長塚節




「土」に就て

漱石

「土」が「東京朝日」に連載されたのは一昨年の事である。さうして其責任者は余であつた。所が不幸にも余は「土」の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。
 當初五六十囘の豫定であつた「土」は、同時に意外の長篇として發達してゐた。途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫ぎりに打ちつたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。「土」は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。
 冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」の事を忘れてゐた。所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。池邊君は其當時「朝日」の主筆だつたので「土」は始から仕舞迄眼を通したのである。其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」を根氣よく讀み通したのである。余は出版界の不景氣のために「土」の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。其時心のうちでは、隨分「土」に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」の事を丸で忘れて仕舞つた。
 すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」を讀み返す暇がなかつた。已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。余の名刺を持つて「土」の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。
 余は「彼岸過迄」を片付けるや否や前約を踏んで「土」の校正刷を讀み出した。思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」に於ても全くさうであつた。先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。
 尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。
「土」の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」の中に收め盡したのである。彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」である。さうして「土」は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。
 人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。だから何處に何う出て來ても必ず獨特ユニークである。其獨特ユニークな點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。余は彼の獨特ユニークなのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。
 作としての「土」は、寧ろ苦しい讀みものである。決して面白いから讀めとは云ひ惡い。第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。だから全體として讀者に加速度アクセレレーシヨンの興味を與へない。だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。悲劇は恐しいに違ない。けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。が、「土」に至つては涙さへ出されない苦しさである。雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。たゞ土のしたへ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。
「土」を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。余もさう云ふ感じがした。或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」を讀ましたいと思つて居る。娘は屹度厭だといふに違ない。より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧からして來るのだと余は固く信じて居るからである。
 長塚君の書き方は何處迄も沈着である。其人物は皆有の儘である。話の筋は全く自然である。余が「土」を「朝日」に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。長塚君は余の「朝日」に書いた「滿韓ところ/″\」といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。漱石に限らず一體「朝日」新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」を書いた、長塚君としては尤もの事である。「滿韓所々ところ/″\」抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」を讀む眼はあるのである。だから此序を書くのである。長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。
 長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。余がかつて「土」を「朝日」に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。余は「土」の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。
(明治四十五年五月)
[#改丁]


 はげしい西風にしかぜえぬおほきなかたまりをごうつとちつけてはまたごうつとちつけてみなやせこけた落葉木らくえふぼくはやしを一にちいぢとほした。えだ時々とき/″\ひう/\と悲痛ひつうひゞきてゝいた。みじかふゆはもうちかけて黄色きいろひかり放射はうしやしつゝ目叩またゝいた。さうして西風にしかぜはどうかするとぱつたりんでしまつたかとおもほどしづかになつた。どろ拗切ちぎつてげたやうなくも不規則ふきそくはやしうへ凝然ぢつとひつゝいてそらはまださわがしいことをしめしてる。それで時々とき/″\おもしたやうにえだがざわ/″\とる。世間せけんにはかこゝろぼそくなつた。
 おしな天秤てんびんおろした。おしなたけみじか天秤てんびんさきえだこしらへたちひさなかぎをぶらさげてそれで手桶てをけけてた。おしな百姓ひやくしやう隙間すきまにはむらから豆腐とうふ仕入しいれてては二三ヶそんあるいてるのがれいである。手桶てをけすだけのことだから資本もとでいらないかはりにはまうけうすいのであるが、それでも百姓ひやくしやうばかりしてるよりも日毎ひごとえた小遣錢こづかひせんれるのでもうしばらくさうしてた。手桶てをけ一提ひとさげ豆腐とうふではいつものところをぐるりとまはれば屹度きつとなくなつた。かへりには豆腐とうふこはれでいくらかしろくなつたみづてゝ天秤てんびんかるくなるのである。おしな何時いつでものあるうちになべになはわらみずけていたり、落葉おちばさらつてたりそこらこゝらとうごかすことをめなかつた。天性丈夫ぢやうぶなのでおしな仕事しごとくるしいとおもつたことはなかつた。
 それがこの自分じぶんでもひどいやであつたが、冬至とうじるから蒟蒻こんにやく仕入しいれをしなくちやらないといつて無理むりたのであつた。冬至とうじといふと俄商人にはかあきうどがぞく/\と出來できるのでいそいで一ぺんあるかないと、その俄商人にはかあきうどせんされてしまふのでおしなはどうしても凝然ぢつとしてはられなかつた。蒟蒻こんにやくむらにはいので、仕入しいれをするのには田圃たんぼえたりはやしとほつたりしてとほくへかねばならぬ。それでおしなその途中とちうあきなひをしようとおもつて豆腐とうふかついでた。生憎あいにくよるからつてそらにははげしい西風にしかぜつて、それにさからつてくおしな自分じぶんひど足下あしもとのふらつくのをかんじた。ぞく/\と身體からだえた。さうして豆腐とうふたびみづ刺込さしこむのがふるへるやうにみた。かさ/\に乾燥かわいたみづへつけるたびあかくなつた。ひゞがぴり/\といたんだ。懇意こんいなそここゝでおしな落葉おちば一燻ひとくいてもらつてはかざしてやつあたゝまつた。蒟蒻こんにやく仕入しいれてときはそんなこんなでひまをとつて何時いつになくおそかつた。おしなはやしいくつもぎて自分じぶんむらいそいだが、つかれもしたけれどものういやうな心持こゝろもちがして幾度いくたび路傍みちばたおろしてはやすみつゝたのである。
 おしな手桶てをけよこたへたたけ天秤てんびんけてどかりとひざつた。ぐつたりつたおしなはそれでなくても不見目みじめ姿すがたさら檢束しどけなくみだれた。西風にしかぜ餘波なごりがおしなうしろからいた。さうして西風にしかぜうしろくゝつたきたな手拭てぬぐひはしまくつて、あぶられたほこりだらけのあかかみきあげるやうにしてそのあかだらけの首筋くびすぢ剥出むきだしにさせてる。それともはやし雜木ざふきはまだ持前もちまへさわぎをめないで、路傍みちばたこずゑがずつとしなつておしなうへからそれをのぞかうとすると、うしろからも/\はやしこずゑが一せいくびす。さうしてしばらくしてはまたせいうしろへぐつともどつて身體からだよこ動搖ゆさぶりながらわら私語さゞめくやうにざわ/\とる。
 おしな身體からだ變態へんたいきたしたことを意識いしきするととも恐怖心きようふしんいだきはじめた。三四どうもなかつたから大丈夫だいぢやうぶだとはおもつてても、凝然ぢつとしてるととほくのほう滅入めいつてしまやう心持こゝろもちがして、不斷ふだんからいくらか逆上性のぼせしやうでもあるのだがさうおもふとみゝるやうで世間せけんかへつしづかにつてしまつたやうにおもはれた。不圖ふといたときしなははき/\として天秤てんびんかついだ。はやしきて田圃たんぼした。田圃たんぼせばむらで、自分じふんいへ田圃たんぼのとりつきである。あをけぶりがすつとのぼつてる。おしな二人ふたり子供こどもおもつてこゝろをどつた。はやしはづれから田圃たんぼへおりるところわづかに五六けんであるが、勾配こうばいけはしいさかでそれがあめのあるたびにそこらのみづあつめて田圃たんぼおとくちつてるので自然しぜんつちゑぐられてふかくぼみかたちづくられてる。おしな天秤てんびんなゝめよこけて、みぎまへ手桶てをけひだりうしろ手桶てをけけて注意ちういしつゝおりた。それでもほとんど手桶てをけぱいさう蒟蒻こんにやく重量おもみすこしふらつくあしあやうたもたしめた。やつとひとちがふだけのせま田圃たんぼをおしなはそろ/\とはこんでく。おしな白茶しらちやけたほどふるつた股引もゝひきへそれでもさきほうだけした足袋たび穿いてる。おほきな藁草履わらざうりかためたやうに霜解しもどけどろがくつゝいて、それがぼた/\とあしはこびをさらにぶくしてる。せまつらなつてたて用水ようすゐほりがある。二三株にさんかぶ比較的ひかくてきおほきなはんつてところわづか一枚いちまいいたはしなゝめけてある。おしなはしたもと一寸ちよつとどまつた。さうしてちかづいた自分じぶんいへた。村落むら臺地だいちるのでおしないへうしろすぐなゝめ田圃たんぼへずりさうはやしである。なら雜木ざふきあひだみじかたけまじつてる。いゝ加減かげんおほきくなつたならみなつくしてるので、その小枝こえだとほしてくぼんだやのむねえる。しろはねにはとりが五六、がり/\とつめつちいてはくちばしでそこをつゝいてまたがり/\とつちいては餘念よねんもなく夕方ゆふがた飼料ゑさもとめつゝ田圃たんぼからはやしかへりつゝある。おしな非常ひじやう注意ちういもつなゝめはしわたつた。四足目よあしめにはもう田圃たんぼつちつた。そのときとうぼつして見渡みわたかぎり、からはやしから世間せけんたゞ黄褐色くわうかつしよくひかつてさうしてまだあかるかつた。おしな田圃たんぼからあがるまへ天秤てんびんおろしてひだりまがつた。自分じぶんいへはやしとのあひだにはひと足趾あしあとだけの小徑こみちがつけてある。おしなその小徑こみちはやしとの境界さかひしきつて牛胡頽子うしぐみそばたつた。にはとりつめあと其處そこあたらしいつちらしてあつた。おしなつちあつめて草履ざうりそこでそく/\とならした。おしな姿すがたにはえたときには西風にしかぜわすれたやうにんでて、庭先にはさきくりにぶつけた大根だいこからびたうごかなかつた。しろにはとりはおしなあしもとへちよろ/\とけてなにさうにけろつと見上みあげた。おしな平常いつものやうににはとりなどかまつてはられなかつた。おしな戸口とぐち天秤てんびんおろして突然いきなり
「おつう」とんだ。
「おつかあか」とすぐにおつぎの返辭へんじ威勢ゐせいよくきこえた。それと同時どうじかまどがひら/\とあかくおしなうつつた。あさから雨戸あまどけないのでうちはうすくらくなつてる。そとひかりたおしなにはぐにはおつぎの姿すがたえなかつたのである。戸口とぐちからではおつぎの身體からだかまどおほうてた。返辭へんじするととも身體からだねぢつたのでそのあかえたのである。
 おつぎの與吉よきちはおしなこゑきつけると
「まん/\ま」と兩手りやうてしてりようとする。おしなはおつぎがおびいてるあひだ壁際かべぎは麥藁俵むぎわらだはらそば蒟蒻こんにやく手桶てをけを二つならべた。與吉よきちはおふくろふところかれてろくもしない乳房ちぶささぐつた。おしなかまどまへこしけた。しろにはとり掛梯子かけばしごかはりけてある荒繩あらなはでぐる/\まきにしたたけみき各自てんでつめけて兩方りやうはうはねひろげて身體からだ平均へいきんたもちながらあわてたやうにとやへあがつた。さうしてあをけむりなか凝然ぢつとしてぢてる。
 おしないへかへつていくらかあたゝまつたがそれでも一にちえた所爲せいかぞく/\するのがまなかつた。さうしてのち近所きんじよ風呂ふろもらつてゆつくりあつたまつたら心持こゝろもちなほるだらうとおもつた。かまどにはちひさななべかゝつてる。しるふたたゞよはすやうにしてぐら/\と煮立にたつてる。そともいつかとつぷりくらくなつた。おつぎはかまどしたからのついてる麁朶そだひとつとつてランプをけてあががまちはしらけた。おしなはおつぎが單衣ひとへ半纏はんてんけたまゝであるのをた。平常いつもならそんなことはないのだが自分じぶんひどくぞく/\として心持こゝろもちわるいのでついになつて
「おつう、そんな姿なりわりさむかねえか」といた。それから手拭てぬぐひしたからえるおつぎのあどけないかほ凝然ぢつた。
さむかあんめえな」おつぎはこともなげにいつた。與吉よきちふところなかしきりにせがんでる。おしな平常いつものやうでなくなにつてなかつたので、ふとこまつた。
「おつう、そこらに砂糖さたうはなかつたつけゝえ」おしなはいつた。おつぎはだまつて草履ざうり脱棄ぬぎすてゝ座敷ざしきけあがつて、戸棚とだなからちひさなふる新聞紙しんぶんしふくろさがして、自分じぶんひらすこ砂糖さたうをつまみして
「そら/\」といひながら、してつて與吉よきちつた。おつぎは砂糖さたういた自分じぶんめた。與吉よきちその砂糖さたうをおふくろふところへこぼしながらあぶさうにつまんではくちれる。砂糖さたうきたとき與吉よきちそのべとついたをおふくろくちのあたりへした。おしな與吉よきち兩手りやうてつかまへてねぶつてやつた。おしななべふたをとつて麁朶そだほのほかざしながら
「こりやいもなんでえ」といた。
「うむ、すこいもしてあつたけえしたんだ」
「おまんまはつめたかねえけ」
「それから雜炊おぢやでもこせえべとおもつてたのよ」
 おしなあつものなら身體からだあたゝまるだらうとおもひながら、自分じぶんひどものういのでなんでもおつぎにさせてた。おつぎはねばのないむぎつたぽろ/\なめしなべれた。おしな麁朶そだ一燻いとく[#ルビの「いとく」はママ]つ込んだ。おつぎはなべおろして茶釜ちやがまけた。ほうつとしろ蒸氣ゆげなべなかをお玉杓子たまじやくしで二三てゝおつぎはまたふたをした。おつぎは戸棚とだなからぜんしてあががまちいた。はしらけてあるランプのひかりとゞかぬのでおつぎは手探てさぐりでしてる。おしな左手ひだりていた與吉よきちくちはしさきすこママふくませながら雜炊ざふすゐをたべた。おしないもを三つ四つはしてゝ與吉よきちたせた。與吉よきちいもくちつていつてぐにあついというていた。おしな與吉よきちほゝをふう/\といてそれからいも自分じぶんくちんでやつた。おしな茶碗ちやわんうしてえた。おつぎはつめたくなつたときなべのとかへてやつた。おしなしくもない雜炊ざふすゐを三ばいまでたべた。いくらかはらなかあたゝかくなつたのをかんじた。さうしてやうや水離みづばなれのした茶釜ちやがまんでんだ。おつぎは庭先にはさき井戸端ゐどばたなべへ一ぱい釣瓶つるべみづをあけた。おつぎがもどつたとき
「おつう、今夜こんやでなくつてもえゝや」とおしなはいつた。おつぎはだまつてたわらそば手桶てをけけて
これへもみづせえかなくつちやなんめえな」
「さうすればえゝが大變たえへんだらえゝぞ」
 おしながいひらぬうちにおつぎはにはた。ぐにあらつたなべ手桶てをけつてくら庭先にはさきからぼんやり戸口とぐち姿すがたせた。しきゐ一寸ちよつと手桶てをけいておしなかほ見合みあはせた。手桶てをけみづ半分はんぶん兩方りやうはう蒟蒻こんにやくみづつた。
 おしなは三人連にんづれ東隣ひがしどなり風呂ふろもらひにつた。東隣ひがしどなりといふのはおほきな一構ひとかまへ蔚然うつぜんたるもりつゝまれてる。
 そとやみである。となりもりすぎがぞつくりとえたそらんでる。おしないへ以前いぜんからもりめに餘程よほどみなみまはつてからでなければにはひかりすことはなかつた。おしな家族かぞく何處どこまでも日蔭者ひかげものであつた。それがのちつてから方方はう/″\陸地測量部りくちそくりやうぶの三角測量臺かくそくりやうだいてられてそのうへちひさなはたがひら/\とひらめくやうにつてからそのもり見通みとほしにさはるといふので三四ほんだけらせられた。すぎ大木たいぼく西にしたふしたのでづしんとそこらをおそろしくゆるがしておしなにはよこたはつた。えだくぢけてそのさきにはつちをさくつた。それでもとなりではその始末しまつをつけるときにそこらへらばつた小枝こえだその屑物くづものはおしないへあたへたのでおもけないたきゞ出來できたのと、もひとつはいくらでもひがしいたのとで、となりでは自分じぶんうでられたやうだとしんだにもかゝはらずおしないへではひそかよろこんだのであつた。それからといふものはどんな姿なりにもあさからすやうになつた。それでも有繋さすがもりはあたりを威壓ゐあつしてよるになるとこと聳然すつくりとしてちひさなおしないへべたへふみつけられたやうにえた。
 おしなやみなかえた。さうしてとなり戸口とぐちあらはれた。となり雇人やとひにんなべのなはつてた。いたはし胡坐あぐらいてあしおさへたなははしわら/\ママしてちより/\とひたひうへまであげてはみぎしりまはしてくつとなはうしろく。なはそのたび土間どまちる。おしないたちひさくなつてた。やがわらきると傭人やとひにん各自てんでそのなはあしからけて迅速じんそくかずはかつては土間どまから手繰たぐげながら、つながつたまゝばうママゝにくゝつた。やがて彼等かれらいた藁屑わらくづ土間どまきおろしてそれから交代かうたい風呂ふろ這入はひつた。おしなはそれをながらだまつてつてた。おしな此處こゝるとういふ遠慮ゑんりよをしなければならぬので、すこしはとほくても風呂ふろほかもらひにくのであつたがそのばんはどこにも風呂ふろたなかつた。おしなは二三けんそつちこつちとあるいててからとなりもんくゞつたのであつた。傭人やとひにん大釜おほがましたにぽつぽといてあたつてる。風呂ふろからても彼等かれらゆだつたやうなあかもゝしてそばつた。
「どうだね、一燻ひとくべあたつたらようがせう、いますぐくから」と傭人やとひにんがいつてくれてもおしなしりからえるのを我慢がまんして凝然ぢつ辛棒しんぼうしてた。ふところねむつた與吉よきちさわがすまいとしてはあししびれるので幾度いくど身體からだをもぢ/\うごかした。やうや風呂ふろいたときはおしな待遠まちどほであつたので前後ぜんごかんがへもなくいそいで衣物きものをとつた。與吉よきちさいはひにぐつたりとつておふくろふところからはなれるのもらないのでおつぎがちひさないた。おしな段々だん/\身體からだあたゝまるにれてはじめて蘇生いきかへつたやうに恍惚うつとりとした。いつまでもしづんでたいやうな心持こゝろもちがした。與吉よきちきはせぬかと心付こゝろづいたときろくあらひもしないでしまつた。それでもかほがつや/\としてかみ生際はえぎはぬぐつても/\あせばんだ。さうしてしみ/″\とこゝろよかつた。おしな衣物きものけるとぐと與吉よきち内懷うちふところれた。おしなあとへは下女げぢよ這入はひつたので、おつぎはそのあひだたねばならなかつた。おつぎがときはおしな身體からだけてた。おしな自分じぶんあとではママればよかつたのにと後悔こうくわいした。
 おしな自分じぶん股引もゝひき足袋たびとをおつぎにげさせてかへつたときつきひそかとなりもり輪郭りんくわくをはつきりとさせてそのもり隙間すきまことあかるくひかつてた。世間せけんがしみ/″\とえてた。おしなうすあかじみた蒲團ふとんへくるまると、身體からだまたぞく/\としてひざママしらがこほつたやうにつてたのをつた。


 つぎあさしなはまだ隙間すきまからうすあかりのしたばかりにめた。まくらもたげてたがあたましんがしく/\といたむやうでいつになくおもかつた。せばいへうち羽叩はばたにはとりこゑがけたゝましくみゝそこひゞいた。おつぎはまだすや/\としてねむつてる。隙間すきままぶたひらいたやうにあかるくなつたときにはとり甲走かんばしつていた。おしなはおつぎを今朝けさゆつくりさせてやらうとおもつてた。それでもおつぎはにはとりまたいたときむつくりきた。いつもとちがつてあまりひつそりしてるのでおどろいたやうにあたりをた。さうしておふくろがまだ自分じぶんそば蒲團ふとんへくるまつてるのをた。
「おつう、せかねえでもえゝぞ、今朝けさすこ工合ぐえゝわりいからゆつくりすつかんなよ」おしなはいつた。おつぎはしばらくもぢ/\しながらおびしめ大戸おほどを一まいがら/\とけてをこすりながらにはた。井戸端ゐどばたをけにはいもすこしばかりみづひたしてあつて、そのみづにはこほりがガラスいたぐらゐぢてる。おつぎはなべをいつもみがいて砥石といし破片かけこほりたゝいてた。おつぎは大戸おほどはなしていたのであささむさが侵入しんにふしたのにがついて
「おつかあ、さむかなかつたか、らねえでた」いひながら大戸おほどをがら/\とめた。くらくなつたいへうちにはかまどのみがいきほひよくあかく立つた。おつぎは
「おゝつめてえ」といひながらかまどくちからまくれて※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのほかざして
今朝けさいもみづこほつたんだよ」とおふくろはういていつた。
「うむ、しもつたやうだな」おしなちからなくいつた。戸口とぐちうしろにしておしなかまどのべろ/\とあがるのをた。
何處どこでも眞白まつしろだよ」おつぎはたけ火箸ひばし落葉おちばてながらいつた。
夜明よあけにひどく冷々ひや/\したつけかんな」おしなはいつて一寸ちよつとくびもたげながら
今朝けさはたべたかねえかんな、われかまあねえで出來できたらたべたはうがえゝぞ」おしなはいつた。またこほつためし雜炊ざふすゐられた。
「おつかあ、ちつとでもやらねえか」おつぎは茶碗ちやわんをおふくろ枕元まくらもとした。雜炊ざふすゐげついたやうなにほひがぷんとはないたときしなはしつてようかとおもつて俯伏うつぶしになつてたが、すぐいやになつてしまつた。おしなうごいたのでふところ與吉よきちした。おしな俯伏うつぶしたまゝ乳房ちぶさふくませた。さうしてまたいもくしこしらへてたせた。
 おしなおもて大戸おほどけさせたときがきら/\と東隣ひがしどなりもりしににはけてきつかりと日蔭ひかげかぎつてのこつたしもしろえてた。庭先にはさきくり枯葉かれはからも、えだけた大根だいこからもしもけてしづくがまだぽたり/\とれてる。にはいてある庭葢にはぶたわらたゞぐつしりとしめつてる。ふゆになると霜柱しもばしらつのでにはへはみんな藁屑わらくづだの蕎麥幹そばがらだのが一ぱいかれる。それが庭葢にはぶたである。霜柱しもばしらにはからさき桑畑くはばたけにぐらり/\とたふれつゝある。
 おしな蒲團ふとんなかでも滅切めつきりあたゝかくつたことをかんじた。時々とき/″\まくらもたげて戸口とぐちからそとる。さうしては麥藁俵むぎわらだはらそばいた蒟蒻こんにやく手桶てをけをどうかすると無意識むいしきつめる。よこつてからは東隣ひがしどなりもりこずゑめうかはつてえるので凝然ぢつつめてはつかれるやうにるのでまた蒟蒻こんにやく手桶てをけうつしたりした。おしなはどうかしてすこしでも蒟蒻こんにやくらしてきたいとおもつた。おしなそのうちきられるだらうとかんがへつゝ時々とき/″\うと/\とる。
切干きりぼしでもつたもんだかな」おつぎがにはからおほきなこゑでいつたときしなはふとまくらもたげた。それでおつぎのこゑ意味いみわからずにかすかにみゝつた。
 しばらくたつてからおしなにはでおつぎがざあとみづんではまたあひだへだてゝざあとみづんでるのをいた。おつぎは大根だいこあらつた。おつぎは庭葢にはぶたうへむしろいてあたゝかい日光につくわうよくしながら切干きりぼしりはじめた。大根だいこよこいくつかにつて、さらにそれをたてつて短册形たんざくがたきざむ。おつぎは飯臺はんだいわたした爼板まないたうへへとん/\と庖丁はうちやうおとしてはその庖丁はうちやうしろきざまれた大根だいこ飯臺はんだいなかおとす。おしな切干きりぼしきざおといたとき先刻さつきのは大根だいこあらつてたのだなとおもつた。おしなは二三にちこのかたもう切干きりぼしらなければならないと自分じぶんくちについてつてたことをおもして、おつぎが機轉きてんかしたとこゝろよろこんだ。庖丁はうちやうおと雨戸あまどそとちかきこえる。おしな身體からだ半分はんぶん蒲團ふとんからずりしてたら、手拭てぬぐひかみつゝんですこ前屈まへかゞみになつてるおつぎの後姿うしろすがたえた。
大根だいこわかつたのか」おしないた。
わかつてるよ」おつぎは庖丁はうちやうとゞめてよこむい返辭へんじした。おしなまた蒲團ふとんへくるまつた。さうしてまだ下手へた庖丁はうちやうおといた。おしなふところ與吉よきち退屈たいくつしてせがみした。おつぎはそれいて
「そうら、ねえ[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、24-7]とこへでもろ」といひながらせはしくぽつと一燻ひとく落葉おちばもやして衣物きものあぶつて與吉よきちせた。
よき利口りこうだからねえ[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、24-9]とこるんだぞ」おしなはいつた。おつぎは自分じぶんむしろうへいてつた。おつぎの落葉おちばほこりよごれてた。ふたゝ庖丁はうちやうつたとき大根だいこにはゆびあとがついた。おつぎはその半纏はんてんぬぐつた。與吉よきちそばきざまれた大根だいこす。
危險あぶねえよ、さあこれでもつてろ」おつぎはけの大根だいこをやつた。與吉よきちすぐにそれをぢつた。
からくてやうあんめえなよきは」おつぎはあまやかすやうにいつた。おしなにはそれがきこえて二人ふたりがどんなことをしてるのかゞわかつた。おしなみゝにはつゞいて
「ぽうんとしたか、そらそつちへつちやつた」といふこゑがしたかとおもふと
「こんだはぽうんとすんぢやねえかんな」といふこゑやそれからまた
「それすんぢやねえ、かねえとこれつてやんぞ、あかまんまがるぞおゝいてえ」などとおつぎのいふのがきこえた。そのたび庖丁はうちやうおとむ。おしなには與吉よきち惡戯いたづらをしたり、おつぎがいたいといつてゆびくはへてせれば與吉よきち自分じぶんくちあてるのがえるやうである。おしなはおつぎを平常ふだんから八釜敷やかましくしてたので餘所よそよりも割合わりあひうごけるとおもつてるけれど、與吉よきち巫山戯ふざけたりしてるのをるとまだ子供こどもだといふことが念頭ねんとううかぶ。自分じぶん勘次かんじあひつたのは十六のあきである。おつぎはうして大人おとならしくるであらうかと何時いつになくそんなことをおもつた。おつぎは十五であつた。
 午餐ひるもおしなしくなかつた。自分じぶんでも今日けふあきなひられないとあきらめた。明日あすつたらばとおもつてた。しかしそれは空頼そらだのみであつた。おしな依然いぜんとしてまくらはなれられない。有繋さすが不安ふあんねんさきつた。おしなはつい近頃ちかごろつた勘次かんじことしきりにおもされて、こつちであれほどはたらいてつたのに屹度きつとやすみもしないで錢取ぜにとりをしてるのだらうとおもふと、さむくてもシヤツひとつになつて、のちにはそのシヤツのはししてへそることや、よるになるとほねがみり/\するやうだといつたことがまへにあるやうでなんだかひたくてたまらぬやうな心持こゝろもちがするのであつた。
 勘次かんじ利根川とねがは開鑿工事かいさくこうじつてた。あきころから土方どかた勸誘くわんいう大分だいぶうまはなしをされたので近村きんそんからも五六にん募集ぼしふおうじた。勘次かんじ工事こうじがどんなことかもらなかつたが一にち手間てまが五十せん以上いじやうにもなるといふので、それがその季節きせつとしては法外はふぐわい値段ねだんなのにんでしまつたのである。工事こうじ場所ばしよかすみうらちか低地ていちで、洪水こうずゐが一たんきしくさぼつすと湖水こすゐ擴大くわくだいしてかはひとつにたゞ白々しら/″\氾濫はんらんするのを、人工じんこうきづかれた堤防ていばうわづか湖水こすゐかはとを區別くべつするあたりである。勘次かんじ自分じぶん土地とち比較ひかくして茫々ばう/\たるあたりの容子ようすまれた。さうして工夫等こうふら權柄けんぺいにこき使つかはれた。
 勘次かんじいよ/\やとはれてくとなつたとき收穫とりいれいそいだ。冬至とうじちかづくころにははいふまでもなくはたけいもでも大根だいこでもそれぞれ始末しまつしなくてはならぬ。勘次かんじはおしなきてかまどけるうちには庭葢にはぶたもみむしろしたりそれからひとりで磨臼すりうすいたりして、それから大根だいこしたりつちけたりしてくらいからくらいまではたらいた。それでももみすこしとはたけすこのこつたのをおしながどうにかするといつたのでつたのである。
 工事こうじ箇所かしよへは廿もあつた。勘次かんじけばすぐぜにになるとおもつたのでやうやく一ゑんばかりの財布さいふふところにした。辨當べんたうをうんと背負しよつたので目的地もくてきちへつくまでは渡錢わたしせんほかには一せんらなかつた。
 勘次かんじよるついてそのつぎにはつかれた身體からだ仕事しごとた。かれ半日はんにちでも無駄むだめしふことをおそれた。しかつぎ過激くわげき勞働らうどうからぞくそら手というてすぢいたんだので二三にち仕事しごとられなかつた。それから六七にちたつてはげしい西風にしかぜいた。勘次かんじうす蒲團ふとんへくるまつてうちからえてたあしあたゝまらなかつた。うと/\と熟睡じゆくすゐすることも出來できないで輾轉ごろ/\してながやうやあかした。
 つぎかれこはばつたやうにかんずるうごかしてつめたいシヤブルのつてどろにくるまつてた。さうしてところむら近所きんじよのものがひよつこりたづねてたのでかれきつねにでもつままれたやうにたゞおどろいた。近所きんじよもの大勢おほぜいたゞどろのやうになつてうごいてるのでどれがどうとも識別みわけがつかないでこまつたといつて、勘次かんじうたことを反覆くりかへしてたゞよろこんだ。途中とちゆう一晩ひとばんとまつたといふやうなことをいつて勘次かんじこゝろせはしくまで理由わけをいはなかつた。勘次かんじやうやくおしなたのまれてたのだといふことをつた。勘次かんじはおしな病氣びやうきかゝつたのだといふのをいて萬一もしかといふ懸念けねんがぎつくりむねにこたへた。さうして反覆くりかへしてどんな鹽梅あんばいだといた。はなし容子ようすではそれほどでもないのかとおもつてもたが、それでも勘次かんじくちくにもつばのどからぐつとかへしてるやうで落付おちつかれなかつた。
 夜中よなか彼等かれらつた。勘次かんじ自分じぶんいそぐし使つかひつかれたあしあるかせることも出來できないのでかすみうら汽船きせん土浦つちうらまちた。よる汽船きせんけたがどうしたのか途中とちう故障こしやう出來できたので土浦つちうらいたのは豫定よてい時間じかんよりははろかおくれてた。土浦つちうらまち勘次かんじいわし一包ひとつゝつて手拭てねぐひくゝつてぶらさげた。土浦つちうらからかれつかれたあしあとてゝ自分じぶんちからかぎあるいた。それでもならへはひつたときちがひとがぼんやりわかくらゐ自分じぶん戸口とぐちつたとき薄暗うすくらランプがはしらかゝつてくすぶつてた。勘次かんじはひつそりとしたいへのなかにすぐ蒲團ふとんへくるまつてるおしな姿すがたた。それからおしなあしさすつてるおつぎにうつした。
 勘次かんじ大戸おほどをがらりとけてしきゐまたいだときなにもいはずにたゞ
「どうしてえ」といふのがさきであつた。おしな勘次かんじこゑいておもはずまくらうごかして
勘次かんじさんか」といつてさら
みなみのおとつゝあはちげえにでもならなかつたんべかな」といつた。
行逢いきやつたよ。そんだがおめえどんな鹽梅あんべえなんでえ」
らそれほどでねえとおもつてたが三四日さんよつかよこつたきりでなあ、それでも今日等けふらはちつたあえゝやうだからこのぶんぢやすぐけえすかともおもつてんのよ」
「そんぢやよかつた、たゞぢやあるいてもよかつたが、みなみことまたあるかせちやまねえから同志どうし土浦つちうらまで汽船じようきけたんだが、みなみ草臥くたびれたもんだからさきたんだがな、みなみもあのぶんぢや今夜こんやもなか/\容易よういぢやあんめえよ、それに汽舩じようきまたおくれつちやつてな」
 勘次かんじはいひながら草鞋わらじをとつた。手拭てぬぐひはしくゝつていわしつゝみをかさりとおしな枕元まくらもとげて、くびへつけて風呂敷ふろしき包をどさりといて勘次かんじにはあしあらつた。勘次かんじはおしな枕元まくらもとめた。
「そんなにわるくなくつちやそれでもよかつた、らどうしたかとおもつてな」勘次かんじあらためてまたいつた。
「おしなおまんまはべてか」勘次かんじはつけした。
先刻さつきおつうにこめのおけえいてもらつてそれでもやつとんだところだよ」
「それぢやどうした、途中とちゆう見付みつけてたんだから一ぴきやつてねえか」勘次かんじランプをおしな枕元まくらもとつていわしつゝみいた。いわしランプのひかりできら/\とあをえた。
「ほんによなあ」おしな俯伏うつぶしになつてういつた。
「おつう、其處そこでもつたけてねえか」勘次かんじはいつた。
勘次かんじさんそら大變たいへんだつけな、らそんなにやらなかつたな」
いまだから何時いつまでもつよ、さうしておめえちからつけろな」
汽船じようきつてたつてぽど費用かゝりかゝつたんべな」
「さうよ、二人ふたりで六十せんばかりだがこれおれしたのよ、みなみさせるわけにもかねえかんな」
「それぢやかせえだぜねそれだけ立投たてなげにしつちやつたな」
「そんでも財布せえふにやまあだるよ、七日なぬかばかりはたらえてそれでも二りやうのこつたかんな、そんでまたはず前借さきがりすこししてたんだ、こつちのはうからつてる連中れんぢう保證ほしようしてくれてな」勘次かんじほこがほにいつた。
今日けふてえだらえゝが、ひど行逢いきやひたくなつてなあ」おしな俯伏うつぶしたひたひまくらにつけた。
「どうせ此處ここらの始末しまつもしねえでつたんだから、一遍いつぺん途中とちうけえつてなくつちやらねえのがだからおなことだよ」勘次かんじはおしなのぞこむやうにしていつた。
「それでもたはらにしちやいたな」勘次かんじ壁際かべぎは麥藁俵むぎわらだはらていつた。おしなはまだ俯伏うつぶしたまゝである。
「あつちにちやぜにらねえな、煙草たばこぷくふべえぢやなし、十五日目にちめ晦日みそかでそれまでは勘定かんぢやうなしでそのあひだこめでもまきでもみんな通帳かよひりてくれえなんだから、十五日目にちめらなくつちや財布せえふふくれねえが、またひやくでもつこはねえかんな」勘次かんじさら出先でさきのことをおしなかせた。
こめばかりえても毎日まいにちしようづゝはくれえだからほね隨分ずゐぶんれんがせえすりや二くわんと三ぐわんのこせつから、けえるまでにやおれもどうにかるとおもつてんのよ、さうすりや鹽鮭しほびきぐれえあことも出來できらな」
「そんぢやよかつた、土方どかたなんちやろく奴等やつらねえつていふからどうしたかとおもつてな」おしなくびもたげた。
「そんな奴等やつら交際つきえゝしたにやかぎりはねえが、すみはうにちゞまつてりやなんともゆはねえな」勘次かんじがついてあひだにおつぎは枯粗朶かれそだをつ火鉢ひばちおこした。勘次かんじ火箸ひばしわたしていわしつばかりせた。いわしあぶらがぢり/\とれてあをほのほつた。いわしにほひうすけむりとも室内しつない滿ちた。さうしてそのにほひがおしな食慾しよくよくうながした。おしな俯伏うつぶしたなりで煙臭けぶりくさくなつたいわしべた。
「どうした鹽辛しよつぱかあんめえ」
有繋まさか佳味うめえな」
これでもこゝらの商人あきんどつちやねえぞ」勘次かんじ一心いつしんながらいつた。
 おしな二匹にひきをつけてはしきながらふところねむつて與吉よきちのぞいて
きてたら大騷おほさわぎだんべ」といつた。
「いまつとたべろな」勘次かんじはいつた。
澤山たくさんだよ、おつうげもやつてくろうな」
おれめしでもはうかえ」勘次かんじ風呂敷包ふろしきづゝみから辨當べんたうのこりしてつめたいまゝぷす/\とかぢつた。
「おうつ、おちやめたくなつたつけかな」おしなはいつた。
えらねえぞ仕事しごとりや毎日まえんちかうだ」勘次かんじ梅干うめぼしすこしづゝらした。辨當べんたうきてから勘次かんじいわしをおつぎへはさんでやつた。さうして自分じぶんでも一くちたべた。
りや佳味うめえこたあ佳味うめえがあんまりあまくつておらがにやむねわるくなるやうだな」勘次かんじめた幾杯いくはいかたぶけた。勘次かんじ風呂敷ふろしきからふくろしておしな枕元まくらもといて
こめこれだけのこつたからつてたんだ、あつちにればえゝが幾日いつかでもけるとかれつちやつてもやうねえかんな、そんぢやりやおつうげやつてくんだ」
 勘次かんじこめちひさなふくろをおつぎへわたした。
ふくろなんぞまたなんだとおもつたよ」おしなかるくいつた。
「それでもまきつてわけにもかねえからいてつちやつた」勘次かんじみづかあざけるやうにからくちけてつめたいわらひうごいた。
「おしなあしでもさすつてやんべぢやねえか」勘次かんじはおしなすそはうつた。
「えゝよ勘次かんじさん、今日けふのうちから心持こゝろもちえゝんだから、先刻さつきもおつうがさすつてやんべなんていふもんだから少しもやつてくろつてつたところだよ、こんぢや二三日にさんちぎたら勘次かんじさんはまたけべえよ」おしなこゝろよげにいつた。
今夜こんやはひどく心持こゝろもちえゝんだよ、えゝよ本當ほんたうだよ勘次かんじさん、おめえ草臥くたびれたんべえな」さらにおしな威勢ゐせいがついていつた。
 けた。そとやみこほつたかとおもふやうにたゞしんとした。蒟蒻こんにやくみづにもかみごとこほりぢた。


 つぎあさしもしろ庭葢にはぶたわらにおりた。切干きりぼしむしろ三枚さんまいばかりその庭葢にはぶたうへいたまゝで、切干きりぼしにはこほり粉末ふんまつにしたやうなしもつてて、ひがしもり隙間すきまからとほ朝日あさひにきら/\とひかつた。しろ切干きりぼしさずにしたのであつた。切干きりぼしあめらねばほこりだらけにらうがごみまじらうがひるよるむしろはなしである。
 勘次かんじ霜柱しもばしらたつてる小徑こみちみなみつた。昨夜ゆうべおそかつたことやらなにやらはなしをしてひまどつた。庭先にはさきからつゞちひさな桑畑くはばたけむかふいへえるので、平生へいぜいそれを勘次かんじいへでもたゞみなみとのみいつてる。かれこもつくこ[#「こもつくこ」に傍点]かついでかへつてとき日向ひなたしもすこけてねばついてた。おしな勘次かんじ一寸ちよつとなくつたのでひどさびしかつた。あさになつてからもおしな容態ようだいがいゝので勘次かんじはほつと安心あんしんした。さうしてなゝめとほくからふゆびながら庭葢にはぶたうへむしろいてたはらみはじめた。こもつくこは兩端りやうたんあしいてる。丁度ちやうど荷鞍にぐらほねのやうな簡單かんたん道具だうぐである。そのあしからあしわたしたぼうわら一掴ひとつかみづゝてゝは八人坊主はちにんばうずをあつちへこつちへちがひながらなはめつゝむのである。八人坊主はちにんばうずといふのはそのなはいたいはゞちひさなおもりである、やつつあるので八人坊主はちにんばうずといつてる。小作米こさくまいれる藁俵わらだはらを四五俵分へうぶんつくらねばらぬことがかせぎにときからかれには心掛こころがかりであつた。すぐつたわらなはべつつてきながらたゞせはしくて放棄うつちやつてつたのである。
 おしな毎日まいにちつておもて雨戸あまどを一まいだけけさせた。からりとしたあをそらえて自分じぶん蒲團ふとんちかくまでつた。おしなれまではあかるいそとようとおもふにはあまりにこゝろうつしてた。おしな庭先にはさきくりかられた大根だいこ褐色かつしよくるのをた。おつぎも勘次かんじよこむしろいてまた大根だいこつてる。その庖丁はうちやうのとん/\とあひだせはしく八人坊主はちにんばうずうごかしてはさらさらとわらしごおとかすかにまじつてきこえる。おしな二人ふたり姿すがたまへにしてひど心強こゝろづよかんじた。くりけた大根だいこうごかぬほどおだやかなであつた。おしなぶんけば一枚紙いちまいがみがすやうにこゝろよくなることゝ確信かくしんした。勘次かんじ藁俵わらだはらへて、さうしてはししばつたちひさなわらたばまるひらいて、それをあしそこんでかゝと中心ちうしんあしとを筆規ぶんまはしのやうにしてぐる/\とまはりながらまるたはらぼつちをつくつた。勘次かんじはおしながどうにか始末しまつをしていた麥藁俵むぎわらだはらけて仕上しあげたばかりの藁俵わらだはらこめはかんだ。こめにはあかつぶもあつたがあらすこまじつててそれがつた。
あらすこたかゝつたな勘次かんじはふとさういつた。
「さうだつけかな、それでも唐箕たうみつよてたつもりなんだがなよ、今年ことしあか夥多しつかりだが磨臼するすかたもどういふもんだかわりいんだよ」とおしなすこうごかして分疏いひわけするやうにいつた。
もつとこのくれえぢや旦那だんな大目おほめてくれべえから心配しんぺえはあんめえがなよ」勘次かんじすぐにおしな病氣びやうき心付こゝろづいてういつた。壁際かべぎはにはわら器用きようたはら規則正きそくたゞしくかへられた。おしなはそれを一しんた。それもおしなこゝろよくするひとつであつた。勘次かんじたはらそばママ手桶てをけふたをとつて
りや蒟蒻こんにやくだな」といつた。
らそれ仕入しいれたつきりおきられねえんだよ」おしなまくらうごかしていつた。勘次かんじまたふたをした。
 しづかなそらをぢり/\とうつつてかたぶいたかとおもふと一さんちはじめた。ふゆはもうみじか頂點ちやうてんたつしてるのである。勘次かんじはまだるからといつてくはかついで麥畑むぎばたけた。しかいくらもたがやさぬうちにちてにはかにつめたくつた世間せけん暗澹あんたんとしてた。おしな勘次かんじしてひど遣瀬やるせないやうな心持こゝろもちになつて、雨戸あまどひかせてくらはうむいぢた。
 冬至とうじはもうあひだが二日しかくなつた。あさうち勘次かんじ蒟蒻こんにやくふたをとつて
「どうしたもんだかな、おれでもかついてあるつてんべかな、かうしていたんぢややうねえかんな」おしな相談さうだんしてた。
「さうよな、それよりからどつちかつちつたら大根だいこでもつけもれへてえな、毎日まいんちくり干過ほしすぎやしめえかとおもつて心配しんぺえしてんだからよ」おしなうつたへるやうにいつてさうしてさら
自分じぶん丈夫ぢやうぶでせえありやとつくにやつちまつたんだが」と小聲こごゑでいつた。おしなはどうも勘次かんじすのがいやであつた。しかなんだかさう明白地あからさまにもいはれないのでういつたのであつた。
勘次かんじさんしほてくんねえか、大丈夫だえぢよぶるとおもつてたつけがなよ、それからこつちのをけぬかがえゝんだよ、そつちのがにや房州砂ばうしうずなまじつてんだから」おしなはいつた。
「おうい」勘次かんじはいつて、
房州砂ばうしうずなでもなんでもかまあめえ、どうでぬかふんぢやあんめえし、それにこつちなちつと凝結こごつてら」
勘次かんじさんそんでもえんなよ、どくだつちんだから、おれ折角せつかくべつにしてたんだから」おしなすこおこけていつた。
「さうかそんぢやさうすべよ」それからしほあらためて
「どうしてれだけ使つかれるもんけえ」と勘次かんじはいつた。おしな勘次かんじ梯子はしごけてひとつ/\に大根だいこはずすのも小糠こぬかむしろはかるのもしろしほ小糠こぬかぜるのも滿足氣まんぞくげた。
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「どうしたいくらかわるいのか」と自分じぶんも一しん蒲團ふとんすそける。勘次かんじにはからそとへはられなかつた。
 それでも冬至とうじ明日あすせまつた勘次かんじ蒟蒻こんにやくつてた。おしなもそれはめなかつた。もう幾人いくにんあるいたあとなので、おもふやうにはけなかつたがそれでも勘次かんじはおしなにひかされて、まだのこつて蒟蒻こんにやくかついでかへつてしまつた。
蒟蒻こんにやくはおしながもんだから、ぜにはみんなおめえげつてくべ」勘次かんじ銅貨どうくわをぢやら/\とおしな枕元まくらもとけた。おしな銅貨どうくわを一つ/\勘定かんぢやうした。さうして資本もとでいてもいくらかの剩餘あまりがあつたので
勘次かんじさんおもひのほかだつけな、まあだあと餘程よつぽどあんべえか」といつた。
いくらでもねえな、はあ此丈これだけぢやまたほどのこつてもあんめえよ」勘次かんじはいつた。おしな自分じぶんぜに蒲團ふとんしたれた。しな勘次かんじしてなさけないやうな心持こゝろもちがしてたのであるが、おもつたよりはあきなひをしてれたので一にち不足ふそくまつた恢復くわいふくされた。さうして
はたけきつぱなしだつけべな」勘次かんじがいつたときしなおどろいたやうに
「ほんにさうだつけなまあ、おくれつちやつたつけなあ、わすれてたつけが大丈夫だえぢよぶだんべかなあ」といつた。
「そんぢやいまつからでもけるだけくべ」勘次かんじはおつぎをれてた。冬至とうじになるまではたけ打棄うつちやつてくものはむらには一人ひとりもないのであつた。勘次かんじ荷車にぐるまりて黄昏ひくれまでに二くるまいた。青菜あをな下葉したばはもうよく/\黄色きいろれてた。おしな二人ふたり薄暗うすぐらくなつたいへにぼつさりしててもはたけ收穫しうくわく思案しあんしてさびしい不足ふそくかんじはしなかつた。
 夏季かきいそがしいさうして野菜やさい缺乏けつばふしたときには彼等かれら唯一ゆゐいつ副食物ふくしよくぶつしほむやうな漬物つけものかぎられてるので、大根だいこでも青菜あをなでも比較的ひかくてき餘計よけいたくはへをすることが彼等かれらには重大ぢゆうだい條件でうけんひとつにつてるのである。
 冬至とうじしづかであつた。ごろになつてから此處ここばかりはわすれたかとおもふやうに西風にしかぜんでる。ひるひとしきりはつめたい空氣くうきとほしてあたゝかにけた。おしなあさから心持こゝろもち晴々はれ/″\してのぼるにれて蒲團ふとんなほつてたが、身體からだちからいながらにめうかるつたことをかんじた。自分じぶん蒲團ふとんそばまでさそされたやうに、雨戸あまど閾際しきゐぎはまで與吉よきちいてはたふしてたり、くすぐつてたりしてさわがした。
 勘次かんじはおつぎを相手あひて井戸端ゐどばた青菜あをな始末しまつをしてる。つてをけあらつた青菜あをなは、べたへよこたへた梯子はしごうへに一まいはづしてつてせたその戸板といたまれた。あらをはつたとき枯葉かれはおほいやうなのはみなかまでゝうしろはやしならみきなはわたして干菜ほしなけた。自分等じぶんら晝餐ひるさいにも一釜ひとかまでた。おしなわづか日數ひかずよこつてたばかりにおとろへたものかやゝまぶしいのをかんじつゝひかり全身ぜんしんびながら二人ふたりのするのをた。さうして茹菜ゆでな一皿ひとさらいくらかかつおぼえた所爲せゐ非常ひじやう佳味うまかんじた。
 青菜あをなみずれたので勘次かんじをけしほつては青菜あをなあしでぎり/\とみつけてまたしほつてはみつける。おしなしほ加減かげんやらなにやら先刻さつきからしきりにくちしてる。勘次かんじはおしなのいふとほりにはこんでる。
 おしなきててもべつつかれもしないのでそつと草履ざうり穿いてうしろ戸口とぐちからならつた干菜ほしなた。それからはやしなゝめはたへおりてまた牛胡頽子うしぐみそばつて其處そこをそつとかためた。それからしばら周圍あたりつてた。おしな庭先にはさきから勘次かんじおほきなこゑいた。たけみきけながらなゝめにはやしをのぼつてうしろ戸口とぐちからうちへもどつたときさらさけんだ勘次かんじこゑくとともに、天秤てんびんかついだまゝぼんやりつて商人あきんど姿すがた庭葢にはぶたうへた。
「おしなたまごしいと」勘次かんじつぎをけ青菜あをなしほけながらいつた。
いくらかつたつけな」おしな戸棚とだな抽斗ひきだしからしろかはたまごを廿ばかりした。
「おつう、四五日ねえでたつけがとやにもいくらかつたつけべ、あがつてねえか」おつぎに吩附いひつけた。おつぎは米俵こめだはらのぼつてそのうへひくつた竹籃たけかごとやのぞいたとき※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)めんどりが一けたゝましくしてうしろならなかんだ。にはとりも一しきりともやかましくいた。おつぎはばしてはたまごを一つ/\につてたもとれた。おつぎはたもとをぶら/\させて危相あぶなさう米俵こめだはらりた。其處そこにもたまごは六つばかりあつた。商人あきんどおろした四かくなぼてざるから眞鍮しんちうさらかぎつるされたはかりした。
かけいくらだね」おしないた。
「十一はんさ、近頃ちかごろどうもやすくつてな」商人あきんどはいひながらあさ目笊めざるたまごれて萠黄もえぎひもたどりつてはかりさをにして、さうして分銅ふんどういとをぎつとおさへたまゝ銀色ぎんいろかぞへた。玩具おもちやのやうなちひさな十露盤そろばんして商人あきんど
皆掛みながけが四百廿三もんめだからなそれ」はかりをおしなせて十露盤そろばんたまはじいた。
風袋ふうたいくと四百八もんめか、どうしたいくつだ廿六かな、さうするとひとつが」商人あきんどのいひをはらぬうちにおしな
いくらなんでえ、風袋ふうたいは」といた。
「十五もんめだな」
大概てえげえもんめぢやねえけえ」
「そんだらさつせえそれ、十五もんめだんべ、おらがな他人たにんのがよりやけえんだかんな」商人あきんど目笊めざるけてせて
「はて、一つ十五もんめづゝだ、つぶちひせえはうだな」商人あきんどはゆつくり十露盤そろばんたまはじいて
「四十六せんりんまうしゆるんだが、りや八りんとしてもらつてな」と商人あきんど財布さいふから自分じぶんぜにけた。
「おしなおめえ自分じぶんでもつたらよかねえけ、いくつでもつてけな」勘次かんじしほだらけにしためてとほくから呶鳴どなつた。
ぜにほかものつてつたはうがえゝからだけるとすべえよ、折角せつかく勘定かんぢやうもしたもんだからよ、大層たえそよくなつたんだから大丈夫だえぢよぶだよ」おしなはいつた。
「そんなこといはねえでいくつでもつてけよ、なほぎはけねえぢやえかねえもんだから」勘次かんじ漬菜つけなはなして檐下のきしたた。あしでたやうにあかくなつてる。
「それぢやちつとものこしたものかな」おしなちひさなのを二つつた。
「そんなんぢやねえのとれな」勘次かんじおほきなのをえらんで三つとつた。たまごかはにはしほすこいた。
「そんぢやそれけてんべ」商人あきんど今度こんど眞鍮しんちうさらたまごせて
「こつちなんぞぢや、あといくらでも出來できらあな」といひながらたどりつた。たまごすこうごくとはかりさをがぐら/\と落付おちつかない。
誤魔化ごまくわしちやだぞ」おしなさびしくわらひながらいつた。
「どうしておめえ、はかりなんざあ檢査けんさしたばかりだもの一でもとほねたりれたりして、どうしてんだはなしだ」商人あきんど分銅ふんどうおさへてまたんだ。
「五十もんめだな、さうすつとひとつ十六もんめづゝだ、けえからな」
しほがくつゝいてつからしほ目方めかたもあんぞ」勘次かんじそばからいつてわらつた。商人あきんど平然へいぜんとしてる。
「五せんりんまういくらつていふんだ、さうすつと先刻さつきのはいくらの勘定かんぢやうだつけな」
「四十六せんりんいくらとかいつたつけな」おしなすぐにいつた。
「それぢや差引さしひき四十一せんりん小端こばしか、こつちのおつかさま自分じぶんでもあきねえしてつから記憶おべえがえゝやな」商人あきんど十露盤そろばんつて
「どうしたえ、鹽梅あんべえでもわりいやうだが風邪かぜでもいたんぢやあんめえ」といつた。
「うむ、すこわるくつてやうねえのよ」おしなはいつて
小端こばしいくらになんでえ」とさらいた。
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また燐寸マツチぢやあんめえ」おしな微笑びせうした。
「こまけえ勘定かんぢやうにや近頃ちかごろ燐寸マツチめてくんだが、何處どこ商人あきんどもさうのやうだな」商人あきんどたまござるれながらいひつゞけた。
ひどやすくなつちやつたな、さむつちや保存もちがえゝのにけえつやすいつちうんだからまる反對あべこべになつちやつたんだな」勘次かんじ青菜あをなをけならべつゝいつた。
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「まためていておくんなせえ」今度こんどすこ叮寧ていねいにいひてゝつた。
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 ばん年中ねんぢう臟腑ざうふ砂拂すなはらひだといふ冬至とうじ蒟蒻こんにやくみんなべた。おしな明日あすからでもきられるやうにおもつてた。さうして勘次かんじ仕事しごとらちいたのでまた利根川とねがはかれることゝこゝろしてた。


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くちけなくつてやうねえよう」となさけないこゑでいつた。おしなあご釘附くきづけにされたやうにつて、つばむにものどせばめられたやうにかんじた。それで自分じぶんにもどうすることも出來できないのにおどろいた。勘次かんじ吃驚びつくりしてきた。
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野田のだへはらせてくれめえか」といた。勘次かんじ近所きんじよもの卯平うへいらせることもわすれてたゞ苦惱くなうする病人びやうにんまへひかへてこまつてるのみであつた。
明日あした屹度きつとるやうにいつてつたよ」勘次かんじはおしなみゝくちあてていつた。今更いまさらのやうに近所きんじよものたのまれて夜通よどほしにもくといふことにつた。
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何處どこいたいんだ、すこしさすらせてつか」勘次かんじいても
背中せなかやうがねえんだよ」と病人びやうにんはいふのみである。
「おしなさん、おとつゝあたよ、確乎しつかりしろよ」と近所きんじよ女房にようばうがいつた。それをいておしな暫時しばししづかにつた。
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「おうよ、こゝにたよ、何處どこへもゆきやしねえよ」勘次かんじそのたびみゝくちあてていつた。
勘次かんじさん」おしなまたんた。
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「おつうわれはなあ、よきもなあ」といつてまた發作ほつさ苦惱くなうおちいつた。
勘次かんじさん、おらんだらなあ、棺桶くわんをけれてくろうよ……」勘次かんじかうとするとしばらあひだへだてて
うしろくろになあ、牛胡頽子うしぐみのとこでなあ」おしなれ/″\にいつた。勘次かんじほゞ了解れうかいした。
 おしなはそれから劇烈げきれつ發作ほつささへぎられてもういはなかつた。突然とつぜん
風呂敷ふろしき、/\」
理由わけわからぬ囈語うはごとをいつて、意識いしきまつた不明ふめいつた。つひには異常いじやうちからくははつたかとおもふやうにおしなあし蒲團ふとんけつ身體からだ激動げきどうした。枕元まくらもと人々ひと/″\各自てんでくるしむおしなあしおさへた。うして人々ひと/″\刻々こく/\運命うんめいせまられてくおしな病體びやうたい壓迫あつぱくした。おしな發作ほつさんだときかすかな呼吸こきふとまつた。
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 ます/\けてつてた。いへうちには一くわい※(「火+畏」、第3水準1-87-57)おきたくはへてはなかつた。枕元まくらもと近所きんじよ人々ひと/″\勘次かんじとおつぎのむまでは身體からだうごかすことも出來できないで凝然ぢつつめたいふところあたゝめてた。おつぎはやうやかまど落葉おちばべてちやわかした、みんなたゞぽつさりとしてちやすゝつた。
勘次かんじかせえてらせやがればえゝのに」卯平うへいがぶすりとつぶやこゑひくくしかもみんなのみゝそこひゞいた。卯平うへい未明みめい使つかひるまではおしな病氣びやうきはちつともらずにた。おどろいてればもうこんな始末しまつである。卯平うへいいた。かれ煙管きせるんではたゞ舌皷したつゞみつてつばんだ。勘次かんじたゞいてた。かれはおしな發病はつびやうからどれほど苦心くしんしてそのらうしたかれぬ。おしな病氣びやうきあんずるほかかれこゝろにはなにもなかつた。その當時たうじには卯平うへい不平ふへいをいはれやうといふやうな懸念けねん寸毫すこしあたまおこらなかつたのである。
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 勘次かんじ近所きんじよ姻戚みよりとのほかには一ぱんさなかつたがそれでもむらのものはみなせんづゝつてくやみにた。さうしてさつさとかへつてつた。とほはなれたてらからは住職ぢうしよく小坊主こばうずとが、めた萠黄もえぎ法被はつぴとも一人ひとりれて挾箱はさみばこかつがせてあるいてた。小坊主こばうずすぐ棺桶くわんをけふたをとつてしろ木綿もめんくつてやつれたほゝ剃刀かみそり一寸ちよつとてた。形式的けいしきてき顏剃かほそりんでからふたくぎけられた。荒繩あらなはが十文字もんじけられた。晒木綿さらしもめんのこつた半反はんだんでそれがぐる/\とかれた。をけにはさら天葢てんがいせられた。天葢てんがいというても兩端りやうたんわらびのやうにまかれたせま松板まついたを二まいあはせたまでのものにすぎない簡單かんたんなものである。すゝけたかべにはれもふるぼけたあか曼荼羅まんだら大幅おほふくかざりのやうにけられた。くわんわづかひとはうむられた。それでも白提灯しろぢやうちん二張ふたはりかざされた。だけ格子かうしんでいゝ加減かげんおほきさにるとぐるりと四はうを一つにまとめてくゝつた花籠はなかごも二つかざされた。れも青竹あをだけけられた。かごへはひげのやうにだけてゝだけにはあかあを色紙いろがみきざんだはなかざつた。花籠はなかごまたそこかみいてんだものゝ年齡としかずだけ小錢こぜにれて、それをかざしたひと時々ときどきざら/\とつてはかごから小錢こぜにおとした。むら小供こどもあらそつてそれをひろつた。提灯ちやうちん花籠はなかごさきつた。あとからはむら念佛衆ねんぶつしうあかどう太皷たいこくびけてだらりだらりとだらけたたゝきやうをしながら一どうこゑあげいてつた。ひつぎ小徑こみちけて大道わうらいつた。むらもの自分じぶんかどからそれをのぞいた。棺桶くわんをけすわりがわる所爲せゐ途中とちうまずぐらり/\と動搖どうえうした。勘次かんじはそれでも羽織はおりはかま位牌ゐはいつた。それはみなりたので羽織はおりひもには紙撚こよりがつけてあつた。
 はかあなけたやう赤土あかつちが四はううづたかげられてあつた。其處そこには從來これまで隙間すきまのないほどあなられて、幾多いくたひとうづめられたのでほねあしほねがいつものやうにされてげられてあつた。法被はつぴてらとも棺桶くわんをけいた半反はんだん白木綿しろもめんをとつて挾箱はさんばこいれた。やが棺桶くわんをけ荒繩あらなはでさげてあかつちそこみつけられた。麁末そまつ棺臺くわんだいすこうづたかつたつちうへかれて、ふたつの白張提灯しらはりちやうちんふたつの花籠はなかごとがそのそばてられた。おしな生來せいらいつちまないはないといつていゝぐらゐであつた。さうしてそれはてるふゆ季節きせつのぞいては大抵たいてい直接ちよくせつあしそこつちについてた。おしなかうしてつめたいかばねつてからもあしそこ棺桶くわんをけいたまいへだてただけでさら永久えいきうつちあひせつしてるのであつた。
 ちひさな葬式さうしきながらひつぎあと旋風つむじかぜほこりぱらつたやうにからりとしてた。手傳てつだひ女房等にようばうらはそれでなくても膳立ぜんだてをするきやくすくなくてひまであつたから滅切めつきり手持てもちがなくなつた。それでもちながらわんはしとをつてくちうごかしてるものもあつた。膳部ぜんぶきまつたとほさらひらつぼもつけられた。それでも切昆布きりこぶ鹿尾菜ひじき油揚あぶらげ豆腐とうふとのほか百姓ひやくしやうつくつたものばかりで料理れうりされた。さらにはこまかくきざんでしほんだ大根だいこ人參にんじんとのなますがちよつぽりとせられた。さういふ残物のこりものつめたくつた豆腐汁とうふじるとをつゝいてもむぎまじらぬめしくちにはうへもない滋味じみなので、女房等にようばうら強健きやうけんかつ擴大くわくだいされたれるかぎりはくちこれむさぼつてまないのである。彼等かれら裏戸うらどかげあつまつて雜談ざつだんふけつた。
「どうしたつけまあ、ひど棺桶くわんをけぐら/\したんぢやなかつたつけゝえ」
そのはずだんべな、あと心配しんぺえやうねえほとけはあゝえにいごくんだつちぞおめえ」
勘次かんじさんことしくつてあとのこしてくのがつれえんだごつさら」
「そんだがよ、あんましがられつとしめえにやむけえかれつとよ」
「おゝら」
れてつてくろつちつたつておめえこたむけえるものもあんめえな」
 口々くちぐちんなことが遠慮ゑんりよもなく反覆くりかへされた。あひだ少時しばし途切とぎれたとき
「おしなさんも可惜あつたらいのちをなあ」と一人ひとりおもしたやうにいつた。
本當ほんたう他人ひとのやらねえこつてもありやしめえし」女房にようばう相槌あひづちつた。
風邪かぜいたなんてか、今度こんだ風邪かぜつええからきらんねえなんて、しらばつくれてな」
もの貧乏びんばふなんだよ」
「そんだがおしなさんは自分じぶんのがばかりぢやねえつちんぢやねえけ」
「さうだとよ、けえこゑぢやゆはんねえが、五十錢ごくわんとか八十錢はちくわんとかつて他人ひとのがもつたんだとよ」
八十錢はちくわんづゝもつちやおめえ、をんなぢやたえしたもんだがな、今度こんだ自分じぶんんちまあなんて、んねえこつたなあ」
つみつくつたばつぢやねえか」
 遠慮ゑんりよもなくそれからそれとうつるのである。
「そんなことゆつて、いまほとけのことをおめえ、とつゝかれつからろよ」
 一人ひとり女房にようばうがいつたときはなし暫時しばらく途切とぎれてしづまつた。一人ひとり女房にようばうさら大根だいこつまんでくちれた。
「さうえとこ他人ひとられたらどうしたもんだえ」そばからいはれて
てやあしめえな」とその女房にようばう裏戸うらどくちからにははうた。さうして
てえなばゞあはどうでれからよめにでもくあてがあんぢやなし、かまあねえこたあかまあねえがな」といつてわらつた。
 一同みんなどつと笑聲わらひごゑはつした。
 ひつぎおくつた人々ひとびとが離れ/″\にかへつてるまでは雜談ざつだんがそれからそれとまなかつた。平日へいじつ何等なんら慰藉ゐしやあたへらるゝ機會きくわいをもいうしてないで、しかきたがり、りたがり、はなしたがる彼等かれらは三にんとさへあつまれば膨脹ばうちやうした瓦斯ガスふくろ破綻はたんもとめてごとく、つひには前後ぜんご分別ふんべつもなくそのしたうごかすのである。たま/\抽斗ひきだしからしたあかかぬ半纏はんてんて、かみにはどんな姿なりにもくしれて、さうしてくやみをすますまでは彼等かれら平常いつもにないしほらしい容子ようすたもつのである。それはあらたまつて不馴ふなれ義理ぎりべねばならぬといふ懸念けねんが、わづかながら彼等かれらこゝろ支配しはいしてるからである。しか土間どまへおりて、たすきけられて、ぜんわんあらつたりいたりそのいそがしくうごかすやうにれば、彼等かれらこゝろはそれにかされてきたがり、りたがり、はなしたがる性情せいじやう自然しぜんかへるのである。假令たとひ他人たにんためにはかなしいでもの一じつだけは自己じこ生活せいくわつからはなれて若干じやくかん人々ひとびとと一しよ集合しふがふすることが彼等かれらにはむし愉快ゆくわいな一にちでなければならぬ。間斷かんだんなく消耗せうまうして肉體にくたい缺損けつそん補給ほきふするために攝取せつしゆする食料しよくれうは一わんいへどこと/″\自己じこ慘憺さんたんたる勞力らうりよくの一いてるのである。しか他人たにんいたむ一にち其處そこ自己じこのためには何等なんら損失そんしつもなくて十ぶん口腹こうふくよく滿足まんぞくせしめることが出來できる。他人たにん悲哀ひあいはどれほど痛切つうせつでもそれは自己じこ當面たうめん問題もんだいではない。如斯かくのごとくにして彼等かれらあつまところにはつね笑聲せうせいたないのである。
 おしなういふ伴侶なかま一人ひとりであつた。それが今日けふ笑聲せうせいあとにしてつめたいつちしたのである。


 おしな自分じぶん自分じぶんころしたのである。おしなは十九のくれにおつぎをんでからそのつぎとしにもまた姙娠にんしんした。とき彼等かれら窮迫きうはく極度きよくどたつしてたので胎兒たいじんだおふくろで七月墮胎だたいしてしまつた。それはまだあきあつころであつた。強健きやうけんなおしなは四五にちつとはやしなか草刈くさかりをしてた。それでも無理むりをしたためその大煩おほわづらひはなかつたが恢復くわいふくするまでにはしばらくぶら/\してた。それからといふものはどういふものかおしな姙娠にんしんしなかつた。おつぎが十三のとき與吉よきちうまれた。とき勘次かんじもおしなはら大切たいせつにした。をんなが十三といふともうやくつので、與吉よきちそだてながら夫婦ふうふは十ぶんはたらくことが出來できた。與吉よきちが三つにつたのでおつぎはよそ奉公ほうこうすことに夫婦ふうふあひだには決定けつていされた。ころ十五のをんなでは一ねん給金きふきん精々せい/″\ゑんぐらゐのものであつた。それでもそれだけ收入しうにふほか食料しよくれうげんずることが貧乏びんばふ世帶しよたいには非常ひじやう影響えいきやうなのである。それがいね穗首ほくびれるころからおしな思案しあんくびかしげるやうになつた。身體からだ容子ようすへんつたことを心付こゝろづいたからである。十ねんあまりたなかつたはら與吉よきちとまつてからくせいたものとえてまた姙娠にんしんしたのである。おしな勘次かんじもそれには當惑たうわくした。おつぎを奉公ほうこうしてしまへば、二人ふたりいておしな從來これまでのやうにはたらくことが出來できない、わづかかせぎでもそれが停止ていしされることは彼等かれら生活せいくわつためには非常ひじやう打撃だげきでなければならぬ。うちいねつたり、もみしたりいそがしい收穫しうくわく季節きせつて、えたそらした夫婦ふうふ毎日まいにちほこりびてた。有繋さすがつみなやうな心持こゝろもちもするので夫婦ふうふたゞこまつてすごしてた。それもよるつてつかれた身體からだよこにし甘睡かんすゐおちいるまでの少時間せうじかん彼等かれらたがひけつがた思案しあん交換かうくわんするのであつた。從來これまで夫婦ふうふあひだいづれが本位ほんゐであるかわからぬほど勘次かんじには決斷けつだんちから缺乏けつばふしてた。
「どうでもおめえのはらだからきにしたはうがえゝやな」勘次かんじういふのである。しかしそれは怎的どうでもいゝといふなぐりではなくて、すべてがおしなたいして命令めいれいをするには勘次かんじこゝろあまはばかつてたのである。
「そんでも、おれがにもこまんべな」おしなけるやうにいふのである。勘次かんじはおしなうするつもりだときつぱりいつてしまへばけつして反對はんたいをするのではない。といつておしな獨斷どくだん決行けつかうするのにはあま大事だいじであつたのである。さうしてそれは決定けつていされる機會きくわいもなくて夫婦ふうふ依然いぜんとして農事のうじ忙殺ばうさつされてた。
 あひだそらわたこがらしにはかかなしい音信おどづれもたらした。けやきこずゑは、どうでもうれまでだといふやうにあわたゞしくあかつた枯葉かれは地上ちじやうげつけた。られたかろちひさな落葉おちばは、自分じぶんめてれるかげもとめて轉々ころ/\はしつてはしたわらあひだでももみむしろでも何處どこでもたくした。周圍あたりすべてがたゞさわがしく混雜こんざつした。うち勘次かんじあきから募集ぼしふのあつた開鑿工事かいさくこうじひとまかせてつたのである。
たゞかうしてぐづ/\しててもやうあんめえな」おしなとき勘次かんじ判斷はんだんうながしてた。
おれもさうゆはれてもこまつから、おめえきにしてくろうよ」勘次かんじたゞういつた。
 勘次かんじつてからおしなその混雜こんざつしたしかさびしい世間せけんまじつて遣瀬やるせのないやうな心持こゝろもちがして到頭たうとう罪惡ざいあく決行けつかうしてしまつた。おしなはらは四つきであつた。ころはらが一ばん危險きけんだといはれてごとくおしなはそれが原因もとたふれたのである。胎兒たいじは四つきぱいこもつたので兩性りやうせいあきらかに區別くべつされてた。ちひさいまたあひだには飯粒程めしつぶほど突起とつきがあつた。おしな有繋さすがしい果敢はかない心持こゝろもちがした。だい一にこと發覺はつかくおそれた。それで一たん世間せけんをんなのするやうにゆかしたうづめたのをおしなさらはた牛胡頽子うしぐみそば襤褸ぼろへくるんでうづめたのである。
 おしな身體からだ恢復くわいふくするまで凝然ぢつとして蒲團ふとんにくるまつてればあるひはよかつたかもれぬ。十幾年前いくねんまへには一さいんだおふくろ處理しよりしてくれたのであつたが、今度こんど勘次かんじないしでおしな生計くらし心配しんぱいもしなくてはられなかつた。ひとつにはそれを世間せけん隱蔽いんぺいしようといふ念慮ねんりよかららぬ容子ようすよそほためひてもうごかしたのであつた。しかしながらころした黴菌ばいきんがどうして侵入しんにふしたであつたらうか。おしな卵膜らんまくやぶ手術しゆじゆつ他人たにんわずらはさなかつた。さうしてその※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さうにふした酸漿ほゝづき知覺ちかくのないまでに輕微けいび創傷さうしやう粘膜ねんまくあたへて其處そこ黴菌ばいきん移植いしよくしたのであつたらうか、それとも毎日まいにちけぶりごとあびけたほこりからたのであつたらうか、それをあきらめることは不可能ふかのうでなければならぬ。しかいづれにしても病毒びやうどくつちもたらしたのでなければならなかつた。
 葬式さうしきつぎまた近所きんじよひとた。勘次かんじりた羽織はおりはかま村中むらぢう義理ぎりまはつた。土瓶どびんれたみづつて墓參はかまゐりにつて、それから膳椀ぜんわんみなかへして近所きんじよ人々ひと/″\かへつたのち勘次かんじ※(「煢−冖」、第4水準2-79-80)けいぜんとしてふるつくゑうへかれた白木しらき位牌ゐはいたいしてたまらなくさびしいあはれつぽい心持こゝろもちになつた。二三にちあひだ片口かたくち摺鉢すりばちれた葬式さうしきとき残物ざんぶつべて一たゞばんやりとしてくらした。雨戸あまどはいつものやうにいたまゝ陰氣いんきであつた。卯平うへいくはへて四にんはおたがひたゞひやゝかであつた。卯平うへい薄暗うすぐらうちなかたゞ煙草たばこかしてはおほきな眞鍮しんちう煙管きせる火鉢ひばちたゝいてた。卯平うへい勘次かんじとはあひだろくくちきかなかつた。勘次かんじ自分じぶん身體からだ自分じぶんこゝろとが別々べつ/\つたやうな心持こゝろもち自分じぶん自分じぶんをどうすること出來できなかつた。それでも小作米こさくまいのことは念頭ねんとうからぼつることはなかつた。貧乏びんばふ小作人こさくにんつねとして彼等かれら何時いつでも恐怖心きようふしんおそはれてる。こと地主ぢぬしはゞかることは尋常じんじやうではない。さうして自分じぶんつくきたつた土地とちんでもかぢいてたいほどそれををしむのである。彼等かれら最初さいしよんだつち強大きやうだい牽引力けんいんりよく永久えいきう彼等かれらとほはなたない。彼等かれら到底たうていつちくるしみとほさねばならぬ運命うんめいつてるのである。
 勘次かんじはおしな葬式さうしきむとすぐあたらしいたはられた小作米こさくまい地主ぢぬしはこんでかねばらぬとそれがこゝろくるしめてた。しかときあたらしいたはらの一つはつたなはからけて、こめたゝいてもいくらもなかつた。勘次かんじつぎとしにはほとん自分じぶん一人ひとり農事のうじはげまなくてはならぬ。例年れいねんのやうにいそがしい季節きせつ日傭ひようくことも出來できまいし、それにはおふくろてられた二人ふたり子供こどもることだし、いまからこく用意よういもしなくてはらぬとおもふと自分じぶん身上しんしやうから一ぺうこめげんじては到底たうていけぬことをふか思案しあんしてかれねむらないこともあつた。しか方法はうはふもないのでかれ地主ぢぬし哀訴あいそして小作米こさくまい半分はんぶんつぎあきまでしてもらつた。地主ぢぬし東隣ひがしどなり舊主人きうしゆじんであつたのでそれも承諾しようだくされた。かれさらわづかこめの一いてぜにへねばならぬほどふところきうしてたのである。
 勘次かんじはそれから利根川とねがは工事こうじかねばならないとおもつてた。それはかれわづかあひだ放浪者はうらうしやおそろしさをおもつて、假令たとひどうしてもその統領とうりやうあざむいて僅少きんせう前借ぜんしやくかねたふほど料簡れうけんおこされなかつたのである。うち張元ちやうもとから葉書はがきた。かれ只管ひたすら恐怖きようふした。しか二人ふたり見棄みすてゝくことが出來できないので、どうしていゝか判斷はんだんもつかなかつた。さうするうちにおしなの七日もぎた。かれ煩悶はんもんした。たゞ一つ卯平うへい野田のだくのをしばら猶豫いうよしてもらつて自分じぶんあひだすこしでも小遣錢こづかひせんかせいでたいとおもつた。しかしそれも直接ちよくせつにはせないので、れい桑畑くはばたけまいへだてたみなみたのんだ。數日來すうじつらいかれ卯平うへいおほきな體躯からだ火鉢ひばちそばゑて煙管きせるんではむつゝりとしてるのをると、なんとなくはゞかつてるべく視線しせんけるやうにとほざかつてることを餘儀よぎなくされるのであつた。
 勘次かんじとおしな相思さうし間柄あひだがらであつた。勘次かんじ東隣ひがしどなり主人しゆじんやとはれたのは十七のふゆで十九のくれにおしな婿むこつてからも依然いぜんとして主人しゆじんもとつとめてた。かれその當時たうじしなうちへはとなりづかりといふので出入でいつた。ひとつにはかたちづくつてたおしな姿すがたたい所爲せゐでもあつた。かれあき大豆打だいづうちといふばんなどには、唐箕たうみけたりたはらつくつたりするあひだに二しようや三じよう大豆だいづひそかかくしていておしなうちつてつた。さうして豆熬まめいりかじつては夜更よふけまではなしをすることもあつた。おしなうちからは近所きんじよ風呂ふろたぬときた。いそがしい仕事しごとにはやとはれてもた。さういふあひだ彼等かれら關係くわんけい成立なりたつたのである。それはおしなが十六のあきである。それから足掛あしかけねんつた。勘次かんじには主人しゆじんうち愉快ゆくわいはたらくことが出來できた。かれ體躯からだむし矮小こつぶであるが、そのきりつとしまつた筋肉きんにく段々だん/″\仕事しごと上手じやうずにした。
 假令たとひどんなもの彼等かれらあひだへだてようとしても彼等かれらあひちかづく機會きくわい見出みいだしたことは鬱蒼うつさうとしてさへぎつて密樹みつじゆこずゑとほしてどこからか地上ちじやうひかりげてるやうなものであつた。彼等かれらこゝろたゞあかるかつたのである。
 おしなは十九のはる懷胎くわいたいした。自分じぶんでもそれはしばららずにた。季節きせつ段々だん/\ぽかついて、仕事しごとには單衣ひとへものでなければならぬころつたので女同士をんなどうしかくしおほせないやうにつた。おふくろはおしなをまだ子供こどものやうにおもつて迂濶うくわつにそれを心付こゝろづかなかつた。本當ほんたうにさうだとおもつたときはおしなもなくかたいきするやうにつた。さうして身體からだがもうてゝけない場合ばあひつたので兩方りやうはう姻戚みよりものでごた/\と協議けふぎおこつた。勘次かんじもおしなそのときたがひあひしたこゝろ鰾膠にべごとつよかつた。彼等かれら惡戲者いたづらものみづをさゝれてあわてた機會はづみあるしてしまつた。それは、まゝでは二人ふたりてもはされぬ容子ようすだからどうしてもひとつにらうといふのならば何處どこへか二人ふたりかくすのである。さうしていよ/\となればおれがどうにでも其處そこ始末しまつをつけてるから、なんでも愚圖ぐづ/\してちや駄目だめだとおしなこゝろ教唆そゝつたのであつた。おしなから一しん勘次かんじせまつた。勘次かんじころからおしなのいふなりにるのであつた。二人ふたりとほくはけないので、隣村となりむら知合しりあひとうじた。兩方りやうはう姻戚みよりさわした。ういふ同志どうしへのこんな惡戲いたづら何處どこでも反覆くりかへされるのであつた。さうして成功せいこうした惡戲者いたづらもの
仕事しごとなんでも牝鷄めんどりでなくつちやうまかねえよ」といつてはかげわらふのである。
外聞げえぶんさらしやがつて」と卯平うへいおこつたがそれがためこと容易よういはこばれた。勘次かんじ婿むこつたのである。簡單かんたんしきおこなはれた。にはか媒妁人ばいしやくにんさだめられたものが一人ひとり勘次かんじれてつた。卯平うへいはむつゝりとしてそれをけた。平生へいぜいきつけたうちなので勘次かんじきま惡相わるさうすわつた。おしな不斷衣ふだんぎまゝ襷掛たすきがけ大儀相たいぎさう體躯からだうごかして勘次かんじそばへはすわらなかつた。媒妁人ばいしやくにんたゞさけんでさわいだだけであつた。おしなもなくをんなんだ。それがおつぎであつた。季節きせつくれつまつたいそがしいときであつた。おふくろはおしないてるので、勘次かんじ不足ふそく婿むこおもつてはなかつた。勘次かんじそのくれまた主人しゆじんまかせるはず前借ぜんしやくした給金きふきんを、おしなうちんだのでおふくろかへつよろこんでた。卯平うへいたゞ勘次かんじむしすかなかつた。自分じぶんそのおほきな體躯からだでぐい/\と仕事しごとをしつけたのに勘次かんじちひさな體躯からだでちよこ/\とあるいたり、ただ吩咐いひつけばかりいてるので自分じぶん機轉きてんといふものが一かうなかつたりするのでひど齒痒はがゆおもつてた。しか自分じぶん入夫にふふといふ關係くわんけいもあるしそれに生來せいらい寡言むくちなので姻戚みよりあひだ協議けふぎにもかれ
「どうでもわしはようがすからえゝ鹽梅あんべいめておくんなせえ」とのみいふのであつた。
 勘次かんじ百姓ひやくしやうもつとせはしいころの五ぐわつ病氣びやうきつた。かれくつわけた竹竿たけざをはしつてうまぎよしながら、毎日まいにちどろだらけになつて代掻しろかきをした。どうかするとそんな季節きせつ東南風いなさいてふるへるほどえることがある。勘次かんじえがさはつたのであつたらうか心持こゝろもちわるいというてからもどつてるとそれつまくらあがらぬやうになつた。うま病氣びやうきませる赤玉あかだまといふくすり幾粒いくつぶんでかれ蒲團ふとんへくるまつてた。かれはどうにか病氣びやうきしのぎがつけば卯平うへいそばへはきたくなかつた。それとひとつには我慢がまんして仕事しごとればろくにははたらけなくても一にちつとめをはたしたことにるけれども、まるやすんでしまへばだけの割當勘定わりあてかんぢやう給金きふきんから差引さしひかれなければらぬのでかれはそれをおそれた。しか病氣びやうきうまませるくすり赤玉あかだまではすぐにはなほらなかつた。それでかれはおしな厄介やくかいつもりで、つぎあさはや朋輩ほうばいはこばれた。卯平うへいしぶつたかほむかへた。おしな蒲團ふとんいてつたので勘次かんじはそれへごろりと俯伏うつぶしになつてひたひ交叉かうさしたうづめた。うちものみななければならなかつた。病人びやうにんかまつてることは仕事しごとゆるさなかつた。おふくろときおもて大戸おほどてながら
はらつたら此處こゝにあんぞ」といつてばたりと飯臺はんだいふたをした。あと勘次かんじ蒲團ふとんからずりしてたら、むぎばかりのぽろ/\しためしであつた。時分じぶんしなうちではさういふ食料しよくれう生命いのちつないでたのである。勘次かんじ奉公ほうこうにばかりたのでそれほど麁末そまつものくちにしたことはない。それでどうしてもさうといふこゝろおこらなかつた。午餐ひるうちものからもどつてめしべた。ちつとはどうだとおふくろすゝめられても勘次かんじたゞ俯伏うつぶしつてた。
野郎やらうこんなせはしいときころがりみやがつてくたばるつもりでもあんべえ」と卯平うへい平生へいぜいになくんなことをいつた。勘次かんじあとひといた。かれはおしながこつそり蒲團ふとんしたいれれた煎餅せんべいかぢつたりして二三にちごろ/\してた。ころ駄菓子店だぐわしみせ滅多めつたかつたのでだけのことがおしなには餘程よほど心竭こゝろづくしであつたのである。勘次かんじはどうも卯平うへいいやおそろしくつてやうがないのですこ身體からだ恢復くわいふくしかけるとみんなあとでそつとけてむらうち姻戚みよりところつて板藏いたぐらの二かいかくれてた。になつたらどうしてつたかおしなはおつぎを背負せおつてにはとりを一つてた。
勘次かんじさんわるおもはねえでくろうよ、おらわるくするつもりはねえが、やうねえからよ」とおしなうつたへるやうにいふのであつた。おしな毎晩まいばんのやうに板藏いたぐらさるうちからおろしてとまつてつた。それでも勘次かんじ卯平うへいそばいやなのでもどらないといふつもり村落むら漂泊へうはくした。また土地とちかへつてると、はたけてもてもおしなせまつてるので、かれ農具のうぐてゝげることさへあつた。それが如何どうしたものか何時いつにやらひど自分じぶんからおしなそばきたくつてしまつて、他人たにんからかへつ揶揄からかはれるやうにつたのである。
 勘次かんじ奉公ほうこう年季ねんきつとめあげてかへつたとつたとき卯平うへいとはひとうちかまどべつにすることにつた。夫婦ふうふ乳呑兒ちのみごと三にん所帶しよたい彼等かれら卯平うへいから殼蕎麥からそばが一しようむぎが一と、あとにもさきにもたつただけけられた。正月しやうぐわつ饂飩うどんてなかつた。有繋さすがにおふくろ小麥粉こむぎこかくしておしなつた。それでも勘次かんじおそろしい卯平うへいひとかまどであるよりもかへつ本意ほんいであつた。おふくろんでからいた卯平うへい勘次かんじひとつにらなければならなかつた。そのときはもう勘次かんじあるじであつた。さうしてとう自分じぶんんで土地とちまでが自分じぶん所有ものではなかつた。それは借錢しやくせんきまりをつけるためひとつて東隣ひがしどなり格外かくぐわいたせたのである。それほどかれいへきうしてた。勘次かんじには卯平うへいおそろしいよりもそのときではむしいや老爺おやぢつてた。二人ふたり滅多めつたくちかぬ。それをなければらぬおしな苦心くしん容易よういなものではなかつたのである。
 勘次かんじたのまれてみなみ亭主ていしゆはなしをしたとき卯平うへいはどうしたものかとあんじたほどでもなく「子奴等こめらこまるといへばどうでもざらによ、ねえでどうするもんか」と煙管きせるつてくせ舌皷したつゞみちながらいつた。みなみあんじながら挨拶あいさつつて勘次かんじいきほひづいて
「そんぢや、おとつゝあおれつから」といつた。ときばかりはおだやかな挨拶あいさつ交換かうくわんされた。
 勘次かんじなくつてから卯平うへいはむつゝりしたかほ微笑びせうかべては與吉よきちいてかれることもあつた。與吉よきちよるにはかしてまぬことがある。おしなぬまで蒲團ふとんなかにおつぎは與吉よきちいてくるまるのであつた。與吉よきち夜泣よなきをするとき卯平うへい枕元まくらもと燐寸マツチをすつて煙草たばこうつしてはえさしをランプへけて
「おつかあがえんだかもんねえ、さうらあかるくつた。りやねえ[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、69-12]かさつてんだ。可怖おつかねえことあるもんか」卯平うへいおも調子てうしでいふのである。與吉よきちかべ何處どこともなくてはいたやうにふるはしていてひしとおつぎへきつく。おつぎは與吉よきちひざいてむまでは兩手りやうておほうてる。それがしたら毎夜まいよのやうなのでおつぎは、玉砂糖たまざたう蒲團ふとんしたれていてときにはめさせた。それでもつのつたときくちれた砂糖さたうしてはいよ/\はげしくくのである。おつぎはれて邪險じやけん與吉よきちをゆさぶることもあつた。それで與吉よきちしまひには砂糖さたうくちにしながらすや/\とねむる。卯平うへい與吉よきちしづかにるまではよこつたまゝおつぎのはういて薄闇うすぐらランプにひからせてる。
 與吉よきちはおつぎにかれるときいつもくおつぎの乳房ちぶさいぢるのであつた。五月蠅うるさがつて邪險じやけんしかつてても與吉よきちあまえてわらつてる。それでもときにおしなのしたやうにふところけて乳房ちぶさふくませててもちひさな乳房ちぶさ間違まちがつてもはなかつた。砂糖さたうけててもあざむけなかつた。おつぎは與吉よきちはららしてときにはこめみづひたしていて摺鉢すりばちですつて、それをくつ/\と砂糖さたういれめさせた。與吉よきち一箸ひとはしめては舌鼓したつゞみつてそのちひさなしろして、あたまうしろへひつゝけるほどらしておつぎのかほ凝然ぢつてはあまえたこゑたてわらふのである。與吉よきちはそれがほしくなればちひさなすゝけた※(「竹かんむり/瞿/又」、第4水準2-83-82)わくだなした。其處そこにはかれこの砂糖さたうちひさなふくろせてあるのであつた。
 おつぎは勘次かんじ吩咐いひつけてつたとほをけれてあるこめむぎとのぜたのをめしいて、いも大根だいこしるこしらへるほかどうといふ仕事しごともなかつた。あひだには與吉よきち背負せおつてはやしなかあるいてたけ竿さをつくつたかぎ枯枝かれえだつては麁朶そだたばねるのがつとめであつた。おつぎは麥藁むぎわら田螺たにしのやうなかたちよぢれたかごつくつてそれを與吉よきちたせた。卯平うへいはぶらりとつてはかへりには駄菓子だぐわしすこたもとれてる。さうして卯平うへい菓子くわしつたみぎひだり袖口そでくちからして與吉よきちせる、與吉よきちはふら/\とやうやあるいてつては、あたさう卯平うへいつかまつてたもとさがす。さうすると菓子くわしつたさら卯平うへいひだりたもとからる。與吉よきちあぶさう卯平うへい身體からだつたひつゝひだりまはつてく。さうすると卯平うへい與吉よきちあたまうへつて菓子くわしあたまおとされる。與吉よきちあたまをやるとき菓子くわし足下あしもとへぽたりとちる。與吉よきちあわてゝ菓子くわしひろつてはこゑてゝわらふのである。菓子くわし何時いつまでもらないやうに砂糖さたうかためたくろ鐵砲玉てつぱうだまあたへられた。あたまからちてころ/\と鐵砲玉てつぱうだまとほころがつてくのを、たふれながらけて與吉よきち卯平うへいのむつゝりとしたかほけるのである。與吉よきちつまづいてたふれてもそのときけつしてくことがない。鐵砲玉てつぱうだま麥藁むぎわらかごへもれられた。與吉よきちはそれを大事相だいじさうつては時とき/″\のぞきながら、おつぎが炊事すゐじあひだ大人おとなしくしてすわつてるのであつた。


 はるそらからさうしてつちからかすかうごく。毎日まいにちのやうに西にしからほこりいて疾風しつぷうがどうかするとはたととまつて、空際くうさいにはふわ/\とした綿わたのやうなしろくもがほつかりとあたゝかい日光につくわうびようとしてわづかのぼつたといふやうに、うごきもしないで凝然ぢつとしてることがある。みづちかしめつたつちあたゝかい日光につくわうおもふ一ぱいうてそのいきほひづいたつちかすかな刺戟しげきかんぜしめるので、田圃たんぼはん地味ぢみつぼみたぬすこしづゝびてひら/\とうごやすくなる。刺戟しげきからかへるはまだ蟄居ちつきよ状態じやうたいりながら、まれにはそつちでもこつちでもくゝ/\とすことがある。そらからひかりはそろ/\と熱度ねつどして、つちはそれをいくらでもうてまぬ。つちすべてを段々だん/\刺戟しげきしてほりほとりにはあしやとだしばやくさそらあひえいじてすつきりとくびもたげる。やはらかさに滿たされた空氣くうきさらにぶくするやうに、はんはなはひら/\とまずうごきながらすゝのやうな花粉くわふんらしてる。かへる假死かし状態じやうたいからはなれてやはらかなくさうへいては、おどろいたやうな容子ようすをしてそらあふいでる。さうして彼等かれらあわてたやうにこゑはなつてそのなが睡眠すゐみんから復活ふくくわつしたことをそらむかつてげる。それでとほとき彼等かれらさわがしいこゑたゞそらにのみひゞいてこゝろよげである。
 彼等かれらさらはるいたつたことを一さい生物せいぶつむかつてうながす。くさこゝろづいて活力くわつりよく存分ぞんぶん發揮はつきするのをないうちはくことをめまいとつとめる。田圃たんぼはんとうはなてゝ自分じぶんさき嫩葉わかば姿すがたつてせる。黄色味きいろみふくんだ嫩葉わかばさわやかでほがらかな朝日あさひびてこゝろよひかりたもちながらあをそらしたに、まだ猶豫たゆたうて周圍しうゐはやしる。みさきのやうなかたちうて水田すゐでんかゝへて周圍しうゐはやしやうや本性ほんしやうのまに/\勝手かつてしろつぽいのやあかつぽいのや、黄色きいろつぽいのや種々いろ/\しげつて、それがいたときいそいでひとつのふかみどりるのである。雜木林ざふきばやし其處そこ此處こゝらに散在さんざいして開墾地かいこんちむぎもすつとくびして、蠶豆そらまめはな可憐かれんくろひとみあつめてはづかしさうあいだからこつそりと四はうのぞく。雜木林ざふきばやしあひだにはまたすゝき硬直かうちよくそらさうとしてつ。そのむぎすゝきしたきよもとめる雲雀ひばり時々とき/″\そらめてはるけたとびかける。さうするとその同族どうぞくこゑのみが空間くうかん支配しはいして居可ゐべはずだとおもつてかへるは、そのさへづこゑあつらうとしてたがひ身體からだえ飛び越えてるので小勢こぜい雲雀ひばりはすつとおりてむぎすゝきひそんでしまふ。さうしてはかへるかぬ日中につちうにのみ、これあふげばまばゆさにへぬやうにはるかきらめくひかりなかぼつしてそのちひさなのど拗切ちぎれるまでははげしくらさうとするのである。かへるいよ/\ます/\ほこつてかしのやうなおほきな常緑木ときはぎ古葉ふるはをも一にからりとおとさせねばまないとする。
 ときすべての樹木じゆもくやそれから冬季とうきあひだにはぐつたりといてすべての雜草ざつさう爪立つまだてしてたゞそらへ/\とあたゝかなひかりもとめてまぬ。つちがそれを凝然ぢつきとめてはなさない。それで一さい草木さうもくつち直角ちよくかくたもつてる、冬季とうきあひだつち平行へいかうすることをこのんでひとてつはり磁石じしやくはれるごとつち直立ちよくりつして各自てんで農具のうぐる。こん股引ももひきわらくゝつてみなたがやはじめる。みづしいとひとおもときかへるは一せいけるかとおもほどのどふくろ膨脹ばうちやうさせてゆるがしながら殊更ことさらてる。しろ※(「糸+圭」、第3水準1-90-3)すがいとのやうなあめみづ滿つるまではそゝいでまたそゝぐ。くべきときためにのみうまれてかへる苅株かりかぶかへし/\はたらいて人々ひと/″\周圍しうゐから足下あしもとからせまつて敏捷びんせううごかせ/\とうながしてまぬ。かへるがぴつたりとこゑときには日中につちうあたゝかさにひともぐつたりとつて田圃たんぼみじかくさにごろりとよこる。さらかへるはひつそりとしづかなよるになると如何いか自分じぶんこゑとほかつはるかひゞくかをほこるものゝごとちからきはめてく。雨戸あまどづるときかへるこゑ滅切めつきりとほへだつてそれがぐつたりとつかれたみゝくすぐつて百姓ひやくしやうすべてをやすらかなねむりにいざなふのである。熟睡じゆくすゐすることによつて百姓ひやくしやうみなみじか時間じかん肉體にくたい消耗せうまう恢復くわいふくする。彼等かれら雨戸あまど隙間すきまから夜明よあけしろひかりおどろいて蒲團ふとんつてそとると、今更いまさらのやうにみゝせまかへるこゑ覺醒かくせいうながされて、井戸端ゐどばたつめたいみづまつたあさ元氣げんきかへすのである。草木くさきとほはるかひゞけとこゑゆすられつゝよるあひだ生長せいちやうする。くぬぎならその雜木ざふきかへるけばほどさうしてそれが季節きせつまではいくらでも繁茂はんもすることを繼續けいぞくしようとする。其處そこには毛蟲けむし淺猿あさましい損害そんがいあるひるにしても、しと/\としば/\こずゑあめそらあをさをうつしたかとおもふやうに力強ちからづよふかいみどり地上ちじやうおほうてさわやかなすゞしいかげつくるのである。
 鬼怒川きぬがは西岸せいがんにもうしてはるきたかつ推移すゐいした。うれひあるものもいものもひとしく耒※らいし[#「耒+秬のつくり」、U+801F、74-15]つておの/\ところいた。勘次かんじ一人ひとりである。
 勘次かんじはるあひだにおしなの四十九にちすごした。白木しらき位牌ゐはいこゝろばかりの手向たむけをしただけで一せんでもかれ冗費じようひおそれた。かれふたゝ利根川とねがは工事こうじつたときふゆやうや險惡けんあくそら彼等かれら頭上づじやうあらはした。みぞれゆきあめときとして彼等かれら勞働らうどうおそるべき障害しやうがいあたへて彼等かれらを一にちそのさむ部屋へやめた。一にち工賃こうちん非常ひじやう節約せつやくをしてもつぎ仕事しごとなければ一せん自分じぶんにはのこらなくなる。それは食料しよくれうまきとの不廉ふれん供給きようきふあふがねばならぬからである。勘次かんじはおしな發病はつびやうから葬式さうしきまでにはかれにしては過大くわだい費用ひようえうした。それでも葬具さうぐ雜費ざつぴには二せんづつでもむらすべてがつて香奠かうでんと、おしな蒲團ふとんしたいれてあつたたくはへとでどうにかすることが出來できた。それでも醫者いしやへの謝儀しやぎ彼自身かれじしん懷中ふところはげつそりとつてしまつた。さうして小作米こさくまいつたくるしいふところからそれでもかれ自分じぶんないあひだ手當てあてに五十せんたくしてつた。それも卯平うへい直接ちよくせつではなくてみなみたのんで卯平うへいわたしてもらつた。勘次かんじつてからぜにされたとき卯平うへい
「さううたぐるならわしはあづかりますめえ」といつて拒絶きよぜつした。
「まあ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)そんなことゆはねえで折角せつかくのことに、勘次かんじさんもわる料簡れうけんでしたんでもなかんべえから」となだめても到頭たうとう卯平うへいかなかつた。
 勘次かんじはどうにかかせしてかへりたいとおもつて一生懸命しやうけんめいになつたがそれはわづか生命せいめいつなたにすぎないのであつた。近所きんじよ村落むらからつたものはしのれないで夜遁よにげしてしまつたものもあつた。それでも勘次かんじわづかつて財布さいふぜにらさなかつたといふだけのことにつなめた。
「おとつゝあれたなあ」とびるやうにいつて自分じぶんうちしきゐまたいだときあし知覺ちかくのないほどかれ草臥くたびれてよるくらくなつてた。有繋さすが二人ふたりよろこんで與吉よきち勘次かんじすがつた。卯平うへいがしたやうに鐵砲玉てつぽうだま勘次かんじからることゝおもつたらしかつた。勘次かんじくるしいふところからなにつてはなかつた。かれ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)どんなにしても無邪氣むじやきためちひさな菓子くわし一袋ひとふくろつてなかつたことをこゝろいた。
「まんま」というてちひさな與吉よきち勘次かんじもとめた。
「そんぢやぢい砂糖さたうでもめろ」とおつぎは與吉よきちだい※(「竹かんむり/瞿/又」、第4水準2-83-82)わくだなふくろをとつた。寡言むくち卯平うへい一寸ちよつと見向みむいたきりでかへつたかともいはない。勘次かんじ草臥くたびれた容子ようすをしてるのがわざとらしいやうにえるので卯平うへいにがかほをして、えた煙管きせるをぎつとみしめてはおもしたやうに雁首がんくび火鉢ひばちたゝけた。吸穀すひがらがひつゝいてるのでかれちからぱいたゝきつけた。勘次かんじにはそれがてつけにでもされるやうにこゝろひゞいた。
「おつぎみんなでもめさせろ、さうしてわれめつちめえ、おとつゝあかせえでたから汝等わつられからよかんべえ」卯平うへいはいつた。勘次かんじやうやかへつた箭先やさきにかういふことで自分じぶんうちでもひど落付おちつかない、こそつぱくてらない心持こゝろもちがするのでかれあしあらはずに近所きんじよ義理ぎりすからといつてつた。
明日あしただつてえゝのに」卯平うへいあとつぶやいた。かれはぶすり/\とくちくのであつたがそれでも先刻さつきからのやうにひねくれまがつたことはれまではいつたことはなかつた。
 かれんだおしなのことをおもつて二人ふたりあはれになつて勘次かんじないあひだ面倒めんだうつた。かれわづか菓子くわしふくろからちひさな與吉よきちしたはれてると有繋さすがにく心持こゝろもちおこらなかつた。あひだかれなんにも不足ふそくおもつてはなかつた。それを勘次かんじかへつてると性來しやうらいきでない勘次かんじたちまちに二人ふたりなびいてしまつた。かれこれまでの心竭こゝろづくしを勘次かんじうばはれたやうで、ふつと不快ふくわいかんじをおこしたのである。それもどんな姿なりにも勘次かんじ義理ぎりのべればそれでもまだよかつたが、勘次かんじめうひけてそれがのどまでてもおさへつけられたやうでこゑはつすることが出來できなかつたのである。
 ふところのさむしい勘次かんじはさうしてがひけるのを卯平うへいにはかへつ餘所よそ/\しくされるやうなかんじをあたへた。勘次かんじ卯平うへいにも子供こどもにもすまぬやうながしたので近所きんじよ義理ぎりすというて菓子くわし一袋ひとふくろふところれてた。とき與吉よきちはもうねむつてた。卯平うへいへんなことをするとおもつてた。さうしてまたさら自分じぶんひどへだてられるやうにおもつた。かれは五十せんぜにのことをおもして忌々敷いま/\しくなつた。
勘次等かんじらふところはよかつぺ」卯平うへいはぶつゝりといた。
「おとつゝあ、らえゝところなもんぢやねえ、やつとのことでげるやうにしてたんだ、あんなところへなんざあけつしてくもんぢやねえ、とつても駄目だめなこつた、おらりつちやつたよ」勘次かんじあわてゝいつた。かれひとごとかならずよからう/\といはれるのを非常ひじやうおそれてた。
「うむ、さうかなあ」卯平うへいのないやうにいつた。
「どうで餘計者よけいものだ、やしねえからえゝや、いくもつてたつてかまやしねえ」かれさら獨語つぶやいた。勘次かんじあをくなつた。卯平うへい勘次かんじ屹度きつとぜにかくしてるのだとおもつたのである。かれはそんなこんなが不快ふくわいへないのでつぎ野田のだつてしまつた。
 野田のだ卯平うへい役目やくめといへばよるになつておほきな藏々くら/″\あひだ拍子木ひやうしぎたゝいてあるだけ老人としよりからだにもそれは格別かくべつ辛抱しんぼうではなかつた。ひる午睡ひるねゆるされてあるので時間じかんいて器用きようかれには内職ないしよく小遣取こづかひどりすこしは出來できた。きな煙草たばことコツプざけかつすることはなかつた。あつときにはさつぱりした浴衣ゆかたけてることも出來できた。其處そこかれにはづらところでもなかつた。たゞてのひどふゆなどには以前いぜんからの持病ぢびやうである疝氣せんきでどうかするとこしがきや/\といたむこともあつたが、ときだけ勘次かんじとまづくなければおしなそばでおとつゝあといはれてたい心持こゝろもちもするのであつた。生來せいらいつたことのないかれはおしな一人ひとり手頼てたのみであつた。おしななれてかれまつた孤立こりつした。さうして老後らうご到底たうてい勘次かんじたくさねばならぬことにつてしまつたのである。それでも不見目みじめ貧相ひんさう勘次かんじ依然いぜんとしてかれにはむしかなかつた。かれ野田のだけば比較的ひかくてき不自由ふじいうのない生活せいくわつがしてかれるので汝等わつら厄介やくかいにはらねえでもおれはまだたつかれると、うして哀愁あいしうおほはれたこゝろの一ぱうには老人としよりひがみと愚癡ぐちとがおこつたのであつた。卯平うへいこゝろなみだんだ。
 勘次かんじ悄然せうぜんとしてた。與吉よきちたびかれこまつた。さうして毎日まいにちしなのことをおもしては、天秤てんびん手桶てをけかついだ姿すがたにはにも戸口とぐちにもときとしては座敷ざしきにもえることがあつた。そばるやうながしておもはずかへりみることもあるのであつた。かれはおしなおもすと與吉よきちいては「なあ、おつかあはねえんだぞ、おつかあが乳房ちつこしがんねえんだぞ」と始終しじういつてかせた。おしなないと殊更ことさらにいふのはそれは一つには彼自身かれじしん斷念あきらめためでもあつたのである。
 おしな豆腐とうふかついでとき麥酒ビール明罎あきびん手桶てをけくゝつてつた。それでかへりの手桶てをけかるくなつたとき勘次かんじきなさけがこぼ/\とびんなかつてた。おしな酒店さかだな豆腐とうふいてはそのぜにだけさけれてもらふので豆腐とうふまうけだけやすさけつて勘次かんじよろこばせるのであつた。それはおしなとしのことだけである。おしなやうやあきなひおぼえたといつてたのはまだなつころからである。はじめはきまりがわるくて他人たにんしきゐまたぐのを逡巡もぢ/\してた。くらゐだからへんあかかほもして餘計よけい不愛想ぶあいさうにもえるのであつたが、のちには相應さうおう時候じこう挨拶あいさつもいへるやうにつたとおしな勘次かんじかたつたのである。勘次かんじ追憶つゐおくへなくなつてはおしな墓塋はかいた。かれかみあめけてだらりとこけた白張提灯しらはりちやうちんうらめしさうるのであつた。
 勘次かんじしをれたくびもたげて三にんくちのりするために日傭ひようた。かれとなり主人しゆじん使つかつてもらつた。こめ屹度きつとかれかせられた。上手じやうずかれらさないでさうしてしろいた。かれときとしては主人しゆじんのうつかりしてくらから餘計よけいこめはかして、そつとかくしていてよる自分じぶんいへつてることがあつた。それもわづか二しようか三じようぎない。くらゐでは主人しゆじん注意ちういくにはらなかつた。さうしてこめ窮迫きうはくしたかれくりや少時しばしうるほすのである。ときれは主人しゆじんこめをそつとかすめて股引もゝひきれてにつかぬやうにたきゞんだあひだんでいた。傭人やとひにんがそれを發見はつけんしてひそか主人しゆじん内儀かみさんにげた。内儀かみさんはわづかなことだからてゝいてれといつたがしか傭人やとひにんは一つには惡戯いたづらからこめけてかはりに一ぱいつちれていた。勘次かんじ發覺はつかくしたことをおそぢてつぎにはなかつた。それから數日間すうじつかん主人しゆじんうち姿すがたせなかつた。内儀かみさんは傭人やとひにん惡戯いたづらいてむしあはれになつてまたこちらから仕事しごと吩咐いひつけてやつた。さらふくろこめ挽割麥ひきわりむぎとをぜたのをれて、それかられは傭人やとひにんにもいてやれないのだからおまへがよければつてつてあきにでもなつたら糯粟もちあはすこしもかへせと二三はひつた粳粟うるちあはたわらとを一つにつた。勘次かんじ主人しゆじんために一所懸命しよけんめいはたらいた。以前いぜんからもかれたゞとなり主人しゆじんから見棄みすてられないやうとこゝろにはおもつてるのであつた。しか非常ひじやう勞働らうどう傭人やとひにん仲間なかまにはまれた。それは傭人やとひにんかれならつて自分じぶん勞力らうりよくぬすむことが出來できないからである。
 さうするうち世間せけんまたはるうつつてあめいそがしく田畑たはたみづ供給きようきふした。勘次かんじ自分じぶんうしろ刈株かりかぶかへしてはたがやした。おつぎも萬能まんのうつて勘次かんじあといた。勘次かんじはおしなつただけはおつぎを使つかつてどうにか從來これまでつくつた土地とち始末しまつをつけようとおもつた。ことすぐうしろなので※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)どんなにしても手放てばなすまいとした。一たん地主ぢぬしかへしてしまつたらふたゝ自分じぶんしくなつても容易よういれることが出來できないのをおそれたからである。いまにおつぎを一人前にんまへ仕込しこんでると勘次かんじこゝろおもつてる。勘次かんじ萬能まんのうをぶつりとんではぐつとおほきなつちかたまり引返ひきかへす。おつぎはやうやちひさなかたまりおこす。勘次かんじすみやかに運動うんどうしてずん/\とさきすゝむ。おつぎは段々だん/\おくれてちひさなかたまりあさおこしてすゝんでく。さうすると
「そんなに可怖おつかなびつくりやんぢやねえかうすんだ」勘次かんじ遲緩もどかさうにおつぎの萬能まんのうをとつてんでせる。
「そんでもおとつゝあ、おらがにやさういにや出來できねえんだもの」
「そんな料簡れうけんだから汝等わツら駄目だめだ、本當ほんたうにやつてつもりでやつてろ」
 おつぎは勘次かんじおくれつゝちからおよかぎはたらいた。
 與吉よきち田圃たんぼほりほとりむしろいて其處そこいてある。
「えんとしてろ、いごくんぢやねえぞいごくとぽかあんとほりなかおつこちつかんな、そうらけえるぽかあんとおつこつた。いごくなあ、此處こゝぼうあつた、そうらこれでもつてろ、くんぢやねえぞ、ねえなかんだかんな、くとおとつゝあにあつぷつておこられつかんな」おつぎはほゝりつけてくいひふくめた。與吉よきちつちだらけのみぢかぼうきしつちたゝいてる。さうして時々とき/″\あといてはあね姿すがた安心あんしんしてぼうでぴた/\とたゝいてる。ぼうさきみづつので與吉よきちよろこんだ。それも少時しばしあひだいた。おつぎは與吉よきちがまたときにはむかふはしつてた。
ねえよう」と與吉よきちんだ。おつぎは返辭へんじしなかつた。與吉よきちまたんだ。さうしてした。おつぎはつてかうとすると
かまあねえでけ、うなつてあつちへつてからにしろ」勘次かんじ性急せいきふきびしくおつぎをめた。おつぎは仕方しかたなくくのもかまはずにたがやした。
 勘次かんじさきへ/\とたがやしてほりそばまでた。
くな、いまねえあとかららあ」勘次かんじはかういつて、與吉よきちに一べつあたへたのみで一しんうごかしてる。與吉よきちはおつぎがやうやちかづいたとき一しきりまたいた。
よきはどうしたんだ」おつぎはきしあがつてどろだらけのあしくさうへひざついた。與吉よきち笑交わらひまじりにいて兩手りやうてしてかれようとする。
ねえどろだらけでやうあんめえな、よごれてもえゝのかよきは」いひながらおつぎは與吉よきちいた。
「どうした、蛙奴けえるめねえか、ぼうでばた/″\とはたいてやれ、さうしたらいてえようつて蛙奴けえるめくべえな、くなけえるだよう、よきかねえようつてなあ」おつぎは與吉よきちいたまゝ勘次かんじほう
「おとつゝあ、あつちへつちやつた、ねえかなくつちやなんねえ、おとつゝあにおこられつかんな、またえんとしてろ」おつぎはそつと與吉よきちむしろおろした。
「かせえてやれ、なにしてんだ、えゝ加減かげんにしろ」勘次かんじうしろいて呶鳴どなつた。
「それろなおこられつから、そら此處こゝにえゝものがつた」おつぎは田圃たんぼにある鼠麹草はゝこぐさはな※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしつてむしろのせつた。さうしてまたあぶないやうにそうつとへおりた。與吉よきちたゞ鼠麹草はゝこぐさはないぢつてた。
 ほりあめあとみづあつめてさら/\ときしひたしてく。あをしげつてかたむいて川楊かはやなぎえだが一つみづについて、ながちからかるうごかされてる。みづわづかれてそのえだため下流かりう放射線状はうしやせんじやうゑがいてる。あしのやうでしかきはめてほそ可憐かれんなとだしばがびり/\とゆるがされながらきしみづつてる。お玉杓子たまじやくしみづいきほひにこらへられぬやうにしては、にはかみづひたされてぎんのやうにひかつてきしくさなかかくれやうとする。さうしてはまたすべてのをさないものゝ特有もちまへ凝然ぢつとしてられなくて可憐かれんをひら/\とうごかしながら、ちからあまみづいきほひにぐつとられつゝおよいでる。與吉よきち鼠麹草はゝこぐさはなみづげた。はな上流じやうりういてちると、ぐるりと下流かりうけられてずんずんとはこばれてく。きしくさなかかはづ剽輕へうきんそのはないて、それからぐつとうしろあしみづいてむかふきしいてふわりといたまゝおほきな※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつてこちらをる。鼠麹草はゝこぐさはなみなつくされて與吉よきちまたおつぎをんだ。
「おうい」とおつぎのじやうふくんだこゑとほくからいつた。おつぎの返辭へんじいては與吉よきち口癖くちぐせのやうにねえよとぶ。そのたびごとにおつぎはいそがしいうごかしながらそれにおうずるのである。
 正午ひるにはまだがあるうちに午餐ひる支度したくいそいでおつぎは田圃たんぼからちやわかしにのぼる。與吉よきちよろこんでおつぎのかぢりついた。勘次かんじあとひとたがやした。あをけむりならからつてやが
いたぞう」とおつぎのこゑばれるまでは勘次かんじいそがしいめなかつた。
 午餐過ひるすぎからおつぎは縫針ぬひばりいととほして竿さをけて與吉よきちたせた。與吉よきちほか子供こどものするやうにはりげててはまたみづげて大人おとなしくしてる。しばら時間じかんつとまたねえようとぶ。おつぎはほりちかくへたがやしてときると與吉よきち竿さをいとがとれてた。おつぎはきしあがつた。
「どうしたんでえ、よきは」おつぎはるとはりむかふきしからひく川楊かはやなぎえだまつはつていとはしみづについて下流かりういてる。おつぎは二ちやうばかり上流じやうりう板橋いたばしわたつてつて、やうやくのことでえだげてそのはりをとつた。さうしてまた與吉よきちぼうけてやつた。
「はあけんぢやねえぞ大變たえへんだかんな」おつぎはきはめてかるしかつてまたへおりた。勘次かんじまた呶鳴どなつた。
「そんでもよきいとつちまつたんだもの」
 おつぎはあやぶむやうにしてひかこゑてゝいつた。おつぎはだまつてうごかしてる。與吉よきち返辭へんじがなくてもなつかしさうねえようと數次しば/\けた。おつぎの姿すがたとほくなればむしろくちのつくほどかゞんでこゑかぎりにんだ。
 ばん勘次かんじ二人ふたりれて近所きんじよ風呂ふろもらひにつた。おつぎは其處そこあつまつた近所きんじよ女房にようばう自分じぶんせて
らこんなに肉刺まめつちやつたんだよ」とつぶやいた。
「ほんによな、いたかつぺえなそりや、そんでもおつかあがねえからはたらかなくつちやなんねえな」女房にようばうなぐさめるやうにいつた。
「おつかあのねえものはだな」おつぎはいつて勘次かんじるとすぐくびたれた。勘次かんじそば凝然ぢつとそれをいてた。
「おつうだつていまえこともあらな、そんだがおつかゞくつちや衣物きものしくつてもこればかりはやうがねえのよな」女房にようばうはいつた。勘次かんじ※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)そんなことははずにれゝばいゝのにとおもひながらむづかほをしてだまつてた。
肉刺まめとがめめえか」おつぎはひら處々ところ/″\肉刺まめ心配相しんぱいさうにいつた。
なんでとがめるもんか」勘次かんじ抑制よくせいしたあるもの激發げきはつしたやうにすぐ打消うちけした。
 勘次かんじいへもどると飯臺はんだいそこにくつゝいてめしなかから米粒こめつぶばかりひろしてそれを煙草たばこ吸殼すひがら煉合ねりあはせた。さうしてはりさきでおつぎのからたばかりでやはらかくつた肉刺まめをついて汁液みづして其處そこへそれをつてつた。
「しく/\すんな」おつぎはつた箇所かしよていつた。
液汁みづしたばかりにやちつたえてえとも、そのけえしすぐなほつから」勘次かんじはおつぎを凝然ぢつてそれからもういびきをかいて與吉よきちた。
肉刺まめなんぞたらばたつておとつゝあげいふもんだ、他人ひとのげなんぞせたりなにつかするもんぢやねえ、汝等わツらなんにもらねえからやうねえ、田耕たうねはじまりにやおとつゝあてえなだつてかうえにんだかろ。それいてえの我慢がまんしい/\りせえすりやかたまつちあんだ」勘次かんじ自分じぶんをおつぎへしめした。
「おつかゞくなつてこまんなわればかしぢやねえんだから」勘次かんじしばらあひだおいてぽつさりとしていつた。
身上しんしやうためだからわれ我慢がまんするもんだ、汝等處わツらとこぢやねえ、武州ぶしうはうへなんぞられていてるものせえあら」とかれまたからうじていつた。大人おとなしくだまつてたおつぎは
武州ぶしうツちやどつちのはうだんべ」むしろあどけなくいた。
「あつちのはうよ、われあしぢや一日にやあるけねえところだ」勘次かんじ雨戸あまどはういて西南せいなんしめした。
とほいんだな、其處そこつたらどうすんだんべ」
機織はたおりするものもあれば百姓ひやくしやうするものもあんのよ」
機教はたをされぢやよかんべな」
なんでえゝことあるもんか、うちへなんざあ滅多めつたられやしねえんだぞ、そんであさから晩迄ばんまでみつしら使つかあれて、それどこぢやねえ病氣びやうきつたつて餘程よつぽどでなくつちや葉書はがきもよこさせやしねえ」
「そんぢや、さうえとこつちやひでえな、げてることも出來できねえんだんべか」
つかめえられつちあからそんなにげられつかえ」
巡査じゆんさつかまんだんべか」
「さうなもんか、巡査じゆんさでなくつたつてせばつかめえるやうにひとばんしてんのよ、なあ、そんでもなくつちやとほくのものばかりたのんでくんだものやうあるもんか」
「そんでもだつちつたらどうすんだんべ」
だなんていつたくれえひでえとも立金たてきんしなくつちやなんねえから」
「どういにすんだんべそら」
「そらなあ、いくつとめたつて途中とちうだからなんてつちめえば、りただけ給金きふきんはみんなつくるえされんのよ、なあ、それからき/\もなくつちやなんねえのよ」
「そんぢやらさうえとこかねえでよかつたつけな」おつぎは熱心ねつしんにいつた。
「そんだから汝等わツらこたりやしねえ。われこと奉公ほうこうにやればぜね借金しやくきんくなるし、よきことだつて輕業師かるわざげでもしつちめえばそれこそらくになつちあんだが、おつかゞくつちやつれえつてあとかれんのだからちゝかぢつてもそんな料簡れうけんさねんだ」
「おとつゝあ、奉公ほうこうすれば借金しやくきんなくなんだんべか」
「おつかせえればわれことも奉公ほうこうして、おとつゝあもえゝぜねつかめえんだが、おつかゞくなつておとつゝあだつてこまつてんだ、それからわれだつて奉公ほうこうつたつもり辛抱しんばうするもんだ、なあ、汝等わツらげみじめせてえこたありやしねんだから」
 勘次かんじはしみ/″\と反覆くりかへした。
 勘次かんじはおつぎに身體からだ不相應ふさうおう仕事しごとをさせてることをつてる。それで自分じぶんあさ屹度きつとさききてかまどしたける。ときつかれた少女せうぢよはまだぐつたりと正體しやうたいもなくまくらからこけてる。しろ蒸氣ゆげかまふたからいきほひよくれてやがてかれてからおつぎはおこされる。おびしめまゝよこになつたおつぎは容易よういかないをこすつて井戸端ゐどばたく。蓬々ぼう/\けたかみくしれてつめたいみづれたときおつぎはやうや蘇生いきかへつたやうになる。それでもはまだあかくて態度たいどがふら/\と懶相だるさうである。
「さあ、おまんま出來できたぞ」勘次かんじかまから茶碗ちやわんめしうつす。さうして自分じぶん農具のうぐつておつぎへたせてそれからさつさとすのである。
 籾種もみだねがぽつちりとみづげてすとやうやつよくなつた日光につくわうみどりふかくなつた嫩葉わかばがぐつたりとする。やはらかなかぜすゞしくいてまつ花粉くわふんほこりのやうにしめつたつちおほうて、小麥こむぎにもびつしりとかびのやうなはないた。百姓ひやくしやうみな自分じぶん手足てあし不足ふそくかんずるほどいそがしくなる。勘次かんじは一たゞ仕事しごと手後ておくれになるのをおそれた。草臥くたびれてもつかれてもかれ毎日まいにち未明みめいきてまで手足てあしうごかしてまぬ。おつぎもあといて草臥くたびれた身體からだきずられた。晩餐ゆふめし支度したく與吉よきちうてさきかへるのがおつぎにはせめてもの骨休ほねやすめであつた。
 勘次かんじむぎあひだ大豆だいづいた。畦間うねまあさほりのやうなくぼみをこしらへてそこへぽろ/\とたねおとしてく。勘次かんじはぐい/\と畦間うねまつてく。あとからおつぎがたねおとした。おつぎのまだみじか身體からだむぎ出揃でそろつたしろからわづかかぶつた手拭てぬぐひかたとがあらはれてる。與吉よきちみちはたこもうへ大人おとなしくしてる。おつぎのしろ手拭てぬぐひ段々だん/\むぎかくれると與吉よきちねえようとぶ。おつぎはおういと返辭へんじをする。おつぎのこゑきこえると與吉よきち凝然ぢつとしてる。勘次かんじ畦間うねまつくりあげてそれから自分じぶんいそがしく大豆だいづおとはじめた。勘次かんじ間懶まだるつこいおつぎのもとをうねをひよつとのぞいた。たねたねとの間隔かんかく不平均ふへいきんで四つぶも五つぶも一つにちてるところがあつた。
のざまはどうしたんだ、こんなこつて生計くらし出來できつか」と呶鳴どなりながらかれ突然とつぜんおつぎをなぐつた。おつぎはむぎからともたふれた。おつぎはたふれたまゝしく/\といた。
大概てえげえわかさうなもんぢやねえか、こんなざまぢやたねばかしつてやうありやしねえ」勘次かんじあとつぶやいた。となりはたけこれ大豆だいづいて百姓ひやくしやうけてた。
勘次かんじさんどうしたもんだいまあ、※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)そんなあらつぺえことして」と勘次かんじおさへた。
「おつぎかねえでさあきて仕事しごとしろ、おとつゝあげはおれ謝罪あやまつてやつかんなあ、與吉よきちねえてら、さあつてさつせ」百姓ひやくしやうさらにおつぎをすかした。與吉よきちはおつぎの姿すがたえないのでしきりにんだ。それでもおつぎのこゑきこえないのでいたやうにしたのである。おつぎはすゝきしながら與吉よきちいた。
「おふくろもねえのにおめえいゝ加減かげんにしろよ、可哀想かあいさうぢやねえか、そんなことしておめえいくつだとおもふんだ、さう自分じぶんのやうに出來できるもんぢやねえ、ほとけさはりにもんべぢやねえか」隣畑となりばたけ百姓ひやくしやうはいつた。勘次かんじだまつてしまつてなんともいはなかつた。與吉よきちはおつぎにかれたので、おつぎの目がまだうるうてるうちにやんだ。
 勘次かんじ夕方ゆふがたおつぎが晩餐ゆふめし支度したくつたとき自分じぶんひとつにうちもどつた。
 かれひざがしらでばひあるきながら座敷ざしきへあがつて財布さいふふところんでふいとた。かれ風呂敷包ふろしきづゝみつてかへつた。かれ戸口とぐちつたときうちなか眞闇まつくら一寸ちよつともの見分みわけもつかなかつた。
 草臥くたびつた身體からだかれその二人ふたりれて、自分じぶん所有ものではないそのしげつたちひさな桑畑くはばたけえてみなみ風呂ふろつた。其處そこにはいつものやうに風呂ふろもらひに女房等にようばうらあつまつてた。
くなあ、おつうはよきこと面倒めんだうんな、をんなうだからいゝのさな、やくつかんな」女房にようばう一人ひとりがいつた。
「おつぎはどうしたんでえ、今夜こんやひどく威勢ゐせえわりいな」女房にようばうがいつた。
先刻さつきおれつとばされたかんでもあんべえ」勘次かんじ苦笑くせうしながらいつた。
なんでだつぺなまあ、おめえそんなにねえで面倒めんだうてやらつせえよ、れがおめえをんなでもなくつてさつせえ、こんなちひせえのだけえてやうあるもんぢやねえな」
「さうだともよ、こらおつうでもくつちやそだたなかつたかもんねえぞ、それこそ因果いんぐわなくつちやなんねえや、なあおつう」女房等にようばうらはいつた。
おらがとこちつともこらはなんねえんだよやうねえやうだよ本當ほんたうに」おつぎはもう段々だん/\あまつて與吉よきちひざにしていつた。
いまぢや、まるつきしおつかのやうながしてんだな、屹度きつと女房にようばうらはまた與吉よきちていつた。勘次かんじそばたゞ屡叩しばたゝいた。
 うちもどつてから勘次かんじ
「おつう、ランプつてせえ、われせるものあんだから」
 おつぎはとき吹消ふつけしたブリキのランプをけて、まだ容子ようすがはき/\としなかつた。勘次かんじ先刻さつき風呂敷包ふろしきづゝみいた。ちひさくたゝんだ辨慶縞べんけいじま單衣ひとへた。
われこれんべとおもつてつてたんだ。んでもなよ、おつかゞ地絲ぢいとつたんだぞ、いまぢやいとなんぞくものなあねえが、おつか毎晩まいばんのやうにいたもんだ、こんもなあうくまつてつから丈夫ぢやうぶだぞ、おつかはいくらもかけねえつちやつたから、まあだまるつきりあたらしいやうだろ、どうしたランプまつとこつちへしてせえまあ」勘次かんじ單衣ひとへすこひらいてはなあてにほひいでた。
「ちつたあ黴臭かびくさくなつたやうだが、そんでもこのくれえぢや一日いちんちせばくさえななほつから」勘次かんじ分疏いひわけでもするやうにいつた。
 おつぎは左手ひだりてかへランプをかざして單衣ひとへいぢつては浴後よくごのつやゝかなかほ微笑びせうふくんだ。勘次かんじはおつぎのかほばかりた。さうして機嫌きげん恢復くわいふくしかけたのを
「どうした、それでもりやにつたか、おつかゞものはみんなわれがもんだかんな、がだとなりやいくこまつたつて、はあけつしてしちになんざかねえから、大事でえじにしてわれうくしまつていたえ」とかれ滿足まんぞくらしくえた。おつぎはランプをいて勘次かんじがしたやうにはなてゝにほひいでたり、ひだりだけをそでとほしてたりした。
おらがにやんぢやきじるやうぢやあんめえか」おつぎはそれからるしてたりした。
しまつていて、らいまつとえかつてからべかな」
「どうでもわれがもんだからわれきにしろな」勘次かんじはおつぎのうごくにしたがつてうつした。ランプのぼうと油煙ゆえんがほぐれたかみなびかゝるのもらずにおつぎはそつちこつちへ單衣ひとへいぢつてた。
われうつかりして、そうれえつちまあぞ」勘次かんじ油煙ゆえんかたむいたときあわてゝおつぎのかみてゝいつた。


 勘次かんじ田畑たはた晩秋ばんしう收穫しうくわくがみじめなものであつた。それは氣候きこうわるいのでもなく、また土地とちわるいのでもない。耕耘かううん時期じきいつしてるのと、肥料ひれう缺乏けつばふとでいく焦慮あせつても到底たうてい滿足まんぞく結果けつくわられないのである。貧乏びんばふ百姓ひやくしやうはいつでもつちにくつゝいて食料しよくれうることにばかり腐心ふしんしてるにもかゝはらず、作物さくもつたはらになればすで大部分だいぶぶん彼等かれら所有しよいうではない。所有しよいうでありるのは作物さくもつもつはたつちつてあひだのみである。小作料こさくれうはらつてしまへばすでをつけられたみじか冬季とうきしのけのことがともすればやうやくのことである。彼等かれら自分じぶん田畑たはたいそがしいときにもおはれる食料しよくれうもとめため比較的ひかくてき收入みいりのいゝ日傭ひようく。百姓ひやくしやうといへば※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)どんな愚昧ぐまいでもすべての作物さくもつ耕作かうさくする季節きせつらないことはない。村落むらはしからはしまでみなどう一の仕事しごと屈託くつたくしてるのだから季節きせつ假令たとひ自分じぶんわすれたとしてもまつたわすることの出來できるものではない。しかしもう季節きせつだとつてても/\の食料しよくれうもとめるめに勞力らうりよくくのと、肥料ひれう工夫くふうがつかなかつたりするのとで作物さくもつ生育せいいくからいへば三日みつかあらそふやうなときでもおもひながらないのである。以前いぜんのやうに天然てんねん肥料ひれうることがいまでは出來できなくなつてしまつた。何處どこはやしでも落葉おちばくことや青草あをぐさることがみなぜに餘裕よゆうのあるものゝしてしまつた。それとともはやし封鎖ふうさされたやうな姿すがたつてる。ふゆごと熊手くまでつめおよかぎいてくので、くさしたがつてみじかくなつてこしぼつするやうなところ滅多めつたにない。くささらつちからつてくので次第しだいつちせてく。だから空手からてでは何處どこつても竊取せつしゆせざるかぎり存分ぞんぶんやはらかなくさることは出來できない。貧乏びんばう百姓ひやくしやう落葉おちばでも青草あをぐさでも、他人ひと熊手くまでかまつたあともとめる。さうしてせてつちさらほねまでむやうなことをしてるのである。一ぱんには落葉おちば青草あをぐさ缺乏けつばふかんずるととも便利べんり各種かくしゆ人造肥料じんざうひれう供給きようきふされる。しかしそれも依然いぜんとして金錢きんせんいくらでも餘裕よゆうのあるひとにのみ便利べんりなのであつて、貧乏びんばふ百姓ひやくしやうにはうしうま馬塞棒ませぼうさへぎられたやうなかたちでなければならぬ。さうかといつて肥料ひれうなしには到底たうていぱんさだめられてある小作料こさくれう支拂しはらだけ收穫しうくわくられないので慘憺さんたんたる工夫くふう彼等かれらこゝろ往來わうらいする。さうしてまた食料しよくれうもとめるため勞力らうりよくくことによつて、作物さくもつ畦間うねまたがやすことも雜草ざつさうのぞくことも一さい手後ておくれにる。季節きせつあつくなればあめがあつて三ないうちには雜草ざつさうおどろくべき迅速じんそく發育はついくげる。それがいちじるしく作物さくもつ勢力せいりよく阻害そがいする。それだけ收穫しうくわく減少げんせうきたさねばならぬはずである。えうするに勤勉きんべん彼等かれら成熟せいじゆく以前いぜんおいすで青々せい/\たる作物さくもつ活力くわつりよくいでつてるのである。收穫しうくわく季節きせつまつたをはりをげると彼等かれら草木さうもく凋落てうらくとも萎靡ゐびしてしまはねばならぬ。草木さうもくねむりにすくなくとも五六十にちあひだは、彼等かれらまれ冬懇ふゆばりというてむぎ畦間うねまたがやすことやはやしあひだ落葉おちばたきゞもとめることがあるにぎぬ。自分じぶん食料しよくれうかへだけぜにることが期間きかん仕事しごとおいては見出みいだされないのである。へびかへる蟲類むしるゐ假死かし状態じやうたいあひだ彼等かれら目前もくぜんせまつて未來みらいくるしみをまねために、過去くわこくるしかつた記念きねんである缺乏けつばふしたこめむぎごと消耗せうまうしてくのである。彼等かれら内職ないしよくつてらぬ。自分じぶん使用しようすべきためにのみはむしろ草履ざうりもつこ草鞋わらぢのものもわらつくることをつてれども、大抵たいていおくれになつたわらでは立派りつぱ製作せいさくられないのである。それであるのに彼等かれら肥料ひれう缺乏けつばふうつたへつゝ藁屑わらくづ粟幹あはがらのものがにはらばつてても容易よういにそれを始末しまつしようとしない。他人ひと注意ちういけてもそれでもあらためることをしない。彼等かれらくるしいときくるしむことよりほかなんにもることがないのである。
 勘次かんじ彼等かれら仲間なかまである。しかしながらかれ境遇きやうぐう異常いじやう刺戟しげきから寸時すんじ安住あんぢゆうせしむる餘裕よゆうたなかつた。かれ貧乏びんばふ百姓ひやくしやうのするやうにふゆ季節きせつになればたきゞつてかべんでくことをした。かれ近來きんらいつてからとなり主人しゆじんはやし改良かいりやうするため雜木林ざふきばやしを一たん開墾かいこんしてはたけにするといふことにつたのでの一擔當たんたうした。かれちひさな身體からだである。しかかれ重量ぢうりやうある唐鍬たうぐはかざして一くはごとにぶつりとつちをとつてはうしろへそつとげつゝすゝむ。かれその開墾かいこん仕事しごと上手じやうずきである。のきりつとしまつた身體からだちひさいにしてもそれが各部かくぶ平均へいきんたもつて唐鍬たうぐはるときにはかれ唐鍬たうぐはとはたゞたいである。唐鍬たうぐはひろ刄先はさきときにはかれ身體からだひとつにぐざりとつてとほるかとおもふやうである。つちおこすことの上手じやうずなのはかれ天性てんせいである。それでかれとほ利根川とねがは工事こうじへもつたのであつた。かれ自分じぶん伎倆うでたのんでる。かれ以前いぜんからもすこしづつ開墾かいこん仕事しごとをした。賃錢ちんせんによつて土地とちふかくもあさくもはやくもおそくも仕上しあげることをつてた。竹林ちくりん開墾かいこんしたときかれぢたまゝつぼおほきさをたゞつのかたまりおこしたことがある。それでもころまではさういふ仕事しごといくらもかつたので、賃錢ちんせん仕事しごとはじめるときらした唐鍬たうぐは刄先はさきたせる鍛冶かぢ手間てまと、異常いじやう勞働らうどうためつひや食料しよくれうのぞいてはいくらもなかつたのである。
 かれ主人しゆじん開墾地かいこんちはるぱい仕事しごとには十ぶんであることをよろこんだ。ぜにほかかれこめむぎとの報酬ほうしうけることにした。おつぎはべつ仕事しごとといつてはなかつたがかれはおつぎを一人ひとりではうちかなかつた。與吉よきちれておつぎは開墾地かいこんちつてた。勘次かんじ鍛錬たんれんした筋力きんりよくふるつてにおつぎはそこらのはやしから雀枝すゞめえだつてちひさな麁朶そだつくつてる。ちひさなえだ土地とちでは雀枝すゞめえだといはれてる。かれ雀枝すゞめえだることは何處どこはやしでも持主もちぬし八釜敷やかましくいはなかつた。
 勘次かんじあめでもらねば毎日まいにちかなら唐鍬たうぐはかついでた。あるかれかぶ唐鍬たうぐはつよ打込うちこんでぐつとこじげようとしたとききたへのいゝ白橿しらかしとはつよかつたのでどうもなかつたが、てつくさびさきめた唐鍬たうぐはの四かくあなところにはかゆるんだ。其處そこはひつといはれてる。ひつにおほきなひゞつたのである。がやがてがた/\にうごいた。
「えゝ、箆棒べらぼう一日いちんち手間てま鍛冶屋かぢやんちあなくつちやなんねえ」かれつぶやいた。
 つぎあさかれ未明みめい鍛冶かぢはしつた。
「わしつてあんすから、此等こつらことてゝおくんなせえ」おつぎと與吉よきちとをみなみ女房にようばうたのんだ。
ほかへはくんぢやねえぞ、えゝか、よきはかさねえやうにしてんだぞ」かれはおつぎへもいつてた。おつぎは※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)そんな注意ちうい人前ひとまへでされることがもうはづかしくいや心持こゝろもちがするやうになつた。
 勘次かんじ鬼怒川きぬがはわたしえて土手どてつたひて、のない唐鍬たうぐはつてつた。鍛冶かぢとき仕事しごとつかへてたが、それでもういふ職業しよくげふくべからざる道具だうぐといふと何處どこでもさういふれいすみやかこしらへてくれた。
隨分ずゐぶんあれえことしたとえつけな、らも近頃ちかごろになつてくれえな唐鍬たうぐは滅多めつたつたこたあねえよ、」鍛冶かぢあかねつした唐鍬たうぐはしばらつちたゝいて、それから土中どちうゑたをけどろいたやうなみづへぢうとひたして、さらまたちひさなつちでちん/\とたゝいて
「こんだこさ大丈夫だいぢようぶだ、せんにやどうしてひゞなんぞいつたけかよ」鍛冶かぢあせひたひ勘次かんじけて
つちよれねえうちはいごきつこねえから」といつてまた
身體からだわりにしちやえな」と鍛冶かぢ微笑びせうした。てつにほひのする唐鍬たうぐはげて勘次かんじまた土手どてはしつた。
 西風にしかぜ枯木かれきはやしから麥畑むぎばたけからさうして鬼怒川きぬがはわたつていた。鬼怒川きぬがはみづしろなみつて、とほくからはそれがあはしやうじたはだへのやうにたゞこそばゆくえた。西風にしかぜかはちるとき西岸せいがんしのをざわ/\とゆるがす。さら東岸とうがん土手どてつたうてげるとき土手どてみじか枯芝かれしば一葉ひとはづゝはげしくなびけた。枯芝かれしばあひだにどうしたものかまぐれな蒲公英たんぽ黄色きいろあたまがぽつ/\とえる。どうかすると土手どてしづかであたゝかなことがあるので、つひだまされて蒲公英たんぽがまだとほはる遲緩もどかしげにくびしてては、またさむつたのにおどろいてちゞまつたやうな姿すがたである。
 勘次かんじ唐鍬たうぐはつて自分じぶん活力くわつりよく恢復くわいふくたやうに、それからまたにち仕事しごとおこたれば身内みうちがみり/\してなんだからぬが仕事しごと催促さいそくされてらぬやうな心持こゝろもちがした。
 鬼怒川きぬがはみづちて此方こちら土手どてからつらなつておほきなながれを西岸せいがんしのしたまでちゞめてる。ひろかつとほにはたゞ西風にしかぜわづかかわいたすなをさら/\とくやうにしていてる。それでしろ乾燥かんさうしたたゞからりと清潔せいけつえる。さういふあひだにどうしたものかれもまぐれなひとが、とほくはすなからえたやうにえてちらほらとらばつてすこしづゝうごいてる。勘次かんじ土手どてからおりてた。うごいて人々ひと/″\萬能まんのうすなつてるのであつた。西風にしかぜかわかしてはさらさらといててもにはなほいくらかなみあとがついてる。そのすななかからはみじか木片もくへんる。二三すんから五六すんぐらゐまれには一しやくぐらゐなものもおこされる。みなへらしたやうな木片もくへんのみである。人々ひと/″\つめたくつたくちてゝしろあたゝかいいきけながら一しんさきさきへとおこしつゝく。
「どうするんだね」勘次かんじ一人ひとりそばつていた。ひよつとくびもたげたのはばあさんであつた。ばあさんはこしをのしてつよ西風にしかぜによろけるあしふみしめて
していてすのさ」ときたな白髮しらが手拭てぬぐひとをかれながらしかめていつた。
「どうしてもつちやべろ/\えて飽氣あつけなかんべえね」勘次かんじいた。
あけはひつてな、えのさ、そんでも麁朶そだあよりやえゝかんな、松麁朶まつそだだちつたつてこつちのはうちやなまで卅五だのなんだのつて、ちつちえくせにな、らやうなばゝあでも十ぐれえ背負しよへんだもの、近頃ちかごろぢやもうものが一ばん不自由ふじようやうねえのさな」ばあさんはいつた。
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「さうだごつさらよなあ、そりやさうとおめえさん何處どこだね」萬能まんのうつゑにしてばあさんはいつた。
川向かはむかうさ」
「そんぢやもうとこだね」ばあさんはさら勘次かんじ唐鍬たうぐは
「たいした唐鍬たうぐはだがぽどすんだつぺな」
「さうさいまたせちや三十掛さんじふがけ屹度きつとだな」
三十掛さんじふがけツちやいくらするごつさら、目方めかたもしつかりかゝんべな」
一貫目いつくわんめもねえがな」勘次かんじ自慢じまんらしくばあさんへ唐鍬たうぐはたせた。
「おういや、らがにやつたゝねえやうだ、おめえさん自分じぶん使つかあのけまあ、なにしたごつさらよんな道具だうぐなあ」
毎日まいんち木根きねおこしてたんだが、唐鍬たうぐはのひついためつちやつたからなほとこさ」
「そんぢやおめえさんもうものにや不自由ふじいうなしでえゝな」ばあさんはうらやましさうにいつた。さうしてちひさな木片もくへんいれためもつあさきたなふくろ草刈籠くさかりかごからした。
 わづか鬼怒川きぬがはみづへだてゝ西にしはやしつらなつてる。村落むらはたけはやしつゝまれてる。ひがしたゞひく水田すゐでんはたけとで村落むらあひだ點在てんざいしてる。其處そこいへかこんでわづかな木立こだちるばかりである。したがつてたきゞ缺乏けつばふから豆幹まめがらわらのやうなものもみな燃料ねんれうとして保存ほぞんされてることは勘次かんじつてた。しかたきゞ缺乏けつばふから自然しぜんにかういふすななか洪水こうずゐもたらした木片もくへんうづまつてるのをつてこれもとめてるのだといふことはかれはじめてはじめてつた。かれ滅多めつたかはえてることはなかつたのである。
 勘次かんじ自分じぶん壁際かべぎはにはたきゞが一ぱいまれてある。そのうへ開墾かいこん仕事しごとたづさはつてなんといつてもたきゞ段々だんだんえてくばかりである。さら開墾かいこんだい一の要件えうけんである道具だうぐいま完全くわんぜんして自分じぶんげられてある。かれういふ辛苦しんくをしてまでも些少させう木片もくへんもとめて人々ひとびとまへほこりかんじた。かれ自分じぶん境遇きやうぐう※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)どんなであるかはおもはなかつた。またういふ人々ひとびとあはれなこともおもひやるいとまがなかつた。さうしてかれ自分じぶん技倆うで愉快ゆくわいになつた。かれふたゝ土手どてからおろした。萬能まんのうつてるのはみなをんなで十三四のまじつてるのであつた。人々ひと/″\おこしたあとはたけつち蚯蚓みゝずもたげたやうなかたちに、しめつたすなのうね/\とつらなつてるのがかれうつつた。
 かれうちかへるととも唐鍬たうぐはつけた。なた刀背みねてつくさびんでさうしてつてうごかしてた。つぎあさからもう勘次かんじ姿すがたはやし見出みいだされた。
 主人しゆじんからあたへられた穀物こくもつかれの一あたゝめた。かれ近來きんらいにないこころ餘裕よゆうかんじた。しかしさういふわづかかれさいはひした事柄ことがらでもいくらか他人たにん嫉妬しつとまねいた。百姓ひやくしやうにも悶躁もがいてものいくらもある。さういふ伴侶なかまあひだにはわづかに五ゑん金錢かねでもそれはふところはひつたとなればすぐ世間せけんつ。彼等かれらいくらづゝでも自分じぶんためになることを見出みいださうといふことのほかに、そばたてゝ周圍しうゐ注意ちういしてるのである。彼等かれら他人ひと自分じぶん同等どうとう以下いかくるしんでるとおもつてあひだ相互さうごくるしんでることに一しゆ安心あんしんかんずるのである。しか一人ひとりでもふところのいゝのがにつけば自分じぶんあとてられたやうなひどせつないやうなめう心持こゝろもちになつて、そこに嫉妬しつとねんおこるのである。それだから彼等かれら蹉跌つまづきるとそのひがんだこゝろうちひそか痛快つうくわいかんぜざるをないのである。
 勘次かんじいへにはたきゞやまのやうにまれてある。それが彼等かれら伴侶なかま注目ちうもくいた。それとはなしに數次しばしばかれ主人しゆじんげられた。開墾地かいこんちいたそのはひをもいへはこんだといふことまで主人しゆじんみゝはひつた。勘次かんじ開墾かいこん手間賃てまちん比較的ひかくてき餘計よけいあたへられるかはりにはくぬぎは一つもはこばないはずであつた。彼等かれら伴侶なかまはさういふことをもつてた。晝餐ひるあとつめたくつたときなどにはかれはそこらのあつめてやす。くすぶつていつでもあをけむりすこしづゝつてる。かれそのけむり段々だんだんとほざかりつゝ唐鍬たうぐはんでる。毎日まいにちべつところかれた。かれ屹度きつとはひいでつたのである。しか壁際かべぎはんだはそこには不正ふせいなものがまじつてるにしても、大部分だいぶぶんかれ非常ひじやう勞苦らうくからたものである。かれはやし持主もちぬしうてつたのである。それでもあまりにひとくち八釜敷やかましいので主人しゆじんたゞ幾分いくぶんでも將來しやうらいいましめをしようとおもつた。以前いぜんから勘次かんじあきになれば掛稻かけいねぬすむとかいふ蔭口かげぐちかれて巡査じゆんさ手帖ててふにもつてるのだといふやうなことがいはれてたのであつた。主人しゆじんはそれでもひそかひともつはこんだかどうかといふことをかせてた。かれこゝろづいて謝罪しやざいするならばそれなりにしてらうとおもつたからである。かれ主人しゆじんこゝろよしはなかつた。
何處どこでもはうがようがす、わしはけつしてはこんだおぼえなんざねえから」かれおそろしい權幕けんまくできつぱりことわつた。
 主人しゆじんむら駐在所ちうざいしよ巡査じゆんさ耳打みゝうちをした。巡査じゆんさあるぶらつと勘次かんじうちつた。あさからあめなので勘次かんじ仕事しごとにもられず、火鉢ひばちすこしづゝべてあたつてた。
あめこまつたな、勘次かんじ大分だいぶ勉強べんきやうするさうだな」巡査じゆんさ帶劍たいけんさやつかんでいつた。
「へえ」勘次かんじきふひざなほした。おもて戸口とぐちへひよつこりあらはれた巡査じゆんさの、外套ぐわいたう頭巾づきんふかかぶつてかほ勘次かんじにはたゞおそろしくえた。さうしてこゑとげふくんでひゞいた。巡査じゆんさはぶらりといへ横手よこてつて壁際かべぎはた。勘次かんじ巡査じゆんさあとからいてつた。
大分だいぶるな、れはまたわしのるまでうごかしちやならないからな」巡査じゆんさはいつた。勘次かんじあをくなつた。
らわしがもらつてつたんでがすから何處どこ何處どこつてあなまでちやんとわかつてんでがすから」かれあわてゝいつた。
「そんなことはどうでもいゝんだ、うごかすなといつたらうごかさなけりやいゝんだ」
 巡査じゆんさ呼吸いききりのやうにすこれた口髭くちひげひねりながら
くぬぎ大分だいぶあるやうだな」といひてゝつた。勘次かんじあめたれつゝ喪心さうしんしたやうににはつてる。戸口とぐちかげかくれていてたおつぎは巡査じゆんさつたのちやうや姿すがたあらはした。
「おとつゝあ」と小聲こごゑんだ。
「そんだからつてんなつてゆつたのに」さら小聲こごゑでおつぎはいつた。
「おとつゝあ、どうしたもんだべな」おつぎはいた。
旦那だんな見放みはなされちや、とつてたすかれめえ」勘次かんじやうやれだけいつた。
「おとつゝあ、それぢや旦那だんな謝罪あやまつたらどうしたもんだんべ」
「そんなことゆつたつて、くかかねえかわかるもんか」
みなみのおとつゝあげでもたのんでたらどうしたもんだんべ」
汝等わつらたのまなくつたつてえゝから」
「そんぢやおとつゝあ、くぬぎせえなけりやえゝんだんべか」
「そんだつてわれ駐在所ちうざいしよられつちやつたものやうあるもんか」
 勘次かんじはそれでも分別ふんべつもないので仕方しかたなしに桑畑くはばたけこえみなみわびたのみにつた。かれふる菅笠すげがさ一寸ちよつとあたまかざしてくびちゞめてつた。主人しゆじん挨拶あいさつかく明日あすのことにするからといつただけだといふ返辭へんじである。勘次かんじはげつそりとしてうちかへると蒲團ふとんかぶつてしまつた。おつぎは自分じぶん毎日まいにちつてたので開墾地かいこんちからはこんだくぬぎみなつてる。おつぎはくぬぎひとりでひそかした。さうして黄昏時たそがれどきにおつぎはそれを草刈籠くさかりかごれてうしろ竹藪たけやぶなか古井戸ふるゐどおとした。古井戸ふるゐどくらくしてかつふかい。おつぎはつめたいあめれてさうしてすこちゞれたかみみだれてくつたりとほゝいてあしにはちたたけがくつゝいてる。
「おとつゝあ」おつぎは勘次かんじおこした。
くぬぎうつちやつたぞ」おつぎはさらこゑころしていつた。勘次かんじはひよつこりきてなにもいはずにおつぎのかほ凝然ぢつつめた。くらうちなかにはやうやランプがともされた。勘次かんじもおつぎもたゞひかつてえた。
 つぎ巡査じゆんさとなり傭人やとひにんれて壁際かべぎはしらべさせたがくぬぎ案外あんぐわいすくなかつた。それでもおつぎのではれなかつたのである。
りやくぬぎがもつとつたはずぢやないか勘次かんじはどうかしやしないか」巡査じゆんさういつてあたりをたが勘次かんじちひさな建物たてもの何處どこにもそれは發見はつけんされなかつた。さういつても實際じつさい巡査じゆんさにはくぬぎほか雜木ざふきとを明瞭めいれう識別しきべつなかつたのである。
勘次かんじ、それぢやれをつていてるんだ」巡査じゆんさはいつた。勘次かんじふるへた。
草刈籠くさかりかごでもなんでもいゝ、れをれてあとからいて」
「へえ、何處どこまでつてくんでがせう」勘次かんじ逡巡ぐつ/\してる。
何處どこまでゝもいゝんだ」巡査じゆんさ呶鳴どなつてぴしやりと横手よこて勘次かんじほゝたゝいた。
 勘次かんじ草刈籠くさかりかご脊負せおつて巡査じゆんさあといて主人しゆじんいへ裏庭うらにはみちびかれた。巡査じゆんさ縁側えんがは坐蒲團ざぶとんこしけたとき勘次かんじかご脊負せおつたまゝくびれてつた。それはあまりにいた仕事しごとなので有繋さすが分別盛ふんべつざかり主人しゆじんなかつた。内儀かみさんがた。勘次かんじます/\しほれた。
勘次かんじ、おまへまあそれをいて此處こゝけてたらどうだね」内儀かみさんはいつた。勘次かんじはそれでもたゞつてる。
品物しなものこれだけなんでしたらうか」内儀かみさんは巡査じゆんさいた。
くらゐのものらしいやうでしたな、案外あんぐわいすくなかつたんですな」巡査じゆんさ手帖ててふ反覆くりかへしながらいつた。
「さうでございますか」内儀かみさんは巡査じゆんさ會釋ゑしやくしてさうして
「どうしたね勘次かんじうしてれてられてもいゝ心持こゝろもちはすまいね」といつた。藁草履わらざうり穿いた勘次かんじ爪先つまさきなみだがぽつりとちた。
「こんなことでおまへ世間せけんさわがしくてやうがないのでね、わたしところでも本當ほんたうこまつてしまふんだよ」内儀かみさんは巡査じゆんさ一寸ちよつとてさうして
れから屹度きつとやらないなら今日けふところだけは大目おほめいたゞいて警察けいさつれてかれないやうにうかゞつててあげるがね、どうしたもんだね」と勘次かんじへいつた。
何卒どうぞはあ、けつしてやりませんから、へえお内儀かみさんどうぞ」勘次かんじ草刈籠くさかりかご脊負せおうて前屈まへかゞみになつた身體からだ幾度いくどかゞめていつた。なみだまたぼろ/\ときものすそからねてほつ/\とにはつちてんじた。
如何いかゞなもんでござんせうねれは」内儀かみさんは微笑びせうふくんで巡査じゆんさむかつていつた。
「さうですなあ」巡査じゆんさくびかたむけていつてさら帶劍たいけんさやひざへとつて
「どうだ勘次かんじ以來いらいつゝしめるか、つぎにこんなことがつたら枯枝かれえだ一つでもゆるさないからな、今日けふはまあれでかへれ、くぬぎ此處こゝいてくんだぞ」勘次かんじ草刈籠くさかりかごおろさうとした。
「そんなものにはけといふんぢやないんだ、ところつてるんだろう、わからないやつだな、それうつかりしないで足下あしもとをつけるんだ」巡査じゆんさしかつた。勘次かんじはそつとつちんでにはた。
 もんそとにはおつぎが與吉よきちれて歔欷すゝりなきしてる。與吉よきちはおつぎのくのを自分じぶんこゑはなつ。おつぎはこゑれぬやうにたもとでそれをおほうてる。
「よきかねえでえれ」勘次かんじ與吉よきちつた。三にんだまつてあるいた。傭人等やとひにんらわらつて勘次かんじ容子ようすた。
「おとつゝあ、どうしたつけ」おつぎはうちかへるとともいた。
「そんでもまあ大丈夫だいぢやうぶになつた、くぬぎなくつてたすかつた」勘次かんじはげつそりとちからなくいつた。
昨日きにやうおもたくつてひどかつたつけぞ、所爲せゐ今日けふかたいてえや」おつぎはよろこばしげにいつた。
おらこゝでなくなつちや汝等わツら大變たえへんだつけな」勘次かんじあひだしばらいてぽさ/\としていつた。
 ことがあつてからも勘次かんじ姿すがたすぐ唐鍬たうぐはつてはやしなか見出みいだされた。
 五六にちつて勘次かんじ針立はりだて針箱はりばことをつてた。
「おつう、われれからおはりにいけつかんな、そらつてぐんだ、おつかゞつてたふるいのなんざあ外聞げえぶんわるくつてだなんていふから、んでもおとつゝあひでぜねつてたんだぞ、それからえだのわりいだのつてふくれたりなにつかすんぢやねえぞ、なあ」勘次かんじまた
「よきわれはおとつゝあがそばママんだぞ、えゝか、ねえ[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、109-8]これからわれ衣物きものこせえんでおはりくんだかんな、かねえとひでえぞ」と與吉よきちいてくいひふくめた。
 おつぎはそれから村内そんない近所きんじよむすめともかよつた。おつぎは與吉よきちちひさな單衣ひとへもの仕上しあげたとき風呂敷包ふろしきづゝみかゝへていそ/\とかへつてた。おつぎははりつやうにつてからはき/\としてにはかにませてたやうにえた。おつぎはもう十六である。辛苦しんくあひだだけ去年きよねんからではほど大人おとなびて勘次かんじたすけるかれない。ことあきころつてからは滅切めつきり機轉きてんくやうになつて、んだおしなたと他人ひとにはいはれるのであるが、毎日まいにちひとつに自分じぶんにもさういへば身體からだ恰好かつかうまでどうやらさうえてたと勘次かんじこゝろおもつた。おつぎはいまあそびたいさかりに這入はひつたのであるが、勘次かんじからは一日いちにちでもたゞ一人ひとりはなされたことがない。むら休日ものびには近所きんじよ女房にようばうれられてることもあるが、屹度きつと與吉よきちがくつゝいてるのと、自分じぶん炊事すゐじかすことが出來できないのとで晝餐ひるでも晩餐ばんでも他人ひとよりはやかへつてなければならない。
らいつそものなんざはうがえゝ、さうでせえなけりやてえたおもはねえから」おつぎはつく/″\つぶやくことがあつた。
「どうにからだつてつから」おつぎのつぶやくのをいて勘次かんじ有繋さすがこゝろせつなくなる。それでひやうがくてはうぶすりとつてしまふのであつた。
 與吉よきちよつつにつた。惡戯いたづらつててそれだけおつぎのはぶかれた。それでも與吉よきち衣物きものはおつぎのには始末しまつ出來できないので、近所きんじよ女房にようばうたのんではどうにかしてもらつた。おしなきてればそんな心配しんぱいはまだ十六のおつぎがするのではない。おつぎはさら自分じぶん衣物きものこまつた。みじかくなるばかりではなくほころびにさへおつぎは當惑たうわくするのである。
「おはり出來できなくつちや仕樣しやうねえなあ」おつぎは何時いつでも嘆息たんそくするのであつた。
「おはりにでもなんでもれるときにやつから、奉公ほうこうにでもつてろ、いくつにつたつてろくなこと出來できるもんか、十六ぐれえぢや貧乏人びんばふにんはまあだけねえたつてやうがあるもんか、さうわれてえに痩虱やせじらみたかつたやうにしつきりなしふもんぢやねえ」
「おとつゝあはそんだつて奉公ほうこうにでもつてるものげはうちこせえてやんだんべな」
「そんだつてなんだつてれつときでなくつちやれねえから」
 十六ではまだはりたなくつてもいゝといふのはそれは無理むりではない。しか勘次かんじいへでおつぎの一かうはりらぬことは不便ふべんであつた。勘次かんじもそれをらないのではないが、いまところ自分じぶんには餘裕よゆうがないのでおつぎがさういふたびかれこゝろへずくるしむのでわざ邪慳じやけんにいつてしまふのであつた。ふゆになつてからもおつぎは十六だといふうちすぐ十七になつてしまふとつぶやいたのであつた。
はるにでもなつたらやれつかもんねえから」と勘次かんじたびにいつてた。おつぎは到底たうていあてにはならぬとこゝろ斷念あきらめてたのであつた。それだけおつぎの滿足まんぞくふかかつた。
 あるばんどうして記憶きおく復活ふくくわつさせたかおつぎはふいといつた。
井戸ゐどおつことしたくぬぎ梯子はしごけてもれめえか」
何故なぜそんなこといふんだ」勘次かんじおどろいて※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。
「そんでも可惜あつたらもんだからよ」
われ自分じぶん梯子はしごけて這入へえんのか」
可怖おつかねえからだがな」
「そんなこといふもんぢやねえ、また拘引つゝてかれたらどうする、そんときわれでもくのか」勘次かんじういつて苦笑くせうした。
 そのばんれつ二人ふたりあひだはなしはなかつた。


 與吉よきちいつつのはるつた。ずん/\と生長せいちやうしてかれ身體からだはおつぎの重量ぢうりやうぎてる。しがみいてたけのこかは自然しぜんみきからはなれるやうに、與吉よきち段々だん/\おつぎのからのぞかれるやうにつた。それでもたけのこかはたけみきまつはつてはよこたはつてるやうに、與吉よきちがおつぎをなつかしがることにかはりはなかつた。
 與吉よきち近所きんじよ子供こども田圃たんぼた。あたゝかいにはかれ單衣ひとへかへて、たもとうしろでぎつとしばつたりしりをぐるつと端折はしよつたりしてもら待遠まちどほねてる。
ほりそばへはぐんぢやねえぞ、衣物きものよごすとかねえぞ」おつぎがいふのをみゝへもれないで小笊こざるにしてはしつてく。田圃たんぼはんはだらけたはなちて嫩葉わかばにはまだすこひまがあるので手持てもちなささうつて季節きせつである。わづかうるほひをふくんであしそこ暖味あたゝかみかんずる。たがやひとはまだたぬ。しろつぽくかわいた刈株かりかぶあひだには注意ちういしてれば處々ところ/″\きはめてちひさなあながある。子供等こどもらあなさがしてあるくのである。彼等かれらちひさなねばつち※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さしこんでは兩手りやうてちからめてかへす。其處そこにはどぜうがちよろ/\と跳返はねかへりつゝそのあわたゞしくうごかしてる。さうすると彼等かれらいづれこゑてゝさわぎながら、ちひさなどろだらけのとらへようとしてはげられつゝやうやくのことでざるれる。どぜうのこそつぱいざるなかしばらうごかしては落付おちつく。どぜうまたれられるとき先刻さつきどぜうが一つにさわいでは落付おちつく。彼等かれらうしてそのちひさなあなもとめてからうつつてあるく。土地とちではそれを目掘めぼりというてる。與吉よきちにはいくどろになつてもどぜうれなかつた。仲間なかまおほきなはそれでも一ぴきぐらゐづつ與吉よきちざるにもれてるのであつた。それでかれおくれながらも子供こどもいてあるかずにはられなかつたのである。
 ほりにはうごかないみづそらうつしてたゝへてところがある。さうかとおもへばあるひみづは一てきもなくてどろうへすぢのやうにながれたすなあとがちら/\とはるわづか反射はんしやしてところがある。子供等こどもらまばらな枯蘆かれあしほとりからおりて其處そこにも目掘めぼりをこゝろみる。おほきな子供こども大事だいじざるをそつともつておりる。ちひさな子供こどもほりへおりながらざるかたぶけてどぜうこぼすことがある。おほきな子供こどもはそれつといつて惡戯いたづらそれとらうとする。子供等こどもら順次じゆんじみなそれにならはうとする。さうするとちひさな小供こどもたゞいたやうにく。それと同時どうじどぜうちひさな子供こどもざるかへされて子供こどもそのどぜうのぞくとともこゑがはたととまつてしまふのである。ほりねばついたどろはうつかりするとちひさなあしけてはなさない。さうするとみんながげるやうにきしあがつてゆびしてさき屈曲くつきよくさせながらさわぐ。ちひさな子供こどもざるにしたまゝにはあてずにこゑはなつてく。與吉よきちうしてかされた。かれには寸毫すこし父兄ふけいちからかうぶつてない。頑是ぐわんぜない子供こどもあひだにも家族かぞくちから非常ひじやういきほひをしめしてる。その家族かぞくが一ぱんから輕侮けいぶもつられてるやうに、子供こどもあひだにもまたちひさい與吉よきちあなどられてた。それでも與吉よきちかへりには小笊こざるそこどぜうがあるのでよろこんでた。いた當座たうざしをれてもかれすぐ機嫌きげんて、そのわづか獲物えものざるほこつておつぎのそばとき何時いつものあまえた與吉よきちである。かれ何處どこへでもべたりとすわるのでしり丸出まるだしに※(「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1-91-84)かかげてやつても衣物きものどろだらけにした。それでしかられてもどろかわいたそのしりたゝかれても、おつぎにされるのはかれにはちつともおそろしくなかつた。かれ小言こごとみゝへもれないで「ねえ[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、114-8]ようろよう」と小笊こざるげてはちよこ/\とねるやうにして小刻こきざみにあしうごかしながらおつぎのめることばうながしてまない。
 かれあまりによろこんでさわいでひよつとするとあぶなもとでどぜうにはおとことがある。どぜうかわいたにはつちにまぶれてくるしさうにうごく。與吉よきちおさへようとするときにはとりがひよつとくちばしつゝいてけてつてしまふ。にはとりがそれをける。與吉よきちはさうするとまたひとしきりくのである。
われあんまりうつかりしてつかんだわ」おつぎはわらひながら、つてる與吉よきちあたまいてそれから手水盥てうづだらひみづんでどぜうれてる。與吉よきちみづれてはどぜうさわぐのをすぐこゑててわらふ。おつぎはさうしていてどろだらけの手足てあしあらつてやる。
 與吉よきち時々とき/″\どぜうつてた。おつぎは衣物きものどろになるのをしかりながらそれでも威勢ゐせいよく田圃たんぼしてやつた。たびほか子供等こどもらうしろから
かさねえでよきこともれでつてくろうな」といふおつぎのこゑけるのであつた。わづかどぜう味噌汁みそしるれてはしほねしごいて與吉よきちへやつた。自分じぶんではほねあたまとをしばらくちふくんでそれからてた。
 がそろ/\とたがやされるやうになつた。子供等こどもらまたひとつ/\のかたまりたがやされたわたつて、そのかたまりうへすべりながらえながら、きはめてちひさい慈姑くわゐのやうなゑぐのをとつた。それは土地とちではなまつてゑごとばれてる。そこらのにはゑぐがおほいのであきころるとしげつたいねかげちひさなしろはなく。與吉よきち子供こどものするやうに小笊こざるもつた。どぜうとはちがつてれはかれにもわづかづゝはることが出來できた。すこしづゝとつては毎日まいにちのやうにたくはへた。おつぎはちやわかたびにそれをはひなかんでいてやる。いぢることがあぶないので與吉よきちひとりでかまどをつけることはきんぜられてる。はひなかれたばかりで與吉よきち
「よう/\」といつておつぎにせまる。與吉よきちけるあひだ遲緩もどかしいのである。
「そんなにけめえな、そんぢやねえ[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、115-14]かまあねえぞ」とおつぎはゑぐをしてる。與吉よきちくちれてもまだがり/\でかつにがいのでしてしまふ。
「そうらろ、けえ姿なりしていふことかねえから」おつぎはおこつたやうな容子ようすをしてせる。
ねえ[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、116-2]よ、よう」と與吉よきちまた強請せがむ。ときはもうかはしわつてけたゑぐが與吉よきちせられる。
われあつえぞ」とおつぎがいへば與吉よきちいてゑぐは土間どまちる。それをまたせてやると與吉よきちはおつぎがするやうにふう/\とはひく。與吉よきちあとあともとおつぎにせがんで、勘次かんじ呶鳴どなられてはめるのである。
 たくはへられたゑぐが小笊こざるに一ぱいつたときおつぎは小笊こざるつて
「よきげこれてやつぺか、砂糖さたうでもせえたら佳味うまかつぺな」獨語ひとりごとのやうにいつた。
てくろうよう」與吉よきちはそれをいてまたせがんでおつぎへびついて、かぶつて手拭てぬぐひつた。おつぎは
「おゝいてえまあ」とかほしかめてかれるまゝくびかたぶけていつた。みだれたかみ三筋みすぢ四筋よすぢ手拭てぬぐひともつよかれたのである。
※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)そんなものしほでゞもゆでてやれ」勘次かんじにはか呶鳴どなつた。
砂糖さたうだなんて、だまつてればらねえでるもの、かれたらどうすんだ、砂糖さたうだの醤油しやうゆだのつてそんなことしたつくれえなんぼそんだかれやしねえ、おとつゝあそんなぜねなんざ一錢ひやくだつてつてねえから、しほだつて容易よういなもんぢやねえや、そんな餘計よけいなものなんになるもんぢやねえ」勘次かんじ反覆くりかへしてしかつた。與吉よきちはおつぎのかげまはつてきついた。
「どうしたもんだんべまあ、ぢつきおこんだから」おつぎは小言こごといてつぶやいた。
「そんだつて、おとつゝあそんなとこぢやねえから」勘次かんじはがつかりこゑおとしていつた。さうして沈默ちんもくした。
 おつぎもおしなんでからくるしい生活せいくわつあひだに二たびはるむかへた。おつぎは餘儀よぎなくされつゝ生活せいくわつ壓迫あつぱくたいする抵抗力ていかうりよく促進そくしんした。餘所よそをんなのやうに長閑のどかはるられないでおつぎは生理上せいりじやうにもいちじるしい變化へんくわげた。おしなんだときはおつぎはまだ落葉おちばべるとてはたけ火箸ひばしさきぐにやしてしまほど下手へたであつた。それがよこにもたてにもおほきくなつて、肌膚はだもつやゝかにえてかみながくなつた。おつぎのいへうしろがけのやうにつたところからはむらのものが黄色きいろ粘土ねんどつた。かみねばるやうになるとおつぎは粘土ねんどをこすりつけて、はだぬぎになつたまゝ黄色きいろまつたあたま井戸ゐどそばあらふのである。さうしてのふつさりとしたかみは二ところは三くやうにつた。おつぎはまたかみへつける胡麻ごまあぶら元結もとゆひしばつたちひさなびんれて大事だいじしまつてくのである。みじか期間きかんではあるがはりつやうになつてからはあかたすきけた。半纏はんてん洗濯せんたくした。どうにか自分じぶん仕上しあげた身丈みたけりる衣物きものておつぎはにはか大人おとなびたやうにつた。はたけときにはまだのりのぬけない半纏はんてんあかたすきかたからけて勘次かんじうしろいてく。おつぎは仕事しごとにかゝるときには半纏はんてんはとつてえだける。おつぎの姿すがたやうやむら注目ちうもくあたひした。
 はるかざつて黄色きいろぬのおほうたやうなはなも、はるらしいあめがちら/\とつてしもけたやうな滅切めつきりあをみをくはへてころそのひらいた心部しんぶにはたゞわづか突起とつき見出みいだす。しかしそこにはつぼみあきらかにかたちしてるのである。そらからはあたゝかい日光につくわうまねいてつちからはなががずん/\とさしげてはさらながくさしげるので派手はではなむぎ小麥こむぎにも沒却ぼつきやくされることなくひろめるのである。おつぎも心部しんぶえるつぼみであつた。しかそのつぼみはさしげられないのみではなくおさへるつよちからくはへられてある。勘次かんじ寸時すんじもおつぎを自分じぶんそばからはなすまいとしてる。したがつてそら日光につくわうまねくやうにをんなこゝろうながすべきむら青年せいねんとのあひだにはおつぎはなん關係くわんけいつながれなかつた。おつぎが十七といふ年齡としいていづれも今更いまさらのやうに注意ちうい惹起ひきおこしたのである。ふゆ季節きせつほこりいて西風にしかぜ何處どこよりもおつぎのいへ雨戸あまど今日けふたぞとたゝく。それはむら西端せいたんるからである。位置ゐちがさういふひやられたやうなかたちつてうへに、生活せいくわつ状態じやうたいから自然しぜんある程度ていどまでは注意ちういかられて日陰ひかげるとひとしいものがあつたのである。勘次かんじ監督かんとくつぼみ成長せいちやうとゞめるひやゝかな空氣くうきで、さうしてこれねらふものを防遏ばうあつする堅固けんご牆壁しやうへきである。しかはる季節きせつ地上ちじやう草木さうもくつた時、どれほどしろしもむすんでも草木さうもく活力くわつりよくうごいてまぬごとく、おつぎのこゝろ外部ぐわいぶからくはへる監督かんとくもつうばることは出來できない。
 おつぎは勘次かんじあといてはたけ往來わうらいする途上とじやうこん仕事衣しごとぎかためたむら青年せいねんときには有繋さすがこゝろかされた。かたにしたくはへおつぎは兩手りやうてけてる。そのにぎつたほゝたせるやうにして、おつぎはいくらかくびかたむけつゝ手拭てぬぐひしたからくろひとみ青年せいねんるのであつた。勘次かんじあとからいてるおつぎの態度たいどまでることは出來できなかつた。おつぎは數次しば/\さうしてむら青年せいねんた。しかし一交換かうくわんする機會きくわいたなかつた。おつぎはどうといふこともなくむしほとん無意識むいしき青年せいねんるのであつたが、手拭てぬぐひしたひかあたゝかいふたつのひとみにはじやうふくんでることが青年等せいねんらにも微妙びめう感應かんおうした。うしておつぎもいつかくちのばつたのである。それでも到底たうてい青年せいねんがおつぎとあひせつするのは勘次かんじ監督かんとくもと白晝はくちう往來わうらいで一べつしてちがその瞬間しゆんかんかぎられてた。それゆゑぱん子女しぢよのやうではなくおつぎのこゝろにもをとこたいする恐怖きようふまく無理むり引拂ひきはらはれる機會きくわいかつ一度ひとたびあたへられなかつた。おつぎは往來わうらいくとては手拭てぬぐひかぶりやうにもこゝろくばたゞをんなである。それがいへかへればたゞちくるしい所帶しよたいひとらねばならぬ。そこにおつぎのこゝろ別人べつにんごと異常いじやうめられるのであつた。
 またさわやかな初夏しよか百姓ひやくしやうせはしくなつた。おつぎはんだおしな地機ぢばたけたのだといふ辨慶縞べんけいじま單衣ひとへるやうにつた。はりつやうにつたときおつぎはこれ自分じぶん仕上しあげたのであつた。それそばてはあぶさうもとで幾度いくたびはりはこびやうを間違まちがつていたこともあつたが、しまひには身體からだにしつくりふやうにつてた。んだおしなはおつぎがうまれたばかりにすぐかまどべつにして、不見目みじめ生計くらしをしたので當時たうじはれ衣物きものであつた單衣ひとへつゝんで機會きくわいもなくむなしくしまつたまゝになつてたのである。それにころこん七日なぬかからもたねばわかないやうな藍瓶あゐがめそめられたので、いま普通ふつう反物たんもののやうなみづちないかとおもへばめるといふのではなく、勘次かんじがいつたやうに洗濯せんたくしてもかへつえるやうなので、それに地質ぢしつもしつかりと丈夫ぢやうぶなものであつた。おつぎがあらざらしのあはせてゝ辨慶縞べんけいじま單衣ひとへるやうにつてからは一際ひときはひと注目ちうもくいた。れいあかたすきうしろ交叉かうさしてそでみじかこきあげる。そのきあげられたかた衣物きものしわすこつて身體からだ確乎しつかとさせてせる。あらはれたうでにはこん手刺てさし穿うがたれてある。やうやあついとうておつぎはしろ菅笠すげがさいたゞいた。しろ菅笠すげがさあめさらされゝばそれでやぶれてしまふので、なつのはじめには屹度きつと何處どこでもあたらしいのにかへられるのである。おつぎは勘次かんじかれてむぎ畦間うねまたがやした。くはれるのが手後ておくれになつたむぎしろる。時々とき/″\つてくはいたつちあしそこきおろすおつぎの姿すがたがさや/\とかすかなひゞきてゝうごしろうへえる。餘所よそ一寸ちよつとたびおほきな菅笠すげがさがぐるりとうごく。菅笠すげがさけるのみではなくをんなためには風情ふぜいあるかざりである。かみにはしろ手拭てぬぐひかぶつてかさ竹骨たけぼねかみおさへるとき其處そこにはちひさな比較的ひかくてきあつ蒲團ふとんかれてある。さういふ間隔かんかくたもつて菅笠すげがさ前屈まへかゞみにたかゑられるのである。女等をんならみな少時しばし休憩時間きうけいじかんにもあせぬぐふにはかさをとつて地上ちじやうく。ひとつにはひもよごれるのをいとうて屹度きつとさかさにしてうらせるのである。さうしてあつ笠蒲團かさぶとんあかきれまるしろかさ中央まんなかくろ絎紐くけひも調和てうわたもつのである。おつぎの笠蒲團かさぶとんあかあをちひさなきれあつめてつたのであつた。しかしおつぎのおびだけはふるかつた。餘所よそをんな大抵たいてい綺麗きれいあかおびめて、ぐるりと※(「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1-91-84)からげた衣物きものすそおびむすしたれて只管ひたすら後姿うしろすがたにするのである。一杯いつぱいあをしげつた桑畑くはばたけなどしろおほきな菅笠すげがさあかおびとの後姿うしろすがたが、ことにはそらからげるつよ日光につくわう反映はんえいしてあかおびえるやうにえたり、菅笠すげがささらおほきくしろひかつたりするときには有繋さすがひとかねばならぬ。彼等かれら姿すがたくしてとほへだてゝるべきものであるがしかしながらちかづいたときでも、ねあげられたかさうしろには兩頬りやうほほれてさうしてくろ絎紐くけひもめられた手拭てぬぐひ隙間すきまからすこみだれたかみのぞいて其處そこにも一しゆ風情ふぜい發見はつけんされねばならぬ。
 あめふくんだくも時々とき/″\さへぎるとはいへ、あつのもとに黄熟くわうじゆくしたむぎられたときはたけはからりとつて境木さかひぎうゑられてある卯木うつぎのびつしりといたしろはな其處そこにも此處こゝにもつて、にはか濶々ひろ/″\としたことをかんずるとともさゝへるものがくなるだけをんな姿すがたえるのである。彼等かれら少時しばし休憩きうけいにもかならたふしたむぎしりいてしろ卯木うつぎしたわづかでもける。
 到底たうてい彼等かれらしろ菅笠すげがさあかおびとはひろかざ大輪たいりんはなでなければならぬ。ひとつの要件えうけんがおつぎにはけてた。
 あつ氣候きこう百姓ひやくしやうすべてをその狹苦せまくるし住居すまゐからとほさそうて、相互さうごその青春せいしゆんのつやゝかなおもかげ憧憬あこがれしめるのに、さうしてとげえた野茨のばらさへしろころもかざつてこゝろよいひた/\とあふてはたがひ首肯うなづきながらきないおもひ私語さゝやいてるのに、おつぎはかつ青年せいねんとのあひだに一まじへることさへその權能けんのうおさへられてた。いづれにしてもおつぎのこゝろには有繋さすがかすかな不足ふそくかんずるのであつた。勘次かんじあらざらしの襦袢じゆばんふんどし一つのはだかかけて、船頭せんどうかぶるやうな藺草ゐぐさ編笠あみがさあさひもけてる。
 勘次かんじみちびかれておつぎは仕事しごといちじるしく上手じやうずになつた。おつぎがはたけ往來わうらいするときむら女房等にようばうらくいつた。
なんちう、おつかさまにたこつたかな、あるきつきまでそつくりだ」
雀斑そばかすがぽち/\してつとこまでなあ」おしなにははなのあたりに雀斑そばかすすこしあつたのである。おつぎにもれがそのまゝ嫣然にこりとするときにはそれがかへつしなをつくらせた。
勘次かんじさんわけのねえもんだな、まあだ此間こねえだだとおもつてたのにな、よめにやつてもえゝくれえぢやねえけえ、おしなさんもおめえこのくれえときぢやなかつたつけかよ」女房等にようばうらまた揶揄半分からかひはんぶんういふこともいつた。おつぎは勘次かんじがさういはれるとき何時いつあかかほをして餘所よそいてしまふのである。勘次かんじはおしなのことをいはれるたびに、おつぎの身體からだをさうおもつては熟々つく/″\たびに、おしな記憶きおく喚返よびかへされて一しゆがた刺戟しげきかんぜざるをない。それと同時どうじ女房にようばうしいといふせつない念慮ねんりよかすのである。遠慮ゑんりよ女房等にようばうらにおしなはなしをされるのはいたづらに哀愁あいしうもよほすにぎないのであるが、またぼうにははなしをしてもらひたいやうな心持こゝろもちもしてならぬことがあつた。
勘次かんじさんどうしたい、えゝ鹽梅あんべえのがんだがあとつてもよかねえかえ」とかれ女房にようばう周旋しうせんしようといふものはおしなんでからもなくいくらもあつた。勘次かんじたゞしなにのみこがれてたのであるが、段々だん/\日數ひかずつて不自由ふじいうかんずるとともみゝそばだてゝさういふはなしくやうにつた。しか※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)そんなはなしをしてかせる人々ひと/″\勘次かんじひど貧乏びんばふなのと、二人ふたりるのとで到底たうてい後妻ごさいつかれないといふ見越みこしさきつて、心底しんそこから周旋しうせんようといふのではない。たゞひましがる勘次かんじ何處どこへでもくはかまてゝ釣込つりこまれるのでつひ惡戯いたづらにじらしてるのである。ことにおつぎがおほきくなればなるほどはたらきがてばほど後妻ごさいには居憎ゐにくところだとひとおもつた。貧乏世帶びんばふじよたい後妻ごさいにでもならうといふものには實際じつさいろくものいといふのが一ぱん斷案だんあんであつた。他人ひとたゞかれこゝろ苛立いらだたせた。さうしてかれ尋常外なみはずれた態度たいどが、かへつ惡戯好いたづらずきのこゝろ挑發てうはつするのみであつた。
「まゝよう、まゝようでえ、まゝあな、ら、ぬう」
勘次かんじ小聲こごゑうたうてくのがどうかするとひとみゝにもひゞくやうにつた。
 ころ勘次かんじにはくりこずゑも、それへ繁殖はんしよくして残酷ざんこくあら栗毛蟲くりけむしのやうな毒々どく/\しいはなやうやしろつて、何處どこ村落むらにもふつさりとした青葉あをばこずゑからくり比較的ひかくてきおほいことをしめしてしろはなについた。村落むらうづめてこずゑからふわ/\と蒸氣ゆげあがらうといふかたちくりはなは一ぱいである。そららないながらにひくくもわだかまつて、時々とき/″\あざやかでかつくろずんだ青葉あをばうへにかつと黄色きいろあかるいひかりげる。何處どことなくしめつぽくあたまおさへるやうに重苦おもくるしいかんじがする。
 こと/″\はたはしつた村落むらうちにはまれにさういふ青葉あをばあひだ鯉幟こひのぼりがばさ/\とひるがへつてはぐたりとつて、それがあさからながを一にち、さうして家族かぞくぼつしたにしても何時いつになくまだあかるいうちゆあみをしてをんなまでがいた菖蒲しやうぶかみいて、せはしいあひだをそれでも晴衣はれぎ姿すがたになる端午たんごるのをものうげにつてる。さういふ青葉あをば村落むらから村落むらをんな飴屋あめや太皷たいこたゝいてあるいた。明屋あきやばかりの村落むらあめらねばをんなはしからはしうたうてあるく。勘次かんじうたうたのはをんなうたである。をんなこゑたかうたうてはまたこゑひくくして反覆はんぷくする。うたところ毎日まいにちたゞの一かぎられてた。をんな年増としま一人ひとりうてる。鬼怒川きぬがは徃復わうふくする高瀬船たかせぶね船頭せんどうかぶ編笠あみがさいたゞいて、あらざらしの單衣ひとへすそひだり小褄こづまをとつておびはさんだだけで、あめはこれてかたからけてある。あつかさ編目あみめとほしてをんなかほほそつよせんゑがく。をんなかほやつれてた。おほむねむつてた。みゝもとで太皷たいこやかましいおととおふくろうたこゑとがいつとはなしにさそつたのであつたかもれぬ。くびむしさかさまれてひたひがいつでもあつられてあせばんでた。百姓ひやくしやうみな見窄みすぼらしいをんなかへりみなかつた。村落むらから村落むらわたときをんな姿すがた人目ひとめくべき要點えうてんが一つもそなはつてなかつた。しかしいつのにかひととほくよりるやうにつた。ちが女房等にようばうらひたひママれてねむつて痛々敷いた/\しいおもふのであつた。をんなうたはなくても太皷たいこ村落むらとほくからさそふのにらぬうたひやうをしてたゞの一反覆くりかへすのである。をんな背中せなかねむつてるのをよろこんで※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)どんな姿なりであるかは心付こゝろづかない。たゞちひさな銅貨どうくわつてはしつて村落むらちつゝさそひつゝあるくのである。をんな何處どこからてどうくといふこともせはしくたゞ田畑たはた勞働らうどうして百姓ひやくしやうあひだにはられなかつた。毎日まいにちさうしてあるいてをんなりたがりきたがる女房等にようばうらあひだに、各自てんで口喧くちやかましい陰占かげうらなひたくましくされるともなく、ある村外むらはずれの青葉あをばなか太皷たいこおとうたこゑとがとほかすかにぼつつたり、やが梅雨つゆおびたゞしく毒々どく/\しいくりはなくさるまではとしたのでをんなきたなげなやつれた姿すがたふたゝられなかつた。
 勘次かんじみゝそこひゞいたひとかんへたやうにうたうてはくのである。かれ自分じぶんこゑたかいとおもつたとき他人ひとかれることをづるやうに突然とつぜんあたりをることがあつた。まがかどでひよつとときそれが口輕くちがる女房にようばうであれば二三すごしては
「どうしたえ、勘次かんじさん彼女あれこがれたんぢやあんめえ、もつと年頃としごろつゝけだからつれ一人ひとりぐれえ我慢がまん出來できらあな、そんだがあれつなくなつちやつてこまつたな」と遠慮ゑんりよもなく揶揄からかうては、すこへだたるとわざこゑてゝうたつたりする。さうすると勘次かんじうちかへるまで一うたはない。しかかれしばらくそれをうたふことをめなかつた。
 かれたゞ女房にようばうほしい/\とのみおもつた。


 勘次かんじ依然いぜんとしてくるしい生活せいくわつそとに一のがることが出來できないでる。おしなんだとき理由わけをいうてりた小作米こさくまいとゞこほりもまだ一つぶかへしてない。大暑たいしよ井戸ゐどみづまでらしてりつけるころはそれまでに幾度いくたび勘次かんじ穀桶こくをけからるのである。かれは一ぱん百姓ひやくしやうがすることはなくてはらないので、ことには副食物ふくしよくぶつとして必要ひつえうなので茄子なす南瓜たうなす胡瓜きうりやさういふもの一通ひととほりはつくつた。かれ村外むらはづれの櫟林くぬぎばやしそばたので自分じぶんいへちかくにはさういふものつくはたけが一まいもなかつた。それでも胡瓜きうりだけは垣根かきね内側うちがはへ一れつゑてうしろはやしまじつたみじかたけつててた。たけつてるはやしかれ所有しよいう