45回転の夏

第1章 ローラーコースター、1966年

鶴岡雄二






すべては、
そういうぐあいにはじまった
馬鹿げているけれど、
ほんとうなんだ

〈バス・ストップ〉
ホリーズ
[#改段]
 高圧線の鉄塔が立つ山のむこうは、もう鎌倉市なのだが、県道の両側は横浜市の南端になる。
 入寮の日、滝口慶一は、県道から入る校舎への坂道の途中で、畑をはさんだむこうにある、竹が生いしげった小高い丘の下から、煙が立ちのぼっているのを見た。
 車を運転していた父親は、あれは炭焼きだな、と呆れたようにいった。
 たしかに、海側を走る十六号線と、山側を走る一号線という二本の国道にはさまれた、あるいは、内陸を走る国鉄と、海沿いを走る私鉄にはさまれたこの一帯は、あまり人の住まないところで、低い山が折り重なり、そのあいだに複雑な谷間がひろがっている。
 この地形をそのまま生かしたキャンパスの周囲には、人家は見えなかった。ゆるやかな山なみのあいだに、段丘につくられた畑が、わずかに顔をのぞかせているだけだ。
 この新設の全寮制中学高等学校に入るのは、じぶんで決めたことなので、慶一は新しい生活をおそれてはいなかったが、ひとつだけ気がかりなことがあった。
 四月二十九日にはじまる連休まで、まったく寮を出られない。今年になってはじまった、テレビの※(始め二重山括弧、1-1-52)ゴーゴー・フラバルー※(終わり二重山括弧、1-1-53)や、※(始め二重山括弧、1-1-52)ハニーにおまかせ※(終わり二重山括弧、1-1-53)を見られなくなることをのぞけば、寮から出られないこと自体は、それほど問題ではない。
 いや、もちろん、※(始め二重山括弧、1-1-52)ワイルド・ウェスト※(終わり二重山括弧、1-1-53)だって、※(始め二重山括弧、1-1-52)ナポレオン・ソロ※(終わり二重山括弧、1-1-53)だって、※(始め二重山括弧、1-1-52)それ行けスマート※(終わり二重山括弧、1-1-53)だって、今月からはじまる※(始め二重山括弧、1-1-52)バットマン※(終わり二重山括弧、1-1-53)だって、気にならないわけではないが、テレビのことは考えても意味がないから、考えないことにした。
 問題は、四月十五日に、ビートルズの新しいLPが発売されることだ。いまのところ、慶一の音楽的関心はこの一点に集中していた。
 今年、ビートルズが日本にくる、というウワサもあるが、そちらのほうはあまり信じていなかった。ビーチボーイズやハーマンズ・ハーミッツはきても、ビートルズが日本なんかにくるわけがない。
 レコード屋にいけるのは、四月二十八日の午後だろう。十三日も遅れるなんて、あんまりだ。昼食後に帰宅だから、一時に出て、車で家まで四〇分。レコード屋との往復に一〇分。どんなに早くても、『ラバー・ソウル』の一曲目を聴けるのは、四月二十八日午後一時五〇分だ。
 小学校最後の一年、一九六五年から六六年の二月までは、慶一は勉強にいそがしかったはずだが、そんなことより、ノーキー・エドワーズとドン・ウィルスンが奏でるグリサンドや、姉さんがビートルズ・マニアだという同級生の女の子が貸してくれた、〈オール・マイ・ラヴィング〉の強力にドライヴする三連のリズム・ギター、そして、女の子たちもまじえて、小学校の同級生と横浜まで見にいった、ビートルズの二本の映画(つい半月ばかりまえに、西口の相鉄映画でやった「ビートルズ・フェスティバル」というのを、見にいったばかりだ)が記憶にのこっている。
 クレイジー・キャッツは、『大冒険』をのぞけば低調で、東宝映画も※(始め二重山括弧、1-1-52)シャボン玉ホリデー※(終わり二重山括弧、1-1-53)も、急速に慶一の関心の外へはじき出されていった。それどころか、一年まえには、ファンクラブに入るほど好きだったヴェンチャーズでさえ、もうあまり関心がなくなってきている。
 プラモデルだって、自動的に潜水/浮上をくりかえす、サブマリン707のずんぐりしたモデルが最後だから、もう一年くらいなにも買っていない。小遣いはすべてレコードに吸いこまれてしまうのだから、しかたない。
 しかし、寮ではロックンロールは聴けないだろう。
 父親は、寮事務室で入寮の手続きをすませ、慶一に、
「じゃあ、お父さんはこれで帰る。入学式には、お母さんといっしょにくる。みなさんに迷惑をかけないようにな。しっかりやるんだぞ」
 と声をかけ、部屋までいかずに、そのまま帰った。
 大きなバッグと、買ってもらったばかりで、ほとんどなにも弾けないギターをもって、慶一はひとりで階段をあがった。
 寮の部屋は八人単位で、慶一の入った二〇四号室は、ひとりをのぞいては、とくにつき合いにくそうな人間はいなかったし、塾で知りあった友だちがふたり、各自にわたされた部屋割表をたよりに、すぐに顔を見せにきたので、荷物をほどいて一時間後には緊張がとけた。
 ただ、日が暮れかかり、六時一〇分まえに二階食堂に制服着用で集合、というアナウンスをきいたときには、さすがにさびしさを覚え、どうしてこんなところにきたのだろうと考えた。
 食堂のドアのわきに、小さな黒板があり、薄葉紙の紅白の花で飾られていた。
 最初の行には、四月三日という日付があり、「月」と「日」はペンキでかかれ、数字は白墨で書きこまれていた。そのあとには、これまた紅白の白墨で、こんな文字が記されていた。

入寮おめでとう! 厨房一同
入寮晩餐会メニュー
チキンコンソメ  アスパラガスのサラダ
マッシュポテト  ヒラメのソテ
コールドミート  パン
デザートはバニラアイスクリーム

 慶一は、「厨房」という字を、とりあえず「とうぼう」と読み、コックかなんかの意味だろうと考えた。それより大問題は、メニューの中身だ。
 ヒラメは嫌いではないが、ヒラメのソテーとはどういうものか、わからなかった。
 その入寮祝賀の晩餐――それは開寮、開校の祝いでもあった――は、慶一の目には、ノリのきいたカラーに、慣れないネクタイを締めていることもあって、かなり堅苦しいものに感じられたが、この学校に対していだいていたイメージには合っていた。
 あとから考えれば、逆に不思議に思えるのだが、さすがにワインはついていなかった。子ども用のシャンペンと称する、ただの甘い炭酸水をグラスに注いで、寮長の音頭で乾杯をした。
 ここに集まった、一二四人の、たった一学年の生徒が、この新しい学校の全生徒だった。

「これって、いいジャムじゃん」
 といいながら、慶一は、フランスパンのスライスと厚みがおなじになるほど、たっぷりとイチゴジャムをのせた。それは、ジャムパンに入っているような安いジャムではない。着色料の真っ赤な色ではなく、ちゃんと黒ずんだ赤だし、なにより、イチゴが原形をとどめているのが、その証拠だ。
 朝の食堂は、採光のせいか、夜とはだいぶ雰囲気がちがう。
 このあたりは南区と戸塚区の境界で、キャンパスの大部分は戸塚区側だが、食堂の途中から南区にはいり、慶一のテーブルはその南区側にある。へんな話だ。
「その、“じゃん” て、いったい、なんなんだよ」
 と、ジャムのビンをとりながら秋本がいった。
「ジャムはジャムじゃん」
「ジャムじゃなくて、“じゃん” ていうのは、どういう意味かって、きいてんだよ」
 慶一はわけがわからず、なにかいいがかりをつけて、ケンカを売っているのかな、と考えた。こいつは、はじめから態度がでかい。
「おまえ、なにいってんだよ」
 となりの大森が、パンをふたつにちぎりながらいう。
「なんで、話の最後にじゃんをつけるんだよ」
 大森と慶一は顔を見あわせた。
じゃんじゃんじゃん」
 といってから、慶一は、なんだこれは、と自分のことばの意味と文法を再検討し、なにかべつのいい方はないものかと、必死で頭を回転させた。
「だからさ、じゃんていうのは、つまり、カッコいいじゃんとか、やるじゃんとかって……」
 慶一はあきらめて、パンをほおばった。
「札幌じゃ、じゃんていわないのかよ」
 と、大森がタマゴの頭をスプーンで叩いた。秋本のうちは札幌だそうだ。
「それって、半熟?」
 慶一と半熟タマゴは、不倶戴天ふぐたいてんの仲だ。
「あたりまえだろ。だからこれにのってんじゃん」
 と、大森が台をスプーンで叩いた。
「じゃ、おれのあげるよ」
 やはり、なにもかもがうまくいくわけはない。タマゴぐらいなくても、生きていける。
「おれんとこじゃ、いわないよ。だから、きいてんだろうに」
「あっ、そういうときに、きいてんじゃんよ、て使うんだ」
「ああ、そうだ。なんとかじゃない、ていう意味だ」
「なら、じゃない、ていえばいいだろ」
「いいんだよ。このへんじゃ、みんな、じゃんていうんだってば」
「方言か」
「方言てことはねえだろ。田舎じゃあるまいし」
 天辺の殻をどけながら、大森が不愉快そうにいった。
「田舎だろ、ここは」
 と、秋本が裏山を見かえる。
「そうじゃなくて、横浜とか、鎌倉とか逗子とか、このへん一帯では、そういうんだよ」
「藤沢も、茅ヶ崎も、平塚も、小田原もいうよ」
 箱根の山のむこうは知らない。いずれにしても、山のむこうは化物のすみかだ。すくなくとも、浅草生まれの慶一の祖母は、つねづねそう主張している。
「田舎だろ。これでも、横浜市なんだろ」
「わかった、わかった。田舎だ、ここは。頭おかしくなりそうだ」

 寮の生活は、ある意味で、きわめて複雑だ。
 制服ひとつとっても、金糸のエンブレムがついた紺のブレザー、レジメンタル・タイ、グレイのスラックス、というフォーマルなもの、そして、ふだん学校や寮で着る、衿なし上着にオープンシャツの校服、という二種類があり、いろいろ行事のある入寮入学前後は指示が複雑で、新入生を悩ませた。
 だれかが知っているはずだ、という考えはケガのもとだ。じっさい、入寮二日目の夕食では、前夜の晩餐会であすからは夕食も校服着用のこと、といわれていたにもかかわらず、八人全員がネクタイをしめてあらわれた部屋が、ふたつもあった。
 ひと部屋のほうは、あわてて着替えにもどり、コック長がベルを鳴らす正六時にまにあわなかった。もうひと部屋は、めんどうくさいといって、そのまま着席した。
 寮長は、食事は全員きちんとするまで遅らせる、と宣言し、そのまま着席した部屋は着替えにもどされた。
 そろったところで、そのふた部屋の全員が起立させられ、寮長に面罵めんばされた。きみらのようなトンマは、この寮では生き残れないだろう、と。
 その夜のメインディッシュはグラタンだった。慶一は、グラタンは好きだが、冷えかかったグラタンは好きじゃないな、と考えた。
「でもよ、いくらなんでも、きのうとちがいすぎるんじゃない。月曜だから平日メニューかよ」
 秋本が口をとがらせた。
「いいじゃねえか。こんなもんだろ」
 うるさそうに大森がこたえる。スプーンから、盛りすぎたグラタンが崩れて落ちた。
 たしかに、「平日メニュー」だった。飲み物も日本茶だ。グラスでお茶が飲みたいわけではないが、プラスティックのコップはないだろう、と慶一は、その白地に銀の幾何学模様が入った、厚手で、口のひろいコップをながめた。おそろしく据わりがよさそうな、いかにも実用的な趣きに、慶一はいらだった。
 もう、お客様あつかいは終わりだ。

 ひと部屋八人に対し、シャワーがひとつ、トイレがひとつ、という数字をどう考えるだろうか。
 寮生にとって、これは明白な数字だった。
 シャワーはいい。入浴時間は夕方五時から六時の夕食まえまで、そして、六時半から七時まであるし、シャワーだけでなく、本棟一階には大浴場と小浴場があり、いちどに四十人くらい入っても大丈夫なので、この面で不自由はない。
 なにしろ、まだ、一二四人しかいない。過密が問題になるのは、遠い未来の話。
 問題はトイレだ。
 朝食後から登校までの三〇分は、いつも戦争になる。
 まだ、ようすのわからない入寮最初の朝、食堂からぞろぞろと、八人そろって部屋に帰ったところ、いちばんさきにドアをくぐった大森が、
「イチバーン」といって、洗面所に入った。
 二番目にドアをくぐった慶一のうしろから、秋本が、
「あ、ちきしょう、おれ、二番」
 といったとき、はじめて、慶一はなにをいっているのかが理解できた。
 この秩序は最初の朝に確立され、くずれることはなかった。くずしようがないのだ。二学期の編成替えで慶一が入った一〇二号もおなじで、要するに、これは寮中どこでも通用する、グローバルなルールだった。
 四月五日の朝食後、塾の友人とホールで立ち話をしていたために、慶一はトイレの順番が最後になってしまった。二日もつづけて、おなじ間違いを犯すようでは、「この寮では生き残れない」かもしれない。
 本棟には、中央階段とはべつに、非常階段があり、その階段室のわきにはトイレがあった。それに思いあたったことは、慶一がこの寮に適応しつつある、最初の徴候といえた。
 しかし、防火扉をあけて、二階の非常口へいくと、階段を昇りかけていた奴が立ちどまり、
「おまえもトイレならいっておくけど、そこはもうふさがってるぞ」といった。
 慶一は、じゃ、三階だ、と考えたが、じぶんよりふたつ三つ年上に見える、一五五センチぐらいはありそうなそいつが、すでに階段を昇りかけているのは、三階にいくためなのに気がつき、あきらめて、きびすを返した。
 四階にもトイレはあるが、なんだか、ばかばかしくなってきた。これは、それほど独創的なアイディアではなかったらしい。
「おい、おまえ、急いでるのか」
 と、慶一の背中に声が浴びせられた。
 態度のでかい奴だな、「おい、おまえ」はないだろう、とは思ったが、無視する理由もないので、慶一は立ちどまってふりかえった。
「急いでるんなら、いっしょにこいよ」
 そいつは軽くアゴをしゃくった。
 慶一は、なんだかよくわからなかったが、あとにつづいて階段を昇った。
 見知らぬ新入生は、三階をとおりすぎて、四階へいこうとするので、慶一は、
「どこへいくの」と問いただした。
「四階だ。どこへいくと思ってんだよ」
 そういわれると、そうだ。四階の上には屋上しかないし、非常階段は屋上まではつながっていない。
 でも、四階には空き部屋と娯楽室があるだけだ。娯楽室は夕方まで閉まっているはずだし、空き部屋には立ち入るなと、晩餐会後におこなわれた、寮生活のオリエンテイションで注意を受けた。
「おれ、浅井ってんだ。三〇四号室」
 さきをいく奴が、ふりむかずにいった。
「ぼくは滝口」
 部屋番号をいおうとすると、浅井が押しとどめた。
「二〇四だろ、知ってるよ」
 と、はじめて笑みをもらした。
 それは、この図々しそうな奴にはまったく似つかわしくない、人なつっこくて、どこかはにかみをふくんだ、やさしい笑顔だった。
 四階の非常口のトイレにいくのだとばかり思っていた慶一は、浅井が中央ホールにはむかわず、逆にヴェランダへむかったので、思わず、
「どこへいくんだよ」
 ときいてから、しまった、と思った。
「ヴェランダだよ。見りゃあ、わかるだろ」
 非常口ホールからヴェランダへ出ると、この寮を建てるためにけずられた裏山の、半分だけになった頂上が見え、むきだしの急斜面で、関東ローム層の成立ちを観察できる。
 浅井は右に曲がり、四〇一号のヴェランダにいく。
 この寮は円筒形で……いや、それは不正確だ。
 こういえば、わかってもらえるかもしれない。
 ナットというのは、その外周が六角形で、内周は円になっているが、ここに外周が十六角形のナットがあると仮定しよう。このナットの外径は二〇ミリ、内径は五ミリほどとする。
 まず、五円玉を一枚おく。これは直径二二ミリだ。その五円玉と中心を一致させて、ナットを上にのせる。このナットの上にまた五円玉を重ねる。これが四層になるまでくりかえして、最後に五円玉をもうひとつ、ふたのようにかぶせ、さらに平たい頭痛薬を一粒その上にのせると、できあがりだ。寮の本棟はだいたい、こんな形状といえる。
 五円玉の、ナットの外にはみだした部分がヴェランダ、内径のほうにはみだした部分が、中央階段の周囲をめぐっている廊下になる。天辺の五円玉は屋上で、その上にのせた平たい錠剤は、屋上への出口だ。
 ふたりはいま、その円周と、十六角形の一辺とのあいだにいる。
 浅井は、四〇一号のアルミサッシュの窓枠に両手をかけて、上下に揺すりはじめた。慶一の頭のなかで警戒警報が鳴る。
「なにしてんだよー」
 返事がくるまえに、カギがはずれ、窓が開いた。あまりの呆気なさにおどろいたのは、慶一だけではなく、浅井もおなじのようだった。
「見りゃ、わかるだろうが」
 浅井は開いた窓から手を入れ、ヴェランダと室内をつなぐドアのノブをむこう側からつかみ、ドアをあけた。
「さあ、入れよ」と、慶一に笑いかける。
「まずいよ。見つかったら、たいへんだよ」
「大丈夫だって。だれもこんなとこまで、わざわざ見まわりになんかこないさ。いいから、入れってば」
 さっきの十六角形のナットを、もういちど思いだしてほしい。これをピザパイのように八等分する。それがひと部屋だ。だから、ドア側がすぼまっていて、窓へむかって扇形に開いている。
 十六角形を八等分したのだから、窓の真ん中に角ができる。この角は、そう、たぶん、一六〇度より小さいぐらいの角度だ。かなり直線に近い。この角には円筒形の柱があり、じつは、あまり角のようには見えない。
 浅井は口笛を吹きながら、キュビストのピザパイの外周から、中央の回廊と部屋をつなぐドアの方向に、ひとりでずんずんと入っていく。
 慶一は、ヴェランダにひとりでいることのほうがこわくなり、あわてて浅井につづいた。
 浅井はきれいな口笛を吹く。
「その曲、知ってる」
 という慶一のことばに、浅井は意外そうな表情を見せて、ふりかえった。
「ゾンビーズの〈テル・ハー・ノー〉でしょ」
「おまえ、ロックンロール聴くのか」
 浅井は、洗面所の灯をつけながらいった。
「うん」
「そうか、じゃあ、友だちだ。――おれは高志っていうんだ。おまえ、慶一っていうんだろ、知ってるよ。そう呼ぶからな、いいな」
「うん」
 まさか、いやだ、とはいえない。
「おまえ、ここ使え。ペーパーはちゃんと入っているから」
「きみは?」
「きょうは、四〇二あたりを使ってみる」
 といって、ヴェランダにむかいかけてから、あわててきびすを返し、洗面所に入りかけた慶一を押し退けて、なかへ入っていく。
 慶一は、なにがなんだか、わけがわからない。浅井はガラガラと大きな音をたてて、ロールペーパーを巻きとっている。
「なにやってんだよ」
「見りゃ、わかるだろが。紙をもってくんだよ。四〇二には、ないだろうからな」
 いわれてみれば、当然だ。
 紙をマフのように両手に巻いて出てきた浅井は、
「帰りに、忘れずに鍵を閉めていけよ。それから、ステレオはいじるな、舎監しゃかんに聴こえるとまずいからな」
 と注意をあたえ、ドアにむかいながら、また慶一に顔をむけ、
「おまえ、見ればわかることを、いちいち質問してると、バカだと思われるぞ」といった。
 トイレにいるとき、「早く出ろ」と扉を蹴られるのは、だれでもあまり楽しくない。だから、扉を蹴られることもなければ、ノックもされないというのは、ここでは、かなりのぜいたくなのだということを、この朝、慶一は理解した。
 あの浅井っていうのは、態度がでかいけど、感謝するべきだろう。

 四月七日から学校がはじまった。
 午前中には階段教室で入学式がおこなわれ、そのあと、家族と会う時間がもうけられていた。
 天気さえよければ、母親がつくってきてくれた弁当を外で食べられたはずだが、あいにくの雨で、慶一はしかたなく階段教室を使うことにした。これを最後に、四月二十八日午後からの外泊まで、いっさい面会は許されない。
 一年四組の教室で、窓際の席をあたえられた慶一は、あの魔法のようにカギをあけた浅井高志がおなじクラスだし、となりに坐ったのが松山柾生まさおだったので、教室でも楽しくやれるだろう、と期待した。
 柾生は、面接の日に、慶一に強い印象をのこしていた。おなじ控え室の反対側で、母親と姉さんと思われるふたりの手で、薄茶色のスーツと、燕脂えんじをきかせたレジメンタル・タイをととのえてもらっている柾生を見て、慶一はおどろいた。ネクタイを締めた受験生はけっこういるが、スーツ、それも長ズボンのスーツなど、その控え室では柾生のほかにはいなかった。
 ひとりっ子の慶一には、姉さんというのは、ほんとうはああいう存在なのか、という驚きもあった。慶一の小学校の同級生は、ほとんどが商人の子どもで、彼らの姉さんというのは、弟たちのすがたを見ると、あっちへいけ、と追い払うことになっていた。
 二日目はオリエンテイションだけで、十一時には解放された。その二時間半のあいだ、慶一は「布教」を試みていた。
「ねえ、きみはさあ――」
 面接の日の印象がのこっているので、いきなり「おまえ」はまずいだろうと思い、「きみ」を使ってみたが、われながら調子がでない。慶一は心のなかで、小さな石ころを蹴飛ばした。
「きみは、音楽は聴かないの」
 慶一には確信があった。柾生のすがたからして、歌謡曲ファンではない。ロックンロールを聴くか、それともなにも聴かないか、そのどちらかだろうという予感があった。
「聴くよ。フォークソングとか」
 これは予想外の答だったが、すくなくとも歌謡曲ではない。
「フォークソング? 〈漕げよ、マイケル〉とか?」
 どうしてラックに収まっているのかわからないが、とにかく、このハイウェイメンの大ヒット曲は、慶一の家の数少ないコレクションの一枚だった。
「それもキラいじゃないけど、ブラザース・フォアとか、キングストン・トリオとか」
「ラジオで聴いたことある。〈トム・ドゥーリー〉」
「あれ、いい曲。首吊りの話」
 柾生は、ブラザーズ・フォアの〈七つの水仙セヴン・ダフォディルズ〉と、PPMの〈パフ〉も好きな曲にあげた。
 とにかく、歌謡曲ファンではないらしいので、慶一は安心した。まったくの異教徒ではない。
 慶一自身は、もっぱらロックンロール、というか、ビートルズ一辺倒で、まず〈オール・マイ・ラヴィング〉を支配する、「三連サイド」のビート感覚を賞賛し、〈ティケット・トゥ・ライド〉の素晴らしさや、映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』(この映画の邦題『ビートルズがやって来る ヤアヤアヤア』を、慶一は憎悪していた。もちろん、『ヘルプ!』を『四人はアイドル』と呼ぶことも拒否した。こういうことが、慶一にとって、日本人であることの最大の不幸だった)の面白さを、教師の目をかいくぐって、柾生に伝えた。
 柾生は、いかにも興味ありげに、慶一の長広舌ちょうこうぜつをきいてくれた。慶一には宣教師の才能があったし、いずれにしても、柾生は改宗のチャンスを待っていたのかもしれない。
 いちどだけ、柾生は、三連てなに? と口をはさんだ。教師の目があって、じっさいに机を叩いて教えられないので、慶一はいらだった。
 ひとつの音符を三つに等分して、その三拍ごとに、頭の一拍目にアクセントをつける、などという説明は思いつかなかったし、どちらにしても、意味は伝わらなかっただろう。
 慶一の小学校の同級生で、ロックンロールを聴くのはふたりしかいなかった。そのひとりが、ピアノのレッスンを受けていて、これは三連符というのだと教えてくれたから、知っているだけのことだ。
 オリエンテイションの最後は、クラブ活動の説明だった。これは「任意ではなく義務」(と書いてある)で、なにかひとつ運動部と、文化部を選択しなければならない。タイプ印刷のパンフレットには、各クラブの一覧、担当教師名、活動の内容が書かれている。
「きみ、運動部はなに?」
 慶一は、小声で松山柾生にたずねた。
「テニス部」
「野球部にしない?」
 柾生は、黙って首をふった。
「文化部は?」
「美術部」
「ブラスバンドにしない?」
 ムダだろうとは思ったが、慶一は、いちおう、きいてみた。
 こんどは、さらに強い否定の調子で首がふられた。
「ねえ、テニスできるの?」
 柾生は申し込み用紙を見て、首をふった。
「野球は?」
「そりゃあ、できるよ」
 なにいってんだ、こいつ、というように、柾生は慶一を見る。
「野球部にしない?」
 柾生は、もう、なんなんだよ、という顔で天井を見あげ、しばらく考えこんだのち、消しゴムをとって、訂正をはじめた。
[#改ページ]



いい場所を教えてやろう
そこへいけば
夜中の二時をまわっても
音楽が聴けるんだ

〈アット・ザ・シーン〉
デイヴ・クラーク・ファイヴ
[#改段]
 柾生をブラスバンドのメンバーにはできなかったが、すべてが新しく、しかも一年生しかいないのは、ほんとうに素晴らしい、と慶一は思っていた。それは※(始め二重山括弧、1-1-52)フラバルー※(終わり二重山括弧、1-1-53)※(始め二重山括弧、1-1-52)ハニーにおまかせ※(終わり二重山括弧、1-1-53)が見られないことを、充分に埋めあわせてくれる。
 寮の社交の場は、公式には玄関棟一階の生徒サロンということになっている。
 玄関の左わきが事務室、右が寮長室と舎監室、そこを進むと、両側に二階の食堂にあがる階段がある。このいずれにも寄り道せず、玄関から入ってまっすぐ進むと、生徒サロンにつきあたる。
 生徒サロンは、階上の食堂とおなじ広さがある(当然、食堂とおなじように、途中から南区に入る)。入って右側に売店とビュフェがあり、文具、日用雑貨、菓子、飲料などを買ったり、ホットドッグ、スパゲティ、ラーメンといった軽食をとることもできる。
 左側には、八×十二メートルほどの、ジュウタンを敷いた場所があり、ここは他の床面より低く、三段ほどの階段でおりるようになっている。
 壁につけて、レズリー・スピーカーのついていないハモンド・オルガン、アップライト・ピアノ、ヴィデオコーダーと呼ばれる、小さなトランクほどの大きさがある重い機械がおかれ、天井近くに十九インチのテレビがある。
 サロン入口のむかいは、全面がガラスのスライドドアになっていて、このドアを抜けると、サロンの三分の一ほどの面積があるテラスに出る。もちろん、テラスは全体が南区に属している。
 一階だから、テラスのむこうに地面があるかというと、じつはない。このキャンパスは、そこらじゅうアップダウンばかりで、平らな地面というのはグラウンドと野球場、そして舗装されたテニスコートや、バスケットコートなど、数えるほどしかない。
 テラスの外も、正面玄関の平面より一階ぶんはさがっていて、これまた、テラスわきの階段からおりるか、寮の周囲をめぐる、ローラーコースターのように、曲がりくねり、上下する、舗装道路から入っていくようになっている。
 テラス下は舗装され、コンクリートのベンチと大谷石のグリルのある、バーベキューガーデンになっている。しかし、これはまだ工事中だ。なにしろ、施設課の人間が暇をみてつくっているので、いっこうに進んでいない。
 そのバーベキューガーデンの両側からは、本棟への坂道、新寮敷地への坂道が、それぞれ延びている。
 バーベキューガーデンのむこう側は、これはもうただの丘――このキャンパスを包囲する、圧倒的な自然の最前線で、学校の敷地ではない。
 舗装の終わったところから、いきなり山が立ちあがっていて、繁みが垂れさがっていることから考えると、このバーベキューガーデンは、もとは池か沼だったのかもしれない。
 慶一は、このテラスの環境が気に入った。
 天気のよい日に、売店の自動販売機で飲み物を買って、テラスのデッキチェアに坐り、裏山を見ながら、ひばりのさえずりをきいていると、なにか、この世の果てにでもいる気分になり、それは同時に、幼児期の記憶へと矛盾なくつながっていく。
 いまも、ひとりでオレンジジュースを飲みながら、テラスをめぐる手すりをかかえこみ、幼児期の細部をひとつひとつ思いだそうとしている。
 きょうは雲ひとつなく、きのうとはうってかわって、気温も高い。
「おい、慶一」
 サロンのなかから声がきこえた。
 ビュフェのカウンターの、テラスにもっとも近いところに坐った高志が、笑いながら手招きしている。
「なーに」
 慶一は、手すりの上で寝返りでもするように、もたれかかったまま、サロンの方向へ躰を一八〇度回転させた。
「こいよ」
 しかたなく、慶一はプラッシーのビンをもって、ガラスドアにむかう。
「なんだよ」
「坐れよ」と高志が、となりのイスの黄色いビニールを平手で叩いた。
「なんか用?」
「いいから、これを見てみなって」
 と、カウンターにおいた紙袋を指さす。レコード屋のシングルの紙袋だ。
 慶一はおどろいて、中身を出してみる。〈抱きしめたい〉〈プリーズ・プリーズ・ミー〉〈アイ・フィール・ファイン〉〈フロム・ミー・トゥ・ユー〉……。
「すごい! これ、どうしたの」
「いま、生田のとこへいってきたんだ」
 生田は若い英語の教師で、週二回のLL教室の授業を担当している。
「職員寮?」
「そうだよ。決まってんだろ」
 たしかに、そうにちがいない。教師が、職員室にロックンロールのレコードをおいておくなんて、ありえない。
 しかし、慶一にとって、敷地の反対側のはずれにある、四階建ての職員寮は、生徒寮とはちがって、外見は四角い、ただの実直そうな白い箱だが、「魔窟」以外のなにものでもない。「人さらい」がいる、危険な場所だ。
「よく、そんなとこ、いくな」
「遊びにこいっていうのに、いかなかったら、すねるじゃないか、生田が。かわいそうだろ」
 教師のことを、かわいそう、と形容する発想は、慶一にはない。
「じゃ、これ、生田先生の?」
「だから、その話をしてんだろ」
「貸してくれたんだ?」
 呆れかえって、高志はなにもいわず、電子レンジをにらむ。これは不思議な機械だ。この寮は不思議だらけなので、このていどの不思議はどうということもないが。
「はい、お待ちどう」と、高志のまえにホットドッグがふたつ、薄緑色の皿にのって出てきた。
 高志は金を払って、コックに話しかける。
「江沢さん、このまえの話さ、きのう、うちから電話があったんで、きいてみた」
 そういいながら、高志はたっぷりとタマネギのきざみをのせた。
「おう、どうだって?」
 水道で手を洗いながら、コックは顔をあげて、高志に笑いかける。底抜けに人のよさそうな笑顔だ。
「オーケイ」
 ケチャップをかけているところなので、高志は目をあげない。
「そうか、そりゃ、いい。ありがとう」
「どういたしまして」
 と躰をかがめ、顔をコックのほうに近づける。
「ねえ、これ、もってっていい?」
 カウンターには、ふたりのほかにはだれもいない。テレビのまえには、慶一たち※(始め二重山括弧、1-1-52)ビート・ポップス※(終わり二重山括弧、1-1-53)派に勝った、六人ほどのプロ野球派が、巨人−阪神のデイゲーム中継を見ている。あとは、窓際のテーブルで新聞を読んでいるのが、ふたりいるだけだ。
「いいけど、見つかるんじゃないぞ」
 と、コックはタオルで手をぬぐいながら、とぼけたようにサロンの入口を見ていう。
 ビュフェの食べ物は、ここで食べなければいけない。まさかラーメンをもっていく奴はいないが、ホットドッグはしばしばもちだされ、たまたまホットドッグをもったまま、ホールでケンカをはじめた馬鹿がいて、壁にケチャップの汚れをつくって以来、明文化されたルール(壁のメニューのとなりに、「一 飲食物はサロン外に持ち出さないこと」と書いてある)は、きびしく適用されることになった。
 コックの江沢さんが生徒に甘いのは、教師じゃないからだ、というのが定説だが、高志は、あの人は寮生を憐れんでいるんだ、といっている。「若い身空で」こんな山んなかに閉じこめられて、と高志にいったそうだ。
 高志にいわせれば、親もいなければ上級生もいないこの学校は天国だし、だいいち、どこの家だって、貧乏にはほど遠いはずだ、かわいそうなんて、見当違いもいいところ、なのだが。
 マスタードを塗らなかったほうを、「ガキ用」といって慶一にわたし、
「いくぞ。早くそれ、飲んじゃえよ」
 と、高志は慶一が手にしたビンを見る。
 飲み物をもって出ると、ビンの始末に困るので、これはもちだす人間はいない。
「おれ、いらないよ」
 と、慶一がドッグを返そうとすると、
「おまえのために注文したんだぞ。いらないんなら、だれかにやれ」と、まえとおなじ返事をした。
 慶一は、金を出しても、これまたまえとおなじで、受けとらないだろうと思った。まえのときは、百円玉をわたそうとすると、「つりがない」といって受けとらなかった。これで、たぶん入寮二週間にして、二度おごられたことになるのだろう、と慶一はあきらめつつある。
「さあ、いこう」
 と声をかける高志に、慶一も、こんどばかりは、どこへ、とはききかえさなかった。レコードをもっているなら、行き先は決まっている。四〇一だ。
 谷底のようなところにある玄関棟と、それより一階半ほど高いところに建つ、本棟とをつなぐ廊下を歩きながら、高志がいった。
「おまえ、さっき、ひとりでなにしてたんだ」
「なにって、考えてた」
「なにを?」
「小さなころのこと」
「へえ」
 また、馬鹿にされるかもしれない、と身がまえていたので、慶一は拍子抜けした。
「おれも、考えることがある」
 高志がまじめな顔でいう。
「どんなこと?」
「だから、ほんとうにガキだったころのことだ」
 どんな? ときこうとしたが、高志のことばに、この話題は終わり、という響きを感じて、慶一は口をつぐんだ。
 慶一が中央階段をのぼろうとすると、高志は階段をとおりすぎて非常口にむかう。しかたなく慶一もそれを追いかけた。すこし遠まわりだが、非常階段からヴェランダというルートで、部屋にいくのが好きな人間も多い。
 四〇一号は、ふつうの部屋とおなじ間取りだが、娯楽室として使われている。寮に娯楽室があることは、入学案内にもでていたが、そこにステレオがおかれていることは、慶一はここにくるまで知らなかった。
 ステレオがあっても、聴くものがなければ話にならないからだろう、ここには「世界名曲全集」などという、クラシックやホームミュージックを集めた、解説つきのレコードセットもある。
 ステレオより幅をきかせているのが、ふたつのカードテーブルだ。ここが中学校の寮であることを考えると、いくぶん奇異ではある。だが、この寮では、とくにめだつほど異質ではない。異質というなら、慶一には、すべてが異質だった。
 子どもには、カードテーブルでポーカーをする、という考え方はなじまない。ポーカーはつねにポピュラーな暇つぶしだったが、自室のベッドか、応接セットのテーブルでやるものと、相場は決まっていた。
 当然、娯楽室は、二週間にして、音楽ファンの独占になりつつある。たとえば、慶一や高志や、松山柾生も、そうした音楽ファンとして、この部屋の常連となっていた。
 といっても、「世界名曲全集」は、三日もたたないうちに、だれの関心もひかなくなった。にもかかわらず、聴くものがない。しかたなく、ステレオでAM放送を聴いている。
 このステレオだって、FMを受信できる。だが、問題は、FMの世界では、まだ新大陸が発見されていないことだった。FMでは、百年昔、二百年昔、もっと昔の音楽が、最新のヒット曲のような顔をして、のさばりかえっている。十八世紀にラジオがあれば、きっとこんな放送をやっただろう。だから、ティーネイジャーは、FMになど、まったく注意を払わない。
 それにしても、すぐ近くの山にNHKの中継局があって、おそろしくクリアに受信できるのは、なんの因果なのだろう。
 この四月十六日土曜日は、午後は自由時間だ。その自由時間もなかばをすぎ、もう三時半をまわった。
 娯楽室では、小松という、父親がアメリカで商売している奴、山崎という名の、いかにもラグビー部という感じの、肩幅がひろく、背もすでに一七〇ぐらいある奴、そして松山柾生という三人が、ソファやストゥールに坐って、バカ笑いをしていた。
 窓際のステレオのまえにおかれた、数脚の折り畳みイスには、だれも坐っていない。ステレオからは、AM放送の歌謡曲が聴こえてくる。〈骨まで愛して〉だ。
「おまえら、なに聴いてんだよ」
 高志が三人に声をかけて、ステレオに歩みよる。
「こんなの聴いたら、ステレオが壊れるじゃないか」
 慶一も高志の尻馬に乗った。
「だって、FENは野球やっててさ、ワラが日本語の勉強だ、とか、いうからよう」
 と、山崎がニヤニヤしながらこたえる。ワラというのは小松のことだ。ウォーターを「ワラ」と発音したため、それをあだ名として頂戴するハメになった。
「勉強になるよ」と、ワラがまじめにいう。
 こいつは、ことばにはほとんど不自由しないが、なにしろ、東京オリンピックを知らない、というぐらいで、常識がまるでない。クレイジー・キャッツの映画ですら、見たことがないという。
 慶一に理解できないのは、ワラが、フランスやイタリアのヒット曲というものを、まったく知らないことだ。
 高志がしょっちゅう口にするシルヴィー・ヴァルタンなど、だれ、それ? といったぐらいだ。もちろん、フランス・ギャルも、ちょっと落ちるが、マージョリー・ノエルも、ジリオラ・チンクエッティも知らない。落ちる、というのは、歌ではなく、外見のことだが。
 音楽に興味がないならともかく、じつによくヒットソングを知っているワラが、シルヴィー・ヴァルタンも、〈アイドルを探せ〉も、同題の映画も知らないというのは、慶一には信じられなかった。ファンでもない慶一だって、この映画は見ているのに。
「犬じゃあるまいし、骨なんか愛してたまるかよ」
 高志はターンテーブルのカヴァーをあけ、アダプターをおき、ホットドッグを口にくわえ、溝にふれぬように、両手でレコードをのせた。
 セレクトをPHONOに切り替え、スタート・ボタンを押し、なんでレコードがあるんだ、という顔で注視している三人をふりかえり、まあ、聴いてみな、という顔でほほえむ。
〈抱きしめたい〉のギターコードのイントロは、慶一には耳慣れたものだが、なにか胸をしめつけられるような感動をおぼえた。他の三人も、顔を輝かした。
 ひととおり聴き終わったところで、
「さっきの〈ディス・ボーイ〉って曲、もう一回聴かない?」
 と、柾生がリクエストした。
 慶一には、柾生の興奮が想像できた。
 いま、柾生はビートルズを発見している最中なんだ。それは、慶一には、二度と経験しなおすことのできない感動だろう。
 とにかく、数はすくないが、ホンモノのレコードが手に入った。これでなんとか、最初の外泊まで飢えをしのぐしかない。なにもないよりはマシだ。それに、高志がまた、どこからか、べつのレコードを手に入れてくるかもしれない。
 だから、慶一は、ロックンロールのことは心配しないことにした。

 心配なのは、同室の手塚という、なにかといえばロッカーから菓子を出して、だれにもやらずに、じぶんひとりで食べている、意地の悪そうな太った奴だけだった。
 ひとりで菓子を食べるのは、とりあえず、犯罪ではない。
 しかし、慶一もふくめ、二〇四号室の他の全員は、家からもってきたわずかなクッキーやせんべいを、同室の連中に配るようにしていた。
 慶一自身、ひとりで食べてはいけない、これはおなじ部屋の子たちにあげるものだ、という厳重な条件つきで、美しい花模様の描かれた、丸い缶に入ったチョコレートの詰合せを、母親からわたされた。
 手塚は周囲にはまったく頓着せず、「おれの食いもんだ、おれが食べて、なにが悪い」と宣言して、三日もたたないうちに完全に孤立した。
 手塚が嫌われたのは、菓子だけが原因ではない。
 二階の寮生の場合、洗濯ものは、火曜と金曜に、部屋ごとの洗濯袋に入れて、本棟一階の洗濯室に出す。学校からもどると、洗濯ものがもとどおり袋にもどされて、部屋番号を書いた棚にならべられているので、もち帰ってじぶんのぶんをとりだす。
 洗濯室に袋をもっていき、もち帰るのは当番制で、八回に一回まわってくる計算になる。この袋はけっこう重くて、けっして好まれる仕事ではない。
 日がたつにつれて、手塚が風呂にも入らなければ、シャワーも浴びないこと、そして、まったく洗濯ものを出さないことがわかってきた。
 考えられることは、まったく着替えないか、あるいは洗濯ものをどこかにためこんでいるか、どちらかしかない。
 十二歳の子どもの集団では、菓子をひとりで食べることは、ほとんど犯罪にひとしいが、風呂に入らず、下着を洗濯しないのは、完全な犯罪といえる。「キタネエ」という評判は、死刑宣告だ。
 手塚は、部屋の連中から、洗濯ものを出さないことを指摘されても、うるせェな、といっただけで、平然としていた。それどころか、おれは洗濯ものなんか出さないんだから、洗濯袋を運ぶ当番はやらない、と宣言し、全員の大非難を浴びた。
 結局、手塚は洗濯もの運びを免除された。そのかわり、なにがあっても、おまえの洗濯ものは、この部屋の洗濯袋には入れさせない、それでいいか、という他の全員に対し、手塚はあっさりと、ああ、いいよ、とこたえた。
 どうして、これほど協調性のない人間が、寮なんかに入ったのか、慶一には理解できない。だが、やがて、さまざまな事情で、ここにきた子どもがいることがわかるようになるだろう。
 二〇四号室の七人にとって、手塚との生活は、しだいに不快なものになっていった。
 だが、慶一には娯楽室の生活があったので、あまり気にはしていなかった。となりのベッドに「エンガチョ」がいるのは、楽しいことではないし、あたりをはばからぬ手塚の放屁は、低い、大人のような音で、ほとんど凶悪とも感じられたが、寮生活の未来を悲観してはいなかった。
 この時点では、まだ長い修学旅行をしていて、たまたま旅館のおなじ部屋に、キタネエ野郎がいるだけだと思っていた。
 教室、音楽室、自室と娯楽室、という四角形のなかで、慶一の一九六六年四月がすぎていった。

 あしたの午後には父親が迎えにきて、ひさしぶりに家で夕食をたべられるという四月二十七日、慶一は、昼下がりの明るい、しかし、やさしい陽射しを浴びて、ゆるやかに搖れる教室の外の柳を見ながら、頭のなかで、あすレコード屋にいったら買うもののリストをつくっていた。そのリストは極端に短くて、記憶する努力など、まったく必要なさそうだった。
 開け放たれた窓から、静かな風が入ってくる。このままじっとしていたら、眠ってしまうかもしれない、と慶一は心配になった。
 国語の教師が、文庫本を手にして、なにか長い朗読をしている声が、だんだん遠くなっていく。
 空はきれいに晴れているが、けさ雨が降り、日中に急に気温があがったせいだろう、薄もやがかかり、遠くの谷にある畑は白っぽく見える。
 一瞬、ほんの一瞬、慶一は、時間と場所の感覚から、完全に切り離された。
 窓の外には、永遠が広がっていた。
 すぐに時間と空間をとりもどした慶一は、いま、永遠を見たことが、はっきりとわかった。
 至福感と、なにか尋常ではないことが起こった不安を感じて、急いで教室を見わたすと、気味の悪い圧迫感が迫ってきた。それは「量の感覚」のようなものだった。
 太宰マニアの国語教師は、まだ太宰のことを話している。
 不安になった慶一は、となりのブラザーズ・フォア・ファンに、
「なあ、いま、おれ、永遠が見えた」
 と小声で話しかけた。
 柾生は、冗談のオチを待っているような表情で、慶一を見かえしただけだった。
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ここでは、悩みもおそれも
すべて締め出せるんだ

〈イン・マイ・ルーム〉
ビーチボーイズ
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 家に帰り、母親と店員たちにひととおり話しかけると、慶一は、イギリスのパブリック・スクールと、アメリカのアイヴィー・リーグとのあいだをとったような制服も着替えずに、小学校の同級生の一家が経営する楽器屋へ、ただ突っ走った。
 ビートルズの新作『ラバー・ソウル』、そして、ラディックのドラム・スティックをもちながら、慶一は、さらにシングルの棚で三〇分ほど逡巡した。帰宅の車のなかで、父親から小遣いをもらっていたので、きょうは豪華にいくつもりだ。
 結局、※(始め二重山括弧、1-1-52)フラバルー※(終わり二重山括弧、1-1-53)で見た、マコーイズ(うっかり、マッコイズなどと発音すると、ワラに死ぬほど馬鹿にされる)の〈ハング・オン・スルーピー/フィーヴァー〉というシングル、そして、『ポップ・ギア』と同時上映になっていた、『五人の週末』という映画に出ていた、デイヴ・クラーク・ファイヴのEPを、友人の長兄にさしだした。
 一週間の休みというのは、ホームシックをいやし、それどころか、しまいには、寮に帰りたい、とまで思わせるほどの長さがあった。思いきって三枚も買ったレコードは、どれも素晴らしいものだった。
 素晴らしくないのは、ビートルズの来日が決定したと発表されたことだ。それが夏休みなら、素晴らしいことだったろうが、六月三十日から三日間だけの公演だという。
 それは、慶一にとっては死刑判決で、この時点ですでに、ビートルズを見られる可能性はゼロになった。すくなくとも、今年の日本公演に関するかぎりは、だが。
 しかし、そうした憂鬱も、『ラバー・ソウル』の素晴らしさをすこしも損ないはしなかった。毎日くりかえし、このアルバム、『ヘルプ!』『ア・ハード・デイズ・ナイト』、それに、〈ウィー・キャン・ワーク・イット・アウト/デイ・トリッパー〉などを聴いて、一週間をすごした。
 映画にも飢えていた。東宝系は三船敏郎の『奇巌城の冒険』で、これは現代国語の宿題になった、『走れメロス』を映画化したものだ。学校で勉強するような話が、映画の題材になるというのは、慶一には理解できない。まあ、見ることは見た。それだけだ。
 大映系は『大魔神』と『ガメラ対バルゴン』で、これも見にいった。『大魔神』は、ミニチュアがいまひとつだが、まあまあのできだった。
『ガメラ』のほうは、慶一としては、もう、こういう映画に関心がなくなったのだ、とじぶんを納得させるしかないような代物だった。頭と四本の脚が引っこむと、ジェット噴射が出てくるというのが、どう見ても理解できない。あの甲羅の内部構造はどうなっているんだろう。いくらなんでも、亀のバケモノなんかに、いつまでもつき合っていられない。
 やはり、洋画のほうがはるかに面白くて、なんといっても、父親と東京にいって見た、『バルジ大作戦』がすごかった。その足で見た『逃亡地帯』のほうは、後半はほとんど恐怖映画で、慶一は、寮でこんなことが起こったら、たいへんだと思った。
 帰寮の前日、慶一は、思いきって柾生の家に電話してみた。
「慶一がいってたレコードを買ってもらったよ」
「どの曲?」
「〈オール・マイ・ラヴィング〉」
「どう?」
「いいね」
「おれのほうは、『ラバー・ソウル』を買った」
「どうだった」
「うん、面白い。毎日聴いてる。フォークソング・ファンには、『ヘルプ!』より面白いかも」
「あっ、『ヘルプ!』も買ったよ」
 ひとしきり、「涙の乗車券」という、〈ティケット・トゥ・ライド〉の邦題の悪口をいい、武道館にいける可能性のないことを嘆き、帰寮日に二時間ほど早めに帰って、娯楽室で会うことを約束した。

 こどもの日の帰寮刻限は、夕方五時だったが、慶一は三時まえに帰寮した。おどろいたことに、娯楽室には、柾生だけではなく、高志と山崎もいた。
 連中は〈ゲット・オフ・オヴ・マイ・クラウド〉をかけていた。山崎は、ローリング・ストーンズのファンだ。
 さきにきていた柾生は、なにやら困った顔をしている。あまりお気に召さないようだ。
 ローリング・ストーンズは、慶一にとっては、デイヴ・クラーク・ファイヴより落ちる、三流のバンドだが、〈サティスファクション〉よりは、こっちのほうが好みではある。
 慶一にとって、ロックンロール・バンドを格づけする第一の基準は、ドラマーだ。ストーンズのチャーリー・ワッツは、慶一が憎悪している、「ジャズ・ドラマー」の親戚のような叩き方をする。ハイハットをしっかり踏みこまず、オープン気味でガシャガシャさせるのも、切れが悪くて好きじゃない。
 しかし、〈サティスファクション〉で聴かれる、この時代に、こんなものが存在するのが信じられない、ばかげたドラム・ブレイクにくらべれば、〈ゲット・オフ・オヴ・マイ・クラウド〉のイントロのドラムは、はるかにパワーがある。だから、これは好きだ。
 キンクスの〈ユー・リアリー・ガット・ミー〉や、ボビー・フラー・フォーの〈アイ・フォウト・ザ・ロウ〉のような、そして、この〈ゲット・オフ・オヴ・マイ・クラウド〉のような、ギターコードでゴリゴリ押しまくる曲は、慶一は、とりあえず無条件で好きになる。
 もちろん、それ以外は嫌いというのではない。じっさい、トーイズの〈ラヴァーズ・コンチェルト〉なんて、ギターコードでゴリゴリとは、およそ無関係な曲も好きだ。
 慶一は、キャビネットにつまれたレコードをしらべた。ヤードバーズ〈フォー・ユア・ラヴ〉、アウトサイダーズ〈タイム・ウォント・レット・ミー〉、ナシュヴィル・ティーンズ〈タバコ・ロード〉、ビーチボーイズ〈アミューズメント・パークス・USA〉、それに、ナンシー・シナトラやレズリー・ゴーアなんてものまである。
「ナンシー・シナトラねえ……」
 と、慶一がニヤニヤしながら山崎を見ると、
「おれんじゃねえよ。こいつんだよ」
 と、かたわらの高志のほうを、アゴでしゃくった。
「悪いかよ?」
 高志がイスに坐ったまま、躰をうしろに反らす。
「いいえー、恥ずかしがる奴のほうが、おかしいんじゃないの。これはいいじゃん」
 と、慶一は〈ディーズ・ブーツ・アー・メイド・フォー・ウォーキン〉をひらひらさせた。もっとも、そのジャケットには、〈にくい貴方〉などという、生まれもつかないタイトルが書いてあるが。
 山崎がなにやらつぶやくのを無視して、慶一は、ストーンズが終わったところで、高志に「いい?」ときいて、ナンシー・シナトラをターンテーブルにのせてしまった。
 アクースティック・ギターのコードが流れるなか、ウッド・ベースが降りてきて、エレキ・ベースがその下降にピリオドを打つ。
 慶一には、ベースを二本使っていることが、この曲の最大にして、唯一の魅力だった。このイントロは即座に耳に収まり、ラジオでの身分証明書として通用する。これだけで、ヒットを保証されたようなものだ。
「――でした。あとはどれ聴くの。ヤードバーズはもう聴いたの?」
「聴いた。もういちど聴いてもいいけど」
 と、山崎が気のなさそうな声でいう。
「新しいのは、買わないの?」
「なに、〈ハートせつなく〉?」
 この信じられないタイトルを、山崎がまったく抵抗を感じていないように口にするのが、慶一には不思議だ。〈ハート・フル・オヴ・ソウル〉といってほしい。
「うん、中近東みたいなやつ」
「買ったけど、もってこなかった。おまえ、なに聴くんだよ」
「ビートルズ」
「『ラバー・ソウル』?」
 と、高志が声をかけた。
「うん」
「聴こう、聴こう。買わなかったんだよ、おれ。おまえが買ってくると思ったからさ」
「お母さん、お元気ですか。ぼくは、とっても元気です。でも、近ごろ、とてもイヤだなあと思うのは、ぼくのクラスにタカリ屋がいることです。きょうも、せっかくお母さんに買ってもらったビートルズのレコードを、むりやり脅しとられてしまいました、マル」
 これは、入寮一週間目に強制的に書かされた、「家族への便り」の参考にわたされたプリントの文句を、すこし変えたものだ。ばかばかしいセンテンスのおかげで、これはなにかと引合いにだされる。
「お父さん、お元気ですか」
 と高志が、慶一のことばをひきとる。
「ぼくのほうはすごく順調です。この学校はチョロイ奴ばかりで、小学校のころの十倍は稼げます。もうじきお父さんに、新しい車がプレゼントできると思います。キャディとロールスのどちらがいいですか。アストン・マーチンDB6などは、どうでしょう。追伸。いくんだったら、アメリカとヨーロッパのどちらがいいか、お母さんにきいておいてください」
「ちぇー、追伸なんて、手があったのかあ」
「だいじなのは、進歩することなのです。滝口君、あなたは進歩がありません」
 と、高志が教師の声色こわいろでダメを押す。
「いいから、早くかけろ」
 と、山崎が不機嫌な声を出した。
「へい、ただいま」
 慶一が『ラバー・ソウル』をのせ、回転を三三にセットし、スタート・ボタンを押しながら、
「お母さん、それから、うすらデカイ、おっかない不良少年もいるのです」とつづけると、
「もォー」と、全員が不満の声をあげた。
 この東芝盤は、会社が「エバークリーン」と呼んでいる、静電気の起こらない盤で、赤い塩化ビニールを使っていたために、俗に「赤盤」と呼ばれて、未来の中古屋でご大層な値段をつけられることになる。お母さん、どうして人間には未来が見えないのでしょう。
 このアルバムのオープニング・カット、〈ドライヴ・マイ・カー〉のイントロも、かなり印象的だ。シングルのイントロではないにしても、アルバムのイントロとしてはいい。映画館の開幕ベルのように、期待をもたせるだけのものはもっている。この曲の間奏も、中近東的なギターだ。
 トータル・アルバムなどということばは、『サージャント・ペパーズ』以後に生まれたものなので、このときは、だれもそんなふうには呼ばなかったが、だれの耳にも、アルバム全体を流れる、ある種の統一感が伝わった。
 最後の〈ラン・フォー・ユア・ライフ〉がフェイドアウトすると、裏ジャケットをながめていた柾生が顔をあげ、口を開いた。
「ここにさ、曲ごとのリードシンガーが書いてあるけれど、いい曲はみんなジョン・レノンだね。〈ノーホエア・マン〉も、〈ガール〉も、〈ノーウィージアン・ウッド〉も、〈イン・マイ・ライフ〉もそうだ」
 柾生はまだ、ビートルズのメンバーをフルネイムで呼ぶ。といっても、まさか「ウィンストン」まではつけないが。このミドルネイムは、ジョンが第二次大戦中に生まれた証拠なのだそうだ。
「そういわれると、そうだな。おれは〈ドライヴ・マイ・カー〉や、〈ホワット・ゴーズ・オン〉も好きだけど。それから、〈ユー・ウォント・シー・ミー〉も。〈イン・マイ・ライフ〉が最後にあると、もっといいんだけどな。エンディングがあんまりじゃん」
 このアルバムに対する慶一の不満は、その点に尽きた。
「『ヘルプ!』だって、〈ディジー・ミス・リジー〉じゃないか」
「あれもひでえな。おなじ叫ぶんでも〈トゥイスト&シャウト〉とは、大ちがいだ」
「それ、聴いたことない」
 と、柾生が期待をこめていった。
「ウェ、シェキナ・ベイビー・ナウ」
 と高志が歌いだしたので、慶一も即座に乗って、
「シェキナッベイビー」
 とバックコーラスをつけた。
「シェキナ」は “Shake it up” だが、だれの耳にも、そうは聴こえない。
「トゥイスタンシャウ!」
 とつづける高志にはつきあわず、慶一は柾生を見た。
「――ていう曲。おれ、コンパクトもってるから、こんどもってくる」
 柾生のいうとおり、『ラバー・ソウル』はジョンのアルバムだ。その後のビートルズのディスコグラフィーを見れば、それはさらに明瞭に理解できる。彼らは気づかぬうちに、ジョンが燃えつきる瞬間に立ち会っている、といってもいいくらいだ。
 人間としてのジョン・レノンは、一九八〇年に死んだが、ロックンローラーとしては、一九六六年には死んでいた。
 この年の八月二十九日、キャンドルスティック・パークの二塁後方につくられた特設ステージに、カメラをもってあがり、他の三人だけではなく、腕を思いきり伸ばして、自分自身のビートルとしての最後のステージ姿を撮ったとき、たぶん、ジョンもそのことを知っていたのではないだろうか。ビートルズは終わり、ロックンロールもおしまい、と。
 その後も、レコーディング・アーティストとしての、ビートルズというブランドが存続したことは、まったく関係がない。なんにでも慣性はある。質量が巨大なら、慣性もそれだけ巨大になる。
 ジョンがあの声で、慶一の魂の奥深くに呼びかけるのは、この『ラバー・ソウル』が最後になる。〈イン・マイ・ライフ〉はジョンの挨拶だ。
 その後も、ときには、ジョンが呼びかけているのを聴いたように思う瞬間がおとずれるが、その声に耳を澄ますと、ジョンはバックの音のなかに消えていき、慶一をいらだたせるだけになる。
「とにかく、このLPはいいね、『ヘルプ!』よりいい」
 という柾生に、
「そうかねえ」と、山崎が異をとなえた。
「軟弱じゃない?」
「きみはスクラムの練習でもしてなさい」
 と、高志がまじめな顔でからかった。
「やるのかよお?」
 と、山崎が両手で、となりに坐った高志の二の腕にジャブをくりだした。本気ではない。
 高志は軽くあしらって、
「野蛮人、いいかげんにしろよ。柾生、なにかもってきたんだろ」
 と、柾生のとなりのイスにおかれたLPの袋を見る。
「うん、キングストン・トリオ。慶一が聴きたいっていうから」
「それいこう。野蛮人向きじゃねえから、おまえは部屋に帰れ」
 高志は笑いながら、山崎を見た。

 娯楽室組は、概して平和に暮らしていたが、寮全体では、つねになにかが起こり、だれかが罰せられていた。
 最大のショウは、入寮以来、おれがいちばん、いや、おれだ、と、なにかというと角突きあわせていた、三人の躰の大きな奴らが、とうとう屋上で決着をつけるということになった事件だ。
 夜中に屋上でおこなわれたという、「OK屋上の決闘」とか、「三大怪獣 屋上最大の決戦」などと呼ばれた、この大立ちまわりについて、慶一は他人の目撃談でしか知らない。
 肝心の勝敗は目撃者によって異なり、慶一を混乱させた。決着のつかないケンカなんてあるのか。
 まあ、決着がつかなかったことはよいとしても、その後、なにかにつけていっしょに行動するようになった、「三大怪獣」たちの仲のよさは、慶一にはまったく理解できない。
 慶一と高志にとってのトラブルは、ほとんどが、たとえば、昼夜つづけて嫌いな食べ物が食卓にのってしまうといった、この寮にはつきものの、ごくささいな日常的問題だった。
 六時五〇分起床。即座に洗面、着替え、ベッドメイキング。七時一〇分、野球場に集合、点呼。体操ののち、七時三〇分から寮食堂で朝食。八時二〇分登校。
 まるで軍隊だ。
 とりわけ、起床時に全寮に流れる、おそろしく威勢のよいクラシック音楽は、憎悪のまとだった。
 起床というのは、多くの寮生にとって、それ自体すでにトラブルだが、妙な音楽で起きるというのは、ほとんど拷問に近い。だれかを馬鹿にするとき、「パパラーパーパ」と、その起床音楽の出だしを歌えば、侮蔑のことばとして通用するぐらいだった。
 後年、慶一は『地獄の黙示録』のコマーシャルで、この起床音楽に再会するだろう。さらには、テレビの戦争回顧番組で見た、帝国陸軍落下傘部隊の雄姿を伝える日映の日本ニュースでも、歯切れの悪いヴァージョンではあるが、おなじ音楽を聴き、呆然とすることになる。
 なんだか軍隊みたいだと思ってはいたが、みたいではなく、軍隊そのもののつもりでいた人間がいたらしい。
[#改ページ]



左にシェイク右にシェイク
力のかぎり、
ヒピー・ヒピー・シェイク!

〈ヒピー・ヒピー・シェイク〉
スウィンギング・ブルー・ジーンズ
[#改段]
 二カ月後、起床音楽はがらりと変わった。
 変えたのは、ほかならぬ浅井高志だった。
 最初の中間試験が終わり、同時に五月も終わろうとしている。
 慶一が所属する、ブラスバンドの打楽器セクションは、階段教室で練習する管楽器セクションとはわかれて、四階の音楽室で練習することが多い。
 まあ、ピッコロなんて、六人がかりでも、アルトサックス一本に負けてしまうくらいだから、ドラムなどといっしょになったら存在しないも同然だ。
 音楽室から見ると、この横浜市は、見わたすかぎりの緑の山だ。むこうの谷間で、炭焼きの煙がゆったりと広がっている。
 四月は、二十日すぎまで山桜が咲いていたし、むこうの段丘にある畑が茶色っぽかったが、いまでは、そこも緑でおおわれている。
 あれはなんの畑だろう。大根だというウワサだが、ここへくるまでは、畦道なんか歩いたこともなかった連中のいうことだから、全然あてにならない。
 こんなとてつもない田舎が、とにもかくにも、横浜といわれているのが、慶一には信じられない。横浜よりはるかに小さいじぶんの街だって、ここにくらべれば大都会だ。
 音楽室のなかでは、五人のスネア・ドラマーが、音楽学校の女打楽器奏者の大声に合わせて、ほんもののスネア・ドラムではなく、板にゴムシートを貼りつけた練習台を相手に、「フラ打ち」の練習をえんえん一時間もつづけていた。正式には「フラム」というが、そんな呼び方はだれもしない。だいたい、この正式名称からして、「バタン」という擬声語だ。
 ひとくちにフラ打ちといっても、右と左の区別があり、そして、ドラムとドラマーにまつわる問題の大部分は、左右の区別があることから起きる。
 左のスティックをさきに打ち、ほんのわずかに遅れて、右のスティックで追いかけるのが、「左のフラ打ち」。馬鹿にしていると思われると困るが、その反対が「右のフラ打ち」だ。スティックを使って、一種のスキップをすると考えればよい。
 簡単そうだと思うのは、素人だ。右、左、と交互に叩き(それだけでも、かなりめんどうだが)、それを全音符で四小節、二分音符で四小節、四分音符で四小節、こんどは逆に、四分、二分、全音符と速度をゆるめていく。
 これは、まったく至難の技だ。
 四分なんて、スキップしながら階段を二段降りするようなもので、全員がこけつまろびつになってしまう。これがほんとうに階段だったら、いまごろ大腿骨複雑骨折全治六カ月だ。
 たしかに、と慶一は考える。リンゴ・スターも〈ティケット・トゥ・ライド〉で、フラ打ちを多用している。でも、あれなら、たぶん右のフラ打ちしか使ってないから、こんな練習しなくたって、できるだろう。
 打楽器セクションの指導者は、なぜか、かならず、「高橋路子先生」と、フルネイムで呼ばれている(慶一は、女のドラマーはハニーカムズのハニー・ラントリーしか知らないので、心のなかでは、高橋路子先生ではなく、ハニーと呼んでいた。ただし、『ハニーにおまかせ』のハニー・ウェストとは、きちんと区別してだ)。
 この若い先生は、ものすごくていねいに教える。そのかわり、子どもたちがなにをいおうと、まるでとりあわない。フラ打ちができるまで、「ロール」は教えない、と早々に宣言している。
 先生の知らないことはたくさんある。たとえば、この五人のなかに、ドラム・ロールができる人間が、すでにふたりもいることなどは、その一例だ。
 ひとりはリーダー格の峰岸、もうひとりは慶一だ。とくに峰岸のロールは自由自在で、まったく乱れがなく、やれといわれれば、一分でもつづけられそうな、みごとなものだ。フラ打ちだって、四分もそれなりにこなせる。左のアクセントがやや弱くなるていどで、リズムの乱れはない。
 あと三〇分で終わりというころになると、野球部でノックの雨を浴びたのに似た状態にたどりつく。躰の動きで汗が飛び散り、手のひらのマメがやぶれ、腕がこわばり、一般相対性理論が直観的に理解できるのではないか、というくらいに時間感覚が伸び、目がかすんでくる。人間としての感覚を失い、一歩ずつ機械に近づいていく。
 高志が音楽室に入ってきたとき、慶一は、もうスネアはやめにして、なにか管楽器にしよう、テナーサックスか、それがダメなら、アルトでもいい、と考えていた。
 妙に暗い顔をした高志は、侵入者をにらみつけた高橋路子先生に、なにか話しかけた。
 ヨロヨロの四分音符にかき消されて、そのことばはだれの耳にもとどかなかったが、全員が手を休めるチャンスがきたのを知って、即座に静寂がおとずれた。
「先生、すみません。急用で、滝口を呼んでくるようにいわれたものですから」
 高橋路子先生は、けわしい顔で高志をにらみつけたが、ここが東京文化会館のステージではないことに気づいたらしく、すぐに穏やかな顔になった。
 スティックをもっていないときは、この人は美人なんだ。
「そう、しかたないわね」
 と、先生は高志にほほえみかけた。
「では、滝口さん、あなたは、これでおしまいになさい。来週までに、左右のアクセントが均等になるように、練習しておいてくださいね。四分は無理でも、二分はきちんとね。二分ができれば、自然に四分もできるようになります」
 慶一は、他の四人のドラマーが、ため息をもらし、じぶんをにらみつけているのを感じながら、途中で練習を終えるのは、ものすごく残念なのだが、という雰囲気がでるように、いかにもイヤそうに、ハイといって、高志といっしょに音楽室を出た。
 イヤそうに、というのは、まんざら演技ばかりでもない。
 練習中に高志が音楽室へきたなんて、前代未聞だ。あの顔つきからして、なにかまずいことがあったようだ。担任からの呼出しだろうか、そういう不安で、慶一は鼓動を速くしていた。
 高志がひとことも口をきかずに、どんどん階段をおりていくのが、不安をかきたてる。
「ねえ、高志、呼び出したのはだれだよ。ひょっとしてさ、関口先生?」
「まあな、急げよ」
 慶一の不安にはまったく無関心なようすで、高志は足の運びを変えない。
「やっぱりそうか。どれかな……高志も呼び出されたんなら、きのうの実験室のことじゃないの」
「ぼくはお使いです。関係ありません」
「じゃ、なんだろう……。あれ、どこいくんだよ」
 高志は職員室のある二階をとおりすぎて、まだ使われていない、一階の北翼へいく。
 北端の教室のまえまでくると、高志は気をつけをして扉をノックし、返事を待たずにノブをまわして入っていく。
 ドアにむかって気をつけとは、どういうことだ! これはすごくヤバいかもしれない。慶一は脚がすくみそうになった。
 視線を下げながら戸口をくぐり、恐るおそる見あげると、そこにいたのは、担任でもなければ、教師ですらもなかった。
 窓際に、ワラが立っていた。躰をねじ曲げて、こちらを見ている。
 バカだった。慶一は地団太を踏んだ。ヒントはいくらでもあったのに、高志の演技を見抜けなかった。安堵と怒りで、わけがわからなくなった。
「なんだよー。アセったじゃねえか」
「大成功!」
 高志は、机がない、ガランとした空き教室のなかに進みながら、慶一の顔を見ずにそういって、笑った。
 いつもなら、ここでヘッドロックか、コブラツイストでもかけにいくところだが、体力を使い果たしたところに不安が重なったので、完全に力が抜けて、慶一は教壇に腰をおろしてしまった。また、汗が吹き出す。
 いったい、この二カ月でなんどやられたのだろう。
 いつもは、こんなに舞台はそろっていない。高志が窓際に立って外に目をやり、あっ、などと叫んでも、どうしたの、などと見にいってはいけないことぐらいは、慶一も身にしみてわかった。
「すなおな奴は幸せです」
 と、高志はまだ笑っている。
 ワラは、キョトンとした顔をしている。
「ねえ、ねえ、どうしたの」
「うるさい。ワラは関係ないの!」
 奴のことを小松とか、知道ともみちとかの本名で呼ぶ奴はあまりいない。ワラ自身も、じぶんがワラであることを否定しなくなっていた。ワラと呼べば、なーに、とこたえる。
「まあ、まあ、やられる奴が悪いの。関係ない奴にあたっちゃいけません」
「クソー、だいたい、高志がまじめな顔してるのが、クセモノだったよな」
「そういうこと。あれで見やぶれなかったのが、きみの敗因です。こっちがなにもいわないのに、ひとりであわてて、ひょっとして、関口先生かな、なんていうから、やられんの。進歩がないんだから」
「まあ、いいや、練習サボれたから」
「でしょう、でしょう。ありがたく思いなさい」
 そのとき、慶一はたいへんなことに気づいた。
「ここ、空き部屋じゃないか。ヤバいよ」
 いまや、空き部屋への「不法侵入」は、高志の専売特許ではなくなっていた。先週、空き教室に忍びこんだのを体育の教師に見つかり、ウサギ跳びでグラウンドを五周させられた奴がいた。どうして、高志は空き部屋に忍びこみたがるんだ。
 まずい! まだ、なにか仕掛けてあるのかもしれない。慶一の頭に、警報が鳴り響いた。
「心配すんなって」
と、高志が笑う。
 ちょっと待っててくれ、などといって、ふたりが出ていく。ひとりでボンヤリ待っていると、高志が教師をつれてきて、バカモノ、ウサギ跳び十周! なんて作戦だろうか。
「ほら、ちゃんとカギだってもってる。まったく、うたぐり深い奴だな」
 高志はポケットからカギを出し、輪を人差指に引っかけて、クルクルまわして見せる。
「さっきは、すなおな奴っていったクセに」
「まじめな話があるんだよ」
 だれかをカツグとき、高志はいつもまじめだ。
「疲れんな。もうやめにしないか」
 慶一は、しっかり口をひきむすんで、首をふった。
「たのむよ。きょうはもうやらない。誓う!」
「ほんとう?」
「誓ってホントだ」
「うーん、なんか、あぶなさそうだけど……まあ、いいか」
 高志はチャンスを見のがしたりしない。いちど引っかかった奴は、トコトン引っかける。
「ホントに、まじめな話があるんだ」
「ケーイチ、ホントだよ」
 といって、ワラが慶一のとなりに腰をおろした。
「あのな、オレ、新しいクラブをつくる」
 そういえば、美術部は写生にいってるはずなのに、高志はどうしてここにいるんだ。
「相づちぐらいしろよ。相づちのせいでやられた奴なんか、いないってば」
 わかるもんか! こいつはなにをやるか、わかったものじゃない。どんなクラブ? ナイトクラブだよ、ひっひっひい、なんて手かもしれない。
「しようがねえなあ。どんなクラブって、きいてくれよ。話がつづかねえよ」
 案の定だ。
「ナイトクラブ! なんていうんじゃないの」
 高志は、一瞬、呆気にとられた顔をしてから、笑いだした。
「高志、まじめな話をするんでしょう?」
 と、ワラが困ったような声でいった。
「ああ。でも、こいつがいけないんだ。ナイトクラブなんていうから」
「ナイトクラブって、どういうクラブ?」
 ワラがまじめにきくので、高志も慶一も吹き出してしまった。
「オーライ、オーライト! 忘れてよ。あとで国語辞典見るよ」
「ナイトクラブって、英語じゃねえのかよ」
 慶一は、高志が笑いやむタイミングをはかっていた。
「ところでさ、高志、どんなクラブつくるの?」
 こういう話だった。
 高志は、ビートルズのレコードを貸してくれた、例の生田という若い教師を抱きこんで、放送部とはべつに、「オーディオ部」というクラブをつくるのだそうだ。これは、もう許可が出ているという。
「放送部の山下っているだろ?」
「うん」
 影の薄い奴だが、妙に声が太い。
「あいつとは話をつけた」
 放送部は校舎のみ、寮は「オーディオ部」の縄張りということにしたという。
「どっちにしろ、いままでだって、放送部は、校舎でしか放送してないんだ。寮に目をつけない放送部なんて、やめたほうがいい。くやしがっても遅いのよ」
「それで、オーディオ部は、寮で、なにするわけ?」
 高志はニヤッと笑って、
「起床放送」といった。
「起床放送! つまーんねえーの」
 起床放送なんて、最低だ。それは慶一にとって、不変の真実だった。
「バーカ、あんな音楽をかけると思ってんのか。おれたちがかけるのは――」
 と止めて、ワラを見る。
「ロックンロール!」
 と、ユニゾンの叫びが返ってきた。
「すっげえ」
 寮のひと部屋は、中心の回廊に接したドアから、窓へむかって、扇形に開いている。このドアのあたりは部屋全体の共有空間で、両側にはシャワーとトイレ、ドア正面には、全員が集まれる応接セットが配置されている。
 問題はこの応接セットで、二つならんだテーブルのあいだに、ホテルで見かけるような、天板をテーブルがわりに使える、箱形のスピーカーがおかれている。
 このスピーカーは、天井付近にある、全館放送/インターフォン用の小さなスピーカーとは独立していて、いちおう、音楽らしい音が出るようになっている。
「すげえだろ。もう寮長の許可ずみ。それに、ほかにもいいことがある――」
 高志は、もったいぶって話をとめる。
「いいことって?」
「二四万の予算がもらえる」と、会心の笑み。
「それで?」
「それでって、おまえ、ホントに馬鹿かよ。二四万ていやあ、文化部じゃ、ダントツだぜ!」
 高志は大げさに呆れてみせた。
「機材に半分、学園祭用に、二、三万、てなもんだろう……」
 高志は思いなおして、もういちど気をもたせようと試みた。
「のこりは? ネコババしちゃうの?」
「バーカ、起床放送やるんだぞ――レコードがいるに決まってるだろうが!」
 慶一は愕然とした。こんなボロい話があるだろうか。
 急いで暗算する。レコードに一〇万円つかえるとしよう。LPが一八〇〇円として五〇枚、残りの金で、コンパクトなら二〇枚、シングルなら、えーと、会社によってちがうけど、三七〇円として、二六枚か二七枚も買える!
「いいなあ」
 たった四枚しかLPをもっていない慶一は、それが五〇枚もならんでいるさまを空想した。
「なに考えてんだよ」
「計算してたんだってば。LPにして、五〇枚以上じゃん!」
「そうだよ、ちゃんと計算したさ。それよりさ、おまえ、ブラバンなんかやめて、うちへこないか。あんな板っぺらなんか叩いてて、なにが面白いんだよ」
「もうじき、スネアがくるんだよ。それに、練習には、あのほうがいいんだってば」
「スネアがきたって、どうせ、きーみーがーあー、じゃねえか」
 慶一はことばにつまった。たしかに、君が代と校歌の練習はしている。
「だからさ、オーディオ部なら、おれとおまえとこいつの三人だけだ。おれたちだけで、ロックンロールが聴ける」
「うん。いいなあ」
「だろう?」
「うん。面白そうだけどさ。でも、やっぱ、ブラバンやめたくない」
 高志は、がっかりして天井を見あげ、それから、思いなおしたように、慶一の顔を見た。
「まあ、そりゃ、そうだな。おれだって、高橋路子先生にダッコされたいもんな。あのオッパイ!」
「そんなんじゃないってば!」
 慶一は顔を赤らめた。
 高橋路子先生は、全音符−二分−四分−八分−四分−二分−全音符という循環を叩かせながら、横一列にならんだ生徒のうしろを歩き、気に入らないと、うしろから生徒の両手にじぶんの両手を添えて、抱きかかえるようにして、正しい叩き方を教える。
 はじめてこれをやられたとき、慶一は、なにをいわれているのか、わからなくなった。最近はすこし慣れたが、それでも、肩胛骨に押しつけられる柔らかさを意識しなくなったわけではない。峰岸がいいふらしたおかげで、この教授法はだれでも知っている。
「はい、はい。滝口君はドラムがうまくなりたいだけです。高橋路子先生のオッパイのことなんか、考えたこともありません」
と、高志が笑った。
 ねえねえ、練習中にたっちゃったりしない? と真顔できくワラに、慶一は電光石火のヘッドロックをかけた。
「じゃ、しようがねえな。おれとワラだけでやるか」
「ヤマや柾生は?」
 慶一は、娯楽室の常連はみな誘うのかと思っていた。
「まだ話してない。山崎はさ、ストーンズとか、アニマルズとか、そういう暗いもんしか聴かないじゃないか。きれいなメロディーってもん、ぜんぜん受けつけないから、モメそうだ。柾生は入れてもいいけど」
「でも、おれも、なにか手伝うよ。練習は休めないけど」
「じゃ、そうするか。ま、手伝ってもらうことはたくさんある」
 さっきから右手の人差指に輪を引っかけて、ぐるぐる回していたカギを見つめて、高志は考えている。
「――こうしよう。おまえは特別顧問になる。時間があれば、手伝う。それでどうだ?」
 文句はなかった。五〇枚のLPというのは、圧倒的な魅力だ。
「よし、これで決まり。とりあえず、ここが部室だ。でも、あんまり使わないかもしれない。くれるっていうから、もらっただけだ。カギは、おれがもってるから、雨の日に昼休みのたまり場にでもしよう。ほんとうの部室は四〇七だ」
「寮の?」
「学校にふた部屋も部室があって、どうするっていうんだ!」
「すげえ。寮長、いいっていったの?」
「トーゼン。『寮にもクラブ活動は必要だろう。よろしい』で決まりよ。あんだけ部屋があまってんだから、ダメだなんて、いうわけないだろ」
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ラジオをつけて、
グルッとダイアルを回す
たちまちダンスのはじまりだ

〈ダンス、ダンス、ダンス〉
ビーチボーイズ
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 KWTSの「開局」は、六月二十日に決まった。
 もっとも、空中波を飛ばすわけではないので、このコールサインは、ただの飾りものにすぎない。アメリカ風にやろう、というワラの提案に、高志が乗っただけのことだった。
 慶一、ワラ、高志のステイションという意味だ。慶一は、部員でもないのに先頭はまずい、といったが、これがいちばんゴロがいいと、高志はとりあわなかった。
 ワラも、Kではじまるのは西海岸の局だから、ニューヨークのように、Wからはじめようと抗議したが、おまえははじめから、てめえの都合を考えてたんだろうと、これまた、高志に一蹴されてしまった。
 この「ステイション」なるものの実体は、四〇七の「制作室」と、一階事務室奥の三畳ほどの「放送室」にすぎない。ここから、寮中どこにでもあるスピーカーに、音楽を流すだけのことだった(慶一は、『ナポレオン・ソロ』からとって、四〇七を「アンクル」、放送室を「スラッシュ」と名づけたが、だれも使ってくれず、この暗号名はすぐに忘れられた)。
 六月十二日にはじまる一週間、三人は目のまわるような忙しさですごした。とくに高志とワラは、平日に外出許可をとって秋葉原へでかけ、テープやオーディオ・アクセサリーを買いこんできたし、施設課に交渉して、あっというまにオーディオ・ラックと、レコード棚をつくってもらったりした。
 四〇七の「整備」――要するに、できあがったラックを運びあげ、棚に機材やレコードをならべて、結線をするだけのことだが――には、「特別顧問」の慶一はもちろんのこと、部員でもなんでもない、山崎や柾生まで駆りだされた。
 もっとも、まだきちんと部費が出ないので、その棚に収まったのは、三人が銘々もちよったじぶんのコレクションだけで、慶一が期待したような「大豪遊」のチャンスは、まだおとずれていない。
 しかし、いちばんの問題は、一曲目をどうするかだった。
「イントロがカッコよくないと」
 というのが、高志の条件だ。
 問題は、イントロを聴く人間など、全寮で十人もいないだろう、ということだ。みんな眠っている。だからといって、カッコ悪いスタートはできない。
 この矛盾は、ワラのアイディアで回避した。
「だいじなのはさ――」
 と、ワラは議論をさえぎった。
「記念の第一曲を、みんなが聴くようにする、それだけでしょう。だったら――」
 ワラはニヤリと笑った。
「はじまるまえに起こしておけば、いいじゃない」
 たしかにそうだ。

「ダメだ。これだけじゃ、いくらなんでも短すぎる」
 それはそうだが、これ以上まわしたら、イントロが終わって、歌に入ってしまう。
 さっきから、テープにとった、レン・バリーの〈1−2−3〉をくりかえして聴いている。
 これは、長さの点をのぞけば、「目覚しベル」に最適のイントロになっている。ドラムとベースのコンビネイションによる、二小節ぶんのビートもいきおいがあるし、そのあとにつづく四小節のかんも派手だ。
「わかった、やるよ。やりたくないけど」
 とうとうワラが妥協した。
「大きなノイズが入らないようにはできるけど、あんまりスムースには聴こえないからね」
「気にすんなって、どうせ、みんな眠ってるから、わかんないさ」
 高志は、六小節しかないイントロを、テープ編集で四倍にしろと要求している。そうすれば、秒数にして四〇秒ほどになる。
 できあがったテープは、高志と慶一の耳には、素晴らしいものに聴こえた。
「充分だよ。上出来」
 と、浮かない顔のワラを高志がもちあげた。
 なにしろ、つなぎ目が三カ所もある。たいていの人間は、三回もつづけて不可解なことに出くわせば、原因を追求しようとする。しかも、これは毎朝流すことになるのだから、ワラの憂鬱もわからなくはない。
 だが、これはよくできている。たんに四本のテープをつないだだけでなく、娯楽室のステレオにリヴァーブがついている(なんだって、ステレオにリヴァーブなどつけたのかは、メーカーにきいてほしい)のを利用して、これを通して深いリヴァーブをかけ、つなぎ目をごまかし、同時に、妙に迫力のある音をつくりだしている。
「これなら、死人も起きるぜ」
 と、高志は満足そうにつぶやいた。
 このテープはあくまでも目覚し時計がわりで、曲ではない。第一曲目の候補としては、こんな曲があげられた。

ストーンズ〈ゲット・オフ・オヴ・マイ・クラウド〉
サム・クック〈シェイク〉
ビートルズ〈ティケット・トゥ・ライド〉
デイヴ・クラーク・ファイヴ〈オーヴァー・アンド・オーヴァー〉
ビーチボーイズ〈ダンス、ダンス、ダンス〉
スウィンギング・ブルー・ジーンズ〈ヒピー・ヒピー・シェイク〉
ハニーカムズ〈ハヴ・アイ・ザ・ライト〉

 高志は、
「アップテンポで、派手だけじゃあ、ダメだ。朝なんだから、陽気なやつにしようぜ」
 といって、ストーンズとビートルズをはずした。
 ワラの好きなサム・クックは、撃ち殺されたから縁起が悪いというので、これもアウト。スウィンギング・ブルー・ジーンズは、声が気に入らない、という高志の主張で、消滅。ハニーカムズは、オン・ビートは嫌いだ、という慶一の主張で落選。のこった〈オーヴァー・アンド・オーヴァー〉と〈ダンス、ダンス、ダンス〉の戦いは、高志にも決められず、難航した。
「じゃあさ、ふたつとも、目覚しテープにつないでみたら?」
 というワラの提案に、ふたりも乗った。

「うーん、ダメだな」
 高志は、できあがったテープを比較して、考えこんでしまった。
 目覚しテープの終わりと、曲の頭とのつなぎがギクシャクする。ラジオみたいにはいかない。
「ワラ、おまえ、DJみたいにしゃべれないか」
 高志のアイディアは、ワラにも慶一にもすぐ理解できた。
 いやがるかと思いきや、ワラは、はじめからその気だったのではないか、というぐらい、即座に乗った。しかも、ステレオのリヴァーブなんかダメ、生の音もデッドだからダメと、うるさいことをいって、とうとうシャワールームに入ってしゃべることになった。

「ま、こんなもんか」
 高志はプレイバックを聴いて、疲れたようにつぶやいた。
 ワラは、シャワールーム(「エコー・チェンバー」といわないと、ワラが気を悪くするが)でしゃべったじぶんの声にご満悦で、「このエコーはいい!」と、はしゃいでいる。
 曲のほうは、〈ダンス、ダンス、ダンス〉がいいと意見が一致した。
 もう、十八日土曜日の夕方になっていた。
「さあ、早く、のこりを録音しちゃおうよ」
 と慶一がいうと、
「おまえ、もう帰れよ。晩メシにまにあわないぞ」
 と、高志が心配する。
「うん。でも、まだ頭ができただけじゃないか」
「大丈夫だよ。あとはさ、ただレベルをそろえて、曲をならべるだけだから」
 ワラが満足気な顔でいった。
「ああ、もう大して時間はかからない。今晩とあした一日あるんだから、帰っていいよ」
「ホントに大丈夫?」
 慶一は、きょうは外泊の予定だったので、今晩からあすの昼までの食事を食べるという届けを、事務室に提出していない。
「ああ、うちィ帰って、うまいメシ食ってこい。あとは、ワラとふたりでやるからさ」

 二十日の開局当日は、「局」には、高志とワラだけが入った。
「おまえ、部員じゃないんだから、早起きしなくていいよ。部屋でモニターやれ」
 という高志のことばに、ありがたくしたがったわけだ。
 その朝、慶一は六時四〇分に目が覚めてしまった。六時五〇分まで、ベッドから出ずに、腕時計をにらみながら、じっとしていた。
 六時四九分。スピーカーから軽いノイズが流れ、電源が入ったことを知らせる。
 ドン、タッ、ドン、タッ、ドン、タッ、ドン、タラタッタ、という〈1−2−3〉のドラムは、部室のスピーカーで聴いたときよりは落ちるが、それでもけっこう迫力があった。まあ、つなぎ目が多少ギクシャクするのは、しかたない。
 十八小節。ドラムの音が下がる。
「グモーニン、ディス・イズ・KWTS。お早ようございます。起床の時間です」
「時間です」の「す」にかぶさって、六弦ベースの高音部によるリフとタンバリン、それに途中から十二弦ギターも加わる、〈ダンス、ダンス、ダンス〉の、軽快で、にぎやかなイントロが入ってくる。
 完璧なタイミングだ。イントロの転調部分で、慶一はうなじの毛が逆立つのを感じた。
「クソー、なんなんだよ、これは」
 スピーカーにいちばん近い秋本が、頭をもちあげる。
 慶一はそれにはこたえず、ビーチボーイズに耳をかたむけていた。
 フェイドアウトにかぶさって、
「お早ようございます。掲示板でお知らせしたとおり、本日から、われわれオーディオ部が、起床放送を担当します。よろしく。コールサインはK、W、T、S、KWTSです。きょうの点呼は、雨天のため、居室です」
 ワラの声だ。これは、シャワールームのエコーがかかっていないし、きょうの点呼がどうのといっているから、テープではない。
 開き気味のハイハットと、それにバスドラムとウッド・ベースのイントロが入ってきた。知っている曲なのに、あまりにも予想外だったため、慶一はなんの曲だか、歌にはいるまで思いだせなかった。
 なんて曲を使うんだ! 慶一はベッドで上半身を起こした。
 もう、他の連中も目を覚ましたらしく、ひとりがトイレに駆けこんでいく。
 慶一も起きあがり、はだしのままビニールタイルの床を歩いて、インターフォンのまえにいき、呼出しスウィッチを押した。
「はい」
 ワラではなく、高志の声だ。
「この曲はなんですか?」
 と、慶一は声をはりあげた。
「シルヴィー・ヴァルタンの〈アイドルを探せ〉です。原題はフランス語なので読めませんが、たぶん、ぜんぜん関係ないタイトルでしょう」
 高志はまったく平然としている。「局」で笑い転げている高志とワラのすがたが、目に見えるようだ。
 なんで、シルヴィー・ヴァルタンなんだよ!
 慶一はあきらめて洗面所にむかった。どうも、土曜日はやけに親切だと思った。あいつら、笑いながらこの曲を録音していたんだ!
 歯をみがいていると、こんどは予定どおり、デイヴ・クラーク・ファイヴの〈キャッチ・アス・イフ・ユー・キャン〉になったので、ようやく気分が落ちついた。
 ピーター&ゴードンの〈ゴー・トゥ・ピーシズ〉を聴きながらベッドをなおし、パジャマを脱いでいると、点呼は居室です、というワラのアナウンスがまたはいり、ハーマンズ・ハーミッツの〈キャント・ユー・ヒア・マイ・ハートビート〉になった。
 初日が雨なのは、ラッキーだった。みんな、KWTSにいい印象をもっただろう。
 晴れの日は、点呼は野球場だ。雨の日は、各部屋ごとに、当直教師が点呼にまわる。もちろん、雨は歓迎だ。点呼が室内なら、一〇分ほど長く寝られる。これは重大なことだった。

「シルヴィー・ヴァルタンはないだろー」
 その日の朝食後、三人は四階の部室に集まって、初日のプログラムのできを話しあった。
 慶一は、とにかく、どのように解釈の幅を広くとっても、ぜったいにロックンロールではない、シルヴィー・ヴァルタンが気に入らない。
「かわいいじゃん。なあ、ワラ?」
「うん、サイコー」
 ワラはアメリカにいたので、シルヴィーも〈アイドルを探せ〉の大ヒットもまったく知らなかったが、高志の影響でファンになっていた。シルヴィーにくらべれば、レズリー・ゴーアも、コニー・フランシスも、「ゼーンゼン目じゃない」のだそうだ。
「音楽は、かわいいとか、かわいくない、とかってもんじゃないだろう」
「おまえ、シルヴィーちゃん、嫌いなわけ?」
 高志にかかっては、ナンシー・シナトラも、シルヴィー・ヴァルタンも、みんな「ちゃん」だ。
「だから、そうじゃなくてさ――」
「だから、かわいい、かわいくない、どっちだよ」
「そりゃあ、かわいいよ」
「じゃあ、いいじゃねえか」
「だからさあ、もー、音楽のことをいってるんじゃないか!」
「ありゃ、名曲です。なあ、ワラ?」
「うん、名曲です」
 ワラはニコニコとこたえる。
「そりゃあ、悪い曲じゃないけど……」
「じゃ、いいじゃねえか」
 どこか理屈がヘンだ、と慶一は考えなおしてみたが、どこがおかしいのか、よくわからないので、話題をかえることにした。
「まさか、あしたはもう、予定にない、ヘンな曲はないよね?」
 一曲目は、デイヴ・クラーク・ファイヴの〈オーヴァー・アンド・オーヴァー〉に決まっていた。
「ナイショ」
 高志がニヤニヤ笑いながらこたえた。
「ナイショです」
 と、ワラがくりかえす。
「聴いてビックリ」
「聴いてビックリです」
 慶一は投げだした。話にならない!

 二十日月曜にはじまるこの週は、「開局記念週間」として、特別プログラムが組まれた。
 毎日新しいテープをつくるなど、とうてい不可能で、高志には、はじめからそのつもりがなかった。ただ、この週の土曜の朝までは、毎日新しいテープにすることになっていた。
 二十一日火曜の朝、慶一はぐっすり眠っていて、一曲目の〈オーヴァー・アンド・オーヴァー〉の間奏になって、ようやく目覚めた。すぐに二曲目になる。
 飛びはねるようなフルートのイントロが流れる。こんどはかまえていたので、すぐにわかった。
「もー、またかよー」
 きのうとおなじく、インターフォンのスウィッチを押す。
「はい」
 高志だ。
「これは、なんという曲ですか?」
「フランス・ギャルの〈夢みるシャンソン人形〉です。フランス語だから原題はわかりませんが、すこしは関係のあるタイトルかもしれません。あなたのリクエストをお待ちしています。早くベッドをなおして、点呼に出ましょう。終わり」
 慶一は頭からベッドに突っこんで、うめき声をあげた。
「追い出しの曲」は、予定どおり、アニマルズの〈ウィーヴ・ガッタ・ゲット・アウト・オヴ・ディス・プレイス〉(〈朝日のない街〉!)だった。ワラが考えたジョークだ。
 その後も、この「二曲目の逆襲」はつづくが、慶一はもう、マージョリー・ノエルの〈そよ風にのって〉も、シェイラの〈いつも青空〉も、リトル・ペギー・マーチの〈霧の中の少女〉(日本語!)も、バリー・サドラー軍曹の〈ザ・バラッド・オヴ・グリーン・ベレー〉も、みんな無視することに決めた。
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おれたち、
ここから抜け出さないと
たとえ、そんなことなど、
できないとしても

〈ウィーヴ・ガッタ・ゲット・アウト・オヴ・ディス・プレイス〉
アニマルズ
[#改段]
 興奮と憂鬱が同時に押しよせて、一九六六年六月が終わりつつあった。
 KWTSは、心配された横槍(おもに、舎監の方面からだ)や、やっかみもなく、おどろくほど順調だった。順調ではないのは、べつなことだ。
 ほんとうに、ビートルズがやってきた!
 でも、おれたちみんな、山のなかの牢獄だ!
「開局」のいそがしさで、とりあえず棚上げになっていた不満と憂鬱が、また慶一の心を占領している。
 慶一は、ハガキで申し込んで、抽選に当たれば手に入るという切符は、はじめからあきらめていた。当たったところで、ここにいては、いけるわけがない。
 それより問題なのは、七月一日の金曜の夜に、日本テレビが公演を中継することのほうだった。うかつな話だが、慶一は、そんなことはまるで予想していなかった。
 六月二十九日の昼休み、慶一、高志、ワラ、というKWTSトリオと、柾生、山崎の五人は、校舎の前庭の日本庭園にある、紫陽花に囲まれた東屋あずまやで、丸太のベンチに寝ころがったり、ベンチに足をのせ、背板に腰掛けたり、てんでんばらばらのかっこうで、ビートルズの話をしていた。
 二十八日の明け方に通過した台風四号のせいで、いつものたまり場である、庭園の池のまえに広がる芝生の斜面は、まだ湿っていて使えなかった。
 横浜は被害が大きく、そこらじゅうで崖崩れが起きていた。このキャンパスが、グラウンドわきの土手が崩れたぐらいで、ほとんど無傷なのは、考えてみると不思議だ。寮のうらの切り立った斜面も、なんともなかった。
「どうして土曜にしないんだよ!」
「土曜なら外泊できるのになー」
 柾生もワラも不満たらたらで、この学校に入ったことを、本気で後悔しはじめていた。
「でもさ、ビートルズも、エライときに日本にきちゃったね」
 柾生がベンチの上で、かかえこんだ膝を揺すりながらいう。
 二十八日の夕方には日本に着くはずだったのに、台風のせいで半日も遅れて、きょうの夜明けまえに羽田に着いた。
「あの警官の大群はなんなの? ファンより多いじゃない」
 ワラがつまらなそうにいう。慶一は、朝食後にサロンで見たニュースの場面を思いうかべた。
「いまごろさ、東京はたいへんな騒ぎだよ」
「でもよ、あんな警備じゃあ、バカ女どもも近づけないだろうな」
 山崎は他人ひとごとなので、どうでもいい、という表情だ。ストーンズ・ファンの山崎が、この絶望に加わらないのはわかる。
 だが、慶一のひざを枕にしながら、柱に足をかけて、目をつぶっている高志までが、どうでもいい、という表情で、日向ひなたぼっこしてる猫みたいに、満足そうな顔をしているのが、慶一にはに落ちない。
「東芝がさ、きたねえんだよ。ビートルズのLP買うと切符が当たる、なんてセールやってさ。おれが買ったのは四月二十八日でさ、そんなセールやるなんて思わないもんな」
 それだけじゃない。新聞は、悪意と虚偽と侮蔑であふれかえっている。慶一は、ほんとうに頭にきていた。
「いけもしないのに、きたないもなにも、ないだろうが」
 と、高志がこたえる。
「馬鹿みたいなジジイどもが、いろいろ、わけのわかんないこといってんのも、気に入らないしさ」
 しゃべっていいときと、いけないときがある、ということすら知らない、行儀の悪い明治のジジイどもだ。ビートルズのことは忘れて、明治百年祭の心配でもしてりゃいいのに。
「どうせ、みんな、すぐに死んじまうよ」
 と、高志は笑う。
「なんだよ、冷たいじゃん。見たくないのかさ。テレビでいいからさ」
 慶一はそういって、高志の髪の毛をくしゃくしゃにした。高志の無関心ぶりが頭にくる。
「しかたないだろ。いつか、テレビじゃなくて、ほんものを見られんじゃないか。来年とか、再来年とかにさ。再来年なら、通学生になれるだろ。再来年には、ジジイどもも、みんな死んでるよ」
 高志は目を開き、髪の毛をととのえながら、慶一を見あげて、気がなさそうにこたえた。義務として寮にいなければならないのは、二年までだ。
 ジジイどもがみんな墓に入り、ロックンロールが支配する世界を想像して、慶一はすこし気分がよくなった。
 正義は勝つ。だから、ロックンロールも勝つだろう。でも、それとこれとは、話がちがう。
「あーあ。でも、いま見たいよ。来年とか、再来年じゃなくて。テレビでいいからさ」
 慶一は、あまりの失望に、東屋の柱になっている杉の皮を、思いきりムシリとった。こんな学校、入るんじゃなかった。

 その放送の当日、七月一日は、慶一にとって最悪の日となった。
 自習時間は七時から九時五〇分までで、あいだに三〇分の休憩がある。その休憩の終わりごろ、インターフォンのスピーカーから、
「滝口はいるか」という声がきこえた。
 慶一は、家から電話かな、と思いながら、スピーカーにむかってこたえた。
「はい、いまーす」
「すぐに、舎監室の藤井先生のところへ。わかったら、返事をしなさい」
「わかりました。いま、いきます」
 なにごとだ、とよってきた大森と、慶一は顔を見あわせた。
「手塚のことかな?」と、大森がいう。
 慶一も、なんとなく、そんな気がする。
「かもしれない」
 きのうから、手塚がおそろしく元気がいいのが引っかかる。部屋を見わたすが、手塚はいない。また、ビュフェでなにか食べているのだろう。
「でもよ、手塚のことなら、全員が呼び出されるか、秋本が呼び出されるはずだ。室長なんだからよ。おまえだけってことはないだろ」
「わかんない。とにかく、いってくる」
 慶一は、ものすごく不安になった。
 一階の舎監室には、おそれていたとおり、舎監だけでなく、寮長もいた。それどころか、自治委員会の委員長、副委員長までそろっていて、全員が会議テーブルを囲んで坐っている。
 これ以上に悪い状況が考えられるとしたら、このうえ、両親までそろっているという事態だけだった。どう見ても、いい話ではない。退学はともかく、停寮一週間は覚悟した。なんてこった。
 慶一が、舎監の指し示した折り畳みイスに坐ると、
「きてもらったのは、きみの部屋のことだ」
 と、きびしい顔つきで慶一の目を見て、寮長がいいわたした。
「手塚ときみたちのことなのだが、きみに代表できてもらったんだ」
「ひどいことになっているらしいな。だいたい、状況はわかっている」
 と、舎監が横からひきとった。
 これはすごくヤバい。
 舎監は、慶一が主犯と目される犯罪を、つぎからつぎへと並べたてていく。慶一は、どうしておれだけなんだよ、とは思ったが、口には出さなかった。
 いわく、洗濯ものを出させなかった(そもそも出さないんだから、実害はないはずだ)、無理やり便所掃除をやらせた(それは手塚が便器をよごして、掃除しなかったからだ)、夜食をとりあげた(夜食運びの当番のとき、手塚が階段で転んで、牛乳をだめにした罰だ。いや、みんなにあやまらずに、うるせえな、しかたねえだろ、と開きなおったことに対する罰だ。だいいち、あれは大森がいいだしたのに)、マットレスを窓から投げ捨てた(手塚にベッドをめちゃくちゃにされた奴がいたからだ)、その他もろもろ。
 もちろん、各種の「袋叩き」をはじめとする、「暴力行為」も列挙された。むこうだって、やられっぱなしというわけじゃない。
 あーあ。
 舎監が、手もとの書類を見ながら、一五分ほどかけて、犯罪の数々を読みあげ、いちいち、ほんとうか、とたずねるあいだ、慶一はほとんど、はい、以外のことばを口にしなかった。
 窓の外の紫陽花は、いまが盛りだ。花も葉も、雨でダンスを踊っている。
「どうなんだ」
「そういうことはありました」
 こうなった以上、もう、どうでもいいように思えてきた。どちらにしろ、手塚いじめに参加したわけだし、ときには、大森といっしょになって率先してやったこともある。ほかの連中がやったかどうかは関係ない。それに、じぶんが凶暴になれることに、慶一は不安を感じはじめてもいた。
 舎監は、
「彼のご両親は転校させるとおっしゃっている。ただし……」
 と、いやなところでとめ、手もとの紙束から顔をあげ、慶一を見た。
「被害者であるじぶんの子どもが転校して、加害者がそのままなのは、納得できない、そうおっしゃっている」
 ヤバい。これは停学停寮では、おさまらないかもしれない。
「まあ、藤井先生、そのことはいいでしょう。きみたちはこの事件をどう思うんだ」
 寮長は、さっきから黙りこくっている、ふたりの自治委員を見る。
 副委員長の山下が、さきに口を開いた。これは相手が悪い。放送部の部長だ。
「理由はどうでも、暴力行為はいけないと思います。それに、部屋じゅうがいっしょになって、全員で手塚君をいじめたのは、卑怯ひきょうだと思います」
 それで終わりのようだった。
 卑怯か――。あいつが、勝手に全員を敵にまわしたのに。こっちが一対一でやろうとしても、まわりが黙って見ていない。すぐに、全員が集まって、集団攻撃になってしまう。もう、これは防ぎようがない。
「ぼくは、部屋はちがいますけど、クラスがおなじなので、手塚君のことをすこし知っています」
 と、委員長の長田おさだが口をひらく。天使のように無害で、成績優秀で知られている。
「滝口君にしても、大森君にしても――」
 と、共犯格と見なされている奴の名をあげた。
「まじめだし、とくに滝口君は、成績もトップクラスです」
 まじめはともかく、中間試験の結果はそのとおりだ、と慶一は考えた。
「成績優秀だけでは、本校の理想を満たすわけではありません」
 寮長は、厳格に批判した。
「はい。滝口君は課外活動にも積極的ですし、これからも学校の発展に必要な人だと思います。手塚君は、協調精神がまったくありません。彼がこの学校にはいったのが、そもそもの原因だと思います。滝口君たちは、居室の自治に反する行為をした手塚君を罰しようとして、いきすぎたのだと思います」
 大演説だ。慶一は、「学校の発展に必要な人」のところで笑いそうになり、うつむいてかみ殺した。笑ってる場合じゃない。
「だからといって、野蛮なリンチは許しがたい」
 と、舎監が憤慨する。
「そうですね」
 おいおい、それはないだろう、最後までめんどう見ろよ、と慶一はあわてた。
「では、藤井先生、二〇四号室全員を退学にするんですか。それに一年三組でも、彼は何回か袋叩きにあっています。三組の全員も退学ですか?」
 こいつは、勉強ができるだけあって、頭がいい。
 沈黙が流れた。
 寮長先生は天井を仰いで、沈思黙考のていだ。
「だが、手塚は、滝口と大森の名前しかあげてない」
 と舎監は、あきらめきれない顔だ。
「藤井先生!」
 という寮長の強い口調に、舎監はようやくじぶんの失策に気づいた。
「とにかく、ただいま現在から、手塚に対するいやがらせは、いっさいまかりならん。わかりましたか」
 寮長は、一語一語、はっきりと強調していった。
「はい」
「では、帰ってよろしい。もういちど、あしたの午後一時に、寮長室までくること」
「はい」
 慶一は、立ちあがったとき、ズボンのイスに接していたところが、汗で重くなっているのを感じた。
 もう、ビートルズの公演の録画中継が、はじまっているはずだ。
 舎監室を出て、事務室をのぞいてみたが、テレビの画面には、なにも映っていなかった。
 こんな学校に入らなければ、手塚を殴ったり、手塚に殴られたりすることもなかっただろうし、舎監室に呼び出されることもなかっただろうし、いまごろはうちで、なんの心配もなく、ビートルズを見ていられたはずだ。
 まあ、しかたない。部屋の連中が心配しているだろうと、階段を急いで駆けあがった。

 心配しているはずの連中は、応接セットに集まってバカ笑いをしていた。まだ自習時間だっていうのに。
「藤井の野郎、なんだって?」
 胸にかかえた枕を放りあげながら、井沢という低能が笑いながらいった。
「こないだの、焼却炉のことがバレたんじゃないの」
 こんな奴は相手にしてもしかたがないので、慶一は無視して、大森に話しかけた。
「手塚は?」
「知らねえ。どっかへ逃げこんでるんだろ。手塚のことだったのかよ」
「うん。おれとおまえはヤバいみたい」
「こいつらはよー」
 と、大森はまわりの連中を見まわした。
「知らない。あした、寮長室で判決だって」
「サーイアク。おれも出頭かよ」
「たぶん、おれだけ。おまえたちのことは、なんにもいってないけど、もう、だいたいわかっているみたいだった。ただ、なんだか知らないけど、おれだけ恨まれたらしい」
「おまえさ、たまに、ひでえこというからな。で、手塚の処分は?」
「処分て、あいつは被害者だ。処分なんか、ありっこないだろ」
「なにいってんだよ。こっちが被害者だぜ。あんなブタとおなじ部屋になってよう。喧嘩両成敗じゃねえのか。あんだけやりたい放題やって、被害者はないぜ。冗談じゃねえよ」
「じぶんで寮長にいえよ」
「ちぇ、あのバカヤロ。もどってきたら、半殺しにしてやる」
「よせよ。そんなことしたら、即、退学だ。手をだすなって、いわれたところだぜ」
「なんだ、恐いのかよ。おまえがやらなくても、おれはやるよ。タレコミなんかしやがって。ここで黙ったら、あいつはまた、したい放題じゃねえか。ナメられてたまるかよ」
「ヤバいよ。やるなら、おれ抜きで、勝手にやれよ」
 こっちが退学の瀬戸際にいるっていうのに、なにいってんだ、と慶一は腹を立てた。
「やるさあ。なあー、おまえら」
 返事はなかった。
「臆病者が。きたねえ奴ばかりだ」
「ミーティングがあるから、四階へいく」
 と、慶一はきびすを返す。
「逃げるのかよ」
「あたりまえだろ。今夜なにかやったら、これに決ってんじゃないか」
 と、首に手刀をあててドアをあけた。

 高志はステレオのそばの折り畳みイスに坐って、ワラがソニーのデッキを操作するのを見ていた。
 こいつらは、「特別クラブ活動」と称して、自習時間中に、堂々とロックンロールを聴いている。「特別顧問」が、これに参加しない理由はない。
「カセットテープなら、リールをセットしなくていいのにな」と、高志。
 国産のテープが発売されるので、高志はカセット・テープレコーダーを買うといっている。
「でも、音はダメでしょ。それに、テープが細いから、つないだりとかは、めんどうになるんじゃないかな」
 と、ワラはリールをまわして、たるみを伸ばす。
「おまえ、呼ばれたんだって」
 と高志が、慶一を見ずにいった。
「だれにきいたんだよ」
「へっへ、地獄耳」
 ワラはプレイ・ボタンを押すと、鉛筆をもってテーブルのまえの折り畳みイスに腰掛けた。平部員ではかわいそうだと、高志が「技術主任兼アナウンス担当兼書記」に任命してあげたからだ。
「なに、浮かない顔してんだ。大丈夫だって、たいしたことはない。停学なんてないさ」
 といって、イスを指さし、慶一を坐らせる。
「おまえが決めるのかよ」
「カリカリすんなって」
 最初の曲は、ギターとオルガンがからむ、軽快なイントロのかわいらしい歌だった。
「これ、なんてバンドだ?」
 高志がワラにきく。ワラは、外人みたいに肩をすくめた。こいつは外人なんだ。
「〈レッド・ラバー・ボール〉ってタイトルしか、いわなかった」
「オープニング向きだな」
 イントロとおなじパターンにもどって曲が終わると、ギターの残響にかぶさって、DJの声が入ってきた。
「エプスタインがどうとかっていったぞ。どういう意味だよ」と、高志がワラを見る。
「ちょっと、もどしていい?」
 イントロダクションのところをもういちどききなおすと、ワラは、高志と慶一のほうにむきなおった。
「バンドの名前は、サークルだって。C、Y、R、K、L、E」
「つまんねえ名前」
 と高志は、ワラを非難するみたいな口調でいう。
「スペリングがちがうんだよ。ホントは、C、I、R、C、L、E。このグループはIをYに変えて、二番目のCをKにかえてるの。DJが、はっきりわかるように、Yっていってた」
「そうか、ビートルズとおなじか。それでエプスタインか?」
「ちがう、ちがう。エプスティーンが見つけて、マニジしてるんだって」
「へえ、ま、いいや。おれは一票。慶一は?」
 慶一は、音楽を聴くような気分ではなかったが、じぶんの耳は、ちゃんといまの曲を聴いていて、悪くない、と考えているのにおどろいた。
「なあ、気にすんなって。大丈夫だ。退学なんかありえない。停学だってない。おれを信じろよ」
 と、高志がまじめな顔でいう。
「ほんとうなら、いいと思うけど……いまごろさ、前座のぶんは終わって、ビートルズが出てきてるよ」
「見られないものを、なんだかんだいってもしかたないだろ。それより、どうなんだよ」
 いま聴いているのは、ワラが録音しておいたラジオの番組だ。この「プリヴュー」で、KWTSの「プレイリスト」にのせるかどうかを投票で決める。
「いいと思うよ。ちょっと、ビートがないところが、面白くないけど」
「じゃ、いいんだな」
「うん。一票」
 あすは退学をいいわたされるかもしれないのに、こんなことに、どれほどの意味があるのかと、慶一はむなしく感じた。雨の音が強くなったようだ。
「ぼくもイッピョウ」
 ワラは妙にマメな奴で、リポート用紙(レポートというと、ワラに怒られる)に定規で線を引いて、タイトル、アーティスト、その他、高志、ケイ(ワラは慶の字を憎悪している)、トム(ワラの「ほんとうの」ニックネイムだ)という欄をつくって、記録をとっている。
 だれかが「一票」というと、いった人間の欄にワラが印がつける(日本人なら、○とか△とか×とかを使うだろう。トム君は、アメリカ式のチェックマークとハイフンを使う。ちなみに、ハイフンは「積極的反対票」、つまり、「ひっでえ曲、ゲエー」ということ)。
 つまらない曲は、早送りでどんどん飛ばされた。三〇分で五五分のテープを聴かなくてはならない。
 大ヒット中のフランク・シナトラ〈ストレンジャーズ・イン・ザ・ナイト〉など、イントロだけで飛ばされた。積極的反対が満票になったくらいだから、当然だ。親父のほうのシナトラが、ナンバーワンになりそうな勢いなのには、全員がうちのめされている。「そんなの、あり?」だ。
「よし。きょうは、まあまあだ。ワラ、満票は何曲になった?」
「二曲」
 ワラはまだ、チェックシートになにか書きこんでいる。
 しばらく忘れていた不安がもどり、慶一はまた鬱に落ちこんでいく。
「慶一、元気だせよ。頭を使えって。新しい学校が問題を起こしたいと思うか。手塚の親をなだめて、部屋かえて、おまえになにか簡単な懲罰があって、ハイそれまでョ、だ」
「簡単な懲罰って?」
「知らねえよ。ウサギ跳び百回とかさ」
 高志はゲラゲラ笑いだした。つられて、慶一も笑いそうになる。
他人ひとごとだと思いやがって」
「まあ、寮長はああいう人じゃねえか。退学者なんかだしたくない。おまえらは、ちょっと派手にやりすぎただけだ」
 と高志は、すでにやめていったふたりの寮生の同室者が、いまでも平気で寮にいることを例にあげた。
「だからさ、大丈夫だって。だいいち、手塚とおまえのどっちがマトモか、わからないわけがないだろ」
「長田もそういってた」
「へえー」
 慶一は長田の演説をくりかえした。
「あいつ、見かけほどトロくはないんだな。なかなかやるじゃん」
 部屋に帰って、手塚を見たが、どうやらなにもなかったようなので、さすがの大森も思いとどまったらしいと安心した。
 掃除のあいだ、口で手塚をチクチクやる奴はいても、さすがに、だれも手は出さなかった。
 だが、夜中に目が覚めたとき、慶一は無力感で泣きだしそうになった。
 となりのベッドで、大森が手塚に馬乗りになって、片手で首を押さえつけていた。
「わからねえ野郎だな」
 鈍い音がして、手塚がうめいた。
 もう、雨音はきこえない。
「おまえは、最低のブタだ。ブタなんか殺すのは、なんでもないんだよ。殺してやろうか」
「チキショウ。殺せるもんなら殺せ!」
 また、鈍い音がする。
「大森!」
 慶一は、恐怖に襲われた。いままで、夜中にこんなことがあったためしはない。
「うるせえ、おまえはわかってない。ナメられて引っこんだら負けだ。おい、ブタ。おれは滝口みたいな甘ちゃんじゃない。やるといったら、やる」
 そういって、大森はヒップポケットに手を突っこんだ。
 冗談じゃない! 慶一は眠気が吹っ飛んだ。
 手塚の頭のうえで、ナイフの刃先が常夜灯の光を反射する。
「もういちどいうぞ。こんどナメたまねしたら、これでおまえのツラ、切りきざんでやる。タレこんだことを土下座してあやまれ。いやなら、てめえのキタネエ指を、いま切り落としてやる!」
「手塚、大森は本気だ。あやまっちゃえったら」
 ひとりだけ、まだ眠っている奴がいたが、あとはみんな眼をさまし、ベッドの上に起きあがり、成りゆきを見ている。
「大森、たのむよ。そんなものしまってくれ」
 慶一はベッドから出られなかった。
「おまえは黙ってろ。これは手塚との勝負だ。タレコミやがって」
 井沢がゆっくりとベッドを出て、ドアにむかって走りだした。
「井沢、やめろ! 秋本、あいつをとめろ、舎監のとこへいく気だ」
 ここで舎監がくるようなことになったら、絶対に助からないと、慶一は吐き気を感じた。
 扉口にいちばん近い秋本が、素早くベッドを出て、井沢のパジャマの衿を、うしろからつかんだ。
「てめえはベッドにもどってろ」
 秋本は井沢の頭をひっぱたいてから、思いきり背中を突いて、ベッドにもどらせる。
「大森、やっちゃえよ」
 秋本が面白そうにいって、じぶんのロッカーをあけ、バットをひっぱりだした。
「こいつもあるぞ」と、そのバットを見せる。
「どうしてなんだよ。手塚なんか相手にしたって、なんにも得しないじゃないか」
「滝口、ナメられたのはおまえなんだぞ!」
 秋本がバットを片手に、手塚のベッドに歩みよる。
「ナイフなんか、やめとけよ。それよりさ、ヴェランダから、逆さに吊るすほうがいいんじゃない」
 と、秋本が提案する。
 慶一は、彼らが本気ではないと信じていた。ぎりぎりまで脅しあげるのが、ふたりのいつものやり方だ。
「もうやめろってば。ナイフなんかしまえよ」
「おまえ、いっしょにやれ」
 と大森が、静かに慶一にいう。
「やだよ、ナイフなんて、やめろってば」
「意気地なしが。こんなもの、どうってこたあない。ホラッ」
 と、手塚の目のまえで大きく宙を切ってみせる。秋本がおどろいて、うしろに跳びのいた。
「やめろってば! ホントにやっちゃったら、どうすんだよ!」
 もう、慶一は恐慌をきたしていた。いつもなら、大森と秋本がやりすぎると、止めに入ったりもするが、ナイフがおそろしくて、それができない。ほかの連中もおなじだろう。なにもいわずに見ている。
「やるったら、やらなきゃだめだ。ハンパにやめたら、こいつ、またつけあがる」
 と大森が、手塚の首にかけた手に力を入れた。
「わかった、わかった。じゃあ、やれよ。やればいいじゃないか。もう、いいよ。手塚なんか、死んだほうがいい」
 慶一は緊張に耐えられなくなった。
 手塚が泣きだした。薄明りのなかで、大森が力をゆるめたのを見て、慶一は、助かった、と思った。
「よーし。わかったか」
 手塚はしゃくりあげるだけだ。
「わかったかって、きいてんだよ!」
 首を押さえた手を、そのまま左右に揺する。
「わかったよ」
「この野郎。わかりましたっていえ」
「わかりました」
「よし、ベッドから出て土下座しろ」
 手塚は泣きながら、ノロノロとベッドからはいだした。
 大森がクスクス笑いだし、
「こいつ、小便もらしやがった。みんな、手塚は小便もらしたぜ」と、静かに、おごそかにいった。
 慶一は笑う気になんか、なれなかった。じぶんが漏らしていないのが、不思議なくらいだ。
 手塚はだれからも好かれない人間だ。ほかのどこへいっても、似たようなあつかいを受けただろう。
 でも、卑屈な人間ではない。なんといわれ、なにをされようと、卑屈な態度だけはぜったいに見せなかった。いつも傲然ごうぜんとして、「うるせえ、おまえらの命令は受けない」といいかえした。
 それが、いま、小便でまえを濡らして、床にひざまずいていた。
「よし。まず、タレコミをあやまれ」
「ゴメンなさい」
「おい、ゴメンなさい、だとよ。滝口は寮長に呼び出されたんだぜ。退学になるかもしれない。それが、ゴメンなさい、か? やりなおし」
「なんていえば、いいんだよ」
「態度デカいぞ。なんといえば、いいんですか、そういえ」
「なんといえば、いいんですか」
「よし。その調子。おれのいうとおり、くりかえすんだぞ。はじめはまず、おまえのタレコミのおかげで迷惑した滝口に謝罪する。滝口、おまえ、そんなとこにいないで、出てこい。いまから、こいつに土下座させてやる」
 土下座なんて、ちっともうれしくない。慶一は、こんなひどいことが、早く終わってくれればいいと願っていた。そのために、しかたなくベッドを出て、大森のとなりに立った。
 大森は、ひとこと、ひとこと、口移しで屈辱的な謝罪のことばを教え、手塚に復唱させた。
 手塚はもう抵抗しなかった。大森は、つぎつぎと手塚の「罪」を数えあげ、そのそれぞれに対する謝罪のことばを教えた。とてつもなく長い時間がかかったように、慶一は感じていた。
「よし、まあ、こんなところか。おい、おまえら。まちがっても、今晩のことはしゃべるんじゃないぞ。タレこんだ奴は、おれがやってやる。タレコミは最低のブタがやることだ。わかったか。おい、井沢。このイヌ! おまえがいちばんアブない。今晩のことがバレたら、まず、おまえからやる」
「ちょ、ちょっと待ってよ。おれがいうわけないじゃんか。ひどいよ。あんまりだよ」
「イヌは面を見ればわかる。手塚、おまえもだぞ。わかってるな。おまえが親父に泣きついて、転校させてもらうのはかまわない。好きにしろ。だけど、それは、おまえがこの学校にむいてないからだ。ちがうか?」
「ちがいません」
「よし、手塚クンはいい奴になった。寝るとするか。消灯!」
 消灯もなにも、常夜灯しかついていない。
 慶一は、もう、なにも考えなかった。
 ひどい夜だ。ビートルズが日本にいるのに、テレビさえも見なかった罰だ。
「滝口、ちょっとこいよ」
「なんだよ」
「いいから、ちょっと話がある。出よう」
 気はすすまないが、大森の声には、さっきまでの凶暴さはなかったので、脚に力が入らないのをゴマかしながら、あとにつづいた。
 夜中に寮内を歩くときは、舎監や当直教師の注意をひかぬよう、はだしで歩くのが常道だ。慶一もはだしで、ペタペタとビニールタイルの上を歩く。
 大森は中央階段をのぼり、デコレイション・ケーキのような、屋上出入口の踊り場で立ちどまった。
 八方を囲む窓ガラスをとおして、雨は小降りになったのがわかるが、屋上がぬれているのも、またよくわかる。
 もう二時すぎで、よほどのことがないかぎり、見まわりのある時間ではない。大森は、あきらめて踊り場に坐りこみ、慶一にも、そうするようにうながした。
「おまえ、怒ってるんだろう」
「怒るもなにも……」
 中央階段ホールの、煙突のなかに無数のリードを仕込んだような、複雑な構造のせいだろう、ふたりの声には不思議なエコーがかかって、おたがいが、どこにもいないように感じられる。
「でも、あれをやらなかったら、あしたから、おれたちみんな、手塚の顔色をうかがって暮らすことになるんだぜ」
 そうかもしれない。そうではないかもしれない。
「ナメられたら終わりだ。手塚なんかにナメられて、おまえ、平気かよ」
「平気じゃないけどさ。あそこまでやらなくても、いいじゃないか」
 パジャマだけでは、すこし寒い。慶一は部屋にもどりたくなった。
「おまえはわかってない。ナメられないようにするには、とことんやらなくちゃ。おまえが意気地なしだから、いままで手加減してきたんじゃねえか。だから、あいつはタレこんだんだぞ。はじめっから、徹底的にやっておきゃあよかったんだ」
「でも、ほかにやり方はなかったのかな」
「どんな?」
「わかんない」
「おまえさ、おれがいなかったら、どうした?」
「わからない。手塚と話しあって……手塚だって、おれたちと大してちがうわけじゃないかもしれない」
「なにいってんだ。あいつは下等なブタだ。タレコミ屋だ。なあ――」
 と大森は、慶一を見据えた。
「九月には部屋替えだ。どんな奴といっしょになっても、ナメられたら終わりだ。部屋がちがったら、助けたくてもまにあわない。おまえひとりでやるんだぞ」
「おれ、ナイフなんか、イヤだよ」
「バカ。おまえみたいな奴までナイフをふりまわすようじゃ、たいへんだ。いいか、おまえがやられたら、おれがノシにいく。いちどだけはガマンして、あんまりケガしないようにしろ。いいな」
「うん。大丈夫だよ。そんなことにはならない」
 どうして、ビートルズも見ずに、こんなところにいるんだろう。
[#改ページ]



ぼくはひざまずいて祈った
それが消えてくれるようにと

〈ニードルズ・アンド・ピンズ〉
サーチャーズ
[#改段]
 翌七月二日は、寝不足と恐怖から、慶一は、なにがなんだかわからないままに午前中を終わった。
 永遠を見てから、たった二カ月しかたっていないなんて、信じられなかった。
 教室で目が合うたびに、高志はニヤニヤ笑っていた。
 いつもは、十一時半ごろに、寮からそれぞれの教室に弁当がとどけられる。だが、土曜は午後の授業がないので、寮の食堂にもどって昼食をとる。
 高志の部屋のテーブルは、入口のすぐそば、戸塚区側だ。慶一が食堂に入っていくと、
「慶一」と、高志が呼びとめた。
「なんだよ」
 高志はテーブルから立ちあがって、慶一をホールへひっぱりだした。
「しけたツラはよせ。大丈夫だ。退学はない。停学もない。ただのウサギ跳び百回だよ」
 そういって、高志は笑いながら食堂へもどっていった。

 慶一は、寮長室に入るのは、これがはじめてだった。
「そこへ坐りなさい」
 寮長は模造革の黒い応接セットを指さし、じぶんもデスクをまわって、窓側の肱かけイスにいき、腰をおろして、タバコに火をつける。
「きみは音楽が好きなのか」
 こんな話は予想していなかったので、慶一は頭のなかでタタラを踏んだ。どういう意味だ。
「はい。ロックンロールですけれど」
「昨夜、あれから、テレビをつけてみた」
「ビートルズを見たんですか?」
「もちろん。寮生の好みは、知っておかなくてはならない。わたしには、一二二人の子どもがいるんだ」
 寮長は切子ガラスの灰皿に、タバコを押しつけた。
「わたしも音楽は好きだ。スウィング・ジャズやラテンだがね」
 そういって、ニヤリと笑いながら慶一を見た。
「しかし、なんだな、あの子たちは、どうしてあんなに叫び声をあげるんだ。あれでは、音楽が聴こえないだろうに」
 慶一にはこたえようがなかった。
「まあ、見にいくんだろうが、見るにしても、あの場にいたんでは、オペラグラスでもなければ、見えないだろう。――ところで、オーディオ部はどんな調子だ。きみは部員ではないと、浅井がいっていたが」
「ええ、ブラスバンドに籍がありますから」
「ブラスバンドか……。戦争が終わって横浜へもどったとき、最初に思ったのは、管楽器というのは、こんなにいい音がするものだったのか、ということだった。きみは、ベニー・グッドマンを聴いたことがあるか」
「いいえ、名前は知っていますけど……」
「そうか、そのうち聴かせてあげよう」
 寮長は、慶一の硬さに気づいたようだ。
「今回の一件だが――」
 慶一はさらに躰を硬くした。
「暴力は最悪だ。とくに、この寮のような場所では、暴力はとめどもなく広がっていく。きみたちがやったことは、理由はどうあれ、きたないリンチだ。わかっているか」
「はい」
 昨夜のナイフ騒ぎを知ったら、なんというだろう。
「わたしは、きみに、この学校で六年間学んでほしいと思っている。あと五年半もあるのに、あんなことをくりかえしていたら、とてももたない」
 光明が見えた。
「退学じゃないんですか?」
「退学? 莫迦ばかをいうんじゃない。もう、ふたりもこの学校を去った。これ以上、へってほしくはないね」
 高志のいうとおりだ。
「あのォ――」
 と、慶一は決心がつかないままに口を開いた。
「ぼくが呼び出されたのは、手塚のことだと、みんな知っています」
 どういえば、タレこんだことにならないのか、慶一にはわからない。
「あの、また起きるような気がして……。部屋をかえるとか……」
「その件は、心配しなくてよろしい」
 すぐに部屋替えなのか。
「手塚はもどらない。あと三〇分もしたら、彼の父上がいらっしゃる。退学の手続きにね」
 そうだったのか。
「これが、きみたちのやったことの結果だ。わたしは、だれにもこの寮を去ってもらいたくない」
 寮長はうんざりしたような表情を見せた。
「手塚は、団体生活にはむかないのだろう。こういうところでは、脱落する者もでる……。月曜の夜に、今回の一件に関する反省文を提出しなさい」
 これが、ウサギ跳びか。助かった、というべきなのだろう。
「はい」
「子どもがこれだけたくさん、ひとつの場所に暮らしていると、いろいろなことがある」
 箱からまた一本、タバコを出した。
「この学校は自由な学校だ。とくに寮では、きみたちを規則で縛るようなことはしたくない。それは、わたしの理想に反する。だが、きみたちには、まだわからないかもしれないが、自由というのはじつにもろいものだ。暴力にかかったら、まったく手も足もでない」
 寮長はひと休みして、指のあいだで、タバコを転がした。
「この学校は、わたしの理想だ。その理想を、一部のものの暴力でつぶさせるわけにはいかない。こんなことがつづくなら、いまでさえ多すぎる規則を、さらに増やさなければならないことになる」
 だれもが、寮長のことを「寮長」以外の名前では呼ばないが、この人はほんとうは理事長と呼ぶべき人で、その気になれば、校長の首だって斬ることができる。
 寮長が、校長ではなく、寮長になることを選んだのには、いくつかの理由があるが、なによりも、この人は子どもたちと暮らすことを好んだ。
 しばらくタバコをくゆらし、寮長は思いなおしたかのように、
「わたしはいろいろなことを試す子どもが好きだ。この学校はそのためにある。きみが、この件で妙におとなしくなるのは困る。オーディオ部は、これからも活撥に活動してほしい。もっとも、もうすこし、わたしらにもわかる音楽をかけてくれると、いいんだがな」
「先生も起床放送を聴いているんですか」
 寮長の宿舎は、寮とはべつに、野球場のむこうの丘の上にある。
「わたしは寮長だよ」
 と、いたずらっぽく笑った。
「よろしい。月曜の夕食後、わたしのところにくるように」

 慶一は高志を探した。
 ヴェランダから四〇七をのぞくと、高志がテープを聴いているのが見えた。ワラはいない。
 ジャン&ディーンの〈ポプシクル〉が流れてくる。バーババーバというスキャットが、慶一を馬鹿にしてるかのように襲いかかった。
「いよう、いよう、死刑囚のお帰り」
 折り畳みイスに坐った高志が、頭のうしろで両手を組んだまま、慶一を見ていう。
「バカヤロー」
 といって、慶一は開け放した戸口から部室に入った。
「ウサギ跳びだったろ。それとも、サロンの便所掃除か」
「ワラは?」
「いまごろ、おばあちゃんのオッパイをしゃぶってんじゃねえのか」
 躰から力が抜けて、慶一は壁際のソファに横になった。
「なんだ、なんだ、やっぱ死刑なのか」
「ううん。ちがう」
「じゃ、ウサギ跳びか」
「バーカ、ちがうよ。月曜までに反省文」
「なーんで、楽勝じゃん」
 なんだかわからないが、不意に涙があふれてくるのを慶一は感じた。
「どうしたんだ。反省文だけじゃないのか?」
 高志は立ちあがって、ソファのほうに歩みよった。
 慶一は首をふる。
「じゃ、いいじゃないか」
 そういいながら、高志はソファの端に腰をおろした。
「どうしたんだよ。それで終わりだ。作文書いておしまいだ」
 曲が〈ハンキー・パンキー〉にかわった。
「ちがうよ。そういうことじゃない」
「どうしたんだ」
「恐かった」
「寮長か?」
「ちがうよ」
 たたみかけるような高志の話し方が、慶一をいらだたせる。
「じゃ、なんだよ」
「いえない。いえないよ」
 高志はしばらく黙って、慶一の背中をさすっていた。
「大森だな」
 慶一はこたえられない。
「大森のことだろう。心配するな。あいつがじぶんで話したんだ。きょう、学校できいた。てめえで吹きまくってんだ。なあ、大森のことだろう」
 慶一はうなずいた。高志は慶一を抱き起こし、その頭をじぶんの胸にかかえこむ。
「心配するな。あいつはイキがってるだけだ。ナイフったって、肥後のかみじゃねえか。それに、あいつはおまえにはやらない、心配するな」
 そうじゃない。やられると思って恐くなったわけではなかった。慶一には、説明のしようがなかった。
 あんなふうに、人間が他の人間を支配するのが恐ろしかった。それをことばにできない。ただ、涙がいっそうひどくなっていく。気がつくと、慶一は高志の胸に顔を押しつけて、声をだして泣いていた。
「大丈夫だ。大丈夫だったら」
 と、高志は慶一の頭を抱いて、背中をさする。
 寝不足の頭には、高志のことばが呪文のように響いて、やがて涙がとまり、慶一は眠りに落ちそうになった。曲が、昨夜問題になった、サークルの〈レッド・ラバー・ボール〉になる。
 覚醒と夢の境界をまたぎかけたとき、慶一は、じぶんの耳に高志の唇がふれたのを感じた。
「なにすんだよ」
 慶一は跳び起きた。
「冗談だよ。坐れってば」
「いやだよ」
「いいかげんにしろ」
 慶一も、ムキになったことが恥ずかしくなり、高志からすこし離れてソファに坐った。いくつか、妙なウワサをきいたことが、慶一を神経質にさせていた。
 高志は立ちあがって、窓際へいき、外を見た。高志も恥ずかしいのだろう。慶一は、大騒ぎしたことをあやまりたくなった。
「おまえは、子どもだ」
「うるさいな」
「おまえ、マスしないのか」
 すぐに返事ができなかったのは、白状したも同然だった。高志がなにか、しつこくきくのじゃないかと、慶一は身がまえたが、スピーカーからの声が救ってくれた。
「三〇四号室の浅井君、事務室に連絡してください」
 という全館放送が流れた。
 高志はデッキを止めて、ドアのほうにいき、インターフォンの呼出しボタンを押した。
「はい」と、事務室からの無愛想な応答。
「浅井です」
「お兄さんが玄関にきていらっしゃる」
「すぐいきます」
 とこたえて、高志は慶一をふりかえった。
「慶一、すぐ支度しろ」
 といいながら、デッキとステレオの電源を切る。
「なんだよ」
「下に兄貴の車がきてる。いっしょに帰ろう」
「だって、方向がちがうよ」
「おまえもいっしょに横浜へいくんだよ。うるさい、とにかく、こいよ」
「メチャクチャじゃない。どういうことだよ」
「今月から部費が出る。きょう、学校で一万円うけとった。わかっただろ」
「すごい、じゃ、買いにいくんだ!」
「だから、早く支度しろ!」
「でも、うちに、夕方には帰るっていっちゃったよ」
「アホ、電話しろ」
「『ビート・ポップス』見たいよ」
 そろそろ、はじまる時間だ。
「来週見ろよ」
 もう、高志はドアを開いて、半身で慶一をニラんでいる。
「ノロマ、哲夫兄さんは短気なんだ。急げ」
 出かかったところで、もういちどふりかえった。
「それから、私服を忘れるな。制服なんかで街ィ歩くのは、ゴメンだからな」
 夏服は、だれも見ていないところでさえ着たくないような、最低のデザインだ。ブレザーではなく、こちらを見せられていたら、絶対にここにはこなかっただろう。
 慶一は二階に飛んで帰り、マドラスチェックのボタンダウンのシャツと、淡いブルーのコットンパンツ、そして、チェックのベルトをバッグに突っこんだ。
 夏服のズボンを穿き、上着のボタンをしめているところへ、高志が飛びこんできた。
「クツだ、クツだ。ちゃんともったか」
 制服用の黒い革靴に、コットンパンツはまずい。慶一はあわてて、いま閉めたロッカーの鍵をあけ、VANの白いスニーカーをひっぱりだした。
「よーし、急げ。電話はあとにしろ。横浜からかければいい」
 階段をおりながら、高志が慶一の袖をおさえた。
「さっきのことは、だれにもいうな」
「いわないよ」
 と、慶一はふてくされた。
「そうじゃない、おまえのためだ。おれは平気だ」
「うん。了解」
「怒ってるか」
「怒ってないよ。でも、どうして横浜へいくことを、いっておいてくれなかったんだよ」
「きのうの夜、いおうと思ったのに、おまえ、最低のツラしてたじゃないか。さあ、全力疾走」
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そこは灯もずっと華やかで
心配ごとも気がかりも、みんな忘れられる
だから、でかけよう
ダウンタウンにいれば、すべてが素晴らしい
ほかに、こんな場所など
あるわけがない
あらゆることがあなたを待っている

〈ダウンタウン〉
ペトゥラ・クラーク
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 ふたりは、ピカデリーのまえで車からおろしてもらった。『メリー・ポピンズ』の予告が出ている。
「こんど、いっしょに、ここにこよう。親父のところにタダ券がくるから」
 と、高志は劇場を指さしながら、めずらしそうに周囲を見まわしている慶一に声をかけた。
 劇場のすぐそばで信号待ちをする。
 いい天気だ。昨夜の雨も、すでにあとかたもない。
 ふたりとも、車のなかで私服に着替え、高志は制服を車においてきたが、慶一は、制服の上下と黒い革靴をバッグに突っこんでもっている。
「レコード屋はどっち?」
「これをわたって、まっすぐいったところだ」
「ねえ、ここは伊勢佐木町でしょ?」
「そうだよ。見りゃ、わかるだろうが」
 高志は、ばかばかしそうに、横断歩道のむこうに見える「ISEZAKI CHO」と書かれた、骨組だけの塔のようなものを、アゴでしゃくって示した。
「じゃ、不二家はこっち?」
 と、背にした方向をふりかえって指さす。慶一は、何回かこの街にきたことがあるが、方向がよくわからない。
「ちがうよ、こっちだよ」
 と高志は、両手をポケットに入れたまま、慶一が指さしたのとは反対になる、正面をアゴでしゃくった。
「じゃ、平和球場はこっちだ」
 と、慶一は右を指さす。
「もォ、ちがうよ。いいじゃねえか、そんなこと。田舎モンだと思われるぞ」
 慶一は、取っ手の下に派手なストライプが入った、じぶんのデニムのバッグを見おろした。
 信号が青になった。
 ふたりは飛び跳ねるように、先頭をきって横断歩道をわたる。
 そのまま伊勢佐木町の通りに走りこもうとした慶一は、高志に左腕をつかまれた。
「こっちだ」
「どこいくんだよ」
「いいから」
 高志は、信号のまえの角店に入っていく。マーケットのように、両側に店があって、通路になったところを抜けると階段があり、そこをのぼる。
 二階には本屋があった。日本語の本はない。すべて洋書だ。
 慶一は足をとめた。巨大な胸をした、赤毛の女の写真を表紙にした、「カウ・ガールズ」というタイトルの雑誌が、扇風機の風にめくれそうになりながら、棚に飾られている。
 高志に腕をひっぱられたとき、慶一はじぶんが、表紙からはみ出しそうになった、とても人間のものには思えない胸を見つめていたのに気がついた。
 高志は慶一をひっぱって、反対側の棚のまえに立たせた。
 こっちの棚にある雑誌の表紙では、赤毛やホルスタインではなく、服を着たままのブロンド女が、カメラをあざけるように見ていたり、B-52が爆弾を落としていたりする。
 高志は、表紙にハーマンズ・ハーミッツの写真を飾った雑誌をとりあげた。
「ガキ向けだけど、これは写真が多いからな」
 そういって、高志はとなりにいる慶一にも見えるように、ページをめくってみせる。
「これ、このヤング・ラスカルズって、ほら、こないだナンバーワンになった曲のさ……」
 高志は、子どものような服を着た大人たちの写真があるページを、慶一のほうに傾けてみせる。
「ああ、〈グッド・ラヴ〉?」
「ちがう、〈グッド・ラヴィン〉だ。ここに書いてある」
 高志は、“The Beatles Monthly” という、薄くて小さい雑誌をとりあげて、カウンターの小太りのおばさんに差しだした。
 慶一はまわりを見わたした。回転ラックには、裸の女のイラストを表紙にした、青い地の新書版の本がならんでいる。
「おい、いくぞ」
 と、雑誌を受けとった高志が、ひとりで出ていく。
「なんだよ、もうちょっと見ようよ」
 慶一は、階段のところで不満そうにいった。
「いいから。おまえ、家に電話すんだろ」
 そこからすこし歩くと、一階をレコード売り場にした、大きな楽器屋がある。きょうのほんとうの目的はここだった。高志は、通りの赤電話を指さし、おれはレコードを見てる、といった。
 慶一が電話を終わり、二階まで吹抜けになった、天井の高いレコード屋に入っていくと、高志はすでに、二枚のシングルを手にしていた。
 ママズ&パパズの〈マンデイ・マンデイ〉と、スペンサー・デイヴィス・グループの〈キープ・オン・ラニング〉だ。
「これ、おまえのぶん」
 といって、高志は〈キープ・オン・ラニング〉を慶一にわたした。これは、ラジオで聴いて、すごいすごいと大騒ぎした曲だ。
「おまえ、もう一枚、好きなのを選んでいい。きょうは金をのこしたいから、それでガマンしろ」
「なんで、お金とっとくの」
「いいことがあるんだ」
 慶一はシングルの棚を素早く見ていき、結局、ホリーズの〈アイム・アライヴ〉を選んだ。
 高志が見ている列のわきには、ジョニー・リヴァーズのLPと、マインドベンダーズの〈グルーヴィー・カインド・オヴ・ラヴ〉、シェールの〈バン・バン〉がおいてある。
「シェールなんか買うの?」
「わるいかよ」
「わるくはないけどさ、へんなメロディー。中近東みたい」
 慶一は、ヤードバーズの〈ハート・フル・オヴ・ソウル〉といい、これといい、ビートルズといい、このところ中近東ばかりだ、と考えた。
「これはさ、歌詞がいいんだ」
「わかるのー?」
「わかりますよ。『ミュージック・ライフ』に大意がのってたじゃねえか」
 高志は小さく笑った。
「なーんだ」
 中間試験の英語は、慶一は九二点だったが、高志は九五点をとって、学年で二番だった。三点の差に、慶一は大きなコンプレクスを感じている。
 それにしても、ワラの英語の成績がじぶんより悪いのが、慶一にはよくわからない。
「これくらいにしておくか」
 高志は、慶一の二枚もいっしょに、カウンターにもっていく。
 棚を見つづけている慶一のところにもどると、高志はシングルの袋を手わたした。
「おまえの二枚。家に帰ったら聴けよ。あした、忘れずにもってくるんだぞ。KWTSの備品だからな」
 高志は、LPの袋をわきの下にはさみ、領収書を大切そうにサイフにしまった。
 冷房のきいたレコード屋から出ると、外はムッとする。
「腹へったな」
 と、ひさしの隙間から飛びこんでくる陽射しに、高志は目を細めた。
「うん、でも、もう帰らないと」
「なにいってんだよ。まだ、真っ昼間じゃないか」
「もう、四時半だよ。晩ご飯までには帰らなきゃ」
「大丈夫だ。一時間あれば帰れる」
 高志はさっさと、入ってきたのとは反対の方向に歩きだす。しかたなく、慶一はそれを追った。
 せまい道路をはさんだ、反対側の大きな本屋のまえで、中学生らしい女の子がふたり、なにかいいあっている。といっても、ケンカしているわけではなさそうだ。
 慶一はそのひとり、花柄のプリントのワンピースを着た子の、頭のうしろでたばねた、長い、つやのある、豊かな髪の毛に見ほれた。
 横顔を見せていたその子が、慶一のほうに正面をむけた。
 かわいい。『ハニーにおまかせ』のハニー・ウェストは、中学生のころは、こんなじゃなかったのだろうか。かりに、そんなことができるとしての話だが、この子を二五歳にして、色情狂にしたら、ハニー・ウェストになるんじゃないか、という気がする。
 その女の子が、こちらを見て、おどろいたような顔をした。すぐに、その表情がほほえみに変わり、手をふったので、慶一は仰天した。
「お兄さん」
 と呼びかける幼いハニーちゃんに、慶一は思わず返事をしそうになる。
「おう、なにやってんだ」
 そういって、いきなり高志が立ちどまったので、わき見をしていた慶一は、あやうく、ぶつかりそうになった。高志の返事におどろいて、そちらを見なかったら、たぶん、モロにぶつかっていただろう。
「高志の妹?」
「あれが弟に見えるかよ」
 高志は、車がこないのを確認して、慶一を反対側の妹のところへひっぱっていく。
「おまえら、なにやってんだ」
 ふたりの女の子を等分に見て、高志がいった。
「西口にいこうっていうのに、レイ子が帰るっていうの。この子、つきあい悪いのよ、高志さん」
 と、もうひとりの髪をショートカットにした子が、わきからこたえた。短い髪に合わせたのか、男物のような、チェックのボタンダウンのシャツを着ている。
 慶一は高志に、「レイ子って名前なんだね」といいそうになり、思いとどまった。
「そうか、もう、遅くなるから、西口はやめとけ。それより、おまえら、腹へってないか」
「へってる、へってる。おごって」
 と、またショートカットが返事した。
「トモ子、おまえ、いまにブクブクに太るぞ」
 トモ子は、イーだ、と鼻をクシャクシャにし、長いひものついた、巾着きんちゃくの親玉のようなバッグをふりまわし、高志を一撃した。
「お兄さん、うちによってきたの?」
 と、レイ子が高志の私服姿を見とがめる。
「まあな。レイ子、こいつは――」
 と、慶一の袖をつまんだが、レイ子は、
「あ、わかったわ。いわないで、あてるから。――慶一さんでしょう?」
 と、ほほえみかけた。
 レイ子に名前をいわれたので、慶一はおどろきのあまり、紹介されたら披露しようと思っていた、とっておきの微笑を引っこめた。
「あたり」
「いつも、兄からお話をうかがっています。兄がたいへんお世話になっております」
 といって、おとなのように頭を下げる。
 おそろしく大人びた挨拶をされたので、慶一は、いや、とか、そんな、とか、なにか不明瞭な、しり切れとんぼのことばを口のなかで転がした。
 なんて、きれいな髪なんだろう。近くで見ると、ハニー・ウェストには似てない。どちらかといえば、髪を黒く染めたパティ・ボイドという感じだ。
「こっちはトモ子だ。しようのねえ跳ねっ返りだ」
 高志が、もうひとりを紹介する。
 トモ子は、慶一にぺこりと頭をさげてから、高志にむかって舌を出し、またバッグをふりまわしたが、こんどは高志もこころえていて、ひじでブロックし、バーカ、と笑う。
「よし、ハンバーガー食いにいこう」
 四人は伊勢佐木町通りを出て、堀割にかかった橋をわたった。国電のガードをくぐり抜けると、ファサードが丸みをおびた、異常に縦長の濃灰色のビルがある。
 それを見て、慶一は、ここにはきたことがある、と思った。どことなく鉄人28号の顔のようなこのビルのたたずまいと、「帝国秘密探偵社」という名前は、印象にのこる。
 さらに、架線をはりめぐらせた広い道をわたった角にある、赤白の浮き輪やロープを飾った、カウンターだけの店に、高志は三人をみちびいて入った。
 奥から、慶一、高志、トモ子、レイ子の順に留まり木に腰を落ちつけると、
「みんな、バーガーでいいな」
 と、高志が宣言した。
「あたし、チーズバーガーも。もちろん、バーガーもだけど。それにストロベリーシェイク!」
 と、トモ子がいう。
「わたしは、ハンバーガーをひとつ。それと、冷たいコーヒー」
 レイ子が、ひとつといったことに、慶一は安心した。
「おまえは?」
 高志は、壁に張られたメニューを、めずらしそうにながめている慶一をうながした。
 じっさい、慶一は、こんな店に入ったことがなかった。「サブマリンサンド」とか、「チーズバーガー」とか、「ペストリー」とか、「ワッフル」とか、知らない食べ物ばかりだ。
「ぼくもひとつでいい。飲み物は……コーラかな」
「チョコレートシェイクにしろよ」
 と、高志が押しつける。
 慶一は、いったい、それはどういうものなんだろうと思ったが、いいよ、それで、と返事をし、店内をさまよわせていた目を、外の広い交差点にむけた。ここも見覚えがある。
「高志さんとおなじ学校なんですかぁ」
 というトモ子の質問が、じぶんにむけられたことに気づいた慶一は、高志のむこうに坐ったトモ子に顔をむけ、うん、とこたえながら、視線をすこしそらしたとたん、そのむこうのレイ子と目が合ってしまった。
「学校、どんなですか。あたしも、あそこに入ろうかなって、思ってるんですけど」
 というトモ子のことばで、慶一はレイ子から目をそらした。
「まだ、来年から女子を入れるって、決まったわけじゃない。だいたい、おまえはウルサイから、こなくていい」
 と、高志が口をはさんだ。ということは、ふたりとも六年生か、と慶一は納得した。
「ヘーンだ。高志さんと話してんじゃないもーん」
 トモ子は、慶一の名前を忘れたようだ。慶一さんと話してんだもーん、とつづけたかったらしい。
 よく見ると、レイ子は、ハニー・ウェストなんかにはまるで似てない。唇の右下にある小さなほくろが、そんな印象をあたえただけだ。この子は、大人びているけど、清潔だ。
 慶一は、レイ子をじぶんの理解できる範囲に収めようと、頭のなかで「美人名鑑」をめくった。
 フランス・ギャル、芦川いづみ、シェリー・フェブレー(ワラの発音だとシェリー・ファーベアズだけど、そんな名前で〈ジョニー・エンジェル〉を歌っているすがたなんて、どう考えても想像できない)、パティ・デューク、浅丘ルリ子、シルヴィー・ヴァルタン、マリー・ラフォレ……。どうも、ちがう。
 慶一の頭に、さっきから気になっていたことを探りだす手順がひらめいた。
「トモ子ちゃんて、どういう字を書くの?」
 ミキサーがうなりをたてるので、慶一は大声をださなくてはならなかった。
 こいつは、ちゃん、なんて代物じゃないよ、という高志を無視して、トモ子は、
「知ってる子って、書くのよ」
 と、にこやかに慶一を見る。
 なんも知らねえクセして、という高志のわき腹を、知子がヒジでえぐった。
 慶一がほんとうにききたかったのは、レイ子の字だった。これで、自然にレイ子に尋ねられる。
「ぼくは、慶応の慶に、数字の一で、けいいち。レイ子さんは? どういう字?」
 ミキサーが止まり、大声でいった「レイ子さん」が宙に浮いてしまい、慶一はあわてた。
「おい、知子、きいたかよ。おまえは “ちゃん” なのに、レイ子は “さん” だってよ。ナメられたぞ」
 と、高志がニヤニヤしながら、知子にいう。
「いいんだよ。なれてるもん。レイ子といるとさ、いつも差がつくんだってば」
 慶一は、大失策に舌を噛みそうになった。
「あの――」と、レイ子はことばに詰まる。
「命令の令だよ。ほかにいいようがないのに、こいつは命令の令っていうの、いやがんだよ」
 と、高志がかわりにこたえる。
 じぶんがスペードのエースを握っているのに気づき、失策をとりもどせそうだと、慶一はうれしくなった。
「そんなことないよ。令嬢があるじゃない」
 知子が、キャッハッハと素っ頓狂な声で笑った。
 令子が真っ赤になる。
「それはいっちゃいけないの。まえにも、こいつに笑われたんだとよ」
 と、高志が知子の二の腕をつついた。
 また、ミキサーがまわりだした。
「だってえ、じぶんで令嬢なんていうからさあ」
 と、知子がまた笑う。
 一二塁間突破をねらったヒットエンドランは、ライナーになって、ジャンプした二塁手にとられ、飛び出した一塁走者も刺されて、一瞬にしてチェンジになってしまった。
 全員のまえに、つぎつぎと飲み物がおかれていき、慶一は救われたような気になった。
 そのチョコレートシェイクという飲み物を、白地に赤のダンダラがついたストローですこし吸いあげた慶一は、困惑を忘れた。
 これは、うまい。高志が、これにしろというわけだ。
 つづいて、ハンバーガーがおかれていく。
 チーズバーガーというのは、どういうものかと、慶一は知子の皿を見た。ハンバーグの上にチーズがのっている。それで、チーズバーガーか。なーんだ。
〈アイ・ゲット・アラウンド〉を歌いながら、高志はハンバーグの上に、トマトとたまねぎの厚いスライスをのせ、カウンターにおかれた真っ赤なチューブをとってしぼった。
 うれしそうだ。こういうときは、さすがの高志も年相応に見える。
 そのチューブを高志が黙ってわたし、慶一はトマトとオニオンのスライスをのせ、ケチャップをかけた。
 高志は、こんどは黄色いチューブをしぼった。マスタードを慶一にわたそうとして、そのバンズが閉じられているのを見た高志は、
「おまえ、マスタードつけろよ。抜きはガキだぞ。いつもつけないんだからな」と、とがめた。
 慶一は、いいんだよ、といって、その厚いハンバーガーにかぶりついた。
 令子は、ものすごく真剣な表情で、バーガーをふたつに割っている。その指が細く、すっと伸びているのに、慶一は気づいた。
 令子に見とれていた慶一は、突然頭のなかで、令子の指と、バーガーの味が、スウィッチを切り換えたように入れ替わったので、むせそうになった。
 このハンバーガーは、とんでもない!
「これ、うまい」
 慶一は、小さな声でいった。
「気に入ったか」
「うん」
 あっ、高志がわかりきったことを質問した、と思ったが、なにもいわずに咀嚼そしゃくをつづけた。
「じゃ、二、三個もって帰れ」
 と、慶一の返事もきかずに、
「すいません。バーガーを四つ、テイクアウトにしてください。マスタード抜きで」
 と、レンジのまえに立っている女の子にいった。
 カラシ抜きで食べたことを、慶一は後悔した。
「いいよ、いらないよ」
 そういいながらも、慶一は「テイクアウト」ということばを記憶しようと、頭のなかで転がす。
「いいから。もう、たのんじゃったよ」
 慶一は、また十字路を見た。
「おまえ、さっきから、なに外ばっか見てんだよ」
「考えてたんだよ」
「なにを」
「この道をさあ――」
 と、慶一は左手にバーガーをもち、右手で外の通りをさした。
「この道をあっちにいくと、球場じゃないの?」
「バーカ」
「ちがった?」
「あってるさ。なんだっていうんだ。地図でもつくる気かよ」
 たしかに、その道のつきあたりには、かつてのゲーリッグ球場、いまの平和球場がある。
 知子が、あした、午後から西口にいこうと、令子に話しかけている。
 もち帰りのハンバーガーが四つ入った、白い紙袋が出てきて、高志がそれを受けとり、全員のぶんの勘定を払ってしまう。
「よし、じゃ、おまえらも慶一を送るのにつきあえ」
 高志が立ちあがりながら、知子と令子にいう。
 慶一は、夕食までに帰らなくちゃ、などといったことを後悔した。
「令子、慶一は荷物が多いから、おまえ、これ、駅までもってってあげな」
 と、高志はバーガーの袋を、立ちあがった令子にわたす。
 令子は、三つにたたんだ口のところを右手でもち、左手を袋の底にそえて、たいせつそうにかかえて、出口にむかった。
 球場のほうにむかう横断歩道は、信号が赤になっていて、さきにいった令子と知子が立ちどまる。
 外にあるウィンドウを見て、慶一は納得した。サブマリンサンドというのは、大魔神のホットドッグのようなものだ。こんなの、だれが食べるんだろう。
「おい、令子、知子、ちょっと待った」
 といって、高志は左側に頭を倒して、こっちへいこうと、馬車道ばしゃみち通りのほうを示す。
「慶一、あと五分ぐらい、いいだろう」
「うん」
 その方向には、『スパイがいっぱい』という映画の看板が見えている。さっき、店に入るときにも、それは気になっていた。
 高志はどんどん、そちらへ足を運んでいく。
 ふりかえってみると、令子たちも歩きだしたので、慶一もそうした。
「映画なんか見る時間、ないよ」
 と、慶一は高志の背中に声をかけた。
「五分でどうやって見るんだよ」
 高志はふりかえらずにいう。
 映画館のわきで立ちどまった高志が、おい、といってポスターを指さした。
 それは、「近日上映」という細長い紙が貼りつけてある、ビートルズの四人の背中に、残像のようなものがついているポスターだった。そのとなりには、黒ずくめの四人が、真っ白な背景のなかで、てんでに手をひろげているポスターもある。
「今月の二十六日からだね」
 高志は苦笑した。見りゃあ、わかる、といいたいのだろう。
「おまえ、もういちど見ないか」
「うん。いいよ」
 武道館のささやかな埋めあわせだ。
「あたしも!」
 と背中で、知子の声がする。知子は令子に、あんたもでしょう、といっている。
 慶一がふりかえると、令子は知子にうなずいていた。
 高志は、二十六日が火曜で、水、木、などとつぶやいている。
「じゃ、いちおう、二十八日の木曜の朝いちばんにしよう。オーケイ?」
 知子だけが、元気よく、わーい、やったあ、と返事する。
 そこから関内かんない駅までのわずかな時間、慶一は令子と肩をならべ、ぎこちない、とぎれとぎれの会話を交わした。
「学校は?」「六年生?」、「ええ」といった、高志なら、「無意味」と一蹴するはずの会話をだ。
 改札口で、慶一は困惑した。左手にバッグ、右手にレコードをもって、令子がわたそうとするバーガーの袋を見つめた。
「レコードをバッグに入れろ」
 高志は、うんざりした顔だ。
「だって、クツが入ってんだよ」
「大丈夫だって、割れないよ」
 慶一には、靴といっしょにレコードを入れてはいけない、立派な理由があった。そんなことをしたら、レコードに失礼じゃないか!
 ほかに方法がないので、あきらめて、慶一はバッグを開いた。できるだけクツとレコードが離れるよう、ごそごそやりながら、みっともなさに、顔から火の出るような思いを味わった。
「いいな、二番線に乗れば、どの電車も横浜にいくから、わかったな、大丈夫だな」
「わかったよ。ガキじゃあるまいし」
「反対側の電車に乗ったら、磯子いそごが終点だ。引きかえせばいいんだからな」
「大丈夫、磯子なんか、いかないってば」
 いくわけがない。階段が目のまえに見えているっていうのに、どうやってまちがえろっていうんだ。
 女の子ふたりがクスクス笑って、高志のうしろから見ているので、慶一はすこし頭にきた。
「それ、温めなくてもうまいけど、オーヴントースターかなんかあるなら、ちょっと温めろ。今晩中に食べるんだぞ」
「うん」
「じゃあな。知らないおじさんに、ビートルズを見せにつれてってやる、なんていわれても、ひょこひょこついてくんじゃないぞ。もう、まにあいっこないんだからな」
「わかってるってば、そんなバカじゃないよ」
 慶一は忘れていた。これから、日本で最後のステージに立つはずだ。あしたはフィリピンにむけてたつ。
「ねえ、あした、羽田にいかない?」
「ダメだ。うちの用がある。それに、空港へいったって、豆粒が手ェふってんのが見えるだけだろうし、オマワリと女どもがうるさいだけだ。おまえ、ひとりでいったりするなよ」
 慶一はあきらめた。今回は縁がなかった。来年か、再来年には、みんなで見にいこう。ハガキをたくさん出せば、きっと当たるだろう。
 帰宅を急ぐサラリーマンが、慶一に突き当たった。それをしおに慶一は、じゃあ、と手をふった。
 階段を昇りきって、ホームに立つと、そこへ電車が入ってきた。
 左手にレコードの入ったバッグ、右手にハンバーガーをもっているので、混んでいたらどうしよう、と思ったが、幸い、空いてはいないものの、押しつぶされるほどには混んでいなかった。
 慶一はドア際に立って、走りだした電車から、一瞬だけ見える下の通りに注意した。だが、三人のすがたは、どこにも見えなかった。
 ハンバーガー屋を出たときには、まだ昼間の感じだったが、もう、太陽がビルのかげに隠れる寸前で、西側にいる慶一を、正面からオレンジ色に染めあげる。
 舎監室に呼ばれたのがきのうの夜だなんて、信じられない気がした。きのうからきょうにかけて、いろいろなことが起こりすぎた。ものすごく長い二十四時間だった。
 ビートルズはどうしてるかな、と考えたとたん、たいへんなことに気づいた。
 いまこうして電車に乗っているということは、きょうの切符をもっていれば、見にいけたんだ!
 はじめからあきらめたのが、まちがいだった。こんど来日するときは、なにがなんでも申し込まなくちゃ。
 もう、昼までの憂鬱は吹き飛んでいた。
 バッグには二枚のレコードが入っているし、いままで食べたこともないすごいハンバーガーを、四つももっているし、あんなかわいい子とも友だちになったし、来年か再来年には、ビートルズも見られるだろう。反省文を書くのも、もう、それほど苦には思えない。
 夏の夕方、高架線路の湾曲に沿ってながめるこの街は、ほんとうにきれいだ。
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きょうは朝から気分がいい
ちょっと特別なことを
考えているんだ

〈アイム・イントゥ・サムシング・グッド〉
ハーマンズ・ハーミッツ
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 正直いって、定員よりひとりすくない部屋というのは、ただでさえ住みやすいし、いなくなったのが手塚なのだから、それはなおさらのことだ。慶一は、それをすなおに認めた。
 最初のうちは、うしろめたい気持ちもあった。でも、三日もしないうちに、全員の表情がほころびてきた。
 ほんとうは、みんな、いい連中なんだ。ただし、井沢だけはべつだが。いまになれば、手塚のために、どれほどみんなが、けわしい表情で暮らしていたかがわかる。
 二〇四にはじめておとずれた、そうした穏やかな空気と緊密な連帯は、慶一の期末試験の成績にまでは、いい影響をあたえてくれなかった。
 成績はどうあれ、試験のあとというのは、中学生にとっては、天国のイメージにもっとも近い。
 夏休みまえに成績表をわたすのは、あたりまえだ。中間試験とちがって、先生は採点でムチャクチャにいそがしいから、高志のいうように「生徒の相手なんかしてられない」ことになる。
 二日のあいだ、じつに楽な日をすごした。
 初日の午前中は、授業のかわりに、セミプロのフォーク・グループが呼ばれ、合唱の練習をした。合唱の練習といっても、べつにどこかで発表するわけではなく、ただの暇つぶしに、どうやら音楽が好きらしい寮長が、歌ぐらい、うたえたほうがいいだろう、というので、招いただけだ。〈バラが咲いた〉なんて、ばからしい歌だが、慶一は気にしなかった。
 午後はプールで泳いだり、部室でレコードを聴いたりしてすごした。
 夕食後には、サロンで「演芸会」が開かれたが、これは、すくなくとも慶一にとってはあまり楽しくなかった。部屋のみんなで、シャボン玉ホリデー風のコントをやったが、ぜんぜんウケなかったのだ。
 翌日は、階段教室で映画鑑賞。窓に暗幕をかけるので、おそろしく暑いのがまいるけれど、これだって授業よりは、はるかにマシ。なにしろ、居眠りしても、教師が怒らない。
 出し物は、『切腹』というとんでもない映画で、竹光たけみつで腹を切るシーンを見ていて、慶一は気分が悪くなった。
 このプログラムを組んだ、映画好きの数学教師のおかげで、これからもしばしば、妙な映画を見せられることになるだろう。
 この日の午後もひと泳ぎし、三時からは音楽室でブラスバンドの練習だった。
 慶一は、ちょっとした計画を進めていた。これは、高志にも、ほかのみんなにも相談していない。
 どうしても必要なので、コック長には話したが、ぜったいにいっちゃダメだ、と口止めしておいた。

 打楽器の練習にも、スポーツとおなじく、準備体操と整理体操がある。準備も整理も、まったくおなじもので、単純きわまりない。
 まず、全音符を四小節叩く。もちろん、左右交互にだ。つぎに二分音符を四小節。さらに、これを四分、八分と倍テンポにしていき、こんどは、四分、二分というぐあいに、スロウダウンする。
 結局、打楽器の練習というのは、この繰り返しにつきるのではないか、というぐらいに、こればかり、ずっとやらされてきた。
 せめて、ほんもののスネアならいいのだが、せっかくきたスネアも、二度使わせてくれただけだ。まあ、ラディックでもなければ、ロジャースでもなく、スネアとも呼べない、ただの日本製の「小太鼓」だから、どうでもいいのだが。
 きょうも、この循環を数回くりかえすと、
「では、きょうはこれくらいにしておきましょう」
 と、高橋路子先生が宣言した。
 慶一はみんなに、さきに帰ってくれといって、先生と音楽室にのこった。
「ねえ、先生」
 と慶一は、腕時計をはめている先生に話しかける。
 先生はいつも、まず腕時計をはずし、ピアノの上においてから、レッスンをはじめる。もちろん、腕のふりで時計が狂うからだ。だから、先生の帰り支度は、その時計を腕につけることからはじまる。
「なあに」
 と先生は、文字盤を見ていた目をななめにあげた。
「すぐに帰らないといけないんですか」
「どうして?」
「今晩、ぼくたちと食事しない?」
 さすがに、ぼくと、という度胸はない。
「あーら、すごい。ニューグランドにでも、つれてってくれるのかしら」
 と、あけっぴろげな笑顔を慶一に向ける。
「それ、どこ?」
 慶一は不安になった。右手にそろえてもったスティックがきしむ。
「いいのよ、冗談」
「レストランとかじゃなくて、今晩、寮の食事はバーベキューなんです」
「へえ、バーベキューなんてするの。グラウンドかなんかで?」
「ちがう、ちがう。先生、ぜんぜん寮にきたことないでしょう」
「ええ、いつも、レッスンまえにきて、レッスンが終わったら帰るんだもの」
「バーベキューガーデンができあがったんで、きょうがオープン」
「そうなの。まったく、この学校はぜいたくね」
 先生は喜んでくれない。
「ぜいたくってほどじゃないでしょ」
 慶一はあてがはずれて、不満だ。
「ぜいたくよ」
「そうかなあ」
「そうよ」
「じゃ、食べたくない?」
「バーベキュー?」
「だから、その話をしてんじゃない!」
 高志の気分がわかるような気がしてきた。
「そうだったわね。でも、あたしのぶんなんて、あるのかしら」
「もう、バッチリ。コック長にたのんでおいた。三人まえ用意しておくってさ」
「まさかあ、そんなには食べないわよ」
 先生は吹き出してしまう。
「じゃ、きてくれる?」
「でも、汗びっしょりだしねえ……」
 と、じぶんのブラウスを見る。
 これは、慶一には予想外の障碍だった。そんなことを気にするとは思わなかった。必死で頭を働かせる。
「ねえ、じゃあ、シャワーが浴びられればいい?」
「あなたの部屋のシャワーなんか、ダメよ。プールのシャワーをお借りしようかしら」と笑う。
「やめなよ、あそこは水しか出ないんだから。ちゃんと安全なとこがあるよ」
「ホントかしら」
「ゼッタイ!」
「じゃあ、いこうかな。いちど寮も見てみたいし」
「やった」
 慶一は会心の笑みをかべる。
「ぼく、ちょっと準備があるから、すっ飛んで帰らなくちゃあ。途中で迎えに出るから、ゆっくり歩いてきて」
「いいわよ。どうせ、職員室にいかなくちゃならないもの」
 慶一は、文字どおり飛んで帰った。予定外の準備が必要になったので、急がねばならない。やっぱり、高志に相談しておくべきだった。

 県道からの坂道をのぼってくると、峠にあたるところに校舎がある。校舎の下には陸上グラウンド、その下に野球場、そして寮の玄関棟と、土手をはさんでならんでいる。
 寮と校舎をつなぐ道は、明示的には二本ある(グラウンドをつっきる方法は数パターンあるので、勘定に入れない。これは、いずれにしても、校舎裏玄関から出て、プールわきの階段をくだり、グラウンドに出る。あとは気分しだいで、なかには、神様とバッタだけが知っているルートを使う奴もいる)。
 ひとつは通称「下の道」で、県道からの道がそのまま延びて、校舎と体育館建設予定地を迂回うかいし、グラウンドと野球場の土手下をくだり、寮玄関につながる。
 もうひとつは通称「上の道」で、校舎裏玄関から出て、陸上グラウンドと細長い校舎にはさまれ、途中で直角に曲がり、グラウンドの短いほうの辺、野球場の一塁側ファウルエリアに沿い、一塁のわきから短い橋をわたり、本棟が建つ台地の一〇五のまえに出るものだ。
 高橋路子先生は、あたりを見まわしながら、「上の道」を、ゆっくりと寮にむかった。
 野球場の台地と、本棟の台地をつなぐ短い橋をわたり、本棟をめぐって玄関に通じる坂道をくだろうとすると、寮のかげから慶一が飛びだして、そっちじゃなくて、こっち、というように手をふり、駆けだした。
「どこへいくの」
 先生は、汗まみれの慶一にほほえみかけた。
「いいから、こっち」
 慶一はさきに立って、玄関とは逆方向に案内する。
「先生、これから四階までいかなくちゃならないんだけど、階段、駆けあがれる?」
 理由をきかれると説明に困る、と慶一は不安だったが、先生は、
「わたしの肺活量、いくつだと思っているの。でも、スリッパかなんか、ないかしら」
 と、茶のロウヒールを困ったように見おろした。
「それで大丈夫だよ。上履きなんか、だれも履かないってば」
 これには、多少うそがある。
 下足室で室内履きに履きかえるのは、「イモ」とされている。寮も学校も、おなじクツでとおすのがファッションだ。このファッションの「理論的根拠」は、「地面を歩いてきたクツで、そのまま校舎に入っていいのなら」――たしかに、校舎では上履きはないから、これは「合法」だ――「寮だって、畳があるわけじゃないから、そのまま入ってかまわない」だった。
 だから、正確にはこういうべきだ。「イモ以外はだれも履かない」と。
「なかへ入ったら、走ってぼくのあとについてきて」
 風呂場の横を抜けるから、ちょっと危険なんだ、とつけ加えかけて、慶一は思いとどまった。
 窓を開け放した脱衣場のわきで、いつまでもモタモタしていたくなかったので、慶一は、そこから五メートルほど離れた非常口に駆けこんだ。
 たぶん、三〇秒ほどで四階についたと思う。それでも、パンツ一枚で非常階段ホールに入ってきた奴がひとり、仰天して防火扉のむこうに隠れた。
 四階の非常口から、ヴェランダに出て、四〇七方向に曲がる。
「ちょっと、ここで待ってて」
 先生をとどめ、慶一はひとりで、開け放たれたヴェランダのドアから、室内をのぞきこんだ。
「準備オーケイ?」
 と、慶一は室内を歩いていた高志に声をかけた。
 ソファでは、ワラと山崎がふんぞりかえっている。
「へえ、ホントにつれてきた」
 戸口から外を見て、高志がいった。
 慶一は安心した。いっておいたとおり、ちゃんと服を着ている。
 高志のうしろから、ワラと山崎が顔をのぞかせ、ホントだ、と驚きの表情を見せた。
「どうぞ、お入りください」
 高志がうしろにのき、ワラとヤマをさがらせる。
「滝口さん、ここ、あなたの部屋なの?」
 と、先生は動かない。
「ちがう、ぼくは二〇四。ここは四〇七で、オーディオ部の部室。だから、大丈夫だってば。こいつらみんな、紳士」
 と、非論理的な説得を試みる。「紳士たれ」と寮長がよくいっている。が、慶一自身、じぶんのことばをあまり信用できない。
 先生は、ドアのむこうの両側をのぞきながら、恐るおそる入っていく。
「先生、信用してくださいよ」と、高志が笑う。
 いつも高志がうるさくいうので、しかたなく掃除をしていたのが、ここで役立った。
「慶一が、シャワーの用意をしておけっていうんで、ぼくのものですけど、ぜんぶ洗濯したてだから、使ってください」
 高志は、まずタオルをわたす。
「タオル、バスタオル――あ、バスタオルは一枚でたりますか?」
 高橋路子先生の上をむいて開いた両手に、バスタオル重ねたところで、高志は手をとめた。
 ほとんど『時そば』のタイミングなので、先生は思考停止して、ただ、うなずく。
「で、石鹸、これはキャメイをおろしましたから。シャンプー、これは口があいています。すみません」
 と、高志はほんとうにすまなそうだ。
 高橋路子先生は、完全に高志のペースにはまってしまい、いいえ、いいのよ、などといっている。
「洗面所に、ブラシとドライアーもおいてありますから、髪を洗っても大丈夫です。ブラシは、ブタ毛ですから」
 どうなってんだ、と首謀者の慶一も、呆然と成りゆきを見ている。
「ああ、それから、お気に召さないかもしれませんけれど、よろしかったら、オーデコロンもあります」
 手のひらに収まる小さなビンを、ピリオドのようにのせる。
「オーデコロン!」
 慶一、山崎、ワラの三人が声をそろえて叫んだ。
 どっから、そんなものが出てきたんだ。
「エーと、あとはなにかな。シャワーはいきなり浴びると、火傷したりしますから、温度調節の目盛りを四〇度ぐらいに合わせてから、コックをひねって、二、三分待ってください。じゃあ、ぼくたちは、ヴェランダで歩哨ほしょうをします。あっちのドアはカギを締めてありますから、安心してください。支度ができたら、呼んでください。ご案内します。じゃあ、おまえら」
 高志は三人をうながして、ヴェランダに出る。
 高橋路子先生は、高志にわたされた浴用具の山を両手にもって、呆然と彼らを見送った。
 高志が、カギの頭を押しこんでドアを閉めた。カーテンも、きっちり閉まっている。
 慶一はことばが出ない。どうなってるんだ。
「慶一、こんなんで、よかったか。ちゃんといっておいてくれれば、もうちょっと、マシな準備ができたんだけどな」
 ヴェランダに出した折り畳みイスに坐り、高志は、手すりの下に走るさんに足を投げだした。
「もうちょっと、マシって?」
 これ以上、なにがあるんだ。
「着替えがなくて、かわいそうだよ。下着とか」
 と、高志が大笑いする。
「下着!」
 という三人のユニゾンが、コンクリートにあたり、エコーというよりは、リヴァーブのような残響をともなって、天にむかって駈けあがった。

 バーベキューはそれなりに楽しかった。
 慶一の部屋が七人部屋のおかげで、問題なく、じぶんの部屋のグリルに、先生を招くことができた。教師の席には三人、すくなくとも性別は男ではない人がいたが、生徒のグリルでは、二〇四だけが女性を迎えていた。
 そういう意味では、慶一は満足していた。
 コック長は、若い女性を歓迎するそぶりを露骨に見せ、なにやかやと二〇四のめんどうをみる。生徒は鶏の骨つき腿肉と野菜だけなのに、厚いサーロインが、先生のまえの網におかれた。
 なんか、ちがう。楽しくないわけではないが、慶一が予想していたのとは、ちがった。
「先生、あのオーデコロン、つけたでしょう」
 慶一がとがめるようにいった。
「あら、そんなにきつく匂う?」
 と、ばつの悪そうな顔で、先生はブラウスを見る。
「も、プンプン」
「いやだ。あんな高いのつけたことないから、つい調子に乗っちゃって」
「先生、高志がさ――」
 トウモロコシをひっくりかえしながら、慶一がいう。
 部屋の他の連中は、まだ戸惑っている。すぐに、なれなれしくなるだろうけど。
「高志って、あの、ぜんぶ用意してくれた子?」
 先生は、音をたてはじめたサーロインの厚さに、ちょっとおびえているようだ。
「うん。あいつがね、予告しておいてくれれば、こんどは、もっとちゃんと、おもてなししますってさ」
「もっと、ちゃんとって?」
「うん、いろいろ」
 慶一は、高橋路子先生が、高志の用意した下着を身につけるすがたを想像した。想像のなかの慶一の視線は、いきなり先生の胸に合ってしまい、あわててティルトダウンして、乱れかごにおかれた、汗のしみついた下着に固定する。ゆっくりと、ズームイン。
 ヤバい。想像のカメラを急いでパーンして、現実の脚を閉じ、そのひざに両腕を寝かせ、さらにその上にアゴをのせ、トウモロコシ、早く焼けないかな、というそぶりで、困ったものをガードした。
 火が近くて、顔がほてり、煙が目にしみる。
 ふと、慶一が目をあげると、ふたつグリルをはさんだ向こうで、高志が親指の腹をこちらにむけ、垂直に立てて、ニヤリと笑った。
 まさか、あんなところから、見えるわけないだろ!
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10

気分よく暮らすのが好きなんだ
こういうぜいたくな暮らしがね
陽射しの明るい夏の午後に
こうして怠けているのが

〈サニー・アフターヌーン〉
キンクス
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 七月二十八日には、映画にはいけなかった。
 学校は二十三日で終わったが、二十五日から、各運動部の合宿がはじまってしまった。二日の時点では、これは決まっていなかった。
 試験の席次は、例によって寮の掲示板に貼りだされたが、通知表には五段階評価が書かれているだけだから、そうしたくないなら、親にはいわなければよい。
 慶一は迷ったすえ、いわないでおくことにした。親が喜ぶほど素晴らしいわけではない。

「ほんとうに、ホント?」
 慶一が、信じられない、という表情で高志のほうを見ると、またカメラのシャッターが切られた。
 さっきからずっと、裸の胸にそのカメラをかかえ、慶一がなにかいうたびに、返事のかわりに、シャッター音を響かせている。
「うそだと思うなら、百科事典をひいてみろ。ちゃんと書いてあるから」
 高志は、ふたりのあいだにある、木のテーブルに両ひじをのせ、ファインダー越しにこたえる。
「そんなことが、百科事典に出てるわけないだろ!」
 また、シャッター音が返事する。
 例によって、高志はウソにはくをつけるために、インチキな証拠をもちだした、と慶一は考えている。
 だいたい、どの項目で調べろっていうんだ。
 太陽は、とうのむかしに寮のむこう側にまわりこんでいるので、このヴェランダは陽がかげっている。
 もう、合宿も三日目で、みんなバテてる。慶一も、四〇七のヴェランダに出したデッキチェアに深く沈みこんで、高志の話をきいていた。
 高志が身につけているのは、ブルージーンズだけだ。上半身裸なのに、下はちゃんと長いジーンズを穿いている。慶一は短パン一枚だ。
 高志のジーンズは短くて、裾がくるぶしの上にきている。わざと、短いのを穿いているわけではない。
 この一学期のあいだに、高志はかなり背が伸びた。四月にくらべて二、三センチは高くなっているだろう。
 木の折り畳みテーブルには、オレンジジュースの入ったコップがふたつおかれている。
 ヴェランダの床には、律儀にならんで立った空き缶がふたつ。
 窓を開け放った室内からは、ヴォリュームをしぼったラジオでかかる、ポール・リヴィア&ザ・レイダーズの〈ハングリー〉が、ひぐらしの乾いた声のあいだを縫って流れてくる。
「おまえがどう思っても、これはほんとうだから、しかたないの。だいたい、いままで知らなかったほうが、どうかしてるぜ」
 高志は起きあがって、カメラをおき、コップに手を伸ばした。
 ここからは見えないが、野球場からノックの音が伝わってくる。もう五時になるっていうのに、居残りを志願した連中がまだ練習している。レギュラーになりたい奴らだ。
 野球部に入りたがらなかった柾生が、熱心に練習しているのが、慶一には不可解に思える。
 慶一は練習が大嫌いなので、さっさと引きあげて、シャワーを浴びてからここへきた。
 二カ月も床屋へいっていないので、すこし長くなってきた髪が、まだ湿っている。あとひと月くらいで、長髪らしくなるのではないか、と慶一は期待している。
 非常口方向から足音がきこえた。
「タワケッ! すこしはまじめに練習せい!」
 と、大声が響いた。
 山崎だ。チェックのパンツ一枚に、首からバスタオルを下げ、ゴム草履といういでたちで、風呂上がりの大魔神かなんかに見える。
 バーミューダ・ショーツにTシャツ姿のワラもいっしょだ。
「バカヤロー、でかい声だすな。そこらじゅう躰が痛むってのに」
 高志が、首だけまわしていう。
「まったく、ダラケきって、エラそうに、こんなイスでふんぞりかえりやがって」
 山崎は、イス越しに高志の背中を軽く蹴飛ばした。
 このデッキチェアは、テラスからくすねてきたわけではなく、高志がじぶんのうちからもってきたものだ。
「いいかげんにしろよ。もう、慶一のアホだけで頭にきてんだからな」
「慶一、野球部はまだやってるぞ」
 と山崎が、ゴーレムのような蛮声でいう。
「うるさいな。いいんだよ。あいつらは勝手にやってんだってば」
「おい、おまえら、慶一の奴が信用しないんだ、ちょっと、いってやってくれよ」
 そういって、高志はまた、テーブルからカメラをとりあげた。
「なにを?」
 ワラが、これは面白そうだ、という顔でよってきて、コップをとりあげ、慶一のジュースを盗んだ。
 高志は、さっきからの話をくりかえす。
「なーんだ、オマンコか」
 と、ワラがしゃがみこんで笑った。
「おまえな、どうして、そういう日本語だけ知ってんだ。もっと、テストにでてくる日本語を勉強しろよ」
 と高志が、軽くワラの頭をはたく。
 ワラの期末試験の現代国語は、四〇点だった。百点満点の、だ。じぶんでいっているのだから、たぶんほんとうだろう。
 慶一は、大笑いしているワラを怒るどころではない。
「ホント?」
 と、うしろに立った黒い巨体を見あげた。
 また、シャッターの音。
「なに、いまごろ、そんなことで驚いてんだよ」
 馬鹿にした口ぶりで、山崎はイスに坐った慶一を、うしろからのぞきこむ。
 シャッター。
「ガキだとは思ってたけどさ、ホント、なーんにも知らないんだから。まあ、チョボチョボだから、しようがねえけど」
 と、高志が追いうちをかけた。
 これをいわれるのが、慶一にはいちばんこたえる。「ツンツルテン」といわれていたころは、生えれば解決すると、がまんしていたが、生えたら生えたで、こんどは「チョボチョボ」なんていわれる。
 でも、いまはそれどころではない。
 慶一は考えこんでしまった。三回つづけて、シャッター。
「滝口慶一君は、じぶんの爪楊枝つまようじみたいなものが、ときたま鉛筆のようになるのは、夜中にオシッコが漏れないようにする蓋だとばかり思いこんで、中学一年の夏休みを迎えてしまいました。なんという純真無垢むく。どちらかというと、ただの無知ではないでしょうか」
 という高志のからかいに、山崎もワラも大笑いしている。
 慶一は、怒れない。ほんとうに、男と女はそんなことをするのだろうか。高橋路子先生も、そんなことをするのだろうか。
 数人の人間が、下の舗装道路をスパイクシューズで歩く音がきこえる。非常口から寮にもどる野球部の連中だ。バットがふれあう、カーンという音が、建物に反射して、きれいな響きをのこす。
 この三人は知っていた。野球部の連中も、みんな知っているのだろうか。じぶんだけが、知らないでいたのだろうか。
 もっとも、このふたりが高志の作戦に乗って、三人がかりでダマシにかかっている、という疑いも、まだ捨てきれない。こいつらは、他人をカツグためなら、なんでもやる。
 パンツいっちょうの大魔神が、ノド渇いたな、と室内に入っていく。
 ラジオは、サム・ザ・シャム&ザ・ファラオウズの〈リル・レッド・ライディング・フッド〉を流している。
 慶一は、この曲が好きではない。ワラにきいた話だと、これは『赤頭巾ちゃん』の歌らしい。サムといっしょに、ワラも「アウー」と狼の遠吠えをやる。
 慶一は物思いにふける。

 夏休みの寮は自由だ。休日あつかいで、服装もうるさいことはいわれない。上下になにかをまとっているかぎり、ゴム草履でも食堂に入れる。
 初日は警戒したが、夜の見まわりはなかった。高志ははじめから、夏休みじゃねえか、勝手にやろうぜ、といって自室からマットレスを運び、四〇七に寝泊まりしている。
 高志が家から車で運んできたもらったのは、デッキチェアとテーブルだけではない。一眼レフのカメラとフィルム、それに飲食物もだ。
 夏で、冷蔵庫がないのだから(慶一は、ここまでやったら、冷蔵庫をもってきたって、たいした違いはないだろうと思っている)、生まものはあまりない。牛肉の大和煮、コンビーフ、ウィンナソーセージ、オイルサーディン、シャケの水煮、桃やミカンやパイナプルといった果物類、オレンジジュース、コカコーラ、そういった缶詰がほとんどだ。
 慶一も、ワラも、山崎も、こうした大荷物を、非常口につけたステイションワゴンから、部室に運ぶのを手伝わされた。だから、三人とも高志の食料を遠慮せずに食べている。
 車を運転してきた背の高い男は、家族ではなさそうだった。高志さん、こんなことして大丈夫ですか、わたしは知りませんよ、なんていっていた。
 慶一には、それはどうでもいいことだった。それよりも、車に令子が乗っていたのが驚きだった。
 最後のひと箱をとりに、慶一が車のところにもどったとき、令子がうしろの座席に坐ったまま話しかけた。
「慶一さん、三十日は大丈夫ですか。知子もわたしも楽しみにしています」
 それは、予定変更になった、映画へいく日だった。
「うん。こんどは大丈夫。でも、令子ちゃん、なんできたの」
 といってから、慶一は、歓迎していないように受けとられないかと、すこし心配になった。
「葉山のうちにいく途中なんです」
 と、令子はニコニコと笑った。
 花柄のワンピースを着て、白い帽子をかぶり、脚をきちんとそろえて、すっと伸ばして坐っているすがたは、いちだんと大人びて見えた。
「でも、こんなの、いけないことなんでしょう。高志兄さん、だいじょうぶかしら」
「うん。いまは夏休みだし」
 退学になるなら、おれたちみんな道連れだ、と頭のなかでいった。
 だれかが、階段をドタドタおりてくる音がする。
「じゃあ、三十日に」
 といって、慶一は小さな段ボール箱をかかえて、非常口にむかった。

 山崎がなかに入って、缶ジュースをもって出てきたので、慶一はわれにかえった。
 ラヴィン・スプーンフルが聴こえる。〈サマー・イン・ザ・シティ〉というだけあって、暑苦しい音だ。
「やっぱり、夏は冷蔵庫がいるぜ」
 と山崎が、テーブルの缶切りでジュースに口をあける。
 飲み物は、洗面所の陶器の洗面器に満たした水につけて、冷やしてあるだけだ。それが冷やすことになるならば、の話だが。
 ワラもそれにつられて、コカコーラをもってきた。これはプルトップ缶だ。
 ラジオの音楽は〈レイン〉になった。この曲は、ジョンのヴォーカルも、ギターもベースも、すべてがとんでもない。こんな曲は聴いたことがない。
 A面の〈ペイパーバック・ライター〉だって、ラジオで聴いたときはぶっ飛んだが、ヴォーカルはポールだ。どちらの曲も、ポールはベースの高音部を多用していて、それはラジオで聴いていても、はっきりわかる。このシングルはヘヴィーだ。
 大魔神が、ジョンといっしょに、崖崩れを起こしそうな声で〈レイン〉を歌う。音程がよくない。全然よくない。ストーンズばかり聴いているからなのか、先天的なものなのか。
 突然、慶一の頭のなかで、高志のいう「コウノトリとは関係ない子どものつくり方」と、令子の顔がむすびついた。
「たいへんだ!」
 と声にだしてから、慶一はあわてて口をつぐんだ。
 ――令子ちゃんもやるんだ!
「なんだよ。ヘンな野郎だな。高志、ちょっと診察してやったほうがいいんじゃないの。瞳孔どうこうが開いてたりしてさ。こんなとこで死なれたら、みんなバレちゃうぜ。家財道具一式もちこんじゃってさあ」
 と、山崎が笑う。
「いままで知らないほうが、いけないんだって」
 高志は苦笑しながら、フィルムを巻きもどす。
「それって、フィルム入っていたの?」
 慶一がおどろいて、上体を起こした。
「フィルムの入っていないカメラで写真撮ったら、バカだろうが。なにいってんだ、こいつは」
 と、高志が呆れる。
「だってさ、こんな暗くて撮れるの?」
「撮れるから、撮ったんだって。まあ、ブレたやつもあるだろうけどな。明るいフィルムと明るいレンズ、そういうものがあるわけ。おまえのカメラなんかとは、ものがちがうの」
 と、ニコンのマークを撫でる。
「なんか、おれのこと、ばんばん撮ってなかった?」
 理屈に合わないが、慶一は、盗み撮りされたような気がして、不機嫌な声をだした。
「おまえを撮ってたんだぜ」
 いいかげんにしろという顔で、高志が慶一をにらむ。
「まあ、撮ってもいいけどさ、もうちょっと、髪が長くなってからにしてほしいな」
「そんくらいだって、いいじゃねえか。ほら、ビートルズのデビューんときの写真があるだろう、あれみたいじゃないか。きみのデビュー・シングルのジャケットは、おれにまかせなさい。きょうの、使うか?」
 カメラとフィルムをもって、高志はなかに入る。
 ワラもなかへ入って、パイナプルの缶詰をもって出てきた。缶をあけて、手でひとつスライスをつまみだし、かぶりつく。
 ほかの連中にも缶を示して、ひとつどうぞ、遠慮しないで、などとすすめる。だれもほしがらない。もう食べ飽きていた。
「なあ――、合宿が終わったら、馬車道の東宝いかねえか? 『南太平洋』」
 ドアがまちに腰をおろして、山崎が室内の高志に声をかける。
「おれは、慶一や柾生と、スカラ座でビートルズの二本立てだ」
 高志がヴェランダにもどりながらこたえた。
 山崎は、つまんねえ、とつぶやく。
「そろそろ、メシだよ」
 ワラが手すりにもたれて、パイナプルを食べながらいう。
「おまえ、こんだけ、ここでいろいろ食って、よく食欲があるな」
 山崎は、ワラの鉛筆のような躰をねめまわした。
「今夜はカレーですよ」
 と、ワラがふりかえった。
 カレーは、寮の食事ではいちばん人気がある。
「やった。早くいって、食堂のクーラーで涼もうぜ」
「きみは、その格好で涼んだら、風邪ひきますよ」
 ワラが、パンツ一枚の山崎を鼻でわらう。
 ここの景色は、雄大な、というほどではないにしても、建物ひとつなく、遠くまで小高い山がつらなり、開放感をあたえてくれる。ここにオーディオ部の部室ができて以来、なかにいるより、ヴェランダに出ているほうが多いくらいで、口にだしてはいわないが、全員がここの景色を気に入っていた。
 ここまで蚊が飛んでくることはすくなく、きのうの夜、高志はヴェランダにマットレスを敷いて寝たそうだが、朝早くに太陽に叩き起こされるから、考えもんだ、とつぶやいていた。
「おまえ、今夜、マットレスもって、ここへこい。ゆっくり補習をやってやる。――なあ、おまえらもこいよ。どうせ、見まわりなんかないって」
 高志が、イスのなかで上半身を起こしていう。
「このぶんじゃ、そうかもしれないな」
 と山崎が立ちあがって、パンツをたくしあげた。
「だいたいさ、おれたちが上品すぎて、音楽の話ばっかしてるから、慶一がいままで知らずにいて、恥をかいたんだぜ。遅れをとりもどしてやらなきゃ」
 高志はニヤニヤする。
「ま、それはいえるかもね。ぼくが、英語でどういうか、教えてあげましょう」とワラ。
「よし、決まり。今夜は、滝口君の補習兼パーティーだ。メシ、いくか」
 高志が立ち上がって、手すりに引っかけてあった真っ白なTシャツをとり、頭からかぶった。
 曲はボビー・ヘブの〈サニー〉にかわった。

 翌朝、慶一が食堂へ入っていくと、高志が、おもてへ出ろという。
「わかってるよ、ゴメン」
 食堂まえのホールで、慶一は高志を拝むかっこうをした。
「こないから、どうしたのかと思って見にいきゃ、グースカ眠りこけてやがって」
 と、高志は半分笑っている。
「ものすごく眠かったんだよ」
 むこうから、ラグビーパンツにTシャツの山崎が、ワラとつれだって、重そうに歩いてくる。
「おう、怖気おじけづいたのかよ」
 と、山崎が目を細めていう。こいつは寝起きが悪い。どう見ても、本気で怒っているようにしか見えない。
「ちがうってば。眠っちゃっただけだよ」
「ウェット・ドリーム見なかった?」
 と、ワラがはすにかまえ、顔をそらしていう。
「なに、それ?」
 なにかイヤらしいことらしいが、正確にはわからないので、とぼけているのではなく、本気で質問しているようにきこえるよう祈って、慶一はききかえした。
 ワラはただ、ひっひっひぃ、と笑っただけだ。
「とにかく、今夜やりなおしだ。いいな」
 高志は食堂にもどりかける。
「今夜は、いろいろ予定があるじゃん」
 これはほんとうだ。夕食はまたバーベキューだし、そのあとは「試胆したん会」がある。
「おまえ、消灯後に予定があるのか?」
 山崎は、イヤらしい奴だな、という目つきで慶一をねめつけて、ドアにむかった。
「やりすぎると、躰によくありませんよ」
 といい捨て、ワラもつづいてドアをくぐった。
「なんだよ、おまえら、感じ悪いな!」
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11

ゾンビたちも楽しんでいた
パーティーは、
まだはじまったばかり
ゲストは狼男とドラキュラ、
それにドラキュラの息子

〈モンスター・マッシュ〉
ボビー・“ボリス”・ピケット
[#改段]
 寮の玄関がこれだけ騒々しいのは、めったにあることではない。もうバーベキューも終わり、七時半にはなる。さすがに、夏の日もとっぷりと暮れた。
 二階部分の工事に入った、新寮の工事現場からの投光照明が、異様に明るい。最初の組がスタートした。
「アホくさ。部屋ァ帰って、クソして、寝ようぜ」
 と山崎がいう。ぜんぜん乗っていない。
「まあ、まあ、いいじゃない。けっこう面白いかもしれないでしょう」
 笑いながら、柾生が山崎をなだめた。
「藤井が番傘もって、山ァいったの見たぜ」
 と、マーキーの支柱によりかかった高志がいう。
「そうなのー。ねえ、ねえ、おどろいたふりしてさ、やっつけちゃおうよ。ヤマ、目いっぱいキツいタックルかなんか、やらない?」
 ワラは、完全に乗っている。
「おまえ、ひとりでやれ」
 ヤマはめんどうくさそうだ。
 そのあいだに、またひと組が出ていく。寮長はゴキゲンだ。ニコニコしながら、出発する組に声をかけている。そういうところを見ると、この「試胆会」は寮長のアイディアらしい。
「慶一、なに浮かない顔してんだ。まだ、ショックがつづいてるのか?」
「ううん。腹いっぱいで、眠い」
 慶一は、懐中電灯をぶらぶらさせた。
「つぎ、ぼくなんかの番だよ」と、ワラがはしゃぐ。
「見りゃ、わかる」
 高志がつまらなそうにいった。
 橋の下をとおり、本棟うらの土手下を抜ける道は、べつにどうということはない。ただの荒れ地だ。そのむこうは田んぼで、畦道をとおる。それが終わると、もう山だ。
 山への入口に、ロウソクではなく、電球を入れた大きな提灯ちょうちんがぶらさがっていて、黒ぐろと「地獄一丁目」と勘亭流で書いてある。なんで勘亭流なのかは、よくわからない。
 人ひとりぐらいしか通れない急な道を、懐中電灯をもった慶一を先頭に、高志、柾生、ワラ、山崎という順で登る。木の根が盛りあがっていて、足がかりになるが、つまずきやすい。
「藤井のカラカサ小僧なんかより、ケガのほうがこわいぜ」
 しんがりで、足もとが暗い山崎が叫んだ。
 のぼりきったところに、また提灯があって、「地獄二丁目」と、これまた勘亭流で書いてあり、その下に順路を示す矢印がある。
「もう二丁目だ。せまい地獄だな」
 高志が、いこう、とみなをうながした。
 道はすこし広くなって、ふたりなら横にならべる。
 高い木が生いしげって、月の光が射しこまず、懐中電灯がないと歩けない。
「おい、おれをひとりにするなよ」
 と、うしろで山崎が騒ぎ、のこりの四人が笑った。
「なんだよ、ケガのが恐いんじゃないの。でかい躰してさあ」と、ワラがからかう。
 さらに道が広くなり、先頭の高志と慶一のうしろに、のこりの三人が横にならんで、まえをいくふたりにピッタリついて歩く。
 すぐに大きなカーヴがあり、先頭のふたりが左に曲がったところで、左側の繁みから、いきなり白いものが宙に浮かんで、襲いかかってきた。
 だれかがおどろいて、うしろから慶一にしがみつき、押し倒してしまった。
「もう、バカ。重いだろう!」
 慶一がもがく。
「なにをやってんですか。あれはシーツだぜ」
 高志が、慶一におおいかぶさった奴をどけた。
 重いはずだ。それは山崎だった。
「ドジ。大魔神ヅラして、なんだよ。シーツなんかにおどろきやがって」
 懐中電灯をひろいながら、慶一が山崎をののしった。
 ワラと柾生は笑っている。
「きみたち、大丈夫か? 遊びなんだから、そんなに本気でおどろいちゃいけない」
 と、木の上から声がかかる。
「なんだ、生田先生でしょ」
 と、柾生が返事をした。
「すいません。山崎があわてただけです」
 高志がばかばかしそうにいう。
「山崎君、ケガはないか?」
「ええ、なんてことありません」
 山崎が笑いながらこたえた。
 懐中電灯で目標をたしかめ、慶一が、思いっきり山崎の足を踏みつけた。
「イテエ! なにすんだよ!」
「ひとをクッションにしやがって。こっちはヒジすりむいたぜ」
「つぎの組がくるから、もういきなさい」
「はーい」と、五人はふたたび歩きだした。
 三丁目では、カラカサ小僧がじぶんの「顔」に懐中電灯を当てて、繁みのなかからヌッと立ちあがった。
 慶一は、こんどはものすごい力で、うしろから両肩をつかまれた。
「イテエな。もう、この小魔神!」
 と叫んで、その手をふり払う。
「バカヤロー、恐くねえぞ!」
 暗闇をいいことに、ワラが叫んだ。
 山道がくだりになったところで、急に道がやわらかくなり、先頭をいく慶一と高志が、足をとられた。
 当然、すぐうしろからきていた三人も、折り重なるようにして、その上に倒れこんだ。
 倒れてみれば、なんていうことはない。マットレスの上に、黒い布がかぶせてあっただけのことだ。
「もう、なんだってんだよ。二度目だぜェ。おまえ、高志のうしろを歩けよ」
 小魔神に押さえつけられた慶一が、苦しそうな声をあげた。
「悪い、悪い。でも、おまえが倒れたんだから、しようがねえだろう。もっと、まえに注意しろよな」
 立ちあがった山崎が、慶一を起こしてやる。
「ひっひっひぃ。ゴーレムの電柱に、二度もおカマ掘られちゃ、たまりませんねえ」
 ワラが下品に笑い、慶一以外の全員が爆笑した。
 慶一は憤然として、懐中電灯をもって、さっさと歩きだし、四人があわてて追いかけていく。
 ガイコツとか、ドラキュラとか、いろんなものが出てきたが、そういうものには、だれもおどろかなかった。山崎だけは、べつだが。
 お岩さんは、生徒から、たんに「ノブ子」といわれている、数学の女教師だった。
「先生、似合いますよ。すげえ、恐い」
 と、高志が声をかける。
「お黙りなさい。もう、わたしが最後だから、寄り道しないで、早く帰って寝なさい!」
 すごい形相でにらまれて、五人は逃げだした。
「ねえ、ちょっと、沼へいってみない?」

 寮のほうへもどる道と、むこう側の田んぼにくだる道の分岐点にくると、柾生がそう提案した。
「なんだ、それ」と、高志がいう。
「沼って、田んぼのことだろ」
 慶一が、以前、柾生にきいた話を思いだしていう。
「沼なんだって、どう見てもさ」
「いこう、いこう、面白そうじゃない」
 と、ワラがはしゃいでいる。
「早く帰って、クソして、寝ようぜ」
 と、山崎は乗ってこない。
「なんだよ、意気地なし。おまえ、恐いんだろ」
 と、慶一が山崎を責めた。
「恐かねえさ、あんま、面白そうでもないしよ……」
 という山崎のことばは、尻すぼみに小さくなる。
「じゃあ、帰れよ。おれ、いってみる。ワラもいくんだろ?」
「いこう、いこう」と、元気な声が返ってきた。
「しかたねえ、いくか」
 いままで黙っていた高志も同調する。
「じゃ、ヤマ、悪いけど、ひとりで帰って、クソして、寝ろよ」と、慶一が突き放した。
「そりゃ、ないぜー。懐中電灯は、ひとつだけじゃねえか」
「じゃ、くるかい?」
「そんな……」
「いいから、いこうぜ」
 高志が、議論はおしまい、という声でいいわたした。
 四人は、さっさと「沼」への道をおりはじめ、しかたなく、山崎もそれにつづいた。
「おまえら、どこいくんだよ」
 うしろのほうから、大きな声がかかった。つぎの組の奴だ。
「ちょっと、探検」
 と柾生が、これまた大声でこたえる。
「おーい。三〇分たっても、おれたちがもどらなかったら、捜索隊を出してくれよなあ」
 山崎が本気で心配しているような声で、上の連中にいった。
 それは、たしかに、沼に見えないこともない。
 台形をしているのだから、人工のものだろうし、たぶん、田んぼであることはまちがいない。だが、稲は植えられていない。
 慶一が水面に光を当て、懐中電灯を左から右にふる。
「気味悪りぃな」
 緑色に濁った水を見て、高志がポツリといった。
 あしのようなものが生えているので、水は浅いのだろうから、そんなことはありえないが、それでも、いまにも水掻きのついた手が、音もたてずに、ぬうーっと水面から出てきそうだ。
 お岩さんかなんかに驚いたのか、遠くのほうで、悲鳴と歓声が起こり、それが、なにか見知らぬ鳥のき声のように響く。
 慶一は、ふくらはぎが、猛烈にかゆいのに気がついた。長いジャージーのトレイニング・パンツをはいてきたのに、その上から蚊に刺されたらしい。
「蚊にやられた」
 慶一はしゃがんで、まえを照らしたままにして、懐中電灯を地面におき、脚をかく。
「おれもやられた」
 高志がいまいましそうにいうと、おれも、おれも、と全員がつづいた。
 目のまえに、小枝がある。ふと、思いついたことがあって、慶一はそれを拾って、立ちあがった。
「あ、いま、あっちの繁みで、真っ赤な目が光った」
 と柾生がいう。
「うん、おれも見た。タヌキかなんかじゃない」
 相づちをうちながら、慶一はポケットからハンカチを出した。
「ヤマ、なに黙ってんだよ。おびえてんじゃないの」
 慶一は山崎の左側に、すこしさがって立った。
「ゼーンゼン。ただの死んだ田んぼじゃねえか。帰ろうぜ」
 死んだ田んぼ、ということばが、四人の心のなかで木霊こだました。
「うわあ!」
 突然、山崎が奇声をあげて、跳びのいた。
 ここまでは慶一の作戦どおりだったが、そこからさきは、ちょっとちがった。山崎は、いちばん近くにいた、慶一の首にぶらさがったのである。
 山崎は、慶一の二倍近い体重があるので、当然、慶一は山崎の躰を支えきれず、左側の柾生にむかって、躰をくずして倒れた。
「どうした!」
 高志の真剣な声が、水面でこだまする。
「いま、なにかが、おれの首んとこを……」
 山崎が、慶一にヘッドロックをかけた状態で、フォールにもちこもうとするかのように、力をいれた。
「ちがう、ちがう、放せよ、バカ!」
 という慶一の悲鳴にこたえるように、高志が拾いあげた懐中電灯をふたりに当て、山崎の力がゆるんだ。
「なんでもないよ。ちょっと、枝にハンカチつけて、このバカのむこうから、肩をなでてやっただけだってば」
 慶一が首をさすりながらいった。
「おまえ、この野郎」
 と、怒り狂った山崎が、ふたたび慶一の首を締めにかかった。
「やめろ、おまえら。もう帰ろう」
 高志は懐中電灯をふたりからはずし、よそを照らす。
「ン? おい、だれか、いま、あのへんで、なにか動いたの、見なかったか?」
 十メートルほど離れたみぎわを照らしたまま、高志がいった。
「見た、なにか細長いのが、するするって、水に入ってった」と、ワラが静かにいう。
「ヤバい……マムシだ! 逃げろ!」
 高志が山崎を立たせ、慶一の手をとって引き起こす。
「早くしろ、こっちにくるぞ」
 高志は慶一の手をきつく握りしめて、ひっぱった。
 パニックになりながら、慶一は必死に高志と走りだし、山崎とワラが、蹴つまずきながら、そのまえを走る。
 柾生は、と慶一が見ると、まだ突っ立っている。
「柾生! なにやってんだよ、早く!」
 高志の力に逆らって、慶一が柾生をふりかえる。
「だって……」
 と、柾生はあきらめたように、早足で歩きだした。
 みなが息を切らせながら、分岐点のある尾根道にたどりつき、はあはあ、と息をととのえる。
「柾生は?」と、慶一が苦しそうにいう。
「いないよ、どうしたんだ」
 と高志が、これも苦しそうにこたえた。
「柾生!」とワラが大声をあげると、高志が照らした灯のなかに、柾生のすがたがあらわれた。
「なにノンビリしてんだ」と、高志。
「だって、暗くてさ」
 柾生は足もとを慎重に見ながら、道を登ってくる。
「気楽な奴は、困ったもんだ」
 高志がうんざりしたように、三人にいう。
「なに、アセって逃げてんのよ」
 と、ようやくみんなに追いついた柾生がいった。
「マムシにまれたら、たいへんじゃねえか」
「どこにマムシがいたのさ」
「おまえ、見なかったのか?」
 高志は、あれっ、という声でいう。
「見ましたよ、おれが見たのはヤマカガシだけど」
「ヤマカガシって、なに?」と、ワラがきく。
「ここらによくいるヘビ。赤い斑点があるヤツ。どうってことないよ。けっこうデカくなるけど、毒なんかないもの」
 柾生がつまらなそうにこたえた。
「まあ、暗くてよく見えなかったから、ホントはよくわからないけど、赤い斑点は見えたよ」
 弁解がましく、柾生が留保条項をつけ加え、慶一は力が抜けて、しゃがみこんだ。
「なーんだ。死ぬほど走ったじゃねえか」
 山崎が安堵の声でいう。
「捕まえにいこう。バーベキューにしようよ」
 と、ワラが元気になった。
「やめろ、もう帰ろう」
 と高志がいう。真剣な声だ。
 むこうから、ワイワイやりながら、数人の生徒がくる。
 山崎が、疲れた声でつぶやいた。
「早く帰って、クソして、寝ようぜ」
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12

大人になったとき、ぼくは
いま夢中になっているものを
まだ楽しんでいるだろうか

〈ホエン・アイ・グロウ・アップ〉
ビーチボーイズ
[#改段]
 七月三十日の朝、慶一は関内駅の階段を走りおりた。
「遅刻だぞ」
 と、改札口の外で待っていた高志が声をかけた。その横で、柾生が笑っている。
 高志は、シャツも白、コットンパンツもスニーカーも白という、異常に実直ななりで、これでベルトまで白かったら、ちょっと恐いところだが、チェックの布地をはりつけたものだ。
 柾生も、薄いクリーム色のボタンダウンに、淡いブルーのコットンパンツというすがたで、慶一ひとり、赤や黄色のめだつ、マドラスチェックのボタンダウンでは、まるで、ふたりの刑事につかまった、チンピラのようだ。
「なにやってたんだよ」
 高志が、慶一の裸の腕をつかんで歩きだした。
「寝坊でーす。スイマセーン」
 じっさい、きのうは寝つけず、けさ起きたら、もうぎりぎりの時間だった。
「何時からだっけ?」
 信号で立ちどまったとき、慶一が念のためにきいた。
「十時だよ。もう、はじまってる」
 暑さに苦しむ老人のように、市電の黄色い車輛が、大儀そうに目のまえを通過していく。
「えー、半じゃなかったっけ?」
 と慶一が大声をあげた。待ちあわせの時刻には遅れたが、開映にはまにあうと思っていた。
 柾生がクスクス笑いだした。
「なーんだ。もー、つまんないところで、だますなよなー」
 慶一は、高志のウソにようやく気づいた。
「ひっひっひ。遅れた罰。でも、急ごうぜ。令子たちをほうってきたからな。ムシがつく」
 高志が横断歩道を早足で歩きはじめた。もう、アスファルトが溶けだしそうな暑さだ。
 その映画館は、三軒の映画館が入ったビルの上階にあり、もう、中学生や高校生が外まであふれている。
 せまい道路をはさんだ、むかいの宝塚劇場は、例年どおり、夏の東宝戦争映画をやっている。『ゼロファイター大空戦』てタイトルだ。去年の『キスカ』は面白かったが、今年は食指が動かない。名画座は『チコと鮫』をやっている。慶一の好きな映画だ。
 令子と知子は、階段にならんでなにか話していた。
 慶一は本気で心配したが、「ムシ」らしき野郎はいない。知子がいるんだから、心配することはなかったのだ。
「ゴメン、ゴメン」
 知子と令子に対し、慶一はつとめて等分にあやまった。
「いいんです。どうせ、待つんですから」
 令子が、笑いながらなぐさめてくれる。
 きょうは、衿やボタンや縁どりだけが白い、無地のブルーのワンピースを着て、文学全集を三冊重ねたぐらいの、ストローのバッグをもっている。
「慶一さん、何度目ですかー?」と、知子がきいた。
 慶一は、一瞬、遅刻のことかと思ったが、この映画を見るのは何度目か、ときいているのだと気づいた。
「これが、二度目」
「あたしも『ヘルプ!』は二度目だけど、『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』は三度目。勝ったあ」
「馬鹿いってんじゃない。勝った、負けたってもんかよ。だいたい、ちゃんと『ア・ハード・デイズ・ナイト』っていわないと、慶一が気ィ悪くするぞ」
 そういって、高志が笑った。
「ま、冠詞は省いても、許すけど」
 と、慶一がすましていう。
 知子は、イーだ、と慶一にむかって顔をしかめてみせた。
「おまえ、はじめてだろ?」
 慶一が、かたわらの柾生のほうをふりかえった。
「うん」
 さらに、いろいろ内容のことをしゃべりはじめた慶一を、柾生は迷惑そうに、にらみつけた。
 館内は、映画がはじまるまえから騒々しかった。七割ぐらいの座席が埋まり、その大部分が十代の少女のようだ。
 最初は『ヘルプ!』だ。
 例の「カイリのお祈り」が終わり、「ヘルプ! アイ・ニード・サムバディ」というジョンの声が入り、モノトーンの画面に、大きな指輪をしたリンゴの右手が映しだされると、あちこちから歓声があがり、たいへんなことになった。
 これは映画じゃないか、と慶一は声を張りあげたくなったが、彼女たちも武道館にいけなかったのかもしれない、と自分自身をなだめた。
 令子を見ると、金縛りにあったように、ただ画面を見つめている。
 じぶんも映画を見ようと、向きなおろうとすると、知子が「ポール!」と叫んで、スクリーンに両手をふった。慶一はため息をつき、そうだと思ったぜ、とつぶやく。
 タイトルが終わると、叫び声もすこし静まり、慶一は物語のなかに入った。「東洋の」秘密教団と、デコボコ二人組のマッドサイエンティストに狙われ、バッキンガム宮殿や、アルプスや、バハマを逃げまわるビートルズの物語のなかに――。

「さてと、どうするかな」
 場内が明るくなると、高志がいった。
 慶一はまだ、頭のなかで〈ア・ハード・デイズ・ナイト〉の十二弦ギターのアルペジオを聴いていた。
「あのさ、おまえが賛成なら、もう一回見ることになっているんだけどな」と、高志がいう。
「いいけどさ。でも、売店でなにか買おうよ。腹へった」
「うん。知子、あれ」
「はーい」といって、知子が大きなペイパーバッグのなかから、小さな袋をとりだした。
 高志が、ほらよ、と、ふた袋わたし、慶一はひとつをとなりの柾生にわたした。
 袋に書かれたマークを見て、思いだした。あのハンバーガーだ。ちゃんと、そのつもりで用意してあったんだ、と納得した。
 高志が、柾生と慶一に飲み物をきく。柾生はペプシ、慶一は「ミルクコーヒー」をたのんだ。高志は女の子たちをつれて、売店へいく。
 ミルクコーヒーという飲み物は、ミルクもコーヒーも入っていないのだそうだが、コーヒー牛乳とは異なる独特の味があり、映画館の売店以外ではあまり見かけない。これを飲むことが、慶一にとっては、ある意味で、映画そのものとおなじくらいに重要だった。
 席を立たない客はたくさんいる。彼らのように、くりかえし見るのも、とくにめずらしいことではないようだ。

 ビートルズに元気づけられた女の子たちが、てんでにはしゃぎまわる階段をおりながら、令子が目を泣きはらしているのに、慶一は気づいた。
「わあ、なんだか、もういちど見たいな」
 うしろから柾生が声をかけたので、慶一は令子から目を離した。
「気に入った?」といってから、あっ、わかりきったことをきいた、と慶一はハッとしたが、柾生は高志とちがって、そんなことは気にしない。
「も、サイコー」
 外へ出たところで、柾生が「ユ・ゴナ・ルー・ザッ・ガル」と歌いだしたので、慶一もつきあって、「ヨー・ゴーナ・ルーズ・ザット・ガール」とバックをつけた。
「アホだと思われるぞ。なんか冷たいもんでも飲もうぜ、あそこで」
 高志がふたりの二の腕をつかんで、ひっぱっていく。
 たしかに、慶一も急にノドの渇きを意識した。外は暑い。
 このまえの店に、おなじ配置でカウンターに全員が腰掛けた。ちがうのは、このまえはいちばん奥だった慶一のとなりに、さらに柾生がいることだった。
 ブーメラン型のカウンターのむこうでは、高校生らしき女の子が三人、『ヘルプ!』のプログラムを見ながら、キャアキャア騒いでいる。
「ぼく、コーラ」と、柾生がいう。
「おれも、そうしよ」
 といってから、慶一はこのまえのことを思いだした。
 案の定、高志が低い声で、
「チョコレートシェイクにしろよ」といった。
「コーラがいいよ」
 と、わかっていない柾生がこだわる。
 もう、こいつら、という顔をして、高志が天井を見あげ、右手を伸ばし、じぶんの顔のまえにかざして、
「イン・ザ・ネイム・オヴ・ザ・ブラック・マザー・オヴ・ダークネース」
 と、カイリの呪文をとなえた。
 慶一と柾生は、反射的にカウンターにひれ伏し、
「カイーリー」とお祈りをとなえた。
「チョコレートシェイクにーするーかー」
 高志が、呪文とおなじようなアクセントでいう。
「カイーリー」とふたりがこたえ、笑いだした。
 慶一が顔をあげると、ピンクのキャンディーストライプのエプロンをかけた店の女の子が、カウンターのなかで笑っていた。
「バッカみたい! やめなさいよ」
 知子がふくれて、高志の白い半袖シャツの袖をひっぱった。
 令子を見ると、ニコニコとほほえみかけていたので、慶一は安心した。
「高志、そっくりだったぜ、いまの呪文。よく覚えられたじゃん」
 慶一の心のなかで、コンプレクスが頭をもたげる。
「もう、きょうの二回で、四回になるんだぜ。いやでも覚えるさ」
 いくらきいても、慶一には英語のセリフなんか覚えられそうにない。せいぜい、あの凸凹コンビの「アップ、アップアップアップ!」ぐらいが関の山だ。
「柾生、どっちがよかった?」
 慶一がまじめにきく。
「うーん、どっちもよかったな。なんともいえない。カイーリ」
「どっちもいいね。歌のシーンなら、『ヘルプ!』かな。カラーだし」
「あのスタジオのシーン、あのジョン。まったく、カイーリ」
「どれ? ああ、〈ルーズ・ザット・ガール〉か。あれはすごいね。ジョンのシルエットがサイコー」
 慶一と柾生の会話には加わらず、高志は女の子たちとなにか話している。チョコレートシェイクをつくるミキサーがうるさい。
「いいなあ、ああいうふうに、スタジオで歌ァうたってみたいな」
 慶一は、そんなふうに考えたことはなかったが、そのアイディアは空想に火をつけた。「テイク、ファイヴ、〈ヨ・ゴナ・ルザット・ガール〉」というトークバックの声がスタジオに響く。柾生がカウント・インで歌いはじめる。じぶんはイントロのあいだ、くわえタバコでハイハットの位置をなおし、ゆったりとスティックをかまえ、八分四拍のおかずで、曲に入っていく。
「やっぱり、『ハード・デイズ・ナイト』のほうが、いい映画じゃねえかな」
 という高志のことばが、慶一の空想をやぶった。ブルーの照明に、シルエットとなって歌う柾生の口もとが、慶一の頭から消える。
「そうかもね。カイリ」
 慶一の頭に、『ア・ハード・デイズ・ナイト』のあとで泣いていた、令子のすがたが浮かんだ。
「女の子たちは? どっちがいい」
 呼びかけのことばに困って、へんなことばを使ってしまった、と慶一はあわてた。
「あたしも両方好き。令子は?」
 と、知子はかたわらの令子を見る。
「わたしは、やっぱり『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』、じゃなくて、『ハード・デイズ・ナイト』」
 つまらないことをいうんじゃなかった、と慶一は後悔した。
「うん。モノクロだから、地味だけど、やっぱり、おれもそう思うな」と、高志が賛成する。
「あの、最後のコンサートの場面で、客席が映るでしょう――」
 令子がこれだけしゃべるのはめずらしい。もう、ミキサーがうなりださないようにと、慶一は心のなかでカイーリと祈った。
「あの、泣いていた女の子がいたでしょう」
「おう、けっこうかわいい子な」
 と、高志が相づちをうつ。
「あの子を見ていたら、なんだか、わたしも胸がつまって、泣きだしちゃった」
「おまえみたいな子だからな」
「そうじゃなくて、なんていうか……」
 それっきりで、令子は口をつぐんでしまった。
 飲み物がならべられていく。
「なんか食べたいな」と、柾生がつぶやいた。
「あとで、中華食いにいこう」と、高志がこたえる。
「カイーリ!」
 柾生がひと口、チョコレートシェイクを飲んで、感動したようすで、小さく奇声をあげた。
「あのさ、おれ、発見したよ」
 柾生が、チョコレートシェイクのなかに宝物でも見つけたように、背の高いグラスを見つめながらいう。
「みんな、なにか見つけんだ、ビートルズの映画は。ポールだけじゃなくて、リンゴもかわいい、とかよ」
 高志が、となりの知子を馬鹿にしたように見かえる。
「ヘーンだ。あっちいけよお」
 知子が両手で高志を押したので、そのあおりで、慶一も柾生にむかって倒れかかる。
「『ヘルプ!』の曲の並び、おぼえてる?」
 柾生がグラスを避難させ、顔をあげ、じぶんの右にならんだ他の連中を見た。
「あたりまえだ。最初が〈ヘルプ!〉、つぎが〈ルーズ・ザット・ガール〉、そのつぎが、えーと、〈ユーヴ・ガット・トゥ・ハイド・ユア・ラヴ・アウェイ〉、それから、アルプスだから、〈ティケット・トゥ・ライド〉で……」
「そこまで!」
 と柾生が、さらにつづけようとする慶一をとめた。
「そこまでのリードシンガーは、だれでしょう?」
 慶一は、なにいってんだ、こいつは、という顔でとなりの柾生を見る。
「そうだな、ぜんぶジョンだ」
 わきから高志がひきとった。
「そうか、それをいってたのか。待てよ、あとが〈アイ・ニード・ユー〉で、そのつぎが〈ザ・ナイト・ビフォア〉で、それから〈アナザー・ガール〉か……うん、ジョンのリードは前半ばっかだ」
「でしょう。ジョンがいい歌をうたってさ、のこりのたいしたことない歌を、ポールがうたったんだ。ジョージの〈アイ・ニード・ユー〉は問題外だし」
「やっぱり、ジョンがいちばん、えばってんだな」
 と、慶一が高志を意味ありげに見る。
「そういうことじゃなくて、ジョンがいちばんいいシンガーだからだろ」
 高志が知らんぷりでいった。
 そんなことないってば、ポールのほうがいいもん、という知子に、高志は、お子様ランチ、ガキ、映画館にランドセルもってくんじゃねえぞ、といいかえした。
 バカ、死んじゃえ、と知子が高志のふくらはぎでも蹴ったらしく、カウンターの下の板で大きな音がし、高志が顔をしかめて脚に手をやる。
 奥に坐った、こわい顔のマスターらしき人物が、高志をにらんで、吸っていたタバコを、アルミの灰皿が音をたてるほど強くもみ消した。
「あの、〈ラヴ・アウェイ〉のヴォーカルをさ、でかい音で聴いて、感動しちゃった」
 といって、柾生はまたシェイクを吸いあげる。
 たしかに、あれにはいつも感動する。ジョンの息づかいまで聴こえそうだ。
「忘れてた、おまえ、リストつくってきたか?」
 と、高志が慶一にきく。
「あ、そうだ」
 慶一は、ヒップポケットのフラップのボタンをはずし、四つに折り畳んだ紙をとりだした。
 受けとった高志が、それを開いて、しばらく読む。
「なーに、それ?」
 横から知子がのぞきこむが、高志は返事もせずに読みつづける。
「バカ、〈アイ・フォウト・ザ・ロウ〉って、もう出たじゃねえか」
「そうだっけ」
「ああ。ヤング・ラスカルズも出るだろう」
 高志は、人差指でリポート用紙を叩いた。
「わかんないよ、日本の会社はメチャクチャだから」
「ヤードバーズの〈オーヴァー・アンダー・サイドウェイズ・ダウン〉だの、スタンデルズの〈ダーティー・ウォーター〉だの、騒々しい曲ばっかじゃねえか」
 三日後に、ワラがアメリカへ帰る。あまった今月分と前借りした部費で、ワラに買ってきてもらうレコードのリストを高志は見ている。
「あんまり前借りできなかったから、部のぶんはせいぜい四、五〇枚しか買えないだろう。おまえ、どうしてもほしくて、じぶんで金払う気があるなら、必要なのに印をつけとけよ」
 そういって、高志はリストを慶一にもどし、店の女の子に、なにか書くものを貸してくれ、とたのんだ。
 これで、九月になったら、KWTSは、日本の局ではあまりかからないめずらしい曲や、八月に出たばかりの最新の曲を「オンエア」できるだろう。ざまあ見ろ、日本のイモ放送なんか、目じゃねえや、と慶一はごきげんだ。

 例によって、高志はきょうも、だれにも金を払わせなかった。例によって、映画館のすぐそばの中華料理屋でも、焼きそばを食べたい、という慶一に、カイリの呪いをかけて、三枚肉を柔らかく煮こんだものと、エビのチリソース炒めにしろと強制し、最後に、骨付き肉を唐揚げにしたものがのったラーメンを食べさせた。例によって、高志の意見は正しかった。
 料理屋の外に出ると、もう陽がかげりはじめていた。
 馬車道通りを駅にむかいながら、柾生が遠くを見て、
「いいなあ、ビートルズになりたいなあ」
 と、料理屋での話のつづきをはじめた。
「うん、おれもなりたい」
 慶一も、力をこめて同意する。
「高志は?」
 と、遅れて女の子たちと出てきた高志を、慶一が顔を輝かしてふりかえった。
「なんだよ」
「ビートルズになりたくない?」
「おれはいいよ」
「ちぇ、つきあい悪りぃな」
「おまえら、ビートルズみたいになったら、おれが映画を撮ってやる」
 高志の声に冗談の響きはなかった。
 慶一は、柾生のいうことを正確に理解していた。ビートルズみたいになるのではなく、ビートルズになるんだ。高志はそれがわかっていない、と慶一は思った。
「わあ、そしたらさあ、あたし、見にいってあげるからね」
 と、知子もはしゃいでいる。
「わたしも、きっと見るわ」
 令子も小さな声で同意した。
 慶一は、高志がビートルズにならず、リチャード・レスターになるのも、悪くないかもしれないと思いなおした。
 写真が好きなくらいだから、高志は映画をつくりたいと、本気で思っているのかもしれない。
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13

だから、いいつづけるだろう
いつまでもここで暮らすと

〈フェリー・アクロス・ザ・マージー〉
ジェリー&ザ・ペイスメイカーズ
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「あれ、まったくおなじ形なんだね」
 ワラが、ヴェランダの手すりにもたれて、三階部分の工事に入った、新しい寮を見ながらいった。四〇一のヴェランダからは、工事のようすが手にとるように見える。
「あったりまえじゃねえか。どうなると思ってたんだよ」
 高志が、デッキチェアの背を、四〇一の外壁にななめにもたせかけ、手すりのたての細い鉄棒に脚をかけて、頭のうしろに両手を組みながら、ふんぞりかえってこたえた。
 慶一は、立ったまま四〇一の窓にもたれ、どうして高志が、こんなつまらないことに、つきあっているんだろうと考えていた。それも四〇七から、わざわざデッキチェアをもってきて、腰を据えている。
「どうって、とにかく、なんかちがうもの」
「たとえば?」
 あまりの手もちぶさたに、慶一もつまらない会話に加わった。
「わかんない。たださあ、ちがうものがならんでいるほうが、おなじものがならんでいるより、いいんじゃないかなあ」
「建物ってのはよ、安定感がなきゃあ、ダメなんだって」
 こいつらは、建築家にでもなる気なのか、と慶一はうんざりした。
 Tシャツ一枚のむきだしの腕に、風があたる。もう、夏みたいなふりをしても、信じるのがむずかしくなってきた。いくらなんでも、秋の風だ。
 でも、髪の毛が心持ち風になびくような感じは、慶一をいい気分にさせた。いちどだけ親の顔を立てて、夏休み中に床屋へいったが、バリカンなどはあてさせなかったので、ほとんど無傷で帰ってきた。
 いくらこの学校が自由でも、文句をいう教師がいないわけではない。慶一が、なんといわれようと絶対に口をきかず、ただ黙ってニラミつけるだけなので、注意した教師も恐れをなして、なにもいわなくなった。
 校則には、髪の毛の長さは定められていないのだから、ぜったいにるつもりはない。寮長は「きみはビートルズになるのか」といって、笑っただけだった。
「女子寮も建てはじめたってことはさ、来年から、女の子が入ってくるってことかな」
「あたりまえだろ。こっちに部屋があまってるのに、あんなもん建てて、ほかにどうするんだよ」
 と、高志がイスをきしませる。
 夏休み中から、新寮のむこう側の谷で、小さな寮の建設もはじまった。このさき、どうなるかはわからないが、いまのところは広辞苑のようなかっこうに見える。ぜんぜん愛想がない。塗装せずに、コンクリートむきだしで仕上げたら、変電所とまちがえるだろう。
「四月にまにあうのかな」
 と、ワラが心配そうな声を出した。
 呆れかえったのか、高志はなにもこたえない。
「ねえ、ミーティングするんでしょ」
 慶一がしびれを切らした。
「ああ」と、高志は生返事をして、
「――なあ、そろいの帽子つくらないか」
 と、話をそらした。
「帽子って?」
 ワラが高志のほうにふりかえる。
「横須賀でさ、野球帽みたいなのに刺繍ししゅうしてくれる。KWTSのマークを入れてもらおうかなと思ってさ」
「高いんじゃないの」と、慶一は懐疑的だ。
「金はなんとかする。そんなに、むちゃくちゃな値段じゃないだろ」
「帽子なんかつくって、どうすんだよ」
「べっつにー。三人でかぶらないかなと思ってさ」
 注文しにいこう、という高志のことばに、慶一はやはり乗ってこない。
「さてと、じゃ、部室にもどるか。きょうは議題がたくさんあるからな」
 高志は、いきおいよく立ちあがった。
「たくさんあるって、なにがあるの。まだ、なんか買うわけ。そろいのローファーとか?」
 四〇七のヴェランダのドアをあけながら、慶一が高志にきいた。そのことばにトゲがあるのを感じながら、高志はなにもこたえない。
 夏休みのあいだは、この部屋に「違法な」ものがたくさんあることに、とくに違和感を覚えなかった慶一も、三人全員が三回くらい退学になるのではないか、という氾濫のしかたに、最近はすこしおびえてきている。いまでは、電気ポットと電熱器、それに鍋までそろっている。
 高志は、高価なものがたくさんおいてあるから、という理由で、ここにはつねにカギをかけてよいという許可をとっていた。マスターキーをもっていないかぎり、舎監や当直教師も、いきなり四〇七に踏むこむことはできない。
 ときおり、当直のときに生田があらわれて、どうだ、調子は、と声をかけていくぐらいで、舎監はここには顔を見せたこともない。
 折り畳んだデッキチェアを壁に立てかけ、高志は応接セットのソファに腰掛け、身動きして、居心地のよい姿勢になる。
「ローファーなんか買わないよ。おれはもってる」
 こういうときの高志は、ほんとうに憎たらしい。黒と茶の二足のローファーと、ウィングチップまでもってる奴に、あんなイヤミはむだだった。
 ワラがステレオのスウィッチを入れ、TUNERに合わせる。野球かなにかの実況中継らしいので、FMにするが、これも室内楽のようなものが流れている。しかたなくテープをまわし、ワラは慶一のとなりに腰掛けた。
〈イエロー・サブマリン〉の長いフェイドアウトにかぶさって、最近は日になんどもかかる〈チェリシュ〉の印象的なイントロが流れる。慶一は、こんなの軟弱だと、山崎のようなことをいっているが、高志とワラは賛成票を入れた。
「おまえらさ、あのヴィデオほしくないか」
 と、高志が手を頭のうしろで組んでいう。
「ヴィデオって、サロンのあれ?」
「もちろん。ヴィデオコーダーはあれ一台しかない」
「ほしくないかって、どういうことさ」
 慶一は、そういいながら、ああ、もう手に入れたも同然なんだ、高志は、いつもの秘密主義で、段取りを終わったから「議題」にしたんだ、と直観した。
 ワラも、そう思ったらしい。
「あんなもの手に入れて、なにするのさ?」
 ほしいかどうか、手に入るかどうかは、もう問題ではなくなっていた。
「ヴィデオ映画をつくろうかな、と思ってな」
「なんだよ、ヴィデオ映画って。チャンバラでもやるのかさ」
 慶一は相かわらず気がない。
「バーカ。女がいねえのに、どうやって芝居をやるっていうんだよ」
「女形があるだろ。休みまえの演芸会みたいに」
「やなこった。だいいち、大道具小道具なんかつくる金がない。三万しかないんだからな」
「三万て、学園祭用のお金のこと?」
「そうだよ。あたりまえだろ。学園祭の話ィしてんじゃねえか」
「じゃ、なにつくるの?」
「寮生の一日」
 という、高志の顔が笑っている。
「へえー、すごく面白そ」
 慶一が、失望をあらわにいう。ネズミをいたぶるネコのような話し方は、高志の十八番だが、慶一には、それがだんだん鼻についてきた。
「なに怒ってんだよ、さっきから」
「だって、みんなもう、はじめから、ひとりで決めてるんじゃないか!」
 曲はホリーズの〈バス・ストップ〉になる。これは慶一も賛成票を入れた。ホリーズのドラムはうまい。だから、美しいメロディーをもつこの曲にも、しっかりビートがある。
「まあまあ、いつもこうなんだから、気にしない、気にしない」
 と、ワラがなだめた。
「慶一」
 高志はまっすぐ慶一を見て、静かに話しかけた。
「なんだよ」
「こんどからは、ちゃんと相談する。だからさ、やろうぜ。きっと、これは面白いって」
 慶一はなにもこたえず、反論しないことで、不承ぶしょうの同意を示した。
「ワラは、いいんだな」
「あのマシーン、いじらせてくれる?」
「あたりまえだ、はじめっからそう思ってたよ」
 ワラは、機械さえあれば、あまり文句をいわない。満足そうな顔で、乗りだしていた上体をソファの背にあずけた。
「じゃ、ふたりとも、オーケイ?」
 ワラは、ヤ、とこたえたが、慶一は黙っている。
 高志は、まったくもう、という顔をして、
「慶一、なあ」と、身を乗りだした。
「なんだよ」
「ブラバンは、学園祭、なんにもしないんだろ」
「するよ。初日に校歌演奏」
 ワラが、そっくりかえるようにして、大笑いする。校歌演奏だってさー。
 慶一は、左手の甲でワラの腹を叩いた。ワラは両手で腹をかかえて、いってえー、なにすんだよ、という。
「ワラにあたったって、しようがねえだろ。学園祭まえの一週間は、自習時間なしだ」
「そうなの!」
 ワラは単純によろこぶ。
「なんで?」
 慶一は、なにかワナの臭いを感じた。
「夜も、学園祭の準備に使っていいんだ」
「どうして、そんなこと知ってんだよ」
「どうしてもな。それよりさ、慶一。おまえ、一週間ぶっつづけで、校歌の練習するのかよ。それって、すごく面白そうじゃん、な、ワラ?」
「ひっひっひー。ドラム・ロールがうまくなるんじゃない」
「なんだよお、おまえら。いいよ、もう。おれ、こんなクラブやめた!」
「カッカするなってば。おまえ、校歌のドラム、もうちゃんとできるんだろ」
「あたりまえだよ。死ぬほど簡単だもん。ロールが三回あるだけで、あとはどんなトーシロでもできる」
 左右交互の四分のフラ打ちと、遅い三連符以外、慶一に恐いものはない。三連符というのは不思議なもので、速いほうが叩きやすい。テンポが遅いと、足の運びを意識しながら階段をのぼるような困ったことになり、やがて、つぎのアクセントが右なのか、左なのか、わからなくなってしまう。
「じゃあ、ブラバンの練習なんか、出なくたっていいだろ」
「そうはいかないよ。ひとりだけ出なかったら、ヤバいよ。かんのほうはむずかしいから、まだきちんと合ってないんだもの」
「でも、おまえはやりたくないし、もう練習なんかしなくたって、できるんだろ」
「うん」
 スプリームズの〈ユー・キャント・ハリー・イン・ラヴ〉のベースが流れてくる。
「じゃ、映画つくるからって、抜けてこいよ」
 そういうことか。慶一は呆れてしまった。
「ヤマだ。ワラ、あけてやれ」
 ふたりがふりかえると、山崎が窓に顔をべったりくっつけて、ブタのような顔をして、ンーと、うなっていた。
 ワラがカギをあけると、
「速達です。事務所んとこ、とおりかかったら、玉井のおっさんが、これをおまえにとどけろってさ。ひとのこと、なんだと思ってるのかね、あれは」
 と、山崎が紙袋をもって入ってきた。
「サンキュー。郵便屋だと思ったんだろ」
 といって、〈ミスター・ポウストマン〉のファーストラインを口ずさみながら、高志は、受けとった紙袋から薄い本をひっぱりだした。
「よしよし。ワラ、これ、ちゃんと読んどけよ」
 と、それをワラに手わたす。
「なに?」
 慶一も、ワラの横からのぞきこむ。なにかローマ字と数字があり、大きい文字で「操作説明書」とある。
「なんなんだよ、これ。あのおっさん、写しはないからていねいにあつかえ、とかいってたぜ」
 ワラはしばらく、ぱらぱらとその操作説明書をめくって、
「たいへんだ、むずかしそう」と、うなった。
「そんなことはないだろ。テープレコーダーみたいなもんだろ。音じゃなくて、絵を録るだけじゃねえか」
「機械の操作はワラがやるなら、じゃあ、高志はなにやるわけ?」
「おれ、監督とカメラマン、それに脚本家」
「じゃ、おれは?」
「慶一は、ま、はじまってのお楽しみ」
「もー、また、そういうふうに、じぶんだけ、いい役なんだからー」
 曲が、トロッグズの〈ウィズ・ア・ガール・ライク・ユー〉になった。慶一の好きな曲だ。
 この日は、「議題はたくさんある」はずだったのに、結局、映画以外の件はもちだされなかった。

 ヴィデオの機械は、カヴァーをかけてサロンに置きっぱなしになっていた。数十万円といわれるこの機械が、そんな出入りの多いところに、平気で放りだしてあるのには、それだけの理由があった。
「ひでえよ。くそー、だまされた!」
 慶一は「はじまってのお楽しみ」の意味を知って、怒り狂っていた。この機械は三人では運べない。すくなくとも四人は必要だ。
「うるさいな。おれだって、知らなかったんだよ」
 高志も苦しそうな声をあげた。最近、ソニーがもっと軽い機械を発売したが、これはそれよりも古くて、そもそも、もち運ぶことを考えていない。
 校舎にも、寮とおなじく、生徒は使えない職員用エレヴェーターがある。きょうは、堂々とそのエレヴェーターに乗った。しかし、これは四階までしかいかない。四階から屋上に出るには、階段を使う以外に方法はない。
 高志、慶一、ワラ、山崎の四人は、その二八段しかない階段を、口々に文句をいいながら、一分もかけて昇っていた。各人が「ヴィデオコーダー」の角をもって、汗だくになっている。
「オーケイ、そっちのわきにゆっくり降ろすぞ」
 屋上へのドアのまえは、かなり広い。高志は、出入りの邪魔にならない場所をアゴで示した。
「きょうは、これだけにしておこう。あとは、あしただ」
 さすがの高志も、ひたいに汗を浮かせていた。

 翌朝、深い眠りから揺り起こされた慶一は、常夜灯のあかりのなかで、不思議そうに高志を見つめた。
「慶一、いくぞ。撮影だ」
「何時?」
「三時」
「うーん、いやだよ」
 そういって、寝返りをうち、また寝ようとする慶一を、高志は手をとって強引に起こした。
 五分後、夢遊病者のように四〇七に入ってきた慶一に、
「もー、信じらんないよなー」
 と、ソファにもたれこんで待っていた山崎が、眠そうな声でいった。
「お早よう」
 ワラは、もう元気な声で、カメラの入ったアルミ・トランクのふたを、きっちりと閉めている。

 校舎玄関わきの事務室の奥には、宿直室があって、毎晩、警備員がここに泊まる。生田先生は、きちんと高志たちの頼みを伝えておいてくれたらしく、警備員はだまって玄関のカギをあけてくれた。もっとも、エレヴェーターの電源までは入れてくれなかった。
 校舎の屋上には、寮とちがい、ほんものの塔がある。
 四人は、機材やテープをかついで、五階にあたる屋上、さらに二階ぶんはある塔上まで、合計七階ぶんの階段をのぼった。
 カメラとレコーダーをつなぐケーブルは、一〇メートル近くあるので、レコーダーは扉口においたまま、カメラとライトだけが、塔上にあげられた。
「ワラ、おまえも、あがってこい」
 塔の上では、カメラのセッティングのために撮影用のライトが点灯され、全員がせまいところに勢ぞろいした。
 カメラのグリップを握って、高志がまわりに立った三人を見まわす。
「では、諸君、撮影にかかります」
 ワラが元気に拍手した。山崎と慶一も、しかたなく拍手に加わる。
「まだ、日の出にはすこし時間がある」
 ダイヴァーズ・ウォッチを見ながら、高志がいった。
「じゃ、これでいいね。ぼくはもうおりるよ」
 ワラは、機械のことが気になってしかたない。
「ねえ、ちょっとテストにテープをまわしていい?」
 おりかけたワラがふりむいて、高志にきく。
「いいよ。どうせ、何回か撮らないとダメだろう。でも、一回ごとに巻きもどすのを忘れんなよ。切りきざんだりできないんだからな」
「うん、わかってる。ヤマ、手伝ってよ」
「おう」といって、山崎も塔をおりる。奴はまだ夢のなかにいて、事態を把握していない。命令する人間がいるなら、だれにでもしたがうだろう。
「おまえ、ここにいろよ」
 と高志が、おれはどうしようかな、というそぶりの慶一にいう。
「うん。あと何分ぐらいで日の出?」
「そろそろ、明るくなるんじゃないかな」
「ちょっと、寒いね」
 慶一は、シャツ一枚の腕をさする。
「これ、着ろよ」
 高志は、タツノオトシゴのマークがついた、紺のトレイナーを脱いでわたす。
「いいよ」
「いいから、着ろってば」
 慶一はそれ以上あらがわず、高志の温かみがのこるトレイナーを引っかけ、マフラーのようにして、首のまえで袖をむすんだ。
 ふたりは黙ったまま、しばらく、ところどころに灯が見えるキャンパスをながめる。
「たかしー!」
 と、下からワラが大声で呼びかけた。
「なんだー」
「準備完了。ちょっと、どこかにライト当ててさ、撮ってみてよー」
「わかった」
 高志は三脚に手をやり、
「おまえ、ライトのなかに立ってみろ」という。
 慶一がライトの当たる場所に移動し、高志はグリップを握り、カメラをむける。
「こんなもんか。――おい、ワラ、どうだ?」
「モニターには出てるけど、いまからちょっとテープをまわすから、そのままでいて」
 慶一は落ちつかない。どうせ、すぐに消去されるのはわかっているが、それでもやはり、どういう表情をすればいいんだろう、と戸惑っていた。
 下からふたりの笑い声が、コンクリートの壁で反射しながら、塔上までのぼってくる。
「なに、遊んでんだ。ちゃんと撮れたのかよ」
「バッチリ!」
 ワラの声が響く。
「おーい、この慶一の顔ったらないぜ。消すのがもったいないよ。これ、ファーストシーンにしようぜ」
 こんどは山崎の声だ。もう目が覚めたらしい。
「なに、バカいってんだよー」
 慶一が本気でおどろき、塔から身を乗りだして、下へむかって大声をだす。
「バーカ。本気にしてるぞ」
「もー、アホどもがー」
「慶一」
 という声で、慶一がふりかえると、高志が前方を指さしていた。
 空が群青色になっている。
「おい、テープの頭でてるかー」
「うーん」
「明るくなってきた。あと一〇分ぐらいで、撮ってみるからな」
 そういいながら、高志はライトのところにいき、スウィッチを切った。いっそう、空の明るさが際だつ。
「ねえ、高志」
 慶一は、腕を組んで塔の手すりによりかかり、その上にアゴをのせ、東の空を見つめている。
「うん?」
 高志は、カメラを寮のほうに向けて固定しながらこたえた。
「ここは、けっこうきれいなんだね」
「そうさ。肥溜めさえ見えなければ、日本とは思えない」
 といいながら、高志も慶一のとなりにきて、手すりにもたれかかった。
「うん。でも、日本じゃないなら、どこの国だろう」
「さあな……」
 ふたりは手すりにもたれ、まったくおなじ姿勢で、黙りこくって、空とその下の寮を見つめる。
「なあ――」
 高志が沈黙をやぶった。
「〈ノーホエア・マン〉にでてくるだろ、“ノーホエア・ランド” ってやつ。ここはそれだ。どこでもない国だ」
 空が急速に明るさを増す。
「ワラ、モニター見てるか」
「うん」
「撮れそうか」
「もうちょっと。まだ、なんだかよくわからない」
「ちょっと見にいこう」
 と、高志は慶一をひっぱって、階段をおりた。
 四人は、七インチのモニターを囲んで、塔の下に腰をおろし、しばらく黙って画面を見つめる。
 モニターのなかの寮と周囲の山や丘が、徐々に輪郭を明瞭にととのえていく。
「そろそろ、いってみよう」
 黙って画面を見ていた高志が、ぽつりといった。
「アイアイ、ダイレクター。『寮生の一日』、シーン1、カット1。ただし、テスト。スタート」
 ワラが、完全にその気になった声でこたえて、RECボタンを押す。
 山崎が、目のまえにもちあげたストップウォッチを押しながら、ひでえタイトル、とつぶやいた。
 衣擦きぬずれのような音をたてて、テープがまわる。
 二二秒で、ワラがテープを止める。
「もどせ!」
 ワラが素早くリワインドし、テープを止め、プレイ・ボタンを押す。一秒ほどのノイズのあとに絵が出た。
 それは、モニターで見たより、かなり暗かった。ほとんど輪郭がわからない。
「ダメだな」
 と高志が、がっかりした声でいった。
「ふつうのカメラなら、シャッターを開けっ放しにできるんだけどね」
 ワラがなぐさめるようにこたえた。
「こうしよう。きのうの朝見たときは、寮の裏から太陽があがった。ちょっとヤバいかもしれないけど、それ、いってみよう」
「ねえ、まだ日が出るまえに撮ってから、テープをはずして、予備のテープをセットして、バックライトのカットをとったら? そうすれば、失敗しても大丈夫だよ」
「おまえ、すぐに交換できるのか?」
「まかしてよ」
 高志が、うしろで黙ってモニターを見ている慶一をふりかえった。
「こいつ、おれより本気だぜ」
 慶一も、画面に映しだされる、薄明の寮の光景に、すこし興奮を感じている。
 一九六六年十月八日の夜が明けようとしていた。

 撮影は、思ったほど順調にはいかなかった。
 ファーストショットは、ちょっとハレイションを起こしたが、逆光のカットでいくことになった。これが二二秒。うち二秒は、高志のいう「ノリシロ」なので、つぎのカットの録画で、消去されてしまう。それで、実質は二〇秒。
 さらに、左端のテニスコートから、畑のある段丘、寮、工事中の新寮、校舎の屋上をなめた寮わきの低い山へ、というパーンが十二秒。
 このあとが、たいへんだった。高志の命令一下いっか、三人は超特急で荷物をたたみ、警備員に電源を入れてもらい、エレヴェーターで一階におり、台車にレコーダーをのせて寮にもどった。
 そして、また校舎に引きかえし、のこりの荷物をもって、カメラをもった高志以外は、寮への坂を駆けるようにしておりた。
 寮の屋上への出口、「サンルーム」と呼ばれている、三六〇度ガラスにかこまれた、踊り場の屋根の上にカメラをセットしおわったときには、太陽はかなり高くなっていた。
 ここで、キャンパスの左端から右端へとカメラをパーンしたショットも、やはり十二秒だった。
 さらに、朝日に照らしだされた校舎の固定ショットが一〇秒。
 この日は、ここでおしまいになってしまった。
 このあとに、タイトルを入れて、もういちど校舎屋上からのショットにつなぐ、というのが、高志が考えたシナリオだった。
 いかになんでも、台車にレコーダーをのせて、校舎への坂を駆けあがるなど、むりな話だった。あとで、施設課のヴァンに運んでもらうしかない。
 フィルムなら「中抜き」で撮れるのに、このようにシークェンスどおりに撮影しているのは、編集ができないためだ。きちんと、見せる順序で撮っていかなければならない。
 高志にそう説明されても、山崎も慶一も納得できなかった。順番に撮らなければならないなら、順番のほうを簡単にしよう、そういって食いさがったが、脚本のとおりに撮る、ここでもう一回、校舎から望遠で見た寮の絵が必要だ、だから、あした、もう一回校舎へいく。そういって高志は譲らないし、ワラもそれを支持した。
 これが、撮影が長びいた原因だった。慶一は、高志がなぜ、二〇秒かそこらのカットにこだわるのか、まったく理解できず、ふくれっ面で撮影につきあった。
 高志が「脚本」といっているのは、ただのコクヨの大学ノートで、「食堂まえ廊下、無人」「同、食堂に入る寮生」「食堂入口(斜めに)」「食堂まえ、黒板のメニュー(クロースアップ)」などと、一ページに一カットずつ、簡単な線画がそえられて、書かれている。
 この「脚本」はワラが管理していて、つねにレコーダーのそばにおかれていた。
 いつもは毎朝「局」でやっていた、起床放送のアナウンスも、「晴用」と「雨用」のふたつのテープに録音して、寮事務室の「おっさん」たちに、まかせきりにしてしまった。
 この土曜日は、全員、外泊せずに寮にとどまり、二日目も、また必死で荷物をたたんで、校舎から寮へ引き返すはめになった。朝の静かな寮の撮影のためだ。
 玄関外にある、なんのためなのかわからないコンセントから電源をとって、ケーブルの長さいっぱいまで建物から離れての寮の絵(「寮のあおり(玄関より)」のショットだ)、食堂まえの廊下、さらに逆方向からの廊下(当然、なんでこんなのがいるんだ、と不承ぶしょう二人組から文句がでた)、中央階段、そのあおり、「サンルーム」のこれまた四階からのあおり、中央階段の手すりをなめながらの一〇一と一〇二のドア、そうしたショットがつづき、一〇二の内部に入った。
 一〇二は、九月の部屋替えで慶一が入った部屋だ。またしても七人部屋で、ツイてる。
 起床二〇分まえ、前夜の予告どおり、外泊しなかった一〇二の連中と、「エキストラ」で呼ばれた他の部屋の奴らが起こされて、高志に、起床のドラムとともに、いっせいに毛布をはねあげるように注文された。
 山崎もエキストラに加わり、慶一も、馬鹿みたいだと思いながら、パジャマを着て、またじぶんのベッドにもぐりこんだ。
 ワラは、山崎にかわって、ライトをかかげることになった。
 このシーンのプレイバックを見ると、おそろしくわざとらしいタイミングに見える。きれいに毛布がもちあがるのだ。
 カメラ位置を変えてのクロースアップ、ベッドメイキングの絵などが撮られた。
 日曜は点呼がないので、一〇二とエキストラの連中は、べつに文句もいわず、高志の指示にしたがった。
 文句をいったのは、慶一だ。
「やだよ、そんなの」
「慶一、たのむからさ、時間ないんだから、文句をいわずにやってくれよ」
 高志は拝むかっこうをした。ワラもヤマもニヤニヤ笑うだけで、慶一を助ける気はないらしい。他の連中は、フレームの外から、からかい半分で見物している。
 慶一は、パジャマのまま、トイレから出てきて、手を洗い、歯磨きをしろ、と説得されている。
「じゃあさ、Mボタンしめなくていいなら、やるよ」
 ボタンをしめながらトイレから出てこい、というのが高志の指示だ。
「わかった、それでいい。ここはあとで音をかぶせるから、思いっきり鼻かんだって、痰を吐いたってわからないからな」
「そんなことするかさ」
「あのな、これは芝居じゃない。カメラを意識していいぞ。おれが声をかけたら、歯ブラシを口に入れたまま、カメラにむかって笑いかけろ」
「歯ブラシが口に入ってて、いったい、どうやって笑えっていうの?」
 いいから、笑うつもりで、と高志にうながされ、慶一は不承ぶしょう「演技」にとりかかった。
 トイレから出る。手を洗い、じぶんの真っ白なタオルでふく。歯ブラシを出し、歯磨き粉をつけると、高志が、こっち見て笑え、という。山崎が、カメラと洗面所の入口の桟とのあいだから、ライトを当てる。
 慶一は、硬い笑いをカメラにむけた。鏡を見ながら磨け、こっち見ろと、高志がつぎつぎに指示をだす。
「そのまま。おまえ、じぶんがすごくかわいい顔してるの、知ってるか」
 高志の唐突なことばに、慶一は歯ブラシを吐きだし、
「バカヤロー」
 と、吹きだしながらいう。
 それを待っていた高志は、その口の動きをしっかりとテープに収めた。
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14

おれの人生だ
好きなようにする

〈イッツ・マイ・ライフ〉
アニマルズ
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 学園祭もとうに終わって、もう、校服の上着のしたにセーターを着ないと、校舎にいく短い坂道も歩きたくない、という季節になった。
 映画は、まあ、成功だった。できはどうあれ(高志自身、慶一やワラや山崎に、これについて、ひとことでも感想をいったら、たとえそれがほめ言葉でも、二度と四〇七の秘蔵食料は食べさせない、といいわたしたぐらいだ)、テレビの画面にキャンパスや子どもたちが映っているので、父兄たちはけっこう楽しんだようだった。
 二日間の学園祭のあいだ、寮長が三回もお客をつれてきたぐらいだから、芸術的にはともかく、政治的には大成功といってよい。
 中間試験の真っ最中に撮影したので、高志をのぞく三人の成績は、これまでの最低で、さすがの慶一も、入学以来、坂道を転がるように成績が落ちてる、と自覚したぐらいだった。
 学園祭の一カ月後、慶一が外泊から帰って、KWTSに借りたレコードを返しにいこうとすると、インターフォンで呼出しがあった。室長と、だれかもうひとり、寮長室へこい、という。
 たまたま、室長の長田以外には、慶一ともうひとりしかいなかったので、長田に誘われ、慶一も寮長室にむかった。
 じぶんが指名されたわけじゃないから、なにも心配することはない、とは思ったが、七月一日の記憶があるので、やはり、いい気持ちはしない。
 寮長室に入ると、応接セットに向こうむきに坐った、慶一より髪の毛が長い、やせこけた、生意気そうな奴がふりかえった。
「きょうから、きみたちの部屋に入る片桐君だ。片桐行雄君。よろしく世話してほしい」
 と寮長が、長田と慶一にいう。
「はい」と、こたえるしかない。
「そこの荷物を運ぶのを手伝ってあげなさい」
 といわれて、慶一がふりかえると、大きなタータンチェックのバッグと、ギターの黒いハードケースがおかれていた。あれは、エレキのケースだ。
「きみたち、部屋でバンドでもつくったらどうだ、ふたりとも、ビートルズみたいなんだから」
 と、寮長が慶一に笑いかける。
「じゃあ、片桐君はなにも知らないんだから、きみたちがよく教えてやってくれ、よろしくな」
 寮長のことばをしおに、片桐が立ちあがり、長田がバッグをもち、慶一はギター・ケースをもった。
 そのまま寮長室を出ようとすると、
「それにさわるんじゃない」
 と、新入生が低い声で慶一にいった。
 おどろいて、慶一がふりかえると、片桐は慶一の手からギター・ケースをもぎとり、さきに出ていった。

「ねえ、なにか弾けるの」
 その日の夕食後、じぶんのとなりのベッドを割り当てられた片桐に、慶一は話しかけてみた。
 片桐は、慶一をジロリとにらんだだけで、なにも返事をせずに、ベッドに寝かせたケースを開いて、そっとネックをもちあげた。
 慶一は仰天した。テスコかグヤトーンでも出てくるんだろうと思っていたら、黒いボディに、白いピックガードがついたフェンダーが出てきたのだ。フェンダー・ストラトキャスターだ。
 坐って弾くのだろう、という慶一の予想をうらぎって、片桐はゆっくりと、黒革の幅広のストラップをかけ、立ったまま素早くチューニングして、速いパッセージを弾きはじめた。
 慶一は感銘を受けた。驚愕したといってもいい。アンプをとおさない、ソリッド・ボディのエレキだから、ペラペラした情けない音色だが、それでも充分だった。
 片桐は、正確に三二小節弾いて、はじめたときとおなじように、唐突に指をとめた。
 慶一は思わず拍手した。
「すごい。いまの、なんて曲?」
 それは、慶一が耳にしたことのないタイプの音楽だった。
「ただのブルースのフレーズだ。曲じゃない」
 といって、片桐はまたペグに手をやり、チューニングをなおす。
 こいつはおそろしく無愛想で、ニコリともしない。慶一は、曲じゃない、といわれて困惑した。曲じゃない音楽なんてあるのか、ただのブルースのフレーズって、どういう意味だ?
「なにか、ぼくの知ってる曲、弾いてくれない」
「いってみな」
「ビートルズは?」
「だから、いってみな」
「じゃあ、〈アイ・フィール・ファイン〉は?」
「つまんねえ」
 と、片桐は歯牙にもかけないようすだが、すぐに、その有名なリフを弾きはじめた。
 細く長い指が伸びて、人差指と小指が三フレットも離れるめんどうなリフを、楽々と弾きこなす。イントロが終わったところで、片桐は、また、パタリと手をとめた。
「こんな曲、弾いてるだけじゃ面白くない。おまえ、歌ってみろ」
 と慶一にいって、またはじめから弾きなおす。
 部屋の連中が、なにごとか、と集まってきた。
 慶一はそれが気になったが、歌わないと、この天才が弾くのをやめるのじゃないかという気がして、イントロが終わったところで歌いはじめた。
 間奏のギターのところで、片桐は、ここはホントは二本ないとだめだ、といいながら弾きつづけた。
 慶一は、間奏のあとのヴォーカルは歌わなかった。じぶんの声に嫌悪を感じたし、ちゃんと歌詞を憶えていなかったので、一番をくりかえし歌っていたが、それもいやになった。
 長田が、慶一のベッドに腰をおろし、
「彼って、すごくうまいんじゃないの?」と、きいた。
「うん。すごい」
 と、慶一はすなおにうなずいて、
「ねえ、ひょっとしたらさ、〈オール・マイ・ラヴィング〉もできるんじゃないの?」
 と、片桐を期待の目で見た。
 即座に、片桐が三連のサイド・ギターを弾きはじめる。ブリッジ直前のブレイクするところで、ちょっとリズムが乱れたが、慶一は、そんなことには気づかない。ただただ、唖然としている。
「あのさ、ちょっと友だち呼んでくるからさ、そうしたら、また弾いてくれる?」
 という質問に、片桐は、いいとも、いやだともこたえないが、とにかく慶一は走りだした。
 これを高志に教えなくては。一階のホールに出たとたん、食堂の方向からくる、ふたり連れに出会った。
「あ、おまえたち、ちょっとうちの部屋にこいよ。すごいギタリストがいるんだ」
「なんだよ、うちの学校にそんなのいたっけ」
 と態度のでかいほう、広岡という三〇四の奴がいう。こいつはロックンロール・ファンだが、KWTS一派とはあまり接触がない。
 もうひとりの佐藤というのは、慶一とは野球部でいっしょで、やはりKWTSとはかかわりがないが、おだやかで、いい奴だ。
「まあ、いいから、ちょっときてみなって」
 考えてみれば、あれを見せるなら、高志より、このふたりのほうがふさわしいかもしれない。佐藤はバンジョーをもっているし、広岡はギターをすこし弾く。ふたりでよく、〈イフ・アイ・フェル〉や〈シュダヴ・ノウン・ベター〉を歌っている。
 三人はぞろぞろと、一〇二に入っていく。
「こいつら、ビートルズ・ファンなんだ。〈オール・マイ・ラヴィング〉をもういちど弾いてくれない」
 と、片桐にたのんでから、慶一はベッドの横に突っ立っているふたりを見て、
「片桐っていうの、きょう、入学して、うちの部屋になったんだ」と、紹介した。
 ベッドに坐って、なにか弾いていた片桐は、なんの予告もなく、いきなり〈オール・マイ・ラヴィング〉に入った。
 ワン・コーラス終わると、広岡が、
「タンマ、ちょっと頭からもういちど、ゆっくりやってくれないか」
 と注文をつける。片桐は、広岡をジロッとにらんだが、また弾きはじめた。
「待った。いまのコード、なに?」
 また、広岡がとめる。
「知らねえよ、コードなんて」
 と、片桐はニベもない。
 びっくりして、広岡がかたわらの佐藤をふりかえった。
「おまえ、いまのコード、なんだかわかった?」
「わかんないよ、あんなの」
 佐藤が、片桐の指を見つめたままこたえた。
 それは、五フレットあたりで、やたらに指を開くコードだった。
「でもよ、和音なんだから、コードネイムがあるだろう?」
 と、広岡がまた、片桐を見ていった。
「知らねえよ。ただ、レコードから聴こえるとおり、指を押さえてるだけだ」
 片桐はウンザリしたようすでこたえる。
 とんでもねえ野郎だな、悪魔みたいな音感してるらしいぜ、と広岡がかたわらの佐藤にいった。
「わかった!」と、広岡にはとりあわずに、片桐の指を見つめていた佐藤が叫んだ。
「滝口、ちょっとギター貸して」と、佐藤がいう。
 慶一はロッカーをあけて、じぶんのガットギターをひっぱりだしたが、ケースをあけるのは気がすすまない。なにしろ、むこうはフェンダーをもっている。
 佐藤はギターを受けとって、慶一のベッドに腰をおろした。
「こうでしょ」
 苦労しながら、ガットギターの幅広なフレットで、佐藤は片桐のコードを再現する。
「それくらい、おれだってわかるぜ。ちゃんと、両目はもってんだからさ」と、広岡が笑う。
「肝心なのは、ここからだって。これをさ、下げていくわけ」
 苦しそうに指を開きながら、佐藤はフレットから指を離さずに、そのまま下へとずらしていく。最後に人差指がフレットをはずれ、ヘッド側に出てしまう。中指から小指まで使った、単純な、これ以上単純なものはないオープンコードができあがった。
「なんだよ、オープンCを上げただけかあ。てことはよ、マコ、もう一回、さっきのところにずらしてみ」
「ドー、レー、ミー、と。じゃーん、Eメイジャーでした!」
 佐藤が、全部の弦を押さえきれていない、不完全なEメイジャーをストロークした。
 慶一も、広岡も、口ぐちに、なんでえ、と崩れる。
「じゃあよー、人差指をカポタストのかわりにしたわけか?」
 そういって、広岡が片桐にむきなおる。
「おれは、カポなんか使わない」
 片桐が、不機嫌そうにつぶやいた。
「そりゃ、ま、そうだな。たしかに使ってねえや」
 と、広岡が鼻白む。
「ねえ、もういちど、はじめからやってくれない? おれ、覚える」
 佐藤がなだめるように、片桐に話しかけた。
 片桐は、また、三連のストロークをはじめる。
 手もちぶさたの慶一と広岡は、立ったままこの「レッスン」を見つめた。
「滝口、悪魔のとなりで暮らすのは楽じゃねえな」
 と、広岡が慶一の耳に口をよせて、小声でいった。
 まったくだ、悪魔みたいなギタリストだ、と慶一も心のなかで賛成した。
 きょう、悪魔がストラトもって、寮にやってきた。

「おまえ、あいつには気をつけろよ」
 ラヴィン・スプーンフルのLPジャケットを、顔のまえでヒラヒラさせながら、高志がいった。ワラがアメリカで買ってきてくれたやつだ。日本では売ってない。カーマ・スートラ・レコードは、やっと日本の配給会社が決まったばかりで、まだシングルしか発売になっていない。
「気をつけろって?」
 慶一は、ソファのとなりに坐った高志を見る。
 いまはA面の五曲目、〈ユー・ベイビー〉がかかっている。じつは、いまだけではなく、さっきからずっと、高志はくりかえしこの曲を聴いている。
 こんなにしつこく聴かなくてもいいんじゃないか、そう思っているが、慶一はそれを口には出さない。せっかくのLPを、シングルみたいにあつかうことはないのに……。
「ありゃあ、ろくな野郎じゃない。いまになんかやるぜ」
「なんかって? だいたい、どうして、そんなふうに思うわけ?」
「あいつのうちは、おれんとこの近所なんだ。学校はちがうけど、ウワサはきく」
 高志は〈ユー・ベイビー〉のことは忘れたようだ。つぎの〈フィッシン・ブルーズ〉になったのに、立ちあがらないので、慶一はやっと落ちついた。
 片桐がきてから、十日たった。評判はすごく悪い。
 ワラなんか、片桐を毛嫌いしていて、慶一が片桐といっしょにいるのを見ると、露骨にいやな顔をする。
「でもさ、ギター、メッチャクッチャうまいよ」
「ギターのうまいへたは、関係ないだろうに」
 高志はソファから立ちあがり、ステレオのところへいく。
 また〈ユー・ベイビー〉か。悪い曲じゃないけど、ギターがつまらない。
「そんな、みんながいうほど、ひどい奴じゃないってば。おれにギター教えてくれるしさ」
 ソファにもどった高志に、慶一がいう。
 このところ、慶一はひさしぶりにギターを弾いている。片桐がくるまで、ロッカーに放りこんだままだった。夏の合宿の最後に、食べのこした缶詰を見て、高志が「慶一のギター」といったほど、忘れられていた。
「おまえ、ギター教わるかわりに、あいつの宿題やってあげてるっていうじゃねえか」
「ノートを貸しているだけだよ」
 慶一は不機嫌な声でいった。「宿題をやってあげる」というのは、この寮では支配と被支配の関係を示す。
 ヴェランダのドアでノックの音がする。慶一は、追求をかわすチャンスに飛びついた。
 外に立っているのが、ワラと山崎なのをカーテンのすきまから確認し、カギをあけてやる。
「おう、いこうぜ」と、山崎が入ってくる。
「いつも、死体処理にご協力ありがとうございます」
 高志が笑いながら立ちあがり、壁に背をつけて四つならんでいるロッカーのカギをあける。
 ロッカーには、大きなビニール袋が入っていた。
「なんか、もっと楽な方法はないのかな。ダストシュートに放りこんじゃうとか、それとも、食堂のゴミに混ぜちゃうとかさ」
 と、ワラがうんざりしたようにいう。
「これがいちばん安全なの。食堂のゴミには、デルモンテのケチャップとか、そんなのしかねえだろうが。コカコーラの缶なんかまぎれこんでいたら、疑われるって。だいたい、こいつはPXの横流しだからな、理屈じゃ密輸品なんだぜ」
 そういいながら、高志はつぎのロッカーをあける。
「ゴミを調べる人間なんていないのに」
 ワラは、まだ納得していない。
 缶詰をもちこむのは、空き缶の処理にくらべれば、朝飯前だということが、部室にたむろっている連中にも、身にしみて理解できるようになった。
 だいいちに、ロッカーに隠す必要があるので、たとえコーラでもなんでも、高志が空き缶をかならず洗うように強要する。そしてつぎに、この「死体処理」をしなくてはならない。

「こんなさ、めんどうなことやってバレたら、ゴミ捨て場に放り出しとくよりヤバいんじゃねえの。シャベルなんかもってきちゃってさ。計画的犯行とかいわれてよ。こんなもん、なんに使うんだ、なんてきかれたら、なんてこたえんだよ」
 山崎がシャベルに足をかけ、土にめりこませながらいった。
「このほうがバレる確率は低いって。だれも、こんなとこ、掘ってみようとは思わないだろ」
 高志が、ポケットに片手を突っこんで、山崎のまえの地面を懐中電灯で照らしながらこたえる。
「寮の出入りって、大問題がありますよ」
 ワラがぼそっという。
 もう、なにを着ていても寒い。慶一はむしろ、早く土掘りの順番がまわってきたほうがいい、と思った。
「千年後かなんかにさ、だれかがここに家を建てたらさ、わけのわからないブリキの塊が出てきて、貝塚発見、なんてね」
 寒さをまぎらすために、慶一は意味のないことをしゃべる。高志が小さく笑っただけだ。
「おれたちは縄文人かよ。そろそろかわってくれよ。冬眠してるヘビの頭なんか、叩き割りたくないぜ」
 と、山崎がいう。
 おれがやるよ、と慶一が、ここがヘビの住処でないことを祈りながら、志願した。
「そろそろ、クリスマスだな」
 高志が、だれにいうともなくいう。
「なんか、やるのかな、寮」
 と、ワラがこたえる。
「そりゃあ、やるさ。きょう、モミの木がきたじゃねえか」
 と、山崎はうれしそうだ。
「ダッシン・スルー・ザ・スノウ、イナ・ワン-ホース・オープン・スレイ」
 ワラが歌いだした。
「試験後に、なにか行事があるのかな」
 と、慶一が息を荒くしていう。
「バンドと映画はある。一学期とおんなしだ」
 そうこたえる高志の声には、推測の響きはない。
「空き缶の怨霊かなんかに崇られたらどうしよう。針供養みてえなの、やったほうがいいんじゃねえかな」
 と、汗のひいてきた山崎が、ぽつりといった。
「大丈夫だって。なんかいると思うね、おれは。天使みたいなのがさ」
 高志と、天使ということばが、慶一には、ひどくチグハグにきこえる。
「ガーディアン・エンジェル」
 と、ワラがつぶやいた。
「なんだ、そりゃ」と山崎。
「ぼくらをガードする天使」
「守神か」
 という高志のことばに、慶一はシャベルを踏みつけた足をすべらせそうになった。なんで、天使と守神がいっしょになるんだ。成田山のお守り袋のなかに、森永ミルクキャラメルの箱が入っているすがたが浮かんでくる。
「あとでさ、英和辞典見て、ちゃんと調べようよ。天使が守神ってことはないでしょ」
 慶一はそういって、土をかたわらに投げ飛ばした。
「どっちでもいいじゃねえか。似たようなもんだろ。なんか名前がないのかな」
 と、高志がワラをふりかえったので、光が揺れる。
「さあ……。じぶんでつければ」
 ワラは乗ってこない。
「セイント・ドーミトリー。もうかわってくれよ」
 と、慶一がネをあげた。
 高志がワラに懐中電灯をわたし、慶一からシャベルを受けとりながらいう。
「聖寮天使じゃ、ひでえな。セイント・ロックンロールのがいい」

 片桐はほとんど部屋にいない。掃除の時間など、いたためしがない。
 一〇二は、きまじめで、きちょうめんで、清潔好きな部屋だ。それは、たぶん、長田を中心にしてかたちづくられた空気だろう。
 片桐は、みんなが部屋をきれいにすることには、とくに反対はしなかった。ただ、掃除に参加する気がまったくないだけだ。たとえ自習時間中に部屋にいたとしても、掃除の時間になると、ギター・ケースをもって、どこかへ消えていく。
 上履きを履かない習慣は、片桐も一日で見てとった。それはいいが、ふつうの寮生がスニーカーやテニスシューズを愛用するのとは異なり、片桐は、三センチぐらいのヒールのついた黒いチャッカーブーツで、点呼だろうが、食堂だろうが、学校だろうが、どこへでもノシていくので、そのたびに問題になる。
「おまえ、なんとかしろよ。あれじゃ、ヤバいよ」
 慶一は、階段教室のピアノのまえに腰掛けた長田が、この問題にまったく無関心なのに、かなりいらだっている。ここは長田の縄張りで、慶一が昼休みにここへくるのはめずらしい。
「なんとかって?」
 長田は、じぶんのことばに合わせて、三つの和音を弾いた。
「おまえ、室長じゃないか。ヤバくなるまえに、なんとかしろよ」
「なにか方法があるならね」
 それをいわれると困る。慶一にも、まったく方法がわからない。
「説得するとかさ」
「もうしたよ」
 と、アップライト・ピアノの蓋をにらんで、長田は気がなさそうにこたえたが、ひどく無愛想だったのに気づいたのか、慶一をふりかえり、ことばをつなぐ。
「ああしか、できないんでしょ。とくになにか迷惑をかけたわけじゃないから、放っておこうよ。どうせ、彼がくるまえだって、ぜんぶ七人でやっていたんだから、おんなじでしょ」
 片桐は、当番というものもいっさいしない。そのくせ、手塚とちがい、洗濯ものは出す。部屋のあり方はいろいろあるものだと、慶一は呆れている。じぶんだって、手塚のときとはちがって、当番をしないからといって、片桐を責めたりもしない。
「でもさ、点呼さぼったのは、やばいよ。今朝だけで終わればいいけど」
「それは、彼の勝手じゃないか。じぶんでなんとかするよ。あしたも点呼をさぼれば、呼び出されるだろうし」
 それを心配してるんじゃないか。

 その日の夕方、慶一が部屋にもどると、シャワールームから出てきた長田が、
「さっき浅井君がよって、部室にきてくれってさ」
 といって、洗面所の鏡にむかい、ひたいのニキビの検査をはじめた。
 慶一は、ラディックの刻印がついたスティックをロッカーにしまい、となりの片桐のベッドを見た。
 ポータブルのプレイヤーが放り出してある。これは正真正銘の禁制品だ。片桐は、いつもこれで、慶一が知らない黒人音楽を聴いている。いや、ギターを弾きながらだから、「いっしょに演奏してる」といったほうが、いいかもしれない。
「長田」
 と、慶一が洗面所の戸口から話しかけた。
「なに」
 長田は、鏡のなかのじぶんにこたえる。
「片桐と話した?」
「その話はやめようよ。どっちにしろ、彼は好きなようにやるんだから」
 長田は鏡を開いて、バイタリスをとりだし、キャップをあけながら、こんどは慶一を見てこたえた。慶一は、この整髪料のにおいが嫌いだ。
「冷たい奴だな」
「もう、明後日から期末だしね」
 といって、頭に整髪料をふりかける。
「点とり虫」
 慶一はそういい捨てて、ドアにむかった。
 非常口ホールに入り、小浴場のわきを抜けようとしたとき、だれかが脱衣場の床板を走る音と歓声がきこえ、つぎの瞬間、ドアが開いて、なかから飛び出してきた裸の奴が、慶一に突き当たった。
 音と歓声で予告されたので、倒れはしなかったが、慶一はその濡れネズミを、もろに抱きかかえてしまった。
「バカヤロー!」
「悪い、悪い」
 と、そいつはゲラゲラ笑いながらあやまった。
 慶一が、さらに怒りのことばをつづけようとすると、追いかけてきた奴のうしろから、もうひとりが笑いをかみ殺しながら顔を見せた。手に桶をもっているのを見て、慶一はあわてて飛びのいた。
「バーカ!」という大声と、水が壁と床に強く当たる音が、逃げる慶一にも襲いかかる。
 逃げたいきおいで非常扉までいき、慶一は引き返して、目にもの見せてくれようとしたが、あきらめた。
 服を着てる人間が、風呂場で裸の人間と闘って勝てるわけがない。
「なんだ、おまえ、服着て風呂に入ったのか」
 ヴェランダのドアをあけた高志が、笑いながら慶一を迎え入れた。
「うるさい。寒いんだから、早く入れろ」
 ドノヴァンの〈メロウ・イエロー〉が流れている。わけのわからないヘンな曲だが、近ごろのヒット曲のなかではマシなほうだ。
 慶一は、ぬれたズボンを気にしながら、ストゥールに腰をおろす。
 このところのチャートは、聴けた代物じゃない。最低の曲ばかり、はやっている。ニュー・ヴォードヴィル・バンド〈ウィンチェスター・カテドラル〉、ナンシー・シナトラ〈シュガー・タウン〉、彼女の父親の〈ザッツ・ライフ〉、ロニー・ダヴ〈クライ〉、ボビー・ヴィントン〈カミン・ホーム・ソルジャー〉、サンディー・ポウジー〈シングル・ガール〉。
 なんなんだ、このチャートは! もっとも、例によって高志は、サンディーちゃんはかわいい声してる、〈シングル・ガール〉はいい曲だ、などといっているし、鼻歌のレパートリーに〈シュガー・タウン〉を加えているが。
 わずかな救いは、まず、今年はじめに〈ジェニー・テイク・ア・ライド〉をヒットさせた、ミッチ・ライダー&ザ・デトロイト・ホイールズが、〈デヴィル・ウィズ・ア・ブルー・ドレス・オン/グッド・ゴリー・ミス・モリー〉という、信じられないほど強力なヒットをだしたことだ。
 この曲なら、いまチャートインしている「南北戦争時代の歌謡曲」が、たばになっても、片手でなぎ倒せる。セイント・ロックンロールからの贈り物だ。
 もうひとつは、ビーチボーイズの〈グッド・ヴァイブレイションズ〉が、異常な構造と、リズム・チェンジの多用、偏執的ハーモニーといった、ヒットをさまたげる要素を大量にかかえながら、先週、とうとうナンバーワンになったことだ。
 まるで、ロックンロール・ファンのリスナーが、この曲をナンバーワンに押しあげるのに全精力を使い果たし、歌謡曲派の躍進を許してしまったように見える。
「なんか、用?」
 ひざにへばりつくズボンをつまみながら、慶一がいった。
「うん、これいらないか。もう、きつくてダメだ」
 高志は、ソファの足もとにおいたペイパーバッグから、黒いウィングチップを出して、きちんと左右そろえて床におき、立ちあがって洗面所にむかった。
 慶一は困った顔をして、そのソールの分厚い靴をみつめた。
「合わせてみろよ。たぶん、ちょっとデカいだろうけどな」
 そういいながら、高志が洗面所から出てきて、
「これ使えよ。風邪ひくぞ」
 と、慶一にタオルをわたした。
「ホントに、いらないの?」
 慶一は、受けとったタオルでズボンをぬぐいながらきいた。
「小指が痛くて、もうダメだ。四、五回しか履いてないから、まだ新品同様だぜ」
 高志はもう、一六二、三になっている。足も二五センチ以上になっただろう。
 履いてみろ、というように高志が慶一の顔を見る。
「靴下がグジュグジュなんだよ」
 高志は笑って、
「これ履けよ」と、ソックスを脱ぎはじめる。
「さっき、風呂入って履きかえたばっかだからさ」
 と、脱ぎ終わったダイア柄アーガイルのソックスを、慶一にわたした。
 ソックスを履いても、そのクツは慶一にはすこし大きい。
「敷革を入れれば、なんとかなるだろ」
「うん」
「でも、その頭だと、アイヴィーは無理だな」
 扉口の姿見のまえに立って、足もとを見ている慶一の横から、高志がまじめにいう。もう、掛け値なしのロングヘアといってよい。デビュー当時のビートルズなんかより、はるかに長い。
「まあ、制服のときに履けよ」
 ヴェランダのドアで音がする。ノックではなく、足で蹴った音だ。
「早くあけてくれよ」
 と、ワラがわめいている。
「なんですか、きみたち、そのかっこうは」
 寒そうに両腕をかかえこんで入ってきたワラが、はだしの高志と、ぬれたズボンにウィングチップを履いた慶一を見とがめた。
 ふたりとも、なにもこたえず、ならんでソファに坐る。慶一が靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、それを高志にかえし、じぶんのぬれた靴下は無視して、はだしのままスニーカーを履いた。
「なんなの、このパントマイムは?」
 ワラは、説明しろ、という顔でふたりの顔を交互に見た。

 翌日の夕食後、インターフォンで片桐に呼出しがかかったとき、慶一は、だからいっただろう、どうするんだよ、と焦燥を感じた。病気でもないのに、二日もつづけて点呼を休んだら、すくなくとも理由ぐらいはきかれる。
「いるなら、じぶんで返事しなさい」
 藤井舎監どの、じきじきの呼出しだ。これはまずい。
 インターフォンにこたえようとしない片桐のかわりに返事をした長田が、奴のほうを見る。
 片桐はまったく無関心で、チューニングをしている。
「すみません。いそがしいみたいです」
 しかたなく、長田がいう。
「いそがしいとは、どういうことだ」
「さあ……」
 長田は、片桐のまえに坐っている慶一を、なんていえばいいんだ、という顔で見かえった。
「出たほうがいいよ」
 慶一は、心配でたまらない。
「うるせえな、黙れ!」
 片桐のベッドはいちばん奥の窓際だが、これだけの声を出したら、いくらなんでも、インターフォンに入っただろう、と慶一は心のなかで目をつぶった。
「いま、黙れといったのは片桐か」
「うるせえぞ。黙れってんだろうが!」
 片桐がさっきより、さらに声を張りあげた。
 ほんとうに、スピーカーは黙った。しかし、片桐に怒られて、恐れいったわけではないだろう。
「つづけようぜ。さっきみたいにして、くりかえしてみな」
 なにもなかったように、片桐が慶一に指示する。
「それどころじゃないぜ。藤井の野郎、すぐにくるってば。逃げたほうがいいって」
 慶一はじぶんのギターを、ヘッドボードのむこうにおいた。
「カンケーねえよ、あんなバカ。弾けよ」

 ドアが開いた。藤井は階段を駆けあがってきたにちがいない。そのままのいきおいで、奥へ進む。
 慶一はあわてて立ちあがり、逃げ場のない奥から、開けた部分へ避難した。
「こい。おまえの曲がった根性叩きなおしてやる」
 青筋をたてた藤井が、いきなり片桐の衿をつかんで立たせた。
 慶一は※(始め二重山括弧、1-1-52)青春とはなんだ※(終わり二重山括弧、1-1-53)を思いだして、吹きだしそうになったが、藤井は大まじめだ。
 片桐が抵抗するんじゃないかと、慶一は心配したが、そんなそぶりはない。ゆっくりとエンドピンからストラップをはずし、藤井とじぶんの躰にはさまれたフェンダーをおろそうとする。
「なんだ、こんなもの」
 フェンダーのボディを、藤井が手ではらった。
 ストラップがはずれていたので、ギターは六本の開放弦の音を響かせて、ふたりの足もとに落ちる。
 慶一は胃のをつかまれたような気がした。片桐以外の人間で、あのギターにさわったのは、藤井が最初だろう。
 長田が心配そうに、慶一のとなりにやってきて、成りゆきを見まもる。
 藤井は、ギターがぶつかった左足を押さえて、慶一のベッドに坐りこんでしまった。
 慶一は笑いそうになったが、奇妙な顔をしてしゃがみこみ、そっと、倒れたギターをもちあげる片桐のようすを見ていたら、それどころではないのに気づいた。
 死んだカナリアでも抱くようにして、片桐はフェンダーをベッドに寝かせた。
 そして、ゆっくりと、藤井にむきなおる。
 藤井は入ってきたときの勢いを失い、ただなんとなく、片桐のようすを見ている。
 片桐の目がおかしい。
 いきなり、真っ黒なチャッカーブーツが、藤井の鼻をとらえた。
 ベッドのあいだはせまいので、それほど力のこもったキックではなかったが、とがった先端は、きれいに鼻に入った。
 藤井は両手で鼻を押さえて、仰向けに上体を転がす。
 片桐は慶一のベッドに飛び乗り、こんどは肋骨をねらって、一発、二発と、蹴りを入れる。これは、しっかりと力が入っている。
 新しい苦痛に対処するために、藤井が鼻を押さえていた手をさげたので、ブーツの靴底が、藤井の顔を平らにノシた。
 ヤバい、とつぶやき、長田が片桐のほうにむかう。
 慶一も、どうすればいいのかわからないままに、とにかく、おなじようにじぶんのベッドに急いで歩みよった。
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15

いいから
ちょっとロックンロールを聴かせてくれ

〈ロックンロール・ミュージック〉
チャック・ベリー
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「だいたい、ギターにさわったから、いけないんだってば」
「だからって、あそこまでやることはないだろ。どうかしてるよ。肋骨三本に、鼻骨だぜ。死ななくて、ラッキーじゃねえか」
 どうして、高志が藤井の味方をするんだ。
「ホント。あんな頭のおかしい奴、いなくなって助かりましたよ」
 ワラはさっきから、ダブルにしたり、シングルにしたり、タイを締めなおしてばかりで、落ちつかない。
「でも、天才だよ、あいつは」
 慶一は、納得がいかない。ひざの下に両手をはさみこみ、両足で床を蹴りつづけている。
「それがなんだよ。いい迷惑じゃねえか」
 高志のほうは、いつものように、完璧に均整のとれたノットだ。慶一はずっと、あのノットの秘密をきこうと思いながら、どうせまともな返事はしないだろうという気もして、いまだにきいたことがない。年季がちがう、とかなんとかいわれるのがオチだろう。
「だから、ギターをキズつけられたからだって。ピックアップが壊れたかもしれないんだよ」
「そんなもの、修理できるさ」
「藤井だって、修理できるよ。あっちはフェンダーだよ。ストラトキャスター。藤井なんかより高いんだから。寿命だって、きっと藤井より長いよ」
 高志が笑う。
「じゃ、藤井はいくらだよ。テスコぐらいの値段か」
 といって、また笑った。
 慶一にはわからない。テスコと藤井と、どっちが価値があるのだろう。やっぱり、テスコのほうが高いんじゃないだろうか。テスコだってギターだ、それなりの価値がある。
「藤井を見舞いにいこうよ。なにかアイディアない、あいつを笑わせるようなやつがさ」
 タイを締めおわったワラが、顔をあげていった。結局、シングル・ノットに決めたらしい。
「どうしておまえは、そういうふうに弱い者いじめをしたがるんだよ」
 そういう高志も笑っている。
「でもさ、わかんないことがある。どうしてあんな奴が、中途編入してきたのさ」
 そういって、ワラはまたタイをほどいてしまった。
「あ、それは、おれもヘンだって思った。あいつ、試験、受けたのかな」
 ヴェランダのドアで、おそろしく控えめなノックの音がして、ワラがカギをあけると、制服を着た長田が顔をのぞかせた。長田が部室にくるなど、めったにあることではない。
「浅井君、もういちどやっておこうよ」
 長田は、部屋に入らずにいう。
「うん、そうしようか」
 と長田に返事をし、高志はワラと慶一のふたりに、
「おれは、ちょっと用がある。パーティーが終わったら、もういちど集合な。来年の話がある」
 といって、立ちあがった。
「なんだよー、またなんか、相談なしでやろうっていうのかさ」
 慶一は気に入らない。高志がなにかをたくらんでいることも、長田と秘密めかして出かけようとしていることも、気に入らない。
「だから、相談しようっていってるんだろうが」
 そういい捨て、高志は長田とヴェランダに消えた。

 クリスマスの晩餐は、入寮のときほど豪華ではなかったが、こういうのもたまにはいいと、慶一はタイをよごさぬように、ナイフとフォークを使った。
 七面鳥はないが、トリの腿肉がある。その骨の先端に、ちゃんと飾りというか、持ち手というか、すだれになった紙がついているのもうれしい。
 この三日間、夕食後に全員で〈きよしこの夜〉〈ジングル・ベル〉〈赤鼻のトナカイ〉を英語で歌う練習をしたのに、じっさいに晩餐まえにやったのは、〈ジングル・ベル〉だけなのは不満だが。
 長田は、ぎりぎりの時刻に、高志といっしょに食堂に入ってきた。
 食事が終わりかけたとき、慶一の心にさっきの疑問がよみがえった。
「長田、高志となにやってたんだよ」
「ちょっとね」と、慶一のむかいに坐った長田が、片目をつぶってみせた。
「ちょっと、なんだよ」
「すぐにわかるよ。あとで」

 サロンには、大きなクリスマス・トゥリーが飾られ、色とりどりの電球が点滅している。
 ビュフェ側の蛍光灯は消えていて、三段ほど低くなった、ジュウタンを敷いた部分だけが、天井の白熱球と、壁面の間接照明で照らされている。
 寮生は、半数は直接ジュウタンに腰をおろし、のこりは、低い部分におりる階段や、上にならべられた折り畳みイスに坐り、ざわめいている。
 藤井が入院しているので、宿直教師が、静粛に、と呼びかけている。
 高志が、だれかにむかって手招きした。
 長田が高志のところにいく。ふたりは、なにかひとこと、ふたこと言葉をかわし、高志はハモンドに坐って、スウィッチを入れ、長田はアップライト・ピアノのふたをあけた。
 高志がハモンド!
 慶一は、となりに坐って、じぶんとおなじように膝をかかえて、成りゆきを見ている柾生と、顔を見あわせた。
「高志って、オルガン弾けるのかさ。知らなかったなあ」
 と、柾生がいう。
「おれだって、知らなかったよ。あいつら、これをやってたんだ……」
 長田が立ちあがって、これから、練習したクリスマス・ソングをみんなで歌う、まず〈ジングル・ベル〉をもういちど、とみんなに説明し、腰をおろして、高志を見て、頭を動かし、出だしをそろえた。
 ワン・コーラス弾いたところで、左手をピアノから離し、全員にむかって、さあ、というように手をふった。
 長田がピアノを弾くのは知っている。でも、高志はいままで、ひとこともそんなことはいわなかった。

 最後の〈きよしこの夜〉が終わると、すべての灯が落とされた。玄関ホールからの光と、トゥリーのイルミネイションだけが、サロンを照らす。
 高志がひとりで、かなりテンポを落として、〈リトル・ドラマー・ボーイ〉を弾く。
 玄関ホールから、サンタクロースが白い袋を背負って入ってきた。どこからかクラッカーが鳴り、ふたたび灯がつく。
 寮長だ。寮長が白いヒゲをつけて、サンタクロースの衣装を着ている。
 高志と長田が、クラッカーを鳴らす。その紙の糸が寮長に降りかかる。だれもが口ぐちになにかをいい、サロンは騒然となった。
 寮長が袋をおろし、両手をあげて静かにさせる。
「メリークリスマス。ここに、わたしから寮生諸君への、ささやかなプレゼントが用意してあります」
 また騒然となり、寮長はふたたび静粛をもとめた。
「このプレゼントは、物ではありません」
 寮長は袋の口を開き、黄色いスポンジ・ブロックを出して、それをつぎつぎと放り出す。
「袋の中身は、これだけです」
 と、寮生たちに微笑みかける。
 なーんだ、と、また、ざわめく。
「長田君」
 寮長は長田を見て、テレビを指さし、長田はイスの上にのり、天井近くにあるテレビのスウィッチを入れた。
 ふたたび照明が落とされ、画面がしだいに輝度をあげていく。
 長田がしゃがみこんだ。どうやら、ヴィデオをいじっているらしい。
 画面に、E・H・エリックが映しだされる。
 慶一は、一瞬、なんのことだかわからなかった。E・H・エリックが、ザ・ビートルズ、と叫んだのだ。
 ストライプが入った、そろいの服を着た四人が、まわりに手をふりながら、ステージに進む。
 まさか、そんな!
 何人か、がっかりした声をあげた人間もいたが、よろこんだ連中の歓声にかき消された。
 ジョンが、素早くチューニングして、マイクに近づき、無造作にコードをストロークして、歌いだした。
〈ロックンロール・ミュージック〉だ。
 だれかが、慶一のとなりに強引に割りこんで坐った。
「気に入ったか」
 高志だ。
 慶一は画面から目を離さず、耳のほうも、ジョンの声に集中している。
「おれのプレゼントなんだからな。すこしは感謝しろよ」
「どういう意味?」
 慶一は、画面から目を離さずにいう。
「おれのアイディアなんだよ、このヴィデオはさ」
 慶一は、これがあることを知っていて、半年のあいだ、なにもいわなかった高志に、ヘッドロックをかけようとしたが、思いなおした。そういうことは、みんなあとだ。
 ジョンも「いいから、ちょっとロックンロールを聴かせてくれ」と歌っている。
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16

エレキ・ギターを手に入れ
ちょっと練習するんだ
それでもう、
おまえはロックンロール・スター

〈ソー・ユー・ウォント・トゥ・ビー・ア・ロックンロール・スター〉
バーズ
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 冬の非常口は寒い。
 四階の踊り場なら、どん詰まりなので、慶一と柾生がいる三階の踊り場よりはマシだ。だが、四階は佐藤と広岡たちが占領している。折り畳みイスと、広岡が音楽室からくすねてきた譜面台がいつもならべられていて、まるで彼らの専用練習場だ。
 どうして、みんないっせいに、おなじことを考えるんだろう。四階と三階だけではない。二階の踊り場にも三人組がいる。全部そろって練習をはじめると、なにがなんだかわからない騒ぎになってしまう。
 いま、四階は〈アイ・フィール・ファイン〉、慶一と柾生は〈キープ・オン・ラニング〉、二階は〈スループ・ジョン・B〉をやっている。二階はいいとしても、四階も三階も、ピックギターやガットギターでやるのは、「あんまり」な曲だ。
 高志とワラが、階段をのぼってきた。
 無視して歌いつづけ、弾きつづける慶一と柾生を見て、ワラをとめ、高志は階段の手すりに背中をあずけて、観客になった。
 高志が、片手でメガフォンをつくり、ワラになにか話しかけるが、慶一にはことばがとどかない。ワラが爆笑した。
 なしくずしに、〈キープ・オン・ラニング〉が終わる。まだ、終わり方を思いつかないからだ。レコードはフェイドアウトしていて、参考にならない。
「なんだよ、おまえら、どっかいけよ」
 慶一は、馬鹿にしたような顔でながめている高志が気に入らない。
 遅ればせながら、高志が拍手し、ワラもそれにつづく。イヤミな拍手だ。四階からは〈抱きしめたい〉が降ってくる。二階の曲は、なんだかよくわからない。
「部室にいくんだろ、早くいけよ」
 拍手のせいで、慶一は本格的に頭にきた。
「ここはスタジオらしいぜ。おれは、非常階段だとばっか思ってたけどな」
 高志が笑いながら、ワラにいう。
「エコーはいいけど、防音が手抜きじゃないですか」
 ワラも、高志に調子を合わせる。
「こんな高いギターばっか、あっちこっちに並んでいると、あぶなくって、歩けやしねえな」
「ホント、ホント。ギターにさわっただけで、殺されそうになった人がいましたからね」
 ふたりは大笑いする。
 慶一は、高志をニラミつけた。フェンダー・ストラトキャスターを買う金があれば、慶一のガットギターを四〇本買って、おつりがくる。
「おまえ、早く選曲しろよ」
 高志がまじめな顔にもどり、慶一に話しかける。
「わかってるってば。今晩、なんとかするよ」
 さっきからのイヤミな態度は、これが原因なんだ、と慶一は納得した。
「早くしろ。このまえも、ワラはひどい目にあったんだぞ。柾生、こいつ、これだからさ――」
 と、高志は両手を目の横につけ、指先をまえに向けて、せまい視野をつくってみせる。
「おまえが忘れずに、せっついてくれよな」
 そういって、高志はワラをうながし、四階にむかった。
「これは、むずかしいよ」
 柾生が、さっきの〈キープ・オン・ラニング〉のことを、いま終わったように話しはじめた。
「うん。でも、スティーヴィーは無視してさ、勝手にやればいいじゃないか」
「いくらなんでも、ちがいすぎるんじゃない。だいたい、この曲はウィンウッドが歌うから、カッコよく聴こえるんだよ」
 慶一は、ギターが簡単なので、あまり困難を感じていないが、歌っている柾生は、音域だの声量だのヴォーカル・テクニックだのを考えて、暗い気分になっている。
 なにしろ、スティーヴ・ウィンウッドは、あらゆる意味において「神童」だ。十五歳でデビューして、まだ十八だが、スペンサー・デイヴィス・グループで、リード・ヴォーカル、リード・ギター、オルガン、ピアノを担当し、曲も書く。そして、慶一はまだ耳にしていないが、今年は新しいバンドで、ベーシストとしても、一流であることを証明する。
「ま、いいから、〈ハング・オン・スルーピー〉をやろうよ」
 慶一は、四分一拍、八分二拍、四分二拍という、頭のタムをじぶんのひざでやり、コードを弾きはじめる。
 コーラスまでくると、非常扉が開いて、頭が雀の巣のようになった、一八〇を超える大男が、ノブをもったまま、踊り場の慶一と柾生を見る。
 黒いダフルコートを着ているところを見ると、いま帰ってきたのだろう。
「きみたち、夕食後はかんべんしろよ。おれは明日、レポートを提出しなきゃならんのだ」
「大丈夫! レポート提出はおたがいさま」
 と、柾生がうけあう。
 あの大男は、三学期からの新制度の産物だ。
 入院している藤井のかわりに、四人の大学生が寮にやってきた。彼らは「テューター」と呼ばれている。辞書をひいて見ると、「(住み込みの)家庭教師」と書いてある。したがって彼らは、寮生に勉強を教え、その相談にのることを期待されている。

「じゃあ、やっぱり、最初はミッチ・ライダーにしよう。フィーフィー・ファーファー・フォフォフォウ」
 と、慶一が歌う。デヴィル・ウィズ・ア・ブルー・ドレス、ブルー・ドレス、ブルー・ドレス、デヴィル・ウィズ・ア・ブルー・ドレス・オン!
 こんなカッコいいレコードは、ちょっとない。シンバルみたいに、八分できざむバスドラなんか、はじめて聴いた。ミッチ・ライダーのヴォーカルもいいし、ギターだって、コードの入れ方なんか、ソクゾクする。
 ワラは、リポート用紙に書いた、ザ・フー〈マイ・ジェネレイション〉の文字を消しゴムで消し、きちんと、ミッチ・ライダー&ザ・デトロイト・ホイールズ〈デヴィル・ウィズ・ア・ブルー・ドレス・オン/グッド・ゴリー・ミス・モリー〉と、長いタイトルを書き、シングルのレーベルを見ながら、横にプレイング・タイムを書き加える。三分〇一秒。
「もう、変更はなしだよ」
 といって、ワラはスペリングをチェックする。
「うん。それで、ここに〈マイ・ジェネレイション〉でいいだろ」
「もっとソフトなほうが、つなぎやすいんだけどな」
「うーん。じゃ、妥協して、〈ザ・キッズ・アー・オーライト〉は?」
「また、ザ・フーですか。ま、いいか。これの頭のほうが、ソフトだもんね」
 と、シングル盤の山をひっくりかえす。
 たしかに、頭の五、六秒はソフトだ。だが、そのあとはもう、キース・ムーンが悪鬼のように暴れまくる。こんなドラミングは、前代未聞だ。
「ストレート・ロッカーはこれくらいにして、つぎはバラッドね」
 ワラが、タイムを書き写しながらいう。
 慶一は、ここで行き詰まってしまう。このところのチャート曲はワイセツなバラッドばかりで、KWTSが最近購入したレコードにも、嫌みのないバラッドはすくなく、もうタネ切れだ。
 去年の夏ぐらいまでさかのぼって考える。あれかな。
「ちょっと、古いけどさ、〈ガッド・オンリー・ノウズ〉は?」
「グレイト!」
 ワラは立ちあがって、レコード棚にむかう。慶一が空想した五〇枚のLPを、すでに超えている。もっとも、半数が高志のコレクションで、のこりの多くも、ワラと慶一のものだ。KWTSの備品は十五枚しかない。シングルのほうに予算をとられるので、なかなかLPは買えない。
 ワラが、ビーチボーイズの『ペット・サウンズ』を手に、また腰をおろす。
 これでまた、ストレート・ロッカーにもどれる。クリスマス休暇でニューヨークに帰ったとき、ワラは、じぶんの好みでもないのに、慶一の好きそうな、ファースト・ロッカーをたくさん見つけてきてくれた。だから、一九六七年のKWTSは、疾走するロッカーで押しまくっている。
 起床放送は、高志が選曲しているので、いまでもアソシエイションがかかったりする「軟弱路線」だが、今週の日曜日、一月二十二日からはじめた、日曜の夕食後のプログラム※(始め二重山括弧、1-1-52)グッド・ロッキン・トゥナイト※(終わり二重山括弧、1-1-53)は、選曲が慶一にまかされたので、無茶苦茶なことになった。
 初日のできはかなり不評だったが、慶一はぜんぜん気にしていない。寮生の九割は、ロックンロールなんかわかっていない「明治のジジイ」予備軍だ。そんな連中は相手にしてない。全寮で二、三人だけ、仰天して、スピーカーのまえにくぎづけになれば、それで大成功だ。
 クリスマス・パーティー後のミーティングで、この新年のプログラムを提案したとき、高志は、おまえの好きなようにしろといったが、じっさいの放送を聴いてから、すこし抑えろ、「一般受け」をねらったやつも入れろ、と慶一を説得にかかった。だから、ワラはお目付け役だ。
「つぎは、スティーヴィーにしよう」
 慶一は、ワラがタイトルとタイムを書き終わるのを待って、口を開く。
 スティーヴ・ウィンウッドは、いまや、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴとおなじく、ファーストネイムだけで呼ばれる存在になった。慶一には、あのバンドが、スペンサー・デイヴィス・グループという名前なのが理解できない。スティーヴ・ウィンウッド・グループと呼ぶべきだ。
「〈ギミ・サム・ラヴィン〉がいい」
 ワラがニューヨークで買ってきた、KWTSが誇る超最新盤だ。
「このまえもかけたじゃない」
 ワラは、かまえていた鉛筆の尻で、目のまえのシングル盤を指す。
「かまわないよ。どこの番組だって、ヒット中の曲はなんどもかけるだろ」
「〈キープ・オン・ラニング〉にしたら?」
「あれはもう、むかしの曲だ」
 くらべものにならない。〈ギミ・サム・ラヴィン〉のほうが、はるかにカッコいい。
「ウェル、SDG〈ギミ・サム・ラヴィン〉」
 と、不満そうにリストに加える。フルネイムを書くのも、めんどうになったようだ。

「こういうの、竜頭蛇尾っていうんだぜ。頭のほうは竜なんで、びっくりするけど、尻尾は蛇じゃねえか。それも、毒なしのヤマカシだ」
 と、高志が苦笑しながらいう。
「それをいうなら、ヤマカシ。案山子じゃないの。だいたい、ワラがさ、高志が怒るからって、強引に入れたんだぜ。一般受けを考えろっていったのは、高志じゃないか」
 慶一はおおいに気分を害している。高志のいうとおり、まったくの腰くだけだ。でも、そうさせたのは、高志だ。
 本棟一階ホールの掲示板には、ワラが書いた貼り紙がだしてある。

KWTSプリゼンツ
「グッド・ロッキン・トゥナイト」
一九六七年一月二十九日版(夜六時二五分〜七時)

プログラム

☆ミッチ・ライダー&ザ・DW〈デヴィル・ウィズ・ア・ブルー・ドレス・オン〉
☆ザ・フー〈ザ・キッズ・アー・オーライト〉
☆ビーチボーイズ〈ガッド・オンリー・ノウズ〉
☆スペンサー・デイヴィス・グループ〈ギミ・サム・ラヴィン〉
☆トロッグズ〈ワイルド・シング〉
☆バーズ〈エイト・マイルズ・ハイ〉
☆サークル〈ターン-ダウン・デイ〉
☆クリターズ〈ミスター・ダイングリー・サッド〉
☆アソシエイション〈チェリシュ〉
☆ラヴィン・スプーンフル〈ユー・ベイビー〉

DJ トミー・ワラ
コンパイリング ケイ&ワラ

 まあ、サークルはがまんできるとしても、たしかに、八曲目の〈ミスター・ダイングリー・サッド〉と、つぎの〈チェリシュ〉は困ったものだ。みんなベッドに入って、眠ってしまうだろう。
 最後の〈ユー・ベイビー〉は、高志に敬意を表したものだ。慶一だって、暴れまくる曲しか好きにならないというわけではない。これはいい曲だ。
 問題はたぶん、ロッカーを聴かせたがるあまり、前半に集中させてしまったことだろう。バランスよく配分すれば、「竜頭蛇尾」などという、古典的な非難は受けなかったはずだ。
「ウェル、ゴナ・ビー・ザ・ラスト・ソング・フォー・トゥナイト……ウー、ベイビー、アイ・ラヴ・オンリー・ユー、〈ユー・ベイビー〉」
 ワラが、ドラムとスレイ・ベルをバックにささやく。
「ん? なんだ、これは」
 と高志が、坐りなおした。
 慶一は笑いをこらえながら、高志のほうを、どんなもんだい、という顔で見た。
〈ユー・ベイビー〉は、〈ユー・ベイビー〉でも、ラヴィン・スプーンフルじゃない。ロネッツのヴァージョンだ。高志は意地をはって、これはだれだ、とききたいのを、がまんしている。
 フェイドアウトにかぶさって、マーケッツの〈バルボア・ブルー〉のドラムが入ってきた。エンディング・テーマだ。
「そろそろ、自習時間です。あしたの宿題ができていない人は、がんばりましょう。ディス・プログラム・イズ・コンパイルド・バイ・ケイ・アンド・ユアーズ・トゥルーリー、キープ・ユア・ヘッド・アップ、ティル・ネクスト・サンデイ、バイバイ」
 ワラのあいさつが終わると、〈バルボア・ブルー〉が大きくなり、二〇秒ほどでフェイドアウトした。これは喫茶店向きの曲で、その莫迦ばかげたところが気に入って、エンディング・テーマにしたものだ。
「ま、こんなもんだろう。腰くだけは、しかたない」
 高志が、ソファのとなりに坐った慶一を見ていう。
「なに、がんばってんだよ。きけばいいじゃん。知りたいんじゃないの」
 慶一が、高志をからかうようにいう。
「なにを?」
「この〈ユー・ベイビー〉は、だれがうたってんだってさ」
 慶一はうれしくてしようがない。高志のウラをかけるなんて、そうそうあることじゃない。
「ロネッツだろ」
 あてがはずれて、慶一はソファからずり落ちそうになった。
「なーんだ、知ってたのか」
 と、ガッカリした声をあげる。
 高志はうれしそうに笑った。
「知らなかったよ。途中で、この声は知っていると思って、必死で考えてたんだって。たしかじゃなかったから、おまえに、バーカっていわれたら、教えてくだせえまし、になってたとこだぜ」
 と、また笑う。
 くそ、作戦失敗だ。ワラが、これが入った『ファビュラス・ロネッツ』などという、めずらしいLPをもってきたときは、これで高志に一発かませる、と大喜びしたのだが。
「ヴェロニカちゃんは、かわいい声してるよ、まったく」
 と、高志は慶一に笑いかけた。

 ヴェランダのドア近くにある机には、ワラはいなかった。
 しかたなく、慶一はドアをあけて部屋に入る。
 ワラは、応接セットのソファで、マンガを読んでいた。もうひとつのソファでも、服部がマンガを読んでいる。
 二学期までは、この寮で漫画雑誌を見かけることはなかったが、最近はあちこちの部屋に、「サンデー」や「マガジン」が転がっている。この部屋はとりわけマンガの宝庫で、「ガロ」や「COM」まである。
「いこうぜ。また、高志がうるさいから、さっさとやっちゃおうぜ」
「ちょっと待って。あとすこしで読み終わるから」
「なに読んでんだよ」
「『カムイ伝』」
 ワラのとなりに腰をおろし、慶一はテーブルの上の雑誌を一冊とりあげた。「ガロ」というのは、まだ読んだことがない。『カムイ伝』をぱらぱらやってみるが、絵が気に入らないので、読まなかった。
 白土三平は『サスケ』を読んだことがあるが、あまり好きじゃない。かわりに、水木しげるを読みはじめた。この人のものは、絵が細かい。細密画のようだ。
「滝口」
 マンガから目をあげずに、服部が話しかけた。
 慶一も、水木しげるを読みながら生返事をする。
「なんで、フーをかけないんだよ」
「もってるやつは、みんなかけちゃったんだよ。こんどLP買ったら、またかける」
「キース・ムーンて、最高じゃん」
 といって、服部は「COM」をテーブルに投げだした。
 おどろいて、慶一も「ガロ」を閉じた。だから、いったじゃないか、わかる奴にはわかるって!
「キース・ムーンのファンなんだ?」
「ああ」
 といいながら、服部は背中に手をまわし、ソファの合わせ目でゴソゴソやって、スティックをひっぱりだし、慶一のまえのストゥールに腰掛けた。
「キース・ムーンはさ、ハイハット使わないんだぜ。トップばっかし」
 そういって、服部はもうひとつのストゥールの中心をスネア、端をトップ・シンバルに見立てて、叩きはじめた。
 慶一は仰天した。こいつは、たんにキース・ムーンが好きというだけではなく、そうとう叩ける。
「ドラム、もってんの?」
「もってねえよ。これだけ」
 といって、右手にもったスティックをバトンのように回転させた。デキる!
「バンドやる気ない?」
 ニヤッと笑って、服部は四分三拍の強打でこたえた。

「大丈夫だって、あれくらいスティックが使えれば、ペダルだって心配ないよ」
 慶一が、となりに寝ころんでいる柾生にいう。
「うん。じゃ、ドラムはハンゾーでいいとして、問題はベースだ」
 ハンゾーというのは、名字のせいで安易につけられた、服部のニックネイムだ。ほんとうは、義隆という、ごついファーストネイムをもっている。
 きょうはあたたかい。もう冬も終わりかと思うような、陽射しにあふれた日だ。こういう日なら、テニスコートの上の、この芝生の小山は最高だ。
「いないよなー。バンドが多すぎるんだよ。一二一人しかいないのに、三つもあるんだから、メンバーたりないのも、あたりまえだ」
「ベースなんてさ、だれでもできるんじゃないの」
 めんどうくさくなって、柾生はひどいことをいう。
「よう、遅くなってゴメン。ちょっと、つかまっちゃってさ」
 と服部が、五〇度はあろうかという、とんでもない斜面を、枯草をつかみながら、強引にのぼってきた。
 こいつは、すごいバネをしている。躰は慶一よりひとまわり大きいくらいだが、相撲がムチャクチャに強い。体育のときに、冗談半分にやった相撲で優勝したくらいだ。でかい奴を相手にしても、土俵際でねばって、うっちゃってしまう。
「ハンゾー、だれかベースやりそうな奴いないかな」
「ベースなんて、そこらの奴にもたせりゃ、なんとかなんじゃないの」
 柾生とおなじような、乱暴な意見をいう。
「たとえば?」
 慶一も、もう、だれでもいいような気がしてきた。
「野瀬は?」
「え、あいつって、ギター弾くの?」
 慶一は上半身を起こした。
「弾くってほどじゃないけど、もってることはもってるよ。フォーク・ギター」
「いんじゃない」
 と、柾生が左を下にして、ひじをつき、手に左頬をのせていう。
「すこしは弾けるのかさ」
 慶一は不安だ。
「コードは知ってるよ。いんじゃねえの、ベースなんだから、なんでも」
 服部は枯れ芝をつまんで、下のテニスコートにむかって放り投げた。
「ま、いちど、弾かせてみよう。おまえの部屋だったよな」
「うん。それよりさ、寮長のとこ、いついくんだよ」
 各バンドから一名ずつ代表を出し、寮長に新しいクラブの設立を嘆願することで、全員の合意ができていた。
 教頭や校長ではなく、寮長に嘆願することになったのは、とりたてて理由があったわけではなく、自然にそうなっただけだが、彼らは無意識のうちに、意思決定メカニズムの核心を押さえていた。
「そろそろいかないと、四月にまにあわなくなるとは思ってるんだけどさ……」
 慶一にとっては、寮長室はつねに鬼門だ。
 柾生はべつのことが気になっていた。
「それにしても、ハンゾーはいいよ。慶一やおれは、親もくどかなきゃなんないんだぜ」
 そのとおり。そういう大仕事がある。なんといっても、ガットギターでロックンロールをやるわけにはいかない。エレキがなくちゃ、話にならない。
「おれだって、金かかるよ」
「そりゃ、そうだ。ラディックのスティックとかな」
 と、慶一が笑う。いくらラディックでも、慶一だって小遣いで買ったくらいで、スティックなんて、たいしたことはない。
「ラディックのスネアと、ジルジャンの一八か二〇インチ、それにハイハットぐらいは買おうと思ってさ」
 服部は、慶一の嫌みには気づかなかったように、すましていう。
「ラディックのスネア?」
 と叫んで、慶一は芝のうえに上半身を倒した。
「パールのセット買うより、そのほうがいいと思わないか」
 服部は、あくまでも真剣だ。
「そりゃ、そのほうがいいよ。ゼッタイだ。どうせ、学校にセットを買ってもらうつもりだから、そのほうが賢いって」
「やっぱ、そう思うか。じゃ、そうしよう。なあ、入学試験の休みに、いっしょに神田いかないか。あのへん、楽器屋がたくさんあるからさ」
「いこう、いこう。柾生、おまえもいこうよ」
 じぶんが買うわけでもないのに、慶一は、ひどく興奮した。ラディックのスネアに、ジルジャンのシンバル! プロじゃないか。さんざんフラ打ちの練習をしたんだから、やっぱり、ドラムをやるべきなのかな。
 慶一には、ギブスンやフェンダーを買える見こみなんて、まるでない。
 そういえば、片桐はどうしているだろう。片桐の顔より、床に落ちたストラトキャスターが、頭のなかに浮かんでくる。あのストラトは元気かな。ピックアップが壊れていないといいけど。

「おい、早くしろ」
 というドラ声と、ドアを蹴る音がする。
 こういう雰囲気で勉強するのは、あまり理想的とはいえない。
 三学期の二〇七はとんでもない部屋だ。二学期の一〇二とは、ほとんど正反対の部屋といえる。慶一は、三学期が短いのを、セイント・ロックンロールに感謝しつつ、極力、部屋にいないようにしている。
「いつまでもマスかいてんじゃねえぞ」
 という怒鳴り声と、またドアが悲鳴をあげる音。
 このていどのことは、この部屋のささいな日常にすぎない。だいいち、これはスジがとおっているから、マシなほうだ。トイレやシャワーに長居した場合、そういう疑いは当然のことで、あまり文句もいえない。
 ただ、ふつうの部屋では、それを口にしないし、まして、大声で叫んだりしないだけのことだ。でも、口にするのと、しないのでは、天と地の違いがある。
 慶一はあきらめた。この部屋では、ただ勉強するのだって、とてつもない忍耐と努力が必要なのに、そのうえ席次を上げようなど、心得違いもはなはだしい。
 教科書、ノート、辞書、筆記具をもって、ヴェランダのドアをあける。

「なんだ、こいつ。めずらしく顔見せたと思ったら、お勉強ときたぜ」
 ラジオから、ギロチンの刃が落ちるような音が聴こえてきた。イレクトリック・プルーンズの〈アイ・ハド・トゥー・マッチ・トゥ・ドリーム(・ラスト・ナイト)〉だ。
「悪いかよ。おれ、高志とちがって馬鹿だから、勉強しないと成績が落ちるんだもん、しようがないだろ」
 慶一は、守銭奴のようにノートをかかえこんで、目を上げずにこたえる。ここなら、静かに勉強できる。音楽は勉強の邪魔にはならない――たとえ、プルーンズみたいな、とほうもないサウンドでも。
「サイテーだな。じぶんでじぶんのことを、馬鹿だからなんていうのは、最低の野郎じゃないか。いいわけなんかしやがって。だいたい、学校であれだけやれば、充分だろうが。ケチケチ勉強なんかして、エラくなるぜ、そういう奴は」
「ま、いいじゃないですか」
 ワラが、クスクス笑った。
「嫌いなんだよ、弱みをひけらかして、エラそうにする奴は。わたしは馬鹿です、とか、ぼくは弱い人間です、とかよ。それで謙遜してるつもりなんだから、おめでたいぜ」
 慶一はわざとらしく教科書を見つめ、高志を無視する。
「なんだ、もう、いいわけも出ないのか」
 と、高志は慶一をにらみつける。
「うるさいなあ、なに、カッカしてんだよ。なんだっていうの。馬鹿だから、馬鹿だっていっただけだろ。高志も勉強したらあ。すこしやれば、一番になるんじゃないの。いつもいつも、二番三番をウロウロしてんのも、馬鹿みたいじゃないか」
「ワラ、こりゃ、ダメだ。おれたちだけで、まじめにクラブ活動をつづけようぜ」
「ひっひっひ。いまのロウブロウはききましたね」
 ワラは立ちあがって、テープデッキのほうに歩みよった。
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17

おやすみ
よく眠るんだ

〈ウドゥント・イット・ビー・ナイス〉
ビーチボーイズ
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 三学期というのは、最低の学期だ。華々しいことなんか、かけらもない。
 夏がきて、期待で胸をふくらますようなこともなければ、クリスマスの浮き立つような華やかさもない。ただ、学年が終わって、成績の最終審判がくだされるだけだ。
 試験後の行事も、映画を見ただけだ。これは『野のユリ』という、尼さんが砂漠に修道院を建てる話で、つまらなくはないが、学校で見ると、やはり文部省推薦に見えてしまう。
 こうなったら、寮当局とはべつに、独自の企画をたてるしかない。

「どうだい」と、服部がじまんげに慶一を見た。
 たしかに、これはすごい。ベッドとロッカーを積木のようにして、立てたり、寝かしたりして積み上げた、一種の丸太小屋のようなものができあがっている。
「おれなんかさ、試験中は、夜中にここにこもって勉強してたんだ。いちどもバレなかったぜ。完璧に光を隠したからさ」
 これなら、ヴェランダを歩いて見まわるぐらいでは、わからないだろう。
 ここは四〇三だ。空き部屋で、備品倉庫として使われている。その備品であるベッドとロッカーをぜんぶ使い、入れ子のようにして、この丸太小屋がつくってある。
「会費は三〇〇円。前払い。これから、野瀬と山越えして、買い出しにいくんだ。早いとこ出発しないと、晩メシまでに帰れなくなる」
 県道には路線バスが走っているが、バス停までは一本道で、その途上や停留所で、教師に出くわす危険性が高い。だから、山むこうのささやかな「集落」に徒歩でいくのが、唯一の安全な道だ。
「オーケイ。部屋に帰って、もってくる」
「野瀬、そろそろいくからな、ここで待ってろよ」
 服部の呼びかけに、丸太小屋から、ああ、と返事がかえってくる。
「あと、だれを誘ったの?」
「柾生、ヤマ、陳、広岡、峰岸で、おまえとおれと野瀬だから、八人だな。二四〇〇円て計算か」
 陳、広岡、峰岸、慶一の四人はブラバンの部員で、峰岸をのぞく三人は、四月から、寮長の鶴の一声で設立が決まった、軽音楽部に移ることになっている。打楽器セクションはひとりしかのこらないので、一年生を大幅に補充しなければならないだろう。
 慶一はヴェランダのドアをあけた。
「なあ、高志とワラを誘おうよ」
 と、外に出て服部をふりかえる。
「いいけど、おまえが誘えよ。おれ、浅井、苦手だ」
「いやなら、無理にとはいわないけどさ」
 目のまえに、完成した新寮が見える。まだ内装工事をしているが、外観に関するかぎり、本棟と寸分もたがわぬ双子の兄弟に思える。壁面のクリーム色の塗装が、本棟よりすこし薄いので、そのぶん、むこうのほうが上品に見える、というのが、違いといえば違いだ。
「いやじゃないさ。でも、あいつ、こんなの馬鹿にすんじゃないの」
 ふたりは、もう非常口のまえにきた。
「それは、ありそう。でも、あいつの食料も提供してもらうと、すこしは豪華になるんじゃない。あいつ、いろいろもってるから。電熱器と鍋まであるんだぜ」
「電熱器は、ほかで手に入るけどさ……ま、いっぱいいて、にぎやかなほうがいいな」
 服部は階段の手すりをシンバルがわりにして、右手で八分音符を叩く。
 それに合わせ、慶一は〈サブスティテュート〉をスタッカートで歌いながら、三階のヴェランダにむかう。
 この曲(〈恋のピンチヒッター〉なんていう、意味を完全に誤解、または曲解した邦題がついている!)もやりたいけど、キース・ムーンのまねなんか、だれにもできそうにない。

 いったい、このオルガンみたいな音は、なんなんだろう。ギターコードがワン・ストローク、もやのかかったような、ジョンのヴォーカルが入ってくる。
「もう、なんか、べつのレコードにしようよ」
 と、ワラが眠そうな声でいった。
 さっきからずっと、この〈ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー〉を、くりかえし、くりかえし、かけている。
「なんで、ラジオは〈ペニー・レーン〉ばっか、かけてんだよ。腹立つな。これって、馬肉入ってないだろうな」
 と、広岡が最後のコンビーフをあけながら、ぶつぶついっている。
 どうして、ビートルズとコンビーフが頭のなかで連続するんだろう。だいたい、高志のコンビーフにケチをつけるなんて、めずらしい奴だ。
「馬肉が入ってたら、食わないのかよ」
 高志が、慶一のひざを枕にして、「平凡パンチ」をパラパラやりながらこたえる。
「そりゃ、ま、食うけどさ」
「じゃ、どっちでもいいだろ。中身を見て、わかんないような奴は、どっちを食ったって、おなじじゃねえか」
 広岡は、うるせえ野郎だな、ちょっときいただけじゃねえか、とぶつぶついいながら、パラフィン紙の上に中身を三分の一ほどのせる。これは「料理」に必要な手続きだ。
「これって、ヒットしてないのかよ」
 山崎のでかい躰をクッションがわりにして、ポテトチップスをつまみながら、陳がいう。
 さっきから、陳は真っ赤な太陽のマークがついた袋をかかえこんで、だれにもわたさないかまえだ。山崎がうしろから手を伸ばすたびに、二本指でシッペを喰らわせている。
 ふたりは、一枚の毛布にくるまっている。今夜はわりに暖かいが、暖房がきれて、もう二時間近くたつので、すこし冷えこんできた。
「〈ペニー・レーン〉はビンビンだけど、これはうなだれちゃってます。ま、入っていることは入ってるけど、下のほうにさ」
 と、「下」を強調して、ワラがいつもの、ひっひっひ、をつけ加えた。
 このせまいところに、八人の人間がいる。山崎はふたり分だから、実質九人だ。野瀬と峰岸は、もう「寝室」に入って眠っている。そろそろ一時になるだろう。
 この蜂の巣のようなベッドの丸太小屋は、四つも寝室がある、ほとんど豪邸ともいえるつくりになっている。もっとも、寝室というのは、ベッドの三分の二ぐらいの広さしかない、極小の空間のことだ。
 八人がいるところは、「居間」と呼ばれる、ベッドふたつぶんより、すこしせまいぐらいの空間で、二枚のマットレスを強引に押しこんである。
 事実上、みな折り重なっているといっていい。山崎なんか、人間椅子となって陳をかかえこんでいるし、ワラと広岡にいたっては、「居間」と「寝室」をつなぐ、幅七〇センチほどの二本の「通路」に、はみだしてしまっている。
 各自の勉強机におかれているはずの、卓上ランプがふたつ、「壁」と「天井」のあいだから吊るされているので、いちおう、コンビーフと大和煮の区別はつくが、「平凡パンチ」のグラビアを見ても、乳首と目玉の区別がつくかは、さだかではない。だから、馬肉と牛肉の区別がつかなくても、あれほど怒ることもない。
 片桐が慶一に「形見」として遺した、このAMラジオつきポータブル・プレイヤーも、うっかりすると蹴飛ばしそうになる。買ったばかりのビートルズを傷つけないよう、だれもあまり身動きしない。
 片桐なんて人間がこの寮にいた証拠は、このプレイヤーだけだ。これがなかったら、あんな奴がいたなんて、もう信じられなくなっているだろう。片桐のことを話題にすることもなくなった。
「まだあるけど、だれか食うかよ。馬肉抜きの馬肉入りコンビーフ」
 と、広岡がコンビーフの缶をもちあげる。
 おう、と山崎が返事したので、広岡が上体を伸ばして、缶とランプとパラフィン紙という一式をわたす。膝掛けにしている毛布の端が、ピックアップをかすめそうになり、慶一はハラハラした。おれのレコードだぞ!
 山崎は、パラフィン紙にコンビーフをのせ、それをランプの台におき、ランプの先を折り曲げて至近距離に近づけた。こうして数分ほうっておくと、温かいコンビーフが食べられる。
「いいかげんで、ほかのにしろよ」
 顔のまえにかざしていた「パンチ」をかたわらにおき、高志が慶一を見ていう。毛布にくるまれた脚を動かさないようにして、こんどは「ガロ」をとりあげた。
〈ストロベリー・フィールズ〉は、もういちどフェイドインしたら終わる。
 高志は、缶詰は提供したが、ポータブルなんかでかけたら盤がいたむといって、KWTSのレコードは貸してくれなかった。だから、ここには十数枚のシングルと、六枚のEP、それに三枚のLPしかない。
 広岡が、ビートルズをジャケットにもどし、EPをポータブルにのせ、一曲目を飛ばして、二曲目に針を落とす。いいかげんな落とし方で、一曲目のフェイドアウトが入ってしまった。
 聴いたことのある曲だ。慶一は記憶をまさぐる。ゴングが入ったりして、むやみにドラマティックで、マカロニ・ウェスタンの音楽みたいだ。
 つぎの曲も弦が入っている。
「だれ、これ」と、慶一がきく。
「ウォーカー・ブラザース」と、広岡が口ごもる。
「なんでえ」と、広岡が予想したとおり、慶一が馬鹿にした声でいった。
 ということは、さっき、エンディングだけ聴こえた曲は〈イン・マイ・ルーム〉か。
 このあいだ日本にきて、女どもが大騒ぎをやらかしたウォーカーズだが、ビートルズとはちがって、男どもは無関心だ。
 なめてかかっている慶一の耳に、派手なおかずが飛びこんできた。
「ドラム、けっこう、うまいじゃん」
 慶一の気持ちを代弁するように、服部がいう。
「うん、ドラムは面白いんだよ」
 と、広岡がうれしそうに服部にこたえた。
「これ、なんて曲?」
 慶一が広岡にきく。慶一は、〈イン・マイ・ルーム〉以外は、ウォーカーズの曲を知らない。
「ベイビー、ユー・ドン・ハフ・トゥ・テル・ミー」
 と、広岡がレコードに合わせて歌う。それがタイトルだ、ということらしい。
「こりゃ、叩ける奴だぜ。ウォーカー・ブラザースのタイコって、こんなうまかったっけよ」
 フェイドアウトでの強力なフィルの連発に、服部が感心する。
「ジャケット、貸して」
 と、慶一が広岡にいう。高志の頭がひざにのっているので動けない。
 ジャケットには、とんでもないタイトルがならんでいる。〈心に秘めた想い〉〈涙でさようなら〉……なにを考えてんのやら。これだけ見たら、都はるみのレコードかと思ってしまう。
 広岡はEPをひっくりかえし、こんどは一曲目から針を落とす。マラカスが鳴る。
「あ、これ知ってる」
 と、慶一がつぶやき、B面の一曲目を見る。〈太陽はもう輝かない〉とある。これはヒットしている。イントロの途中から、力強いフラムでタイコが入ってきた。ブリッジの入り口で、フロア・タムまで流すフィルも、これまた強力だ。
「ライチャウスみたいじゃねえか」
 ライチャウス・ブラザーズ・ファンの高志が、つまらなそうにいった。
「うん、真似してんでしょ」と、ワラが同意する。
「浅井、ライチャウスもってるの?」
 と、服部が顔をあげた。
「ああ、シングルしかないけどな」
「放送でかけたことないだろ?」
「あんまり朝って感じじゃねえからな。慶一は、歌謡曲みたいだからとかって、かけたがらないしよ」
 と、高志が慶一を見あげる。
「べつに、かけたっていいけどさ……うん、四月にかけるよ、〈ソウル・アンド・インスピレイション〉」
「〈ラヴィン・フィーリング〉にしろよ」
「じゃ、あいだをとって、〈ジャスト・ワンス・イン・マイ・ライフ〉」
「ま、いいや」
 突然、ヴェランダのドアを叩く音がして、服部が素早くポータブルの針をあげる。いやな音がした。
「あけなさい。いるのはわかってるんだぞ」
 外から大声がきこえてくる。
「どうしよう」
 と、山崎がうろたえた声を出した。
「見つかったんだから、どうなるわけでもないだろ。あけてみろよ」
 高志は落ちついたものだ。だが、だれも身動きひとつしない。
「あけなさい!」
 こんどは、さらに大声になった。
「おまえら、なに、おびえてんだよ。ありゃ、芝だぜ。もう、しようがねえな」
 そういって、高志は「パンチ」をマットレスの下に押しこみ、上体を起こした。
「どうすんだよ」
 と、慶一が高志のトレイナーをひっぱった。
「どうするって、あけなきゃ、いつまでも、あそこでねばるじゃねえか」
 頭をぶつけないように、四つんばいになって、壁になっているベッドと、補強用の「擁壁ようへき」になっているロッカーのあいだに垂れた、遮光しゃこうのための毛布をあげ、高志は外へ出た。
 ヴェランダのドアが開く音に、足音がつづく。
「おまえ、こんなとこで、なにやってんだ」
 と、テューターの芝が低い声でいう。
 高志の声はきこえない。
「ん、なんだ、これは」と、また芝の声。
 毛布がはねあげられ、とうとう芝が侵入してきた。
 ちょっと、呆気にとられているようだ。ひざをついて、手にした懐中電灯を消しもせず、ただ内部を見まわすだけで、怒るのを忘れている。
「おまえら、なんてことするんだよ」
 といって、芝が笑いだした。緊張がゆるむ。
「先生、どいてくださいよ。玄関ですよ、そこは」
 高志が毛布をあげて、のぞきこむ。
「おう、悪かったな」
 そういいながら、芝が慶一のすぐとなりにきた。
「センセー、臭いよ」
 と、慶一が顔をそむける。
「いやあ、悪い、悪い。ちょっと一杯やったんでな。すぐに退散するからさ。それにしても、こりゃ、すごいな。だれが考えたんだよ」
「ノーコメント」
 服部がこたえる。じぶんでバラしたようなものだ。
「でも、この天井は危ないな」
 と、芝が不安そうに見あげた。天井の「建材」はベッドだから、不安に思うのも無理はない。
「大丈夫ですよ。この壁のむこうには、ずらってロッカーがならんでるし、そのむこうには、壁にきっちりとつけてベッドがあるから、しっかり支えてるもの」
 じまんげに解説するので、すくなくとも設計者は服部だとわかってしまった。
「なるほどな。なんか、食いもんないのか」
 芝はここが気に入ったようすで、注文を出す。
「先生、会費三百円ね」
 と、山崎がかっぱえびせんの袋を芝にトスした。
「まったく、おまえたちはいろんなことを考えるな」
 芝が袋をあけながらいう。
「それ食べたらさあ、もう、おれたちしょっぴけないからね」
 と、陳がおかしそうにいう。
「ま、しかたないな。どうせ、あすは終業式だけだから、大目に見てやろう。通知表もらったら、笑ってばかりもいられんだろう」
 といって、えびせんをひとつ、口に放りこんだ。
 四人の大学生たちは、舎監の藤井とちがって、あまり杓子定規しゃくしじょうぎではない。
「先生、質問」と、ワラがいう。
「なんだ、酒が入ってるから、数学は無理だぞ」
「こんなとこで、数学の質問なんか、だれがするんですか。そうじゃなくてさ、女子寮ができたでしょう」
「あそこは女子しか入れない。おまえは、いきたくても、無理」
「だから、そうじゃなくてさ、女子寮には、女のテューターがくるの?」
 といって、ワラは、ひっひっひ、をつけ加える。
「おう、もうふたり決まってる。男のテューターも四人増えるぞ」
 そりゃ、そうだろう。四月から、寮生は倍にふくれあがる。
 女のテューター、かわいい? というワラの質問は無視された。
「部屋の編成は、どうなるんですか?」
 と、山崎が口をはさむ。
「それは秘密だ。どうせ、四月に帰ってくれば、わかるじゃないか」
「冷たいな」
「じつは、部屋の編成はまだこれからだ。こないだいったとおり、二年四人に、一年四人、これだけしか決まっていない」
「おれ、新しい寮にいきたいな」
 と、服部がまた足を投げだし、「壁」によりかかった。「壁」と「天井」の接合部がきしむ。
「先生って、何年生なの?」と、慶一がきく。
「四年だ」
「じゃ、卒業でしょう?」
 この仕事は、「学生アルバイト」のはずだ。
「うん、だけど、大学院にいくから、来年もおまえらのケツをひっぱたく」
「でもさ、よくこんな山んなか、くる気になったね」
 服部が大和煮の缶をもち、缶切りをさがしながらいう。マットレスのあいだにはさまっていた。
「食うのもタダ、寝るのもタダ、そのうえ高い給料がもらえるんだから、たいていのことはガマンできる」
 といって、芝は短く笑った。
「給料、高いんだ?」
「おまえらの家が、ブルジョワのおかげでな」
「うちはふつうの商店だよ。ブルジョワは、ハンゾーと高志だけじゃないの」
 と、慶一は高志のほうを見る。
「おれにくらべりゃ、おまえらみんな、大ブルジョワの子弟だ。まったく腹が立つ。こんな中学生活があるなんて、想像もできなかったぜ。かっぱえびせんぐらいじゃ、とりもどせない。おれにも大和煮食わせろ」
 芝は服部に手を差しだした。
「じゃ、こんな山、さっさとおん出て、名もなく貧しく美しく暮らせばいいでしょ」
 という高志の顔には、不愉快そうな表情がへばりついている。
 慶一は、芝が怒るのではないかと思ったが、逆に笑いだした。
「でも、おれはここが気に入ってるからな、そうもいかんのだ」
「給料高いからね、うちらの親父どもが、貧乏人からしぼりとってるおかげで」と、服部が笑う。
「それだけじゃない。おまえたちは、自分がどんなにいいところにいるのか、わかってないんだ。世の中ってのはな、こことは反対の場所だ。古くさくて、なにもかもが薄汚くて、よどんでいて、人間だらけだ。そのぶん、女もいっぱいいるけどな。おまえらは、ほんとうに恵まれてる。たりないのは女の子だけだ。それだって、来年はいっぱい入ってくるじゃないか」
「なにいってんの。天国じゃあるまいし、ここにだって、いやなこと、いくらでもあるよ。ま、藤井が消えて、だいぶ暮らしやすくなったけどね」
 といいながら、服部が肉片を口に放りこんだ。
 藤井は入院したきり、もどってこない。もう、二度ともどらない、永久に消えた、という説が有力になっている。
「藤井って、絶対にもどらないの?」
 と、陳が不安そうにきく。
「あのなあ、舎監制度は、正式に廃止されたんだ。たとえ、おまえらの天敵がもどっても、寮には居場所がない」
「あいつって、なんかの教師なの?」と広岡。
「知らねえけど、どっかの貧乏ったらしい公立かなんかで、生徒指導でもやってたんじゃねえのか。いかにもそういう感じじゃねえ。ミミッチクってつきあってらんねえよ。サイテ」
 と、藤井を直接知らない芝にかわって、服部がこたえた。語尾を伸ばさない「サイテ」は、最低というにも値しないほどつまらないことを指す。
「じゃあさ、寮にはもどらなくても、学校にもどるかもしれないじゃん」
 そのおそれはある。ゴキブリは、簡単には絶滅できない。
「いいかげんにしなさい。死者をムチ打つな、ということを知らんのか、おまえたちは」
「死者って、じゃあ、完全に消えたんだ」
 と、服部がうれしそうにいう。
「わかるもんか。だれか、心臓に杭を打ちこんでこいよ。首に十字架ぶらさげてな」
 高志が毛布を拾いあげて、つまらなそうにいう。
 オレいく、テッテ的に打ちこんでやる、とワラが笑う。
「まったく、おまえら、どういう根性してんだ。藤井って人がなにしたんだ。ちょっと、頭が固かったくらいだろうが」
「先生、『ハード・デイズ・ナイト』見てないの?」
 そういった慶一の声には、怒りがこめられていた。
「そりゃあ、それくらい、おれだって見てるさ。主題歌だって歌えるぞ」
 と、ファーストラインを口ずさむ。みんなが、うなり声をあげた。
「あの映画んなかでさ、テレビの人が、リンゴのシンバルを勝手に叩くでしょう」
「おう、そういや、そんなシーンがあったな」
「藤井は、もっとひどいことしたんだもの。ギターを床にたたき落としたんだから。テスコやグヤじゃなくて、フェンダーだよ」
「うん、その話はきいたけど、それは、たまたまそうなっただけだろう」
「たまたまって、たまたま人を殺したら、牢屋に入らなくていいわけ?」
「そりゃ、簡単にはいえないな。状況による。だいいち、この場合は器物損壊だ」
「なに、それ」
 と、ワラが口をはさむ。
「要するに、ものを壊した罪だ」
「ギターはものじゃないの。そこらのギターだって、人間くらいの価値はあるの。フェンダーやギブソンになったら、神様に近いんだよ。あいつだって、弾いたあとには、かならずやわらかい布できれいにふいてから、ケースにしまってたんだから」
 芝は大笑いしている。慶一は気を悪くした。
「いや、すまん、すまん。そりゃ、おまえ、フェティシズムって病気だぞ」
「それ、なに」
「まあ、いい。いずれ、わかる。でも、まあ、そういうものかもしれん」
 といって、また笑った。
「そんなのは、慶一と片桐にしか関係ないけど、とにかく、あいつは無神経な野郎でさ、いろいろバカやって、もう、話にならなくて――」
 といいかけて、高志は奥に目をやる。
 だれかが這いでてきて、ワラの横から顔を出した。
 野瀬だ。
「あーあ。やっぱ、見つかっちゃったんだあ。早く寝ようって、いったじゃないか」
 眠気のせいか、失望のせいか、その両方のせいか、野瀬は情けない声を出す。
 みんなは、ゲラゲラ笑った。
「おれ、隠れてたわけじゃないからね。あとで、ひきょう者とか、いうなよな」
「いわねえよ、バカ。おまえ、眠いんだろ」
 と服部が笑いながらいった。
「眠いよお。夢んなかに、芝が出てきて怒るからさ」
「バカ者、目のまえにいるのに、呼び捨てにする奴があるか」
 と、芝が笑った。
「眠いんなら、もどって、寝ろよ」
「だって、テュータールームに連行だろ」
「いいんだって。眠れよ。これは夢だ。どういうわけか、夜中に起きてても怒られない夢だ」
 服部のからかいに、みんなが笑う。
「夢かあ。じゃあ、大丈夫だ」
「大丈夫だ。おやすみ。バイバイ」
 そのままあとじさりして、野瀬は「寝室」にもどっていく。みんなも笑って見送る。どこかに頭でもぶつけたのだろう、ゴンという音がして、静かになった。
「おれさあ、藤井に髪の毛つかまれて、カツラをするのは女だけだぞ、ていわれた」
 慶一が、そのときの怒りを思いだしながら、低い声でいった。
「そんなこと、あったのか」
 という高志の顔色が変わっている。
「うん、片桐がくるよりまえだけど」
「なんで、いわなかったんだよ」
「なんでって、それだけですんだからさ」
「そういうことがあったら、ちゃんと教えろよ。あんな野郎、本気になれば、叩き出すのはわけなかったんだ。でも、よく、それだけですんだな」
「だって、それがサロンの入口でさ、寮長があらわれちゃって」
 と、慶一は吹きだした。
 みんなも、クスクス笑う。あのバカ、寮長の顔色ばかり、うかがってやがって、と服部。
「まったく、おまえら、陰じゃあ、そういうことばかりいってるんだから、おれなんかも、なにいわれてるか、わかったもんじゃないな。簡単に叩き出されるまえに、退散するか」
 芝が笑いながら立ちあがろうとして、頭のすぐ上は天井なのに気づいた。
「センセー、もっとゆっくりしてってくださいよ」
 服部が、ほんとうは逆だ、という響きをこめていう。
「電熱器はあぶない。没収する。あした、返してやるが、自宅にもち帰ること」
「キタネエな、さんざん食べといて。だいたい、ここに入れると危ないからって、ちゃんと外に出して使ってたのに」
「心がけは悪くないが、そもそも、存在すること自体がいけない。タバコや酒はないだろうな」
「あるわけないでしょ。あったら、没収するわけ?」
「当然だ。このあたりは酒屋もタバコ屋もなくて、じつに不便だ」
 芝は笑いながら、遮光毛布をもちあげる。
「音楽はだめだぞ。もう、遅いんだから、さっさと寝ろよ。当直はおれだからな。あすの点呼に遅れたら、このメンバーはみんな、外泊延期だ」
「どうせ、雨が降ってるから、関係ないじゃん」
「点呼時にじぶんの部屋にいない奴が、ひとりでもいたら、このメンバー全員、同罪だ」
 そういい捨てて、芝は外に出た。
「それから、ここは、今晩だけで立ち退きだからな。まあ、どうせこの備品は新寮いきだから、家のほうがいなくなるか」
 と、外に出て、まだしゃべっている。
「先生、忘れもん、懐中電灯」
 と、高志が芝を追いかけた。
 みんな、じっとして、足音が遠ざかるのを待つ。
 三〇秒ほどで、高志がもどってきて、
「もう、大丈夫だ」といった。
「なんか、かけようぜ」
 と、山崎がレコードの山をひっくりかえす。
「おれ、もう寝る」
 慶一が腰を浮かせて、広岡をどけ、奥へむかった。
「そろそろ、お開きにするか。おれたちは早起きしなくちゃだしな」
 と、高志も慶一のあとを追う。
「寝室」は灯がないので、なにがなんだかよくわからないが、とにかく、マットレスはある。
 慶一は、そこに頭から突っこんでいき、毛布をかぶった。一枚じゃ、寒いかもしれない。
 あとからきた高志が、慶一の脚を膝がしらで押さえこんだので、イテエーと悲鳴があがる。
「となりにいけよう。せまいんだから」
「寒い、寒い」
 と、高志は無視して、慶一のとなりに割りこむ。
 たしかに、ランプがともり、人も大勢いる「居間」とはちがい、こちらは冷えびえとしている。
「頭あげろ」
 と、高志がいう。
 すなおに頭をあげると、高志の左腕が、慶一の首とマットレスとのあいだに差しこまれた。
「あした、起きられるかさ」
 慶一が、高志の腕のなかで頭を動かして、居心地のいい態勢に落ちつけながらいう。
「大丈夫だ。六時半には、ぜったいに目が覚める」
「じゃ、起こしてよ。点呼、まにあわなかったらたいへんだ」
「大丈夫だ。安心しろ」
 といって、高志が慶一の背中に右手をまわし、抱きよせる。
「あと、何時間寝られるかな」
「二時ちょっとまえだから、五時間だな」
「高志、新しい寮にいきたい?」
「おれは、こっちが好きだ。部室もあるしな」
「部室、大丈夫かな」
「大丈夫だ。来年も四〇七だ」
「おれ、もう、そんなにいけないよ。バンドやらなきゃ」
「わかってる。あの番組だけでいいよ」
「怒ってんじゃないの」
「怒ってなんかいない。つまんないだけだ」
「つまんない?」
 慶一の声が小さい。
「あれはさ、おまえのためにつくったんだ。いっしょに遊ぼうと思ってな」
 返事のかわりに、静かな息づかいがきこえてきた。
「居間」からは、ママズ&パパズの〈マンデイ・マンデイ〉が流れてくる。





底本:「45回転の夏」新潮社
   1994(平成6)年7月20日発行
初出:「45回転の夏」新潮社
   1994(平成6)年7月20日発行
※底本の訂正は、著作者によるものです。
入力:鶴岡雄二
校正:Y.N.
2001年12月12日公開
2019年8月29日修正
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