右門捕物帖

死人ぶろ

佐々木味津三




     1

 その第三十三番てがらです。
 朝ごとに江戸は深い霧でした……。
 これが降りるようになると、秋が近い。秋が近づくと、江戸の町に景物が決まって二つふえる。角兵衛獅子かくべえじしに柳原お馬場の朝げいこ、その二つです。
 トウトウトウトウ……ハイヨウハイヨウ……と、まだ起ききらぬ朝の静かな大気を破って、霧をかき分け、町を越えながら、朝ごとにけいこの声が柳原お馬場一帯につづくのでした。
 ドコドコドンドン、ヒュウヒョロヒョロと、朝ごとに角兵衛獅子の囃子はやしがその柳原お馬場の近くの旅籠町はたごちょうからわびしく流れだして、西に東に江戸一円へ散らばっていくのでした。
 丁日ちょうびは呉服橋北町お番所の面々、半日はんび数寄屋橋すきやばし南町お番所詰めの面々が、秋口のひと月間、一日おきにこのお馬場へやって来て、朝のうちの半刻はんときずつ馬術を練るならわしなのです。
 ちょうどこの日がまた、数寄屋橋側のけいこ日の半日なのでした。したがって、南町ご番所名代の伝六が来ないというはずはない。来ればまた、ものおじしないその伝六が、ぼんやりと指をくわえているはずもないのです。
「一太刀たち、二やり、三鎖鎌くさりがま、四弓、五馬の六泳ぎといってね、総じて武芸というものは、何によらず、恥ずかしがっていると上達しねえものなんだ。えへ……だれも見ちゃいないね。このまにちょっと乗ってやるかな。え? だんな。あば敬の大将が来たら、ないしょで知らしておくんなさいよ。ほかの者に見られるぶんにゃかまわねえが、あいつに見られちゃ、これからさきおいらをバカにするからね」
「されないようにじょうずに乗ったらいいじゃないかよ」
「そうはいかねえんだ。おいらの馬術は、何流にもねえ流儀なんだからね。――ほらよ、くろ、くろ! おとなしくしているんだよ。名人が乗るんだから、ヒンヒンはねちゃいけねえぜ」
 馬ぐらい乗り手を見分けるものはない。ましてや、乗り手が伝六とあっては、くろも南町ご番所名代のこのひょうきん者をよく知っているとみえて、長い顔をさらにぬうと長くのばして笑ったまま、動こうとしないのです。
「ちぇッ、笑いごっちゃねえんです、だんな。なんとか動くように、おまじないしておくんなさいよ」
「何流にもない流儀とやらでお駆けあそばすさ。おいらに頼むより、馬に頼みな。泣かずにひとりでお遊び」
 ひらりと乗ると、馬はあしげの逸物、手綱さばきは八条流、みるみるうちに、右門の姿は、深い霧を縫いながらお馬場をまっすぐ向こうへ矢のように遠のきました。
 ぐるりと回って帰ってみると、伝六はまだくろとしきりに押し問答をしているさいちゅうなのです。
「後生だから走っておくれよ。何が気に入らなくて、そんなに長い顔をしているんだ」
「…………」
「返事をしなよ、返事を! むりな頼みをしているんじゃねえんだ。おまえは走るが商売じゃねえか。まねごとでもいいから、ちょっくら走ってくんなよ」
 せつな。
 くろがたてがみをさかだてたかと見るまに、パカパカとすさまじい勢いで走りだしました。
「お、お、おい! な、な、なにをするんだ。冗、冗、冗談じゃねえよ! 本気で走らなくたっていいんだよ! まねごとでいいんだ! よしなよ! よしなよ!」
 必死に叫んだが、いまさら止まるはずはない。伝六ごときが、そもそも馬に乗ったのがまちがいなのです。
「一大事だ、一大事だ! だんな、だんな、止めておくんなさいよ。伝六の一大事なんだ。早くなんとかしておくんなさいよ!」
「うまい、うまい。腰つきがなかなかみごとだぞ」
「まずくたっていいですよ! はやしたてりゃ、くろめがよけいずにのって走るじゃござんせんか。よしなよ! よしなよ! くろ! おまえもあんまり薄情じゃねえか! わかったよ、わかったよ! そんなにむきになって走らなくとも、おまえの走れるのはもうわかったんだ。よしなったら、よさねえかよ!」
 なだめすかしても聞かばこそ、くろは必死にしがみついている伝六を背中に乗せて、ひた走りに走りつづけました。お馬場は川に沿って細長く七、八町つづいているのです。
 ぴゅうぴゅうとうなりをたてんばかりに走りつづけて、その細長いお馬場の行き止まりまであともう一、二町と思われるあたりまで駆けすすんだとき、とつぜん、ちょこちょこと横から飛び出した影がある。
 十一、二ぐらいの少年なのです。しかも、手には長い竹ざおを持っているのでした。飛び出してさっと馬の行く手に立ちふさがると、舌を巻きたいほどにも機転のきいた少年なのでした。パカパカと矢のように駆け近づいてくる馬の鼻さきめがけて、手にしていた青竹をひゅうひゅうと打ちふりました。
「な、な、なにするんだ! どきな! どきな! けとばされたらあぶねえじゃねえか!」
「おじさんこそあぶないよ。馬を止めてやるんだ」
「バカいうない! おらに止まらねえものが、おまえなんぞに止められてたまるもんか! そら! そら! あぶねえじゃねえかよ」
 その声の終わらぬうちに、ぴたりと馬が止まったから不思議です。
「へえ……偉いね、ちんぴら。止まったね」
「止まったろう。おじさんみたいなしろうとが乗るもんじゃないよ、あぶないからね……」
「何いやがるんでえ。おれがしろうとだかくろうとだか、おまえ知らねえじゃねえかよ」
「知ってるよ。おじさんは伝六のおじさんだろう」
「いやなことをいうね。どうして、おらが伝六のおじさんだってえことを知ってるんだい」
「知ってるから知ってるんだよ。だから……だから……」
 ふいっと顔を伏せると、不思議な少年は、とつぜんぽろぽろと涙をおとしながら、しくしく泣きだしました。おどろいたのは伝六です。
「ど、ど、どうしたんだ。気味のわるい子だな、おまえは。おらが伝六のおじさんだからって、なにも泣くこたアねえじゃねえかよ」
「悲しいんだ。悲しいから泣くんだ。早くちゃんを助けておくれよ」
「なに、ちゃん? ちゃんがどうしたというんだ」
「かあやんが、かあやんがな、けさふろおけの中で死んでたんだ。だから、ちゃんが下手人だといって、おなわにされたんだよ」
「さあ、いけねえ! えらいことになりゃがったな。いってえ、だれがおなわにしたんだ」
「顔にいっぱい穴のあるお役人だよ」
「なにっ、あば敬か! ちくしょうッ、さあ、いけねえぞ! さあ、いけねえぞ! いってえ、そりゃいつのことなんだ」
「たった今なんだよ。けさ起きてみると、かあやんがいつだれに殺されたか、死んでたんだ。だから、うちじゅう大騒ぎになって、近所のつじ番所へ知らせにいったら、どこできいたか顔に穴のあるそのお役人がすぐはいってきてな、ふたことみこといばっておいて、いきなりちゃんになわをかけてしまったんだ。ちゃんは、おらのちゃんは、そんな鬼のちゃんじゃねえ。だから、だから、おじさんたちに助けてもらおうと思って、いっしょうけんめいにここへ飛んできたんだよ」
「どうしてまた、おじさんたちがここにいるのを知ってたんだ」
「だって、きょうは半日じゃないか。半日には右門のおじさんがお馬のおけいこに来るはずだから、来れば伝六のおじさんもしかられしかられいっしょに来ているだろうと思ったんだ。はじめはおじさんがだれだかわからなかったけれども、馬がへただったから、へたならきっと伝六のおじさんだろうと気がついて、走るのを止めてやったんだよ」
「あけすけと、よぶんなことをいうねえ。きょうはへただが、じょうずな日だってあるんだ。だんな、だんな。だんなはどこですかい! 一大事ですよ。今度は掛け値のねえ一大事なんだ。だんなはおらんですかい?」
「やかましいや。ここにひとりおるじゃないか。よく目をあけてみろい」
 いつのまにかうしろへやって来て、ちゃんともう何もかも聞いたと見えるのです。じろりと少年の姿を一見したかと見るまに、たちまち右門流が飛び出しました。
「おまえ、うちは米屋だな」
「あ、そうだよ。そこの細川長門守ながとのかみさまのお屋敷向こうの増屋ますやっていうお米屋だよ」
「女のきょうだいがあるな」
「ああ、妹がひとりあるよ」
「へへえ。おどろいたもんだね――」
 珍しいことではないのに、たちまちお株を始めたのは伝六です。
「毎度のことだから感心したくねえんだが、ちっとあきれましたね。目に何か仕掛けがあるんですかい」
「あたりめえだ。南蛮渡来キリシタンのバテレン玉ってえいう目が仕掛けてあるんだよ。子どもの着物をよくみろい。米のぬかがほうぼうについているじゃねえか。足もよくみろい。女の子のぞうりをはいているじゃねえか。だから、米屋のせがれで女のきょうだいがあるだろうとホシをさしたのに、なんの不思議があるんだ。米つきばったのようなかっこうをしてへたな馬をけいこするひまがあったら、目のそうじでもやんな。右門のおじさん行ってやるぞ、先へ飛んでおいき!」
 ひゅうとむちを鳴らして、馬をお馬場の向こうへ追い返しておくと、まっしぐらに駆けだした少年を道案内に立てながら、その場に米屋へ向かいました。

     2

 道のりにして四町とはない。小さな米屋だが、米屋に相違ないのです。騒ぎを聞きつけたか、店の表は駆け集まった町内の者たちがわいわいとひしめき合っているさいちゅうでした。
 その人込みをかき分けて、少年は鉄砲玉のように家の中へ駆け込むと、けたたましく叫びました。
あやちゃん、綾ちゃん! 右門のおじさんを連れてきたよ。もうだいじょうぶだぜ。そこをどいちゃいかんぞ! しっかり乗っかっていなよ!」
 声のあとからむっつりとはいっていった名人がひょいとのぞくと、不思議な光景が目にうつりました。綾ちゃんと呼ばれたその子が妹にちがいない。八つか九つになるかならずの愛くるしいその小娘が、ふろおけの上に乗っかって、しっかりとふたを押えながら、かめの子のようにばたばたと足を動かしているのです。そのかたわらに敬四郎が父親のなわじりとって、目をむきながら、手下の直九、弥太やたのふたりを口ぎたなくしかりつけているさいちゅうなのでした。
「そんな小娘ひとりもてあまして、なんのこった! おろせ! おろせ! 早くおろさんか」
「口でいうようにそうたやすくは降りんですよ、なんしろ、死に物狂いになってるんだからね。こら! 早くおりんか! いうことをきかんと、痛いめにあうぞ!」
 足を持とうとすれば足でけとばし、手を持とうとすれば手でひっかいて、小娘は必死の抵抗をしているのです。
 右門のまなこが、事の不審に当然のごとく光りました。
「さかんにおやりじゃな」
「なにッ。でしゃばり者が参ったな。せっかくだが、このアナは敬四郎がひと足先じゃ。指一本触れさせぬぞ。じゃまじゃ。どかっしゃい」
「おじゃまなら、どきもいたしましょうが、これはいったいなんのまねでござる」
「いらぬおせっかいじゃわい!」
「いいえ、いらぬおせっかいじゃござんせんよ。綾坊、右門のおじさんがお越しじゃ。もうどきな」
 聞いて、横から口を入れたのは、いましめをうけている父親です。
「ようお越しくださいました。子どもはいじらしいものでござんす。あっしが下手人でもないのに下手人だと、このとおりおなわにされましたんで、だんなさまを呼んでくるまでは手をつけさせぬ、始末もさせぬと、敬四郎だんなをてこずらせているんでござります。そのふろおけの中が――」
死骸しがいか!」
「そうでござんす。家内めが変わり果てた姿になっております……よくお見調べくださいまし」
 近寄るまえに小娘はさかしくもおけの上からはいおりると、右門の狂わぬ検証を一刻も早く待ちのぞむかのように、重いふたをけんめいに取りのけました。
「かしこいことでありますのう。では、見せてもらいましょう」
 歩みよって、静かにのぞいてみると、なるほど、女の死体がまだ湯気のたちのぼっているおけの中に、ぐったりと沈んでいるのです。
 そのぶきみさ! 気味のわるさ! 血は一滴もない。死因のわからぬあぶらぎった中太りの女の死体が、ぶよんとしたなま白い色をたたえて、湯の中に沈んでいるのです。
 年は三十ぐらい。
 乳がある。
 しかし、乳首は黒くない。処女のようにひきしまっているのです。子どもを産んだことのない証拠でした。
 首におしろいが見える。
 洗ったはずなのに落ちきっていないところをみると、厚化粧していたに相違ない。おめかしずきの女だった証拠なのです。
 ぎろり、ぎろりと目を光らして、首から胸、腰、と隠されている秘密をあばき出そうとするように見しらべていたが、何か動かしがたい断案の確証を発見したとみえて、ほのかなみを浮かべながらふり向くと、不意に敬四郎へ静かな問いを放ちました。
「お尋ねつかまつる。早手まわしにもう父親をおなわにされておいでじゃが、この者が下手人とのたしかな証拠あってのことでござるか」
「決まっておるわい。殺された女房は後妻じゃ。そのきょうだいはまま子じゃ。店をようみい。米屋というは名ばかり、米俵もろくにない貧乏店じゃ。そのうえに、女房は七百両という身金つきで後妻に来たものじゃ。おやじめ、女房がいのちよりたいせつにしてしまっておったその七百両の小判がほしゅうて殺したものに相違ないわい」
「なるほど、後妻でまま子でござったか。道理でのう。それならば、娘のような乳首をしているはずじゃ。しかし、それだけではちと証拠固めが不足のように思われまするな」
「何が不足じゃ。まだいくらでも不審なことがあるわい。このおやじ、ゆうべからけさまで、どこへうせたか店をるすにしておるわ。いかほどきいても行く先白状せぬが不審じゃ。いいや、そればかりではないわい。これをみろ、これを! 女房がたいせつにいたしておった小判の包みじゃ。おやじめ、この七百両を背中にいたして、ゆうべのそのそとどこかへ出かけておるわ。いかほど締めてもいわぬが、うしろ暗い証拠じゃわい」
「ほほう。なるほど、小判の包みを背中にいたして家をるすにしましたとのう。――おやじ、それはほんとうか!」
「ほんとうでござります……」
「何しに、どこへいった?」
「そればっかりは……」
「白状できぬというか。疑いが濃くなるばかりだのにのう。子どもたち、おまえら知っておるだろう。ちゃんはどこへいった?」
「あの、あの……」
 言いかけたのを、横から父親がけわしくねめつけました。
 何か深い秘密があるらしいまなざしなのです。
「みろ! おやじめ、七百両に目がくらんで、なんぞ細工したに相違ないわい。この敬四郎に授かったてがらじゃ、指一本触れてもらいとうない。直九! じゃまされぬうちに、この死骸も早く取りかたづけろ」
「いや、おてがらはけっこうじゃが、まだ少々お早いようじゃ。待てッ、直九!」
 得意顔に命じて敬四郎が手下の者たちに始末させようとしたのを、にこやかに微笑して制すると、名人がやんわりと右門流をほのめかしはじめました。
「おりおりは、目ものう、すす払いをするものじゃ。では、いま一つ承るが、敬どの、これなる女の死因をお見破りかな」
「死因? 死因なぞ、死因なぞは、このおやじを締めたらわかるわい。いらぬじゃまだてせずと、どかっしゃい!」
「アハハ。弱りましたな。それゆえ、ときおりは目のすす払いしたらどうかと申すのじゃ。まさしくこれは絞め殺したものでござるぞ。しかし、下手人は子どもじゃ」
「なに、子ども! 子どもが、子どもがこんな大女を絞め殺せるものか、バカな」
「さよう、ひとりならばむずかしいかもしれぬが、下手人はふたりでござる。論より証拠、この二カ所のつめ跡をよく見られよ」
 莞爾かんじと笑って、名人は首筋と乳ぶさの上との二カ所を指さしました。
 なるほど、二カ所ともに、はっきりとつめの跡が見えるのです。ぐいと両手で力まかせにひとりが首を絞めたらしく、首筋にふたところ、ひとりが急所の乳ぶさを押えつけていたらしく、むっちりとした左右のそのふくらみの上に、ぶきみな五本のつめ跡がはっきりと見えました。
 しかも、小さい。いずれもそのつめ跡は、ひと目に子どもの指と思われるほど小さいのです。
「そうか! 子どもか! さては――」
 当然のごとく疑いのかかったのは、ふたりのきょうだいでした。まっさおになって震えていたふたりをにらめつけると、敬四郎の声と手がいっしょに飛びかかりました。
「うぬらだ。うぬらだ。うぬらがまま子根性でやったにちがいない! 直九! なわ打てッ」
「バカな! まだ早い! 手荒なことをされるな! 待たれよッ」
「じゃまするなッ。敬四郎が手がけたあなじゃ! どかっしゃい! つじ番所のやつら! 早くこの死骸をかたづけろ」
 名人の制止も聞かばこそ、敬四郎はわめき叫ぶふたりの子どもになわを打たせて、父親ともども、群衆のどよめきを押し分けながら、揚々としてひったてました。

     3

「ちッ、なんて人がいいんだろうな。せっかくがんをつけて、ホシを見つけてやって、へえどうぞと、のしをつけてくれてやるバカがありますかよ。当節はとびだっても、こうぞうさなく油揚げをさらえねえんだ。人がよすぎてむかむかすらあ」
 悲憤やるかたなかったとみえて、伝六の空もようは大荒れです。
「やい! 何がおもしれえんだ。ぽかんと口をあけて見てたって、一文にもなりゃしねえぞ、かせげ、かせげ、うちへ早く帰ってかせぎなよ。やじうまじゃ乗り手もありゃしねえや、べらぼうめ。――ね、ちょいと、これからいったいどうするんですかい。長年苦労をしただんなとあっしの仲なんだからね、いやみなこたアいいたくねえが、いまさら指をくわえていたって始まらねえんだからね、お人よしの直るおきゅうでもすえに行ったほうが賢いですよ」
「…………」
「え! だんな! 返事をしなさいよ、返事を! これこれかくかくで、今度だけはあやまった。ついおまえのまねをして、おしゃべりしたのがわるかった、以後気をつけるからかんべんしろ、とすなおにおっしゃりゃ、あっしだってがみがみいやしねえんだからね。ぼんやりしていねえで、なんとかおいいなさいよ」
 しかし、声はない。
 名人の頭は冷たくさえて、この怪奇な事件のことでいっぱいなのです。
 父親にも疑いがある。
 ことに、七百両という女房の大金を持ち出して、ゆうべひと晩どこかをうろうろしていたということが、大きな嫌疑けんぎの種でした。
 子どもたちにも疑いがある。
 まま子だったということが、だいいちよくないのです。そのうえにつめ跡がまたそろいもそろってあのとおり子どものものであってみれば、ますます嫌疑けんぎが濃くなるばかりでした。
 あのときの目もよくない。ゆうべちゃんはどこへ行ったときいたとき、けわしくねめつけた父親のまなざしも疑惑を強める種なのです。
 世間にありがちな例のごとく、まま子いじめに耐えかねて子どもたちふたりが絞め殺したのを、知りつつ父親がおおいかくしているとも考えられるのでした。
 あるいは、父親が使嗾しそうして、子どもたちにまま母を殺させたとも考えられるのです。
「それにしては、わざわざ知らせにあの子どもが来たのがおかしいな。ふたりとも、なかなかかわいいからな」
「え? なんとかいいましたかい。あっしがかわいいっておっしゃるんですかい」
「うるせえや。黙ってろ」
「ちぇッ、黙りますよ。黙りますとも! ええ、ええ、どうせあっしゃかわいい子分じゃねえんでしょうからね。もうひとことだって口をきくもんじゃねえんだから、覚悟しておきなさいよ」
 聞き流しながら、ひょいと見ると、はしなくもそのとき、名人の目を強く射たものがある。
 ふろおけのすえてある反対側の羽目板の高いところに、すすでよごれた手の跡が、あちらとこちらに飛び離れて、はっきりと二つ残っているのです。
 しかも、二つとも明らかに、子どもの手の跡なのでした。子細に見比べてみると、その手の跡に大小がある。
 ふたりの子どもの別々の手の跡に相違ないのです。
「はてのう……」
 烱々けいけいと目を光らして、手の跡から手の跡を追いながら、その位置をよく見しらべると、湯気抜きの押し窓のちょうど真下になっているのでした。
 窓の長さは三尺、幅は一尺あるかないかの狭いものでしたが、子どもなら出はいりができないことはないのです。
 念のために、伸び上がって押しあけながらよく見ると、すすほこりが着物かなぞですれたらしく、さっとはけめがついているのでした。
 疑いもなく、ここからふたりの子どもが忍び込んだに相違ない。忍び込んだとするなら、うちのあのきょうだいたちがわざわざ外から忍び込むはずはないから、よそのほかの子どもにちがいないのです。手の跡から判断すると、窓からはいって、羽目板に手を突いて、ひらりと身軽に飛びおりたものにちがいない。
 身軽な子ども……!
 身軽な少年……?
「ウフフ、そろそろ風向きが変わったかな」
「え? え? なんですかい。いろけがよくなったんですかい」
「うるさいよ。おまえ今、もうひとことも口をきかないといったじゃないか、おまえさんなぞにしゃべってもらわなくとも、こっちゃけっこう身が持てるんだから、黙っててくんな」
「ああいうことをいうんだからな。薄情っちゃありゃしねえや。いっさいしゃべらねえ、口をききませぬといっておいてしゃべって、あっしのおしゃべりゃ人並みぐれえなんですよ。しゃべりだしゃこれでずいぶんとたのもしいんだ。どっちの風向きがどう変わったんですかい」
「あきれたやつだ。これをよく見ろい」
「なるほど、あるね。手だね。もみじのお手々というやつだ。まさに、まさしく手の跡だね」
「だから、捜すんだよ」
「へ……?」
「あのおやじが七百両背負って、ゆうべどこへ出かけていったか、そのなぞの解けるようなかぎを捜し出すんだよ。うちじゅう残らず調べてみな」
「じきそれだからな。この手の跡が七百両するんですかい。もうちっと話の寸をつめていってくれなきゃアわからねえんですよ」
「しようのねえやつだ。このとおり不思議な手の跡がこんなところに残っているからにゃ、下手人の風向きもこっちへ変わったじゃないかよ。変わったとすりゃ、かわいそうなあの親子を助け出さなきゃならねえんだ。しかし、相手は敬四郎だ。尋常なことでは嫌疑けんぎを晴らすはずアねえんだ。だから、敬四郎がぐうの音も出ねえように、おやじがゆうべどこへいったか動かぬ足取りを洗いたてて、攻め道具にしなきゃならねえんだよ。おやじの嫌疑が晴れりゃ、子どもたちの嫌疑の雲の晴れる糸口もおのずと見つかるというもんじゃないかよ。一刻いっときおくれりゃ、一刻よけいあの親子が、むごたらしい敬四郎の責め折檻せっかんを受けなきゃならねえんだ。早くしな」
「ちげえねえ! さあこい! 物に筋道が通ってきたとなりゃ、伝六ののみ取りまなこってえのはすごいんだからな。べらぼうめ、ほんとうにおどろくな――ええと、なるほど、これが大福帳だね。向こう柳原、遠州屋玉吉様二升お貸し。糸屋平兵衛様五升お貸し――なんてしみたれな借りようをするんだい。どうせ借りるなら、五千石も借りろよ」
 名人は居間のほうを、伝六は店のほうを、手分けしてあちらこちらと捜しているうちに、その伝六が、とつぜんけたたましく呼びたてました。
「あった! あった! ね、ちょっと、途方もねえものが見つかりましたよ。これから先ゃ、だんなの役なんだ。知恵箱持って、早くおいでなせえよ」
 ひらひらとかざすようにして差し出したのは、一枚の紙切れです。
 見ると、受け取りでした。しかし、ただの受け取りではない。不思議なことにも、駕籠屋かごやの受け取りなのです。

   覚え
一金壱両二分  ただし夜中増し金つき
右まさに受け取りそうろうなり
佐久間町 駕籠留かごとめ
増屋ますや弥五右衛門やごえもん殿

 金くぎ流でそう書いた受け取りなのでした。
「なるほど、少し変な受け取りだな。どこから見つけ出したんだ」
「この大福帳にはさんであったんですよ。伝六も知恵は浅いほうじゃねえが、まだ駕籠屋の受け取りてえものを聞いたことがねえ。だいいち、この金高も少し多すぎるじゃござんせんかよ。一両二分ってえいや、江戸じゅう乗りまわされるくれえの高なんだからね。それに、この夜中増し金付きってえただし書きも気にかかるじゃござんせんかよ。夜中にでも乗りまわしたにちげえねえですぜ」
「偉い。おまえもこの節少し手をあげたな。捕物とりもの詮議せんぎはそういうふうに不審を見つけてぴしぴしたたみかけていくもんだよ。佐久間町といや隣の横町だ。宿駕籠にちがいない。行ってみな」
 糸がほぐれだしたのです。
 主従の足は飛ぶようでした。案の定、佐久間町の通りかどに、油障子で囲んだ安駕籠屋が見えるのです。
「だれかおらんか」
「へえへえ。ひとりおります」
 無作法なかっこうで奥から出てきた若い者の鼻先へ、ずいと受け取りをつきつけながら、名人が鋭く問いかけました。
「この受け取りは、おまえのところでたしかに出したか」
「どれどれ。ちょっと見せておくんなさいまし。――ああ、なるほど、うちから出したものに相違ござんせんよ」
「変だな」
「何がでござんす?」
「駕籠屋が受け取りを出すという話をあまり聞かぬが、どうしたわけだ」
「アハハ。そのことですか。ごもっともさまでござんす。あっしのほうでもめったにないことですがね。じつア、あの米屋さんのご新造ってえのが、とても金にやかましい人なんでね、だから、つかった金高を女房に見せなくちゃならねえんだから、ぜひに受け取りをくれろと増屋さんがおっしゃったんで書いたんですよ」
「いつだ」
「けさの夜明けでござんす」
「なに! けさの夜明け! 乗ったは米屋のおやじか!」
「さようなんでござんす」
「一両二分もどこを乗りまわした!」
「それがじつアちょっと変でしてね。ゆうべ日が暮れるとまもなくでした。今からお寺参りするんだから急いで来てくれろというんでね。夜、お寺参りするのもおかしいがと思ってお迎えにいったら、米屋のあのおやじさんが、くわを一丁と重そうなふろしき包みを一つ持ってお乗んなすったんですよ。はてなと思って、肩にこたえる重みから探ってみると、どうもふろしきの中は小判らしいんです。小判に鍬はおかしいぞ、お寺へ行くのはなおおかしいというんで、相棒と首をひねりひねりお供していったら――」
「どこのお寺へいった!」
「小石川の伝通院の裏通りに、恵信寺えしんじってえいう小さなお寺がありますね、あのお寺の寂しい境内へ鍬とふろしき包みを持ってはいって、しばらくあちらこちらのそのそ歩いていた様子でござんしたが、まもなくまたふた品を持ったままで出てきて、変なことをおっしゃるんです。どうもこの寺じゃあぶない、どこかもっと寂しいお寺へやってくんな、とこういうんでね。今度は本郷台へ出て、加賀様のお屋敷裏の新正寺ってお寺へ乗せていったんですよ。ところが、そこでまたあっしどもを門前に待たしておいて、米屋さんたったひとりきり――」
くわと小判を持って境内へはいったか!」
「そうでござんす。同じように、あちらこちらをのそのそやっていたようでしたがね、まもなくまたふた品を持ったままで出てくると、やっぱりあぶない、もっとどこかほかの寺へやってくれろというんでね、今度[#「今度」は底本では「今年」]は浅草へいったんでござんす。ところが、そこのお寺もやっぱりいけない。川を渡って本所へいって三カ寺回ったが、そこもいけない、いけない、いけないで、神田へまた舞いもどってきたら、とうとう夜が明けちまったんですよ。こっちもきつねにつままれたような心持ちでござんしたが、米屋のおやじさんもぼんやりとしてしまって、鍬と包みを背負いながらにやにや笑っていらっしゃるからね。何がいったいどうしたんでござんす、といってきいたら、いうんですよ。顔なじみのおまえたちだから打ち明けるが、あんな無理をいう女房ってえものはねえ。この金をどこか人に見つからねえところへこっそり埋めてこいといわれたんだが、江戸じゅうにそんなところがあるもんけえ。どこもかも見つかりそうであぶねえところばかりじゃねえか、とこういってね、この受け取りを作らせてお帰んなすったんですよ」
 右門の目がきらりと光りました。
 米屋のおやじ弥五右衛門の身辺を包んでいた不審の雲はからりと晴れたが、はしなくも、ここに今、新しい不審がわいてきたのです。七百金という小判を、あの女がなぜに埋めさせようとしたか、そこに不審がある。疑惑がある。どういう金であるか。なぜにそれほどだいじな小判であるか、なぜに埋めて隠して人目を恐れねばならぬか。そこに疑惑がある。不審があるのです。
 目がきらりと光ると、鋭い声が飛びました。
「あの女房について、何か知っていることはないか!」
「そうですね。やかましやの、きかん気の、亭主をしりに敷いている女だということは町内でも評判だからだれも知っておりますが、ほかのことといったら、まず――」
「何かあるか!」
「昔、吉原よしわらで女郎をしておったとかいうことだけは知っておりますよ」
「なに! 女郎上がり! どうしていっしょになったか知らぬか。あのおやじが身請けでもしたか!」
「さあ、どうでござんすかね。両国の河岸かしっぷちに見せ物小屋のなわ張り株を持っている松長ってえいう顔役がありますが、その親分が世話をしたとか、口をきいていっしょにしたとかいう話ですから、いってごらんなさいまし」
「おまえ、そのうちを知っているかい」
「おりますとも、よく知っておりますよ」
「よしッ。話し賃にかせがしてやる。早いところ二丁仕立てろ」
「こいつアありがてえ。おい、おい、きょうでえ! お客さんを拾ったよ。早くしたくをやんな」
 乗るのを待って、いっさん走りでした。

     4

「伝六よ」
「へ」
「捕物ア、こうしてなぞの穴をせばめていくもんだ。もう五十年もすりゃ、おまえも一人まえに働かなくちゃならねえから、よくこつを覚えておきなよ」
「ああいうことをいってらあ。五十年だきゃ余分ですよ。珍しくだんな、上きげんだね」
「そうさ。おいら、腹が減ったんでね、早くおまんまが食べたいんだよ」
「じきにそれだ。何かといやすぐに食いけを出すんだからな。秋口だって恋風が吹かねえともかぎらねえ。たまにゃ女の子の気のほうもお出しなせえよ。――よっと! 駕籠が止まったな。わけえの、もう来たのかい」
「へえ。参りました。ここが松長の親分のうちでござんす。外で待つんでござんすかい」
「そうだとも! うちのだんなが駕籠に乗りだしたとなりゃ、一両や五両じゃきかねえ。夜通し昼通し三日五日と乗りつづけることがあるんだからな、大いばりで待っていな」
 伝六こそもう一人まえになったつもりで大いばりなのです。
 つかつかと松長の住まいへはいろうとしたのを、
「あわてるな!」
 小声で鋭く名人がしかりました。
「少し甘口なことをいってやると、じきにおまえはうれしくなるからいけないよ。相手はあまり筋のいい顔役じゃねえ。見せ物小屋のなわ張り株を持っているとすりゃ、切った張ったの凶状ぐれえ持っているかもしれねえから、もっと相手を見て踏ん込みなよ。ふらふらはいって逃げでもされたらどうするんだ。こっちへ来な」
 そこの庭口のくぐりからはいって、こっそりと内庭へ回りました。
 とっつきにごろったべやがあって、若い者のごろごろとした影が見える。
 ポーン、ポーンとつぼを伏せる音がきこえるのです。
 ひらりと上がって不意にそのへやへ押し入ると、静かに浴びせました。
「朝っぱらからいたずらしているな。松長はどこにいるんだ」
「…………?」
「パチクリしなくともいいんだよ。おまえらの親分はどこにいるんだ。うちか、るすか」
 答えないで、若い者たちは、あっち、あっちというようにあごをしゃくりました。
「どこだよ。奥か!」
 そうです、そうですというように、やはり答えないで、またあごをしゃくりました。
「変なやつらだな、まるでおし屋敷へでも来たようじゃねえか。どのへやだ。松長はここか!」
 がらりとあけて、ひょいと見ると、松長がまったく案外でした。
 年はもう九十くらい、くりくり頭に剃髪ていはつして、十徳を着て、まだ少し季節が早いのに、大きな火ばちへ火をかんかんとおこしながら、いかにも寒そうにちぢかんで両手をかざしているのです。
「おまえが松長だろうな」
「…………?」
「返事をしろ! おまえは松長じゃねえのか?」
「…………?」
 きょとんとしながら、気の抜けた顔をしてまじまじと見あげたきり、返事はないのでした。
「とぼけたまねをしても目が光ってるぞ、耳はねえのか!」
「いいえ、だんな、いくらしかってもだめですよ」
 そのとき、隣のへやから若い者のひとりが飛んでくると、うそうそと笑いかけました。
「親分を相手に晩までどなったって、らちはあきませんよ」
「なんだ。おまえら口がきけるじゃねえか。なぜ、さっき黙ってたんだ」
「このうちじゃ、ものをいっても通じねえ人がひとりあるんでね。ついみんな手まねで話をする癖がついちまったんです。親分少々――」
「耳が遠いか」
「遠い段じゃねえ、このとおり耳のねえ人も同然なんです。御用があるなら、筆で話しておくんなせえまし」
「なんでえ。それならそうと早くいやいいじゃねえか。すずりを出しな」
「七ツ道具の一つなんだから、火ばちの陰にちゃんと用意してありますよ」
 なるほど、筆に紙、ちゃんとしたくがそろっているのです。
 名人の筆はさらさらと走りました。
「八丁堀右門なり。
神妙に応答すべし。
神田、米屋増屋弥五右衛門方へ後妻を世話せしはそのほうなる由、いかなる縁にてかたづけしや。
かの女につき何か知れることなきや。
ありていに申し立つるべし」
 差しつけたのを見て、にやりと笑うと、松長がじつに達筆にさらさらと書きしたためました。
「よくお越しくだされそうろう。
お尋ねの女はマキと申し、吉原にて女郎五年あい勤めそうろう女にござそうろう。
年あけたるのち、居所を定めず女衒ぜげんなぞいたしおりしとか聞き及びそうろうも、つまびらかには存じ申さずそうろう。
てまえ年ごろ世話好きにそうらえば、昨冬とつぜん尋ねまいり、どこぞへ嫁入り口世話いたしくれと申しそうらえば、増弥五こと、家内を失い、不自由いたしおると聞き及びそうろうをさいわい、のち添えにかたづかせそうろうものにござそうろう。縁と申すはただそれだけのことにて、生国も存ぜず、身もとも知れ申さずそうろう。
そうそう、いま一つ思い出しそうろう――」
 筆をおいた松長がにたりとさらに笑うと、ふたたびさらさらと書きしたためました。
「マキこと増弥五へかたづきそうろう節、身付き金七百両ほどをひそかにたくわえおりそうろうとのことにござそうろう。
人のうわさによれば右七百両、あまりよろしからざる金子とかにて、女衒ぜげんのかたわら、おりおりいとけなき子ども等かどわかしそうろうてためあげたる不義の金子とか申す由にそうろう」
「なにッ」
 名人の眼がぴかりと光った。
 女衒ぜげん
 かどわかし!
 女衒は人を買って人を売る公然の稼業かぎょうです。かどわかしは法網をくぐりながら、人を盗み、人をさらって売る暗い稼業かぎょうです。女衒とても、もとより芳しい稼業ではないが、女の前身にかどわかしの暗い影があるというにいたっては、じつに聞きのがしがたいことでした。しかも、盗んでさらって売ったものは、頑是がんぜない子どもだというのでした。
 名人の手は久方ぶりで、そろりそろりといつのまにかあごのあたりをさまよいはじめました。
 子どものかどわかし!――どういう子どもをどこへ売ったか、大きななぞの雲が忽焉こつえんとして目の前に舞い下がってきたのです。
 女の前身には暗い影があった。
 かどわかしという人の恨みを買うにじゅうぶんな陰があった。
 その女がふろおけの中で絞め殺された。
 死体には子どものつめ跡がある。
 ふろ場の羽目にも跡がある。
 やはり、子どもの手の跡なのだ。
 忍び込んだところは、高い窓なのだ。
 その高い窓から苦もなくはいったとすると、よくよく身の軽い子どもにちがいないのです。
 身軽な子ども……?
 身軽な少年…?
 なぞを解くかぎはそれ一つである。女は子どもをさらって、どういうところへ売ったか。身軽な子どもと売った先との間のつながりを見つけ出したら、このあやしき疑雲はおのずから解けてくるのです。
 名人の手は、しきりとあごのあたりを去来しつづけました。
「うれしいね。それが出ると、峠はもう八合めまで登ったも同然なんだからな。え? ちょっと。伝六もてつだって、あごをなでてあげましょうかい」
「…………」
「やい、やい、松長。そんなにきょとんとした顔をして、不思議そうにだんなのあごをのぞき込まなくともいいんだよ。だんなは今お産をしているんだ、お産をな。気が散っちゃ産めるもんじゃねえ。じゃまにならねえように、その顔をそっちへもっと引っ込めていな!」
 しかし、そうたやすく推断がつくはずはない。ともかくも生きている子どもを盗んで売るのであるから、いずれ売った先も明るい日の照る世界ではないのです。
「旅芸人か、曲芸師……?」
「身の軽い子どもとすれば曲芸師?」
 ポーン、ポーンと隣のへやから、松長の子分たちのもてあそんでいるさえたつぼ音が聞こえました。耳にするや、むっつりと立ち上がって、つかつかとはいっていくと、不意にいったものです。
「ばくちかい。おいらに貸しな」
「こいつを? あの、だんなが……?」
「そうさ。びっくりせんでもいいよ。さいころの音はどんな音か聞くんだ。こうしてつぼを伏せるのかい」
 ごろりと腹ばいになると、あざやかな手つきで、ガラガラポーンと伏せました。
 おどろいたのは伝六です。
「冗、冗、冗談じゃねえや、あごはどうしたんですかよ、あごは! いくらばくちはお上がお目こぼしのわるさにしたって、お番所勤めをしている者が手にするってえ法はねえですよ。場合が違うんだ、場合が! 何をゆうちょうなまねをしているんですかよ!」
 聞き流しながら名人は、無心にガラガラポーンと伏せて、さえたそのつぼ音を無心に聞き入りながら、心気の澄んだその無心の中から何か思いつこうとでもするかのように、しきりともてあそびつづけました。
 ポーンと伏せてあけると、コロコロところがって、ピョコンとさいが起き上がるのです。
 せつな。
 むくりと立ち上がると、莞爾かんじとしたみのなかからさわやかな声が飛びました。
「なアんでえ。さあ、駕籠かごだ。表のやつらにしたくさせな」
「ありがてえ、がんがつきましたかい」
「大つきだ。いたずらもしてみるものさ。このさいころをよく見ろよ。ころころところがってはぴょこんと起きるじゃねえか。ふいっと今それで思いついたんだ。ホシは角兵衛獅子かくべえじしだよ」
「カクベエジシ?」
「ぴょこんと起き上がる角兵衛獅子さ。身の軽い子どもだからただの曲芸師かと思ったが、まさしく角兵衛のお獅子ししさんにちげえねえよ。かどわかされて売られた子どもが、恨みのあまりやった細工に相違ねえ。一年ぶりであいつらがまた江戸へ流れ込んだきのうきょうじゃねえかよ。あっちこっち流して歩くうちに、かどわかしたおマキを見つけて、いちずの恨みにぎゅうとやりました、といったところがまずこのなぞの落ちだ。急がなくちゃならねえ、早くついてきな」
 ひたひたと駕籠はその場に走りだしました。

     5

 目ざしたのは、柳原お馬場に近い神田の旅籠町はたごちょうです。
 角兵衛獅子の宿は、軒を並べて二軒ある。
 越後屋えちごやというのが一軒、丸屋というのが一軒。秋から冬にかけてのかせぎ場に、雪の国からこの江戸へ流れ出してきている角兵衛獅子は、年端としはの行かぬ子どもだけでもじつに六十人近いおびただしい数でした。
 しかし、乗りつけたときは、すでにもう二軒とも、角兵衛獅子の群れが親方に伴われて、四方八方へ流れ出たあとなのでした。行き先は八百八町のどこへ行ったかわからないのです。その数は六十人からあるのです。その中から下手人ふたりをかぎ出すのです。すでにふたりの子どもをかぎ出すことからして難事なところへ、行った先散った先が雲をつかむような八百八町とすれば、じつに難事中の難事でした。
「ちくしょうめッ。めんどうなことになりやがったね」
 たちまちに伝六のあわてだしたのはあたりまえです。
「なんしろ、八百八町あるんだ、八百八町ね。日に一百一町ずつ捜したって八日かかるんですよ。え? ちょっと。何かいい手はねえんですかね。王手飛車取りってえいうようなやつがね」
「…………」
「あっしが下手人でござんす。あっしが絞め殺しましたと首に札をつけているわけじゃねえんだからね。まごまごしてりゃ、ことしいっぱいかかりますぜ」
 やかましくさえずりはじめたのを聞き流しながら、じっとうち考えていた名人が、何か名案を思いついたとみえて、とつぜんウフフとばかり笑いだすと、のっそりと丸屋へはいっていって、穏やかにきき尋ねました。
「おまえのところへ泊まってる角兵衛獅子どもはいくたりだ」
「二十六人でござります」
「帰りは何刻ごろだ」
「いつどちらへ流しに出ておりましても、暮れ六ツかっきりには必ず帰ってまいります」
「じゃ、ひとつおまじないをしておこうよ。寝泊まりしているへやへ案内せい」
 どんどんはいっていくと、やにわにいったものです。
「亭主、子どもたちの着物を出せ」
「は……?」
「変な顔しなくたっていいんだよ。角兵衛たちみんな着替えを持ってるだろう。どれでもいい、その中からふたり分出せ」
 あちらのこうり、こちらの梱をあけて、山のように積みあげた着替えの中から、手に触れたのをめくら探りに二枚つまみあげると、くるくると小ひもで結わえて、そこの鴨居かもいのところへぶらりとつりさげながら、取りよせたすずりの筆をとって、さらさらと不思議な文句を懐紙に書きしたためました。
「字の読める者がみんなに読んできかせろ。ゆうべ柳原の米屋の女房を絞めころしたやつらは、この着物の持ち主と決まった。おしろいのにおいがしみついているのがなによりの証拠だ。お番所の手が回ったぞ。伝六というこわいおじさんがひったてに来る。みんな気をつけろ」
 つりさげた着物へぺったりと張りつけておいて、さっさと引き揚げていくと、すぐその足でやっていったところは軒並びのもう一軒の越後屋でした。
 ここに泊まっているのは三十五人。
 着替えを出させて、手に触れた二枚を同じようにつりさげながら、同じ文句の残し書きをしておくと、ふり返りもしないのです。
 そのまま駕籠にゆられて、すうと八丁堀へ引き揚げました。
「バカをするにもほどがあらあ。伝六のこわいおじさんもねえもんだ。あっしがいつ、あんな約束をしたんですかい」
 帰りつくと同時に、さっそく早雷が鳴りだしました。
「あやまったならあやまったと、すなおにいやいいんだ。だんなだっても神さまじゃねえ、たまにゃ手を焼くときもあるんだからね。あんな着物におしろいのにおいがついているかどうか、あっしゃにおいもかいだこたアねえんですよ。伝六に罪をぬりつけるつもりですかい」
「うるさいな、王手飛車取りの珍手をくふうしろといったから、注文どおりやったのじゃねえか。がんがんいうばかりが能じゃねえや。たまにゃとっくり胸に手をおいて考えてみろい。あの着物四枚はどの子どものものだか知らねえが、ああしておきゃ、あの持ち主の四人はもとより、やましいことのねえ子どもがみんな無実の罪を着せられめえと、騒ぎだすに決まってるんだ。そうでなくとも、ああいう他国者の渡り芸人たちゃ仲間のしめしもきびしいが、うちわどうしの成敗法度はっともきびしいんだ。だれがやった、おまえか、きさまかと、わいわい騒いでいるうちにゃおのずからほんものの下手人がわかるだろうし、わかりゃ手数をかけずにそっくりこっちが小ボシをふたりちょうだいができるというもんじゃねえかよ。日が暮れるまでは高まくらさ。わかったかい」
「なるほど、王手飛車取りにちげえねえや。うまいえさを考えたもんだね。六十人からの子どもがべちゃべちゃ騒ぎだしたとなると、またやかましいんだからな。さあ、こい、敬四郎。知恵のあるだんなを親分に持つと、こういうふうに楽ができるんだ。まくらをあげましょうかい。ふとんを敷きましょうかい。伝六の骨っぽい手でもよければ、お腰ももみますよ」
 晴れてうるさし、曇ってうるさし、しきりときげんをとるのです。
 つるべ落としにしだいに暮れて、そこはかとわびしい初秋の夕暮れが近づきました。
「むこうへ行きつくと、ちょうど暮れ六ツです。さあいらっしゃい。お駕籠の用意はできているんですよ」
「何丁だ」
「うれしくなったからね。あっしが手銭を気張って、二丁用意したんですよ」
「一丁にしろ」
「へ……?」
「一丁返せというんだよ」
 残ったその一丁に乗るかと思うと、そうではないのです。ぶらりぶらりと自分はおひろいで、から駕籠をあとに従えながら、神田へ行きついたのが暮れ六ツ少しすぎでした。
 丸屋のほうへまず先にはいってみると、案外にもしいんとしているのです。かせぎを終えて帰った二十六人が親方たちに守られながら、ぶらりとさがっている二枚の着物を遠巻きにして、こわいものをでも見るようにながめているのでした。
「こっちじゃねえや。獲物は越後屋の網と決まった。いってみな」
 その越後屋へはいると同時に、騒がしいわめき声ががやがやとまず耳を打ちました。二階へ上がっていってみると、つりさげてある二枚の着物のまわりに角兵衛たちがまっくろくたかって、わき返っているさいちゅうなのでした。
「こいつおれんだ。おれの着物だ。おれはそんな人殺しなんぞやった覚えはねえよ」
「じゃ、だれだ、だれだ、だれがやったんだよ」
 ひょいとみると、ひしめきたっているその群れから離れて、暗いあんどんの灯影ほかげの下に、身を引きそばめながら、抱き合うようにして震えている子どもがいるのです。
 それもふたり!
 きらりと名人の目が光ったかと見るまに、静かに歩みよると、人情こまやかな声がおびえているその顔のうえにふりそそぎました。
「おじさんが来たからにゃ心配するなよ。慈悲をかけてあげましょうからのう。あのふろおけの下手人は、おまえたちだろうな」
「…………」
「泣かいでもいい。さぞくやしかったろう。ふたりともあの女にかどわかされて、角兵衛に売られたんでありましょうのう。ちがうか。どうじゃ」
 わっとしゃくりあげてふたりとも泣きじゃくっていたが、温情あふれた名人のことばに、子ども心がしめつけられたとみえるのです。
「ようきいてくれました。おじさんなら隠さずに申します。下手人は、あの下手人は……」
「やはりおまえたちか!」
「そうでござります。おっしゃるとおり、あたいたちはあの女にかどわかされたんでござります……」
「どこでさらわれた」
「浅草の永徳寺でござります。あたしたちふたりとも、親なし子でござります。親なし子だから、永徳寺にもらわれて、六つのときから小僧になっていたのでござります。ちょうど三年まえでござりました。和尚おしょうさまはずいぶんかわいがってくださいましたけれど、朝のお勤め、夜のお勤め。寒中なぞはつらいことがござりましたゆえ、どこかほかにいい奉公口でも、と思っておりましたら、あの米屋の鬼女がうまいことばかり並べて、わたしたちを連れ出したんでござります。そのときはかどわかされてこんな角兵衛に売られるとは夢にも思いませなんだゆえ、喜んで参りましたら、雪国へ売られて、お小僧よりももっとつらいめに会わされたのでござります。それゆえ、毎年毎年江戸へ来るたび、もしあの鬼女が見つかったら思い知らせてやろうと、ふたりで相談し合っていたのでござります。こちらの貞坊も十二、あたしも十二、子どもとてもふたり力を合わせたなら恨みが晴らされまいこともあるまいと思うておりましたら――」
「きのう柳原で見つかったのか!」
「そうでござります。親方といっしょに流しにいったら、夢にも忘れぬあの鬼女が見つかりましたゆえ、ゆうべ日が暮れるといっしょに、こっそりふたりしてここを抜け出し、あの米屋へいってみたら、鬼女めもあたしたちに見つけられたことがわかったとみえて、欲深の女でござります。かどわかして売った金を取り返しにでも来るだろうと思い違えましたものか、ご亭主に小判の包みを埋めてこいとか隠してこいとか、しかりつけるようにいって表へ出しましたゆえ、様子をうかがっておふろへはいったところを見すまし、窓からふたり忍びこんで、わたしが首を、貞坊がお乳を押えて絞め殺したのでござります。あいつは、あの鬼女はきっと、みんなを、たくさんな子どもを、あたいたちみたいにさらっては売っているんだ。みんなのために、かわいそうなみんなのために殺してやったかと思えば、悲しいことはございませぬ。どこへでも参ります……連れていってくださいまし。参ります……。参ります……」
 いじらしくもみずから両手をうしろに回すと、おのれたちの悲しい運命を嘆こうともせずに、仲間の角兵衛たちへ泣きぬれた涙の中からさみしい別れのみを送りつつ、とぼとぼと歩きだしました。
 しかし、これをなわにするような右門ではないのです。
「仲よくふたりしてこれへお乗り……」
 用意の駕籠へのせると、黙々として川一つ越えた伝馬町てんまちょう不審牢ふしんろうへ伴いました。
 敬四郎がその不審牢へあの米屋の親子をたたき入れて、しきりと責めたてていたさいちゅうなのでした。
 声はない。ずいと牢格子ろうごうしの中へはいっていくと、さみしく笑っていったことです。
「あいかわらず荒療治がおすきだな。目違いもいいかげんにしないと、のろい殺されますよ。増屋のおやじ! きょうだいを連れて早くかえりな」
「なにをするんだ。なにをかってなまねをするんだ」
 いきりたとうとした敬四郎の目の前へ、
「このとおり、みやげがござる。お礼でもいわっしゃい」
 駕籠からふたりをつれ出すと、静かにさしつけていいました。
「増屋のおやじ。つまらねえ隠しだてをするから、目違いもされるんだ。なぜ、あのとき小判を埋めにいったと、正直に白状しなかったんだ」
「あいすみませぬ。女房の前身も前身、金も金でござりましたゆえ、世間に恥をさらしてはと、つい口が重かったのでござります……」
「そんなことだろうと思った。これからもあるこったから、隠しごとも人を見ておやりよ。そちらの敬だんなのようなおかたがいらっしゃるんだからな。角兵衛の子どもたちは、死にたいか、生きておりたいか」
「生きておりとうはございませんけれど、浅草のお師匠さまにおわび申しとうござります……」
「いじらしいことだな。法は曲げられぬ。一度はお牢屋ろうやに入れますがのう。おじさんがすぐ永徳寺へ知らせてあげますから、まもなくお師匠が救いとって、慈悲のおそでの下へかばってくれましょう。それまでのしんぼうじゃ、おとなしゅう牢屋へはいりなさいよ」
「あい、はいります……ふたりして、いっしょにはいります……」
 進んで入牢じゅろうを急ぐ子どもたちと、喜んで牢を放たれるきょうだいたちが、右門のそでの陰でさびしく笑顔えがおを送り合いました。





底本:「右門捕物帖(四)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年3月13日公開
2005年9月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について