小熊秀雄全集-2

詩集(1)初期詩篇

小熊秀雄




奪はれた魂


地軸に近い何所かで
うづもれた
世にも稀なる紫ダイヤを
とげ/\と骨ばかりのやせこけた
悪魔たちがまるくとりまき
ひからびた手を繋ぎ合ひ
にやにやとした
もの倦い足どりで
踊るたびにからからと音がする
   ◇
ちやうどそれのやうに
ちやうどそれのやうに
かつて失はれた俺の魂は
かつてうばはれた俺の魂は
柔かく
滑らかな琥珀の頬と
熟したザクロの唇とをもつた
美しい悪魔が
青くはげしく燃える俺の魂を
しなやかな白いくすり指で
さんざん何処かで
弄んでゐることであらう
   ◇
しかし美しいサタンよ
お前が何時か濃緑の絨氈の上に
そつと置きわすれていつた
青銅の壺にはいつた
魂の小さいカケラを
俺はしつかりと握つてゐる
   ◇
お前はその魂のかけらを
俺からうばひ返さうとして
夜な夜な灰色の夢に忍び
いまさら傷ついた俺の魂を返し
柔らかいキスで
俺を釣らうとするのだが
お前の魂のかけらが
狂はしく手に燃焼するまでも
俺はいつかな返へしはせぬ
   ◇
俺は! 俺は俺は
煖炉の焔に熱した呪詛の烙印を
お前の額の白い肉に押しあて
ぢりぢりと焼けたゞれる匂ひと
おくれ毛の燃える匂ひを
存分に吸はしてくれるまでは
お前の
魂のかけらは永遠に返しはしない
  一九二三、一、一二


天井裏の男


ひしやげた屋根の下に暮らす俺達の心は
みんなひねくれなものだよ
この灰色の六畳間を
俺はあつちから! こつちへ
何回同じことを繰り返したことであらう
見ろ
こんなに成つてしまつた
さゝくれ立つたすり切れた
じめじめと陰鬱の涙のこもつた
薄汚ない古畳を

その部屋の真ん中に
『望み』といふ碌でもない屑綿を
どつさり詰め込んだ
向ふ見ずの乱暴者の
煎餅蒲団の反撥を
じつと尻の下に押さへつける仕事もあんまり
楽な仕事ではない

傷だらけの机の上の
偽善者の出しや張屋の
真鍮の豆時計と一日にらみあひ
俺の頭の髪に一本でも白髪の多くなりますやうに
一日も早く地球が冷却して行きますやうに
この善人が速に地獄に墜ちますやうに
俺はお祈りして居るのだ……


海底の凝視


なんといふ混濁のみな底だ
俺の凝視をちから強く追ひ返す
みな底の
凝視の主はだれだ。
   ×
砂にうづもれた
重い赤銅の壺であつたなら
あをい燐光をはなせ
漆黒の
魔女の脱け毛であつたなら
なよなよと
水面に浮かんでこい
   ×
おお…俺は…お前の
どす黒い水の厚さに魅せられて
心のふるひが止まらない
心のふるひが止まらない
   ×
おお…それは
しんとしたうす暗い深林の
黄昏の炎樹に
なかよく抱きあつて死んでゐる
白い獣達のながす
赤い液体が
谷底の苔をつたつて海にいり
砂鉄の微粒となつて
魅力の凝視をはなすからだ
   ×
ああ…月が出て月が出て
歪んだ月が出て
水面の皺が
にやにやと笑つてゐる。
青じろく
笑つてゐる。


乳房の室


壁も天井も丸テーブルもすべてが肉でみんなぶるぶるふるへて
みんなだるい汗をながして
歩るくとじわじわと音がして
からだが上つたり下つたりする
棚におかれた肉製の百目蝋燭が
げんわくの香気をはなして
じゆじゆとあぶらのもえるやうに
恋のほのほがねんせうする。
   ×
乳房の室のたそがれには
あかい服の侏儒たちがあせみどろになつて
媚薬の調合に
かちかちとふらすこを試験管をならす
室にならべられた水晶の壺にくすりがいつぱい溢れたとき甘い媚薬の蜜に
たくましい白蟻が集ひ
よつて、踊つてなげいてゐる
そしてみにくい争闘に日をくらす。


風呂


なないろ光線のげんわくのあとにあんこくのさくれつとなる
小気味よい世紀末がきたなら
おれたちふたりは
灰色のだぶだぶの服をきて
べろべろ笑ひの笛をふき
手に手に琥珀の椀を持ち
をんなといふをんなの
みわくの動脈から
いつはりのぶどう酒を
いつぱいづつ貰つてあるかうよ
いつぱいづつ
貰つて歩かうよ

さあみんなこい
みんなこい
さあみんなこい
みんなこい
にごつたぶどう酒の
千人風呂にひたつて
そして男たちは魂の傷ぐちを洗はう


子供たちに


街を歩むとき
手をふり元気よく
おあるきなさい
夜やすむとき
足をうーんと伸ばして
おやすみなさい
ちゞこまつてはいけません
日蔭に咲く花のやうに
みじめに
しなびてしまひます


白い蛇


ああ
あまつたるい重くるしい夜のくさむらで
白い蛇が二匹
こんがらかつてくるまつて
だきあつてねむつてゐる
しあはせな蛇である。
うらやましい蛇である


危険な猟師


この猟師は獲物のない
いらいらとした猟師です
火をつけた火繩をぶんぶん廻しながら
街をいそがしく歩きまはる
弱虫で向ふ見ずで臆病でなまけものの若い猟師です

だんだん
だんだん
火繩の火がもえ移つて親指に密着くと
あわてて口火をつけるのです
それが劇場の人ごみの中でも
手応へのない澄んだ碧空へでも
自分の咽喉笛へでも
その筒口の向いたところ
いきあたりばつたり火蓋をきる
まことに、まことに

若い危険な猟師である
きまぐれな猟師である


踊る人形


みなさん。
このがらすばりの箱の中の
いかにも
ひからびて
やせこけた
哀れな人形の踊りをみて下さい
この人形はいつも
をんなじ服をきて
ぴよんぴよん。ぴよんぴよん
をんなじ踊りを
おどつて居ります
ああなやましい
みじめな人形はわたしです。


酒場と憂鬱


酒場の時計は陰気な時計だ
この卓子テーブルをひつくり返して了へ
コップが
途方もなく臆病な金切り声をたてゝ壊れ
白い洋食皿が
げらげら笑つて壊れた
ソース瓶のソースの色が
俺の腐つた血によく似た色だ
   ×
いつでも いつでも
俺の顔をじろじろみる
卓子テーブルのもくめの奴がしやくに障る
まあよい……まあよい
俺は機嫌をなほして
五色の酒をつくらう
そしてはにかんだ女のやうにうつむいて
そつと呑まう
   ×
あれあれ
この室の中のお月様は
妙に青白いお月様だ
俺の舌をビフテキにして
刃のない洋刀で
ちび/″\刻んで喰ひたいものだ


月夜


月のない、あかるい月夜
あをじろい月夜
あひびきの女がどこかのくらやみにひそむ
あをじろい月夜
笛が鳴つて
笛が鳴つて
按摩の笛が鳴つて
きえてしまつた月夜
いるみねーしよんの松の樹に
首くゝりの首が
のびたり、ちぢんだりしてゐる夜である
なやましい月夜である


煖炉


ダクダクダク×××胸
この暖気の中から女が生れる
ダクダクダク×××胸
この暖気の中から情慾が生れる
鉄瓶は踊る
蓋を廻る、湯気…………白輪
爪先から這ひ上る肌よ
強烈な酒を盛つたカップよ
テーブルをすべつて来い
この聖者の魂の壁を
きまぐれに刻む
カリ××カリ…………と刻む
サタンよ、去れ
まだ……まだ、あいつは
煖炉の上でバタを溶かして居るな


春情は醗酵する


真夜中の慾情は星のやうに青く輝き
さんらんと其処此処のくさむらで
露のやうに光りかがやいてゐた

しかしこの慾情も
冬の風景のなかにしづんでしまふと
ひからびた粘土のやうに
かさかさと風にとんでしまふ

かつては重たくやさしくもつれあつた
春情のおもかげも
こゝに寂しくやるせない悶々の思ひに
はるかにちりぢりにちつてしまつた
そのかけらはつめたい氷のやうで
いまさら拾ひあつめるすべもない

ふしあはせな北国の人々は
けふも真冬の風物に白くさらされて
血温は凍つた外界の大気とひとしくなつて
青春もむなしくふるへをののいてゐた

或る日
男はすとをぶにあまりちかくよつて
腰をあたためすぎたので
病的にもあやしく手足をふり
はげしくはげしく手足をふり
膝頭をうちつけたり
両手ではげしくさすつたり
真昼の光線を浴びた蠅がよくするやうな
奇怪なまねをはじめだした
感情はますます激しく燃焼し粘着し
あやしい運動はますますはげしくなつてきた
男はなかば瞳をつむつたかたちで
霧のやうな空気のなかを
魚のやうにさかんにおよぎ廻つた
そしてひさしく凍結した氷海に
青い春情の波をみた
軽ろやかにあらだちさわぐ青い水をみた

男はさめざめと笑ひはにかんだ
とほく秋のをはりのママ節のころに
街の児供らがつめたい大地に坐つて
ひとつ ふたつ みつ よつと
雹を帽子に数へひろつたころから
しだいにとぢこめられた濃霧の期節
男らの憂鬱な白塗の病院船は
赤きあかしをますとにうちふり
汽笛はぼうぼうと長くなやましく
ああ 標識を失ひさまよふかなしき航海船

男はしみじみとおのが青春を掌にとり
春のやはらかな日光に照らしてみた
うれしくなやましい思ひに胸はいつぱいで
おのづと涙は泉のやうにわいてきた

ちやうど男は遠洋航海船の船員のやうに
港の赤い燈火をながめてはしやぎまはり
銅鼓を鳴らし
銅鼓を鳴らし
投錨の銅鼓にはげしく春情を唆られて
風のやうにすばやく軽装し
慾情の新らしいバスケットを提げて
あらそつて上陸した

男は両手をだらりとさげて歩るきだした
爬虫類のやうな恰好で歩るきだした
ざらざらと蜥蜴のやうに足をひきずつて
そこらあたりいちめんの
青草に燃える野原をはひ廻つた

広野は春のまつさかり
人々は大地よりたちのぼる幽気を吸つて
みなしなやかに散歩してゐた

女はあまり素足で青草を踏みさまよつた
あやしき外触覚の慾情に
歩みつかれたかよわき呼吸の
あやしき内触覚の慾情に
女はばたりと土に音たてゝ
そこの叢のふかさに坐つてしまつた

ああすべて地上を歩むものは爬虫類である
蜥蜴、蛇、鰐、亀の類人間の類
みなつれだちて寂しくさまよひさまよふ
旅人はみな爬虫類である

女はいまなつかしい爬虫の感情がよみがへり
黄色な粘土の匂ひになやましく上気して
白いしなやかな指をふるはせながら
狂人のやうになつてタンポポの花をむしつてゐた

男は蛇のやうに
ひつそりとはひよつて
かろくやさしく女の肩をたたいてみた

女は電気のやうに猫のやうに
ぱちぱちと火花をちらして男からとびのいた
春のきせつのはるばるとめぐりきた
喜びも忘れたかのやうに
秋のやうに青く澄んだ
寒色の瞳をしてしまつた

男は女の瞳を
桃色の暖色にかはらすために
どんなに苦心をしたか
男はちからいつぱいの笑を女におくり
つぎにはしだいに重たく重たく
胸のあたりを圧し
女の呼吸とぴつたりとりずむをあはせ
はては呼吸をだんだんとせはしくはげしく
くるしく はげしく くるしく
上手に熱心にくりかへしてゐると
いつの間にか
女の瞳は燃えるやうな暖色にかへつて
およぐやうな手つきで
そのへんの草をむちうでむしつてゐた

二人のならんでゐる叢は
誰のめにもつかない谷底のやうなふかさで
やがてこの谷間に火のやうな霧が降り
草も木も花も
みなこんもりと暖気にとぢこめられ
ぴつたりと蛇のやうにもつれあつた
ふたりのからだは醗酵してしまつた。


箱芝居


なんといふ面白い世の中だ
みたまへ
ぎつくり。……ばつたり。
ぎつくり。……ばつたり。
   ×
たくさんの人形が右足をあげ
左足をあげ
まことに、まことに
巧に歩いてゐるではないか
   ×
みたまへ
ずつと向ふから
白い葬送馬車が
まつしぐらに街をやつてくる
あの馬車の中には
蝶つがひのはづれた人形が
しづかに/\
ねんねをして居るのです
   ×
ああ。街に玩具の月が出ると
燐寸マッチ箱を出たり入つたり
人形どもはキーキー
わけのわからぬ咽喉笛を鳴らす
   ×
あれ
塗りのはげた女の人形は
念入りにこてこてご粉を塗りつけ
ぎつくり。……ばつたり
ぎつくり。……ばつたり
右足をあげ左足をあげ
   ×
ああ悩ましい箱芝居である


裸体


さあみんな出て来い
裸ででゝこい
そして俺といつしよに
裸踊りをやらうよ
   ×
この真赤な月の出た街で
おもひきり踊りぬいて
踊りぬいて
死んだやうに夜露にねむらう
   ×
このうらやましい裸を見て呉れ
この狂はしい踊りをみてくれ
   ×
踊つて踊つて踊りぬいて
フフ
ペンパンベンベン草の根もとに
みんなで仲よくねむらう……


停車場


たちの悪い魂のぬすびとが
薄荷の塔にはひつた
たまらない感激であり
かたくやはらかい
不意の抱擁である
  …………
田舎のお爺さんの
頬ぺたの皺が
伸びたりちぢんだり
退屈な!退屈な
せせこましい顔の若い女が
淫奔な足音をたて
しづかな!しづかな
青白い停車場である
  …………
待合室の長椅子の
ビロードの
毛の中に
魂のかけらを
みんな忘れてゆく停車場である


三本足の人間


だらり
乾物の棒だ。
後光のさす松葉杖の間に
不気味にふられてゐる
ふられてゐる
その動きはさみしいが
着物ばかりはにぎやかな
襤褸ぼろである
み給へ
そのひとつひとつの襤褸に
さまざまの変つた色が
ひかつてゐるではないか
ああ……なんといふ
情ぶかいありがたい
お天道さまよ
青い三角と
赤い四角と
黒い丸と灰色の菱形と
めちやくちやに
密着きあつたりはなれたり
ぶんぶん廻つたりとまつたり
めまぐるしい奇妙な
街の建て物だらう
さあさあ静かに歩むがいい
吐息を数へながら
さあさあおとなしく眠るがいい
冷たいまちの夜露に
おまいの全く死んだ棒も
半殺しの棒も
一寸もうごかなくなり
そして眼の玉がこはばつたら
べたりとそこに坐るがいい
お前の体が
ペチャンコになつたころ
其処には血のやうな
ベンベン草が生えるだらう


女の情慾を笑ふ


女は歌ふ
雨ふり前の
午前の日ざしをあびて
野のひろびろさに
秋草の匂ひをかぎて……かぎて
秋草の温くみにくるまりくるまりあの楽焼きの
黄色いねばつちをいぢつて
ねむらうねむらう
  男は歌ふ
このかげらふの熊手を伸ばし
をんなの乳房を……
なまぬるく弄つてやらう
をんなはこころもち
唇をひらいた
をんなはごつくりと
唾をのみこんだ
眼をほそく体をゆする
  悪魔は歌ふ
あの馬鹿げた情慾はなんだ
あのなまぬるい笑ひはなんだ
さあさあみんなで
たくさんの青いろうそくに
灯をともし
ほてつた女の顔をてらしてやれ
ほてつた男の顔をてらしてやれ
あの馬鹿げた情慾を笑つてやれ


硝石を摺る


尻尾しつぽのないやせ犬が
藁小屋の中にそつとしのんで
そのまゝ
舌をべろりとだして
かがまつたまゝ死んでゐる
屍体の胃袋になんにもない
   ×
おや……それはなんでもない
あたりまいのことだよ
   ×
かん、かん、かん
帽子をかむらぬよぼよぼの
男をてらし
真夏のお日さまは
すきつ腹をいらだゝせる
男はあを向けにひつくり返つて
かがまつたまゝ死んで居る
   ×
おや……それはなんでもない
あたりまいのことだよ
   ×
ぎら/″\/″\
ママはしくよく光るまさかり
街角でそつと獲物を待つても
から、から、から
だあれも見えない地下室で
そつと
擂鉢で硝子をすつても
   ×
おや……それはなんでもない
あたりまいのことだよ


ねんねの唄


癈兵は醜い片足のきずぐちを見せ
場末のやせた女はぼてれんの腹をつきだし
囚人は鎖をがちやがちやならし
病んだ男はくぼんだまなこをひからせて
みんな……みんな……みんなで
街を歩いてくれ
あの高塀のめぐりをぐるぐるめぐり
お金もちの旦那様や奥様がよつくねむられるやうに
死と、貧乏と、あきらめのねんねの唄を歌つてやれ


追憶の帆舟は走る


ふるへたたましひをこぎよせ
なみ間にただよふ
真珠のかけらをひろはん
つい憶の帆舟は
つい憶のかぜをはらんで
あれ…まつしぐらに沖に向つてはしるではないか
あの水のひろびろとかぎりなくそのゆく手のさいはてはまつくらで
ならくの渦をまいてゐる
船頭はなみだをながし帆づなをとり
船客はおりかさなつて泣きねいり
しづかにあきらめの小唄をくちずさみ
ああ……
けふもはやてに乗り浪のうねりを
矢のやうに
めあてなき帆舟ははしる


北国人と四月


四月の北国ほつこくはうれしい
みな雪がとけてゆくから嬉しい
なかには福寿草が生きてゐるのだよ
雪はさまざまの断面をもつてゐるなつかしい
冬の層をつくつて居る
お日さまもむろん俺等の味方で
けさも雪どけの雨を降らして呉れた
   ×
だい一の層からはひさしのとれた子供のしやつぽ
第二の層からは片つぽの白足袋とぱいなつぷるの空罐
だい三の層からはあきあじの骨と短い防寒靴
   ×
それぞれはみな春の歓迎者で提灯行列の参加者である
  一九二二年作


散文詩 ローランサンの女達よ


可憐なる夢幻の女性マリー、ローランサンの芸術よ、抒情と優美のマスクをかむつたかよわい闘士可愛らしい反抗者よ、そなたが描く男性を象徴した斑馬、女鹿、獅子、犬、すべての前生は詩人であつたといふ獣達は、女性の前には愚なる情慾の征服者で西班牙太鼓スペインたいこ、六絃琴をもつたごきげんとり、少女等をとめらの玩具となり、夫人等の足を舐め髪の毛に接吻をする従僕であるといふのか、私はローランサンを愛する、そしてそなたが男性を皮肉な情慾の屈服者として玩弄物視したかよわい反抗を愛すると同時に男性の片割れとしてそなたの皮肉な芸術観にたいして地上に住むすべての女性にたいしてこの一文を贈る。
わたしの可愛いマリー、ローランサンの女達よきみらはいつたい何処から来たのだ、不思議な着物を着ていつの間に私等の踊りの仲間に入つてきたのか、低い口笛を吹き吹きそつとくちづけの真似をしたり横向きに白い肌をみせびらかして私等の足調あしどりを乱す気なのか、えたいの知れない蛇のやうな妖術者、君等は限界の広さに男を探り強くたくましき理智の展望台をもつた冷たき氷原をすゝむ南極探険船のごとく、または笑ひは海のごとく従順のしとねに眠る勝利者の凱旋歌、わたしの可愛いマリー、ローランサンの女達よ、きみらママ手にした赤いペルシャ扇はなにか、それは情慾の焔をまぎらす風の扇だらう黒い眼鏡は妖婦のやうにくまどられ情慾の春画を覗く偽りの近眼病者、ぶらんあへんに酔つたふりをする横着な舞踊役者。そつとしづかに介抱の手をまつ朝がたの泥酔であらう。
わたしの可愛いマリー、ローランサンの女達よ神秘と幻影の髪飾りはそのまゝにたゞ偽りのペルシャ扇を地に捨て軽い飛ぶやうな足どりでいらつしやい私はしつかりときみらを胸に抱き踊り踊りのあひまあひまに、おたがひがねば土の匂ひを嗅ぎあひませう、たゞ嗅いだばかりでも青春の幸福ではありませんかわたしは笑ひ笑ひのこのつたない散文詩の一篇を髪ながく色白のあらゆる地上のローランサンの女に贈る――一九二四、一――


新聞紙


けさも私は寝床のなかで
不眠症と神経過労の眼を動かし
病院船の
患者のやうにをちついて
文明病の処方箋を読みました
そこに盛られたさまざまの薬
恐怖と醜悪の散楽
みな利きめの
ありすぎた人々の報告です。
強盗殺人犯の脱監
密通した令夫人
鉄道線路の飛び込自殺
××氏の毒物嚥下
山林中の強姦未遂。
しづかな朝の単調に
わづかな胡椒を
振りかけたばかりの食膳
私の味覚はそんなぐらゐの
甘つたるい料理は
喰ひあきた舌なのです
もつと もつと
腕利きのコックを雇つて下さい
この現代の味覚は
もるひね愛好者の
たゞれた舌です
ねばりこく脂こい
情感にふるへるやうな
わたしは料理をのぞむのです。

私の愛読する処方箋よ
もつと奇抜な
構想の報告をしたりしたいのです。


散文詩 泥酔者と犬


酔ひしれた足取りは螺旋階段を廻るやうななかば快感と不安の平地を私はよろよろと泳ぎ出した、街は真夜中の沈思でろくでもない情念のトランプの真最中だらう、どこの屋根屋根の角度を仰いでも妙に糞落つきに沈着な冷たい陰影の中に三角の眼をぐるぐると廻転さしてゐるし電信柱の行列が手ぢかな所に立つてゐるのから順々に雪の地上にばたんばたんと恐ろしい音響を立てて横に倒れて了ふし、それは静かなうちに賑やかな街の風景であつた、私はまづこのとろんこの眼をして寝静まつた大通の中からなにかしら動物の相棒を探してやらうといふ考へから道路の真中に震へた感情の両足の安定をたもつために少からず脳神経をなやましぐつと反り身になつて辺りをぎろぎろと嗅ぎ歩いたが私の瞳孔は散大して了つて愛する友人の一人も発見することが出来なかつたのです、地球壊滅の日に生存した人間のやうに生物をひた恋しく私はさびしい気持であてもなく探しあるいたがひつそりとした深夜の空が明るいばかり月は北国の月の青さで丸さで照り返してもみんな青い白さである街はあんえつの湯たんぽの上気でもうろうとねむつて居るのです、ちやうど其時ですつひ足もとの大地の上にひろびろと青い冬の明るい雪にいつぴきの黒くくまどられた犬が足のみぢかい犬がアンリー、ルーソーの犬がひよつこりと突立つてゐたのです、私はこの善良なる友人を得た喜びにじつと上から犬を見下ろしてゐたのです、すると遠くから「おうおうおうおう」と犬の遠吠えが聞えると私の友人の犬も「おうおうおうおう」とどうやら涙をながして吠えるやうです、するとあつちこつちの暗がりから「ぞろぞろぞろぞろ」と色々の服装をした犬の仲間の奴が出てきて五匹も十匹も出てきてべらべらの長い耳を動かし前肢をきちんと揃へてみんなで揃つて空に向つて吠えるのです、じつと見てゐた私はいつの間にか犬の感情の中に「おうおうおうおう」とみんなといつしよになつて吠えてゐたのです私の犬は急に月光が怖ろしくなつて尻尾をまるめてしまひ空と大地の限りなくひろびろとした不可思議さにまたは人間の呪詛する「おうおうおうおう」といふ遠吠にけんめいな犬の一匹となつて平穏に熟睡した月光の街にぽかんと突立つて居たのでした―一九二四、一、二〇―


散文詩 白痴アンリー・ルーソー


誰がこの幅広い道路を真直に歩行する馬鹿者が居るか、恐らくは皆なよなよとした感情の通行で路傍のハモニカにも耳を傾けるロマンティストの幌馬車に乗つた青白い紳士の群ではないかあの愚鈍なる馬鹿者、仏蘭西フランスの税関吏アンリ、ルーソーの足つきの真似が出来るか灰色の純情を押しとほした歩行の匂ひでも嗅いで見ようとする悪人が一人でも居るか。評価された人間の相場は、装飾された花電燈の青と赤のイルミネイションのうすぺらな燐光に眩惑されて墓場に生えたぺんぺん草の僅な一片より価値もない安物の陶器ぢやないか、誰ももみんな新しい洋服を脱ぎ捨て素ッ裸で街の炎天に立つて見ろ、ルーソーのやうな真剣な歩行を続けてみろ俺達も君等も硝子屑を踏んだ足の裏から真赤な鮮血も流れ出ない不純に枯れきつた肉体ではないかもう取り返しの出来ない出産ではないか、まことに彼は真剣な馬鹿者であり愚鈍なる白痴であらうが私は彼の芸術に奥深き真夜中の凝視と原始林のトヲメイなる思索または静かなる冥想の現実を発見しまたなく共鳴と思慕の讃辞を惜しまない、雨の如く閑寂に暴風雨あらしのごとく静止に描き出されたルーソーの芸術こそは我等変態なる人間、ぺらぺらの畸形児にはあまりにも激しき鉄槌の肝銘であり、恐怖であるのだ。彼を現実と幻影をしらない記憶と現在との差別を忘れた白痴と思ふのは間違ひだ、彼は赤裸あかはだかに生長した精虫のやうにあまりに痛々しく人生を知りあまりにも可憐に現実の姿を見る苦労人でこのかくれたる敏感な表現はいたましいほどの弱々しい人間、ただ鈍重ママ真直な通路を歩みつゞける偉大なる感情の忍苦者である。我等はこの地上に讃歌を捧げ大いなる白痴者の足跡に礼拝しルーソーの広き自画像の額に接吻しいづこか自然の一角を凝視する鈍重に澄める瞳の洗礼をうけよ、苦悩は路傍の樹木に発生したる雑草の芽にはぐくまれ黒き冬空の単色たんしきにみいだすやうに、思索はルーソーの愚鈍に白痴に、またアンリー、マティスの単純に潜まれてゐるのだこの我等現実の華やかになやましい管絃楽の思索を拾ふよりも何処か手近な場末の幽暗の中から聞えてくる笛の音を拾ひ給へ。
あゝ我々若き思索者よこの水底にひそまれる青銅の壺はさんとして光輝を放つ愛人、我等が救ひ手を待つ思慕者、ともすれば忘れがちなる霧のやうなる対照のなかにこそ我等がのぞむ思索がありアンリー、ルーソーのなまぬるき白痴のごとき冥想のなかにこそ蒼白な激情に燃える火のごとき苦悩のひそまれることを。 一九二四・二


歩き出す情慾


きみらは共同便所の
しろい壁に描かれた奇態なママ
きいろい象形文字を愛読したか
あれが歩き出す情慾の手記だ
情念は風のやうにすばやく
こんやもそつと
寝床にしのびこんだが
私の情慾はぎあまんに盛られた
冷酒のやうに
しみじみと視つめて楽しむ観賞物心臓病者の
まつ青なよつぱらひである
   ◇
私はママ険な情慾が大好きだ
いつかも
あるき出す情慾の群にまぢつて
人ごみの中で
若い女の懐中の
財布をねらつたが……
   ◇
すつた財布の中はからつぽで
私と女は笑つて別れた


煙草の感情手品


女よ
私のこれからはじめる
感情手品を
じつと遠くから見物してゐ給へ
これを貴女への
返事にかへませう
   ×
さあ…これは一本の煙草です
つぎに口にくわへて
その煙草に
情熱のマッチを
摺つたのは貴女なのです
   ×
たしかに貴女は火をつけた
種も仕掛けもない奇術でした
   ×
まづ私の太夫さんは
ゆつくりと煙草を吸つて
ゆつくりと鼻から煙を出して
もう、もうと靄のやうに
たちこめる、けむりの中で
にやにやと
笑ひながら吸つたことか
ちどんな貴女の感づかない
それはあざやかな手際です
   ×
女よ
貴女は煙草の吸ひ殻を
拾つてお帰りなさい


春情――三人集――


春だ四月だ……
煙草のけむり輪にふいて
橋のたもとで空をながめた
   ×
濃霧がすの街を
げらげら笑つて直白な
女が通つた……春だ四月だ


炭坑夫と月――夕張印象――


ああ 私の亀裂をまさぐる斜坑の上の地面で
たくさんの青い松の眼球を拾つた夕暮れです
まぐねしゆうむだいなまいと
くらつた亭主の股引が
ほんのり桜のやうに干されてゐた日没ころ
そろそろと月が昇つてしまつた
  …………
淫売屋ごけやの小格子から
空をながめる私の炭坑夫
ちらばつてしまつた紫外線を
いくら喰つても
肺患のなほらない月である
  …………
とろつこ
とろつことろつこ
明日はまた運搬の作業である


愛奴憐愍


ああ見れば見るほど
悲しい歩行であつたか
砂地のすばらしく巨大な足跡、

河原で銀斑魚やまべを乾し
岩魚いわなの奇怪な赤腹をもて遊び
猿蟹を石に砕いて嬉戯した時代からの
部落こたんに満ちあふれた誇も消滅した、
私の憐愍はお前の足跡に
かんぞの花に降り注ぐ雨のやうだ

ああ年々ねんねんお前の仲の善いあきあじは死産し
河原の砂の巨大な赤児
ぼつこ鮭皮靴けりの足跡は砂金のやうだ


海景


さくらんぼを喰べたい海の色よ青い色よ
まなつのうみの風の色よ
みな眼にしみる静かなる海景にたつて
わたしは女のふとももの肉をかぢつたので
わたしの義歯は
とけてながれて飛んでしまつた。
あんな浅瀬に
食慾をそそる赤い魚を二ひき
もつれあつて泳がしてをくのは危険だ
石を水に放つてやれ。

涼しい帆前船が浮んでゐる沈んでゐる
大きくふくれたり。小さくちぢまつたり
黄色い積荷がぴかぴか光る。

海いつぱいにひろがつてゐる軍艦に
しろいしやつぽがいちれつに
いかにも退屈に左右にならんでゐる
ずどん……と大砲を撃つてやつたら
兵隊がまりのやうにとびあがるだらう。

太陽がくるくる廻つてゐる真夏の海景に
わたしの貧乏までが水浴がしたいと
口からとびだして白眼を要求した
こんなぜいたくな海景は消えてしまへ
わたしにとつては無益の風景だ。


蝦夷


私の蝦夷は蠢めきにある
四周は荒海
寒冷の白さに凍えてしまひ
惨苦は四季に
慈母よりも柔和にめぐり来つて
五体は燃え尽きさうだ

憂悶の暮色に立つて
季節を愛する男
痩白の頬に手を触れて
存分に神に憎まれて笑つてゐる
海は絶えず新らしい匂ひを漂はし
砂丘を掘れば
春秋の夜光珠探しあてる。


北国人


四季の蒼穹
偉大なる顔の中の眼だ
そこに闘ふ男は血である

頭脳は棍棒のやうに重み
心臓は石斧の閃き
ああ我等北方人の頭上には
砧のやうに澄んだ蒼穹がある

或日は砂金を含むだ嵐
或日は霜花と濃霧の日
或日は野火の草木は炎上し
或日は清朗とした盆花の吹雪となる

我等よ
石斧と棍棒の進軍
久しく自然の肌を闘伐するもの
四季の蒼穹に生活し
期節の忍苦に呼吸するものは肥大となる


妊娠した石


月は実にたかく昇つた
くまどられた白銀の樹林の上に。

白い偉大な空地に
死よりも静かな石が
火のついた赤児のやうに
鋭い陣痛に泣き叫び
直立した感情はあくまで激動する。
春よ、
来よ、
受胎におののく圧迫と寒冷の季節から
石と石との間に
青いいのちの燃える日を、


無神の馬


私の虚無は
悔恨の苺を籠に盛つてゐる
私は喰べながら笑ひ泣き悲しみ怒り
朝日が昇るとけろりとしてゐた

愛するものは貝殻のやうに
脊中にしがみついて離れない
愛は永遠の喜ばしい重荷だ

街に放された馬
ああ それは私の無神の馬だ
毛皮は疲労して醜く密生し
光のない草地に平気で立つてゐる。


日没の樹


柔らかい黄金樹木は
いつぺんに音も無く倒れかける
人々は埃の中で蘇生した
影は重なり合ひ無数に馳けだす。

山火事のやうに
輝やくなかに立つてゐるのは
新らしい病気を憬れてゐる
労役に疲れてゐる家畜の眼だ。

火は燃え
街の黒い多角形の空いちめん
死滅の揺籃はゆらぎ
そして大きな児供は夢を見始める。


結晶されたもの


慾情
それは私の樹の実だ
波と押し寄せる美しいものだ
私の馬に与へられた積荷だ。

逃れようとする愚と
廻り路をしようとする
空々しい努力を廃せ
私の四肢は無限な土の上の児供
絶えず動きよく笑ふ者よ。

地上に棲家ももてない神は
白眼をつかつて呼びかける
私は結晶された血
安易な眠りを欲しない。


雪の夕餉


背後から紫色にまた
いくつもの紅の輪を重ねた風が
小児のやうに馳ける。

黄昏どきの雪の街
ほのぼのと魚の片腹身を焼く
夕餉の匂ひが煙つて来た。

私の病患は実に淑やかに
北方の白い沼地に沈むやうだ
失はれてゆく色濃い雪のやうに
厚い毛皮の重たさに張りつけられ。

夜の暗がりは真先に私を射て
激しい青ざめた獣の
枯れた樹間の寝床は
淋しい霜に閉ぢこめられる


窓をまもる男


その高窓は何事のために
まるみを帯た声音で終日鳴るのか
その窓が鳴れば
その窓の傍に立つた
背の高い男も晴ればれとしてくる
男は薄い頬とたくましい咽喉仏をもつた
守護神のやうにもきらめいて
緑色に燃える高窓をまもり暮らす。


掌に生へた草


せんさいな風に生きて
ふしぎに頬を打たれることもなく
私の占める座席は
針程のわづかな場所であるのか。

だがなんといふ青草の
精気はつらつとしてゐることか
私は草の食事をしてゐるのを見たことがないのに
私の住ま居の一隅に
いつのまにか歩いてきてゐるのだ

胃の腑のないものが
どうしてあんなに健康であらう。
私はいま掌の中に
草の生へるのを感じて慄然となる
まつたく彼は私の頭の上にでも、
肩の上にでも生へかねないのだ。


初雪の朝に


羞恥な女が谷間に下りたつたやうに
一夜にして私の眼界を洗清めた
ものしづかな白い世界よ

私はこの冷えた冬のママ節を
雷鳴のやんだあとの
深淵の傍らにゐるやうな寂しさを好む

乾いた唇も吹け
しわがれた咽喉も吹け
鼻毛をくすぐるほどの柔かい風に吹かれて
聡明なお前の風にふかれて
私は胸苦しいものを散らすであらう。


かなしき曙


亀裂のなかに立つてゐる
その辺りは曙であるのか
なんといふかなしい曙であらう。

たつたひとつ残つた星もある
河風は胸をうつて
忘れてゐたことを
つぎ/\と想ひ起すばかりだ。

ふたゝび仄明りを迎へて
このしづかな崖を跳ね越えて
私は顫へながら街にでかける。


二人の生活


柔軟な暮しの中から
なにか房々とした葡萄のやうなもの
魚の瞳と連なるものを発見した
そして久しく憎み合ひながら
ともに暮してゐる女あり。

あゝすでにお前と私とは
惰性の深みを手を組んでゐる
お前の意志は向ふの野原に
私の意志はこちらの樹の上に
それで不思議に優しいへだたりを
往来してゐる[#「往来してゐる」は底本では「往来している」]可憐なふたり。

繋ぐものは灰のやうな乾いた麻繩ではない
鈴のやうな結晶を渉りあるくものである。
とかくうなだれ勝な頤に手を添へて
たがひに眼を見合すことや
また終日蟹のやうに向ひ合ひ坐つてゐる。

男は怠惰ではない
女よ、その懶さを責めるなかれ
脳はただお祝のやうに
無邪気な嬉しさで満ち足り
身を動かすことを重大に考へ
うねり、光り、華麗に、
坐りこんでゐるのであれば。

やがて何の跡形もなく
お前も私も散つてしまふであらう
あゝ、窓の外には
暗い冷たい幔幕が垂れ下り
花の上にも夕暮れがせまつてきた
艶々しい潮の上の
ただ一瞬の光りもの
葡萄の房のやうな帆をあげてゐる。


田舎の光沢


村よ、私の村よ、光つた村よ。
私が都会にゐてお前を想ふと
お前はかならず光つた衣服を着て現れてくる。

何も光沢物が
お前に附着してゐるとも思へないが、
樹木や、凸凹のある山道や、
萱葺の屋根や、村童の頭など、
みんな夜光虫のやうに
お前の皮膚が無数の生き物の艶で脹らんで現れる。
私はいま都会に住みながらも
決してお前の正確な顔形を忘却してはゐない。
私はお前をはげしく追想する、
お前は何時でも絶えることのない思慕の光り物だ。


潮騒


日本の負担は
二つの波だ、
太平洋と、日本海と、
そこには激しい満干がある。
波は重圧な呼吸をして
この狭い島嶼の上に
ちかぢかとその白い顔を寄せる。
だがなんといふ親密な
母親のやうな海であらう。

夕方になると
私は足を濡らしながら
貝殻を拾つてあそぶ、
乾からびた魚や、
時にはヨーロッパの船具や
色の変つた砂粒など、
波の上には新聞紙が漂つてゐることもある。

殊によつたら日本は
磁力をもつてゐるのではないかと思ふ。
ヨーロッパの友よ、
君等の国から来た渡り鳥が
唯一の休息所である日本に降りた
そして美しい一本の脱毛を私の紀念に
やがてその脚裏には
日本の砂を密着させて出発した。
幾日目かに君達の庭に降り立つだらう。

入江の美しいのは
波の交流の激しさをかたり、
松の堅固なのは風が強いからだ、
友よ、ヨーロッパの友。
日本の不等な称讃を止めよ。
韻律の日本の実体は
海の潮騒のやうな
厳粛沈痛なものと知つてくれ。


祖先の下山


やさしい豪族は
太刀を担ぎながら山を降りて来た。
快活に、傍の道連れと語り合ひながら、
霧はふかく、雲は爛れてゐた。
其処で『日本の不思議な生活』の
深い根幹を地に植ゑた。

依然として、日本の奇怪は今でも存在し
精神の浮橋は、世界の橋に通じてゐる。
昏迷の中に驚嘆の花を咲かせよ、
幾度も私達の住居を再建しよう、
新しい土地へ下山するのだ、
新しい土地へ。
祖先のやうに明るく談笑しながら。

山の霊気は私のマントをくるみ
その光りの花粉をもつて
夜光虫のやうに飾る、
世界の思想と交媒せよ。

樵夫は高い樹の傘下にある、
轟然と伐採する
樹の枝は爛れた空を掃く
あらゆる日本の神事は
我等の手をもつて主宰せよ。


種族の花


お前の精神は肉体は
ひさしく落葉松からまつの揺籃に眠り
嵐の氷片を餌として暮した、

松の細根は泥土に埋り
あたりは海のやうな苔土帯つんどら
湿潤の火は燃える
山猫のやうに痩せてゆく
季節の毒気に萎んでゆく種族の花、

愛奴 愛奴
今日も高巓のななかまどの樹に腰かけて
肺患の呼吸に鬚をふるはす。


都会の饑餓


雑踏よ、都会の雑踏よ。
私は終日美しい痙攣のために身悶へし
何処といふあてもなく、
ただ足にまかせて歩み、疲労し、
到る処の街角に休息し、
呆然として、車道、人道いりみだれた、
埃りで組み立てられた十字路に、
まるで獣らしい憎しみをもつて凝視する。

都会よ、私はお前の尻尾を捕へ
お前の尻尾と共に私は転げ廻つてゐるのか。
私の帽子の上の騒音、
ああ、それは油蝉のやうにミンミン鳴く。
親愛なる雲も、
垂直に堕ちてきて私の行手を掩ふ。

街路にはしきりに足をひきずり
せはしく彷徨する人を見た。
その靴は貪婪な爪のやうに光沢あり、
それをもつてしきりに地面を掻いてゐるやうだ。
私はこれを見ると二重に苦しめられる、
私は乗物にのせられて、
都会から無人の境へそのまま
突き離されたらどんなに嬉しいだらう、
いや、私はかうして人間の渦の中に
暮してゐるのがよいのだ。

私は不意に凄然となつた。
軽く私の肩に手を触れ
その冷めたく触れたものは、
人混みの中にさつとかくれてしまつた。
私は周囲を見廻し、私は脅へ、
私は子供のやうに身ぶるひし、
私は其の場に、都会の大雑踏の
不思議な一瞬間を見た。
非常に怖ろしい勢ひをもつて、圧搾し、
それが急に天空に去つたやうに、
私は私の身体が、
真空の谿に堕ちてゆくやうに思はれた。
私は歯を思はず喰ひしばつて、
緊きしめられた空間に釘づけにされた。
その時、群衆は既に私と同じことを感じてゐた。
私の肩も、人々の肩も吐息の波を打つ、
重苦しくひとときを裁断したもの、
それは茫と霞んで白い
大きな翼の鳥のやうなもの、
都会の顔貌の一隅に降り、
またたちまち舞ひ立ち、おどろかしたもの、
それは何か、私の額を蹴つたものは何か、
若しやそれが私や人々が等しく感じてゐる
都会の饑餓といふものの正体ではないだらうか。


樺太節


ここは沿海州の波続き、ドン、ドン、ドン、
岩のしづくはアレ紫しづく、
ふつと見をろす、藍の淵、
誰れに飲ましよと、薬草とり、
ドン、この岩のぼり。

ここは沿海州の波続き、ドン、ドン、ドン、
海にうかんだアレ愛嬌もの、
ならぶアザラシ、海坊主、
恋にもつれて、水くぐり、
ドン、ヤレ、五連銃。

ここは沿海州の波続き、ドン、ドン、ドン、
流れ流れて、ホイこの海稼ぎ、
のぞき眼鏡で、底さぐり、
腕におぼえの車櫂、
ドン、この昆布取り。

ここは沿海州の波続き、ドン、ドン、ドン、
野原いちめん、花烟、
女ご忘れて暮らしはしたが、
丘の黒百合、悩ましや、
ドン、ソレ、春の風。
  (註)ドン、ドン、ドン、は囃言葉、又は太鼓をもつて波の音を利かす。


バラバン節


破れ銅鑼を、敲かうよ。
         バラバンのバン
壁の施條銃、何撃つ銃。
私しや悪党、血を見にや済まぬ。
山の険岨で、おがみうち。
         バラバンのバン

破れ銅鑼を、敲かうよ。
         バラバンのバン
月はぼんやり、街の上
やけのやんパチ、酒場の扉、
酔ふて、もたれりや、ギイとあく。
         バラバンのバン

破れ銅鑼を、敲かうよ。
         バラバンのバン
波は太平洋の、腐れ波
浮世ドブロク、この世は地獄、
心中しよにも、相手なし。
         バラバンのバン

破れ銅鑼を、敲かうよ。
         バラバンのバン
一万三千尺、富士の山
せまい日本が、一眼に見える、
お花畑で、カルモチン。
         バラバンのバン

白い雀


花崗岩の上に樹がある、
それは美しい桜の花であつた。
この種の奇蹟は到るところにある。
奇蹟を笑ふものに呪ひあれ。

広場に立てならべた銃は
天に舞ひあがるだらう。
革命旗は窓懸けになるだらう。
私は信頼する
ミカドの国の奇蹟を、
眩き日本の現出を、

日本はノアの箱船、
沈静な歓喜を積む。
同族の肌は、この小さな場所に寄り添ふ。
やがて新しい峯に到着する。

『君は見たか白雀を!』
『私は、白い雀を見ない!』
私は見た。錆びた樹の間を
飛んで行つた白雀を。
羽は光る。
優しい幻影の霧に濡れながら、
過去から可憐に飛んできたのを。


供物


われらは我が友を、
模糊とした祭神を
わが傍にはつきりと観察し
批判し、脆い古器物は
そのふるさとへ、土壌へ還し
新しい鉄をもつて
新しい精神の神殿をつくり
新しい信仰と延長し
われらの美とし、イリュジョンとし
海、山、の衰退に再び春を呼ぶ。

わがミカドは
われらの精神の上に鎮座す、
赫々とした葦を、
銀のやうな霧を、
いたるところに神跡あり、そこに供物す、
暁には厳として火焔はのぼる、
その日射のもとに
我等の拠る城を輝かせよ。
我等の若き精神を供物とせよ。


東京ドンドロ節


銀座裏なら むじな棲居すまゐ
  化けて化かされ
   化け放題
手れん 手くだも
小出しになされ
  種がつきたら 左様なら
   ドンドロ、あんどん、昼の夢。

浅草界隈 ガラガラ蛇よ
  降らす 賽銭
   空だのみ
堂の観音さま
お笑ひなさる
  女らしの まじめ顔
   ドンドロ、あんどん、昼の夢。

丸ビルよいとこ シャボテン林
  若い娘の
   勤め場所
トゲの重役
脂肪あぶら口説くぜつ
  うんと言はねば 馘首くびとなる
   ドンドロ、あんどん、昼の夢。


彼は行儀が悪い


アメリカよ、先づ君を褒めよう、
荒い感情の面の露骨な
光沢をもつた君の風貌を
それから支那と日本をともすれば
ごつちやに考へたがる君等の為めに、
日本を無頼漢たらしめようとする
君等の遠大な計画運動の為めに、
海の上を耕作機を曳いてくる
アメリカの偉大な努力に敬服しよう。

いかにも君等は日本の
いたるところに粗雑な肉体的な火を撒いた。
耕作上手な君等、
食へるシャボテンまでつくりあげた
品種改良の本場から
はるばるやつて来た老練な君等のことだ。
歪んだアメリカ的日本を
明日の収穫として犁を山野に打込む
そしてやがて日本の城や山脈、
東洋の思想の耕地がおそろしく足場の悪い
開け拡げたものであることに気づくであらう。
若し君等が日本の思想の一隅に
棲みたいといふのであれば
先づ第一にもつと行儀をよくすることだ。
君等の観光団は徒に騒ぐ
そして簾や紙の家に一泊して
風邪をひいて帰国する許りであらう。


新定型詩人に与ふ


君もなかなか曲者だよ
太陽がのぼるとき扇をひらいたことはね
自由詩が苦悶してゐるとき
散文詩型を主張したことはね、
だがちよつと許り扇を煽りすぎたよ、
平清盛は熱病に罹つたのだ、
こんどは自由詩型が、
君を煽いで
君ののぼせを引き下げてやる番だ、

まはりまはつて辿りついてみれば
君の座蒲団は元の位置にある、
そこで君は暫し沈思黙考するかね、
そこで君は扇をひらいて
ひとさし舞ふかね、
それとも長良川で
十二羽の鵜を十二本の糸で操る
鵜匠の熟練に感泣した
あくまで十二行の定型詩を主張するかね、
それもよからう、
散文詩型はインテリの泣言をいれる
良いかますであつたから
今度の定型詩も相当新しい
メランコリーが入る袋になるだらう、
鵜飼の霊感から
十二行の定型を成立させる君の天才ぶりを
証明したまへ、
鵜の真似をして溺れた
烏にならないやうに
一度主張し唾みこんだものを
ふたたび吐き出す醜態をしないやうに

すべては公衆の前で君が主張したことだ、
僕は永遠の自由詩型主義者として
君の主張の看視人として
証人として起たう
定型詩とは考へたものだ
不肖、頭の悪い小生には
どこを見廻しても
定型詩的現実はみつからないのだ、
それは小生にとつては
悲しむべきことだ
況んや君は定型詩で
詩を真実を
チョコレートかゼリーのやうに
菓子型に入れて
ポンポン抜いて作らうといふ寸法だな、
小生は、ただ呆然と君の主張を
捧げもちて余光を拝すのみだ。


ゴルフリンク


金曜日は恐ろしい嵐がふきまくつた
土曜日には晴れた
貴婦人の牡丹バケで
丹念に肌をたたいたそのやうに
雨で具合よく地がしめつた
日曜日には風もなく、埃りもたてぬ
お誂へ向きのゴルフ日和、
――滅法空が澄んで
  なんと気持がよいだらう、
  天は我々のために恵ぐむよ、
  天は救くるものを救くるさ
ゴルフ紳士達は嬉しさうだ、
鉄道の配車係りは
ゴルフ場行十輌連結
特別列車ママ出発させる
   ×
破れた農家では母親ががなる、
――吉弥あ、
  けふは旦那たちがゴルフに
  御座らつしやるだよ、
  早う駅へ駈けろ
  汽車が着くだ、
母親は暗い押入れの中から
ススけた行李を引ずりだして
たつた一枚よりない取つて置きの
紺絣の着物を出して子供にきせる
子供はボンヤリと立つてゐる、
――吉弥あ、
  何でもいゝから、
  ハイハイいふて頭下げるだ、
  まちがつても楯つくでねいだよ、
  土百姓の餓鬼が
  銀行さまや、活動のお嬢さまや、
  偉い、位の旦那の前に出るだあ、
  そそうのねいやうにしろよ、
  何でもハイハイいふて
  口ごたいするでねいぞよ、
すると子供はうんうんうなづく
――おつかあ
  行つてくるだ、
  おつかあ、また
  チョコレート貰つてくべいか、
――馬鹿あコケ、
  貧乏人の餓鬼は
  貰ふこと許り考へてゐるだ、
  旦那方もの食ふても、
  ぢろぢろ見るでねいぞよ、
  何万円のしんしようの旦那がたと
  水呑百姓のわしらと
  いつしよくたにならねいだぞ、
  いゝか判つたか、
  判つたら、出かけるだあ、
すると子供はうんうんうなづく
そして一散に駈けだす
   ×
見渡すと広い大ゴルフリンク、
緑りの草ははるかに
なだらかな丘のかなたにつづく、
――どうして此処にこのやうな
  広大な地域が残されて
  ゐたのだらうと
  汽車の窓からみた者は
  誰しも疑ひをもつ程にも
  誰に遠慮会釈なく
  この人々の健康のために
  土地は遠くまで展開されてゐる
――この人々のために良い日曜だ
――この人々のために天は晴れ
――この人々のために列車は出され
――この人々のために空気は澄み、
――この人々のために球は良く飛ぶ、
美しい縞模様のゴルフズボン、
軽快なハンチングの一群、
高らかな人もなげなる男女の笑ひ、
刈りこんだ芝生の上に
白い小さな球を置いて
ゴルフ紳士は左足を引いて立ち
容子たつぷりで
長い柄のついたシャモジでもつてカンと打つ、
――それ、小僧球だ、
吉弥は自分の頭を叩かれたやうに、
びくりと驚ろいて一散にそれ球を拾ひに駈け出す、
   ×


聖書は私の母でない


わたしが激しい憤りに
みぶるひを始めるとき
それはあらゆる「自由」獲得の
征途にのぼつたときだ
その時、私は不謹慎でなければならない
不徳でも
また貪慾でもなければならぬ
これらの悪い批評を歓迎する
下僕共は主人の規律を守らうとして
あらゆる既存の調和と道徳を愛する
『人間が犯し得る、あらゆる不善は
 いづれも皆、公然と聖書に
 記されたるもののみならずや』
          ――ウィリアム、ブレーク――
聖書もまた喰ひたりない
私が犯す不善は
聖書の中に書いてないから
聖書は私の母ではない
彼は私を抱き緊めることができない
歴史はまだまだ聖書に
かかれてゐない偉大な不善を
われわれの手によつて犯すだらう
然もその不善は
あくまで独創的な
プロレタリアートのそれである。


漫詩 親孝行とは


悪い紙芝居屋とあつたものだ。
子供を集めて
言ふことがふるつている
『諸君
 子供諸君。
 お父さんとお母さんは
 夫婦だよ――。』
子供の中にも物識りがゐる
『きまつてらあ、
 夫婦だから
 夫婦喧嘩をやるんだい――』
『諸君、
 賢明なる
 子供諸君。
 それでは親孝行とは
 どうするか知つてるか。』
『知つてらい、
 今は不景気だから
 三杯飯を喰ひたけりや
 二杯で我慢をしてをくのが
 親孝行だい――。』
『諸君、
 最も賢明なる
 プロレタリアの子供諸君。
 紙芝居の小父さんが
 褒賞ほうびをやらう
 欲しいものは手を上げろ
 ――よろしい
 それでは早速飴をやらう
 家へ走つて行つて一銭貰つて来い。』


散文詩 鴉は憎めない


 私は朝の鴉を愛する。英吉利いぎりすふうのフロックの、青年紳士の散歩者のやうに、いかにも軽快な歩調で、かるく飛ぶやうに、幾分しめつた朝の路上の明るさを、気軽るに歩るき廻つてゐる姿はよい。
 ことに遠くの空からとんで来て、私のうちの屋根の、とんがりのところへきて、一二度くるりと輪をゑがき、太くたくましい足を、充分に宙にのばしてから、その目的物である私の屋根の上に立つ、そして二三度、黒くつや/\とした体を、上下にゆり動かしてから、落ついたみなりとなる。
 いつも朝のきまつた時間にきてとまる、そしてきまつた時刻には、どこかに飛んで行つて了ふ、いはゞ私の家の屋根は、彼の旅行にとつては唯一の標識であつて、途中の安息の習慣をつくつたのかも知れない。
 彼がこのあまり広くもない、遊歩場に降りたつたときの姿は、ちやうど、遠くばら色の、未明の空を出発し、途中で幌馬車を乗りすてて、いまこの屋根の上に、葉巻をくゆらすといつた格好で、その気どつた姿で、屋根の上をあちこちと漫歩するすがたが、平民主義の貴族の若様を想はせる。
 彼は屋根の上から、清澄の朝の街にむかつて独唱する、ひとびとはこの独唱を、幸福の讃歌うたときく、さはやかに澄んだ、祝福の歌ときく、おそらくは彼自身も、混濁のない、からつぽの胃袋を、充分にふくらまして、誠意ある朝の祝福をさゝげてゐるのにちがいない。私は彼の有名な悪食家であることを知つてゐる、だから食後の不浄の歌をきくことを好まない、そしていま朝の鴉の、食前の空腹の歌を嬉しく思はれる。
 私は三つの鴉のうちで朝の鴉がいちばん好きだ。
 いつの間にか、鴉は憂鬱な眼になつてゐた。昼の鴉は、朝のとをめいさとは似てもにつかぬ、疲れきつたすがたをして街の褐色の土のわづかばかり、拡がつた空地に、たくさんより集まつて、其処の窪みの土をさかんに掘り返しては、なにやら赤いものを引き出しては、うばひ合をしてゐた。
 あるものは遠くの空から飛んできて、なんのためらひもなく、この争ひの集団の頭上に降りる。だがその鴉は、浪のやうにもみあふうちに、すぐ隠れて見えなくなる。
 この集団から、いくらか離れた、草地を歩るいてゐるのもある。その歩行が妙によち/\とよろめいた、足取りの交叉をみせて、黒煙と音響をあまりに飽食した、都会の中毒者といつた姿だ、其他頸をぴんとあげて、腰をうかせるやうに、調子をとつて歩るいてゐる鴉をみると、黒いマントをきた、不良少年といつた格好をしてゐる。
 これら午後の都会の空をとびまはる鴉は、日没のちかづくに随つて、彼等の感情は、異常な青さとなつて輝いてくる。ますます怪しいふくざつな感情と変化する、遥に颶風ぐふうの空から舞ひ降りて、斬首人ざんしゆにんのしやつぽに休息するほどの、捨身な感情とまでなつてしまふ。そして電柱から電柱へ、屋根から屋根へ、いつこくも落つかない飛行をくりかへす。
 なかには、繁華な街の十字路の、乾ききつた、埃だらけの地面におりた鴉は、すりきれ果てた、みぢめな尻尾を、さかんに土にふり廻して、倦怠な楽書らくがきをやつてゐるすがたが、殊更日暮れの空気と調和した。なやましく退廃した景色となる。
 私は夜の鴉の生活をしらないが、日没どきのぼんやりとした、空の明るさの中に、すつくと黒く伸びた、高い裸木はだかぎに、果実のやうに止まつてゐた、鴉の集団を見あげたことがある、どの鴉もみな、あるきまつた間隔の距離に、ひつそりとした沈思を続けてゐるすがたが、いかにも暗示的で可愛らしい。
 鴉は、朝と昼と夜との、三つの異つた個性と感情をもつてゐる。
 この個性と感情は、をりをりの違つた空気と風景とによつて、さまざまに変形する。いくつにも細かに変形する。
 わたしはこの不可解な友人を、たんに悪徳と怠惰の鳥とは見ない。多く逸楽し、多くの頽廃を知る人間は、多くの人生を知るやうに、わたしはこの悪食の友人を、たんなる鳥類とは見ない、わたしは他のさまざまの鳥類が、やさしく美麗なる羽をひろげて、純情のままに大空をかけめぐる、無心のすがたも愛らしいが、あらゆるものの、醜悪と腐敗の燐光を放つてゐる。私等人間社会に、もつとも密接な巷の土にきて、わたしらの生活に似かよつた、生活を営んでゐる、愛らしい鴉の感情を憎む気にはなれない。
 ことに彼が、人間にも似たしつかりとした理智の眼をもつて居り、同時に彼が、友人とはげしい争闘をするときは、嵐のやうな激情の、凄まじい男性味をもつてゐる。
 私は彼を憎めない。彼が青い模様のついた、黒いマントを地面に引きずつて、ぴよん、ぴよんと、片足で歩いてゐるすがたを、じつと見てゐると、その黒色のもつ暗示の魅力に、いつの間にか、ずるると引きこまれてしまふ感情となる。





底本:「新版・小熊秀雄全集第1巻」創樹社
   1990(平成2)年11月15日第1刷
入力:浜野智
校正:八巻美恵
1999年4月14日公開
2012年11月21日修正
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