登つていつた少年

新美南吉




 一年一回の学芸会が近づいて来た。小さい村の二百に充たない小さい魂は二月も前から小鳥が春を待つやうに待つてゐた。この頃になると少年少女達の眼は急に注意深くなつて先生のどんな小さな表情、どんな微かな挙動をも見のがさない。特に成績がよくて学芸会に出ることを約束されてゐる児童達がさうだつた。
 遂々或る日先生が口をきつた。それは唱歌の時間が終りかけたときだつた。その時間の始めから生徒達はうすうす感づいてゐた。先生が一人々々の咽喉をためすやうに、唱歌の一句切づつを歌はせたからだつた。先生は誰と誰を学芸会に出すかを定めるためそんなことをしたのに違ひない。或ひはもうとつくに先生の肚の中では配役はきまつてゐたのかも知れない。
「学芸会には何をしようか」と先生は嬉しさに輝き始めた少年と少女達の顔を見下してくすぐつたさうに言つた。「対話劇か唱歌か。」
 少年達はたつた一つの意見しか持つてゐなかつた。対話劇である。少年達は唱歌などめめしいものだと考へてゐた。しかし少女達は容易に彼女らの意見をのべなかつた。先づ彼女らは教室の隅に一つの秘密をでも守るやうにかたまつて、そこでひそひそと囁きあつたり、友達の肩を叩いたり、「いやあ」と叫んだりした。それが先生にも少年達にも、彼女らが急に「女」になつたことを感じさせた。少年達は腹立たしかつたが、仕様のないものと思つた。
 少年達は少女達の中心にツルがゐて、彼女が少女達の輿論を牛耳つてゐるのを見た。ツルは何事にも抜群の成績を示した。算術のとき少女達の中から一番先に手をあげて答を正しく言ふものは彼女であつた。読み継ぎ競争のとき、最後まで一字も読み違へずにりりしく読んでいくものは彼女だつた。彼女の書体はふくよかで美しかつた。彼女の画は環境の豊かさを感じさせ、色彩が若芽のやうに新鮮だつた。彼女はまたよく発達した四肢と端麗な容貌を持つてゐた。彼女の前に転がつていつたボールを拾つて来るとき、顔をあからめて来ない少年はなかつた。彼女ママからかつた少年は他の多くの少年達の反感と嫉妬を買つた。そして彼女の家は富んでゐた。
 ツルの意見は少女達すべての意見となつた。そしてそれを述べたのはツルではなかつた。一人の少女であつた。ツルは尊厳といふことを心得てゐた。
 先生はみんなの意見を知ると勿論予想してゐたことなのですぐ用意してあつた対話劇の筋を話し始めた。みんなはそれを張りつめた心できいた。先生の口から出て来る物語りの一節一節が花火のやうにみんなを驚かし、眩惑した。それはすばらしかつた。
 みんなは口に出さなかつたが、早く配役をきめて貰ひたかつた。それが決定的なことであつた。それが非常に気になつてゐた。先生が女王星の登場を話した瞬間から少女の方の主役はツルがするといふことをすべての者が感じ、みとめてゐた。女王といふ名称はツル以外誰の頭にもふさはしくなかつたからである。しかし少年の方の主役、――一人の勇敢な樵夫の役は誰のところに落ちて来るのだらう。みんなの頭の中には二つの名前が泛んでゐた。杏平とそして全次郎と。
 杏平はか細い肉体と鋭い感受性とを持つてゐた。彼は自分の中に、他の者とは別個の何者かが潜んでゐることを感知してゐた。従つて強い誇を持つてゐた。しかし彼の家は貧しかつた。
 全次郎は社交性のない少年だつた。彼が何を考へてゐるかを誰も知らなかつた。誰も彼とは遊ばなかつた。彼の鞄や、ノートはみんなのものとは違つてゐた。みんなは彼の家が金持ちであるから、彼の用具が金のかかつたものであることは想像できたが、それをいいものとは思へなかつた。全次郎は組の者と全然口もきかなかつたが、先生から可愛がられてゐた。杏平も可愛がられてゐたが、杏平は先生の愛し方が二人に対しそれぞれ異つてゐるやうに思へた。杏平は組長だつたが、全次郎は上から五六番のところにゐた。
 杏平は自信があつたので黙つて先生の顔を見てゐた。先生はどうしたものかと困つてゐる様子であつた。杏平の視線とあつた時ちらりとそらした。杏平は侮辱を感じたがなほも待ちつづけた。その時鐘がなつてはりつめた空気からみんなを救つた。先生は配役については決定を翌日まで保留することにした。
 校門を出てからも杏平の自信はくづれなかつた。杏平には自分の期待が裏切られるやうな経験はかつて殆どなかつたので、さういふことを想像することが不可能だつた。杏平はいつものやうに空想の中へひたりはじめた。杏平は身を持つて空想の中へはいつていつた。彼は腕をふつたり、あらぬ方をにらんだりした。そして掌が汗ばんで来るのであつた。
 杏平の空想は美しくなく現実的であつた。彼は掌でもつて空想の面にふれていくのであつた。彼の前には白衣のツルが立つてゐたが、そこは観客の一ぱいゐる学芸会場であつた。人々のどよめきが彼の耳を打つた。ツルの着てゐる白衣はヴェールのやうに美しいものではなかつた。杏平はヴェールを見たことがなかつたからである。ツルは美しかつた。しかし現実のツル以上では決してなかつた。ツルの声は杏平の耳に快かつた。
 杏平が道端の草の中に黄色くうれた梅の実をみつけたとき、彼の空想は消えた。見上げると梅の実をたたき落されたあとの梅の老木が、杏平の上に一ぱい枝をひろげてゐた。杏平は草の中から梅の実を拾ひ、更に落ちてゐないかと探した。
 熟した梅の実は豊かな肉と酒のやうな潤沢な匂いを持つてゐた。杏平はそれを皮の上から舌でなめて見た。舌は酸性のかすかな刺戟をうけた。唾液が口一ぱいに溜つた。そこで杏平は皮をむいて喰べた。
 種子だけが口の中に残つた時、杏平は彼等少年の仲間でいひならはされてゐる梅の種子についての卑猥な言葉を思ひ出した。杏平はそれまでしばしば他の少年達と一しよにその言葉を口にし、しばしば梅の種子を石で割つた。しかし今その言葉を思ひ出した時、杏平は殆んど眩暈を感じた。口から手の上に吐き出して種子をしみじみ見た。その種子を割ると中から出て来るもの。杏平はそれを今までしばしば見てゐるに拘らず、烈しい好奇心にかられた。彼は手頃の石を拾つた。そして石橋の上に来た時、猫のやうに息をひそめて前後を見た。人はゐなかつた。
 かくんと梅の実は二つに割れた。ふつくらふくれた小さい、柿のたねに似たもの、少年達が天神さまと称んでゐるものが出て来た。杏平はそれを手にとつて見た。泣きたいやうな快感が彼の四肢をかけめぐつた。杏平はツルの名を連呼した。彼はそれを小川の中に投げこんでおいて、狂暴な犬のやうに、力一ぱい走り出した。何かに体をぶつけたい衝動が彼の肉体をうづうづさせてゐた。

 杏平はその日一日、何がなくほのぼのとしてゐた。心ゆくまで湯につかつたあとのやうに快い亢奮の余うんが彼の心のすみずみまでゆきわたつてゐた。杏平は何がその原因なのか考へもしなかつたけれど。

 夕方になると少年達もすべての遊びにあきてしまふ。神社の前で遊び暮した少年達はもう家が恋しくなりかけてゐた。
 その時誰かが火の見櫓にのぼることを提議した。この思ひつきは意表外であつた。少年達の胸に急に冒険心が湧いて来た。彼等は体が軽くなるのを感じた。
「よし、のぼらう!」
 みんなは先を争つて火の見櫓のはしごになつてゐる鉄の棒に手をかけた。それから営々として亢奮のためにものも云はない少年達は蟻のやうにのぼつていつた。あとから昇るものは鉄の横木がぬるぬるしてゐることによつて、先にのぼつてゆく者の掌から油がにぢんだことを知つた。そしてその油がややもすると手をすべらすので、彼等は徐々に不安を覚え始めた。やぐらの中程まで登つて来た時、大抵の少年は勇気が消えた。地球から離れることがそんなに恐ろしいものであることをしみじみ思ひ、はやく足の下に動ぎなき大地を感じたくなるのであつた。彼等は下りていつた。
 杏平は一人でどんどんのぼつていつた。のぼりえない者の感嘆の声が、下から彼をどんどん押しあげていつた。杏平は恐怖を感じなかつたわけではない。しかし杏平の中にある不思議な力がどんどん彼をひきあげてゆくのである。杏平は耳のところに風を感じた。片頬にてりつける落陽を感じた。自分の体が鉄塔ごと左右に大きくゆれてゐるやうな錯覚も感じた。しかもなほ彼はのぼつていくのであつた。
 杏平は日頃の優越感が確かめられたことを感じないわけにはいかなかつた。高さの差が彼と他の少年等との価値の差のやうに思へるのであつた。
昭和十一年九月二十七日





底本:「日本児童文学大系 第二八巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
※底本のテキストは、著者の自筆原稿によります。
入力:菅野朋子
校正:noriko saito
2011年1月8日作成
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