竹の里人〔二〕

長塚節




○「歌よみに與ふる書」といふのは十回にわたつたのであつたが、自分にはいかにも愉快でたまらないので丁寧に切り拔いておいて頻りに人にも見せびらかした。偶々これに異議を挾むものでもあれば其人がいかにも惡らしくつて溜らぬ位であつた。その頃大分「日本」紙上の歌論は喧びすしかつたが、他の歌よみ專門の連中はうんだとも潰れたとも云はない。たまになぜ默つて居るのだと人から揶揄はれても自分は歌よみではないといふやうな遁辭を設けて尻込する弱蟲の中で盛に先生に張合つて居た春園といふ人が、今日吾々と行動を共にして居る伊藤左千夫君であるといふことは更に思ひ掛けやう筈もなかつたのである。さうして此の如く眞正面に立つて喧嘩腰になつて居た左千夫君がどうして先生の門に趨いたか、それは後にいふ可き折もあることと思ふからいはない。兎に角その時分は日として歌に就ての議論が「日本」に出ないことがない位であつたから、殆んど半分は了解出來ないといつていゝ程であつたにも拘らず、待ち遠しく讀んで居たのである。それから「人々に答ふ」といふ標題で出たのがいかなる難問に逢遇しても、極めて明快に極めて容易に解説されたが、いかにも心持がよくつて今だに忘れない。その中でも或人の、和歌が人を感動せしめて命を助かつたとか、領地をかへされたとかいふ歴史上の問題を捉へて詰責したのに答へて、人を感動せしめた歌が決して名歌でない。都々逸は下品なものであるが女郎雲助を感動せしむるのは都々逸でなければならない。維新の志士と稱するものゝ詩は、詩でなけれども書生の氣を鼓舞するのはこの志士の詩に限つて居る。眞の名歌と稱すべきものは趣味を覺つた文學者の頭で判斷したものでなければならないといふやうな意味のものがあつたが、どうしても忘れられないことなのである。そのうちに議論ばかりでは埓が明かないから、作例を示さうといふので百中十首が出はじまつた。自分はそれまで歌集などを餘り見た事もなく、古今集などでも一枚讀まないうちに厭になつて、ほうり出して仕舞ふといふやうな鹽梅であつたが、百中十首が出ると初めは變なものだと思つたが、段々面白く感じて來てとう/\眞似て見るやうになつた。さうするとどうしても先生に遇つて見たいといふ念慮も起つて來る。その念慮が起ると一層先生が慕はしくなつたのであるが、思ひの外に先生の所を訪ねたのが遲かつたといふのは一つは先生の住所が分らない。一つは自分の無識であることがひどく恥かしく感じた。教を受けやうといふ身であるから、自分が低いのは當然なことであるが、その時は唯恥ぢて居つたのである。そこで自分は先生の住所を知ることに非常に苦心をした。「日本」に關係ある人なのだから社へ質せばぢきに分るのであつたらうが、その時分はそんな智惠も出なかつた。隨分可笑しなものであつた。そこで不圖日本の俳句に「鶯横丁曲らむとすれば時雨けり」といふのがあるのに目が付いて、これは屹度茲が先生の住所であると知つた。それから「ホトヽギス」を見るやうになつて、漸く上根岸のそこがさうであるといふことを確めた。それからその後根岸のあたりをぶら/″\歩行いていよ/\といふことを突き止めたといつては變だが、そこらの模樣を見て三月二十七日それは明治三十三年の三月二十七日に染筆を乞ふ積りで、短册を用意して半ば畏を懷いて先生を訪問に行つた。自分はいまは一年に三回か四回の上京も覺束ないのであるが、その頃はその兩三年以來頻りに上京して悠遊したことであつたのだから、速く先生のもとに就いたならば更に大いに利益したことであらうに、惜しいことをしたと思ふこともあつたが、此の時はじめて思ひ切つて行くことに成つた位なのだから據處ないことである。さてその二十七日といふのは非常に天氣もよい日であつたが午後から出掛けた。黒塀をぐるつと廻つて前に見て置いた門のところへ出ると、立派な人力車が一臺主人を待つて控へて居て、そつと玄關を見ると客の下駄のやうなのが二三足ならんで居る。思ひ切つて這入らうかと思つたが何となく氣臆れがして二三遍行つたり來たりした儘、とう/\門の扉を押し明ける勇氣も出ないで悄々として歸つて仕舞つた。翌日は人に先んぜられないやうと思つて午前に行つた。今日は誰もまだ來て居ないやうであるから玄關に立つて案内を頼む。そのうちにゴホ/\といふ先生の咳は二三度聞えて、軈ておつかさんが出られたので、自分は半紙を手頃に切つて自分で認めた名刺を出す。暫くすると導かれて先生の病室六疊へ通された。その時先生はガラス窓に近づいて襖の方を枕にして寢て居られたが、上體を少し擡げて左の肘で支へ宛いま自分が出した名刺を蒲團の上へ置いて下を向いた儘じつと見詰めて居らるゝ所であつた。イヤ失敬といふやうな先生の挨拶があつて、俳句の方で御目に掛つたことがあつたですか、歌の方で御目に掛つたことがあつたですかといふ問があつた。そこで自分は歌に就て教を受けたいのであるといふと先生は暫く默して居つたが、いくらでも作るがいゝのですといつてまた程經て、作つて居るうちに惡い方へ向つて居ると、それがいつか厭になつて來るのです。惡いことであつたら屹度厭になつて仕舞ふのです、といふやうなことを話された。自分は先生はもつと物を言はれる人であらうと思つたのに案外言葉の少ない人だと思つた。然し考へて見ると只漠として歌の話を聞きたいといはれても困るのであらうし、そんなことをいつて來るものがいくらもあるとすると、隨分迷惑なことであるのであらう。それで話が少なかつたといふのでもなかつたらうが、兎に角少なかつた。併しこの少なかつた話が自分には非常に浸み透るやうに覺えた。それから尚ほ自分は昨日來客があるやうだから歸つてしまつたといふと先生はそれは惜いことをした歌の人が二三人來て居たのだ。昨日見えればよかつたのにといふことをいはれた。そのやうなことやその他いくらかの話をして居るうちに、持つて往つた短册を出して揮毫を求めると、先生は微笑し乍ら覺束ないのだがといひながら自分の求めた歌を書かれる。自分は一枚出來れば一枚宛手に取つて嬉しさに堪へず見て居る。さうするとさつき自分がはひつた襖を開いて來た人がある。その挨拶振から先生のやうすが心易い人であるといふことを知つた。客なる人は背の低い目のくり/\した男で、自分の左手へ無造作に坐を構へた。服裝はあまり見よくもないのみならず襯衣の如きは綿フランネルの手縫のやうなものであつた。先生は尚揮毫をやめない、書き終つて下へ置く短册を見て客なる人は、俳聖の書は蕪村のやうだなといつて笑つて居た。やがて先生の足の方の簑笠の掛つた柱の右手に文晁の描いた寒山の雙幅をかけて、先生は臥しながら見て居る。客は立つて腰を延べたり屈めたりして見て居る。不圖客に氣がつくとその穿いて居る足袋は爪のところが拔けて居た。やがて先生は、この畫はどこに面白いところがあるのかといふと、客はなにといつたやうな鹽梅に耳を先へ出す。更にこの畫はどこに面白い分子があるかといふと、ちつとも面白いところがないといふので有つた。客なる人がどうもどこかで見たことがあると思つて考へて見ると、二三年前に草津の湯に居る時分にチギレるやうなズツクの鞄をさげて※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)しめたやうな羽織を着て居た畫工であることを思ひ出した。さうして中村不折といふ名であるといふことも知つた。あまり長く居るのもよくないと思つて、この日は先生と客との話中に歸つた。道々自分は先生のところへはまたぢきに訪ねたい、然し迷惑でもあらうから明日はよしにしやうが明後日はまた行かなくてはならないと思ひつゝ歩行いた。
(明治三十七年二月二十七日發行、馬醉木 第九號所載)





底本:「長塚節全集 第五巻」春陽堂書店
   1978(昭和53)年11月30日発行
底本の親本「長塚節全集 第六巻」春陽堂
   1927(昭和2)年
初出:「馬醉木 第九號」
   1904(明治37)年2月27日
※「尚ほ」と「尚」の混在は底本通りです。
入力:岡村和彦
校正:高瀬竜一
2016年6月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード