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いよいよ平和になったとなると、鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春――まことに豪儀なものです。三月の声を聞くそうそうからもうお花見気分で、八百八町の町々は待ちこがれたお花見にそれぞれの趣向を凝らしながら、もう十日もまえから、どこへいっても、そのうわさでもちきりでした。
南町
六日からその準備にかかって、九日がその総ざらい、一夜あくればいよいよご定例のその十日です。上戸は酒とさかなの買い出しに、下戸はのり巻き、みたらし、はぎのもちと、それぞれあすのお弁当をととのえて、夜のあけるのを待ちました。
と――定例の十日の朝はまちがいなく参りましたが、あいにくとその日は朝から雨もよいです。名のとおりの春雨で、降ったりやんだりの気違い天気――けれども、ほかの職業にある人たちとは違って、許された公休日というのは天にも地にもその日一日しかないのですから、雨にかまわず催し物を進行させてゆきました。呼び物の虎退治をやりだしたのがお昼近い九つまえで、清正に
お約束のようにヒュードロドロと下座がはいると、上手のささやぶがはげしくゆれて、のそりのそりと出てきたものは、岡っ引き長助の扮している朝鮮虎です。それが、いったん引つ込むと、代わって出てきたのが清正公で、しかしその清正公が少しばかり趣の変わった清正でありました。とんがり
「よおう、ご両人!」
「しっぽりと頼みますぜ!」
なぞとたいへんな騒ぎで、場内はもうわきかえるばかり――。
その中を長いキセルでぽかりぽかりと
舞台はとんとんと進んで、ふたたび長助の虎が現われる、鈴江の妓生がきゃっと朝鮮語で悲鳴をあげる、それからあとは話に伝わる清正のとおりで、やおら三つまたの
ところが――実はその拍手の雨が注がれていた中で、世にも奇怪なできごとがおぞましくもそこに突発していたのです。いつまでたっても虎が起き上がらないので、いぶかしく思いながら近よってみると、清正の長槍に生血のしたたったのもまことに道理、虎の死に方が真に迫ったもまことに道理、岡っ引きの長助はほんとうにそこで突き伏せられていたのでした。
「わっ! たいへんだ! 死んでるぞ! 死んでるぞ!」
なにがたいへんだといって、世の中におしばいの殺され役がほんとうに殺されていたら、これほど大事件はまたとありますまいが、あわてて縫いぐるみをほどいてみると、長助はぐさりと一突き
事件は当然のごとく騒ぎを増していきました。むろん、もうこうなればお花見の無礼講どころではないので、遺恨あっての
しかし、事実はいっそう奇怪から奇怪へ続いていたのです。坂上与一郎もその娘の鈴江も、舞台裏にいるにはいましたが、まことに奇怪、いま清正と妓生に扮したはずの親子が、それぞれじゅばん一つのみじめな姿で、厳重なさるぐつわをはめられながら、高手小手にくくしあげられていたのでしたから、血相変えて駆け込んでいった一同は等しく目をみはりました。しかも、親子の口をそろえていった陳述はいよいよ奇怪で、なんでもかれらのいうところによると、扮装をこらして舞台へ出ようとしたとき、突然引き入れられるように眠りにおそわれてそのまま気を失い、気がついたときはもうじゅばん一つにされたあとで、そのまま今までそこにくくしあげられていたというのでありました。事実としたら、何者か犯人はふたりでこれを計画的に行ない、まず坂上親子を眠らしておいて、しかるのち巧みに清正と妓生に化けて舞台に立っていたことになるのですから、場所がらが場所がらだけに、奇怪の雲は、いっそう濃厚になりました。いずれにしてもまず場内の出入り口を固めろというので、そこはお手のものの商売でしたから、厳重な出入り禁止がただちに施されることになりました。
と、ちょうどそのとたんです。
「お願いでござります! お願いの者でござります……」
必死の声をふり絞りながら、その騒ぎの中へ、鉄砲玉のように表から駆け込んできたひとりの町人がありました。
四十がらみの年配で渡り職人とでもいった風体――声はふるえ、目は血走っていましたから、察するに本人としては何か重大事件にでも出会っているらしく思われましたが、何をいうにも騒ぎのまっさいちゅうです。だれひとり耳をかそうとした者がありませんでしたので、町人は泣きだしそうにしてまたわめきたてました。
「お係りのだんなはどなたでござりまするか! お願いでござります! お願いの者でござります!」
その声をふと耳に入れたのが本編の主人公――すなわち『むっつり右門』です。本年とってようやく二十六歳という水の出花で、まだ駆けだしの同心でこそあったが、親代々の同心でしたから、
けれども、口をきかないからといってかれに耳がなかったわけではないのですから、町人の必死なわめき声が人々の頭を越えて、はからずもかれのところへ届きました。その届いたことが右門の幸運に恵まれていた
「目色を変えてなにごとじゃ」
そばにいてそれを聞いたのが、右門の手下の岡っ引き伝六です。変わり者には変わり者の手下がついているもので、伝六はまた右門とは反対のおしゃべり屋でしたから、右門が口をきいたのに目を丸くしながら、すぐとしゃべりかけました。
「おや、だんな、物がいえますね」
おしでもない者に物がいえますねもないものですがむっつり屋であると同時に年に似合わず胆がすわっていましたから、普通ならば腹のたつべきはずな伝六の暴言を気にもかけずに、右門は静かにくだんの町人へ尋問を始めました。
「係り係りと申しておったようじゃが、願い筋はどんなことじゃ」
苦み走った男ぶりの、見るからにたのもしげな近藤右門が、だれも耳をかしてくれない中から、親しげに声を掛けたので、町人はすがりつくようにして、すぐと事件を訴えました。
「実は、今ちょっとまえに、三百両という大金をすられたんでござんす……」
「なに、三百両……! うち見たところ職人渡世でもしていそうな身分がらじゃが、そちがまたどこでそのような大金を手中いたしてまいった」
「それが実は富くじに当たったんでがしてな。お目がねどおり、あっしゃ畳屋の渡り職人ですが、かせぎ残りのこづかいが二分ばかりあったんで、ちょうどきょう湯島の天神さまに富くじのお開帳があったをさいわい、ひとつ金星をぶち当てるべえと思って、起きぬけにやっていったんでがす。ことしの正月、浅草の観音さまで金運きたるっていうおみくじが出たんで、福が来るかなと思っていると、それがだんな、神信心はしておくものですが、ほんとうにあっしへ金運が参りましてな、みごとに三百両という金星をぶち当てたんでがすよ。だから、あっしが有頂天になってすぐ小料理屋へ駆けつけたって、なにも不思議はねえじゃごわせんか」
「だれも不思議だと申しちゃいない。それからいかがいたした」
「いかがいたすもなにもねえんでがす。なにしろ、三百両といや、あっしらにゃ二度と拝めねえ大金ですからね。いい心持ちでふところにしながら、とんとんとはしごを上って、おい、ねえさん、中ぐしで一本たのむよっていいますと……」
「中ぐしというと、うなぎ屋だな」
「へえい、家はきたねえが天神下ではちょっとおつな小料理屋で、玉岸っていう看板なんです」
「すられたというのは、そこの帰り道か」
「いいえ、それがどうもけったいじゃごわせんか、ねえさんが帳場へおあつらえを通しにおりていきましたんでね、このすきにもう一度山吹き色を拝もうと思って、そっとふところから汗ばんで暖かくなっている三百両の切りもち包みを取り出そうとすると、ねえ、だんな、そんなバカなことが、今どきいったいありますものかね」
「いかがいたした」
「あっしの頭の上に、なにか雲のようなものが突然ふうわりと舞い下がりましてね、それっきりあっしゃ眠らされてしまったんですよ」
「なに、眠らされた?」
その一語をきくと同時に、むっつり右門の苦み走った面には、さっと血の色がわき上がりました。これがまたどうして色めきたたずにいられましょうぞ! 現在同僚たちが色を失って右往左往と立ち騒いでいる長助殺しの事件の裏にも、坂上親子の陳述によれば、同じその眠りの術が施されていましたので、右門の面はただに血の色がわき上がったばかりではなく、その両眼はにわかに異様な輝きを帯びてまいりました。心をはずませてひざをのり出すと、たたみかけて尋ねました。
「事実ならばいかにも奇怪じゃが、その眠りというのは、どんなもようじゃった」
「まるで穴の中へでもひきずり込まれるような眠けでござんした」
「で、金はその間に紛失いたしておったというんじゃな」
「へえい、さようで……ですから、目のくり玉をでんぐらかえして、すぐと
「よし、あいわかった、普通なら、そんな事件、手下の者にでも任すのがご法だが、少しく思い当たる節があるから、てまえがじきじきに取り扱ってつかわす。念のために、そのほうの所番地を申し置いてまいれ」
おどり上がって町人が所番地を言い置きながら引き下がったので、むっつり右門はここにはじめて敢然と奮い立ちました。まことにそれは、敢然として奮い立つということばが、いちばん適切な形容でありました。なぜかならば、多くの場合その種の変わり者がとかく世間からバカにされがちであるように、右門もこれまであまりにも珍しすぎる黙り屋であったために、同僚たちから生来の愚か者と解釈されて、ことごとに小バカにされながら、ついぞ今まで一度たりとも、ろくな事件をあてがわれたことはなかったからです。けれども、今こそ千載一遇の時節が到来したのです。右門は血ぶるいしながら立ち上がりました。もちろん、その間にも同僚たちはわいわいとわけもなく騒ぎたって、われこそ一番がけに長助殺しの犯人をひっくくろうと、お組屋敷は上を下への混雑でありましたが、しかし右門は目をくれようともしませんでした。二つの事件に必ず連絡があるとにらみましたので、あるとすれば、犯罪のやり口からいって一筋なわではいかない犯人に相違あるまいとめぼしをつけたので、将を射んとする者ほまず馬を射よのたとえに従って、三百両事件を先にほじってみようと思いたちました。立てばいうまでもなくもうあだ名のむっつり右門です。
「急にきつねつきのような形相をなさって、どこへ行くんですか、だんな!」
おしゃべり屋の伝六があたふたとあとを追っかけながら、しつこく話しかけたのにことばもくれず、右門はさっきの町人がいった湯島の玉岸という小料理屋目がけて、さっさと歩みを運びました。
2
行ってみると、なるほど家の構えはこぎたないが、この
古い物は付けにも目の高いものは、やり手ばばあに料理屋のあるじとうまいことをうがってありますが、玉岸のおやじも小料理屋ながらいっばしの亭主でありました。
「これはこれは、八丁堀のだんながたでいらっしゃいますか」
一瞬にして目がきいたものか、もみ手をしいしい板場から顔を出して、すぐと奥まった一室へ茶タバコ盆とともに案内したので、右門はただちに町人の三百両事件を切り出しました。むろん、事の当然な結果として小料理屋それ自体に三分の疑いがかかっていたので、伝六にはその間に屋作りをぬけめなく調べさせ、右門みずからは亭主の挙動にじゅうぶんの注意を放ちました。けれども、亭主は事件は知ってはいたが、その下手人についてはさらに心当たりがないというのです。町人が上がったころにどんなお客が二階へ上がっていたかも記憶がないというので、伝六の探索を延ばしたほうも同様に手がかりは皆無でした。わずかに残された探索として希望をつなぎうるものは、事件の前後に受け持ちとして出ていった
で、さっそくにその婢を呼んで、むっつり屋の右門がきわめていろけのないことばつきで、当時のもようをきき正しました。と――手がかりらしいものがわずかに一つあがったのです。それは一個の
「凌英とな……聞いたような名まえだな」
思いながらしばらく考えているうちに、右門ははたとひざを打ちました。そのころ
「よしッ。存外こいつあ早くねたがあがるかもしれんぞ!」
こうなればまったくもう
「きさま、これから凌英という駒彫り師の家をつきとめろ! つきとめたら、この駒をみせてな、いつごろ彫ったものか、だれに売ったやつだか、心当たりをきいて、買い主がわかったらしょっぴいてこい。わからなきゃ、江戸じゅうのくろうと将棋さしをかたっぱし洗って、どいつの持ち物だか調べるんだ!」
「え? だんなにゃまったくあきれちまいますね。やぶからぼうに変なことおっしゃって、何がいったいどうなったっていうんです?」
わからない場合には、江戸じゅうの将棋さしをかたっぱし洗えといったんですから、伝六がめんくらったのも、無理もないでしょう。しかし、右門のことばには確信がありました。
「文句はあとでいいから、早くしろい!」
「だって、だんな、江戸じゅうの将棋さしを調べる段になると、ちっとやそっとの人数じゃごわせんぜ。有段者だけでも五十人や百人じゃききますまいからね」
「だから、先に凌英っていう彫り師に当たってみろといってるんじゃねえか」
「じゃ、三月かかっても、半年かかってもいいんですね」
「バカ! きょうから三日以内にあげちまえ!」
「だって、江戸を回るだけでも三里四方はありますぜ」
「うるせえやつだな。回りきれねえと思ったら、
「ちえっ、ありがてえ! おい、駕籠屋!」
官費と聞いて喜びながら、ちょうどそこへ来合わしたつじ駕籠を呼びとめてひらり伝六が飛び乗ったので、右門はただちに数奇屋橋の奉行所へやって行きました。もちろん、奉行所ももうそのときは色めきたって、非番の面々までがどやどやと詰めかけながら、いずれもが長助殺しの犯人捜査に夢中でありました。しかし、同役たちの等しく選んだ捜査方針は、申し合わせたようにみんな常識捜査でありました。すなわち、第一にまずかれらは、当日見物席に来合わしていた一般観客に当たりました。坂上親子に似通った親子連れのものが見物の中に居合わさなかったか、だれか疑わしい人物の楽屋裏に出入りしたものを見かけなかったか――というような常識的の事実から捜索の歩を進めていたのでした。それから、最後の最も重大な探索方針として、かれらは等しく与力次席の坂上親子に疑いをかけていたのです。
けれども、右門の捜査方針は、全然それとは正反対でありました。あくまでも見込み捜査で、疾風迅雷的に殺された本人――岡っ引き長助の閲歴を洗いたてました。いずれ遺恨あっての
しかし、残念なことに、その結果はいっこう平凡なものばかりだったのです。判明した材料というのは次の三つで、第一は長助が十八貫めもあった
で、かれは念のためにと思って、お
「臭いな」
と思うには思いましたが、しかし何をいうにも検挙に当たった長助本人がすでにこの世の人でなかったから、疑惑の雲がかかりながら、それ以上その事件を探求することは不可能でありました。とすれば、もはや残る希望は伝六の報告を待つ以外になかったので、右門はお組屋敷へ引き下がると、じっくり腰をすえながら、その帰来を待ちわぴました。
やがて、その三日め――首を長くして待っていると、ふうふういいながら伝六が帰ってまいりましたので、右門はすぐに尋ねました。
「どうだ、なにかねたがあがったろう」
「ところが、大違い――」
「ええ、大違い?」
目算が狂いましたから、右門もぎくりとなって問いかえしました。
「じゃ、まるっきりめぼしがつかないんだな」
「さようで――おっしゃったとおり、まず第一に凌英っていう彫り師を当たったんですがね。ところが、その凌英先生が、あいにくなことに、去年の八月水におぼれておっ
さすがの右門も、その報告にはすっかり力をおとしてしまいました。せっかくこんないい手がかりを持っているのにと思いましたが、人力をもっていかんともしがたいとあっては、やむをえないことでありました。このうえは、時日をあせらずゆっくりと構え、二つの材料、すなわち駒の所有者と、疑惑のまま残されている長助の検挙したというだんなばくちの一味が、どんな人物たちであるかをつき止める以外には方法がなかったので、まず英気でも養っておこうと思いたちながら、ぷらり近所の町湯へ出かけました。
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と――右門がまだお湯屋のざくろ口を完全にはいりきらないときでした。
「だんな! だんな! また変なことが一つ持ち上がりましたぜ」
息せき切りながら伝六があとから追っかけてきたので、右門はちょっといろめきたちながら耳をかしました。
「ね、柳原の土手先に、四、五日まえからおかしな人さらいが出るそうですぜ」
「人さらい? だれから聞いた」
「組屋敷のだんながたがたったいま奉行所から帰ってきてのうわさ話をちらり耳に入れたんですがね。いましがた訴えた者があったんだそうで、なんでもそれが夜の九つ時分に決まって出るんだそうだがね。おかしいことは、申し合わせたようにお侍ばかりをさらうっていうんですよ」
「じゃ、徒党でも組んだ連中なんだな」
「ところが、その人さらい相手はたったひとりだというから、ふにおちないじゃごわせんか。そのうえに、正真正銘足がなくて、ちっとも姿を見せないっていうんだから、場所がらが場所がらだけに、幽霊だろうなんていってますぜ。でなきゃ、こもをかかえたお嬢さん――」
「なんだ、そのこもをかかえたお嬢さんてやつは……」
「知れたことじゃありませんか。つじ君ですよ。
「なるほどな」
はだかのままでしばらく考えていましたが、突如! 真に突如、右門の眼はふたた
「よし! いいことを知らしてくれた。ご苦労だが、きさまひとっ走り柳原までいって、もっと詳しいことをあげてきてくれ!」
とぎれた手がかりにほのぼのとしてまた一道の光明がさしてきたので、右門は口早に伝六へ命じました。
お湯もそうそうに上がって心をはずませながら待っていると、伝六は宙を飛んで駆けかえってまいりました。けれども、宙を飛んで帰りはしたが、そのことばつきには不平の色が満ちていたのです。
「ちえッ、だんなの気早にゃ少しあきれましたね。くたびれもうけでしたよ」
「うそか」
「いいえ、人さらいは出るでしょうがね、あの近所の者ではひとりも現場を見たものがないっていいますぜ」
「じゃ、そんなうわさも上っちゃいないんだな」
「さようで――また上らないのがあたりまえでしょうよ。さらわれたとすると、その人間はきっと帰ってこないんでしょうからね。だから、四日も五日もお上のお耳へ上らずにもいたんでしょうからね。しかし、ちょっとおつな話はございますよ。こいつあ人さらいの幽霊とは別ですがね、このごろじゅうから、あの土手の先へ、べっぴん親子のおでん屋が屋台を張るそうでしてね、なんでもその娘というのがすばらしい美人のうえに、人の評判では
つべこべと口早にしゃべるのを聞きながら、じっと目を閉じて、何ものかをまさぐるように考えていましたが、と、突然右門がすっくと立ち上がりながら外出のしたくにとりかかったので、伝六は早がてんしながらいいました。
「ありがてえ! じゃ、本気にべっぴんを拝みに出かけるんですかい」
しかし、右門は押し黙ったままで万端のしたくをととのえてしまうと、風のようにすうと音もなく表へ出ていきました。刻限はちょうど晩景の六つ下がりどきで、ぬんめりとやわらかく
「だんなもこれですみにはおけませんね、べっぴんときくと、急におめかしを始めたんだからね。ちッちッ、ありがてえ! まったく、果報は寝て待てというやつだ。久しぶりで伝六さんの飲みっぷりのいいところを、べっぴんに見せてやりますかね。そのかえり道に、こもをかかえたお嬢さんをからかってみるなんて、どうみてもおつな寸法でがすね」
しかし、それがしだいにおつな寸法でなくなりだしたのです。柳原ならそれほど道を急ぐ必要はないはずなのに、右門はもよりのつじ待ち
「まさかに、柳原と観音さまとおまちがいなすっていらっしゃるんじゃありますまいね」
けれども、右門はおちつきはらったものでした。駕寵をおりるや否や、さっさと
それらの中を、むっつり右門は依然むっつりと押し黙って、かき分けるようにやって行きましたが、と、立ち止まった見せ物小屋は、なんともかとも意外の意外、南蛮渡来の女玉乗り――と書かれた絵看板の前だったのです。のみならず、かれはその前へたたずむと、しきりに客引きの口上に耳を傾けました。
――客引きはわめくように口上を述べました。
「さあさ出ました出ました。珍しい玉乗り。ただの玉乗りとはわけが違う。七段返しに宙乗り踊り、
言い終わったとき、右門はつかつかと口上屋のかたわらに近づいて、無遠慮に尋ねました。
「
「そこです、そこです。そういうだんながたがいらっしゃらないと、あっしたちもせっかくの口上に張り合いがないというものですよ。評判にうそ偽りのないのがこの座の身上。それが証拠に、太夫が唐人語を使って踊りを踊りますから、だまされたと思って、二文すててごらんなさいよ」
得意になって口上言いが能書きを並べだしたものでしたから、それにつられて、あたりの者がどやどやと六、七人木戸をくぐりました。しかし、右門はまさかにこの仲間ではあるまいと思っていたのに、これは意外、つかつかと二文払って同じく中へはいりましたので、伝六はいよいよ鼻をつままれてしまいました。
けれども、右門は伝六のおどろいていることなぞにはいっこうむとんちゃくで、ちょうど幕が上がっていたものでしたから、引き入れられるように舞台へ目をすえだしました。見ると、まことや口上言いの能書きどおりなのです。黒い玉に乗って柳の影から、まるで足のない幽霊のごとく、ふうわり舞台へ現われると、太夫はいかにも怪しい唐人語を使って、不思議な踊りを玉の上で巧みに踊りました。と、同時でした。右門は突然しかるように、伝六へいいました。
「きさま、今の唐人語に聞き覚えないか」
「え? なんです。なんです。唐人語たあなんですか?」
「どこかであれに似た節のことばを聞いたことはねえかといってるんだよ」
伝六が懸命に考えていましたが、はたとひざを打つようにいいました。
「あっ! そういえば、こないだお花見の無礼講に、清正と
「それがわかりゃ、きさまもおおできだ。このうえは、土手のおでん屋を
恐ろしいすばしっこさで、そのまま右門が表へ駆けだしたものでしたから、まだはっきりとわからないがだいたいめぼしのついた伝六も、しりをからげてあとを追いました。まことにもうひとっ飛びで、評判のおでん屋を土手先で見つけたのはそれからまもなくでした。
のれんをくぐってはいってみると、なるほど、評判どおりの美人です。年のころはまず二九あたり、まゆのにおやかえくぼのあいきょう、見ただけでぞくぞくと寒けだつほどの美人でした。しかし、ちらりと目を胸もとへさげたとき――あっ! おもわず右門は声をたてんばかりでした。乳が、その割合にしてはいかにも乳のふくらみが小さいではありませんか! はてなと思って、さらに目を付き添いのおやじに移していくと、もう一つ不審があった。その指先にはりっぱな
「琉球の芋焼酎とかをもらうかな」
と――偶然がそこにもう一つの幸運を右門にもたらしました。娘がびんを取り上げてみると、あいにくそれがからだったので、なにげなく屋台車のけこみを押しひらいて、中からたくわえの別なびんを取り出そうとしたそのとたん、ちらりと鋭く右門の目を射たものは、たしかにいま浅草の小屋で見て帰ったと同じ南蛮玉乗りの大きな黒い玉でした。
「さては、ほしが当たったらしいな」
いよいよ見込みどおりな結果に近づいてまいりましたものでしたから、もう長居は無用、伝六におでん屋親子の張り番を命じておいて、ただちに
「はなはだ
「ほほう、えらいことをまた尋ねに参ったものじゃな。伴天連の魔法にもいろいろあるが、どんな魔法じゃ」
「眠りの術にござります」
「ははあ、あれか。あれは催眠の術と申してな、伊賀甲賀の忍びの術にもある、ごく初歩のわざじゃ。知ってのとおり、なにごとによらず、人に術を施すということは、術者自身が心気を一つにしなけんきゃならぬのでな。それを破る手段も、けっきょくはその術者自身の心気統一をじゃますればいいんじゃ。昼間ならば突然大きな音をたてるとかな、ないしはまた夜の場合ならば急にちかりと明るい光を見せるとかすれば、たいてい破れるものじゃ」
立て板に水を流すごとく、すらすらと催眠破りの秘術を伝授してくれましたので、もはや右門は千人力でした。もよりの自身番へ立ち寄って、特別あかりの強い
「伝六、どうやらおれの芽が吹いて出そうだぞ」
息をころして遠くからおでん屋台の張り番をしていた伝六のそばへうずくまると、右門は小声でささやきながら、いまかいまかと刻限のふけるのを待ちました。
と、案の定、もうつじ君たちの群れも姿を消してしまった九つ近い真夜中どき――おでん屋は店をしまって車を引きながら、
「バカ者!」
とたんに、右門がわれ鐘のような大声で
「あっ!」
といって、いま一度術を施し直そうとしたときは、一瞬早くむっつり右門の草香流
「バカ者め! 女に化けたってべっぴんに見えるほどの器量よしなら、若衆になっていたってべっぴんのはずじゃねえか。さ、大またにとっとと歩け!」
女でなかったことがべつに腹がたったというわけではなかったのですが、なにかしら少し惜しいように思いましたので、右門はそんなふうにしかりつけました。
――いうまでもなく、そのおでん屋の見込み
で、伝六は口をとんがらかしながらききました。
「それにしても、いきなり玉乗りへ行ったのは、まさかだんなも伴天連の魔法を知ってるわけじゃありますまいね」
すると右門は即座に自分の耳を指さしたものでしたから、伝六が目をぱちくりしたのは当然。
「見たところへしゃげた耳で、べつに他人のと変わっているようには思えませんが、なにか仕掛けでもありますかい」
「うといやつだな。あのとき小屋の中でもそういったはずだが、お花見のときにきいた
いうと、右門はおれの耳はおまえたちのきくらげ耳とは種が違うぞ、というように、