空気ポンプ

新美南吉





 村にはみるものがいくらでもあった。鍛冶屋かじや、仕立屋、水車小屋、せんべや、樽屋たるや。それから自転車屋など。それらはなんというすばらしい見物みものだったことだろう。それらの一つ一つが、半日立ちつくして見物けんぶつしていても、けっしてあかせないだけの魅力みりょくを持っていたのである。そしてまたなんどみてもそこで行なわれている細かい仕事はじゅうぶんわれわれを楽しませてくれたのである。
 でだれでも子どもならば、鍛冶屋がどうして火をおこし、どうしてくわをうつか、仕立屋がどんなふうにミシンをまわし、どんな工合ぐあいにエプロンのポケットをぬいつけるか、またせんべやのじいさんが、せんべをさしはさんだ、うちわようのものをどんな順序じゅんじょで火の上でひっくりかえすか細かいところまでよく知っていた。おそらくそれらの職人しょくにんたち以上に。もし職人のかわりにその仕事をさせてもらえるなら、どんなに子どもたちは手ぎわよく、一つとしてまちがいを起こさないで仕事をやってのけたことだろう。
 だがおとなたちはちっともそれを信じてくれない。子どもをまるではえかなんぞのように思っている。なかなか手つだわしてさえくれないのである。遊んでいる金槌かなづちをこっそりにぎったりすると、鍛冶屋かじやのおやじは油汗あぶらあせで黒く光っているひたいにけわしいしわをつくっていうのだった。
「あぶねえ。子どもはあっちいいって遊ぶんだ!」
 ときにはどうした風のふきまわしでか職人しょくにんが手つだわせてくれることがある。たとえばふいごをおさせたり、つながったせんべを細かくくだかせたり。そんなときの喜びはまたかくべつである。何しろおとなの仕事にたずさわっていることになるのだから。しかしこの喜びも、ちょっとしたおとなの気持ちの変化でたちまちおじゃんになってしまう。おとなはちっとも子どもの気持ちを理解りかいしてくれないのである。
 正九郎しょうくろうはつくづく思うのだった。――自転車のパンクなおしをはじめからしまいまでやってみたいなあと。自転車屋の戸口にしゃがんで、自転車のパンクしたところがつくろわれている工作をみていると、正九郎ののどはこくりと鳴るのだった。まるでうまいものを山ほどみせつけられたように。しかしそこの主人がどんなに気むずかしいおじさんであるか、正九郎はよく知っていた。かれは頭がはげていた。首が太くて、あまった肉が大きいしわをつくっていた。眉毛まゆげ針金はりがねのようにあらくて、いつもおこったような顔をしていた。そしてあまり口をきかなかったが、たまに口を開くと、かみつくように短いことばをうちつける。村の人たちは、あれできんさんはいい人だといっていた。が正九郎しょうくろうけもののようにおそれていた。一度戸口のしきいのみぞにはまった小さい微塵玉みじんだまをほじっていて、頭上からかれにどなられたとき、の前にかみなりが落ちてきたように正九郎はおじけてしまったのである。こんなおじさんだからどんなにのぞんでいても、パンクなおしを手つだわしてくれとはいえないのだった。
 だがものごとは万事うまくゆく。ある日ついに正九郎の宿願は達せられることになった。
 正九郎はその日学校から帰ってくるとあらいたての白ズボンにとりかえさせられた。ごわごわして、あらいたてのぬのだけが持っているこころよいにおいがぷーんとする。そればかりか、戸外に出ると六月のつよい陽光にまばゆいほど光るのである。近所の板塀いたべいやいけがきには、麦わらが立てかけてほしてある。めんどりが鶏小舎とりごやでひくく鳴いている。村ははしからはしまで静かだ。そこで正九郎は何もすることがない。でもこんなとき、何かがきっとやってくるものだ。正九郎はちゃんと知っている。
 まったくである。それはこんなふうに正九郎の耳にささやきながらやってきた。
「おい正九ン、ええことがあるぞ。」
 正九郎は加平かへいの顔をしげしげとみてききかえした。
「なんだい。」
 加平かへいのいうところによると、自転車屋のきんさんとおばさんは、今日きょう金光教こんこうきょうの何かで朝からよそにいき、小僧こぞうのやあ公がひとりでるすばんをしているということだった。こいつはすばらしい!
 正九郎しょうくろうと加平はふたりの泥棒どろぼうのようにひそひそと話した。すべての計画がさっさと運んでいった。まるでとんとんびょうしであった。なあに、やあ公をさそい出すくらいわけのないことはない。やあ公はくいしんぼうだ。そこで、いっぱいみのったびわの木が、加平ンの畑のくろでやあ公を待っているといえばとんでいかぬわけがない。あいつほんとにくいしんぼうだから。だがあの金色によくみのったびわをはらいっぱいたべられると思うと正九郎はやあ公をちっとばかりうらやまずにはいられなかった。
 ふたりはもう自転車屋に達しない前に、計画は実現じつげんされてしまったように感じていた。つまりふたりはもう、自転車のパンクをなおすやり方ばかりを考えていた。しかし戸口まできてみると、なかなか、これからがたいへんだということを感じさせられた。正九郎はなんだかいつものそこと様子ようすがちがうような気がした。ふたりは戸口に面してたったとき、道のまん中でしばらく躊躇ちゅうちょした。
 加平の方がすこしばかり勇敢ゆうかんだった。うさぎなんか平気でしめころすお父つあんの子だから、そう思いながら、正九郎は加平がどんどん店の中へはいっていくのをみおくっていた。何かたいへんなことがはじまったような気がした。正九郎はもうあらゆる欲望よくぼうをすてて、このまま帰ってもいいと思った。
 だがあんじたほどのことはなかった。はいっていった加平かへいは、そこにねそべって忍術本にんじゅつぼんを読んでいたやあ公と話し出したのである。みればやあ公はいつもの、あの心安いやあ公である。うたがいも何もいだいていない友だちのやあ公である。正九郎しょうくろう安神あんしんしてはいっていった。
 やあ公は二つ返事で店をふたりにあずけた。何しろやあ公ときたらくいしんぼうなんだから。
「そいじゃたのむぜ。お客さんがあったらすぐよびにきてなあ。」
 正九郎はうんとうなずいただけだが加平はこんなふうにつけくわえた。「火の見の横んとこで帽子ぼうしをふるから、それみたらこいよ。」


 さて子どもがふたりで自転車屋をあずかるというのはうれしいような、だが変てこなものだ。いったい何をしていたらいいのだろう。ふたりはだまって店にならんだものをみまわしてみる。ピカピカ光る新しい自転車。天井てんじょうにつるしてある古自転車の車体や車輪。たなにならんだ、美しい自転車油じてんしゃあぶらとゴムのりのかん。柱につるされたチェーンのたば。油と鉄さびでよごれた修繕台しゅうぜんだい道具箱どうぐばこ等々。こんなものをみんなふたりがあずかったのだと思うと、むねがわくわくするのである。
 ふたりはひっそりしていた。子どもを失った二のはとのように。こんなこと、はじめなければよかった。でもいまさらやめてしまうわけにもいかない。なあに、パンクくらいなおせるのだ。
 それからどれだけ時間がすぎたろう。ふたりはとうとう退屈たいくつになってしまった。パンクってこんなに少ないものかしらとふたりは思った。パンクどころか、ただの自転車さえ通らないのである。そこでふたりは道具箱どうぐばこから、日ごろ顔なじみの、だが手をにぎったのはこれが最初の、道具をつかみ出してはいじくった。加平かへいは道に出ていって、南をみたり北をみたりして「パンクのくる」のを待つのだった。
 と、とうとう目的物はやってきた。それは洋服を着て皮のかばんを持ったどこかのおじさんであった。かれはパンクした自転車を日おおいの下に立てておいて、あせをふきながら店にはいってきた。
「おい、ぼう! 家のもんいないか。」
 おじさんは、ふたりを自転車屋の子とまちがえたのである。こいつはふたりにとって好都合である。
「ンにゃ。ンでもおれたちだってなおせる。」と加平がいった。
 なお都合のよいことに、おじさんはくたびれていたとみえ、ふたりに自転車をまかせたきり、上がりがまちにあおむけにねころんでをとじてしまったのである。だれにもみていられない方が仕事はしいいしまたそれだけたのしめる。ひとりでたべる方がご馳走ちそうがうまいのと同じことである。
 ふたりはわくわくして修繕しゅうぜんにとりかかった。まったくゆめのような気持ちだ。自転車をなおしたことのない人にはとてもわかるまい。タイヤをはずして、チューブに空気を入れて、あかぼううでのようにやわらかくふくれたチューブを水にくぐらせてあなの場所をさがす。ぷくぷくぷくと小さいあわの出るところがみつかる。これだ! よく切れる長いはさみで、つぎにあてるゴムをじょきじょきと切る。はじめはカードのように四角にきって、つぎに角をまるくする。それから人さし指をゴムのりのかんの中につっこんで、どろりとしたよいにおいのするやつをつぎのゴムとチューブの穴のある個所にぬらぬらとぬる。ああ、こんなこころよいことがまたとあるものではない!
 はじめのうちふたりはあまりわくわくしていたので、四つの手がぶっつきあってしかたがなかったが、そのうち本物の自転車屋の子どものようにすらすらとうまくやっていくことができた。だがむろん、正九郎しょうくろうのあらい立ての白ズボンがみるみるきたなくなってゆくことはまぬがれなかった。よいことがあればすこしくらいはわるいこともがまんしなければならない。
 だがこんなことになろうとは思っていなかった。修繕が終わって正九郎が空気ポンプでタイヤの中に空気を送っていたとき、急に空気の抵抗ていこうがなくなって、ポンプがきかなくなってしまったのだ。五六度おしたりひきあげたりしてみたが、水の中へぼうをさしこむようなものである。正九郎は加平かへいと顔をみあわせた。たいへんなことをしてしまったという気持ちがおたがいの顔にあらわれていた。正九郎はの前が暗くなってきた。そして耳の中に波がおしよせたように、ざあざあと鳴りだしたのである。
 やれやれ! 何も知らないお客さんが、十銭玉せんだま加平かへいの手ににぎらせて、自転車にのっていってしまうと、ふたりはポンプの破損はそんという大きなかべのようなつみに面と向かわねばならなかった。不幸というものはこんな工合ぐあいにやってくるものだということをふたりはいまさらのように感じた。
「おれ知らんじゃ」と加平がいった。
 加平はやっぱり他人である。正九郎しょうくろうはなき出したくなってしまった。でもないたとてどうにもならないとかれが考えたほど、その罪は大きなものに思えた。それは石のようにのしかかってきて彼の心をおさえつけた。騎馬戦きばせんの馬になっていて、大勢の下じきになったときみたいな苦しい圧迫感あっぱくかんがみぞおちのあたりに感ぜられた。
 むろん加平がこのおそろしい過失かしつをやあ公につげるものと正九郎は観念かんねんしていた。ところが予想はまちがっていたのである。やあ公がはらいっぱいたべた証拠しょうこにげっぷをしながら帰ってくると、加平はお客さんがおいていった十銭玉をわたして簡単かんたんにわけを話したきり、何もいわないのであった。
 しかし正九郎はむしろつげてもらった方がよかった。そうすればそこでわあとなき出してしまうこともできたのである。
 つみ隠匿いんとくすることはなんと苦労のいることだろう。ふたりは空気入れの方をあまりみてはいけないのである。さもないとやあ公がそれをあやしみはじめるかもしれないからだ。また、話をやあ公のすきなものの方にのみ局限きょくげんしなければならない。そうでないと、いつ話が空気入れの上に落ちぬともかぎらぬからである。にもかかわらず正九郎しょうくろうはしばしば空気入れの方をぬすみみないではおれなかった。気になってしかたがない。いまにも空気入れがひとりでに歩いてきて、正九ンがぼくをこわしたとしゃべり出しやしまいかとさえ思うのだった。
 いちばんいい方法は早く空気入れのいないところへいってしまうことである。私たちの良心が苦しくてたまらないときは、その良心を苦しめるもののみえないところへいってしまうのが、最上のさくだということを私たちはよく知っている。だからだれでもみるもあわれな乞食こじきの前は急いで通りぬけてしまうのである。
 ふたりは、やあ公が十銭玉せんだまをいつもの手さげ金庫にちゃりんとほうりこんだのをしおに、にげ出すような気持ちで店を出た。もうここへはこんりんざいこないと正九郎は思った。自転車屋の店がみえなくなった道角でふたりはややほっとした。
 だがここでも不幸はふたりを待っていた。ほっとしたとたんに、正九郎はあらい立てのズボンをすっかりよごしてしまったことに気がついたのである。その上加平かへいまでが、やあ公がびわの木をあらしすぎやしなかったかということを心配しだしたのである。気がついてみれば、加平のお父つあんはうさぎでもにわとりでも平気でしめころすおそろしいおじさんだった!
 ふたりは水からあがったばかりの仔猫こねこのようにしょんぼりつっ立って、もの悲しげに夕暮をみた。もうかれらにはいくところがない。すべては終わってしまった!


 でもまだ終わってしまったのではない。どうすることもできない空気ポンプのことがある。空気ポンプはそのよく日もまたそのよく日も正九郎しょうくろうをおびやかした。村中の人がそのことを知っているような気がして、正九郎は人の顔を正視せいしすることができなかった。先生が朝礼台にのぼるたび、そのことをいい出しやしないかと、きもを冷やすのだった。自転車屋の方へなど足も向けなかった。空気入れからのがれるためなら、正九郎はいっそうけむりのように消えてしまいたいほどだったのである。
 しかしとうとうおそろしいことになってしまった。あのことがあってから一週間ばかりのちのある夕方、お母さんが正九郎にふろしきをわたしていったのだった。
「自転車屋へいってナ、たまごを二十せん、買っといで。」
 ついにきたと正九郎は思った。顔からさあっと血がひいていくのを感じた。
清太せいたンとこじゃいかんの、おっ母さん?」
 お母さんはわざと正九郎しょうくろうを苦しめるようにいうのだった。
「あそこのたまごつぶが小さいでそんだよ。」
 これがお母さんのいつものいい草だ。
 正九郎は観念かんねんして外に出た。曲角を三つ曲がれば自転車屋であると正九郎は思った。もうあと二つだ。もうあと一つだ。清太せいたンとこで買ってきてお母さんをごまかしたらどんなもんだろうと思った。でも思ったきりだった。加平かへいなら、そんなことをやれるかも知れない……。あ、とうとう最後の角を曲がってしまった。何かにみえないものが正九郎をひっぱっていく。もうのがれっこはない……
 自首しに交番にはいってゆくすりのように、正九郎は自転車屋にはいっていった。どんなに深くかれはあきらめていたことだろう。自転車屋のこわいきんさんが、丸太をふりあげて待っていたとしても、正九郎はその前におとなしく首をさしのべていったにちがいない。だがそれにもかかわらず、金さんがいないことがわかったとき彼は喜ばずにはいられなかった。
 もうすべてのことは発覚していると思っていたのに、ボロ自転車の掃除そうじをしていたやあ公は正九郎の顔をみても、別になんともいわなかった。そして卵のことをきくと、背戸せどへいっておばさんに話してきてくれた。正九郎は勝手がちがって変な気持ちだった。なんとかいわれたら、こんなふうにわびようと、道々口の中でくりかえしてきた哀願あいがんのことばが口の中でとまどいするのが感ぜられた。だがむろんわるい心地ではなかった。
 おばさんが、前だれにたまごを入れて持ってきた。そして正九郎しょうくろうのふろしきをたたみの上にひろげて、そこへ前だれから移した。いつものおばさんとすこしもかわりはない。おばさんも知らないのだ。するとあの空気ポンプはどうなったのだろう。
 正九郎は別段べつだんみたわけではない。だがはじめから空気ポンプがどこにあるか知っていた。さわってみなくてもはれもののあるところがわかるのと同じことである。ところが正九郎のそのはれものに、突如とつじょあらわれた闖入者ちんにゅうしゃが手をふれたのである。
 正九郎はあっというひまもなかった。樽屋たるや次郎じろうさんがつかつかとはいってきて、
「空気入れ、すまんがかしてや」
といったかと思うと、もう、空気ポンプをつかんで出ていったのである。正九郎ははれものの中に指をつっこまれたようにぎょっとした。何がなんだかわからなくなってしまった。むねがしきりにいたんだ。耳のあたりで百も千ものかねが一時にわめき出したような音がした。
 それはほんの一瞬間しゅんかんのできごとであったが正九郎には長い苦しみであったように思えた。もし、シューッ、シューッという空気ポンプの健全な音をきくことができなかったら正九郎はどうなっていただろう。正九郎ははじめほんとうとは思えなかった。自分の耳を信ずることができなかった。しかし軒下のきしたで空気ポンプは力にあふれた声をあげるのだった。「シューッ、シューッ」それは頑丈がんじょうな男が、歯をくいしばってその歯のあいだから、ゆっくり息をおし出すような音だった。
 おばさんはたまごをみんなふろしきにうつすと、最後に小さい卵を正九郎しょうくろうの手ににぎらせていうのだった。「これは駄賃だちんだよ。いまうんだばかりだからまだぬくといだら。」
 片手かたてにふろしきづつみ、片手にうみたてのほろぬくい卵を持って通りに出ると、正九郎は身も心もかるくなったのを感じた。長いあいだいたんだむしばがポロリとぬけたような気持ちだ。ほんとうに長い苦しみだった。ところで心がかりがないということはなんという心持ちのよいことだろう。世界は美しくみえる。空気はよいにおいがする。ほんとうに! このとき指先でちょっと正九郎をつつく者があったら、かれこしを前に折ってげらげらと笑ったであろう。際限さいげんもなく笑って、しまいには垣根かきねの下にぶったおれたことであろう。
 彼はせんべやの前で突如とつじょかけ出し、家まで一息に走って帰った。





底本:「新美南吉童話集 2 おじいさんのランプ」大日本図書
   1982(昭和57)年3月31日初版第1刷発行
   1996(平成8)年2月15日初版第7刷発行
入力:江村秀之
校正:持田和踏
2022年6月26日作成
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