漱石
「土」が「東京朝日」に連載されたのは一昨年の事である。さうして其責任者は余であつた。所が不幸にも余は「土」の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。
當初五六十囘の豫定であつた「土」は、同時に意外の長篇として發達してゐた。途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫
限に打ち
遣つたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。「土」は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。
冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」の事を忘れてゐた。所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。池邊君は其當時「朝日」の主筆だつたので「土」は始から仕舞迄眼を通したのである。其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」を根氣よく讀み通したのである。余は出版界の不景氣のために「土」の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。其時心のうちでは、隨分「土」に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」の事を丸で忘れて仕舞つた。
すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」を讀み返す暇がなかつた。已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。余の名刺を持つて「土」の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。
余は「彼岸過迄」を片付けるや否や前約を踏んで「土」の校正刷を讀み出した。思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」に於ても全くさうであつた。先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。
尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。
「土」の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」の中に收め盡したのである。彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」である。さうして「土」は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。
人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。だから何處に何う出て來ても必ず
獨特である。其
獨特な點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。余は彼の
獨特なのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。
作としての「土」は、寧ろ苦しい讀みものである。決して面白いから讀めとは云ひ惡い。第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。だから全體として讀者に
加速度の興味を與へない。だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。悲劇は恐しいに違ない。けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。が、「土」に至つては涙さへ出されない苦しさである。雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。たゞ土の
下へ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。
「土」を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。余もさう云ふ感じがした。或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」を讀ましたいと思つて居る。娘は屹度厭だといふに違ない。より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧から
射して來るのだと余は固く信じて居るからである。
長塚君の書き方は何處迄も沈着である。其人物は皆有の儘である。話の筋は全く自然である。余が「土」を「朝日」に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。長塚君は余の「朝日」に書いた「滿韓ところ/″\」といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。漱石に限らず一體「朝日」新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」を書いた、長塚君としては尤もの事である。「滿韓
所々」抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」を讀む眼はあるのである。だから此序を書くのである。長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。
長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。余がかつて「土」を「朝日」に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。余は「土」の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。
(明治四十五年五月)
[#改丁]
烈しい
西風が
目に
見えぬ
大きな
塊をごうつと
打ちつけては
又ごうつと
打ちつけて
皆痩こけた
落葉木の
林を一
日苛め
通した。
木の
枝は
時々ひう/\と
悲痛の
響を
立てゝ
泣いた。
短い
冬の
日はもう
落ちかけて
黄色な
光を
放射しつゝ
目叩いた。さうして
西風はどうかするとぱつたり
止んで
終つたかと
思ふ
程靜かになつた。
泥を
拗切つて
投げたやうな
雲が
不規則に
林の
上に
凝然とひつゝいて
居て
空はまだ
騷がしいことを
示して
居る。それで
時々は
思ひ
出したやうに
木の
枝がざわ/″\と
鳴る。
世間が
俄に
心ぼそくなつた。
お
品は
復た
天秤を
卸した。お
品は
竹の
短い
天秤の
先へ
木の
枝で
拵へた
小さな
鍵の
手をぶらさげてそれで
手桶の
柄を
引つ
懸けて
居た。お
品は
百姓の
隙間には
村から
豆腐を
仕入れて
出ては二三ヶ
村を
歩いて
來るのが
例である。
手桶で
持ち
出すだけのことだから
資本も
要ない
代には
儲も
薄いのであるが、それでも
百姓ばかりして
居るよりも
日毎に
目に
見えた
小遣錢が
取れるのでもう
暫くさうして
居た。
手桶一提の
豆腐ではいつもの
處をぐるりと
廻れば
屹度なくなつた。
還りには
豆腐の
壞れで
幾らか
白くなつた
水を
棄てゝ
天秤は
輕くなるのである。お
品は
何時でも
日のあるうちに
夜なべに
繩に
綯ふ
藁へ
水を
掛けて
置いたり、
落葉を
攫つて
見たりそこらこゝらと
手を
動かすことを
止めなかつた。
天性が
丈夫なのでお
品は
仕事を
苦しいと
思つたことはなかつた。
それが
此日は
自分でも
酷く
厭であつたが、
冬至が
來るから
蒟蒻の
仕入をしなくちや
成らないといつて
無理に
出たのであつた。
冬至といふと
俄商人がぞく/\と
出來るので
急いで一
遍歩かないと、
其俄商人に
先を
越されて
畢ふのでお
品はどうしても
凝然としては
居られなかつた。
蒟蒻は
村には
無いので、
仕入をするのには
田圃を
越えたり
林を
通つたりして
遠くへ
行かねばならぬ。それでお
品は
其途中で
商をしようと
思つて
此の
日も
豆腐を
擔いで
出た。
生憎夜から
冴え
切つて
居た
空には
烈しい
西風が
立つて、それに
逆つて
行くお
品は
自分で
酷く
足下のふらつくのを
感じた。ぞく/\と
身體が
冷えた。さうして
豆腐を
出す
度に
水へ
手を
刺込むのが
慄へるやうに
身に
染みた。かさ/\に
乾燥いた
手が
水へつける
度に
赤くなつた。
皹がぴり/\と
痛んだ。
懇意なそここゝでお
品は
落葉を
一燻べ
焚いて
貰つては
手を
翳して
漸と
暖まつた。
蒟蒻を
仕入れて
出た
時はそんなこんなで
暇をとつて
何時になく
遲かつた。お
品は
林を
幾つも
過ぎて
自分の
村へ
急いだが、
疲れもしたけれど
懶いやうな
心持がして
幾度か
路傍へ
荷を
卸しては
休みつゝ
來たのである。
お
品は
手桶の
柄へ
横たへた
竹の
天秤へ
身を
投げ
懸けてどかりと
膝を
折つた。ぐつたり
成つたお
品はそれでなくても
不見目な
姿が
更に
檢束なく
亂れた。
西風の
餘波がお
品の
後から
吹いた。さうして
西風は
後で
括つた
穢い
手拭の
端を
捲つて、
油の
切れた
埃だらけの
赤い
髮の
毛を
扱きあげるやうにして
其垢だらけの
首筋を
剥出にさせて
居る。
夫と
共に
林の
雜木はまだ
持前の
騷ぎを
止めないで、
路傍の
梢がずつと
繞つてお
品の
上からそれを
覗かうとすると、
後からも/\
林の
梢が一
齊に
首を
出す。さうして
暫くしては
又一
齊に
後へぐつと
戻つて
身體を
横に
動搖ながら
笑ひ
私語くやうにざわ/\と
鳴る。
お
品は
身體に
變態を
來したことを
意識すると
共に
恐怖心を
懷きはじめた。三四
日どうもなかつたから
大丈夫だとは
思つて
見ても、
恁う
凝然として
居ると
遠くの
方へ
滅入つて
畢ふ
樣な
心持がして、
不斷から
幾らか
逆上性でもあるのだがさう
思ふと
耳が
鳴るやうで
世間が
却て
靜かに
成つて
畢つたやうに
思はれた。
不圖氣が
付いた
時お
品ははき/\として
天秤を
擔いだ。
林が
竭きて
田圃が
見え
出した。
田圃を
越せば
村で、
自分の
家は
田圃のとりつきである。
青い
煙がすつと
騰つて
居る。お
品は
二人の
子供を
思つて
心が
跳つた。
林の
外れから
田圃へおりる
處は
僅かに五六
間であるが、
勾配の
峻しい
坂でそれが
雨のある
度にそこらの
水を
聚めて
田圃へ
落す
口に
成つて
居るので
自然に
土が
抉られて
深い
窪が
形られて
居る。お
品は
天秤を
斜に
横へ
向けて、
右の
手を
前の
手桶の
柄へ
左の
手を
後の
手桶の
柄へ
掛けて
注意しつゝおりた。それでも
殆んど
手桶一
杯に
成り
相な
蒟蒻の
重量は
少しふらつく
足を
危く
保たしめた。やつと
人の
行き
違ふだけの
狹い
田圃をお
品はそろ/\と
運んで
行く。お
品は
白茶けた
程古く
成つた
股引へそれでも
先の
方だけ
繼ぎ
足した
足袋を
穿いて
居る。
大きな
藁草履は
固めたやうに
霜解の
泥がくつゝいて、それがぼた/\と
足の
運びを
更に
鈍くして
居る。
狹く
連つて
居る
田を
竪に
用水の
堀がある。
二三株比較的大きな
榛の
木の
立つて
居る
處に
僅一枚板の
橋が
斜に
架けてある。お
品は
橋の
袂で
一寸立ち
止つた。さうして
近づいた
自分の
家を
見た。
村落は
臺地に
在るのでお
品の
家の
後は
直に
斜に
田圃へずり
落ち
相な
林である。
楢や
雜木の
間に
短い
竹が
交つて
居る。いゝ
加減大きくなつた
楢の
木は
皆葉が
落ち
盡して
居るので、
其小枝を
透して
凹んだ
棟が
見える。
白い
羽の
鷄が五六
羽、がり/\と
爪で
土を
掻つ
掃いては
嘴でそこを
啄いて
又がり/\と
土を
掻つ
掃いては
餘念もなく
夕方の
飼料を
求めつゝ
田圃から
林へ
還りつゝある。お
品は
非常な
注意を
以て
斜な
橋を
渡つた。
四足目にはもう
田圃の
土に
立つた。
其時は
日は
疾に
沒して
見渡す
限り、
田から
林から
世間は
只黄褐色に
光つてさうしてまだ
明るかつた。お
品は
田圃からあがる
前に
天秤を
卸して
左へ
曲つた。
自分の
家の
林と
田との
間には
人の
足趾だけの
小徑がつけてある。お
品は
其小徑と
林との
境界を
劃つて
居る
牛胡頽子の
側に
立た。
鷄の
爪の
趾が
其處の
新らしい
土を
掻き
散らしてあつた。お
品は
土を
手で
聚めて
草履の
底でそく/\とならした。お
品の
姿が
庭に
見えた
時には
西風は
忘れたやうに
止んで
居て、
庭先の
栗の
木にぶつ
懸けた
大根の
乾びた
葉も
動かなかつた。
白い
鷄はお
品の
足もとへちよろ/\と
駈けて
來て
何か
欲し
相にけろつと
見上た。お
品は
平常のやうに
鷄抔へ
構つては
居られなかつた。お
品は
戸口に
天秤を
卸して
突然
「おつう」と
喚んだ。
「おつかあか」と
直におつぎの
返辭が
威勢よく
聞えた。それと
同時に
竈の
火がひら/\と
赤くお
品の
目に
映つた。
朝から
雨戸は
開けないので
内はうす
闇くなつて
居る。
外の
光を
見て
居たお
品の
目には
直ぐにはおつぎの
姿も
見えなかつたのである。
戸口からではおつぎの
身體は
竈の
火を
掩うて
居た。
返辭すると
共に
身體を
捩つたので
其赤い
火が
見えたのである。
おつぎの
脊に
居た
與吉はお
品の
聲を
聞きつけると
「まん/\ま」と
兩手を
出して
下りようとする。お
品はおつぎが
帶を
解いてる
間に
壁際の
麥藁俵の
側へ
蒟蒻の
手桶を二つ
並べた。
與吉はお
袋の
懷に
抱かれて
碌に
出もしない
乳房を
探つた。お
品は
竈の
前へ
腰を
掛けた。
白い
鷄は
掛梯子の
代に
掛けてある
荒繩でぐる/\
捲にした
竹の
幹へ
各自に
爪を
引つ
掛けて
兩方の
羽を
擴げて
身體の
平均を
保ちながら
慌てたやうに
塒へあがつた。さうして
青い
煙の
中に
凝然として
目を
閉ぢて
居る。
お
品は
家に
歸つて
幾らか
暖まつたがそれでも一
日冷えた
所爲かぞく/\するのが
止まなかつた。さうして
後に
近所で
風呂を
貰つてゆつくり
暖まつたら
心持も
癒るだらうと
思つた。
竈には
小さな
鍋が
懸つて
居る。
汁は
葢を
漂はすやうにしてぐら/\と
煮立つて
居る。
外もいつかとつぷり
闇くなつた。おつぎは
竈の
下から
火のついてる
麁朶を
一つとつて
手ランプを
點けて
上り
框の
柱へ
懸けた。お
品はおつぎが
單衣へ
半纏を
引つ
掛けた
儘であるのを
見た。
平常ならそんなことはないのだが
自分が
酷くぞく/\として
心持が
惡いのでつい
氣になつて
「おつう、そんな
姿で
汝や
寒かねえか」と
聞いた。それから
手拭の
下から
見えるおつぎのあどけない
顏を
凝然と
見た。
「
寒かあんめえな」おつぎは
事もなげにいつた。
與吉は
懷の
中で
頻りにせがんで
居る。お
品は
平常のやうでなく
何も
買つて
來なかつたので、ふと
困つた。
「おつう、そこらに
砂糖はなかつたつけゝえ」お
品はいつた。おつぎは
默つて
草履を
脱棄てゝ
座敷へ
駈けあがつて、
戸棚から
小さな
古い
新聞紙の
袋を
探し
出して、
自分の
手の
平へ
少し
砂糖をつまみ
出して
「そら/\」といひながら、
手を
出して
待つて
居る
與吉へ
遺つた。おつぎは
砂糖の
附いた
自分の
手を
嘗めた。
與吉は
其砂糖をお
袋の
懷へこぼしながら
危な
相につまんでは
口へ
入れる。
砂糖が
竭きた
時與吉は
其べとついた
手をお
袋の
口のあたりへ
出した。お
品は
與吉の
兩手を
攫へて
舐つてやつた。お
品は
鍋の
蓋をとつて
麁朶の
焔を
翳しながら
「こりや
芋か
何でえ」と
聞いた。
「うむ、
少し
芋足して
暖め
返したんだ」
「おまんまは
冷たかねえけ」
「それから
雜炊でも
拵えべと
思つてたのよ」
お
品は
熱い
物なら
身體が
暖まるだらうと
思ひながら、
自分は
酷く
懶いので
何でもおつぎにさせて
居た。おつぎは
粘り
氣のない
麥の
勝つたぽろ/\な
飯を
鍋へ
入れた。お
品は
麁朶を
一燻[#ルビの「いとく」はママ]べ
突つ込んだ。おつぎは
鍋を
卸して
茶釜を
懸けた。ほうつと
白く
蒸氣の
立つ
鍋の
中をお
玉杓子で二三
度掻き
立てゝおつぎは
又葢をした。おつぎは
戸棚から
膳を
出して
上り
框へ
置いた。
柱に
點けてある
手ランプの
光が
屆かぬのでおつぎは
手探りでして
居る。お
品は
左手に
抱いた
與吉の
口へ
箸の
先で
少し
づゝ
含ませながら
雜炊をたべた。お
品は
芋を三つ四つ
箸へ
立てゝ
與吉へ
持たせた。
與吉は
芋を
口へ
持つていつて
直ぐに
熱いというて
泣いた。お
品は
與吉の
頻をふう/\と
吹いてそれから
芋を
自分の
口で
噛んでやつた。お
品の
茶碗は
恁うして
冷えた。おつぎは
冷たくなつた
時鍋のと
換てやつた。お
品は
欲しくもない
雜炊を三
杯までたべた。
幾らか
腹の
中の
暖かくなつたのを
感じた。さうして
漸く
水離れのした
茶釜の
湯を
汲んで
飮んだ。おつぎは
庭先の
井戸端へ
出て
鍋へ一
杯釣瓶の
水をあけた。おつぎが
戻つた
時
「おつう、
今夜でなくつてもえゝや」とお
品はいつた。おつぎは
默つて
俵の
側の
手桶へ
手を
掛けて
「
此へも
水入て
置かなくつちやなんめえな」
「さうすればえゝが
大變だらえゝぞ」
お
品がいひ
切らぬうちにおつぎは
庭へ
出た。
直ぐに
洗つた
鍋と
手桶を
持つて
暗い
庭先からぼんやり
戸口へ
姿を
見せた。
閾へ
一寸手桶を
置いてお
品と
顏を
見合せた。
手桶の
水は
半分で
兩方の
蒟蒻へ
水が
乘つた。
お
品は三
人連で
東隣へ
風呂を
貰ひに
行つた。
東隣といふのは
大きな
一構で
蔚然たる
森に
包まれて
居る。
外は
闇である。
隣の
森の
杉がぞつくりと
冴えた
空へ
突つ
込んで
居る。お
品の
家は
以前から
此の
森の
爲めに
日が
餘程南へ
廻つてからでなければ
庭へ
光の
射すことはなかつた。お
品の
家族は
何處までも
日蔭者であつた。それが
後に
成つてから
方方に
陸地測量部の三
角測量臺が
建てられて
其上に
小さな
旗がひら/\と
閃くやうに
成つてから
其森が
見通しに
障るといふので三四
本丈伐らせられた。
杉の
大木は
西へ
倒したのでづしんとそこらを
恐ろしく
搖がしてお
品の
庭へ
横たはつた。
枝は
挫けて
其先が
庭の
土をさくつた。それでも
隣では
其木の
始末をつける
時にそこらへ
散らばつた
小枝や
其他の
屑物はお
品の
家へ
與へたので
思ひ
掛けない
薪が
出來たのと、も
一つは
幾らでも
東が
隙いたのとで、
隣では
自分の
腕を
斬られたやうだと
惜しんだにも
拘らずお
品の
家では
竊に
悦んだのであつた。それからといふものはどんな
姿にも
日が
朝から
射すやうになつた。それでも
有繋に
森はあたりを
威壓して
夜になると
殊に
聳然として
小さなお
品の
家は
地べたへ
蹂つけられたやうに
見えた。
お
品は
闇の
中へ
消えた。さうして
隣の
戸口に
現はれた。
隣の
雇人は
夜なべの
繩を
綯つて
居た。
板の
間の
端へ
胡坐を
掻いて
足で
抑へた
繩の
端へ
藁を
繼ぎ
足し
/\してちより/\と
額の
上まで
揉み
擧ては
右の
手を
臀へ
廻してくつと
繩を
後へ
扱く。
繩は
其度に
土間へ
落ちる。お
品は
板の
間に
小さくなつて
居た。
軈て
藁が
竭きると
傭人は
各自に
其繩を
足から
手へ
引つ
掛けて
迅速に
數を
計つては
土間から
手繰り
上げながら、
繼がつた
儘一
房づゝに
括つた。やがて
彼等は
板の
間の
藁屑を
土間へ
掃きおろしてそれから
交代に
風呂へ
這入つた。お
品はそれを
見ながら
默つて
待つて
居た。お
品は
此處へ
來ると
恁ういふ
遠慮をしなければならぬので、
少しは
遠くても
風呂は
外へ
貰ひに
行くのであつたが
其晩はどこにも
風呂が
立たなかつた。お
品は二三
軒そつちこつちと
歩いて
見てから
隣の
門を
潜つたのであつた。
傭人は
大釜の
下にぽつぽと
火を
焚いてあたつて
居る。
風呂から
出ても
彼等は
茹つたやうな
赤い
腿を
出して
火の
側へ
寄つた。
「どうだね、
一燻べあたつたらようがせう、
今直に
明くから」と
傭人がいつてくれてもお
品は
臀から
冷えるのを
我慢して
凝然と
辛棒して
居た。
懷で
眠つた
與吉を
騷がすまいとしては
足の
痺れるので
幾度か
身體をもぢ/\
動かした。
漸く
風呂の
明いた
時はお
品は
待遠であつたので
前後の
考もなく
急いで
衣物をとつた。
與吉は
幸ひにぐつたりと
成つてお
袋の
懷から
離れるのも
知らないのでおつぎが
小さな
手で
抱いた。お
品は
段々と
身體が
暖まるに
連れて
始めて
蘇生つたやうに
恍惚とした。いつまでも
沈んで
居たいやうな
心持がした。
與吉が
泣きはせぬかと
心付いた
時碌に
洗ひもしないで
出て
畢つた。それでも
顏がつや/\として
髮の
生際が
拭つても/\
汗ばんだ。さうしてしみ/″\と
快かつた。お
品は
衣物を
引つ
掛けると
直ぐと
與吉を
内懷へ
入れた。お
品の
後へは
下女が
這入つたので、おつぎは
其間待たねばならなかつた。おつぎが
出た
時はお
品の
身體は
冷め
掛けて
居た。お
品は
自分が
後では
いればよかつたのにと
後悔した。
お
品が
自分の
股引と
足袋とをおつぎに
提げさせて
歸つた
時に
月は
竊に
隣の
森の
輪郭をはつきりとさせて
其森の
隙間が
殊に
明るく
光つて
居た。
世間がしみ/″\と
冷えて
居た。お
品は
薄い
垢じみた
蒲團へくるまると、
身體が
又ぞく/\として
膝かしらが
氷つたやうに
成つて
居たのを
知つた。
次の
朝お
品はまだ
戸の
隙間から
薄ら
明りの
射したばかりに
眼が
覺めた。
枕を
擡げて
見たが
頭の
心がしく/\と
痛むやうでいつになく
重かつた。
狹い
家の
内に
羽叩く
鷄の
聲がけたゝましく
耳の
底へ
響いた。おつぎはまだすや/\として
眠つて
居る。
戸の
隙間が
瞼を
開いたやうに
明るくなつた
時鷄が
復た
甲走つて
鳴いた。お
品はおつぎを
今朝は
緩くりさせてやらうと
思つて
居た。それでもおつぎは
鷄が
又鳴いた
時むつくり
起きた。いつもと
違つて
餘りひつそりして
居るので
驚いたやうにあたりを
見た。さうしてお
袋がまだ
自分の
傍に
蒲團へくるまつてるのを
見た。
「おつう、せかねえでもえゝぞ、
俺ら
今朝少し
工合が
惡いから
緩くりすつかんなよ」お
品はいつた。おつぎは
暫くもぢ/\しながら
帶を
締て
大戸を一
枚がら/\と
開けて
目をこすりながら
庭へ
出た。
井戸端の
桶には
芋が
少しばかり
水に
浸してあつて、
其水には
氷がガラス
板位に
閉ぢて
居る。おつぎは
鍋をいつも
磨いて
居る
砥石の
破片で
氷を
叩いて
見た。おつぎは
大戸を
開け
放して
置いたので
朝の
寒さが
侵入したのに
氣がついて
「おつかあ、
寒かなかつたか、
俺ら
知らねえで
居た」いひながら
大戸をがら/\と
閉めた。
闇くなつた
家の
内には
竈の
火のみが
勢ひよく
赤く立つた。おつぎは
「おゝ
冷てえ」といひながら
竈の
口から
捲れて
出る

へ
手を
翳して
「
今朝は
芋の
水氷つたんだよ」とお
袋の
方を
向いていつた。
「うむ、
霜も
降つたやうだな」お
品は
力なくいつた。
戸口を
後にしてお
品は
竈の
火のべろ/\と
燃え
上るのを
見た。
「
何處でも
眞白だよ」おつぎは
竹の
火箸で
落葉を
掻き
立てながらいつた。
「
夜明にひどく
冷々したつけかんな」お
品はいつて
一寸首を
擡げながら
「
俺ら
今朝はたべたかねえかんな、
汝構あねえで
出來たらたべた
方がえゝぞ」お
品はいつた。
又氷つた
飯で
雜炊が
煮られた。
「おつかあ、ちつとでもやらねえか」おつぎは
茶碗をお
袋の
枕元へ
出した。
雜炊の
焦げついたやうな
臭ひがぷんと
鼻を
衝いた
時お
品は
箸を
執つて
見ようかと
思つて
俯伏しになつて
見たが、
直に
壓になつて
畢つた。お
品が
動いたので
懷の
與吉は
泣き
出した。お
品は
俯伏した
儘乳房を
含ませた。さうして
又芋の
串を
拵へて
持たせた。
お
品が
表の
大戸を
開けさせた
時は
日がきら/\と
東隣の
森越しに
庭へ
射し
掛けてきつかりと
日蔭を
限つて
解け
殘つた
霜が
白く
見えて
居た。
庭先の
栗の
木の
枯葉からも、
枝へ
掛けた
大根の
葉からも
霜が
解けて
雫がまだぽたり/\と
垂れて
居る。
庭へ
敷いてある
庭葢の
藁も
只ぐつしりと
濕つて
居る。
冬になると
霜柱が
立つので
庭へはみんな
藁屑だの
蕎麥幹だのが一
杯に
敷かれる。それが
庭葢である。
霜柱が
庭から
先の
桑畑にぐらり/\と
倒れつゝある。
お
品は
蒲團の
中でも
滅切暖かく
成つたことを
感じた。
時々枕を
擡げて
戸口から
外を
見る。さうしては
麥藁俵の
側に
置いた
蒟蒻の
手桶をどうかすると
無意識に
見つめる。
横に
成つて
居る
目からは
東隣の
森の
梢が
妙に
變つて
見えるので
凝然と
見つめては
目が
疲れるやうに
成るので
又蒟蒻の
手桶へ
目を
移したりした。お
品はどうかして
少しでも
蒟蒻を
減らして
置きたいと
思つた。お
品は
其内に
起きられるだらうと
考へつゝ
時々うと/\と
成る。
「
切干でも
切つたもんだかな」おつぎが
庭から
大きな
聲でいつた
時お
品はふと
枕を
擡げた。それでおつぎの
聲は
意味も
解らずに
微かに
耳に
入つた。
暫くたつてからお
品は
庭でおつぎがざあと
水を
汲んでは
又間を
隔てゝざあと
水を
汲んで
居るのを
聞いた。おつぎは
大根を
洗つた。おつぎは
庭葢の
上に
筵を
敷いて
暖かい
日光に
浴しながら
切干を
切りはじめた。
大根を
横に
幾つかに
切つて、
更にそれを
竪に
割つて
短册形に
刻む。おつぎは
飯臺へ
渡した
爼板の
上へとん/\と
庖丁を
落しては
其庖丁で
白く
刻まれた
大根を
飯臺の
中へ
扱き
落す。お
品は
切干を
刻む
音を
聞いた
時先刻のは
大根を
洗つて
居たのだなと
思つた。お
品は二三
日此來もう
切干も
切らなければならないと
自分が
口について
云つて
居たことを
思ひ
出して、おつぎが
能く
機轉を
利かしたと
心で
悦んだ。
庖丁の
音が
雨戸の
外に
近く
聞える。お
品は
身體を
半分蒲團からずり
出して
見たら、
手拭で
髮を
包んで
少し
前屈みになつて
居るおつぎの
後姿が
見えた。
「
大根は
分つたのか」お
品は
聞いた。
「
分つてるよ」おつぎは
庖丁の
手を
止めて
横を
向て
返辭した。お
品は
又蒲團へくるまつた。さうしてまだ
下手な
庖丁の
音を
聞いた。お
品の
懷に
居た
與吉は
退屈してせがみ
出した。おつぎは
夫を
聞いて
「そうら、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、24-7]が
處へでも
來て
見ろ」といひながら
忙しくぽつと
一燻べ
落葉を
燃して
衣物を
灸つて
與吉へ
着せた。
「
よきは
利口だから
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、24-9]が
處に
居るんだぞ」お
品はいつた。おつぎは
自分の
筵の
上へ
抱いて
行つた。おつぎの
手は
落葉の
埃で
汚れて
居た。
再び
庖丁を
持つた
時大根には
指の
趾がついた。おつぎは
其手を
半纏で
拭つた。
與吉は
側で
刻まれた
大根へ
手を
出す。
「
危險よ、さあ
此でも
持つて
居ろ」おつぎは
切り
掛けの
大根をやつた。
與吉は
直にそれを
噛ぢつた。
「
辛くて
仕やうあんめえな
よきは」おつぎは
甘やかすやうにいつた。お
品にはそれが
能く
聞えて
二人がどんなことをして
居るのかゞ
分つた。お
品の
耳には
續いて
「ぽうんとしたか、そらそつちへ
行つちやつた」といふ
聲がしたかと
思ふと
「こんだはぽうんとすんぢやねえかんな」といふ
聲やそれから
又
「それ
持ち
出すんぢやねえ、
聽かねえと
此で
切つてやんぞ、
赤まんまが
出るぞおゝ
痛え」
抔とおつぎのいふのが
聞えた。
其度に
庖丁の
音が
止む。お
品には
與吉が
惡戯をしたり、おつぎが
痛いといつて
指を
啣へて
見せれば
與吉も
自分の
手を
口へ
當て
居るのが
目に
見えるやうである。お
品はおつぎを
平常から
八釜敷して
居たので
餘所の
子よりも
割合に
動けると
思つて
居るけれど、
與吉と
巫山戯たりして
居るのを
見るとまだ
子供だといふことが
念頭に
浮ぶ。
自分が
勘次と
相知つたのは十六の
秋である。おつぎは
恁うして
大人らしく
成るであらうかと
何時になくそんなことを
思つた。おつぎは十五であつた。
午餐もお
品は
欲しくなかつた。
自分でも
今日は
商に
出られないと
諦めた。
明日に
成つたらばと
思つて
居た。
然しそれは
空頼であつた。お
品は
依然として
枕を
離れられない。
有繋に
不安の
念が
先に
立つた。お
品はつい
近頃行つた
勘次の
事が
頻りに
思ひ
出されて、こつちであれ
程働いて
行つたのに
屹度休みもしないで
錢取をして
居るのだらうと
思ふと、
寒くてもシヤツ
一つになつて、
後には
其シヤツの
端が
拔け
出して
能く
臍が
出ることや、
夜になると
能く
骨がみり/\する
樣だといつたことが
目の
前にあるやうで
何だか
逢ひたくて
堪らぬやうな
心持がするのであつた。
勘次は
利根川の
開鑿工事へ
行つて
居た。
秋の
頃から
土方が
勸誘に
來て
大分甘い
噺をされたので
此の
近村からも五六
人募集に
應じた。
勘次は
工事がどんなことかも
能く
知らなかつたが一
日の
手間が五十
錢以上にもなるといふので、それが
其季節としては
法外な
値段なのに
惚れ
込んで
畢つたのである。
工事の
場所は
霞ヶ
浦に
近い
低地で、
洪水が一
旦岸の
草を
沒すと
湖水は
擴大して
川と
一つに
只白々と
氾濫するのを、
人工で
築かれた
堤防が
僅に
湖水と
川とを
區別するあたりである。
勘次は
自分の
土地と
比較して
茫々たるあたりの
容子に
呑まれた。さうして
工夫等に
權柄にこき
使はれた。
勘次は
愈傭はれて
行くとなつた
時收穫を
急いだ。
冬至が
近づく
頃には
田はいふまでもなく
畑の
芋でも
大根でもそれぞれ
始末しなくてはならぬ。
勘次はお
品が
起きて
竈の
火を
點けるうちには
庭葢へ
籾の
筵を
干したりそれから
獨りで
磨臼を
挽いたりして、それから
大根も
干したり
土へ
活けたりして
闇いから
闇いまで
働いた。それでも
籾が
少しと
畑が
少し
殘つたのをお
品がどうにかするといつたので
出て
行つたのである。
工事の
箇所へは廿
里もあつた。
勘次は
行けば
直に
錢になると
思つたので
漸く一
圓ばかりの
財布を
懷にした。
辨當をうんと
背負つたので
目的地へつくまでは
渡錢の
外には一
錢も
要らなかつた。
勘次は
夜ついて
其次の
日には
疲れた
身體で
仕事に
出た。
彼は
半日でも
無駄な
飯を
喰ふことを
恐れた。
然し
其の
次の
日は
過激な
勞働から
俗に
そら手というて
手の
筋が
痛んだので二三
日仕事に
出られなかつた。それから六七
日たつて
烈しい
西風が
吹いた。
勘次は
薄い
蒲團へくるまつて
日の
中から
冷えてた
足が
暖らなかつた。うと/\と
熟睡することも
出來ないで
輾轉して
長い
夜を
漸く
明した。
其の
次の
日彼は
硬ばつたやうに
感ずる
手を
動かして
冷たいシヤブルの
柄を
執つて
泥にくるまつて
居た。さうして
居る
處へ
村の
近所のものがひよつこり
尋ねて
來たので
彼は
狐にでも
魅まれたやうに
只驚いた。
近所の
者は
大勢が
只泥のやうになつて
動いて
居るのでどれがどうとも
識別がつかないで
困つたといつて、
勘次に
逢うたことを
反覆して
只悦んだ。
途中へ
一晩泊つたといふやうなことをいつて
勘次が
心忙しく
聞く
迄は
理由をいはなかつた。
勘次は
漸くお
品に
頼まれて
來たのだといふことを
知つた。
勘次はお
品が
病氣に
罹つたのだといふのを
聞いて
萬一かといふ
懸念がぎつくり
胸にこたへた。さうして
反覆してどんな
鹽梅だと
聞いた。
噺の
容子ではそれ
程でもないのかと
思つても
見たが、それでも
勘次は
口を
利くにも
唾が
喉からぐつと
突つ
返して
來るやうで
落付かれなかつた。
其の
日の
夜中に
彼等は
立つた。
勘次は
自分も
急ぐし
使を
疲れた
足で
歩かせることも
出來ないので
霞ヶ
浦を
汽船で
土浦の
町へ
出た。
夜は
汽船で
明けたがどうしたのか
途中で
故障が
出來たので
土浦へ
着いたのは
豫定の
時間よりは
遙に
後れて
居た。
土浦の
町で
勘次は
鰯を
一包み
買つて
手拭で
括つてぶらさげた。
土浦から
彼は
疲れた
足を
後に
捨てゝ
自分は
力の
限り
歩いた。それでも
村へはひつた
時は
行き
違ふ
人がぼんやり
分る
位で
自分の
戸口に
立つた
時は
薄暗い
手ランプが
柱に
懸つて
燻ぶつて
居た。
勘次はひつそりとした
家のなかに
直に
蒲團へくるまつて
居るお
品の
姿を
見た。それからお
品の
足を
揣つて
居るおつぎに
目を
移した。
勘次は
大戸をがらりと
開けて
閾を
跨いだ
時何もいはずに
只
「どうしてえ」といふのが
先であつた。お
品は
勘次の
聲を
聞いて
思はず
枕を
動かして
「
勘次さんか」といつて
更に
「
南のおとつゝあは
行き
違にでもならなかつたんべかな」といつた。
「
行逢つたよ。そんだがお
前どんな
鹽梅なんでえ」
「
俺らそれ
程でねえと
思つて
居たが
三四日横に
成つた
切でなあ、それでも
今日等はちつたあえゝやうだから
此分ぢや
直に
吹つ
返すかとも
思つてんのよ」
「そんぢやよかつた、
俺ら
只ぢや
歩いてもよかつたが、
南こと
又歩かせちや
濟まねえから
同志に
土浦まで
汽船で
乘つ
着けたんだが、
南は
草臥れたもんだから
俺ら
先へ
出たんだがな、
南もあの
分ぢや
今夜もなか/\
容易ぢやあんめえよ、それに
汽舩が
又後れつちやつてな」
勘次はいひながら
草鞋をとつた。
手拭の
端へ
括つて
來た
鰯の
包みをかさりとお
品の
枕元へ
投げて、
首へつけて
居た
風呂敷包をどさりと
置いて
勘次は
庭へ
出て
足を
洗つた。
勘次はお
品の
枕元へ
座を
占めた。
「そんなに
惡くなくつちやそれでもよかつた、
俺らどうしたかと
思つてな」
勘次は
改めて
又いつた。
「お
品おまんまは
喰べてか」
勘次はつけ
足した。
「
先刻おつうに
米のお
粥炊いて
貰つてそれでもやつと
掻つ
込んだところだよ」
「それぢやどうした、
途中で
見付けて
來たんだから一
疋やつて
見ねえか」
勘次は
手ランプをお
品の
枕元へ
持つて
來て
鰯の
包を
解いた。
鰯は
手ランプの
光できら/\と
青く
見えた。
「ほんによなあ」お
品は
俯伏しになつて
恁ういつた。
「おつう、
其處へ
火でも
吹つたけて
見ねえか」
勘次はいつた。
「
勘次さんそら
大變だつけな、
俺らそんなにや
要らなかつたな」
「
今だから
何時までも
保つよ、さうしてお
前も
力つけろな」
「
汽船に
乘つて
來たつて
餘つ
程費用も
掛つたんべな」
「さうよ、
二人で六十
錢ばかりだが
此は
俺出したのよ、
南に
出させる
譯にも
行かねえかんな」
「それぢや
稼えだ
錢それだけ
立投にしつちやつたな」
「そんでも
財布にやまあだ
有るよ、
七日ばかり
働えてそれでも二
兩は
殘つたかんな、そんで
又行く
筈で
前借少しして
來たんだ、こつちの
方から
行つてる
連中が
保證してくれてな」
勘次は
誇り
顏にいつた。
「
俺ら
今日見てえだらえゝが、
酷く
行逢ひたくなつてなあ」お
品は
俯伏した
額を
枕につけた。
「どうせ
此處らの
始末もしねえで
行つたんだから、
一遍は
途中で
歸つて
見なくつちや
成らねえのがだから
同じ
事だよ」
勘次はお
品を
覗き
込やうにしていつた。
「それでも
俵にしちや
置いたな」
勘次は
壁際の
麥藁俵を
見ていつた。お
品はまだ
俯伏した
儘である。
「あつちに
居ちや
錢は
要らねえな、
煙草一
服吸ふべえぢやなし、十五
日目が
晦日でそれまでは
勘定なしで
其間は
米でも
薪でもみんな
通帳で
借りて
置く
位なんだから、十五
日目に
成らなくつちや
財布も
膨れねえが、
又百でも
出つこはねえかんな」
勘次は
更に
出先のことをお
品へ
聞かせた。
「
米ばかり
炊えても
毎日一
升づゝは
要る
位だから
骨も
隨分折れんが
出せえすりや二
貫と三
貫は
殘せつから、
歸るまでにや
俺もどうにか
成ると
思つてんのよ、さうすりや
鹽鮭位は
買あことも
出來らな」
「そんぢやよかつた、
土方なんちや
碌な
奴等は
居ねえつていふからどうしたかと
思つてな」お
品は
首を
擡げた。
「そんな
奴等と
交際した
日にや
限はねえが、
隅の
方にちゞまつてりや
何ともゆはねえな」
勘次がついて
居る
間におつぎは
枯粗朶を
折て
火鉢へ
火を
起した。
勘次は
火箸を
渡して
鰯を
三つばかり
乘せた。
鰯の
油がぢり/\と
垂れて
青い
焔が
立つた。
鰯の
臭が
薄い
煙と
共に
室内に
滿ちた。さうして
其臭がお
品の
食慾を
促した。お
品は
俯伏したなりで
煙臭くなつた
鰯を
喰べた。
「どうした
鹽辛かあ
有んめえ」
「
有繋佳味えな」
「
此でもこゝらの
商人は
持つちや
來ねえぞ」
勘次は
一心に
見ながらいつた。
お
品は
二匹へ
手をつけて
箸を
置きながら
懷で
眠つて
居る
與吉を
覗いて
「
起きて
居たら
大騷ぎだんべ」といつた。
「いまつとたべろな」
勘次はいつた。
「
澤山だよ、おつうげもやつてくろうな」
「
俺も
飯でも
食はうかえ」
勘次は
風呂敷包から
辨當の
殘を
出して
冷たい
儘ぷす/\と
噛つた。
「おうつ、お
茶は
冷めたくなつたつけかな」お
品はいつた。
「
要ねえぞ
仕事に
出りや
毎日かうだ」
勘次は
梅干を
少しづゝ
嘗め
減らした。
辨當が
盡きてから
勘次は
鰯をおつぎへ
挾んでやつた。さうして
自分でも一
口たべた。
「
此りや
佳味えこたあ
佳味えが
餘りあまくつて
俺がにや
胸が
惡くなるやうだな」
勘次は
冷めた
湯を
幾杯か
傾けた。
勘次は
風呂敷から
袋を
出してお
品の
枕元へ
置いて
「
米これだけ
殘つたから
持つて
來たんだ、あつちに
居ればえゝが
幾日でも
明けると
炊かれつちやつても
仕やうねえかんな、そんぢや
此りやおつうげやつて
置くんだ」
勘次は
米の
小さな
袋をおつぎへ
渡した。
「
袋なんぞ
又何だと
思つたよ」お
品は
輕くいつた。
「それでも
薪は
持つて
來る
譯にも
行かねえから
置いて
來つちやつた」
勘次は
自ら
嘲るやうに
目から
口へ
掛けて
冷たい
笑が
動いた。
「お
品、
足でもさすつてやんべぢやねえか」
勘次はお
品の
裾の
方へ
行つた。
「えゝよ
勘次さん、
俺ら
今日は
日のうちから
心持えゝんだから、
先刻もおつうが
揣つてやんべなんていふもんだから少しもやつてくろつて
云つた
處だよ、こんぢや
二三日も
過ぎたら
勘次さんは
又行けべえよ」お
品は
快よげにいつた。
「
今夜はひどく
心持えゝんだよ、えゝよ
本當だよ
勘次さん、お
前草臥たんべえな」
更にお
品は
威勢がついていつた。
夜は
深けた。
外の
闇は
氷つたかと
思ふやうに
只しんとした。
蒟蒻の
水にも
紙の
如き
氷が
閉ぢた。
次の
朝霜は
白く
庭葢の
藁におりた。
切干の
筵は
三枚ばかり
其庭葢の
上に
敷いた
儘で、
切干には
氷を
粉末にしたやうな
霜が
凝つて
居て、
東の
森の
隙間から
射し
透す
朝日にきら/\と
光つた。
白い
切干は
蒸さずに
干したのであつた。
切干は
雨が
降らねば
埃だらけに
成らうが
芥が
交らうが
晝も
夜も
筵は
敷き
放しである。
勘次は
霜柱の
立てる
小徑を
南へ
行つた。
昨夜遲かつたことやら
何やら
噺をして
暇どつた。
庭先から
續く
小さな
桑畑の
向に
家が
見えるので、
平生それを
勘次の
家でも
唯南とのみいつて
居る。
彼が
薦つくこ
[#「薦つくこ」に傍点]を
擔いで
歸つて
來た
時は
日向の
霜が
少し
解けて
粘ついて
居た。お
品は
勘次が
一寸の
間居なく
成つたので
酷く
寂しかつた。
此の
朝になつてからもお
品の
容態がいゝので
勘次はほつと
安心した。さうして
斜に
遠くから
射す
冬の
日を
浴びながら
庭葢の
上に
筵を
敷いて
俵を
編みはじめた。
薦つくこは
兩端に
足が
附いて
居る。
丁度荷鞍の
骨のやうな
簡單な
道具である。
其足から
足へ
渡した
棒へ
藁を
一掴みづゝ
當てゝは
八人坊主をあつちへこつちへ
打つ
違ひながら
繩を
締めつゝ
編むのである。
八人坊主といふのは
其繩を
捲いたいはゞ
小さな
錘である、
八つあるので
八人坊主といつて
居る。
小作米を
入れる
藁俵を四五
俵分作らねば
成らぬことが
稼ぎに
出る
時から
彼には
心掛りであつた。すぐつた
藁も
繩も
別に
取つて
置きながら
只忙しくて
放棄つて
出て
行つたのである。
お
品は
毎日閉め
切つて
居た
表の
雨戸を一
枚だけ
開けさせた。からりとした
蒼い
空が
見えて
日が
自分の
居る
蒲團に
近くまで
偃つた。お
品は
此れまでは
明るい
外を
見ようと
思ふには
餘りに
心が
鬱して
居た。お
品は
庭先の
栗の
木から
垂れた
大根が
褐色に
干て
居るのを
見た。おつぎも
勘次の
横へ
筵を
敷いて
又大根を
切つて
居る。
其庖丁のとん/\と
鳴る
間に
忙しく
八人坊主を
動かしてはさらさらと
藁を
扱く
音が
微かに
交つて
聞える。お
品は
二人の
姿を
前にして
酷く
心強く
感じた。
其の
日は
栗の
木に
懸けた
大根の
動かぬ
程穩かな
日であつた。お
品は
此の
分で
行けば
一枚紙を
剥がすやうに
快よくなることゝ
確信した。
勘次は
藁俵を
編み
了へて、さうして
端を
縛つた
小さな
藁の
束を
丸く
開いて、それを
足の
底に
踏んで
踵を
中心に
手と
足とを
筆規のやうにしてぐる/\と
廻りながら
丸い
俵ぼつちを
作つた。
勘次はお
品がどうにか
始末をして
置いた
麥藁俵を
明けて
仕上げた
計りの
藁俵へ
米を
量り
込んだ。
米には
赤い
粒もあつたが
籾が
少し
交つて
居てそれが
目に
立つた。
「
籾が
少し
たかゝつたな」
勘次はふとさういつた。
「さうだつけかな、それでも
俺ら
唐箕は
強く
立てた
積なんだがなよ、
今年は
赤も
夥多だが
磨臼の
切れ
方もどういふもんだか
惡いんだよ」とお
品は
少し
身を
動かして
分疏するやうにいつた。
「
尤も
此位ぢや
旦那も
大目に
見てくれべえから
心配はあんめえがなよ」
勘次は
直にお
品の
病氣に
心付いて
恁ういつた。
壁際には
藁の
器用な
俵が
規則正しく
積み
換られた。お
品はそれを一
心に
見た。それもお
品を
快よくする
一つであつた。
勘次は
俵の
側な手桶の
蓋をとつて
「
此りや
蒟蒻だな」といつた。
「
俺らそれ
仕入たつきり
起られねえんだよ」お
品は
枕を
手で
動かしていつた。
勘次は
又葢をした。
靜かな
空をぢり/\と
移つて
行く
日が
傾いたかと
思ふと一
散に
落ちはじめた。
冬の
日はもう
短い
頂點に
達して
居るのである。
勘次はまだ
日が
有るからといつて
鍬を
擔いで
麥畑へ
出た。
然し
幾らも
耕さぬうちに
日は
落ちて
俄かに
冷たく
成つた
世間は
暗澹として
來た。お
品は
勘次を
出して
酷く
遣瀬ないやうな
心持になつて、
雨戸を
引せて
闇い
方へ
向て
目を
閉ぢた。
冬至はもう
間が二日しか
無くなつた。
朝の
内に
勘次は
蒟蒻の
葢をとつて
見て
「どうしたもんだかな、
俺でも
擔いて
歩つてんべかな、
恁して
置いたんぢや
仕やうねえかんな」お
品へ
相談して
見た。
「さうよな、それよりか
俺らどつちかつちつたら
大根でも
漬て
貰へてえな、
毎日栗の
木見て
居て
干過ぎやしめえかと
思つて
心配してんだからよ」お
品は
訴へるやうにいつてさうして
更に
「
自分で
丈夫でせえありや
疾くにやつちまつたんだが」と
小聲でいつた。お
品はどうも
勘次を
出すのが
厭であつた。
然し
何だかさう
明白地にもいはれないので
恁ういつたのであつた。
「
勘次さん
鹽見てくんねえか、
俺ら
大丈夫有ると
思つてたつけがなよ、それからこつちの
桶の
糠がえゝんだよ、そつちのがにや
房州砂交つてんだから」お
品はいつた。
「おうい」
勘次はいつて、
「
房州砂でも
何でも
構あめえ、どうで
糠喰ふんぢやあんめえし、それにこつちなちつと
凝結つてら」
「
勘次さんそんでも
入えんなよ、
毒だつちんだから、
俺折角別にしてたんだから」お
品は
少し
身を
起し
掛けていつた。
「さうかそんぢやさうすべよ」それから
鹽を
改めて
見て
「どうして
此れだけ
使へ
切れるもんけえ」と
勘次はいつた。お
品は
勘次が
梯子を
掛けて
一つ/\に
大根を
外すのも
小糠を
筵へ
量るのも
白い
鹽を
小糠へ
交ぜるのも
滿足氣に
見て
居た。
お
品は
勘次を
外へ
遣るのが
厭なのでさうはいはずに
時々おつぎに
足をさすらせた。さうすると
勘次は
「どうした
幾らか
惡いのか」と
自分も一
心に
蒲團の
裾へ
手を
掛ける。
勘次は
庭から
外へは
出られなかつた。
それでも
冬至が
明日と
迫つた
日に
勘次は
蒟蒻を
持つて
出た。お
品もそれは
止めなかつた。もう
幾人か
歩いた
後なので、
思ふやうには
捌けなかつたがそれでも
勘次はお
品にひかされて、まだ
殘つて
居る
蒟蒻を
擔いで
歸つて
來て
畢つた。
「
蒟蒻はお
品がもんだから、
錢はみんなおめえげ
遣つて
置くべ」
勘次は
銅貨をぢやら/\とお
品の
枕元へ
明けた。お
品は
銅貨を一つ/\
勘定した。さうして
資本を
引いても
幾らかの
剩餘があつたので
「
勘次さん
思ひの
外だつけな、まあだあと
餘程あんべえか」といつた。
「
幾らでもねえな、はあ
此丈ぢや
又出る
程のこつてもあんめえよ」
勘次はいつた。お
品は
自分の
手で
錢を
蒲團の
下へ
入れた。
其の
日お
品は
勘次を
出して
情ないやうな
心持がして
居たのであるが、
思つたよりは
商をして
來て
呉れたので一
日の
不足が
全く
恢復された。さうして
「
菜は
畑へ
置きつ
放しだつけべな」
勘次がいつた
時お
品も
驚いたやうに
「ほんにさうだつけなまあ、
後れつちやつたつけなあ、
俺ら
忘れてたつけが
大丈夫だんべかなあ」といつた。
「そんぢや
俺ら
今つからでも
曳ける
丈曳くべ」
勘次はおつぎを
連れて
出た。
冬至になるまで
畑の
菜を
打棄つて
置くものは
村には
一人もないのであつた。
勘次は
荷車を
借りて
黄昏までに二
車挽いた。
青菜の
下葉はもうよく/\
黄色に
枯れて
居た。お
品は
二人を
出し
薄暗くなつた
家にぼつさりして
居ても
畑の
收穫を
思案して
寂しい
不足を
感じはしなかつた。
夏季の
忙しいさうして
野菜の
缺乏した
時には
彼等の
唯一の
副食物が
鹽を
噛むやうな
漬物に
限られて
居るので、
大根でも
青菜でも
比較的餘計な
蓄へをすることが
彼等には
重大な
條件の
一つに
成つてるのである。
冬至の
日も
靜かであつた。
此の
頃になつてから
此處ばかりは
忘れたかと
思ふやうに
西風が
止んで
居る。
晝の
一しきりは
冷たい
空氣を
透して
日が
暖かに
射し
掛けた。お
品は
朝から
心持が
晴々して
日が
昇るに
連れて
蒲團へ
起き
直つて
見たが、
身體が
力の
無いながらに
妙に
輕く
成つたことを
感じた。
自分の
蒲團の
側まで
射し
込む
日に
誘ひ
出されたやうに、
雨戸の
閾際まで
出て
與吉を
抱いては
倒して
見たり、
擽つて
見たりして
騷がした。
勘次はおつぎを
相手に
井戸端で
青菜の
始末をして
居る。
根を
切つて
桶で
洗つた
青菜は、
地べたへ
横へた
梯子の
上に一
枚外して
行つて
載せた
其戸板へ
積まれた。
菜が
洗ひ
畢つた
時枯葉の
多いやうなのは
皆釜で
茹でゝ
後の
林の
楢の
幹へ
繩を
渡して
干菜に
掛けた。
自分等の
晝餐の
菜にも
一釜茹でた。お
品は
僅な
日數を
横に
成つて
居たばかりに
目が
衰へたものか
日の
稍眩いのを
感じつゝ
其の
日の
光を
全身に
浴びながら
二人のするのを
見て
居た。さうして
茹菜の
一皿が
幾らか
渇を
覺えた
所爲か
非常に
佳味く
感じた。
青菜の
水が
切れたので
勘次は
桶へ
鹽を
振つては
青菜を
足でぎり/\と
蹂みつけて
又鹽を
振つては
蹂みつける。お
品は
鹽の
加減やら
何やら
先刻から
頻りに
口を
出して
居る。
勘次はお
品のいふ
通りに
運んで
居る。
お
品は
起きて
居ても
別に
疲れもしないのでそつと
草履を
穿いて
後の
戸口から
出て
楢の
木へ
引つ
張つた
干菜を
見た。それから
林を
斜に
田の
端へおりて
又牛胡頽子の
側に
立つて
其處をそつと
踏み
固めた。それから
暫く
周圍を
見て
立つて
居た。お
品は
庭先から
喚ぶ
勘次の
大きな
聲を
聞いた。
竹や
木の
幹に
手を
掛けながら
斜めに
林をのぼつて
後の
戸口から
家へもどつた
時更に
叫んだ
勘次の
聲を
聞くと
共に、
天秤を
擔いだ
儘ぼんやり
立つて
居る
商人の
姿を
庭葢の
上に
見た。
「お
品卵欲しいと」
勘次は
次の
桶の
青菜に
鹽を
振り
掛けながらいつた。
「
幾らか
有つたつけな」お
品は
戸棚の
抽斗から
白い
皮の
卵を廿ばかり
出した。
「おつう、四五日
見ねえで
居たつけが
塒にも
幾らか
有つたつけべ、あがつて
見ねえか」おつぎに
吩附けた。おつぎは
米俵へ
登つて
其上に
低く
釣つた
竹籃の
塒を
覗いた
時、
牝
が一
羽けたゝましく
飛び
出して
後の
楢の
木の
中へ
鳴き
込んだ。
他の
鷄も一しきり
共に
喧しく
鳴いた。おつぎは
手を
延ばしては
卵を一つ/\に
取つて
袂へ
入れた。おつぎは
袂をぶら/\させて
危相に
米俵を
降りた。
其處にも
卵は六つばかりあつた。
商人は
卸した四
角なぼて
笊から
眞鍮の
皿と
鍵が
吊された
秤を
出した。
「
掛は
幾らだね」お
品は
聞いた。
「十一
半さ、
近頃どうも
安くつてな」
商人はいひながら
淺い
目笊へ
卵を
入れて
萠黄の
紐の
たどりを
持つて
秤の
棹を
目八
分にして、さうして
分銅の
絲をぎつと
抑へた
儘銀色の
目を
數へた。
玩具のやうな
小さな
十露盤を
出して
商人は
「
皆掛が四百廿三
匁二
分だからなそれ」
秤の
目をお
品に
見せて
十露盤の
玉を
彈いた。
「
風袋を
引くと四百八
匁二
分か、どうした
幾つだ廿六かな、さうすると
一つが」
商人のいひ
畢らぬうちにお
品は
「
幾らなんでえ、
此の
風袋は」と
聞いた。
「十五
匁だな」
「
大概十
匁ぢやねえけえ」
「そんだら
見さつせえそれ、十五
匁だんべ、
俺がな
他人のがよりや
大けえんだかんな」
商人は
目笊の
目を
掛けて
見せて
「はて、一つ十五
匁七
分づゝだ、
粒は
小せえ
方だな」
商人はゆつくり
十露盤の
玉を
彈いて
「四十六
錢八
厘六
毛三
朱と
成るんだが、
此りや八
厘として
貰つてな」と
商人は
財布から
自分の
手へ
錢を
明けた。
「お
品おめえ
自分でも
喰つたらよかねえけ、
幾つでも
取つて
置けな」
勘次は
鹽だらけにした
手を
止めて
遠くから
呶鳴つた。
「
此の
錢で
外の
物買つて
喰つた
方がえゝから
此れ
丈は
遣るとすべえよ、
折角勘定もしたもんだからよ、
俺ら
大層よくなつたんだから
大丈夫だよ」お
品はいつた。
「そんなこといはねえで
幾つでも
取つて
置けよ、
癒り
際が
氣を
附けねえぢやえかねえもんだから」
勘次は
漬菜の
手を
放して
檐下へ
來た。
手も
足も
茹でたやうに
赤くなつて
居る。
「それぢやちつとも
殘したものかな」お
品は
小さなのを二つ
取つた。
「そんなんぢやねえのとれな」
勘次は
大きなのを
選んで三つとつた。
卵の
皮には
手の
鹽が
少し
附いた。
「そんぢやそれ
掛けてんべ」
商人は
今度は
眞鍮の
皿へ
卵を
乘せて
「こつちなんぞぢや、
後幾らでも
出來らあな」といひながら
たどりを
持つた。
卵が
少し
動くと
秤の
棹がぐら/\と
落付かない。
「
誤魔化しちや
厭だぞ」お
品は
寂しく
笑ひながらいつた。
「どうしておめえ、
此の
秤なんざあ
檢査したばかりだもの一
分でも
此の
通り
跳ねたり
垂れたりして、どうして
飛んだ
噺だ」
商人は
分銅の
手を
抑へて
又目を
讀んだ。
「五十
匁一
分だな、さうすつと
一つ十六
匁七
分づゝだ、
大けえからな」
「
鹽がくつゝいてつから
鹽の
目方もあんぞ」
勘次は
側からいつて
笑つた。
商人は
平然として
居る。
「五
錢五
厘六
毛幾らつていふんだ、さうすつと
先刻のは
幾らの
勘定だつけな」
「四十六
錢八
厘幾らとか
言たつけな」お
品は
直にいつた。
「それぢや
差引四十一
錢三
厘小端か、こつちのおつかさま
自分でも
商してつから
記憶がえゝやな」
商人は
十露盤を
持つて
「どうしたえ、
鹽梅でも
惡いやうだが
風邪でも
引いたんぢやあんめえ」といつた。
「うむ、
少し
惡くつて
仕やうねえのよ」お
品はいつて
「
小端は
幾らになんでえ」と
更に
聞いた。
「
勘定にや
成んねえなどうも、
近頃は
仕やうねえよ
文久錢だの
青錢だのつちうのが
薩張出なくなつちやつてな、それから
何處へ
行つても
恁して
置くんだ」
商人がぼて
笊から
燐寸を
出さうとすると
「
又燐寸ぢやあんめえ」お
品は
微笑した。
「こまけえ
勘定にや
近頃燐寸と
極めて
置くんだが、
何處の
商人もさうのやうだな」
商人は
卵を
笊へ
入れながらいひ
續けた。
「
酷く
安くなつちやつたな、
寒く
成つちや
保存がえゝのに
却て
安いつちうんだから
丸で
反對になつちやつたんだな」
勘次は
青菜を
桶へ
並べつゝいつた。
「
上海がへえつちやぐつと
値が
下つちやつてな、あつちぢやどれ
程安いもんだかよ、
品が
少ねえ
時に
安くなるつちうんだから
商人も
儲からねえ」
天秤を
擔いで
彼は
又更に
「
相場が
下げ
氣味の
時にやうつかりすつと
損物だかんな、なんでも
百姓して
穀積んで
置く
者が一
等だよ、
卵拾ひもなあ、
赤痢でも
流行つて
來てな、
看護婦だの
巡査だの
役場員だのつちう
奴等病人の
口でもひねつてみつしり
喰つてゞも
呉んなくつちや
商人は
駄目だよ」
商人は
行き
掛けて
「また
溜めて
置いておくんなせえ」
今度は
少し
叮寧にいひ
捨てゝ
去つた。
お
品は
錢を
蒲團の
下の
巾着へ
入れた。さうして
棚から
まるめ箱を
卸して三つの
白い
卵を
入れた。
以前は
此の
土地でも
綿が
採れたので、
夜なべには
女が
皆竹
で
絲を
引いた。
綿打弓でびんびんとほかした
綿は
箸のやうな
棒を
心にして
蝋燭位の
大きさにくる/\と
丸める。それが
まるめである。
此の
まるめから
不器用な
百姓の
手が
自在に
絲を
引いた。
此の
頃では
綿がすつかり
採れなくなつたので、
まるめ箱も
煤けた
儘稀に
保存されて
居るのも
絲屑や
布の
切端が
入れてある
位に
過ぎないのである。お
品はそれから
膨れた
巾着の
爲めに
跳ねあげられた
蒲團の
端を
手で
抑へた。それから
又横になつた。
先刻から
疲勞したやうな
心持に
成つて
居たが
横になると
身體が
溶けるやうにぐつたりして
微かに
快よかつた。
其の
晩一
年中の
臟腑の
砂拂だといふ
冬至の
蒟蒻を
皆で
喰べた。お
品は
喰の
日は
明日からでも
起きられるやうに
思つて
居た。さうして
勘次は
仕事の
埓が
明いたので
又利根川へ
行かれることゝ
心に
期して
居た。
お
品の
容態は
其の
夜から
激變した。
勘次が
漸く
眠に
落ちた
時お
品は
「
口が
開けなく
成つて
仕やうねえよう」と
情ない
聲でいつた。お
品は
顎が
釘附にされたやうに
成つて、
唾を
飮むにも
喉が
狹められたやうに
感じた。それで
自分にもどうすることも
出來ないのに
驚いた。
勘次も
吃驚して
起きた。
「どうしたんだよ
大層惡いのか、
朝までしつかりしてろよ」と
力をつけて
見たが、
自分でもどうしていゝのか
解らないので
只はら/\しながら
夜を
明した。
勘次は
只お
品が
心配になるので、
近所の
者を
頼んで
取り
敢ず
醫者へ
走らせた。さうして
自分は
枕元へくつゝいて
居た。
彼等は
容易なことで
醫者を
聘ぶのではなかつた。
然し
其最も
恐れを
懷くべき
金錢の
問題が
其心を
抑制するには
勘次は
餘りに
慌てゝ
且驚いて
居た。
醫者は
鬼怒川を
越えて
東に
居る。
勘次は
草臥れやしないかといつてはお
品の
足をさすつた。それでもお
品の
大儀相な
容子が
彼の
臆した
心にびり/\と
響いて、
迚も
午後までは
凝然として
居ることが
出來なくなつた。
近所の
女房が
見に
來て
呉れたのを
幸ひに
自分も
後から
走つて
行つた。
鬼怒川の
渡の
船で
先刻の
使ひと
行違に
成つた。
船から
詞が
交換された。
勘次は
醫者と一
緒に
歸るからさういつてお
品に
安心させて
呉れといつて
醫者の
門を
叩いた。
醫者は
丁度そつちへ
行く
序も
有つたからと
悠長である。
屹度行つては
呉れるにしても
其の
後に
跟いて
行くのでなくては
勘次には
不安で
堪らないのである、さうして
彼はぽつさりと
玄關に
踞つて
待つて
居ることがせめてもの
氣安めであつた。
醫者は
小さな
手鞄を一つ
持つて
古い
帽子をちよつぽり
載いて
出た。
手鞄は
勘次が
大事相に
持つた。
醫者は
特別の
出來事がなければ
俥には
乘らないので、いつも
朴齒の
日和下駄で
短い
體躯をぽく/\と
運んで
行く。それで
車錢だけでも
幾ら
助かるか
知れないといふので
貧乏な
百姓から
能く
聘れて
居るのであつた。
勘次は
途次お
品の
容態を
語つて
醫者の
判斷を
促して
見た。
醫者は一
應見なければ
分らぬといつて
五月蠅い
勘次に
返辭しなかつた。お
品の
病體に
手を
掛けると
醫者は
有繋に
首を
傾けた。それが
破傷風の
徴候であることを
知つて
恐怖心を
懷いた。さうして
自分は
注射器を
持たないからといつて
辭退して
畢つた。
勘次は
又慌てゝ
他の
醫者へ
駈けつけた。
其の
醫者は
鉛筆で
手帖の
端へ
一寸書きつけて、それでは
直に
此を
藥舖で
買つて
來るのだといつた。それから
自分の
家へ
此を
出せば
渡して
呉れるものがあるからと
此も
手帖の
端を
裂いた。
勘次は
又川を
越えて
走つた。
藥舖では
罎へ
入れた
藥を
二包渡して
呉れた。
一罎が七十五
錢づゝだといはれて、
勘次は
懷が
急にげつそりと
減つた
心持がした。
彼は
蜻蛉返りに
歸つて
來た。
醫者の
家からは
注射器を
渡してくれた。
他の
病家を
診て
醫者は
夕刻に
來た。
醫者はお
品の
大腿部を
濕したガーゼで
拭つてぎつと
肉を
抓み
上げて
針をぷつりと
刺した。
暫くして
針を
拔いて
指の
先で
針の
趾を
抑へて
其處へ
絆創膏を
貼つた。それが
凡て
薄闇い
手ランプの
光で
行はれた。
勘次に
手ランプを
近づけさせて
醫者はやつと
注射を
畢つた。
翌日の
午前に
來て
醫者は
復注射をして
大抵此れでよからうといつて
去つた。
然しお
品の
容態は
依然として
恢復の
徴候がないのみでなく
次第に
大儀相に
見えはじめた。お
品は
其の
夕刻から
俄かに
痙攣が
起つた。
身體がびり/\と
撼ぎながら
手も
足も
引き
緊められるやうに
後へ
反つた。
痙攣は
時々發作した。
其度毎に
病人は
見て
居られない
程苦惱する。
顏が
妙に
蹙んで
口が
無理に
横へ
引き
吊られるやうに
見える。
勘次はたつた
一人のおつぎを
相手に
手の
出しやうもなかつた。さうしてしら/\
明けといふと
直に
又醫者へ
駈けつけた。
醫者は
復藥舖へ
行つて
來いといつた。
勘次は
又飛んで
行つた。
然し
其の二
號の
血清は
何處にも
品切であつた。それは
或期間を
經過すれば
効力が
無くなるので
餘計な
仕入もしないのだと
藥舖ではいつた。それに
値段が
不廉ものだからといふのであつた。
勘次はそれでも
幾ら
位するものかと
思つて
聞いたら
一罎が三
圓だといつた。
勘次は
例令品物が
有つた
處で、
自分の
現在の
力では
到底それは
求められなかつたかも
知れぬと
今更のやうに
喫驚して
懷へ
手を
入れて
見た。
醫者は
更に
勘次を
藥舖へ
走らせた。
勘次は
只醫者のいふが
儘に
息せき
切つて
駈けて
歩く
間が、
屹度どうにか
防ぎをつけてくれるだらうとの
恃もあるので
僅に
自分の
心を
慰め
得る
唯一の
機會であつた。
醫者は一
號の
倍量を
注射した。
然しそれは
徒勞であつた。
病人の
發作は
間が
短くなつた。
病人は
其度に
呼吸に
壓迫を
感じた。
近所の
者も三四
人で
苦惱する
枕元に
居て
皆憂愁に
包まれた。お
品は
突然
「
野田へは
知らせてくれめえか」と
聞いた。
勘次も
近所の
者も
卯平へ
知らせることも
忘れて
只苦惱する
病人を
前に
控へて
困つて
居るのみであつた。
「
明日は
屹度來るやうにいつて
遣つたよ」
勘次はお
品の
耳へ
口を
當ていつた。
今更のやうに
近所の
者が
頼まれて
夜通しにも
行くといふことに
成つた。
次の
日の
午餐過に
卯平は
使と
共にのつそりと
其の
長大な
躯幹を
表の
戸口に
運ばせた。
彼は
閾を
跨ぐと
共に、
其時はもう
只痛い/\というて
泣訴して
居る
病人の
聲を
聞いた。
「
何處が
痛いんだ、
少しさすらせて
見つか」
勘次が
聞いても
「
背中が
仕やうがねえんだよ」と
病人はいふのみである。
「お
品さん、おとつゝあ
來たよ、
確乎しろよ」と
近所の
女房がいつた。それを
聞いてお
品は
暫時靜かに
成つた。
「
品どうしたえ、
大儀えのか」
寡言な
卯平は
此だけいつた。
「おとつゝあ
待つてたよ、
俺ら
仕やうねえよ」お
品は
情なさ
相にいつた。
「うむ、
困つたなあ」
卯平は
深い
皺を
蹙めていつた。さうして
後は一
言もいはない。お
品の
病状は
段々險惡に
陷つた。
醫者はモルヒネの
注射をして
僅に
睡眠の
状態を
保たせて
其の
苦痛から
遁れさせようとした。それでも
暫くすると
病人は
復た
意識を
恢復して、びり/\と
身體を
撼はせて、
太い
繩でぐつと
吊されたかと
思ふやうに
後へ
反つて、
其劇烈な
痙攣に
苦しめられた。
「
先生さん、わたしや
此れでもどうしたものでがせうね」お
品は
突然に
聞いた。
醫者は
只口髭を
捻つて
默つて
居た。
「どうでせうね
先生さん」
勘次も
聞いた。
「まあ
大丈夫だらうつて
病人へだけはいつて
居たらいゝでせう」
醫者は
耳語いた。
「お
品、
大丈夫だとよ、
夫から
我慢して
確乎してろとよ」
勘次は
病人の
耳で
呶鳴つた。
「そんでも
俺ら
明日の
日まではとつても
持たねえと
思ふよ。
本當に
俺ら
大儀いゝなあ」お
品は
切な
相にいつた。
齒の
間を
漸くに
洩れる
聲は
悲しい
響を
傳へて
然かも
意識は
明瞭であることを
示した。
醫者は
遂に
極量のモルヒネを
注射して
去つた。
夜になつて
痙攣は
間斷なく
發作した。
熱度は
非常に
昂進した。
液體の一
滴をも
攝取することが
出來ないにも
拘らず、
亂れた
髮の
毛毎に
傳ひて
落るかと
思ふやうに
汗が
玉をなして
垂れた。
蒲團を
濕す
汗の
臭が
鼻を
衝いた。
「
勘次さん
此處に
居てくろうよ」お
品は
苦しい
内にも
只管勘次を
慕つた。
「おうよ、こゝに
居たよ、
何處へも
行やしねえよ」
勘次は
其度に
耳へ
口を
當ていつた。
「
勘次さん」お
品は
又喚んた。
「
怎的したよ」
勘次のいつたのはお
品に
通じなかつたのか
「おとつゝあ、
俺らとつてもなあ」とお
品は
少時間を
措いて、さうして
勘次の
手を
執つた。
「おつう
汝はなあ、
よきもなあ」といつて
又發作の
苦惱に
陷つた。
「
勘次さん、
俺死んだらなあ、
棺桶へ
入れてくろうよ……」
勘次は
聞かうとすると
暫く
間を
隔てて
「
後の
田の
畔になあ、
牛胡頽子のとこでなあ」お
品は
切れ/″\にいつた。
勘次は
略其の
意を
了解した。
お
品はそれから
劇烈な
發作に
遮ぎられてもういはなかつた。
突然
「
風呂敷、/\」
と
理由の
解らぬ
囈語をいつて、
意識は
全く
不明に
成つた。
遂には
異常な
力が
加はつたかと
思ふやうにお
品の
足は
蒲團を
蹴て
身體が
激動した。
枕元に
居た
人々は
各自に
苦しむお
品の
足を
抑へた。
恁うして
人々は
刻々に
死の
運命に
逼られて
行くお
品の
病體を
壓迫した。お
品の
發作が
止んだ
時は
微かな
其の
呼吸も
止つた。
夜は
森として
居た。
雨戸が
微かに
動いて
落葉の
庭を
走るのもさら/\と
聞かれた。お
品の
身體は
足の
方から
冷たくなつた。お
品が
死んだといふことを
意識した
時に
勘次もおつぎもみんな
怺へた
情が一
時に
激發した。さうして
遠慮をする
餘裕を
有たない
彼等は
聲を
放つて
泣いた。
枕元のものは
皆共に
泣いた。
與吉は
獨り
死んだお
品の
側に
熟睡して
居た。
卯平は
取り
取ずお
品の
手を
胸で
合せてやつた。さうして
機の
道具の
一つである
杼を
蒲團へ
乘せた。
猫が
死人を
越えて
渡ると
化けるといつて
杼は
猫の
防禦であつた。
杼を
乘せて
置けば
猫は
渡らないと
信ぜられて
居るのである。
夜は
益深けて
冷え
切つて
居た。
家の
内には一
塊の

も
貯へてはなかつた。
枕元に
居た
近所の
人々は
勘次とおつぎの
泣き
止むまでは
身體を
動かすことも
出來ないで
凝然と
冷たい
手を
懷に
暖めて
居た。おつぎは
漸く
竈へ
落葉を
燻べて
茶を
沸した、みんな
只ぽつさりとして
茶を
啜つた。
「
勘次も
かせえて知らせやがればえゝのに」
卯平がぶすりと
呟く
聲は
低くしかもみんなの
耳の
底に
響いた。
卯平は
其の
日の
未明に
使の
來るまではお
品の
病氣はちつとも
知らずに
居た。
驚いて
來て
見ればもうこんな
始末である。
卯平も
泣いた。
彼は
煙管を
噛んでは
只舌皷を
打つて
唾を
嚥んだ。
勘次は
只泣いて
居た。
彼はお
品の
發病からどれ
程苦心して
其身を
勞したか
知れぬ。お
品の
病氣を
案ずる
外彼の
心には
何もなかつた。
其當時には
卯平に
不平をいはれやうといふやうな
懸念は
寸毫も
頭に
起らなかつたのである。
お
品の
死は
卯平をも
痛く
落膽せしめた。
卯平は七十一の
老爺であつた。
一昨年の
秋から
卯平は
野田の
醤油藏へ
火の
番に
傭はれた。
卯平はお
品が三つの
時に、
死んだお
袋の
處へ
入夫になつたのである。五つの
時から
甘へたのでお
品は
卯平に
懷いて
居た。お
袋の
生きて
居るうちは
卯平もまだ
壯であつたが、お
袋が
亡くなつて
卯平の
皺が
深く
刻まれてからは
以前から
善くなかつた
勘次との
間が
段々隔つて、お
品もそれには
困つた。
到頭村の
紹介業をして
居る
者の
勸めに
任て
卯平がいふ
儘に
奉公に
出したのであつた。
病人の
枕元に
居た
近所の
者は一
杯の
茶を
啜つて
村の
姻戚へ
知らせに
出るものもあつた。それから
葬式のことに
就いて
相談をした。
葬式はほんの
姻戚と
近所とだけで
明日の
内に
濟すといふことに
極めた。
夜があけると
近所の
人々は
寺へ
行つたり
無常道具を
買ひに
行つたり、
他村の
姻戚への
知らせに
行つたりして
家には
近所の
女房が二三
人義理をいひに
來て
居た。
姻戚といつてもお
品の
爲めには
待たなくては
成らぬといふものはないので
勘次はおつぎと
共に
筵を
捲つて、
其處へ
盥を
据ゑてお
品の
死體を
淨めて
遣つた。
劇烈な
病苦の
爲めに
其力ない
死體はげつそりと
酷い
窶れやうをして
居た。
卯平は
只ぽつさりとしてそれを
見て
居た。
死體は
復其の
穢い
夜具へ
横へられた。
盥の
汚れた
微温湯は
簀の
子の
上から
土に
注がれた。さうして
其の
沾れた
簀の
子には
捲くつた
筵が
又敷かれた。
朝から
雨戸は
開け
放たれて
歩けばぎし/\と
鳴る
簀の
子の
上の
筵は
草箒で
掃かれた。さうして
東隣から
借りて
來た
蓙が五六
枚敷かれた。それから
土地の
習慣で
勘次は
淨めてやつたお
品の
死體は一
切を
近所の
手に
任せた。
近所の
女房等は一
反の
晒木綿を
半分切てそれで
形ばかりの
短い
經帷子と
死相を
隱す
頭巾とふんごみとを
縫つてそれを
着せた。ふんごみは
只三
角にして
足袋の
代に
爪先へ
穿かせるのであつた。
脚絆は
切の
儘麻で
足へ
括り
附けた。
此れも
其の
木綿で
縫つた
頭陀袋を
首から
懸けさせて三
途の
川の
渡錢だといふ六
文の
錢を
入れてやつた。
髮は
麻で
結んで
白櫛を

して
遣つた。お
品の
硬着した
身體は
曲げて
立膝にして
棺桶へ
入れられた。
首が
葢に
觸るので
骨の
挫けるまで
抑へつけられてすくみが
掛けられた。すくみといふのは
蹙めた
儘の
形が
保たれるやうに
死體の
下から
荒繩を
廻して
置いて
首筋の
處でぎつしりと
括ることである。
麁末な
松板で
拵へた
出來合の
棺桶はみり/\と
鳴つた。
恁ういふ
無残な
扱はどうしても
他人の
手に
任せられねばならなかつた。
板の
儘ばら/\に
成つて
居る
棺臺は
買つて
來てから
近所の
手で
釘付にされた。
其處には
淺い
箱の
倒にしたものが
出來た。
其の
棺臺の
上には
死體を
入れた
棺桶が
載せられた。
勘次は
其朝未明にそつと
家の
後の
楢の
木の
間を
田の
端へおりて
境木の
牛胡頽子の
傍を
注意して
見た。
唐鍬か
何かで
動かした
土の
跡が
目に
附いた。
勘次は
手にして
行つた
草刈鎌でそく/\と
土をつゝくやうにして
掘つた。さうして
其軟かに
成つた
土を
手で
浚つた。
襤褸の
包が
出た。
彼は
其處に
小さな一
塊肉を
發見したのである。
勘次はそれを
大事に
懷へ
入れた。
惡事の
發覺でも
恐れるやうな
容子で
彼は
周圍を
見廻した。
彼は
更に
古い
油紙で
包んで
片付けて
置いて、お
品の
死體が
棺桶に
入れられた
時彼はそつとお
品の
懷に
抱かせた。お
品の
痩せ
切つた
手が
勘次のする
儘にそれを
確乎と
抱き
締めて、
其の
骨ばかりの
頬が、ぴつたりと
擦りつけられた。
葬式の
日は
赤口といふ
日であつた。
勘次は
近所と
姻戚との
外には一
飯も
出さなかつたがそれでも
村のものは
皆二
錢づゝ
持つて
弔みに
來た。さうしてさつさと
歸つて
行つた。
遠く
離れた
寺からは
住職と
小坊主とが、
褪めた
萠黄の
法被を
着た
供一人連れて
挾箱を
擔がせて
歩いて
來た。
小坊主は
直に
棺桶の
葢をとつて
白い
木綿を
捲くつて
窶れた
頬へ
剃刀を
一寸當てた。
此の
形式的の
顏剃が
濟んでから
葢は
釘で
打ち
附けられた。
荒繩が十
文字に
掛けられた。
晒木綿の
残つた
半反でそれがぐる/\と
捲かれた。
桶には
更に
天葢が
載せられた。
天葢というても
兩端が
蕨のやうに
捲れた
狹い
松板を二
枚十
字に
合せたまでのものに
過ない
簡單なものである。
煤けた
壁には
此れも
古ぼけた
赤い
曼荼羅の
大幅が
飾のやうに
掛けられた。
棺は
僅な
人で
葬られた。それでも
白提灯が
二張翳された。
裂き
竹を
格子の
目に
編んでいゝ
加減の
大きさに
成るとぐるりと四
方を一つに
纏めて
括つた
花籠も二つ
翳された。
孰れも
青竹の
柄が
附けられた。
其の
籠へは
髭のやうに
裂き
竹を
立てゝ
其の
裂き
竹には
赤や
黄や
青や
其の
他の
色紙で
刻んだ
花を
飾つた。
其の
花籠は
又底へ
紙を
敷いて
死んだものゝ
年齡の
數だけ
小錢を
入れて、それを
翳した
人が
時々ざら/\と
振つては
籠の
目から
其の
小錢を
振り
落した。
村の
小供が
爭つてそれを
拾つた。
提灯と
花籠は
先に
立つた。
後からは
村の
念佛衆が
赤い
胴の
太皷を
首へ
懸けてだらりだらりとだらけた
叩きやうをしながら一
同に
聲を
擧て
跟いて
行つた。
柩は
小徑を
避けて
大道を
行つた。
村の
者は
自分の
門からそれを
覗いた。
棺桶は
据りが
惡い
所爲か
途中で
止まずぐらり/\と
動搖した。
勘次はそれでも
羽織袴で
位牌を
持つた。それは
皆借りたので
羽織の
紐には
紙撚がつけてあつた。
墓の
穴は
燒けた
樣な
赤土が四
方へ
堆く
掻き
上げられてあつた。
其處には
從來隙間のない
程穴が
掘られて、
幾多の
人が
埋められたので
手の
骨や
足の
骨がいつものやうに
掘り
出されて
投げられてあつた。
法被を
着た
寺の
供が
棺桶を
卷いた
半反の
白木綿をとつて
挾箱に
入た。
軈て
棺桶は
荒繩でさげて
其の
赤い
土の
底に
踏みつけられた。
麁末な
棺臺は
少し
堆く
成つた
土の
上に
置かれて、
二つの
白張提灯と
二つの
花籠とが
其傍に
立てられた。お
品は
生來土を
踏まない
日はないといつていゝ
位であつた。さうしてそれは
凍てる
冬の
季節を
除いては
大抵は
直接に
足の
底が
土について
居た。お
品は
恁して
冷たい
屍に
成つてからも
其の
足の
底は
棺桶の
板一
枚を
隔てただけで
更に
永久に
土と
相接して
居るのであつた。
小さな
葬式ながら
柩が
出た
後は
旋風が
埃を
吹つ
拂つた
樣にからりとして
居た。
手傳に
來て
居た
女房等はそれでなくても
膳立をする
客が
少くて
暇であつたから
滅切手持がなくなつた。それでも
立ちながら
椀と
箸とを
持つて
口を
動かして
居るものもあつた。
膳部は
極つた
通り
皿も
平も
壺もつけられた。それでも
切昆布と
鹿尾菜と
油揚と
豆腐との
外は
百姓の
手で
作つたものばかりで
料理された。
皿には
細かく
刻んで
鹽で
揉んだ
大根と
人參との
膾がちよつぽりと
乘せられた。さういふ
残物と
冷たく
成つた
豆腐汁とをつゝいても
麥の
交らぬ
飯が
其の
口には
此の
上もない
滋味なので、
女房等は
其の
強健で
且擴大された
胃の
容れる
限りは
口が
之を
貪つて
止まないのである。
彼等は
裏戸の
陰に
聚まつて
雜談に
耽つた。
「どうしたつけまあ、
酷く
棺桶ぐら/\したんぢやなかつたつけゝえ」
「
其筈だんべな、
後が
心配で
仕やうねえ
佛はあゝえに
動くんだつちぞおめえ」
「
勘次さんこと
欲しくつて
後へ
残してくのが
辛えんだごつさら」
「そんだがよ、
餘り
欲しがられつと
遂にや
迎に
來て
連れ
行かれつとよ」
「おゝ
厭だ
俺ら」
「
連れてつてくろつちつたつておめえ
等こた
迎に
來るものもあんめえな」
口々に
恁んなことが
遠慮もなく
反覆された。
間が
少時途切れた
時
「お
品さんも
可惜命をなあ」と
一人が
思ひ
出したやうにいつた。
「
本當だ
他人のやらねえこつてもありやしめえし」
他の
女房が
相槌を
打つた。
「
風邪引いたなんてか、
今度の
風邪は
強えから
起きらんねえなんて、しらばつくれてな」
「
死ぬ
者貧乏なんだよ」
「そんだがお
品さんは
自分のがばかりぢやねえつちんぢやねえけ」
「さうだとよ、
大けえ
聲ぢやゆはんねえが、
五十錢とか
八十錢とか
取つて
他人のがも
行つたんだとよ」
「
八十錢づゝも
取つちやおめえ、
女の
手ぢやたえしたもんだがな、
今度自分で
死んちまあなんて、
行んねえこつたなあ」
「
罪作つた
罰ぢやねえか」
遠慮もなくそれからそれと
移のである。
「そんなことゆつて、
今出た
佛のことをおめえ
等、とつゝかれつから
見ろよ」
他の
一人の
女房がいつた
時噺が
暫時途切れて
靜まつた。
一人の
女房が
皿の
大根を
手で
撮んで
口へ
入れた。
「さうえ
處他人に
見られたらどうしたもんだえ」
側からいはれて
「
見てやあしめえな」と
其女房は
裏戸の
口から
庭の
方を
見た。さうして
「
俺ら
見てえな
婆はどうで
此れから
娶にでも
行くあてがあんぢやなし、
構あねえこたあ
構あねえがな」といつて
笑つた。
一同どつと
笑聲を
發した。
柩を
送つた
人々が離れ/″\に
歸つて
來るまでは
雜談がそれからそれと
止まなかつた。
平日何等の
慰藉を
與へらるゝ
機會をも
有して
居ないで、
然も
聞きたがり、
知りたがり、
噺たがる
彼等は三
人とさへ
聚れば
膨脹した
瓦斯が
袋の
破綻を
求めて
遁げ
去る
如く、
遂には
前後の
分別もなく
其舌を
動かすのである。
偶抽斗から
出した
垢の
附かぬ
半纏を
被て、
髮にはどんな
姿にも
櫛を
入れて、さうして
弔みを
濟すまでは
彼等は
平常にないしほらしい
容子を
保つのである。それは
改まつて
不馴な
義理を
述べねばならぬといふ
懸念が、
僅ながら
彼等の
心を
支配して
居るからである。
然し
土間へおりて、
襷が
掛けられて、
膳や
椀を
洗つたり
拭いたり
其手を
忙しく
動かすやうに
成れば、
彼等の
心はそれに
曳かされて
其の
聞きたがり、
知りたがり、
噺したがる
性情の
自然に
歸るのである。
假令他人の
爲には
悲しい
日でも
其の一
日だけは
自己の
生活から
離れて
若干の
人々と一
緒に
集合することが
彼等には
寧ろ
愉快な一
日でなければならぬ。
間斷なく
消耗して
行く
肉體の
缺損を
補給するために
攝取する
食料は一
椀と
雖も
悉く
自己の
慘憺たる
勞力の一
部を
割いて
居るのである。
然し
他人を
悼む一
日は
其處に
自己のためには
何等の
損失もなくて十
分に
口腹の
慾を
滿足せしめることが
出來る。
他人の
悲哀はどれ
程痛切でもそれは
自己當面の
問題ではない。
如斯にして
彼等の
聚る
處には
常に
笑聲を
絶たないのである。
お
品も
恁ういふ
伴侶の
一人であつた。それが
今日は
其の
笑聲を
後にして
冷たい
土に
歸したのである。
お
品は
自分の
手で
自分の
身を
殺したのである。お
品は十九の
暮におつぎを
産んでから
其次の
年にも
亦姙娠した。
其の
時は
彼等は
窮迫の
極度に
達して
居たので
其の
胎兒は
死んだお
袋の
手で七月
目に
墮胎して
畢つた。それはまだ
秋の
暑い
頃であつた。
強健なお
品は四五
日經つと
林の
中で
草刈をして
居た。それでも
無理をした
爲に
其後大煩ひはなかつたが
恢復するまでには
暫くぶら/\して
居た。それからといふものはどういふものかお
品は
姙娠しなかつた。おつぎが十三の
時與吉が
生れた。
此の
時は
勘次もお
品も
腹の
子を
大切にした。
女の
子が十三といふともう
役に
立つので、
與吉を
育てながら
夫婦は十
分に
働くことが
出來た。
與吉が三つに
成つたのでおつぎは
他へ
奉公に
出すことに
夫婦の
間には
決定された。
其の
頃十五の
女の
子では一
年の
給金は
精々十
圓位のものであつた。それでもそれ
丈の
收入の
外に
食料の
減ずることが
貧乏な
世帶には
非常な
影響なのである。それが
稻の
穗首の
垂れる
頃からお
品は
思案の
首を
傾げるやうになつた。
身體の
容子が
變に
成つたことを
心付いたからである。十
年餘も
保たなかつた
腹は
與吉が
止つてから
癖が
附いたものと
見えて
又姙娠したのである。お
品も
勘次もそれには
當惑した。おつぎを
奉公に
出して
畢へば、
二人の
子を
抱いてお
品は
從來のやうに
働くことが
出來ない、
僅な
稼でもそれが
停止されることは
彼等の
生活の
爲には
非常な
打撃でなければならぬ。
其の
内に
稻を
刈つたり、
籾を
干したり
忙しい
收穫の
季節が
來て、
冴えた
空の
下に
夫婦は
毎日埃を
浴びて
居た。
有繋に
罪なやうな
心持もするので
夫婦は
只困つて
其の
日を
過して
居た。それも
夜に
成つて
疲れた
身體を
横にし
甘睡に
陷るまでの
少時間彼等は
互に
決し
難い
思案を
交換するのであつた。
從來も
夫婦の
間は
孰れが
本位であるか
分らぬ
程勘次には
決斷の
力が
缺乏して
居た。
「どうでもおめえの
腹だから
好きにした
方がえゝやな」
勘次は
恁ういふのである。
然しそれは
怎的でもいゝといふ
云ひ
擲りではなくて、
凡てがお
品に
對して
命令をするには
勘次の
心は
餘り
憚つて
居たのである。
「そんでも、
俺がにも
困んべな」お
品は
投げ
掛けるやうにいふのである。
勘次はお
品が
恁うする
積だときつぱりいつて
畢へば
決して
反對をするのではない。といつてお
品は
獨斷で
決行するのには
餘り
大事であつたのである。さうしてそれは
決定される
機會もなくて
夫婦は
依然として
農事に
忙殺されて
居た。
其の
間に
空を
渡る
凩が
俄に
哀しい
音信を
齎した。
欅の
梢は、どうでもう
此れまでだといふやうに
慌しく
其の
赭く
成つた
枯葉を
地上に
投げつけた。
其の
棄て
去られた
輕い
小さな
落葉は、
自分を
引き
止めて
呉れる
蔭を
求めて
轉々と
走つては
干した
藁の
間でも
籾の
筵でも
何處でも
其の
身を
託した。
周圍は
凡てが
只騷がしく
且つ
混雜した。
其の
内に
勘次は
秋から
募集のあつた
開鑿工事へ
人に
任せて
行つたのである。
「
只かうしてぐづ/\して
居ても
仕やうあんめえな」お
品は
其の
時も
勘次の
判斷を
促して
見た。
「
俺もさうゆはれても
困つから、おめえ
好きにしてくろうよ」
勘次は
只恁ういつた。
勘次が
去つてからお
品は
其混雜した
然も
寂しい
世間に
交つて
遣瀬のないやうな
心持がして
到頭罪惡を
決行して
畢つた。お
品の
腹は四
月であつた。
其の
頃の
腹が一
番危險だといはれて
居る
如くお
品はそれが
原因で
斃れたのである。
胎兒は四
月一
杯籠つたので
兩性が
明かに
區別されて
居た。
小さい
股の
間には
飯粒程の
突起があつた。お
品は
有繋に
惜しい
果敢ない
心持がした。
第一に
事の
發覺を
畏れた。それで一
旦は
能く
世間の
女のするやうに
床の
下に
埋めたのをお
品は
更に
田の
端の
牛胡頽子の
側に
襤褸へくるんで
埋めたのである。
お
品は
身體の
恢復するまで
凝然として
蒲團にくるまつて
居れば
或はよかつたかも
知れぬ。十
幾年前には一
切を
死んだお
袋が
處理してくれたのであつたが、
今度は
勘次も
居ないしでお
品は
生計の
心配もしなくては
居られなかつた。
一つにはそれを
世間に
隱蔽しようといふ
念慮から
知らぬ
容子を
粧ふ
爲に
強ひても
其の
身を
動かしたのであつた。
然しながら
其の
身を
殺した
黴菌がどうして
侵入したであつたらうか。お
品は
卵膜を
破る
手術に
他人を
煩はさなかつた。さうして
其
入した
酸漿の
根が
知覺のないまでに
輕微な
創傷を
粘膜に
與へて
其處に
黴菌を
移植したのであつたらうか、それとも
毎日煙の
如く
浴せ
掛けた
埃から
來たのであつたらうか、それを
明らめることは
不可能でなければならぬ。
然し
孰れにしても
病毒は
土が
齎したのでなければならなかつた。
葬式の
次の
日は
又近所の
人が
來た。
勘次は
其の
借りた
羽織と
袴を
着て
村中へ
義理に
廻つた。
土瓶へ
入れた
水を
持つて
墓參りに
行つて、それから
膳椀も
皆返して
近所の
人々も
歸つた
後勘次は
然として
古い
机の
上に
置かれた
白木の
位牌に
對して
堪らなく
寂しい
哀れつぽい
心持になつた。二三
日の
間は
片口や
摺鉢に
入れた
葬式の
時の
残物を
喰べて一
家は
只ばんやりとして
暮した。
雨戸はいつものやうに
引いた
儘で
陰氣であつた。
卯平を
加へて四
人はお
互が
只冷かであつた。
卯平は
其の
薄暗い
家の
中に
只煙草を
吹かしては
大きな
眞鍮の
煙管で
火鉢を
叩いて
居た。
卯平と
勘次とは
其の
間碌に
口も
利なかつた。
勘次は
自分の
身體と
自分の
心とが
別々に
成つたやうな
心持で
自分が
自分をどうする
事も
出來なかつた。それでも
小作米のことは
其の
念頭から
沒し
去ることはなかつた。
貧乏な
小作人の
常として
彼等は
何時でも
恐怖心に
襲はれて
居る。
殊に
其の
地主を
憚ることは
尋常ではない。さうして
自分の
作り
來つた
土地は
死んでも
噛り
附いて
居たい
程それを
惜むのである。
彼等の
最初に
踏んだ
土の
強大な
牽引力は
永久に
彼等を
遠く
放たない。
彼等は
到底其の
土に
苦しみ
通さねばならぬ
運命を
持つて
居るのである。
勘次はお
品の
葬式が
濟むと
直に
新しい
俵へ
入れた
小作米を
地主へ
運んで
行かねば
成らぬとそれが
心を
苦しめて
居た。
然し
其の
時は
其の
新しい
俵の一つは
輪に
成つた
繩から
拔けて、
米は
叩いても
幾らも
出なかつた。
勘次は
次の
年には
殆ど
自分一人の
手で
農事を
勵まなくてはならぬ。
例年のやうに
忙しい
季節に
日傭に
行くことも
出來まいし、それにはお
袋に
捨てられた
二人の
子供も
有ることだし、
今から
穀の
用意もしなくては
成らぬと
思ふと
自分の
身上から一
俵の
米を
減じては
到底立ち
行けぬことを
深く
思案して
彼は
眠らないこともあつた。
然し
他に
方法もないので
彼は
地主へ
哀訴して
小作米の
半分を
次の
秋まで
貸して
貰つた。
地主は
東隣の
舊主人であつたのでそれも
承諾された。
彼は
更に
其の
僅な
米の一
部を
割いて
錢に
換へねばならぬ
程懷が
窮して
居たのである。
勘次はそれから
復た
利根川の
工事へ
行かねばならないと
思つて
居た。それは
彼が
僅の
間に
見た
放浪者の
怖ろしさを
思つて、
假令どうしても
其統領を
欺いて
其の
僅少な
前借の
金を
踏み
倒す
程の
料簡が
起されなかつたのである。
其の
内に
張元から
葉書が
來た。
彼は
只管恐怖した。
然し
二人の
子を
見棄てゝ
行くことが
出來ないので、どうしていゝか
判斷もつかなかつた。さうする
内にお
品の七日も
過ぎた。
彼は
煩悶した。
唯一つ
卯平が
野田へ
行くのを
暫く
猶豫して
貰つて
自分は
其の
間に
少しでも
小遣錢を
稼いで
來たいと
思つた。
然しそれも
直接には
云ひ
出せないので、
例の
桑畑一
枚隔てた
南へ
頼んだ。
數日來彼は
卯平が
其の
大きな
體躯を
火鉢の
側に
据ゑて
煙管を
噛んではむつゝりとして
居るのを
見ると、
何となく
憚つて
成るべく
其の
視線を
避けるやうに
遠ざかつて
居ることを
餘儀なくされるのであつた。
勘次とお
品は
相思の
間柄であつた。
勘次が
東隣の
主人に
傭はれたのは十七の
冬で十九の
暮にお
品の
婿に
成つてからも
依然として
主人の
許に
勤めて
居た。
彼は
其當時お
品の
家へは
隣づかりといふので
能く
出入つた。
一つには
形づくつて
來たお
品の
姿を
見たい
所爲でもあつた。
彼は
秋の
大豆打といふ
日の
晩などには、
唐箕へ
掛けたり
俵に
作つたりする
間に二
升や三
升の
大豆は
竊に
隱して
置いてお
品の
家へ
持つて
行つた。さうして
豆熬を
噛つては
夜更まで
噺をすることもあつた。お
品の
家からは
近所に
風呂の
立たぬ
時は
能く
來た。
忙しい
仕事には
傭はれても
來た。さういふ
間に
彼等の
關係が
成立つたのである。それはお
品が十六の
秋である。それから
足掛三
年經つた。
勘次には
主人の
家が
愉快に
能く
働くことが
出來た。
彼の
體躯は
寧ろ
矮小であるが、
其きりつと
緊つた
筋肉が
段々仕事を
上手にした。
假令どんな
物が
彼等の
間を
隔てようとしても
彼等が
相近づく
機會を
見出したことは
鬱蒼として
遮つて
居る
密樹の
梢を
透してどこからか
日が
地上に
光を
投げて
居るやうなものであつた。
彼等の
心は
唯明るかつたのである。
お
品は十九の
春に
懷胎した。
自分でもそれは
暫く
知らずに
居た。
季節が
段々ぽかついて、
仕事には
單衣でなければならぬ
頃に
成つたので
女同士の
目は
隱しおほせないやうに
成つた。お
袋はお
品をまだ
子供のやうに
思つて
迂濶にそれを
心付かなかつた。
本當にさうだと
思つた
時はお
品は
間もなく
肩で
息するやうに
成つた。さうして
身體がもう
棄てゝ
置けない
場合に
成つたので
兩方の
姻戚の
者でごた/\と
協議が
起つた。
勘次もお
品も
其時互に
相慕ふ
心が
鰾膠の
如く
強かつた。
彼等は
惡戲者に
水をさゝれて
慌てた
機會に
或夜遁げ
出して
畢つた。それは、
此の
儘では
二人は
迚ても
添はされぬ
容子だからどうしても
一つに
成らうといふのならば
何處へか
二人で
身を
隱すのである。さうして
愈となれば
俺がどうにでも
其處は
始末をつけて
遣るから、
何でも
愚圖/\して
居ちや
駄目だとお
品の
心を
教唆つたのであつた。お
品から一
心に
勘次へ
迫つた。
勘次は
其の
頃からお
品のいふなりに
成るのであつた。
二人は
遠くは
行けないので、
隣村の
知合へ
身を
投じた。
兩方の
姻戚が
騷ぎ
出した。
恁ういふ
同志へのこんな
惡戲は
何處でも
能く
反覆されるのであつた。さうして
成功した
惡戲者は
「
仕事は
何でも
牝鷄でなくつちや
甘く
行かねえよ」といつては
陰で
笑ふのである。
「
外聞曝しやがつて」と
卯平は
怒つたがそれが
爲に
事は
容易に
運ばれた。
勘次は
婿に
成つたのである。
簡單な
式が
行はれた。
俄に
媒妁人と
定められたものが
一人で
勘次を
連れて
行つた。
卯平はむつゝりとしてそれを
受けた。
平生行きつけた
家なので
勘次は
極り
惡相に
坐つた。お
品は
不斷衣の
儘襷掛で
大儀相な
體躯を
動かして
居て
勘次の
側へは
坐らなかつた。
媒妁人が
只酒を
飮んで
騷いだ
丈であつた。お
品は
間もなく
女の
子を
産んだ。それがおつぎであつた。
季節は
暮の
押し
詰つた
忙しい
時であつた。お
袋はお
品が
好いて
居るので、
勘次を
不足な
婿と
思つては
居なかつた。
勘次は
其暮も
亦主人へ
身を
任せる
筈で
前借した
給金を、お
品の
家へ
注ぎ
込んだのでお
袋は
却て
悦んで
居た。
卯平は
唯勘次を
蟲が
好なかつた。
自分は
其大きな
體躯でぐい/\と
仕事をしつけたのに
勘次が
小さな
體躯でちよこ/\と
駈け
歩いたり、ただ
吩咐ばかり
聞いて
居るので
自分の
機轉といふものが一
向なかつたりするので
酷く
齒痒く
思つて
居た。
然し
自分は
入夫といふ
關係もあるしそれに
生來の
寡言なので
姻戚の
間の
協議にも
彼は
「どうでもわしはようがすからえゝ
鹽梅に
極めておくんなせえ」とのみいふのであつた。
勘次は
百姓の
尤も
忙しい
其の
頃の五
月に
病氣に
成つた。
彼は
轡へ
附けた
竹竿の
端を
執つて
馬を
馭しながら、
毎日泥だらけになつて
田の
代掻をした。どうかするとそんな
季節に
東南風が
吹いて
慄へる
程冷えることがある。
勘次は
其の
冷えが
障つたのであつたらうか
心持が
惡いというて
田から
戻つて
來るとそれつ
切り
枕も
上らぬやうになつた。
能く
馬の
病氣に
飮ませる
赤玉といふ
藥を
幾粒か
嚥んで
彼は
蒲團へくるまつて
居た。
彼はどうにか
病氣の
凌ぎがつけば
卯平の
側へは
行きたくなかつた。それと
一つには
我慢して
仕事に
出れば
碌には
働けなくても一
日の
勤めを
果したことに
成るけれども、
丸で
休んで
畢へば
其の
日だけの
割當勘定が
給金から
差引かれなければ
成らぬので
彼はそれを
畏れた。
然し
病氣は
馬に
飮ませる
藥の
赤玉では
直には
癒らなかつた。それで
彼はお
品の
厄介に
成る
積で、
次の
朝早く
朋輩の
背に
運ばれた。
卯平は
澁り
切つた
顏で
迎へた。お
品が
蒲團を
敷いて
遣つたので
勘次はそれへごろりと
俯伏しになつて
其の
額を
交叉した
手に
埋めた。
家の
者は
皆田へ
出なければならなかつた。
病人に
構つて
居ることは
仕事が
許さなかつた。お
袋は
出る
時に
表の
大戸も
閉てながら
「
腹減つたら
此處にあんぞ」といつてばたりと
飯臺の
蓋をした。
後で
勘次は
蒲團からずり
出して
見たら、
麥ばかりのぽろ/\した
飯であつた。
其の
時分お
品の
家ではさういふ
食料で
生命を
繋いで
居たのである。
勘次は
奉公にばかり
出て
居たのでそれ
程麁末な
物を
口にしたことはない。それでどうしても
手を
出さうといふ
心が
起らなかつた。
午餐に
家の
者は
田から
戻つて
其の
飯を
喰べた。ちつとはどうだとお
袋に
勸められても
勘次は
唯俯伏に
成つて
居た。
「
此の
野郎こんな
忙しい
時に
轉がり
込みやがつてくたばる
積でもあんべえ」と
卯平は
平生になく
恁んなことをいつた。
勘次は
後で
獨り
泣いた。
彼はお
品がこつそり
蒲團の
下へ
入て
呉れた
煎餅を
噛つたりして二三
日ごろ/\して
居た。
其の
頃は
駄菓子店も
滅多に
無かつたので
此れ
丈のことがお
品には
餘程の
心竭しであつたのである。
勘次はどうも
卯平が
厭で
且つ
怖ろしくつて
仕やうがないので
少し
身體が
恢復しかけると
皆が
田へ
出た
後でそつと
拔けて
村の
中の
姻戚の
處へ
行つて
板藏の二
階へ
隱れて
寢て
居た。
夜になつたらどうして
知つたかお
品はおつぎを
背負つて
鷄を一
羽持つて
來た。
「
勘次さん
惡く
思はねえでくろうよ、
俺惡くする
積はねえが、
仕やうねえからよ」とお
品は
訴へるやうにいふのであつた。お
品は
毎晩のやうに
來て
板藏の
さるを
内から
卸して
泊つて
行つた。それでも
勘次は
卯平の
側が
厭なので
戻らないといふ
積で
他の
村落へ
漂泊した。
復土地へ
歸つて
來ると、
畑に
居ても
田に
居てもお
品が
迫つて
來るので、
彼は
農具を
棄てゝ
遁げることさへあつた。それが
如何したものか
何時の
間にやら
酷く
自分からお
品の
側へ
行きたく
成つて
畢つて、
他人から
却て
揶揄はれるやうに
成つたのである。
勘次は
奉公の
年季を
勤めあげて
歸つたと
成つた
時、
卯平とは
一つ
家で
竈を
別にすることに
成つた。
夫婦と
乳呑兒と三
人の
所帶で
彼等は
卯平から
殼蕎麥が一
斗五
升と
麥が一
斗と、
後にも
先にもたつた
此れ
丈が
分けられた。
正月の
饂飩も
打てなかつた。
有繋にお
袋は
小麥粉を
隱してお
品へ
遣つた。それでも
勘次は
怖ろしい
卯平と
一つ
竈であるよりも
却て
本意であつた。お
袋が
死んでから
老いた
卯平は
勘次と
一つに
成らなければならなかつた。
其時はもう
勘次が
主であつた。さうして
疾に
自分の
住んで
居る
土地までが
自分の
所有ではなかつた。それは
借錢の
極りをつける
爲に
人が
立つて
東隣へ
格外な
値で
持たせたのである。それ
程彼の
家は
窮して
居た。
勘次には
卯平は
畏ろしいよりも
其時では
寧ろ
厭な
老爺に
成つて
居た。
二人は
滅多に
口も
利かぬ。それを
見て
居なければ
成らぬお
品の
苦心は
容易なものではなかつたのである。
勘次に
頼まれて
南の
亭主が
話をした
時に
卯平はどうしたものかと
案じた
程でもなく「
子奴等が
困るといへばどうでも
仕ざらによ、
仕ねえでどうするもんか」と
煙管を
手に
持つて
其の
癖の
舌皷を
打ちながらいつた。
南に
居て
案じながら
挨拶を
待つて
居た
勘次は
勢ひづいて
「そんぢや、おとつゝあ
俺行つ
來つから」といつた。
此の
時ばかりは
穩かな
挨拶が
交換された。
勘次が
居なく
成つてから
卯平はむつゝりした
顏に
微笑を
浮かべては
與吉を
抱いて
泣かれることもあつた。
與吉は
夜俄に
泣き
出して
止まぬことがある。お
品が
死ぬまで
被て
居た
蒲團の
中におつぎは
與吉を
抱いてくるまるのであつた。
與吉が
夜泣きをする
時卯平は
枕元の
燐寸をすつて
煙草へ
火を
移しては
燃えさしを
手ランプへ
點けて
「おつかあが
見えんだかも
知んねえ、さうら
明るく
成つた。
汝りや
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、69-12]に
抱かさつてんだ。
可怖ことあるもんか」
卯平は
重い
調子でいふのである。
與吉は
壁の
何處ともなく
見ては
火の
附いたやうに
身を
慄はして
泣いて
犇とおつぎへ
抱きつく。おつぎは
與吉を
膝へ
抱いて
泣き
止むまでは
兩手で
掩うて
居る。それが
泣き
出したら
毎夜のやうなのでおつぎは、
玉砂糖を
蒲團の
下へ
入れて
置いて
泣く
時には
甞めさせた。それでも
泣き
募つた
時は
口へ
入れた
砂糖を
吐き
出しては
愈烈しく
泣くのである。おつぎは
焦れて
邪險に
與吉をゆさぶることもあつた。それで
與吉は
遂には
砂糖を
口にしながらすや/\と
眠る。
卯平は
與吉が
靜かに
成るまでは
横に
成つた
儘おつぎの
方を
向いて
薄闇い
手ランプに
其の
目を
光らせて
居る。
與吉はおつぎに
抱かれる
時いつも
能くおつぎの
乳房を
弄るのであつた。
五月蠅がつて
邪險に
叱つて
見ても
與吉は
甘えて
笑つて
居る。それでも
泣く
時にお
品のしたやうに
懷を
開けて
乳房を
含ませて
見ても
其の
小さな
乳房は
間違つても
吸はなかつた。
砂糖を
附けて
見ても
欺けなかつた。おつぎは
與吉が
腹を
減らして
泣く
時には
米を
水に
浸して
置いて
摺鉢ですつて、それをくつ/\と
煮て
砂糖を
入て
嘗めさせた。
與吉は
一箸嘗めては
舌鼓を
打つて
其小さな
白い
齒を
出して、
頭を
後へひつゝける
程身を
反らしておつぎの
顏を
凝然と
見ては
甘えた
聲を
立て
笑ふのである。
與吉はそれが
欲くなれば
小さな
手で
煤けた
棚を
指した。
其處には
彼の
好む
砂糖の
小さな
袋が
載せてあるのであつた。
おつぎは
勘次が
吩咐けて
行つた
通り
桶へ
入れてある
米と
麥との
交ぜたのを
飯に
炊いて、
芋と
大根の
汁を
拵へる
外どうといふ
仕事もなかつた。
其の
間には
與吉を
背負つて
林の
中を
歩いて
竹の
竿で
作つた
鍵の
手で
枯枝を
採つては
麁朶を
束ねるのが
務であつた。おつぎは
麥藁で
田螺のやうな
形に
捻れた
籠を
作つてそれを
與吉へ
持たせた。
卯平はぶらりと
出て
行つては
歸りには
駄菓子を
少し
袂へ
入れて
來る。さうして
卯平は
菓子を
持つた
右の
手を
左の
袖口から
出して
與吉へ
見せる、
與吉はふら/\と
漸く
歩いて
行つては、
衝き
當り
相に
卯平へ
捉つて
袂を
探す。さうすると
菓子を
持つた
手が
更に
卯平の
左の
袂から
出る。
與吉は
危な
相に
卯平の
身體を
傳ひつゝ
左へ
廻つて
行く。さうすると
卯平の
手が
與吉の
頭の
上に
乘つて
菓子が
頭へ
落される。
與吉が
頭へ
手をやる
時に
菓子は
足下へぽたりと
落ちる。
與吉は
慌てゝ
菓子を
拾つては
聲を
立てゝ
笑ふのである。
菓子は
何時までも
減らないやうに
砂糖で
固めた
黒い
鐵砲玉が
能く
與へられた。
頭から
落ちてころ/\と
鐵砲玉が
遠く
轉がつて
行くのを、
倒れながら
逐ひ
掛けて
行く
與吉を
見て
卯平のむつゝりとした
顏が
溶けるのである。
與吉は
躓いて
倒れても
其時は
決して
泣くことがない。
鐵砲玉は
麥藁の
籠へも
入れられた。
與吉はそれを
大事相に
持つては時
ゝ覗きながら、おつぎが
炊事の
間を
大人しくして
坐つて
居るのであつた。
春は
空からさうして
土から
微に
動く。
毎日のやうに
西から
埃を
捲いて
來る
疾風がどうかするとはたと
止つて、
空際にはふわ/\とした
綿のやうな
白い
雲がほつかりと
暖かい
日光を
浴びようとして
僅に
立ち
騰つたといふやうに、
動きもしないで
凝然として
居ることがある。
水に
近い
濕つた
土が
暖かい
日光を
思ふ一
杯に
吸うて
其勢ひづいた
土の
微かな
刺戟を
根に
感ぜしめるので、
田圃の
榛の
木の
地味な
蕾は
目に
立たぬ
間に
少しづゝ
延びてひら/\と
動き
易くなる。
其の
刺戟から
蛙はまだ
蟄居の
状態に
在りながら、
稀にはそつちでもこつちでもくゝ/\と
鳴き
出すことがある。
空から
射す
日の
光はそろ/\と
熱度を
増して、
土はそれを
幾らでも
吸うて
止まぬ。
土は
凡てを
段々と
刺戟して
堀の
邊には
蘆やとだしばや
其の
他の
草が
空と
相映じてすつきりと
其の
首を
擡げる。
軟かさに
滿たされた
空氣を
更に
鈍くするやうに、
榛の
木の
花はひら/\と
止まず
動きながら
煤のやうな
花粉を
撒き
散らして
居る。
蛙は
假死の
状態から
離れて
軟かな
草の
上に
手を
突いては、
驚いたやうな
容子をして
空を
仰いで
見る。さうして
彼等は
慌てたやうに
聲を
放つて
其長い
睡眠から
復活したことを
空に
向つて
告げる。それで
遠く
聞く
時は
彼等の
騷がしい
聲は
只空にのみ
響いて
快げである。
彼等は
更に
春の
到つたことを一
切の
生物に
向つて
促す。
草や
木が
心づいて
其の
活力を
存分に
發揮するのを
見ないうちは
鳴くことを
止めまいと
努める。
田圃の
榛の
木は
疾に
花を
捨てゝ
自分が
先に
嫩葉の
姿に
成つて
見せる。
黄色味を
含んだ
嫩葉が
爽かで
且つ
朗かな
朝日を
浴びて
快い
光を
保ちながら
蒼い
空の
下に、まだ
猶豫うて
居る
周圍の
林を
見る。
岬のやうな
形に
偃うて
居る
水田を
抱へて
周圍の
林は
漸く
其の
本性のまに/\
勝手に
白つぽいのや
赤つぽいのや、
黄色つぽいのや
種々に
茂つて、それが
氣が
付いた
時に
急いで
一つの
深い
緑に
成るのである。
雜木林の
其處ら
此處らに
散在して
居る
開墾地の
麥もすつと
首を
出して、
蠶豆の
花も
可憐な
黒い
瞳を
聚めて
羞かし
相に
葉の
間からこつそりと四
方を
覗く。
雜木林の
間には
又芒の
硬直な
葉が
空を
刺さうとして
立つ。
其麥や
芒の
下に
居を
求める
雲雀が
時々空を
占めて
春が
深けたと
喚びかける。さうすると
其同族の
聲のみが
空間を
支配して
居可き
筈だと
思つて
居る
蛙は、
其囀る
聲を
壓し
去らうとして
互の
身體を
飛び
越え飛び越え
鳴き
立てるので
小勢な
雲雀はすつとおりて
麥や
芒の
根に
潜んで
畢ふ。さうしては
蛙の
鳴かぬ
日中にのみ、
之を
仰げば
眩ゆさに
堪へぬやうに
其の
身を
遙に
煌めく
日の
光の
中に
沒して
其小さな
咽の
拗切れるまでは
劇しく
鳴らさうとするのである。
蛙は
愈益鳴き
矜つて
樫の
木のやうな
大きな
常緑木の
古葉をも一
時にからりと
落させねば
止まないとする。
此の
時凡ての
樹木やそれから
冬季の
間にはぐつたりと
地に
附いて
居た
凡ての
雜草が
爪立して
只空へ/\と
暖かな
光を
求めて
止まぬ。
土がそれを
凝然と
曳きとめて
放さない。それで一
切の
草木は
土と
直角の
度を
保つて
居る、
冬季の
間は
土と
平行することを
好んで
居た
人も
鐵の
針が
磁石に
吸はれる
如く
土に
直立して
各自に
手に
農具を
執る。
紺の
股引を
藁で
括つて
皆田を
耕し
始める。
水が
欲しいと
人が
思ふ
時蛙は一
齊に
裂けるかと
思ふ
程喉の
袋を
膨脹させて
身を
撼がしながら
殊更に
鳴き
立てる。
白い
絲のやうな
雨は
水が
田に
滿つるまでは
注いで
又注ぐ。
鳴くべき
時に
鳴く
爲にのみ
生れて
來た
蛙は
苅株を
引つ
返し/\
働いて
居る
人々の
周圍から
足下から
逼つて
敏捷に
其の
手を
動かせ/\と
促して
止まぬ。
蛙がぴつたりと
聲を
呑む
時には
日中の
暖かさに
人もぐつたりと
成つて
田圃の
短い
草にごろりと
横に
成る。
更に
蛙はひつそりと
靜かな
夜になると
如何に
自分の
聲が
遠く
且遙に
響くかを
矜るものゝ
如く
力を
極めて
鳴く。
雨戸を
閉づる
時蛙の
聲は
滅切遠く
隔つてそれがぐつたりと
疲れた
耳を
擽つて
百姓の
凡てを
安らかな
眠りに
誘ふのである。
熟睡することによつて
百姓は
皆短い
時間に
肉體の
消耗を
恢復する。
彼等が
雨戸の
隙間から
射す
夜明の
白い
光に
驚いて
蒲團を
蹴つて
外に
出ると、
今更のやうに
耳に
迫る
蛙の
聲に
其の
覺醒を
促されて、
井戸端の
冷たい
水に
全く
朝の
元氣を
喚び
返すのである。
草木は
遠く
遙に
響けと
鳴く
其の
聲に
撼られつゝ
夜の
間に
生長する。
櫟や
楢や
其他の
雜木は
蛙が
鳴けば
鳴く
程さうしてそれが
鳴き
止む
季節までは
幾らでも
繁茂することを
繼續しようとする。
其處には
毛蟲や
其の
他の
淺猿しい
損害が
或は
有るにしても、しと/\と
屡梢を
打つ
雨が
空の
蒼さを
移したかと
思ふやうに
力強い
深い
緑が
地上を
掩うて
爽かな
冷しい
陰を
作るのである。
鬼怒川の
西岸一
部の
地にも
恁うして
春は
來り
且推移した。
憂ひあるものも
無いものも
等しく
耒※[#「耒+秬のつくり」、U+801F、74-15]を
執つて
各其の
處に
就いた。
勘次も
其の
一人である。
勘次は
春の
間にお
品の四十九
日も
過した。
白木の
位牌に
心ばかりの
手向をしただけで一
錢でも
彼は
冗費を
怖れた。
彼が
再び
利根川の
工事へ
行つた
時は
冬は
漸く
險惡な
空を
彼等の
頭上に
表はした。
霙や
雪や
雨が
時として
彼等の
勞働に
怖るべき
障害を
與へて
彼等を一
日其寒い
部屋に
閉ぢ
込めた。一
日の
工賃は
非常な
節約をしても
次の
日に
仕事に
出なければ一
錢も
自分の
手には
残らなくなる。それは
食料と
薪との
不廉な
供給を
仰がねばならぬからである。
勘次はお
品の
發病から
葬式までには
彼にしては
過大な
費用を
要した。それでも
葬具や
其の
他の
雜費には二
錢づつでも
村の
凡てが
持つて
來た
香奠と、お
品の
蒲團の
下に
入てあつた
蓄とでどうにかすることが
出來た。それでも
醫者への
謝儀や
其の
他で
彼自身の
懷中はげつそりと
減つて
畢つた。さうして
小作米を
賣つた
苦しい
懷からそれでも
彼は
自分の
居ない
間の
手當に五十
錢を
託して
行つた。それも
卯平へ
直接ではなくて
南へ
頼んで
卯平へ
渡して
貰つた。
勘次が
行つてから
其の
錢を
出された
時卯平は
「さう
疑ぐるならわしは
預かりますめえ」といつて
拒絶した。
「まあ
其
ことゆはねえで
折角のことに、
勘次さんも
惡い
料簡でしたんでもなかんべえから」と
宥めても
到頭卯平は
聽かなかつた。
勘次はどうにか
稼ぎ
出して
歸りたいと
思つて一
生懸命になつたがそれは
僅に
生命を
繋ぎ
得たに
過ないのであつた。
近所の
村落から
行つたものは
凌ぎ
切れないで
夜遁して
畢つたものもあつた。それでも
勘次は
僅に
持つて
出た
財布の
錢を
減らさなかつたといふ
丈のことに
繋ぎ
止めた。
「おとつゝあ
居て
呉れたなあ」と
媚びるやうにいつて
自分の
家の
閾を
跨いだ
時は
足に
知覺のない
程に
彼は
草臥れて
夜は
闇くなつて
居た。
有繋に
二人の
子は
悦んで
與吉は
勘次の
手に
縋つた。
卯平がしたやうに
鐵砲玉が
勘次の
手から
出ることゝ
思つたらしかつた。
勘次は
苦しい
懷から
何も
買つては
來なかつた。
彼は
什
にしても
無邪氣な
子の
爲に
小さな
菓子の
一袋も
持つて
來なかつたことを
心に
悔いた。
「まんま」というて
小さな
與吉は
勘次に
求めた。
「そんぢや
爺が
砂糖でも
嘗めろ」とおつぎは
與吉を
抱て
棚の
袋をとつた。
寡言な
卯平は
一寸見向いたきりで
歸つたかともいはない。
勘次が
草臥れた
容子をして
居るのが
態とらしいやうに
見えるので
卯平は
苦い
顏をして、
火の
消えた
煙管をぎつと
噛みしめては
思ひ
出したやうに
雁首を
火鉢へ
叩き
付けた。
吸穀がひつゝいてるので
彼は
力一
杯に
叩きつけた。
勘次にはそれが
當てつけにでもされるやうに
心に
響いた。
「おつぎみんなでも
嘗めさせろ、さうして
汝も
嘗めつちめえ、おとつゝあ
稼えで
來たから
汝等も
此れからよかんべえ」
卯平はいつた。
勘次は
漸く
歸つた
其の
箭先にかういふことで
自分の
家でも
酷く
落付かない、こそつぱくて
成らない
心持がするので
彼は
足も
洗はずに
近所へ
義理も
足すからといつて
出て
行つた。
「
明日だつてえゝのに」
卯平は
後で
呟いた。
彼はぶすり/\と
口は
利くのであつたがそれでも
先刻からのやうにひねくれ
曲つたことは
此れまではいつたことはなかつた。
彼は
死んだお
品のことを
思つて
二人の
子が
憐れになつて
勘次の
居ない
間の
面倒を
見る
氣に
成つた。
彼は
僅な
菓子の
袋から
小さな
與吉に
慕はれて
見ると
有繋に
憎い
心持も
起らなかつた。
其の
間彼は
何にも
不足に
思つては
居なかつた。それを
勘次が
歸つて
見ると
性來好きでない
勘次へ
忽ちに
二人の
子は
靡いて
畢つた。
彼は
此までの
心竭しを
勘次に
奪はれたやうで、ふつと
不快な
感じを
起したのである。それもどんな
姿にも
勘次が
義理を
述ればそれでもまだよかつたが、
勘次は
妙に
身が
ひけてそれが
喉まで
出ても
抑へつけられたやうで
聲に
發することが
出來なかつたのである。
懷のさむしい
勘次はさうして
身がひけるのを
卯平には
却て
餘所/\しくされるやうな
感じを
與へた。
勘次は
卯平にも
子供にも
濟ぬやうな
氣がしたので
近所へ
義理を
足すというて
出て
菓子の
一袋を
懷へ
入れて
來た。
其の
時與吉はもう
眠つて
居た。
卯平は
變なことをすると
思つて
見て
居た。さうして
又更に
自分が
酷く
隔てられるやうに
思つた。
彼は五十
錢の
錢のことを
思ひ
出して
忌々敷なつた。
「
勘次等懷はよかつぺ」
卯平はぶつゝりと
聞いた。
「おとつゝあ、
俺らえゝ
所なもんぢやねえ、やつとのことで
逃げるやうにして
來たんだ、あんな
所へなんざあ
決して
行くもんぢやねえ、とつても
駄目なこつた、
俺も
懲りつちやつたよ」
勘次は
慌てゝいつた。
彼は
逢ふ
人毎に
必ずよからう/\といはれるのを
非常に
怖れて
居た。
「うむ、さうかなあ」
卯平は
氣のないやうにいつた。
「どうで
俺ら
餘計者だ、
居やしねえからえゝや、
幾ら
持てたつて
構やしねえ」
彼は
更に
獨語いた。
勘次は
蒼くなつた。
卯平は
勘次が
屹度錢を
隱して
居るのだと
思つたのである。
彼はそんなこんなが
不快に
堪へないので
次の
日野田へ
立つて
畢つた。
野田で
卯平の
役目といへば
夜になつて
大きな
藏々の
間を
拍子木叩いて
歩く
丈で
老人の
體にもそれは
格別の
辛抱ではなかつた。
晝は
午睡が
許されてあるので
其の
時間を
割いて
器用な
彼には
内職の
小遣取も
少しは
出來た。
好きな
煙草とコツプ
酒に
渇することはなかつた。
暑い
時にはさつぱりした
浴衣を
引つ
掛けて
居ることも
出來た。
其處は
彼には
住み
辛い
處でもなかつた。
只凍ての
酷い
冬の
夜などには
以前からの
持病である
疝氣でどうかすると
腰がきや/\と
痛むこともあつたが、
其の
時丈は
勘次とまづくなければお
品の
側でおとつゝあといはれて
居たい
心持もするのであつた。
生來子を
持つたことのない
彼はお
品一人が
手頼であつた。お
品に
死なれて
彼は
全く
孤立した。さうして
老後は
到底勘次の
手に
託さねばならぬことに
成つて
畢つたのである。それでも
不見目な
貧相な
勘次は
依然として
彼には
蟲が
好かなかつた。
彼は
野田へ
行けば
比較的に
不自由のない
生活がして
行かれるので
汝等が
厄介には
成らねえでも
俺はまだ
立て
行かれると、
恁うして
哀愁に
掩はれた
心の一
方には
老人の
僻みと
愚癡とが
起つたのであつた。
卯平は
心に
涙を
呑んだ。
勘次は
悄然として
居た。
與吉が
泣く
度に
彼は
困つた。さうして
毎日お
品のことを
思ひ
出しては、
天秤で
手桶を
擔いだ
姿が
庭にも
戸口にも
時としては
座敷にも
見えることがあつた。
側に
居るやうな
氣がして
思はず
顧みることもあるのであつた。
彼はお
品を
思ひ
出すと
與吉を
抱いては「なあ、おつかあは
居ねえんだぞ、おつかあが
乳房欲しがんねえんだぞ」と
始終いつて
聞かせた。お
品が
居ないと
殊更にいふのはそれは一つには
彼自身の
斷念の
爲でもあつたのである。
お
品は
豆腐を
擔いで
居る
時は
能く
麥酒の
明罎を
手桶へ
括つて
行つた。それで
歸りの
手桶が
輕くなつた
時は
勘次の
好きな
酒がこぼ/\と
罎の
中で
鳴つて
居た。お
品は
酒店へ
豆腐を
置いては
其錢だけ
酒を
入れて
貰ふので
豆腐の
儲けだけ
廉い
酒を
買つて
勘次を
悦ばせるのであつた。それはお
品の
死ぬ
年のことだけである。お
品は
漸く
商を
覺えたといつて
居たのはまだ
其の
夏の
頃からである。
初めは
極りが
惡くて
他人の
閾を
跨ぐのを
逡巡して
居た。
其の
位だから
變な
赤い
顏もして
餘計に
不愛想にも
見えるのであつたが、
後には
相應に
時候の
挨拶もいへるやうに
成つたとお
品は
能く
勘次へ
語つたのである。
勘次は
追憶に
堪へなくなつてはお
品の
墓塋に
泣いた。
彼は
紙が
雨に
溶けてだらりとこけた
白張提灯を
恨めし
相に
見るのであつた。
勘次は
悄れた
首を
擡げて三
人の
口を
糊するために
日傭に
出た。
彼は
能く
隣の
主人に
使つて
貰つた。
米は
屹度彼が
搗かせられた。
上手な
彼は
減らさないでさうして
白く
搗いた。
彼は
時としては
主人のうつかりして
居る
間に
藏から
餘計な
米を
量り
出して、そつと
隱して
置いて
夜自分の
家に
持つて
來ることがあつた。それも
僅か二
升か三
升に
過ぎない。
其の
位では
主人の
注意を
惹くには
足らなかつた。さうして
其の
米は
窮迫した
彼の
厨を
少時濕すのである。
或る
時彼れは
復た
主人の
米をそつと
掠めて
股引へ
入れて
目につかぬやうに
薪の
積んだ
間へ
押し
込んで
置いた。
傭人がそれを
發見して
竊に
主人の
内儀さんに
告げた。
内儀さんは
僅かなことだから
棄てゝ
置いて
遣れといつたが
然し
傭人は一つには
惡戯から
米を
明けて
其の
代に一
杯に
土を
入れて
置いた。
勘次は
發覺したことを
怖れ
且つ
恥ぢて
次の
日には
來なかつた。それから
數日間は
主人の
家に
姿を
見せなかつた。
内儀さんは
傭人の
惡戯を
聞いて
寧ろ
憐になつて
又こちらから
仕事を
吩咐けてやつた。
更に
袋へ
米と
挽割麥とを
交ぜたのを
入れて、それから
此れは
傭人にも
炊いてやれないのだからお
前がよければ
持つて
行つて
秋にでもなつたら
糯粟の
少しも
返せと二三
斗入つた
粳粟の
俵とを一つに
遣つた。
勘次は
主人の
爲に一
所懸命働いた。
其の
以前からも
彼は
只隣の
主人から
見棄てられないやうと
心には
思つて
居るのであつた。
然し
非常な
勞働は
傭人の
仲間には
忌まれた。それは
傭人も
彼に
倣つて
自分も
其の
勞力を
偸むことが
出來ないからである。
さうする
内に
世間は
復春が
移つて
雨が
忙しく
田畑へ
水を
供給した。
勘次は
自分の
後の
田へ
出て
刈株を
引つ
返しては
耕した。おつぎも
萬能を
持つて
勘次の
後に
跟いた。
勘次はお
品の
手が
減つた
丈はおつぎを
使つてどうにか
從來作つた
土地は
始末をつけようと
思つた。
殊に
田は
直後なので
什
にしても
手放すまいとした。一
且地主へ
還して
畢つたら
再び
自分が
欲しくなつても
容易に
手に
入れることが
出來ないのを
怖れたからである。
今におつぎを一
人前に
仕込んで
見ると
勘次は
心に
思つて
居る。
勘次は
萬能をぶつりと
打ち
込んではぐつと
大きな
土の
塊を
引返す。おつぎは
漸く
小さな
塊を
起す。
勘次の
手は
速かに
運動してずん/\と
先へ
進む。おつぎは
段々後れて
小さな
塊を
淺く
起して
進んで
行く。さうすると
「そんなに
可怖びつくりやんぢやねえかうすんだ」
勘次は
遲緩し
相におつぎの
萬能をとつて
打ち
込んで
見せる。
「そんでもおとつゝあ、
俺がにやさういにや
出來ねえんだもの」
「そんな
料簡だから
汝等駄目だ、
本當にやつて
見る
積でやつて
見ろ」
おつぎは
勘次に
後れつゝ
手の
力の
及ぶ
限り
働いた。
與吉は
田圃の
堀の
邊に
筵を
敷いて
其處に
置いてある。
「えんとして
居ろ、
動くんぢやねえぞ
動くとぽかあんと
堀の
中さ
落こちつかんな、そうら
蛙ぽかあんと
落こつた。
動くなあ、
此處に
棒あつた、そうら
此でも
持つてろ、
泣くんぢやねえぞ、
姉は
此の
田ン
中に
居んだかんな、
泣くとおとつゝあにあつぷつて
怒られつかんな」おつぎは
頬を
擦りつけて
能くいひ
含めた。
與吉は
土だらけの
短い
棒で
岸の
土を
叩いて
居る。さうして
時々後を
向いては
姉の
姿を
見て
安心して
棒でぴた/\と
叩いて
居る。
棒の
先が
水を
打つので
與吉は
悦んだ。それも
少時の
間に
飽いた。おつぎは
與吉がまた
見た
時には
田の
向の
端に
行つて
居た。
「
姉よう」と
與吉は
喚んだ。おつぎは
返辭しなかつた。
與吉は
又喚んだ。さうして
泣き
出した。おつぎは
立つて
行かうとすると
「
構あねえで
置け、
耕つてあつちへ
行つてからにしろ」
勘次は
性急に
嚴しくおつぎを
止めた。おつぎは
仕方なく
泣くのも
構はずに
耕した。
勘次は
先へ/\と
耕して
堀の
側まで
來た。
「
泣くな、
今姉が
後から
來らあ」
勘次はかういつて、
與吉に一
瞥を
與へたのみで一
心に
其の
手を
動かして
居る。
與吉はおつぎが
漸く
近づいた
時一しきり
又泣いた。
「
よきはどうしたんだ」おつぎは
岸へ
上つて
泥だらけの
足で
草の
上に
膝を
突た。
與吉は
笑交りに
泣いて
兩手を
出して
抱かれようとする。
「
姉は
泥だらけで
仕やうあんめえな、
汚れてもえゝのか
よきは」いひながらおつぎは
與吉を
抱いた。
「どうした、
蛙奴居ねえか、
此の
棒でばた/″\と
叩いてやれ、さうしたら
痛えようつて
蛙奴が
泣くべえな、
泣くな
蛙だよう、
よきは
泣かねえようつてなあ」おつぎは
與吉を
抱いた
儘勘次の
方を
見て
「おとつゝあ、あつちへ
行つちやつた、
姉も
行かなくつちやなんねえ、おとつゝあに
怒られつかんな、
又えんとして
居ろ」おつぎはそつと
與吉を
筵へ
卸した。
「かせえてやれ、
何してんだ、えゝ
加減にしろ」
勘次は
後を
向いて
呶鳴つた。
「それ
見ろな
怒られつから、そら
此處にえゝものが
有つた」おつぎは
田圃にある
鼠麹草の
花を

つて
筵へ
載て
遣つた。さうして
又危いやうにそうつと
田へおりた。
與吉は
只鼠麹草の
花を
弄つて
居た。
堀は
雨の
後の
水を
聚めてさら/\と
岸を
浸して
行く。
青く
茂つて
傾いて
居る
川楊の
枝が一つ
水について、
流れ
去る
力に
輕く
動かされて
居る。
水は
僅に
觸れて
居る
其枝の
爲に
下流へ
放射線状を
描いて
居る。
蘆のやうで
然も
極めて
細い
可憐なとだしばがびり/\と
撼がされながら
岸の
水に
立つて
居る。お
玉杓子が
水の
勢ひに
怺へられぬやうにしては、
俄に
水に
浸されて
銀のやうに
光つて
居る
岸の
草の
中に
隱れやうとする。さうしては
又凡ての
幼いものゝ
特有で
凝然として
居られなくて
可憐な
尾をひら/\と
動かしながら、
力に
餘る
水の
勢にぐつと
持ち
去られつゝ
泳いで
居る。
與吉は
鼠麹草の
花を
水へ
投げた。
花が
上流に
向いて
落ちると、ぐるりと
下流へ
押し
向けられてずんずんと
運ばれて
行く。
岸の
草の
中に
居た
蛙は
剽輕に
其花へ
飛び
付いて、それからぐつと
後の
足で
水を
掻いて
向の
岸へ
着いてふわりと
浮いた
儘大きな
目を

つてこちらを
見る。
鼠麹草の
花が
皆投げ
竭されて
與吉は
又おつぎを
喚んだ。
「おうい」とおつぎの
情を
含んだ
聲が
遠くからいつた。おつぎの
返辭を
聞いては
與吉は
口癖のやうに
姉よと
喚ぶ。
其度毎におつぎは
忙しい
手を
動かしながらそれに
應ずるのである。
正午にはまだ
間があるうちに
午餐の
支度を
急いでおつぎは
田圃から
茶を
沸しにのぼる。
與吉は
悦んでおつぎの
背に
噛りついた。
勘次は
後で
獨り
耕した。
青い
煙が
楢の
木から
立つて
軈て
「
沸いたぞう」とおつぎの
聲で
喚ばれるまでは
勘次は
忙しい
其の
手を
止めなかつた。
午餐過からおつぎは
縫針へ
絲を
透して
竿へ
附けて
與吉に
持たせた。
與吉は
外の
子供のするやうに
其の
針を
擧げて
見ては
又水へ
投げて
大人しくして
居る。
暫く
時間が
經つと
又姉ようと
喚ぶ。おつぎは
堀の
近くへ
耕して
來た
時に
見ると
與吉の
竿は
絲がとれて
居た。おつぎは
岸へ
上つた。
「どうしたんでえ、
よきは」おつぎは
見ると
針が
向の
岸から
出た
低い
川楊の
枝に
纏つて
絲の
端が
水について
下流へ
向いて
居る。おつぎは二
町ばかり
上流の
板橋を
渡つて
行つて、
漸くのことで
枝を
曲げて
其針をとつた。さうして
又與吉の
棒へ
附けてやつた。
「はあ
引つ
懸けんぢやねえぞ
大變だかんな」おつぎは
極めて
輕く
叱つて
又田へおりた。
勘次は
又呶鳴つた。
「そんでも
よきは
絲切つちまつたんだもの」
おつぎは
危ぶむやうにして
控へ
目に
聲を
立てゝいつた。おつぎは
默つて
其の
手を
動かして
居る。
與吉は
返辭がなくても
懷かし
相に
姉ようと
數次喚び
掛けた。おつぎの
姿が
遠くなれば
筵へ
口のつく
程屈んで
聲を
限りに
喚んだ。
其の
晩勘次は
二人を
連れて
近所へ
風呂を
貰ひに
行つた。おつぎは
其處へ
聚つた
近所の
女房に
自分の
手を
見せて
「
俺らこんなに
肉刺出つちやつたんだよ」と
呟いた。
「ほんによな、
痛かつぺえなそりや、そんでもおつかあが
居ねえから
働かなくつちやなんねえな」
女房は
慰めるやうにいつた。
「おつかあのねえものは
厭だな」おつぎはいつて
勘次を
見ると
直に
首を
俛た。
勘次は
側で
凝然とそれを
聞いて
居た。
「おつう
等だつて
今に
善えこともあらな、そんだがおつかゞ
無くつちや
衣物欲しくつても
此ばかりは
仕やうがねえのよな」
女房はいつた。
勘次は
其
ことは
云はずに
居て
呉れゝばいゝのにと
思ひながら
六か
敷い
顏をして
默つて
居た。
「
此の
肉刺は
とがめめえか」おつぎは
手の
平の
處々に
出た
肉刺を
見て
心配相にいつた。
「
何でとがめるもんか」
勘次は
抑制した
或物が
激發したやうに
直に
打消した。
勘次は
家に
戻ると
飯臺の
底にくつゝいて
居る
飯の
中から
米粒ばかり
拾ひ
出してそれを
煙草の
吸殼と
煉合せた。さうして
針の
先でおつぎの
湯から
出たばかりで
軟かく
成つた
手の
肉刺をついて
汁液を
出して
其處へそれを
貼つて
遣つた。
「しく/\すんな」おつぎは
貼つた
箇所を
見ていつた。
「
液汁出したばかりにやちつた
痛えとも、その
代すぐ
癒つから」
勘次はおつぎを
凝然と
見てそれからもう
鼾をかいて
居る
與吉を
見た。
「
肉刺なんぞ
出たらば
出たつておとつゝあげいふもんだ、
他人のげなんぞ
見せたりなにつかするもんぢやねえ、
汝等なんにも
知らねえから
仕やうねえ、
田耕え
始まりにやおとつゝあ
等見てえな
手だつてかうえに
出んだか
見ろ。それ
痛えの
我慢しい/\
行りせえすりや
固まつちあんだ」
勘次は
自分の
手をおつぎへ
示した。
「おつかゞ
無くなつて
困んな
汝ばかしぢやねえんだから」
勘次は
暫く
間を
置てぽつさりとしていつた。
「
身上の
爲だから
汝も
我慢するもんだ、
見ろ
汝等處ぢやねえ、
武州の
方へなんぞ
遣られて
泣き
拔いてるものせえあら」と
彼は
又辛うじていつた。
大人しく
默つて
居たおつぎは
「
武州ツちやどつちの
方だんべ」
寧ろあどけなく
聞いた。
「あつちの
方よ、
汝が
足ぢや一日にや
歩けねえ
處だ」
勘次は
雨戸の
方を
向いて
西南を
示した。
「
遠いんだな、
其處へ
行つたらどうすんだんべ」
「
機織するものもあれば
百姓するものもあんのよ」
「
機教れぢやよかんべな」
「
何でえゝことあるもんか、
家へなんざあ
滅多に
來られやしねえんだぞ、そんで
朝から
晩迄みつしら
使あれて、それ
處ぢやねえ
病氣に
成つたつて
餘程でなくつちや
葉書もよこさせやしねえ」
「そんぢや、さうえ
處へ
行つちやひでえな、
逃げて
來ることも
出來ねえんだんべか」
「
直ぐ
捉めえられつちあからそんなに
遁げられつかえ」
「
巡査に
捉まんだんべか」
「さうなもんか、
巡査でなくつたつて
遁げ
出せば
直ぐ
捉めえるやうに
人が
番してんのよ、なあ、そんでもなくつちや
遠くの
者ばかり
頼んで
置くんだもの
仕やうあるもんか」
「そんでも
厭だつちつたらどうすんだんべ」
「
厭だなんていつた
位ひでえとも
立金しなくつちやなんねえから」
「どういにすんだんべそら」
「そらなあ、
幾ら
勤めたつて
途中で
厭だからなんて
出つちめえば、
借りた
丈の
給金はみんな
取つくる
返えされんのよ、なあ、それから
泣き/\も
居なくつちやなんねえのよ」
「そんぢや
俺らさうえ
處へ
行かねえでよかつたつけな」おつぎは
熱心にいつた。
「そんだから
汝等こた
遣りやしねえ。
汝こと
奉公にやれば
其の
錢で
俺ら
借金も
無くなるし、
よきことだつて
輕業師げでも
出しつちめえばそれこそ
樂になつちあんだが、おつかゞ
無くつちや
辛えつて
後で
泣かれんの
厭だから
俺ら
土噛つてもそんな
料簡は
出さねんだ」
「おとつゝあ、
奉公すれば
借金なくなんだんべか」
「おつかせえ
居れば
汝ことも
奉公に
出して、おとつゝあ
等もえゝ
錢捉めえんだが、おつかゞ
無くなつておとつゝあだつて
困つてんだ、それから
汝だつて
奉公に
行つた
積で
辛抱するもんだ、なあ、
俺ら
汝等げみじめ
見せてえこたあ
有りやしねんだから」
勘次はしみ/″\と
反覆した。
勘次はおつぎに
身體不相應な
仕事をさせて
居ることを
知つて
居る。それで
自分が
朝は
屹度先へ
起きて
竈の
下へ
火を
點ける。
其の
時疲れた
少女はまだぐつたりと
正體もなく
枕からこけて
居る。
白い
蒸氣が
釜の
蓋から
勢ひよく
洩れてやがて
火が
引かれてからおつぎは
起される。
帯を
締た
儘横になつたおつぎは
容易に
開かない
目をこすつて
井戸端へ
行く。
蓬々と
解けた
髮へ
櫛を
入れて
冷たい
水へ
手を
入れた
時おつぎは
漸く
蘇生つたやうになる。それでも
目はまだ
赤くて
態度がふら/\と
懶相である。
「さあ、
飯出來たぞ」
勘次は
釜から
茶碗へ
飯を
移す。さうして
自分で
農具を
執つておつぎへ
持たせてそれからさつさと
連れ
出すのである。
籾種がぽつちりと
水を
突き
上げて
萌え
出すと
漸く
強くなつた
日光に
緑深くなつた
嫩葉がぐつたりとする。
軟かな
風が
凉しく
吹いて
松の
花粉が
埃のやうに
濕つた
土を
掩うて、
小麥の
穗にもびつしりと
黴のやうな
花が
附いた。
百姓は
皆自分の
手足に
不足を
感ずる
程忙しくなる。
勘次は一
意只仕事の
手後れになるのを
怖れた。
草臥れても
疲れても
彼は
毎日未明に
起きて
夜まで
其の
手足を
動かして
止まぬ。おつぎも
其の
後に
跟いて
草臥れた
身體を
引きずられた。
晩餐の
支度に
與吉を
負うて
先へ
歸るのがおつぎにはせめてもの
骨休めであつた。
勘次は
麥の
間へ
大豆を
蒔いた。
畦間へ
淺く
堀のやうな
凹みを
拵へてそこへぽろ/\と
種を
落して
行く。
勘次はぐい/\と
畦間を
掘つて
行く。
後からおつぎが
種を
落した。おつぎのまだ
短い
身體は
麥の
出揃つた
白い
穗から
僅に
其の
被つた
手拭と
肩とが
表はれて
居る。
與吉は
道の
側の
薦の
上に
大人しくして
居る。おつぎの
白い
手拭が
段々麥の
穗に
隱れると
與吉は
姉ようと
喚ぶ。おつぎはおういと
返辭をする。おつぎの
聲が
聞えると
與吉は
凝然として
居る。
勘次は
畦間を
作りあげてそれから
自分も
忙しく
大豆を
落し
初めた。
勘次は
間懶つこいおつぎの
手もとを
見て
其の
畝をひよつと
覗いた。
種と
種との
間隔が
不平均で四
粒も五
粒も一つに
落ちてる
處があつた。
「
此のざまはどうしたんだ、こんなこつて
生計が
出來つか」と
呶鳴りながら
彼は
突然おつぎを
擲つた。おつぎは
麥の
幹と
共に
倒れた。おつぎは
倒れた
儘しく/\と
泣いた。
「
大概解り
相なもんぢやねえか、こんなざまぢや
種ばかし
要つて
仕やうありやしねえ」
勘次は
後を
呟いた。
隣の
畑に
此も
大豆を
蒔いて
居た
百姓は
駈けて
來た。
「
勘次さんどうしたもんだいまあ、
其
荒つぺえことして」と
勘次を
抑へた。
「おつぎ
泣かねえでさあ
起きて
仕事しろ、おとつゝあげは
俺謝罪つてやつかんなあ、
與吉が
泣てら、さあ
行つて
見さつせ」
百姓は
更におつぎを
賺した。
與吉はおつぎの
姿が
見えないので
頻りに
喚んだ。それでもおつぎの
聲は
聞えないので
火の
點いたやうに
泣き
出したのである。おつぎは
啜り
泣きしながら
與吉を
抱いた。
「お
袋もねえのにおめえいゝ
加減にしろよ、
可哀想ぢやねえか、そんなことしておめえ
幾つだと
思ふんだ、さう
自分の
氣のやうに
出來るもんぢやねえ、
佛の
障にも
成んべぢやねえか」
隣畑の
百姓はいつた。
勘次は
默つて
畢つて
何ともいはなかつた。
與吉はおつぎに
抱かれたので、おつぎの目がまだ
濕うて
居るうちに
泣き
止だ。
勘次は
其の
日の
夕方おつぎが
晩餐の
支度に
立つた
時自分も
一つに
家へ
戻つた。
彼は
膝がしらで
四つ
偃に
歩きながら
座敷へあがつて
財布を
懷へ
捩ぢ
込んでふいと
出た。
彼は
風呂敷包を
持つて
歸つた。
彼が
戸口に
立つた
時は
家の
内は
眞闇で
一寸は
物の
見分もつかなかつた。
草臥れ
切つた
身體で
彼は
其夜も
二人を
連れて、
自分の
所有ではない
其茂つた
小さな
桑畑を
越えて
南の
風呂へ
行つた。
其處にはいつものやうに
風呂を
貰ひに
女房等が
聚つて
居た。
「
能くなあ、おつうは
よきこと
面倒見んな、
女の
子は
斯うだからいゝのさな、
直ぐ
役に
立つかんな」
女房の
一人がいつた。
「おつぎはどうしたんでえ、
今夜ひどく
威勢惡いな」
他の
女房がいつた。
「
先刻俺に
打つとばされたかんでもあんべえ」
勘次は
苦笑しながらいつた。
「
何でだつぺなまあ、おめえそんなに
仕ねえで
面倒見てやらつせえよ、
此れがおめえ
女つ
子でもなくつて
見さつせえ、こんな
小えの
抱えて
仕やうあるもんぢやねえな」
「さうだともよ、こらおつうでも
無くつちや
育たなかつたかも
知んねえぞ、それこそ
因果見なくつちやなんねえや、なあおつう」
女房等はいつた。
「
俺がとこちつともこら
離んねえんだよ
仕やうねえやうだよ
本當に」おつぎはもう
段々手に
餘つて
來た
與吉を
膝にしていつた。
「
今ぢや、まるつきしおつかのやうな
氣がしてんだな、
屹度」
女房らはまた
與吉を
見ていつた。
勘次は
側で
只目を
屡叩いた。
家へ
戻つてから
勘次は
「おつう、
手ランプ
持つて
來て
見せえ、
汝げ
見せるものあんだから」
おつぎは
出る
時に
吹消たブリキの
手ランプを
點けて、まだ
容子がはき/\としなかつた。
勘次は
先刻の
風呂敷包を
解いた。
小さく
疊んだ
辨慶縞の
單衣が
出た。
「
汝げ
此遣んべと
思つて
持つて
來たんだ。
此んでもなよ、おつかゞ
地絲で
織つたんだぞ、
今ぢや
絲なんぞ
引くものなあねえが、おつか
等毎晩のやうに
引いたもんだ、
紺もなあ
能うく
染まつてつから
丈夫だぞ、おつかは
幾らも
引つ
掛ねえつちやつたから、まあだまるつきり
新しいやうだ
見ろ、どうした
手ランプまつとこつちへ
出して
見せえまあ」
勘次は
單衣を
少し
開いて
鼻へ
當て
臭を
嗅いで
見た。
「ちつたあ
黴臭くなつたやうだが、そんでも
此位ぢや
一日干せば
臭えな
直つから」
勘次は
分疏でもするやうにいつた。
おつぎは
左手に
持ち
換た
手ランプを
翳して
單衣を
弄つては
浴後のつやゝかな
顏に
微笑を
含んだ。
勘次はおつぎの
顏ばかり
見て
居た。さうして
其の
機嫌が
恢復しかけたのを
見て
「どうした、それでも
汝りや
氣につたか、おつかゞ
物はみんな
汝がもんだかんな、
俺ら
汝ツ
等がだとなりや
幾ら
困つたつて、はあ
決して
質になんざ
置かねえから、
大事にして
汝能うく
藏つて
置いたえ」と
彼は
滿足らしく
見えた。おつぎは
手ランプを
置いて
勘次がしたやうに
鼻へ
當てゝ
臭を
嗅いで
見たり、
左の
手だけを
袖へ
透して
見たりした。
「
俺がにや
此んぢや
引きじるやうぢやあんめえか」おつぎはそれから
手で
釣るして
見たりした。
「
藏つて
置いて、
俺らいまつと
大く
成つてから
着べかな」
「どうでも
汝がもんだから
汝が
好きにしろな」
勘次はおつぎの
手が
動くに
從つて
目を
移した。
手ランプのぼうと
立つ
油煙がほぐれた
髮へ
靡き
掛るのも
知らずにおつぎはそつちこつちへ
單衣を
弄つて
居た。
「
汝うつかりして、そうれ
燃えつちまあぞ」
勘次は
油煙が
復た
傾いた
時慌てゝおつぎの
髮へ
手を
當てゝいつた。
勘次の
田畑は
晩秋の
收穫がみじめなものであつた。それは
氣候が
惡いのでもなく、
又土地が
惡いのでもない。
耕耘の
時期を
逸して
居るのと、
肥料の
缺乏とで
幾ら
焦慮つても
到底滿足な
結果が
得られないのである。
貧乏な
百姓はいつでも
土にくつゝいて
食料を
獲ることにばかり
腐心して
居るにも
拘はらず、
其の
作物が
俵になれば
既に
大部分は
彼等の
所有ではない。
其の
所有であり
得るのは
作物が
根を
以て
田や
畑の
土に
立つて
居る
間のみである。
小作料を
拂つて
畢へば
既に
手をつけられた
短い
冬季を
凌ぐ
丈けのことがともすれば
漸くのことである。
彼等は
自分で
田畑が
忙しい
時にも
其の
日に
追れる
食料を
求る
爲に
比較的收入のいゝ
日傭に
行く。
百姓といへば
什
に
愚昧でも
凡ての
作物を
耕作する
季節を
知らないことはない。
村落の
端から
端まで
皆同一の
仕事に
屈託して
居るのだから
其の
季節を
假令自分が
忘れたとしても
全く
忘れ
去ることの
出來るものではない。
然しもう
季節だと
知つて
見ても
其の
日/\の
食料を
求める
爲めに
勞力を
割くのと、
肥料の
工夫がつかなかつたりするのとで
作物の
生育からいへば
三日を
爭ふやうな
時でも
思ひながら
手が
出ないのである。
以前のやうに
天然の
肥料を
獲ることが
今では
出來なくなつて
畢つた。
何處の
林でも
落葉を
掻くことや
青草を
刈ることが
皆錢に
餘裕のあるものゝ
手に
歸して
畢つた。それと
共に
林は
封鎖されたやうな
姿に
成つて
居る。
冬毎に
熊手の
爪の
及ぶ
限り
掻いて
行くので、
草も
隨つて
短くなつて
腰を
沒するやうな
處は
滅多にない。
其の
草も
更に
土から
刈つて
行くので
次第に
土が
痩せて
行く。だから
空手では
何處へ
行つても
竊取せざる
限は
存分に
軟かな
草を
刈ることは
出來ない。
貧乏な
百姓は
落葉でも
青草でも、
他人の
熊手や
鎌を
入れ
去つた
後に
求める。さうして
瘠せて
行く
土を
更に
骨まで
噛むやうなことをして
居るのである。一
般には
落葉や
青草の
缺乏を
感ずると
共に
便利な
各種の
人造肥料が
供給される。
然しそれも
依然として
金錢に
幾らでも
餘裕のある
人にのみ
便利なのであつて、
貧乏な
百姓には
牛や
馬が
馬塞棒で
遮られたやうな
形でなければならぬ。さうかといつて
其れ
等の
肥料なしには
到底一
般に
定められてある
小作料を
支拂ふ
丈の
收穫は
得られないので
慘憺たる
工夫が
彼等の
心を
往來する。さうして
又食料を
求める
爲に
勞力を
他に
割くことによつて、
作物の
畦間を
耕すことも
雜草を
除くことも一
切が
手後れに
成る。
季節が
暑くなれば
雨があつて三
日も
見ないうちには
雜草は
驚くべき
迅速な
發育を
遂げる。それが
著しく
作物の
勢力を
阻害する。それだけ
收穫の
減少を
來さねばならぬ
筈である。
要するに
勤勉な
彼等は
成熟の
以前に
於て
既に
青々たる
作物の
活力を
殺いで
食つて
居るのである。
收穫の
季節が
全く
終りを
告げると
彼等は
草木の
凋落と
共に
萎靡して
畢はねばならぬ。
草木の
眠りに
落ち
去る
少くとも五六十
日の
間は、
彼等は
稀に
冬懇というて
麥の
畦間を
耕すことや
林の
間に
落葉や
薪を
求めることがあるに
過ぎぬ。
自分の
食料に
換る
丈の
錢を
獲ることが
其の
期間の
仕事に
於ては
見出されないのである。
蛇や
蛙や
其の
他の
蟲類が
假死の
状態に
在る
間に
彼等は
目前に
逼つて
居る
未來の
苦しみを
招く
爲に、
過去の
苦しかつた
記念である
其の
缺乏した
米や
麥を
日毎に
消耗して
行くのである。
彼等は
手に
内職を
持つて
居らぬ。
自分の
使用すべき
爲にのみは
筵も
草履も
畚も
草鞋も
其の
他のものも
藁で
作ることを
知つて
居れども、
大抵は
刈り
後れになつた
藁では
立派な
製作は
得られないのである。それであるのに
彼等は
肥料の
缺乏を
訴へつゝ
其の
藁屑や
粟幹や
其の
他のものが
庭に
散らばつて
居ても
容易にそれを
始末しようとしない。
他人の
注意を
受けてもそれでも
改めることをしない。
彼等は
苦しい
時に
苦しむことより
外に
何にも
知ることがないのである。
勘次も
彼等の
仲間である。
然しながら
彼は
境遇の
異常な
刺戟から
寸時も
其の
身を
安住せしむる
餘裕を
有たなかつた。
彼も
他の
貧乏な
百姓のするやうに
冬の
季節になれば
薪を
採つて
壁に
積んで
置くことをした。
彼は
近來に
成つてから
隣の
主人が
林を
改良する
爲に
雜木林を一
旦開墾して
畑にするといふことに
成つたので
其の一
部を
擔當した。
彼は
小さな
身體である。
然し
彼は
重量ある
唐鍬を
振り
翳して一
鍬毎にぶつりと
土をとつては
後へそつと
投げつゝ
進む。
彼は
其開墾の
仕事が
上手で
且つ
好きである。
其のきりつと
緊つた
身體は
小さいにしてもそれが
各部の
平均を
保つて
唐鍬を
執るときには
彼と
唐鍬とは
唯一
體である。
唐鍬の
廣い
刄先が
木の
根に
切り
込む
時には
彼の
身體も
一つにぐざりと
其の
根を
切つて
透るかと
思ふやうである。
土を
切り
起すことの
上手なのは
彼の
天性である。それで
彼は
遠く
利根川の
工事へも
行つたのであつた。
彼は
自分の
伎倆を
恃んで
居る。
彼は
以前からも
少しづつ
開墾の
仕事をした。
其の
賃錢によつて
其の
土地を
深くも
淺くも
速くも
遲くも
仕上げることを
知つて
居た。
竹林を
開墾した
時彼は
根の
閉ぢた
儘一
坪の
大きさを
只四つの
塊に
掘り
起したことがある。それでも
其の
頃まではさういふ
仕事が
幾らも
無かつたので、
其の
賃錢は
仕事を
始める
時其の
研ぎ
減らした
唐鍬の
刄先を
打たせる
鍛冶の
手間と、
異常な
勞働の
爲に
費す
其の
食料を
除いては
幾らもなかつたのである。
彼は
主人の
開墾地が
春一
杯の
仕事には十
分であることを
悦んだ。
錢の
外に
彼は
米と
麥との
報酬を
受けることにした。おつぎは
別に
仕事といつてはなかつたが
彼はおつぎを
一人では
家に
置かなかつた。
與吉を
連れておつぎは
開墾地へ
行つて
居た。
勘次が
其の
鍛錬した
筋力を
奮つて
居る
間におつぎはそこらの
林から
雀枝を
採つて
小さな
麁朶を
作つて
居る。
小さな
枝は
土地では
雀枝といはれて
居る。
枯た
雀枝を
採ることは
何處の
林でも
持主が
八釜敷いはなかつた。
勘次は
雨でも
降らねば
毎日必ず
唐鍬を
擔いで
出た。
或日彼は
木の
株へ
唐鍬を
強く
打込んでぐつとこじ
扛げようとした
時鍛へのいゝ
刃と
白橿の
柄とは
強かつたのでどうもなかつたが、
鐵の
楔で
柄の
先を
締めた
其の
唐鍬の四
角な
穴の
處が
俄に
緩んだ。
其處はひつといはれて
居る。ひつに
大きな
罅が
入つたのである。
柄がやがてがた/\に
動いた。
「えゝ、
箆棒、
一日の
手間鍛冶屋へ
打つ
込んちあなくつちやなんねえ」
彼は
呟いた。
次の
朝彼は
未明に
鍛冶へ
走つた。
「わし
行つて
來あんすから、
此等こと
見てゝおくんなせえ」おつぎと
與吉とを
南の
女房へ
頼んだ。
「
他へは
行くんぢやねえぞ、えゝか、よきは
泣かさねえやうにしてんだぞ」
彼はおつぎへもいつて
出た。おつぎは
其
注意を
人前でされることがもう
耻かしく
厭な
心持がするやうに
成て
居た。
勘次は
鬼怒川の
渡を
越えて
土手を
傳ひて、
柄のない
唐鍬を
持つて
行つた。
鍛冶は
其の
時仕事が
支へて
居たが、それでも
恁ういふ
職業に
缺くべからざる
道具といふと
何處でもさういふ
例の
速に
拵へてくれた。
「
隨分荒えことしたと
見えつけな、
俺らも
近頃になつて
此の
位えな
唐鍬滅多打つたこたあねえよ、」
鍛冶は
赤く
熱した
其の
唐鍬を
暫く
槌で
叩いて、それから
土中へ
据ゑた
桶の
泥を
溶いたやうな
水へぢうと
浸して、
更に
又小さな
槌でちん/\と
叩いて
「こんだこさ
大丈夫だ、
先にやどうして
罅なんぞいつたけかよ」
鍛冶は
汗の
額を
勘次に
向けて
「
柄が
折つちよれねえうちは
動きつこねえから」といつて
又
「
身體の
割にしちや
圖無えな」と
鍛冶は
微笑した。
鐵の
臭のする
唐鍬を
提げて
勘次は
復土手を
走つた。
其の
日も
西風が
枯木の
林から
麥畑からさうして
鬼怒川を
渡つて
吹いた。
鬼怒川の
水は
白い
波が
立つて、
遠くからはそれが
粟を
生じた
肌のやうに
只こそばゆく
見えた。
西風は
川に
吹き
落ちる
時西岸の
篠をざわ/\と
撼がす。
更に
東岸の
土手を
傳うて
吹き
上げる
時、
土手の
短い
枯芝の
葉を
一葉づゝ
烈しく
靡けた。
其の
枯芝の
間にどうしたものか
氣まぐれな
蒲公英の
黄色な
頭がぽつ/\と
見える。どうかすると
土手は
靜かで
暖かなことがあるので、
遂騙されて
蒲公英がまだ
遠い
春を
遲緩しげに
首を
出して
見ては、また
寒く
成つたのに
驚いて
蹙まつたやうな
姿である。
勘次は
唐鍬を
持つて
復た
自分の
活力を
恢復し
得たやうに、それから
又一
日仕事を
怠れば
身内がみり/\して
何だか
知らぬが
其の
仕事に
催促されて
成らぬやうな
心持がした。
鬼怒川の
水は
落ちて
此方の
土手から
連つて
居る
大きな
洲が
其の
流れを
西岸の
篠の
下まで
蹙めて
居る。
廣く
且遠い
洲には
只西風が
僅に
乾いた
砂をさら/\と
掃くやうにして
吹いて
居る。それで
白く
乾燥した
洲は
只からりと
清潔に
見える。さういふ
間にどうしたものか
此れも
氣まぐれな
人が、
遠くは
其の
砂から
生えたやうに
見えてちらほらと
散らばつて
少しづゝ
動いて
居る。
勘次は
土手からおりて
見た。
動いて
居る
人々は
萬能で
其の
砂を
掘つて
居るのであつた。
西風が
乾かしてはさらさらと
掃いて
居ても
洲には
猶幾らか
波の
趾がついて
居る。
其砂の
中からは
短い
木片が
出る。二三
寸から五六
寸位な
稀には一
尺位なものも
掘り
起される。
皆研ぎ
減したやうな
木片のみである。
人々は
冷たく
成つた
手を
口へ
當てゝ
白い
暖かい
息を
吹つ
掛けながら一
心に
先へ
先へと
掘り
起しつゝ
行く。
「どうするんだね」
勘次は
一人の
側へ
立つて
聞いた。ひよつと
首を
擡げたのは
婆さんであつた。
婆さんは
腰をのして
強い
西風によろける
足を
踏しめて
「
此れ
干して
置いて
燃すのさ」と
穢い
白髮と
手拭とを
吹かれながら
目を
蹙めていつた。
「どうしても
斯う
成つちやべろ/\
燃えて
飽氣なかんべえね」
勘次は
聞いた。
「
赤え
灰に
成つてな、
火も
弱えのさ、そんでも
麁朶買あよりやえゝかんな、
松麁朶だちつたつてこつちの
方へ
來ちや
生で卅五
把だの
何だのつて、ちつちえ
癖にな、
俺らやうな
婆でも十
把位は
背負へんだもの、
近頃ぢや
燃す
物が一
番不自由で
仕やうねえのさな」
婆さんはいつた。
「
松麁朶で卅五
把ぢや
相場はさうでもねえが、
商人がまるき
直すんだから
小さくもなる
筈だな」
勘次は
首を
傾けていつた。
「さうだごつさらよなあ、そりやさうとおめえさん
何處だね」
萬能を
杖にして
婆さんはいつた。
「
俺ら
川向さ」
「そんぢや
燃す
木は
有つ
處だね」
婆さんは
更に
勘次の
唐鍬を
見て
「たいした
唐鍬だが
餘つ
程すんだつぺな」
「さうさ
今打たせちや
三十掛は
屹度だな」
「
三十掛ツちや
幾らするごつさら、
目方もしつかり
掛んべな」
「
一貫目もねえがな」
勘次は
自慢らしく
婆さんへ
唐鍬を
持たせた。
「おういや、
俺らがにや
引つたゝねえやうだ、おめえさん
自分で
使あのけまあ、
何したごつさらよ
此んな
道具なあ」
「
毎日木根つ
子起してたんだが、
唐鍬のひつ
痛つちやつたから
直し
來た
處さ」
「そんぢやおめえさん
燃す
物にや
不自由なしでえゝな」
婆さんは
羨まし
相にいつた。さうして
小さな
木片を
入る
爲に
持て
來た
麻の
穢い
袋を
草刈籠から
出した。
僅に
鬼怒川の
水を
隔てゝ
西は
林が
連つて
居る。
村落も
田も
畑も
其の
林に
包まれて
居る。
東は
只低い
水田と
畑とで
村落が
其の
間に
點在して
居る。
其處に
家を
圍んで
僅かな
木立が
有るばかりである。
隨つて
薪の
缺乏から
豆幹や
藁のやうなものも
皆燃料として
保存されて
居ることは
勘次も
能く
知つて
居た。
然し
其の
薪の
缺乏から
自然にかういふ
砂の
中に
洪水が
齎した
木片の
埋まつて
居るのを
知つて
之を
求めて
居るのだといふことは
彼は
始めて
見て
始めて
知つた。
彼は
滅多に
川を
越えて
出ることはなかつたのである。
勘次は
自分の
壁際には
薪が一
杯に
積まれてある。
其上に
開墾の
仕事に
携はつて
何といつても
薪は
段々殖えて
行くばかりである。
更に
其の
開墾に
第一の
要件である
道具が
今は
完全して
自分の
手に
提げられてある。
彼は
恁ういふ
辛苦をしてまでも
些少な
木片を
求めて
居る
人々の
前に
矜を
感じた。
彼は
自分の
境遇が
什
であるかは
思はなかつた。
又恁ういふ
人々の
憐れなことも
想ひやる
暇がなかつた。さうして
彼は
自分の
技倆が
愉快になつた。
彼は
再び
土手から
見おろした。
萬能を
持つて
居るのは
皆女で十三四の
子も
交つて
居るのであつた。
人々の
掘り
起した
趾は
畑の
土を
蚯蚓が
擡げたやうな
形に、
濕つた
砂のうね/\と
連つて
居るのが
彼の
目に
映つた。
彼は
家に
歸ると
共に
唐鍬の
柄を
付た。
鉈の
刀背で
鐵の
楔を
打ち
込んでさうして
柄を
執つて
動かして
見た。
次の
朝からもう
勘次の
姿は
林に
見出された。
主人から
與へられた
穀物は
彼の一
家を
暖めた。
彼は
近來にない
心の
餘裕を
感じた。
然しさういふ
僅な
彼に
幸ひした
事柄でも
幾らか
他人の
嫉妬を
招いた。
他の
百姓にも
悶躁いて
居る
者は
幾らもある。さういふ
伴侶の
間には
僅に五
圓の
金錢でもそれは
懷に
入つたとなれば
直に
世間の
目に
立つ。
彼等は
幾らづゝでも
自分の
爲になることを
見出さうといふことの
外に、
目を
峙てゝ
周圍に
注意して
居るのである。
彼等は
他人が
自分と
同等以下に
苦んで
居ると
思つて
居る
間は
相互に
苦んで
居ることに一
種の
安心を
感ずるのである。
然し
其の
一人でも
懷のいゝのが
目につけば
自分は
後へ
捨てられたやうな
酷く
切ないやうな
妙な
心持になつて、そこに
嫉妬の
念が
起るのである。それだから
彼等は
他の
蹉跌を
見ると
其僻んだ
心の
中に
竊に
痛快を
感ぜざるを
得ないのである。
勘次の
家には
薪が
山のやうに
積まれてある。それが
彼等の
伴侶の
注目を
惹いた。それとはなしに
數次彼の
主人に
告げられた。
開墾地で
木を
焚いた
其灰をも
家に
運んだといふことまで
主人の
耳に
入つた。
勘次は
開墾の
手間賃を
比較的餘計に
與へられる
代りには
櫟の
根は一つも
運ばない
筈であつた。
彼等の
伴侶はさういふことをも
知つて
居た。
晝餐の
後や
手の
冷たく
成つた
時などには
彼はそこらの
木を
聚めて
燃やす。
木の
根が
燻ぶつていつでも
青い
煙が
少しづゝ
立つて
居る。
彼は
其煙に
段々遠ざかりつゝ
唐鍬を
打ち
込んで
居る。
毎日火は
別な
處で
焚かれた。
彼は
屹度其の
灰を
掻つ
掃いで
去つたのである。
然し
壁際に
積んだ
木の
根はそこには
不正なものが
交つて
居るにしても、
大部分は
彼の
非常な
勞苦から
獲たものである。
彼は
林の
持主に
請うて
掘つたのである。それでも
餘りに
人の
口が
八釜敷ので
主人は
只幾分でも
將來の
警めをしようと
思つた。
其の
以前から
勘次は
秋になれば
掛稻を
盜むとかいふ
蔭口を
利かれて
巡査の
手帖にも
載つて
居るのだといふやうなことがいはれて
居たのであつた。
主人はそれでも
竊に
人を
以て
木の
根を
運んだかどうかといふことを
聞かせて
見た。
彼が
心づいて
謝罪するならばそれなりにして
遣らうと
思つたからである。
彼は
主人の
心を
知る
由はなかつた。
「
何處でも
見た
方がようがす、わしは
決して
運んだ
覺えなんざねえから」
彼は
恐ろしい
權幕できつぱり
斷つた。
主人は
村の
駐在所の
巡査へ
耳打ちをした。
巡査は
或日ぶらつと
勘次の
家へ
行つた。
其の
日は
朝から
雨なので
勘次は
仕事にも
出られず、
火鉢へ
少しづゝ
木の
根を
燻べてあたつて
居た。
「
雨で
困つたな、
勘次は
大分勉強する
相だな」
巡査は
帶劍の
鞘を
掴んでいつた。
「へえ」
勘次は
急に
膝を
立て
直した。
表の
戸口へひよつこり
現れた
巡査の、
外套の
頭巾を
深く
被つて
居る
顏が
勘次には
只恐ろしく
見えた。さうして
其の
聲が
刺を
含んで
響いた。
巡査はぶらりと
家の
横手へ
行つて
壁際の
木の
根を
見た。
勘次は
巡査の
後から
跟いて
行つた。
「
大分有るな、
此れは
又わしの
來るまで
動かしちやならないからな」
巡査はいつた。
勘次は
蒼くなつた。
「
此らわしが
貰つて
掘つたんでがすから
何處と
何處つて
穴つ
子までちやんと
分つてんでがすから」
彼は
慌てゝいつた。
「そんなことはどうでもいゝんだ、
動かすなといつたら
動かさなけりやいゝんだ」
巡査は
呼吸で
霧のやうに
少し
霑れた
口髭を
撚りながら
「
櫟の
根が
大分あるやうだな」といひ
棄てゝ
去つた。
勘次は
雨に
打たれつゝ
喪心したやうに
庭に
立つて
居る。
戸口の
蔭に
隱れて
聞いて
居たおつぎは
巡査の
去つた
後漸く
姿を
表はした。
「おとつゝあ」と
小聲で
喚んだ。
「そんだから
俺ら
持つて
來んなつてゆつたのに」
更に
小聲でおつぎはいつた。
「おとつゝあ、どうしたもんだべな」おつぎは
聞いた。
「
俺ら
旦那に
見放されちや、
迚も
助かれめえ」
勘次は
漸く
此れだけいつた。
「おとつゝあ、それぢや
旦那げ
謝罪つたらどうしたもんだんべ」
「そんなことゆつたつて、
聽くか
聽かねえか
分るもんか」
「
南のおとつゝあげでも
頼んで
見たらどうしたもんだんべ」
「
汝等頼まなくつたつてえゝから」
「そんぢやおとつゝあ、
櫟の
根つ
子せえなけりやえゝんだんべか」
「そんだつて
汝は
駐在所に
見られつちやつたもの
仕やうあるもんか」
勘次はそれでも
他に
分別もないので
仕方なしに
桑畑を
越て
南へ
詑を
頼みに
行つた。
彼は
古い
菅笠を
一寸頭へ
翳して
首を
蹙めて
行つた。
主人の
挨拶は
兎に
角明日のことにするからといつた
丈だといふ
返辭である。
勘次はげつそりとして
家へ
歸ると
蒲團を
被つて
畢つた。おつぎは
自分も
毎日行つて
居たので
開墾地から
運んだ
櫟の
根は
皆知つて
居る。おつぎは
其の
櫟の
根を
獨りで
竊に
引き
出した。さうして
黄昏時におつぎはそれを
草刈籠へ
入れて
後の
竹藪の
中の
古井戸へ
投げ
落した。
古井戸は
暗くして
且深い。おつぎは
冷たい
雨に
沾れてさうして
少し
縮れた
髮が
亂れてくつたりと
頬に
附いて
足には
朽ちた
竹の
葉がくつゝいて
居る。
「おとつゝあ」おつぎは
勘次を
喚び
起した。
「
俺ら
櫟根つ
子うつちやつたぞ」おつぎは
更に
聲を
殺していつた。
勘次はひよつこり
起きて
何もいはずにおつぎの
顏を
凝然と
見つめた。
暗い
家の
中には
漸く
手ランプが
點された。
勘次もおつぎも
唯其の
目が
光つて
見えた。
次の
日巡査は
隣の
傭人を
連れて
來て
壁際の
木の
根を
檢べさせたが
櫟の
根は
案外に
少かつた。それでもおつぎの
手では
棄て
切れなかつたのである。
「
此りや
櫟がもつと
有つた
筈ぢやないか
勘次はどうかしやしないか」
巡査は
恁ういつてあたりを
見たが
勘次の
小さな
建物の
何處にもそれは
發見されなかつた。さういつても
實際に
巡査の
目には
櫟と
他の
雜木とを
明瞭に
識別し
得なかつたのである。
「
勘次、それぢや
此れを
持つて
跟いて
來るんだ」
巡査はいつた。
勘次は
顫へた。
「
草刈籠でも
何でもいゝ、
此れを
入れて
後から
跟いて」
「へえ、
何處まで
持つて
行くんでがせう」
勘次は
逡巡して
居る。
「
何處までゝもいゝんだ」
巡査は
呶鳴つてぴしやりと
横手で
勘次の
頬を
叩いた。
勘次は
草刈籠を
脊負つて
巡査の
後に
跟いて
主人の
家の
裏庭へ
導かれた。
巡査が
縁側の
坐蒲團へ
腰を
掛けた
時勘次は
籠を
脊負つた
儘首を
俛れて
立つた。それは
餘りに
見え
透いた
仕事なので
有繋に
分別盛の
主人は
出なかつた。
内儀さんが
出た。
勘次は
益萎れた。
「
勘次、お
前まあそれを
置いて
此處へ
掛けて
見たらどうだね」
内儀さんはいつた。
勘次はそれでも
只立つて
居る。
「
品物は
此だけなんでしたらうか」
内儀さんは
巡査に
聞いた。
「
此の
位のものらしいやうでしたな、
案外少かつたんですな」
巡査は
手帖を
反覆しながらいつた。
「さうでございますか」
内儀さんは
巡査に
會釋してさうして
「どうしたね
勘次、
恁うして
連れて
來られてもいゝ
心持はすまいね」といつた。
藁草履を
穿いた
勘次の
爪先に
涙がぽつりと
落ちた。
「こんなことでお
前世間が
騷がしくて
仕やうがないのでね、
私の
處でも
本當に
困つて
畢ふんだよ」
内儀さんは
巡査を
一寸見てさうして
「
此れから
屹度やらないなら
今日の
處だけは
大目に
見て
戴いて
警察へ
連れて
行かれないやうに
伺つて
見てあげるがね、どうしたもんだね」と
勘次へいつた。
「
何卒はあ、
決してやりませんから、へえお
内儀さんどうぞ」
勘次は
草刈籠を
脊負うて
前屈になつた
身體を
幾度か
屈めていつた。
涙が
又ぼろ/\と
衣の
裾から
跳ねてほつ/\と
庭の
土に
點じた。
「
如何なもんでござんせうね
此れは」
内儀さんは
微笑を
含んで
巡査に
向つていつた。
「さうですなあ」
巡査は
首を
傾けていつて
更に
帶劍の
鞘を
膝へとつて
「どうだ
勘次、
以來愼めるか、
此の
次にこんなことが
有つたら
枯枝一つでも
赦さないからな、
今日はまあ
此れで
歸れ、
其の
櫟の
根は
此處へ
置いて
行くんだぞ」
勘次は
草刈籠を
卸さうとした。
「そんなもの
此の
庭へ
置けといふんぢやないんだ、
置く
處は
知つてるんだろう、
解らない
奴だな、それうつかりしないで
足下を
氣をつけるんだ」
巡査は
叱つた。
勘次はそつと
土を
踏んで
庭を
出た。
門の
外にはおつぎが
與吉を
連れて
歔欷して
居る。
與吉はおつぎの
泣くのを
見て
自分も
聲を
放つ。おつぎは
聲の
洩れぬやうに
袂でそれを
掩うて
居る。
「よき
泣かねえで
歸えれ」
勘次は
與吉の
手を
執つた。三
人は
默つて
歩いた。
傭人等は
笑つて
勘次の
容子を
見て
居た。
「おとつゝあ、どうしたつけ」おつぎは
家に
歸ると
共に
聞いた。
「そんでもまあ
大丈夫になつた、
櫟根つ
子なくつて
助かつた」
勘次はげつそりと
力なくいつた。
「
俺ら
昨日は
重たくつて
酷かつたつけぞ、
其の
所爲か
今日は
肩痛えや」おつぎは
悦ばしげにいつた。
「
俺こゝで
居なくなつちや
汝等も
大變だつけな」
勘次は
間を
暫く
措いてぽさ/\としていつた。
此の
事があつてからも
勘次の
姿は
直に
唐鍬持つて
林の
中に
見出された。
五六
日經つて
勘次は
針立と
針箱とを
買つて
來た。
「おつう、
汝も
此れからお
針にいけつかんな、そら
此れ
持つて
行ぐんだ、おつかゞ
持つてた
古いのなんざあ
外聞惡くつて
厭だなんていふから、
此んでもおとつゝあ
等酷え
錢で
買つて
來たんだぞ、それから
善えだの
惡いだのつて
膨れたり
何つかすんぢやねえぞ、なあ」
勘次は
又
「よき
汝はおとつゝあが
側に
居るんだぞ、えゝか、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、109-8]は
此から
汝が
衣物拵えんでお
針に
行くんだかんな、
聽かねえと
酷えぞ」と
與吉を
抱いて
能くいひ
含めた。
おつぎはそれから
村内へ
近所の
娘と
共に
通つた。おつぎは
與吉の
小さな
單衣を
仕上げた
時其の
風呂敷包を
抱へていそ/\と
歸つて
來た。おつぎは
針持つやうに
成つてからはき/\として
俄にませて
來たやうに
見えた。おつぎはもう十六である。
辛苦の
間に
在る
丈に
去年からでは
何れ
程大人びて
勘次の
助に
成るか
知れない。
殊に
秋の
頃に
成つてからは
滅切機轉も
利くやうになつて、
死んだお
品に
似て
來たと
他人にはいはれるのであるが、
毎日一つに
居る
自分にもさういへば
身體の
恰好までどうやらさう
見えて
來たと
勘次も
心で
思つた。おつぎは
今が
遊びたい
盛りに
這入つたのであるが、
勘次からは
一日でも
唯一人で
放されたことがない。
村の
休日には
近所の
女房に
連れられて
出て
見ることもあるが、
屹度與吉がくつゝいて
居るのと、
自分は
炊事の
間を
缺かすことが
出來ないのとで
晝餐でも
晩餐でも
他人より
早く
歸つて
來なければならない。
「
俺らいつそもの
日なんざ
無え
方がえゝ、さうでせえなけりや
出てえた
思はねえから」おつぎは
熟呟くことがあつた。
「どうにか
俺らだつて
成つから」おつぎの
呟くのを
聞いて
勘次は
有繋に
心が
切なくなる。それで
云ひやうが
無くては
恁うぶすりと
云つて
畢ふのであつた。
與吉は
四つに
成つた。
惡戯も
知つて
來てそれ
丈おつぎの
手は
省かれた。それでも
與吉の
衣物はおつぎの
手には
始末が
出來ないので、
近所の
女房へ
頼んではどうにかして
貰つた。お
品が
生きて
居ればそんな
心配はまだ十六のおつぎがするのではない。おつぎは
更に
自分の
衣物に
困つた。
短くなるばかりではなく
綻びにさへおつぎは
當惑するのである。
「お
針出來なくつちや
仕樣ねえなあ」おつぎは
何時でも
嘆息するのであつた。
「お
針にでも
何でも
遣れる
時にや
遣つから、
奉公にでも
行つて
見ろ、
幾つに
成つたつて
碌なこと
出來るもんか、十六
位ぢや
貧乏人はまあだ
行けねえたつて
仕やうがあるもんか、さう
汝見てえに
痩虱たかつたやうにしつきりなし
云ふもんぢやねえ」
「おとつゝあはそんだつて
奉公にでも
行つてるものげは
家で
拵えてやんだんべな」
「そんだつてなんだつて
遣れつ
時でなくつちや
遣れねえから」
十六ではまだ
針を
持たなくつてもいゝといふのはそれは
無理ではない。
然し
勘次の
家でおつぎの一
向針を
知らぬことは
不便であつた。
勘次もそれを
知らないのではないが、
今の
處自分には
其の
餘裕がないのでおつぎがさういふ
度に
彼の
心は
堪へず
苦しむので
態と
邪慳にいつて
畢ふのであつた。
其の
冬になつてからもおつぎは十六だといふ
内に
直十七になつて
畢ふと
呟いたのであつた。
「
春にでもなつたらやれつかも
知んねえから」と
勘次は
其の
度にいつて
居た。おつぎは
到底當にはならぬと
心に
斷念めて
居たのであつた。それだけおつぎの
滿足は
深かつた。
或晩どうして
記憶を
復活させたかおつぎはふいといつた。
「
井戸へ
落した
櫟根つ
子は
梯子掛けても
取れめえか」
「
何故そんなこといふんだ」
勘次は
驚いて
目を

つた。
「そんでも
可惜もんだからよ」
「
汝自分で
梯子掛けて
這入んのか」
「
俺ら
可怖から
厭だがな」
「そんなこといふもんぢやねえ、
又拘引れたらどうする、そん
時は
汝でも
行くのか」
勘次は
恁ういつて
苦笑した。
其晩は
其れつ
切り
二人の
間に
噺はなかつた。
與吉が
五つの
春に
成つた。ずん/\と
生長して
行く
彼の
身體はおつぎの
手に
重量が
過ぎて
居る。しがみ
附いて
居た
筍の
皮が
自然に
其の
幹から
離れるやうに、
與吉は
段々おつぎの
手から
除かれるやうに
成つた。それでも
筍の
皮が
竹の
幹に
纏つては
横たはつて
居るやうに、
與吉がおつぎを
懷しがることに
變りはなかつた。
與吉は
近所の
子供と
能く
田圃へ
出た。
暖かい
日には
彼は
單衣に
換て、
袂を
後でぎつと
縛つたり
尻をぐるつと
端折つたりして
貰ふ
間も
待遠で
跳ねて
居る。
「
堀の
側へは
行ぐんぢやねえぞ、
衣物汚すと
聽かねえぞ」おつぎがいふのを
耳へも
入れないで
小笊を
手にして
走つて
行く。
田圃の
榛の
木はだらけた
花が
落ちて
嫩葉にはまだ
少し
暇があるので
手持なさ
相に
立つて
居る
季節である。
田は
僅に
濕ひを
含んで
足の
底に
暖味を
感ずる。
耕す
人はまだ
下り
立たぬ。
白つぽく
乾いた
刈株の
間には
注意して
見れば
處々に
極めて
小さな
穴がある。
子供等は
其の
穴を
探して
歩くのである。
彼等は
小さな
手を
粘る
土に
込んでは
兩手の
力を
籠めて
引つ
返す。
其處には
鰌がちよろ/\と
跳返りつゝ
其身を
慌しく
動かして
居る。さうすると
彼等は
孰も
聲を
立てゝ
騷ぎながら、
其の
小さな
泥だらけの
手で
捉へようとしては
遁げられつゝ
漸くのことで
笊へ
入れる。
鰌は
其のこそつぱい
笊の
中で
暫く
其の
身を
動かしては
落付く。
他の
鰌が
又入れられる
時先刻の
鰌が一つに
騷いでは
落付く。
彼等は
斯うして
其小さな
穴を
求めて
田から
田へ
移つて
歩く。
土地ではそれを
目掘りというて
居る。
與吉には
幾ら
泥になつても
鰌は
捕れなかつた。
仲間の
大きな
子はそれでも一
匹位づつ
與吉の
笊にも
入れて
遣るのであつた。それで
彼は
後れながらも
他の
子供に
跟いて
歩かずには
居られなかつたのである。
堀には
動かない
水が
空を
映して
湛へて
居る
處がある。さうかと
思へば
或は
水は一
滴もなくて
泥の
上を
筋のやうに
流れた
砂の
趾がちら/\と
春の
日を
僅に
反射して
居る
處がある。
子供等は
疎らな
枯蘆の
邊からおりて
其處にも
目掘りを
試みる。
大きな
子供は
大事な
笊をそつと
持ておりる。
小さな
子供は
堀へおりながら
笊を
傾けて
鰌を
滾すことがある。
大きな
子供はそれつといつて
惡戯に
其を
捕うとする。
子供等は
順次に
皆それに
傚はうとする。さうすると
小さな
小供は
唯火の
點いたやうに
泣く。それと
同時に
鰌が
小さな
子供の
笊に
返されて
子供は
其鰌を
覗くと
共に
其の
泣く
聲がはたと
止つて
畢ふのである。
堀の
粘ついた
泥はうつかりすると
小さな
足を
吸ひ
附けて
放さない。さうするとみんなが
遁げるやうに
岸へ
上つて
指を
出して
其の
先を
屈曲させながら
騷ぐ。
小さな
子供は
笊を
手にした
儘目には
手も
當ずに
聲を
放つて
泣く。
與吉は
恁うして
能く
泣かされた。
彼には
寸毫も
父兄の
力が
被つて
居ない。
頑是ない
子供の
間にも
家族の
力は
非常な
勢ひを
示して
居る。
其家族が一
般から
輕侮の
眼を
以て
見られて
居るやうに、
子供の
間にも
亦小さい
與吉は
侮られて
居た。それでも
與吉は
歸りには
小笊の
底に
鰌があるので
悦んで
居た。
泣いた
當座は
萎れても
彼は
直に
機嫌が
出て、
其僅な
獲物の
笊を
誇つておつぎの
側に
來る
時は
何時もの
甘えた
與吉である。
彼は
何處へでもべたりと
坐るので
臀を
丸出しに

げてやつても
衣物は
泥だらけにした。それで
叱られても
泥の
乾いた
其臀を
叩かれても、おつぎにされるのは
彼にはちつとも
怖ろしくなかつた。
彼は
小言は
耳へも
入れないで「
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、114-8]よう
見ろよう」と
小笊を
枉げてはちよこ/\と
跳ねるやうにして
小刻みに
足を
動かしながらおつぎの
譽める
詞を
促して
止まない。
彼は
餘りに
悦んで
騷いでひよつとすると
危い
手もとで
鰌を
庭へ
落す
事がある。
鰌は
乾いた
庭の
土にまぶれて
苦しさうに
動く。
與吉が
抑へようとする
時鷄がひよつと
來て
嘴で
啄いて
駈けて
行つて
畢ふ。
他の
鷄がそれを
追ひ
掛ける。
與吉はさうすると
又一しきり
泣くのである。
「
汝あんまりうつかりしてつかんだわ」おつぎは
笑ひながら、
立つてる
與吉の
頭を
抱いてそれから
手水盥へ
水を
汲んで
鰌を
入れて
遣る。
與吉は
水へ
手を
入れては
鰌の
騷ぐのを
見て
直に
聲を
立てて
笑ふ。おつぎはさうして
置いて
泥だらけの
手足を
洗つてやる。
與吉は
時々鰌を
持つて
來た。おつぎは
衣物の
泥になるのを
叱りながらそれでも
威勢よく
田圃へ
出してやつた。
其の
度に
他の
子供等の
後から
「
泣かさねえでよきことも
連れでつてくろうな」といふおつぎの
聲が
追ひ
掛けるのであつた。
僅な
鰌は
味噌汁へ
入れて
箸で
骨を
扱いて
與吉へやつた。
自分では
骨と
頭とを
暫く
口へ
含んでそれから
捨てた。
田がそろ/\と
耕されるやうに
成た。
子供等は
又一つ/\の
塊に
耕された
田を
渡つて、
其塊の
上を
辷りながら
越えながら、
極めて
小さい
慈姑のやうなゑぐの
根をとつた。それは
土地では
訛つてゑごと
喚ばれて
居る。そこらの
田にはゑぐが
多いので
秋の
頃に
成ると
茂つた
稻の
陰に
小さな
白い
花が
咲く。
與吉も
他の
子供のするやうに
小笊を
持て
出た。
鰌とは
違つて
此れは
彼の
手にも
僅づゝは
採ることが
出來た。
少しづゝ
採ては
毎日のやうに
蓄へた。おつぎは
茶を
沸す
度にそれを
灰の
中へ
投げ
込んで
燒いてやる。
火を
弄ることが
危いので
與吉は
獨りで
竈へ
手をつけることは
禁ぜられて
居る。
灰の
中へ
入れたばかりで
與吉は
「よう/\」といつておつぎに
迫る。
與吉は
燒ける
間が
遲緩しいのである。
「そんなに
燒けめえな、そんぢや
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、115-14]は
構あねえぞ」とおつぎはゑぐを
掻き
出して
遣る。
與吉は
口へ
入れてもまだがり/\で
且苦いので
吐き
出して
畢ふ。
「そうら
見ろ、
大けえ
姿していふこと
聽かねえから」おつぎは
怒つたやうな
容子をして
見せる。
「
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、116-2]よ、よう」と
與吉は
又強請む。
其の
時はもう
皮に
皴が
寄つて
燒けたゑぐが
與吉の
手に
載せられる。
「
汝熱えぞ」とおつぎがいへば
與吉は
手を
引いてゑぐは
土間へ
落ちる。それを
又手に
載せてやると
與吉はおつぎがするやうにふう/\と
灰を
吹く。
與吉は
後も
後もとおつぎにせがんで、
勘次に
呶鳴られては
止めるのである。
蓄へられたゑぐが
小笊に一
杯に
成つた
時おつぎは
小笊を
手に
持つて
「よきげ
此煮てやつぺか、
砂糖でも
入たら
佳味かつぺな」
獨語のやうにいつた。
「
煮てくろうよう」
與吉はそれを
聞いて
又せがんでおつぎへ
飛びついて、
被つて
居る
手拭を
引つ
張つた。おつぎは
「おゝ
痛えまあ」と
顏を
蹙めて
引かれる
儘に
首を
傾けていつた。
亂れた
髮の
三筋四筋が
手拭と
共に
強く
引かれたのである。
「
其
もの
鹽でゞも
茹てやれ」
勘次は
俄に
呶鳴つた。
「
砂糖だなんて、
默つてれば
知らねえでるもの、
泣かれたらどうすんだ、
砂糖だの
醤油だのつてそんなことしたつ
位なんぼ
損だか
知れやしねえ、おとつゝあ
等そんな
錢なんざ
一錢だつて
持つてねえから、
鹽だつて
容易なもんぢやねえや、そんな
餘計なもの
何になるもんぢやねえ」
勘次は
反覆して
叱つた。
與吉はおつぎの
陰へ
廻つて
抱きついた。
「どうしたもんだんべまあ、ぢつき
怒んだから」おつぎは
小言を
聞いて
呟いた。
「そんだつて、おとつゝあ
等そんな
處ぢやねえから」
勘次はがつかり
聲を
落していつた。さうして
沈默した。
おつぎもお
品が
死んでから
苦しい
生活の
間に二たび
春を
迎へた。おつぎは
餘儀なくされつゝ
生活の
壓迫に
對する
抵抗力を
促進した。
餘所の
女の
子のやうに
長閑な
春は
知られないでおつぎは
生理上にも
著るしい
變化を
遂げた。お
品が
死んだ
時はおつぎはまだ
落葉を
燻べるとては
竹の
火箸の
先を
直ぐに
燃やして
畢ふ
程下手な
子であつた。それが
横にも
竪にも
大きくなつて、
肌膚もつやゝかに
見えて
髮も
長くなつた。おつぎの
家の
後の
崖のやうに
成つた
處からは
村のものが
能く
黄色な
粘土を
採つた。
髮が
黏るやうになるとおつぎは
其の
粘土をこすりつけて、
肌ぬぎになつた
儘黄色く
染まつた
頭を
井戸の
側で
洗ふのである。さうして
其のふつさりとした
髮は二
度梳く
處は三
度梳くやうに
成つた。おつぎは
又髮へつける
胡麻の
油を
元結で
縛つた
小さな
罎へ
入れて
大事に
藏つて
置くのである。
短い
期間ではあるが
針持つやうになつてからは
赤い
襷も
絎けた。
半纏も
洗濯した。どうにか
自分の
手で
仕上げた
身丈に
足りる
衣物を
着ておつぎは
俄に
大人びたやうに
成つた。
田や
畑に
出る
時にはまだ
糊のぬけない
半纏へ
赤い
襷を
肩から
掛けて
勘次の
後に
跟いて
行く。おつぎは
仕事にかゝる
時には
其の
半纏はとつて
木の
枝へ
懸ける。おつぎの
姿は
漸く
村の
注目に
値した。
春の
野を
飾つて
黄色な
布を
掩うたやうな
菜の
花も、
春らしい
雨がちら/\と
降つて
霜に
燒けたやうな
葉が
滅切と
青みを
加へて
來た
頃は
其開いた
葉の
心部には
只僅な
突起を
見出す。
然しそこには
蕾が
明かに
形を
成して
居るのである。
空からは
暖かい
日光が
招いて
土からは
長い
手がずん/\とさし
扛げては
更に
長くさし
扛げるので
其の
派手な
花が
麥や
小麥の
穗にも
沒却されることなく
廣い
野を
占めるのである。おつぎも
其の
心部に
見える
蕾であつた。
然し
其蕾はさし
扛げられないのみではなく
壓へる
手の
強い
力が
加へられてある。
勘次は
寸時もおつぎを
自分の
側から
放すまいとして
居る。
隨つて
空の
日光が
招くやうに
女の
心を
促すべき
村の
青年との
間にはおつぎは
何の
關係も
繋がれなかつた。おつぎが十七といふ
年齡を
聞いて
孰れも
今更のやうに
其の
注意を
惹起したのである。
冬の
季節に
埃を
捲いて
來る
西風は
先づ
何處よりもおつぎの
家の
雨戸を
今日も
來たぞと
叩く。それは
村の
西端に
在るからである。
位置がさういふ
逐ひやられたやうな
形に
成つて
居る
上に、
生活の
状態から
自然に
或程度までは
注意の
目から
逸れて
日陰に
居ると
等しいものがあつたのである。
勘次の
監督の
手は
蕾の
成長を
止める
冷かな
空氣で、さうして
之を
覗ふものを
防遏する
堅固な
牆壁である。
然し
春の
季節を
地上の
草木が
知つた時、どれ
程白く
霜が
結んでも
草木の
活力は
動いて
止まぬ
如く、おつぎの
心は
外部から
加へる
監督の
手を
以て
奪ひ
去ることは
出來ない。
おつぎは
勘次の
後へ
跟いて
畑へ
往來する
途上で
紺の
仕事衣に
身を
堅めた
村の
青年に
逢ふ
時には
有繋に
心は
惹かされた。
肩にした
鍬の
柄へおつぎは
兩手を
掛けて
居る。
其握つた
手に
頬を
持たせるやうにして、おつぎは
幾らか
首を
傾けつゝ
手拭の
下から
黒い
瞳で
青年を
見るのであつた。
勘次は
後から
跟いて
來るおつぎの
態度まで
知ることは
出來なかつた。おつぎは
數次さうして
村の
青年を
見た。
然し一
語も
交換する
機會を
有たなかつた。おつぎはどうといふこともなく
寧ろ
殆ど
無意識に
行き
交ふ
青年を
見るのであつたが、
手拭の
下に
光る
暖かい
二つの
瞳には
情を
含んで
居ることが
青年等の
目にも
微妙に
感應した。
恁うしておつぎもいつか
口の
端に
上つたのである。それでも
到底青年がおつぎと
相接するのは
勘次の
監督の
下に
白晝往來で一
瞥して
行き
違ふ
其瞬間に
限られて
居た。それ
故一
般の
子女のやうではなくおつぎの
心にも
男に
對する
恐怖の
幕を
無理に
引拂はれる
機會が
嘗て
一度も
與へられなかつた。おつぎは
往來を
行くとては
手拭の
被りやうにも
心を
配る
只の
女である。それが
家に
歸れば
直に
苦しい
所帶の
人に
成らねばならぬ。そこにおつぎの
心は
別人の
如く
異常に
引き
緊められるのであつた。
復爽かな
初夏が
來て
百姓は
忙しくなつた。おつぎは
死んだお
品が
地機に
掛けたのだといふ
辨慶縞の
單衣を
着て
出るやうに
成つた。
針を
持つやうに
成つた
時おつぎは
此も
自分の
手で
仕上たのであつた。
夫は
傍で
見て
居ては
危な
相な
手もとで
幾度か
針の
運びやうを
間違つて
解いたこともあつたが、
遂には
身體にしつくり
合ふやうに
成つて
居た。
死んだお
品はおつぎが
生れたばかりに
直に
竈を
別にして、
不見目な
生計をしたので
當時は
晴の
衣物であつた
其の
單衣に
身を
包んで
見る
機會もなく
空しく
藏つた
儘になつて
居たのである。それに
其の
頃は
紺が
七日からも
經たねば
沸ないやうな
藍瓶で
染られたので、
今の
普通の
反物のやうな
水で
落ちないかと
思へば
日に
褪めるといふのではなく、
勘次がいつたやうに
洗濯しても
却て
冴えるやうなので、それに
地質もしつかりと
丈夫なものであつた。おつぎが
洗ひ
曝しの
袷を
棄てゝ
辨慶縞の
單衣で
出るやうに
成つてからは
一際人の
注目を
惹いた。
例の
赤い
襷が
後で
交叉して
袖を
短く
扱あげる。
其扱きあげられた
肩は
衣物の
皴で
少し
張つて
身體を
確乎とさせて
見せる。
現れた
腕には
紺の
手刺が
穿たれてある。
漸く
暑い
日を
厭うておつぎは
白い
菅笠を
戴いた。
白い
菅笠は
雨に
曝されゝばそれで
破れて
畢ふので、
夏のはじめには
屹度何處でも
新しいのに
換られるのである。おつぎは
勘次に
引かれて
麥の
畦間を
耕した。
鍬を
入れるのが
手後れになつた
麥は
穗が
白く
出て
居る。
時々立つて
鍬に
附いた
土を
足の
底で
扱きおろすおつぎの
姿がさや/\と
微かな
響を
立てゝ
動く
白い
穗の
上に
見える。
餘所を
一寸見る
度に
大きな
菅笠がぐるりと
動く。
菅笠は
日を
避けるのみではなく
女の
爲には
風情ある
飾である。
髮には
白い
手拭を
被つて
笠の
竹骨が
其の
髮を
抑へる
時に
其處には
小さな
比較的厚い
蒲團が
置かれてある。さういふ
間隔を
保つて
菅笠は
前屈みに
高く
据ゑられるのである。
女等は
皆少時の
休憩時間にも
汗を
拭ふには
笠をとつて
地上に
置く。
一つには
紐の
汚れるのを
厭うて
屹度倒にして
裏を
見せるのである。さうして
厚い
笠蒲團の
赤い
切が
丸く
白い
笠の
中央に
黒い
絎紐と
調和を
保つのである。おつぎの
笠蒲團は
赤や
黄や
青の
小さな
切を
聚めて
縫つたのであつた。
然しおつぎの
帶だけは
古かつた。
餘所の
女の
子は
大抵は
綺麗な
赤い
帶を
締めて、ぐるりと

げた
衣物の
裾は
帶の
結び
目の
下へ
入れて
只管に
後姿を
氣にするのである。
一杯に
青く
茂つた
桑畑抔に
白い
大きな
菅笠と
赤い
帶との
後姿が、
殊には
空から
投げる
強い
日光に
反映して
其の
赤い
帶が
燃えるやうに
見えたり、
菅笠が
更に
大きく
白く
光つたりする
時には
有繋に
人の
目を
惹かねばならぬ。
彼等の
姿は
斯くして
遠く
隔てゝ
見るべきものであるが
然しながら
其の
近づいた
時でも、
跳ねあげられた
笠の
後には
兩頬へ
垂れてさうして
其の
黒い
絎紐で
締められた
手拭の
隙間から
少し
亂れた
髮が
覗いて
居て
其處にも一
種の
風情が
發見されねばならぬ。
雨を
含んだ
雲が
時々遮るとはいへ、
暑い
日のもとに
黄熟した
麥が
刈られた
時畑はからりと
成つて
境木に
植られてある
卯木のびつしりと
附いた
白い
花が
其處にも
此處にも
目に
立つて、
俄に
濶々としたことを
感ずると
共に
支へるものが
無くなる
丈目に
入る
女の
姿が
殖えるのである。
彼等は
少時の
休憩にも
必ず
刈り
倒した
麥を
臀に
敷いて
其の
白い
卯木の
下に
僅でも
日を
避ける。
到底彼等の
白い
菅笠と
赤い
帶とは
廣い
野を
飾る
大輪の
花でなければならぬ。
其の
一つの
要件がおつぎには
缺けて
居た。
暑い
氣候は
百姓の
凡てを
其狹苦い
住居から
遠く
野に
誘うて、
相互に
其青春のつやゝかな
俤に
憧憬しめるのに、さうして
刺の
生えた
野茨さへ
白い
衣を
飾つて
快よいひた/\と
抱き
合ては
互に
首肯きながら
竭きない
思を
私語いて
居るのに、おつぎは
嘗て
青年との
間に一
語を
交へることさへ
其權能を
抑へられて
居た。
孰れにしてもおつぎの
心には
有繋に
微かな
不足を
感ずるのであつた。
勘次は
洗ひ
曝しの
襦袢を
褌一つの
裸へ
引つ
掛て、
船頭が
被るやうな
藺草の
編笠へ
麻の
紐を
附けて
居る。
勘次に
導かれておつぎは
仕事が
著るしく
上手になつた。おつぎが
畑へ
往來する
時は
村の
女房等は
能くいつた。
「
何ちう、おつかさまに
似て
來たこつたかな、
歩きつきまでそつくりだ」
「
雀斑がぽち/\してつ
處までなあ」お
品には
目と
鼻のあたりに
雀斑が
少しあつたのである。おつぎにも
其れがその
儘で
嫣然とする
時にはそれが
却て
科をつくらせた。
「
勘次さん
譯のねえもんだな、まあだ
此間だと
思つてたのにな、
嫁にやつてもえゝ
位ぢやねえけえ、お
品さんもおめえ
此位の
時ぢやなかつたつけかよ」
女房等は
又揶揄半分に
恁ういふこともいつた。おつぎは
勘次がさういはれる
時何時も
赤い
顏をして
餘所を
向いて
畢ふのである。
勘次はお
品のことをいはれる
度に、おつぎの
身體をさう
思つては
熟々と
見る
度に、お
品の
記憶が
喚返されて一
種の
堪へ
難い
刺戟を
感ぜざるを
得ない。それと
同時に
女房が
欲しいといふ
切ない
念慮を
湧かすのである。
遠慮の
無い
女房等にお
品の
噺をされるのは
徒らに
哀愁を
催すに
過ぎないのであるが、
又一
方には
噺をして
見て
貰ひたいやうな
心持もしてならぬことがあつた。
「
勘次さんどうしたい、えゝ
鹽梅のが
有んだが
後持つてもよかねえかえ」と
彼に
女房を
周旋しようといふ
者はお
品が
死んでから
間もなく
幾らもあつた。
勘次は
只お
品にのみ
焦れて
居たのであるが、
段々日數が
經つて
不自由を
感ずると
共に
耳を
聳てゝさういふ
噺を
聞くやうに
成つた。
然し
其
噺をして
聞かせる
人々は
勘次の
酷い
貧乏なのと、
二人の
子が
有るのとで
到底後妻は
居つかれないといふ
見越が
先に
立つて、
心底から
周旋を
仕ようといふのではない。
唯暇を
惜しがる
勘次が
何處へでも
鍬や
鎌を
棄てゝ
釣込まれるので
遂惡戯にじらして
見るのである。
殊におつぎが
大きくなればなる
程、
其の
働きが
目に
立てば
立つ
程後妻には
居憎い
處だと
人は
思つた。
貧乏世帶へ
後妻にでもならうといふものには
實際碌な
者は
無いといふのが一
般の
斷案であつた。
他人は
只彼の
心を
苛立たせた。さうして
彼の
尋常外れた
態度が、
却て
惡戯好きの
心を
挑發するのみであつた。
「まゝよう、まゝようでえ、まゝあな、ら、ぬう」
勘次は
小聲で
唄うて
行くのがどうかすると
人の
耳にも
響くやうに
成つた。
其の
頃は
勘次の
庭の
栗の
梢も、それへ
繁殖して
残酷に
葉を
喰ひ
荒す
栗毛蟲のやうな
毒々しい
花が
漸く
白く
成つて、
何處の
村落にもふつさりとした
青葉の
梢から
栗の
木が
比較的に
多いことを
示して
其の
白い
花が
目についた。
村落を
埋めて
居る
梢からふわ/\と
蒸氣が
立ち
騰らうといふ
形に
栗の
花は一
杯である。
空は
降らないながらに
低い
雲が
蟠つて、
時々目に
鮮かで
且黒ずんだ
青葉の
上にかつと
黄色な
明るい
光を
投げる。
何處となく
濕つぽく
頭を
抑へるやうに
重苦しい
感じがする。
悉く
畑へ
走つた
村落の
内には
稀にさういふ
青葉の
間に
鯉幟がばさ/\と
飜つてはぐたりと
成つて、それが
朝から
永い
日を一
日、さうして
其の
家族が
日は
沒したにしても
何時になくまだ
明るい
内に
浴みをして
女までが
裂いた
菖蒲を
髮に
卷いて、
忙しい
日と
日の
間をそれでも
晴衣の
姿になる
端午の
日の
來るのを
懶げに
待つて
居る。さういふ
青葉の
村落から
村落を
女の
飴屋が
太皷を
叩いて
歩いた。
明屋ばかりの
村落を
雨が
降らねば
女は
端から
端と
唄うて
歩く。
勘次が
唄うたのは
其の
女の
唄である。
女は
聲を
高く
唄うては
又聲を
低くして
其の
句を
反覆する。
其の
唄ふ
處は
毎日唯此の一
句に
限られて
居た。
女は
年増で
一人の
子を
負うて
居る。
鬼怒川を
徃復する
高瀬船の
船頭が
被る
編笠を
戴いて、
洗ひ
曝しの
單衣を
裾は
左の
小褄をとつて
帶へ
挾んだ
丈で、
飴は
箱へ
入れて
肩から
掛けてある。
暮い
日は
笠の
編目を
透して
女の
顏に
細い
強い
線を
描く。
女の
顏は
窶れて
居た。
子は
概ね
眠つて
居た。
耳もとで
鳴る
太皷の
喧しい
音とお
袋の
唄ふ
聲とがいつとはなしに
誘つたのであつたかも
知れぬ。
首は
寧ろ
倒に
垂れて
額がいつでも
暑い
日に
照られて
汗ばんで
居た。
百姓は
皆此の
見窄しい
女を
顧みなかつた。
村落から
村落へ
野を
渡る
時女の
姿は
人目を
惹くべき
要點が一つも
備はつて
居なかつた。
然しいつの
間にか
人が
遠くより
見るやうに
成つた。
行き
違ふ
女房等は
額に
照られて
眠つて
居る
子を
見て
痛々敷と
思ふのであつた。
女は
唄はなくても
太皷の
音が
村落の
子を
遠くから
誘ふのに
氣の
乘らぬ
唄ひやうをして
只其の一
句を
反覆のである。
女は
背中の
子が
眠つて
居るのを
悦んで
其の
子が
什
姿であるかは
心付かない。
只小さな
銅貨を
持つて
走つて
來る
村落の
子を
待ちつゝ
誘ひつゝ
歩くのである。
女は
何處から
出てどう
行くといふことも
忙しく
只田畑に
勞働して
居る
百姓の
間には
知られなかつた。
毎日さうして
歩いて
居た
女が
知りたがり
聞きたがる
女房等の
間に、
各自に
口喧しい
陰占を
逞しくされると
間もなく、
或日村外れの
青葉の
中へ
太皷の
音と
唄の
聲とが
遠く
微かに
沒し
去つた
切り、
軈て
梅雨が
夥しく
且つ
毒々しい
其の
栗の
花の
腐るまではと
降り
出したので
其の
女の
穢げな
窶れた
姿は
再び
見られなかつた。
勘次は
耳の
底に
響いた
其の
句を
獨り
感に
堪へたやうに
唄うては
行くのである。
彼は
自分の
聲が
高いと
思つた
時他人に
聞かれることを
恥づるやうに
突然あたりを
見ることがあつた。
曲り
角でひよつと
逢ふ
時それが
口輕な
女房であれば二三
歩行り
過しては
「どうしたえ、
勘次さん
彼女げ
焦れたんぢやあんめえ、
尤も
年頃は
持つゝけだから
連つ
子の
一人位は
我慢も
出來らあな、そんだがあれつ
切り
來なくなつちやつて
困つたな」と
遠慮もなく
揶揄うては、
少し
隔たると
態と
聲を
立てゝ
其の
句を
唄つたりする。さうすると
勘次は
家に
歸るまで一
句も
唄はない。
然し
彼は
暫くそれを
唄ふことを
止めなかつた。
彼は
只女房が
欲い/\とのみ
思つた。
勘次は
依然として
苦しい
生活の
外に一
歩も
遁れ
去ることが
出來ないで
居る。お
品が
死んだ
時理由をいうて
借りた
小作米の
滯りもまだ一
粒も
返してない。
大暑の
日が
井戸の
水まで
減らして
炒りつける
頃はそれまでに
幾度か
勘次の
穀桶は
空に
成るのである。
彼は一
般の
百姓がすることは
仕なくては
成らないので、
殊には
副食物として
必要なので
茄子や
南瓜や
胡瓜やさういふ
物も
一通りは
作つた。
彼は
村外れの
櫟林の
側に
居たので
自分の
家の
近くにはさういふ
物を
作る
畑が一
枚もなかつた。それでも
胡瓜だけは
垣根の
内側へ一
列に
植ゑて
後の
林に
交つた
短い
竹を
伐つて
手に
立てた。
竹の
立つてる
林は
彼の
所有