箱根の山

田中英光




 朝の薄ら陽があかあかと箱根街道を照らしていた。二重廻しを着た六尺豊かな親父の私は、今年六つになる三尺にも足りぬ息子一郎の手を引いて、霜柱の立ったその街道に出て行った。
 昭和十八年十二月三十日、私は歳末の一両日の休みを利用して、その前日から箱根湯本のある温泉宿に泊っていた。その前日は一郎を連れ、湯本から登山電車に乗って強羅まで上り、強羅からケーブル・カーに乗って早雲山、早雲山からバスで大涌谷を通って湖尻へ、湖尻の一膳飯屋ですいとんを二杯宛食べ、蜜柑を仕入れて、モーターボートに乗ったところ付近の国民学校の一年生たちが汚ない顔を元気よく輝かせ、国民服の少年のような先生の説明に興奮している様子が可憐であったから、これに蜜柑をあらかた遣ってしまい、元箱根に着き、そこで昼定食を食ってから、箱根権現を見物し、バスで湯本に帰って来た。翌日の三十日は朝から如何しようかとプランを樹てるまでもなく、山に登る事に決めていた。
 と言うのは、その前日、登山電車の窓から一郎が初めて自分の肉眼で眺める、山と言うものの壮容に眼を輝かし、「お父さん、あのお山に登ろうねッ」と絶えず繰返していたからだ。現在、電車で山に登りつつあるのだ、と教えても、ケーブル・カーに乗った折ですら、山に登っているのだとは諒解し切れぬ幼い頭では、きらり眼前にはがね色に冴えかえった蘆湖あしのこを眺めても、「やあ、海、海」と手を叩き、いかに親父が海と湖と異なるかを説いても、真物の海さえ知らぬ一郎は心から納得顔にならなかった。それでその翌日は自分の足で山を登らせてやろうと前日から計画し、初めはその辺の山にちょっと、登って、直ぐ宿に帰る気であったが、ぶらりと旧街道に立ち出てみると、今度は、私自身が、その東海道五十三次の中、難路を伝えられた箱根八里の山路を幾らかでも歩いて見たくなった。
 そこで子供を振り返って、「おいこれから山に登ろうか」、「うん、登ろう、登ろう」、「とっても高い山だぞう。一郎に登れるかなあ」、「ダイジョブ、登れるよウ」、「ようし登れるか、きっと登れるね」としつこく繰返すのは、私も二重廻しに下駄穿きで足に自信がなかったし、六つの一郎の幼い足に不安があったからだが、しかし、生れてから朝鮮京城の西小門というゴミゴミした町に育ち、東京に来てやっと一年、それも世田谷の北沢と言う、ありきたりの郊外の町から一歩も出た事がない子供だから、この機会に、日本の山の美しさを満喫させてやりたい気持も強かった。
 それに満五歳になった子供自身も、漸く見るもの聞くものに不思議を感じ、宇宙の大に驚くだけの資格の出来てきた年頃とて、前日も登山電車の眼前に展開してくる、蒼緑の山々に大きな陽の眩めきと雲の影が刻々に移動し、または遙かな山頂の暖かそうなクリーム・イエローの照り輝きを見ては、「やあキレイだ」と讃嘆の声を惜しまなかった。その驚異の念をもう一度、味わせてやりたく、旧街道を踏破させてみる積りだったが、むろん頂上まで登る気持はなく時計を見ると未だ十時、一時間ばかり登ってどこかで昼飯を食い、またブラブラ帰って来ようと言う頗る呑気な料簡で、子供の手を引き、松並木の中を、さて、箱根の山を目指して登って行った。
 実は親父の私にも箱根の山には幼い頃の思い出がある。死んだ父と母との間に悶着があり、出るの引くのと騒ぎがあったが、その和解の出来た翌日、一家を挙げて箱根の塔沢とうのさわに遊びに行った。私は恰度、一郎と同じ年頃、今でも憶えているのは、夜、人の寝しずまった頃、一人、小便に起きて、便所の窓から眺めた真っ黒な山々の巨大な輪郭の思い出だ。自然がそんなにも恐ろしい静けさを持っているのに吃驚した。山々の上には星が同じような静けさで光り、私は身体の凍るような一種の恐怖を感じた。
 しかし今、一郎が感じているのは山への恐怖ではない。むしろ陽のさんさんと輝く黄色い山への幼い憧れであり、驚喜だった。彼が成長の後、自然科学へ赴くか、人文科学へ赴くか、何れの方面に向うにせよ、彼にとって大切な思い出になると思えば、私は甚だ嬉しい勇みたった気持だった。前日、湖尻や元箱根で食物にありついているし、その日もどこかで代用食ぐらいはありつけるだろうと、相変らずのんびりした料簡で、子供の手を引き、箱根街道を登って行った。
 初めに眼につくのは、広重や北斎の描いたような樹齢数百年と思われる松の古木が、点々と巨竜のわだかまる恰好で、蒼空に聳えている風景だった。しかしその松も直ぐ斑らになり、松の間には金持の別荘らしい洋風の邸や、半商半農らしい土地の者の藁葺家が雑然と続いているだけで、山らしい風情もなにもなかったから、その路に直ぐ倦々したらしい、一郎が、「お父さん山に登ろうよ。お山に登るんだネ」、「今からして歩いている路もお山なんだよ」、「違うよ、お山じゃない、路じゃないか」、「だからさ、そのお山のお腹についている道なんだよ、ほら、あれを御覧」
 私は二重廻しの袖を挙げ、身体を屈め、一郎の眼の前に拳を置き、指を伸ばし、その指先を眺めるようにと教えた。指の先には双子山の嶮峰が、半身に明るい日光を一杯に受け、夢で見るような黄色さだった。「この道を歩いて行くとあのお山の頂辺てっぺんに出るのだよ。一郎に歩けるかしら」、「そうね、あのお山に登るの」、「うん、そうだとも。だけれど登れるかな」、「登れるヨ」、「きっとだね」、「ウン」
 初めの中はそのくらいで山に関する対話もけりがつき、親子はぶらぶら歩きだした。斑らな松並木の次には、いずれ名のあるに違いない宿場があり、家がごちゃごちゃ並んでいたが、そこを通り抜けるまでの間に、私は矢鱈な好奇心から、或いは曾我堂を訪れ、または初花躄勝五郎の由緒の寺の境内にも、霜どけの泥濘を、「そら下を見て、下を見て」とか一郎の手を抜けるように引っ張って、そんな風に得る処もなく方々に寄道したから、一郎は漸く歩くのに倦きて来たらしく、その宿場の端れ頃から頻りに、「お父さん、お山まだ」
「うん、だんだん。だけれど一郎、ほんとは俺たちがこうして歩いているのも山なのだよ。ほら御覧。路はだんだん高くなっているだろう。だからお山じゃないか」、「だって坂じゃないの。お家だって沢山あるし、町じゃないの」、「違うよ。違うよ」と私は説明しきれないもどかしさに苛々したが、ひょいと眼を挙げれば、宿場はすでに出て、満山の常緑が眼に明るい。
「ほうら、もうお家がないだろう。木に草ばっかりだろう。だからお山じゃないか」、「あアほんとだ」一郎は素直に感動して叫んだ。
 過ぎて来た方を除けば前も左右も、山また山、直ぐ前には右に雑木林を透して谷底に早川の流れが光って、潺湲せんかんと響き、左は頂上の見えぬほど樹木が密生して、その間に笹の葉が鮮かに青い。前面にはゆるやかに蛇行した白い街道が坦々と続き、遙かな翠巒の煙るような輝き、近くの山頂の黄金の帽子を冠った眩ゆさ。一郎の素朴な感嘆と共に、私にも新しく蘇った感動があり、思わず口を開いて大声に歌うと言うより呶鳴った歌が、「箱根の山は、天下の険、函谷関もものならず」それから暫く考えていて、うろ覚えに、「千仭の谷、万丈の崖」とやったが、後はまるで出て来ない。仕方なしに、もう出鱈目で、「前に聳えしりえに望む、一夫関に当れば、万夫も通さず、かくこそありけめ往時の武夫」とやったが、節も文句も出鱈目で、僅に自信のあるのは前の三句に過ぎない。それでも、聞手が子供と山だけなのを好い事にして、繰返し、「箱根の山は天下の険、函谷関もものならず」と呶鳴ったが、それでも私には十分な感動があった。
 後でちゃんとしたこの歌詞を調べてみたら、「箱根の山は、天下の険、函谷関も物ならず、万丈の山、千仭の谷、前に聳えしりえに支う。雲は山をめぐり、霧は谷をとざす、昼なおくらき杉の並木、羊腸の小径は苔なめらか、一夫関に当るや万夫も開くなし、天下に旅する剛毅の武夫もののふ、大刀腰に足駄がけ、八里の岩ね踏み鳴す、くこそありしか往時の武夫」と言う長過ぎる歌で、文句はもう古臭い感じだが、この歌につき纒う一種、清新な感じは、この作曲が、鬼才滝廉太郎によって為されたからだろうと思う。この歌なり荒城の月なりが、いつもその後の流行歌などより、ちょっとした清新な味を持ち続けているのは、鬼才と凡才との一寸の差を語るものだと思う。その一寸の差が、「天才は常に新し」と言われる所以でもあろうか。それにしても、私は幼い子供の手を曳き、冬の日の暖く降りそそぐ箱根街道を歩きながら、「箱根の山は天下の険」を馬鹿の一つ覚えのように繰返して歌っていれば、前後左右から頭を圧せられるような高い峰々の輝きに、自分を豆粒のように感ぜられるにも拘わらず、自然を征服したと人間が自惚れた時の、あの愚かな感動が捲き上がって来るのだった。
 そこでバカな親父は子供にこの感動を伝えてやりたいと思い、「おイ一郎、お父さん、この歌を教えてやろうか」、「ウン」と子供は親父の下手糞な歌にあまり興味のないらしい生返事をすると、それよりも道端の雑草に心を惹かれるらしく、私の手を振り切って、道端に蹲み、とても珍重すべきものに見えるらしい、黄色い金鳳花きんぽうげやら、枯れ薄の穂先を毟ってくる。私も幼い頃にはそうであったのに違いないが、子供の落着きのないのに腹を立て、「こら一郎。そんなにきょろきょろしていたら、とてもあのお山の上まで行かれやしないよ。男は一つの事に目標を樹てたら傍目を振らずに突進するんだ。今からそんな道草を食っていたら、草臥れてしまって、とてもお山の上まで登れやしないよ」これがいちばん大切な事だとばかり、邪慳にその手をぐいぐい引っ張る。
 一郎は毟った花を大切そうに右手に持ち、素直に、「ウン」とついて来るから、私はまた上機嫌で、「ほら、じゃあ一緒に歌うんだよ」と音痴の大声で、「箱根の山は天下の険」一郎には文句が難しいと見え、舌を縺らし、「ハコネノヤマハエンカノケン」、「エンカじゃない、テンカ、つまり世界でも嶮しい山だと言うのだよ。分った」、「ウン」私の説明も怪しく、一郎の返事も、空返事だ。「じゃあ、ほら函谷関もものならず」、「カンコクカンモムネナラジュ」、「なんだ一郎、それじゃあ、なにを言っているのか分らないじゃないか。函谷関と言えばね、支那にある嶮しい山のお関所のことだよ」
 そう説明しながら、私は北支那に出征当時、行軍の疲労の底にあって、この眼で見た、函谷関の険を彷彿と思い浮べていた。それこそ下を見れば眼の廻るような暗い千仭の谷底に、上流で河幅一里に余る大黄河が、ここでは僅か三尺の幅にしか見えない程の狭さで、唸りながら光りながら、一瞬の碧をひらりと飛ばし、風のように流れている凄まじさで、それに比べれば、ここ箱根の険なぞ、箱庭と真物の違いだと思えたが、それにしても箱根には箱根で明るい可憐な日本の美しさがある。その美しさにふさわしいこの歌を是非、一郎に覚えさせねばならぬと、「箱根の山は天下の険、函谷関もものならず」、「ハコネノヤマハエンカノケン カンゴクカンモモノナラジュ」と親子二人、歌い喚きながら、人一人通らぬ箱根山を歩いて行った。
 多分、未だ塔ノ沢なのだろう。眼下にお菓子のように綺麗な家が、早川の真っ白な水沫と共に眼に鮮かだ。水涸れの橋を渡り、観音坂と建札の立った杉並木の坂を登る。あまり変化のない山路に一郎は倦きてしまったらしい。「箱根の山は」を二人とも歌わなくなると、「ねえ、お父さん、お山に登ろうよ」と早川を越えて、向う側の陽に輝く、見るからに暖かそうな山々を指さす。
「ここもお山なんだよ。あの山だって向うに行って見れば、これと同じような道のある山なんだよ」こう言い聞かせても一郎にはさっぱり分らない。ただもう首を振って、「いやいや、お山に登るのッ」の一点張りだ。バカな親父はそのうち本気に腹を立て、「おい、それじゃアここから登れッ」と幼な子の襟首を掴み上げるようにしながら、一郎を左手の見上げるばかりの切り立った山の下へ連れて行った。
「ウン登るよ」大人なら自棄で登るとも思えるが、子供は本当に、彼の概念で山と思うものに、自分の足で登って見たいらしく、オーバーの背中を丸め、小さい両手を前に出し、よちよち熊笹と茨の傾斜面に足を進めた。その恰好を見ていると、もう微笑が浮んでくる程のたわいなさで、私はそれを眺めていた。笹を掴んで二足、三足、登る。するともう赤土が落ちて来て子供の靴を埋め、子供は土と共に下に落ちる。私はまたそれを頬笑んで眺めている。どうせ登れないのは分っている。しかし何遍それを繰返すだろうか。汝、七日を七度くり返せよ。二度、三度、子供はますます猪背になり、かじかんで赤く腫れた掌をフウフウ吹きながら、竹の根を掴んで、よちよちと登っては滑り落ちる。靴も泥塗れになり、手も汚ごれた。しかし子供は自分でいよいよ登れないと見極めがつくまでは登るのを止めないし、私もそれを黙然と眺めていた。四、五回、繰返し、一郎は矢張り諦めた。どうしてこれが登れないのであろうと怪訝な顔で眺めている。その時、私は初めて、あらん限りの声を張り上げて一喝した。
「バカッ、山に登れッ。登らんのかッ」その剣幕にも子供は平気な顔で不思議そうに親父を振り返り、「だって登れないんだもの」、「バカッ、お前はさっき山に登りたいと言ったろう。さア登れッ。さあ登れッ」、「だって登れないんだもの」ポケットに手を突っ込み、山を見上げながら、子供の返事はいつまでも同じだ。私は悲しいような気持になり、優しい声を出し、「ほうら御覧。やっぱり登れないだろう。そのために昔のひとたちが、とても苦心してこうして路をつけてくれたのだよ。一郎が山とは思えないほど楽にお山が登れるのも、僕たちの御先祖のお蔭なのだよ。一郎には未だ分らないだろうけれど、世の中だって同じ事。だから、御先祖様ありがとう、と言ってこの路も登らなけりゃ駄目」、「うん」一郎は相変らず、素直に元気の好い返事だけして、また私に手を引かれて、箱根街道を登り始めた。
 観音坂の杉並木がどこまでも続いている。時計を見るともう十一時過ぎ、だんだん腹も減ってきたし、周囲には人家もないし、もう廻れ右をしようかと、親父のほうが意気地なく、「一郎もう湯本に帰ろうか」子供は紅い頬っぺたを振りたてて、「ううん、お山に登るの。あのお山の頂辺に行こうねッ」と陽光に輝く遙かの双子山の冠峰を指さす。親父は少し顔負けして、「遠いいんだよ、とっても。一郎に歩けるかな」、「歩けるよッ。行こうねッ」、「本当に行けるかい。きっとだよ、途中でもう歩けないなんて言ったって駄目だよ」、「ウン歩けるよッ」、「そうかい、きっとだね、じゃア指切りをしよう」私は急に声を荒らげ、「好いかい、一郎は男だねッ」と彼の可愛い指に私の汚ならしく大きな指を絡ませ、指切りをしながら、「これで貴様がへたばったらひっぱたくぞ」と脅かしたのは乱暴のようだが、毎度のことで珍しくなく、一郎も馴れているから涼しい顔で、「ウン歩けるよッ」と親父に劣らぬ乱暴な返事をする。
「よオし行くぞッ」バカな親父は一郎の手を引っ張ってぐんぐん歩き出した。明るい山、暖かい路。早川にはもう別れたが、別の谷川らしい、爽やかな水声は相変らず、右下に鳴り続けている。一郎は絶えず周囲の自然が新鮮なものに見えるらしく、路端に落ちている笹の葉さえ、時々、拾いあげてはじッと眺め入っている。「オイオイ、そんな路草を食っていると、今にへたばってしまうから。兵隊さんは行軍の時、真っ直ぐに傍見もせず口も利かず、ただ土の柔かそうな処を選んで歩くんだよ。行軍ばかりじゃない、世の中の事なんでもそうなんだ。仮にも男が目標を選んだら、他に気を散らさないで、どこまでもどこまでも真っ直ぐに歩くんだ」とバカな親父は自分にも言い聞かせる積りで、やかましく言う。一郎はあっさり、「うん」と答え、小さな身体を前屈みにし[#「前屈みにし」は底本では「前届みにし」]、オーバーの裾をバタバタさせて、先に傍目もふらず歩いて行くから、私はなんとも不憫な気になり、道端の小竹を適当な長さに折って、「ほら」と渡してやった。「アリガト」とポケットに突っ込んでいた右手を出し、始めは喜んで杖にして歩いていたが、やがて倦きてしまったと見え、「こんな小さな杖は厭だ。もっとあんなに大きいの」と生意気な事を言い、路傍の杉林の杉を指さす。
「あんなの、とても一郎に持てやしないよ」、「持てるよッ」、「きっとか」、「ウン」、「よオし」と私は少し腹を立て、きょろきょろ周囲を見廻したが、生憎、大きな丸太も転がっていないので、「よしよし、覚えていろよ。後できっと持たしてやるからな」と大人気もなく、含むように言い、一郎の手から竹の杖をひったくって投げ棄てると、小さな手をぐいと引っ立てるように歩き出した。
 湯本駅のペンキ絵の箱根地図を思い出してみれば、湯本茶屋はとっくに過ぎたはず故、いま右下に聞える水声は、多分須雲川の渓流に違いない。どんなに長い路でも歩き続けていれば、いつか目標に近づいているはず。私たちは須雲川と言う部落に出る前の路傍に、レディ初花のファーザーである須雲新左衛門の邸跡と、英語で説明の書かれ、立ち腐れた標柱だけを見た。そして九十九折の山路を廻って行けば、いつしか、街道を挾んで、二、三十軒の家がばらばらに建ち並んだ、淋しい須雲川村に出た。鶏犬の声も、子供の姿もなく、ただ白い街道一杯に、冬の薄れ陽が赤々と照っていた。むろん食物屋のあるはずがなく、私はこれはもう駄目だと思った。幸い一郎はまだ腹が減ったと言い出さないが、言い出したら事だと、実は、親父自身が腹の皮のくっつきそうなのを我慢して、一郎の手を振り振り、「箱根の山は天下の険」、「アコネノヤマハエンカノケン」親子二部合唱の大声で、部落を通り過ぎて行くと、向うから柴を一杯背負った婆様が元気な足取でやって来るのにぶつかった。私は、少なくとも夜路に灯を見つけた位の気持になり、「もしもし、この辺でどこか飯を食わせる家はないでしょうか」婆様は吃驚した顔で私たち親子の姿をじろじろ見ていたが、飛んでもないと言った顔で首を振り、「ここいらにゃあ、そんな家はねえよ」
「もう少し先にでも行ったらありますか」、「先に行ってもねえ。どこから来ただ」、「湯本からですよ。これからこの街道を登って元箱根に出たいのですが、途中になにか食べさせる家でもありませんか」、「さあね、先に行っても駄目だ。それにそんな小さな子供を連れて元箱根まで無理だよ」頗る冷たい口調だったから、ムッとして行き過ぎようとしたが、まるで前途の見透しがつかないので心細く、「じゃあ、これから元箱根までずッと食物屋などないのでしょうか」、「そうともよ、ここからまた一里ほど行ったら畑宿いう小さな村があるが、ここと同じような処だで、なんにもなかッぺ。それから双子山へ登るだから、そんな小さな子を連れては無理だ。もっとも甘酒茶屋まで行ったら、なにかあるか分らねえが」、「甘酒茶屋」、「おうよ、元箱根の手前で、まだ三里はあるら」
 呆っ気に取られている中、柴が重いのか、婆様は籠を背負い直しさっさと行ってしまった。あとに私が行く事も返る事も分別がつき兼ね、ぼんやりしていると、一郎のほうは未だお腹が空かないのか、「行こうよ」と振返り、手を大きく振って、さっさと歩いて行く。私はやはり前進だと、なにか子供に教わった気になって、彼の傍まで追いついたが、よく前途の苦難を言い聞かせて置かねばならぬと思い、「こら一郎、もうあのお山の上に行くまでなんにも食べれないが好いね」、「ウン、好いよ」一郎はあっさり承知して歩いて行く。
「きっとだよ、もし途中で腹が減ったなぞ言いだしたら、お父さん、ほんとにひっぱたくよッ」バカな親父は少し逆上して、乱暴な事をムキになって言ったが、「ウン大丈夫よッ」一郎はニコニコして大元気。私は先ず胸を撫で降ろし自分の空腹は仕方がないのでおくびにも出さず、再び一郎の手を引くと、音痴な声を張上げ、「箱根の山は天下の険」
 須雲川の部落も過ぎ、両側は煙るような翠巒を仰ぐ美しい路だ。親父も子供も暫くは無心、無言で足を運んでいたが、ふと右側の山を仰ぐと、渓谷の彼方、青色の崖が陽の光りを浴び、幼い黄色に膨んだ弓形の上に、一条の滝がきらりと光り、直ぐ弓形の陰に姿を消していた。その滝にはまるで姿を露わに見られるのも恥ずかしいと言った、優しい風情があり、昔は神のように思った事もある現実の女性に殆んど絶望している私には、かえってその滝に女性の美に似たものが発見でき、ああこれは美しいなア、と何度も振返りながら行き過ぎたが、あとで地図を見たところが、この滝は、箱根霊顕記で知られた優しい女性、初花の名を取った初花の滝と言われる滝だった。
 やがて須雲川の渓流にかけられた石橋も渡り、女坂と言う、なにか伝説のありそうな胸を突く嶮しい坂も登った。歩いて来たほうを眺めれば、小田原盆地が海を遠くから眺めたように蒼く煙っている。
 兵隊語で言えば、一郎もだんだん顎を出して来たらしい。もう道草を食わなくなり、「アコネノヤマ」も歌わなくなった。箱根八里のうち、湯本から元箱根まで約半分としても四里はある。四里の嶮しい山路を満五歳の幼児に歩かせるのは無理だろうか。無理でも何でも歩かせてやろう。人間がこうと目的を立てた事を中途で止める位なら死んだほうが増しだ。「首になりても一念は達すべきなり」弱いバカな親父は歯を食いしばり、その言葉を繰返しては、自分の希望への路を歩き続けている。それにこれからの嵐の時代を思えば、子供がどのような方向に進むにしろ、自分の信念さえ持てない弱い現代人になる事のないように。それ故、今、子供を甘やかす事は当人にとってかえって不幸に違いない。その時の戦局、社会、人の気持、いずれを考えても生易しいものではない、生易しい心では生きていても仕方がない、とバカな親父はガムシャラに信じていて、たとえこのために扁平足になり、あるいは病気になっても、いま弱い心を抱かすよりは増しだと、自分が末ッ子の甘え坊であったために、随分、余計に苦しんで来た事を思い出しながら、真剣な一種悲壮な気持にさえなって、幼な子のヨチヨチした足取りを睨んでいた。
 どこまでも続く同じような杉山の間の広い曲りくねった路。子供は先ずその単調さに倦んで来たらしいが、それでも先刻の山登りに懲りて、もうプツリとも山に登ろうとは言わない。ただ下を向き毛糸の長ズボンを引きずるようにして歩いていたが、いきなり溜見のように、「ああア、お水が飲みたいな」とそれだけを言った。
 いかにも心底からの吐息であったので、私はうろたえ、あたりをキョロキョロ見渡したところ、右手の山裾に沿って一条の竹管が下の部落にでも清水を導くためか、長く続いていて、サラサラ水の流れる音はしていたが、さてどこか漏れている処でもないかと探すのに、直ぐ管と管の縫目からチロチロ水の漏れているのが見つかった。私はしめたとそこに近づき、手套を取り、両掌をその下にあてがうと、「さア呑め」と一郎に呼びかけた。子供は自分も親父の掌を下から覆うように掌を持って来ながら、子雀のように背伸びをし、爪先立ちで震える唇を親父の掌に押しつける。手のちぎれそうに冷たい水だが、背中の肉の戦くほど、微かに暖かい肉感が、子供の生命の象徴のように生々しく親父の身体に伝わって来た。
「くすぐったいな。早く飲めよ」その叱言も上の空で一郎は鼻の頭まで私の掌に埋め、水を鱈腹飲んだらしい。「アア」と吐息雑りに持ち上げた顔が、喉まで水だらけなので、私は笑ってそれを汚ない手巾で拭いてやり、今度は自分が呆れるほど沢山、水を飲んだ。水も一時腹、少し元気が出て来たので、親子は手を繋ぎ声を揃え、「箱根の山は天下の険」と歌いながら、再び山坂をくねくね登って行った。
 ――自分一人でも箱根の山を越えるのは容易でないのに人を乗せた駕籠を一人で担いで、爪先登りに峠道を登って参ります。川端、須雲川、大曲、さいかち坂、象ヶ鼻、樫木坂と屏風を立てたようなところを登って行くと、細い道、下からスウッと冷たい風が吹いてくるので、武蔵、ヒョイと外を見ますと、自分の乗っている駕籠が数百尺もあろうと思われる谷の方に出ています――これはいつか講談で聞いた、宮本武蔵と関口弥太郎の箱根山中顔合せの場面の口真似だが、この講談に限らず黙阿弥の木間ノ笛と言う毒婦の芝居などでも、箱根山はいつも狼が出て来る物凄い深山にされていて、とても二重廻しに下駄を突っかけた親父に、長い外套を引きずった満五歳の子供が、昼飯抜きで歩ける道とは思えないが、とあれ一郎は口を結んだまままだ黙って歩いている。ただ下を向いたきりになり、時々溜息を吐くのは体力のへたばりよりも、路の単調さに倦んだ故と思ったから、「ああ、とても好い景色だよ」とか、「ほうら、深い谷でしょう」とか気分を転換させるようにして、手を引っ張り、どんどん登って行った。
 それでもさすがに漸く畑宿と言うやはり淋しい部落にかかり、双子山の蒼い山頂を見上げるようにして眼前に仰いだ時には、これは大変だと言う実感があったのだろう。「お父さん、まだなかなかね」と泣きそうな鼻声を出した。ここで弱気を見せてはならぬと思ったから、途端に威猛高になり、「こらッ一郎ッ、あのお山の頂辺まで登るのよッ。途中でそんな弱虫を言うとお父さん承知しないから。まだまだ半分も来ていやしないッ。これからだッ」と大喝したところ、私の血相の変った様子に、一郎はギクンとしたらしい。
 私の手を放し、鼻の頭を膨らました真剣な表情になって、せっせと路を急ぎだした。その丸い猫背の小さな後姿を私は可憐いとしいものに思いながらも、後から、腹の減ったのも我慢したバカでかい声で、「箱根の山は天下の険」と喚きながら、わざと胸を張って歩いて行った。
 ところが先に立った一郎は直ぐに悄然として、歩みが遅くなり、もう先程のように道端に蹲んで金鳳花の花を毟ったり橋の袂から背伸びして薄の穂を折り、私に叱られて慌てて駆けて来る元気もなく、ただ俯向いてのろのろ小さな足を動かしているだけなのを見れば、私はなんとかして元気をつけてやりたく、畑宿を出て暫く行ったところで、路傍に五、六本の太い丸太が積み重ねてあったから、急に前の竹杖の時の会話を思い出し、執念深い性質も丸出しにして、「こら一郎ッ、お前さっき竹の杖は軽すぎてダメだと言ったろう。じゃったらこの丸太を杖にしてみい。ほら、持ってみろ」と強い真面目な表情を装って言ったが、言う傍から笑ってしまうので、一郎はバカにして、「お父さんが持ってくれたら持つよ」と些か狡い表情だった。
 こいつめと思ったが、腹は減っているし、その丸太は私にも持てそうにもないほど太いものだったから、少し腹を立て、「お父さんには持てん。だけれどお前は竹杖では軽すぎると言うほどの豪傑だから持てるだろ」、「ウウン、お父さんに持てんものなら、ボクにも持てん」一郎はあっさりそう言うと四股を踏むようにして山路を登って行く。これだけの会話で大分元気を取り戻したようではあったが、もはや、その様子をハラハラして見守りながら私は後からついて行った。また杉林の路ばかりがどこまでも続き、勾配も段々きつくなるので、下駄穿きの私も正直なところ、大分へばって来ていた。
 その中、前を行く一郎がへんに蟹股になって来たと思ったら、もう怺え切れぬ様子で、「お父さん、うんこ」とその場に蹲んでしまった。「よし、よし」林の間の空地に抱いて行き、あわてて用を足させてやりながら、遙かに蒼茫と相模灘の霞んだ風景を、夢の中でのような思いで眺めながら、私も幾度かの野糞の爽やかな経験を思い浮べていた。
 どうも便の具合では疲労の余り、催おしたらしい柔かさだったが、ここで甘い言葉をかけてはならぬと、また手を引いて単調な杉林の路を登って行った。三十度ほどの勾配の路が五、六間続くと、四十度ばかりの角度でくるりくるりと左右に折れる。そうした同じ路の繰返しに私もほとほと倦きかけた頃、ふと右側のまばらな杉林の中に、一条の小路があり、それが上の街道へ繋っているのを発見した。これはしめたと、私は一郎の手を引いて、その薄暗い杉林の中の近路に這入って行ったが、ムッとする草の匂い、土の香り、磊々たる石を踏み、湿潤の泥を踏んで行けば、一郎にはこれこそ本当の山と言う歓喜が、胸を突き上げて来たらしく、「お父さん、お山だねッ、これが本当のお山だねッ」
 先程までの山道では人工的で、広過ぎて、どうしても感覚的なものを通じて能く物の本質を見抜く幼児の心には、本物の山とは思えなかったのだろう。いま初めて原始的な山気にふれ、その野性の呼び声を感じている。疲れも忘れた、歓喜の幼ない眼を見ては、私も、「そうだ、これがお山だよ」と単純に肯定するより他はなかった。
 それから一郎は、うって変った元気さで、その近路を通りすぎたが、さアそれからは近路が病みつきになり、「お山に登るんだ、お山に登るんだ」とばかり近路を見つけると喜び勇んで、藪叢も構わず掻きわけては潜りこんで行く。初めの中こそ、バカな親父も大きな胴体を一緒にその中に突っ込んで、茨に掻かれたり、滑ったり、傷だらけ泥だらけになったりしていたが、そのうち私はうんざりして来ると共に、一郎が精力を浪費するのも気になって、再び道を行くなら大道でなければならぬ、と自分にも言い聞かせ、一郎の近路を許さぬ方針にしたところが、そうすると眼に見えて一郎は弱って来た。いかにも疲れ切った様子で、しょんぼり後から俯向いてのこのこついて来たり、時々、辛そうに路に蹲みこんでしまう。その度に、大声叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)して、歩かせるが、道のりの見当が未だつかないし、どこで飯にありつけるかも判らない。それでも双子山は大方頂上近く登って来ていたから、ひとつ元気をつけてやろうと、「一郎、一郎、来てごらん、とっても高いよう」
 と傍にやってきた一郎の身体を、街道の左手の石垣の上に抱き上げ、眼下の須雲川の渓谷を俯瞰させてやった。渓流に沿った狭い盆地に、青い色紙の大きさにしか見えぬ田畑、燐寸の軸のような電柱、玩具のような変圧塔、銀の蜘蛛の糸に似た電線が微かに光り、その下には須雲川の渓流が、無言のまま激しい水沫を上げて、一寸ほどの川幅で流れている。
「ア、ほんと、凄いねッ」一郎は暫く驚いた顔で眺めていたが、吹きまくる烈風に、直ぐ顔が蒼ざめ、唇も紫色に変って行った。いっそ、そのまま抱いて行ってやりたい気持もしたが、百里を行く者は九十九里を以て半ばとするのだと、最初の計画を遂行するのに、もう偏執じみた気持にさえなっていて、「さあ行こう、一郎、もうじきだよ」
 こう促して抱き下ろし、次第に重く感じられる子供の手を引ッぱりながら歩きだした。すでに時計をみれば二時を廻っていて、すくない宿屋の朝飯を食べたきりで、三里ほどの山路を歩き、胃の腑は嘔吐を感じるほどの空腹だったし、足の裏と膝頭がほてって来て、少し休むと、動かすのも痛いほどなので、一郎の疲労のほども思いやられたが、心の弱いバカな親父は是が非でも歩き通させてやるのだと、一種の快感さえ感じていた。山頂に近づくに従って、烈風が全山をゆるがす勢いで全身に吹きつけ、私の二重廻しも一郎のオーバーも吹きまくり、子供はたじろぎながら顔を顰めて歩いていた。路ばたの巨松の曲りくねった枝に、大きな鷲に似た怪鳥が一羽、羽毛を風に煽られてとまっていたが、私たちの姿の近づくのを見ると、凄まじく翅を鳴らして飛びさり、いかにも深山らしいもの凄い風景だったが、一郎は未だ悲しそうな鼻声で、「お父さん、お山に登りたいな、お山に」
 一郎の山に登りたいと言うのは、やはりガサコソと路のない路を掻きわけて、藪や茨の中を攀じ登って行きたいのに違いなかった。人間の体力は容易に参るものではない。その前に先ず精神力が参ることを知っている私としては、その一郎の願い通りにはしてやりたかった。しかし、下駄穿き、二重廻しの不自由な身仕度に、でかい胴体の親父は、さっきから一郎のいわゆるお山登りで、手足の露出した部分は傷だらけ、おまけに足袋の中にも泥が一杯につまり、二度とお山登りを繰返す気はしない。そこで、「こんだ、また近路があったらね」と騙し騙し、たとえ近路らしいものがあっても、この路を上れば飛んでもない処に行ってしまうと、威したりして、暫くはまた右に折れ左に曲る街道を登り続けて行ったが、一郎がもう我慢できないように、「お父さん、お山まアだ」と繰返し、果ては、「ボクもう厭だ」なぞ路にエンコしてしまうので、あまり騙すのも不憫になり、到頭、もう二曲りか三曲りで山頂に出られそうな路の角で、物凄く藪、茨に覆われた急斜面の小路を発見すると、「一郎、こんな近路でも登って見るかい」、「ウン」勇み立った返事だった。
 見下ろせば、その斜面は少し下から、いきなり断崖になり赭い地肌を見せて谷底まで続いていた。もし落ちれば生命がないと、一人で登らせるのは不安だったが、獅子は三日にしてその仔を谷底に落す、なぞ無茶苦茶に昂奮して、「じゃあね、お父さんはこの広い路を行って、先に上で待っているから、一郎独りで登ってこられるかい」、「ウン」
 一郎は張切った返事で、小さな身体を丸め、亀の子のように小さな手足をよちよちさせ、もう藪の中をがさこそ這い上り始めた。もし一足でも踏みはずしたら、谷底まで真っ逆様だと胸の凍るような不安もあったが、その不安よりもムヤミに子供を鍛えたい気持のほうが強く、「こらッ一郎ッ、しっかり登れよッ。木の根を掴み掴み登って、決して手を離すんじゃないよッ」と大声に叫びかけ、子供が、「ウン」とコックリしながら、直ぐに一間ほど登ってしまったのを見ると、幾らか安心して、自分は広い街道を急いで駆け登り、左に折れ、一郎が出て来そうな小路の前で、また幾らか心配になりながら待っていた。
 三分、五分、一郎の姿は少しも現われない。「一郎ッ、一郎ッ」声を挙げて呼んでも、返事がないので急にひどく不安になり、ガサコソ藪を掻き別け、茨で頬を引き裂かれるのも気づかぬ気持で降りて行くと、やがてかなり下の方に、一郎の笹にでも掴っているらしい小さな姿がみえた。「一郎ッ、おい一郎ッ」一郎はその声に顔を上げ、藪越しに私の姿がみえたらしく、急にワアァンと声を挙げて泣きだしたから、バカな親父で、私も一度に眼頭が潤んだが、「チキショウメ」と思い、怖い声で、「こらッ一郎ッ、自分ひとりで上まで登れよッ。お父さんは迎えに行ってやらないぞッ。貴様がもし登れなければ、夜になっても上で待っていてやるから」こう呶鳴りつけると、胸をどきどきさせながら、さっさと上の街道に上って来てしまい、ひたすら、一郎の泣き声に耳を澄ましていた。泣き声は止み、五分、十分、ついにガサガサ言う音が近くなり大きくなったと思ったら、間近の茨の繁みから、地面を這った一郎の顔が、思いつめた怯えた小犬の表情でヒョイと出て来た。帽子もない、靴もない、靴下と膝頭を泥だらけにし、頬と手から血を流し、まあるい瞳を見張っていたが、私の顔が眼に這入るなり、無言でぼろぼろ大粒の涙を零し始めた。
「さァ来い。よく登って来たぞ。偉いッ。泣く奴があるか。バカッ、泣くな」と叱りながら、自分の弱さを子供に持たせたくない一途の気持で少し狂気染みてさえいたバカな親父は、急に熱いものを眼に溢れさせていた。
 そこで一郎を休ませ、今度は私が藪の中に潜りこみ、「アッツ、アチチ」と茨で掻かれながらも這いずり回って、漸く靴と帽子を探し拾って来てやると、一郎の泥を払い、血を口で嘗めてやったりしてから、靴を穿かせ、帽子を冠らせ急にへたばった自分の身心を励まし、更に重くなった子供の手を引いて、再び歩き出した。
 直ぐそこから間もなく、双子山の冠帽を右手に見て、平らな高原の中の一本道になった。名も知らぬ沢山の高山植物が、左右にどこまでも生え揃っている草原の中を、なにか妙に心細い気持で歩いて行くと、右側に、親鸞が配流から帰る途、ここで師法然の訃を聞いたと言う地点に、その時、親鸞の詠んだ歌を記した記念碑が立っていた。その高原も過ぎ、両側に葉をふるい落した桜の並木が続いている道を暫く歩き続けて行く中、一郎はもうどうにも我慢ができなくなってしまったらしい。
「お父さん」と私の顔を見上げるや、自然にヘタヘタと地面に坐ってしまった。「バカッ」大声で呶鳴り、私は夢中で柔かい子供の頬っぺたを思い切り、撲りつけた。「こらッ歩け、歩かないかッ。歩かなければ置いて行くぞッ」私が後髪を曳かれるように思いながらも、ムキになって一町ばかり歩き、怖々振り返ってみると、十間ばかり後から、子供が泣かないで蒼い顔のまま、ひょろひょろついてくるのが、とても小さく可憐に眼に焼きついた。
 私はもう自分の疲労も、空腹も、意地も、意気ごみも、一種の狂気も忘れ、いきなり走り戻ると、一郎の前に背中を向けてやり、ぐんなり、崩れ、しっかり両手で纒りついたその小さい身体を、無言のまま背負い上げてやった。それだけで親子の間には気持の流れ通うものがあった。私は四貫ばかりの子供の肉の重みを、自分の肉よりも親しい大切なものに感じながら、眼頭を熱くさせ、飛ぶように路を急いだ。そして薄の両側に茂った路を[#「茂った路を」は底本では「茂った 路を」]、また、イヤになるほど歩いた揚句、やっと右側の路傍に一軒の汚ない茶屋を見つけだした。
 それが神崎与五郎堪忍袋で知られた甘酒茶屋である由、店先の煤けた木札の説明で読み、やっと食物にありつけるかも知れないと、胸を躍らせ、汚ごれた硝子戸をがらりと開ければ、奥の一室に三、四人の工夫のような男たちが、上りこんで、山女魚やまめの煮付かなにかを皿に盛り上げ、コップ酒を飲んでいたが、子供を背負った私のほうには、おかしな野郎だと言うような一瞥を投げただけだった。それでも私が奥に声をかけていると、漸く炊事場の暖簾から中年の女のひとがひょっこり顔を覗かしたが、不愛想に手を振って、「今日は休みだよ」とそれだけ言ったと思ったら、もう顔を引っ込めてしまった。
 本当にがっかりして、怨めしいような気さえしたが、元々こちらがそんな時代に無鉄砲に遠道を歩いて来たのが悪いのだから仕方がない。あっさり諦めて一郎を肩に、しょんぼり街道に立ち出で、思わず二人の共通の不幸を悲しむように訊いてしまった。「一郎、お腹が減ったろう」「ウン、とッてもだよ」それでも負われているので、未だ元気の好い返事だった。日頃、大食いの親父は息子の重みを背中に感じ、ヒョロヒョロしながらも、その重みを歩く張りにして、それから未だ一里もあった街道をもう風景に対する感動もないまでに疲れ切って歩いて行った。
 すでに時計は三時を廻っていて、冬の箱根山は薄蒼い黄昏のような空気だった。方向さえ間違えずに歩いていればどんなに道は困難でも、長くても、いつかは目的地に出るに違いないと言うのが、愚かな私の信仰だが、愚かな癖に近路をしようと思う、狡い考えに罰せられて、私は中途から近路の積りで、渓流の涸れた後の、路ならぬ河床に迷いこんでしまった。それでも、渓流である以上は、多分、蘆湖あしのこから流れているのに違いないと思い、やたらに玉石ばかりごろごろしていて、足の裏が痛くなるし、転びそうになる路を、一郎を背に躓きながら、うんざりする程、進んで行くと、河床は山蔭に入るや、一面の残雪が凍っており、下駄ではどうしても歩けなくなり、冷たいと言うより痛いのを我慢して、足袋を脱ぎ、跣足のまま、半狂乱になって歩いて行ったが、今度は一郎が背中で眠り始めて、一遍に重くもなれば、落ちそうで危うく、「おい、一郎、眠るなよ」と励ましながら、今度は私一人で、一時間あまりの苦闘を続けた。そのような人生の危機に、私は今までに何度も出逢ったし、これからも襲われるだろう。そのような時には気狂い染みたり、昂奮したりしていては長く苦しみに堪えられるものではない。ただじっと我慢して、方向さえ正しく歩いていれば、必ず目的地に出られると思い、「おい、一郎ッ、眠るなよ、我慢だ、我慢だ」こう自分にも言い聞かせながら、歩いていると、路が思いがけぬ瞬間、いきなり下りになって、枯れ薄の間から、ふいに猛烈な風がさッと吹きつけて来た。遙か下方、きらりと冴え返った碧色の鏡がある。蘆湖だ。静かな湖を包む蒼い山々の襞、その手前に一群れの人家は、目的の元箱根の街に違いない。そこまで降りれば前日も昼の定食があった位だから、なにか食物もあるだろうし、帰りのバスもある。
 私は一つの苦難を乗り越えて来た後の嬉しさに、感動して眺めていれば、再び眼に見える自然は生々と美しく見え出してきた。湖の方向からやにわに続けざまに吹きつけて来る凛烈な風、湖面には一杯の白波が寒いほど眼に鮮かに映り出して来た。「一郎ッ、ごらんよ、湖だ」、「ヤッ、ほんとだッ」一郎は眠気が覚めたらしく、幼い身体を伸び上がらせ、湖を見ていたが、「お父さん、降ろして。もう一人で歩くから」と身体に生気の蘇った感じで、手足をぴんぴんさせた。それは丁度、最前、お山に登るんだと言い張って、茨や藪の山路に求めて顔を突っ込んで行った、あの幼児の逞しさからだろう。私は重荷を降ろす嬉しさよりも、そうした彼の幼い逞しさが嬉しくて大切に子供を降ろしてやると、一郎は栗鼠のように眺ねながら、殆んど、残雪も玉石もなくなって来た、その小路を、湖に向かい元気に駆け降りて行った。





底本:「田中英光全集 6」芳賀書店
   1965(昭和40)年8月14日第1版発行
底本の親本:「愛の手紙」青葉書房
   1946(昭和21)年7月15日発行
初出:「文藝春秋 別冊2」
   1946(昭和21)年5月
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:富田晶子
校正:雪森
2017年10月25日作成
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