おふさ

長塚節




 刈草を積んだ樣に丸く繁つて居た野茨の木が一杯に花に成つた。青く長い土手にぽつ/\とそれが際立つて白く見える。花に聚つて居る蟲の小さな羽の響が恐ろしい唸聲をなしつゝある。土手に添うて田が連る。石灰を撒いて居る百姓の短い姿がはらりと見えて居る。白い粉が烟の如く其の手先から飛ぶ。こまやかな泥で手際よく塗られた畦のつやゝかな濕ひが白く乾燥した田甫の道と相映じて居る。蛙が聲の限り鳴いて居る。田の先も對岸も皆畑である。畑は成熟しつゝある麥の穗を以て何處までも掩はれてある。麥の穗は乾いた土の如くこまやかに見える。桑畑が其間にくつきりと深い緑を染め拔いて居る。さうして村々の森がこんもりとして畑を限る。遠い森は麥の中に沒しつゝある如く低く連つて蒼く垂れた空に強い輪廓を描いて居る。鬼怒川は平水の度を保つてかういふ平野の間をうねり/\行くのである。ヤマべを啄む川雀が白い腹を見せつゝ忙し相にかい/\と鳴きめぐる。ひらりと身を交して河原に近い淺瀬の水を打つて飛びあがる。午時を過ぎた日の光を浴びて總ての物が快く見える。髮結のおふさはいそ/\として土手を北へ一直線に歩きつゝある。中形の浴衣の上には白い胸掛を掩うて居る。おふさが此の土手を北へ通ふ時は屹度器量一杯の支度である。白い胸掛は見るからはき/\として小柄なおふさを三つも四つも若くして見せた。油や櫛や職業に必要な道具の小さな包を左に抱へて右に蝙蝠傘をさして居る。普通人に異つた枯燥した俤がないではないがおふさに心配は見えない。土手を北へ通ふ時おふさの顏は晴々しい微笑を含んで居るのである。小娘でもするやうに肩の蝙蝠傘をくる/\と廻す。おふさは廿六である。短い道芝の間に白い足袋が威勢よく運ばれて行く。土手の果には鬱然たる森が有つて其森から手を出した樣に片側建の人家が岸に臨んで居る。川はぐるりと左へ曲折する。それで三四の白壁が遠くから河岸を陽氣に見せる。廻漕店の前には土手の下に高瀬船が聚つて居る。土手を斜に削つた坂には高瀬船へ積み込む米俵が順序よくころがされつゝある。あたりには土管やら空な酒樽やら雜多の物品が廻漕店の庭へ續いて土手の往來を狹くして居る。おふさは蝙蝠傘を蹙めて人足の間を過ぎた。惡戲好な人足共はおふさの後からぶつ切つた樣な短い詞で揶揄つた。然しおふさの耳には何にも感じない。さうして足早に歩き出して向の理髮床の店へはひつた。おふさが遙々と長い土手を通ふのは此の店があるからより外に何等の理由も想像されぬ。店には五十近い女房と一人は廿位な一人は十四五の娘とで働いて居る。男の職人は交らない。おふさは女房と顏を見合せて唯あどけなく嫣然とした。さうして髯を剃らせて居る客の後から姿見へ自分の姿を映して又嫣然とした。器量一杯の支度を映して見ることがおふさには非常に嬉し相である。おふさは蝙蝠傘と包とを網を吊つた棚へ乘せた。女房も他の二人も白の仕事衣を覆うて居る。それが痛く汚れて居る。おふさは小娘の肩をそつと叩いて、糊付けた自分の胸掛を一寸抓んでそれから小娘の仕事衣を抓んで喉の底から搾り出す樣な妙な聲を出して又あどけく嫣然とした。小娘は
「えゝよ、何でもおほきなお世話だよ」
 と振り※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)る樣に體をゆすつて、危げに使つて居た剃刀の手を止めて一寸舌を出して見せた。おふさは揶揄ふ樣なあまえる樣な態度で又妙な聲を出して嫣然した。
「そんなことするもんぢやねえ、お民は」
 此も剃刀を使つて居た娘のお道がたしなめる樣にいつた。お民は
「さうだよ、本當にえゝんだよ」
 おふさの方を向いてかういつた。女房は頻りに剪の音をさせながら櫛で抄ひあげる樣にしては髮の先を少しづゝ斬つて居る。目をしかめつゝ一心に剪を使つて居る。暫くして理髮を畢つた小學校の教師らしい客が棚の荷物を抱へて立つた。おふさはしげ/\と客の顏を見る。客は店先の柱に吊つた籠の雲雀に一寸目を注いで軈て去つた。洋服に下駄を穿いた後姿が姿見の向うへ遠くなつて外れてしまつた。おふさは教師の後姿を見て居たが又喉底から搾り出す樣な聲をさせて女房が忙し相な剪を止めてこちらを見た時自分の頬を撫でたり、教師の後姿を指したり、さうして拇指を出したりした。女房は頷いて見せた。おふさの態度はそは/\として來た。
「あの先生ことどうしたもんだい」
 お民は白い布を折つて竿へ掛けながらいつた。
「さうなもんかえ。庄さんに似て居るつていふんだぞ、少しえゝ男を見りやかうやつて拇指を出して騷ぐんだもの、庄さんが氣にばかり成つて居るんだから」
 お道はいつた。さうして
「さうだなあおつかさん」
 女房の方を向いていつた。
「庄さんはそんぢや罪だな」
 お民はませたことをいつた。
 罪だ/\と人のいふのを聞いて居てお民は口眞似にいつたのである。おふさは水槽の蓋を開けて見て水が無くなつたとお民へ手で知らせた。お民がぼんやり立つてゐるのでおふさは手桶を提げて立ち掛けた。女房は
「お民、々々」
 と急に叱るやうにいつた。お民は引つたくるやうに手桶を取つて往來を横ぎつて走つて行つた。土手の降口でぐるりと裾をかゝげた。其姿が土手の下へ隱れた時おふさも往來を横ぎつて走つた。さうして川を見おろして立つた。理髮床の店からは川の水は見えない。對岸の村が淺い木立の緑をかぶつて、それがおふさの立つて居る往來の端とくつゝいて見える。木立の間に隱見する二三軒の障子が目に立つ。川の曲折したあたりから水は竪にしら/\と遠く見え渡る。おふさが辿つて來た土手も青く一目に走つて居る。其遙かに先から今白帆が二つ上つて來る。白い番の矮鷄が土手の下からおふさの足許近く表はれた。鷄冠にくつゝく程一杯に背負つた尾が軟風に吹かれてひら/\と動く。甲走つた聲で雄鷄が鳴いた。後へ反つて嘴を開いて小さな喉が裂け相にして二聲三聲鳴いた。さうして又白い尾をひら/\と吹かれながら矮鷄は土手に隱れた。土手の中腹の青草を足で掻いて餌を求めて歩くのである。お民はのぼつて來た。手桶を土手の上り口へ置いて手を掛けた儘大儀相にして一寸休息した。おふさはお民へ片手を貸して手桶を運んだ。其間土手の往來はがたくり馬車が蹄に埃を蹴立てゝ過ぎた。荷物を山のやうに積んだ車が行つた。人が通つた。走るものは一瞬間止まるものは永久に疎末な姿見の鏡裏に其形體を印する。往來が途絶えた時鏡裏は平靜である。唯尤も近い入口の柱に吊つた籠の雲雀のみは茶碗の粟をこぼしつゝ逆立つた頭の毛を天井の網に突き當て/\もがいては絶えず鏡裏に活動して居る。水槽の水が滿ちて更に川から手桶が運ばれた時おふさはバケツに雜巾を浸して水槽からさうしてそここゝを拭いて歩く。おふさは又一隅に吊つてあるランプを外して見る。ホヤの曇りを拭つて心を出して見て剪を入れる。さうしてランプを以前の釘に掛けて手の臭を嗅いで見る。
「本當にえゝや、助からあ」
 お民は斯ういつて石鹸を出してやつた。おふさは石油臭い手を洗つてそれから顏を洗つて又姿見へ自分を映して惚れ/\と見る。
「よつぽど庄さんには焦れて居るんだなあ」
 お道がつく/″\と見ていつた。暫く途切れた客の後から一人の男がずつとはひつて來てどつかり椅子へ腰を卸しながら
「おゝ髭だ」
 胴間聲を出していつた。
「おゝ髭だ」
 とお道はすぐに眞似をして
「大層威張つてどうしたもんだえ」
 と笑つた。男は首筋を椅子へ凭れさせて微笑して居る。日に燒けた顏がてら/\と光つて見るから丈夫相な男である。紺の筒袖で無造作に三尺帶を締めて居る。一杯に開けた胸には毛がふさふさと生えて居る。彼は高瀬船の船頭である。彼は其ばり/\した髭面へ刷毛で石鹸を塗られたにも拘らず、おふさへ何か手眞似で揶揄つた。おふさは何と合點したのか變な僻んだ顏をして指を二本鼻の下へ當てた。
「そうら二本棒だつて云はれてらあ、默つて居ればえゝのに」
 お道が船頭をたしなめる樣にいつた。彼は又何かいはうとしたが剃刀持つたお道の手が脣を押へて居たので聲が出ない。
「剃刀で切つちまあぞ、饒舌しやべくると」
 皆がどつと笑つた。おふさの顏は又晴々とした。
「此の衣物はえゝ柄ぢやねえか」
 お民が羨まし相にいつた。
「みんな出入の所から貰あんだとよ、本當にえゝやな」
 お道もいつた。
「そんなに欲しけりやおれが呉れてやらあ、亭主にうつちやられたら尋ねて來る方がえゝや」
「八釜しいよ、又はじまつた」
 二人は斯ういつて又どつと笑つた。此の店へ來る客の多くは船頭や人足や百姓等である。此の地方に特有な粗暴な言語が絶えず交換されるのでかういふ應答も少しも不思議に思はれて居らぬ。おふさは姿見の後へ引つ込んでぐるりとかゝげた裾を外して帶を締め直してさうして又店先で茫然として往來から遠くを見渡して居る。女房の客は髮が刈り畢つた。白い布が毛だらけに成つた儘そつと解かれる。おふさはふとそれを見ると女房の手から其白い布を取つてぱさ/\と毛をはたく。女房は小さな布を前へ一寸掛けて客の口のあたりを濡らす。それから剃刀を合せて切味を手の平で試しながら椅子の側へもどる。
「此女はこりや何だい、唖かい」
 卅五六の髭のある其客が聞いた。横柄らしい、税務署の官吏でもあらうかと見える男である。
「へえ唖ですがね、旦那は知らねえんでしたかね」
「うん、俺は知らん」
「能く此所へ來るんですがね、こゝらぢや知らねえものは有りませんぜ」
「さうか、尤も俺はまだ此所へ來て二箇月だからな、それで此の女はどうかしたといふのか」
 客は先刻からの傍の噺に釣り込まれて居たのでおふさに就いて聞き出した。女房は左のモミアゲを剃り落して剃刀の返しを使ひながら
「これでも一度は亭主を持つたんですがうつちやられたんでさ、それで自分ぢやさうは思つて居ねえんですからね」
「どこだい、まあ此の女は」
 客はまだ戲談半分の態度で聞く。女房は剃刀に氣を取られて半は氣勢の拔けたやうに語る。
「此の川西なんですがね。お袋が放埒でね。お袋の亭主に成つたのが酒屋者で越後から來て居て婿にはひり込んだんだといふ噺でしたね。わたしは別段能く知りませんがね。此が又猫の樣におとなしいんだつていふんですから、それでまあ嚊が増長したんですね。藏では親方株に成つて居たつちふことだが、旦那等は能く藏のことは知つてる筈ですが杜氏とか何とか云つてましたね。それで働いちや持つて歸るのを留守に成ると飮んだり打つたりといふんですからね。亭主もまさか男だから怒らねえこともねえんでせうけれど、そこらの處は知りませんがね。なんでも亭主は苦勞性なんで酒が心配で内へは滅多に歸れねえで居るもんだから、いゝ幸にしちや男を拵へてねえ、此の唖が出來ていかく成つてからさうだつていふんですから、それでいゝ年をして自分の息子の樣なねえ床屋の職人と巫山戲てからつきり値はねえんですよ。そんなんだから亭主は此がね餘ツ程大きく成つてからだといふんですが出つちやつたんですと、そこへ行くと身元の知れねえ遠國者は思ひ切が能うがすかんね。それでもまさか子供は可愛いから手當にするんだつて拵へた財産は置いて行つたんですと、私は能く知りませんがね。それで床屋の職人だつて身持は能くねえしお袋も幾らか外聞を考へたんでせう、手を切る積りに成つたんだけれど唯ぢや職人がうんと云はないんです。それで酷いんですね、店を持たせるからつて此の唖をくつゝけてまあ此所へ店を出したんですね。其頃は内がどうにか成つたつていふ噺ですが、此は廿四でさね其時にね。此はいゝ者持つたと思つて一所懸命でさね。其うちお袋は死んちめえました。飮んだのが障つたのに極つてまさ。職人は庄さんていふんですが、さうなりや何でこんな唖なんぞう守つて居るもんですか、茶屋女を受け出してね、此は家へ暫くやつて置いて筑波向へ行つちまつたんでさ、それでも此はうつちやられたとは思はねえんですから……」
 剃刀は顎を滑かにさうして徐ろに走る。女房は顎を大事に抱きあげるやうにして自分の首を曲げて剃刀を動かす。おふさは此の間手拭竿の手拭をもみ出したり、流しを洗つたり、毛屑を掃いて見たりちよい/\と手を動かして居る。お道の手が明いて客が少時途切れた。おふさはお道を姿見の後へ導いた。棚の包をとつて髮結の道具を出す。鐵瓶の湯を注いで毛の癖揉をはじめた。船頭も姿見の後へ腰をおろして暫く新聞紙をがさつかせて居たが横に成つていつか眠つてしまつた。
「何でもうつちやられた時は泣いて/\ひどかつたさうですね。獨ぼつちでほんとに不便なものでさね。さういつても近所隣といふものも身内といふものもあるし世話はしたさうですがね。仕やうがないから、亭主が仕込んで置いた髮結をやらせることにした譯なんですね。剃刀の使ひ方なんざまあ一寸は出來るやうに仕込んで置いたもんだから今ぢやたいした役に立つて此もいつて見りや亭主のお蔭ですがね。さうすると三月ばかり經つてひよつくり亭主が歸つて來たんで、さうしたらもう離れつこなしなんです。それをどう騙したか甘く騙して又行つちまつてね。何でも貧乏で暮しが出來ねえから遠くへ行つて稼いで來なくつちや成らねえんだとね稼いで錢が溜つたら歸つて來て復店で働くんだからお前も稼いで待つてろとねかう呑み込ませたといふんですが私も深いことは知りませんがね。さうなんでせうよそれからといふものは一所懸命に錢を溜める料簡に成つてる容子なんですからね。初のうちは皆可哀想だつて餘計な賃錢をやつたり衣物なんぞ呉れたりして面倒見たんですがね。此の浴衣だつて貰つたにや相違ねえんです。それが駄目なんです。亭主がね時々來ちや騙して巾着をはたいて持つて行つちやあんですからね。亭主が困るから來るんだと思つてるんでせう、それから持つてる丈はみんな遣つちまあんでさあ。そんなこつたから亭主も極りが惡くつて村へは行かねえで途中へ呼出しを掛けてさうしちや二三日遊んで行くんです。それが知れてからといふものは皆錢はくれても本人に持たせねえやうにして置く相ですよ。それで此の店で復た稼ぐんだと聞かせられてからは時々かうして來ますがね。朝のこともあるし、今日のやうに晝過に成ることもあるし、來ちやそつちこつち掃除して行くんですから内の子供等は助かる譯ですがどうで駄目なことを本當に思つてるんですから不便なものでさね。亭主にばかり一心に成つて居て片輪ものといふものは仕樣のないもんでさね。他人が何と教へて見た所で本當にしませんし、揶揄つたら面倒だしそれよりか嬉しがるやうなことに仕向けた方が當り障りがありませんからね………………」
 女房は語り續ける。
「そりや何かい、亭主といふ奴はどんな奴か知つてるかい」
 客も此度は釣り込まれたらしい。
「それがね旦那、その亭主は庄さんていふんですが仲々いゝ男でね、一寸お世辭もいゝし、つきあつちや惡いことはまあ有りませんよ。此店だつてね隨分やつて行けるんですが、身持が修らねえで――尤も此頃はお上で八釜敷から打つこたあ止めたやうですが、前々からサガリもそつちこつちあつて居憎いも居憎いんでせうしね、それにおんなじものなら口の利ける者の方がいゝに極つてますからね。戲談には片輪者は情が深過ぎて困るの、それに何故だか冷たいから厭だのて庄さんはいつてる位なんですからね。それでもまさかに可哀想だと思はねえことも無えんでせうし一人ぼつちなのも知つてるんですから、うつちやつて心持のいゝ筈はねえからまあ一つは容子見に來なくても居られねえんでせうね」
「然し錢を攫つて行く處は酷い奴ぢやないかな」
「それがね旦那、屹度庄さんは此店へ顏出しちや行くんですが、みんなに揶揄はれて弱る時もありますよ。遁口上だか知れねえが庄さんがいふのには錢を貰つた方が本人は上機嫌だし、こつちには惡くもねえし、却つて兩爲めだから預つて置くといふんですが、さうはいふものゝ庄さんは惡い人間にや見えませんね。まだ精々三十三四でなかなか捨てたもんぢやありませんよ。全く過ぎものゝ亭主ですから、餘り過ぎた亭主もよしあしでさね」
 剃刀は頬のすべてを反覆して走つた。女房は剃刀に氣を取られて無遠慮に饒舌る。ぞんざいな仲間を日夕相手にして居るので全くぞんざいに成つて居る。おふさは元結の端を絲切齒で噛み切つた。
「なんでも思ひ出しちや此處へ來るんでせう。掃除をして置いて亭主に譽められたい一心ですからね。さうしちやかうして器量一杯の支度をするんですからね。洒落るといふことは他人が教へなくつても獨りで知つてるから恐ろしいものですよ。尤も饒舌らねえのだから解らねえといへば解らねえやうなもんですがね」
 女房は更に
「どつちにした處で生殺で罪は罪でさね、旦那」
 と最後の一句を續けた。白い布が胸から除かれた。
「旦那洗ひませう」
 客は長い時間から椅子を離れた。客は滑かに剃られた顏を拭きながらふと姿見の間から、長火鉢の側で髮を結うて居るおふさを見た。
「仲々これはうまいもんだな」
 銀杏返が一つの髷を形られた。
「悧巧ですからね。此で口が聞ければたいしたもんだが惜しいことに…………」
 女房は椅子に倚つた客の髮を綺麗に拭き取りながらかういつた。さうして
「何時でも來ればかうしてみんなの髮を結つて歸るんです。其代りね、金鍔きんつばを髮結錢位と思つて買つてやるんですが、それがどれ程いゝ心持なんですかね、其の嬉しい容子を見ちやなんでなくつても買つて遣るのが惜しかありませんね。どうも不自由なせゐか子供見てえな處がありますからね。なんぼなんでも當り前なら廿六にも成つて金鍔位ぢやそんなに騙されやしませんからね」
 といつた。高瀬船が一艘ついたと見えて白帆が一つ土手にくつゝいて止つた。大きな白帆は遠い野を掩うて姿見へ大きく映る。白帆は力なさ相にぐつたりとする。帆綱が解かれたと見えて白帆はくた/\に成つて更にすつと下つた。こつうんと丸太を投げた樣な響が土手の下から近く聞えた。すつと立つた檣を殘して姿見には復たすぐに川がしら/\として土手が青々として村から野から一杯に映る。鏡裏の雲雀が止まず動いて居る。客の髮は油をつけて幾度となく櫛を入れられた。女房は白い布をとつてぱさ/\と襟のあたりを叩いた。客は一遍顎を撫でゝ姿見を見て立つた。女房は茶を汲んで出す。暫く客が途切れた。突然に半ば頭を剃り殘した六つ位の小坊主が泣き/\駈けて來た。入口の柱のもとで頻りに雲雀の籠へ屆かぬ手を延しては地團太踏んで泣きわめく。婆さんが一人あとから走つて來て小坊主を抱へようとする。小坊主は婆さんの手にはおへぬ。雲雀は驚いて羽叩きして騷ぐ。店の者は皆笑つた。
「そらおまはりさんだぞ」
 と婆さんは威す。小坊主は少し泣きを沈めた。おふさは髮を結ひ畢つて一寸店を覗いた。さうして女房へ妙に手眞似をする。何か子供にくれてやれといふのらしい。女房は唯頷いて見せる。小坊主は漸く婆さんに引かれて行つた。
「此れで子煩惱ですからね」
 と女房は客へいつた。
「廿六だといつたかな。それにしては若いな。口が利けたら相應に騷がれたんだらうな」
「氣味が惡いから手出しはしませんね。それに今ぢや亭主ばかり氣に成つて居るから尚更のことでさね」
「此店は何時越して來たんだい。大分繁昌だな」
「もう二年ですよ。私も内は二三里あるんですが妙な事でしてね。親方が放埒なもんですからね。餘計者を引きずり込んだりしちや、私も面白かあ有りませんからね。到頭こつちへ分れたんでさ。借家でしたが今ぢや庄さんから道具一式讓られたんですからもう大丈夫でさ。弟子もね、女の子の方が扱ひいゝもんですからみんな女ばかしにしてね、此で結構やつて行けますから」
「女ばかりだからまあ感心なものさな。それでも今は親方と往復はあるのかい」
「なに時々來ますがね、八釜敷ことばかりいつて仕樣がねえんでさ、とつくからもう喧譁するやうなことはありませんがね。いゝ年しちや獨の方がいゝ位なもんですよ。口論したいことはねえんですがね、あんまりだと我慢出來なく成りますからね、それでも駄目でさね女の方が惡いとしかいはれねえんですから」
 女房はぼさ/\した顏で煙草を吸ふ。
「それでも私は子供が一人ありますからね。えゝさうです男です。あと一年で卒業ですから電信局へ勤が出來るんです。此までは私も一心に成つて送りました、それ一人が手頼ですからね」
 かういつて火皿へ紙を押込んでぐりつとめぐして烟脂のついた紙を火鉢の隅へ棄てゝ詰つた羅宇をふうと吹いた。
「こんだお民結つてもらへ」
 女房は呶鳴つた。客は
「いや、おほきに」
 と横柄に挨拶して出て行つた。

 おふさは稍膨れた包を抱へて鬼怒川の土手を歸りつゝある。上機嫌の容子があり/\と見える。膨れた包は金鍔である。それをおふさは大事相に抱へて居る。おふさの心は的確に知る由はない。密封した箱に小石や木片や硝子の破片や雜多の物を入れて此をがら/\と振る時に中なるものが小石であり木片であることを其一つが想像しえたとしても全部を知ることは能はぬであらう。おふさの心はそれである。おふさに對する何人の想像も確かであるとは斷言が出來ぬ。然しながら此の土手を通ふ時は平生の僻んだ容貌がなくなつて唯そは/\と快げである。靜かに考へる時は皆おふさを哀だと思ふ。逢うて語る時は皆笑つて揶揄ふのである。それが孰であるにしても亭主の噂を聞かされることが非常におふさには快く見える。卅は女の頽齡である。其卅を眼前に控へた身を以ておふさはあどけなく土手を往復する。南風が軟かに且つ凉しく野茨の花に吹き渡る。透徹せる蒼い天は此の青年の如き地上の草木を保護するためガラスの蓋を掩へるが如く見える。野茨の花の開く數日間が一年の内に於て尤も爽快で且つ四圍が不安の念を起させない時期である。太陽は此の大地を暫時も離れ去ることを惜むものゝ如く暮れ兼ねて躊躇して居る。此の如き間に在つて麥の穗のみは悲しい色を浮べつゝある。萬物に活力を與へて強く照らす日の光に堪へ兼ねるものゝ如く麥の穗は焦げたやうに黄變しつゝ行くのである。日の射し加減でまだ青味を含んだ麥の穗に其俤をほのかに浮べる。斜に渡る日の光は更におふさのあどけない頬をしげ/\と覗いた。
(明治四十二年九月一日發行、ホトトギス 第十二卷第十二號所載)





底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
   1977(昭和52)年1月31日発行
初出:「ホトトギス 第十二卷第十二號」
   1909(明治42)年9月1日発行
入力:林 幸雄
校正:A子
2012年5月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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