――折竹氏、
とこんな記事が、ロンドン中の新聞を
というのは、次のような声明書、「
――ドイツルフト・ハンザ航空会社の主唱になる「大地軸孔」探検に小生は不参加の意を表明す。なお、同探検隊が小生の攻撃計画を採用するも、それにはなんの異議なきものなり。
これには、各社ともアッと目を
彼が泊まっている「マルバーン・ハウス」というのは、ロンドンの西郊チェルシー区にある。この区はロンドンの
心境の御変化はどういう理由で……あなた個人の、身辺的事情?……それとも、土地柄政治的原因で……と包囲攻撃のなかで静かに
「別に、どうこういうような派手派手しい理由はない。風……。僕の翻意の原因は、風にある」
「へえ。風がね」
とロイド眼鏡をひからせてまっ先に乗り出してきたのが、「スター紙」の山岳通マクブリッジ君。
「つまり、
「ハッハッハッハ、人の苦しみを悦ぶのは、ジャーナリストくらいだろう。だが、季節風以外にも、風の問題はあるよ」
と、きっぱり言われてもパミールの辺りで、風の問題といえば季節風以外にはない。はてなと、誰にも見当がつかないところへ、
「なんだ、諸君は分らんのかね」
と、一わたり折竹がぐるぐるっと見廻して、
「風にもよりけりで、いろんな風があるが……、なかでも一番下らんやつに、臆病風というのがある。そいつが、『大地軸孔』だけはぜひお止めなさい。
最初はくだけた口調で冗談まじりだったのが、しだいに引き緊ってき、悲痛の色さえ帯びてくる。また聴くほうは聴くほうでガンと殴られたように、暫くのあいだなんの声もなかったのだ。
あの、折竹がどうしたというのだろう。
しかし、ソ連、インドにはさまれた「大地軸孔」の位置。
インドへの道――その間に横たわる大秘密境「
北にパミール高原、西南にはヒンズークシ、南東にはカラコルム。おのおの、二万フィート級以上が立ちならぶ大連嶺が落ち合うところが、いわゆる「パミールの管」のアフガニスタン領である。ではここが、なぜ永いあいだ未踏のままであったかというに、それは、「大地軸孔」をかこむ“
グリーンランドの北端にあるアカデミー氷河群に、一日四十メートルをながれる
「つまりだね」
と、折竹が技術的な説明をはじめる。
「
「驚いた。あなたにも似ない、大変な弱音ですね」
と片隅のほうで
「そうとも、化物氷河と闘えるもんじゃない」
と、折竹が即座にやり返す。そしてその、
作者はいま、便宜上「大地軸孔」などといっているが、その“
そこは、たぶんめずらしい“
ときどき、地底の住民の不可解な合図のように、
「いずれは、僕より上等な探検家がでる[#「でる」は底本では「できる」]だろうからね。そのとき、その先生に『大地軸孔』を降りてもらう。下せど下せど綱は底触れず、頭上の裂罅も一線とほそまり――なんていうのが、
最後に、折竹は
「君、昨日あのザチという婦人は、来なかったかね」
「いらっしゃいませんわ。でも随分、あの方変った服装をしていらっしゃいますわね。
「そうらしい」
と、折竹は憮然とうなずいた。彼にいま、そのザチという婦人が、
もちろん、彼はその女には逢わない。こんな、近東人らしい婦人と接近などした日には、ますます彼の周囲には厳戒が加えられ、厭な日々が続かなくてはならないからだ。実際「大地軸孔」参加発表以来の英官辺の神経は、びりびり彼にも響いてくるほど、鋭いものになっている。第一、彼に接近するものは給仕人をはじめ、残らずそれを機会に変えられたような始末。そんな情勢のなかでその婦人と会ったなら、ますます此方のほうで事を構えるようなもんだと、――彼はザチという婦人を極力避けていたのだ。
すると、そのザチが
魔境の土をまもるため、お願いがございます。どうか「大地軸孔」のしたの平和な民どもの、静かな生活をお乱しくださいませんように。私たちは、じぶんの土を護るため、侵入者をふせぐため……ある必要な手段をとるに先立って、一応お願いいたします。
いま、血をみずにすみますことは貴方さまのご一存で、「大地軸孔」ゆきをお止めになることですわ。これは、貴方さまのため、私どものため、ぜひ
地底の女、ザチより
魔境からの女、やはり「大地軸孔」のしたには住民がいるのか。暗黒中の生活はどういうものだろう、どんな文明をもち、どういう衣食住をし、あの一生陽の目をみない大暗谷に[#「大暗谷に」は底本では「大暗黒に」]いるのか

しかし気が付くと、どうやらこれが
「あの方を、ほんとに旦那さまは、ご存知ないのですか」
「知らんねえ、一向イランやあの辺の人には、近付きがないからね」
「そう、じゃ私、勘違いしてたのかしら……」
「どんな事だ」
「じつは、私、こう考えていたんですの。どこか、近東の古いお寺から、旦那さまが宝物をお盗みになった。その跡を

こんな冗談から、なにか引きだそうとする部屋付女中の態度も、折竹には不愉快な一つだ。しかし彼は、なぜ「大地軸孔」ゆきを断念したのだろう。こういう、英官辺の厭がらせのためか……それとも真実「大地軸孔」は征服不可能なのか。いや、彼のゆくところ砕けざる魔境はない。では、それはどういう
――探検とは、国という砲身のはなつ弾丸なり。
この言葉を、彼は忘れていたわけではないけれど、いまロンドンにいてイギリス人の生活をみていると、しみじみその言葉が胸うつように響いてくるのだ。いまイギリス人は、わずかを働いて多くをとっている――その、余裕

するとじぶんに、民族の血をとおしてした探検があったろうか。時代がちがうとはいえ最小の効果でも、国にたむける意味の探検があったろうか。文化の貢献者という美名にあこがれて、ただそれだけのために働いていたのではないか。と思うと、泣きたいような気持になる。これまで彼がしたすべての事が、いまは些細な
まして、
窓をあけた。近ごろは、こうして窓をあけ往来をながめることが、彼には習慣のようになっている。ザチ――。あの「大地軸孔」の女と称する神秘的な婦人が、もしや彼に会おうとして、うろついていやしないだろうか。会いたくはない。が、どんな婦人だか、一目だけみたい。いまは、彼の脳裡からとり去ることが出来なくなったほど、ザチのことは強烈なものになっている。
(事実、「大地軸孔」のしたには、住民がいるのだろうか。いや、あの女はまやかし者にちがいない。じぶんに、「大地軸孔」攻撃の興味を湧かさせようと、あるいはソ連からでも仕立てられて来たのではないか。
土を守る、探検を妨害する――なんぞといいながら逆効果をねらい、かえって「大地軸孔」へじぶんを惹きよせようとする。きっと、ザチはソ連の女だろう、と、折竹はそういうように考えていた。しかし、どこにもザチらしい婦人はいない。ただ、テムズを越えてみえるバタッシー公園の新芽の色が、四月はじめの狭霧にけむり、
翌朝は、ロンドンの郊外クロイドンの飛行場。アームストロング・ウィットウァース機の車輪一度地をはなれれば、鵬翼欧亜の空を駆り日本へと近付いてゆく。が、まず彼は事務所にいって、同乗の
「たいていは、アラビアオーマン国の王子ご新婚式に出むかれる、新聞社の方々や外交関係でございます」と、折竹に旅客掛りが説明をする。
「ご婦人

やがて、機はふんわりと空中に浮び、朝の湿気のもとに広茫とひろがっているクロイドンは、はや見えずになってしまった。左様なら、また、信念を充すものがくるまで、探検よさらば。と、翌夜捲きこまれる奇怪な運命があるのも知らず、彼は胸をくもらせ、無限の感慨にひたっていたのだ。やがてパリ、イタリアのブリンディッシ、アテネ、アレキサンドリア。
翌日は、バグダット、バスラを過ぎアラビヤ半島の突角にある“
「ポルトガルの御使節、エスピノーザ閣下にいらせられましょう」
「へえっ」
と彼はびっくりして、叫んだ。
「日本人だ。いくら、日本と
「ご冗談を」
とその男は引きさがる気配がない。
「オーマンの、華の御儀へご参加になるエスピノーザ閣下であることは、手前よく存じております。また、お気さくの方で下々のことまで、よくおわきまえでいらっしゃる事も……」
「ハッハッハッハ、上にも下にも、下情しかしらん男だよ」
となんだか折竹も面白くなってきたところへ、とつぜん彼の咽喉がぐびっと鳴り、顔の表情が凍てついたようになってしまった。銃口が、彼の下腹部にぴたりと付けられている。
「これが、エスピノーザ閣下を遇する方法かね」
さすが、折竹の声は
「折竹さん、一言ご注意しておきますが、われわれには力がある。どうです、ここで荒らだって、からだを失くしますかね。イギリス保護領のこの空港には、いたる所に銃口が伏さっている。マア、暫くご辛抱願いましょう」
アラビヤ兵の
「
「驚いたですよ。マア、大抵なところでご大赦に願いたいですな」
といまは度胸もすっかりすわった折竹は、臆す色もなく
「時に、ここは何というところで……」
「なるほど」
とセルカークは冷酷そうな笑いをうかべ、
「ご自分の、墓になる所だけはご存知なくてはなりますまい。ジェベル・カスルン。付近には製油所があります」
それなり、暫くはなんの声もなかったのである。夜の沙漠の冷々としたなかで、にぶい灯りが二人を照らしている。ちょっと、折竹のからだが

「とにかく、危険な存在は
「いや、大変なちがいだ。このまま僕は、ずうっと本国へ帰る」
「ハッハッハッハッ、こっちでそう信じている以上、釈明は要りません。つまり、あなたをあの『大地軸孔』へは遣りたくない――その意味はお分りだろうと思います。あの辺のすべてが不明であるということが、わがインドの貴重な守りになっている。しかし、もし貴方がゆけば、どうなるか分らない。ヒルト博士らのほかの人たちはとにかく、こっちは、貴方一人の超人力をおそれている。インドを、ソ連の南下策から完全に護らにゃならない」
「ふむ」
と折竹は笑うような表情をして、
「あまり、偉そうに見られたのが、とんだ災難でしたよ。いや、デモクラシーも当てにはならん」
「お気の毒です。しかし、これが任務ですから」
とセルカークが心持頭をさげ、彼にペル・メルをすすめた。その
「やれやれ、おなじ事なら探検で死んだほうがいい。僕は『
と、セルカークの頭がヒョイと上って、
「油層」
と、彼は惹かれたような表情になった。
「そうです。あなたの想像は不幸にして違っているが、僕のほうのはおそらく図星でしょう。それは、東は外蒙からサハラ沙漠まで延びているといわれる、地下の大想像洞、『
地下の大盲谷、暗黒の二万マイル。その存在は非常に古いころから、想像されもし書かれてもいるが、もしこれが余人の口からでたのだったら、即座に
「なるほど、その想像洞のうえは、大沙漠帯ですね。それに、所々方々に油田が散らばっている」
「そうですよ。全部油脈は岩塩油田であるか、それでなければ、石灰岩層に入っています。おそらくその大盲谷はソ連領にも伸びているでしょう。ねえ、エンバの
ああ、大盲谷をうねくる、石油の大暗流。いかな名画工、いかな名小説家といえど、その光景を
「しかし、それは実際問題ではありませんね。ただ奇想であり、頭脳の遊戯であり……。お話だけはひじょうに面白いですが」
「では、イランの
と折竹が突き進むようにいった。
「あすこの、踏みいるものを焼く、おそろしい熱気は。[#「。」は底本では「、」]万物焼尽さずんば止まない、見えない魔焔は?」
“
「つまり、僕の私見をいいますとね。あれは、地下の油脈から洩れる天然ガスだと思うのです。それが、塩沙の輻射熱でパッと燃えあがったやつが、ふわふわ浮遊して歩くのでしょう。ねえ、あの見えない焔はガソリンのお化――。高オクタン価八〇くらいの、おそらく
見えない魔焔の正体が各国ともあせっている、高オクタン価の良質油とは。が、折竹の粟粒のような汗。ここが、助かるか助からないかの瀬戸際という意気が、目にも顔にも、燃えるように
「
とたった一言、それを、折竹が追っかけるように、
「そこで、あの沙漠に噴出孔があるか、ないか。たぶん、地軸までもというような、裂け目があるだろう。多量の天然ガスを絶えず噴きだしている、地底までの穴がきっとあるにちがいない。しかも、それが大盲谷へ達している。と、僕はこう
「
とセルカークがふたたび呻いた。折竹がならべるでたらめもさすが彼だけに整然たるもの。それが駆りたてる夢幻黄金境。いまやセルカークは大欲にうめいている。
「儂もむかしは、
と、だんだんセルカークは恐ろしげな顔になってゆく。しめた、と、折竹がほくそ笑むところへ、
「じゃ、なんでしょう。『大地軸孔』の怪焔も、おなじ意味合いのもんで」
「そうです。あれも、『大盲谷』中の一つの覗き穴です。しかし、大盲谷をうずめる全部の油量は? セルカークさん、測れますかね」
と、

するとその時、おなじ思いはセルカークにも、こいつを、釈放したら、どんな事になる

やがて、二人のあいだに盟約が成りたった。しかし、まだ折竹に完全な自由はない。
「あんたは、当分儂のそばを、離れんでもらいたい。明後日、わしはムスカットへゆく。例の、オーマン王子ご新婚でしてな。むろん、あんたへもご参列を願うが……。マア、誰しも珍客と思うじゃろう」
それから、折竹は部屋を宛てがわれたが、その夜は眠れぬ一夜であった。月のない砂上は、ぼうっとした星明り。だが、彼はやっと助かったと、じつに躍るような気持。そのうち、彼が出方出まかせに述べたてた嘘が、どうやら真実らしく思われてきた。もともとこれは、彼の想像として腹にあったこと。ただ、
その、たんなる想像が本物になる。少くともなりそうだ、と考えた。すると、一度は死ぬんだったという捨身な気持が、彼に日本人らしい犠牲の念を呼び起してきた。
(大塩沙漠へゆくことは、けっして無意義ではない。もしも覗き穴があって「大盲谷」に達していれば、俺は「英波石油」の油層の下へゆけるのだ。またもし、大盲谷の広さが真実とするならば、ソ連コーカサスへもメソポタミア油田下へも、なんとか手段を尽せばゆけないものでもない。
そうだ。故国一朝有事の際の、破天荒な電撃――。一隻の潜水艦、十人の挺身隊。もし覗き穴さえわかれば、それで事足りるではないか。油層下からの処置で、油田は渇れるだろう。また、十人の犠牲で全油田爆破ともゆける。その下地を、俺はいま作りあげようとするのだ。で俺が、もしも大塩沙漠から生還した場合、俺は国家への協力をほこれる。また、万が一の際は知られない犠牲として、俺は個人としての最高の死を遂げることになる。犠牲――。それも、知られないほど、美しい)
夜が明けかかり、砂丘の万波にようやく影が刻まれてゆく。空には、
ところが、その二日後の夜。オーマンの都ムスカットで行われた王子ご新婚式に不思議な出来事が起ったのだ。


その海岸の広場にある王宮といっても、簡易な三層の
「もう、おいではこれだけであろう」
「ふむ、いかさますみ申したようであるが」
とつぜん、昇降階のしたでザザザザという太鼓の音。お客だ、と一同は慌てふためいて列をそろえた。とそこへ、たくみにガウンを捌いてくる

「失礼でございますが」
と、式部官の一人が
「次第書にございませんので、お言葉を願います。いずれの国の、どなた様でいられましょう」
「キンメリアの女王」
「へっ」
「このオーマンは、なんという無礼な国である」
とその婦人が
「わたくしは、前もって儀式書を頂いている。それには、使節の随員は宮廷よりの馬車に分乗し、使節の馬車に前行すべし――とありますが、随員のはおろか、わたくしのも参りませぬ。当国は格式を重んじ典礼を尊ぶ点に於いて、回教国一と聴いておりますが」
「恐れいります」
と、式部官が首をさげた時その婦人の姿は、昇降階に続く「騎士の間」に消えていたのである。その場には、侍従長やら将軍やらがいたが、凜とあたりを払うその婦人の威厳には、誰も止めるものがなかったのだ。
キンメリア――それは地図上にない国である。
折竹は、舞踏にも加わらず宮苑のなかを歩いていた。スミルナの
(セルカークの奴、この辺じゃなかなかの羽振りじゃないか。マア情報省の機関区長どころだろうが……、どうして領事くらいは敵わんような勢力がある)
そこへ、植込の陰からぷうんと女の匂いがした。棕櫚の花粉のついた裳裾がみえたとき、彼の横手からすうっと寄り添ってきた、女がいる。
「お久しう。折竹さん、ほんとうに暫くでございました」
いわれて、婦人をひょいと見たが、彼には全然未知の女だ。額のひろい、思索深げな顔。齢は四十に近いだろうが、

「失礼ですが、奥さまとはどこでお目にかかりましたでしょうか」
「お忘れ?」
とその婦人は婉然とわらって、
「ロンドンでお目にかかったではございませんの」
「サア」
「あたくし、ザチでございますの」
「僕がここへ来たことが、どうして分ったのです」
「そりゃね、あたくしにも知る方法がありますわ。あなたは、シャルジャーで旅客機をお下りになり、それからセルカークと此処へいらっしたのでしょう」
「ふうむ。よく」
と唸った陰にはやはりこいつはと、折竹は警戒を感じたのである。こういう顔は、よくコーカサス人や
「いつぞや、僕の『大地軸孔』ゆきにご勧告がありましたね」
「ええ、ぜひそうお願いしたいと、思うのです。覗き穴のしたにわずか固っている、未開の可哀想な連中です。別に、この世に引き出したところで、見世物にもなりません。お捨て置きになれば、有難く思いますわ」
「しかし、あなたはフランス語をお喋りになりますね。そこは大体、地上と交通のない地底の国のはず。その点がどうも
とうとう、ザチはそれには答えなかった。悲しそうな目をして、じっと折竹をみている。駄目っ、駄目っと……念を押すようなそれでもないような、なにか胸に迫った真実のものを現わして、
「でも、お目にかかれて嬉しいと思いますわ。人間って――十年、二十年、
と立ちあがったが、またふり向いて、
「こんな齢になって泣くなんて、可笑しいですわね。でも、こういう時は、誰でもそうよ。誰でも、感傷が先走って、悲しくなるものですわ。もう、あなたとはお目に掛れないでしょうから」
「そうでしょう。僕も
ザチは、それなり去ってしまったのである。妙な女だ、脅してみたり泣いてみたり――と思うだけで、いま大塩沙漠ゆきをうっかり洩らしたことには、彼はてんで無関心であったのだ。その数週後、イランのテヘランへゆき準備を整え、見えない焔の塩の沙漠へむかったのである。
まず、そこまでの炎熱の高原。大地は灼熱し、溶鉱炉の中のよう。きらきら光る塩の、
その、土中の塩分がしだいに殖えてゆくのが、地獄の焦土のようなまっ
「そろそろ、儂らも焼けてきそうな気がするよ」
とセルカークがフウフウ言いながら、もうこれ以上はというように、折竹をみる。
「死ぬだろうよ。日中ゆけば燃えてしまうだろう」
「脅かすな」
とセルカークは心細そうに笑って、
「頼むよ。俺は君に、全幅の信頼をかけている」
「マアね、君を燃やすことは万が一にもあるまいが……、とにかく、われわれは日中を避けねばならん。夜ゆく。それで、今夜の強行軍でどこまで行けるかということが、覗き穴発見のいちばん大切なところになる。ねえ、地図でみると、台地があるね。ちょうど真中辺で、奇怪な形をした……」
「ふん、“
「そうだ。で、これは僕のカンにすぎないがね。得てして、ああいう所には裂け目があるもんだ。まず覗き穴は、
「驚いた」
とセルカークはパチパチと瞬いて、
「じゃ、途中で夜が明けたら、焦げてしまうんだね。
そうして、夜は零度をくだる沙漠の旅がはじまった。万物声なくただ動いているのは、二人の影と頭上の
「こりゃ、いかん。
まったく、痛恨とはこの事であろう。みすみす、目前にみながら此処が限度となると、両様意味はちがうが、二人の嘆きは。……宝の山の
「畜生、せっかく此処まで来てとは、なんてえこった。オクタン価八〇、最良
と、指差された薄明の地平線上。
「ザチ」
と、さながら放心したような呟き、
「ザチ

とセルカークが訊いても聴えぬかのように、
「覗き穴はある。ザチはソ連の女ではなかった。真実、『大盲谷』に住むキンメリアの女王。おい、セルカーク、あれを見ろ」
いわれて、目をこすりこすり
しかし、驕魔台のうえでザチを発見したことから、いよいよ「大盲谷」の実存性が濃くなってきた。そうしてこれには、むしろ手も付けられない塩の沙漠よりかも、「
沙漠、峻嶮、寒熱二帯の両極をもつアフガニスタン。慓悍無双といわれるヘタン人の人夫をそろえ、いよいよヒンズークシの嶮を越え「パミールの管」といわれる、英ソの緩衝地帯を「大地軸孔」へ進んだのである。いまは、高山生活一か月にまっ黒に雪焼けをし、
そしてちょうど、カプールを発った五十日目あたりに、
「凄い。ここでは、氷だけが

噛みあう
「君、ちょっと折り入っての話がある」
隊が立往生をしてから、一か月後のある夜。こっそり折竹の
「取らぬ狸の、皮算用かもしれんがね。いずれは大盲谷の油層が、われわれの手に入るだろう。しかし、そうなったとき分け前が出るようじゃ、
「へえ、というのはどういう意味だね」
「それは、オフシェンコのことだ」
とセルカークはいっそう声を低め、
「奴は、最後まで頑張るといっている。けさ、君とヒルト博士が大喧嘩をした後で、こっそり奴の意見を聴いてみたんだよ。するとだ、奴は馬鹿に昂然としてね。――任務だ、最後まで君らと共に――なんてえ、えらい鼻息なんだ」
その日の朝、温霧谷の速流氷河の攻撃時期について、彼と独逸航空会社のヒルトとが大激論をした。ヒルトは、速流氷河をわたる方法なしと言う。これは練達山岳家としての当然の論。それに反して、
そのころは、もう七月にちかく、邪風モンスーンの跫音がくらい雲行から、吹くぞ、薙ぐぞというように、聴えるような気がする。ヒマラヤ・カラコルムに吹きつける、狂暴な
狂ったか。見す見す死ににゆくような折竹の胸に、あるいはこの狂自然を征服するに足る鬼策が蔵されているのではないか。で、結局のこったのは折竹、セルカーク、それにソ連からの監視者オフシェンコの三人。セルカークは、また言うのである。
「それでだよ。儂も、殺るとか除くとかいうようなことは、この際したくない。一つ、君によく説いてもらって、ヒルトらと一緒に帰そうと思うんだ」
「そうか」
と折竹は暫く黙っていた。あれ以来、ますます人相にも
「どうだ。たがいに運だけは、無駄にせんように、しようぜ。百億人に一人、千万年に一度、あるかなしかというような、どえらいもんだから……」
「勝手だ」
と折竹は吐きだすように、言った。
「大体、僕の計画にしてからが、九分どおりが運なんだ。妙に、度胸がいいのが玉に
「脅かしちゃ、いかん」
「いや、すべては渡れてからのことだ。しかし、僕は君よりも、オフシェンコを、尊敬する。ただ任務――とは、偉い!」
不興気に出てゆくセルカークの向うに、大地軸孔の怪光があがっている。ぶよぶよ動く淡紅の幽霊のように、尖峰を染めだし氷塔をわたり……それも間もなく一瞬の夢のように消えてしまう。そういう時、折竹の胸にはザチのことが
翌日、ヒルト博士らはついに去ってしまった。

オフシェンコは、真面目そうな、
「その、ザチという婦人のことは、じつにいいですね。大盲谷にさえ入れれば、お遇いになれるでしょう」
「サア、『大地軸孔』の近傍くらいじゃ、どうかしら……。広いよ、とにかく『大盲谷』は両大陸にまたがっている。それも今までは、伝説にすぎなかったんだ」
「楽しみですね。しかし、僕のはただ任務だけですから」
「じゃ君は、何処までも行くのか」
「そうですとも。国から与えられたものを、疑うようなことはしません」
セルカークの、英人らしい徹底的個人主義と、オフシェンコとはじつにいい対照だ。ところが、その数日後に天候が
「この氷河の氷には、石灰分が多い。だから、猛雨があれば氷塔に浸みこんで、あの邪魔ものを、ボロボロにしちまうと思うよ。つまり、氷の石灰分が水に溶けるんだから、あの頑固なやつが軽石みたいになっちまうんだ。で、それが流れるから、平らになる。そこを、僕らが渡ろうという
そういう、折竹の推測がついに適中した。すごい雨のあった翌朝、一掃された氷塔をみて、三人はわっと歓呼の声をあげたのだ。
いよいよ、此処――三人は感極まったような面持だ。のぞくと、まっ黒な中からひやりとした風がのぼってくる。地底の国、アジア、アフリカ両大陸にまたがる想像界の大盲谷が、いま三人によって白日下に
「やはり、石油ガス」
とまっ暗ななかで鼻をうごめかし、セルカークが聴えぬような声で呟いた。おそらく、どこかに噴出孔があるのだろう。そして、岩石が落下するときの摩擦の火花で点火するのが、例の怪光だろうと思われた。
三人は、各人各様の気持――。折竹は、故国のために油層下の道をきわめようという。セルカークは、
その間も、懐中電灯のひかりが四方へ投げられている。石筍はあり天井から垂れている美しい石乳も、どんよりした光のなかでは、老婆の乳房のよう。絶えず、岩塩の粉末が雨のように降ってくる。しかし塩が吸うので毒ガスの危険はなく、三人は
二万マイルの道、北は、
「いい陽気だ」
と、折竹は口笛を吹きながら、
「暑からず、寒からず……。まことに、当今は
しかし、進むというが、
「どうも風邪を引いたのかな」
とセルカークが気になったように、言いだした。
「折竹君、ガスのにおいが全然ないと思うが……」
「そうらしい。たといあるにしろ、小ぽけなやつだろう。採油など、
「ふむ」
とセルカークは不機嫌らしく黙ってしまった。当がはずれたのではないかと思うが、先があること。まだまだというように気をとり直すセルカークを見て、折竹はなんて奴だと思うのだ。すると、その辺から携帯水が気遣われてきた。
とめどない、渇というような事はまだないのであるが、なにしろ、少量しか飲めないので胃は岩石のように重く、からから
じゃ、盲道だったのか――と、折竹もまっ蒼になった。ことに、セルカークの失望は甚だしく、油層も
石油の
「君、君、何なんだよ。もう
「全然か」
「いや、三人分のがない」
と言うセルカークの目がぎょろりと光る。なんだか、殺気のような寒々としたものが、この男の全身を覆うているのだ。おやッ、どうも様子が変らしい。こいつ、と思うと厭アな予感がして、
「じゃ、どのくらいあるね」
「一人分だ。俺だけは、生きて帰る」
とたんに、腰の拳銃をにぎった、セルカークの手に触れた。なにをする! と、突き飛ばされたセルカークはころころと転げ……オフシェンコに
やがて、
と見る、なんという

「ザチ、ああザチ」
彼は狂気のようにさけんだ。
――前マリンスキー歌劇場の女優、ナデジーダ・クルムスカヤである。当「国家保安部」の一員たるを証明す。
ああ、やはり――と、いま折竹はすべてを知ったのだ。
鉄の意志――。これも犠牲を自覚した、貴い一人だ。と、彼は
大塩沙漠から
しかし、この油層下の道へは、やがて故国の手が……。折竹は