女
水野仙子
『女つてもの位、なんだね、僕等に取つて依體の[#「依體の」はママ]知れないものはないね、利口なんだか馬鹿なんだか、時々正體をつかむに苦しむことがあるよ。さうなるとまるで謎だね……法廷なぞでもなんだよ君、あゝあゝかうと、ちやんと言ひ切つてしまふのは女の證人だよ。男なら、さあはつきり覺がありませんとか、よく分りませんでしたとかいふところを、女は事々明瞭に申したてる、そりや頗る明快なものさ、概してそれは證人の弊だがね、女は殊にさうなんだ。勿論、證言の眞實は保證の限にあらずさ。』
主人の辯護士は、次のやうな話を語り終つてから、かう結論のやうにつけ加へた。
それはこんな話であつた。――
嘗てその辯護士の住んでゐた港の都市から少し離れたところに、戸數一萬ばかりの某の町があつて、そこには聯隊があつた。その聯隊附の中尉――某中尉といふのゝ細君が、ふとしたことから一つの問題を惹き起したのである。
夫の中尉はちようど當番で勤務中であつた。その夕餉を細君はひとり寂しくちやぶだいの前に坐つた。卓の上には晝からの殘物か何かゞ並べられてあつた。茶盆の上の急須に無心に湯をつぎながら、さらさらと茶漬をしまつて、間もなく細君はひとりゐの淋しさに、早くから戸じまりをして床に就いた。
一寢入してふと眼覺めた時――一つの床の寂しさと、一人といふ責任がおのづと眼を開けさせたかのやうに――護り疲れたやうな電燈の光が、何かの注意を促すやうに寢起の瞼を刺した。闇といふ無氣味なものにつゝまれるのが恐しさに、わざと捻り殘したその光が、部屋の隅々まで渡つてゐるのに安心した細君の胸に、この時ふとどきりと蟠つたものがあつた。なんとなく胸さわぎを覺えながら、細君は起き上つて隔の襖を開けた。電燈の紐をのばして茶の間のちやぶだいの上を調べて見たが、そこには茶碗や小皿が先刻のまゝ置かれてあるばかりであつた。今月の俸給全部――手に入つたばかりの八十幾圓が、状袋入のまゝ姿が見えない。念のために箪笥や鏡臺の引出、針箱から火鉢の引出から[#「引出から」は底本では「引 から」]、脱ぎすての袂まで調べて見たが無い。
もとより戸締を破つて人が盜みに入つたとは細君も信じなかつた。それにしては何の怪しいところもない。胸に手を置いて考へて見ると、晝の時にちやぶだいの上に置いたまゝ御飯を喰べたことを覺えてゐる。そしてそれから風呂に行つた――その時風呂に持つて行くのは危險だと考へたことも思ひ出せる。だから確に風呂にも持つて行かなかつた[#「行かなかつた」は底本では「行かなつた」]。それだけは斷定できるけれども、さてそれからの意識がぼんやりしてゐる。そのまゝ置き忘れたやうな、またどこかに一寸入れたやうな……と思ひ迷つた細君の胸に、ふと、
『奧さん、先刻炭屋がまゐりましてね……』と、その出先にはひつて來た差配のおやぢの汚い顏が浮んだ。と同時に、ちやぶだいの上に置き忘れたといふ信念が、疑ふべくもなく細君の頭全部を占めたのであつた。
事件は意外に大きくなつた。中尉の訴に接した當地の警察では、近頃將校の盜難頻繁であるといふ攻撃に面目を失して、(それだけ地方に於ける軍人の勢力はえらいのである。)どうにかして犯人を擧げようと苦心した。その日のうちに嫌疑者として取調を受ける事になつたのは、差配のおやぢで、それはその日同家に出入したものは、たゞ一人より外にはなかつたといふ細君の申立からであつた。おやぢは親戚に不幸があつて、その後仕舞の手づたひに行つてゐる先から拘引された。調べて見ると、その懷の汚い縞の財布から折目正しい二十幾圓かの紙幣が出た。是だけの現金を持つてゐるといふことは、その生計にふさはしくないといふので、嫌疑はますます深くなつた。そこでさまざまに詰問を續けたが、おやぢはどうしてもその金の出所を言はない。勿論盜んだといふことは徹頭徹尾否認する。宥めても賺しても白状しない。が、てつきりこの奴と睨んだだけで、外に證據もないことであるから、係の警察官も持て餘した揚句、不法な拷問を試みた。方法は手輕である。ポケツトの鉛筆をおやぢの手の指の間に挾んで、力まかせにそれを握りしめる。締めつける。それがさもないやうなことでありながら、なかなか體にはこたへるので、をりをり悲鳴を揚げる聲が洩れて傍近く住む人の夢を破つた。
けれどもおやぢは、涙の下から齒がみをしながら窃まぬ盜らぬと言ひ張つた。
中尉の佩劒の音が朝と晩にする度に、附近の人達はすぐに盜難の顛末を思ひ起した。誰も差配のおやぢを犯人であるとは信じなかつた。殊に拷問といふことに反感を抱いた人達は、少からず[#「少からず」は底本では「少らず」]おやぢに同情すると共に、その反感を細君の身邊に持つて行つた。怨嗟の聲も集つた。それかあらぬか、二三日すると細君は中尉を促して急に轉宅の用意をした。
その引越の朝であつた。茶の間にこまこましたものを纒めてゐた細君は、不意に大きな聲をあげて、從卒を督して蒲團包を拵へてゐた中尉を呼んだ。
『あなた、あなた! どうしませう、お金がこゝにございますよ……』
茶箪笥の上の茶盆に手をかけた時に、その包のまゝが下に殘つたのであるといふ。
細君は言つた。
『あなた、これはきつとなんですよ。さわぎがあんまり大きくなつたものだから、薄氣味わるくなつて、恐くなつて混雜に紛れてそつとこゝに置いて行つたに違ありませんよ、まあなんて……』
それで事件は落着したやうなものゝ、納らないのは拷問一件であつた。この事が程近く港の町の辯護士仲間の耳にはひつて、それはけしからぬことであるといふことになり、會議の結果三名の委員を選んで、ともかく審査のために町に派遣することゝなつた。
某町に着いた三名の辯護士は、先づ手はじめに醫師を訪ねてその意見と診斷書を取つた。それは拷問のために受けた傷の證明であつた。それから差配のおやぢをその家に訪ねた。辯護士の眼にうつつた彼の容貌は、薄汚い着物を著た四十あまりの鼻ひしやげて、耳も遠く、頭腦が殊に明晰を缺いてゐた。あたり前にものを言へば耳に入らず、側に寄れば臭いといふやうな風で、なるほど一度睨まれたらなかなか嫌疑が晴れまいと思はれやうな男であつた。耳が遠く、鼻ぷんで、おまけに頭がわるいと來てゐるので、話の要領を得るのに困難だつたけれど、要するに拷問を受けたことは確であつた。その五本の指の間が、子供が灸を据ゑられて壞れた痕のやうに、爛れて脹れ上つてゐた。おやぢは辯護士にも、たうとうその當時懷にあつた金の出所を語らなかつた。
警察署では署長立會の上、拷問をしたといふ係の巡査を取り調べた。そして遠慮なくその訊問調書を作つた。(――それはやがて裁判所に提出されたものであつた。)
間もなく三人の辯護士の俥は、相次いで町はづれの中尉の新宅に向つた。
細君は折から買物に出かけようとしてゐた。つやつやしい俥が三輛までも家の前に止つて、見なれぬ洋服仕立の男が、前後してはひつて來るのを見た細君は、何事かと細目に開けた障子をぴたりとしめながら思つた。玄關の格子戸の開く音と、小聲に一言二言交へる音とが止んで、鳴皮の踏みしめる音がかすかに錯綜してゐるのも止むと、
『お免下さい。』と、しつかりした聲が訪ふ。
細君はしづかに手をついて玄關の障子を開けた。六つの眼の注視を受けて三枚の大形の名刺を手に取ると、細君はすぐにこの間中の事が頭に浮んではつとした。それには三枚とも辯護士の肩書が威すやうに活字に編まれてゐた。
始終を見て取るやうに立ちはだかつた辯護士達の目に、やせ形の色の白い、新婚後まだ間もないらしい二十二三ばかりの細君の顏が、やがてとりすましたやうに整つて行つた。
『その何です、吾々は○○の辯護士會から、少し取り調べたいことがあつて上つたのですが、それは御當家の先だつての盜難に關してますので、甚だ御迷惑でせうが……』と、一人が口を切ると、細君は皆まで言はせず引き取つて、
『はあ、まあ、左樣でございましたか。さあどうぞあの、むさくるしいところでございますが、どうぞこちらへ……』
『いえ、奧さん。長い時間も要しませんからこちらで澤山です。』と、寧ろ拒絶するやうに一人は引き受けて、『そこで……』
『でも、そこではあんまりなんでございますから……』
『構はんです。』
かう言つた一人は、仲間でも「おほん」と綽名をしてゐる位、情實といふやうなものに引き入れ難い態度の男であつた。
細君の顏はみるみる引き緊つて行つた。その答辯の模樣は、地方の女學校出でもあるらしく、時々生硬な漢語などを交へた。
『なるほど、その日にお宅に出入したものは差配の爺さんより外にはなかつた……それからあなたは風呂にいらしたんですね。』
『はい。』
『ぢや、その留守に何者かゞ來なかつたとも限らないんですね。』
『勿論、左樣でございます。』
『で、あなたはそのお金を茶ぶだいの上に忘れてお出なすつた……たしかですね、あなたはさうお信じなさるんすぬ[#「なさるんすぬ」はママ]。』
『は、どうしてもさう信じられるんでございます。』
『ですが奧さん。』と、一人の辯護士が口を挾んだ。『あなたはお風呂にいらつしやる時、そのお金に就ては何かお考へになりませんでしたか? たとへば危險を感ずるとかなんとか……』
『は、それはなんでございます。風呂に持つてまゐりますのは危險だと存じましたものですから、置いて行つたのでございます。』
『をかしいですね、風呂に持つて行くのが危險なら、人のゐない家に置いて行くのはなほ危險ぢやありませんか、殊にちやぶだいの上なぞに……』
『それが、忘れてまゐりましたんで……』
『ですが危險を感じて忘れるとは受け取れませんね。』と、代つて一人がぢつと細君の顏を見つめながら言つた。『どつかに一寸おしまひになりやしませんでしたか?』
『いえ、しまひでもいたしましたなら、盜られもしませんでございましたでせうけれど、全く私が迂濶に置き忘れてまゐつたものですから……』と、細君は慌てゝうち消した。『全く、置き忘れましたのは私の過失でございます。』
『はゝあ、ではやはりあなたのお留守に何者か窃みにはひつたのでせうな。ところでと、そのお金がお引越の時に、茶盆の下から出たといふのでしたね。』
『は、その通でございました。』
『茶盆は毎日お使ひになつたものでせうな。』
『は、毎日使用して居りました。それがその朝になつて出てまゐつたのでございますから、どうしても一度盜み出したものが、あまり搜索が嚴しいんで、怖氣がついてそつと戻しにまゐつたんだらうと思はれるんでございます。ちようどあの引越の混雜に紛れて……私どもでもさう解釋するより外はないと申して居ります。』
『勿論、あなたがちやぶだいの上に置き忘れたといふことを主張なさる以上は、さう解釋するより外はないでせうな。』
「おほん」氏は言つた。その鈍いやうで鋭い眼を、興奮した感情をさもなく裝はうと努めてゐるらしい細君の面にそゝぎながら。
『奧さん、お金におぼえでもありましたか?』
『はあ、ごいます[#「ごいます」はママ]。拾圓紙幣が五枚と五圓紙幣が七枚、それに一圓紙幣が二枚でございました。』と、細君は流暢に答へた。
『なるほど、都合八十七圓ですな。それで? 少しも減つてゐませんでしたか?』
『は、少しも減つて居りません。』
『金にもかはりなく?』
『は、あのなんでございます。さう申せば、五圓紙幣が一枚、少しかう汚れて、あの桃色のやうなものがついたりなんかして、少し皺になつたのが交つてるやうでございました。』
『すると、盜んだ奴は五圓だけ使つてしまつたので、自分のを代に入れて置いたといふんですね?』
『いえ、さう斷言は出來ませんけれど、或はさうでないかと思ふんでございます。みんな新しいお札だつたやうに覺えて居りますものですから……』
『はゝあ。』
辯護士達はお互に顏を見合してだまつた。
それから「おほん」氏はしばらくして、その怒つた肩に埋つたやうな首をかしげて、
『奧さん。』と、重々しく呼びかけた。『あなたは最初からお越になるおつもりでしたか?』
その時細君の顏色は動いた。けれども聲も調子も少しも取り紊さなかつた。
『はい。いえ、もう先から越しますつもりで居りましたんですが、ちようど恰好な家がございましたものですから……』
客の質問に答へて辯護士は言つた。
『差配のおやぢはね、もと港の町で辯護士などをしてゐた男があつて、そいつが金を殘してね、某町に貸家を建てたりなんかして――初め中尉の住んでゐた家もその一つさ。そのおやぢに差配をやらせたり、かたがたおやぢを手先にして金を廻させてゐたんだ。懷にあつたといふのはそれさ。ところがおやぢ、はじめそれをやらせられる時に、あまり名譽なことぢやないから誰にも言つちやならんぞと差し止められてゐたらしいんだ。それでどうしてもその金の出所を言はないのだよ。おかげでおやぢばかりひどい目に會つたわけさ。うん? ほんとのところ? そりや細君のいひ草ぢやないが、しかとは斷言出來ない。だが僕達の解釋するところに依るとだね、風呂に行く時ちよつと茶盆の下に挾んだにちがひないんだ。却つてそんなところは誰も氣が付くまいくらゐのところでね、女のやりさうなこつちやないか、はゝはゝ。そして自分で忘れてしまつて、はやまつて大さわぎをやつたのさ。』[#「やつたのさ。』」は底本では「やつたのさ。」]
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