45回転の夏

第3章 フルサークル、1991年

鶴岡雄二




31

でも、
さびしくなるといつも
あのヒコリーの風を
感じているふりをするんだ

〈ヒコリー・ウィンド〉
グラム・パースンズ(バーズ)
[#改段]
 外も室内も静かになってたせいで、機械どもが吐き出すノイズが、このフロアを靄のようにつつんでいるのが、はっきりときこえるようになった。
 コマンドを確認し、リターン・キーを叩き、プリンターに処理をわたす。すぐに点滅にもどったカーソルを、慶一は腹立たしげに見た。
 デスクの両端におかれた、レンガより小さいくらいのスピーカーでは、エディー・コクランが、フェイドアウト処理を忘れたように、パタリと終わった。
 右下の引出しをあけ、ちょっと考えこむ。そこには五〇枚近いCDが放りこまれているが、どれも、さして新鮮味は感じない。これが片づいたら、買い出しにいかなくては。
「滝口さん。もう、ヴォリュームをあげても大丈夫ですよ」
 パーティションの上から、半月まえにこのフロアにやってきた男が顔をのぞかせて、景気よくやりましょう、というように慶一を見た。もう、ここにはふたりしかいない。
「じゃ、おまえの知ってるのをかけてやる」
「ビートルズぐらいしか知りませんよ、オールディーズは」
 ビートルズがオールディーズと呼ばれる時代は、慶一には居心地が悪い。
「ジョンは、BGMにはしないんだ」
「ジョンて、ジョン・レノンのことですか?」
 いつも、こういうところでつまずく。なにも説明なしに「ジョン」といったら、レノンであるのは、慶一には自明のことだった。ジョン・カーペンターやジョン・ベルーシやエルトン・ジョンはおろか、たとえジョン・フォードでも、たんにジョンなどと呼ぶわけがない。
「コーヒーいりませんか?」
 慶一はうなずいて、リトル・リチャードを引き抜いた。ちょっと休んでおこう。マルチタスク機能は、機械が手いっぱいになっている、という口実をうばったが、習慣の力には勝てない。
 すぐにスピーカーから、ペニマン氏の叫び声が流れる。これがあれば、覚醒剤などいらない。
「滝口さんなんかは、ビートルズ世代っていうやつでしょう」
 という声といっしょに、マグが突き出された。
 相手にはまったく悪意がないのだし、そもそも、そんなことばに悪意がこめられることすら、想像できないだろう。慶一はじぶんをなだめて、マグを受けとった。
「世間で “ビートルズ世代” って呼んでるのは、一九五〇年代前半に生まれた連中のことだと思う。そういう意味では、おれはそのひとりだけど、そのことばは釈然としない」
「どうしてですか」
 相手は、レインボウ・カラーのリンゴがついたマグをもって、ポカンとしている。
「そのいい方だと、みんな楽しく、ビートルズを聴いてたみたいじゃないか」
「ちがうんですか」
「ちがうな。全然、そんなことはなかった。おれが中学に入ったとき、学年の一二四人中、ビートルズ・ファンは十人もいなかった」
「まだ、それほどロックを聴く年じゃないでしょう」
 ロックという呼称で、またつまずいたが、これだってたんなる時代の違いにすぎない。それでも、慶一にとっては、苦い記憶しかない呼び方であることに変わりはなかったが。
「でも、この時点で聴いていなければ、もう、遅いんだ。このクラブはふたつに分かれている。ジョニー&ザ・ムーンドグズのファンと、ポール&ザ・ビートルズのファンだ。ムーンドグズ・ファンクラブの入会資格は、一九六六年以前のジョンをリアルタイムで愛したことだ。それ以降、大人たちがビートルズを容認してからは、このクラブは新規入会を打ち切った。これは人種差別みたいなもので、たいした根拠はない。差別に耐えた人間の、腹いせの逆差別さ」
「よくわかりませんね。音楽じゃないですか。楽しいか、楽しくないかの問題でしょう」
 慶一は、いつもの無力感にとらわれつつあった。あのときは大人のむきだしの敵意、いまは若い連中の無邪気と想像力の欠如。どうしろっていうんだ。
「そうじゃない時代があったんだ。大人たちのあいだでは、あれは音楽ではなく、騒音だった。そういう聴力障害の連中が、そうではないかもしれない、と最初に思ったのは、たぶん〈イエスタデイ〉のときだ。ポール&ザ・ビートルズ時代の夜明けさ」
「ビートルズ世代の意味は、どうなったんですか」
「まだ枕だ。ビートルズ世代っていわれる連中のなかには、〈イエスタデイ〉しか知らない奴だって、うようよいる。ジョンが殺されたときに、あの曲をかけるテレビ局が圧倒的多数だった国だぜ、わが日本国は。クレジットはなんであれ、あれは純粋にサー・ポールの曲で、ジョンはまったく関係ない。こんなことは、二引く一みたいに常識だ」
「ポール・マッカートニーって、貴族なんですか」
「いずれ、そうなる。まったくお似合いだぜ。おれにいわせれば、同世代の人間の大部分は、あのとき、大人たちとおなじ世界にいた。おれたちのほうは、ビートルズが地球をおおっているのを意識して生きていた。おたがい、宇宙がちがう。それを、ひとまとめに “ビートルズ世代” って呼んでるんだ。だいたい、そんな名前は “ストーンズ世代” の連中には迷惑だろうに」
「ビートルズって、ストーンズみたいなワルのイメージがないのに、へんですね」
 まただ。後世の常識には勝てない。慶一は罠にはまった気分だった。
「かつては有害だと思われていたし、それは根拠のないことじゃなかった。だから、これは世界観のちがいで、ビートルズ排斥を叫んだ連中は、彼らなりに正しかった。おれが腹を立てているのは、そのことじゃない。ビートルズが、二〇世紀を代表する芸術家に祭りあげられてからは、だれもかれもが口をぬぐったことだ」
「尊敬されるようになったんだから、けっこうじゃないですか」
 ちがう。もういちど背景を説明しなおそうと思ったとき、電話のベルが鳴った。
「ぼくが出ます」
 慶一は背後の柱をふりかえる。時計は、朝へむかって二本の針を倒しはじめていた。
「少々お待ちください」
「おれか?」
 これくらいの時間の電話というのは、そう頻繁にあるわけでもないが、とくにめずらしくもないので、慶一はべつにいぶかりもせず、スピーカー前面にあるヴォリュームをしぼった。
 すぐにじぶんの電話のベルが鳴り、すこし上体を伸ばして、デスクのむこうはしで、紙きれの波に洗われている電話器を引き寄せる。
「お電話かわりました。滝口です」
「慶一、おれだ」
 最近は、ファーストネイムで呼びかけて、オレだ、などという人間は、そうたくさんいるわけではない。
「なんだ、高志かさ。ひさしぶり。なんだよ、いまごろ」
「おまえ、ここ二、三日帰ってないだろ。留守番電話ぐらい買えよ」
「嫌いなんだよ。夜中に帰って、女房どのの声をきいてみろっていうの」
 ホワイトノイズのような笑い声が返ってくる。
「自業自得じゃねえか。『結婚とは、離婚の主たる原因である』」
「なんだ、それは」
「グルーチョ・マルクスだ。それとも、グラウチョウ・マークスかな」
「どっちでもいいけどさ。奥方、元気でやってるか」
「知らん。女の時代だとかで、商売やらヴォランティアやらで、ときたまマニュキアを忘れるぐらいだ。山手の丘で育った女がこれだから、日本中の女が躁病になったのも無理はない」
「それは一大事だな。でも、すこしは浪費がとまるんじゃないか」
「おまえ、本気でそんなことをいってるのか。マニキュアをする時間はなくても、ドレスを買う時間や、アクセサリーを選ぶ時間はある。むこうは、どこへでもついてくるんだからな」
 受話器のむこうで、なにか音楽が聴こえる。慶一はプレイヤーのストップボタンを押した。〈ノーホエア・マン〉だ。もう終わろうとしている。
「で、なんか用かよ?」
「悪い知らせだ。寮が壊される」
「えっ、そうなのかさ」
「ああ、ヘッケルもジャッケルもばっさりさ。更地にして、校舎を建てるんだとよ」
「ふーん……。で、いつ?」
「来年の二月だ。だいぶ以前から準備してたんだ。もう寮生は六年だけらしい」
「そうだったんだ……なんで、そんなことになったのやら」
「学校経営だって、経営だ。コストパフォーマンスの問題さ。寮は赤字の元凶だ。それに、いまどきのお子たちは、寮生活なんか歯牙しがにもかけない」
「まいったな。……そんなこと、考えてみたこともなかった。で、女子寮は?」
「とうのむかしに校舎に転用して、今回は影響なしだ。さすが、生命力がちがう」
「律儀な格好してるから、つぶしがきくんだろうな」
「ついては、だ。最後のパーティーを開く」
「寮でか?」
「ほかにどこでやるんだ。再来月の三、四の二日間、寮を借りきった。ちゃんと泊まれる」
「よく貸してくれたな」
「馬鹿いうな。オレたちは一期だぞ。あんな、熊の出そうな山奥のわけのわからん学校に入ってあげた、学校にとっての恩人じゃねえか。寮長だって、死ぬまえに、なんどもそういってたくらいなんだからな。一晩くらい、貸して当然だ」
「そりゃ、そうかもな」
「おまえ、こんどばかりは参加しろよ」
「ああ、そうしようかな」
 寮長の通夜に顔を出したくらいで、慶一は同窓会にはいっていない。
「かな、なんて、煮えきらないこといってないで、イエスっていえよ」
「だって、わかんないんだよ、仕事がどうなるか」
「仕事なんて、ほかにいくらでもある。オレたちの寮はあれだけだ」
「ま、そうだけどもさ……。ほかに、どんな仕事があるっていうんだ」
「『ウェイターなんか、どうだ?』」
 それとわかるように、高志は声のピッチをさげた。
「また、グルーチョかさ」
「ご冗談でしょ。リリアン・ヘルマンをちょっと変えたんだ。とにかく、こんどはこいよ」
「そうだな……じゃ、いくか」
「そうしろ。いま、ヤマと企画を練ってる。ワラもくるぞ」
「へえ。よく、くる気になったな」
 ワラとは、もう十年以上会ってない。いや、とんでもない。十五年以上だ。最後に会ったのは、あいつが大学を卒業した夏のことだ。
「さっき、電話で話してたんだ。二人目のガキができたとよ。あいつのメッセージを伝える」
「へえ、ワラも高志をメッセンジャーボーイに使うようになったのか、エライもんだな」
「いいから、きけ。メモってあんだ。“Let’s make it for THE FUCKING LAST TIME” だと」
「まったくだ」
「――じつは、怒らないできいてほしいことがある」
「なんだ、いまのは全部ガセだったのか?」
「いや。でも、いわなかったことがある」
「これだ。カードをかくしておく手つきが古めかしくて、懐かしいね。で、なんだよ」
「令子が帰ってるんだ。いま、磯子のばあさんのうちにいる。パーティーには出るはずだ」
「へえ、令子ちゃん――いや、もう、ちゃんじゃないか。彼女、元気なのかさ」
「知らん。どうしておまえは、そういうふうに、他人が元気かどうかなんてことをきくんだ。だいたい、いつまでたっても、おれとあいつが兄妹だと思ってるのも、困ったもんだ。うちの親父とあいつのおふくろが別れたのは、黒船がきて、下田と神奈川が開港したころだぜ」
「そんなこといったって、無理だって……」
 といいかけて、慶一は口をつぐんだ。
 沈黙を縫って、受話器のむこうから〈ホワット・ゴーズ・オン〉のハーモニーが流れてくる。リンゴのリードも、ジョンとポールのハーモニーも、ひどくせつない。
「令子が出ても、おまえ、くるか?」
「いくよ。会いたい」
「水をさすつもりはないけど、おまえ、あいつの年をわかってるんだろうな」
「いくつんなった?」
「馬鹿いってんじゃない。オレたちのひとつ下じゃねえか。勝手に年とるのをやめられるかよ」
「じゃあ、六か七か……」
 慶一は、令子の誕生日を知らないことに気づき、愕然とした。
「じゃあも、なにも、七だ。もう、ババアだよ。覚悟しておけ」
 受話器のむこうで、ジョンが懇願する声が聴こえた。
「『ラバー・ソウル』か……」
「おまえ、最近、これを聴いたことあるか?」
「いや、ホコリかぶってる」
「聴かねえほうがいいぞ。生きてるのが、いやになってくる」
「うん。さっき、〈ホワット・ゴーズ・オン〉のジョンのハーモニーが聴こえたら、なんか、あの時代にむかって、ぶっ飛ばされたような気がした」
「聴くんだったら、CDを買え。ありゃ、完全にセンティメントが欠如してるからな。あの赤盤のほうは眠らせておけ」
「ああ、そうするよ。どっちにしろ、もうカビが生えて、聴けたもんじゃないだろう」
「さてと。邪魔して悪かったな」
「いいえー、ウェイターになれば、すむことです。案外、面白いかもしれない」
「とにかく、近いうちに招待状がいくはずだ。あ、それからな――」
「なんだよ」
「令子もおまえに会いたがってる」
 慶一は、なにかいおうとしたが、ことばにならなかった。
「でも、磯子にはいくなよ。きみたちの感動的な再会は、おれがセッティングしてやる。ふた月ぐらい、待てるだろ。三七歳一カ月と三七歳三カ月には、たいしたちがいはない。どっちもババアだ」
「ああ、いかないよ。どっちにしろ、道を知らない」
「交番できくとか、タバコ屋できくとか、おまえだって、それくらいはできるだろうが」
「おれ、浅井って苗字しか知らないぜ」
「そういえば、そうだな。ま、どっちにしろ、つまんねえ苗字だ」
「つまんないことでも、ナゾとなると、興味がわくけどさ」
「なら、楽しみは最後までとっておけ」
「ひとつだけ教えてくれないか。なんていうか、エーと、彼女、子どもは何人――」
「まだ、シングルだ。子どもはいない」
「まさか。彼女みたいな人がどうして……」
「理由は知らない。おれたちには関係ない。令子の事情だ。いっておくけど、あいつにきいたりするなよ。こっぴどいロウブロウを喰らう。アホなことに、おれはきいちまったんだ」
「へえ。むかしの仇をとられたんじゃないの。まあ、いいや。その件は約束する」
「邪魔したな。来月の末にでも、また電話する。じゃあ、仕事しな」
 しばらくは仕事にもどろうと努力したが、すぐに投げだして、帰り仕度をはじめた。ささやかな弁解の道具として、プリンターから吐き出された紙束をもち、上着のポケットにディスクをほうりこんだ。
 慶一にはわかっていた。うちに帰ったら、仕事なんかしない。古いシングルをほうりこんだ段ボール箱をひっぱりだして、スクラッチノイズだらけのロックンロールを、朝まで聴きつづけるだろう。
[#改ページ]

32

よく帰ってきたね
きみが嗤った昔なじみの
この土地に
名前はみな
変わってしまったけれど
夢だけはのこっているよ

〈ウェルカム・バック〉
ジョン・セバスチャン
(ラヴィン・スプーンフル)
[#改段]
 JRの駅舎から出た慶一は、困惑と屈辱のなかで立ちつくした。
 じぶんの土地に帰ってきたのに、どっちの方向へ歩きだせばいいのか、わからない。
 最後に見たとき、この土地には二軒しか建物がなく、セイタカアワダチソウや、アキノキリンソウばかりがめだった。
 いま、駅の横には大手デパートの支店があり、通りのむこうには、だれでも知ってるスーパーがある。銀行も、本屋も、飲み屋も、ケンタッキーも、マクドナルドも、なんだってある。
 問題は、ここが十字路になっていることだ。記憶では一本道のはずだ。どっちへいけばいいんだ。
 怒りを感じながら、慶一は案内板のほうに歩きだした。こんなクソッたれな土地には、二度とくるつもりはなかったのに。
「滝口さん!」
 という声でふりかえると、メタルフレームの眼鏡をかけた、みごとに丸い顔をした男が、女といっしょに笑いかけていた。
「嶋野かよ!」
「よかった。みんな、ひさしぶりに会うと、全然わからないっていうんですよ」
「なにいってんのよ、兄さん。滝口さん、わたしを見て思いだしただけよ」
「そうか」と、嶋野兄は屈託なく笑う。
「滝口さんは、あまり変わんないですね。あのまま、すっと年とったみたいですよ」
「よけいなお世話だ。馬鹿にしてんのか」
 慶一は、すこし遅れ気味に歩きはじめて、兄妹の足のむく方向をたしかめた。
「このへんは、えらく変わっちゃいましたね」
「変わるっていうのは、もとに、なにかあったときにいうことだぜ」
 この暑さのなか、県道からの坂道をのぼるのがいやで、電車を使ったのが不覚だった。やはり、バスでくればよかった。県道側は、こうまで見知らぬ土地ではない。
「滝口さん、演芸会でなにかやらないんですか。わたし、知子ちゃんと歌うんですよ」
「へえ。二十年ぶりに、オリジナル・メンバーで復活とかってやつか。世間じゃ、はやりだよな、そういうの。でも、おれ、もう声は出ないし、指は動かないし、ギターもないしな」
「柾生さんの歌、聴きたいわ」
「ダメだよ。おれだって聴きたいけどな」
 あちこちに数人、後輩らしい連中が歩いているが、見覚えのある奴はひとりもいない。
 慶一のまえを歩いていた、三十がらみの女がふりかえり、三人を見くらべながら、
「あの、市の温水プールへは、どういったらいいんでしょう」とたずねた。
 この女にはなんの責任もないのは、はじめからちゃんとわかっていたが、駅からずっと、たかが数万の人間に寝床を与えるために、あの山と田んぼを失ったことにくすぶりつづけていた慶一の心は、瞬時に発火点に達してしまった。
「知るか、そんなもん。ここには田んぼと山しかなかったんでね。あんたの立っているところは、むかし、肥溜めがあったところだ」
 まんざらウソではない。こうなってしまうと発掘調査が必要だが、半径二〇メートル以内には収まっているだろう。
 女はなにか不得要領なことをつぶやき、もっとまともな人間をさがしにいった。
 慶一は、あらためて腹を立てなおした。市の温水プールだと?
 幹線道路にぶつかって、慶一はまたうろたえた。
 方向さえあっていれば、もう寮が見えているはずなのに、道路のむこうには、入口らしきものすら見あたらなかった。自動車整備工場とか、事務所ビルとか、そんなものしかない。
「おい、寮はどこへいっちゃったんだ」
「どこにもいきませんよ。ちょっと、建てこんだだけです。あそこから入るんです」
 嶋野は修理工場のわきにある、車が一台とおれるくらいの路地を指さした。
 慶一には、とうてい信じられなかった。てめえの寮にいくのに、他人に教えてもらわなきゃならんのか!
「これなら、肥溜めのほうがましだ。ヤマカガシのゾンビに崇られるぜ」
 郁子がケラケラ笑った。
「そういや、この田んぼのあたりは、危ないっていわれてましたね、マムシが出るって」
 だが、どこにもこの田んぼなんて、ありはしない。
 じっと、この平たくて、日焼けで褪色したような風景をにらみ、裏山や田んぼが脳裏にうかぶのを待ってみたが、むだだった。
 想像力と記憶力を総動員したところで、このプラスティックな風景には勝てない。ここには、なんの記憶もない。現在しかない平面世界。
 寮への道の両側は、住宅に包囲されていた。それどころではない。野球場が消えている。
 いや、平らな、球場形の台地はある。ただ、その上に住宅がならんでいるだけだ。
 ばかばかしい話だが、この家屋の集団が、歩いてここに侵略してきたような気がする。左翼ファウルエリアの家が、もう一歩踏みだせば、陸上グラウンドに橋頭堡きょうとうほを築けるが、急な斜面と金網が、その侵攻をかろうじて阻止している。
 慶一は、もう、なにも考えないことにした。
 寮玄関のマーキーの下には、在校生らしき女子がふたりいて、受付をつとめていた。
「お帰りなさい。入学年度とお名前をうかがいます」
 そういって、受付の女子が、手もとの一覧表に目を落とした。
 慶一は、年度なんていう必要があるのか、と思ったが、すなおに、滝口慶一、一九六六年度入学と名乗った。
 彼らが日本にきた年だ。おれはいけなかった。ここにいたからな。またくると思っていた。そうなっていれば、かならずいったのに。
 さっきから口をきかないほうの子が、慶一の名を見つけたらしく、ボールペンを動かす。
 何期かではなく、入学年度を指定したのには意味があるのに、慶一は気づいた。最終的な期は、卒業年度によって決まる。問題は、留学の結果、留年あつかいになって期がずれてしまった連中だ。一期生として入学しても、留学した場合、記録上は第二期卒業生となる。これは、なにもない場所にやってきたパイオニアとして、異様なほどプライドの高い、第一期入学生に対する侮辱だ。入学年度を問うのが正しい。
「みなさん、もう、校舎のほうにいらっしゃっています。四階の階段教室です」
「きみたち、何期なんだい」
 嶋野が、いやらしい中年風にきく。中年に足を踏みこむと、こういう屈折のしかたを見せる男がいる。いやらしい中年とかっていうのに、なってやろうじゃないの、というわけだ。
「二十一期です」
「先輩、えらいことですよ」
 嶋野がふりかえって、呆れたように慶一を見た。
「年とるわけですよ、二十一期だって!」
「二十一期って、何年生になるんだ」
「五年です」
 最初に口をきいた子がこたえた。慶一は、高二といわず、五年という、この学校の習慣が生きていることをうれしく思った。
「じゃ、いまの一年は、二十五期か!」
 ふたりの五年生は、この中年男たちが、なにをそんなに問題にしているのか理解できないらしく、困った顔をして黙りこんだ。
「先輩、足し算なんかできても、えらくないですよ」
「でも、嶋野。おれが入学してから、二十五年てことだ。二十五年ていやあ、四半世紀ってぐらいで、世紀の単位で勘定できるんだぞ!」
「滝口センパイ」
 郁子がわきから口を出す。
「わたしたちは関係ないわ。二十四年だもの。〇・二四世紀なんて、いわないでしょう」

 世の中には、やってみなければわからないこと、見てみなければわからないものというのは、やはりあるものだ。なにが呆れるといって、この樹木どもくらい呆れたものはない。
 校舎への坂の陽射しを気にしていたのが、バカに思える。桜並木は死んでいなかった。それどころか、枝をいっぱいに伸ばし、車道の三分の二ほどをおおって、樹影をひろげている。
 まるで桜のトンネルだ。こんな莫迦な話があるか。それほどの月日がすぎたというのか。
 いまでは体育館下の、片側がグラウンドにむかって開いたトンネルになっている、かつての通学路のスロープをのぼりきって、右に視線を移動すると、ジャングルのようになった、グラウンドのむこう端を見わたせる。
 そのジャングルのなかから、果実を支える首がおそろしく長い、南の島のイグゾティックな植物のような、二本の茶色い茎が伸びているのが、やっと判別できる。
 どうも、記憶とは位置がちがうように感じるが、それは野球場への坂道がなくなり、そこもジャングル化してしまったためだろう。あれは、国旗と校旗のためのポールにまちがいない。
 そして、あの二本の棒の下には国旗掲揚台があるはずだが、遠目にはなにともつかない植物におおわれ、太平洋戦争で不時着し、放置されたゼロ戦があそこにある、といわれているようなものだ。きっと、つたやシダにおおわれて、ひっそりとのこっているのだろう。
 ふと、プールが見たくなり、裏玄関を通りすぎて、管理棟の屋上に足を運ぶ。ここもまた、山際がジャングルと化していた。立てかけられたセイルボードやサーフボードが目を惹く。
 さすがの高志も、サーフィン部をつくることは思いつかなかった。この学校のことだ、いまなら、ボードセイリングやサーフィンどころか、スキューバ・クラブぐらいあっても、おかしくない。
「いきましょう。そろそろ集合時間になりますよ」
 嶋野にうながされ、慶一は令子の記憶を反芻はんすうしようという気持ちをふりはらった。
 もはや生徒ではないので、三人は堂々とエレヴェーターに乗る。
「先輩、エレヴェーターって、こっそり乗るほうが楽しいと思いませんか」
「いま、おれもそう思ってた」
 令子は、もうきているだろう。汗まみれのすがたは見せたくない。
「おまえら、さきにいっててくれ」
「先輩は?」
「ちょっと、音楽室をのぞいてくる」
「どうせ、閉まってますよ」
「いいんだ」
 そういったてまえ、四階につくと、慶一は音楽室のほうに足を向けた。その途中にある、慶一が卒業するころに、軽音の部室として使われていた部屋のドアを引いてみる。カギがかかっていた。
 すこし意地になり、部室のわきのテラスに出るつもりで、廊下をふさぐ遮音用のスウィングドアを通り抜けると、ピアノの音が聴こえてきた。あまり達者ではない。
 テラスから部室のヴェランダにいこうとしたが、もうどうでもよくなり、テラスの手すりにもたれて、正面玄関側を見おろした。
 ここからの眺めが、いちばん変化がひどくない。庭園も、池も、斜面に建つ職員寮も、卒業生会館も、そして、背景となる山々も、樹木や苔や地衣類のかわりに、家々でおおわれた部分も多いが、ほぼ無事だ。
 会館内にある寮長邸で、最後にゆっくり寮長と話したときのことは、いまでも忘れない。あれは、一九七五年のことだった。慶一は、酔ったいきおいで、一年のときに起きた、例の事件をもちだした。
 どうして、ぼくだけだったんですか。
 これは長年の疑問だった。寮長はひどくまじめな顔になり、あのときは、わたしも若くて、試行錯誤の繰り返しだった。結果的に、きみに不必要な恐怖をあたえたことは、いま考えれば汗顔の至りだ、そういう意味のことを、慶一の目を見据えていった。
 謝罪されたことに仰天して、疑問が解決していないことは失念した。以来、ゆっくり話すチャンスがないまま、寮長の思いがけない死を迎えてしまった。
 おそらく、寮長としては、古い話を蒸しかえして、いまさらだれかを傷つけたくなかったのだろう。
 手塚、いったい、どこで、なにしてるんだ。
 べつに、懐かしいわけじゃない。いまだって、おまえとおなじ部屋になったら、また寮長に呼び出されるまで、殴りあいをやるさ。もちろん、高志ほどの威力はないだろうけど、ことばのロウブロウだって、たくさんお見舞いしてやる。なにしろ、二十五年もあったんだ、汚い手をいっぱい仕込んだぜ。
 やっぱり、だめだ。もう、あんなエネルギーはない。世界観をかけてだれかと闘うなんて、十二歳じゃなければ、できるわけがない。降参だ。
 さっきから聴こえていたピアノが、慶一の意識に忍びより、曲として焦点をむすんだ。
 どういうことだ。いまどき、こんな曲を知ってる人間など、そうたくさんはいない。
 手すりから離れ、開け放たれたドアをくぐり、音楽室まえの廊下にもどる。
 ガラスがはめこまれた音楽室のドアに近より、なかをのぞきこむ。やはり、そうだ。
 ノックをせずに、静かにノブをまわす。すぐに気配を察して、プレイヤーは手をとめ、戸口を見た。
「その曲、知ってるよ。〈イエス・アイ・ウィル〉だ」
「おしまいの和音を教えてくださる? どうしても思いだせなくて」
 感激で震えだす、などということはなかった。
 なにか現実感がないまま、慶一は令子にむかって足を踏みだし、頭のなかで、ギターコードを鍵盤上に展開した。

 階段教室では、山崎と義晴、そして、だれだかすぐには思いだせない奴が、広い教壇に立って、全員に静粛をもとめているところだった。三人はタイを締め、あろうことか、上着まで着ている。教卓にはマイクロフォンが立てられ、紙束が積まれていた。
 最前列に坐って、上半身をひねって入口のほうを見ていた高志が、ふたりのすがたを見つけ、
「おい、おまえら、こっちへきて坐れ」
 と、よくとおるテナーでいった。
 身ぶりで、やめておく、と伝え、慶一は令子と最後列に坐った。ここは、広さのわりに、窓であるべき場所の半分がスクリーンにふさがれているので、夏は暑い。
 ここの収容人員は、たしか三百人ほどのはずだ。六割ぐらいの席が埋まっている。
 だれが考えたか知らないが、慶一は、ここにつれてこられたことに感謝し、同時に恨んだ。
 一期が六年のときにできた体育館は、いつまでたっても、なじめない。いま考えれば、あれは、ここが見知らぬ場所に変貌する、最初の徴候だった。
 それにくらべ、この階段教室では、あらゆるものに記憶が宿っている。それは、かならずしも楽しい記憶ばかりではなかったが……。
 義晴が紙束をとって、前列の連中に数十枚ずつくばり、山崎がマイクのスウィッチを入れた。
「スケデュール表は、いきわたりましたか」
 一瞬、ハウリングを起こす。どういうわけか、その甲高い音のせいで、いまが一九九一年ではなく、一九六六年のような気がしてきた。
 せんせえー、二枚たりませーん、という声が、通路をはさんだとなりの列にいる連中からきこえ、笑い声が起こった。
「えー、ほんとうの挨拶は、のちほど、食堂であります。みなさんのほとんどが、卒業以来、ここには足を運んでいないと思われましたので、きていただいたわけで、ひさしぶりに、生徒の気分を味わっていただこう、という趣向です」
 そんなもん、味わいたくなんかねえぞ、とヤジが飛ぶ。
「ただいまから、入学試験をおこないます」
 うそだろう、冗談じゃねえよ、カンベンしてよ、などと騒然とする。
「と、思いましたが、試験問題がまにあいませんでしたので、今回にかぎり、フリーパスで、不良中年も、不倫ババアも、全部とおし、ということにします。どちらにしろ、入学させてしまった、学校当局に責任があるわけですし」
 なによー、とか、引っこめ、と笑いがひろがる。
「これは、最後のパーティーです。みなさんも、心してドンチャン騒ぎをくりひろげ、いまどきのガキなんか、メじゃないことを証明してください」
 最前列から、テッテ的にやったろうじゃねえか、寮の屋根を吹き飛ばしてやる、どうせぶっ壊すんだろ、と声がかかり、また笑いにつつまれた。
 その笑い声の尻尾が、悲しげに丸まっていくのを、慶一は怒りにも似た気持ちできいていた。
「行事の一覧は、お手もとの印刷物に書いてありますが、すこし説明をします。なにしろむかしは、制服をまちがえて、食堂にあらわれた馬鹿がいたくらいですから。あすまでのスケデュールは、入寮のときとおなじぐらい複雑なので、よく読んで、トンマはしないように」
 笑い声の渦巻くなか、前列のほうで手があがり、山崎はそれを指さした。
「ここに、六時五〇分起床ってありますけど、誤植じゃないんですか」
「その件については、あとで説明します。だいたい、おまえ、むかしだって、六時五〇分なんかには起きなかったじゃないか。むかしからおなじなんだから、深く考えんなよ」
 そうだ、そうだ、起床がなんだ、テューターなんか怖くねえ、と声がかかる。
 オリエンテイションは、和気あいあいと、一言ひとことに半畳が入るなかで、二〇分ほどで終わった。
 たしかに、複雑なスケデュールだ。夜十時まではかなりいそがしい。

 さよなら大パーティー

 スケデュール

八月三日
一七時四五分 レセプション  於 生徒寮食堂(正装)
一八時四五分 夕食      於 バーベキューガーデン
二〇時〇〇分 ヴィデオ上映  於 生徒サロン
二一時〇〇分 演芸会     於 同上
二二時五〇分 消灯

八月四日
〇六時五〇分 起床
〇七時一五分 点呼、体操   於 グラウンド(雨天中止)
〇七時四〇分 朝食      於 生徒寮食堂

 なお、希望者には四日の昼食を用意します。三日二二時までに、幹事にご連絡ください。

 施設利用のご注意

 以下の施設は、今回のパーティー期間中、みなさんがご利用できます。

  生徒寮西棟(生徒居住部分のみ。東棟は利用できません)
  生徒寮玄関棟(生徒サロン、テラス、食堂)
  プール(四日一〇時より一五時まで)
  テニスコート(照明設備は利用できません)
  グラウンド(ただし、道路側の半分は駐車場となっています)

 女子寮は一号棟、二号棟とも、現在は校舎として使われています。押し入っても無駄です!

 点呼以降の時刻が、すこし遅らせてあるのがおかしくて、慶一は小さく笑った。みんな、むかしのような素早い行動はできない。
 寮にむかおうと席を立ったふたりのところへ、最前列にいた高志が、みんなを押し分けて駆けつけた。
「なんだよ、おまえら。勝手に顔合わせしちまったんだな」
「見りゃ、わかるでしょうに」
「おまえが遅刻するから、おれの計画が狂ったじゃないか。三時にこいっていっといたろ」
 慶一は、高志の裏をかけたのをうれしく思った。
「休みがとれなくてさ、ついさっきまで、仕事をしてたんだ。おまえ、幹事じゃなかったのかよ」
「キセルした奴が、幹事ってわけにはいかねえだろ」
「ちゃんと入学して、ちゃんと卒業したじゃないか」
 と、慶一が笑った。
 高志は、四年のときにもどってきた。もっとも、卒業するまで、ふたりは、あの六六年のような関係をとりもどすことはなかった。おたがいに避けあって、高等部を終わってしまった。
 高志がなにかいおうとすると、真っ赤なポロシャツを着た、かなり太り気味の男が、やあ、おそろいですね、と声をかけてきた。
「ワラ!」
 慶一は、すがたではなく、口調からワラを認めた。
「よかった。慶一にもわからないかと思ってたよ。高志なんか、成田でぼくを無視して、一所懸命うしろのほうを見てたんだから」
「あんな、蚊トンボみたいな奴が、こんなに膨らむとは思わないだろうが!」
 笑いながら、高志がワラの腹を突ついた。
「蚊トンボって、なに?」
 三人が吹きだした。
「オーライ、オーライト。忘れてよ。あとで国語辞典を見るから」
 高志と慶一が、また吹きだした。
 記憶するつもりなのだろう、ワラは口のなかで、蚊トンボ、蚊トンボとくりかえしてから、慶一を見た。
「慶一、柾生からメッセージとプレゼントがあるよ」
「へえ。あいつ、元気でやってるのかよ。クリスマスカードをよこすくらいで、たいしたことは、いってこないんだ」
「メッセージは、『元気かい、いけなくてゴメン。こっちは順調だ。ニューヨークも悪くない。五月のマンハッタンは、五月の横浜よりいい。三人目の子どもが生まれた。いまでも、ときたまギブスンをひっぱりだして、むかしの歌をやっている。またいつか、エヴァリーズをいっしょに歌おう』です。プレゼントはラゲージのなかだから、あとで」
 柾生のことばが頭のなかで響き、その繊細な歌声が聴こえるのを感じて、慶一は、ふーん、と返事するのが精いっぱいだった。やるなら、どの曲かな。〈ディヴォーティッド・トゥ・ユー〉の歌詞でも覚えておこうか。
「それより――」と、ワラは令子を見た。
「令子ちゃん、いつも美しいですね」
 ビューティフルを直訳したような「美しいですね」に、慶一は小さく笑った。こいつは、やっぱり、アメリカ人だ。だいたい、二十四年も会っていないのに、「いつも」ってことはないだろう。
「ありがとう、ワラさん。でも、もう、おばあちゃんです」
「グランチャイルドが生まれたんですか!」
 ワラが本気でおどろいているので、三人は汗をかくほど笑った。
「レイコー!」
 という声が、四人掛けの机のむこうからする。
 あのおばさんはだれだろう、と慶一はいぶかった。
 その太り気味の女は、降ろされたままになっていたイスをはね上げ、慶一たちのほうにやってきた。そして、令子を抱きしめ、なんどか、小さく跳びはねる。
「ひさしぶりね。この薄情者。十五年ぶりじゃないのよー」
 むこう側の通路には、ベッコウ縁の眼鏡をかけ、明るいグレイのスーツに、淡いブルーのタイを締めた男がとりのこされている。
 その男が、慶一にむかって手をあげ、ちょっと口もとをゆるめてみせた。長田だ。ということは、この女は知子か、と慶一は、まだ令子と抱きあっている女の腰まわりに一瞥をくれた。
 在学中、卒業後を通じて、このキャンパスは多くのカップルを生みだし、なかにはずいぶん頓狂な組合せもあったが、なんといっても慶一を仰天させたのは、長田と知子の結婚だった。
「おい、通行の邪魔だぞ」
 という声とともに、慶一は軽くはじきとばされ、階段にけつまずき、あわてて机の角をつかみ、倒れそうになる躰を支えた。
「バカヤロー、なにすんだよ」
「ここは通路だぞ」
 と警官のようなことをいって、大男が片手で慶一をかかえこんだ。
「ヤマ!」
「やっときたな。おまえ、死んだって、うわさだったぞ」
「そうさ。きょうは『雨月物語』をやりにきたんだ」
 慶一はボディブロウをくりだしたが、クリンチ状態のせいで、あまり威力はなかった。
「先輩、山崎さんはいまでも鍛えてるから、そんなんじゃ、ききませんよ」
「義晴! 元気でやってたか」
「きのうまでは元気だったんですけどね。この人たちのおりで、もう疲れはてました」
「生意気いってんじゃねえぞ。ここは娑婆しゃばじゃない。いまだって、おまえは二期なんだからな。かわいい女房子どものところに、生きて帰りたいだろうが」
 といって、山崎はようやく、慶一の首から腕をはずした。
「もう、さっきから、ずっとこれですよ。信じられますか、この人たち」
 義晴は真顔でぼやいた。かつての美少年は、生業なりわいを反省して引退したジゴロかなんかのように、脂っけの抜けた顔に、笑みをかべている。
「慶一、おまえ、ここが何区か知らねえだろう」
 なにかたくらんでいる笑いを泛かべて、高志が慶一を見た。
「どういう意味だよ。戸塚区だろう。食堂の途中から南区――じゃねえや、港南区だっけ」
 高等部に入ったころ、南区の一部が港南区となって、その時点で区界の変更があり、このキャンパスは、すべて戸塚区に属すことになった。
「残念でした。正解は栄区です」
「またまた。そんな区は、きいたことないぜ。ダサくて、いかにも新開地らしいリアリティがあるけれど、そのへんがよけいウソくさい」
 慶一は、みんなが笑うのを待ったが、反応はない。
「義晴?」
 こいつは、いくらなんでも、慶一をかついだりはしないだろう。
「ほんとうです。いまになると、あのダサい戸塚区が懐かしいですよ」
 義晴は、悲しそうに首をふった。
[#改ページ]

33

今夜、きみに必要なのは
愛といつくしみ
きみと、きみの友人たちに
愛といつくしみを

〈ラヴ・アンド・マーシー〉
ブライアン・ウィルスン
(ビーチボーイズ)
[#改段]
 みなが、正装からカジュアルな服に着替えたりで、バーベキューの開始が遅れ、サロンでヴィデオ上映がはじまったときには、時計は八時半をまわりつつあった。
 あたりまえだが、むかしとはちがい、サロンには一〇〇インチのスクリーンが用意されていた。むかし、ここでヴィデオを上映したころは、十九インチのテレビだった。
 スクリーンわきの、スタンドにのったJBLのまえに、義晴が立つ。
「これからお見せするのは、学校に保存されていた、創立当時の記録ヴィデオです」
 どよめきが起こった。
 裏はねえのか、と酒の入った奴が蛮声をあげる。
「なにしろ、大昔のオープン・リールの機材で撮ったものですし、テープの保存状態もよくなかったので、かなり見苦しいところもあることを、あらかじめお断りしておきます」
 義晴はそこでことばを切った。
「学校の倉庫には、十時間ぶんほどのテープがのこっていました。それを一時間に編集したのが、これからお見せするものです。なお、これをコピーしたものが、記念品の袋に入っていますから、あす、お帰りのときに、非常口から出るようなことをせず、寮事務室によって、受けとっていってください。今夜帰られるかたは、幹事のほうにお申しでください。――では、これから照明を落としますが、ここは場末の映画館でもないし、みなさんも、もうティーネイジャーではないのですから、妙な行為は慎んでください」
 爆笑と、相手がいねえぞ、というヤジ。
 失礼ねー、酔っぱらい、と女子から反論が出る。
 サロンの照明が消え、スクリーンが明るくなり、ノイズが映しだされた。
 ダークグレイの背景に白ヌキで、KWTS PRESENTS の文字がフェイドインしてくる。
 ゆっくりとしたディゾルヴで、“The Kids Were Alright” に文字が変わった。
 寮の屋上から撮った、明け方の周囲の光景が、いきなり慶一の心を揺さぶる。
 あまりきれいには撮れていないが、それでも充分だった。音楽はなく、鳥の啼き声だけがきこえる。これはオーヴァーダブだろう。ギョッとするようなプレゼンスがある。
 短いつなぎで、校舎から見た寮全景、下からあおった東棟、階段ホール、部屋の扉、そのアップ(一〇二というプレートが読める)、全員がベッドで寝ている光景。
 これを撮影した日のことを、慶一はいまでもよく憶えている。十月だった。
 事務所まえの廊下、ドアに貼られた手書きの「KWTS」という貼り紙。六時五〇分を指す時計。デッキのボタンを押す、手のクロースアップ。
 これは、六六年の学園祭用に撮ったものではない。高志のいない、六七年秋だ。
 回転するリールのクロースアップ。それに合わせて流れはじめた、〈レッド・ラバー・ボール〉のオルガンとギターのイントロに、慶一は震えを感じた。
 二小節目の頭のシンバルに合わせて、寮から見た校舎の全景に校章が重ねられる。イントロから歌に入ったところで、校舎から撮った東棟と、建設途上の西棟の絵。
「生徒寮本棟、のちの東棟、一九六六年十月」というテロップが出る。
 寝静まった(ふりをしている)一〇二の内部の絵。光量のたりない、不明瞭な映像だ。
「グモーニン、ディス・イズ・KWTS。お早ようございます。起床の時間です」
 いいぞ、ワラ、という声と、学校の手先は死ね、てめえの声をきくと発作が起きる、といった罵声ばせいが、暗いサロンを飛びかう。
 同時に、全員がぱっと毛布をはねあげた。
 おっ、この部屋は異常に寝起きがいいぞ、とヤジ。
 窓際に走りよった山崎が、思いいれたっぷりに、ゆっくりとカーテンをあける。画面がハレイションを起こし、そのまま洗面所の光景にディゾルヴする。
 慶一は、十三歳のじぶんが歯を磨きながら、カメラにむかって笑いそうになっているのを見て、目をそむけたくなる気持ちと、よく見たい気持ちの挟み撃ちにあった。
 歯ブラシを吐き出し、カメラにむかって、「バカヤロー」という口のかっこうをつくってみせる。
 となりに坐った令子が、ためらいがちに、慶一に腕をからませてきた。
 ホールから食堂に入っていく寮生が、短いカットでつぎつぎと映しだされる。あちこちから、あっ、おれだ、おまえだ、という声がきこえてくる。
 食堂の黒板のクロースアップ。
「本日のメニュー 十月十日朝食
 大根の味噌汁  海苔  タマゴ  シャケ
 納豆  ご飯」
 しけたメシだ、山奥の旅館じゃねえぞ、とヤジ。
 朝が和食なのはめずらしい。あのときは、とにかくいそがしくて、この日にぶつかってしまい、そのまま撮ったのを、慶一は思いだした。
 食堂の内部。にこやかに話しながらお茶を飲む寮長。
 カメラはズームアウトし、すこしギクシャクしながら食堂をパーンで見せる。照明が天井に影をつくる。
 みんな、けっこう楽しそうに食べている。慶一は、このころの食事は、静かなもののように記憶していたので、意外に感じた。あるいは、休日のせいか。
 東棟一階のヴェランダから、俯瞰ふかん気味に玄関をねらった絵。下足室からつぎつぎと出てくる子どもたち。
 まだクツを履きかえている奴が、こんなにたくさんいたとは、呆れ果てたことだ。ひょっとして、じぶんたちのほうが、少数派だったのだろうか。
 いま手をふったバカ、おまえだろ、などとサロンがざわつく。
 校舎への坂をいく子どもたちを、寮から望遠で撮ったアメリカン・ニューシネマ風の絵。六六年にやったのだから、ハナの差で高志の勝ちだ。
 すぐに、真横から校舎裏玄関をねらった絵に切り替わる。カメラを意識して、まっすぐまえを見る奴、手をふる奴、自然にふるまう演技派、いろいろな奴が玄関に吸いこまれていく。
 このシーンは真冬だ。マフラーをした奴が何人かいる。ひとりはストライプのシックス・フッターをなびかせている。慶一は、これをいつ撮ったのか、記憶していない。
 教室の入口を引き気味に撮った絵。階段からねらっている。よりの絵にかわり、教室にはいる生徒がドアを閉め、〈レッド・ラバー・ボール〉が、ドアの閉まる音のように終わる。
 また、六六年に撮ったものにもどる。一年四組だ。バルコニーから窓越しに教室内をねらっている。画面てまえの、窓際にいる慶一と柾生の顔が、レンズの収差ですこし歪んで見える。
 同録でとった、ハム音のまじる室内のざわめきが流れ、関口先生が出席簿をかかえて、硬い顔をしながら入ってきた。ここから、室内で撮った絵になる。
 起立、というかけ声。教室うしろから、教壇をねらった絵。礼、で全員がいっせいにおじぎして、お早ようございます、という。
 おっ、四組は礼儀正しいぞ、と声がかかる。
 アニマルズの〈ウィーヴ・ガッタ・ゲット・アウト・オヴ・ディス・プレイス〉のベースラインが流れ、答案用紙に鉛筆を走らせる四組を、立った視線の高さから、横移動でゆっくりと見せる。三脚のキャスターもガタがあるし、床のビニールタイルも移動撮影など考慮していないので、カメラが搖れる。
 こんどは、坐った位置から、うしろ手にもった教鞭をリズミカルに動かしながら、生徒を見まわるといった思い入れの、関口先生の表情をあおったパーン。
 サロンのむこうから、笑い声がきこえる。曲と画面のつながりがわかったのだろう。
 化学実験室で天秤てんびんをにらむ連中、化学の教師、物理実験室、音楽室と、素早く画面が切り替わり、「ここから抜け出さなくては」というところになって、グラウンドの俯瞰になった。
 タッチフットボールをする子どもたちを、ゆっくりとパーンでとらえる。エリック・バードンが叫び、アラン・プライスのオルガンが突っこんでくる。
 コーラスが終わると、アニマルズがフェイドアウトして、〈アイ・ゲット・アラウンド〉が入ってきた。
 プールの絵。これは管理棟から電源をとったので、よった絵が撮れている。つぎつぎと、飛び板ジャンプの絵がつながって出てくる。ビーチボーイズの力をもってしても、陽射しの弱さはかくせない。これはもう十月のはずだ。
 校舎玄関にテーブルが出て、大人たちが紙袋をもらっている。「第一回学園祭」と書かれた、校舎玄関の変形マーキー上の横断幕。
 廊下の端から、いきかう来訪者をねらった絵。校舎中央階段の往来にズームする。
 学園祭の撮影はとんでもなかった。一日四回の上映の合い間を縫って、冗談のように重い「ヴィデオコーダー」(と呼んでいた)をかかえ、慶一たちは校舎のなかを右往左往した。デッキは一台だからしかたがないのだが、学園祭を記録する、と宣言した高志をおおいに恨んだ。
 階段教室のまえの、「演劇部第二回公演 村山槐多作 長田俊文演出 『ドモ又の死』」というポスターが映しだされる。
 巨匠、待ってました、のヤジ。
 ビーチボーイズがフェイドアウトして、ベレー帽をかぶり、妙なメーキャップをした長田を、下からあおったショット。
 音が〈ゲティング・ベター〉になり、美術室内部を教壇から見たショット。壁にかけられた絵、中央のテーブルにならべられた石膏せっこう像。
 柾生が、父兄にむかって説明をしている。「沼 松山柾生」というプレートと、モノクロでは、ただの模様にしか見えない陰鬱な油絵。
 慶一は吹きだしそうになった。柾生の心は、こんなドロドロしたものじゃないのに。それとも、あいつはほんとうに、あの沼が恐かったのだろうか。
「柾生さん、すごい絵を描いていたのね」
 令子がささやきながら、慶一の腕にからませた右腕を、深くもぐりこませた。
 サロンの低い部分におりる階段の上に、ならんで腰をおろしたふたりのまえにだれかがきて、二段下に坐り、躰をねじってふりかえった。高志だ。
「淫行禁止っていったろうが」
「仲間に入れてやろうか」
「どうだ、このヴィデオ?」
「あと三十年生きられたら、思いだして涙を流すんじゃないかな」
「そいつは残念だ。いま、流させようと思ったんだけどな」
「〈レッド・ラバー・ボール〉を聴いたのは、二十年ぶりだ」
「失禁もんだったろ」
 慶一は、令子の腕を静かにほどいて、画面に目をむけている高志の両肩に手をおいた。
 一九六七年四月という文字。坂をくだる三台の車の絵になり、ジャン&ディーンの〈サーフ・シティー〉が流れる。
 これは、ファーストラインに引っかけた皮肉だ。すべての男にそれぞれ女がふたり、というわけだ。じっさいには、西部の町のように、あのころは男ばかりがうようよしてた。
「高志」
 慶一は、高志の耳に口を近づけた。
「なんだよ」
 高志は画面を見つめている。サロン内から玄関前をねらったショット。
「おれ、撮影のとき、文句ばっかいってたな」
「そうだったな」
「こうなるのがわかっていたら、文句なんかいわなかったのに」
 高志は静かに笑った。
「気にするな。おれだって、こうなると知ってたわけじゃない」
 ねえ、と令子が慶一の腕をひっぱる。
 わかっていた。画面のなかでは、令子の母親が、背筋を伸ばしてベントリーの横に立った。そのわきを、スーツケースをもった高志が、無関心にすりぬける。
 ちょっと頭が混乱し、慶一は高志から離れ、令子の手をとった。
 画面の美女は、いまの令子より三つ四つ年下だろうが、権高けんだかな雰囲気はともかく、外見上は、いまの令子のまったくの相似形にしか見えない。
 ショーファーがドアを開け、紺のブレザーを着た令子がおりたった。十二歳の令子は、ちょっとあたりを見まわし、ゆっくりとマーキーの下に入っていく。
 キャッワイー、といったヤジや、口笛があちこちからわき起こる。
 令子は画面を食い入るように見つめながら、慶一の手をきつく握りかえす。
 曲がフーの〈ラン、ラン、ラン〉にかわり、快晴の運動会を校舎二階から撮った絵になる。
「わたし、どうだった」
「すごい。ドリーム・ガールだ」
 高志の苦笑が、慶一の耳にとどいた。
「あなたも、すごくかわいかったわ」
「あなたなんて呼ぶのは、まだ早いぞ」
 画面を見たまま、ふりかえらずに、高志が静かにいった。
「遅すぎたのよ」
 という令子のささやきに、慶一は目が曇った。
「いまからでも、遅くはないさ」
 と、高志がささやきかえす。
 慶一は、押さえていた手綱を解き放つことにした。
[#改ページ]

34

これですべておしまいさ
はるか昔に
終わっていたんだ

〈ジャーニーズ・エンド〉
マシュー・フィッシャー
(プロコール・ハラム)
[#改段]
 ヴィデオが終わると、義晴がスクリーンのまえにいき、これから演芸会に移る、と宣言した。
 高志はさっき、どこかへいってしまった。令子も、知子と郁子のふたりに、どこかへつれていかれた。
 だれもが立ちあがったり、伸びをしたり、周囲の人間とことばをかわしたり、なにかをしているなかで、慶一ひとりが凍りついていた。
「まるで、群衆のなかの孤独って図だぜ」
 背中のほうから高志に呼びかけられ、慶一はようやく、じぶんの行動の異常さに気づいた。
「ちょっと、こいよ。今夜は趣向がいっぱいなんだ」
 慶一が立ちあがるのも待たず、高志はきびすを返し、ビュフェのほうにいってしまった。
 しかたなく、慶一も腰をあげ、立ち話をする連中をかわし、テーブルとイスを縫って歩く。
 四十を目前にした男たちが、笑いながらヘッドロックをかけたり、かけられたり、ボディブロウを喰らわせたりしているので、二〇メートルもない道程が、急流の横断のように感じられる。
 高志は、カウンターのテラスよりの端に坐り、軽く首をねじり、慶一を見ていた。
 手にはグラスが握りこまれているが、たぶん、アルコールではないだろう。レセプションでビールを一杯やっただけで、食事中は、まったくアルコールを口にしなかった。
「いつから禁酒なんて、はじめたんだ」
 慶一は、坐るというよりは、落ちるという速度で高志のとなりのイスにたどりついて、大きく息を吐き出した。
「きょうからだ。あしたの朝までな」
みそぎの儀式かなんかなのか。おれも、斎戒沐浴さいかいもくよくでもやるか」
 カウンターのなかでは、三人の下級生が動きまわっている。そのうち、ふたりの顔と、ひとりの名前を思いだしたが、のこるひとりは、名前はおろか、顔も見覚えがない。
 カウンターの男が、黙って慶一のまえに缶とグラスをおいた。
「いまはそれだけにしておけ。さきは長いんだから。レセプションでも、晩メシでも、いい気になって流しこみやがって」
 そのことばのうしろで、電子レンジのベルが鳴る。
 慶一はなにもいわず、プルトップを抜いて、泡立つのも意に介さず、背の高いグラスにビールを注ぎこんでいく。一気に半分ほど飲みほして、慶一は高志の顔を見た。
「飲んだくれて、眠りこけたらダメなのか」
「まあ、どっちでもいいけどな。おれが我慢してるんだから、おまえもつきあえ」
「おれが飲んでるんだから、おまえもつきあえよ」
 高志がなにかいおうとすると、ふたりのまえに皿がさしだされた。そのあとを追って、タマネギのみじんがのった小皿も出現した。
「こういう趣向か」
 慶一は、小さなはさみでタマネギをつまんだ。
「ワラはどこへいったんだ」
「あいつは朝まで大いそがしだ」
 高志が、ケチャップとマスタードを慶一にまわす。
「どうして?」
 なにもいわずに、高志は紙ナプキンで包んだドッグを片手に立ちあがった。
「いくぞ」
「なんだよ、せわしない奴だな。だいたい、これはタダなのかよ」
「もう払った。銀座で飲んだほうが安いくらいだ。寄付金は寄付金で、べつにとりたててもらいたいね。こんな代物にバカ高い金を払ったら、名折れだぜ」
 あわててのこったビールを飲みほし、ドッグをひっつかんで、慶一は高志を追った。もう、テラスに出ている。
「どこいくんだよ」
 高志はなにもいわずに、バーベキューガーデンにおりる階段に足を踏みだした。
 むこうの小高い丘が、あとはみな、平らになってしまったのに、削られずにのこっている。ここだけ見ると、なにひとつ変わっていないように思えてくる。
 昼間も照ったり曇ったりの陽気だったが、いまはすっかり雲におおわれているようだ。
 ヘッケルへの坂道に高志がむかうので、慶一も気のない足どりでそちらへ歩いた。外に出ても、いっこうに涼しくないので、うんざりする。
「ヘッケルはしまってるんだろう」
 食堂との接続部分で防火シャッターがおろされ、むこうには、いけないようになっていた。
「だから、大まわりしてるんだろうに」
 急な坂をのぼりきり、風呂場の外にたどりついた。
 道のむこうは土手で、その下の道路をはさんだ、さらにむこうは、もう人家が密集している。むかしのここを知る人間には、じつに奇怪な光景だ。
 非常口のドアは、カギがかかっていなかった。
「これじゃあ、閉鎖もへったくれもないな」
 慶一は高志のあとから、十五年ぶりでヘッケルに足を踏み入れた。
 高志がスウィッチを押し、蛍光灯が、じたばたしたあげくに、ようやく点灯した。
 もう、ここまでくれば、慶一にも目的地はわかっている。
 階段に足をかけると、上からギターの音と歌声が降ってきた。高志も意外そうな表情なので、これは「趣向」の一部ではないらしい。
 どうやら、曲は〈アイル・ビー・バック〉のようだ。
 四階にたどりついた慶一は、そこに壊れたアナログ・プレイヤーを見た。じっさいには、それは人間のすがたをしていたが、慶一の目には、ベルトの切れたプレイヤーにしか見えなかった。
「相変わらずひどい音程だな、広岡」
 といいながら、慶一は手すりに背中をあずけた。
「うるさい、邪魔するな。おまえは下で練習しろ。ここは、おれたちの場所だ」
 折り畳みイスにすわり、深いサンバーストのギブスンJ-160Eをかかえ、躰をゆらゆらさせている。これでは音程もはずれるし、リズムもキープできないだろう。
「おれはさきにいってる」
 高志が慶一に左手を差しだした。すぐに、ドッグをもってってやる、という意味だとわかり、慶一はそこに、まだ充分に温かいドッグをのせた。
「そいつはやっぱり、いい音だな。いまどきのギターには、そんな音は出せない。そいつのオープン・コードを聴くと、漏らしそうになるよ」
「ああ、こいつはいいギターなんだ。二十五年まえにはじめて見たときは、カギのかかったウィンドウに収まって、三六万て値札をぶらさげていた」
「そうだったな。想像を絶する値段だった。あのころなら、それだけあれば、車が買えたんじゃないかな」
「買えなくはないが、クラウンはむりだ。パブリカぐらいさ」
「でも、車は十年がいいところだけど、ギターは人間より長生きする」
「ああ、ギターは便利だ。弦を張り替えるだけで、きょう生まれたような音を出す」
「そうかな……。おれには、二十五年まえの音に聴こえる。ジョンの音だ」
 ビートルズ時代、ジョンはよく、このギターを弾いていた。
「ギターも、あるレベルを超えると、弾き手を選ばなくなる。ギターのほうが、圧倒的に優勢になるんだ。だから、おれが弾いても、ジョンみたいに聴こえる」
 慶一は小さく、低く笑った。ちょっと、こいつを励ましてやろう。
「楽しかったな、あのころは」
「ああ、楽しかった。でも、おかげで、七〇年代からこっちはゼロだ。二十歳で死んでれば、おれの判定勝ちだったのにな。食い意地張って、じり貧だ」
 そういって、広岡はオープンEをストロークした。深く、豊かな低音域と、鈴の転がるような高音域をミクスした、一連のギブスン・ジャンボ・モデルに特有のコードが、非常口を支配する。
「だれと勝負してるんだ」
「この世界さ」
「相手が悪すぎるんじゃないか」
「だから、長生きしたら、かならず負ける。このゲームには、公正なルールなんかないんだ。地上でモタモタしてると、襟首ひっつかまれて、はりつけにされちまう」
 ふたりのあいだに、〈アイル・ビー・バック〉の単純なギター・リフがただよう。
「なあ、広岡。たのみがあるんだ」
「なんだ。このギター以外なら、なんだって、くれてやる」
「いや、じつはな、そのギターのことなんだ」
 広岡は、おぼつかない目で、美しいサンバースト仕上げのボディを見おろした。
「いや、くれっていうんじゃない。ちょっと貸してほしい。いまじゃなくて、もっと遅くなってからだ」
「ミドナイト・アワーか」
「それくらい、知ってるぞ。ラスカルズだ」
「それはカヴァーだ。オリジナルはウィルスン・ピケットだよ。ギターはスティーヴ・クロパー、アル・ジャクスンがドラムだ。惜しいことをした。いいドラマーだったのに」
「死んだ奴の勝ちなんだろう。なあ、ちょっと貸してくれるだけでいいんだ」
「ああ、貸してやる。でも、条件がある」
「なんだ。金か、女か」
「一曲、いっしょに歌おう」
 慶一は笑いだした。
「いいけど、できる曲があるかな……」
「ビートルズは?」
「そうだな。2パートのハーモニーだな。なんだろう……。〈イフ・アイ・フェル〉は?」
「だめだ。コードを忘れた。情けないな。それに、あの “ラ” は、もう出ない。ホント情けないな。〈アイル・ゲット・ユー〉なんて、どうだ?」
「渋いな、そいつは」
「ガキじゃあるまいし、おれは大ヒットのカヴァーなんて、礼儀知らずはやらないんだ」
「たしかに、金になることが証明ずみの曲ばかり、カヴァーされるな」
「まあ、歌ってのは、そうやって生き残るんだろうけどな。おまえ、上を歌えるか?」
「やってみよう。歌詞は覚えてないけどな。何回かやれば、うまくいくかも」
「よし、じゃ、〈アイル・ゲチュー〉、テイク・ワン」
 広岡が右足でカウントして、頭のベースラインを弾く。
 これは入口のタイミングが微妙で、まず、そこでつまずいてしまった。
 歌詞がいくら「簡単だ」と主張したところで、それは簡単にはいかなかった。相手は酔っぱらってリズムがおぼつかないし、ときおり、お呼びでないコードを弾いたりする。
 慶一も、ポールのパートなんて忘れていた。ひどいデュエットだったが、ほんのときおり、高音部で、ふたりの声がきれいなハーモニーを響かせた。
 三回歌ったところで、慶一はあきらめた。
「なあ、ロックンロールだけだと思わないか」
 広岡のあいまいな表現も、バックグラウンドを共有する慶一には、注釈なしで理解できた。
「そうだな。おれも、ほかのことは、どうでもよくなった」
「どうして、それに気がつかなかったのかな……。アーイ・シュダヴ・ノウン、さ」
 やはり、慶一とおなじように、さっきの〈レッド・ラバー・ボール〉が頭にこびりついていたのだろう。あの曲のファーストラインを半分だけうたった。
「これ、もってけ。おれは、もういい。そいつのツラも見飽きた。サンバーストを見ると、めまいがするんだ。こんどはストラトにしよう、ナチュラルかなんかの、めまいが起こらないフィニッシュでな」
 二フレットのあたりにピックをはさみこんで、広岡が慶一にギブスンを差しだした。
「あした、返すよ」
「ああ、生きてたらな」
「部屋はどこなんだ」
「さあな……。二一七に荷物はおいてきたけど、あしたの朝、そこにいるって保証は全然ない」
「じゃあ、適当にさがすよ」
 うなずいて、イスに深く沈みこんだ広岡をのこし、慶一はヴェランダに出た。
 目のまえにあふれる灯に、心のなかでつばを吐きかけ、四〇七側に曲がっていく。
 四〇七のヴェランダには、むかしのようにデッキチェアがふたつあり、高志は、むかしのように非常口側に脚を組んで坐っていた。部屋の灯は消えているが、周囲の光で足もとは明るい。むかしは、夜中になると月明りだけが頼りだった。
「すげえデュエットだったな。ディランとジョニー・キャッシュを思いだしたぞ」
「年輪が才能をカヴァーするんだ。味わい深かっただろう」
 ジョニー・キャッシュの〈ゲット・リズム〉を口ずさみながら、テーブルと手すりのせまいすきまを抜けて、慶一はかつての定位置に腰をおろした。
「おまえのぶん」
 高志がテーブルにおかれたホットドッグを、慶一のほうに押しやる。
 慶一はギターを手すりに立てかけ、ドッグを口にくわえる。
「ここに坐って、この蜃気楼を見ていると、おれたちの現実のほうが幻に見えてくるな。おまえらなんか、はじめからいなかった、っていわれてるような気がしてくる」
 高志は、手にしていたタバコを、アルミの灰皿に押しつけた。
「まったく、他人の家に、土足でずかずか上がりこんできやがって」
「しかたない。おれたちだって、そうしたんだ。ちょっと早かっただけのことさ」
 そういって、高志は立ちあがった。
「おれは、もういく」
「なんだ、ボーイだったのか。チップをやろうか」
「ヴォランティアだ。寄付ならもらうけどな。一口五千円だ」
 高志は室内に入る。しばらくして、スピーカーから返事がきこえた。
「おれだ。いまから、そっちへいく。どんな調子だ」
「いつでも、はじめられますよ」
 スピーカーから返ってきたのは、ワラの声だった。
「なにをはじめるっていうんだ」
 ヴェランダにもどってきた高志に、慶一がきく。
「すぐにわかるさ」
「まったく、人間ていうのは、ぜんぜん変わらないんだな」
 めんどうになったので、慶一は追求を放棄した。
「なあ、おれがもどるまで、ここを動くなよ」
 そういって、高志は非常口方向へ消えた。
 慶一は弦を張り替えることにして、六つのペグをゆるめはじめた。広岡は左利きなので、弦を張り替えないと、慶一には弾けない。
 もっとも、張り替えたあとで、どうこうする気もなかった。
 ただ、こういう作業にはトランキライザーとしての一面があり、今晩の慶一には、それが必要だった。
[#改ページ]

35

老いた孤独なギター弾きと
帰郷した女王にとって
いったいそれに
どんな意味があるというのか

〈デイドリーム・ビリーヴァー〉
ジョン・ステュワート
(キングストン・トリオ)
[#改段]
 弦の張り替えは、通常、だれにでもできる作業といってよい。
 だが、ギターによっては、やっかいな場合がある。このJ-160Eはそのひとつで、アクースティックに不慣れな慶一は、悪戦苦闘を強いられ、おかげで、雑念は吹き飛んでしまった。
 ブリッジ側で弦を押さえているのは、ただの象牙の棒で、これを穴に差しこんで弦を押さえこめば、十中八九、おとなしく収まってくれることになっている。
 だが、押しこみ方が悪いと、弦の張力が増すにつれて、徐々に頭をもたげてきて、それに気づかずに巻きあげていくと、最悪の場合、ためこまれた張力で、象牙のピンは、ミサイルとなって発射されてしまう。
 慶一は、ヴェランダにしゃがんで、あちこちを見まわしていた。
 どうして、象牙なんてものを使うんだ。象牙のピンがまた手に入る保証はない。コンクリートに当たった音がしたから、まだこの周囲にあるはずだ。
「なにやってんの」
 その声におどろいて、慶一は顔をあげた。ワラが、テーブルの下の慶一をのぞきこんでいる。
「落としもんだよ」
「コンタクト・レンズかなんか?」
「もっと、どエライもんだ」
「令子ちゃん、慶一はいそがしいみたい」
 おどろいて、慶一は急いで起きあがった。テーブルに頭をぶつける、なんてドジを踏まないようにと注意したまでは上出来だったが、ギターを立てかけてあったのを忘れていた。
「あー!」
 ネックとヴェランダの床が、三〇度ほどの角度をつくったところで、かろうじて慶一の右手が五フレットのあたりをつかんだ。
 ペグから解き放たれていた数本の弦が、ピアノのなかで猫がヒステリーを起こしたような音をたてた。
「命拾いしたぜ」
「なに、大騒ぎしてんのさ」
 慶一はひたいに汗をかいていた。
「人間の命は地球より重いとしたら、人間より価値があるギターは、どうなるのかな」
「きょうはみんな、頭がおかしくて、疲れますよ。なにいってるのか、全然わからないもの」
 ワラが令子を見かえって、ボヤいた。

 ワラも、高志とおなじく、今晩はヴォランティアのボーイをやっているらしい。令子を送りとどけると、すぐに去った。飲み物もおいていってくれたが、高志の指示で、アルコール類はない。
 じぶんが、はじめてデイトした中学生のような話し方をしているのを、慶一は意識していた。そういう気分になる環境がととのっているのだから、それもしかたない。
「むかしはさ、夜はなんにも見えなかったけど、昼間は、ここからの眺めは最高だった」
「ええ、そうだろうと思っていたわ。こんなふうになるまえに、見ておきたかった」
 音楽室から、レセプション、バーベキュー、余興のヴィデオまで、なんのわだかまりもなく、二十四年の空白もなく、ごく自然に話していたのに、いまは、うまくことばが出てこない。
「高志は、ほしいものはかならず手に入れた。この部屋もそうだ」
 あまり確信がなさそうに、令子は口のなかで、そうね、とつぶやいた。
 サロンの方向から、厚みのある笑い声がまわりこんでくる。みんなも、これからがほんとうのパーティーだ。朝まで大騒ぎだろう。近所から苦情がこないといいが。むかしとちがって、いまはご近所サマが、至近距離でひしめきあっている。
「高志が六月に、きょうのパーティーのことで電話してきてさ、それから、へんなんだ」
「なにが?」
「不思議の国に落ちこんだ気分」
「八年ぶりの日本も、そうとうにワンダーランドよ」
「そうだろうね。でも、もっとずっと昔のことを考えていたんだ。二十五年まえのね」
「兄さんのこと?」
「それもそうだけど、令子ちゃんのことだよ。六六年の夏休みに、みんなで馬車道に、ビートルズの二本立てを見にいったの、憶えてる?」
「もちろんよ。もう映画じゃなくて、スティルみたいにしか思いだせないけれど」
「おれもそうだよ。五、六枚のスティルが見えるんだけど、その一枚は、令子ちゃんが目を泣きはらしているんだ。それに、〈ルーズ・ザット・ガール〉が聴こえる」
 令子は記憶をたどっているような顔で、なにもいわない。
「高志に電話もらってから、『ア・ハード・デイズ・ナイト』のヴィデオをまた見たんだ。全然そういう映画じゃないのに、あのステージのシーンで、中学生ぐらいの女の子が泣いているのを見てたら、いきなり涙が出てきた」
「思いだしたわ。あのシーン……」
「おれとしてはさ、ああいう女の子たちの大騒ぎは、あんまり好きじゃなかった。彼らがスタジオにこもったのは、ひとつにはあれが原因だし。でも、あの子を見て、納得がいったよ」
「納得なんかしないで。理屈じゃないんだから」
「そうだけどさ。でも、あれは、ある意味で、当時のおれでもあるんだ。女なら、ああしていただろう。聴くまえに、まず感じることができたのは、あの時代に生きた子どもだけだ」
「ええ。いまは感じるんじゃなくて、聴くんでしょうね。音楽だもの。それでよかったのよ。あの来日なんて、大人たちにまでマイナスの感応が起こって、日本が大嫌いになったわ」
 考えてみると、あのころの子どもたちの大部分は、最低の国に生まれたと思って生きていたような気がする。
 いまでは、国というのは、すべて最低なのがわかっているが、それで、日本国が好きになるわけではない。あの大人たちの悪鬼の表情、知性のかすかな徴候すらない醜悪な振舞いは、けっして忘れないだろう。
「たしかに、ただの音楽として聴けばいいのかもしれない。彼らが精魂をこめたのはレコードだからね。針をのせれば、いつでもそこにジョンの声がある」
「ええ、あの哀れな大人たちが死んだあとも、ジョン自身が死んだあとでさえも、ジョンの声を聴けるの。それで充分よ」
「でも、愚か者のことはどうでもいいんだ。おれがいおうとしたのは、令子ちゃんが泣いてから二十五年後に、おれも泣いたっていうことなんだ。……まあ、年とると涙腺がゆるむんだろうけど」
 慶一は、あの静かに泣いていた少女をとおして、二十五年の時を飛び越え、令子のなかに入ったような気がしていた。
「ねえ、ワラさんにいわれたの。十一時になるまえに、部屋に入っているようにって」
 令子は立ちあがり、慶一の肩に手をかけた。どういう意味だろう。
 部屋には、応接セットがなかった。いくつか、折り畳みイスが壁に立てかけてあるだけだ。
 令子はごく自然に、三つあるベッドのひとつに慶一をいざなう。
 慶一は、こんなことをスムースにやる、じぶんたちの年齢を思わずにはいられなかった。
 あとでギターを片づけなくては。あれは、まだギブスンがギブスンだった時代につくられた、正真正銘、徹頭徹尾ほんもののギブスンだ。もう、ヴィンティジ・ギターといえる。
 ふたりが腰をおろすと、それを待っていたかのように、スピーカーから音楽が流れだした。
 マンフレッド・マンの〈ドゥ・ワ・ディディ・ディディ〉だ。ヴァースに入るやいなや、ヴォリュームがしぼられる。
「グディーヴニン、ディス・イズ・ザ・リインカーネイション・オヴ・KWTS。予定にないことですが、これから、特別プログラム、※(始め二重山括弧、1-1-52)KWTSファッキン・ラスト・ナイト※(終わり二重山括弧、1-1-53)をお送りします。プログラムに入るまえに、KWTSのレジェンダリー・ファウンダー、一期の浅井高志から、お話があります」
 伝説の創設者レジェンダリー・ファウンダーがおかしかったのだろう、オフマイクの笑い声がきこえる。
「これは、わが局創設以来、最初にして最後の深夜放送です。われわれの手もとには、百枚近いCDがあります。今夜は、まあ、オールナイトとはいかないですが、二時ぐらいまでは、あのころのヒット曲を、このクソッたれな最終回を呪って、どんどんかけるつもりです。インターフォンは生きていますから、リクエストを受けつけます。ワラ、ちょっと、そこのCDを紹介してくれ」
「えー、基本的には、六〇年代中期のものです。ビートルズは『ラバー・ソウル』まではそろっています。『ザ・ブリティシュ・インヴェイジョン』なんていう四巻ものとか、ずばり『ビルボード・トップ40』なんてオムニバスもあります。ビーチボーイズは『ペット・サウンズ』『トゥデイ』『エンドレス・サマー』の三枚、ストーンズは『ホット・ロックス』があります。もちろん、シルヴィー・ヴァルタンも、ナンシー・シナトラもあります! そんな感じで、あのころの雰囲気がでるよう、いってみましょう。じゃ、部長、いってよろしいですか。お許しがでましたので、レッツ・キック・イット・オフ・ウィズ……ザ・キンクス! 〈ユー……リアリー……ガット・ミー〉!」
 過負荷でひずんだギターコードが、ワラの紹介のうしろで荒々しい音をたてる。正確なタイミングで、ワラに入れ替わって、レイ・デイヴィーズのヴォーカルが入ってきた。
「あいつら、これをやるつもりだったんだ……」
 無意識のうちに、慶一はかたわらの令子の背に腕をまわし、抱きよせる。
「この曲が、メランコリックに聴こえる日がくるとはね……」
 慶一は、突然、おそろしいことに気づいた。
「たいへんだ!」
「どうしたの」
 立ちあがった慶一の腕から、令子の手がすべり落ちた。
 足早にスピーカーのほうに歩みより、慶一はインターフォンのボタンを押す。
 天井のスピーカーから、咳払いがひとつ。
「帳場です。もうおしまいですか。五分でも、二時間でも、おんなじ――」
「バカヤロ。まだ、はじまってない」
「ちょっといそがしいけど、介添かいぞえがいるなら、いってやるぞ。どうぞ」
「このヒヒじじい。おまえ、覗きをやってないだろうな。どうぞ」
「きみもよく知っているように、局にいないかぎり、こうして話す方法はない。どうぞ」
「だから、危ねえの。これが生きてるってことは、おまえ、好きなように、この部屋のようすをきけるってことじゃないか! 変態! どうぞ!」
「それは、きみの被害妄想です。そんなことを気にしていると、インポになるぞ。どうぞ」
「――失礼、トムです。あのさ、慶一。ぼくがここにいるから大丈夫。それに、いそがしくて、それどころじゃないよ。じゃあ、ほかの部屋から呼出しがあるから、チャネルをあけてもらうよ。グドラック! ハヴ・サム・ファン」
 あきらめて、令子のところにもどりかけると、また一小節で思いだせるイントロが流れだした。十二弦のリードに、これまた十二弦のサイドが、重いアクセントをつける。
「ディス・ソング・イズ・デディケイティド・トゥ・ザ・レイト・グレイト・ジーン・クラーク。ザ・バーズ、〈(トゥ・エヴリシング・ゼア・イズ・ア・シーズン・)ターン! ターン! ターン!〉」
 なにいってんだ。故ジーン・クラークに捧ぐだと?
 ちょっと迷ったが、慶一はまた呼出しボタンを押した。
「しつこい奴だな。二回目が終わったからって――」
「うるさい。いまのはどういうことだ。ザ・レイト・グレイト・ジーン・クラークってのは?」
「おれも、さっきワラにきいたところだ。まえの晩に自宅でレコーディングをして、バックトラックだけのこして死んでいたんだとよ。五月ごろの話らしい」
「死因は?」
「発表は心臓発作ってことだけど、例によって、くわしいことはわからない」
「もしあったら、〈フルサークル〉か〈ユー・ウォント・ハフ・トゥ・クライ〉をかけてくれないか。そのほうが、ジーンにふさわしい」
「わかった。『タンブリン・マン』はあるから、あとで〈クライ〉をかける」
 慶一はあの曲を思いだし、「でも、そんなことは、以前にもなんどもあったこと」だから、「泣かなくてもいいんだ」と考えた。
「みんな死ぬ」
 と、令子のいるベッドにもどりながら、つぶやく。
 そんなことは、あまり考えたことがなかったが、これが歳月というものらしい。
 慶一を微笑で迎えながら、令子がサイドテーブルのスタンドをつけた。このランプとテーブルにしても、外のデッキチェアにしても、どこからあらわれたのだろう。
「なにを考えこんでいるの?」
「『あらゆるものに、ふさわしいときがある』か。いまがそのときだと思う?」
「二十四年まえでしょう。でも、いまだって、わるくないわ。永遠にこないよりは、ずっといい」
 十二弦のアルペジオのなかに浮かんで、慶一は令子におおいかぶさり、その唇にふれる。それは、慶一の予想に反して、長く、深い口づけになっていった。
「つづきがあるなんて、思わなかった」
 令子はなにもいわずに起きあがり、複雑に交叉するサンダルのストラップをはずした。
 まずいな、と思いながら、慶一は小さく笑ってしまった。
「なにがおかしいの。笑ってないで、あなたも靴を脱ぎなさい」
「だってさ、考えてみると、おれ、こういうのって、はじめてだ」
「なにがはじめてなの」
 そういいながら、令子は慶一の足をもちあげ、スニーカーを脱がしていく。
「ベッドに転がりこんでから、靴を脱ぐってパターンだよ。むかし、映画で見たけど」
「安いホテルばかり使っているんでしょう。ちゃんとしたホテルなら、こうなるはずよ」
「まさか。その手の場所って、一回しかいったことないよ」
 慶一は寝ころがったまま、令子の横顔をながめる。
 この令子と、あの令子は、ほんとうに連続しているのだろうか。あまりにも深い空白のせいで、現実感がない。
 いったい、おれたちはなんなんだ。恋人たちか。だとしたら、ずいぶん妙な話だ。
 でも、高志と令子が共謀して、そういう芝居をしろというのなら、しばらくはつきあってみよう。むかしだって、みごとにだましてくれたじゃないか。
 背中の下で、肩胛骨を突いているものの正体をたしかめようと、慶一は肩をもちあげ、右手でさぐった。
「どうしたの、ノミでもいるの?」
 もっとずっと大きい。J-160Eのピンだ。助かった。
「コンクリートでバウンドしたからって、ここまで飛ぶかな」
「なあに。ノミの話?」
 ピンをコットンパンツのポケットの奥に押しこみ、慶一は態勢をたてなおした。
「いいんだ。それより、あれから、どうしてたのか知りたいな」
「さあ……。あなたは?」
「べつに。大学入って、出たら石油ショックで、ちょっと髪を短くして、なんとなくそこらの会社にもぐりこんで、ほかの五三年生まれと同じく、景気がよくなったところで、もっと髪を短くして、もうすこし給料のいい会社に移って、結婚して、子どもが生まれて、離婚した」
「履歴書なら、年月日を書きこまなければダメよ。お子さんは何人?」
「ひとり。女。おれを憎んでる。あのうちじゃ、大悪人なんだ」
「なにか、悪いことをしたの?」
「ああ。会社に寝泊まりしてた」
「それは重罪ね。賞罰は終わったから、あとは趣味と特技」
「趣味は読書と音楽鑑賞。ただし、むかしのロックンロールにかぎる」
 あれからさきの話もききたいが、とりあえず、外堀から攻めることにしよう。
「きみたちのことを話してくれないか。子どものころのことを」
「さあ……つまらないことばかり」
「それは、きかないとわからない。なんなら、二十の扉でやるかい。それは動物ですか?」
 令子はクスクス笑っただけだ。この手に引っかかった人間はいない。
「小学校にあがった年だったわ、浅井のうちにいったのは――」
 笑いながら、令子はそういい、慶一のほうに躰を回転させる。
 スピーカーから、ブライアンのファルセットが流れてきたのを、慶一は意識の片隅で聴いていた。めずらしい曲をかけている。〈アイ・ドゥ〉だ。
「あいつは、いい兄貴だったんだろう」
「いい兄貴ねえ……。慶一さん、浅井のうちって、すこしはご存じ?」
「いや。それほどくわしくは……」
「高志兄さんのお母さんが、浅井の父の二番目の奥さんだってことは、知っているでしょう」
 慶一は、なにもいわずにうなずく。
「上の兄たちは、絵に描いたような意地悪なんかじゃなかったわ。でも、年も離れているし、まったくの他人で、高志兄さんは “あいつら” って呼んでいたわ」
「姉さんがいたよね、たしか」
「ええ。佐和子姉さん。あの人だけは、高志兄さんをかわいがって、兄さんも、あの人にだけは、憎まれ口をいったりしなかった」
「てことはさ、厄介払いに、ここに押しこまれたわけか、あいつは」
「そうじゃないわ。浅井の父は、よくわからない、へんな人だけど、冷酷じゃなかったわ。子どもにあまり関心がないだけだと思うの。兄さんが、じぶんでここを選んだのよ」
「でも、あいつ、追い出されたような口ぶりだった」
「知ってるでしょう、兄さんの話に飾りが多いのは」
「たしかにね。飾りが多すぎて、いつも本体が見えなくなる」
「姉さんがオリンピックの年に結婚して……わたしが四年生のとき。兄さん、がっかりしてた。わたし、兄さんにいじめられたことなんて、あまりないけど、あのころだけは、よく泣かされた。知ってるでしょう、あの口の悪さ」
 慶一は笑った。ひょっとしたら、令子よりよく知っているくらいだ。
「でも、しばらくすると、こんどは猫っかわいがりに、わたしのことを甘やかしはじめたのよ。映画にもよくつれていってくれたし、いろいろなものを買ってくれたり、写真を撮ってくれたり、ものすごかったわ」
「高志がそういうふつうの反応を示したってきくと、安心するな。精神分析でいう、補償ってやつだ」
「だとしても、ふつうじゃなかったわ、あれは」
「それについても、あいつらがいってる。補償ってやつは、過剰になるんだ」
「でも、大きくなったら、結婚しようっていうのよ」
「へえ。それで、そのプロポーズはどうなったの?」
 令子は笑いだした。
「あのころのわたしたちを知らないから、へんに思うでしょうけど、わたし、兄さんと結婚するつもりだったのよ。それも、高校を卒業したらすぐにって、決めていたわ」
 慶一は、相づちに困って黙りこんだ。
 とにかく、失われたパズルの断片がひとつ見つかった。そして、それは想像したとおりの形で、きちんと絵のなかにおさまったことになる。
「ねえ、慶一さん。ハガキを送ったのに、どうして返事をくれなかったの?」
 あの年の八月に絵はがき、十二月にクリスマスカード、それからたしか翌年と、令子は慶一に三枚のハガキを送ってきた。
「だって、それは……冗談だろ。わかってたんじゃないのかさ」
「いいえ。きっと慶一さんは怒ってるんだろう、ぐらいしか考えられなくて」
 慶一はベッドの上に起きあがり、令子を見つめた。
「そんなものか……口にだしていわなくちゃあ、わからないよな」
 いぶかしげな視線を向けながら、令子も上半身を起こし、ヘッドボードにもたれかかる。
 令子がとなりに坐っていることと、あのときの喪失感が正面衝突し、どちらも道をゆずらないため、すべてが非現実的に見え、慶一は脈絡を失った。
「どうしたの。ちゃんときいてるから、つづけて」
「うん。でも、そのまえに、まだいってなかったことをいっておかないと」
 令子は、じぶんのひざのあたりに向けていた視線を、ゆっくりと慶一のほうにふりむけた。
「会ってみてわかったんだけど、もういちど、どうしても会いたい人間なんていうのがいるとしたら、それは令子ちゃんだったって、そう思った」
「ただし、こんなおばあさんじゃなくて、十二か三の女の子のことね、それは」
「まあ、半分は」
 さきに令子が吹きだしたので、慶一も安心して笑い声をあげた。
「おたがいさまよ、それは。わたしも、もういちど天使のような頬をした子に会いたいもの」
「まあ、どっちかひとりだけ、若いままでいなくてよかった」
「ほんとうね。それで、さっきの質問の答?」
「ああ。あのときは、いろんなことがいっぺんに起こったし、おれは子どもだったし、いま考えるとスジがとおらないんだけど、もう、令子ちゃんのことは考えちゃいけないと思ったらしい」
「なぜ? わたし、あれから、長いあいだ、慶一さんのことを考えてたわ」
 じぶんを守るように、慶一は頭板からずり落ち、ベッドに横たわった。
「……ウーン、高志がいなくなったことが、ショックだったんだよ。なんか、高志に悪くてさ……令子ちゃんには、たとえハガキでだって、二度と近づかないって決めたんだ」
「ひどい話ね。そんなことで無視されたなんて」
「そう意味じゃないんだ。この話は、あまりしたくない。自尊心の問題だから」
 ノドにからんだ慶一の口調のせいか、令子は頭板を離れ、おなじように身を横たえ、慶一の首に手をかけた。
「わたし、あのときのこと、もうあまり憶えていないの。でも、ひとつだけ、兄さんのいったことをよく憶えているわ」
「また、本体じゃなくて、飾りの部分だ」
「まじめな話よ。わたし、もう慶一さんをだますのはやめましょうって、何回か兄さんにいったのよ。兄さんはそのたびに、『おまえは、じぶんで思っているより、ずっと慶一のことが好きなんだ』っていってわ」
「へえ。あいつ、天性の詐欺師だからな、くりかえしおなじ話をいいきかせることの効果っていうのを、よく知ってるんだ。ガキのときから、その手になんどもやられてる」
 令子はなにも反論しなかったが、その沈黙には不満がこめられているようだった。
「とにかくさ、おれにはよくわからない、いろんな事情が重なっただけで、だれも悪意があったわけじゃないって、理性ではちゃんとわかっていたんだけど、やっぱり、いいようにあしらわれたっていうか……おれだけ子どもあつかいされて、ぎりぎりまで事情を知らされていなかったのが、すごくくやしかったのは、はっきり憶えている。そういうこともあって、返事を出したくなかったんだ」
「子どもあつかいっていうのとは、ちがうんじゃないかしら」
「そうかもしれない。でも、それまでの高志とのつきあいっていうのは、それが当然に思えるようなものだったんだ。おれが正しいか、まちがっているかは、関係なくね」
「兄さんに、それをきいてみたの?」
「いや。あのときにことに関しては、ひとこともきいたことがない。また、高志とつるんで遊ぶようになってからは、それが暗黙のルールみたいになったんだ」
「ああ、わかった。十三歳で死んじゃった、かわいそうな女の子がいた、でしょ」
「いや。死にもしない。はじめから、高志もおれも、そんな子の存在は知らないんだ。すくなくとも、高志とおれがいっしょのあいだはね。ひとりのときに、なにを考えたかはべつさ」
「慶一さんは? どんなことを考えたの」
「……正直にいうと、ほとんど考えなかった。考えるようになったのは、この何年かのことだよ。たぶん、もう記憶をよみがえらせても、それほど危険じゃなくなったからだと思う。それと、年をとって、目のまえの女たちに幻想をもたなくなったこともあるかな」
「あら、じゃあ、わたしは季節はずれの幽霊? 出るんじゃなかった。幻滅ね」
 令子の笑い声に自嘲の響きはなかったので、慶一も安心して笑った。
「こうなったら、正直の大安売りをしちゃうけど、おれもそれを心配してたんだ。それがさ、じっさいに会ってみると、そんなことはないんだ。きっと、ここにいると精神年齢が後退するんだろうな。なにも知らないガキにもどったみたいだ」
 だれかがエアコンのスウィッチでも入れたように、開け放した窓から、いきなり冷たい風が吹きこみ、網戸をがたつかせた。
 天気予報では、オホーツク海高気圧が南下してくるから、あすから涼しくなるだろうと、それがじぶんたちの手柄かのように、誇らしげに予告していた。
「あのとき、あいつ、こんな日がくることを考えていたのかな」
「あの人のことだから、絶対にそんなことはないとはいえないでしょうね。でも、兄さんて、むやみに用意がいいかと思うと、妙にいきあたりばったりのところもあるのよ」
あれは、どっちだったのかな」
「わたしね、もう十何年かまえのことだけど、死のうと思ったことがあるの。ああ、これはもう終わった話だから、気にしないでね。わたしがいいたいのは、そのときに考えたことのほうなんだから」
 ほんとうは、おどろいて、ききかえすべきなのだろうが、慶一はふしぎに冷静な気持ちで令子の話を受けとめ、それがあのときのことと、どうつながるかのほうが気になった。
「でもね、あれって静かに死ねないのよ。知られたくないことをほじくりかえされるでしょ。そのときに、兄さんのことを思いだしたの。あれは、たぶん自殺の一種だったんじゃないかって」
「……でも、そうだとしても、どうして?」
「兄さんに、きいてみたら? もう、暗黙のルールなんて意味ないでしょう」
「そうかもしれないけど……」
 乾いた風と令子の体温のコントラスト、それに子どものころの記憶が、慶一の意識を押し流しはじめていた。
 このまま眠れたら、たとえ二度と目覚めなくても幸せだろう。
「怒らないでほしいんだけど……おれ、すごく眠い」
 一瞬、令子はことばを失い、すぐにやわらかな笑い声をもらした。
 慶一は最後まで令子の笑い声をききとどけず、過去へむかってスライドし、プールのベンチに坐って、世界を染めあげるような令子の笑顔を見つめ、彼女を失う日のことを考える。
 するどい、刺すような喪失感に襲われ、慶一は眠りの国からはじきかえされた。
「眠ってたらしい……」
「いいのよ、眠りなさい」
 時間と因果関係が混乱したまま、令子がまだいることを確認し、慶一は安心と不安に同時に襲われ、なにか、もっとたしかなものがほしくなった。
「まだ、いてくれる?」
「ええ、よければ、ずっと」
「ずっと?」
「ええ」
 もはや、十三歳の令子と、この大人の令子の区別はなく、慶一は東屋に坐って、令子と夏休みのことを話しあっていた。
[#改ページ]

36

昨日と今日のあいだには
百万年の時間が
流れたみたいだ

〈ビトウィーン・トゥデイ・アンド・イエスタデイ〉
アラン・プライス
(アニマルズ)
[#改段]
 小さなレコード屋だ。間口一間半の店に、十人近い客がひしめいている。
 真っ白なジャケットに Beatles と書いてあるレコードと、黄色い地に黒インクのみのモノトーンの絵をはりつけたレコードをもって、カウンターに近づこうと悪戦苦闘していた。
 二枚のLPには、四千円という値札がついている。どう考えても、とんでもない値段だ。
「そいつを買うつもりならいっておくけど、その『ルネサンス』っていうのは、やめておけ。ひどい音なんて、とおりこしてるんだ。悲鳴以外、なんにも聴こえないんだからな」
「高志!」
「そうだよ、だれだと思ったんだ」
 慶一は、いわれたとおり『ウィスキー・フラット』だけ買い、逃げないように、高志の革ジャンの袖をつかんで表に出た。あとすこしで、遠い太陽が完全に姿を消す。
「ひさしぶりじゃん」
 ほんとうは半年ぶりだったが、高等部の三年間を疎遠なままに終わってしまったので、もっとずっと長いあいだ、会っていなかったような気がした。
「ブートレグ、買ってんだ?」
「たまにな。アホくさいけど、つい、手がでる。ま、金をもってるより、レコードをもってるほうが、ましだ。なんでもいいから、さっさと交換したほうがいい」
「それは、金持ちのセリフ。なんにも買わなかったんだな」
「新しいものが入ってなかった」
「あっちに出てさ、どっかでお茶でも飲もうよ。青蛾あたりは?」
 慶一は、ガードのむこうを指さした。
「おまえ、大学の帰りか」
「うん、まあね。高志は?」
「映画でも見ようかと思ってな。いつきても、いやな街だな、ここは。おい、やめだ。気に入らない。どっか、いこう。おれ、車なんだ」
 それは、とんでもない「車」だった。さっさとレコードと交換してしまったほうがいいくらい金をもってる人間が、どうしてこんな車に乗っているんだ。
「もうすこし、マシな車に乗れば?」
 床からはずれて、あさっての方向をむいているバックシートに荷物をおく。
「サーフィンにはこれしかない。それに、これは便利だ。連れこみにいく手間がはぶける」
 高志は親指でうしろを指さす。荷台には、オレンジ色のウェットスーツが転がっていた。
「サーフィンなんか、やってんだ?」
「ああ、陳晶二にひっぱりこまれた。どこがいい? こいつでいけるところなら、どこだっていいぞ。京都いって、コーヒー飲んで、あしたの昼に帰ってくるなんて、どうだ」
「勘弁しろよ、おれはうちに帰るところだよ」
「じゃ、とにかく、その方向だ。ちょうど京都への通り道だからな」
「馬車道のほうがいいわ。ハンバーガーを食べましょうよ」
 いつのまにか令子があらわれ、うしろから身を乗りだし、ふたりのあいだに首を突っこむ。
「じゃあ、絵はがきを送れ。バッキンガム宮殿かなんかの、しようもないやつでいい」
 高志が慶一を見て、ニヤッと笑った。
「バッキンガム宮殿じゃない、ロンドン塔だ」
「バカいえ、ビッグ・ベンていっただろうが」
「ケンカなんかしないで。慶一さん、お兄さんにプレゼントを買わなくてはいけないのよ」
「慶一」
「もう、こんなことはゴメンだ」
 そういった自分のことばで、慶一は目を覚ました。目のまえに、高志の顔があった。
 ここはどこだ。なんで、高志がいるんだ。
「目を覚ませ。こんな夜に寝こけてる奴があるか。オー・ホワタ・ナイトだぜ」
 慶一は、もちあげかけた頭を枕にあずけた。知らない曲を引用されるのは好きじゃない。
「眠っちゃったらしいな」
 聴こえるのは、高志の笑い声だけで、スピーカーは沈黙している。もう、放送は終わったらしい。初日の放送を聴いたのに、最後を聴きのがすとは、マヌケな話だ。
「何時だよ」
「二時をまわった」
 コットンパンツのポケットからタバコをとりだし、高志はベッドの端に腰をおろす。
「彼女は?」
「だれのことだ」
「よせよ。令子ちゃんに決まってるじゃないか」
「頭がどうかなってんじゃないのか。令子はロンドンだぞ」
 乾いた風のせいだけではなく、慶一は躰が冷たくなったような気がした。ほんとうに、『雨月物語』になってしまったのだろうか。
「ガキのころ、『ミステリー・ゾーン』で、そういうのを見たな。いないはずの人間があらわれて――」
 高志がそこまでいいかけたところで、足音がきこえ、慶一は扉口のほうに頭を倒した。
「お目覚めかしら」
 令子がベッドに歩みより、慶一にほほえみかけた。
「まったくもう、いくつになったんだよ。くだらないインチキやりやがって」
「いっただろう、だまされるほうが悪いんだ」
 高志はそういって、深く煙を吸いこむ。
 これ以上だまされないように、慶一はベッドの上で起きあがった。
 令子は、洗面所で顔をなおしていたらしい。ということは、どこかへいくのか。
「何号室だったかしら?」
「三一四。ジャッケル三階のとっつきだ」
「慶一さん、知子がうるさいから、わたし、いかなくてはならないの」
 病気の子どもをおいて、仕事にいかなくてはならない母親のような口調だ。
「いいよ、気にしないで。知子によろしく。五、六キロ落とせば、長田なんかとは離婚しても、大丈夫だっていっといて。つきあいはじめてから計算したら、もう銀婚式だ。いまどき、はやらないよ」
「ええ、またあとで」
 まるで二十四年まえからそうしていたかのように、令子はヴェランダから非常口方向に消えた。
「まったく、いつまでたっても、おまえはマヌケなガキだな。おかげで、こっちの計画は狂いっぱなしだ。溝口じゃあるまいし、現場でシナリオの書き換えなんて、かんべんしてほしいぜ」
 紫煙をたなびかせながらヴェランダに出て、高志はデッキチェアに腰かけた。
「いったい、なにをたくらんでいたんだ。美人局つつもたせかなんかか」
 ヴェランダからはなんの返事もない。慶一は靴をさがした。スニーカーは、ベッドの下にそろえておかれていた。
 なにがおかしいのか、突然、高志が笑いだした。
「考えてみれば、むかしからそうなんだから、おれのほうが、そろそろりなきゃいかんな」
「よくいうぜ。ひとを遊び道具にしてたくせに」
 倒れこむようにして、もうひとつのデッキチェアに慶一が躰を沈めた。
「いつのまにきたんだよ」
「おまえがよだれ垂らして、寝ているまにだ」
 質問が悪かった。
「高志がきたとき、彼女、なにしてた?」
「死んだガキでも抱くように、おまえの頭をかかえこんでた。遺書をさがしそうになったぜ」
「よせよ。冗談じゃない」
 タバコを口にもっていき、ニヤッと笑っただけで、高志はなにもこたえない。
「ああ、いい風だな。こんなに気持ちのいい夜はひさしぶりだ」
 ほんとうに風邪をひきそうなくらいの、「さわやか」をとおりこした涼しさだった。
「計画ってなんだよ」
「まあ、あとで話す。ものごとには順序ってものがある。これをまちがえると、原因と結果がひっくりかえったりするんだ」
「そうくると思った」
 返事のかわりに、高志はべつの話をもちだした。
「憶えてるか、空き缶を山に埋めたのを」
「うん。忘れるわけがない。あれにはうんざりした」
「じゃあ、貝塚の話は?」
「貝塚? なんのことだよ」
「おまえがいったんだぞ。千年後に、だれかがここを掘ったら、貝塚だと思うだろうってな」
「おれが? そんなこといったかな……」
「いったさ」
「へえ。掘りにいこう。むかしの缶詰のラベルなんて、懐かしいや」
「山がなくなっちまったのに、どうやって掘るんだ」
 慶一は息をのんだ。
「……さきに掘り出した奴がいたわけか。なんだと思っただろうな、あんなもの」
「腐った空き缶だと思ったんじゃないか」
 一九七〇年にはじまったこの一帯の開発は、なにかの感慨を呼ぶような悠長ゆうちょうなものではなかった。緑の丘はあっというまに丸裸にされ、道路がとおり、駅ができ、整地が終わった。
 そこに生まれた荒野は、慶一にひとつの教訓をあたえた。たとえどんなに巨大なものであろうと、ひとたび人間が決心すれば、すみやかに、徹底的に抹殺される。
「このあいだ、高志に電話をもらってから、ずっと、むかしのことばかり考えてた」
 高志は無言で、慶一のことばを待つ。
「むかしの目で見ると、現代ってのは、こんなのありかよって感じがした」
「公平に見れば、悪くなったように思うのは、半分はこっちが年をくったせいだ」
「だとすると、ロックンロールを殺したのは、いったいだれなんだ?」
 据わりの悪いアルミの灰皿で、タバコをもみ消してから、高志は口を開いた。
「おまえやおれが殺したんだ」
「そうかな……ウーン、まあ、ある意味ではそうかもしれない。高志は何年までなら認める?」
「おまえはどうなんだ」
「むずかしいな。七六年からこっちがゼロなのはたしかだけど……」
「気前がいいな。おれは六七年でおしまいだ。あの年が分水嶺だった」
「かもね。あとは、個々に見れば、いい音楽もあったけど、それだけのことだ。どっちにしろ、政治への傾斜とか、ギター小僧の天下とか、洗練や完成度が重んじられたり、ただのダンスビートになったり、さんざんだ」
 足を手すりの下のさんにのせる高志のしぐさが、慶一の記憶を刺激する。
「まあ、他人を貧乏だと馬鹿にするまえに、じぶんが豊かなことを楽しんだほうがいい。あの年齢で、あの時代に遭遇できたのは幸運だった。ただ、それがおそろしく早く終わっただけだ。このうえは、いまの連中に、クソみたいなカヴァーで墓を掘りかえしたりしないようにお願いして、ロックンロールの安らかな眠りを祈るだけさ」
 ふたりは、ほんとうに黙祷もくとうでも捧げるかのように黙りこんだ。
 沈黙が頂点に達したところで、慶一は電撃作戦を開始した。マジノ線を突破できるのは、今夜をおいてはないだろう。
「どうして、彼女をほったらかしにしたんだ」
「べつに、なんとなく、そうなっただけだ。ロンドンは遠いし、おれは筆不精でね。ろくに連絡もとらなかった。知子に教えてもらう始末さ」
「彼女は、高志と結婚するつもりだったって、さっきそういってた」
「ガキのころのことだ。ままごとさ。だれだって、そういう莫迦ばかげたことを考えるだろ。ジャイアンツに入る、とか、ビートルズになる、とかなんとか」
 そういうこともあるかもしれないと、慶一は一歩後退した。
「いままできいたことがなかったけど、あれはどうしてだったんだ、正確なところ」
「なんの話だ」
「どうして、いきなり出ていったんだよ」
 突然、かなり近いところから、複数の車のイグゾーストと、タイヤがきしむ音がきこえ、メロディーフォンがいいかげんなピッチで騒ぎたてた。それは、出現の唐突さにくらべ、不当なほど長いフェイドアウトをのこして去った。
「よく憶えてない」
「冗談いうな」
「肝心なことを忘れたりするだろう、おまえだって」
 また、そういうこともありそうな気がして、慶一はだんだん腹が立ってきた。
「でも、まるごと忘れるなんてことはない」
 高志は脚を組みなおし、タバコに火をつけ、大きく吹いこんだ。
「いま考えると、おれは天才だったんじゃないかと思うね。ケチくさいガキが考えそうもないことを考えてたんだ。――おまえ、エアプレインの〈トライアド〉って曲を知ってるか」
 一瞬、慶一はギョッとしたが、それは意外なことをきいたからではなく、あるいはそうかもしれないと感じていたことを、高志が口にしたからだった。
「ああ。最近、バーズのオリジナルも聴いたよ。クロスビーと、グレース・スリックと、あとひとりはだれだっけ、ポール・カントナーだったかな」
 tri- は三を示す接頭辞で、triad というのは、たとえば「三和音」のように、なんであれ、三つでひと組のものをいう。この曲の場合、組になっているのは人間だった。
「おれも、もうひとりの男がだれだったかは忘れた。それはどうでもいいんだ。あれは、おれたちの歌だと思わないか? おまえと令子とおれさ」
 あの曲のポイントは、「このまま三人でいればいいじゃないかホワイ・キャント・ウィー・ゴー・オン・アズ・スリー」というラインにある。
「それを、あのときに考えていたっていうのかさ」
「そうさ。べつに、クロスビーたちみたいに、セックスはからまっていなかったけど、おなじことだ。時間の問題だからな。あのままつづけば、そうなったに決まっている」
「待った。セックス革命六〇年代風かなんか知らないけど、おれは、そういうのは、てんから信用しないんだ。そんなことを考えていたなら、どうしてはじめからそうしなかったんだ。高志にハンドオフくらって、なかなか令子ちゃんに近づけなかったんだぜ」
「やっぱり、天才じゃなかったってことだ。気づくまでに時間がかかった。ほとんど手遅れになってから、それに思いあたったんだ」
「令子ちゃんは、そう簡単に他人と共有、じゃないか、シェアする気になるような子じゃなかったからね」
「おまえって奴は、いつまでもノンキで、うらやましくなるな。欠点もそこまでいくと、美点と見わけがつかなくなるぜ。……令子のことをいってるんじゃないんだ」
「じゃあ、だれのことだ」
「よせよ、ほかにだれが――」
 非常口のほうから、笑い声と足音が響いてきて、高志は開きかけた口を閉じてしまった。
「KWTSケイタリング・サーヴィスです。深夜は割増し料金をいただきます」
 山崎とワラが、「にぎやかな同窓会」をとどけにあらわれた。山崎は両手に皿をもち、ワラは元町のスーパーマーケットの袋をさげている。
「消灯後だからって、電気を消して憂鬱な顔してる奴があるかよ。今夜は、殺人と輪姦以外なら、なにやったっていいんだぜ。強姦もオーケイさ。ただし、そんな力仕事に見合うような代物は、今夜は払底してるけどな。腹へっただろう。ピザもってきてやったぞ」
 といって、山崎は一枚ずつ皿をテーブルにおいた。
「いらねえよ、そんなもん」
 和姦でさえやりそこなった慶一が、不機嫌な声でこたえた。
「つれないこというなよ。長いつきあいじゃないか。通常料金でいいからさ」
「いくらなんだ」
 と、高志が笑いをふくんだ声でいう。
「アンチョビーが一三〇〇円。サラミとマッシュルームが一五〇〇円」
「いらない。高い」
 慶一の声はまだ不機嫌だった。
「わかった、わかった。タダでいい。今夜は太っ腹なんだ、おれは」
「いちど融けて固まったチーズほど、不快な歯ざわりのものはない」
「失礼な奴だな。できたてのホヤホヤだぜ。いま、ビュフェの電子レンジに突っこんだばかりなんだぞ。見ろ――」
 山崎はフォイルをはがし、皿をかたむけ、慶一に融けたチーズを見せた。
「三期の連中が、これから買いだしにいくっていうんだけど、なんか注文ある?」
 と、ワラが袋をおいて、部屋に入っていった。
「スイカ」と慶一が、室内にむかっていう。
「ところてん」と、高志も追随した。
「白玉」というのは、もちろん山崎だ。
「日本ですねえ」
 ワラがうれしそうにいって、折り畳みイスを山崎にわたし、じぶんは、もういっぽうの手にもっていた、プラスティックの大きなごみ箱を逆さまに伏せ、そこに腰掛けた。
「今年の夏は終わったらしいな。スイカや白玉ていどのおまじないじゃ、きかないんじゃないか」
 高志が、手早くアンチョビーを皿から引きはがした。
「そう願いたいね。夏なんて、年をとると、暑いだけで、面白くもなんともない」
 山崎はサラミとマッシュルームをとる。
 それがルールらしいので、慶一もアンチョビーをとりながら口を開いた。
「最近の夏は、おれたちがガキのころの夏とはちがうね。絵日記に三六度なんて書いたことなかったもの」
 ワラは足もとの袋をゴソゴソやって、なにかさがしている。
「なんだ、さっそくスイカの登場か。用意がいいな」
「ちがいますよ。きみたちの気まぐれに、完璧に対応するなんて、できっこないでしょう」
 重なったグラスにつづいて、口を切っていないボトルがテーブルにおかれた。
「ヘルプ・ユアセルフ。ぼくはいそがしいから」
 奴がさがしていたのは酒ではなくて、べつなものだったらしい。ようやく、目当てのものが出てきた。黒いビニールレザーでおおわれている。
「ウォーキートーキーかよ」
「冗談でしょ。いつの話をしてんの。仁川上陸作戦ですか?」
 慶一に軽蔑の視線を向けてから、ワラはプッシュボタンを押した。携帯電話か。
 山崎がグラスをならべ、ボトルの口をあける。
「ジューリエト3、こちら、タンゴ・ウィスキー407。敵に囲まれた。……いいの、いいの、こっちのジョーク。むずかしい注文がきちゃった。スイカと白玉とトコロテンだってさ。……なに?……ちょっと待った、かわってくれ……うん……そうなのかよ。おれだけでいいよ。うん……それはすげえな……エー、ひっひっひぃ。それいい。それにしよう。カードじゃダメかな。アメックスのゴールドだよ。あんまり持ちあわせがないんだ」
「おまえ、なにいってんだよ。スイカをカードで買う奴がいるか。アメリカ人も困ったもんだ」
 やめておけ、という高志の目の色を無視して、慶一はグラスを半分ほど満たした。
「ちょっと待って。まわりがうるさいんだ」
 ワラは、ヴェランダのむこう側に移動する。
「あいつ、なにいってんだ」
「むこうで、どっかへくりだそうって騒いでるわけ」
 山崎がそういって、慶一に片目をつぶってみせた。
「どこかって?」
「女のいるところに決まってるだろうが」
「すぐに夜明けじゃないか」
「おまえ、暗闇じゃないとできないのかよ。いるんだよな、そういうのが、たまに」
「バカタレ。もう、いくらなんでも、店仕舞いの時間だろうっていってんだよ」
「ムキんなるなって、からかっただけじゃねえか。いくつんなったんだよ」
 カッとなって、なにかきりかえしてくれようと、慶一が躍起になっているところに、ワラがもどってきた。
「どうした、話はまとまったのか」
 高志が、憮然とした表情のワラをからかうようにいった。
「やめた。東京なんだってさ。もどれなくなっちゃうよ」
「こっちは、おれがいるから大丈夫だぞ」
「冗談でしょう。ぼくがいないのに、はじまるわけがないでしょうに」
 ワラは憤然としてごみ箱に腰をおろし、バーボンのボトルをとった。
「じゃあ、おとなしく、むこういって、郁子でも、くどくんだな。三一四だ」
「高志だって、あの騒ぎをきいたじゃない! どこのだれが、飲んだくれてるおばさんたちのド真ん中に飛びこむっていうの」
 ワラと高志の話を漫然ときいていた慶一は、ワンテンポ遅れてギョッとした。
「おまえら、のぞきやってたんじゃないか!」
「よせよ。そんなことしたって、意味ねえだろうが。なあ、ワラ?」
「うん。ノイズばっかだもんね。そんなチャネルきいてるヒマなんか、ありませんよ」
 高志の胸ぐらをつかもうと、慶一がいきおいよく立ちあがり、イスがひっくりかえり、ビンがピザにむかって倒れこみ、タバスコが落ち、フォークが飛び、なにがなんだかわからない大混乱のなかで、四人は中学生のように罵声をあげ、そして、笑いころげた。
[#改ページ]

37

まだ子どものころ
よくレドウッドの樹の下に
いったものだ
雨のにおいと、
そしてときには
雷のにおいまでしたっけ

〈レドウッド・トゥリー〉
ヴァン・モリスン(ゼム)
[#改段]
 東屋にいれば、住宅密集地は、校舎とグラウンドをはさんだ向こうなので、このキャンパスに、あれほどの大変化があったのを、忘れられないこともない。
 慶一の躰とは、九〇度の角度をつくってベンチに寝ている高志を見ると、その目はとじられ、かすかな笑みをかべて、眠っているように見える。
 頭をベンチにあずけなおし、ひと眠りしようかと、慶一も目をとじた。
 金曜は、一時間の仮眠をとっただけの徹夜で、土曜は打ち合わせがあり、そのままここにきた。
 ほんとうは、高志にいわれたとおり、三時にはくるつもりだったが、「土曜の憂鬱」のせいか、じぶんの存在を誇示するためか、いつものように、先方がくだらないクレームをつけたせいで、約束の時刻にはまにあわなかった。
 電車のなかで一時間、令子の腕のなかで二時間寝ただけで、まだ卒倒していないのが不思議なくらいだ。毎日が八月三十一日のような生活も、そろそろ考えなおさなくてはいけない。
 時間の流れと空間の同一性に関する考察で、慶一の思考が堂々めぐりをはじめたとき、高志がため息をもらした。
「おまえ、デジャヴューを見なかったか」
 そういって、高志は曲げていたひざを伸ばし、背板に足をのせた。
「うん、既視感の海を泳いでいるみたいだ」
「まったくだ。ちょっと、環境をととのえすぎたな」
「企画力がありすぎるのも、考えもんだ」
「おれのせいじゃなくて、地霊のしわざだろうよ」
 紫陽花と軒にフレーミングされて、ここの空はあまり大きくはないが、もうディフュージョンをかけた光源のように、あいまいな白になっていることは充分にわかる。
 きょうは快晴とはいきそうもないが、スズメやアブラゼミは、もう仕事にかかっている。
「なにを見ても、平面的に見えない。むこう側にべつの絵があって、またべつの絵があって、じぶんのやっていることが、全部、むかしやったことのリテイクに見える」
 高志の声は、「喜び」と「不安」という名の二台のイフェクターにパラレルで通し、二チャンネルに分配した、電気的ダブルトラック処理のようにきこえた。
「見えるだけじゃなくて、ほんとうに、そうなのかもしれない。なんだか、六七年のつづきみたいな気がするよ」
「さっき、非常口で、あいつが歌ってたな――」
 といって、高志は〈アイル・ビー・バック〉を歌いはじめた。
 やっぱり、子どものころにピアノのレッスンをうけた奴は、中年になっても音程が正確だなと、慶一は畏怖いふのようなものを感じて、その声に聴きいった。
 セカンド・ヴァースから、慶一が上にハーモニーをつける。この曲のハーモニーはちょっと変則技で、慶一はなんども音をはずしたが、それはそれで、面白い効果に聴こえないこともなかった。
 寝ころがってひざを立てたまま、慶一は右足で一、三拍を叩き、高志は右ひざをシンバル、左ひざをスネアにして、二、四拍を叩き、その音はしだいに大きくなり、フェイドアウトのギター・リフを、「パラララン」と口ずさんだころには、右足で柱を蹴っていた。
 レコードがフェイドアウトしている曲をやると、いつもエンディングで悩むことになる。きょうも、なしくずしに終わるしかなかった。
 いきなり、石畳でリヴァーブのかかった拍手が響く。
「やれやれ、オーディションは合格らしいぞ」
 高志が、片手をあげて拍手にこたえた。
 朝靄をまとわりつかせながら、森の女王のように東屋の入口に立った令子に、慶一の目は、いまはじめて見たかのように、くぎづけになってしまった。
「これも、趣向のひとつなわけかさ?」
「まあな――」
 訂正か補足でもするように、高志はことばをきったが、それきりで、口を閉じてしまった。
「絵のようね。『二中年図』ってプレートがはってありそう」
 令子は、ふたりともヒゲをそったほうがいいわね、とつけくわえて、高志のむかいに坐った。
他人ひとごとのようにいうけどな、おまえが入ると『三中年図』になるんだぜ」
「やってみましょうか」
 令子は笑いながら立ちあがり、柱をはさんで直角に寝ている、ふたつの頭のあいだにやってきた。
「起きて、慶一さん」
 慶一は起きあがって、令子が坐る場所をつくった。
 令子は、さっきまで慶一の頭があったところに腰掛け、慶一を見る。
「きて」
 ちょっとためらい、慶一は令子のひざに頭をあずけた。高志がどう思うか、ということが脳裏をかすめたが、いいや、どうとでも思え、と腹を決めた。
「すごくいい朝ね」
「うん。懐かしい朝だ。むかしの夏の朝は、こんなだった。涼しくて、朝顔が咲いてて……」
「なんだ、なんだ、これは。少女雑誌か」
 頭のうしろで腕を組み、高志が両足を投げだし、やわな東屋がきしむ。
「あら、ちがうの? 夜明けに庭園で会おうなんて、むかし、マンガで読んだような気がしたんだけど。それとも、石坂洋次郎の小説かしら」
 二中年は、思わず苦笑いをもらした。
「なあ、慶一。これでも、こいつがほんとうに、おれと血がつながってないと思うか?」
「また、石坂洋次郎の話をしているの?」
 という令子の椰揄やゆに笑いながら、慶一がいう。
「血なんか、つながってる必要はないんじゃない。おれだって、高志の知らないところじゃ、口が悪いっていわれてんだぜ。たぶん、高志のせいだと思うね」
「そうよ、わたしもよく、キツいっていわれるわ。兄さんのせいよ」
「それは、おまえがほんとうにキツいから、そういわれるんだ。文句をいう筋合いじゃない。それに、その “兄さん” ていうのを、やめてくれないか。事実に反する」
 慶一の頭の下で令子が笑い、それが慶一にまでうつった。
「じゃあ、なんて呼べっていうの。浅井先輩?」
「いいかげんにしろよ。いつまでもくだらないことをいってると、慶一に、おまえの苗字を教えてやるからな」
「あ、それ、知りたい」
 よほど困った苗字なのだろう、令子は、フラ打ちの要領で、左手で慶一の頭、右手で高志の頭を、ほぼ同時にひっぱたいた。ガキのうちに鍛錬たんれんしていたら、いいドラマーになっていたかもしれない。納得のいくビートだった。高志はクスクス笑っている。
 アブラゼミと鳥の啼き声にまじって、けっこう頻繁に車の音がきこえてくる。むかしのような陸の孤島ではない、ということのあかしだ。
「ひょっとしてさ、これも同じことの繰り返しだったりしないだろうね」
「どういうことだ」
「ふたりして、また、おれを丸めこみにかかってんじゃないの」
「決まってるだろうが。なんだと思ったんだよ」
「だったら、おれは降りるよ」
「降りる? おまえ、そんなことができるって、本気で思ってるのか」
「高志は、ひとりでとりのこされたことがないから、そういうことがいえるんだ」
 呆れたように、高志と令子が顔を見あわせる。
「おまえは、基本的なところでまちがっている。おれや令子の目で見てみろよ」
「そうよ。思いこみが強いんだから」
「どうしておまえは、そういうふうに、慶一を甘やかすんだ。平たくいえば、身勝手なガキって意味じゃねえか」
「だから、そういおうとしたのよ」
 子どものような兄妹のいいあいに、慶一は子どものような気分になり、笑いをもらした。
「もういいよ。ふたりがそうしたいんなら、ゲームにつきあってもいい。結局さ、おれは、生まれつきの犠牲者ってやつかもしれないし」
 令子と高志は、一瞬、呆気にとられ、さきに令子がクスッと小さく吹きだし、それに引きずられて、高志も、いかにもおかしそうに大笑いをはじめた。
 まだ笑いつづけているふたりを無視して、慶一はことばをついだ。
「おれの頭のなかでは、令子ちゃんと高志は、いつもワンセットだ」
「さっきから、そのことをいってるんだろうに。おれの目には、おまえらふたりがワンセットに見える。おまえは、そのことがわかっていない」
 令子が笑いだした。
「バカみたい。わたしには、兄さんと慶一さんは、ヘッケルとジャッケルみたいに見えるわ」
 そういって、最後に笑いをつけたした。
 三人は、しばらく沈黙し、じぶんたちが口にしたことばの意味に思いをめぐらす。
「ガキのころはよ、こっちが小さいから、世界がでかく見えたな」
「そう。そのぶん、おたがいがずいぶん離れているみたいだったわ」
「ああ。こっちがちょっとデカくなるだけで、話はぜんぜん変わったのにな」
「ええ。ちょっとしたことだったのにね」
 呆れたように令子をにらみ、慶一は頭をかたむけ、上目づかいに高志を見る。
「また、そうやって、ふたりでおれをのけ者にする」
 慶一の子どものような口調に、高志が苦笑をもらした。
「令子、まだわかってない奴がいるぞ」
 令子も苦笑をもらし、慶一を見おろし、小さく頭をふった。
「まあ、そのうち、わかる日がくるだろう。そろそろいかないと、ワラがすねる」
 そういって、高志は両ひじで上体を起こしにかかった。
 いきなり、慶一の頭がもちあげられ、令子の顔がおおいかぶさってきた。ちょっと待った、と止める余裕もなく、令子の唇が慶一の唇をおおった。
 最初の二、三秒、慶一の心はじたばたしていたが、すぐに腹を据えてしまった。
 ようやく令子の顔が離れると、慶一は頭を右にたおして、高志を見た。
 やはり、高志はこちらを見ていたが、笑みをたたえて、その表情は穏やかだった。
「兄さん」
 令子の口調から、慶一はようやく、その意図を理解し、起きあがって道をゆずった。
 高志は左ひじで上体を支え、すなおに令子の唇を迎える。
 目を伏せそうになりながら、慶一はみずからをいて、ふたりのすがたを見つめた。
 高志のほうは、恥ずかしがるどころか、右手を令子の首にまわして、さらに引きよせにかかり、令子もそれにこたえて、ゆっくりと高志のベンチに躰を動かし、やがて、完全にむこうに移った。
「……もうすこし早く、こうすればよかったと思わない?」
 唇の離し方だって、四半世紀もやってきたように、手慣れたものだった。
「それは、おれのセリフだ」
 高志は令子に向けていた笑顔を、そのままパーンして、慶一を見た。
 令子がふりかえり、慶一の手をとり、高志が起きなおった。ひとりでそんなところにいないで、こっちへこいという意味だと解し、慶一は腰を浮かせ、ふたりのベンチに移った。
 高志が令子の肩に左腕をまわし、慶一もそれにならって、令子の背に腕をまわした。
「いちどに男ふたりなんて、一日の仕事としては上々よね。アーリー・バードのたまもの。できれば、髭を剃ってからのほうが、ありがたかったけれど」
「計算方法がまちがってる。おれのほうは三十年、慶一は二十五年だ。あまり手早い仕事とはいえない」
「計画っていうのは、これだったわけかさ」
「まあな――。コード・チェンジだけで、あとはアドリブさ。三重のフェイルセイフ・システムを用意しておいて、よかったぜ。寝こけるなんてのは、予測不能だ」
 兄妹は声をそろえて笑った。
「愚か者の役をつづけていいかな」
「ご自由に。早起きしたって、一日で賢明になれるわけではなし」
「じゃ、愚か者としてきくけど、これって、ハッピーエンドかなんかなわけ? 三中年が寮への坂道をくだっていく、俯瞰ふかん気味の引きの絵、オーケストラがG、Fとさがってくる、Cでドーンとフォルテシモになって、画面溶暗、テーマソングがかかって――〈イエス・アイ・ウィル〉かな――でもって、タイトルが縦スクロールをはじめる。そんな意味?」
「そして、三人は幸せに暮らしました。――とんでもない。おまえの映画センスは、ガキのころでとまってるんじゃないのか。これはせいぜい、リテイクっていうところだ。テイク1はフォルス・スタートだった。ホールドして、こんどは、テイク2だ」
「でも、テイク3がありそうには見えないわよね。また二十五年たったら、三老人図よ」
 高志は、それもいいかもしれない、といって大笑いしたが、慶一はまだ、となりの宇宙をさまよっていた。
「じゃあ、おれたちはどうなるわけ?」
「知るもんか。いままでは、いままでのことしか考えてなかった。これからのことは、これからゆっくり考えるさ、とにかく、これで、あのときの場所まではもどったわけだ。あとのことはわからない」
「すくなくとも、世界の四隅に分かれて暮らすことはないわね」
 慶一は、すべてを受け容れたわけではなかった。感傷的にはイエス、現実的には、ノーとはいわないまでも、まだ困惑と混乱の中間点にいた。
「さあ、そろそろいこう。もうひとつ、やらなくちゃならないことがあるんだ。ワラが待ちくたびれて、泣きだすころだぜ」
 高志は立ちあがり、両手でふたりの手をとった。それは、慶一の目には、二十五年まえと変わらない、軽やかな身のこなしに見えた。
「ずいぶん、盛りだくさんなんだな。これ以上、ほかになにがあるんだ」
「古い友だちだ、さよならぐらい、いってあげないとな」
「だれに?」
「ヘッケルとジャッケルに決まってるだろうが」
 慶一は戸惑った。こうやって集まって、パーティーをしたじゃないか。
「なあ、KWTSだって、ヘッケル、ジャッケルといっしょに、永久に消滅するんだぞ。おれたちが葬式をやらなくて、ほかにだれがやるんだ」
 高志のいっている意味が、慶一の頭のなかでいきなり浮かびあがった。
 これは、最後の朝だ。
[#改ページ]

38

この最後のときに
生きているのは
素晴らしいことじゃないか
これでおしまいさ

〈エンド・オヴ・ザ・ショウ〉
デニス・ウィルスン
(ビーチボーイズ)
[#改段]
 テープをつくらないのだから、これほど楽なことはない。
 トラック・ナンバーを大きな字で書いたポストイットを、CDのプラスティック・ケースにはりつけ、かける順で積み上げただけのことだから、一時間まえに準備万端整ってしまった。
「なんか、呆気なさすぎるな」
 ワラに借りたブラウンを、アゴの下ですべらせながら、七枚のCDがつくりだした小さな直方体を見て、高志がいった。
「ホント。カセットテープができたときだって、いやな予感がしたんだよね。ディジタル・テクノロジーってのは、人間に対する侮辱ですよ」
 ワラは浮かない顔つきだ。それは、ディジタル技術のせいか、それとも、元気いっぱいで、ティーネイジャーのように笑いころげる高志のせいかは、判然としない。
「おまえ、イントロの秒数を調べておけよ。おれはコーヒーをいれる。慶一、手伝ってくれ」
 シェイヴァーのスウィッチを切って、高志が慶一を見た。
「うん。ワラ、ひとりで大丈夫か?」
「ヤ。――義晴を起こしてあげないと、かわいそうじゃない?」
「まあ、いい。じぶんで決めればいい」
 そういって、高志は慶一と局を出た。
 エアコンのある事務室ではわからなかったが、いつのまにか、気温が高くなっていた。
 開け放したサロンのドアをくぐり、ビュフェにむかう。ここは、掃除が必要だ。ピーナツだの、サラミだの、なんだかわからないゴミだのが散乱し、ウィスキーやらビールやらが、なかば乾いてビニールタイルにへばりつき、テーブルやイスは、立っているものでさえも、あちこち勝手な向きをむいている。
 扇風機のスウィッチを入れ、高志がカウンターのなかに入り、慶一もそれにつづく。
「そこの元栓をひねってくれ」
 といいながら、高志は琺瑯ほうろうのやかんに水を入れた。
 しゃがみこんで、慶一は高志が指さしたあたりをさぐる。
「豆なんか、あるのかさ」
「ああ、きのうのうちに、全部用意しておいた」
 慶一はカップをさがしだして、調理台にならべ、高志はいてある豆を、慎重にドリップにのせていく。
「何人ぶん用意すればいいんだろう。三人プラス令子ちゃん、義晴……」
「五人でいいだろ。多めにつくっておく」
「スプーン、どこにあるんだろう」
「おまえのうしろの引出しだ」
 慶一はふりかえって、ふたつならんだ引出しを一気にひきあけ、スプーンをたばにしてもった。
「このあいだ、ニューグランドのロビーで、ばったり高橋路子先生にでっくわしたぞ」
「へえ、どんなだった、あの人?」
「ナチといっしょでな、オーボエかなんかを吹くとかいってたけど、いかにもそういう感じで、ビヤ樽みたいな腹をした野郎だった。じっさい、あの中身はビールにちがいない」
「ソーセージもだろ。で、そのナチ野郎は旦那かさ」
「ああ。娘ってのもいっしょだった。これがまた、父親に強姦されるために生まれてきたみたいな、とんでもないブロンドだ。ニューグランドの階段から転げ落ちて、氷川丸のデッキまでぶっ飛びそうになったぜ」
 妙に地理が合っているのがおかしくて、慶一は笑った。
「で、先生は?」
「ああ、元気だ。もう、あのおっぱいは下を向いてるだろうけどな。――服を着てたから、確認したわけじゃないが」
「むかしだって、なかを見たわけじゃないから、なんともいえない」
「『滝口さんに会ったら、よろしく伝えてね』だそうだから、いま、よろしく伝えておく」
 高志は、熱湯をガラスのポットに注いでいる。
「それはどうも、ごていねいに」
「みんな年をとる。もう、三八枚もカードをめくったんだから、おれたちも、あした、ジョーカーを引いちまうかもしれない」
 ポットのなかで湯をまわしながら、高志が慶一のところにきて、カップに湯を移す。
「うん。気合いを入れてめくらないといけないな」
 慶一は、じぶんがスプーンの凹面鏡のような輝きを、馬鹿みたいにじっと見つめていたことに気づき、高志のほうを見た。高志も、ガス台にもどした真っ赤なやかんを見つめている。
 正面に向きなおり、自然光だけで照らされた、静かなサロンをぼんやりと見る。
 他人が見れば、ほとんどなんの意味ももたない光景だろうが、慶一にとっては、あらゆる時間と空間を一点に集めた、じぶんそのものの姿に見えた。
 ときおり、薄日がテラスをひと撫でしていき、昨夜は気づかなかった手すりの赤サビが、慶一の目を射る。
 あれは、ペンキを塗りかえたほうがいい。たとえ、あと半年の命だとしても、化粧をする権利はある。半年の命だからこそ、化粧をさせる義務がある。
 高志はやかんをもちあげ、ドリップに湯を注いでいく。
 慶一は、とほうもない浪費のことを思った。あまりのばかばかしさに、ノドの奥になにかがこみあげ、それが一瞬にして、まぶたに達したのを知り、しゃがみこんで、戸棚に背を半分あずけた。
「おまえ、きょうはどういう予定なんだ。みんなでどっかいって、メシでも食わないか」
 湯と豆がまじりあった泡から目を離し、高志は慶一のほうを見た。
「どうしたんだ」
 素早く足を踏みだし、三歩で慶一のかたわらに腰を落とした。
 しゃがんだ姿勢が苦しくなり、慶一は流しと戸棚のあいだのせまい場所に、脚を縮めて腰をおろした。もう、わけのわからない発作は終わっていた。
「大丈夫だよ」
 慶一は右手をふったつもりだが、それはマットに沈むボクサーのように見えた。
「あんまりおどかすな」
「彼女に会った興奮で、ほったらかしてあったんだ」
「なにをだ」
 高志は手にもったままだった、派手なやかんを向こう側におき、慶一のとなりに、おなじようなかっこうで腰をおろした。
「これは、葬式だったんだってことをさ。たった二十五年の生涯じゃあ、あんまりだ。寮長の夢も、これで灰だ……」
「灰になれればラッキーだぜ。ただの産業廃棄物。産廃だなんて、最後にのこった、ささやかな威厳までぎとる略称もある」
「どうして、こういう一切がっさいを忘れて、ずっと馬鹿みたいに暮らしてきたのかな。どうして、そんなことができたんだろう。もう、手遅れだ。ただ死んでいくのを見守るしかない」
 腹立たしさのあまり、慶一は目のまえにあるガス管を、二度、靴底で蹴った。
「寮長と話したいな」
 慶一は、心の底からそう思った。
「ああ、そうだな。でも、寮が死ぬ日を見ないですんだのは、幸せかもしれない」
「寮長も死んだ。校長も死んだ。一期は何人死んでるんだっけ?」
「三人だ。今年は十七回忌だってのに、陳の奴、いまでもときたま夢にあらわれて、波が立ったぜ、なんていいやがる。台風がくるたびに、そういう夢を見る」
「それに、ヘッケルとジャッケルか。さきに死ぬほうがいい。ひとりでのこるのは、いやだ」
「よしてくれ。冗談じゃない。おれより長生きしてくれないと困る。墓参りは苦手だ」
「だいたい、ひでえよ。なんなんだよ、これは。高志には、ずいぶんだまされたけど、こんなに手のこんだのは、はじめてだ」
 それは、まだ弱々しい震え声だったが、激発をはらんでいた。
「だますものか。ちゃんと、令子がくるって、予告しただろうが」
「ああ、ああ。だまされるほうがわるいよ。知ってるさ、そんなこと。でも、たった十何時間で、百万年も生きたみたいに疲れた。被害妄想みたいになっても、不思議はないだろう」
「それは妄想だ。保証する。おれは、だまそうとなんかしてない」
 息を吸って、攻撃的にとがった慶一の肩が、いきなりしぼんでしまった。
「いいんだ。大声だして悪かった。寝不足だし、一日ぶんにしては、いろいろありすぎた」
「うん。年をとった。おれは、おまえみたいなビートルズ・フリークじゃないけど、四十が近づくにつれて、ジョンの重さが増してきた」
「ああ、それはいえる。おれ、『リヴォルヴァー』以降のジョンが好きじゃなかった。それなのに、最近になって、ビートルズ後期とソロを全部買った。やっぱり、声に初期みたいな色気は感じないけど、歌詞を聴いていると、泣きそうになる」
「おれもそのことをいってんだ。〈スターティング・オーヴァー〉にしても、〈ウォチング・ザ・ウィールズ〉にしても、〈ノバディ・トールド・ミー〉にしても、たまらん」
「それに、〈グロウ・オールド・ウィズ・ミー〉だ」
「それをいおうと思ったんだ」
 ワンテンポおいて、慶一は、呆れたように高志を見た。
「これだったわけかさ?」
「おまえは、いつも気づくのが遅い。年をとると、たいていのことは、どうでもよくなる。最後に、じぶんにとって、ほんとうに重要なのはなにか、ということだけが、脅迫観念になるんだ」
 カタルシスのようなものを感じながら、慶一は高志のことばに耳をかたむけた。
「おまえ、ブライアンの一九六七年の悲劇って、知ってるか」
 高志がたんに「ブライアン」といえば、ビーチボーイズのブライアン・ウィルスンにきまっている。
「『スマイル』の空中分解ね。おれ、ブートレグ買ったよ。高志だって買っただろ」
 六六年の『ペット・サウンズ』と〈グッド・ヴァイブレイションズ〉で、クリエイティヴィティの頂点にかけあがったブライアンは、さらなるものをもとめて、だれも考えもしなかった世界に入りこんだ。
 最近になって、なにが起こったかは徐々に明らかになりつつあるが、ほんとうのところは、ブライアン自身にすらわからないだろう。
 いずれにせよ、『スマイル』プロジェクトは中絶し、ブライアンは気が遠くなるほど長い休眠に入ってしまった。じっさい、いまだって目覚めているのかどうか、だれにもわからない。
「買ったさ。買わなきゃよかったと思うけどな。あれを聴くと、たまらない気分になる。じぶんでじぶんが手に負えなくなって、あれを投げだしたのが、ブートレグを聴くとよくわかる」
 高志がいおうとしているのは、音楽のことではなく、じぶんたちのことなのに気づき、慶一もたまらない気分になった。
「だから、いくらファンや会社が騒いだって、『スマイル』が完成するなんてことは、ぜったいにありえない。あれはあの時代に属しているんだ」
「じゃあ、なんで……おれたちだって、あの時代に属しているよ」
「だから、ほうっておこうと思ったさ。この寮がずっと生きつづけて、令子が妙なタイミングで帰ってこなければ、そうしてただろうな……」
「期待してないときに、手がそろっちゃうことはあるよ。でも、ヘンなジャックポットだな」
 高志が苦笑し、慶一がひきずられて笑いだした。
「なあ、提案があるんだけどな」
 慶一は、じぶんの足を見つめていた目を、高志のほうにふりあげた。
「バンドをやらないか」
 そういって、高志はじぶんでクスクス笑い、タバコのパッケージを引き出した。
「バンド?」
「ああ、バンドだよ」
 高志は、こんどはさっきよりも、はっきりと笑い声をあげ、慶一もゆっくりと、その笑いに引きこまれていった。
 バンドだって?
「高志をバンドに誘ったのは、いつだった?」
「六七年だ。たった二十四年しかたってない」
「どうせなら、二十四年まえに、ウンていってほしかったな」
「ちょっと、楽器の修得に時間がかかったんだ、しかたねえだろ」
「弾いてなくたって、すこし指を慣らせば、ロックンロールなんて、大丈夫だって」
「ピアノじゃない」
 高志が無言で、空欄を埋めよ、と要求しているので、しかたなく、慶一はありきたりの合いの手を入れた。
「じゃ、なんだよ」
「ギター」
 といって、照れかくしのように、高志は背後の棚からアルミの灰皿をとった。
「ギター?」
 高志が気をわるくするかもしれないが、慶一は笑いをこらえきれなかった。
「わるいかよ」
「わるくはないけど……でも、高志が完全に入りこんで、目をつぶってチョーキングしてる姿なんか、ちょっと想像できない」
「クラプトンみたいなイモといっしょにするな。ケッタクソ悪い」
 高志が深く煙を吸いこんだのを見て、慶一は心が動いた。
「一本くれよ」
「禁煙してた奴にはきついぞ。堅気かたぎが吸うような代物じゃないんだ、こいつは」
 そういいながらも、高志はパッケージのふたをはねあげ、内紙を開いて、親指で押さえた。
「きついほうがいい。飛ぶかもしれないだろう」
 その香りのきついタバコを口にもっていき、高志が手にしたライターをとった。
 ゆっくりと、せないように、あせらずに煙を送りこみ、ハッパでもやるように、しばらく肺にとどめてみる。
「どうだ、すこしは飛んだか」
「においもとんでもないけど、味はそれ以上だな。飛ぶっていうより、卒倒しそうだ」
「おまえ、最近、すこしは弾いてるか」
「いいや。もう、ギターなんか、もってないよ」
「じゃあ、おれのストラト貸してやろうか。三本あるから。それに、おまえがほしがるんじゃないかと思って、ひでえ悪趣味な、サイケデリック・ペイントのテレキャスも買ってある」
「だから、金持ちは嫌いだ。ろくに弾けもしないくせに、過剰に資本を投下する。だいたい、サイケデリック・ペイントが好きだったのは、ガキのときの話じゃないか」
「貸してほしいのか、ほしくないのか、どっちだ」
「フェンダーたって、むかしとはちがうよ。もう、フェンダーはフェンダーじゃないし、ギブスンもギブスンじゃない。とうのむかしに、近代企業になってるんだ」
「バカいうな。オールド・フェンダーだ。バディー・ホリーが使ってたやつだっていっても、たいていの奴は信じるくらいの、サンバーストのストラトだぜ。アンプだって、真空管のトゥイン・リヴァーブだ。最近の、|石っころでできた、壁みたいな代物は好かない」
 慶一は笑った。高志のような人間が、いまどきのギターや、石っころトランジスターアンプなんかに手を出すはずがないのは、わかりきったことだった。
「そういえば、このあいだ、春ごろかな、クラレンス・レオ・フェンダーの訃報ふほうを読んだ。米エレキ・ギター製作者とかって書いてあった」
「デックのなかには、たった一枚だけど、かならずジョーカーが入ってる。例外はない……そうだ、もうひとつ訃報がある。おまえ、片桐を憶えてるだろう?」
「もちろん。忘れられるような奴じゃない。おれ、五年ぐらいまで、ときどき会ってたし、どこかにあいつのバンドを見にいったことがある。――あいつが死んだっていうのかさ?」
「このあいだ、ちょっとしたパーティーで、あいつの親父さんに会ったんだ。なんか、ニューオーリンズだかどっかに住んでて、メンフィスかなんかにいく途中で、トレイラーに突っこんだんだとよ。去年の話だ」
 慶一は、ただ、タバコの煙がゆらめくのを見つめた。なにをいえばいいんだ?
「あいつ、あのへんのインディペンダントから、何枚かレコードをだしたらしい。いくつかのレーベルとはコンタクトがとれたんだけど、まだ見つからない。手に入ったら、おまえにあげるから、もうちょっと時間をくれ」
「あいつ、悪い奴じゃなかったのに、みんな毛嫌いして……」
「わかってる。おれもガキだった」
 足音がきこえる。しかし、カウンターにさえぎられて、ふたりのところからは、なにも見えない。
「そんなとこで、なにやってんですか。頭隠して、ケムリ隠さずですよ。高校生かなんかのつもりですか。往生際の悪いことで」
 義晴が、カウンターに身を乗りだして、ふたりをのぞきこんだ。
「ワラさんが、早くコーヒーをもってこいって」
[#改ページ]

39

もうメリーゴーラウンドからは
降りたんだ
そうするしかなかっただけさ

〈ウォチング・ザ・ウィールズ〉
ジョン・レノン
[#改段]
 局で、ワラとふたりで楽しそうに笑い声をたてていた令子は、シャワーでも浴びてきたのだろう、すっきりした表情だった。
「なにが、そんなにおかしいんだよ」
「ひっひっひ。これを聴いてやって」
 ワラが、テーブルにおかれた、小さなラジカセのリワインド・ボタンを押し、すぐにストップして、再生をはじめた。
 それは、こもった不明瞭な音だったが、慶一はすぐにわかった。〈オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ〉だ。もう終わる。でも、これはおかしい。ジョンがフラットした。
「なんだ、これ? テイクちがいのブートレグかなんかかよ」
 そのとき、テープから「なんていったんだよ」「カメラを入れろって」という会話がきこえてきた。
 なんだ、これは?
「おまえ、こんなもん、とっておいたのか」
 あとから義晴といっしょに入ってきた高志が、呆れたような声を出した。
「苦労しましたよ。もう、カセットハーフが死んでてさ。新しいハーフに詰め替えたら、こんどはテープが切れちゃって、スプライシング・テープでつなげて、フィルターかけて、ノイズを洗いながらDATにコピーして、マスターをつくったの。一年のときの目覚しテープ以来の悪夢でしたよ」
 慶一は、ようやく、このテープの素性がわかった。あの放送のときにまわしたやつだ。さっきのは、だれの声だろう。
「まあ、スイカでも食べて、ゆっくりと楽しんでください。手間と金をかけたんだから」
 五人が、ワラの調達したスイカを食べ、テープをさかなにして、なごやかにコーヒーを飲んでいるところに、なにやら袋をかかえて、山崎がうっそりとあらわれた。
「おれは部員じゃない。豆腐屋みたいに早起きする義理はないんだ」
 うっかりすると見落としそうな、かすかなストライプの入ったボタンダウンを着て、その胸にはスクールタイがぶらさがっていたのは、五人の度肝を抜いた。
「豆腐屋なら、もう、一日の仕事を終わってますよ」
 まだ目が覚めていなかったので、義晴の不用意なことばは、けわしい目つきのお返しだけでゆるされた。
「おれにもコーヒー」
 あきらめきった顔で、義晴はサロンにむかった。
 ワラはケースをひっくりかえし、トラック・ナンバーを確認し、ディスクをトレイにのせる。
「サテライトスタジオをつくればよかったね」
 まったく、ラグビーでもやっているみたいだ。
 細長いテーブルのまえに、奥から、慶一、高志、ワラの順に坐り、フロントロウを形成している。バックロウは、奥から、令子、いまはいないが義晴、山崎の順に腰をおろしている。
「一期生会宴会部長として、みなさんにお知らせがあります」
 山崎の声は、とうてい、お願いをするようなピッチではなく、脅迫にきこえた。
「なんなの、このいそがしいときに」
 とワラが、プログラム・シートから目をあげずにいって、〈トゥー・ビジー・シンキン・アバウト・マイ・ベイビー〉を口ずさむ。
「きのう、いい忘れたんだ。すぐに終わるから、黙ってきけ」
 肩をすくめて、ワラは周囲を見まわす。山崎は背を伸ばし、息を吸いこんだ。
「わが校は、いくたの苦難を乗り越え、本年度をもって、めでたく創立二十五周年を迎えることができました。この偉業を祝して、本年十月に、創立二十五周年記念式典を盛大にりおこなうことになりました。各期生会も全面協力することになり、おまえら馬鹿野郎に裏方やれとはいわねえけどよ、当日は卒業生諸兄姉のご来会を切にお願いするしだいであります。以上」
 山崎は、ペコリと頭をさげ、せまい室内を、さらにせまくした。
「おれは欠席だ」
 慶一が吐き捨てるようにいった。
「おれもやめておく」
「ぼくも無理ですね」
「そう、つれなくするもんじゃないぜ。とくに、一期は出席の義務がある」
「これ以上、その件についてなにかいったら、半殺しにして、ここから叩き出してやる」
 思いがけない慶一の怒りに、山崎は呆気にとられてアゴを落とした。
「祝うことなんか、これっぱかりもないじゃないか。ノータリンどもが」
「おい、待て。おまえだって卒業生だろうが、そのいい方はない。あやまれ」
 山崎は、慶一につかみかかりでもするように、腰を浮かせた。
「脳みそだけじゃない。そういうことを考える奴は、ハートまで空洞だ。よくもまあ、祝賀だなんていえたもんだ。寮がなくなるんだぞ。すこしでも脳みそがあるなら、考えてみろ。廃校同然じゃないか」
 最後のところにきて、慶一の声は一気にピッチがさがり、山崎の怒りを溶かした。
「ヤマ。おまえは、腹が立たないのか」
 空気そのものを慰撫いぶするように、高志がゆっくりという。
「学校としては、祝うほかにないだろう。あれだけいろいろあって、ここまで生きのびたんだから、やっぱり、いいことじゃないか」
 山崎の声は、むしろ悲しげだ。
「これが、生きのびることだとしても、それがなんだよ。生きのびるだけなら、おれだって、三十八年も生きのびた。そんなことに、どれだけの価値があるっていうんだ」
 慶一の吐き捨てるような口調に、山崎がまた激昂した。
「じゃあ、おまえは、母校が消えてかまわないっていうのか!」
「ちがう。でも、ジョンがいないビートルズを、ビートルズと呼べるか。べつに、のこりの三人に死んでほしいわけじゃない。ただ、それだけだ」
 慶一は、もうなにもいいたくなかった。
「おれは、寮がなければ、こんな学校にはこなかったな。一期の大部分も、おれとおなじだと思うね。ここが全寮制だからきたんだ。そうじゃなければ、近くの公立へいくか、もうすこし目鼻のついた私立にでもいってたはずだ」
 高志は落ちついて、さとすようにしゃべっている。
「ぼくだって、そうですよ。一期だけで独占しないでください」
 いつのまにか、カップを手に、義晴が戸口に立っていた。
「おまえらの言いぶんはわかった。でも、たとえ半分だとしても、母校だ。ああだこうだは飲みこんで、顔を見せて、いっしょに校歌を歌ってくれよ」
「あの歌詞は、こうなるとおかしいですね。寮のことを歌ってるもの」
 ワラの後頭部をひとにらみして、山崎はため息をついた。
「ねえ。山崎さんは、兄さんや慶一さんのいったことぐらい、わかってるわ。なんのために、早起きして、スクールタイを締めて、ここにきたと思うの」
「ああ、もう、やめにしよう。とにかく、おれは欠席だ。学校当局と、ノーテンキ野郎だけでやってくれ」
 そういう高志の声には、なんの感情もこもっていなかった。
「おなじく」
「ぼくは、そんなになんども、日本くんだりまでこられないから」
 フロントロウの三人に拒絶され、山崎はまた大きくため息をついて、義晴を見た。
「わかってますよ。どうせ裏方やるんだから、いやでもきます。心配しないでください」
「もういい。頼まない。おれも、出たくなくなった」
 義晴が馬鹿みたいにもったままだったカップをとり、山崎は音をたててコーヒーをすすった。
「さあ、もう、そんな無意味なことは忘れて、葬式のほうをしっかりやろうぜ」
「うん。死んでいくのに、祝賀なんかされたら、ヘッケルとジャッケルが浮かばれない」
 慶一は気持ちを引き立てるために、まうしろの令子に目をやる。
 令子はほほえんで、慶一の二の腕を軽く押さえた。
「おまえたちは怒るかもしれないけど、じつは、こういうものをもってきた」
 山崎が当惑げに、足もとの袋からビンをひっぱりだした。シャンペンだ。
「へー。いいじゃん。終わったら、ヘッケルとジャッケルのために飲みましょう」
 ワラは、いつもより声のピッチをあげ、山崎をなぐさめ、あらかじめ、高志と慶一が拒絶する道をふさいだ。
「よかった。こいつは安物じゃないんだ。グラスまで買ってきたんだぜ」
 慶一は、山崎に礼をいいたかったが、うまくことばにならなかった。
「ヤマ。おまえ、おれの予定になかったんだから、怒るなよ」
 高志が謎のようなことをいって、せまいテーブルの下に手を突っこんだ。
 この部屋の床には、打ち出の小槌が組みこまれているらしい。
「なになに。なにが出てくるわけ?」
 紙袋が出てきただけで、とりあえずは、どうということもない。
「えーと、これがおまえのぶん」
 小さな紙包みをとりだし、表の名前を確認して、高志は、それをワラにわたした。
 慶一、令子、義晴の三人にも、おなじように手わたされる。
 令子はニコニコして、当然のように、それを受けとった。
「やっぱりそうだ!」
 包みを引きやぶいてワラが叫び、そこにあらわれた帽子の、ひたいのエンブレムに目を走らせた。
「ちょっと、デザインが変わりましたね」
 二羽のカササギが、円盤をかこんで立っている。どちらも「片手」は円盤を押さえているが、右のカササギは「左手」を腰にやり、左のカササギは「右手」を「ナンバーワン」とでもいうように、突きあげている。
 もちろん、円盤はレーベルで、そのなかのデザインは変わっていない。ただ、円内の下には、円周に沿って、「1966―1991」という文字が加えられている。
「あの店かさ?」
「いいや。残念ながら、べつのところだ。いちおう、横須賀くんだりまでいってみたんだけど、EMの解体の側杖そばづえくらって、いっしょに更地になってた。あの街も終わりだ。アメ公が、プードルみたいな愛想笑いして、小娘どもに引きずりまわされてる。プロが払底してるんだ」
「兵隊、売春婦、どっちの話だよ」
 じぶんのキャップを調節しながら、慶一がいう。
「両方さ。アマチュアの天下だ」
「アマチュアとしては、それについて、意見はありません」
 ワラが苦笑して、時計に目をやる。
 慶一は、瞬間的に複数のことに思いあたっていた。
 その一。昨夜の放送は、新しいシステムに慣れるための予行演習だった。
 その二。むかしから、高志はこういうことを好む感傷的な人間だった。
 その三。濃紺のキャップをかぶった令子は、不可解なくらいにリビドーを刺激する。たぶん、これが、二十五年まえに自分をとらえた衝動だった。
 ワラは、落ちつかなげに帽子をとったり、かぶったりしている。
「十人ぐらいは起きるかな」
 高志が、じぶんの時計に目をやり、
「予測不能だ。カオス理論かなんか導入しないと、計算できない。三分まえだ」
「三分もあれば、たいていのことができる。歌だってうたえる、永遠を見ることさえできる」
 なにかいおうと思っていったわけではないが、そういうことばが、慶一の口をついて出た。
「もー、またわけのわからない哲学なんかはじめて、カンベンしてよ。空きっ腹なんだから」
 ワラはカップをかたむけ、底に沈んでいたコーヒーを一気にさらい出す。
 慶一の脳裏で光が走り、爆発的なフラッシュバックが起こった。
「そうだ。午後は、みんなで馬車道いって、バーガーってのは、どう?」
 こんな日に、あれほどふさわしい場所はない。じぶんの名案に満足し、慶一は頭をねじって、高志の顔に同意の表情がかぶのを待った。
「どうしたんだよ?」
 案に相違して、高志はむずかしい顔で黙りこくっている。
「気に入らないならしかたないけどさ、友だちのために、たまに安いメシにつきあったって、地獄には堕ちないと思うよ」
「そうじゃない。バーガー屋のほうが、さきに地獄に堕ちた」
 慶一は呆気にとられて、高志の顔を見つめた。
 山崎が義晴の帽子をうばって、しげしげと見ながらつぶやく。
「まだ建ってるけどよ、ウィンドウにはベニヤが打ちつけてある。こうなるのがわかってたら、もうすこしマメに通ったんだけどな。おれは、去年の暮れに食ったきりだ」
 山崎はラッキーだ。慶一は、最後にあの店に入ったのが、いつだったか思いだせない。
「三十以上の人間は、もう、あの交差点には近よらないんだ。吐き気が起こるからな。ベニヤの二、三枚で、見知らぬ土地になりやがった」
 そうつぶやいて、高志はヘッドセットをかけた。
「もう、なんだっていうんですか。世界中のバーガー屋がつぶれたわけじゃあるまいし。あと九〇秒でスタートですよ」
 慶一には、この比較は自明だった。それであの店が救えるなら、世界中のバーガー屋をすべて叩きつぶしても、悔いはない。
「こういうことだったんだな……年をとるっていうのは」
 たった十五時間かそこらで、いったい、いくつの死を知らなければならないのだろう。まだあるような気がして、慶一は力がえるのを感じた。
「生き残れば、すべてが消えるのを見ることになる」
 高志は、プレイヤーのスタート・ボタンを押し、目的の曲にもっていき、バックワードをかけ、マイナス一秒でポーズ・ボタンを押した。
「またまた、デッド・シアリアスになっちゃって。マンハッタンでサッポロラーメン屋がつぶれたって、だれも気づきもしませんよ」
 ワラが、もうひとつのプレイヤーをスタートし、おなじ手順で、ゲートに入った馬のように、いまにも走りだしそうなディスクの手綱を握った。
DJジョックから、みなさんにお願いがあります。これはザ・ヴェーリー・ラスト・タイムですので、全員の参加をお願いします。ぼくのキューを見て、いっしょにいつもの決まり文句を叫んでください。オーケイ?」
 うん、ああ、ええ、はい、おう、と五人が五様に同意した。
「――ロビン・ウィリアムズ・スタイルでいってみようか?」
 ワラが、全員の意気込みをはずしにかかる。だが、期待した笑いは返ってこなかった。
「いつものでいい」
 そういって、高志はスピーカー系統Bをオンにする。
「メイ・ヘッケル・アンド・ジャッケル・ブレス・アス・オール」
 祈りを捧げて、ワラがプレイ・ボタンを押した。
「ウィー・アー・オン・ディ・エア」
 とつぶやき、マイクロフォンのスウィッチを入れる。
 慶一は、寮中のスピーカーで流れているはずの〈1-2-3〉のイントロを空想した。
 高志は、ふたをあけたままで、プラスティック・ケースをもっている。もちろん、「二曲目の逆襲」用のディスクだ。一曲目に入ったら、すぐに交換しなくてはならない。
 ワラの右手があがった。
 慶一は、令子の左手が高志の肩に伸びたのを見、同時にじぶんの左肩にも、手を感じた。
 この部屋の全員がそうだろうが、慶一の頭のなかでは、さまざまなことが渦巻き、どれひとつとして、かたちを整えようとしない。
 とにかく、これで、いくつかのことは終わりだ。
 この年齢としになって、たいしたことが待っているとは思えないが、悪くない徴候もある。あと、カードが何枚のこっているか知らないが、ジョーカーを引くまでは、つづけるしかない。
 全員が、ワラを見つめて、息をためこむ。
 手がふりおろされた。
 グモーニン、ディス・イズ・K、W、T、S。
 お早ようございます。
 最後の起床放送をお送りします。
[#改見開き右]

 以下に、エピグラフとして引用した楽曲の作者を列記する。
Bus Stop by Graham Gouldman
At the Scene by Dave Clark and Lenny Davidson
In My Room by Brian Wilson and Gary Usher
Hippy Hippy Shake by Chan Romero
Dance, Dance, Dance by Brian Wilson and Carl Wilson
We’ve Gotta Get Out of This Place by Barry Mann and Cynthia Weil
Needles and Pins by Jack Nitzsche and Sonny Bono
Downtown by Tony Hatch
I’m into Something Good by Gerry Goffin and Carole King
Sunny Afternoon by Ray Davies
Monster Mash by Bobby Pickett and Leonard Capizzi
When I Grow Up by Brian Wilson
Ferry Across the Mersey by Gerry Marsden
It’s My Life by Roger Atkins and Carl D’Errico
Rock’N’Roll Music by Chuck Berry
So You Want to Be a Rock’N’Roll Star by Roger McGuinn and Chris Hillman
Wouldn’t It Be Nice by Brian Wilson and Tony Asher
Younger Girl by John Sebastian
You Won’t Have to Cry by Roger McGuinn and Gene Clark
On a Carousel by Alan Clark, Tony Hicks and Graham Nash
Because by Dave Clark
Baby I’m Yours by Van McCoy
Pretty Paper by Willie Nelson
Forget That Girl by Douglas Farthing Hatlelid
No Fair at All by James Yester
Rain on the Roof by John Sebastian
Distant Shore by James Guercio
A Whiter Shade of Pale by Gary Brooker and Keith Reid
Red Rubber Ball by Paul Simon and Bruce Woodly
When by Dave Clark and Lenny Davidson
Hickory Wind by Gram Parsons and Bob Buchanan
Welcome Back by John Sebastian
Love and Mercy by Brian Wilson and Eugene Landy
Journey’s End by Mathew Fisher
Daydream Believer by John Stewart
Between Today and Yesterday by Alan Price
Redwood Tree by Van Morrison
End of the Show by Dennis Wilson and Gregg Jakobson
Watching the Wheels by John Lennon
[#改ページ]

謝辞およびメモランダム


 本書に登場する学校にはモデルがある。したがってなによりもまず、あの未来の学校を構想し、実現し、志しなかばでたおれられた故・松信幹男[#「松信幹男」は底本では「松信幹夫」]先生と、「マイクロ天地創造」につどったひとびと――とりわけ、さまざまな材料を提供し、さらには「出演」にも同意してくれた、わがバンドのリード・ヴォイス、佐藤誠氏に深く感謝したい。
 以下のかたがたのご協力、アドヴァイス、激励がなければ、いまここに本書が存在したかどうか疑わしい。

 出版に尽力してくださった小平尚典氏とシンプロンの山口澄子夫人(筋金入りのハード・ミーハーとして長年秘蔵してきた、数々の貴重な資料を提供していただいたことも書き落とせない)、「デモ版」の編集をしてくださった佐々木敏久氏、もろもろのアドヴァイスに加え、資料集めまで手伝ってくださったわが写真の師・岡崎秀美氏、つねに激励しつづけてくださった富田倫生氏、数度にわたる長いディスカッションにつきあってくださった古川愛哲氏、および後輩の原正年・紀子夫妻、太平洋をはさんで英語のチェックをしてくれた後輩のディーン・T・マツシゲ氏。
 峰岸達氏には、当時のメモラビアをみごとに配した、微笑と追想を誘う美しいイラストレーションで本書を飾っていただいた。新潮社装幀室の緒方修一氏には、デザインのお世話になっただけでなく、決定的な場面で事態を打開する、ナックル・ボールのような数々の助言をいただいた。ともすれば、わき筋に入りこむ傾向のつよい初稿を読み、物語としての軸を明確にするよう腐心してくださった、新潮社出版部の佐久間憲一氏に、この決定稿は大きく負っている。

 エピグラフとした曲は、物語中の引用の時点で、すでに本国でリリースずみのものにかぎっている(一曲だけ例外はあるが)。手もとにある場合は国内盤の歌詞カードを参照しているが、最終的にはじぶんの耳がたよりなので、あなたがご存じの歌詞とはズレがあるかもしれない(とりわけ〈ホエン〉と〈レドウッド・トゥリー〉)。第3章で引用した〈デイドリーム・ビリーヴァー〉の歌詞は、作者ジョン・ステュワートのセルフ・カヴァー盤のもので、モンキーズ盤とは異なる。
 こちらの意図にそってバイアスをかけるために、すべての歌詞をじぶんで訳している。手もとに国内盤の「訳詞」がある場合は参照し、一致しないように努力したが(おかげで〈ウェルカム・バック〉は、あえて誤訳するハメになった)、当然ながら、すべてを参照できたわけではない。
 曲のタイトルは原題の音訳を原則とし、邦題についてはほとんど配慮していない。邦題は、楽曲のアイデンティファイアたりえないからである。また、邦題が音訳であっても、その表記を採用しているとはかぎらない。好き嫌いの問題だが、原理原則の問題、「情報の精度」の問題でもある。

一九九四年六月
鶴岡雄二





底本:「45回転の夏」新潮社
   1994(平成6)年7月20日発行
初出:「45回転の夏」新潮社
   1994(平成6)年7月20日発行
※底本の訂正は、著作者によるものです。
入力:鶴岡雄二
校正:Y.N.
2001年12月12日公開
2019年8月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、著作権者の意思により、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)に収録されています。

この作品は、クリエイティブ・コモンズ「表示-非営利-改変禁止 2.1 日本」でライセンスされています。利用条件は、https://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/2.1/jp/を参照してください。




●表記について


●図書カード