痍のあと

長塚節




 豆粒位な痍のあとがある。これは予が十八の秋はじめて長途の旅行をした時の形見であるが今でも深更まで眠れない時などには考へ出して恐ろしい感じのすることもある。予は其頃まで奧州の白河抔といふと唯遠い所と計り思つて居たのであつたが、ふと陸地測量部の地圖を披いて案外に近い所なのに驚いた。それからといふもの旅行がして見たくて堪らないので母に二週間ばかりの旅費を貰つて出掛けた。水戸から久慈郡へ拔けて蒟蒻粉で有名な大子だいごの町から折れて下野へ出た。或る山の小村で夜を明して翌日那須野を横斷して其日は一日のうちに鹽原の奧まで行つた。何を見ても愉快であつたが、殊に那須野を横斷する抔といふことが手柄のやうに思はれた。蕭殺として淋しい山路は身が引き緊まる樣な氣がして長途の割合には疲勞も無く、鹽原の湯へ着いたのは夕方であつた。
 まだ浴客の居る可き季節であらうに、二階も三階も戸を鎖して、極めて寂寥たるさまである。夏の末に暫く逗留して居たのであるから、まだ此間の樣に思はれるのであるが、其變化は三年も經過した樣に感ぜられる。
 爐の側にはまあちやんといふ娘が只一人手仕事をして居る。まあちやんは慌てゝすゝぎを取らうとする。予はすぐに入浴する積りであるから、湯下駄の古いのを引つ提げて坂を驅け降りた。まあちやんはあれ私が持つて行きましやうとあとから跟いて來た。鹿股かのまた川の水はいつも清冽であるが、岸の浴場の變つたのには一驚を喫した。僅に一つの湯槽が殘つてあるばかりだ。湯槽といふのは、汀の巖を穿つてそこへ据ゑ付けたものであるが、其穿つた跡まで掻き浚つた樣になつて居る。まあちやんに聞いて見ると初秋の大洪水の時に押し流されたのであるとのことである。それで七十にも成る老人が物心覺えてからこんどの樣な洪水の慘害は見たことがないというたとの話である。
 驟雨が來ると溪間々々の水は一所に集つて、雲のまだ收まるか收まらぬに鹿股川は濁流が漲るのである。あれといふ間に湯槽の中へ水が押し込んで、うつかりした浴客は衣物も持たずに逃げ出すといふこともある。かういふ時は水底の石と石とが相搏つてどう/\と凄じい響が聞える。こんな現象は予も夏中屡々目撃して寧ろ壯快に感じたのであつた。それも暫時に水は落ちて、其日のうちにも入浴が出來る樣に成つてあとは何の異状をも留めないのであつた。それであるからこんな慘状を呈するまでにはどんな勢であつたらうか想像も出來ないのである。其時は幾日も降り續きて山が崩れたといふ騷ぎ橋が落ちるといふ騷ぎでお客さんは出ることもはいることも出來ないでみんなが毎日こぼして居ましたとまあちやんがいつた。
 秋の日はずん/\薄くらくなつた。下流は兩岩の削壁に密樹が掩ひかぶさつて居るため一層凄く見える。浴客が芋をもむ樣にこみ合ふた夏の趣きを思ひ合せると情ない樣である。まあちやんの姿も紺飛白の單衣に襷掛けで働いて居た時とは違つて、洗ひ晒しの半纏は何となく淋し相である。然しながら心切な態度と色の白いのとは變りは無かつた。鑛泉の作用であらうかまあちやんの家族の色の白さは格別である。浴客のなかには水が良いからだといふものもあつた。僅二三が月の間であるが、まあちやんの體はめつきり大人振つた樣に思はれた。まあちやんは十七であつたのだ。
 カルサンを穿いて籠を背負つて宿の者は山から歸つて來た。予が再び尋ねて來やうとは思はなかつたといつてみんなが珍らしがつて喜んだ。内のものが歸つて來てからはまあちやんは一人の時とは違つて、急に勢がついた樣に頻りに笑つたりして居つた。洪水以後客足がばつたり止まつた爲めこんな山仕事をして居る始末で客の用意は少しもないとのこと[#「こと」は底本では「こ」]であつた。其夜は松茸の御馳走になつた。皿も碗も一切が松茸であつた。生來此時程松茸を食つたことはない。
 翌朝空が稍曇つて居た。宿の蓙と笠とを借りて出掛けた。旅行の序とはいひながらこんな横道へそれたのもこれからずつとの山奧に山腹が崩壞して湖水が出來たといふことが新聞に見えた爲めである。人は滅多に行かぬに極つて居る、そこを自分が見て來るのだとそんなことが手柄に思はれたのである。凡そ三里ばかり行くと尾頭峠といふ峠の麓へ出る。其間も箒川の蓬莱橋が落ちたのを始めとして洪水の趾は歴々として存してある。峠の麓には二十人ばかりの人足が休んで居つた。土を削つた跡や置いた跡を見ると道普請をして居るのである。峠は頗る急峻で、羊膓たる坂路は丁度襖の模樣の稻妻形に曲折して居る。絶壁には所々に棧橋が架けてあつて孰れも皆新規であるのを見ると麓の人足等が造つたのであらう。溪は深い。こゝから落ちたら命は無いだらうと思ひながら登つて行つた。小荷駄馬が揃つてとぼ/\と降りて來る。此峠は會津地方からの唯一の通路であつて、一切の貨物がこのやうに僅に馬背に依つて運搬されるのである。馬は足もとばかりに注意して漸く歩いて居るのであるから、如何にも悠長である。それだから山國の馬は眼からさきに死ぬと世俗にはいふて居る。
 峠を下ると三依といふ小村へ出る。立派な街道がある。日光方面から會津への本道だ相である。然しながらしんとして淋しい。右折して進んで行く。駒を曳き連れた博勞が一人やつて來た。素晴しい大きな男で、前へ草鞋を一足ぶらさげて居る。茱萸の大きな枝を持つて毟つてはしやぶり、毟つてはしやぶりつゝ行くのである。二三町行くと少し平垣な所があつて一帶に茱萸の樹が簇生して居る。枝が淺ましいまで折られてある。予も小さな枝を探つてはしやぶつた。遙に上の方で女の笑聲が聞えた。山は草深くつて女の姿は見えない。大方は草刈であつたらう。茱萸の木から暫くで道は五十里いかり川の岸へ出る。河の流は道路からでは餘程低くて一つの大きな瀑布を形つて居る。之が不動瀧である。瀧の上の巖の頂には矮小なひねびた松がかぶりついて居る。根は僅かな[#「な」は底本では「は」]間隙を求めて喰ひ入つて居る。どこから水分が吸收されるかと思ふ位だ。不動瀧から山王峠は間もないとのことである。
 もとへかへつて三依の村まで來た。此間に逢つたのは曩の博勞唯一人のみである。三依は二三十戸の小村であるが、材木と葺草とに不自由の無い爲めか家の構造は頗る大きく且つ岩疊で、戸袋や欄間には意外な裝飾が施してあるが、之に對して障子が煤けて破れたり座敷が埃だらけの樣子だから可笑しい。河を渡つて芹澤といふ所へ辿つた。更に淋しい小村で田が少しばかりある。田の傍には幾筋かの小さな流が通つて、箱仕掛の小さな水車が煢然として立つて居る。水が箱へ一杯になると水の重みで箱が傾いて中軸が廻轉する。他の箱が素の箱の位置へ來る。此の緩漫な運動が繰り返されて米でも麥でも搗かれるのである。山が崩壞して湖水を成したといふのは此の芹澤の山中に在りと傳へられたのである。或家で湖水の出來た所はどこだと聞いたが更に要領を得ない。幾人に聞いても分らない。これは聞き方が惡いのかと思つたから、更に山の崩れた所は無いかと聞いた。すると或者があゝあれかと無造作にいつた。さうしてなんでそんなものを尋ねるのかといふ顏付であとから來た。山は近かつた。如何にもあれかといふだけに過ぎない。山脚の一小部分が崩れて小さな溪流が一時塞がれたまゝである。水は土砂を潜つて今頻りに流れつゝあるのである。予は新聞紙の虚報にいたく失望せざるを得なかつた。山深く來たことの無意味であつたのが殘念で堪らなかつた。さう思ふと一刻も早く宿へ歸つて仕舞ひたいのである。
 峠の麓まで來た時には日はいくらもなかつた。古ぼけた一軒の家へ寄つて婆さんにねだつたら、手作りの草鞋を賣つて呉れた。栗は無いかと聞いたら、自分の食料に熬つたのがあるといつて一升桝へ山程盛つて來た。いくらだといふと一錢も置いてくがいゝといふのである。予は其小部分を外套の隱しへ押し込んで、峠は夜になるだらうが何も出ないだらうなと自分ながら弱い音を吐いた。何が出るものかいと婆さんが笑つた。栗を噬りながらせつせと歩いた。皮の儘で熬つた栗は堅いこと夥しい。あの婆さんがこんな石のやうなものをかぢるのかと驚いた位である。峠の登りを半分も來ると日は全く暮れた。松明一本も用意しなかつたのは考へると實に危險なのである。だん/\に樹木の茂りへかゝると闇さが加はつて來た。足もとに青く白く光るものがある。薄氣味惡く手に採つて見るとぬら/\としたものである。能く見るとそれは茸であつた。樹木は更に深くなる。然し三依に面した坂路は晝間見た所では曲折もなく勾[#「勾」は底本では「※[#「曷−日」、310-10]」]配も緩やかであつたから格別氣にもせずにせつせと歩いた。然しそれが無謀にも全く心あてに歩くに過ぎなかつたのである。樹蔭の一際暗い所であつたが、暗いと思つた瞬間に右の足を踏み外して身躰が轉々として數囘廻轉した。幸にして途中で留まつた。漸くのことで心を落ち付けて見ると、小石程の巖の碎けが夥しい中に予の體があつた。雨のために巖が崩れるとその碎けが溪に向つて瀧のやうになだれることがある。予の體の留つたのは其なだれの中間であるに相違ない。身を動かせばずる/\と下へこける。あせればあせる程こけるのである。仕方がないので片々で十分に踏みかためては一足のぼり、踏みかためては一足登り、漸くの思でなだれを攀ぢた。笠が途中に引掛つて居た。道の下まで來ると木の根がある。木の根へ手を掛けたが、片手に笠があるのでまたずる/\として踏み答へがない。それからしつかと笠を冠つた。兩手で縋つてやつとのことで道路へ上つた。なだれの上は棧橋であつたのだ。安心すると共に驚きと恐れとが一時に襲ひ來つた樣に動悸がはげしくて何とも形容の出來ない一種の厭な心持がした。夜の山道などは以來決してすべきものでないとつく/″\感じたのである。此の時人が若しも予を見たならばどんな容貌をして居つたであらうか。
 これからは非常の注意を以て然かも急いだ。然し予はどうして此の時半里足らずの三依へ引つ返す心にならないで一圖に宿へ歸らうとしたことであつたか自分にも分らないのである。一つは慌てゝ居つたからでもあるだらうか。
 時々溪流の樣な響が梢を傳ひて段々近づくと思ふとあたりは白雲が一杯になつて、汗ばんで居た身體はぞつとする程寒くなる。白雲が去つて仕舞ふと素の平靜にかへる。頂上まで來るとこれからが鹽原に面した坂路である。こゝで落ちたらもう助かる見込はないのである。稻妻形の屈折した曲り目になると、四つに偃つて手探りに道を求める。恐ろしいといふよりも厭ふ心持がしてたまらぬのであつた。幸に失策もなくて麓の人足が休んで居たあたりへ辿りついた時には予の嬉しさは譬へやうがなかつた。それからは足のつゞく限りに急いだ。宿へついたのは九時過ぎであつた。予は腰を卸した儘峠の話をするとみんなが予の傍に來て無事を喜ぶと共に非常に驚いたのであつた。まあちやんが予の草鞋をといて呉れた。草鞋掛までが底の拔けて居たには自分ながら驚かざるを得なかつた。
 翌日眼を醒すと宿の者は山へ出て仕舞つてまあちやんが一人茶釜の下を焚いて居た。湯槽の中で氣がついて見ると右の腰骨の所に少しく痛みを覺えて小さな傷が出來て居る。なだれへ落ちた時の形見である。今朝から踏むたびに足のうらが痛むと思つて居たら栗の刺が夥しく立つて居る。夜道に栗のいがに乘つたやうにも思つたのであつたが、こんなことゝまでは思つて居らなかつた。予はまあちやんに針を借りて自ら左の足の刺を掘りとつた。まあちやんは右の足の刺をとつて呉れた。
 其後心切なまあちやんはどうなつたであらう、聞くの便りもない。予が眼に浮ぶまあちやんは何時でも十七の時の姿である。
(明治三十九年三月三十一日發行、馬醉木 第三卷第三號所載)





底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
   1977(昭和52)年1月31日発行
入力:林 幸雄
校正:伊藤時也
2000年5月10日作成
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