白菜や間引き/\て暮るゝ秋
七年の約を果すや暮の秋
散りぬべき卿の秋の毛虫かな
花煙草葉を掻く人のあからさま
藁灰に莚掛けたり秋の雨
豆引いて莠はのこる秋の風
わかさぎの霞が浦や秋の風
佐渡について母への状や秋の風
蓼の穗に四五日降つて秋の水
此村に高音の目白捉へけり
鳴きもせで百舌鳥の尾動く梢かな
柿くふや安達が原の百姓家
柿赤き梢を蛇のわたりけり
芝栗や落ちたるを拾ひ枝を折る
芭蕉ある寺に一樹の柚子黄なり
一うねは桐の木蔭の黄菊かな
わせ刈つて鷸の伏す田となりにけり
掛稻の下や茶の木の花白し
飛彈人の木を流す谷の紅葉かな
蟲ばみし櫻なりしが紅葉かな
松間や朗かにして櫨紅葉
胡麻干すや實勝になり木芙蓉
茸狩や櫨の紅葉に來鳴く鳥
足もとに光る茸や夜山越え
木瓜の
稻を扱く藁の亂や赤蜻蛉
亂れ伏す小萩がしたや鉋屑
白帆遙にわかさぎ船や蘆の花
營を出てさやかに秋の瀬戸の海
我喚ぶを後も向かず秋の人
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一八七九(明治十二)年 四月三日、茨城県結城郡岡田村国生(現石下町国生)の豪農の家に父源次郎、母たかの長男として生まれる。
一八八三(明治十六)年 四月、学齢未満であったが、国生小学校に入学。
一八八九(明治二十二)年 四月、下妻町の真壁第二高等小学校に入学。
一八九三(明治二十六)年 四月、茨城県立水戸中学校に入学。
一八九六(明治二十九)年 春、神経衰弱のために水戸中学校を四年で退学。この頃から、作歌に親しむようになる。
一八九八(明治三十一)年 正岡子規の「歌よみに与うる書」(新聞「日本」に二月〜五月連載)などを読み、子規に傾倒。六月、東京築地の山田病院に入院し、神経衰弱の治療を受ける。
一八九九(明治三十二)年 東京神田錦町の橋田病院に転院。五月頃に徴兵検査のために帰郷するが、不合格。「新小説」に短歌を投稿し、度々入選。
一九〇〇(明治三十三)年 三月二八日、根岸庵に子規を訪問。翌々日再訪し、「根岸庵」の十首を作る(「日本」に掲載)。四月一日、根岸庵歌会に出席し、生涯の盟友となる伊藤左千夫らを知る。
一九〇二(明治三十五)年 四月から「うみ苧集」を「心の花」に連載。五月、「日本」に「ゆく春」九首が掲載。九月十九日、子規逝去。翌日、上京する。
一九〇三(明治三十六)年 六月、「馬酔木」創刊。左千夫らとともに編集に加わる。夏に関西を旅し、一一月「西遊歌」を「馬酔木」に発表。
一九〇四(明治三十七)年 四月、「榛の木の花」を「馬酔木」に発表。五月、左千夫らと子規の作品を集成した『竹の里歌』刊行。八月、「夏季雜咏」を「馬酔木」に発表。
一九〇五(明治三十八)年 一月、「秋冬雜咏」を「馬酔木」に発表。八〜一〇月、房州、甲斐、諏訪、木曽を経て、関西に旅する。
一九〇六(明治三十九)年 七月、「炭焼の娘」を「馬酔木」に発表。八〜九月、松島、山形、新潟、佐渡などを約四〇日間旅する。
一九〇七(明治四十)年 五月、「早春の歌」を「馬酔木」に発表。一一月、「佐渡ヶ島」を「ホトトギス」に発表。
一九〇八(明治四十一)年 一月、「初秋の歌」を「馬酔木」終刊号に発表。二月、「晩秋雜咏」を「アカネ」創刊号に発表。一〇月、「アララギ」創刊。
一九〇九(明治四十二)年 一月、「濃霧の歌」を「アララギ」に発表。一〇月、平泉、弘前、十和田などを旅する。
一九一〇(明治四十三)年 六月一三日、「東京朝日新聞」で小説「土」の連載を開始。八月、入院して痔疾を手術。一二月、岐阜、京都を旅する。
一九一一(明治四十四)年 四月、医師黒田貞三郎長女照子と婚約。夏頃から、喉に痛みを覚えるようになる。一一月、上京して診断を受け、喉頭結核と判明。一二月、根岸養生院に入院し、自ら婚約を解消。一二月二四日、照子の来訪があったが会わずに終わる。
一九一二(明治四十五・大正元)年 二月、根岸養生院を退院し、東京下谷に滞在。同月、「病中雜咏(一)」を無題で「アララギ」に発表。三月、久保猪之吉博士(九州大学)宛の夏目漱石による紹介状を手に福岡へ出発。途中、京都医大に入院して手術。四月に退院して福岡に着き、診察を受ける。同月、「病中雜咏(二)」を「病中雜咏」の題で「アララギ」に発表。以後、作歌は途絶える。七月、九州一円、四国、和歌山、奈良、京都などを旅する。九月、帰郷。
一九一三(大正二)年 三月、福岡で久保博士の診察を受ける。四月、出雲などを旅してのち帰郷。七月、左千夫逝去。一二月、上京して金沢病院に入院。
一九一四(大正三)年 一月、金沢病院を退院して帰郷。三月に再度上京して、橋田内科医院に入院。入院中に斎藤茂吉、中村憲吉、古泉千樫らの見舞いを受ける。五月、照子との交際を照子の兄によって禁じられる。退院後帰郷するが、六月、福岡へ。平野屋旅館に滞在し、久保博士の診療を受ける。同月二〇日、九州大学附属病院に入院。六〜九月、「鍼の如く(一〜四)」を「アララギ」に発表。八月に退院し、日向、青島を旅する。九月、福岡に戻って久保博士の診療を受ける。一二月、「鍼の如く(五)」を作る。
一九一五(大正四)年 一月、再度九州大学附属病院に入院し、隔離室へ。同月、「鍼の如く(五)」を「アララギ」に発表。二月七日に昏睡状態に陥り、八日永眠。福岡で荼毘にふされる。三月一四日、故郷の共同墓地に埋葬される。享年三七。
※ 略年譜作成にあたり、『日本の詩歌 3』(中央公論社)所収の上田三四二氏による年譜を参照させていただいた。(青空文庫・浜野)