魔女

小熊秀雄




叙事詩「魔女」の人物


海羅義丘(    )
千敬太郎(青年)
天羅多吉(独立画家)
富士光雄(ママ   )
マリア (    )
悪魔  (    )
魔女  (    )
姉   (    )


序詩


すべての女の読者諸君よ
いまは時代の過渡期です、
若しあなたに
恋愛に就いての
ママねんがなかつたら、
恋することはお控へなさい
でなければ貴女の
教養と財産にとつて
この上もなく危険がやつてきます
若い女よ
あなたに若し時代的に恋する若い
勇敢さがあつたなら
私のこの物語りを参考にしてください
日本の悪魔と魔女と
聖母がどのやうに
三つ巴で血に塗れたかといふ
経験に耳を傾けて下さい、
   ○

第一章 悪魔の散歩、



『泣けるか、お前はこの世の
 ささいな出来事に就いても、』
『喜べるか、お前は退屈な人生にも、』
『笑へるか、お前の運命に、虚無的でなく』
悪魔の散歩は籐のステッキで
こつこつコンクリートの
東京の三月の夜の街をあるいてゐる、
呟きは、泣けるか、喜べるか、笑へるかの
三つの呪文の自問自答、
なんといふ怖ろしい奴を
街に放してをくのか、
月にむかつて背をむけて
おのれの影にものをいふ悪魔奴が、
呪文の答がでると
彼は衝動的に地上に一米もとびあがり
おのれの答への正しいか誤りであるか
実験しにとりかゝるために
どのやうなところにでも嵐のやうにとんでゆく、
その激しさと乱暴さと不気味さのために
なぜ街中の商店といふ商店は
板戸や鎧戸をガラガラ下ろしてしまはないのだらう、


街はネオンサインが
美しくともり
ネオン管の青と赤との
接ぞく点が一層美しく
異様に光りかゞやく
ぶるぶるつとふるいて
街の夕方の空間や時間を
水底をあるいてゆくしづけさであるいてゐる、
悪魔は若い美貌をもつてゐる、
そして彼はたちどまり突然、
舗道の一個所に小さな黒い穴
をみつけると
穴にステッキをさしこんで
グイとステッキをこねあげる
すると忽ちそこにポカリと
ガイコツが口をあけたやうな
深い黒い穴があいて、下水用の
丸いコンクリト製の蓋が
空中たかく舞ひあがり、
舗道に落下したときは
ガランガランガラン怖ろしい
不吉な音響をたてゝこの蓋は
街中を転げまはる
悪魔はそれを見ると
げらげらと笑ひが停まらない、
そして
下水の穴の暗い丸いふかさをしげしげとのぞきこみ
そこへ白い痰をべつとしてから
再びステッキをふつて歩きだす、
そして良い声で陽気に歌ひだす
それはロシアの詩人マヤコフスキイの
露西亜語の散歩の詩である
ポース、ゼール、フセイチ
シャアグ、ブルゴル
グロハイチ
タアク、ザ、クバイ
スメッフ、ヒトブ
カーメン
ロパールシチャ
フ、ホッホチ※[#小書き片仮名ヱ、201-7]
(すべての仕事の後で
 散歩の歩をとゞろかせ、
 笑ひをそゝげ
 石がハッハと
 爆笑するやうに)
日本のマリアよ、
悪魔の愛する妻よ、
お前は愛情の天女だ、
お前はいま病ひの床にねてゐる、
そしてお前の夫の悪魔はぶらぶら歩るき
ながい憂鬱な、病の日常の、
堪へがたい、お前の肉体に
お前の心臓は鳩時計
こぼれるやうな音立てて、
時をきざむきざむ、
そして死んでゆく悲しみ
夫の愛情の濃さ薄さの
こゝろづかいははてもない、
お前の肉体と精神を
悪魔がりやくだつしたのは
十年の昔であつた、
その時、二人の愛のはげしさに
火と氷も位置をかへたやうにでんぐりかへつて
雪の中を二人でさまよつたとき
雪のつめたさもまた火のやうに
二人にとつて熱かつた。
吹雪奴は
驃騎兵のやうに
鉛の弾を二人の頬ぺたや
黒い若々しい髪を撃つたが、
なんてまあ、痛いことも悲しいことも
苦しいことも、
恋はすべてを楽しく考へさせたらう、
ふきつける吹雪の中の
一つのマントの中から
四本の足が突きでゝゐた、
二本の足はゴムの長靴
いまひとつの二本の足は赤い鼻緒の下駄
一方の足がしつかり地に立つてゐるときは
かならず一方の足は宙に浮いてゐたし、
男と女とは
どつちかをマントの中でささへてゐなければ、
二人がその場にぺたりと
雪の中に座りこんでしまつたであらう、
恋の法悦の精神の動揺の、ランデブー
聖母の海の甘さと、
悪魔の地の辛さとが、
二つのこつぜんとした自然としての人間の
調和をもとめてマントの中の抱擁、
あゝそれは本能的な最初の接吻の音、
だがその時悪魔が
不可解な微笑をもらしたことを
聖母は少しも気づかなかつた、
永遠よ、女よ、
地の荒くれた精神を
掻きいだくお前海の慈愛よ、
そして地と海とは
しばらくの間はなだらかに
愛の接触のをだやかなさゞなみをたててゐた、
家庭はたのしく平穏で
はげしいものといへば
台所で火の上のフライパンの
ジャアといふもの音くらい、
『まあ、大変な音をたてるね、
 油がはねて危ないぢやないか、
 お前の美しい顔を
 火傷をしたらどうしよう、
 まあお前は女学校で
 家事の時間に教らなかつたかい
 フライパンに火が入つたときや
 油がはねるときには
 どうしていゝかを』
男は笑ひながら
手際よく傍のネギを鍋に投ずる
すると油のはねる高い
もの音は温和しくなつてしまふ、
『肉の切り方はあぶないよ
 お前の可愛い指を
 きつたらどうしよう、
 肉のきり方はかういふ風に』
男は牛肉のせんいの説明をして
庖刀をあやつつて
肉の正しい切り方を示してやる、
女はなんといふ該博な智識をもつた
若い夫だらう、
その親切さよ
長い運命の道づれのたのもしさ
未来の生活の豊富な男の愛情
を想像してこゝろをどらす[#「をどらす」は底本では「おどらす」]
『いゝえ、私は学校では家事と
 おさい縫は大嫌ひであつたの
 でもそれはいけないことであつたわ、』
さういつて台所の調理の
技術のまずさをほこらしげに
それは女中のやうではなく、
娘のやうに我儘で愛らしかつたことを
言外にほのめかして男に甘える、
そしてうまい具合に
鍋の中の牛肉とねぎとは煮える
そして女と男とは向ひあつて、
子供のない食卓に差向ひで食べ始める、
『なんていふかたい葱でせう、
 貴方ゆるして下さらない、
 わたし、満足にすき焼もできないの』
さういつて女は箸を投げだして
袂で顔をおほつてしまふ、
なんといふことだ――、
なんていふ不思議なことだ、
男はおどろいて、女の顔にあてた
袂をのぞくと女は真個ほんとうに泣いてゐるのだ、
そして女はさめざめと尽きない泉のやうに
頬をぬらしていつまでも
泣いてゐるといふ気配をみせてゐる
美しい泣き方は、
眼から流れる涙はそのまゝに
頬にながれるにまかせ
紅潮した女の頬を美しく光らせ、
そして鼻水は上手に
袂でぬぐつてゐる
肉の柔らかさかたさ、
ねぎの柔らかさ堅さに就いて
たゞそのことだけで新婚のしばらくは
二人は泣いたり笑つたりして時をすごした、
フライパンに落したバターは
いつの間にか安いラードにかはり
それから時間が経つと
女は肉屋にせびつて
肉の脂肪をねだるほど
しだいに貧乏生活的になつてしまふ、
あの時の二人の生活は楽しかつた
二人の宿命の幕が開かれた許りであつたから、
いまはどうだ、ただかんたんに
言つてのけよう、
『それから十年の月目が経つた』と、
十年前台所で彼女がうたつた
ジョセランの子守歌は夫に封じられた、
彼女が巧みであつたサンタルチイヤの歌
“月は高く
 空にてり
 風もたえ、
 波もなし
 …………
 こよや友よ、船はまてり
 サンタルチヤ、
 サンタールチーヤ”
『よせ、愚劣な歌を、風もたえ、波もなしか、
 そんな、穏やかな現実に住んでゐないんだから
 時代は一九三五年だ
 無神論者の台所で
 サンタルチーヤでもあるまいて、』
男は罵る、女はピタリと歌をやめてしまふ、
風もたえ、波もなしの女の歌にかはつて
男はシェークスピアの
リヤ王のセリフを
机の上に片足をかけて大見得をきつて叫ぶ、
――吹けい、風よおのれが頬を破れ、
  荒れ廻れ、
  吹きをれやい
  なんじ瀧津瀬たきつせよ龍巻よ、
  吹け水を、
  風見車を溺らし、
  尖り塔のいただきを水浸しにしてしまふまでも
  汝、思想の如くく走る硫黄の火よ
  ※(「木+解」、第3水準1-86-22)かしは突裂つんざく雷火いかづち前駆さきばし電光いなづまよ、
  わが白頭を焼きこがせ。
――ねいお母さん
  バルダク、ボリシ※[#小書き片仮名ヱ、209-14]ウィチ
  て知つてる、
彼女の傍にはいまでは十歳の少年がたつてゐる
母親の知らないこと柄を
日毎に新しくもちだしては母親を当惑させる、
――ねい、親父
  僕お酒ちよつぴりのんでみたいんだよ、
――よからう
――だつてロシアのお伽話にでゝくる
  バルダク、ボリシ※[#小書き片仮名ヱ、210-3]ウィチて
  七つの子供なんだが
  のんだくれで
  いつも酒屋で寝てるんだよ、
  するとキヱフの王さまが
  トルコ王サルタンを攻めるのに
  バルダクを大将に頼みにくるんだよ、
  そしてバルダクは攻めていつて
――あゝ、あゝその次は判つたよ
  敵のサルタンの七つの娘と
  天幕テントの中で寝るんだらう
――さうだよ、さうだよ、
  そして僕お酒をのんで
  強くなりたいんだよ、
――そして天幕の中で寝るか
  アハハハ
母親はオロオロとして
父親と息子の話の進行をきいてゐる
――まあなんていやらしい
  お伽話があるんでせうね、
性の世界では嫌らしい、
男のたたかひの世界ではどうか、
七歳の大将バルダクは
七歳のトルコ王の娘が女の性と愛情で
天幕の中で男の闘ひの
意志を溶解しようとして抱擁し
なまくらなものにしようと計画する
だが毅然として少年バルダクの
たたかひの意志は固い、
女が添寝しながら、
ひそかにバルダクの脛に
目印に金泥を塗つてかへる、
夜が明け放れ、陽があがると
娘はトルコ王の城へかへる
敵王の呼び出しで首領がどれか、
ひとめで脛の金泥がバルダクと
判らうといふ性的政策
男の智慧は無限にはてなし、
やめよ、はかない性のやさしい陰ぼうよ、
夜寝てゐる間だけ、とう酔があり、
陽があがると男の酔ひは醒めるから、
いつも精神に陽のあがらない
男だけが、昼でも夜でも、女に負ける、
もし女よ、
男を捉へてをかうといふ
男の愛情を永遠に絶対的に
しようとするならば
すべての窓をとぢよ、昼でも暗く、
部屋へ、精神へ、カーテンををろせ、
あゝ、だが部屋は閉ざす
ことができようが
宇宙の明りは消すことができない、
天地をすぎてゆく巨大な太陽は、
雀さへ、太陽がのぼると、
チチと鳴いてのきばで
ひとときの別れを
嘴を軽くつつきあつて
男の雀は女の羽を離れて
男は生活のためにとんでゆくではないか、
山寺の鐘がゴーンーンと鳴れば
明け方の障子紙に砂の微粒をうちかけてすぎたやうな
サーッといふ音がする
それは松の木をゆする[#「ゆする」は底本では「ゆる」]
爽快な風の音、
そして『離れ難たき肌と肌』と
東洋の古来の俗謡そのまゝ
歴史を超えて夜から暁まで
情痴の姿はくりかへされる、
『情愛の進歩性はないか、
 愛は絶望で愛は反覆であるか』
悪魔は長い生活の間
そのことを思索してきた、
悪魔の精神の逍遙は、ながくつゞいた
曾て可憐な若者の
なだらかな感情へは
いまは無数のヒビ割れができた、
結婚といふものは、思ひがけない、
プログラムをひろげるものであつた、
未婚の男女が
予期しないやうな筋書が開かれる
夫婦の生活の泡立ちは
若さに痛々しい、
離れ合はうとしなかつたのか、
逢ふ時間より、逢はない時間を
たのしむ、
たがひの生活に空間をつくり
空間を楽しむ術を知りだす、
空間のみがたがひの
自由の世界、哀しい、あはれな充実の世界、
サラリーマンの勤めの外出に
いそいそと三指を玄関につく妻
亭主の送り出しではなく
亭主の放逐であつた、――〈未完〉





底本:「新版・小熊秀雄全集第一巻」創樹社
   1990(平成2)年11月15日新版・第1刷発行
※底本のテキストは、手書きの原稿によります。
※表題は底本では、「長篇叙事詩 魔女」となっています。
入力:八巻美恵
校正:浜野智
1999年6月18日公開
2014年8月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

小書き片仮名ヱ    201-7、209-14、210-3


●図書カード