45回転の夏

第2章 メリーゴーラウンド、1967年

鶴岡雄二




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そして、きょう
ぼくは彼女を見たんだ

〈ヤンガー・ガール〉
ラヴィン・スプーンフル
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「じぶんで集合かけた奴が、なんだって、遅刻するんだよ」
 ヴィデオコーダーを運んだのは、三〇分もまえのことなのに、まだ手のふるえがおさまらないのに腹を立て、慶一は口をとがらせながらワラにいった。
「知りませんよ」
 一〇三のヴェランダにおいたモニターの垂直同期を調整しながら、そうこたえたワラは、怒っていないどころか、むしろ高志の遅刻を歓迎しているらしい。
「けっこう、むずかしいもんだな」
 カメラのグリップをにぎった山崎が、ファインダーをのぞくために曲げていた腰を伸ばした。
 モニターの画像に納得したワラが、山崎をわきに押しやり、ファインダーをのぞきこむ。
 グリーンの地にオレンジのストライプという悪趣味なタクシーが、桜の花びらをきあげながら、校舎からの坂道をくだってきて、玄関のまえでとまった。
「やっぱりさ、これを追っかけるのはムリだよ。フィクスで撮るしかないね」
 と、ワラはひとりで納得してうなずいた。
 ここからだと、坂をくだる車が玄関まえにたどりつくまで撮るには、「く」の字の鏡像を描くようにカメラを動かさねばならないが、トライポッドのジョイントは、そんな動きをするようにはできていない。
 折り畳みイスにおかれた、二巻の三〇分テープの箱を見て、慶一は情けなくなった。去年の予算ののこりで買ったものだが、これだけで一万円もする。
「はじめようか」
「そうしようぜ。遅刻した奴がいけないんだからな」
 そういう山崎のノンシャランな口調に、いちおうは高志に遠慮していたワラも安心したらしく、カメラを水平にもどし、坂を見わたせるように、ズームをいっぱいに引いた。
 体育館建設予定地の土盛りのかげから、また車があらわれ、ワラが躰を緊張させる。
「タクシーか」
 ファーストショットを決めたいワラは、セドリックのタクシーを見送った。
 テープの箱を床におき、折り畳みイスに腰をおろしながら、山崎が口を開く。
「それにしても、腹へったなあ」
「メシをもってくとかいった奴が、遅刻するからいけないんだ」
 慶一が腹を立てているのは、そのせいでもあった。
 二年生の帰寮刻限は午後二時なので、きょうの昼食などというものはない。高志は、正午に帰寮しろと電話してきたとき、メシは用意するといっていた。
 問題は、もう一時になるというのに、その高志がすがたを見せないことだ。
「ベントリー!」
 ワラの声に、慶一と山崎が目をあげた。シルヴァーグレイのベントリーが、ゆっくりと坂をくだってくる。かすかな音をたてて、テープが回転をはじめた。
 ワラはいったんテープをとめ、ななめ左下に向きをかえ、玄関の周囲が視野におさまったところで、またテープをまわした。
 ショーファーより早く、後部座席の人間がおり、それを一瞥して、慶一は山崎と顔を見あわせた。
「やっと登場」
 高志だ。たぶん、坂をおりながら、一〇三のヴェランダに三人が陣どっているのを見たのだろう、高志はむこうをむいたまま、トランクのふたをあげている。
 ショーファーが後部左のドアを開き、つばの大きな白い帽子がふわりとただよい出て、それを追うように長いヒールが突きだされた。
 顔はおろか、躰だって見えたわけではないが、慶一は感じとっていた。この人は高志の母親で、そして美しい人にちがいない。
 なにか命じられたのか、ショーファーはいちど動きかけてとまり、二度三度とうなずき、急ぎ足になって反対側にむかった。
 高志は、そうしたことには無頓着に、さっさと小ぶりのベージュのスーツケースをトランクから出し、もう、玄関にむかって歩きはじめている。
 白と黒が領土を張りあって、あげくのはてに世界を切り裂いてしまったような、そんなドレスをまとった母親がおりたち、「高志さん!」と強い口調で、ひとりで玄関に入ろうとする高志を呼びとめたのだけは、慶一にもききとれたが、そのあとにつづいたお小言のほうは、よくきこえなかった。
 高志の母親が、ようやくヴェランダからでも見える方向に顔をむけ、山崎が遠慮がちに口笛を吹いた。
「スゲエ」
 という山崎の賛辞に、慶一が同意しようとしたとき、後部右のドアが開き、肩と豊かな髪がのぞいた。
「令子ちゃんだ! なあ、おれ、ここにいなくてもいいよな」
 ふたりの返事をきくまえに、慶一はドアに手をかけ、室内に駆けこんでいた。
 風のように一〇三を駆け抜け、ワックスをかけたばかりの廊下に手こずりながら、それでも、ほんの十数秒で慶一は玄関にたどりついた。
「高志は二〇二。ワラといっしょ。おれ、二一二。西棟だよ。向かいあわせ」
 事務室の窓口に手をかけた高志に、慶一が声をかけた。
「うるせえな」
 部屋割表を受けとるために、高志はなかの職員に声をかけた。
「遅刻だからね」
「わかってる」
 令子のことが気になるので、慶一は高志の無礼を、とりあえず不問に付すことにした。
 金ボタンの紺のブレザー、紺のボウタイ、タータンチェックのスカート、白いハイソックス、茶のローファーというかっこうの令子は、母親にうながされ、玄関のほうに足を向けた。
 マーキーの下に入り、目をしばたたいた令子は、ようやく慶一のすがたを認めた。
「いらっしゃい」
 そういう慶一に、令子は小さく首をかしげ、微笑みであいさつした。
 部屋割表を受けとった高志は、外をまわる手間をはぶき、スリップオンを履いたまま玄関からあがり、慶一のわきをすり抜けて、下足室にむかった。
「お母さん、高志兄さんのお友だちの滝口慶一さん」
 母親をかえりみて、令子が紹介する。浅井夫人はかすかな微笑をかべ、慶一を見た。
「令子の母です。なにか、高志がいつもお世話になっているようで、こんどはよろしくお願いします」
 時計を十年逆行できるなら、ひょっとすると、浅丘ルリ子といい勝負ができるかもしれない。慶一は、山崎を呼んで、近くで見せてやりたくなった。
「はあ、あの、こちらこそ。えーと、よろしくお願いします」
 といって頭をさげながら、慶一は、なんか、ヘンだな、と思ったが、あたりをはらうような、この親子の華やかさに圧倒され、ただヘドモドした。
 下足室の扉が開き、スニーカーに履きかえた高志が飛び出してきた。
「高志さん」
 と呼びとめる母親を見もせず、高志がうるさそうにこたえた。
「なんだよ、いそがしいんだよ。柴田、あれ」
 ブルーのスーツケースをもって、親子のうしろに控えていたショーファーが、あ、すみません、と高志にあやまって、スーツケースをおろし、車のほうにひきかえした。
「あなたが紹介してくれなければ、いけないじゃありませんか」
「令子が紹介したんだろ? じゃ、いいじゃねえか。さっさと用をすませて、帰れよ」
 よそのうちのことだとは思ったが、さすがに慶一も黙っていられなくなった。
「そういういいかたは、ないんじゃない?」
 口を開きかけた高志は、ちょっと頭をふり、なにごともなかったような顔をした。
 弟の失策をかばう兄のような気分になって、慶一は母親にあやまるような微笑をむけ、浅井夫人もおなじように、弁解するような笑みを慶一に返し、しようのない人、とつぶやいて、窓口に歩みよった。
「令子ちゃん、まだ帰らなくていいんでしょう?」
 ちょっとビックリしたような顔をしてから、令子はすぐに小さく笑った。
「ええ。慶一さん、ずいぶん伸びましたね」
 と、令子はじぶんの髪の裾に手を伸ばした。
 ショーファーがもどり、高志に紙袋をさしだした。
「おまえ、メシ食ったのか?」
「だれだよ、メシもってくるっていった奴は」
「だから、もってきたじゃねえか」
 手にした紙袋を示し、高志は、さあ、というように首を階段のほうに倒す。
「だって――」
 令子ちゃんたちはどうするんだ、という慶一をおきざりにして、高志はもう階段にむかっていた。
 浅井夫人は、まだ腰をかがめ、職員となにか話している。
「ごめんなさい。兄さんはひとりでくるつもりだったんですけど、わたしと母がひきとめたんで、すこし遅くなっちゃったんです。それに、お店が混んでて、なかなかできなくて……」
「ああ、ハンバーガーか。なんだ、そうか。気にしないで。それより――」
 はあ、さよですか、わかりました、といって浅井夫人が令子にむきなおった。
「令子。新入生の受付は三時からだから、まだ、準備ができていないんですって。そこがサロンだそうだから、ちょいと待たせてもらいましょう」
「――新入生?」
 呆気にとられて、慶一は令子を見つめた。
「ええ。兄さん、なにもいわなかったんですね」
「高志さんたら、どこへいっちゃったのかしら。ホントに頼りにならないひとね……」
 浅井夫人は、ちょっと周囲に目をやり、すぐにあきらめ、では改めて、という思い入れで、身じまいを正し、慶一に笑みをむけた。
「慶一さんとおっしゃいましたわね。高志はあのとおり当てになりませんから、ひとつ、この子のことをよろしくお願いします」
 なにかこたえなければ、とは思うものの、慶一はただ目を白黒させた。
 令子はおかしそうに笑みをもらしてから、母親にならって、初対面の教師にでもあいさつするように、ていねいに頭をさげた。
「そういうわけですので、よろしくお願いします――滝口センパイ」
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19

あいつがなにをいっても
そんなに悲しまなくていいんだ

〈ユー・ウォント・ハフ・トゥ・クライ〉
グラム・パースンズ
[#改段]
 サロンの時計は、一時二分まえを指している。
 また、三人の一年生が、歓声をあげながら、玄関ホールへと駆け抜けた。
 生徒の数が倍になったのだから、当然といえば当然だが、この三日のあいだの騒々しさといったらない。慶一はウンザリしていた。
 サロンのジュウタンを敷いた低い部分に、長テーブルがふたつ、直角にならべられ、その片方には高志と一年坊主が、もうひとつのテーブルには、慶一とワラが腰をおろしている。
「こんなめんどうなこと、どうしてやらなきゃなんないわけ?」
 テーブルに両ひじをつき、アゴをかかえこんで、慶一がボヤいた。
「おまえ、やるっていったんだからな。いまさら逃げだすんじゃねえぞ」
 一年生にむかって、テープデッキの操作方法をおさらいしていた高志が、念を押した。
 この一年坊主は高志とワラの部屋、二〇二の新入生で、ふたりはこいつを義晴と呼んでいる。
「高志さんのご命令ですから、逃げませんよ」
 最初のうちは、慶一に「高志さん」といわれるたびに怒っていた高志も、もうあきらめたのか、いまはなにもきこえなかったような顔をしている。
「まあまあ、やってみれば、けっこう面白いかもしれないでしょ」
 プラスティック・ケースに収めた部屋割表をながめながら、ワラが慶一をなだめる。
「慶一、面白い話があるの」
 顔を慶一のほうによせ、高志にきこえないように、ワラがささやいた。
「あのテープ、どうなったと思う?」
「どうなったって、高志が消したじゃないか」
 入寮の日、高志は着替えもせずに一〇三のヴェランダにいき、もういちど、はじめから撮りなおす、と宣言した。
「あれ、なんか消されそうな気がしてさ、高志がくるまえに、ちょんぎっといたの」
「じゃ、令子ちゃんのシーンも?」
「ひっひっひ。トーゼン。まあさ、もうエディットできないけど、見ることは見られるよ」
 仕切りとして立てたついたての上に、山崎の顔があらわれた。
「こっちは準備オーケイだぜ」
「ああ、そろそろいく。おまえ、ちょっと、そこらのガキどもを静かにさせてくれないか」
 人差指と親指で丸をつくってみせ、山崎はついたてから離れた。すぐに、山崎の太くて低い声が響き、サロンはあっというまに静寂につつまれた。
「ワラ、いくぞ」
「ヤ」
 高志がアゴをしゃくると、一年坊主がデッキをまわした。
 慶一のヘッドセットに、〈ドゥ・ワ・ディディ・ディディ〉が流れる。すぐに高志が出力をしぼり、ポール・ジョーンズのパセティックなヴォーカルが小さくなる。
「グダフタヌーン、ディス・イズ・KWTS。四月六日午後の特別プログラムをお送りします」
 またポール・ジョーンズの声が大きくなり、ブリッジのマイナーコードのところで、もういちど高志が出力をしぼり、デッキのカウンターを確認し、義晴に目配せする。
「本日は、午後の自由時間を利用して、サロンの特設サテライトスタジオから、特別プログラムをライヴでお送りします。とくに、新入生諸君の参加をお待ちしています。局にはスタッフが待機していますので、インターフォンで、リクエスト、ご質問、ご意見、なんでも受けつけます」
 いつも「ライヴ」だから、いまさら断わる必要もないが、ワラって奴は、ことさらにそういうことをいうのを、いつも楽しみにしているようなところがある。
 打ち合わせどおり、「リクエスト」ということばをきいた瞬間に、義晴がデッキをまわしていたので、ワラのセリフが終わったときには、もうオルガンのイントロが流れていた。
「ヒア・ゼイ・カム、ザ・モンキーズ!」
〈アイム・ア・ビリーヴァー〉だ。ガキを狙い撃ちしようというわけ。
 ついたてのかげから、一年生がふたり、顔をのぞかせた。
「おまえら、こっちへきて、ゲストになれ」
 ワラにうながされて、気の弱そうなほうが、もうひとりのうしろに隠れた。
「なにやってんだ。曲が終わるだろ。駆け足!」
 しかたなく、ふたりは、ワラと慶一が坐っているテーブルのまえに歩みでる。
「気をつけ! 着席」
 折り畳みイスをひいて、それぞれワラと慶一のまえの席についた。
「あとで、おまえらふたりに、いくつか質問するからな。いいな」
 気の強そうなほうだけが、はい、とこたえる。
「でも、きかれるまでは、なにもいわないこと。それから、イスをギシギシさせるんじゃないぞ」
 また、一年生が顔をのぞかせた。慶一の部屋の新入生、嶋野だ。使い走り要員として、「局」にへばりつかせてある。高志が、嶋野を手招きする。
 ワラは唇に人差指をやり、「ゲスト」のふたりを威嚇いかくして、マイクのスウィッチを入れた。
「ザ・モンキーズ、〈アイム・ア・ビリーヴァー〉でした。きょうのお相手は、ご存知、ぼく小松知道と――」
 といって、慶一のほうを見る。
 ワラの本名がおかしくて、笑いをこらえるのに懸命だったので、慶一は打ち合わせてあったことを忘れてしまった。
 ワラが慶一のスネを蹴飛ばし、慶一のまえのマイクのスウィッチに手を伸ばす。
「滝口慶一です。よろしく、エーと――」
 また、ワラが蹴りを入れて、話をひきとった。
 慶一の視野のすみで、テーブルにつっぷした高志と義晴が、肩をふるわせて必死に笑いをこらえている。
「――という、トゥインDJでお送りします。さて、うれしいことに、さっそくふたりの新入生をお客さまに迎えています。まず、こっちのきみから、名前と部屋番号を教えてください」
「三〇二の井口です」
 ワラが慶一を見て、また蹴りを入れた。もう一発蹴りがくるまえに、慶一が口を開く。
「こっちのきみは?」
「田所です。三〇二です」
「――という、三〇二のふたり組です」
 子ブタをまえにした狼のような笑みを泛かべ、さて、どうしてくれようか、とワラはふたりを見くらべる。
「三〇二は、服部くんが室長でしたね。ちゃんと、めんどうを見てくれていますか」
 これは、新入生と服部の両方に対して意地が悪い。
 高志が、ターンテーブルにシングル盤をのせ、義晴が、嶋野から受けとったリクエストカードを、静かにワラのまえにすべらせた。
 慶一は、もう退屈しはじめていた。新入生につまらない質問をし、モンキーズを聴いたところで、なにがどうなるわけでもない。
 ワラが大きな笑い声をたてた。
「ハッハッハ。どうやら、三〇二は楽しい部屋のようです」
 といって、リクエストカードを手にする。イントロの出が遅れたのだろう、ワラは義晴をにらみつけた。
 いそがしい義晴のかわりに、高志が右手を顔のまえにかざしてあやまる。ここからは、テープではなく、盤をまわすので、タイミングがむずかしい。
 ヘッドセットに、派手なギターのイントロが流れた。
「三三四号室の池田知子さんからのリクエストです。ウェル、ウェル、ウェル。ヒア・ゼイ・カム・アゲイン、ザ・モンキーズ、〈ラスト・トレイン・トゥ・クラークスヴィル〉」
 三三四号室の池田知子さんというのは、あの知子のことだ。高志の拒絶にもめげず、バーガー屋で宣言したとおり、祝ご入学ときた。どうやら、半年会わないうちに、ポールをふって、デイヴィー・ジョーンズに鞍替えしたらしい。
 ついたてのかげから柾生がすがたを見せ、マイクを指さし、死んでる? と声をださずにきいた。
「大丈夫だ。なんかきたか」
「リクエスト、ウォーカー・ブラザース」
 高志にカードをわたし、柾生はモンキーズを口ずさみながらひきかえした。裏切り者!
「おまえら、もうちょっと、つきあえ」
 そう一年生に命じてから、ワラは、
「慶一、つぎ、お知らせいくからね」
 と、慶一をにらみつける。
 いろいろいいたいことはあったが、すべて飲みこんで、慶一はヘッドセットをかけなおし、原稿を手にした。ギターがエンディングのリフを弾いている。
「ザ・モンキーズ、〈恋の終列車〉でした。……ここで、KWTSからのお知らせがあります」
 ワラがおそろしい邦題を口走ったせいで、慶一はまたスウィッチを入れ忘れそうになった。
「エー、男子寮にはふたつの建物がありますが、東棟と西棟という、あまり面白くない名前で呼ばれています。できれば、もうすこし親しみやすい呼び名がほしいものです。みなさんになにかよいアイディアがあれば、この放送中にサテライトスタジオまできて、発表してください。採用されたアイディアには、KWTSから、豪華賞品をさしあげることになっています」
 一字一句まちがえずに読み終わった慶一は、どんなもんだい、というようにワラを見るが、つぎの曲の紹介のことを考えていたのか、ワラは目のまえの井口をにらみつけている。
「さて、こんどはゲストの新入生諸君に、出身地のことをきいてみましょう。井口くんは、どこからきましたか」
「マニラです」
「へえー、それはずいぶん遠くからきましたね」
 じぶんのほうがもっと遠くじゃないか、と慶一は口をはさみそうになった。
「お父さんの仕事は?」
「医者です」
 慶一を頼りにしないことにしたのか、ワラは田所にもじぶんでインタヴューする。
 手持ちぶさたの慶一が、気配を感じて、ついたてのほうに目をやった。
 ついたてのかげから斜めに半身を出した知子が、じぶんの鼻の頭を人差指で上に押しあげて、くしゃくしゃの顔をつくり、それをあいさつのかわりにする。
 もしや、と慶一が期待の視線を送ると、知子はついたてのかげのだれかを見て、ひっぱりこもうとするように、右手を動かす。
 ついたてのかげから令子が出てきて、小さく頭をさげ、慶一にあいさつした。
「校歌のライターが期待したとおりの、北と南からの新入生というわけです」
 こんどはきれいなタイミングで、弦のイントロが入ってきた。
「ゲストのふたりの部屋の二年生、服部君からのリクエストです。ザ・ウォーカー・ブラザーズ、〈(ベイビー・)ユー・ドン・ハフ・トゥ・テル・ミー〉」
 ワラがマイクのスウィッチを切ると同時に、複数の人間がいっせいに口を開き、サテライトスタジオは大混乱におちいった。
「おまえら、早く席をあけろ。レイディーたちが見えないのか」
 と、ワラが目のまえの一年坊主をしかり飛ばし、高志は女の子たちに、
「おまえら、部屋に帰って、おままごとかなんかしてろ」
 と追い返そうとする。そうはさせまいと、慶一は、
「ゲストに失礼じゃないか」
「バカヤロ、なんのために、こんなデカいエサをつくったと思ってんだ。あんなの釣りあげたって、しようがねえだろうが」
 高志と慶一がいいあらそっているあいだに、知子はさっさとワラのまえに坐り、令子を慶一のまえに坐らせた。
「高志」
 と、ワラが静かに声をかける。
「なんだよ」
「ウィー・アー・オン・ディ・エア」
 やってられるか、というように、高志がヘッドセットをテーブルに投げだした。
 ここぞとばかり、慶一が一撃を試みる。
「おまえ、やるっていったんだからな、いまさら逃げるなよ」
 反撃のことばをさがしている高志をしりめに、両手をテーブルにおき、知子がいいはなった。
「さあ、はじめましょう。インタビューするんでしょう?」

 柾生と肩をならべ、体育館敷地のスロープをくだっているとき、慶一は、このキャンパスに起こった、ささやかな変化に気づいた。
 校舎と寮をつなぐ道は、大ざっぱにいって、上の道と下の道の二本がある。去年までは、寮生の三分の二は上の道を使っていた。それがいまでは、大部分の生徒が下の道を使っている。
 原因は明らかだ。新寮の生徒と女子にとっては、上の道は遠まわり以外のなにものでもない。
 だが、東棟の生徒の場合、規則を無視して非常口を使うなら、上の道をいくしかないはずだが、そういう人間はあまり見あたらない。この原因も明らかだ。
 下の道をいく女の子のだれかが、ハンカチを落とす確率がゼロだとは、だれにも断言できない。でも、上の道にいては、それを拾えるチャンスは、まったくのゼロだ。
「倍になっただけでこれじゃあ、来年は交通渋滞だ」
 下の道に入り、坂が見わたせるようになったとき、柾生がつぶやいた。
 満開をすぎた下の道の桜並木が、車道いっぱいにひろがって寮への道を歩む連中に、盛大に花びらを散らしている。
 一〇メートルほどさきに、高志の頭が見えた。令子と知子がいっしょだ。慶一は柾生のことなど忘れ、早足になって、坂のなかばあたりで三人に追いついた。
 だが、声をかけようとした慶一は、きつい調子でしゃべる高志におどろいて、ことばを飲みこんだ。
「いいな。わかったな……返事は?」
 令子が小さくうなずく。声を出したかどうか、いずれにしても、慶一の耳にはとどかなかった。
「もう、横暴なんだから。なによ、そんな規則、どこにもないじゃないの」
 周囲なんかに気兼ねせず、知子が大声で高志に反撃した。
 このまま三人の話をききつづけるのは、盗み聞きのような気がして、慶一は意識してピッチをあげて口を開いた。
「なにもめてんの? 令子ちゃんをいじめるなよな」
 背中を見ているだけで、高志が怒ったのがわかった。桜の花びらを、一気にみな吹き上げてしまいそうないきおいでターンし、慶一をにらみつける。
「おまえは黙ってろ。これは家族の話だ」
「また、エラそうに。なにが家族の話よ。じゃ、あたしはなんなの。家族でもないのに、どうして、高志お兄さまに、命令されなきゃなんないの?」
 知子が妙にスジのとおった反撃をした。
「うるさい、おまえは共犯だ」
「共犯てなによ、人殺しなら、まだしてないわよ。これからやるんだからね。憶えてろ」
 なにも、日にそうなんどもあるわけではない、こんなラッシュのどまんなかでやらなくてもいいのに、と慶一は困惑した。下品なヤジこそきこえてこないが、花びらの数とおなじくらいの視線は感じる。慶一は、恥ずかしさと好奇心のはざまでもがき、恥ずかしさをねじふせた。
「どういうこと?」
 高志と知子に同時ににらまれ、慶一はことばをつづける勇気を失った。
 知子がため息をついて、思いなおしたように慶一に話しかける。
「あのね、令子とあたしは “入部資格がない” んですって。“身内だから” だって」
「そんなあ、ひどいよ。関係ないじゃん、家族とかなんとかは」
「おまえになくても、おれにはあるんだ。よけいな口を出すんじゃない」
 といって、高志は三人をおいて、さっさと玄関にむかって歩みを速めた。
 知子はアッカンベーを長めにやって、ようやく気がすんだようだ。
「あいつ、どうしちゃったのかな。入れてあげればいいのに。ワラもおれも大歓迎だよ」
 と、ワラをダシにして、慶一は令子をなぐさめようとする。
 サテライトスタジオからの放送は、新入生の勧誘のためだった。もっと正確にいうと、あらかじめ女子の入部希望者を見ておくためだった。
 もちろん、そんなことを考えて、なおかつ平気で口に出すのはワラしかいないが、高志もこのアイディアには乗り気だった。
 たしかに、これはある意味で大成功を収めたが、そのおかげで、高志は深刻な問題をふたつもかかえこむことになった。
 高志が考えていたのは、入部希望者がゼロなどという屈辱だけはゴメンだ、宣伝だけはしておこう、ぐらいのことだった。
 だが、四日間の特別プログラムと、サテライトスタジオというPRが予想以上の効果をあげて、フタをあけてみれば、二十八人もの新入生が入部希望を提出していた。これが深刻な問題その一。
 いま、ここで問題になっているのは、深刻な問題その二のほうだ。この二十八人のなかに、令子と知子がいた。
 だいたい、慶一にいわせれば、それを予想しなかった高志がウカツなのだが。
「とにかく、おれ、高志にたのんでみるから、大丈夫だって」
 と慶一は、つとめて明るく令子に話しかける。
「もう、いいんです。高志兄さんの都合を考えなかった、わたしが悪いんですから」
「あんた、どうしてあんな石頭の肩をもつの。あたしはどうなるのよー」
「ゴメンね。でも、兄さんにはさからえないし」
「ああ、もう、つきあいきれない。いいよ、あんな部長のいるクラブ、入ったってロクなことないよ。いこう」
 と、ひじをひっぱって、女子寮への坂にひきずりおろそうとする知子にあらがって、令子は慶一に顔をむけた。
「慶一さん、わたしたちのことで、お兄さんとケンカしないでくださいね」
 と、軽く会釈えしゃくして、向こうをむいてしまった。
「大丈夫、どっちにしろ、高志が相手じゃ、こっちが負けるだけだから」
 令子はまたふりかえり、かすかにほほえんだが、歩みはとめなかった。
「なに、もめてたわけ?」
 いつのまにか慶一に追いついた柾生が、令子のうしろ姿を見ながらつぶやいた。
「これからもめるんだよ」
 靴を履きかえるわけではないが、寮長室と事務室にはさまれた正面玄関を、土足で強行突破するわけにもいかないので、慶一は儀式的に下足室を通り抜けながら、靴拭きを蹴飛ばし(これでドロが落ちることもある)、の子を踏み鳴らしてホールに出た。
 食堂への階段をのぼろうとすると、事務室から高志が出てきた。
「どうしてさ。入れてあげればいいじゃん。令子ちゃん、泣きそうだったって」
「なに考えてんだ。兄妹きょうだいでクラブなんかできるか」
「どうして? 兄妹でクラブやったっていいじゃん」
 こんなバカと話してもムダだ、という顔で、高志は慶一を無視して、階段に足を踏みだす。
 無視された慶一は、数段駆けあがって、頑丈そうな高志の背中に、ブックバンドでまとめた、真新しい教科書をぶちあてた。
「いてえな。いいかげんにしろ! そんなに令子とおなじクラブなりたけりゃあ、華道部でもなんでもいけばいいだろう。KWTSはぜったいにダメだ!」
 慶一は呆然とする。
「華なんか、やらせる気かさ。ひどいじゃん!」
「ひどいもんか。あいつはまえからやってんだ。文句があるなら、母親にいえ」
 高志は吐き捨てるようにいって、また慶一に背を向けて、東棟へ歩みを進めた。
「だって、華道部って、男なんかいないじゃん」
 あたりまえだ。女子が入ってきたために、今年できたクラブだ。
「だったら、入れば、おまえの天下じゃねえか」
 追いすがる慶一を見もせず、高志は宙空にむかって話しかけた。
「高志もいっしょに入ろうよ」
 あまりのことに、時計の下で立ちどまり、高志はしげしげと慶一の顔を見た。
「おまえ、どういう頭してるんだ。だいたいクラブの移動ばっか、やってられるかよ」
 高志とワラと慶一の三人は、おとといのオリエンテイションで、テニス部に移った。べつに、ローカルなテニス・ブームが起こったわけではなく、運動部のなかで、テニス部がいちばんサボりやすそうに見えたからにすぎない。
「じゃ、華道部のことはあきらめるよ。だから、令子ちゃんを入れてあげようよ」
「おまえ、令子のことばかりいってるけどな、知子はどうするんだよ。令子だけってわけにはいかないんだぞ」
 これにはさすがの慶一も絶句し、足がとまりかけた。
 階段を迂回した高志は、もう非常口ホールに入ろうとしている。
「おまえ、なにやってんだ」
 非常口ホールにいるだれかにむかって、高志が呆れたように声をかけた。
「練習にいくんですよ。見ればわかるでしょう」
 ラケットをもち、テニスウェアの上下に、ニットのヴェストを着たワラが、非常口から出ようとして、立ちどまってふりかえった。
「なんのために、クラブを移ったと思ってんだ」
「だって、いきなりみんな練習にいかなくなったら、まずいでしょう。きみたちのためですよ、これは」
「まったく、どいつもこいつも、頭のおかしな奴ばかりだ」
 ワラと慶一をのこし、高志は憤然として非常階段を駆けあがっていった。
「慶一、なんか頭がおかしいことしたの?」
「うるさい。頭がおかしいのは、おまえと高志じゃないか!」
[#改ページ]

20

馬を乗り替えて
近づいていくけれど
まだ、追いつきそうにない

〈オン・ア・カルーセル〉
ホリーズ
[#改段]
 さすがに四階までくると、放課後のさわぎも遠くなり、廊下をふさぐ、遮音しゃおん用のスウィングドアを抜けると、うそのように、なにもきこえなくなった。
 音楽室のドアにはめこまれたガラスをのぞきこみ、慶一はちょっとためらう。
「あら、あなた、そんなところでなにをしてるの。お入りなさい」
 気配を感じた高橋路子先生が、扉口をふりかえり、慶一にほほえみかけた。
 ひさしぶりに見る先生は、ちょっとまぶしい。いつものオールドミスのようなかっこうではなく、ぴったりしたウグイス色のタートルネックに、ベージュのスカートというのも、慶一を困惑させる。
「先生、元気?」
「ええ、おかげさまで。あなた、ヒマならレッスンを受けていきなさい」
「ザンネンでした。これから練習だから、そうはいきません」
「あなたたちがいっぺんに抜けちゃって、困っちゃったわ」
 五人の打楽器セクションのうち四人が、今年から軽音楽部に移ったのだから、先生は一年生を相手に、またゼロからやりなおしだ。管楽器と合わせるなんて、遠いさきの話だろう。
「ねえ先生、譜面台貸してほしいんだけど、ダメ?」
「ビートルズをやるのに、譜面を見るなんて、りっぱな心がけね」
「ちがうってば。歌詞カードをおくの。それに、ビートルズはやらないよ」
「じゃあ、なにをやるの。ヴェンチャーズ?」
「ちがうよ。もう、インストなんか、はやらないんだから。デイヴ・クラーク・ファイヴとか、スペンサー・デイヴィスとか……いいの、先生の知らない曲ばっかだもん。それよりさ、譜面台」
「練習が終わったら、きちんともどすって約束しなさい。だいたい、デイヴ・クラークぐらい、先生だって知ってるわよ。〈愛なき世界〉でしょ」
「ちがうってば。それはピーター&ゴードン! いいから、譜面台。ちゃんともどすから」
 二段重ねの楽器ケースの下段をあけ、高橋路子先生は、おりたたんだ譜面台を出した。
「あなたたちのバンドは何人なの」
「四人。ギターふたり、ベース、ドラム。でも、譜面台はひとつでいいよ」
「あなた、ドラムね」
「ちがうよ。ギターだって、こないだいったじゃん」
「そうだったからしらね。去年、紹介してもらった、あの用意のいい子もメンバーなの?」
「だれ。あ、高志? ちがうよ。あいつもひっぱりこもうと思ってるんだけどね」
「あの人、浅井さんていうんでしょう? 山手に住んでいる」
「うん。なんで? 先生、知ってるの?」
 譜面台を受けとりながら、慶一は先生の顔をまじまじと見る。
「ちょっとね。知っているってほどじゃないわ。お母さんてかたを紹介されたの」
「へえ。このあいだ、はじめて見たけど、みんな、びっくり仰天。ワラなんか、あ、クラブの仲間のことだけど、そいつ、高志のお母さんのファンクラブをつくるんだってさ」
「あらあら、たいへんだこと。ほかにもたくさん女の子がいるっていうのに」
「うん。ぼくは、高志の妹のほうがいいと思うんだけど、なにしろ、お母さんだから、彼女とおなじぐらい美人だし、お母さんのほうがグラマーなんで、令子ちゃんは不利なんだ」
「令子ちゃんねえ……。その子だって、あと何年かしたら、お母さんとおなじぐらいに、グラマーになるかもしれないじゃないの」
 なにがおかしいのか、先生はそういいながら、クスクス笑った。
「でしょう? みんな、わかってないんだよ」
「滝口さんは、女を見る目がありますわよ、ご安心なさい」
「でもさ、先生、きいてくれる?」
「恋愛のご相談なら、うけたまわりかねますけれど」
「えっ? あ、令子ちゃん? ほっといてよ。そうじゃなくて、高志のお母さんてさ、じぶんの子どものことを “高志さん” なんて呼ぶんだよ。おかしいと思わない?」
「そんなことないわよ。ああいうおうちは、そういうふうだったりするのよ」
「そうかな。でも、令子ちゃんのことは、令子って呼ぶんだよ」
「それはね、高志さんが男だから。家督を継ぐ人だから、お母さんもていねいに呼ぶのよ」
「家督って?」
「つまり、家ね。長男だけをだいじにする、むかしの習慣がのこっているおうちもあるの」
「でも、高志には兄さんがいるよ。ふたりも。大学生と、もっと上の。それに、姉さんも」
「たとえ、次男でも三男でも、男だからよ。まったく困った世の中」
「おかげで、簡単にあいつをヘコませられるようになって、助かったけどね。“高志さん” て呼ぶと、すごーくイヤな顔して、黙っちゃうんだ」
 先生は腕時計の文字盤を見てから、それをはずしにかかった。そろそろ、レッスンの時刻だ。
「でも、ヘンね。あのかた、三十ぐらいに見えるわ……いくら若く見えるっていっても、ぜったいに三十五以上ってことはないわね……」
 スタインウェイに時計をおこうとしたかっこうのまま、先生は考えこんでしまった。
「ねえ、その “高志さん” て呼ぶの、やめたほうがいいわ」
「どうして? 必殺ワザなんだよ……」
「いいから、おやめなさい。ひょっとしたら、あなた、すごくいけないことをしているかもしれないのよ」
「どういうこと?」
 ちょっと考えこみ、先生は決然とした表情で首をふった。
「いまはダメ。とにかく、おやめなさい」
 廊下のほうから、ケーイチー、という大声がきこえてきた。帰りが遅いので、柾生たちが呼びにきたのだろう。
 慶一は釈然としないまま、じゃあ、といってノブに手をかけた。
「あなた、ヒマなときはレッスンに出なさい。よかったら、あなたのバンドのドラムの子も」
「ウーン、わかんないよ。あ、先生、そういうかっこうのほうがいいよ。ずっとセクシー」
 慶一は素早くドアをしめる。思ったとおり、スティックが扉に当たって、床に転がる音がした。

 なんにしても、口開けというのは気持ちがいいものだが、この寮の場合、入浴は最初にかぎる。
 ラグビー部やサッカー部の連中が大挙して入ったあとでは、泥風呂といわれるくらいに、湯が茶色くにごってしまう。
「いいと思うけどな」
 慶一は、湯船のむこう側にいる高志に、ひら手で湯をはねかける。
「いやなこった。おとなしくしてろ、ガキ」
 そういう高志も、全身を湯に沈めて、潜航して慶一に攻撃をしかけようとする。
 それをくいとめようとした慶一のハンドオフは、高志の右手にさえぎられ、逆に腕をねじあげられた。
「まいった、まいった」
 浮上してきた高志が、うしろから慶一の首に右腕をまわして締めあげた。
「おとなしく肩までつかって、百数えてろ」
 ここは小浴場のほうだ。まだ三時半にもならないのだから、本来、湯船は空っぽのはずだが、寮職員は夕方になるといそがしいからか、二時半ごろには、ふたつの浴場とも掃除が終わり、浴槽にはたっぷり湯がたくわえられている。まるで、時間外の入浴を奨励しているみたいだ。
 高志は、この「クラブ」を「テニス部温泉班」と呼んでいる。下校すると、とりあえず入浴するのが、最近のふたりの日課だ。テニス部には初日に顔を出しただけだが、「追手」がかかった気配はない。例によって、高志の作戦勝ちらしい。
 もっとも、ワラはいまでも、まじめに練習に出ている。テニスって意外に面白いよ、などとノンキなことをいっているが、女子が多いからなのは、慶一でさえ見抜いている。
「どうしても、ダメ?」
 最後の切り札、「高志さん」を使おうとして、慶一は思いとどまった。高橋路子先生のいうことを真に受けたわけではないが、なんとなく不吉に思えてきた。
「あたりまえだ。なんで、そんなことをしなくちゃならないんだ」
「もうすぐ、ヴォーカル・アンプがくるはずだから、すこしはデカい音になるよ」
「ならねえよ。だいたい、おまえらの部室には、ピアノだってないだろうに」
「どうせ使ってないんだから、あのハモンドなら、くれるよ」
 また、話が環を描いてもとにもどってしまった。ハモンドは音が小さいから、ロックンロールにはむいていない、というのが高志の意見だ。
「どっちにしろ、あのハモンドじゃ、ウィンウッドみたいな音は出ないって」
「そうなの?」
「出っこねえよ。クリスマスのときに、さんざんいじったんだぞ。ギターとフルートが、おなじ音なんだからな」
 ハモンド・オルガンには、トランペットとか、フルートといった、音色のスウィッチがついている。ところが、いくら想像をたくましくしても、どれもオルガンの音にしか聴こえない。
 いや、トランペットの音なんか出なくていい。スティーヴィーみたいな、攻撃的な音がほしいだけだが、レズリー・スピーカーがついていないのだから、それも不可能だ。
 もっとも、ふたりが問題にしているのは、ハモンドの性能やレズリーの有無ではない。慶一の話の眼目は、高志をバンドにひっぱりこむことにある。
「だいたい、鍵盤てやつは、もうたくさんだ。遊び半分にクリスマス・ソングでもやるなら、平和でいいけどな。ここにきたのだって、半分はレッスンから逃げだしてきたんだぞ」
「もう半分は?」
 ただの相づちのつもりだったが、どういうわけか、高志は考えこんでしまった。
「いつか、その気になったら話すよ」
 と、高志はいきおいよく湯船を出た。慶一は、なにか、まずいことに足を踏みこんだ気配を感じていた。
「おまえは、なんでここにきたんだよ」
 カランに坐り、タオルに石鹸を塗りたくりながら、高志がいった。
「一、制服。二、アメリカ旅行。三、施設。四、寮。五番はいつか、その気になったら話すよ」
「制服とか、施設とかはいいとして、アメリカ旅行なんて、どうなるか、わかったものか」
「だって、ちゃんと、積み立てしてるじゃん」
 慶一は三メートルほどしかない湯船で、泳ぎの真似ごとをする。
「だからって、決まったわけでもない。まだ、行き先の町だって、はっきりしないんだぞ」
「二年もさきの話なんだから、まだ時間があるよ」
「まあな。おまえ、ちゃんと洗えよ。ガキみたいに、遊んでばっかいやがって」
 高志はいつも、足の指のあいだまで、しつこいくらいに洗う。
「いいんだよ、毎日入ってるんだから。こうやってるうちに、自然にきれいになるって」
 慶一は、胸のあたりの位置にある窓をあけた。外は雨だ。終わりのないスロウ・バラッドのように、静かに、休みなく、着実に降りつづけている。
「ほら、みろ。のぼせたんだろうが。いいかげんに、あがれよ」
 高志はシャンプーと桶をもって、浴槽のきわまでくる。外の雨を見ていた慶一は、ふりかえって、湯のなかを歩いて高志のそばにいき、桶を受けとった。
「連休にさ、なんか映画見にいかない?」
 湯船から湯をすくって、高志の頭にかける。一月だったか、『夕陽のガンマン』と『続・黄金の七人』をハシゴして以来、高志とは映画にいっていない。
「寒いから、閉めろよ」
 というだけで、高志は慶一の提案には、なにもこたえようとしない。
 窓を閉めてもどると、高志は頭をアワだらけにしていて、なにか話すような状態ではなかった。
 いいぞ、かけてくれ、という高志の合図にしたがって、慶一は黙々と湯をかけた。
「おまえ、洗ってやるから、こっちこい」
 高志が天井をむいて、頭の湯をふり落とす。
「いいよ。ガキじゃあるまいし」
「ガキじゃないなら、じぶんでちゃんと洗え」
「いいってば。きょうは汗かいてないから」
「わかった。じゃ、頭だけ洗え。ベタベタした長髪のジジイって、よくいるじゃねえか。駅の地下道かなんかに寝てるのが」
「まったく、せっかく親のいないところにきたのに、これじゃあ、うちのがマシだよ」
 慶一が湯船を出て、入れ替わりに高志が入る。
「窓なんかあけるから、ぬるくなったじゃねえか」
 高志は湯の蛇口をひねった。
「ねえ、映画いこうよ」
 慶一がまた、さっきの話を蒸し返し、頭をさげる。高志がゆっくりと湯をかけた。
 シャンプーを頭にこすりこみ、慶一は目をつぶって、高志がいると思われる方向に顔をむける。
「令子ちゃんも、いっしょにさ」
「なに考えてんのかね、こいつは。デイトなら、じぶんでお膳立てしろよ。相手の兄貴にたのむなんて、ホントにずうずうしい野郎だな」
 そういう高志の声は、慶一の正面ではなく、蛇口のほうからきこえてきた。蛇口から流れる湯の音が大きくなる。
「デイトってほどのことじゃなくてさ、ちょっとしたリクリエーション」
「のぼせあがりやがって」
「いいよ、かけて」
 差しだされた慶一の頭の上で、高志が桶をかたむける。
「ツメテエー!」
 奇声をあげて、慶一が跳びあがった。
 必死になって、湯船の湯を両手でじぶんにかける。
「すこしは頭がはっきりしたか」
 といって、高志が大笑いした。
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21

いちどでいいんだ
きみのそばにいく
チャンスをくれないか

〈ビコーズ〉
デイヴ・クラーク・ファイヴ
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 また圧倒的な緑の季節がやってきて、今年最初の中間試験も終わり、もう緑の濃さに目も慣れてしまった。
「滝口。ちょっと、ファズを貸してくれないか」
 シールドのジャックをアンプに差しこみながら、広岡がいった。アンプがハムを起こし、すぐにいつものノイズにもどる。
「いいけどさ、やさしく踏んであげてよ。ちょっと接触がおかしいんだ」
 慶一がファズ・ボックスと、黒いストレート・コードを広岡にわたした。奴の髪も、慶一ほどではないにしても、かなり伸びている。
「〈サティスファクション〉でも、やるわけ?」
「いや、ベースにつないでみようと思ってよ」
「へえ、やってみよう。どんな音になるのかな」
 慶一は、広岡からファズをとりもどして、アンプにつないだ。
 広岡がじぶんのギターを教壇に寝かせ、ヤマハのセミアコ・ベースをファズにつなぎ、テニスシューズでフット・スウィッチをゆっくりと踏み、四本の開放弦を鳴らした。なんだか、わけのわからない音だ。
「単音で弾いてみろよ」
 奴は左利きなので、右用のベースをひっくりかえして、〈カム・ホーム〉のベースラインを弾きはじめた。
 こいつは、きっと、頭のなかもひっくりかえっているにちがいない、と慶一は思っている。
 じぶんのギターは、弦をさかさまに張り替えて使っているが、右用のギターでも、そのままひっくりかえしてコードを弾ける。いつだか、リード・ギターは無理だけど、コードなら、逆のほうが弾きやすいのもある、といっていた。どうなってんだ。
 それにしても、面白くもなんともない音だ。ギターにファズをかけたのと大差のない音だし、へたをすると、音がブチブチ途切れたりする。慶一は、ファズのアジャストメントを動かしてみる。
「だめだ、こりゃ。ギターに使っても、伸びが悪いんだよ、これ」
「ま、いいや。とにかく、貸しといてくれよ」
 広岡はベースからシールドを抜き、じぶんのギターにつないだ。そのたびに、アンプがいやな音をたてる。
「だれか、ガキにとどけさせて。二一二だからね」
「了解。うちの役者にもっていかせるから、なんか芸をさせてみろよ」
「芸って?」
「とにかく、おかしなガキだからよ。遊べるぜ、あいつは」
 ビニールレザーのギター・ケースを肩にかけ、慶一は柾生たちをうながした。慶一たちの練習はこれで終わりで、これから、佐藤や広岡たちの番になる。
 ファズを手にした人間は、どうしても〈サティスファクション〉のリフを弾かずにはいられない。ノブをつかんだとき、思ったとおり、広岡がそのリフを弾きはじめたので、慶一はクスクス笑った。
 だが、廊下に足を踏みだしたとたん、じぶんの見たものに驚いて、慶一はその場に凍りついてしまった。
 両手を腰のところに組み、廊下の壁に背をもたせて、令子が待っていた。そのままのかっこうで首をかしげ、令子は慶一にほほえみかけた。
 うしろからきた服部が急ブレーキをかけ、そのうしろのほうが混乱したらしく、ハードケースが壁にぶつかる音がした。
「最後にやっていた曲、なんていうんですか」
 慶一に二、三歩近づきながら、令子がいった。
「〈イエス・アイ・ウィル〉っていうの」
 と、服部が慶一のせりふを横どりしてしまった。
「聴いてたの?」
 といってから、慶一は令子が高志の妹なのを思いだした。だが、令子は黙ってうなずいた。
「なーんだ。あれ、きょうはじめたばかりで、まだ、ぜんぜんサマんなってないんだよ」
「そんなことないって。おれの歌、もうバッチリ。おまえらバックが、全然なってないだけ」
 うしろからきた柾生が、そういいはる。まあ、たしかに、それはウソではない。この曲は、柾生のきれいなファルセットを生かすために選んだものだ。
 ホリーズの曲というのは、ギターはあまりむずかしくないが、ヴォーカルには往生する。いちおう、野瀬とふたりでバックコーラスをやってみたが、話にならなかった。
 慶一は、とりあえずじぶんの音程の悪さを棚にあげて、野瀬のせいだと考えている。それは、すくなくとも二分の一の真実ではある。
「慶一さん、ちょっとお話があるんです」
 ふたりがならぶと、令子がささやいた。部室から聴こえてくる、〈シークレット・エイジェント・マン〉のイントロのリフに、その声はかき消されそうになる。
「きいたあ? 慶一さん、ちょっと、お話があるんです、だってよ」
 服部が人間アンプとなって、令子のささやきを増幅した。
 ギターを肩にかけていることも忘れて、慶一は服部にヘッドロックをかけた。
「うるせえな、失礼だろ」
「わかった、わかった。まいった、降参」
 と、服部が笑う。
「わるいけど、さきに帰ってくれよ」
 服部をおさえこんだまま、慶一が柾生にいう。
「はいはい。ハーモニーの練習は、どうするんですかねえ」
 と、柾生がニヤニヤと笑った。
「夕食後にしよう」
「へーい。いつものところね」
 それは、西棟四階の非常口のことだ。新しい寮に移って、念願の最上階で練習できるようになり、慶一はアンプなしの練習が苦にならなくなった。
「じゃ、悪さしないように。ふたりで遅れて食堂に入ってきたりしたら、そこらじゅうから口笛もんだよ」
 といって、柾生は服部や野瀬と、〈アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア〉を歌いながら、非常口から消えた。当てつけなのは、たぶんまちがいない。
「あの――」
 令子が口を開きかけると、部室から〈トゥイスト&シャウト〉の3コードのイントロが流れてきた。チューニングが合っていない。
「待った。うるさくて話にならないから、どっか、いこうよ」
 と怒鳴ってから、慶一は頭をフル回転させた。
 落ちつけて、めだたず、邪魔が入らず、わざとらしくない場所。そんなところ、あるかな。
「庭園じゃ、どう?」
 ちょっとわざとらしい、いや、ひどくわざとらしいが、ほかの条件は満たしている。
「ええ」
 すこしためらって、令子は同意した。
 このまま一階の廊下を突っきって、反対端の非常口から出るのと、中央の正面玄関から出て、外をいくのと、どちらが目だたないだろうか。これはむずかしい問題だ。
 階上のヴェランダにいるだれかに、知らないあいだに目撃されるよりは、だれに見られたかを確認できるほうがマシだろう、と結論をだし、廊下を歩きはじめた。オーディオ部が、すでにこのフロアから四階に引っ越していたことも、慶一の判断を左右した。
「きょうは、クラブは?」
「先生がお休みなんで、みんな、じぶんでしてるんです」
「華道部だよね?」
 どうも、バカげたせりふが多いなと、慶一はすこし焦りを感じはじめた。
「高志にさ、きみをKWTSに入れろって、一所懸命いったんだけど……」
 中央階段に近づくと、ブラスバンドの音が大きくなった。練習台を叩く音もまじっている。ヘタな奴がいるので、なにがなんだか、わからないリズムに聴こえる。高橋路子先生もたいへんだ。
「高志兄さん、わたしがここに入ることも、反対だったんです」
 中央の正面口から射しこむ西陽が、ビニールタイルの床で反射して、慶一の右側を歩きながら、こちらを見た令子の顔を、やわらかい光でつつみこんだ。
「そうだってね、なんでなのかな」
 令子はなにもこたえない。化学実験室にさしかかったところで、ようやく、口を開いた。
「たぶん、妹がいたりすると、いろいろ冷やかされると思ったんじゃないかしら」
「そうかもね。KWTSに入れなかったのも、そういうことかな」
 化学部って、なにをするのかな。十数人の部員がいるはずなのに、なにも声がきこえないなんて、不気味じゃないか。『ジキルとハイド』が頭をかすめる。
 北端の非常口にたどりついた。
 だれにも会わなかったなんて、拍子抜けだ。口笛を吹くような礼儀知らずでさえなければ、二、三人でくわしておいたほうが、既得権の誇示になっただろうに。すくなくとも、そう見せかけることはできたはずだ。
 ふたりが、非常口から数歩外に出ると、
「はい、三組め!」
 という声が、頭上から降ってきた。
 ふりかえって見あげると、二階のヴェランダから、山崎が身を乗りだしていた。
 それだけではない、ほかにも十人近い連中がヴェランダに鈴なりになっている。物理部の連中だ。
「慶一、助かったぜ。おまえのおかげで、五百円のもうけだ」
「なんの話だよ」
「十五分以内に、この道を何組のアベックがとおるか賭けててよ。ぎりぎりでおまえがきてくれたんで、命びろい」
 と、山崎が巨体を揺すった。
「アホ!」
「池はやめとけ、もう、ふた組もいったからな」
 連中がゲラゲラ笑った。慶一は、なにもいわずに歩きはじめる。どちらにしろ、池にいくつもりはない。あそこは、校舎からは見えないが、それ以外の三方はがら空きだ。
「いまのトボケた奴、山崎っていうの。いちおう、仲間だけど」
「知ってるわ。あの人、めだつから」
 そりゃ、そうだろう。もう一八〇まで、あと二、三センチしかない。
 ふたりは、県道へむかう坂道からはずれて、石畳の階段をくだりはじめる。階段といっても、一段が二メートル以上あるのだから、段のついた坂道といったほうがいいかもしれない。
 両側には赤いツツジがならんでいる。名前を知らない鳥の声が、ふたりに降りそそぐ。
 途中で階段をはずれ、稲妻型に配置された石の上を歩いていくと、東屋にたどりつく。
「紫陽花が咲いていると、最高なんだけどね」
 東屋をとりかこむ紫陽花は、まだ色づく気配すらもない。
 慶一は腰掛けの上に、ギターをそっと寝かせた。
「いつだったか、わたし、高志兄さんに、写真を撮られたことあるんです。『あじさいの歌』って映画をテレビで見て、おまえも芦川いづみみたいに撮ってやるって」
 令子が笑いながら、どこに坐ろうか思案しているように、周囲をゆっくりと見わたした。
「ぼくも見たよ。うちの母親が裕次郎のファンでさ。ものすごくむかしで、よく憶えてないけど」
 映画のなかで、大坂志郎が芦川いづみの写真をほしがったように、慶一も、紫陽花に囲まれた令子の写真をほしいと思った。
「ここに坐れば?」
 と、慶一は、入口以外のすべてをめぐっている腰掛けの、角のあたりをあいまいに指さして、じぶんは角をはさんだ、となりの腰掛けに坐った。
 令子が、慶一の指さしたあたりに坐り、東屋の角とふたりの脚が、小さな正方形をつくる。
「ぼくも去年の合宿のとき、高志に写真撮られたよ」
「それ、知ってます。高志兄さんの部屋に飾ってあったから」
 令子は、わたしの写真といっしょに、と小さな声でつけたした。
「へえ、そうなんだ。ぼくには、見せてくれなかったな、あの写真」
 高志の部屋といわれて、慶一は二〇二を思いうかべたが、すぐに、自宅のことをいっているのだと気づいた。
 高志の家はどんなところだろう。急に、それが知りたくなった。もちろん、それは令子の家でもあるわけだが。
 きっと、庭に紫陽花があるのだろう。酸性の土壌では青い花、アルカリ性の土壌では赤い花、それとも逆だったっけ。生物はにがてだ。
「なんだか、考えこんでいるみたいな顔してたわ、慶一さん」
 そうだった。あれは、あれの話をきかされたときだった。話を変えなきゃ。
「なにか用なの?」
「用っていうほどじゃないんですけど、もう、お兄さんの誕生日がくるでしょう」
「え、そうなの。いつ?」
「知らなかったんですか。来月の十二日」
「じゃ、二週間とちょっとだ」
 と口に出してから、慶一は、無意味なことばを慎もう、と反省した。
「そう。それで、今年はプレゼント、どうしようかと思って」
「プレゼントねえ……」
 慶一は考えこんでしまった。高志にはいろいろなものをもらったし、あちこちでおごってもらったが、なにもあげていないことに思いあたった。
「高志兄さんて、むずかしいでしょう。もう、わたしにはよくわからなくて」
「なるほどね」
「慶一さんなら、お兄さんと仲がいいから、なにかいい考えはないかと思って」
 考えれば考えるほど、むずかしく見えてきた。
「これって、けっこう難問だな。あいつ、なんだってもってるから」
「そうなんです」
「去年は、なにあげたの?」
「クツ。黒いウィングチップの。あれを履いているのを見たのは、いちどだけ」
 慶一はギョッとした。それはたぶん、じぶんのロッカーに収まっているやつだ。
「きつくなったんじゃないのかな、あいつ、背が伸びたから」
 どこかから逃げてきたのか、つがいらしい、二羽のセキセイインコが、むかいの腰掛けの背板にやってきて、すぐにまたどこかへ飛んでいった。瞬間の鮮やかな色彩が、慶一の網膜にとどまる。
 天啓がひらめいた。こんなチャンスは、だれだって見のがさないだろう。
「あのさ、ちょっと、考えがあるんだ」
「なあに」
「とにかく、高志がなにかほしがっていないか、注意するよ」
 といって、ひと呼吸おいた。令子がうなずく。
「それでさ、ぼくも、なにかプレゼントする。それとも、令子ちゃんとお金を出しあって、すこし高いものを買ってもいいしさ……そこでですね」
 慶一の妙な口調に、令子は笑みをかべた。
「なんですか」
「こんどの外泊のときに、いっしょに、買いにいかない?」
 令子は、困惑したようすで黙りこんだ。
 慶一には、ホームラン性の打球を追って、フェンスによじのぼった外野手が見える。ホームランか、スリーアウト、チェンジかの分かれ目だ。
「いいんだよ、忘れてよ」
 慶一は、すこし乗りだしていた躰を背板にあずけた。ホームランをキャッチしてしまった外野手が、高だかとグラヴをさしあげる。
「そうじゃないんです。お兄さんにナイショにしておくには、どうすればいいのかと思って」
 そういわれれば、そうだ。外泊のときは、さすがの高志も、兄らしく令子をエスコートして帰り、いっしょに寮にもどってくる。
「やっぱり、土曜日はむりみたいですね」
 光明が見えた。
「じゃ、日曜の午前中は?」
 と、できるだけ意気込まず、さりげなく、ことばをすべり落とした――と思うのだが。
「たぶん、だいじょうぶだと思うけれど……」
 グラヴのなかは空だった。線審の右手がまわる。ホームラン!
「やった」
 といって躰を動かした瞬間、令子の膝頭に、じぶんの膝頭をぶつけてしまい、慶一はあわてて右脚を引っこめた。おたがいに意識して、沈黙がおとずれる。
「どうしよう。土曜の夜に電話していい?」
 令子はまた考えこむ。
「高志が出たりするかな」
「そんなことはないと思うけれど、やっぱり、わたしが電話します。だいじょうぶですか」
「うん」
 といってから、母親の顔が浮かんできた。まあ、いいや。
 慶一はギター・ケースのところにいき、外側の大きなポケットをあけ、スパイラル・ノートとシャープペンシルをひっぱりだし、令子のそばにもどる。
「それ、譜面?」
「ううん。歌詞とコードネイムだけで、音符は書いてない」
 これは、練習中に〈カモン・レッツ・ゴー〉の歌詞カードをやぶいてから、国語と数学の時間をフルに利用して、営々と書き写してきた、だいじな労作だ。
「あれって、いい曲ですね」
 慶一は、じぶんの電話番号を書いたページをやぶりとった。
「なに、ああ、〈イエス・アイ・ウィル〉か。ホリーズのちょっとまえの曲。二年ぐらいまえ」
 モンキーズもカヴァーしている、という注釈はのみこんで、紙片を令子にわたし、慶一は、それが令子に対する誓いのことばにも受けとれる、などということは意識せずに、
「アイル・ビー・トゥルー・トゥ・ユー、イエス、アイ・ウィル」
 と、ファーストラインを口ずさんだ。
「あー、バカみたい。もう、今年の生徒名簿、もらったんだったね」
 慶一は苦笑した。名簿には全生徒のアドレスがのっている。
「いいんです、これで」
 令子は笑みを泛かべて、その紙をていねいに小さくおりたたみ、トランプをもつように、頭をのぞかせて右手にもった。
 校服のスカートには、ポケットがあるはずだ。ブラウスの胸にはポケットはないな、と令子の胸に目をやって、あわてて視線をはずした。愛想のない、白いブラウスの上からでも、ちゃんと存在を示している。
 しかし、はずした視線は、こんどは令子のひかえめな膝小僧にぶつかり、またしても、落ち着き場所をもとめて、うろつかなくてはならなかった。
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22

ぼくはきみのもの
山が海に
なだれこむ日がくるまでは

〈ベイビー、アイム・ユアーズ〉
バーバラ・ルイス
ピーター&ゴードン
[#改段]
 東棟の非常口を出ると、つよい陽射しを全身に感じ、慶一は夏のことを考えた。
「どうする?」
「とりあえず山を越えて、あとはそれから考えよう」
 高志は、非常口わきの、小浴場の換気扇をかえりみた。換気扇からは湯気がもれ、彼らが入らなくても、やはり風呂の用意ができていることを示していた。
「うさぎ屋は?」
「ああ、すこし、食いもんを買っておくか」
 県道からのぼってきた道の本線は、山頂にある校舎を迂回して、グラウンドと野球場の下をくだり、寮玄関にたどりつく。
 だが、よく見ると、校舎の場合とおなじく、玄関にむかっている道は支線だ。
 本線はさらに、野球場一塁側の土手に沿って、東棟の台地と野球場の台地をつなぐ橋の下を抜け、二、三〇メートルいったところで、あちこちに下草がのぞく荒れ地のなかに、茫漠ぼうばくと消えている。
 東棟うらの坂をくだったふたりは、その舗装道路と荒れ地のあわいに踏みこんでいく。
 すぐに、山あいに細長く、ゆるやかな階段状に伸びる、不規則な形の田んぼにたどりついた。
 ふたりは、その田んぼと小高い山にはさまれた、細い道をひろっていく。踏みならされていない道のソデにはフキの群落があり、山の立ちあがりにはシダのたぐいが密生している。
 そのフキやシダのあいだに、低い藁屋根をさしかけた肥溜めがひとつ、もうすこしいくと、炭焼き小屋もあるが、煙は出ていない。
 道がひろくなったところで、慶一は立ちどまり、右肩にひっかけていたナップザックをおろし、高志のソリッド・ステート11をひっぱりだして、スウィッチを入れ、またナップザックにもどした。チューニングは、はじめから810になっていた。
 イージービーツの〈フライデイ・オン・マイ・マインド〉の、ギターが一オクターヴ行き来するイントロが流れだした。
「ねえ、高志」
 まえをいく高志は、「用水路」というには、あまりにもささやかな流れにわたされた、ドブのふたのような、一メートルたらずの木の「橋」にさしかかったところで、ふりかえらずに生返事をする。
「背ェどれくらいになった?」
「四月の測定のときに六五だ」
「じゃ、六くらいかな、いまは?」
「たぶんな」
 田んぼが終わるあたりに、ピリオドのように立っている、樫の木のごつい木肌が、笹や紫陽花のかげに見えかくれする。
 そのすこし向こうから、両側にびっしりと笹が生いしげる、ほとんど階段のような、険阻けんそな山道にさしかかる。
「じゃあさ、足は?」
「五・五だ。だいたい、義晴がツバつけたから、スリップオンはダメだぞ。バッシュでがまんしろ」
「ちがうってば。いらないよ、バッシュなんか」
 令子の頼みとはいえ、やっかいなことを引き受けたものだ。おかげで、つまらない誤解をされてしまった。ふだんから、遠慮なしにお古をもらっているからいけないのだが。
 ラジオから、鳥のさえずりとピアノのコードが流れてくる。ヤング・ラスカルズの〈グルーヴィン〉だ。
 倒れかかっていた笹をふりはらって、高志は足もとをたしかめ、山道に踏みだした。
 静かだ。ふたりの荒い息づかいと音楽、それに、笹の群落を吹きわたる、風の音ぐらいしかきこえない。ラジオを消しても、ヤマバトがノドを鳴らす声ぐらいしかきこえないだろう。
 慶一は息がきれてきた。酸素の供給がたりないので、質問のつづきがわからなくなってしまった。背丈と足のサイズはわかった。あとはなんだ。
「じゃ、頭は?」
「悪くなった」
「ちがうよ、中身じゃなくてさ……」
「わかってる。でも、最近、帽子なんかかぶってねえから、どうなったかな。だいたい、最後にかぶった帽子のサイズも思いだせない。五五だっけな」
 あとは、フィーリクス・キャヴァリアの声を聴きながら、黙って足がかりをひろっていく。
 尾根にたどりついた高志が、ひゅー、といって立ちどまり、クヌギに手をついた。
「ちょっと、坐ろう」
 高志は、すこしくだった斜面にある、直径五〇センチほどの、まだ新しい切株に腰をおろした。
 疲れていたわけではないが、ここが気に入っているらしい高志に反対はせず、慶一は、高志があけておいてくれた切株の端に坐った。
 ギターのかすかなアルペジオをバックに、ママ・キャスのささやき声が流れる。〈デディケイティド・トゥ・ザ・ワン・アイ・ラヴ〉だ。
「暑いよー」
 と、慶一が後頭部の髪を右手でたばにし、ばたばたさせて、首の熱を逃がそうとする。
 コナラだのクヌギだのといった高い木、クワやアケビなどの低い木、笹や大きなシダ類などにさえぎられて、地肌こそ見えないが、ここからは、山裾が谷間にたたみこまれていくのが見える。
 山裾のさきに、茶色い地肌がのぞけている。町につながる道だ。この稜線りょうせんを大まわりして、あそこにたどりつかなくてはならない。
 彼らにむかってりだした、左手の崖に点在するヤマユリを見ていた慶一は、唐突なウグイスの啼き声におどろいて、跳びあがりそうになった。
 標高といっても、一五〇メートルもないくらいで、ほんの十数キロほど北東には、繁華な市街がひろがっているはずだが、そんなことは想像もつかない。
 アクースティック・ギターと、グロッケンシュピールのイントロが流れる。知らない曲だ。なんども、サンフランシスコということばがはさみこまれて、慶一にもそこだけは聴きとれ、アメリカのことを考えた。
「ねえ、ほんとうに留学なんかできると思う?」
「たぶん。寮長と校長は本気だからな。でも、タダってわけにはいかないだろう。親父の話だと、五、六〇万はかかるらしい」
 三年後、一期生が五年になったときを目指して、交換留学の話がもちあがっている。
「そうかあ。留学ならウンていうかもしれないけど、留学させたつもりで、フェンダー買ってくれっていっても、ダメに決まってる」
「外貨の持ち出し制限ていうのがあるんだ。たしか五〇〇ドルだから、十八万だ。飲まず食わずで、一本買うのがやっとさ」
「そうなの?」
「ああ、日本は貧乏だから、ドルがないんだ。おまえがギター買ったり、兄貴が車やサーフボード買ったりすると、石油や鉄鋼石が買えなくなるんだよ」
「だって、銀座いけば、ギブソンもフェンダーも、いくらでも売ってるじゃん」
「ああ。Tバードだって、キャディだって、金さえ払えば、いくらでも買える。そのへんが、この理屈のよくわからないところだ」
「でもさ、高志はいいよ。もう、ほしいもんなんて、ないんじゃないの? 金さえ払えば、なんでも買えるんだから」
「バカいってんじゃない。世の中には、売ってないものだってある」
「うーん。そうか。おれも、いい声がほしいな、ジョンみたいな。それがダメなら、柾生の声でもいい。それもダメなら、せめて、正確な音程」
 慶一は、この会話をはじめた目的から、話がそれているのに気づいた。
「でも、売ってないものはナシにして、売ってるものだと? なにがほしい」
 高志はなにもこたえない。
「やっぱり、ないわけだ?」
 両膝にひじをのせ、両手でアゴをかかえこみ、高志はなにか、べつのことを考えているらしい。
「ねえ、きいてるのかさ?」
「ああ、きいてる。おまえ、なんかほしいんなら、おれがどっかで、なんとかしてきてやる。でも、フェンダーは、ちょっと時間がかかりそうだな」
「ちょっとって、どれくらい」
「大人になって、親父の金を横どりしてからだ」
「ずいぶん、さきの話だな」
「じゃ、いま手に入れてやろうか」
「ホントに?」
「ああ。でも、宣誓してからだ」
「宣誓?」
「いざとなって、やっぱりいらない、はナシ」
 高志の冗談につきあっているつもりだった慶一は、急に怖気づいた。ストラトの一本ぐらい、ほんとうにどこかで調達してくるかもしれない。
 ラジオは、バキンガムズの〈ドント・ユー・ケア〉の元気な管のイントロを流す。
「やめた。なんかワナがありそうだ」
 だいたい、また、話がそれてしまった。だいじなのは、じぶんがほしいものではなく、高志がほしいものだ。十四歳になるのは、高志のほうじゃないか。
「ワナか。あるかもしれないな」
 ラジオのバキンガムズと、強弱をつけて吹きわたる風の、そのピークの音だけが聴こえる。
「これ、全部なくなるんだ」
 ふいに、前後の脈絡なく、高志がことばをすべり落とした。
「なにが?」
「ここから見えるもの全部だ」
 まだ、ぜんぜん意味がわからない。見えているのは、樹木に草にシダに山に崖に、あとはなんだ。かすかな道と、右手に大根畑と……。
「全部って? なにがなくなるの」
「だから、ここにあるもの全部だ。樹、シダ、コケ、花、鳥、ヘビ、ルリタテハもアゲハもカブトムシもみんな、それから山もだ」
 いよいよ話がわからなくなって、慶一は高志の横顔を見なおす。また、なにか回りくどい冗談をしかけているのかもしれない。
「なくなるって、いわなかったっけ?」
「そういっただろう」
「山も?」
「だから、そういっただろうが」
「山がなくなるって、どういうこと?」
 また、侮蔑のことばが返ってくるだろうと思っていた慶一は、高志が黙りこんだので、力が抜けた。
 高志はうしろをふりかえり、すぐにまた、もとのようにまえに顔を向けた。
「ホントにノンキだな、おまえは。国鉄が線路を伸ばしてるのぐらい、知ってるだろう」
「うん。こっちのほうにくるんだってね。バスに乗らなくてすむようになるのかな」
 大船と金沢八景をむすぶ路線バスは、路線バスである以上、いちおう時刻表を掲示しているが、だれもそんなものを見たりはしない。大船よりに十文字の駐車場のような困った交叉点があるし、金沢八景側は有名な予算の捨て場で、年度の後半は片側しか使えない。
「寮長がいってただろ、すぐそばに駅ができるって」
「そうだっけ? いつごろ?」
「おれたちが卒業するころだ」
「なーんだ、じゃあ、まにあわないんだ。やっぱり、通学はバスか」
 がっかりして大声をあげた慶一は、思わぬエコーを返され、ラジオから聴こえてきたのかと思い、じぶんの声にひるんだ。そんなことはない、ラジオでは、ハーパーズ・ビザールの〈フィーリン・グルーヴィー〉が、もうじき終わろうとしている。
「でも、山がなくなるって、どういうこと」
 タートルズの〈ハッピー・トゥゲザー〉のマイナー・コードのイントロが流れはじめた。
「平らにするんだとさ。親父がいってたから、たしかな話だ」
「だけど、そんなことしなくても、駅ぐらいつくれるんじゃないの。あるじゃん、そういうの」
「駅のためじゃない。団地のためだ」
「団地! こんな山んなかに?」
「ホントにアホだな。その山を平らにするんだぞ。山じゃねえだろうが」
 どうも話が漠然としているし、目のまえの山は、そう簡単には崩れそうに見えないので、慶一は高志の性癖を思いだしてしまう。
「なんか、ウソくさいな。朝比奈のほうで工事してるじゃん。あれが線路なんじゃないの」
 高志は上体を起こし、足を踏みかえ、慶一を見る。
「あれは高速道路だ。線路があんなに、上下にのたくるわけがないだろうに」
 たしかに、あっちの工事はバリカンをかけるようなもので、山の上に帯ができただけだ。
「じゃ、ほんとうなの?」
「ずっとまえから決まってんだ。土地の買収が終わってないだけだ」
 オリンピックのころによくきいた、「土地の買収」ということばが、この山奥にはどうしてもつながらないので、慶一には、やはり現実のことには思えない。
「おまえ、下の道が田んぼにむかって、途中で消えてるのは、なんでだと思ってたんだ」
「なんでって、あそこで敷地が終わるからじゃない」
「じゃあ、わざわざあっちまで舗装することはない。寮のまえで終わりにして、テニスコートでもつくればいいだろう」
 改めてそういわれると、たしかにあの道は盲腸だ。なんの役もしていない。
「あの道が、駅につながるんだよ」
 慶一の頭のなかで、メインストリートにならぶ商店が見え、こんどこそ高志の話を信じた。それならわかる。あれは、県道から新しい町への道だったんだ!
 ラジオが「アット・ザ・トーン、4PM」と時刻を知らせる。
「腹立つな、蚊にやられた。もう、いこう」
「あーあ、うさぎ屋は遠いな。早く町をつくればいいのに」
 高志につづいて、慶一も重そうに立ちあがる。
「そうなったら、部室も四〇七から引っ越しだ。団地なんか、ながめるために、わざわざあんな不便なところにいたって、しようがねえ」
「そうかあ……」
 それは、慶一には思いもよらない未来だった。ひょっとしたら、バラ色というわけでもないのかな、と思いこみかけたところで、高志のインチキに気づいた。
「なんだよー、信じちゃっただろう。卒業するころって、いったじゃないか!」
 もう歩きはじめていた高志の背中にむかって、慶一は大声を投げかけた。
「そうさ。だから、なんだ」
 小走りで高志に追いつき、背中をどやしつけてやろうとしたとたん、高志がふりかえった。
 まだ日没にはだいぶ間があるが、すでに道を急ぎはじめた太陽が、正面ななめ上から、高志の上半身を照らしだす。
 西陽に輝く高志を見て、慶一は突然、深い喪失感におそわれた。卒業とむすびついたせいか、それとも、西陽のせいか、山がなくなるのは、高志がいないことを意味していた。
「どうしたんだ。プールで海パンが脱げたような顔してるぞ」
 笑いながら、高志はひたいに右手をかざし、慶一のすがたをたしかめようとする。
「クソ、帽子がいるな」
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23

美しい紙と
きれいなブルーのリボンで
愛しい
プレゼントを包もう

〈プリティ・ペイパー〉
ロイ・オービスン
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 慶一の心づもりでは、この電話は一分もかからないはずだった。用件は、あすの帰宅はすこし遅くなる、というだけのことだから、長くなりようがない。
 母親というのはそういうものなのだろうが、風邪をひいていないか、ケガをしていないか、ちゃんと宿題をやっているか、あしたの夕食はなにを食べたいか……などといっているうちに、売店で両替した十枚の十円玉は、すべて赤電話にのみこまれてしまった。
「ねえ、ここには二台しか電話がなくて、待ってる奴もいるの。もう、切るからね」
 赤電話を増やすべきだ、という母親をなんとかなだめ、受話器をおき、十円玉が一枚も落ちてこないのをたしかめ、大きくため息をつく。
 めずらしいことに、テレビもついていないし、ステレオのまえにもだれもいない。面白そうなことはなにもないので、慶一はまっすぐ自室に帰ることにし、サロンを出た。
 階段に足をかけた慶一は、事務室から令子が出てきたのを見て、ヤッタとつぶやき、きびすを返した。
「うちから電話かなんか?」
「ええ。ちょうどよかった」
「ぼくに用? じゃ、テラスかな?」
 令子とならんでサロンのまんなかを歩くのは、さすがに気がさし、慶一はひとりで足早にサロンを通り抜け、テラスの手すりに歩みよった。
 まだ、令子はサロンのまんなかあたりを、ゆっくりと歩いている。
 手すりを背にして、令子を見ていた視線をあげると、東棟が目に入った。二〇二のヴェランダが見える。ということは、高志が外に出てくれば、こっちが見えるということだ。
 令子がスライドドアを通り抜けたのを一瞥いちべつし、慶一は空いているテーブルにむかって歩きながら、二〇二が視界からはずれるのをたしかめた。
「どうしたんですか」
 と、令子は慶一の視線を追った。
「ううん、なんでもないよ。坐ったら?」
 慶一はじぶんのまえのイスをひき、令子もサロンを背にしたイスに手をかけた。
「なにか、飲み物でも買ってこうようか?」
 などというまえに、そもそも買っておけばよかったんだと、慶一はじぶんの不手際をくやんだ。
「いいえ。すぐに九時でしょう」
「そうだね。……それで、エーと、なんか……」
 令子を見るかと思うと、すぐにサロンの入口に視線を走らせたりで、慶一は落ちつかない。
「それが、いま母と話していたんです」
「ワラの奴、入寮のときにお母さんを見てから、ファンになったんだってさ」
 令子は小さく笑い、慶一はすこしだけ安心した。どうも、きょうの令子は屈託ありげだ。
「競争相手が多いから、たいへんだって、ワラさんにいっておいてください」
「へえ。そういっておくよ」
 といってから、慶一はギョッとした。どういう意味だろう。
「それで、あさってのことなんですけど……」
 じぶんが、サロンの出入りを見張るのに好都合なイスを選んだため、令子のほうは光を背にするかっこうになり、表情が観察できず、慶一はイライラした。
「どうかしたの?」
「ごめんなさい。あの、わたし、いかれそうもないんです。母が用があるって……」
「そんなあ」
 じぶんの声が、失望を通りすぎて、非難の響きをもってしまったのに気づき、慶一はすこし後悔した。
「ほんとうにごめんなさい」
 深く失望するいっぽうで、慶一はこうなるような予感があったのに思いあたった。ものごとというのは、そういうものだ。なにもかも、思いどおりに実現するわけがない。
「わかった。それで、どうすればいい。注文する? それとも……」
「もし、慶一さんがいってくれるなら……」
「いいよ。あの絵があれば、注文できるから、ひとりでいってくるよ」
「そうしてくれると、すごく助かります」
 令子の声に明るさがもどっただけで、慶一は満足した。
「じゃあ、注文はそれでいいとして……」
「わたし、包装紙とリボンはもってます。だから、あとのことは大丈夫です」
「そう。じゃあさ、つぎのつぎの日曜の夕方までに、令子ちゃんにわたすよ」
 高志にわたすまでには、まだいろいろと令子と接触しなければならないわけだ。それなら、百点満点ではないが、零点というわけでもない。

 快晴のわりにはあまり気温もあがらず、池のまえにひろがるこの芝生の斜面は快適だ。
 高志はさっきから、昼休みの歌声喫茶化を、あれこれ批判している。話ができない、すぐれた曲の悲惨なカヴァーは耐えがたい、こういう場面はガキのころ、最低の邦画でよく見かけた、などなど。
 それにもめげず、逆PPMとでもいうべき構成の、郁子・知子&柾生は、〈サムタイム・ラヴィン〉を最後まで歌いきった。
 郁子というのは、知子とおなじ部屋の子で、慶一の部屋の一年生、嶋野の双子の妹だ。いつも笑みをたたえているような目がかわいい。当然、二卵性双生児というわけだが、それにしても、ぜんぜん似ていない。
 ワラが彼女にアプローチをかけているが、慶一の観察では、郁子は高志に気があるようだ。妙なことにならないといいが。まあ、高志は超然としているので、とうぶん心配はないだろう。
 そろそろかな、とタイミングをはかって、慶一が目配せすると、高志のむこうに坐った令子が、微笑みで返事をする。じゃ、いってみるか。
「柾生、あの曲
 と、慶一が柾生に片目をつぶってみせ、高志をのぞく全員が、サインを見落としていないかどうかを確認した。世の中には、九回裏に同点のスクイズのサインを見落とす奴もいる。
「おれに、歌詞カードをわたすなよ。ロシア民謡なんか、ションベンひっかけてやる」
 慶一のたくらみには気づかず、高志はまた、歌声喫茶批判をむしかえした。
「ざんねんでした。歌詞カードなんかなくたって、この曲はだれでも歌えるの」
 と笑いながら、柾生がオープンGを押さえ、五弦から順にシレソと弾く。
 ただコードを分解しただけの、なさけないヴォーカル・アレンジだが、いちおうコーラスの練習をしたので、各パート(といえるようなものではないが)の音をあたえたわけだ。
 柾生は、もういちどシレソを弾いてから、ピックガードを二回叩き、タイミングを出した。
「ハピー・バースデイ・トゥー・ユー、ハピー・バースデイ・トゥー・ユー」
 さすがにじぶんの名前を歌われるまえに気づき、高志は片ひじをついた態勢から起きなおり、
「つまらねえこと考えやがって、おまえだな」
 と、慶一をにらみつけたが、慶一は笑いながら「トゥー・ユー」まで歌いきった。
 一時五分まえの予鈴が鳴り響く。
 拍手を終わった女の子たちが、さきに立ちあがり、スカートをはらった。芝生は青々としているので、葉っぱがつくわけではないが、とにかく、それが彼女たちの手続きだ。
「これで終わったと思ったら大まちがい、ヒットエンドランなんだぜ」
 といいながら、慶一は令子を見る。
 うなずいた令子は、これ以上はない笑みを高志に投げかける。ふと、嫉妬のようなものを感じて、慶一は令子の横顔を見つめた。
「お兄さん、お誕生日おめでとう」
 令子は「お」を頭韻のように使いながら、無愛想な茶色の紙袋から、赤いリボンをかけた、あざやかな群青色の紙包みをとりだし、高志にさしだした。
「なんなんだよ、こんな大げさにしやがって。おまえも慶一の共犯か」
 高志はぶっきらぼうにいって、令子と、そのブルーの包みを見くらべている。
 慶一はニコニコしながら、めったに見られない、高志のマヌケな表情を楽しんでいた。
 もう、校舎にむかって歩きだしていたワラと山崎が、どうしたんだ、という顔でふりかえる。
「ありがとう。なんだ、これは。あけていいか」
 気をとりなおして、高志は包みを受けとり、ていねいにリボンをほどき、テープをはがした。
 困惑した表情で中身を見るだけで、高志はプレゼントにさわろうとしない。
「かぶってみたら。帽子なんだから」
 と、慶一が笑う。気に入ってくれるといいのだが、いまのところ、なんともいえない。
 高志は慶一を一瞥し、包み紙を手わたし、濃紺の帽子をたたいてひろげた。ひたいの部分の刺繍をゆっくりながめ、それから頭にのせる。
「うしろのとこで調節して。いちおう、フリーサイズなんだけど」
 慶一が心配そうにいった。
 帽子をとり、サイズを調節し、またかぶりなおし、頭をゆっくりと左右にふって、慶一と令子にじぶんの姿を見せ、高志は照れくさそうに笑った。
 ひたいのところに、金糸や、赤、青、白の糸で刺繍がしてある。円形の金色の縁どりのなかに、文字があるデザインだ。上半分には、円周の内側に沿って、大きく「KWTS」とあり、中心の金色の小さな円の左側には “Side A” 右側には “45 RPM” 下には、まず “TAKASHI” とあり、その下に “You Baby” と金糸で縫いとってある。
 これは、いちおう、レコードのレーベルを図案化したつもりだ。KWTSがレーベル名、高志の名前がアーティスト名、〈ユー・ベイビー〉が曲名という趣向になっている。
 高志はまた帽子をとって、「レーベル」をしげしげとながめ、小さく笑った。
「サンキュー。おまえらふたりのプレゼントだな」
 令子と慶一がうなずいた。
「気に入った?」
「ああ、もちろんだ」
 うれしそうに、令子がかたわらの慶一を見た。
 とにかく、よかった。高志のお気に召さなかったら、面目丸つぶれのところだった。
 三人のところから離れて見ていたワラが、ニコニコしながらよってきた。
「すごいじゃない。ぼくのぶんはないの?」
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24

あの娘のことは
忘れるんだ
さびしい思いをするのは
おまえなんだから

〈フォーゲット・ザット・ガール〉
モンキーズ
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 家を出たときからあぶなっかしい空模様だったが、車窓に雨のすじが走ったかと思うと、あっというまに本降りになり、大船に着くころには、観音様もかすむほどになっていた。
 びたトタン板一枚の、穴だらけのひさしの下で両肩をすくめ、本郷車庫行きのバスを待つ慶一のまえで、タクシーが急停止し、うしろのドアが開いた。
「乗れよ」
 トタンを叩く雨音にさからって、高志が躰をななめにし、大声を出した。
「いいよ」
「なにいってんだ。風邪ひくぞ。早く乗れよ」
「うるさいな。そうしようと思ってんだから、ほっといてくれよ」
「なに?」
「風邪ひきたいんだってば!」
 運転手がなにか文句をいったらしく、高志はまえに向きなおり、怒鳴りかえすや、百円玉を放り投げて、あっというまに、慶一のまえに立っていた。
「おまえのせいで、三〇メートル百円だ」
 高志は、すぐむこうに見える、駅前のタクシー会社のほうに視線をやった。
「だれも、おりてくれなんて、いってないよ」
「おまえ、傘はあるんだろうな」
 慶一は仏頂面ぶっちょうづらで首をふり、高志は呆れ果てたようにため息をもらした。
「おれだって、傘なんかもってないぞ。バス停からさき、どうするんだよ」
 バス停から寮玄関までは、一〇分ほど歩かなくてはならない。
「うるさいな。いかないから、いいんだよ」
 そういって、慶一はひたいに手をやった。気のせいか、すこし熱っぽいようだ。
「あれ? 令子ちゃん、いっしょじゃないんだ?」
「うん、ちょっとな」
 にわか雨に追いたてられた街に目をやったまま、高志はめんどうくさそうにこたえた。
「ちょっと、なに?」
「用事があったんだ」
 慶一のようすを疑わしげにながめ、高志は、そうか、とつぶやいた。
「バカじゃねえのか。仮病けびょうを使うなら、はじめからもどらなきゃいいじゃねえか」
「やったよ。風邪ひいたみたいっていったら、父親も母親も、体温計だ、薬だ、医者だって大騒ぎになっちゃって、日曜じゃなければ、病院にいかされてたよ」
「いいじゃねえか。おれが風邪ひくと、どうなるか知ってるか」
「憎まれっ子のことは、だれも気にしない」
「ハズレ。体温計だ、薬だ、医者だってんで、女中頭が大騒ぎするんだ」
 自慢ではなく、自嘲のつもりらしいが、いずれにしても、慶一は虚をかれた。
「美人のお母さんは?」
「いろいろ忙しいからな、あっちが家にいるときに、こっちが風邪ひくっていうぐあいには、なかなかいかなくてよ。まあ、完全試合ぐらいの可能性しかない」
 ああいう人の子どもでいることは、それほど楽ではないらしいことを知って、慶一はひどくガッカリし、いままでの完全試合の数をきく気にはならなかった。
「で、うまく風邪をひけそうなのか?」
 ムダだろうとは思ったが、慶一はまた、ひたいに手をやった。もちろん、ムダだった。
「頭なんかさわらなくったって、じぶんが病気かどうかぐらい、わからないのかよ」
「うるさいな。笑いごとじゃないんだから!」
 ようやくバスが到着し、十数人の客が乗りこんだが、慶一はもちろん、高志も動かない。
「もう、いいかげんにいこうぜ。そんな都合よく風邪なんかひけるもんか。どうして、そういう、くだらないアイディアしか思いつかないんだ」
「ほかに手がないんだから、しかたないだろ。寮にいたら、また去年とおなじになっちゃうよ」
 じぶんで「去年とおなじ」といってから、慶一はハッとした。ホントに去年とおなじなら……。
「アイディアって、また、なんか、たくらんでるのかさ?」
 わざとらしくソッポをむいて、高志はクスクス笑っている。
「もったいぶるなよ!」
「ひっひっひ。これで一日遊べそうだからな、そう簡単にはバラせないね」
 バスが出発し、あいた場所にタクシーがすべりこんできて、窓が引きおろされた。
「乗ったら?」
 雨のなかに頭を突きだし、ワラが妙に熱意をこめて、ふたりを誘った。
「慶一が乗りたくないんだと。おまえ、さきに帰れ」
「そんなこといって、友だちでしょ。つきあってよ」
 高志は腰をかがめ、運転手の顔を見て、舌打ちした。さっき、百円玉を叩きつけた相手だ。
「おれも乗りたくない」
「そんな、なに意地んなってんの。この雨ですよ。どうせ、傘なんかもってないくせに」
「そこらで売ってる」
「そんな、意地悪しないでさあ」
 なにいってんだ、こいつ、というように、高志は慶一と顔を見あわせた。
「金がないんだってば、なんとかしてよ!」
 どうやら、高志がなにか手を打ったらしいし、これ以上、ここでがんばっても、意味がないような気もしてきたので、慶一は風邪をあきらめ、ワラのとなりに乗りこんだ。
 はじめから、すなおに乗ればいいんだ、とボヤきながら、慶一を奥に押しこみ、高志が乗りこむと、運転手は乱暴に車を発進させた。
「高志、あした、オーケイ?」
 ふたりのあいだにはさまった慶一の頭越しに、ワラがいう。
「ああ」
 と、高志はポケットからカギをだし、ブラブラさせた。
「さすが」
 と、ワラが感嘆の声をだす。
「なに、そのカギ?」
 ひとりだけカヤの外になった慶一が、イライラした声をあげた。
「あれ、慶一にいってなかったの?」
「もったいなくて、いえないね」
 いつまでも、慶一の目にさらしておくわけにはいかない、とでもいうように、高志はわざとらしく、大急ぎでカギをポケットにしまいこんだ。

 目覚し時計に起こされるまでもなく、慶一は三時まえに目が覚めてしまった。しばらく、ベッドから出ずにじっと考えていたが、がまんしきれずに、高志の部屋にむかうことにした。
 二〇二は寝静まっていた。高志のベッドは空っぽだ。どういうことだ。常夜灯のかすかな光のなかで、慶一は途方にくれて立ちつくした。
 ゆっくりと見まわす。窓際のベッドの頭板の上に、あの帽子がおかれている。
 やっぱり、そうだ。ひとつのベッドにふたり寝ている。ひとりは高志だ。もうひとりは、高志の胸にもぐりこんでいて、顔が見えない。
 慶一は高志の肩をつかんで、軽く揺さぶった。高志がうっすらと目を開く。
「高志、ちょっと早いけど、起きてよ」
「何時だ?」
「三時すぎ」
 高志は片ひじをつき、上半身をすこし起こした。もうひとりが仰向けになる。義晴だ。
「三時半ていっただろ」
 ゆっくりと、高志は義晴の首の下敷になった手首を抜いた。
「目が覚めちゃったんだよ。つきあってよ」
「わかった。ちょっと待て」
 と、また枕に頭をあずけてしまう。
「眠るなってばあ」
「わかってる。収まるものが収まるまでは、出られねえだろ」
 高志が小さく笑い、義晴が身動きした。
 慶一は、黙って応接セットにいき、ソファに腰掛けた。露骨な話には、つきあっていられない。
「もう、時間?」
 と、ソファに近いベッドで、ワラが片目をあけた。
「まだ、ちょっと早いけど」
 義晴がスリッパを引きずって洗面所に入る。
 高志がブルージーンズだけ穿いて、慶一のとなりに黙って腰をおろした。
 顔を洗って、洗面所から出てきた義晴を、高志が手招きで呼びよせる。
「柾生、山崎、佐藤、広岡、こんだけ起こしてこい」
「ハンゾー先輩は?」
「いい、こっちはおれたちがやる。ジャッケルの連中だけでいいよ」
 ジャッケルというのは、西棟のことだ。だから、東棟は、いうのもばかばかしいが、ヘッケルということになる。
 KWTSの愛称募集には、ロクなアイディアが集まらなかった。そんなことは忘れ去られてしまってから、だれともなく、ヘッケルとジャッケルという呼び名を使うようになっていた。
 高志はジーンズのポケットをさぐって、カギをとりだした。
「いきがけに、これで洗濯おばさんの休憩室をあけておけ」
「山崎先輩、寝起きが悪くて……」
 カギを受けとりながら、義晴がつぶやいた。
「離れてれば、大丈夫だ。ホウキの柄かなんかで突ついてやれ」
 と、高志が低く笑う。
「休憩室?」
 義晴が部屋を出ていくと同時に、慶一が呆れたようにいった。
「あれ、いわなかったっけ?」
 位置の関係から、しかたなく慶一は、左腕でヘッドロックをかけた。
「早くいえよな。心配で眠れなかったのに!」
 高志とワラは食料をとりに四〇七にいき、慶一は服部を起こしに三〇二にむかった。
 最後の山崎が、ヘッケル/東棟一階の洗濯室のわきにある、通称「おばさん休憩室」、正式名称「職員休憩室」に入ってきたのは、もう四時直前のことで、窓の外に目をこらす余裕があれば、わずかに空が明るくなっているのに気づいたことだろう。
 義晴が、コカコーラの缶とクラッカーの箱を山崎に手わたした。オープン・リールとカセットの、ふたつのテレコもセットされている。ヴィデオも、もってこられるとよかったのだが。
 ここは、男子寮で唯一、畳のある部屋だ。洗濯室や厨房のおばさんたちは、イスでは休んだ気がしないのだろう。小さなテレビと、それに、ちゃぶ台と水屋がある。
 じつにどうも、妙な感じだ。どこかの安アパートに忍びこんだような気分になる。その小さなちゃぶ台には、コーラやオレンジジュースの缶、ポテトチップスやポップコーンの袋がのっていて、あちこちから頻繁に手が伸ばされている。
 テレビでは、ようやく、クラシック・ピアノの演奏が終わった。
「もう音はたてないでね。カセットのほうはマイクで録るんだから、みんな入っちゃうよ」
 全員に注意をあたえ、ワラは二台のレコーダーをまわした。
 なにかの曲にかぶせて、アナウンサーの紹介が入る。
 極度に神経を集中しなければならないときに起こる、あの非現実感が慶一をとらえていた。メロディーの輪郭がつかめない。とにかく、ジョンが歌っている。
 突然、ジョンが〈シー・ラヴズ・ユー〉のリフレインを歌いはじめた。おかげで、焦点をもとめて浮遊していた慶一の意識が、飽和点に達した溶液のように、一気にかたちをととのえた。
「ジョンが音をはずしてる」
 まえのほうで、広岡とならんで見ている佐藤が、二死満塁のチャンスに、二球つづけて空振りした四番打者でも見ているような声でいった。
 ジョンの音域はポールほど高くない。あの〈シー・ラヴズ・ユー〉のリフレインは、ジョンには高すぎるかもしれない。
 エンディングのところから放送に入ったらしく、曲はすぐに終わってしまった。
 コントロール・ブースのジョージ・マーティンが映り、なにかいう。
「なんていったんだよ」
 広岡が、テレビをはさんだとなりのワラにいった。
「カメラを入れろって」
 じぶんの声がテープに入るのを意識しながら、ワラがいやいやこたえた。
 画面では、だれかがカップを片づけている。ここはイギリスだ。お茶の時間だったらしい。
 正装をしたセッション・ミュージシャンたちが、テナーサックス、トランペット、トロンボーン、ヴァイオリン、チェロをかかえて、準備をしている。
 それだけではなく、なにをするのだかわからない連中が、おおぜいスタジオに入りこみ、てんでに床に坐りこんだ。
 ブースのなかで、ジョージ・マーティンがまた、なにかいった。
「“テープをもどせ、リチャード” っていったの」
 テレビよりも早く、広岡に強制されるまえに、ワラが同時通訳した。
〈トゥマロウ・ネヴァー・ノウズ〉にはじまる『リヴォルヴァー』セッションから、ビートルズのチーフ・エンジニアをつとめて、スタジオ・テクニックに革命を起こしたジェフ・エメリクが、きょうもチーフだ。
 だが、チーフ・エンジニアはテープにさわったりはしない。テープ操作は、きょうのセカンド・エンジニア、リチャード・ラッシュの仕事だ。
 オリンピックで金メダルでもとったような、管の大げさなイントロで、曲に入った。
 スタジオ内のカメラに切り替わり、広いスタジオ・ワンの宙をすべって、ストゥールに腰掛けたジョン、ポール、ジョージに接近する。三人から離れて、セッション・ミュージシャンのむこうにリンゴが見える。
 歌というよりは、語りのようで、メロディーがつかめない。カメラが切り替わり、ジョンの横顔をアップでとらえた。ジョンはヘッドセットをかけて、ギターをもたずに歌っている。
 ジョンだけではなく、他の三人もヘッドセットをしている。ポールは、いつものカール・ヘフナーではなく、リッケンバッカーのベースだ。慶一には見えないが、ジョージはストラトキャスターを弾いている。
 このところ、みんな、むかしとはちがう楽器を手にしているのが、慶一にはさびしい。日本公演だって、ジョンは、あのトレイドマークの黒いリッケンバッカー325ではなく、サンバーストのエピフォン・カジノを弾いていた。きょうは、とうとうギターなしになってしまった。
 コーラスになって、ようやくメロディーの輪郭がはっきりした。「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」とくりかえす単純なもので、二回目には、慶一もいっしょに歌っていた。
「ミックだ」
 山崎がつぶやいた。弦や管のプレイヤーまでいる、ごちゃごちゃしたスタジオに、ミック・ジャガーが坐っていた。カメラは一瞬だけ、アップでミックの顔をとらえた。
 弦が、メロディーとは関係のないフレーズを奏で、トランペットが入ってくる。ここからは音のコラージュだ。そろそろ、さっきジョンが音をはずした部分になる。
 慶一はジョンを信じていたが、それでも両手をきつく握りあわせて、祈った。
 ビートルズが世界を征服できた秘密をひとつだけあげるなら、それは、ジョンのヴォーカルだ。数億の人間が見ているこの土壇場で、やはり、ジョンはジョンであることを証明した。
 だれかが、ためこんでいた息を吐き出した。
 プラカードを背負った人間が、スタジオを練り歩く。
「なんだ、もう終わり?」
 柾生が不満そうにいい、ワラがふたつのレコーダーをとめた。
「これ、シングルで出るのかな」
 慶一がつぶやいた。
「そうだろ。出したばっかなのに、またすぐLPが出るわけない」
 服部がこたえた。
「だいたい、こんなハデな宣伝をしたんだから、ゴチャゴチャやってないで、大あわてで発売するに決まってるじゃねえか。世界中のファンが同時に見たんだぞ」
 高志が当然の指摘をする。これはよくあるような、たんなるテレビ出演ではなく、新曲のレコーディングをライヴで電波に乗せる、という触れこみだった。
「これって、いまやってるんですか」
 と、義晴がだれにともなくきいた。
「ああ。アーリー・バードと、なんとかバードと、なんとかかんとかって衛星で、同時に世界中をむすべるようになったんだとさ。その記念にやってるんだ、これは」
 と高志が答えた。
 ワラが「ラナ・バード」とつけ加える。
「同時って、どれくらい同時なんだろう」
 と、慶一がつぶやいた。
「電波は光とおなじスピードだ。毎秒三〇万キロメートル。あっというまに伝わる」と高志。
「でも、何万フィートだか駆けあがって、また降りてくるわけだし、あっちこっちで、めったやたらとスウィッチングするから、時間がかかると思うよ」
 ワラが、技術的注釈をほどこした。
「どれくらい?」
「さあ……一秒か、二秒か、それくらいは、タイムラグがあるんじゃないかな」
 それにしても、あっというまだ。同時といっていい。慶一は、ビートルズがいましていることを、はじめて見たんだ、と考えた。
 東京にいるビートルズが見られなかったのに、こうしてロンドンにいるビートルズを見られたのは、ほんとうに不思議だ。

 四〇七のヴェランダでは、きのうの雨のなごりが陽光をきらめかせていた。
 室内は、慶一が心配したほどは暑くなかった。色とりどりの缶が、七つ八つ、白い陶の洗面器に横たわって、細くあけた蛇口から流れる水に洗われている。
 高志のためにコーヒー、そして、じぶんのためにペプシを手に、慶一は洗面所を出た。
「寝るのかさ」
 最近運びこんだボンボンベッドに寝転がって、高志は口笛で〈ジョージー・ガール〉を吹いていた。
「ああ。あと二時間半もあるぞ」
 どうしてプルトップにしないんだ、と文句をいいながら、慶一から受けとったコーヒーに缶切りで口をあけ、ひと口飲むと、躰を回転させ、仰向けになった。
 慶一はものたりない気分でソファに横になり、目を閉じたが、四人の表情、ペイズリーのブラウス、ヘッドセット、弦のトリル、ギターのひずんだ音色、ただよう風船、そうしたものが、脳裏で脈絡もなく跳ねまわり、眠るどころではない。
「もう寝ちゃった?」
「なんだよ」
「べつに、なんでもないけどさ」
 高志はうなり声をあげ、寝返りをうっただけで、べつに怒りはしなかった。
「あのさ、令子ちゃん、病気かなんか?」
 きのうの夕食に、令子はすがたを見せなかった。
「べつに。じぶんといっしょにするんじゃない」
「じゃあ、なんで、もどらなかったのかな」
「もどってるさ。遅く帰ったんだ」
「ふーん。なんで?」
「うるさい奴だな。なんだっていいだろうが。家庭の事情だ」
 とにかく、令子が帰寮しているのはたしからしいので、とりあえずはそれで安心し、「家庭の事情」には踏みこまないことにして、慶一は目をつぶった。
 それにしても、いったい、どういうことだろう。親戚のだれかの葬式だとかなんとかなら、高志だって関係あるはずだ。だいたい、このところ……。
「このところさ、令子ちゃん、ちょっと、ヘンじゃない?」
「もー、なんだっていうんだ! いいかげんで、寝ろよ!」
 高志は腹立たしげに上体を起こし、床においた缶に手を伸ばした。
 どれがどの鳥ともききわけられないほど、さまざまな声がいりまじった、ほとんどノイズのような大合唱をかいくぐって、ひぐらしの遠い声がきこえてきた。ことし最初の一匹かもしれない。
「ずっと考えてたんだけど、おまえ、本気なのか」
 慶一の頭は、またペイズリーのブラウス(「どこへいったら、ああいうものを売っているんだろう?」)と、ギターなしのジョン(「あのリッケンバッカーはどうなったんだろう?」)に占領されていたので、いきなり話しかけられても、いっこうに脈絡がつかめなかった。
「え、なに?」
「令子のことだよ」
 ――本気? 令子のこと? ひょっとしたら、すごくまじめな話なのか……なにいってるんだろう。
「本気か、なんていわれると困るけど、冗談てわけじゃないよ」
 そうか、とつぶやいて、高志はベッドから頭をはみださせ、床に缶をおいた。
「じゃあ、もういちどいっておくけど、あいつはやめたほうがいいと思う」
「なんで」
「なんか、イヤな予感がする。どっちかが、ひでえ目にあうかなんかしそうだ」
「どっちかって、だれとだれのどっち?」
「おまえと令子の話をしてるんじゃねえか」
「それで、そのうちのどっち?」
「たぶん、おまえ」
「なら、いいよ。令子ちゃんだと、かわいそうだけどさ」
 高志はベッドから頭をあげ、しげしげと慶一を見た。
「いくらがんばっても、なんにも手に入らないかもしれないぞ」
 すぐにはこたえず、慶一は高志のことばの意味を考えてみる。
「べつに、なにか手に入れようと思ってるわけじゃないよ」
「じゃあ、なんだ」
「わからない。猛烈なライナーが飛んできたら、考えるまえに、グラヴを出すじゃん」
 こんどは、高志がなにもこたえず、また缶に手を伸ばした。
「ちょっと考えてたんだけどな、おまえ、こんどの週末、ヒマかよ」
「うん」
「じゃあ、寮にのこらないか」
「いいけど、なんで?」
 床に缶をおき、ベッドをきしませ、仰向けになりながら、高志がつぶやいた。
「家庭の事情だ」
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25

きみにそんなところが
あるなんて
いまのいままで
思いもよらなかった

〈ノー・フェア・アット・オール〉
アソシエイション
[#改段]
 たまに薄日が射すていどで、水から出ると、空気が冷たい。
 慶一はベンチに坐り、ていねいに髪をふきながら、水面に目をやった。
 令子に一〇メートルの差をつけて、高志が三番と書いた台の下にタッチし、底に足をつけた。
 土曜の三時まえで、キャンパスに人けがないときではあり、まだ梅雨のさなかで、天気がはっきりせず、プールには十数人の生徒がいるだけだ。
 なにかふざけあいをしていたらしく、高志が笑いながら水からあがり、紺のスクール水着をきた令子が、そのあとを追って、口をとがらせてプールサイドに立った。
 これだけは、例外だ。彼女と紺のスクール水着だけは、例外というしかない。
 慶一がこの学校にきたのは、高志にいったとおり、詰襟を着たくないからだった。
 かっこうがいいとか悪いとか、そういったレベルのことではない。詰襟というのは、子どものころからずっとのしかかっていた、貧困と愚鈍と暗黒の日本そのものだった。
 脱脂粉乳とコッペパンを脱出したむこうに、詰襟が待ちかまえていることを思い、慶一は自殺しようかと考えたが、日本に人間として転生する恐怖におびえ、思いとどまった。
 この嫌悪感は、セーラー服にまでおよんでいる。ズボンをスカートにかえてまでして、水兵の着るものを女が着なくてはならないなんて、いったいどこの狂人が考えたのだろう。
 そして、夏がきて、やっとセーラー服から解放されたかと思うと、こんどは、どうひいき目に見ても、セーラー服用の下着以上のものではない、あの紺のスクール水着が待っている。
 慶一は、この学校が女子にブルマーズをはかせず、両サイドに白いストライプが入った、オレンジ色のジャージーの上下を着せたことを、高い見識と評価している。
 だが、紺のスクール水着には深い失望を感じた。ワンピースでなければいけないというなら、それでもかまわないが、なにかべつの色、たとえば、トレイニング・ウェアに合わせて、オレンジ色とかにしないと、つじつまが合わないではないか。
 それでも、令子だけは例外だ。彼女と紺のスクール水着だけは、例外というしかない。
 似合うというのではない、あんなものを問題にもしないレベルにいるということだ。
 その例外が、顔にしたたる水を、両の手のひらと、咲きこぼれるような笑顔で弾きかえし、慶一のほうにやってくる。
 いきなり、冷たく濡れたものに抱きかかえられ、ほうけていた慶一は跳びあがった。
「もー、なにすんだよ!」
 目いっぱい濡れた躰を、しつこく押しつけてくる高志からのがれようと、慶一はもがいた。
「おまえ、こないだ、風邪ひきたいっていってたじゃねえか」
 大笑いして、ようやく高志は躰を離し、じぶんのバスタオルを拾いあげた。
「よくまあ、そういうふうに、ひとのいやがることばかり思いつくよ!」
 じぶんのタオルは、すでに髪をふいて、たっぷり水気を含んでいるはずで、その感触を思うだけで不快だったが、ほかにどうしようもないので、慶一は上体を倒し、タオルに手を伸ばした。
 だが、こんどは乾いたものがわき腹にふれ、また跳びあがりそうになった。
「じっとして」
 首だけねじ曲げてうしろを見ると、きまじめな表情をかべ、令子が慶一の濡れた躰をふこうとしているところだった。令子の手とじぶんの躰のあいだには、タオル一枚しかないのに思いあたり、慶一は身をよじった。
「大丈夫だよ。じぶんでふけるよー」
 慶一のなさけない声がおかしくて、令子はクスクス笑ったが、それでも手の動きはとめない。
「ザマアねえな。令子、おむつもとりかえたほうが、いいかもしれないぞ」
 冗談だとはわかっていても、一瞬、その光景が頭に浮かび、慶一は本気で令子の手からのがれ、すばやくターンして、身を守るように、タオルをまえに突きだした。
「もう、しようのない子ね、ちっともじっとしていないんだから」
 と声音こわねをつくり、しかるような顔をしてから、令子は笑顔を泛かべ、慶一をふいたタオルで、こんどはじぶんの躰をふきはじめた。
 もがいた拍子に、たしかに、じぶんの躰のあちこちが、令子の躰にどこかにぶつかった。だが、狼狽のあまり、どこにふれたのかまったく記憶がなく、慶一はひどく損をしたような気がした。
 躰をふき終わり、令子は、高志が坐っている最上段のベンチに腰掛けた。
「おまえ、なに突っ立ってるんだ」
 二段目の列に立っていた慶一は、三段目のベンチに足をかけ、ふたりがいる最上段のベンチに、令子をなかにして腰をおろした。
 追いかけっこをする一年坊主どものかん高い叫びや、飛び板を踏みならす騒々しい音をぬって、遠い打球音がきこえてくる。だれかが、ハーフバウンドを捕球しそこなって、あざをつくっていたりするのだろうが、音だけなら、ノックもじつに無害にきこえる。
 三人が坐る最上段のベンチのうしろには、二本の水銀灯の立つ、芝生の斜面がゆるやかにひろがり、それが終わったところから、低い裏山が立ちあがっている。
 慶一は芝生に両手をつき、大きく開いた令子の背――といっても、※(始め二重山括弧、1-1-52)11PM※(終わり二重山括弧、1-1-53)のカヴァーガールが着るものにくらべたら、極小の面積しか見えないが――を、ななめうしろからながめる。
 髪をたばねたゴムをとこうと、令子は両手をうしろにまわし、首をねじって慶一を見た。
「どうかしたんですか」
 二の腕からわきの下、そして胸への線の圧倒的な吸引力にさからって、慶一は視線をあげ、笑みを泛かべて、口のなかであいまいな言葉をつぶやいた。
 令子が首をひとふりすると、なにか仕掛けでもあるように、黒髪が滝になってひろがった。
「寮にのこるのもいいけど、メシが困ったもんだな。鎌倉でもいくか」
「ダメ。お母さんから電話があるの」
 令子のそっけない口調に、高志が大げさなため息をついた。
「ほっとけよ、そんなもん。いなけりゃ、かけなおすだろ」
「だって、呼出しがあって、どこにもいなかったら、たいへんよ」
「そうか、そうか。それは、たいへんだよな、まったく。慶一、おまえは?」
「うーん……どうしようかな」
 令子がいかないなら、規則をやぶってまで出かけたいとは思わない。
「慶一さんは、いかないですよね。ひとりでのこっても、つまらないわ」
 おまえはその手に乗るのか、という顔で、高志が慶一をにらみつける。
「えーと、まいったな。ふたりで決めてよ。おれ、そのとおりにする」
 そのふたりは、もー、とうなって、慶一に軽蔑の視線を向けた。
「よーし、わかった。規則どおりにやれば、文句ないな? もう三時だ。さっさとケツをあげろ」
 なにか思いついたのか、高志がいきおいよく立ちあがった。

 土曜の夜に、寮長がいるとは思わなかった。
 私服で食堂に入れるせいか、それとも、いつもとはちがう席に坐るせいか、なんとなく心が浮きたって、週末の夕食は騒々しいことになるが、思わぬ寮長の出現に――さすがにタイは締めていなかったが――今夜にかぎっては、閑散とした食堂に、ナイフやフォークの音ばかりが響いた。
 サロンにしても、ビュフェや売店が休みなので、いつもとはちがって、静かなものだ。
 食事が終わると、高志と令子は自動販売機で飲み物を買い、慶一はカウンターのむこうに隠しておいた紙袋をひっぱりだし、テラスの丸テーブルにむかった。
「もうすこし待ちましょうよ」
 裏山を背負って坐った令子が、高志と慶一の頭越しにサロンを見わたし、つぶやいた。
「気にするなって。腹へって死にそうだ。ぜんぶパスしたんだからな」
 たしかに、慶一とおなじテーブルに坐った高志は、お茶以外のものは口にしなかった。
 どれくらいの人間がいるか、いちおうたしかめようと、慶一がふりかえったそのとき、寮長がサロンに入ってきた。
「高志、ヤバい」
 慶一の警告に、高志は足もとの袋をさぐっていた手をとめ、室内をふりかえった。
「まいったな。なんだって、土曜に居残ってるんだ。夫婦ゲンカでもしたんじゃねえのか」
 足で紙袋をテーブルの下に押しこみ、高志はペプシのビンをとりあげた。
「こちらにご用がおありのようよ」
 令子だけが、正面をむいたまま室内を見られる位置にいる。
「高志、最近、なにかやった?」
「おれが、バレるようなヘマをするっていうのか?」
 慶一のほうを見た高志の視線が、瞬間的にサロンの方向にスライドした。
「夏の夕方に、少年少女がテラスで談笑しているすがたというのは、なかなか悪くないものだな。やはり、ここを会議室にしなくてよかった」
 高志と慶一のあいだに、さっと影法師が走り、令子の胸に達したところでとまった。
「あ、こんばんは。めずらしいですね、土曜に」
 高志が顔をあげ、愛想よくあいさつをした。
「妙なものだな、いつもは、わたしがいてもなんともないのに、土曜だというだけで、どうしてみんな警戒するのかね」
 寮長はゆっくりと慶一のうしろをまわり、令子のほうに歩みをはこんだ。
「それにしても、土曜の夜だっていうのに、どうして男は男、女は女でかたまっているんだ。こんなことでは、苦労して共学にした意味がない」
「いまに、あっちこっちでくっついて、共学にしたのを後悔するようになりますよ」
「うん。それぐらいで、ちょうどいい。もっとも、そうなると、また県教委がさわぎだして、男子校にもどすようなハメにならんともかぎらないがね」
「そんなことになったら、タイヘンだ」
 口をつぐんでいるつもりだった慶一が、思わず驚きの声をあげた。
「そう、たいへんだ。――いいかね、男と女がこうしていっしょに生活していれば、当然、無数の恋愛騒ぎが起きる。むしろ、まだなにも起きていないのが不思議なくらいだ」
「でも、まだ……」
 と、慶一がまた口をはさんだ。
「中学生だからというのか? 莫迦ばかをいってはいけない。個人差はあるが、きみたちも、もう子どもをつくれる躰になっているはずだ」
「ええ。慶一はまだかもしれないですけど。やっと、最近、生えそろって――」
 高志のすねを蹴とばすだけのつもりが、いきおいあまって、慶一のひざがテーブルを叩き、酔っぱらいのようなステップを踏む三本のビンに、三人の手がさしだされた。
「わたし個人としては、そんなことは、あたりまえだと思う。しかし、これだけの子どもたちと、先生がたをあずかっていると、そうとばかりはいっていられない。ちょっとスキを見せれば、新しい学校などというのは、簡単に踏みつぶされてしまうのだよ」
「県とのもめごとは、まだ片づいていないんですか」
「そうだな……棟を分ければ、男女が問題を起こさないなどと信じられるのは、県教委の空想的な諸兄ぐらいだからね。わたしのように、現実を直視できる人間は好きじゃないんだな。まあ、そんなことは、よろしい。要は、きみたち種馬が女の子たちと仲よくしたいなら、こちらの目のとどく、パブリックな場でしてもらいたいということだ」
 よせばいいのに、慶一は思わず「ハイ」と返事をしてから、死ぬほど後悔した。
「ところで、せっかく県教委が理想とする男女交際をしているところに恐縮だが、しばらく、このレディをお借りできないかね」
 と、寮長は令子の肩に両手をおき、高志を見た。令子は躰をこわばらせ、目を丸くして、高志と慶一を交互に見ている。
「先生は、こいつのタイプじゃないと思いますけど、試すのは自由ですから」
「残念ながら、年齢制限と職業倫理に引っかかるね。ああ、それから、法律にも引っかかる。これ、マドモワゼル、わたしの部屋で、冷たいものでもどうかな」
 冗談めかしてはいるが、ひどくまじめな話らしく、寮長の目は笑っていない。
 笑いもせず、理由をききもせず、令子は立ちあがって、すでに出入口にむかっていた寮長のあとを追った。
「ああ、忘れるところだった。事務室の冷蔵庫に、うまそうなスイカが冷えているのを知っているかな」
 緊張をときかけた慶一が、躰をびくっとさせて、ふりかえった。
「ええ」
「そうか。やっぱり、きみたちは抜け目がないな。あとで、ひと切れもらうといい」
 寮長が遠ざかるのを確認してから、慶一がフウッと息をはき、高志が小さく笑った。
「スイカ、見つかっちゃったよ。どうする?」
 それは三人が街で買ってきて、半分あげるからと、高志が若い宿直事務員を丸めこんで、冷蔵庫に入れておいてもらったものだ。
「べつに。あとでひと切れもらえっていうんだから、もらえばいいさ。遠慮することはない。金を払ったのは、おれじゃねえか」
「だけど、どういうこと、これは?」
「さあな。令子に用があったんだろう。あとはぜんぶ、食後のむだ話じゃねえのか。それとも、ランナーがいるから、念のために牽制球を投げたってところかな」
「いったい、令子ちゃんに、なんの用があるっていうの。なにかしたのかな」
「知らないね。どうせ、たいしたことじゃないさ。気にするな」
 テーブルの下にかがみこんで、高志は紙袋をひっぱりだした。
「おまえ、なにからいく? ローストビーフは、今夜かたづけないと、ヤバいぞ」
「令子ちゃんが帰るまで、待ってあげようよ」
「あいつは、チョコレートがあればいいんだ」
 紙のトレイにつづいて、割箸が出てきた。
「ねえ、ケンキョーイってなんのこと?」
「おまえ、わかってなかったのかよ。県教育委員会のことじゃねえか」
「教育委員会がどうしたの?」
 高志がため息をつき、袋からとりだしたフランスパンで、慶一の頭をコツンとやった。
「おまえって奴は、ホントに、なんにもわかってないんだからな。なんで、こんなハンパなときに、女が入ってきたと思ってんだ」
 改めてそういわれると、よくわからない話だ。
「学校としては、共学のつもりで募集をはじめたんだ。でも、寮はヘッケルしかないから、おなじところに男女が住むわけで、そんなことをしたら、たちまち赤ん坊であふれかえることになる、なんていったかどうか知らないけど、とにかく、共学なら認可を取り消すってんで、県はさわいだわけだ。親父の話だと、ホントは、県ていうより、生徒をとられるほかの学校がさわいで、県会議員とかをけしかけたらしいけどな」
「思いだした! 入学案内! ハンコで訂正してあった」
「ちゃんと知ってるじゃねえか。だから、学校としてはしかたなく、一年目は男だけにして、急いで女子寮を建てて、とりあえず、むこうを黙らせたわけだ」
「ふーん、むずかしいんだあ」
「むずかしいもんか。寮長みたいに、単純に考えればいいんだ。おまえも食えよ」
 と、高志はローストビーフを慶一のまえの皿にとりわけた。
「クソ、食堂でフォークをくすねてくればよかったな」
 高志の箸のさきに、マヌケな刺身のように、ローストビーフがだらしなく垂れさがった。
 紫の闇のなかに、濃淡のブルーの諧調が切れぎれにのこる空を見あげ、慶一は、あすまで梅雨の中休みがつづいてくれるように祈った。
「あっ、きょうは七月一日だ!」
「うん? それがどうした」
「最悪の記念日」
「なに?」
「去年のきょう、手塚のことで、呼びだされた」
 その一年後に、令子が寮長につれていかれたのは、なにかの因縁だろうか。
「そうか。日本公演の二日目か。クソー、まな板がいるな」
 手にしたサラミを一瞥し、高志はビュフェをふりかえった。
「そうだ、そうだ。去年のいまごろは、ビートルズが日本にいたんだ。今年はこないのかな……」
「もう、こないのとちがうか」
「まさか! ……そう思う?」
「もう丸一年、どこでもやってないんだからな」
 つねづね心配していたことを高志が口にしたので、慶一はイヤな気分になった。
 いつも楽観的な「ミュージック・ライフ」ですら、解散説を記事にしていたぐらいだ。もちろん、解散しないという結論になっていたが。
「冗談じゃないよ。あんなイヤがらせをするからいけないんだ! フィリピンもだよ。ジョンに石ぶつけるなんて!」
 日本のあと、フィリピンにまわった四人は、大統領の招待を断わったとかで、空港で群衆に投石され、命からがら脱出するはめになった。
「アメリカだっておなじことだ。石はぶつけなかったかもしれないけど、レコードを燃やしたんだからな」
「レコードを燃やすなんて! どこの国も野蛮人ばかりだ」
 ジョンが、キリストよりビートルズのほうが有名だといったせいで、去年の夏のアメリカ・ツアーは、もうすこしで中止になるところだった。南部では、ラジオの呼びかけにこたえて、ファンがビートルズのレコードを燃やしたそうだ。
 ジョンは事実をいっただけで、それに反対する人間のほうがおかしい。たとえば、日本を見ればいい。キリストの支持者より、ビートルズの支持者のほうが何十倍、何百倍も多いだろう。
 アメリカは広いから一概にはいえないが、それでもこの一件は、慶一のアメリカに対する幻想を打ちくだくのに充分だった。
「なんだか、ほんとうに、もうこないような気がしてきた。おれがジョンなら、どこにもいかないよ。レコードつくったり、テレビに出たりなら、石はぶつけられないもの」
「それだって、いつまでつづくかな」
 器用にナイフをまわし、高志はフランスパンをえぐりとった。
「まさか! 解散はないって書いてあったじゃん」
「火のないところに煙はたたない。火があったかもしれない。人間て、気が変わるからな」
「だって、ビートルズだよ!」
「ビートルズだって、永遠てわけじゃない。エーイ、もう、マヨネーズをどこへやったんだ」
 なかなかもどらない令子のことが心配になり、慶一は背後をふりかえった。
 いつのまにか、まだらにのこっていた空の光も消え、サロンのなかが奇妙に明るく見えた。
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26

夏の通り雨に追われて
きみとぼくと、
そして屋根をうつ雨

〈レイン・オン・ザ・ルーフ〉
ラヴィン・スプーンフル
[#改段]
 梅雨時に生ものを買いおきにもできず、翌日の午前中は、また買いだしで大いそがしになってしまった。
 高志は、「うさぎ屋がユニオンの支店になる日」という物語を、大船との往復のあいだ、えんえんと話しつづけた。うさぎ屋は、いつも彼らが買物にいく、山むこうの食料品店兼雑貨屋、ユニオンは元町のスーパーマーケットだ。
 どういえばいいのか、うさぎ屋がユニオンになるというのは、きみの通った市立小学校の校庭が、突然、ジャイアンツのホームグラウンドになる、なんて事態に似ているかもしれない。
 買物に手間どったのと、令子がヘビをこわがったために、尾根道を二キロほどいかねばならない、NHKの中継所がある山はあきらめ、手近なところですませることにした。
 その昼食もすでに終わりに近づき、令子はメロンに手をつけるまえに、鶏の骨だの、パンの食べのこしだの、空き缶だのといったゴミを片づけにかかった。
 座の中心におかれたラジオからは、スティール・ドラムののどかな音が流れている。
 知らない曲だが、慶一の耳は、グレアム・ナッシュのハイ・ハーモニーと、ボビー・エリオットのスネア・ワークを聴きわけ、ホリーズの新曲だろう、と考えた。どちらも、地平線を歩くキリンのようにめだつので、ブラインドテストとしては初歩の部類だ。
 表の網目が見えそうになり、慶一はあきらめて、メロンの残骸をひざのまえにおいた。
「慶一さん、これもどうぞ」
 令子は笑いながら、小さなまな板にひとつのこっていた、四分の一に切ったメロンを示した。
「どうしておまえは、そういうふうに、慶一にばっかサーヴィスするんだ」
「はいはい、いま、切ってあげます」
 令子は真新しい果物ナイフを手に、これまた真新しいまな板にのったメロンを、ふたりから文句がでないように、慎重にふたつに断ち割り、八分の一にした。
 高志は、きのうの夕食――といっても寮の夕食ではなく、その後の彼ら独自の「夕食」のことだ――で、食べ物以外のものを買ってこなかったことにこりて、きょうはまな板、敷物、さらにはバスケットにいたるまで、徹底的に買いこんだ。
「あら、あの鳥、なにかしら」
 令子の視線のさきに、大きな鳥が羽ばたきをとめ、右まわりに環を描きながら滑翔していた。
「鷹かな……」
 八分の一のメロンをとりながら、慶一がつぶやく。
「バーカ。トビじゃねえか。さっき、啼いてただろ」
「トビって、こんなところまで飛んでくるの?」
「こんなところまで飛んでこないなら、なんであそこに飛んでるんだ」
 タイミングよく、「ええ、飛びますよ」とでもいうように、トビがとぼけた啼き声をあげた。
「ほら、みろ。鷹があんな声だすか。だいたい、トビは海鳥じゃない」
 慶一がトビを鷹とまちがえたのは、目のまえの景色のせいもあった。
 彼らが坐った一〇メートルほどの低い崖の下は、いちど平らになって、さらに段差をくだると、未舗装の道路になっている。
 そのむこうは、一段あがって平らな土地がつづき、というように、複雑に山がけずりとられていて、酔っぱらってでもいれば、西部の荒野に見えるかもしれない。
「それにしても、いつのまに、こんなになっちゃったのかな」
 かりにこの崖の上から、中西太が場外ホームランを打ったとしたら、テニスコートかプールにボールが落ちるぐらいの、ほんのわずかに学校の敷地を出ただけの場所だが、めったにくるようなところではないし、山にへだてられているので、慶一は今日ここにくるまで、これほど開発が進んでいるとは思っていなかった。
「でもさ、高志、卒業するころっていってたじゃん」
「これは、べつだ。親父のもってた地図があってるなら、たぶん、これはいまやっているぶんだけで、おしまいじゃねえのかな。あっちは、この何十倍って土地を裸にするんだ」
「何十倍はないでしょ。そんなにやったら、海までとどいちゃうよ」
「ああ、そうだよ。杉田あたりまで、ずっとだ」
 慶一は、高志のいうことを真に受けていいものか迷った。いったい、杉田まで何キロあるんだろう。とほうもない広さになる。そんなところに団地がずらっとならんだら、横浜市のなかに、もうひとつ横浜市ができてしまう。
「学校、大丈夫かしら」
 令子がぽつんといった。
「なにが?」
「だって、男子寮のウラからブルドーザーが攻めてきたら、校舎が崖から落ちそう」
 高志も慶一も、ばかばかしい、というように笑い飛ばしかけたが、令子の空想に現実の影をかいまみて、不吉なものを感じた。
「ヤバい。シャーベット食うなら、早いとこ片づけたほうがいいぞ」
 メロンを矢印にして、高志が南西の空を示した。
 この造成地の反対の端をくぎっている、まだ裸になっていない山のむこう側から、うすずみ色の雲がひろがりはじめ、彼らの頭上の白い雲を侵食しようとしている。
 味わうことなど考えず、大急ぎでメロンを片づけ、慶一が視線をあげると、山のこちら側に雨のカーテンがりだし、あっというまに周囲が暗くなってきた。
 高志はなにもいわず、ゴミ袋にメロンの皮と紙の皿を放りこみ、令子は果物ナイフをさやにしまい、まな板をビニール袋に入れた。
 ひとつのこった慶一の皿が、パチンと音をたて、雨雲の先端が頭上に達したことを告げる。
「クソ、近くで買物できれば、こんなにあわてなくてすんだのに」
 腹立たしげにいって、高志が〈ライト・マイ・ファイア〉を流していたラジオのスウィッチをきり、ナップザックにしまった。
 令子が、赤ん坊でも入れられそうな、大きなとうのバスケットを手にしたのを見て、慶一が、
「それ、おれがもつよ」
 と奪いとった。雨のなか、ちょっとした斜面をのぼらなくてはならない。
「でも……」
「じゃ、おれのナップザックをもって」
「そうしろ」
 といいながら、高志が真新しいギンガムチェックの敷物をふりあげ、令子とじぶんにかぶせた。
「おまえも入れ」
 ためらっている慶一の尻を叩くように、周囲の草むらや木立こだちを打つ雨音が高くなり、しかたなく、令子がさしかけた布の端に飛びこんだ。
 丘を大きく迂回する道をとらず、三人はクヌギやカエデのあいだをぬって、ゆるやかな斜面をいく。慶一はじぶんのことより、スカートをはいている令子が心配で、足もとばかりを見ている。
 やがて傾斜が急になり、そこをすぎると、舗装したせまい尾根道に出た。
 すぐにテニスコートの上にたどりついたが、コートへの急な斜面は、令子にはおりられない。
 尾根道をくだりきると、三人は反転し、ささやかな校門を通って、小庭園に入った。小さなひょうたん池をやくす、短いたいこ橋を越え、石段をのぼっていく。
「東屋だ」
 高志にいわれるまでもなく、慶一もそのつもりだった。
「まいった、まいった」
 東屋に入ると、ビニールコーティングした敷物を投げだし、高志が笑った。
 慶一は腰掛けにバスケットをおき、ぬれてまずいものがないか、なかを点検した。
「でも、ちょうど食べ終わるところで、よかったよ」
 慶一と令子が角をはさむかたちで坐り、高志は令子のとなりに腰を落ちつけた。
「ああ、円海山えんかいざんまでいってたら、いまごろ、ひでえことになってたな」
 高志がナップザックからラジオを出し、ぬれていないことをたしかめ、スウィッチを入れると、グラス・ルーツの〈レッツ・リヴ・フォー・トゥデイ〉が飛びこんできた。
「これじゃあ、きょうはもう、プールはむりね」
 令子のがっかりした声に、慶一もため息をついた。
 せっかく、こうして令子と休日をすごせるのに、こうなってはサロンあたりで、またケンキョーイがよろこぶ男女交際をするしかない。
「不純異性交遊の反対って、なんだろう」
 あとさきを考えずに、慶一は考えていたことを、そのまま口にした。
「ん? なに考えてんだ、おまえ」
「きのう、寮長がいってたじゃん」
「なんだっけ」
「いいよ、もう。たいしたことじゃないから」
 ふてくされた慶一の顔を見て、令子が笑いをかみ殺していった。
「不純の反対は、純粋しかないでしょう」
「じゃ、純粋異性交遊? ヘンなの。ま、いいか」
 令子のうしろで、いまが盛りの紫陽花が雨にうたれている。
 信用金庫のロビーかなんかに、よくこんな画題の水彩が飾ってあったりする。でも、絵にしたら陳腐だろうが、背景はともかく、こうして目のまえにいるモデルは、陳腐な絵にしたくなるほど素晴らしい。
 慶一に見つめられて、令子は思わず視線を落とした。
「兄さん、血が出てる」
「ああ、笹かなんかで切ったらしい。どうってことないさ」
 腰掛けを押さえた高志の左手首が、三センチほど切れて、血をにじませていた。
 高志は、その左手を令子の視線から隠すように腰掛けから離し、
「腹いっぱいで、眠い」
 といって、令子のひざに頭をのせて横たわり、柱に足をかけた。
「まだ、シャーベットがあるのよ」
 令子のようすからして、高志の枕になるのは、きょうがはじめてではないらしい。
「うん。あとで食う」
 目をつぶった高志の顔を、おだやかな表情で見つめる令子の横顔を見ているうちに、慶一は、賛嘆と嫉妬となつかしさがいりまじった、複雑な感情の渦巻にとらえられた。
「高志の奴、令子ちゃんにもひざ枕させてるんだ?」
「ええ。でも、ひさしぶり。子どものときに、姉さんが甘やかしたんで、クセになってるんです」
「きこえてるぞ」
 と、高志が目をつぶったままつぶやき、令子と慶一は声をそろえて、静かに笑った。
「おれも枕にされてばっかで、まだいちども高志を枕にしたことない。頭にくるよ」
「じゃあ、こんど、おわびに慶一さんも寝かしつけてあげます。きょうはもう、ダメですけど」
「きこえてるぞ」
「うるさいな。早く寝ればいいじゃん。寝たら、起きなくていいよ」
 半月ほどまえに初登場したと思ったら、すぐに日になんども耳にするようになった、〈ア・ホワイター・シェイド・オヴ・ペイル〉の、冷たく澄明なオルガンが流れはじめた。
 ワラがききとったところによると、プロコール・ハラムという名前らしいが、ワラにも意味がわからず、辞書にもそんな単語は見あたらず、歌詞もチンプンカンプンだそうで、イギリス出身ということしかわからない、なぞのバンドだ。
「慶一さん、さきにシャーベット食べますか」
 それほどほしかったわけではないが、令子が食べたいのだろうと、慶一はバスケットに手をかけた。
 そのとき、どこからか、複数の人間が走る足音とともに、ワアとか、キャアとかいう声がきこえてきた。それはいちど遠ざかってから、すぐにまた近づいてきた。雨音をぬって、こっちこっち、と叫ぶ男の声がきこえる。
「あれ、まいったな」
 と声に出したのは慶一だが、東屋に飛びこもうと走ってきた、びしょぬれの男女も、なかの人影を見て、まいったな、という表情で、その場に凍りついた。
「ひょっとして、お邪魔かしら……」
 と、入口に立った高橋路子先生が、ばつの悪そうな顔でいった。
「ええ、邪魔です」
 という高志の声に、入口の男女を見ていた慶一が、思わずふりかえった。
「まあ、そう冷たいことをいうな。こっちはズブぬれなんだから」
 と、テューターの芝が、精いっぱいあわれな声でいう。
「どうしたものかな。――慶一、どうする?」
「だいたい、ここは高志のうちじゃないんだから、追い返すわけにもいかないじゃん」
 慶一は、この組合せが面白くて、ちょっと遊んでみたくなった。
「そう、滝口のいうとおりだ。おまえは立派な人間になる。――さあ、ちょっと休みましょう」
 高橋路子先生は、あまり気が進まないようすだが、芝にうながされ、しかたなく歩きだした。
 ふたりは、あいていた慶一のむかいの腰掛けに、ならんで坐った。
「先生たち、どこにいってたわけ?」
 と、慶一がふたりの姿をしげしげと見る。
 芝は、長袖のチェックのネルシャツ、わきにポケットのついたズボン、登山帽、登山靴、それにリュックサックまでかついで、まさに登山そのままだし、高橋路子先生も、すねのところまでのスラックスに、スニーカーというかっこうだ。
「あっちの造成地に、いい地層が出てるんだ」
「え?」
「化石見つけちゃったのよ。ハイガイっていうんですって」
 高橋路子先生が補足をして、腰掛けにおいた赤いナップザックの口を開いた。
「へえ、じゃあ、化石を採りにいったんだ。なんか、さえないデイト」
「おまえらこそ、こんなところにピクニックじゃ、あんまりパッとしないな」
 と、芝が逆襲する。
「あ、否定しませんでした。やはり、これはデイトだったのです。このふたりは、いつのまにくっついたのでしょう。油断もすきもありません。これで、高橋路子先生の化粧のナゾも解けました。やはり、男のせいだったのです。――浅井先生、ふたりのゴールインはいつごろでしょう?」
 慶一が、架空のマイクを令子と高志の中間にさしだした。
「化石なんか採ってるんじゃあ、絶望的だな」
 高志がつまらなそうにこたえる。
 カップルの表情は、驚きから怒りへ、そして羞恥へと、一瞬のうちにスライドした。
 まだ寝ころがったままの高志の二の腕を、わるいわよ、というように、令子が軽くはたく。
「じゃあ、きくが、おまえらのほうは、いったいどういう種類の組合せだ」
「どう見える?」
「邪魔者つきのデイトってところか」
「ウーン、微妙なところ」
 といってから、慶一は、芝の目に映った邪魔者は、高志とじぶんのどちらなのかと考えた。
「ああ、わかったわ」
 と、高橋路子先生がいたずらっぽく笑った。
「あなたが “令子ちゃん” ね。そうでしょう?」
「はい」
「なるほど。滝口さんのいうとおりね。やっぱり、お母さまによく似てるわ」
 どういうこと、とでもいいたげに、令子が慶一を見た。
 慶一は、高橋路子先生が爆弾になる可能性に思いいたった。ラジオから、トレメローズの〈サイレンス・イズ・ゴールデン〉が流れてきて、慶一は、まったくだ、と同意した。口をつぐんでいるにかぎる。
「母をご存知なんですか」
「以前、ごあいさつしたことがあるだけよ。ほら、お宅のそばの教会のバザーで」
「ああ、そうなんですか」
「お母さま、お元気? ごぶさたしていて……」
「はあ……ええ、元気にしています」
 クソー、おれの頭越しに井戸端会議をするな、とつぶやいて、高志が起きあがった。
 慶一のほうは、このふたりを招き入れたのを後悔しはじめていた。
「でもさ、冗談抜きで、いつのまに知りあっちゃったわけ」
 逆転した攻守を、なんとか、もういちど逆転しようと、慶一が攻撃をはじめた。
「あのな、寮と学校の教職員合同会議だってあるし、教職員交歓旅行っていうのもあるんだ。おまえたちは知らないだろうけどな」
「へえ、それじゃあ、おれたちのこと、みんな筒抜けなんだ?」
「ああ、要注意人物については、つねに情報交換をおこたっていない。おまえが去年よりドラムがヘタになったことだって、ちゃんと知ってる」
「会議で、そんな話がでるわけないじゃん!」
 慶一は、高橋路子先生をにらんだ。ふたりでいて話題に困ったときに、共通して知っている生徒をさかなにして、まをもたせているにちがいない。
 高志が立ちあがり、バスケットのふたをあけ、発泡スチロールの円筒形の箱を出した。
「なにやってんだよ?」
 慶一は、高志が寝ぼけたのかと思った。
 高志は無言でシャーベットをふたつ出し、ドライアイスの冷気をたなびかせながら、職員カップルに歩みよる。
「さあ、これあげるから、ふたりでどっかいって、コソコソ食べればいいでしょ」
「おまえ、この雨のなかを出ていけっていうのか」
「ひとっ走りすれば、すぐ校舎でしょうが。日曜の校舎なんて、人けはないし、物理実験室には鉱物標本もあるし、図書室には図鑑もあるし、医務室にはベッドだってあるんだから」
「あのな、浅井。いっていいことと――」
「冗談、冗談。化石なんか採ってるアヴェックを、だれが本気にしますか」
 なにか一撃くらわせようと、芝は高志をにらんだが、ここにいては、じぶんのほうの関心事も進展する可能性がないことに思いあたったのか、渋い顔でシャーベットを受けとった。
「休日の生徒を見張るのもヤボだから、退散することにしましょうか。こいつ、おそろしく剣呑けんのんな奴で、教師のひとりやふたり、気に入らなければ、叩き出すのはわけない、なんていうんですからね」
 高志がクスクス笑いながら、いくらなんでも、ふたりいっぺんはムリだ、とつぶやいた。
「そうね。滝口さんをからかう材料もできたし、わたしはそれでも……」
 ふたりは立ちあがり、出入口に歩みよった。
「滝口さん、あしたのレッスンは出るんでしょうね」
「はいはい、出ますよ。いっておくけどさ、先生、ほかの連中のまえで、よけいなこといったら、相討ちになって、ふたりでバカさらすことになるからね」
「ええ、わたしもそのことをいってるの。じゃあ、ごゆっくり。シャーベット、ごちそうさま」
 いちど軒から空を見あげ、ふたりは小走りに飛石をつたって、三人の視界から消えた。
「まったく、きのうから、邪魔ばっか入るな」
 そういって、高志はさっきまでとおなじように、令子のひざに頭をのせて横たわった。
 ラジオからは、〈サムバディ・トウ・ラヴ〉を歌う、グレイス・スリックの声が流れてくる。
「慶一さん、レッスンて、なんですか?」
「ドラム。ここのところ、バンドのあいまに、またブラバンにも顔をだしてるんだ」
「へえ、大いそがしなんですね」
「令子は知らないけど、去年、慶一があの先生に夢中になって、エラい騒ぎでな」
「へえ、そんなことがあったの」
 と、令子は高志に顔をむけたまま、目だけを慶一のほうにはねあげた。
「だれも、夢中になんかなってないね。すぐ、話をふくらませるんだから」
「こいつ、いろいろ考えるんだけど、結局はひとりじゃどうにもならなくなって、最後はいつも、おれに泣きつきやがるんだ」
 高志はニヤッと笑い、令子はおかしそうに、また慶一を見た。
 慶一は突然、高志がどこに話をもっていこうとしているのかに気づき、立ちあがった。
「おまえのことだって――」
 ゴールまえのスクラムからこぼれ出たボールをもって、ポストわきに飛びこもうとするナンバー8のように、慶一が高志にむかって突進し、両手で口を押さえこんだ。
 その瞬間にも、令子にぶつかってはいけない、という意識が働き、慶一はじぶんの躰にすこし回転をあたえ、衝突を避けようとした。
 たしかに、令子にはほとんど衝撃をあたえなかったが、物理法則が無効になったわけではないので、慶一の躰は高志のアゴを軸に回転し、横たわった高志を飛び越え、背板とその上の細い丸太に、ひざから肩までを、イヤというほど叩きつけた。
「イッテエー」
「このバカが!」
 どこかで、なにかがきしむ音がした。
「キャッ」
 あっというまに音が大きくなり、背板が丸ごと外へむかって倒れた。
 背板と高志に、半々に体重をあずけていた慶一が、支えを失って転がりはじめ、あわてて高志にしがみついた。
「あー!」
 背板が倒れた瞬間、令子は柱をつかんでじぶんを支えたが、慶一にひっぱられた高志の頭が、ひざから腹へとローラーをかけるように転がってきては、彼女の筋力ではどうしようもなかった。
 だれも、こうした順序を正確に把握していたわけではない。結局は、多少のズレはあるにしても、ほとんど同時に、三人とも東屋の外に投げだされていた。
「苦しいよー」
 令子と高志の下敷になった慶一が、もがきながらうめいた。
「この大バカヤロー! そうやって、しばらく反省してろ。――令子、大丈夫か」
「ええ、でも――」
 こらえきれず、令子が吹きだし、それにつられて、高志も笑いだした。
「どいてくれよ!」
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27

甘くやさしい
夏の夜
星明かりに踊る
影と影

〈ディスタント・ショア〉
チャド&ジェレミー
[#改段]
 教育委員会がどう考えようと、寮というのは、「異性交遊」には向いていない。
 なんといっても、ふつうの学校の場合、平日でも放課後にいろいろなことが起こるチャンスがあるが、ここではそんな余裕はない。
 高志や慶一のような例外はあるが、建前では、全員がなにかのクラブ活動に参加しているはずなので、平日の場合、夕食までは、だれもがいそがしくすごすことになっている。
 夜になればなったで、こんどは自習時間というやつがあるので、夕食後の三〇分と、八時半からの休憩の三〇分しか、自由になる時間はない。これだけの時間では、不純だか純粋だか知らないが、「異性交遊」どころではない。
 ただし、いつもいつも、こうしたパターンばかりではない。そして、このパターンをはずれたときは、長い乾期のあとのように、チャンスの集中豪雨がやってくる。

「義晴、かわれ」
 カモの流れがとぎれたところで、高志はそれまで坐っていた、シイの木のいちばん下の太い枝にぶらさがり、足もとをたしかめ、飛びおりた。
 かわりに義晴が木に抱きつき、両足を使ってにじりあがり、枝に手をかけた。
「クソ、たかが木に坐ってるだけで、こんなにケツが痛くなると思わなかったな」
 高志は腰を伸ばすと、慶一の坐っている、アケビの木のうしろにまわりこんだ。
「おれ、もう、イヤんなった」
 といって、慶一がオレンジジュースの缶を高志にさしだした。
 試胆会もなかばにさしかかり、どこのお化けも、そろそろダレるころだ。ここは地獄の四丁目で、彼らはぬれ雑巾を担当している。
「じゃあ、帰っていいぞ」
 そうしたいのはやまやまだが、どうせなら、令子の組がくるまで待ちたい。
 あちこちから、悲鳴やら、歓声やら、怒声やら、黄色い声やらが響いてくる。
 すぐてまえのポイントは、去年、慶一が転んだマットレスのワナで、ここでは大きな悲鳴があがる。
 いちど転んだ人間というのは、どうしても足もとに注意をうばわれる傾向があって、ぬれ雑巾などというバカげた道具でも、たいていの場合、彼らは大きな戦果をあげている。
「あ、知子ちゃんの声だ……。ねえ、高志。ここは義晴にまかせてさ、彼女たちのあとをつけてって、沼かなんか、いかない?」
「うーん、まあ、いいけどな。――義晴、知子をねらえよ」
「いわれなくっても、そうします」
 樹上の義晴が、いまにも笑いそうな声でこたえた。
「おまえ、あいつになんか恨みでもあるのか」
「大ありですよ!」
 数人の女の子が、潅木で目かくしされた角をまわって、口ぐちになにかいいながら、彼らが隠れているシイの木にむかって進んできた。
 慶一は月明りのなかで、知子のうしろに、令子が郁子とならんで歩いているのを確認した。
 なんだか知らないが、恨み骨髄らしい義晴が、正確に、そしてすばやく棒をおろし、その先端にひもでむすんだぬれ雑巾で、知子の首をひと撫でした。
 人間の可聴域の上限を突きやぶりそうな周波数で知子が絶叫し、あとはもう、どれがだれの声ともわからない阿鼻叫喚あびきょうかんとなった。
 だれかが走りだし、それに引きずられて、全員が小走りで逃げだした。
「ヤバい。早くいこうよ」
 と、慶一が高志の二の腕に手をかけ、木陰から立ちあがろうとする。
「おまえ、ひとりでいけ」
 高志は立ちあがらず、慶一の背を押した。
 ちょっとためらったが、こうしているあいだにも、令子は遠くにいってしまう、と思い、慶一は高志をおいて、アケビのかげから飛びだした。
 令子はまだ、思ったほど遠くにいっていなくて、慶一はすぐに追いついた。
 うまいぐあいに、しんがりを歩いている。しかも、ちょうど暗がりにいる。
 慶一は、殺人者のように令子に忍びより、口を手で押さえて、一気に笹のかげにひきずりこんだ。
「静かに、おれだよ」
「慶一さん! 放して」
 ほんとうに殺人鬼に襲われたかのように、令子はひどくもがいた。
 これがいけないんだと、慶一はあわてて、令子をはがいじめにしていた腕をといた。
「静かに。たのむから、落ちついて。エート……ちょっと、散歩なんか、どう?」

 試胆会のコースは、男子寮うらの尾根道を通り、途中で折れ曲がって寮へもどっていくが、ふたりはそのまま尾根道を歩きつづけ、コースをはずれた。
「まだ、ドキドキしてるわ」
「ゴメン。あれしか思いつかなかったんだよ」
 令子の感触と、甘ったるい髪のにおいを思いだし、こんどは慶一の鼓動が速くなった。
「令子ちゃん、あしたの午後はなにしてるの。ひまだったら、泳がない?」
 試験後の三日間、水泳部の練習が終わる三時からは、自由に泳いでいいことになっている。
「ええ、いいですよ……」
 ホー、ホーという啼き声に、令子が慶一のひじの手をかけ、立ちどまってしまった。
「大丈夫、フクロウだよ」
 フクロウって、ヘビを食べるんじゃなかったかな。それなら……。
「ヘビでも探してるんじゃないの」
「帰りましょう!」
 令子はまわれ右をして、慶一の手をひっぱった。
 手については、慶一のもくろみどおりだったが、帰るといいだすとは思わなかった。でも、手を放すよりは、帰るほうがマシだ。
 試胆会のコースにもどるまで、ふたりはあまり口をきかなかった。
 彼女の頭をなにが占領していたかはわからないが、慶一の頭を占領していたものは、明瞭すぎるくらい明瞭だった。
 令子の口をふさいだときから数えて、いったい、どれだけの箇所にふれたのか、そのすべてを忘れないように、ひとつひとつ、なんども確認していたのだ。
 静かな風が令子の髪のにおいをただよわせ、慶一は握りしめた令子の手に目をやり、そして、さえぎるもののない夜空を見あげた。
「これだったんだ……。でも、こんなだとは思わなかった」
 慶一のつぶやきに、令子がいぶかしげに目をあげた。
「なあに?」
「いつも、いろんな歌を聴いたり、うたったりしててさ……ああいう歌詞がいってるのが、なんのことかわかったんだ」
 もちろん、ラヴ・ソングは一種類ではない。でも、うまくいかなくなったときのことなど、気にしてもしかたない。

 翌日の午後、バンドの半分、慶一と柾生のジャッケル組は、ヘッケルからくる服部や野瀬と待ちあわせるために、ギターをもってサロンにおりてきた。
 今年からサロンにもステレオがおかれ、いまもビートルズの新作『サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を流している。この十数日、地上からほかのLPがすべて消滅してしまったのかと思うほど、どこへいっても、こればかり聴こえてくる。
 どうせ服部たちはまだだろうと、たかをくくって、慶一は見るでもなく、さっと、サロン内に視線を走らせた。
 テラスよりのテーブルに、令子がひとり、ぽつねんと坐り、こちらを見ていた。
「あれ、制服なんか着て、どっかいくの?」
 大股に令子のテーブルに歩みよると、ギターをとなりのイスに立てかけて、慶一は彼女の正面のイスをひいた。
「ええ、ちょっと用があって、家に帰るんです」
「外出、外泊?」
「さあ……いちおう、外泊の許可をもらったんですけど、早ければ、今晩おそくには……」
「今夜は、バーベキューなのに……」
「ええ、がっかりですね」
「あしたの夜は大丈夫?」
「ええ、たぶん。楽しみにしています。がんばってくださいね」
 昨夜のことがあるので、どうしても令子のくちびるから目を離せず、それを気づかれそうな危うさをおぼえ、慶一はだんだん落ち着きを失いはじめていた。
「高志を待ってるの?」
「いいえ。タクシーを呼んだんです」
 近くのバス営業所にタクシーがあるので、みな出はらっているのでもないかぎり、電話をしてから五分以内にくるはずだ。
「もう、夏休みだね」
 そう口にしてから、慶一自身、じつに莫迦ばかげたセリフだと思った。
「ええ、そうですね」
 車の音がして、慶一は玄関のほうをふりかえった。タクシーがせまい玄関まえできりかえし、マーキーにむかってバックしてきた。
「じゃあ、あした、楽しみにしてますから」
 令子が立ちあがり、慶一はあわてて上体をのばし、彼女のバッグをつかんだ。
「送っていくよ」
 拒否されるまえに、慶一はさきに立って歩きはじめていた。ちょうど、ステレオから〈シーズ・リーヴィング・ホーム〉が流れはじめたところで、慶一は、令子の場合はちょっとちがう、〈シーズ・ゴーイング・ホーム〉だ、と笑いそうになった。
 自動販売機にもたれかかって、コーラを飲んでいた柾生が、ベルボーイのような慶一のすがたを見て、おやおや、というように、ちょっと目をむいてみせた。
 梅雨が明けてから、今年は異常な猛暑がつづいた。きょうは三〇度をすこし超えるていどで、ふつうの暑さだったが、玄関を出ると、強い照り返しにあって、ふたりとも目を細めた。
「じゃあ、気をつけて。あすの夜には、ちゃんと帰ってくるんだよ」
 ドアが閉まり、令子が運転手に、磯子までやってください、というのがきこえた。
 車が坂のなかばに達したのを確認すると、慶一はきびすを返し、そのまま玄関を通り抜けようとして、寮長室の応接セットに、向こうむきに坐った寮長の頭が見え、あわてて下足室にむかった。
 それにしても、磯子ってなんだろう。知らないあいだに引っ越したのか、それとも親戚のだれかの家なのか。高志にきいてみなくては。

「じいさんの家だ。もう死んだから、いまは、ばあさんの家だけどな」
 令子と慶一がプレゼントした帽子を顔にかぶせ、ベンチに仰向けに寝転がった高志が、うるさそうにこたえた。強い陽射しにあぶられたその裸の胸には、小さな汗の玉が、無数に浮きはじめている。
「おばあさんに、なんの用があるわけ?」
「なんの用もない。母親が帰ってるんだ」
 いちどは納得したような気になったが、慶一はすぐに、それでは返事になっていないことに気づいた。
「帰ってるから、それでなに?」
 だれかが五メートルの飛込台から飛びこみ、その飛沫がふたりのところまで飛んできた。
「バカヤロー、腹うって、死んじまえ!」
 顔をおおった帽子をあげもせず、高志が怒鳴った。
「ヤマだよ。腹をうったぐらいじゃ、死にっこないって」
 五メートルの飛込台の上では、ワラと義晴がジャンケンをしている。バカじゃなかろうか。
「やっぱり、令子ちゃん、ヘンだよ。電話ばかりしてるし、このあいだは帰寮が遅れたし、きのうは、外泊日でもないのに、家に帰ったじゃん」
 たぶん、ワラがジャンケンに負けたのだろう、飛びこむと見せて、義晴に体あたりし、ふたりがほぼ同時に水面に達して、はでな水しぶきをあげた。
 高志と慶一のいるあたりは、至近弾をかわして進む巡洋艦のブリッジという様相になってきた。
「まったく、どいつもこいつも」
 高志は上体を起こし、両ひじをベンチにつき、帽子のつばをはねあげた。
「いっておくけどな、他人の家のことをあれこれほじくりかえすのは、あんまりいい趣味じゃないぞ」
 そういわれれば、たしかに悪趣味なので、慶一は口をとがらせたが、反論はしなかった。
「いま、家がごたごたしてる。令子はずっと、母親にふりまわされてるんだ。帰ってこいとか、帰ってくるなとかな。それだけのことだ。終わり。質問はナシ」
 強引にきいても、こたえてくれるのは、せいぜい一回だけだろうと踏んで、慶一は高志のいったことと、令子の行動を考えあわせ、必死に効率のよい質問を考えたが、結局は、あたりまえのことが口をついて出てしまった。
「ひょっとして、別居しちゃってるんだ?」
 高志がうなり声をあげたので、なにかこたえてくれるのかと思ったが、またもとのように寝そべり、こんどは胸のまえに腕まで組んで、なにもいわないぞ、というかまえになってしまった。
「いいよ、いいたくないなら、しかたないけど、その “母親” っていうの、なんとかならないのかさ。お母さんとか、ママとか……」
 そういって、慶一は吹きだしてしまった。
「なにがおかしいんだ」
「だって、高志がママなんていうのを想像したらさ……」
「おかしくもなんともない」
 家のことで令子が苦労しているらしいのに、高志はいったい、なにをやっているんだ。高志が兄としての役割を放棄するなら、じぶんがかわりになってやる、と慶一は決心した。
 しょうこりもなく、ワラと義晴が、飛込台のハシゴを元気よく昇っていった。
[#改ページ]

28

理由なんてないし
真実は明らかだと
彼女はいったが
ぼくはトランプのなかを
さまようことになってしまった

〈ア・ホワイター・シェイド・オヴ・ペイル〉
プロコール・ハラム
[#改段]
 飛込台からジャンプする順番などという、どうでもいいことならかまわないが、出番を決めるのに、ジャンケンはないと、終わったことを、慶一はまだ悔やんでいた。
 たった一回、パーを出したばかりに、昨夜からずっと、軽音の仲間に会うたびに「やあ、前座」「おい、前座」「なあ、前座」などと呼びかけられ、慶一は人生の不公平を骨身に徹して思い知らされた。
 プールの管理棟屋上は、校舎うらの道路よりすこし高い平面にあり、数段の階段でのぼるようになっている。
 今夜はその階段の下に、いつもは県道からの道路のセンターラインにおかれている、「私道につき関係者以外侵入禁止」という、コンクリートの台のついた立て札がおかれている。
 今夜の管理棟屋上は楽屋がわりだから、混乱を避けるためにという名目で、その立て札をおいたのだが、じっさいには、ここが特等席だから、それを軽音楽部で独占しようというのが、ほんとうのところだった。
 その楽屋/特等席の、三つならんだテーブルの右端に、部員ではない高志と令子が陣どっていた。
「なんか、飲むもんないのかさ」
「おれも後悔してるんだ」
 デッキチェアに深く沈みこんだまま、高志がこたえた。
 慶一は、丸いテーブルの令子のとなり、高志のむかいのイスをひいた。床にたたんでおいてあった、じぶんのソフトケースを開き、ギターをしまいこむ。
「おまえら、売店でコーラ仕入れて、一本に十円のせて売れば、シンバルをもう一枚、買えたんじゃねえのか。ま、ジルジャンはむりだろうけど」
「そういうことは、早くいってほしいよ」
 ここから見て右側にあたる、プールサイドのグラウンドよりが今夜の「ステージ」で、いまはギターアンプやドラムを必要としない、知子と郁子のフォーク・デュオが〈サムタイム・ラヴィン〉を歌っている。
 首をかしげてあいさつしただけで、令子が口をきかないのは、たぶんそのせいだと、慶一はじぶんをなだめた。
 この「ステージ」とは、プールの水面をはさんだ反対側になる裏山よりには、四段六列のコンクリートのベンチがあり、そのうしろは裏山にむかって芝生の斜面がひろがり、二百数十人の全校生徒の大部分は、そのどちらかに坐っている。もっとも、三メートルと五メートルの飛込台から見おろしている奴も、けっこういる。そして、周囲には四つの石油缶がおかれ、蚊いぶしの煙をただよわせている。
「知子ちゃんて、歌うと、あんがい、かわいい声してるんだね」
 慶一としては、令子に話しかけたつもりだったが、こたえたのは高志だった。
「おかしな組合せだよな。声だけ聴いてたら、だれだってダマされるぜ」
「そんなこといったら、かわいそうよ」
 郁子が最後のオープンコードを弾き、ふたりが同時に深々と頭をさげた。
 令子と慶一が熱烈な拍手を、そして高志は、そんなに悪くはない、という拍手を送る。
 知子が、最後に〈鳩に餌をフィード・ザ・バーズ〉をうたいます、といって、郁子がギターで最初の音をあたえた。
「おれたち、どうだった?」
「柾生みたいにうたえる奴がいれば、とりあえず、聴けるに決まってる。服部もいい」
「おれは?」
「おまえは、ひょっとしたら、いいアレンジャーなんじゃねえのか。ピアノなしで、〈ホエン〉がなんとかなるとは思わなかった」
 例によって、〈忘れえぬ君〉などという恐ろしい邦題がついた、デイヴ・クラーク・ファイヴのバラッドで、ギター・コンボ向きの曲ではないが、慶一が強引にアダプトしたものだった。
「たしかに、片桐みたいには弾けないけどさ、そんな悪くもないと思うけどな」
「ギターのうまいへたなんて、関係ない。ギターでバンドのいい悪いが決まるんなら、じゃあ、ビートルズはなんだ。肝心なのは、きっちりしたビートと、いいヴォーカルさ」
「ほめてるのかさ、それで」
「ほめてるじゃねえか」
「だれを?」
「おまえのバンドをだ」
 高志のいうことは、慶一の自己評価とそれほどかけ離れているわけではなかった。ただ、高志のいいかたが、慶一の劣等感を刺激しただけのことだった。
「なあ、知子と郁子が帰ってきたら、ゆっくり話してなんかいられない。どっかへ消えよう」
「いいけど、おれ、いちど寮にもどらないと。ギターをおいてこなくちゃ」
 ギターをもったままどこへでもいけるのは、裕次郎と小林旭だけだ。
「じゃ、おいてこい。おれたちは東屋で待ってる。なんか、飲み物をもってきてくれないか」
「いいよ。令子ちゃん、なにがいい?」
「なんでも、慶一さんの好きなもので」
 管理棟のかげから出て、ステージが見える場所にくると、ちょうどエンディングで、拍手がわき起こり、深紅の蝶ネクタイをして、今夜のMCをやっているワラが、ワイアレスマイクごと手を叩きながら、中央に歩みでるところだった。蝶ネクタイ!
 はじめは寮にもどるつもりだったが、体育館敷地にさしかかったところで気が変わり、慶一は非常口から校舎に入った。カギをもっているのだから、ギターは部室においておけばいい。
 ギターを部室におくと、大部分の灯火が消された暗い廊下をたどって、反対側の非常口から外へ出た。
 車道からはずれ、小庭園に入ろうとして、また気が変わった。東屋の背板のことを思いだし、ちょっと、高志をからかってやろうと考えたのだ。
 いくら全身でぶつかったからといって、あんなに簡単に背板がはずれてしまったのは、それだけの理由があった。背板は釘づけになっているわけではなく、木組ではめこんであるだけで、いくらかゆるんでいたところに、慶一が思いきりぶつかったので、はずれてしまったらしい。
 だから修理も簡単で、高志とふたりで柱に押しつけ、二、三度たたくと、もとのように収まってくれた。
 だとしたら、また簡単にはずれるんじゃないだろうか。都合よく、高志があの背板にもたれていたら、忍びよって、一気にはずしてやれ、と慶一は考えた。
 小庭園への曲がり角を通りすぎ、しばらく車道をくだって、途中から土どめの石組にはいあがり、椿や紫陽花のあいだを抜け、音をたてぬよう、笑いをかみ殺しながら、慎重に東屋に近づき、慶一は、問題の背板のうしろになる、紫陽花のかげにうずくまった。
 思ったとおり、高志はこのあいだの背板にもたれかかっていた。令子がなにかいっている。
「……だから、あした、もどってこいっていうの」
「まいったな……。なんだって、そんなに急ぐんだ」
「知らないわ。兄さんだってわかってるでしょう、お母さんのことは」
 慶一が、そろそろ仕事にとりかかろうかと思ったところで、高志がため息をつき、ふたりとも黙ってしまったので、ちょっと動きにくくなってしまった。
「おまえの母親じゃなければ、蹴り殺してやる。おかげで、このザマだ」
「はじめから、慶一さんに話せばよかったのよ。わたし、慶一さんにわるくて、なんども話そうと思ったけど……」
「それで、どうなるっていうんだよ」
「慶一さんをだますようなことは、しないですんだはずよ」
「それで? それだけじゃないか。おまえがいなくなったあとで、おまえのせいで、慶一とおれがどうなるか、考えたことがあるのか」
 慶一は声をあげそうになった。令子ちゃんがいなくなるって、どういうことだ?
「それだけじゃない。おまえだって、慶一に話したあとは、ただじっとして、おふくろに引きずりもどされるのを待つだけだ。そんなことをして、なんになるっていうんだ」
「わたしがきたこと、まだ怒ってる……」
「そんなことはいってない」
「はじめから、こなければよかったのよね、わたし」
「もう、そのことはいいよ」
「わたしのこと、きらいになった?」
「やめろっていってるだろう。そういうことじゃないんだ」
 もう、慶一はいたずらのことなど、完全に忘れていた。いったい、なんの話をしているんだ。
 じぶんのあやうい状態に気づき、ふたりに見つからないよう、慶一は紫陽花のかげからのぞかせていた頭をひっこめ、耳だけを働かせることにした。
「おまえのことも、慶一のことも、じぶんのことも、ぜんぶ考えて、こうするのがいちばんいいと思ったんだ。いまでも、まちがってたとは思わない。慶一だって、おまえだって、いつかは、これでいいと思うようになったはずだ」
「そんなさきのことじゃなくて、いまのことはどうするの……」
 きいている慶一がじれったくなるほど、高志はなかなか返事をしなかった。
「……クソ、よく考えないとな……ひょっとしたら、まずいことになる」
「慶一さん、きっと、怒るわね」
 令子が大きなため息をもらした。
「だけどな、令子。おまえ、ほんとうにそれでいいのかよ」
「なにが」
「あんな女のいうとおりにして、後悔しないかっていうんだ」
「もう、してるわよ。でも、しかたないの。お母さんには、わたししかいなんだもの。お兄さんにはわからないわ」
 これまでのふたりの話から、大ざっぱに組み上げた絵が、いまの令子のことばで裏づけられ、慶一は落胆した。
 しゃがんでいる姿勢が苦しくなり、すこし躰を伸ばそうと、慶一は立ちあがった。
 充分に離れているつもりだったが、思いのほか長く伸びた紫陽花の葉先に肩をひっかけ、あわてた拍子にツツジに足をとられ、転びはしなかったものの、大きな音をたててしまった。
「だれだ」
 高志の声に、慶一は恐慌をきたし、あとさきを考えずに、やみくもに駈けだした。
 どこをどう通ったか、まったく記憶になかった。
 気がつくと、自室のベッドに坐り、すこしも考えがまとまらないまま、なんとか、さっきのふたりの話から、つじつまの合う全体像をつくろうとしていた。
 だが、すこし気分が落ちつくと、そんなことをやっている場合ではないことに気づき、慶一は必死で隠れ場所を考えはじめた。
 くるはずの慶一がこなければ、立聞きしていたのがだれかはわかってしまう。そうすれば、たぶん、高志はさがしにくるだろう。でも、いまは会いたくない。

 点呼の直前まで待って、慶一はジャッケルの屋上出入口の屋根を離れた。
 消灯までは、結局、どこをうろついても、高志に見つけられる可能性があると思い、屋上出入口でねばりつづけ、なんとか切り抜けた。問題は点呼のあとだ。
 高志は馬鹿じゃない。いくら逃げまわっても、点呼時にはかならずもどると考えるはずだ。じぶんも点呼時には自室から離れられないだろうが、点呼が終わりさえすれば飛んでくるだろうし、だれか一年生をいいくるめて、注進させるようにしているかもしれない。
 やはり、消灯後も二一二にはいられない。もう、屋上にはうんざりだったが、ほかにうまい隠れ場所も思いつかず、しかたなく、慶一はまた、ジャッケル屋上の出入口にはいあがった。
 東屋から逃げだしてから、もちろん、慶一の頭はひとつのことで占領されていた。
 高志と令子は、ふたりして自分をだました。ふたりのさっきの話だけでは、正確なことはわからないが、だいたいの想像はつかないこともない。
 慶一は、あまりのことに笑いそうになった。ひどく、じぶんがかわいそうだ。こんなとき、いったい、だれに話せば楽になるだろうか?
 決まっている。高志のほかに、こんなことを話せる相手はいない。これが、笑わずにいられるものか!
 はじめから、そうすればよかったんだ。
 決心がつくと、もう迷いはなかった。

 四〇七のヴェランダのドアは開け放たれ、ボンボンベッドに寝ている高志のすがたが、戸口からもはっきり見えた。
 慶一は室内に入らず、思ってもみなかったほど頼りなげな高志の寝姿を、しばらくじっと見つめた。
「そろそろ、おれのほうから、さがしにいこうかと思ってたんだ」
 高志が目を開き、慶一を見て、ニヤッと笑った。
「なんだ、起きてたのかさ」
 一歩だけ室内に踏みこみ、慶一は手足のやり場に困ったように、そこで立ちどまった。
「おまえがくるような気がしてな、だったら、わざわざ、さがすこともないだろ」
「どうせわかってるだろうけどさ、さきにいっておくよ。立聞きするつもりはなかったんだけど、まあ、そうなっちゃったんだ。それで、考えたんだけど――」
「なあ、慶一。これからひと泳ぎなんて、いいんじゃないか」
「え?」
「このクソ暑いのに、ここで話さなくちゃならないってことはないだろう」
「まあ、そうだけど……」
「じゃ、いいじゃねえか。ひと泳ぎして、頭を冷やしてから話そう」

 この時間でも、グラウンドから校舎うらに出る階段を照らす街灯や、プールの芝生の水銀灯はついているので、充分に明るい。
 管理棟の入口はしまっていたし、道路から直接プールサイドにおりる階段の門には、かんぬきがかってあったので、ふたりはグラウンド側の土手をたどって、植えこみのあいだからプールサイドに出た。
 裾幅が十六センチしかないホワイトジーンズを脱ごうとして、高志は片足で立ち、二、三歩バックステップを踏んで、飛び板に背中をぶつけた。
 慶一は、Tシャツ、ジーンズ、バスタオルと、ていねいにたたんだ上に、靴底を上にむけてスニーカーをおいた。万一、逃げなければならない場合にそなえてのことだ。
 高志が口を手で押さえ、いかにもおかしそうに、慶一の紺の競泳パンツを指さした。これがビキニの下だとしたら、かなり大胆な部類に入るほど、わずかな面積しかない。
「体育の授業かよ! 毛がはみでるぞ。ツンツルテンでよかったな」
「交通安全じゃあるまいし、そんなの穿いてたら、一キロさきからだって見つかるね」
 ツンツルテンという事実誤認に対する反論は放棄し、慶一は高志のオレンジ色のトランクスをねめつける。
「わかった、わかった。でも、そのヒモをまえに垂らすのだけは、かんべんしろよ。見まちがえるじゃねえか。ま、いくらおまえでも、そんなに細いわけないけどな」
 憤然として、慶一はパンツのヒモを内側にたくしこんだ。
「デカい音たてて、飛びこむんじゃねえぞ」
「わかってるよ。でも、消毒、大丈夫かな」
「ああ、休みに入ってからやるんだ」
 いつものように、無意味なことばをやりとりしているうちに、慶一はめまいのようなものを感じた。結局、なにも起こらなかったのと、おなじじゃないのか。
 水中に段のある側に、慶一はゆっくりと足から入っていく。すぐに、高志もハシゴを使って、飛込台のある深いほうへつかっていった。
 空気は微動だにせず、気温も高いので、水のなかはやはり気持ちがいい。
 慶一はゆっくりと、平泳ぎで高志のほうに向かいかけたが、高志のほうは、軽く抜き手をきって、スタートラインにたどりつくと、水中でターンし、二コースのあたりを、なかば本気で泳ぎはじめた。
 しかたなく、慶一もクロールにきりかえ、コースどおりに泳ぐことにしたが、一往復もしないうちに飽きあきし、浅い部分と深い部分の境のあたりでとまり、底に足をつけてしまった。
 高志が泳ぐすがたを見るのは、べつに今夜がはじめてというわけではないが、月明りのせいか、あるいは静寂のせいか、リズミカルなピッチに魅いられたように、慶一は立ちつくした。
 だが、すぐに見物にもあきてしまい、慶一は高志のスピードとコースを見きわめ、大きく息を吸いこみ、その場で深くもぐった。
 水銀灯のおかげで、水面はそれなりに明るいが、水中はそうはいかない。高志を待ち伏せるつもりだったが、慶一はすぐに方向感覚を失い、ただやみくもに突進した。
 気がつくと、高志が水をかく音はきこえなくなり、慶一は、息つぎのために水面に顔を出した。
 だれもいない静かな水面を、じぶんの起こした波紋が、むなしくつたっていく。
「高志?」
 叫びたくなるのをやっとの思いでこらえ、波紋に揺れる、水銀灯の光を見つめる。
「やめろよ、こんな冗談、面白くないよ」
 冗談に決まっている。だが、ひとたび不安にとらえられると、その爆発的な増殖をとめるのは不可能だ。
 深いほうにちがいないと直観し、慶一は大きく息を吸いこみ、飛込台の下を目指した。
 昼間だって、飛込台下の水中は明るくない。水銀灯も遠く、そのうえ、飛込台のかげになっているから、いまはほとんどなにも見えない。
 必死で両手を動かし、浮力に抵抗しながら、その手がなにかをつかんでくれるよう、慶一は祈った。
 だが、気が動顛どうてんしているので、酸素の消費量も大きく、すぐに息が切れ、慶一はいきおいよく水面に顔を出した。
「ダメだ。灯がなくちゃあ……」
 混乱する頭のなかで、管理棟屋上のフラッドライトを思いだした。あれしかない。
「なんか、落としもんか?」
 ふりかえると、三メートルほどむこうで、高志がニヤニヤしながら、立ち泳ぎをしていた。
「なんだよー、アセッただろー!」
「シーッ!」
「頭にくるなあ、本気で心配したじゃんかあ」
「予想以上の大成功でした。ま、ちょっと、あがろうぜ」
 短く笑って、高志は背泳ぎでプールサイドにむかう。
 慶一がハシゴをのぼり、プールサイドにあがると、高志がバスタオルを投げつけた。
「でも、どうして、あんなにうまく隠れられたわけ」
「ちょっとした、タイミングのずれだ。ラッキーなタイミングのずれ」
「おれの待ち伏せに気づいた?」
「ああ。それで、こっちももぐって、おまえのパンツ脱がせてやろうと思ったんだけどな。おまえが、もうちょっと待ってれば、おれのほうが降参して、あがってたはずだ」
「なんだ、それだけのことか」
 高志はベンチに腰掛け、かたわらにタオルを投げだした。慶一もそのとなりに坐る。
 ふたりの視野の大部分は、重く、大きい夜空が占めている。
 街なかの空とちがい、ここではどの季節も星がよく見える。冬のあいだは明瞭すぎて、つくりものめいて見えたり、宇宙空間に身をさらしているような不安をおぼえたりするが、夏になると適度に光が散乱し、安全な気分で天空の大きさを楽しめる。
 プールのむこう端を仕切る、アイスクリームのコーンを伏せてならべたような植えこみの先端と、巨大な空とにはさまれ、小さく、男子寮の上端の光がのぞいている。
「だいたいわかったと思うけど、ちゃんと知りたい」
 高志はすぐには話しださず、足を動かしたり、校舎を見あげたりして、思いまよっていたが、慶一はせかさなかった。
「おれの親父と令子のおふくろが離婚して、あいつは母親についていく」
「令子ちゃんは……」
「連れ子ってやつだ。……妹なんかじゃない。こうなれば、赤の他人だ」
 ほかに方法がなかったからだろうが、高志は慶一がいちばん知りたいこと、そして、できれば、最後まで知りたくなかったことから話しはじめた。
「バカみたいだ……」
 はだしではなく、そして、まわりがコンクリートばかりでなかったら、慶一はそこらじゅう、手あたりしだいに蹴とばしていただろう。
「さっき東屋で、いなくなるって……」
「うん、令子は転校するっていってる」
 ほかに解釈のしようがなくて、たぶん、そういうことなのだろうと推測していたが、それでも、改めて確認されるてみると、逆に信じられなくなった。
「……どうして? お金のこと?」
「いや。あいつの母親の兄貴っていうのが、ロンドンにいる。そこへいくんだ」
「そんな、だって、寮があるんだから、地球上どこだって、関係ないじゃん!」
 といいながら、逆にロンドンの遠さが痛いほどつよく感じられてきた。
「そういったさ、おれだって。でもな、あいつの母親ってのは、ケタのちがうわがままなんだ。令子はドレスかバッグみたいなものさ。じぶんがいくところに、もっていくだけだ」
「令子ちゃんは、それでいいわけ?」
「知らない。おれだったら、あんな親、とうのむかしに縁を切ってるけど、令子はおれとはちがうからな。……まあ、どんな親でも、親だからってとこか」
「ホントにいなくなっちゃうのか……で、いつ?」
「これは、おれもさっき、あいつにきいたんだけど、一週間後にたつって話だ」
「そんなに……」
 一週間なんて、無にひとしい。だが、どちらにしろ、一カ月でも、一年でも、おなじことだった。
「あいつのおふくろらしい話さ。最初は、来月の終わりっていってたんだ。なにがあったか知らないけど、令子を呼びつけて、来週にはたつから、早く仕度しろだとよ」
 さらになにかいいかけながら、高志は口をつぐんでしまった。そして、小さくため息をつき、また口を開いた。
「――それで、令子は、あした磯子に帰るっていってる」
「あした? どうして?」
「たのむから、おれにきかないでくれないか。おれだって、知りたいさ――どうしてこうなるんだ?」
 慶一がじぶんの苦痛に圧倒されていなければ、高志のことばのなかに、なにかが崩れ落ちた音をききとっていただろう。
「あした……もう、会えないのか……」
 まだ、きかねばならないことはあるが、できれば、じぶんからは口にしたくなくて、慶一はためらっていた。高志も口を開かず、じりじりと時がすぎていく。
 できるだけ、自分自身を傷つけない言い方をさがしているうちに、ひどく腹が立ってきて、慶一はじぶんに対して無慈悲な気持ちになっていった。
「令子ちゃん、高志のそばにいたくて、ここに入ったんだ?」
 高志はなにもこたえなかったが、この場合、否定しないということは、肯定とおなじだ。
 じぶんでは、もう落ちついているつもりだったが、怒りと屈辱をむりに抑えこんでいたぶん、それは小さなすきまから一気に噴き上げ、慶一はいてもたってもいられない気分になった。
「ふたりでずっと、おれのことを笑ってたんだ」
「よせよ。そんなんじゃない。なんのために、そんなことをしなくちゃならないんだ。おまえだって、頭を冷やしてよく考えれば、わかるはずだ」
「じゃあ、なんだって、あんな……あんな……」
「ぜんぶ考えたさ。おまえのことも、令子のことも、おれのことも、みんな考えて、だれものけ者にしないですむようにしたんだ。ただ……」
「ただ?」
「どっちにしろ、令子が出ていかなくちゃならないなら、せめて、夏のあいだは楽しくやろうと思ってたんだ」
 高志は、小さく首をふった。
「……令子ちゃんと話したい」
 慶一としては、高志にいったつもりはなく、ひとりごとのようなものだった。
「うん、やっぱり、そうしたほうがいいな」
 となりのベンチにおいてあったパーカーをはおり、高志はスニーカーに手を伸ばした。
「なにやってんだよ」
「令子を呼んでくる」
「どうやって? 消灯後だよ」
「なんとかなるさ」
 とめるひまもなく、高志は階段をおりると、足早にプールサイドをよこぎり、植えこみのあいだを抜け、慶一の視界から消えた。

 一〇分たち、二〇分たち、それでも高志はあらわれず、猜疑さいぎ心と不安とを抑えこむのにも疲れ、なにがどうなったのかわからないまま、あきらめて、慶一は寮にもどることにした。
 上の道から観察したかぎりでは、玄関わきのテュータールームから灯がもれているだけで、女子寮にとくに変わった点はない。
 男子寮のほうは、寮長室と事務室に灯がついている。寮長はよく、かわるがわるテューターを呼んでは、酒をふるまって、学校の未来について、滔々とうとうとまくしたてるという話だ。
 そんなことがあるわけもないが、漠然と、高志が手すりをよじのぼって、ヴェランダから令子の部屋に入ろうとしている、などといったすがたを考えていた慶一は、じぶんの愚かさをわらった。
 なにか、まずいことがあったか、気が変わったかして、高志は四〇七に帰っているのだろう。そう考えて、慶一はヘッケルにむかった。
 だが、四〇七にも、高志のすがたはなかった。
 自室に帰る気もせず、ほかにいく場所も思いつかず、まだ高志にききたいこともあり、慶一は高志の寝ていたボンボンベッドに横たわった。
 考えなければならないことは山ほどあり、どちらにしろ、寝つけるわけもないからと、慶一は高志のいったことを思いだし、あるいはそれをひっくりかえし、深い森をさまよいつづけ、令子のすがたを見いだそうとするうちに、いつしか境をまたぎ、夢の国に入っていた。
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29

きみが別れ
を告げていたことに
どうして
気がつかなかったんだろう

〈レッド・ラバー・ボール〉
サークル
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 開け放ったドアから射しこむ強い陽光に、慶一は汗まみれになって目覚めた。
 スピーカーは朝の放送を流している。〈オール・サマー・ロング〉だ。今週はビーチボーイズ特集をしている。
 横たわったまま、慶一はこれが何曲目だったのかを思いだそうとした。
 何曲目もなにも、もう「追い出しの曲」で、しかも、たったの二分しかない短い曲なのを思いだし、慶一はあわてて飛び起き、部屋を見まわしたが、高志のすがたはなかった。
 点呼のとき、令子は慶一のほうを見て、なにかいいたげだったが、結局、ことばをかわす機会はなく、中途半端に話すより、食後につかまえようと、慶一もむりに令子に近づかないことにした。
 それより、高志が点呼にすらすがたを見せなかったことのほうが、よほど問題だった。
「高志は?」
「それが、わからないんだよ。どうしたんだろう。きのう、いっしょじゃなかった?」
 ワラも、とほうにくれたような顔で、慶一にききかえした。
「部屋には、ぜんぜんもどらなかったのかよ」
「寝てたからね。でも、たぶん、もどらなかったと思うよ。なんかあったの?」
「とにかく、さがそう」
 朝食までのわずかな時間、とりあえず、四〇七、二〇二、ヘッケル屋上と、いそうな場所を見てまわったが、どこにも見あたらなかった。
「とにかく、おまえは学校にいけよ。あっちにすがたを見せるかもしれない」
 食後、四〇七にもどるや、慶一は食事中に考えていたことをワラにいった。
「慶一は?」
「もうすこし、さがしてみる。どうせ、映画だ」
「ホームルームは?」
「なんとかなるよ」
「いまごろ、テューターがうちの部屋いって、さがしてるよ。早く見つけないと……」
 そのとき、インターフォンのスウィッチが入ったノイズがきこえた。
「そこに滝口はいるか?」
「はい」
「すぐに寮長室へ」
 ふたりは顔を見あわせ、ワラが「シット」と口のなかでいった。

 寮長室のドアをあけて最初に目にしたのは、窓を背にしてアームチェアに坐り、頭のうしろで手を組み、こころもち顔を上にむけ、目をつぶった寮長だった。
 寮長とむかいあうかたちで、てまえのソファに坐っただれかが、慶一をふりかえった。
「高志!」
 高志は笑いかけようとしたらしいが、ただ顔がゆがんだだけにしか見えなかった。
 頭のうしろで組んでいた手をほどき、寮長ははずみをつけて、上体を起こした。
「朝っぱらから呼びたてて、すまないな。ちょっと、緊急の話があるんだ」
 慶一にそういってから、寮長は高志に視線を移し、
「きみはしばらく席をはずしてくれないか。自室から動かないように。まだ、話は終わったわけではない」
 そういって、立ちなさい、というように高志に目くばせした。
 外へ出ようとする高志とすれちがいざま、慶一は、
「ずっと、さがしてたのに」
 といって、高志の腕を軽く押さえた。
「ずっと、ここにいたさ」
 これを見ろ、というように、昨夜のままのパーカーとトランクスに視線を落とした。
 まだききたいことはあったが、寮長にうながされ、慶一は、さっきまで高志が坐っていた場所に腰をおろした。
 テーブルには盆がふたつある。どうやら、寮長と高志は、ここで朝食をとったらしい。けさはスパゲティ・ミートソースだ。高志の皿は、ほとんど手がつけられていない。
 切り子ガラスの灰皿は、吸いがらであふれそうになっているし、なによりも、いつも身だしなみにうるさい寮長の顔に、不精髭が浮いていたのに、慶一はおどろいた。
 テーブルにおかれた、タバコのパッケージに手を伸ばし、灰皿を一瞥し、ため息をついて、寮長はその手をひっこめた。
「はじめにいっておくが、きみ自身のことで呼んだわけではない。浅井のことで、すこし話をききたいだけだ」
「はい」
「きのうの夜――一時近くらしいが、浅井が女子寮に忍びこんだ。まったく、おかしな話をきくものだ」
 寮長は慶一を見たが、なにかたずねているわけではないと解釈し、慶一は口を開かなかった。
「そのこと自体は、もちろん、ほめられた話ではないが、おどろくほどのことでもない。そんなことも、起こるだろう。おどろいたのは、犯人が浅井だったことだ。わたしは、なぜ彼がそんなことをしたのかが知りたい。浅井は、なにもいわないんだ。七時間もここにいて、こちらのきくことにはこたえず、ききもしないことをしゃべりつづけた。呆れたものだ」
 女子寮の戸締りは、さすがに男子寮のようにいいかげんではない。きちんと、窓やヴェランダのドアのカギを締めるよう指導されているし、正面玄関も非常口も、消灯をすぎれば錠がおろされる。
 呆れたことに、非常口やヴェランダのように、人目につきにくい場所ではなく、高志は堂々と正面玄関の錠をはずしにかかったらしい。ジャッケルと女子寮のあいだにある、小さな庭園の植木をたわめていた針金を使ったという。
 玄関からまっすぐ伸びる廊下の突きあたりに、会議室があり、高志が忍びこもうとしていたとき、ふたりのテューターがそこにいた。不審な音に気づき、ひとりはモップ、ひとりは黒板用の大きな三角定規と、それぞれ得物らしきものをもって廊下へ出たところに、みごと錠をはずした高志が入ってきた。
「不思議だな。相手は、そういってはなんだが、たかが女ふたりだし、退路を断たれたわけでもないのだから、いくらでも逃げられたはずだ。どうして、黙ってつかまったんだ。不自然じゃないか。……だが、それはいいとしよう。ほかに、もっと、だいじな疑問がある。まず、彼はだれのところにいったんだ?」
 慶一は、高志がひと晩ここでねばりつづけた意味を理解した。
「さあ、わかりません」
 なにか、じぶんの証言の補強になるようなことばはないかと思ったが、なにも思いうかばなかった。
「なにも、相手を見つけて、罰しようということではない。知っておく必要があるだけだ」
 だから、知っていることをいえ、という顔で、寮長は慶一を見据えた。
 経験というのは、思わぬところで収穫をもたらすことがある。緊張した場面で寮長と対座するのは、慶一にとって、これがはじめてのことではない。寮長のするどい凝視に、慶一は耐えた。
「高志は、ほかの連中みたいに、どの子がかわいいとか、まったくいったことがありません」
 じぶんが口にしたことのアイロニーに思いあたり、慶一はみずからを嘲笑したくなった。
 寮長はため息をつき、またタバコに手をのばし、さっきと同じようにためらい、こんどは、いまいましげにパッケージを手にした。
「年をとると、徹夜はこたえる。勘もにぶくなる。きみなら、なにか知っているはずだと思ったんだがな」
 寮長は腕時計を見て、いかん、とつぶやき、立ちあがって部屋を出ていった。
 さっきから、義晴が窓の外に立ち、チャンスをうかがっていた。このすきをのがさず、慶一は窓に走りよった。
「浅井先輩からの伝言です。“ぜったいに、なにもいうな”」
「わかった。安心するように、高志にいってくれ」
 ノブのまわる音がして、慶一は手で義晴を追いはらい、外の空気を吸っていた、という思い入れで、ゆっくりと寮長をふりかえった。
「今年の皆勤賞はあきらめてもらう。きみと浅井は病欠だ。むこうに事情を話して、欠席扱いされないようにしてもいいんだが、話がややこしくなる可能性があるんでな」
 もとのように腰を落ちつけると、寮長はさっきの吸いさしを片手に、しばらく黙考をつづけ、二度ほど慶一を見た。
「――じつは、浅井がだれをたずねたか、などということより、もっとはるかに大きな問題がある。彼は、ここをやめるというんだ」
 頭が混乱し、慶一は口にしてはいけない名前にふれてしまった。
「令子ちゃん、ですか?」
 ほんのかすかにだが、寮長の眉がもちあがった。
「やっぱり、きみは知っていたんだな。あのお嬢さんは、わたしを親の仇のようににらみつけて、ぜったいにだれにもいわないでほしい、などと脅迫してくれたんだけどな」
「あ、じゃあ、あのとき……」
「きみのいおうとしているのが、土曜の夜のことだったら、それはちがう。わたしとしては、転校しますといわれて、はい、そうですか、では、ごきげんようというわけにはいかない。もう少しくわしく理由をきいて、なんとか思いとどまってもらおうとしたわけさ」
「じゃあ、もっとまえから、そういう話があったんですか」
「あの二、三日まえに、母上が見えてね。でも、いまはその話じゃない。浅井の、兄さんのほうのことだ」
「え?」
彼がやめるといってるんだ」
「まさか! いったい、どうして?」
「おいおい、質問しているのはわたしだ。心当たりはないのか」
「あるわけないですよ! どうして……でも、なにかいってなかったんですか」
 さっきまでの余裕は、もうみじんもなく慶一の心から消しとんでいた。
「浅井は、ブタのエサのようなものしかくれないんだ。なんていったと思う? 『女子寮に忍びこんだ生徒の処罰なんて、用意してないでしょうから、今後の見せしめにしましょう。今日中に荷物をまとめます。あとで、家の者を手続きによこします』ときた。――冗談じゃない。たかが、いや、わたしが “たかが” などといってはいけないが、でも、たかが女子寮への侵入、それも未遂にすぎないものを、それだけのことで、いったいどこのだれが、だいじな生徒を退学させるっていうんだ!」
 寮長のことばは、まったくといっていいほど、慶一にはとどかなかった。
 ここで、こんなことをしてる場合じゃない。
「いったい、どういうことなんだ。ほかに、なにか理由があるような気がしてしかたない」
 寮長と話すのはあとでいい、いまは、ほかにやることがある。
「先生、高志と話したいんです。いますぐ」
「きみはまだ、わたしにきかれたことを、なにもこたえていないんだぞ」
 慶一はすばやく計算した。寮長は、わからず屋ではない。
「あの、高志がなぜ女子寮に忍びこんだのかは、知っています。たいしたことじゃないんです。ちょっと、急いでいただけで。……そうじゃなくて、その話はほんのすこしだけ待ってください。とにかく、高志と話させてください。そのあとで……」
「交換条件かね」
「……」
「まあ、駆引きも、いずれは必要になる能力ではある……ただし、わたしを出し抜けると思っているなら、大まちがいだ」
「そんな。高志と話したいだけです」
 起こしていた上体をイスにあずけ、寮長は天井にむかって、タバコのけむりを吐き出した。
「いまのところ、昨夜の一件を知っているのは、浅井が逃げまわったりしなかったおかげで、女子寮のテューターふたり、芝くん、それにきみとわたしだけですんでいる。きみも、こういう話に尾ひれがついて、あちこちでうわさされるのは、きっと不愉快だろう」
「はい。ぜったいにいいません」
「一時間あげよう。九時半に、浅井をここによこすように。これはきみの責任だ」
「はい。かならずそうさせます」
「では、いってよろしい」
 立ちあがった慶一は、スラックスの裏側が汗で重くなっているのを感じ、去年の記憶をよみがえらせ、ひどく頼りない気分におそわれた。

 高志がやめるなどといいだしたのは、寮長の目をべつのところに向けるための煙幕か、あるいは、あとさきを考えない悪い冗談か、それとも、なにかのはずみでいってしまっただけのことだろうと、慶一としては楽観的に考えたかった。
 だが、ほんとうにそれが信じられるなら、あれほど強引に寮長を説きふせたりはしなかっただろう。
 非常口ホールを歩いているうちに、ふくらんだ不安が楽観を押しつぶしはじめた。
 二〇二は無人だった。気負いこんでいた慶一は、肩すかしを喰らって、頭に血をのぼらせながら、四〇七にむかった。
 四〇七のヴェランダのドアは開け放たれ、高志は会議テーブルにむかって、両目をマッサージしていた。
 卓上には、表紙をとじたリポート用紙のつづりと万年筆、それにコーラの缶がおかれている。
「寮長が、じぶんの部屋にいろっていってただろ!」
 ステップを蹴るように、いきおいをつけて室内に入るなり、慶一が叫んだ。
「デカい声をだすな。おれは寝てないんだ」
 そこにセリフでも書いてあるかのように、目から離した両の手のひらを見つめながら、高志がつぶやいた。
 これでは、高志にはぐらかされるだけだと、慶一は大きく息を吸いこみ、高志の正面に坐った。
「やめるって、なんのことだよ」
「なにいってんだ。やめるってのは、やめるって意味だろうが」
「なんで、そんなデマカセをいったのかっていってんだよ!」
「寮長相手に、デマカセなんかいうか。やめるから、やめるっていったんだ」
 高志の表情のなかに、なんとか真実を見つけようと、慶一は全身全霊をこめて凝視した。
「なあ、慶一。やらなきゃならないことが、山ほどあるんだ。おれをひとりにしてくれないか」
「ダメだね。どういうことなのか、教えてくれるまでは、ぜったいにイヤだ」
 ちょっと慶一を見かえしただけで、高志はあっさりあきらめ、
「まあ、いいか」
 といって、リポート用紙を開き、万年筆のキャップをとった。
「なんだよ、それは」
「メモさ。あ、そうだ。令子をつれていけなくて、わるかったな。テュータールームはたしかめたのに、会議室を見なかった。まったくマヌケな話だぜ。でも、面白い話がある。女テューターどもが、なにもって出てきたと思う?」
「モップと三角定規。寮長にきいたよ」
「三角定規なんかで、なにをするつもりだったんだろうな」
 高志はひとりでクスクス笑ったが、慶一には、面白くもなんともなかった。
「ドロボーもマヌケなら、警官もトンマだ。しばらくは、みんなが笑いこけるだろうな」
 といって、高志は満足げな笑みをかべた。
「そうはならないよ。寮長は、秘密にするつもりらしい。たぶん、高志のために」
 心底がっかりしたように、高志は大きなため息をついた。
「もったいねえな。こんな面白い話はないぜ。大笑いできるだけじゃなくて、ナゾまであるんだぞ。『浅井はいったい、だれに会いにいったのか』さ。こいつはもう、大騒ぎまちがいなしだ。手がかりはほとんどないし、容疑者は無数にいるんだからな。ひょっとしたら、三角定規先生まで、候補になるんじゃねえのか。あ、そうだ、答を書いて、だれかにあずけて、懸賞にすれば――」
「いいかげんにしろよ!」
 ワラそっくりのしぐさで肩をすくめ、高志は書きものにもどった。
「寮長が、九時半に寮長室にこいって」
「わかった」
「わかったじゃないよ。時間がないんだから、はぐらかすのは、もうやめろよ」
「時間がないのは、こっちもおなじだ。ちょっと、静かにしてくれ。もうすこしなんだから」
 また怒鳴りそうになって、途中で気が変わり、慶一は開きかけた口をとじた。
 このままでは、一歩も前進できない。なにか、高志があわてるような、必殺のカードを見つけなければだめだ。
「令子ちゃんが、高志の妹じゃないってわかれば、笑い話にはならないと思うよ」
 顔をあげそうになるのを思いとどまり、高志はゆっくりとリポート用紙をはぎとった。
「バカいうな。おまえに、そんなことが、できるもんか」
 必殺のカードでもなんでもなかった。
「ねえ、寮長はだれにもいう気なんかないし、テューターたちだって、寮長のいいつけなら、だれにもいわない。もちろん、おれだっていわないよ。だから、寮長にあやまって、うさぎ跳び百回やって、あとで、ふたりだけで大笑いして、それでおしまいにしよう。たのむから」
「ほんとうにそうなるかどうか、しばらくようすを見ないとわからない。それに、どっちにしろ、もう、あんまりここにはいたくないんだ」
 はぎとった紙を見なおし、高志はそれをていねいにふたつに折った。
「令子ちゃんがいなくなるんだからね」
「よせよ。令子は関係ない」
「じゃあ、なんで」
「時間はたっぷりやるから、ゆっくりじぶんで考えればいいだろう。――いけねえ、封筒がない」
「もう、理由なんか、どうでもいいよ。やめるのをやめれば、それでいいんだってば」
 折り畳みイスを押しやり、リポート用紙を手に、高志はいきおいよく立ちあがった。
「なあ、慶一。おまえだって、あと四年もたてば、ここを出ていくんだ。ちょっと早いだけさ」
 テーブルをまわり、高志は戸口へ歩みよっていく。
「早すぎるよ!」
「――かもしれない」
 ヴェランダに踏みだしたところで、高志は室内をふりかえった。
「なあ、けっこう楽しめただろう?」
 ななめうしろの高志のほうに躰をねじっただけで、慶一は立ちあがれなかった。
「どこいくんだよ」
「見りゃわかるだろうが」
 小さく笑って、高志は非常口方向に消えた。
 正面からいってもむだだ。やはり、寮長に説得してもらっているあいだに、令子をつれてくるしかない。
 高志が荷物をまとめにもどるまで、もうあまり時間がないかもしれない。いそがなくては。
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30

疑いもおそれも
すべて消え失せ
それはやがて
歌へと変わるだろう

〈ホエン〉
デイヴ・クラーク・ファイヴ
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 思ったとおり、令子は昨夜の事件のことを、なにも知らなかった。
 暗幕がかけられた階段教室のなかを、スクリーンの光だけをたよりに、頭をさげて、はいずりまわり、ようやく見つけた令子は、慶一の話をきいても、べつにおどろくでもなく、あわてるでもなく、じれったくなるほど冷静だった。
「なんか、いったらどう?」
 南側の非常階段をおりきったところで、慶一は、まだ二、三段上にいた令子をふりかえり、たたきつけるようにいった。
「ごめんなさい」
 嘘八百ならべたて、疑わしげに見る監督の教師を強引に説きふせ、やっとの思いでつれてきたのは、いったいなんのためなんだと、慶一は情けなくなった。
「そうじゃなくてさ。あやまってなんかくれなくていいから、なにか、方法を考えてよ。はじめは冗談でもなんでも、あいつ、いいだしたことは、なんだってやりかねないんだから、ほっといたら、ホントに出ていっちゃうよ」
 慶一の大声に立ちどまったまま、令子はまばたきもせずに、視線をかえした。
「慶一さん。きっと、兄さんには兄さんの考えがあるんです。兄さんがやめるっていうなら、寮長先生にもとめられないと思います」
「じゃあ、ほっとけっていうわけ?」
 白磁のような令子の頬が、真っ赤にれあがったのが見えるほど、慶一は凶暴な衝動にかられ、あとさきを忘却した。
「それでもいいよ、兄妹ならね。でも、令子ちゃんは高志のために、ここにきたんじゃなかったわけ? ああ、知ってるだろうけどさ、きのう立聞きしたんだ。いいんだよ、なんにもききたくない。おれがバカだっただけで、令子ちゃんのせいじゃないよ。でも、たのむから、高志を道連れにしないでくれる?」
「そんな、道連れだなんて。そうじゃないんです……わたし、そんなつもりじゃなくて……」
 悲しそうな顔でもしてくれれば、やさしい気持ちを思いだしたかもしれない。だが、令子はやはり冷静で、ただ慶一に、頭を冷やせと懇願しているだけだった。
「どんなつもりでも、おなじだよ、高志は出ていくっていうんだから」
 令子は最後の一段をおり、断固たるようすで、いきなり階段に坐り、じっと慶一を見あげた。
「すこしだけ、わたしの話をきいてくれませんか」
 天を仰ぎ、慶一はその場でターンし、二、三歩あゆみ、いったい、どうしろっていうんだ、というように令子を見た。
「高志をとめなきゃならないんだ」
「お願いです……」
 どちらにしろ、はじめから令子の懇願を拒絶できるはずがなかったことを知って、慶一はじぶんがあわれになり、それでも、腹を立てていることを令子に知らせるために、できるだけ乱暴に腰をおろした。
「慶一さんは、兄さんのそばにいたいから、わたしがこの学校にきたと思ってますよね」
「ちがうっていうの?」
「いいえ。それもそうなんですけど、それだけじゃないんです」
 慶一は、坐ったことを後悔した。だれだって、じぶんが愚か者だということを、一二〇パーセント認めているときでも、だれかに、そんなことはない、といってもらいたいものだ。令子が、そうしてくれるのではないかという、淡い期待があったから、坐ったのに。
「一年ぐらいまえから、母と義父ちちのあいだがおかしいのは、わかっていたんです。わたしが心配したのは、このまま中学に入っても、母の都合で転校させられるんじゃないかって……まえにも、おなじことがあったんです。ヘンですよね」
 慶一は、令子の自嘲などきいていなかった。まだ、希望があるのかもしれない。
「それなら、予定どおりなんだから……」
「まさか、ロンドンの伯父のところにいくなんていいだすとは、思わなかったんです」
 ノドまで出かかった、令子の母親に対するありとあらゆる罵詈雑言ばりぞうごんを飲みこむのは、かなり努力を要することだった。
「兄さんとおなじで、慶一さんも、わたしが母のいいなりになっているのを、バカだと思うでしょうけれど、しかたないんです。わたしの母なんですから」
 はじめから、高志は、令子がこの学校に入るのは反対だったという。
「理由はいってくれませんでしたけれど、わたし、ここにきてから、なんとなくわかったような気がして。兄さんだって、はっきりわかっていなかったでしょうけど、たぶん、こんなことが起こりそうな予感がしてたんじゃないかって」
「こんなことって?」
「さあ……わたしたち、すごくこんがらがっちゃいましたね。兄さん、わたしが慶一さんにプレゼントのことを相談したの、とても怒ってました」
「あんなの、たいしたことじゃないのに」
「わたしもそう思ったんですけど、ほんとうは、兄さんのいうとおりかもしれません」
「高志のいうとおりって?」
「それは……。はじめのうちは、慶一さんに近づくなって……それが、ひと月ぐらいまえに、急に、話が変わったっていうんです。まったく正反対に。おかしいですよね」
「でも、なんでそんな……」
「それは、わたしが転校することにしたって話したからだと思います。どうしてもやめなければならないなら、それまでは楽しくやろうっていってましたから」
「令子ちゃんにとっては、かえって、ありがた迷惑だったね」
 自嘲などみっともないのはわかっていたが、どうしても抑えられなかった。
「どうしてですか。わたし、慶一さんをだましているみたいで、居心地のわるいときもあったけれど……それでも――」
「いいよ。気休めをきいてもしかたない。それより、なんで、高志が出ていくなんていいだしたかだよ。それがわかれば、きっと、あいつをとめられるよ」
 ちょっとためらったが、令子は疑問の余地のない口調でいった。
「むりだと思います。高志兄さんのことはよく知ってます。慶一さんだって……」
 令子のすがたを借りて、じぶんにのしかかってくる無力感をふりはらおうと、慶一はいきおいよく立ちあがった。
「むりでもなんでも、最後までやらなくちゃ。寮長もいってたけど、出ていくっていわれて、じゃあ、元気でねってわけにはいかないよ」
 あらためて令子を見て、慶一は不思議な気分になった。
 きのうの夜、令子がいなくなることを、そして、ずっと自分のことをだましていたことを知ったときは、自分自身を引きちぎりたくなるほどつらかった。
 それが、いまはもう、こうして目のまえにいるというのに、令子のことはほぼ完全に頭から締めだしていた。高志の大騒ぎのせいにちがいない。
 ゆっくりと、悲嘆と自己憐憫にひたる時間もくれないなんて、最低の奴だ。
 そのとき、非常口の扉が開き、慶一はギョッとしたが、つぎの瞬間にはもう、いい抜ける方法をさぐっていた。
「こんなところで、なにやってんだ。まあ、さがす手間がはぶけて、助かったけどな」
「高志!」
「ちょっと、話がある。おまえをさがしてたんだ。令子もな」
 校舎の表なら事務室のまえ、裏なら職員室の下をとおらねばならず、三人はいちど下の道にひきかえし、そこからおりかえして、庭園に沿った県道への道を歩き、校門からふたたびキャンパスに入り、小庭園の東屋にたどりついた。
「おまえ、寮長にどこまでしゃべった?」
 慶一が坐るのを待って、高志が口を開いた。
「なにも」
「きのうの夜、どこにいたか、きかれなかったか」
「うん。なんにも。でも、そんなことは、どうでもいいよ。それより――」
「じゃあ、これでこの一件は終わりだな。証拠不充分で、うやむやだ」
 高志はひとりでうなずき、令子のほうを見た。
「慶一から、だいたいきいただろうけど、おれもここを出ていくことにした。おまえにはなんにも関係のないことだから、あれこれ考えるんじゃないぞ」
「ちょっと待てよ! わかったよ。出ていくっていうなら、もうとめないけど、なにも、そんなに急ぐことはないじゃん。せめて、あしたまで待って、通知表をもらって――」
「うるさいな。おれは令子に話してるんだ」
「わかったよ」
 ふてくされた慶一は、東屋がきしむほど乱暴に、背板に体重をあずけた。
「羽田にはいかない。ここであばよだ。いいな?」
「ええ。なんだかよくわからないけれど、いつか、説明してくれるわね?」
「たぶんな。でも、もう会うこともないような気がする。まあ、さきのことはわからないけどな。向こうについたら、絵はがきでもよこせ。ロンドン塔かなんかの、どうしようもないやつでいい」
「ええ。ロンドン塔ね。――慶一さんも、それでいいかしら?」
「どうでもいいよ、そんなの。ビッグ・ベンでも、バッキンガム宮殿でも、なんでもいい……」
 令子は、なにかいいたげに慶一を見たが、結局、開きかけた口をつぐんでしまった。
 慶一は、もうあきらめていた。ほんとうは、ずっとまえにあきらめていたのに、じぶんを守るために、最後まであきらめないフリをしていただけかもしれない。
 さて、と大きな声をだして、高志が立ちあがった。
「ちょっと待ってくれれば、わたしも……。もう、荷物はできてるから、着替えるだけよ」
「いや、やめとこう。もたもたしてて、また寮長にとっつかまってもまずい。――慶一?」
「うん?」
「これをワラにわたしてくれないか」
 ヒップポケットからはみだしていた白い封筒をひっぱりだし、慶一のまえにさしだした。
「なんだよ。じぶんでわたせばいいだろう」
「あいつと話していたら、あしたになっても終わらない。さあ――」
 しかたなく、封筒といっしょに、イヤな役まわりまで引き受けることになってしまった。
「いっしょにもどって、支度を手伝うよ」
 やっとの思いで、慶一は立ちあがった。
「いや。このままいくから、いいよ」
 慶一は視線をおろし、高志が手ぶらなのをたしかめ、また視線をあげた。
「いいんだ。荷物はあとで、義晴に送らせる。じゃあな」
 あとで四〇七で会おうという調子で、高志は軽く片手をあげると、身をひるがえし、跳ねるように飛石をわたって、左に曲がり、木立のかげに見えかくれしたかと思うと、いつのまにか慶一の視界から消えていた。

 高志の書置きに目を走らせるやいなや、ポップコーンをぶちまけるように、ワラは、ありとあらゆる単語を、ひとまとめにして慶一に投げつけた。
 ひとこともききとれなかったが、慶一にも、ワラのいいたいことは、イヤというほどよくわかった。バカ、ドジ、マヌケといいたいのだ。
 深い無気力に落ちこみ、腐った魚のような目で見返すだけで、慶一がろくに話をきいていないのに気づくと、ワラは、これから高志の家にいくといいはじめた。
「むだだよ。おれだって、一生懸命とめたんだから。だいたい、高志の家、わかってるのかよ」
「生徒名簿ってものがありますよ」
 慶一は、高志のベッドの上でがんばって、令子の出発をやりすごすつもりだったが、すでに自分がとおりすぎた、焦燥と怒りの絶頂にいるワラに耐えられなくなり、棚からシングルを一枚ぬきだして、四〇七を出た。
 きょうの午後はずっと自由時間だが、昼下がりの暑さのせいか、それとも、校舎やグラウンドやプールに出はらっているのか、寮内はおもいのほか静かで、建物全体がまどろんでいるようだった。
 昼食後というだけで、令子は時刻まではいわなかったので、確信などなかったが、すでにいってしまったのなら、それはそれでかまわなかった。
 階段をおりきって、サロンのほうに曲がろうとしたとき、室内から知子の声が響いてきたのをきき、慶一はきびすを返し、下足室に入りこんだ。
 開け放たれた下足室のドアから見ると、水をうった玄関まえには、施設課のヴァンがあるだけで、タクシーはとまっていない。ブルーのホースが、事務室の外にある蛇口につながれたまま、とぐろを巻いている。
 ドア近くの下足箱に背中をあずけ、慶一はそこから見える、女子寮の三階から上を左手に配した、校舎への坂道の景色に、ぼんやりと目をやった。
 どれくらい、そうしていたのかはわからないが、坂の上にタクシーが見え、慶一は無気力の淵から浮上して、周囲を見わたした。
 玄関まえについたタクシーは空車で、それを見て、慶一はホッとした。
 ひょっとしたら、令子の母親が乗っているのではないかと、すこし心配だった。もしここで会ったら、なにをいうか、わからない。
 玄関で話し声がしたが、荷物をもった知子と郁子が出てきただけで、令子はまだすがたを見せない。スーツケースとバッグをトランクに入れたふたりは、玄関内に目をやった。
 やがて、寮長と肩をならべ、ゆっくりと令子が歩みでてきた。
 さっき、部室の棚から抜いてきたホリーズの〈イエス・アイ・ウィル〉を見なおし、ばかばかしくなり、小さく首をふって、目につくかぎりいちばん汚れていないスニーカーの上に、そのシングルをおき、慶一は下足室を出た。
 口ばやに話しかける寮長にむかって、くりかえしうなずいていた令子は、わずかに西によった太陽に目を細め、歩き方を忘れたように近よってくる慶一に、静かにほほえみかけた。
 必死にことばをさがすが、頭のなかからきこえてくるのはノイズばかりで、声帯さえもが振動を拒否したようで、慶一はなすすべもなく、立ちどまって令子を見つめた。
「なにか、いってください」
 令子にまっすぐ視線をさしこまれ、うろたえた慶一は、おやおや、というように見守る寮長と知子と郁子のほうを、助けをもとめるように見た。
「なんていうか……元気で……」
「慶一さんも、お元気で」
「うん」
「わたし、高志兄さんのナゾナゾ、半分は解けたんじゃないかと思います」
「ナゾナゾ?」
「ええ。あとの半分は、飛行機のなかでゆっくり考えます」
「なんだか、全然わからないよ。高志のことも、令子ちゃんのことも」
「こんなふうにならないですめば、ほんとうによかったですね。――それじゃあ」
 慶一がことばをかえそうとしたときには、令子は身をひるがえし、タクシーにすべりこんでいた。
 窓から知子と郁子になにかいい、寮長に頭をさげ、最後に、リアウィンドウをごしに慶一に首をかしげてみせ、令子はなにか口を動かし、そのまま慶一から遠ざかりはじめた。
 知子と郁子が、すべりだした車にしばらく追いすがり、手をふり、元気でね、と叫ぶ。
「きみたちは、なにがあったんだ」
 坂をいく車を、ほうけたように見ていた慶一は、いきなり寮長に話しかけられ、跳びあがりそうになった。
「さあ、なにがあったのか、ちゃんとわかるといいんですけど……」
 なんだかわからないが、ひとりで納得して、寮長は二度、三度とうなずいた。
「それにしても、きょうは開校以来、最悪の日だな」
「……」
「一日に、ふたりも生徒を失った。しかも、ひとりは最優秀の生徒で、ひとりはとびきりの美少女とくる。これが最悪の日でなくて、なんだというんだ」
 タクシーは、令子を乗せて、体育館敷地の土盛りのかげに消えた。
「きみは、寮長という仕事をどう思う?」
「……考えたこともないですけれど、きっと、すごくたいへんだろうと……」
「そうか。すると、愚か者はわたしひとりということか……。じつはだな、なんで寮長なんかやろうとしたかというと――きっと、すごく楽しいだろうと思ったからなんだ」
 寮長はじぶんで笑い、おかしいだろう、というように慶一を見たが、笑うわけにもいかず、なんといえばいいかもわからず、慶一はあいまいな笑みをかべた。
 知子と郁子が寮長に頭をさげ、女子寮へと帰っていく。
「しかし、まあ、生徒が全部いなくなったわけじゃないからな」
 きびすを返しながら、寮長は、さあ、もう終わったんだから、というように、慶一を目でうながした。
 いまにも、坂の上にタクシーがあらわれ、このマヌケ、もろにひっかったなと、高志が大笑いしながら、令子をつれておりてくるような気がして、慶一はもういちど、背後をふりかえらずにはいられなかった。





底本:「45回転の夏」新潮社
   1994(平成6)年7月20日発行
初出:「45回転の夏」新潮社
   1994(平成6)年7月20日発行
※底本の訂正は、著作者によるものです。
入力:鶴岡雄二
校正:Y.N.
2001年12月12日公開
2019年8月29日修正
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