一
雲海蒼茫 佐渡ノ洲
郎ヲ思ウテ 一日三秋ノ愁
四十九里 風波悪シ
渡ラント欲スレド 妾ガ身自由ナラズ
ははあ、
来いとゆたとて行かりょか佐渡へだな、と思った。題を見ると、戯翻竹枝とある。
それは彼の伯父の詩文集であった。伯父は一昨年(昭和五年)の夏死んだ。その遺稿が
纏められて、この春、文求堂から
上梓されたのである。清末の
碩儒で、今は満洲国にいる
羅振玉氏がその序文を書いている。その序にいう。
「予往歳
滬江(上海のこと)ニ
寓居ス。先後十年間、東邦ノ賢豪長者、道ニ
滬上ニ出ヅルモノ、
縞紵ノ歓ヲ
聯ネザルハナシ。一日
昧爽、
櫛沐ニ
方リ、打門ノ声甚ダ急ナルヲ聞キ、楼欄ニ
憑ツテ
之ヲ観ルニ、客アリ。
清鶴ノ如シ。戸ニ当リテ立ツ。スミヤカニ
倒シテ之ヲ迎フ。既ニシテ門ニ入リ名刺ヲ出ダス。日本男子中島端ト書ス。懐中ノ
楮墨ヲ探リテ予ト筆談ス。東亜ノ情勢ヲ
指陳シテ、傾刻十余紙ヲ尽ス。予
洒然トシテ之ヲ敬ス。行クニノゾンデ、継イデ見ンコトヲ約シ、ソノ館舎ヲ
詢ヘバ、豊陽館ナリトイフ。翌日往イテ之ヲ訪ヘバ、則チ
已ニ行ケリ矣。…………」
これはまた恐ろしく時代離れのした世界である。が、「日本男子云々」の名刺といい、「打門ノ声甚ダ急」といい、「清
鶴ノ如シ」といい、「翌日訪ねると、もう
何処かへ行ってしまっていた」といい、生前の伯父を知っている者には、
如何にもその風貌を
彷彿させる描写なのだ。三造はこれを読みながら、微笑せずにはいられなかった。彼は、この書物を、大学と高等学校の図書館へ納めに行くように、家人から頼まれていた。けれども、自分の伯父の著書を――それも全然無名の一漢詩客に過ぎなかった伯父の詩文集を、堂々と図書館へ持込むことについて、多分の恥ずかしさを覚えないわけに行かなかった。三造は
躊躇を重ねて、容易に持って行かなかった。そして、毎日机の上でひろげては繰返して眺めていた。読んで行く
中に、
狷介にして善く
罵り、人をゆるすことを知らなかった伯父の姿が鮮やかに浮かんで来るのである。羅振玉氏の序文にはまたいう。
「聞ク、君潔癖アリ。終身婦人ヲ近ヅケズ。遺命ニ、吾レ死スルノ後、速ヤカニ火化ヲ行ヒ骨灰ヲ太平洋ニ散ゼヨ。マサニ鬼雄トナツテ、異日兵ヲ以テ吾ガ国ニ臨ムモノアラバ、神風トナツテ之ヲ禦グベシト。家人謹シンデ、ソノ言ニ遵フ。…………」
これは
凡て事実であった。伯父の骨は、親戚の一人が汽船の上から、遺命通り、熊野灘に投じたのである。伯父は、そうして
鯱か何かになってアメリカの軍艦を喰べてしまうつもりであったのである。
他人に在っては
気障や
滑稽に見えるこのような事が、(このような遺言や、その他、数々の奇行奇言などが)あとで考えて見れば滑稽ではあっても、伯父と面接している場合には、極めて似付かわしくさえ見えるような、そのような老人で伯父はあった。それでも、高等学校の時分、三造には、この伯父のこうした時代離れのした厳格さが、甚だ気障な
厭味なものに見えた。伯父が、自分の魂の底から、少しも
己を欺くことなしに、それを正しいと信じてそのような言行をしているとは、到底彼には信じられなかったのである。
其処に、彼と伯父との間に、どうにもならない溝があった。事実彼と伯父との間にはちょうど半世紀の年齢の隔たりがあった。死んだ時、伯父は七十二で、三造はその時二十二であった。
親戚の多くが、三造の気質を伯父に似ているといった。殊に年上の
従姉の一人は、彼が年をとって伯父のようにならなければいいが、と、口癖のようにいっていた。その言葉が部分的には当っていることを、三造も認めないわけには行かなかった。そして、それだけ、彼には、伯父の
落著のない性行が――それが自分に最も多く伝わっているらしい所の――苦々しく思われるのであった。その伯父のすぐ下の弟――つまり三造にとっては
斉しく伯父であるが――の、極端に何も求むる所のない、落著いた学究的態度の方が、彼には遥かに好もしくうつった。その二番目の伯父は、そのようにして古代文字などを研究しながら、別にその研究の結果を世に問おうとするでもなく、東京の真中にいながら、髪を牛若丸のように結い、二尺近くも
白髯を貯えて隠者のように暮していた。その「お
髯の伯父」(
甥たちはそう呼んでいた。)の物静かさに対して、上の伯父の狂躁性を帯びた峻厳が、彼には、大人げなく見えたのである。似ているといわれるたびに彼は、いつも、いやな思いをしていた。伯父は幼時から非常な秀才であったという。六歳にして書を読み、十三歳にして漢詩漢文を
能くしたというから儒学的な俊才であったには違いない。にもかかわらず、一生、何らのまとまった仕事もせず、志を得ないで、世を罵り人を罵りながら死んで行ったのである。前の遺稿の序文にもあったように、伯父は妻をめとらなかった。それが何に原因するものであるかを三造は知らない。伯父はまた常に、三造には無目的としか思えないような旅行を繰返していた。
支那には長く渡っていた。それは伯父自身がいう如く、国事を憂えて、というよりも、単に、そのロマンティシズムにエグゾティシズムにそそられたためといった方がいいのではないかと、高等学校時代の三造は考えていた。この彷浪者魂は彼の一生に絶えずつきまとっていたように見える。三造の知っているかぎり伯父は常に居をかえたり旅行したりしていたようであった。この
彷徨を好む気質が自分にも甚だ多く伝わっていることを、三造は時々強く感じなければならなかった。ただ、伯父の生活の経済的方面は久しく彼の謎であった。伯父はかつて、『支那分割の運命』なる本を出したことがあった。が、そんな売れない本から印税がはいるはずはなかった。大分後になって、(それは伯父の晩年になってからのことであるが、)伯父は経済的にはほとんど全部他人の――友人や弟たちや弟子たちの――援助を受けていることが分った時、三造は、まず、この点に向って、心の中で伯父を非難した。自分で一人前の生活もできないのに、
徒らに人を罵るなぞは、あまり感心できないと、彼は考えたのである。あとから考えると、これらの非難は多く、自己に類似した精神の型に対する彼自身の反射的反撥から生れたもののようでもあった。とにかく、彼は、自分がそれに似ているといわれるこの伯父の精神的特徴の一つ一つに向って、一々意地の悪い批判の眼を向けようとしていた。それは確かに一種の自己嫌悪であった。高等学校時代の或る時期の彼の努力は、この伯父の精神と彼自身の精神とに共通するいくつかの
厭うべき特質を克服することに注がれていた。その彼の意図は不当ではなかったにもかかわらず、なお、当時の彼の、伯父に対する見方は、不充分でもあり、また、誤ってもいたようである。
即ち、伯父の奇矯な言動は、それが青年の三造にとって滑稽であり、
いやみであると同じ程度に、彼よりも半世紀前に生れた伯父自身にとっては、極めて自然であり、純粋なものであるということが、彼には全身的に理解できなかったのである。伯父は、いってみれば、昔風の漢学者気質と、狂熱的な国士気質との
混淆した精神――東洋からも次第にその影を消して行こうとするこういう型の、彼の知る限りではその最も純粋な最後の人たちの一人なのであった。このことが、その頃の彼には、概念的にしか、つまり半分しか呑みこめなかったのである。
二
その年の二月、高等学校の記念祭の頃、本郷の彼の下宿へ、伯父から葉書が来た。利根川べりの田舎からであった。当分ここにいるから、土曜から日曜へかけてでも、将棋を差しに来ないか。鶏位なら御馳走するから、というのである。それは、三造の高等学校を卒業する年で、ちょうどその少し前に、彼は、学校で蹴球(アソシエーション)をしていて、顔を蹴られ、顔中
繃帯をして病院へ通っていたのであった。実際間の抜けた話ではあるが、上から落ちてくる球をヘッディングしようとして、ちょっと頭をさげた途端に、その同じ球を狙った足に、下から眼のあたりをしたたか蹴られたのである。眼鏡の
硝子は
微塵に砕けて、瞬間
はっとつぶった彼の眼の裏には赤黒い渦のような影像がはげしく廻転した。やられた! と思って、動かすと目の中が切れるかもしれないとは考えながら、でも、ちょっと試す気で細目に
瞼をあけようとすると、血がべったりと
塞いでいて、少し動くと
ぽたりと地面に垂れた。それから二人の友人にかかえられてすぐに大学病院へ行った。硝子で眼のまわりが切れただけで、幸いに眼の中には破片ははいっていなかったので、傷痕を縫ってもらったあと二週間も通えばよかった。しかし、そんな際だったので、ちょうどそれを良い口実にして、「怪我をしていて残念ながら行けない」旨を返事したのであった。彼は伯父を前にすると、自分の老いた時の姿を目の前にみせつけられるような気がして、伯父の仕草の一つ一つに嫌悪を感ずるばかりでなく、時々破裂する伯父の
疳癪(その故に伯父は
やかまの伯父と、甥や姪たちから呼ばれていた。)にも、慣れているとはいえ、多少恐れをなしていた。その上その将棋というのが、彼よりも一枚半も強いくせに、弱いものを相手にしていじめるのを楽しむといった風で、いつまでたっても止めようとはいい出さないのであるから、これにもいささか
辟易せざるを得なかったのである。彼のその返事に折り返して来た伯父の葉書には、災難はいつ降ってくるか分らず、人は常にそれに対して、
何時遭遇しても動ぜぬだけの心構えを養って置くことが必要である、といった意味のことが
認められていた。そしてそれきりで彼は一月あまり伯父のことを忘れていた。ところが三月の中頃近くなって、またひょっこり、
乱暴に美しく書きなぐった伯父の葉書が舞いこんできた。近い
中にお前の所へ行きたいが、都合は良いか、というのである。大学の入学試験が四、五日中にすむので、その後の方が都合がよいのですが、と彼は返事を書いた。ところが、それから三日ほどして、入学試験の
中の日に、その日の試験をすまして、下宿で机に向っていると、
襖をあける女中の声と共に、後から、古風な大きいバスケットを提げた伯父がはいって来た。これから山へ行くのだと伯父はいきなりいった。彼には一向話が分らなかった。恐らく、伯父はすでに事の次第を前もって彼に向けて手紙で知らせてあるという風に勘違いしていたに違いない。よく聞くと相州の大山に籠るのだという。大山の神主某の所へ行って、しばらく病を養うのだという。伯父はその二、三年前から時々腸出血などをしていた。それを七十を越した伯父は、気力一つで医者にもかからずに持ちこたえていたのである。その出血が近頃ますます烈しいという。そんなに弱っている身体が、何かにつけて不自由な山などへ籠っては、ますます
不可ないことは明らかなのであるが、それを言うと、どんなに機嫌を悪くするか分らないようなその頃の伯父であったので、三造も黙っているより外はなかった。それに荷物はもう、先へ向けて送ってあるのだと伯父はいっていた。しばらく、そのことを話している
中に、伯父は、三造の右の眼の縁に残っている傷痕をみつけて、やっと彼の怪我のことを思い出したらしく、その
工合をたずねた。と、それに対する彼の答をろくに聞きもしないで、「これから床屋へ行って来る。今、道で見てきたから場所は分っている。」と言い出した。見るとなるほど、
髯が――みんな白が黄に染まっているのだが――ひどく伸びている。頭髪はそれほど薄くはなく、殊に両耳の上のあたりはかなり長く伸びて乱れている。長寿の印しといわれる、長く
ぴんと突き出た眉の下に、大きい眼がくぼんでいる。三造はその眼を前から美しいと思っていた。この伯父と、それから、そのすぐ下の伯父――その牛若丸のような髪を結った隠者のようなお髯の伯父と、この二人の老人の眼は、それぞれに違った趣をもってはいるが、共に童貞にだけしか見られない
浄らかさを持って、いつも美しく澄んでいるのである。一つは、いつも実現されない夢を見ている人間の眼で、それからもう一つは、すっかりおちつき切って自然の一部になってしまったような人間の眼である。この二人の伯父を並べて見るたびに、三造はバルザックの『従兄ポンス』を思い出す。もちろん、上の伯父はポンスよりも気性が烈しく、下の伯父はシュムケよりも更に東洋的な諦観をより多くもち合せているのではあるけれども。
伯父は
そそくさところがるようにして階段を下りて行った。ついて行くと、伯父はもう下宿の下駄をつっかけて出てしまったあとで、帳場で
主婦さんと女中が笑っていた。
一時間ほどして帰って来た伯父はすっかり
綺麗になっていた。着物の前は合っていなかったけれども、
袴はキチンと結ばれ、とおった鼻筋とはっきり見ひらかれた眼とは彼を上品な老人に見せている。顔の肌も洗われたばかりで、老人らしい
汚点もなく黄色く光って見える。二人はまた火鉢の側に坐りこんで、しばらく話をした。彼らの親戚たちの噂話。その頃
支那からやって来た天才的な少年棋士のこと。新聞将棋のこと。日本の漢詩人のこと。支那の政局のこと。その中に何かの拍子で共産主義のことが出た時、伯父は、『資本論』の原本をその中に誰かに借りて来てくれ、と言い出した。また始まったなと彼は思った。このような実行力を伴わない東洋壮士的豪語がいつも彼を腹立たせるのである。なに、マルクスが正しい
独乙語さえ書いていれば俺にだって分るさ、と、彼の顔色を見たのか、伯父はそんなことまで附け加えた。彼は伯父が早くこの話を切上げてくれるように、と念じながら、黙って火箸で灰に字を書いているより外はなかった。その中に突然伯父は、急に気が付いたような様子で「傘を買って来てくれ。」と言う。降っているんですか、と聞きながら障子をあけて外を見ようとすると、今は降ってはいないけれども、とにかく
要るものだからと伯父は言った。そうして
蟇口から五十銭銀貨を一枚出して、
何処とかで、五十銭の蛇の目を見たから、そういうのを一本買って来てもらいたいといって、変な顔をしている三造にそれを渡すのであった。三造は女中を呼び、自分の財布から、そっと五十銭銀貨二枚を出して、それに附加え、買って来るように頼んだ。女中はすぐに表へ出て行ったが、やがて細目の紺の蛇の目を持って帰って来た。伯父はそれを、いきなり狭い四畳半で拡げて見て、なるほど、東京は近頃物が安いと言った。
間もなく伯父は、もう大山へ行くのだと言い出した。何時の汽車ですと、あやうく聞こうとした彼は、伯父が決して汽車の時間を調べない人間だったことを、ひょいと思い出した。伯父は、どんな大旅行をする時でも、時計など持ったことがないのである。
彼は東京駅まで送るつもりで、制服に着換え始めた。伯父はそれが待ちきれないで、例の大きなバスケットを提げて部屋の外へ出ると、急いで階段を下りて行った。と、
先刻の蛇の目を忘れたことに気がついたらしく、
階下から「三造さん。傘! 傘!」と大きな声がした。彼は
面喰った。いまだかつて伯父は彼の事を「さん」づけにして呼んだことはなかったはずである。いつも三造、三造の
呼棄であった。彼は、その伯父の呼方の変化に、伯父の気力の衰えを見たというよりは、何かしら伯父の精神状態が異常になっているのではないかというような不安が感じられて、ギョッとしながら、傘をもって階段を下りて行った。
表へ出ると伯父は円タクを呼んだ。どうせ文求堂に置いてある荷物も持って行くのだからと伯父は言いわけのような調子で言った。支那風の扉をつけた文求堂の裏口で車を停めると、中から店の人が、
がんじがらめにした
行李を一つ車の中へ運んでくれた。
車が東京駅に近づいた頃、伯父は彼に向って何か早口で言った。――伯父は非常に聴き取りにくい早弁で、おまけに、それを聞き返されるのが大嫌いであった。――その時も三造は、伯父の言ったことがよくわからなかったので聞えないという風をして伯父の顔を見返した。伯父はいらだたしそうに、今度は、右手は人差指一本、左手は人差指と中指をそろえて、あげて見せた。この禅問答のような仕草は、三造にはますます何のことやら分らなかったけれど、とにかく無意味にうなずいて見せた。伯父はやっと気がすんだような顔をして硝子窓の外に眼を外らせた。駅について助手に荷物を運ばせている時、ふと三造は、伯父が運転手に何も聞かずに一円二十銭――たしかに、それは一円二十銭――払っているのを見た。三造は驚いた。(昭和五年当時、円タクは市内五十銭に決っていたものだ。)やっと、さっきの指の意味が分った。右の一本は一円――円タクというからには一円にきまっていると伯父は考えたのだ――で、左の二本は二十銭だったのである。彼も今更とめるわけにも行かず
微笑いながら伯父の動作を眺めていた。三造などに聞かなくとも、この大都会の交通機関の習慣位は、ちゃんと心得ているぞと言った風な、いかにも満足げに見える伯父の顔つきを。恐らく、伯父は、割増一人ごとに二十銭と書いてあるのを何処かで見たのでもあろうか。
それから一月ほどたって、大山から手紙が来た。身体の工合がますますよくないこと、一日に何回も腸出血があると言うことなどが
認められていた。が、「瀕死」とか「死期が近づいた」とか言う字句が彼に何か実感の伴わないものを感じさせると同時に、かえってそういうことを言う伯父の病態に楽観的な気持を抱かせたし、また、宿のものの待遇の悪さをしきりに罵っているその手紙の口調からしても、伯父の元気の衰えてはいないらしいことが察せられたので、彼はその報知を大して気にもかけなかったのである。ところが更にそれから半月ほどして、今度は葉書で、簡単に、山では病が養えないから大阪へ――大阪には彼の従姉が(伯父からいえば姪だが)いた――行きたいのだが、今では身体がほとんど利かないから、大阪まで送ってもらいたい、老人の最後の頼みだと思って、是非すぐに大山に迎えに来てほしい、と書かれたのを受取った時、彼は全く当惑した。一体、そのような病人を大阪まで運んでいいものかどうか。それに、どうしてまあ、伯父は大阪へなど行く気になったものか。なるほどその大阪の従姉は子供の時から伯父には色々と世話になったのであるし、また従姉自身、人の面倒を見るのが好きな性質ではあるが、何といってもそれは、従姉の夫の家ではないか。おまけに、その姪の夫を伯父は常々、馬鹿だ(ということは、つまりこの場合漢学の素養がないと言うことになるのであるが)
云い
云いしていたのである。その男の所へ行こうなどと言い出す。これは少し変だぞと三造は考えた。前の手紙には驚かなかった彼も、この伯父の大阪行の決心の中に、伯父の病気の重態さの動かすことのできない証拠を見たように思って、少からずあわてたのである。が、それにしても、とにかく大阪まで行かせることは何としてもいけないと思った。病気を養うのならば、何も大阪まで行かなくとも、自分の弟が――三造にとってはやはりこれも伯父だが――洗足にいるのである。三造はすぐにその葉書をもって洗足へ出かけた。洗足の伯父も彼と同意見であった。自分の家へ来るように勧めるために、その伯父は翌朝大山へ行った。が、午後になって手を空しゅうして帰って来た。どうしても(理窟なしに)大阪へ行くと言ってきかないのだそうである。もう、ああ言い出しては仕方がないから、と言って、洗足の伯父は彼に大阪行の旅費を与えた。
翌日、三造は小田急で大山へ行った。その神主の家はすぐ分った。通されて二階に上ると、伯父は座敷の真中の蒲団の上に起きて、古ぼけた
脇息に
凭れて坐っていた。伯父は三造を見ると非常に――滅多に見せたことのないほどの――嬉しそうな顔をした。それが何だか三造を不安にした。荷物はすっかりととのえられていた。立つ際になって、封筒に入れて置いた紙幣が一枚、その封筒ごと
失くなったといい出した。伯父のなくしものはいつものことである。その時もすぐに、その封筒が部屋のすみの新聞紙の下から出て来た。が、それは半分破れて取れていて、中には、これもやはり破れた十円紙幣が半分だけはいっていた。伯父が
反故とまちがえて自分で破って捨てたものであることは明らかであった。他の半分は、だが、探しても探しても出て来なかった。伯父は捜索を断念しようとしたけれども、それを聞いて一緒に探しはじめたその神主の家人たちが承知しなかった。探し出して、くっつければ、結構使えるのだからと、そのお
内儀さんはそう言って、家の裏の
ごみ捨場や、その側の竹藪まで、子供たちを探しにやった。「見つかるもんか。馬鹿な。」と伯父は、露骨に不快な顔をして、まるで
他人事のように、彼らの騒ぎ方を罵るのであった。自分自身の失策に対する腹立たしさと、更に、その失策を誇張するかのような仰々しい彼らの騒ぎぶりと、また、自分の金銭に対する
恬淡さを彼らが全然理解していないことに対する
憤懣とで、すっかり機嫌を悪くしたまま、伯父はその家を出た。
麓までは、三造にも初めての
山駕籠であった。あまり強そうにも見えない三十前後の男が前後に一人ずつ、杖をもって時々肩を換えながら、石段路を歩きにくそうに下って行った。三造はそのあとについて歩いた。下り切ってしまうと今度は人力車に乗った。松田の駅に着いた時はもう夕方になっていた。
松田駅の待合室で次の下りを待合せている間、伯父は色々解らないことを
言出して三造を弱らせた。その時伯父は珍しく旅行案内を持っていて、(宿の神主が気を利かせて荷物の中に入れておいたものであろう)それで時間を繰りながら、「今、立てば大阪は明日の十時になる」といった。ところが三造が見ると、どうしても七時になっている。そういうと伯父はひどく腹を立てて、よく見ろといった。いくら見ても同じであった。伯父が線を間違えて見ていたのである。三造も少し不愉快になってきたので、赤鉛筆でハッキリ線をひいて伯父の見間違いを説明した。すると伯父は返事をしないで、子供のように
むっとしたまま横を向いてしまった。それからしばらくして、今度は、
夏蜜柑を買って来いと言い出した。三造の買ってきた夏蜜柑はうまくなかった。「夏蜜柑の択び方も知らん」と言ってまじめになって
小言をいいながら、それでも伯父はムシャムシャ喰べた。そして三造にも勧めた。砂糖がなくてはと酸いものの嫌いな三造が言うと「そんな贅沢なことでどうする。今の若いものは」と再び小言が始まった。ふだんは、こんな事を言い出してはますます若い者に
嗤われることを知って、自ら抑えるようにしているのだが、病気のためにそんな顧慮も忘れてしまったらしい。三造も腹が立ち、ハッキリと苦い顔を見せて、いつまでも夏蜜柑の黄色く白っぽい房を、喰べずに掌に載せたまま、強情に押黙っていた。
しかし、いよいよ切符を切り構内に入って露天のプラットフォオムのベンチに、トランクにもたれ、毛布をしいて、ほっと腰を下した伯父を見た時、――沈んで間もない初夏の空は妙に白々とした明るさであった、――三造は、はっきりと、伯父の死の近づいたことを感じさせられた。円い形の良い頭蓋骨が黄色い薄い皮膚の下にはっきり想像され、
凹んだ眼は静かに閉じ、
顴骨から下がぐっと落ちこんで、先端の黄色くなった白髯が大分伸びている。そして右手はキチンと袴の膝の上に、左手は胸からふところへ差し込んだまま、眠ったように腰掛けている伯父の姿のどこかに、静かな暗い気がまといついているような気がするのであった。しかし、その死の予感は、三造をうろたえさせもしなければ、また伯父に対する最後の愛着を感じさせもしなかった。妙におちついた澄んだ気持で、彼は、ほの白い薄明の中に浮び上った伯父の顔を、――その顔に漂っている、追いやることのできない不思議な静かな影を――見詰めるのであった。その影に抵抗することは、とてもできない。それは、どうすることもできない定まったことなのだ、と、そういう風な圧迫されるような気持を何とはなしに感じながら。
汽車の中は、場所はゆっくり取れたけれども、あいにくそれが手洗所の近くであった。伯父は、それをひどく気にして、他の乗客がその扉をあけっぱなしにすると言っては、遠慮なく罵った。三造は毛布を敷き、空気枕をふくらして、伯父の寝やすいようにしつらえた。伯父は窓硝子の方に背をもたせ、枕をあてがって、足を伸ばし、眼をつぶった。茶っぽい光の列車の電燈の下では、伯父の顔にももう先刻の妙な「気」はすっかり払い落されてしまっていた。ただ、そのやせた顔の皺のより工合や、また時々のひきつるような筋の動きで、その浅い睡りの中でも伯父が苦痛をこらえていることが分り、それが向いあっている三造に落ちつかない気持を与えた。伯父の苦しそうな寐顔を見ながら、しかし、彼は、かえって、この伯父のかつての滑稽な非常識な失策などを思い出していた。伯父が銭湯へ行ったところ、女湯とあるのを読み、そこには男湯はないものと思って、帰って来た話。また、三造の妹に、駄菓子屋へ行って、キャラメルを五円買って与えた話。そんなことを彼はゴトゴト揺られながら思い出していた。その三造の妹は二年前に四歳で死んだ。それを大変悲しんだ伯父はその時こんな詩を作った。
毎我出門挽吾衣 翁々此去復何時
今日睦児出門去 千年万年終不帰
睦子とはその妹の名である。三造には漢詩の巧拙は分らなかった。従って伯父の詩で記憶しているのもほとんどないのであるが、今、次のようなのがあったのを、ひょっと思い出した。その冗談めいた自嘲の調子が彼の注意を惹いたものであろうか。
悪詩悪筆 自欺欺人 億千万劫 不免蛇身
口の中で、しばらくこれを繰返しながら、三造は自然に不快な寒けを感じてきた。何故か知らぬが、詩の全体の意味からはまるで遊離した「不免蛇身」という言葉だけが、三造を妙におびやかしたのである。彼自身も、この伯父のように、一生何ら為すなく、自嘲の中に終らねばならぬかも知れぬというような予感からではなかった。それはもっと会体のしれない、気味の悪い不快さであった。眼をつぶったまま揺られつづけている伯父を、暗い車燈の下に眺めながら、彼は「この世界で冗談にいったことも別の世界では決して冗談ではなくなるのだ」という気がした。(そのくせ、彼はふだん決して他の世界の存在など信じてはいないのだが)すると、伯父の詩の
蛇身という言葉が、
蛇身という文字がそのまま生きてきて、グニャグニャと身をくねらせて車室の空気の中を
匍いまわっているような気持さえしてくるのであった。
翌朝、大阪駅から乗ったタクシイの中で――従姉の家は八尾にあった――三造はそっと自分の蟇口をのぞいて見た。前日の夕方、松田駅で、切符を買うとき「ちょっと、今、一緒に出して置いてくれ」と伯父に言われて、立替えて置いた金のことを、伯父はもうすっかり忘れてしまったと見えて、いまだに何ともいい出さないのである。車に揺られて、ゴミゴミした大阪の街中を通りながら、またこの車賃も払わせられるのかと、彼は観念していた。そうなると洗足の伯父から貰ってきた金では、帰りの汽車賃があぶなくなるのである。どうせ従姉に借りれば済むことではあるが、とにかく近頃の伯父の忘れっぽさには呆れない訳には行かなかった。それに、冗談にも催促がましいことでも口にしようものなら大変なのだから、全く、ひどい目に逢うものだと三造は思った。車が次第に郊外らしいあたりにはいって行った時、しかし、伯父は、突然自分の財布を出して五円紙幣を一枚抜き出した。明らかに、今度は自分で払うつもりに違いない。三造は、ちょっと助かったような気がしたけれど、それにしても財布まで出しながら、まだ、昨夕の汽車賃のことを思い出さないのは変だと思った。車はやがて八尾の町にはいって、しばらくすると、伯父は、そこで車を停めさせて、どうも
此処らしいから下りて見るといった。三造は初めてであるし、伯父もまだ二度目なのではっきり分らないのである。三造を車内に残して、ひとり下りた伯父は、紙幣を一枚、右の人差指と中指の間にはさんだまま、あまり確かでない足どりで、往来から十間ほどひっこんだ路次にはいって行った。そして、突当りの格子戸の上の標札を読むと、病人のわりにかなり大きな声で「ああ、ここだ。ここだ」といって、彼の方を向いて手招きをした。それからそのまま――
紙幣を指の間にはさんだまま――格子をあけて、すうっとはいってしまったのである。どうにも仕方がなかった。三造は苦笑しながら、またしても四円なにがしのタクシイ代を払った。
伯父を送りとどけると、三造はほっと荷を下した気になって、すぐに、ひとりで京都へ遊びに出かけた。京都には、この春、京都大学にはいった高等学校の友人がいた。二日ほど、その友人の下宿に泊って遊んでから、八尾の従姉の家に帰ると、玄関へ出て来た従姉が小声で彼に告げた。三ちゃんが黙って遊びに行ってしまったって大変御機嫌が悪いから、早く行って
大人しくあやまっていらっしゃいと言うのである。昨日は大変元気で鯛の刺身を一人で三人前も喰べたのはいいが、そのおかげで昨夕は何度も嘔吐や腸出血らしいのがあったのだとも言った。何しろ医者を寄付けようとしないので従姉も困っているらしかった。二階へ上って行くと、果して、伯父は大きな枕の中から顔を此方へ向け、黙ってじろりと彼を睨んだ。それから突然、掃除をしろと言い出した。彼が、座敷の隅にかかっていた
座敷箒を取ろうとすると、まず、自分の寝ている
床の上から掃かなけりゃいけないと言う。小さな
棕櫚の手箒で
蒲団の上を、それから座敷箒で、その部屋と隣の部屋まで、とうとう三造はすっかり二階中掃除させられてしまった。それが終ると、大分伯父も気が済んだようであったが、それでも、まだ「お前は病人を送るために来たのだか、自分の遊びのために来たのだか分らない」などと言った。その晩、三造は
早々に東京へ帰った。
三
二週間ほどして、伯父は八尾の姪の夫に送られて東京へ帰って来た。何のために大阪へ行ったのか、訳が分らない位であった。恐らく伯父も既に死を
覚ったのであろう。そうして同じ死ぬならば、やはり自分の生れた東京で死にたかったのであろう。三造が電話で
しらせを受取ってすぐに高樹町の赤十字病院に行った時、伯父はひどく彼を待兼ねていた様子であった。一生
竟に家庭を持たなかった伯父は、数ある姪や甥たちの中でも特に三造を愛していたように見えた。殊に、彼の学校の成績の比較的良い点に信頼していたようであった。三造がまだ中学の二年生だった時分、同じく二年生だった彼の従兄の圭吉と二人で、伯父の前で、将来自分たちの進む学校について話し合ったことがあった。その時、二人とも中学の四年から高等学校へ進む予定で、そのことを話していると、それを聞いていた伯父が横から、「三造は四年からはいれるだろうが、圭吉なんか、とても駄目さ」と言った。三造は、子供心にも、思い遣りのない伯父の軽率を、許しがたいものに思い、まるで自分が圭吉を辱しめでもしたかのような「
すまなさ」と「恥ずかしさ」とを感じ、しばしは、顔を上げられない位であった。それから二年余りも経って、駄目だと言われた圭吉も、三造と共に四年から高等学校にはいった時、三造は、まだ、かつての伯父の無礼を執念深く覚えていて、それに対する自分の復讐が出来たような嬉しさを感じたのであった。
赤十字病院の病室には、洗足の伯父と渋谷の伯父(これは、例のお髯の伯父と洗足の伯父の間の伯父であった。その頃遠く大連にいた三造の父は、十人兄弟の七番目であった。)とが来ていた。もちろん、附添や看護婦もいた。三造がはいって行くと、伯父は寝顔を此方へ向けて、真先に、ちょうどその頃神宮外苑で行われていた極東オリンピックのことを彼に訊ねた。そして、陸上競技で
支那が依然無得点であることを彼の口から確かめると、我が意を得たというような調子で、「こういうような事でも、やはり支那人は徹底的に
懲して置く必要がある」と
呟いた。それから、その日の新聞の支那時局に関する所を三造に読ませて、じっと聞いていた。伯父は、人間の好悪が甚だしく、気に入らない者には新聞も読ませないのである。
次に三造が受取った伯父についての報知は、いよいよ
胃癌で到底助かる見込の無いことを伯父自身に知らせたということ――それは、もうずっと以前から分っていたことだが、病人の請うままにそれを告げてよいか、どうかを医者が親戚たちに計った時、伯父の平生の気質から推して、本当のことをはっきり言ってしまった方がかえって
落著いた綺麗な往生が遂げられるだろうと、一同が答えたのであるという。――そして、どうせ助からないなら病院よりは、というので、洗足の家へ引移ったということであった。なお、その親戚の一人からの手紙には、「助かる見込のない事を宣告された時の伯父は、実に
従容としていて、顔色一つ変えなかった」と附加えてあった。英雄の最後でも画くようなそういう書きっぷりにはいささか辟易したが、とにかく三造はすぐに洗足の伯父の家へ行った。そうして、ずっと其処に寝泊りして最後まで附添うことにした。
病気が進むにつれ、人に対する好悪がますますひどくなり側に附添うことを許されるのは、三造の他四、五人しかいなかった。その四、五人にも、伯父は絶えず何か小言を言続けていた。田舎からわざわざ見舞に来た三造の伯母――伯父の妹――などは、何か気に入らぬことがあるとて、病室へも通されなかった。三造にとって一番たまらないのは、伯父が看護婦を罵ることであった。看護婦には、伯父の低声の早口が聞きとれないのである。それを伯父は、少しも言うことを聞かぬ女だ、といって罵った。
或時は、三造に向って看護婦の面前で、「看護婦を殴れ。殴っても構わん」などと、憤怒に堪えかねた眼付で、しわ
嗄れた声を絞りながら叫んだ。
利かない上体を、心持、枕から浮かすように務めながら目をけわしくして、衰えた体力を無理にふりしぼるように罵っている伯父の姿は全く悲惨であった。そういう時、最初の看護婦は、――その女は二日ほどいたが堪えられずに帰ってしまった――後を向いて泣出し、二度目の看護婦は
不貞腐れて
外っ
方を向いていた。三造は、どうにもやり切れぬ傷ましい気持になりながら、何とも手の下しようが無かった。
病人の苦痛は極めて激しいもののようであった。食物という食物は、まるで
咽喉に通らないのである。「天ぷらが喰べたい」と伯父が言出した。何処のが良い? と聞くと「
はしぜん」だという。親戚の一人が急いで新橋まで行って買って来た。が、ほんの小指の先ほど喰べると、もうすぐに吐出してしまった。まる三週間近く、水の他何にも
摂れないので、まるで生きながら餓鬼道に堕ちたようなものであった。例の気象で、伯父はそれを、目をつぶってじっと
堪えようとするのである。時として、
堪えに堪えた気力の隙から、かすかな
呻きが洩れる。
瞑った眼の周囲に苦しそうな深い
皺を寄せ、口を堅く閉じ、じっとしていられずに、大きな枕の中で頭をじりじり動かしている。身体には、もうほんの少しの肉も残されていない。意識が明瞭なので、それだけ苦痛が激しいのである。筋だらけの両の手の指を硬くこわばらせ、その指先で、寝衣の
襟から出た
こつこつの咽喉骨や胸骨のあたりを小刻みに
顫えながら押える。その胸の辺が呼吸と共に力なく上下するのを見ていると、三造にも伯父の肉体の苦痛が
蔽いかぶさって来るような気がした。しまいに、伯父は、薬で殺してくれと言出した。医者は、それは出来ないと言った。だが、苦痛を軽くするために、死ぬまで、薬で睡眠状態を持続させて置くことは許されるだろう、と附加えた。結局、その手段が採られることになった。いよいよその薬をのむという前に、三造は伯父に呼ばれた。側には、ほかに伯父の従弟に当る男と、及び、伯父の五十年来の友人であり弟子でもある老人とがいた。伯父は
扶けられて、やっと蒲団の上に起きて坐り、夜具を三方に高く積ませて、それに
凭って辛うじて身を支えた。伯父は側にいる三人の名を一人一人呼んで
床の上に来させ、その手を握りながら、別れの挨拶をした。伯父が握手をするのはちょっと不思議であったが、恐らく、それがその時の伯父には最も自然な愛情の表現法だったのであろう。三造は、他の二人の握手を見ながら、多少の困惑を交えた驚きを感じていた。最後に彼が呼ばれた。彼が近づくと、伯父は真白な細く堅い手を彼の掌に握らせながら、「お前にも色々厄介を掛けた」と、とぎれとぎれの声で言った。三造は眼を上げて伯父の顔を見た。と、静かに彼を見詰めている伯父の視線にぶっつかった。その眼の光の静かな美しさにひどく打たれ、彼は覚えず伯父の手を強く握りしめた。不思議な感動が身体を顫わせるのを彼は感じた。
それから伯父はその薬を飲み、やがて寝入ってしまった。三造はその晩ずっと、眠続けている伯父の側について見守った。一時の感動が過ぎると、彼には先刻の所作が――また、それに感動させられた自分が少々
気羞しく思出されて来る。彼はそれを
忌々しく思い、その反動として、今度は、伯父の死についてあくまで冷静な観察をもち続けようとの
心構を固めるのである。青い風呂敷で電燈を覆ったので、部屋は海の底のような光の中に沈んでいる。そのうす暗さの真中にぼんやり浮かび上った端正な伯父の寝顔には、もはや、先刻までの激しい苦痛の跡は見られないようである。その寝顔を横から眺めながら、彼は伯父の生涯だの、自分との間の交渉だの、また病気になる前後の事情だのを色々と思いかえして見る。突然、ある妙な考えが彼の中に起って来た。「こうして伯父が寝ている側で、伯父の性質の一つ一つを意地悪く検討して行って見てやろう。感情的になりやすい周囲の中にあって、どれほど自分は客観的な物の見方が出来るか、を試すために」と、そういう考えが起って来たのである。(若い頃の或る時期には、全く後から考えると汗顔のほかは無い・未熟な精神的擬態を採ることがあるものだ。この場合も明らかにその一つだった。)その子供らしい試みのために彼は、携帯用の小型日記を取り出し、暗い電気の下でボツボツ次のような備忘録風のものを書き始めた。書留めて行く中に、伯父の性質の、というよりも、伯父と彼自身との精神的類似に関するとりとめのない考察のようなものになって行った。
四
(一) 彼の意志、(と三造は、まず書いた。)
自分がかつてその下に訓練され
陶冶された紀律の命ずる方向に向っては、絶対盲目的に努力し得ること。それ以外のことに対しては全然意志的な努力を試みない。一見すこぶる
鞏固であるかに見える彼の意志も、その用いられ方が甚だ保守的であって、全然未知な精神的分野の開拓に向って、それが用いられることは決して無い。
(二) 彼の感情
論理的推論は学問的理解の過程において多少示されるに過ぎず(実はそれさえ甚だ飛躍的なものであるが)、彼の日常生活には全然見られない。行動の動機はことごとく感情から出発している。甚だ理性的でない。その没理性的な感情の強烈さは、時に(本末顛倒的な、)
執拗醜悪な面貌を呈する。彼の強情がそれである。が、また、時として、それは子供のような純粋な「没利害」の美しさを示すこともある。
自己、及び自己の教養に対する強い確信にもかかわらず、なお、自己の教養以外にも多くの学問的世界のあることを知るが故に、彼はしばしば(殊に青年たちの前にあって、)それらの世界への理解を示そうとする。――多くの場合、それは無益な努力であり、時に、滑稽でさえある。――しかもこの他の世界への理解の努力は、常に、悟性的な概念的な学問的な範囲にのみ
止っていて、決して、感情的に異った世界、性格的に違った人間の世界にまでは及ばないのである。かかる理解を示そうとする努力、――新しい時代に置き去りにされまいとする焦躁――が、彼の表面に現れる最も著しい弱さである。
(ここまで書いて来た三造は、絶えず自分につきまとっている気持――自分自身の中にある所のものを憎み、自身の中に無いものを希求している彼の気持――が、伯父に対する彼の見方に非常に影響していることに気が付き始めた。彼は自分自身の中に、何かしら「乏しさ」のあることを自ら感じていた。そして、それを甚だしく嫌って、すべて、豊かさの感じられる(鋭さなどはその場合、ない方が良かった)ものへ、強い希求を感じていた。この豊かさを求める三造の気持が、伯父自身の中に、――その人間の中に、その言動の一つ一つの中に見出される
禿鷹のような「鋭い乏しさ」に出会って、烈しく反撥するのであろう。彼はこんなことを考えながら、書続けて行った。)
(三) 移り気
彼の感情も意志も、その儒教倫理(とばかりは言えない。その儒教道徳と、それからやや
喰み出した、彼の強烈な自己中心的な感情との混合体である。)への服従以外においては、質的にはすこぶる強烈であるが、時間的には甚だしく永続的でない。移り気なのである。
これには、彼の幼時からの書斎的俊敏が大いにあずかっている。彼が一生ついに何らのまとまった労作をも残し得なかったのはこの故である。決して彼が不遇なのでも何でもない。その自己の才能に対する無反省な過信はほとんど滑稽に近い。時に、それは失敗者の
負惜みからの擬態とも取れた。若い者の前では、つとめて、新時代への理解を示そうとしながら、しかも、その物の見方の、どうにもならない
頑冥さにおいて、
宛然一個のドン・キホーテだったのは悲惨なことであった。しかも、彼が記憶力や解釈的思索力(つまり東洋的悟性)において異常に優れており、かつ、その気質は最後まで、
我儘な、だが没利害的な純粋を保っており、また、その気魄の烈しさが遥かに常人を超えていたことが一層彼を悲惨に見せるのである。それは、東洋がいまだ
近代の侵害を受ける以前の、或る一つのすぐれた精神の型の博物館的標本である。…………
(このような批判を心の中に繰返しながら、三造は、こう考えている自分自身の物の見方が、あまりに
生温い古臭いものであることに思い及ばないわけには行かなかった。伯父の一つの道への盲信を憐れむ(あるいは羨む)ことは、同時に自らの
左顧右眄的な生き方を表白することになるではないか。して見れば彼自らも、伯父と同様、新しい時代精神の予感だけはもちながら、結局、古い時代思潮から一歩も出られない滑稽な存在となるのでないか。(ただ、それは伯父と比べて、半世紀だけ時代をずらしたにすぎない。)伯父のようになるであろうと言った彼の従姉の予言があたることになるではないか。…………)
彼は少々忌々しくなって、文章を続ける気がしなくなり、今度は表のようなものをこしらえるつもりで、日記帖の真中に横に線を引き、上に、伯父から
享けたもの、と書き、下に、伯父と反対の点と書いた。そうして伯父と自分との類似や相違を其処に書き入れようとしたのである。
伯父から享けたものとしては、まず、その非論理的な傾向、気まぐれ、現実に疎い理想主義的な気質などが挙げられると、三造は考えた。
穿ったような見方をするようでいて、実は大変に甘いお
人好しである点なども、その一つであろう。三造も時に
他人から記憶が良いと言われることがあるが、これも伯父から享けたものかも知れない。肉体的にいえば、伯父のはっきりした男性的な風貌に似なかったことは残念だったが、
顱頂の極めて
まん円な所(誰だって大体は円いに違いないが、案外
でこぼこがあったり、上が平らだったり、
後が絶壁だったりするものだ。)だけは、確かに似ている。しかし、伯父との間に最も共通した気質は何だろう。あるいは、二人ともに、小動物、殊に猫を愛好する所がそれかも知れぬ、と、三造は気が付いた。一つの情景が今三造の眼の前に浮んで来る。何でも夏の夕方で、彼はまだ小学校の三年生位である。次第に暮れて行く庭の隅で、彼が小さなシャベルで土を掘っている側に、伯父が小刀で白木を削っている。二人が共に非常に可愛がっていた三毛猫が何処かで猫イラズでも喰べたらしく、その朝、外から帰って来ると、黄色い塊を吐いて、やがて死んでしまった。その墓を二人はこしらえているのである。土が掘れると、猫の死骸を埋め、丁寧に土をかけて、伯父がその上に、白木の印を立てる。黄色く暮れ残った空に蚊柱の廻る音を聞きながら、三造はその前にしゃがんで手を合わせる。伯父は彼の後に立って、手の土を払いながら、黙ってそれを見ている。
五
伯父はその晩ずっと睡り続けた。次の日の昼頃、ひょいと眼をあけたが、何も認めることが出来ないようであった。
空をみつめた眼玉をぐるりと一廻転させると、すぐにまた、瞼を閉じた。そしてそのまま、
微かな寝息を立てて、眠り続けた。
その晩八時頃、三造が風呂にはいっていると、すぐ外の廊下を食堂(洗足の伯父の家は半ば洋風になっていた)から、伯父の病室の方へバタバタ四、五人の急ぎ足のスリッパの音が聞えた。彼は「はっ」と思ったが、どうせ睡眠状態のままなのだから、と、そう考えて、身体を洗ってから、廊下へ出た。病室へはいると、昼間の姿勢のままにねている伯父を真中にして、その日、朝からこの家につめかけていた四人の親戚たちやこの家の家族たちが、大方黙って下を向いていた。彼が障子をあけてはいっても誰も振向かない。彼らの環の中にはいって座を占め、伯父の顔を眺めた。かすかな寝息ももう聞えなかった。彼はしばらく見ていた。が、何の感動も起らなかった。突然、笑い声のような短く高い叫びが、彼の一人おいて隣から起った。それは二、三年前女学校を出たこの家の娘であった。彼女はハンケチで顔をおおって深く下を向いたまま、小刻みに肩のあたりを顫わせている。この従妹が三日ほど前、水の飲ませ方が悪いと言って、ひどく伯父から叱られて泣いていたのを三造は思い出した。
棺は翌朝来た。それまでに伯父の身体はすっかり白装束に着換えさせられていた。元来小柄な伯父の、
経帷子を着て横たわった姿は、ちょうど、子供のようであった。その小さな身体の上部を洗足の伯父が持ち、下を看護婦が支えて、白木の棺に入れた時、三造は、こんな小さな
痩せっぽちな伯父がこれから一人ぼっちで棺の中に入らなければならないのかと思って、ひどく
傷々しい気がした。それは、哀れ、とよりほか言いようのない気持であった。小さな枕どもに埋まって、ちょこんと小さく寝ている伯父を見ている
中に、その痩せた白い身体の中が次第に透きとおって来て、筋や臓腑がみんな消えてしまい、その代りに何ともいえない哀れさ寂しさがその中に一杯になってくるように思われた。敬われはしたかも知れないが
竟に誰にも愛されず、孤独な放浪の中に一生を送った伯父の、その生涯の寂しさと心細さとが、今、この棺桶の中に一杯になって、それが、ひしひしと三造の方まで流れ出して来るかのように思われるのであった。昔、自分と一緒に猫を埋めた時の伯父の姿や、昨夜、薬をのむ前に「お前にも色々世話になった。」と言った伯父の声が(低い、
嗄れた声がそのまま)三造の頭の奥をちらりと
掠めて過ぎた。突然、熱いものがグッと押上げて来、あわてて手をやるひまもなく、大粒の涙が一つポタリと垂れた。彼は自分で
吃驚しながら、また、人に見られるのを恥じて、手の甲で
頻りに拭った。が、拭っても拭っても、涙は止まらなかった。彼は自分の不覚が腹立たしく、下を向いたまま廊下へ出ると、下駄をひっかけて庭へ下りて行った。六月の中旬のことで、庭の隅には丈の高い紅と白とのスウィートピイが美しく
簇り咲いていた。花の前に立って、三造は、しばらく涙の
涸くのを待った。
六
伯父の遺稿集の巻末につけた、お
髯の伯父の
跋によれば、死んだ伯父は「
狷介ニシテ
善ク罵リ、人ヲ
仮ス
能ハズ。人マタ
因ツテ之ヲ仮スコトナシ。大抵視テ以テ狂トナス。遂ニ自ラ号シテ斗南狂夫トイフ。」とある。従って、その遺稿集は、『
斗南存稾』と題されている。この『斗南存稾』を前にしながら、三造は、これを図書館へ持って行ったものか、どうかと頻りに躊躇している。(お髯の伯父から、これを帝大と一高の図書館へ納めるように、いいつけられているのである。)図書館へ持って行って寄贈を申し出る時、著者と自分との関係を聞かれることはないだろうか? その時「私の伯父の書いたものです」と、昂然と答えられるだろうか? 書物の内容の価値とか、著者の有名無名とかいうことでなしに、ただ、「自分の伯父の書いたものを、得々として自分が持って行く」という事の中に、何か、おしつけがましい、図々しさがあるような気がして、神経質の三造には、堪えられないのである。が、また、一方、伯父が文名
嘖々たる大家ででもあったなら、案外、自分は得意になって持って行くような軽薄児ではないか、とも考えられる。三造は色々に迷った。とにかく、こんな
心遣が多少病的なものであることは、彼も自分で気がついている。しかし、自己的な虚栄的なこういう気持を、別に、死んだ伯父に対して済まないとは考えない。ただ、この書の寄贈を彼に託した親戚や家人たちが、この気持を知ったら烈しく責めるだろうと思うのである。
だが、結局彼は、それを図書館に納めることにした。生前、伯父に対してほとんど愛情を抱かなかった罪ほろぼしという気持も、少しは手伝ったのである。実際、近頃になっても伯父について思出すことといえば、大抵、伯父にとって意地の悪い事柄ばかりであった。死ぬ一月ばかり前に、伯父が遺言のようなものを
予め書いた。「勿葬、勿墳、勿碑。」(葬式を出すな。墓に埋めるな。碑を立てるな。)これを死後、新聞の死亡通知に出した時、「勿墳」が誤植で、「勿憤」になっていた。一生を焦躁と
憤懣との中に送った伯父の遺言が、皮肉にも、
憤る
勿れ、となっていたのである。三造の思出すのは大抵このような意地の悪いことばかりだった。ただ、一、二年前と少し違って来たのは、ようやく近頃になって彼は、当時の伯父に対する自分のひねくれた気持の中に「余りに子供っぽい性急な自己反省」と、「自分が最も嫌っていたはずの
乏しさ」とを見るようになったことである。
彼は、軽い罪ほろぼしの気持で『斗南存稾』を大学と高等学校の図書館に納めることにした。但し、神経の浪費を防ぐために、郵便小包で送ろうと考えたのである。図書館に納めることが
功徳になるか、どうかすこぶる疑問だな、などと思いながら、彼は、渋紙を探して小包を作りにかかった。
*
右の一文は、昭和七年の頃、別に創作のつもりではなく、一つの私記として書かれたものである。十年
経つと、しかし、時勢も変り、個人も成長する。現在の三造には、伯父の遺作を図書館に寄贈するのを躊躇する心理的理由が、もはや余りにも滑稽な羞恥としか映らない。十年前の彼は、自分が伯父を少しも愛していないと、本気で、そう考えていた。人間は何と
己れの心の
在り
処を自ら知らぬものかと、今にして驚くの外はない。
伯父の死後七年にして、
支那事変が起った時、三造は始めて伯父の著書『支那分割の運命』を
繙いて見た。この書はまず
袁世凱・
孫逸仙の人物
月旦に始まり、支那民族性への洞察から、我が国民の彼に対する
買被り的同情(この書は大正元年十月刊行。従ってその執筆は民国革命進行中だったことを想起せねばならぬ)を
嗤い、一転して、当時の世界情勢、
就中欧米列強の東亜侵略の勢を
指陳して、「今や支那分割の勢既に成りて
復動かすべからず。我が日本の之に対する、如何にせば可ならん。全く分割に
与らざらんか。進みて分割に与らんか」と自ら設問し、さて前説が我が民族発展の閉塞を意味するとせば、勢い、欧米諸国に伍して進んで
衡を中原に争わねばならぬものの如く見える。しかしながら、この事たる、究極よりこれを見るに「黄人の相
食み相闘ふもの」に他ならず、「たとひ我が日本甘んじて白人の牛後となり、二三省の地を割き二三万方里の土地四五千万の人民を得るも、何ぞ黄人の衰滅に補あらん。又何ぞ白人の横行を妨げん。他年
煢々孤立、五洲の内を環顧するに一の同種の国なく一の
唇歯輔車相倚り
相扶くる者なく、徒らに目前区々の小利を
貪りて千年不滅の醜名を流さば、
豈大東男児無前の羞に非ずや。」という。
則ち分割のこと、これに与るも不利、与らざるも不利、然らばこれに対処するの策なきか。曰く、あり。しかも、ただ一つ。
即ち日本国力の充実これのみ。「もし我をして絶大の果断、絶大の力量、絶大の抱負あらしめば、我は進んで支那民族分割の運命を
挽回せんのみ。四万々生霊を水火
塗炭の中に救はんのみ。
蓋し大和民族の天職は殆ど之より始まらんか。」思うに「二十世紀の最大問題はそれ殆ど黄白人種の衝突か。」
而して、「我に後来白人を東亜より駆逐せんの絶大理想あり。而して、我が徳我が力
能く之を実行するに足らば」則ち始めて日本も救われ、黄人も救われるであろうと。そうして伯父は当時の我が国内各方面について、他日この絶大実力を貯うべき
備ありやを顧み、上に聖天子おわしましながら有君而無臣を
慨き、政治に外交に教育に、それぞれ得意の辛辣な皮肉を飛ばして、東亜百年のために国民全般の奮起を促しているのである。
支那事変に先立つこと二十一年、我が国の人口五千万、歳費七億の時代の著作であることを思い、その論旨の
概ね
正鵠を得ていることに三造は驚いた。もう少し早く読めば良かったと思った。あるいは、生前の伯父に対して必要以上の反撥を感じていたその反動で、死後の伯父に対しては実際以上の評価をして感心したのかも知れない。
大東亜戦争が始まり、ハワイ海戦や
馬来沖海戦の報を聞いた時も、三造のまず思ったのは、この伯父のことであった。十余年前、鬼雄となって我に
寇なすものを
禦ぐべく熊野灘の底深く沈んだこの伯父の遺骨のことであった。
鯱か何かに成って敵の軍艦を喰ってやるぞ、といった意味の和歌が、確か、遺筆として与えられたはずだったことを彼は思出し、家中捜し廻って、ようやくそれを見付け出した。既に湿気のために
ぐにゃぐにゃになった薄樺色地の二枚の色紙には、瀕死の病者のものとは思われない
雄渾な筆つきで、次のような和歌がしたためられていた。
あが屍野にな埋みそ黒潮の逆まく海の底になげうて
さかまたはををしきものか熊野浦寄りくるいさな討ちてしやまむ