ばきのまま、のっそりと前へ出ると、にっときいろく歯を
「遺言はござらんか」
「ある。――きいておこう。名はなんというものじゃ」
「神代直人」
「なにっ。そうか! 直人か! さては頼まれたな!」
きいて、こやつ、と察しがついたか、一刀わしづかみにして立ちあがろうとしたのを、抜き払いざまにおそった直人の剣が早かった。
元より見事に、――と思ったのに、八人おそって、八人仕損じたことのない直人の剣が、どうしたことかゆらりと
しかし二の太刀はのがさなかった。立ちあがった
それを合図のように、バタバタと、けたたましい足音が、
「あっ。隊長! 衛兵じゃ! 銃が来ましたぞっ」
急をしらせたとみえて、益次郎の従者が、銃口を
「来たか! あいつはちと困る! 早くにげい!」
仕止めの第三刀を斬りおろすひまもなかった。どっと、一斉に障子を蹴倒して、五人の者は、先を争い乍ら、裏屋根伝いに逃げ走った。
追いかけて、パチパチと、銃の音があがった。
同時に、ころころと黒い影が、河原にころがりおちた。――と思うまもなく、またばったりと影がのめった。
誰と誰がどっちへ逃げて、誰と誰とがやられたかまるで見境いもつかなかった。河原の
三
どの位
逃げた影もおそらく遠くへ、と思ったのに、しかし突然、ぴちゃりと、沼の底のようなその闇の中から、水音が破れると、あたりの容子を
「もうよさそうだな。――おい」
「…………」
「おいというに! 誰もおらんか!」
「ひとりおります。もう大丈夫でござりまするか」
「大丈夫じゃ、早く出ろ。誰だ」
「市原でごわす」
「小次か! おまえもずぶぬれだのう。もう誰もおらんか」
「いいえ、こっちにもひとりおります」
ジャブジャブと水を掻き分けて、河の
富田金丸だった。
こやつも水の中へ、首までつかり乍ら、じっとすくんでいたとみえて、長い腰の物の
「どうやら小久保と、利惣太がやられたらしいな。念のためじゃ、呼んでみろ」
「副長! ……」
「…………」
「石公! ……。利惣太……」
呼び乍ら探したが、しかし、どこからも水音さえあがらなかった。
銃声と一緒に、ころがり落ちたのは、やはりそのふたりだったのである。
「可哀そうに……。えりにえって小次と
先へ立って、河原伝いに歩きかけたその神代が、不意にあっと声をあげ乍らつんのめった。
「しまった! そういうおれもやられたぞ」
「隊長が! ――ど、ど、どこです! どの辺なんです!」
「足だ。左がしびれてずきずき痛い! しらべてみてくれ!」
夢中で知らずにいたが、屋根から逃げるときにでも一発うけたとみえて、左の
しかし、手当するひまもなかった。
静まりかえっていた街のかなたこなたが、突然、そのときまた、思い出したようにざわざわとざわめき立ったかとみるまに異様な人声が湧きあがった。
と思うまもなく、ちらちらと、消えてはゆれて、無数の
京都守備隊の応援をえて、大々的に捜索を初めたらしいのである。
「危ない! 肩をかせ! このあん梅ではおそらく全市に手が廻ったぞ。早くにげろっ」
「大丈夫でござりまするか!」
「痛いが、逃げられるところまで逃げてゆこう。そっちへ廻れっ」
苦痛をこらえて神代は、ふたりの肩につかまり乍ら、
二条河原から、向う岸へのぼれば、さしあたりかくれるところが二ヵ所ある。悲田の非人小屋として名高いその小屋と、
「岸をしらべろっ。灯はみえんか!」
「…………」
「どうだ。だれか張っていそうか!」
「――いえ、大丈夫、いないようです」
「よしっ、あがれっ」
いないと思ったのに、灯を消して、じっとすくんでいたのである。ぬっと顔を出した三人へ、
「誰じゃっ」
するどい
スパリと、左右から青い光りが割りつけた。
それがいけなかった。
ひとりと思ったのに、もうひとりすくんでいたのである。
同時に、街のかなたこなたから、羽音のような足音が近づいた。
「小屋へ飛びこめっ。あの左手の黒い建物が、非人小屋じゃ! あれへかくれろっ」
キリを
しかし、どうしたことかその小屋は、がらあきだった。いつもは二百人近い非人がたかっているというのに、人影はおろか、
そのまにも、捜索隊の足音は、ちらちらと提灯の光りを闇のかなたにちりばめて、呼び子の音を求め乍ら、バタバタと駈け近づいた。
「
なにをする
奥まった小座敷らしいところから、ちかりと灯が
しかし、同時に、先ず小次郎がたちすくんだ。金丸も立ちすくんだ。あとから駈けこんだ直人も、はっとなって立ちすくんだ。
まさしく誰かの妾宅とみえて、その灯の下には、今、お湯からあがったらしい
ふり向くと一緒に、
「追われているんです! かくまっておくんなさい」
いいもわるいもなかった。構わずに座敷の中へおどりあがって、あちらこちら探していたが、お勝手につづいた暗い土間に、うち井戸の縄つるべがさがっていたのをみつけると争うように金丸と飛んでいって、左右の縄へつかまり乍らするすると井戸の中へ身を忍ばせた。
あとからあがって、直人も、まごまごし乍ら探していたがほかにもう身をひそませる場所もなかった。
只一つ目についたのは、隣りの部屋の
「この辺で消えたぞ」
「この家が臭い!」
「這入れっ、這入れっ」
表の声は、今にも乱入して来そうな気配なのだ。
直人は、せき立てられたように、隣りの部屋へ駈けこんだ。――しかし、同時に、われ知らず足がすくんだ。
寝床は寝床だったが、ふっくらとしたその夜具の中には、旦那のおいで、お待ちかね、と言わぬばかりに、仲よく二つの枕がのぞいていたのである。
ためらい乍ら、まごまごしているのを、突然、女がクスリと笑ったかと思うと、押しこむようにして言った。
「しょうのない人たちだ。二度とこんな厄介かけちゃいけませんよ。――早くお寝なさいまし」
意外なほどにもなまめいた声で言って、咄嗟に気がついたものか、座敷に点々とおちている血の
ドヤドヤと捜索隊の一群がなだれこんで来ると、口々に
「来たろう!」
「三人じゃ!」
「かくしたか!」
「家探しするぞ!」
声の下から、ちらりとけわしい目が光ったかと思うと、隊長らしいひとりがずかずかとおどりあがって、寝床の中の黒い
「こいつは誰じゃ!」
「…………」
「返事をせい! 黙っていたら引っ
手をかけて剥がそうとしたのを、女がおちついていたのである。黙って、その手を軽くはねのけると、うっすらと目で笑って、この姿一つでもお分りでしょう、と言うように、なまめかしく立膝を直人の顔のところへすりよせ乍ら言った。
「はしたない。旦那は疲れてぐっすり寝こんだところなんですよ。もっとあてられたいんですかえ」
「馬鹿っ」
馬鹿というより言いようがなかったに違いないのである。
「馬、馬鹿なやつめがっ、いいかげんにせい!」
まき散らした白粉も、女とは不釣合な五分月代も、疑えばいくらでも不審があるのにいざと言えば寝床へも一緒に這入りかねまじい女のひとことに気を呑まれたとみえて、捜索隊の者たちは、ガヤガヤとなにかわめき乍ら、また表へ飛んでいった。
同時に女の態度がガラリと変った。
「追っつけ旦那が来るんです。来たら今の奴等よりもっと面倒になるから、早く逃げて下さいまし」
「先生々々。もう大丈夫ですよ。足音も遠のきましたよ! このすきだ。早くお逃げなさいまし!」
井戸から這い出して、小次郎たちふたりもせき立てた。
しかし、直人は不思議なことにも動かなかった。
「気味のわるい。どうしたんですえ。まさか死んだんじゃあるまいね」
怪しんで、のぞこうとした女が、
「まあ、いやらしい! なにをしているんです!」
目を吊りあげて、パッと飛びのいた。
鼻を刺す移り香を楽しみでもするように直人は、しっかりと女の枕に顔をよせて、にやにやと笑っていたのである。
「けがらわしい! 危ない思いをしてかくまってあげたのになんていやな
「すまんすまん! アハハ……。つい匂うたもんだからのう。ほかのところを盗まんで、しあわせじゃ。旦那によろしく……」
けろりとし乍ら這い出ると、直人は、にやにや笑い乍ら出ていった。
四
うまく危険をのがれたのである。
薩摩屋敷の塀に沿って、まっすぐ
何のために
「骨を折らしやがった。ここまで来ればもうこっちの城だ。
たぐりよせるように抱えこむと、立てつづけに小次郎は、ぐびぐびあおった。
「どうです。先生は?」
「…………」
「おやりになりませんか、まだたっぷり二合位はありますよ」
しかし直人は、見向きもせずに、ぐったりと壁によりかかって、
「どうしたんです。一体。――足の傷が痛むんですか」
「…………」
「傷が、その傷がお痛みになるんですか」
「決ってらあ」
「弱りましたね。手当をしたくも
「…………」
「よろしければ洗いますよ。もし
おもちゃをでも、いじくり廻すように足を引き出して、こびりついている血と泥を、ごしごしとむしりとった。
ぐいと、穴がのぞいた。
その穴へ、ふたりは、代る代る酒をぶっかけた。――身を切るほども、しみ痛い筈なのに、しかし直人は、痛そうな顔もせずに、ぼんやりと壁へ身をもたせたままだった。
なにかに、心をとられているらしいのである。――小次郎が、ひしゃげた鼻に、にやりと
「あれだね。――この忙しい最中に、先生も飛んだものを嗅いだもんさ。今の女のあの匂いを思い出したんでしょう」
「…………」
「旦那よりほかに寝かしもしないふとんの中へ入れたんだ。紙ひと
「バカッ」
「違いましたか!」
「…………」
「どうもそのお顔では、ちっときな臭いんですがね。あのときの女の立膝が、ちらついているんじゃごわせんか」
耳にも入れずに、直人は、目をつむっていたが、卒然として身を起すと、にったりとし乍ら、あざけるように言った。
「どうやらおれも、少々タガがゆるんだかな」
「なんのタガです」
「
ギクリとなったように、小次郎たちも目を光らした。実はふたりも、それを気づかっていたのである。
「八人狙って八人ともに只の一刀で仕止めたおれじゃ。――のう、そうだろう」
直人の顔が、
「しかし、九人目の大村にはふた太刀かかったんだ。そのふた太刀も、急所をはずれて膝へいったんだからな。問題ははずれた最初のあのひと太刀じゃ。八人斬って、八人ともに狂ったことのないおれの一刀斬りが、なぜあのとき空へ流れたか、おまえらはどう思うかよ」
「…………」
「心のしこりというものはそら恐ろしい位だ。頼まれてばかり斬って歩いて、馬鹿々々しい、と押し入る前にふいっと思ったのが、手元の狂ったもとさ。――神代直人も、もう落ち目だ。タガがゆるんだと言ったのはそのことなんだよ」
「ならば、そんなろくでもないことを思わずにお斬りなすったらいいでがしょう」
「いいでがしょうと言うたとて、思えるものなら仕方がないじゃないか。おまえらもとっくり考えてみい。――長州で三人、
「いいえ! 違います! 隊長! 隊長は馬鹿々々しい馬鹿々々しいと
「がしょう、がしょう、と思うて、おれも八人斬ったが、天下国家とやら、このおれには、とんと夢で踏んだ
「斬ったらいいでがしょう!」
青い顔が、ギロリと光って、目が吊った。
「きっといいか!」
「いいですとも! 人斬りの名を取った先生がお斬りなさるんだから、誰を斬ろうと不思議はごわせんよ!」
「…………」
けわしくにらみつけ乍ら、まじまじとふたりの顔を見つめていたが、ごろり横になると、吐き出すように言った。
「お時勢が変っておらあ! 憎くもないのに、斬った昔は斬ったと言うてほめられたが、憎くて斬っても、これからは斬ったおれが天下のお
「だめです! 先生! 手当もせずに寝たら傷が腐るんです! せめてなにか巻いておきましょう。そんな寝方をしたら駄目ですよ!」
「うるさい!
はじき飛ばして、横になると、遠いところをでも見つめるように、まじまじと大きく目を見ひらいたまま、身じろぎもしなかった。
五
それっきり直人は、四日たっても、五日たっても起きなかった。
眠っているかと思うと、いつのぞいてみても、パチパチと大きく目をあいていて、ろくろくめしも
「どうするんですか。――隊長」
「…………」
「東京へ逃げるなら逃げる、西へ落ちるなら落ちるように早くお決め下さらんとわれわれふたり、
「勝手に据えたらよかろう」
「よかろうと
「どうだか知らん。ここも動かん……」
「動かんと仰有ったって、三年も五年もここに寝ていられるわけのもんじゃごわせんからね。逃げ出せるものならそのように、駄目ならまたそのように、はきはきとした覚悟を決めたいんですよ。一体どうなさるおつもりなんです」
「お
なにもかも投げ出し切ったといったような言い方だった。――げっそりと落ち
ふたりは、腐った。
苦い顔をし乍ら、目から目へなにか
「つかまったらつかまったときじゃ。探って来よう!」
「市中の容子か!」
「そうよ。こんなところにすくんでいたとて、日は照らん。逃げられるものなら一刻も早く逃げ出した方が賢いんじゃ、手分けして探ろう。おれは大村の宿の容子と、市中の模様を嗅いで来る。おぬしは、西口、東口、南口、街道筋の固めの工合を探って来い」
「よし来た。出かけよう! ――いいですか。隊長。おまえらつもりたいようにつもれと仰有いましたから、容子を探ったうえで
言いすてて、ふたりは、不敵にもまだ日が高いというのに危険を
しかし、直人は、うんともすうとも言わなかった。まるで馬鹿になる修業をしてでもいるように、じっと一点を見つめたまま、寝返りも打たなかった。
知らぬまに、高かったその陽がおちたとみえて、うっすらと夕ぐれが
小次郎がかえって来たのである。
のぞきこむようにして、その小次郎が手柄顔に言った。
「大丈夫だ、先生。大村は死にますぞ」
「これから死ぬというのか、もう死にかけているというのか」
「急所ははずれたが、思いのほかに傷が深いから、十中八九死ぬだろうというんです。うれしいじゃごわせんか」
「ふん……」
「ふんはないでがしょう。先生は、大村が死にかけておったら、気に入らんですか」
「入らんのう、かりそめにも暗殺の名人と名をとった神代直人じゃ。看板どおり仕止めたというなら自慢になるが、これから死ぬかも知れん位の話で、よろこぶところはなかろう」
「それならば、あのとき黙ってお斬りなすったらようがしたろう。大村が死なんでも、誰が斬ったか分らなんだら、先生の
「なんの話じゃ」
「益次郎を斬るとき、神代直人じゃ、と隊長が名乗ったことを申しておるんです。わざわざ名乗ったばっかりに、斬り手の名は分る、配符は廻る、われわれ一党の
「阿呆! 名乗って斬ったがなんの不足じゃ、頼まれて斬ったればこそ、出所進退をあきらかにして斬ったじゃないか。直人が心底憎くて斬るときはかれこれ言わん。黙って斬るわい」
争っているその声をおどろかして、シャン、シャンと、いぶかしい馬の鈴の音が、かすかに境内の向うから伝わった。怪しむように、ふりかえったふたりの目の前へ、金丸が勢いこんで飛びこんで来たのである。
「道があけた! 先生すぐお
「逃げられそうか!」
「大丈夫落ちられる! 東海道だ。どういう間違か、ひょんな
しかし、同時に、小次郎もその金丸も、思わずあっと、おどろきの声をあげた。
五日の間に、すっかり踵の
しかもいち面に
「だから、手当々々とやかましく言うたんです。こんなになるまでほっとくとは
「その腫れではたまらんでしょう。我慢出来ますか」
「駄々をこねるなという言いつけじゃ。駄々はこねん。気に入るように始末せい‥…」
まるで意志のない人のようだった。
さだめし、たえられぬほども痛いだろうと思われたのに、直人は、じっと金丸たちの腕にだかれたまま、身動きもしなかった。
六
しっとり暮れて、九月の秋の京の夕ぐれは、しみじみとしてわびしかった。
かわたれどきのその夕闇を
直人はひとことも口を利かなかった。意志がないばかりか、まるでそれは、僅かに息が通っているというだけの、荷物のようなものだった。
腹が減ったでしょう、食べますか、と言えば、黙って食べるのである。お疲れでしょう、泊りますか、と言えば、黙って泊るのである。
しかし、そんなでいても不思議だった。馬が歩けば、馬上の荷物も自然と歩くとみえて、京を落ちてから四日目の夕方、
「しみったれた宿では気が
「あの三軒目はどうじゃ」
「なるほど、あれなら相当なもんじゃ。めんどうだからこの辺で馬もかえせ。あすからは
万事、おまえらまかせの直人は、ふたりが決めたその宿へ、ふたりの言うままに、黙々とだかれていった。
「どうします。先生。すぐに夕食を摂りますか」
「それとも、傷さえ
道中、痛そうな顔さえもしなかったが、
「痛い。寝たい……」
言うまもずきずきするとみえて、ぐったりと横になり乍ら、痛そうに
すぐに、ふっくらとした夜の物が運ばれた。
しかし、
匂って来たのだ。あの匂いが、女の匂いが、あの夜追われて、かくれて、はからずも嗅いだ肌の匂いが、髪の匂いが、女の移り香が、枕からか、
「小次!」
「へい……」
むくりと起きあがると、直人が、青く笑って不意に言った。
「芸者を買おうか」
「え? ……芸者! ……突然またどうしたんでごわす」
「どうもせん。買いたくなったから買うのよ」
「その御病体で、隊長、
「物にはせん、物したくもおれは物されんから、おまえらに買わせて、この枕元で騒がせて、おれも買うたつもりになろうというんじゃ、いやか」
「てへっ。こういうことになるから、おらが隊長は、気むずかしくて
「こころえた。いくたり招くんじゃ」
「おれは物されんと仰有るからには、おれたちふたりの分でよかろう。――亭主! 亭主!」
酒が来る。灯がふえる。
「よう。美形々々」
「名古屋にしてはこれまた相当なもんじゃ」
「あちらのふとんの上に、えんこ遊ばしていらっしゃるのがおらがのお殿様でのう。殿様、病中のつれづれに、妓を呼んで、おまえら、枕元で馬鹿騒ぎせい、との御声がかりじゃ。遠慮はいらんぞ。さあ呑め、さあ唄え」
「…………」
「どうです。先生。景色がよくなりましたな。呑みますぞ」
「うんうん……」
「少しはお気が晴れましたか」
「うんうん……」
「申しわけごわせんな。女、酒、口どき
「…………」
「唄わんな。ではジャカジャカジャンジャンとなにか
「…………」
「よう。素的々々、音がきこえ出したぞ。――さあさ、浮いた、浮いた、ジャカジャカジャンじゃ。代りに呑んで、代りに騒いで、殿様、芸者を買うたようなこころもちになろうというんだからのう。おまえらもその気で、もっとジャカジャカやらんといかん! ――そうそう。そこそこ、てけれつてってじゃ。
ここは名古屋の真中で。
ないものづくしを言うたなら。
隊長、病気で女がない。
金丸、ろれつが廻らない。
てけれつてっての、てってって」
ないものづくしを言うたなら。
隊長、病気で女がない。
金丸、ろれつが廻らない。
てけれつてっての、てってって」
「どうです。隊長! 金丸、いかい
ふらふらと金丸が、突然立ちあがったかと思うと、あちらへひょろひょろ、こちらへひょろひょろとよろめいて、踊りとも剣舞ともつかぬ怪しい舞いを初めた。
「ヒュウヒュウ、ピイピイピイ。
当節流行の暗殺節じゃ。
ころも、腕 に至り、毛脛 が濡 れる。
濡れる袂 になんじゃらほい。
あれは紀の国、本能寺。
堀の探さは何尺なるぞ。
君を斬らずばわが身が立たん。
立たんか、斬らんか、――えいっ。スパリ。アハハ……。もういかん。隊長。一曲、この妓と物しとうなりました。いいでがしょう。来い。女。あっちの部屋へ参ろう!」当節流行の暗殺節じゃ。
ころも、
濡れる
あれは紀の国、本能寺。
堀の探さは何尺なるぞ。
君を斬らずばわが身が立たん。
くずれるようにしなだれかかって、その首へ手を巻きつけると、ぐいぐいと引っ張った。
小次郎も廻って来たのである。
「よし来た。そのこと、そのこと、怒っちゃいけませんぞ。隊長。――いけっ、いけっ、
立ちあがって、よろよろとし乍ら歩き出そうとしたのを、じっと見守っていた直人のこめかみがぴくぴくと青く動いた。
とみるまに、目がすわった。
同時に、じりっと膝横のわざ物に手がかかった。
腹が立って来たのだ。
理窟もなかった。理性もなかった。歩行も出来ない身をいいことにして、これみよがしに歓楽を追おうとしているふたりの
「まてっ」
「な、な、なんです! どうしたんです!」
おどろき怪しんでふり向いたふたりの顔へ、けわしい目が飛んでいった。
「たわけたちめがっ。おれをどうする! 見せつけるのかっ。
「ば、ば、馬鹿なっ。目の前で、枕元で芸者買いせい、と言うたじゃごわせんか! お言いつけ通りにしたのが、なぜわるいんです!」
「ぬかすなっ。それにしたとて程があるわい! ずらりと並べっ」
「き、き、斬るんですか! 同志を、仲間を、苦労を分けた手下を斬るんですか!」
「同志もへちまもあるかっ。腹が立てば誰とて斬るんじゃっ。憎ければどやつとて斬るんじゃっ――一緒に行けいっ。たわけたちめがっ」
さっと横へ、青い光りが伸びたかと思うと一緒に、ざあっと、小次郎たちふたりの背から血がふきあがった。
その
「神代直人!
しかし、直人は、もう逃げなかった。
――秋もふけた十一月の五日、大村益次郎は、直人の与えた傷がもとで、あえなく死んだ。
捕われた直人もまた、大西郷たちの心からなる助命運動があったが、皮肉なことにも、山県狂介たちの極刑派に