時
鷹野つぎ
郷里の方の学校友達から、ふと二三度の便りがあつてから、しばらくして彼の女の息子を東京の学校へ入学させる用事をかねて、私をまで訪ねてくれた。
二十年近くも会はなかつたが、瞬時私は若いころの面影を素直に年をとらせた友達を見て意外なほどであつた。若し自然の年齢といふものがあるなら、彼の女の若い日のおもかげにそのまま徐かに年齢の影を宿してゐるやうな、その穏やかな変化を指していつてるものと思つていいであらう。彼の女には時に虐げられたり、抗らつたあとが見えないのだつた。
「まあ、お変りにならないこと」私は話の序でにいつてみせたが、意味はその変りかたの良さであつた。
「時」の各人に及ぼす種々の相違が、このせつふと心に触れて来る。運命といつてみたり機会といつてみたり、偶然といつてみたり、およそ意表に出る「時」の持つ魅力――不安でも、好奇でも、驚異でもあるものが、人間生活の中にこと新らしく思はれて来たりする。
私の父が急にげつそり老けたといはれる時があつた。母にもあつた。そんな時暮らしの上に非常な打撃があつたことは、当時の若い私の心にも察しられたのだが、さて本当に自分にもその種の打撃が来なかつたとしたら、親たちの真味のことも知らずに了つたに違ひない。気持の喰ひ違ひとか、理解の齟齬とか、感受性の遅速とかにも多少「時」のもつ戯れが考へ合されるとすれば人間はそれぞれの通過する道程に神秘感を持合せずにはゐられないのが当然であらう。「父と子」のバザロフといふ息子の立場も、彼れの思想的や、独在的な面白さよりも父と子を距てる「時」の激しい特殊な流れの方に、このごろ私は余計眼を向けて考へさせられるやうになつてゐる。
それはさて、あの学友の上に見た穏やかな年齢のとりかたには、近頃特に心を搏たれた。ともすれば反し、逆らひ、愕ろかす時の悪戯性から見れば、それはまことに稀れに見る、やさしい「時」の慈母に守られてきた姿ではなかつたらうか。
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