秋ちゃん。
と呼ぶのも、もう
可笑しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い
筈だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに
女房を
貰い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、
近頃風の便りにききました。
時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした
追憶をするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。
恋というには、あまりに
素朴な愛情、ろくろく話さえしなかった仲でしたから、あなたはもう忘れているかもしれない。しかし、ぼくは今日、ロスアンゼルスで買った記念の
財布のなかから、あのとき大洋丸で、あなたに貰った、
杏の実を、とりだし、ここ
京城の
陋屋の
陽もささぬ裏庭に
棄てました。そのとき、急にこうしたものが書きたくなったのです。
これはむろん
恋情からではありません。ただ
昔の愛情の思い出と、あなたに、お聞きしたかったことが、聞けなかった心残りからです。
思わせぶりではありますがその言葉は、この手記の最後まで、とっておかして下さい。
あなたにとってはどうでしょうか、ぼくにとって、あのオリムピアへの旅は、一種青春の
酩酊のごときものがありました。あの前後を通じて、ぼくはひどい神経
衰弱にかかっていたような気がします。
ぼくだけではなかったかも知れません。たとえば、すでに三十近かった、ぼく達のキャプテン整調の森さんでさえ、出発の二三日前、あるいかがわしい場処へ、デレゲェション・バッジを落してきたのです。
モオラン(Morning-run)と称する、朝の
駆足をやって帰ってくると、森さんが、合宿
傍の六地蔵の通りで背広を着て、
俯いたまま、何かを探していました。
駆けているぼく達――といっても、
舵の清さんに、七番の坂本さん、二番の
虎さん、それに、ぼくといった
真面目な四五人だけでしたが――をみると、森さんは、真っ先に、ぼくをよんで、「オイ、
大坂、いっしょに探してくれ」と
頼むのです。ぼくの姓は坂本ですが、七番の坂本さんと
間違え
易いので、いつも
身体の大きいぼくは、
侮蔑的な意味も
含めて、
大坂と呼ばれていました。
そのとき、バッジを悪所に落した事情をきくと、日頃いじめられているだけに、
皆が笑うと
一緒に、
噴き出したくなるのを、
我慢できなかったほど、
好い気味だ、とおもいましたが、それから、
暫くして、ぼくは、森さんより、もっとひどい失敗をやってしまったのです。
出発の前々夜、合宿引上げの
酒宴が、おわると、皆は三々五々、芸者買いに出かけてしまい、残ったのは、また、舵の清さん、七番の坂本さん、それと、ぼくだけになってしまいました。ぼくも、遊びに行こうとは思っておりましたが、ともあれ東京に実家があるので、一度は荷物を置きに、帰らねばなりません。
その夜は、いくら飲んでも、
酔いが
廻らず、
空しい興奮と、練習
疲れからでしょう、頭はうつろ、
瞳はかすみ、
瞼はおもく時々
痙攣していました。なにしろ、それからの
享楽を
妄想して、
夢中で、合宿を引き上げる荷物も、いい加減に
縛りおわると、清さんが、「坂本さん、今夜は、家だろうね」とからかうのに、「
勿論ですよ」こう照れた返事をしたまま、自動車をよびに、戸外に出ました。
そのとき学生服を着ていて、協会から、作って貰った、
揃いの背広は始めて
纏う
嬉しさもあり、その夜、遊びに出るまで、着ないつもりで手をとおさないまま、
蒲団の間に、つつんでおいた、それが悪かったんです。はじめから、着ていればよかった。
運転手と助手から、荷物を運び入れてもらったり、ぼくは、自動車の座席にふんぞりかえり、その夜の後の享楽ばかり思っていました。なにしろ、
二十のぼくが、
餞別だけで二百円ばかり、ポケットに入れていたんですから――。
その
頃、ぼくは、銀座のシャ・ノアルというカフェのN子という女給から、
誘惑されていました。そして、それが、ぼくが好きだというより、ぼくの
童貞だという点に、
迷信じみた興味をもち、かつ、その色白で、瞳の
清しい
彼女が、先輩Kさんの愛人である、とも、きかされていました。その晩、それを思い出すと、腹がたってたまらず、よし、
俺でも、大人
並の遊びをするぞと、
覚悟をきめていた訳です。が、さすがにこうやって働いている運転手さん達には、すまなく感じ、うちに着いてから、七十銭ぎめのところを一円やりました。
宅に入ると、助手が運んでくれた荷物は、ぐちゃぐちゃに
壊れている。が、最初のぼくの荷造りが、いい加減だったのですから、気にもとめず、
玄関へ入り、その荷物を置いたうしろから顔をだした、
皺と
雀斑だらけの母に、「ほら、背広まで貰ったんだよ」と手を
突ッこんで、出してみせようとしたが
手触りもありません。「おやッ」といぶかしく、運んでくれた助手に
訊ねてみようと、表に出てみると、もう自動車は、白い
烟りが、かすかなほど
遥かの角を曲るところでした。「
可笑しいなア」とぼやきつつ、ふたたび玄関に入って、気づかう母に、「なんでもない。あるよ、あるよ」といいながら、包みの底の底までひっくり返してみましたが、ブレザァコオトはあっても、背広の
影も形もありません。なにしろ明後日、出発のこととて、外出用のユニホォムである背広がなくなったらコオチャアや
監督に合せる顔もない、金を出して作り直すにも日時がないとおもうと根が小心者のぼくのことである。もう、顔色まで変ったのでしょう。はや、キンキン声で、「お前はだらしがないからねエ」と
叱りつける母には、「あア、合宿に忘れてきたんだ。もう一度帰ってくる。
大丈夫だよ」といいおき、また通りに出ると車をとめ、合宿まで帰りました。
艇庫には、もう、
寝てしまった艇番
夫婦をのぞいては、
誰一人いなくなっています。二階にあがり、念の
為、
押入れを
捜してみましたが、もとより、あろう
筈がありません。
もう、
先程までの、享楽を
想っての興奮はどこへやら、ただ
血眼になってしまった、ぼくは、それでも、ひょッとしたら落ちてはいないかなアと、浅ましい
恰好で、自動車の
路すじを、どこからどこまで、
這うようにして探してみました。そのうち、ひょッとしたら、合宿の
戸棚のグリス
鑵の後ろになかったかなアと、
溝のなかをみつめている最中、ふとおもいつくと、
直ぐまた合宿の二階に駆けあがって、戸棚をあけ、
鉄亜鈴や、エキスパンダアをどけてやはり鑵の背後にないのをみると、
否々、ひょッとしたら、あの
道端の
草叢のかげかもしれないぞと、また
周章て、駆けおりてゆくのでした。
捜せば、捜すだけ、なくなったということだけが、はっきりしてきます、頭のなかは、火が燃えているように熱く、空っぽでした。もう、
駄目だと
諦めかけているうち、ひょッとしたら、さっき家で、蒲団を全部、
拡げてみなかったんじゃなかったか、という
錯覚が、ふいに起りました。そうなると、また一も二もありません。
一縷の望みだけをつないで、また車をつかまえると「
渋谷、七十銭」と前二回とも乗った値段をつけました。
と、その眼のぎょろっとした運転手は「八十銭やって下さいよ」とうそぶきます。場所が場所だけに、学生の遊里帰りとでも、間違えたのでしょう、ひどく反感をもった態度でしたが、こちらは何しろ気が
顛倒しています。言い値どおりに乗りました。
ぼくは、車に
揺られているうち、どうも、はじめの運転手に
盗られたんだ、という気がしてきました。(
彼奴に一円もやった。
泥棒に追銭とはこのことだ)と思えば
口惜しくてならない。たまりかねて、「ねエ、運転手君。……」と背広がなくなったいきさつを全部、この
一癖ありげな、運転手に話してきかせました。
すると、彼は自信ありげな口調で、「そりやア、やられたにきまっているよ。こんな商売をしているのには、そんなのが多いからね」とうなずきます。ぼくは、「そうかねエ」と
愚にもつかぬ
嘆声を発したが、心はどうしよう、と口惜しく、張り
裂けるばかりでした。が、その運転手は同情どころかい、といった
小面憎さで、黙りかえっています。
それでいて、家につくと、彼は
突然、ここは渋谷とはちがう、
恵比寿だから、十銭ましてくれ、ときりだしました。てッきり、
嘗められたと思いましたから、こちらも
口汚く
罵りかえす。と、向うは
金梃をもち、
扉をあけ、飛びだしてきました。「
喧嘩か。ハ、
面白いや」と
叫び、ええ、やるか、と、ぼくも
自棄だったのですが、もし血をみるに
到ればクルウの
恥、母校の恥、おまけにオリムピック行は、どうなるんだと、思いかえし、「オイ、それじゃア、交番に行こう」と強く言いました。「行くとも! さア行こう」たけりたった相手は、ぼくの
肩を
掴みます。振りきったぼくは、ええ
面倒とばかり十銭
払ってやりました。「ざまア見ろ」とか
棄台詞を残して車は行きました。ぼくは、前より余計しょんぼりとなって玄関の
閾をまたいだのです。
気の強い母は、ぼくの顔をみるなり、
噛みつくように、「あったかえ」と訊ねました。ぼくは無言で、荷物のところへ行くと、蒲団はすでに
畳んで、
風呂敷が、上に
載っています。どうしていいか分らなくなったぼくは、空の風呂敷をつまんで、振って、捨てると、ただ、母の
怒罵をさける為と、万一を心頼みにして、「やっぱり合宿かなア。もう一度、捜してくらア」と留める母をふりきり、家を出ました。勝気な母も、やっぱり女です、兄が夜業でまだ帰りませんし、「困ったねエ」を連発していました。
ぼくはまた、自動車で、渋谷から
向島まで行きました。熱が出たようにあつい額を押え、
憤りと
悔いにギリギリしながら、艇庫につき、念を入れてもう一回、押入れなぞ改めてはみましたが夜も
更け、
人気のない二階はたださえ、がらんとして、いよいよ、もう駄目だ、という想いを強めるだけです。
ぼくは二階の
廊下を歩き、屋上の
露台のほうへ登って行きました。眼の下には、
鋭い
舳をした
滑席艇がぎっしり横木につまっています。そのラッカア
塗りの船腹が、
仄暗い電燈に、丸味をおび、つやつやしく光っているのも、
妙に心ぼそい感じで、ベランダに出ました。遥か、
浅草の
装飾燈が赤く
輝いています。時折、
言問橋を自動車のヘッドライトが
明滅して、行き過ぎます。すでに一
艘の船もいない
隅田川がくろく、
膨らんで流れてゆく。チャップチャップ、船台を洗う波の音がきこえる、ぼくは
小説めいた気持でしょう、死にたくなりました。死んだ方が楽だと、感じたからです。
大体が、文学少年であったぼくが、ただ、身体の大きいために選ばれて、ボオト生活、約一箇年、「昨日も、今日も、ただ水の上に、陽が
暮れて行った」と日記に書く、気の弱いぼくが、それも一人だけの、
新人として、
逞しい先輩達に
伍し、
鍛えられていたのですから、ぼくにとっては肉体的の苦痛も、ですが、それよりも、精神的なへばりのほうが我慢できなかった。
ぼくは、ボオトのことばかりでなく、日常生活でも、することが一々
無態だというので、先輩達にずいぶん叱られた。叱られた上に馬鹿にされていました。ぼくみたいに、弱気な人間には、ひとから
侮辱されて
抵抗の手段がないと
諦め切る時ほど、悲しい事はありません。なにをいっても、
大坂は
怒らない、と先輩達は感心していましたが、怒ったら、ボオトを
止めるよりほかに手段がない。また、そうしてボオトを止めるのは、ぼくのひそかに
傲慢な
痩意地にとって、自殺にもひとしかった。
それで、背広を失くした苦痛に、加えて、こうした先輩達の罵声が、どんなに
辛辣であろうかと、思っただけでもたまりません。
蔭口や皮肉をとばす、整調森さんの意地悪さ、面とむかって「ぶちまわすぞ」と
威かす五番松山さんの
凄まじさ、そうした予感が、
堪えがたいまでに、ちらつきます。またそうした先輩達の
笞から、いつも
庇ってくれるコオチャアやO・B達に対しても、ぼくの過失はなお済まない気がします。
悶え悶え、ぼくは
手摺によりかかりました。
其処は三階、下はコンクリイトの土間です。飛び降りれば、それでお
終い。思い切って、ぼくは、頭をまえに突き出しました。ちょうど手摺が
腰の辺に、あたります。
離れかかった足指には、力が
一杯、入っています。「神様!」ぼくは泣いていたかもしれません。しかし、その
瞬間、ぼくが
唾をすると、それは落ちてから
水溜りでもあったのでしょう。ボチャンという、
微かな音がしました。すると、ぼくには、不意と、なにか死ぬのが
莫迦々々しくなり、
殊に、死ぬまでの痛さが身に
沁みておもわれ、いそいで、足をバタつかせ、圧迫されていた腸の
辺りを、まえに
戻しました。いま考えると、可笑しいのですが、そのときは満天の星、銀と輝く、美しい夜空のもとで、ほんとに困って死にたかった。
そんな簡単に、自殺をしようと考えるのには、多分、
耽読した小説の
悪影響もあったのでしょう。ぼくは冷たい風が
髪をなぶるのに、やッと気がつきかけたが、もうなんとしても、背広は出てこないという点に、考えがぶつかると、やはり死の容易さに、
惹かれてゆきます。ぼくは、なにか、ほかの方法で死にたいと、思いました。身投げは泳げるし、鉄道自殺は汚い、ああ、もう、と目茶苦茶な気持に駆りたてられ、合宿横にある交番に、さしかかると、「オイ」と
巡査に呼び
咎められました。それ
迄は、これから、向島の待合に行って、芸者と遊んだ末、無理心中でもしようかという虫の良い
了見も起しかけていたのですが、ハッと冷水をかけられた気が
致しました。
こんな夜
遅く、学生がへんな
恰好でうろついていたからでしょう。巡査は、ぼくの
傍にきて、じっとみつめてから、なんだという顔になり、「ああ君はWの人じゃないか」といい、大学の艇庫ばかり並んでいる
処ですから、ボオト選手の日頃の行状を知っていて、「いいねエ、君等は、飲みすぎですか」と笑いかけます。ぼくの
蒼ざめた顔を、酒の
故とでも思ったのでしょう。照れ
臭くなったぼくは、折から来かかった円タクを呼びとめ、また、渋谷へと命じました。
家に着いたぼくは、なにもいわず、ただ「ねかしてくれ」と頼んだそうですが、あまり顔色と眼付が変なのに、心配した母は、すぐ、叱りもせずに、
床をしいてくれました。翌朝、眼の覚めたときは、もう十時過ぎでしたろう。
枕もとの
障子一面に、
赫々と陽がさしています。「ああ、気持よい」と手足をのばした
途端、
襖ごしに、
舵手の清さんと、母の声がします。ぼくの胸は、直ぐ、一杯に
塞がりました。
もう寝たふりをして置こうと、夜着をかぶり、
聴きたくもない話なので、耳を塞いでいると、そのうち、また
眠ってしまったようです。あの頃は、よく眠りました。練習休みの日なぞ、家に帰って、食べるだけ食べると、あとは、丸一日、眠ったものです。それ程、心身共に、疲れ果てていたのでしょう。ところが、やがて、「やア、
坊主、ねてるな」という兄の親しい笑い声と、同時に、夜着をひッぱがれました。二十歳にもなっているぼくを、坊主なぞ呼ぶのは、可笑しいのですが、早くから、父を失い、いちばん末ッ子であったぼくは、家族中で、いつでも
猫ッ
可愛がりに愛されていて、身体こそ、六尺、十九貫もありましたが、ベビイ・フェイスの、
未だ、ほんとに子供でした。
ぼくの蒲団をまくった兄は、母から事情をきいたとみえ、
叱言一ついわず、「馬鹿、それ位のことでくよくよする
奴があるかい。さア、一緒に、洋服を作りに行ってやるから、起きろ、起きろ」とせかしたてるのです。ぼくは途端に、「ほんと」と飛び起きました。兄は会社関係から、日本毛織の販売所に、親しいひとがいて、特に、二日で間に合うように頼んでやる、というので、ぼくは
大慌てに、
支度を始めました。
あとになって、
判ったのですが、この朝、老いた母は、六時頃に起きて、合宿まで行ってくれ、また合宿では、清さんがひとり、明方に帰って来ていて、母から話をきくと、一緒に、家まで様子を見にきてくれたとのことでした。清さんは、ぼくを落着くまで、静かにほって置いたほうが好いだろう。背広のことは、コオチャアや監督に、よく話をしておきます。災難だから、仕方がない。明朝、出発のときは、ブレザァコオトをきて
颯爽と出て来るように言って下さい。なアに、学生服で、あちらに行ったって、
差支えないでしょう、と言い置いてくれた
由。兄は、その頃、すでに、共産党のシンパサイザァだったらしいのですから、ぼくや母の
杞憂は、てんで茶化していたようでしたが、さすがに、一人の弟の
晴衣とて心配してくれたとみえます。母といい、兄といい肉親の愛情のまえでは、ひとことの文句も言えません。
服は
仮縫いなしに、ユニホォムと同色同型のものを、
出帆の時刻までに、間に合してくれることになりましたが、やはり出来てきたのは少し違うので、ぼくはこの為、旅行中、背広に関しては、いつも顔を赤らめねばなりませんでした。
出発の朝、ぼくは
向島の古本屋で、
啄木歌集『悲しき
玩具』を買い、その
扉紙に、『はろばろと海を
渡りて、
亜米利加へ、ゆく朝。
墨田の
辺りにて求む』と書きました。
それから、合宿で、
恒例のテキにカツを食い、
一杯の冷酒に
征途をことほいだ後、晴れのブレザァコオトも
嬉しく、ほてるような気持で、旅立ったのです。
あとは、
御承知のようなコオスで、大洋丸まで
辿りつきました。文字通りの
熱狂的な歓送のなか、名も知られぬぼくなどに
迄、サインを
頼みにくるお
嬢さん、チョコレェトや
花束などをくれる女学生達。旗と、人と、
体臭と、
汗に、
揉れ揉れているうち、ふと、ぼくは狂的な笑いの
発作を、
我慢している自分に気づきました。
勿論、こんなに
盛大に見送って頂くことに感謝はしていたのです。ことに、京浜間に多い工場という工場の、窓から、
柵から、
或いは屋根にまで登って、日の丸の旗を
振ってくれていた職工さんや女工さんの、
目白押しの純真な姿を、汽車の窓からみたときには、思わず
涙がでそうになりました。
しかし、例の狂的な笑いの発作が、船に乗って、多勢の見送り人達に、身動きもならないほど囲まれると、また、我慢できぬほど
猛烈に、起ってきて、ぼくは教わったばかりの
船室にもぐりこみ、思う存分、笑ってから、再びデッキに出たのです。
昔、教えて頂いた中学、学院の諸先生、友人、
後輩連も来ていてくれました。
銅鑼が鳴ってから一件の背広を届けに、兄が、母の表現を借りると、スルスルと
猿のように、人波をかきわけ登ってきてくれました。これは帰朝してから、聞いたことですが、故郷
鎌倉での
幼馴染の少年少女も来ていてくれたそうです。なかでも、
波止場の
人混みのなかで、押し
潰されそうになりながら、
手巾をふっている老母の姿をみたときは
目頭が熱くなりました。周囲に、家の下宿人の親切な人が、二人来ていてくれたので安心しながら、ぼくは、兄が買ってくれたテエプを
抛りましたが、なかなか母にとどきません。
女学生の一群にとび
込んだり、学校の友人達の手にはいったりしても、母にはとどかないのです。その内、
漸く、一つが、母の近くの、サラリイマン風の人に取られたのを、下宿人のHさんが話して、母に渡してくれました。少しヒステリイ気味のある母は、テエプを
握り、しゃくり上げるように泣いていました。あまり泣くのをみている内、なにか、ホッとする気持になり、左右を
見廻すと、
大抵の選手達が、
誰でも一人は、若い女のひとに来て
貰っている、花やかさに見えました。
ぼく達のクルウでも、
豪傑風な五番の松山さん迄が、見知り越しのシャ・ノアルの女給とテエプを
交しています。
殊に
美男な、六番の東海さんなんかは、テエプというテエプが
綺麗な女に握られていました。肉親と男友達の情愛に、見送られているぼくは幸福には
違いありません。が、母には
勿体ないが、
娘さんがひとり
交っていて、
欲しかった。
その
淋しい気持は
出帆してからも続きました。見送りの人達の
影も波止場も
霞み、港も燈台も
隔たって、歓送船も帰ったあと、花束や、テエプの散らかった
甲板にひとり、島と、
鴎と、波のうねりを、
見詰めていると、もはや
旅愁といった感じがこみあげて来るのでした。
出発時の
華やかな空気はそのまま、船を包んで――ぼく達のクルウにも残っていました。朝のデンマアク体操も、B甲板を廻るモオニング・ランも、午前と午後のバック台も棒引も、隅田川にいるときとは比べものにならないほど楽だったし、
皆も、向うに着くまではという気が、いくらかはあったのでしょう。東海さんや、補欠の有沢さんを中心とする
惚け話や、森さんや松山さんを囲んでの
色話も、
盛んなものでした。
合宿の頃から、ずうッと一人ぼっちだったぼくは、多勢の他テイムのなかに
雑ると、余計さびしく、出帆してから二三日、練習以外の時間は、ただ甲板を散歩したり、船室で、啄木を読んだり、船室が、相部屋の松山さん、沢村さんに
占領されているときは、
喫煙室で、母へ手紙を書いたりしていました。
故国を離れてから三日目、ぼくは
恥かしい白状をしなければなりません。
無暗に淋しくなったぼくはスモオキング・ルウムの
片隅で、とても非常識な手紙を書こうとしていたのです。無論、書きかけただけで、実行はしませんでしたが、その前年の夏、鎌倉の海で、
一寸遊んだ、文化学院のお嬢さんに、ラブレタアを書いてやろうと思ったのです。返事は多分、向うに着いて貰えるだろうと思いましたが、その、
円らな
瞳をした、お嬢さんには、すでに
恋人があったかも知れないとおもうと、気恥かしくなって来て、
止めにしました。
やはり、あなたと初めてお
逢いした晩のことは、はっきり
憶えています。
例の、食事中にはネクタイをきちんと結べ、フォオクをがちゃつかすな、スウプを飲むのに音を立てるな、
頭髪に手を
触れるな、といった
食卓作法も、まだ出発して一週間にならない、あの
頃はよく守られていました。
そうした夕食後の
一刻を、やはり
新人の
為、仲間はずれになっている、KOのフォアァの補欠で、銀座ボオイの
綽名のある、村川と、一等船客専用のA
甲板を――Aデッキを練習以外には使うな、などという規則が守られていたのは、初めの二三日でした。――ぶらついていると、「オーイ、活動が一等の食堂にあるぞオ」と
誰かが
叫んで、四五人、
駆けて行きました。「行って見ようや」とぼくは村川を
誘い、KOの二番の
柴山、
補欠の河堀とも
一緒になって、デッキを降り、食堂に入って行きますと、映画は始まっていて、代表選手の練習を集めた実写物らしく女子選手のダイビングが、空中に美しい弓なりの
弧を
描いているところでした。
ぼく達、ボオトの場景が
最後を
飾り、
観ていれば、
撮影された覚えもある
荒川放水路、
蘆の
茂みも、
川面の
漣も、すべて
強烈な
斜陽の逆光線に、
輝いているなかを、エイト・オアス・シェルの
影画が、キラキラする水を
鋭く切り、
凄まじい速さで、進んでゆくのでした。影画のようなオォルでも、上げれば、
水泡と、
飛沫が、同時に光ります。「いいなア」と誰かが
溜息をついていました。
漕いでいれば、あんなに
辛いものでも、見ていれば
綺麗に違いありません。
映画が済んでから、またAデッキに出てみますと、太平洋は、けぶるような
朧月夜でした。
霧がすこしたれこめ、うねりもゆるやかな海面を、
眺めながら、Bデッキへの降り口にまで来たときです。甲板の反対側から、
廻ってきた、あなた達と、ぱったり一緒になってしまいました。
雀のように
喋りあっているあなた達に、村川は、「どうぞお先に」とふざけて、言いました。女子ハアドルの内田さんが、先に進みでて、「おおきに」と
澄ましたお
辞儀をしたので、あなた達は笑い
崩れる。
そのとき、全く
偶然で、すぐ前にいたあなたに、ぼくが「活動みていたんですか」ときいた。あなたは
驚いたように顔をあげて、ぼくをみた、
真面目になった、あなたの顔が、月光に、青白く輝いていた。それは、童女の
貌と、成熟した女の貌との
混淆による
奇妙な
魅力でした。
みじんも
化粧もせず、
白粉のかわりに、健康がぷんぷん
匂う清潔さで、あなたはぼくを
惹きつけた。あなたの言葉は
田舎の女学生丸出しだし、
髪はまるで、
老嬢のような、ひっつめでしたが、それさえ、なにか
微笑ましい魅力でした。
あなたは、
薄紫の
浴衣に、黄色い三尺をふッさりと結んでいた。そして、「ボオトはきれいねエ」と言いながら、
袖をひるがえして
漕ぐ
真似をした。ぼくは別れるとき、「お名前は」とか、「なにをやって居られるんですか」とか、
訊きました。そしたら、あなたは、「うち、いややわ」と急に、
袂で、顔をかくし、笑い声をたてて、バタバタ駆けて行ってしまった。お友達のなかでいちばん背の高いあなたが、子供のように
跳ねてゆくところを、ぼくは、
拍子抜けしたように、ぽかんと眺めていたのです。その
癖、心のなかには、
潮のように、温かいなにかが、ふツふツと
沸き、
荒れ
狂ってくるのでした。
船室に帰ってから、ぼくは大急ぎで、選手
名簿を引き出し、女子選手の
処を、探してみました。すると、あなたの顔ではありますが、全然、さっきの魅力を失った、ただの田舎女学生の、
薄汚く取り澄ました、
肖像が発見されました。そこに (熊本秋子、二十歳、K県出身、N体専に在学中種目ハイ・ジャムプ記録一
米五七)と出ているのを、何度も読みかえしました。なかでも、高知県出身とある偶然さが、
嬉しかった。ぼくも高知県――といっても、
本籍があるだけで、行ったことはなかったのですが、それでも、この次、お逢いしたときの、話のきっかけが出来たと、ぼくには嬉しかった。
翌朝から、ぼくは、あなたを、先輩達に言わせれば、まるで犬の様につけまわし出しました。船の頂辺のボオト・デッキから、船底のCデッキまで、ぼくは
閑さえあると、くるくる廻り歩き、あなたの姿を追って、一目遠くからでも見れば、満足だったのです。
その晩、B甲板の船室の
蔭で、あなたが
手摺に
凭れかかって、海を見ているところを、みつけました。
腕をくんで背中をまるめている、あなたの緑色のスエタアのうえに、お下げにした
黒髪が、
颯々と、風になびき、
折柄の月光に、ひかっていました。
勿論ぼくには、
馴々しく、
傍によって、声をかける
大胆さなどありません。
只、あなたの横にいた、柴山の
肩を
叩き、「なにを見てる」と
尋ねました。それは、あなたに言った積りでした。柴山は、「海だよ」と答えてくれました。ぼくも
船板から、見下ろした。真したにはすこし風の強いため、
舷側に
砕ける
浪が、まるで
石鹸のように
泡だち、
沸騰して、飛んでいました。
次の晩、ぼくが、二等船室から
喫煙室のほうに、階段を
昇って行くと、上り口の右側の部屋から、
溌剌としたピアノの音が、流れてきます。“春が来た、春が来た、野にも来た”と
弾いているようなので、そっとその部屋を
覗くと、あなたが、ピアノの前にちんまりと腰をかけ、その傍に、内田さんが立っていました。
二人は、覗いているぼくに気づくと、顔を見合せ、花やかに、笑いだしました。その花やいだ笑いに、つりこまれるように、ぼくは、その部屋が男子禁制のレディスルウムであるのも忘れ、ふらふらと入り
込んでしまいました。あなた達は、
怪訝な顔をして、ぼくを見ています。ぼくも入ったきり、なんとも出来ぬ、
羞恥にかられ、立ちすくんでしまった。
すると、あなた達はそそくさ、部屋を出て行きました。ぼくも、その後から、急いで
逃げだしたのです。
翌晩、船で、簡単な
晩餐会があって、その席上、選手全員の自己紹介が行われました。なにしろ元気一杯な連中ばかりですから、溌剌とした
挨拶が、食堂中に
響き
渡ります。
槍の
丹智さんが女にしては、堂々たる声で、「槍の丹智で
御座います」とお
辞儀をすると、TAをCHIと
聴き
違え
易いものですから、男達は、どっと笑い出しました。ぼくには、大きな体の丹智さんが、
呆気にとられ、
坐りもならず、立っているのが、その時には、ほんとうにお気の毒でした。いつもなら、
無邪気に笑えたでしょう。が、あなたの上に、すぐ考えて、それが
如何にも、女性を
穢す、許されない
悪巫山戯に、思えたのです。
ぼくの番になったら、美辞
麗句を連ね、あなたに認められようと思っていたのに、
恥かしがり屋のぼくは、口のなかで、もぐもぐ、
姓と名前を言ったら、もうお
終いでした。
あなたの番になると、あなたは、
怖じず
臆せず明快に、「高飛びの熊本秋子です」と名乗って着席しました。ぼくには、その人怖じしない態度が好きだった。
それから何日、
経ったでしょう、ぼくはその間、どうしたらあなたと友達になれるかと、そればかりを考えていました。前にも言ったとおり、恥かしがりで
孤独なぼくには、なにかにつけ、目立った
行為はできなかった。
ある夜、船員達の
素人芝居があるというので、
皆一等食堂に行き、すっかりがらんとしたあとぼくがツウリスト・ケビンの間を歩いていますと、
仄明るい
廊下の
端れに、月光に輝いた、実に
真ッ
蒼な海がみえました。と、その間から、ひょいと、あなたの顔が、覗いてひっこんだのです。ぼくは我を忘れ駆けて行ってみました。すると、手摺に
頬杖ついた、あなたが、一人で月を
眺めていました。月は、横浜を
発ってから大きくなるばかりで、その夜はちょうど
十六夜あたりでしたろうか。太平洋上の月の
壮大さは、
玉兎、銀波に映じ、といった古風な形容がぴったりする
程です。満々たる月、満々たる水といいましょうか。
澄みきった天心に、
皎々たる
銀盤が一つ、ぽかッと
浮び、
水波渺茫と
霞んでいる
辺りから、すぐ眼の前までの一帯の海が、限りない
縮緬皺をよせ、洋上一面に、金光が、ちろッちろッと走っているさまは、
誠に、もの
凄まじいばかりの景色でした。
ぼくは
一瞬、
度胆を
抜かれましたが、こんな景色とて、これが、あの背広を失った晩に見たらどんなにつまらなく見えたでしょうか。いわばあなたとの最初の
邂逅が、こんなにも、海を、月を、夜を、
香わしくさせたとしか思われません。ぼくは胸を
膨らませ、あなたを見つめました。
その夜のあなたは、また、
薄紫の
浴衣に、黄色い三尺帯を
締め、髪を左右に編んでお下げにしていました。
化粧をしていない、小麦色の
肌が、ぼくにしっとりとした、落着きを
与えてくれます。顔つき合せては、恥かしく、というより、何も彼にもが、しろがね色に光り輝く、この
雰囲気のなかでは、
喋るよりも
黙って、あなたと、海をみているほうが、
愉しかった。
随分、長い間、
沈黙が続いた後で、ぽつんとぼくが、「熊本さんも、高知ですか」と
訊ねました。あなたは
頷いてから、「坂本さんは、高知の、どこでしたの」と言います。「いや、高知は両親の生れた所ですけれど、まだ知りません。ずっと東京です」「そう。高知は良い国よ。水が
綺麗だし、人が親切で」「ええ、
聴いています。母がよく、話してくれます。ほら、よさこい節ってあるんでしょう」「ええ、こんなんですわ」とあなたは、
悪戯ッ
児のように、くるくる動く
黒眼勝の、
睫の長い
瞳を、輝かせ、
靨をよせて
頬笑むと、
袂を
翻えし、かるく
手拍子を打って『土佐は良いとこ、南を受けて、
薩摩颪がそよそよと』と小声で歌いながら、ゆっくり、
踊りだしました。
ぼくが
可笑しがって、
吹出すと、あなたも声を立てて、笑いながら、『土佐の高知の、
播磨屋橋で、
坊さん、
簪、買うをみた』と
裾をひるがえし、
活溌に、踊りだしました。文句の
面白さもあって、踊るひと、
観るひと共に、大笑い、天地も、
為に笑った、と言いたいのですが、これは白光
浄土とも呼びたいくらい、
荘厳な月夜でした。
しかし、その月光の
園の
一刻は、長かったようで、
直ぐ終ってしまいました。それは、あなたの友達の内田さんが、船室の蔭から、ひょッこり姿を、現わしたからです。内田さんも、あなたの様子にニコニコ笑って来るし、ぼく達も、笑って
迎えましたが、ぼくにとっては月の光りも、一時に、
色褪せた気持でした。
それから、三人
揃って、
芝居を見に行きました。なにをやっていたか、もう忘れています。多分、
碌々、見ていなかったのでしょう。ぼくは別れて、後ろの席から、あなたの、お下げ
髪と、内田さんの赤いベレエ
帽が、時々、動くのを見ていたことだけ
憶えています。
それからの日々が、いかに幸福であったことか。
未だ、
誰にも気づかれず、ぼくはあなたへの愛情を育てていけた。ぼくはその
頃あなたと顔を合せるだけで、もう満ち足りた気持になってしまうのでした。朝の楽しい
駆足、Aデッキを
廻りながら、あなた達が一層下のBデッキで、デンマアク体操をしているのが、みえる
処までくると、ぼくはすぐあなたを見付けます。
なかでも、長身なあなたが、若い
鹿のように、
嫋やかな、ひき
緊った肉体を、リズミカルにゆさぶっているのが、次の一廻り中、眼にちらついています。今度、Bデッキの上を駆ける頃になると、あなたは、海風に髪を
靡かせながら、いっぱいに腕を開き、張りきった胸をそらしている。その
真剣な顔付が、また、次の一廻り中、眼の前にある。その次、Bデッキの上まで来るとあなたは腕をあげ
脚を思い切り
蹴上げている、というように、以前は、
嫌いだった駆足も、駆けている間中、あなたが見えるといった
愉しさに変りました。
それからすっかり腹を
空かした朝の食事、オオトミイルに牛乳をなみなみと注いで、あなたを見ると、
林檎を
丸噛りに
頬張っているところ、なにかふっと笑っては、自分に照れ、
俯いてしまいます。(よく、食うなア)と、あなたに言った積りですが、案外、自分のことでしょう。
朝飯を食うと午前中の練習で、八時半から十一時頃まで、ボオト・デッキと
体育室の前に置いてあるバック台を、まず、三百本以上は、
定まって引きました。大体、三番の
梶さんと、四番のぼくは
並んで引くのが原則ですが、
下手糞な
為、時々、五番の松山さんや整調の森さんとも引きます。ぼくは、
胴が長くて、上体が重く、いつも
起上りが、おくれて、
叱られるのですが、あの数日は、すばらしい好調でした。
いつもは
隣のバック台に、合わそうとすればする
程合わないのが、その頃は合わそうとしないでも、いつの間にかチャッチャッとリズムが出てくるのです。身も心も
浮々していて、
普段は
音痴のぼくでも、ひどく音楽的になれたのでしょう。そのリズムに乗ってしまえばしめたもので、カタンと足で蹴り身体を
倒した
瞬間、もう上半身は起き上がり、スウッと身体は前に出てゆきます。手首をブラッと
突きだし、全身が倒れた反動で、ひとりでに進むのをゆるくセエブしながら、みはるかす眼下ひろびろと、日に輝く太平洋が
青畳のように
凪いでいるのを見るのは、まことに気持の
好いものです。
そんな時、
監督に廻って来た総監督の西博士が、コオチャアの黒井さんに、「みんな、坂本君位、身体があれば大したものだなア」と
褒めて下さるのを聞くと、いつもクルウの
先輩連からは、「大きな身体を、持てあましていやがって――」など言われているだけに、思わず、ハッとあがってしまい、
又、普段の地金が出るのではないかと固くなるのでした。
ある日、バック台を引いたあとで、腕組みをしながら、あとの人達のやるのを見ていて、ひょいと眼をあげると、あなたの
汗ばんだ顔が、体育室の円窓越しに、
此方を
眺めていました。ぼくは
直ぐ、
恥かしくなって、視線をそらせようとすると、あなたも、
寂しいくらい白い歯をみせ、笑うと、窓
硝子をトントン
拳で
叩く
真似をしてから、身をひるがえし逃げてゆきました。
それからと
云うものは、ぼくは、バック台をひきながらも、背後の体育室のなかで、かすかに、モーターの廻り出す音でも、聞えると、あなたが来ているかなと、胸が
昂まるのでした。
いつでしたか、いちばん後まで残り、バック台を
蔵ってからも、皆、降りて行ってしまうまで海を眺めるふりをし、誰もいなくなってから、体育室に入ってみました。
すると、あなたと、内田さんが、木馬に乗って、ギッコンギッコンと
凄まじい速さで、上がったり下がったりしています。おまけに、あなた達はパンツ一枚なのですから、
太股の紅潮した筋肉が張りきって、プリプリ律動するのがみえ、ぼくはすっかり
駄目になり、ほうほうの
態で、
退却したことがあります。
午後は、ぼく達の棒引が終ってから、あなたがたの練習をみるのが、また楽しみでした。
殊に、あなたのアマゾンヌの様な、トレエニング・パンツの姿が、A甲板の端から此方まで、風をきって
疾走してくる。それも、ひどく真剣な顔が汗みどろになっているのが、一種異様な美しさでした。
(
視よ、わが愛する者の姿みゆ。視よ、山をとび、
丘を
躍りこえ来る。わが愛する者は

のごとく、また小鹿のごとし)
紫紺のセエタアの胸高いあたりに、
紅く、Nippon と
縫いとりし、
踝まで同じ色のパンツをはいて、足音をきこえぬくらいの速さで、ゴオルに躍りこむ。と、すこし
離れている、ぼくにさえ聞えるほどの
激しい
動悸、
粒々の汗が、小麦色に
陽焼けした、豊かな
頬を
滴り、黒いリボンで結んだ、髪の乱れが、
頸すじに、汗に
濡れ、
纏りついているのを、無造作にかきあげる。
七番の坂本さんが、ぼくの
肩を叩いて、「すごいなア」という。あなたの真剣さに、感動したのでしょう。「ええ」と
領きながら、ぼくはふいと目頭が熱くなったのに、自分で
驚き、汗を
拭うふりをすると、
慌てて船室に駆け降りました。
舷では、
槍の丹智さんが、大洋にむかって、
紐をつけた、槍を投げています。ブンと風をきり、五十
米も海にむかって、突き刺さって行く槍の
穂先きが、波に
墜ちるとき、キラキラッと陽に
眩めくのが、
素晴しい。と、上の甲板からは、ダイビングの女子選手が、胴のまわりを、
吊鐶で
押えたまま、空中に、さッと飛びこむ。アクロバットなどより
真面目な美しさです。
と、また、男達のほうでも、ボクサアは、
喰いつきそうな形相で、サンドバッグを叩いていますし、レスラアは、筋肉の
塊りにみえる、すさまじさで、ブリッジの練習。体操の選手は選手で、
贅肉のない
浮彫のような体を、平行棒に、
海老上がりさせては、くるくる廻っています。おおかた上のプールでは、水泳選手の
河童連が、
水沫をたてて、浮いたり
沈んだり、ウォタアポロの、球を
奪いあっているのでしょう。
それでありながら、古代ギリシャ、ロオマの
巨匠達が発見した、人間の文字通り具体的な、観念に
憑かれぬという意味での美しさが、百花
撩乱と咲き乱れておりました。
しかしながら、その中に育った、ぼく達の愛情は、肉体の
露わにみえる処に、あればあるほど肉体的でない、まるで
童話の
恋物語めいた、静かさでありました。あなたと語り合うことは、
恐ろしく、眼を
見交すことが、楽しく、
黙して身近くあるよりも、ただ訳もなく
一緒に遊んでいるほうが、
嬉しかったのです。
夜の食事のときなど、メニュウが、手紙になったり、先の方に絵葉書がついていたりします。ぼくはその上に書く、あなたへの、愛の手紙など空想して、コオルドビイフでも
噛んでいるのです。メニュウには、
殆ど
錦絵が
描かれています。
歌麿なぞいやですが、
広重の富士と海の色はすばらしい。その
藍のなかに、とけこむ、ぼくの文章も青いまでに美しい。ところで、あなたはパセリなど
銜えながら、時々こちらに、ちらっと笑いかけてくれるのでした。
夜は、
概して平安一路な航海、月や星の美しい甲板で、
浴衣がけや、スポオツドレスのあなたが、近くに
仄白く浮いてみえるのを、意識しながら、照り輝く
大海原を、眺めているのは、また幸福なものでした。
なかでも、わけて愉しかったのは、昼食から三時までの練習休みの時間、
大抵のひとが暑さにかまけて、
昼寝でもしているか、
涼しい船室を選んで
麻雀でも
闘わしているのに、ぼくは
炎熱で
溶けるような甲板の上ででも、あなたや内田さんと、デッキ・ゴルフや、シャブルボオドをして遊んでいれば、暑さなど、
想ってもみない、楽しさで
充実した時間でした。
飯を食うと、ぼくは直ぐAデッキに出て、コオチャア黒井さんが昼寝している横の、デッキ・チェアに
腰を降し、
瀝青のように、たぎった海を見ています。
暫く
経ってから、黄色いブラウスに白いスカアトをはいた、あなたと、赤いベレエ帽に、紺の
上衣を着た内田さんとが、笑いながらやって来ます。内田さんは、ぼくに、「ぼんち、デッキ・ゴルフやろう」と言ってから、今度は黒井さんの手をひっぱって、無理に起します。黒井さんは、「ああァ」と
大欠伸をしてから、周囲をみまわし、「
大坂とか、よし、また、ひねってやろう」とゆっくり立ち上がるのでした。
そこで、あなたと内田さんの組と、ぼくと黒井さんの組が対抗してゲエムを始めます。ぼくにとって、勝負なぞ、初めは、どうでも好いのですが、やはり良い当りをみせて、あなたの持ち輪を
圏外の
溝のなかに、叩き落したときなぞ、思わず快心の
笑みがうかぶ、得意さでした。
ことに、ぼくをいつも
庇護してくれる黒井さんが、そういうとき、「うまい」と一言、
褒めてくれるのが、ふだんクルウの先輩達が、ぼくをまるで、運動神経の
零なように、コオチャアに言いつけているのを知っているだけ、とても嬉しかったのです。
勿論、あなた達のほうでも、ぼく達を負かしたときには、手を叩いて、嬉しがっていた。勝負の面白さが、
純粋に勝負だけの面白さで、その時には、恋も、コオチャアも、女も、利害も、過去も未来もなかったのです。
後年、ぼくは、
或る女達と、もっと
恋愛らしい肉体的な交際を結びました。しかし、それが、
所謂恋愛らしい、形を採ればとるほど、ぼくは恋愛を
装って、実は、損得を計算している自分に気づくのでした。
おもうに、あのとき、燃える空と海に包まれ、そして、焼きつくような日光をあびた甲板に、勝っているときは嬉しく、負けたときは
口惜しく、遊びの楽しさの
他には、なにもなかった。ぼくは、本当に、黄金の日々を過していたのでした。
もう、あの日当りでのデッキ・ゴルフの愉しさは、書くのを
止めましょう。もっと、純粋な愉しさがあって、書けば書くほど、
嘘になる気がします。
しかし、この黄金の書に、ものを書く時間は短かく、これと殆ど同時に、ぼくには、大きな不幸が
忍びよって来ていました。それは、まず第一に、ほかの人間達が、ぼく等の友情のなかに、
影を落して来だしたことです。次には、ぼく達が、他の人達に注目されるほど、仲良くなって行ったことです。
ある日、写真機を持出した村川が、ぼくを呼んで、あなたと内田さんの写真をとるから
誘うてきてくれ、と言います。ぼくが「いやだ」と断ると、「なんでい、熊本は、お前のいう事なら、きくよ」と笑います。
結局、あなた達の写真を
貰える
嬉しさもあり、白地に、
紫の
菖蒲を散らした
浴衣をきたあなたと、
紅いレザアコオトをきた内田さんを、ボオト・デッキの
蔭に、ひっぱり出し、村川が、写真を
撮り、また、ぼくと村川の写真を、内田さんが撮りました。
二三日
経って、出来上がった写真を、
交換し、サインもし合っていました。あなたの顔は、眼が
円く、鼻がちんまりして、色が黒く、いかにも、漁師の
娘さんといった風だし、内田さんの顔は、また、色っぽい美人の
猫、といった感じに撮れていたので、
皆で、それを指摘し合っては、
騒々しく笑っていると、東海さんが通りかかり、ものも言わず、写真をとり上げ、
一寸見るなり、「フン」と鼻で笑って、
抛り出し、行ってしまった。
その晩でしたか、七番の坂本さんが、女子選手のブロマイドを買い、皆に見せながら、一々名前をきいていましたが、なかに分らないのがあって、誰か、
名簿を取りに立とうとすると、東海さんが、
突然、大声で、「
大坂に聞けよ。大坂は、女の選手のことなら、とても
詳しいんだ」といいます。昼間の写真のことだなと、ぼくは胸に
応えました。すると、松山さんが、「ほう、
大坂はそんなに、女子選手の
通なんか」といったので、皆、笑いだしたけれど、ぼくには、そのときの、
誰彼の皮肉な目付が、ぞっとするほど、
厭だった。
又ある日、ぼくが、練習が済み、水を貰おうと、食堂へ降りて行くと、入口でぱったり、あなたと同じジャンパアの中村さんに、
逢いました。と、十六
歳のこの女学生は、突然、ぼくの顔を
覗きこむように、「うちの写真、貰ってくれやはる」といいます。
驚いて、まじまじしているのに、「ここで待っててね」といいざま、
子栗鼠のような素早さで、とんで行き、ぼくが
椅子に
腰かける間もなく、ちいさい中村さんは、息をきり、ちんまりした鼻の頭に
汗を
掻き、
駆け
戻って来ると、ぼくの
掌に、写真を
渡し、また駆けて行ってしまいました。
あとでみた、写真には、ハアト形のなかに、お
澄しな
田舎女学校の三年生がいて、おまけに
稚拙なサインがしてあるのが、いかにも
可愛く、ほほ笑んでしまった。
当時、すこし
自惚れて、考え
違いしていましたが、これは多分、同室のあなた達が、ぼくや村川の写真を、中村さんにみせたので、少女らしい競争心を出し、まず、ぼくに写真をくれたのでしょう。
その後、
暫くしてから、「坂本さん、ボオトの写真、うち、
欲しいわ」と女学生服をきた
彼女から、兄貴にでもねだるようにして、せがまれました。「いやだ」というと、「熊本さんにはあげた
癖に――」と、口をとがらせ、イィをされたので、驚いたぼくは、バック台を引いている写真をやってしまいました。
こうした風に、段々、へんな
噂がたつのに加えて、人の
好い村川が、無意識にふりまいた、デマゴオグも、また相当の
反響があったと思われます。
未だ、ませた中学生に過ぎなかった彼としては、自分が、いかに女の子と親しくしているかを、大いに、みせびらかしたかったのでしょう。それだけ、ぼくより、
無邪気だったとも、言えますが、ぼくにしてみれば、彼が、あなた達、女子選手をいかにも、中性の化物らしく
批評し、「熊本や、内田の
奴等がなア」 と二言目には、あなた達が、村川に交際を求めるような
口吻を
弄し、やたらに、写真を撮らしたり、ぼく達四人の交友を、
針小棒大に言い
触らすのをきいては、
癪に
触るやら、心配やら、はらはらして
居りました。
しかし、これは、人間の本能的な弱さからだと、ぼくには許せる気になるのでしたが、同時に、誰でもが持っている
岡焼き根性とは、いっても、クルウの先輩連が、ぼくに
浴びせる
罵詈讒謗には、
嫉妬以上の悪意があって、当時、ぼくはこれを、気が変になるまで、
憎んだのです。
その
頃、整調でもあり主将もしている、クルウでいちばん年長者の森さんは、ぼくをみると、すぐこんな皮肉をいうのでした。「
大坂は、熊本と、もう何回
接吻をした」 とか 「お
尻にさわったか」とか、
或いは、もっと悪どいことを
嬉しそうにいって、
嘲笑するのでした。
七番のおとなしい坂本さんまでが、「
大坂は秋ちゃんと仲が良いのう」とひやかし半分に、ぼくの
肩を
叩きます。六番の美男の東海さんは「
螽
みたいな、あんな女のどこが好いのだ。おい」と、ぼくの面をしげしげとのぞいて
尋ねます。五番の
柔道三段の松山さんは、「
腐れ女の尻を、犬みたいに追いまわしやがって――」とすごい
剣幕で
睨みつけます。三番の、もとはぼくを
正選手に引張ってくれた、沢村さんまでが、「あんな女のどこが好いかのう。女が
珍しいのじゃろう。不思議だのう」と、みんなに
訊ねるようにするのが
癖でした。二番の
虎さんは、広い胸幅を
揺りあげ、その話をするときは、ぼくを見ないようにして、「でれでれしやがって」と、
忌々しそうに、
痰を
吐きとばします。この態度が、むしろ、好きでした。
舳手の梶さんは、ぼくの次に、新しい選手ですし、それに、七番の商科の坂本さん、二番の専門部の虎さんと共に、クルウの政経科で固めた中心勢力とは、派が合わぬだけ、別に何んともいわず、皆と
一緒にいるときは、
軽蔑した風をしていますが、ひとりで逢うと、時々、「おおいに、若いときの
想い
出をつくれよ」とか、文科の学生らしく、
煽動してくれました。こうして、好意とまでゆかないでも、気にしないでいてくれる、梶さん、清さんのような人達もありましたが、前述したような、クルウ大方の空気は、ひがんでいるぼくにとって、もはや、クルウのなかばかりでなく、船中の誰も彼もが、白眼視しているような気になり、切なくてたまらなかったのです。
例えば、船に、横浜
解纜の際、中学の先生から紹介して貰った、Kさんという、中学で四年先輩のひとが、見習船員をしておりました。Kさんは、未だ高等商船を出たばかりで、学生気の
抜けない明るい青年で、後輩のぼくの
面倒をよくみてくれて、船の
隅々迄、案内もしてくれるし、一緒に記念
撮影などもしていました。
ところが、その頃、船の前端にある彼の部屋に、夜遊びに行ってみると、何かのきっかけで、Kさんが、「女子選手ッて、みんな、
凄いのばかりだね」といいだしました。ビクッとしたのになおも、「あれで、男の選手へ、モオションをかけるのが、いるっていうじゃないか。アッハッハ……」と大口あいて笑うのです。
その時は、てッきり、ぼくにあてこすっているのか、忠告していると取り、早々に逃げ出したのですが、それからは、なるべく、Kさんにまで逢わないようにしていました。しかし、いま考えれば、これも、ぼくのひがみだったのです。
横浜を出てから一週間も
経った
頃、朝の練習が済むと、B
甲板に、全員集合を命ぜられました。役員のひとりで、
豪放磊落なG博士が
肩幅の広い
身体をゆすりあげ、設けの席につくと、みんなをずっと
見廻したのち、
「諸君。ぼくはこんなことを、日本選手でもあり、立派な
紳士、
淑女でもある
皆さんに、お話するのは、じつに残念であるが、
止むを得ん。とにかく、本日
只今から、男子と女子の交際は、絶対にこれを禁止する。
遊ぶのは
勿論ならんし、話をしても
不可ん。今後、この規則を破るものがあったら、発見次第それぞれの所属チイムの責任者によって、処分して
貰う。
尚、その程度によっては、ホノルルなり、サンフランシスコなりに、船が着いたら、下船させてしまうぞ。スポオツマンとしての資格の欠けるものに、日本は選手として、出場して貰いたくないのだ」
日頃、太ッ腹な氏としては、
珍しく、話すのも
汚らわしいといった
激越ぶりでした。ぼくにしてみれば、話の最中ふりかえって
此方をみる、クルウの
先輩達もいるし、それでなくとも、氏の一言一句が、ただ、ぼくに向っての
叱声に聞え、かあッと、あがってしまうのでした。氏は語をついで、
「だいたい、この前のアムステルダム行の時は、このことを
怖れ、男子船と女子船とを別々に立たせたものだ、今回も前に比べれば、人数も増えているし、万一のことがあってはと心配して『男女七歳にして席を同じうせず』式の議論から、別々に立たせるのを主張する人もあったが、ぼくは、『厳粛なる
自由』を
称え、笑って、その議論を
一蹴した。諸君、もう一度、君達の胸のバッジをみたまえ。
光輝ある日の丸の下に、書かれた Japanese Delegation の文字は、
伊達では、ねエんだろ。
俺は今朝、ある
忌わしい場面を、この船の事務員が見たとか、いう話をきいたときは、初めは話のほうが信用できなかった。
否、今でも、そんな話は信用しとらん。
しかし、こういっただけで、
若し、その事実ありとしても、その当人達は、
充分、
自戒してくれると思う。
頼むから諸君、二度と俺にこんなことを、言わさないでくれ。終りッ」
そういい
棄てると博士をはじめ、幹部連はさっさと
引揚げてしまいましたが、そうなると、今度はかえって、あとの
騒ぎが大変。どこにでもいる
噂好きな人達が、大声で、見てきたような
嘘をいいあったり、
猥褻な想像をしあっては喜んでいる。そのなかで、ぼく一人、また一人ぼッち、
茫然と身動きもできませんでした。
ボオトの連中はてっきり、ぼくとあなたをこの
醜聞にあて
嵌めてしまったのでしょう。森さんなんかは血相かえ、「俺達のなかで、困るのは、まあ
大坂一人位のものだな」と皮肉をいいます。松山さんは、「
大坂だけ困るんじゃねえぞ。ボオト部全体の
恥だからな」とぼくを
睨みつけます。と、東海さんが、「Gさんも、ああ言うんだし、皆でよく今後を打合せたらどうだい」と横目でぼくを見ながらいう。日頃、
寡黙なKOの主将、八郎さんまで、「よかろう」と積極的に
嘴をだします。結局、それからぼくの査問会らしきものが、皆で開かれることになりました。
尤も、あとで考えると、G博士のいった醜聞は、子供ッぽいぼく等の友情などは、問題としておらず、先夜、ある男女が、ボオト・デッキの
蔭で、
抱擁し合っていたのを、船員にみられたという噂からだったのを、すでに連中は知っていたかとも思われますが――。
皆はぞろぞろ二等のサロンに入りました。ぼくは、勢い、衆目の帰する
処です。
出帆前からの神経異常が、あなたとの
愉しい交わりに、
紛らわされてはいたが、こうした場合一度に出て来て、頭の
芯は重だるく、気力もなくなり、なにをいわれても聞いてはいずに
肯くばかりでした。
ぼくは前から、左側の
瞼だけが
二重で、右は一重瞼なのです。それを両方共、二重にする
為には、眼を大きく上に
瞠ってから、パチリとやれば、右も二重瞼になる。それを、あなたと
逢う前には、よくやって、顔を
綺麗にしようと思ったものです。その
癖がちょうど、皆から査問を受けている最中、ひょっくり出て、
瞳をパチリと動かす。
と、森さんが、「おい
大坂、
止さんか」と真ッ赤になって怒りだした。しまった。ぼくは取返しのつかない思いにうつむく。と、「どうしたんだ」松山さんが、
面白がり、声を荒げて聞いた。森さんが「
否、
厭らしいッたら、ありゃしない。
此奴ったら」と、ぼくのほうを
顎でしゃくって、「ウインクの
真似をしてやがるんだ。こんなにしてな」と、さも厭らしく
三白眼をむいてみせます。「ハハア、それがウインクてんだな。新式の――」と
補欠の佐藤が、
憎らしく、お
節介な口を出すと、皆がどッとふきだしました。
その笑いのなかで、ぼくはもう死にたい、という気がする
程、弱虫でした。まだ、松山氏は、沢村さんに向って、「こんなにするんだとよ。気味が悪い」とやって見せています。こんなふうに、皆から
扱われるのには慣れていますが、あなたのことが、有るだけに、たまらなかったのです。
結局さんざん
嘲弄されてから、解放されましたが、それからまた、バック台練習は、以前のように
口喧しく、先輩達から
怒鳴られるようになるし、怒鳴られるほど、またギゴチなくなって行きました。
こう書くと、いかにもぼくが、弱々しいだけに見えますが、先輩達だとて、ぼくが本当に弱く降参しきっていれば、あれ
迄いじめなかったでしょう。加えて、ぼくには、文学少年にありがちな
孤独癖がありました。それも生意気だとか、図々しいとか見られていたのでしょう。実際、図々しい処もありました。あなたから、この手記の初めに書いた、
杏の実を貰ったのは、その問題があった日の昼のことでしたから――。
とにかく、その日の昼は、もうあなたと遊べなくなった淋しさと、
口惜しさから、
殆ど飯も食べずに、トレイニング・パンツに
着更え、
誰もいないB甲板をうろついていると、ひょッくりあなたと小さい中村
嬢に逢いました。
中村さんは、小さい
唇をとがらせ、「うち、つまらんわア、もう男のひとと、遊んではいけない言うて、
監督さんから説教されたわ。おんなじ船に乗ってて、口
利いてもいかん、なんて、
阿呆らしいわ」ぼくも、
合槌うって「すこし、変ですね」と言えば、あなたも「ほんとうにつまらんわア」中村嬢は、
益々雄弁に「ほんとに
嫌らし。山田さんや高橋さんみたいに、
仰山、
白粉や紅をべたべた
塗るひといるからやわ」と、なおも小さな唇をつきだします。ぼくは
只、中村さんに
喋らしておいて、心のなかでは、つまらない、つまらない、と言い続けていました。
やがて、あなたは、
剽軽に、「こんなにしていて、見つけられたら大変やわ、これ上げましょ」と、ぼくの
掌に、よく
熟れた杏の実をひとつ
載せると、二人で船室のほうへ
駆けてゆきました。ぼくも、杏の実を
握りしめ、くるくると
鉄梯子をあがって、
頂辺のボオト・デッキに出ました。
太平洋は、日本晴の上天気。雲も波もなく、ただ一面にボオッと、青いまま
霞んでいます。ぼくは、
手摺に
凭れかかって、杏を食べはじめました。
甘酸っぱい実を、よく
眺めては、食べているうち、ふっと瞼の裏が、熱くなりました。食いおわった杏の種子を、陽にかがやく海に、
抛ろうとしてから、ふと思い直し、ポケットのなかに、しまいこみました。
しばらく海をみてから、もう練習かなと、Bデッキを
瞰下すと、皆はまだ
麻雀でもしているのでしょう。甲板にいるのはデッキ・チェアに寄りかかったあなたと、船客で
羅府行の第二世のお嬢さんだけ。二人で、なにか仲良さそうに話している。こちらは、
莫迦みたいに、
頬笑んで、瞰下していると、あなたは、
直ぐ気づき、上をむいて、にっこりした。
隣のお嬢さんも、おなじく見上げる。ぼくは、視線のやりばに困るから、船尾のほうを眺めるふりをしている。とまもなく、第二世のお嬢さんは、眼をつむり、
寝てしまっている様子です。
思いきって、ぼくが合図に、右手を高くあげると、あなたも右手をあげて
振る。ほんとうに、片眼をおもいッきり、つぶってウインクをしてみる。あなたの顔は、笑いだす。ぼくも、だらしなくにこにこします。
一瞬、船は
停り、時も停止し、ただ、この上もなく、じいんと
碧い空と、碧い海、暖かい碧一色の空間にぼくは
溶け込んだ気がしたが、それも
束の
間、ぼくは誰かにみられるのと、こうした幸福の持続が、あんまり
恐しく、身体を
翻えし、バック台の方へ
逃げて行き、こっとん、こっとん、
微笑のうちに、二三回ひいてから、また、手摺まで走って行ってはあなたに手をあげ、あなたも手をあげ
応えると、また、にこにこと笑い
交して、バック台まで逃げてゆく。そうしているときは愉しく、その想い出も愉しかった。
翌晩でしたか、ひどい
時化の最中、
すき焼会がありました。
大抵のひとが出て来ないほど、船が、
凄まじくロオリングするなか、ぼくは
盛んに、牛飲馬食、二番の
虎さんや、水泳の
安さんなんかと
一緒に、殆ど、最後まで残って、たしか飯を五杯以上は食いました。その飯には、杏の味の
甘美さが、まだ残っている気がしたのでした。
そして、いよいよ Blue Hawaii です。
ハワイの
想い
出は、レイの花からでした。
第一装のブレザァコオトに
着更え、
甲板に立っていると、上甲板のほうで、「
鱶が
釣れた」と
騒ぎたて、みんな
駆けてゆきました。しかし、ぼくは
漸く、
雲影模糊とみえそめた島々の
蒼さを
驚異と
憧憬の眼でみつめたまま、動く気もしなかったのです。
未知の国を初めてまのあたり
眺める感動と、あなたへの
思慕とがありました。その
頃、漸くにして、自分の
技倆の未熟さはさておき、とにかく日の丸の下に戦わねばならぬ、自分の重責を、あなたへの思い深まるに連れて、深く自覚自責するものがありました。ぼくは、あなたへの愛情をどうしても、帰国後まで、大切に、
蔵っておかねばならぬと、おもった。
然し、具体的なことはまだ一言も言わなかったし、言えもしなかった。ぼくの
焦躁はひどいものでした。
ようやく波止場も見えてきて、全員集合を命ぜられたとき、いつもの様に、ぼくの眼は、あなたの姿を探していました。
或る人達が、わめきちらす、女子選手達のお
尻についての
無遠慮な評言を、ぼくは
堪えられないような弱い気になって、聞くともなく聞いていると、いちばん
後れてあなたが、うち
萎れた姿をみせた。
あなたは、先頃の明るさにひきかえ、一夜の中に、
醜く、
年老って、なにか人目を
恥じ、泣いたあとのような赤い眼と手に
皺くちゃの
手巾を持っていました。ぼくは、あなたが、てっきりぼく達のことについて、なにか言われたのではないかと、勝手な想像をして、
黯然となったのです。おまけに、そのとき、あなたはぼくが
逢ってから、初めて厚目に、
白粉をつけ、紅を
塗っていた。その
田舎娘みたいなお
化粧が、
涙で
崩れたあなたほど、
惨めに
可哀想にみえたものはありません。
あたかも、
直ぐそのあとで、ぼくの胸には、歓迎
邦人からの、白い
首飾りの花が
掛けられました。有名な選手などは、二つも三つも掛けて
貰っていましたが、ぼくが洋装をした田舎の
小母さん然たる
奥さんに、にこにこ笑いながら掛けて貰ったレイの花は、ひとつでも堪えられないくらい
芳烈な
香りを放っていました。ぼくは、その
匂いのなかに、
恋情の苦しさを
甘くする
術を発見したのでした。
それから、間もなく
催して頂いた、ハワイの官民歓迎会の、ハワイアン・ギタアと、フラ・ダンス、いずれも土人の亡国歌、
余韻嫋々たる悲しさがありましたが、ぼくは、その悲しさに甘く
陶酔している自分を、すぐ発見して、なにか
可憐しく思ったのです。ハワイでは、あなたと一度も、話し出来ませんでしたが、ぼくは、美しい異国の風景のなかに、あなたの姿を、まぼろしに
描くだけで、満足でした。
ぼく達が日本語よりも、英語がうまいのを
自慢にしている運転手君――というのは、ぼく達が波止場から邦人の提供してくれた、自動車に乗りこむと、早速、英語で話しかけて来て、皆が、第二世君と思っていたのに、土人かしらと、
些か
唖然としていると「あなた達、英語出来ないんですねエ」と
軽蔑したように、初めて日本語を使った――その小生意気な運転手君に連れられて一同と共に、奇勝ノアノパリに向う
途中、もの
凄い
大雷雨に、
襲われました。が、
忽ち、からりと晴れると、なんとその
透き
徹るような
碧い空の見事さ。雨に
濡れ、緑のいっそう
鮮やかに光り
輝く、草木のあいだに、
撩乱と咲き
誇っている、
紅紫黄白、色とりどりの花々の美しさ、あなたは
何処にでもいる気がふッと
致しました。
ぼくはものを感じるのは、まあ
人並だろうと、思っていますが、
憶えるのは、
面倒臭いと考える
故もあって、自信がありません。
それでも、ノアノパリの
絶壁上に立ち、世界で三番目に強いと言われる風速何十
米かの
突風、顔をたえず
叩かれ
上衣をしょっちゅう
捲くられているような烈風を受けつつ、眺めた景色は
髣髴と、今でも
浮んできます。眼前に
展がる
蒼茫たる平原、かすれたようなコバルト色の空、
懸垂直下、何百米かの切りたった
崖の真下は、牧場とみえて、何百頭もの牛馬が草を
食んでいる。その牛馬一
匹々々の
玩具のような小ささ、でもさすがに、
獣の生々しい毛皮の色が、今も眼にあります。
しかし、後方右側に
聳えたつ、なんとか峰はたえず陽に輝き、左側のなんとか峰はたえず雨に降られている。これは、その
昔ハワイの王様なんとか一世が、なんとかいう
蛮人の
酋長を、火牛の戦法で、この崖から追い落した。で、陽の照っているほうは、なんとか一世の
善霊、
鎮まり、雨に降られているほうは、蛮人なんとかの悪霊、鎮まるという、こんな伝説の固有名詞は全部忘れてしまいました。が、折からの
驟雨が晴れて、水々しい山頂をくっきりと
披璃のような青い空に、聳えさせていた峰々のうるわしさは、忘れません。
あなたはあのとき、びッしょり濡れて、善霊峰の下の
洞穴に、風雨を
避けていた。スカアトの
襞も崩れ、
手巾を
冠って強風にあおられている。あなたは、朝の印象もあって、ばかに惨めにみえました。が、その苦しさも、ハワイの素晴しい自然が、すぐ
慰めてくれ、甘いものとする。そう考えるほど、ぼくは自分のなかだけで、恋情を育てていたのです。
午後から、ハワイのロオイング
倶楽部に、招待されて練習に行きました。
コオスはほんとうに、草花につつまれているのどかさで、
小波ひとつなく、目にみえる流れさえない
掘割でした。
隅田川の
濁流、ポンポン蒸汽、
伝馬船、モオタアボオト等に囲まれ、せせこましい練習をしていた、ぼく達にとって、文字どおり、ドリイミング・コオスといった感じです。
艇は、
固定席が
滑席艇に移るまえにあった。ドギュウと日本では称しているような昔
懐しいもの。それにオォルの
握りも太く、ブレエドの
幅も広く、艇は
遅いけれど、バランスがよく、舟足も軽い。まっさおい水の上に、艇をポオンと置いてから、約
一月ぶりに、シャッシャッと
漕ぎだすと、一本々々のオォルに水が青い油のように、ネットリ
搦みついて、スプラッシュなどしようと思っても、出来ないあんばい。三十本も漕ぐと、艇はたちまちコオスの
端まで行ってしまう。河幅わずか十米あまり。漕いでいるオォルの先に、ぷうんと熱帯の花々が匂うばかりです。さすがに
先輩たちも感にたえたか、ぼくはいつもの
叱言一つさえ、
聴きませんでした。五番の松山さんが、突然「あーア」とおおきい
溜息をつき、「おーイ、みんな、漕ぐのは
止めろッ、
寝ろッ寝ろッ」と
叫びさま、オォルをぽおんと投げだし、ぼくの
太股のうえに、もじゃもじゃの頭を
載せました。彼の
鬼をも
欺くばかりの
貌が、ニコニコ笑うのをみると、ぼくは股の上の彼の
感触から、へんに
肉感的なくすぐッたさを覚え、みんなに
倣って、やはり三番の沢村さんの
膝に、頭をのせ
仰向けになりました。と、そんな
吝な肉感なんか、忽ちすッとんでしまうほど空はとろけそうに碧く、ギラギラ燃えていた。その空の奥に、あなたの顔の
輪廓が、ぼおっと浮んだような気がしました。
あなたに逢いたい、逢いたいと思っていた。そうしたら、ワイキキ・ビイチに行く途中、
凱旋門のところで、あなたと内田さん達の一行に、ぱったり逢いました。ぼく達の自動車は、助手席の
処にぼく、うしろに三番の沢村さん、二番の虎さんなんかが乗っていた。あなたはその日、朝からずうっと
萎れどおしのようでした。ただ、内田さんは、たいへん元気で、あなた達がつけたぼくの
綽名を呼び「ぼんぼん、アイスクリイムあげよう」と片手に、容器を
捧げてとんで来ました。ちょうど、車が動きだしたところだったので、はにかみながら
腕を
伸ばした。ぼくには届かず、うしろの沢村さんが、ひッたくッてしまった。そして、なにか
猥褻なことを内田さんに言い、自分もすこし照れた様子で、わざと「うまい。うまい」と内田さんのほうに、みせびらかしながら、虎さんと食ってしまいました。虎さんも助平な事を言い、
豪傑笑いしてから食っていた。
ぼくは
甚だ、
憤慨したが、弱いのだから止むを得ません。ただ、半べそを
掻きつつ、「ひどいわ。意地悪」と叫んでいる内田さんに、たいへん愛情を感じました。
しかし、それはその時に、
沸き上がった感情です。あなたに対しては、心の中で、すでに、愛さなければならないという
規範を、打ち
樹てていたと思います。
ホノルル・ブロオドウェイの
十仙店で、ぼくは、
紅のセエム
革表紙のノオトを買いました。初めて、米国の金でした買物、金五十仙
也。ぼくは、それをあなたとの、日記帳にしようと思って
厭らしく、紅い色のものを買ったのです。しかし、それも後から
憶えば買わなかったほうが、いや買ったにしても、なんにも書かぬ
白紙のなかに、
記憶だけを
止めておいたほうが、良かった結果になりました。
翌月の午後は、個人外出を許され、船の
出帆時刻は、確か、七時でしたが、ひとりぼっちで歩いていても、
面白くなく、帰ったならば、案外また、あなたに逢えるかとも思うと、四時頃からもう帰船しました。
午前中の甲板には、銭拾いの土人達が多勢、集まって来ていて、それが
頂辺のデッキから、真ッ
逆様に、蒼い海へ、
水煙りをあげて、次から次へ、飛びこむと、こちらで
抛った
幾つもの銀貨が海の中を水平に、ゆらゆら光りながら、落ちて行く。それを
逸早く、
銜えあげたものから、ぽっかりぽっかりと海面に首を出し、ぷうっと口々に水を
吐きながら、片手で水を
叩き、片手に金をかざしてみせる。とまた、忽ち
猿の
如く甲板に
攀じのぼってきては、同じ芸当を
繰返すのでした。その中に、ぼくは片足の
琉球人城間某という、
赤銅色の
逞しい三十男を発見し、彼の生活力の豊富さに
愕いたものです。
然し、外出から帰ってみると、甲板には、もう土人達は一人もいず、その代りに第二世のお
嬢さんたちが、花やかに着飾って、まだ、あまり帰っていない選手達を取り巻いていました。
真面目でもあるし、
殊にフェミニストの坂本さんが、やはり、五六人のお嬢さん達に取り囲まれていましたが、ぼくの姿をみるなり「ああ坂本君」と呼んで「この人もボオトの選手です。大きいでしょう」とか、
紹介しておいて、自分は歓迎に来ている県人会の人達のほうへ行ってしまいました。ぼくは周囲の女性達をみるなり、坂本さんが、ぼくに
委して、立ち去ったのが、すぐ
諒解できました。
美醜はとわず、とにかく、その頃の言葉で、心臓の強いお嬢さん達でした。
いずれも二十歳前後の娘さんとみえますが、なかに一人、豊かに
肥えた
肩をむきだした洋装の、だぼ
沙魚みたいなお嬢さんが、リイダア格で、「サインして下さいよう」とサイン帳をつきだすと、あとは我も我もと、キャアキャア手帳をつきつけます。「ぼくなんかサインしてもつまりませんよ」と、それでも
押しつけられるままに、ぼくが女持の万年筆を借りて、Xth Olympic, Japanese Rowing Team, No.4. S. Sakamoto と書きながら、驚いたのは、そのだぼはぜ嬢、「
好いのよ、好いのよ」と
嬌声を発し、「あなた、とても好いわ」とぼくの肩に手を置いた事です。馬鹿です。ぼくは
相好崩して喜んだらしい。「チャアミングよ」というお嬢さんもいれば、「日本人で、こんなに大きい。スプレンディッド」という
女もいる。いよいよ、好い気持になって、ワアワアへしあってくる娘さん達の、
香油と、
汗と白粉のムッとする
体臭にむせていると、いきなり、また
吃驚させられました。というのは、そのだぼはぜ嬢が、
愈々、
瞳に
媚をたたえて、「けっして、助平とは思わないでね」とウインクをするのです。失礼! が、ぼくはふき出したい
衝動のあとで、泣き出したいような気になりました。だって、このお嬢さん達は、きっと祖国を知らないんだ。だから日本の
礼儀、日本の言葉もよく知らないのだろう。笑ってはいけない、と思いました。で、「ええ、思いませんとも」真面目に言いきりましたが、そういう口の
端から、へんに肉感的な
微苦笑が、唇を
歪めるのを、
押えられませんでした。
すると、そのだぼはぜ嬢はいきなり、ハンドバッグのなかから、自分の写真を取り出し、サインをしてくれます。と
傍から、「わたしも上げる」とか言いながら、パアスを探すお嬢さんがいます。二三枚、貰った写真は、
何れもブロマイド式に
凝ったものですが、正直
綺麗なひとは、一人もいませんでした。
その上、「あなた、メモ貸して、ミイのアドレス書く」と、だぼはぜ嬢が切り出し、また、続けて、二三人が、達者な英語で、御自分のアドレスを書いてくれました。
「あなた、向うのアドレス、着いたら、教えて」とだぼはぜお嬢さんが言うのを、うんうん
肯いている中、ぼくは、そのグルッペの
隅に、ひとりの
可憐な娘を見つけました。
美しい顔ではありませんが、色の黒い、
瘠せた顔に、子供らしい瞳が、くるくるしていて
可愛らしい。先刻から、だぼはぜさんの蔭にかすんで、
悄然しているのが、今朝からのあなたの姿に連想され、「テエプ、この
裡の一人に抛ってね」とだぼはぜ嬢が自信ありげに念を押したとき、よしあの
娘に抛ろうと、とっさに決めたのでした。
出帆の
銅鑼が鳴りだしたとき、ぼくは白いテエプを、その娘に投げてやりました。
淋しい顔立が、
人混みに
揉まれ、船が
離れて行けば、いっそう
頼りなげに見える、そのぼんやりした瞳に、ぼくが、テエプを抛ろうとすると、その瞳は、急に
濡れてみえるほど、生々と光りだした気がしました。この娘は、まだ十七で、帰りに寄航したときも逢いましたし、内地に子供らしい手紙を
度々くれました。
あとで、船室に集まった皆が、ハワイでの
収穫を話しあったとき、坂本さんが、ニヤニヤ笑いながら、ぼくとだぼ沙魚嬢のロオマンスを
素ッ
破抜きました。こんな
巫山戯た話になると、みんなとても
機嫌よく、森さんが、
先ず、「ほう、
大坂は、最近、大当りだな」とひやかせば、松山さん、「色男は
違うな」と、大口開いて笑うし、虎さんは、「ドレドレ」とだぼはぜ嬢の写真をとって見ようとする。「
俺にも貸せ」と梶さんが手を
伸ばす。「待て、待て」と横から
覗いていた沢村さんが怒る。あとは、ワアッと大笑いでした。
あなたとの友情も、こんなに巫山戯半分で、皆と共々に笑える
余裕があったなら、あんなに皆から
憎まれず、また、ぼくも苦しい
想いをしなくても、済んだ、と思います。
それまでは
皆、ぼくを精々、
嫉妬するくらいで、別に
詰問するだけの
根拠はなかったのですが、
図らずも、ハワイで買った
紅いセエム革の手帳が、それに役立つことになりました。
ハワイを出て、海は
荒れだしました。
甲板に出ても、これまで
群青に、
輝いていた
穏やかな海が、いまは暗緑色に
膨れあがり、いちめんの白波が
奔馬の
霞のように、
飛沫をあげ、荒れ
狂うのをみるのは、なにか、胸
塞る思いでした。船の針路を
眺めると、二三間もあるような、大きなうねりが、
屏風をおし立てたように、あとからあとから続いて来ます。
さすが、
巨きな汽船だけに、まア、リフトの
昇降時にかんじる、
不愉快さといった
程のものでしたが、やはり甲板に出てくる人の数は少なく、
喫煙室で、
麻雀でもするか、コリントゲエムでもやっている連中が多かったのです。
そういう時、ぼくは
独り、甲板の
手摺に
凭れ、
泡だった
浪を、みつめているのが、何よりの快感でした。あなたとは、もう遊べませんでした。で、ぼくは、あなたとレエスのことばかり、空想していました。ボオトは、勝負はとにかく、全力を出し切らねばならない。全力を出し、クルウが
遺憾なく、
闘えたとします。そうしたら日本に帰って、あなたと堂々と
結婚できると思う。
そんな風に楽しい空想を
描いているときでも、絶えず、先輩達の眼、周囲の口が、想われて、それがなにより
厭でした。こうした悪意に対して、ぼくは、それを、じっと受け
応えるだけで、
精一杯でした。
当時、ぼくは二十
歳、たいへん理想に燃えていたものです。なによりも、貧しき人々を救いたいという非望を、愛していました。だから、その
頃、なにか苦しい目にぶつかると、あの
哀れな人達を思えと、自分に言いきかせて、
頑張ったものです。
それでいながら、
例えば、
舷側に
沸きあがり、
渦巻き、泡だっては消えてゆく、太平洋の水の
透き
徹る淡青さに、生命も
要らぬ、と思う、はかない気持もあった。
船室では、同室の沢村さん松山さんが、いないときが多かったので、いつでも、自分の上段の
寝室にあがり、
寝そべって、日記をつけていました。日記の書き出しには、こんなことが書いてありました。
≪ぼくはあのひとが好きでたまらない。この頃のぼくはひとりでいるときでも、なんでも、あのひとと
一緒にいる気がしてならない。ぼくの呼吸も、ぼくの
皮膚も、息づくのが、すでに、あのひとなしに考えられない。たえず、ぼくの血管のなかには、あのひとの血が流れているほど、いつも、あのひとはぼくの身近にいる。それでいて、ぼくはあのひとの指先にさえ
触ったことはないのだ。むろん触りたくはない。触るとおもっただけで、体中の血が、
凍るほど、厭らしい。なぜだか、はっきり言えないが。
どこが好きかときかれたら、ぼくは困るだろう。それほど、ぼくはあのひとが好きだ。
綺麗かときかれても、
判らない、と答えるだろう。
利巧かいといわれても、どうだか、としか返事できないだろう。気性が好きか、といわれても、さアとしか言えない、それ程、ぼくはあのひとについて、なんにも知らないし、知ろうとも、知りたいとも思わない。
ただ、二人でよく
故里鎌倉の
浜辺をあるいている
夢をみる。ふたりとも一言も
喋りはしない。それでいて、
黙々と寄り
添って、歩いているだけで、お
互いには、なにもかもが、すっかり
解りきっているのだ。あたたかい白砂だ。なごやかな春の海だ。ぼくは、その海一杯に
日射しをあびているように、そのときは暖かい。
が目ざめてのち、ぼくはあのひとの
幻だけとともに、まわりはつめたい鉄の
壁にとりかこまれ
漸く生きている気がする。
ぼくみたいな男でも、かりにも日本の Delegation として戦うのだ。自分の全力の
砕けるまで闘わなければ済まない。
恋なぞ、という個人的な感情は、
揚棄せよ。それが、義務だという声もきこえる。それより、ぼくも
棄てたいと望んでいる。が、そう考えているときのぼくに、はや、あのひとの
面影がつきそっている。あのひとが、そう一緒に望んでくれる、と思うのだ。
これからのぼくは、一心に、あのひとを、どっかに
蔵い
込もう。日本に帰る日まで、一個人に立ち返れるまで、とこの言葉を
呪文として、ぼくは、もう、あのひとの片影なりとも、心に描くまい≫
そう書いた、次の日の日記に、
≪かにかくに
杏の味のほろ苦く、舌にのこれる初恋のこと≫
もっと、ここに書くのも
気恥かしいほど、
甘ったるい文句も書いてありました。で、ぼくは大切に、一々トランクの
奥底にしまい込んでいたのです。
ところが、ある日の午後、例によって、ベッドから、
脚をぶらんぶらんさせ、トランクを台にして日記を書いていると、いま外に出たばかりの松山さんと沢村さんが、カッタアシャツ一枚で、ぬッと入って来ました。
ぼくは、あなたのことを、感傷的な形容詞で一杯、書き散らしていたところですから、なにか照れ
臭く、まごまごすると、
慌てて手帳をベッドの上の
網棚に、
抛りあげ、そそくさ、部屋を出て行きました。
二十分程してから、もういないだろうと、
恐る恐る、
扉をあけると、松山さんは、ぼくのトランクに
腰をかけたままでしたが、沢村さんは、ぼくの顔を見るや、立ち上がって、なにかを、ぼくの寝台に抛りあげ、そのまま、下段の自分のベッドに転がり、松山さんと、意味ありげに顔を見合せ、ぼくのほうを
振りかえります。
ぼくは、ばつが悪く、再び扉をしめ、出ようとすると、沢村さんが、「おい、
大坂」と呼びとめました。「え」といぶかるぼくに、「ああ、ぼくはあの女が好きでたまらない、か」と、ぼくの日記の一節を手痛く、
叩きつけた。続いて、松山さんが、にこりともせず、
怒ったような口調で、「あア、好きで好きでたまらない、か」と言いざま、二人とも、声のない
嘲笑を、ぼくの胸にねじこむような眼付で、ぼくの顔をみながら、ドアをばたんと、乱暴に閉め、足音高く、出て行きました。
ぼくはカアッとなり、
屈辱の思いにひかれ、ベッドの上から、紅いセエム革の手帳を、
鷲掴みにし、一気に、階段をとんであがり、誰もいない、Cデッキの
蔭に行ってから、思いッきり手帳をとおくに投げつけました。
手帳は、空中で風を受け、
瞬間止まったようでしたが、ふっと
吹き飛ばされると、もう、
遥かの船腹におちていました。
沸騰する飛沫に、
翻弄され、そのまま
碧い水底に
沈んで行くかと思われましたが、不意と、ぽッかり赤い表紙が
浮び、浮いたり、沈んだり、はては紅い一点となり、消えうせ、太平洋の
藻屑となった。
愚かにもその晩、ぼくはよく
眠れませんでした。
翌朝、いつもの様に、
朝の駆足をやっているときです。あのときのオリムピック
応援歌(
揚げよ日の丸、緑の風に、
響け君が代、黒潮越えて)その
繰返しで、(光りだ、
栄だ)と歌うべき
処を、
皆は、
禿さんと
蔭で呼んでいる黒井コオチャアへのあてこすりから、(光りだ、禿だ)と歌うのです。ぼくは黒井さんが好きでしたし、その若禿の
為に、
許婚を失ったという、
噂話もきかされているので、
唱う気にはなれません。
と号令が速足進めに変り、「
一、
二、
一、
二」と、黒井さんが調子を張り上げます。「四番、もっと手を振って」と注意され、ぼくは勢いよく
腕を振り上げようとすると、
可笑しなことに、手と足と
一緒に動き、
交互にならないのです。
例えば、
右脚をあげると、自然に右腕が上がって、左腕が上がらないのです。無理に、互い違いに動かそうとすると、手が上がらなくなるばかりではありません。歩けなくなるのです。
その
不恰好なざまは、
忽ち、皆に発見され、どッと笑いものにされて
了いました。
「
頼むぜ、おい、女の
尻追いかけるのもいいが、歩くのだけは一人前に歩いてくれよ」と森さん。「ボオトがろくに
漕げもせんと思ったら、よう歩けもせんのか。それでもよう女だけ、出来るもんじゃ」と沢村さん。「貴様は、あまり女が好きだから、手も動かなくなるんじゃ。しっかり歩け。ぶち
廻すぞ」と松山さん。「やれやれ、なんと無器用かなア」と東海さん。等々。
ぼくは、自分の神経が病気なのを、はっきり感じました。なんの
為に。
紅いセエム
革がちらつく気持でした。
眩暈が起ればよかったのです。がぼくは、そのまま歩き続けました。その中、黒井さんも手の上がらないのを注意しなくなり、皆のぶツぶツ言うのも聞えなくなりました。
その日は、バック台も棒引も、目茶苦茶でした。棒引はいつも、腕力のそう違わない沢村さんが相手なのに、その日は、力も段違いな松山さんが、前のバック台に
坐り、「ほれっ、引いてみろ」と
頑張り、木株のような腕を曲げ、鼻の穴を大きくして、
睨みつけます。その
瞳には、むしろ敵意さえ感じられました。ちょッと
縄を
緩めてからパッと引くと訳ないのですが、それをやると、ひどく皆から
怒られ、
何遍でも
遣りなおしです。黒井さんが、「もう好い」と言うまで、ぼくは
油汗をだらだら流しづめでした。
晩になって、B
甲板の
捲揚台のまわりに、皆が集まっているので、行ってみると、
腕角力の最中でした。初め、KOの八郎さんと、十九歳の美少年上原――彼はぼく同様新人ですが、商工部のときから漕いでいるし、ボオトも上手で、皆から愛されていました。――の二人がやって、八郎さんが負けると、「うん、上原はなかなか強い。
俺とやろう」と松山さんが節くれだった毛深い腕を出します。「いやア」と上原も顔負けしながら、やっていると、やはり、問題ではなく、松山さんが強い。
松山さんは
機嫌よく、上原を
賞めていましたが、ぼくと視線が合うと、忽ち、不機嫌な顔付になって、「おい、
大坂、上原とやってみい。お前の方が一ツ
歳上じゃないか」ときめつけます。ぼくは今朝以来、自信が、少しもないので、「いや、上原君のほうが強いですよ」とべそかき笑いをしますと、「ばか、貴様は、女の尻に
喰いつくだけが、得意なんだな」と
罵り、
豪傑笑いしてから、上原なんかと行ってしまいました。
周囲には、女の選手達、
殊にちびの中村さんも居ましたので、ぼくは完全に度を失い、立ち去ろうとすると、中村さんが、少女らしく、
傍にいる七番の坂本さんに、「ぼんちは
身体が大きいけれど、弱いの」と
訊ねます。坂本さんは、ぼくをからかうように、「
大坂は
温和しいもんな」と笑います。すると
隣にいた沢村さんが、大きな声で、「青大将なのよ」とぼくのいちばん
嫌う
綽名を呼んでから、気持よさそうに笑い出しました。「まあ、青大将」
誰か、女のひとが、そう言って、くすッと笑うのに、
羞恥で消え入りそうになりながら、ぼくは
漸く、そこから
逃げ出したのです。
ひとりで、暗い海を
暫くみてから、
寝に帰ろうと、
喫煙室のなかを通り抜けていると、
一隅で沢村、森、松山、東海さん達が、
麻雀をやっていましたが、「おい、おい」と河村さんが、ぼくを呼びとめます。
どうせまた、
嘲弄されるとおもいましたが、知らん振りもできないので、近よると、「おい、さっき中村がお前のことを、ボンチと呼んでいたが、あれはお前の綽名か」とききます。「さアどうですか」と白ばっくれるのに、「どういう意味か、知ってるか」とニヤニヤ皆と目くばせしてから、
尋ねます。関西弁で、
坊ちゃんという事じゃないですか、と正直に答えようと思いましたが、また反感を買ってもと思い、「知りません」と
些かくすぐつたい返事をすると、横から、東海さんが、大声で、「あれは関西で、
白痴のことを言うんだよ」と言えば、沢村さんも、「そうとも、ボンチはつまりポンチと同じことじゃ。
阿呆のことをいうんだぞ」と大笑い。と、森さんが、したり顔で、「ああ、それで
解った。女の選手達が、
大坂のことをボンチとか、ボンボンとか呼んでいるのは、そういう意味か」と、言えば、松山さんも
荒々しく、「
大坂よ、お前は
惚れている女から、いつも馬鹿と呼ばれているんだぞ」と罵り、そこで皆から、ひとしきり嘲笑の雨。
ぼくは、しばしポカンとしていましたが、
堪え切れなくなると、「そうですか」と一言。泣きッ
面をみられないようにまた暗い甲板に。
靄の深い晩なので、Aデッキから、ボオト・デッキに上がり、誰にも見られず、
索具の蔭で悲しもうと、近づいて行くと、向うから、
靴音がきこえて来た。
やがて、靄の底から、ぼんやり現われたのは、立派な
白髯を
生した、紅毛のお
爺さんでした。ぼくのしょんぼりした姿をみると、にこにこ笑いながら「How do you do?」と太い声できく。外人と話し合うのは初めてでしたが、先方の好意が感ぜられて
嬉しく、「Thank you, Sir. I'm very well,」と、サアをつけました。「That's good.」と、お爺さんは、重々しくうなずいて、「Are you a delegation of Japanese Olympic Team?」と尋ねます。「Yes, I am.」と言ってから、ニッコリ笑ってしまいました。すると、「What's team?」と
訊いたような気がするので、「Boat Crew.」と答えますと、「What's?」と小首を
傾けます。おや、間違ったかなと想い、出来るだけ
叮嚀に、「Please say once more.」と頼むと、からから笑い、サッカアと
蹴る
真似をしたり、ボクシング、と
撲る真似をします。やはりそうかと、
朗らかになり、「I am a oarsman Rowing.」と漕ぐ恰好をすると、
大袈裟な身振りで、「Oh! I see. It's really splendid!」とぼくの
肩を
叩いてから、顔を
覗き込み、「What's the matter with you?」と気づかってくれる様です。こうなれば、なんでも叮嚀に言うに限ると思いましたから、「Thank you, Sir. Never mind, please. I am very glad to see you. How a lovely night!」とか、こんな靄の深い、
厭な晩なのも忘れ、お世辞をいいました。と、お爺さんは、またアッハーと笑い、「I think so, too.」と答えると、「O.K. boy, good night.」と笑い続け去って行きます。
暫く、靴音が遠くなってから、とても若々しいハミングが、フウフウフフン、ウフフフフンとか
聴えて来ました。いつか佐藤が、食堂で、
亜米利加人のハミングの真似をして、事務員に
叱られた事を思い出し、ぼくの
出鱈目英語も
可笑しく、ぼくはプウと
噴き出すと、すっかり気分がよくなって、寝に帰ったのです。
しかし、翌日も、またその次の日も同じような皆の悪意が
露骨で、病的になったぼくの神経をずたずたに切り
苛なみます。あなたに、
逢えないまま、海の荒れる日が、
桑港に着くまで、続きました。
ぼくは、もう日本に帰る
迄、あなたとは口を
利くまいと、かたく心に
誓ったのです。日本を
離れるに
随って、日本が好きになるとは、誰しもが言う
処です。幼いマルキストであったぼくですが、――ハワイを過ぎ、
桑港も近くなると、
今更のように、自分は日本選手だ、という気持を感じて来ました。
その
頃、ぼくは、人知れず、
閑さえあれば、バック台を引いて、練習をしていました。ようやく静まってきた波のうねりをみながら、一望千里、
涯しない大洋の
碧さに、
甘い少年の感傷を注いで、スライドの
滑る音をきいていたのも、忘れられぬ思い出であります。
船が
桑港に入る前夜、ぼくは日本を
発つとき、学校の先生から
頼まれた、
羅府にいる先生の
親戚への
贈物、女の着物の始末に困って、
副監督のM氏に相談しました。M氏は、それを誰か女の選手に、
彼女の持物として、預かって
貰えと言います。浅ましい話ですが、ぼくはそれをきくと、眼の色が変るほど、興奮しました。あなたに預かって貰えたら、と思ったのです。口を利かずともどんな形にでも、あなたと
繋がっているものが
欲しかった。ぼくは、その着物に
潜ませる、
恋文のことなど考えて、その夜も、また
眠れませんでした。
もう二時間
程で、
桑港に入るという午後、ぼくは、M氏から、誰という名前はきかず、その着物を預かって貰えるからとの話で、着物をお願いしました。
がっかりすると言うより、ぼんやりして、海を見ていると、
舵手の清さんがやって来て、
肩を
叩きます。「どうしたんだい、坂本さん」
微笑んでいる清さんは、本当に、ぼくを
気遣ってくれるのでしょう。「いや、別に」とぼくは、だらしなく
悄気た声を出しました。「ばかに、元気がないじゃないか」「ええ」とうなずいて、清さんの顔をみていると、このひとに、なにもかにも打明けたら、さっぱりするだろうという、気がふッと
致しました。
と、清さんは、急に真顔になって、「坂本さん。ちょッと話があるんだ。来てくれませんか」と先に立ち、
上甲板に登って行きます。ああ、そのことかと、胸にギクリ来ましたが、結局、言われたほうが、楽になると思い、ついて行くと、ボオト・デッキから更に階段をあがり、船の頂上、プウルのある甲板にでました。方二間位のプウルには、青々と水が
湛えられ、船の
動揺にしたがって、
揺れています。周囲にベンチが二つ、置かれてあるだけの
狭い甲板です。「まア、
掛けましょう」といわれ、
並んで
腰を降ろしたまま、しばらく
沈黙が続きました。もう港が近いとみえ、
鴎が
遥か下の海上を飛んでいるのが見えます。
「少し、話し
悪いことなんですが――」と前置きをして、清さんは切り出しました。「実は、あんたのことで、変な
噂があるのを前からきいていましたが、坂本さんに限って、そんな
莫迦はしないと、ぼくはいつも打消していました。
ところが、この頃、あんまり、森さんや、松山さん達が、心配するんでね、ぼくも、もう米国に着いたことだし、ここで、坂本さんにしっかりして貰えなきゃ困るんで、今日、改まって、
訊く訳ですが、一体、あの噂は、
何処ら辺までが本当なんです」
ぼくも、こんな風に言われると、やはり、自分の精神的な、
苦悩は大切に
蔵っておきたく、それとはあべこべに、あなたとの楽しかった遊びが、次から次へと、
走馬燈のように
想い出され、清さんのそれからの御意見も、いつしか空吹く風と、きき流したくなりました。と、不意に、(意見せられて、さし
俯向いて――)という、おけさの一節が、頭に
浮びました。(泣いていながら
主のこと)なにか
訴えるものが欲しかった。
自然よ! と眼をあげた
刹那、映じた風景は、むろん異国的ではありながら、その
癖、
未生前とでもいいますか、どこかで一回は
眺めたことがあるという
感懐が、肉体を
痺れさせるほど、強くおそいました。
みよ、この時、
髣髴と
迫ってくるものは、水天青一色、からりと晴れ、さわやかに碧い、みじんも
湿りッ気を
含まぬ、おおらかな空気のなかに、真ッ白い国が浮びあがってくる。
夢のような美しさだ。夢がこれほど実感を
伴って、みえたことはないというのは、オリムピックを通じての感想ではありましたが、それをこの時ほど、
如実に感じたことはありません。
白い国!
蜃気楼もかくや、――など
陳腐な形容ですが、事実、ぼくは
蜃気楼をみた想いでした。背後には、青空をくっきりと
劃した、
峰々の
紫紺の
山肌、手前には、油のようにとろりと静かな港の水、その間に、整然とたち並んだ、白いビルディング、ビルディング、ビルディング。それがいかにも、
摩天楼という名にふさわしく、空も山も、
為にちいさくみえる
豪華さです。その頭上に、七月の太陽が、カアッと一面に反射して、すべては
絢爛と光り
輝き、明るさと
眩しさに息づいているのです。ぼく達の大洋丸は、
悠々と、海を圧して、
碇泊中の汽船、
軍艦の間を
縫い、白い鴎に守られつつ、進んで行きます。
しかし、実のところ、ぼくは鴎も船も港も山も、なに一つ覚えてはおりません。
只、青い海に浮んだ白い大都市が、
燦然と、迫ってきた、あの感じが、いつもぼくに、ある
永劫のものへの旅を誘います。金門湾、
桑港! と、ぼくは、
昔なつかしい名を口にして、そのときも、今、聞かされている意見より、もっと、悠久なものについて考えていました。清さんも、同じ種類の感動に
襲われたのか、ぼくに、「ほら、もう
桑港じゃないか。元気をだしなよ」と肩を叩いて話を打ちきり、二人はしばし、
唇を
噤み、じっと、この新しい大陸をみつめていました。
税関の検査も、愛想の
好い税関吏達の笑いの中に済んで、上陸したぼく達の前には、ただ WELCOME の旗の波と、群集の
歓呼の声が
充ち満ちていました。市長さんから、大きな
金の鍵を頂くまでの市中行進も、
夢のような
眩惑さに
溢れたものでしたが、そのうち、忘れられぬ一つの現実的な風景がありました。
桑港の日当りの好い
丘の下に、ぼく達を
迎えて
熱狂する
邦人の一群があり、その中に、一人ぽつねんと、
佇んでいる男がいた。
潰れた鼻に、
歪つな耳、一目でボクサアと
判る、その男は、あまりにも、みすぼらしい
風体と、うつろな
瞳をしていました。
一行中の
朴拳闘選手が、この男をみるなり、「金徳一だ!」と
叫び、
駆けよって手を
握っていましたが、その男の表情は、
依然、
白痴に近いものでした。金徳一は、知る人ぞ知る、先のバンタム級の世界ベストテンに数えられた名選手でした。リングでの負傷が
祟って落ち目が続き、帰国の旅費もないとやら。ぼくは、
絢爛たる、あの行進の最中、
彼の
幻が、暗示するものを、打消すことが出来なかったのです。
桑港の夜、船から降りたった波止場の
端れに、ガアドがあって、その上に、冷たく
懸っていた、小さく、まん
円い月も忘れられません。
斜め下には、教会堂の
尖塔も
鋭く、空に、つき
刺さって、この通俗的な
抒情画を、
更に、
完璧なものにしていました。
月の色が、どこで、どんなときにみても、変らないというのは、人間にとって、
甚だもの悲しいことです。
黄色タクシイの運転手に、
インチキ英語を使って、とんでもない
支那街に、連れこまれたことも、
市場通りで、一本五十
仙也の赤ネクタイを買ったことも、今は
懐しい思い出のひとつです。
しかし、その夜、フォックス
劇場できいた『君が代』の
荘厳さは、なお耳底にのこる、深刻なものがありました。シュウマンハインクとかいう、とても
肥ったお
婆さんで、世界的な歌手が、我々が入場して行くと、日の丸の旗と、星条旗を両手に持ち、歌ってくれたのです。満場の視線が、明るいライトを浴びた我々に集まり、むずかゆい様な
面映ゆさでした。が、その明るい光線を横ぎって、
身体をすぼめ、
腰を降ろした、あなたの黒い影が、焼きつくように、ぼくの
網膜に残っていました。あなたは、
随分、
窶れていた。
翌日、
南加大学で、
艇を借りられるとのことで、練習に行きました。金門湾を
廻って、オオクランドに出て、一路
坦々、沿道の風光は
明媚そのものでした。
鵞鳥が遊ぶ
碧い湖、
羊の群れる緑の草原、赤い屋根、白い家々。大学もそんなユウトピアの中にあります。
艇を借りるとき、世話を焼いてくれた、親切な南加大学の
補欠漕手の上背も、六尺八寸はあり、
驚かされたことでした。
練習コオスは流れる
淀み、オォルがねばる、気持よさです。久し
振りに、はりきった、清さんの号令で、艇は
船台を
離れ、下流に向いました。
と、
突然、
漕ぎすぎようとする橋の上に、群れていた観衆が、なつかしい母国語で、「
万歳」を叫んでくれます。みれば、顔の黄色い、日本人ばかり。おおかた、聞き伝えて、近在から寄り集まった移民のお
百姓達でありましょう。質素な
服装、日に焼けた顔、その熱狂ぶりも
烈しくて、彼等の
朴訥な歓迎には、心打たれるものがありました。
ぼくは、
愈々、あなたを忘れねば、と
繰返し、オォルに力を入れて、スライドを
蹴っていたときです。前のシイトの松山さんが、「
止めい、止めろ」と叫びざま、オォルを投げだすや、振返って、ぼくを
睨めつけ、「貴様、一人で、バランスを
毀していやがる。そんなに女が気になるか」ぼくには一言もない
怒罵でした。森さんがまた、「
大坂、貴様これからあの女と口を
利くな。顔もみるな。少しは考えろ」と
喙を入れるのに松山さんが続けて、「貴様の
為にクルウの調子が
狂って、もし、負けたら、手足の折れるまで、
撲りたおすから、そう思え」それから、なんと
叱られたか忘れました。ただ、河口に
並んだ蒸汽船の林立する
煙突から、
吐く
煙が、
濛々と、夕焼け空を暗くしていたのを、なんとなく
憶えています。
翌日、スタンフォド大学に、全米陸上競技大会を、見学に行きました。
熊や
鹿が
棲むという、
幽邃な金門公園を
抜けて、乗っていたロオルスロオイスが、時速九十
粁で一時間とばしても変化のないような、青草と、羊群のつづく、
幾つもの大牧場を通って――
途中でだいぶ自動車を
停めた
露骨なランデェブウにもお目にかかりました。――
厭だった。――そしてスタンフォドに着いたら、大学の森中、数千台の自動車で
埋っている人出でした。
スタンドで、あなたの水色のベレエ
帽が、眼の前にあった。それだけを憶えています。競技はろくに憶えていません。ただ、赤いユニホォムを着た、でぶの
爺さんが、米国一流のハムマア投げ、と、きかされ、もの
珍しく、
眺めていたのだけ
記憶にあります。
そのうち、
隣席にいた、
副監督のM氏が、ぼくに、
御愛用の時価千円ほどのコダックを
渡して便所に行ったそうです。そうです、というのは、それほど、その時のぼくの頭には、あなたの水色のベレエが、いっぱいに
詰っていたのです。あなたの
盗み見た横顔は、
苦悩と
疲労のあとが、ありありとしていて、いかにも
醜く、ぼくは眼を
塞ぎたい想いでした。
船に帰って、ピンポンをしていると、M氏が来て「坂本君、コダックは」と
訊きます。
愕然、ぼくは脳天を
金槌でなぐられた気がしました。預かった憶えは、ないと言えばよかったのですが、言われた
途端、ハッとしたものがあって、――
卑劣なぼくは、「村川君に、じゃなかったのですか」と苦し
紛れに
嘘を
吐きました。M氏は、「そうだったかな」と気軽く言い、小首を
捻りながら、村川を
捜しに行きましたが、ぼくは、居たたまれず、船室に駆けこみ、頭を
押えて、
七転八倒の苦しみでした。
お金持のM氏は、誰に預けたかを、そのまま追求もせず、
諦めておられたようですが、ぼくは良心の
苛責に、
堪えられず、あなたへの愛情へ、ある影を、ずっと落すようになりだしました。
それから、ぼくの眼は、あなたを追わなくなりました。しかし、心は。
ロスアンゼルスへの外港、サンピイドロの海は、
巨艦サラトガ、ミシシッピイ等の船腹を銀色に光らせ、いぶし銀のように
燻んでいました。
曇天の
故もあって、海も街も、重苦しい感じでした。
ぼく
達は、ロングビイチの近くにある、フォオド工場の提供してくれた、V8の新車八台に分乗して、工場の見学後、ロングビイチの合宿に着きました。
日本人のコックさんが、広島弁丸出しの
奥さんと
一緒に、すぐ、久し
振りの
味噌汁で、昼飯をくわしてくれました。
娘の花子さんは十五
歳でしたか、
豊頬黒瞳、まめまめしく、ぼく達の
汚れ物の
洗濯などしてくれる、
可愛らしさでした。
翌日、マリンスタジアムに練習始め。ぼく達よりも、近所の
邦人の方々が、張り切って、自家用車で、練習場まで、送って下さるやら、スタンドに
陣取って
声援して下さるやら、それよりも
騒いでくれたのが、
隣近所のメリケン・ボオイズ、ガアルズ達で、映画のアワア・ギャングもかくや、と思われる
顔触れが、
脱衣場にまで、入りこんで、パンツの世話まで、手伝ってくれるのには顔負けでした。
コオスは
掘割になっていて、流れは
殆どありません。大体、二千
米の長さしかなく、なんども、往復して練習をしました。すでに、ブラジル、英国、独逸、カナダ等、各国の選手達は集まっていて、
彼等の大きな
身体には、平均五尺八寸、十六貫六百のぼく達も、子供のように見えるほどでした。
それに、彼等が奥さんや、
恋人御同伴なのも、すぐ眼につきました。
しかし、ぼく達も、
隅田川での恋人、「さくら」が、一足先きに
艇庫に納まり、各国の競艇のなかに、
一際、
優美な
肢体を
艶やかに光らせているのをみたときは、なんともいえぬ、
嬉しさで、彼女のお腹を、ぺたぺたと
愛撫したものです。
ある国の選手達は、ロングビイチの海水浴場に入りびたり、ビイチ・パラソルの
蔭に、いかがわしい娘たちと、おおっぴらな
抱擁をしていたのを、見たこともあります。練習場の入口におしよせる観衆のなかから、
唇と
頬の
真ッ
紅な、
職業女を呼びだして、近くの芝生でいちゃついていた、外国の選手達もみました。
微笑ましかったのは、米国のスカアル選手のダグラスさん、六尺八寸はあろうと思われる長身
巨躯が軽々と、左手にスカアル、右手に、美しい奥さんを
抱いて、艇庫から、船台まで運び、そこで別れの
接吻などしてから、お
互いに、片手をあげては、スカアルの小さくなるまで、合図を
交していました。
独逸クルウの
誰かの
愛人とみえる、一人のゲルマン娘は、いつも
毅然としていて、練習時間には、
慎ましく、ひとり日蔭
椅子に
坐り、編物か、読書に
耽っていて、その
端麗な姿にも、心打たれるものがありました。
然し、ぼく達は、向うの新聞に、オォバアワアクであると、批評されたほど、
傍目もふらずに練習を重ねるのでした。外国のクルウが、一、二回コオスを引いて、一日の練習を終るのに、ぼく達は午前中に四回、午後に四回とコオスを引き、それでも、隅田川にいた
頃に
較べれば、軽すぎるほどでした。タイムは、それにも
拘らず、遊んでいるような外国クルウに比し、全然、
劣っておりましたが、ぼく達は、努力しすぎて負けることを、少しも
恥とせぬ
潔い気持でした。ぼくも今は、ただ、ボオトを
漕ぐことだけに夢中になれたのでした。
練習帰りのある日。いつもの様に、独りとぼとぼ、歩いていると、背後から、飛ばしてきた古色
蒼然たるロオドスタアがキキキキ……と止って、なかから、
噛み
煙草を
吐きだし、
禿頭をつきだし、
容貌魁偉な
爺さんが、「ヘロオ、ボオイ」と
嗄れた声で、呼びかけ、どぎまぎしているぼくを、自動車に乗れ、と
薦めるのです。
遠慮なく、乗せて
貰うと、
目貫きの通りにドライブしながら、ぼくの胸にさした日の丸のバッジを
見詰め、「
俺は日本が好きだ。若いとき、船乗りだったから、横浜や、
神戸に、
度々行ったよ。ゲイシャガアルは素晴しいね」とか言い、
皺くちゃの顔いっぱいに、歯の
疎らな口を開け、笑ってみせます。とうとう、煙草の
脂臭い鼻息に閉口しながらも、親切な爺さんの
怪し気な日本回想記をきかされ、
途中でアイスクリイムまで
奢って貰い、合宿まで送り届けられたのでした。
こうして、ぼくはあなたのことを忘れ、
只管、練習に精根を打ちこんでいた頃、日本から、初めての書簡に、接しました。
合宿前の日当りの
好い
芝生に、
皆は、円く坐って、黒井さんが読みあげる、
封筒の
宛名に「ホラ、
彼女からだ」とか一々、騒ぎたてていました。東海さんの
処へは、横浜で、テエプを交した女学生七人から、連名のファン・レタアも来たりしました。松山さんにも、シャ・ノアルの女給さんから、便りがあり、皆に冷かされて、嬉しそうでした。
その中、ぼくの名前でも一通、「おや、これは日本からとは
違うぞ」とぼくを見た、黒井さんの眼が、心なしか、光った気がしました。と、坂本さんが、ぼくの
肩を
叩き、「秋子ちゃんからじゃないか」と笑いながら、言います。皆の顔が、
一瞬、
憎悪に
歪んだような気がしました。
我慢できないような
厭らしい
沈黙のなかで、ぼくは手紙を受取ると、そのまま、宿舎に入り、便所に飛びこんで、
鍵を降しました。
風呂場と
兼用になっている、その部屋で、ぼくは冷っこい便器に、
腰を
掛けると、封筒を裏返してみました。ただ、K生より、となっています。ぼくはてっきり、あなたからだと信じこみ、胸
躍らせ、封を切る手も、
震わせ、読み下して行くと、なんだ、がっかりしました。と言っては悪いでしょう。船で知り合った、中学の
先輩、Kさんからの親切な
激励状だったのです。再び、表の芝生にでた、ぼくの顔は
蒼褪めていたかも知れません。坂本さんから、また、「
大坂、顔色変ったね」とひやかされました。
二三日
経って、午後の練習を終え、ヘンリイ山本君の運転する、ロオドスタアの
踏段に足を
載せ、合宿まで、帰ってくると、庭前の芝生に、花やかな色彩を
溢れさせた、女子選手の人達が、五六人、来ていて、先に帰ったクルウの連中に、囲まれ、
喋り合っているのが、ハッと眼につきました。ぼくは、もう、
途端に、自動車から、飛び降りたい位、気持が
顛倒しました。
しかし、
直ぐ、あなたの来ていないのに気づくと、笑いかける内田さん、中村
嬢の顔にも答えず、
真ッ
赧な顔をして、そのまま宿舎にとび
込みました、と、後ろから、花やいだ笑い声が、追い駆けてきて、「ぼんち、秋っぺがいないんで、
腐ってるのね」確か、中村嬢の声でした。続いて東海さんの
低音が、小声でなにか言っています。また、なにかぼくの蔭口ではないかと、
焦々している耳に、内田さんの声が、「熊本さん、この頃、とても、しょげているのよ。
可哀そうよ」「ぼんちのことで」と誰か女のひとが、
訊き返している様でした。ぼくは耳を
塞ぎ、声を大にして、「
煩さいッ」とでも、
怒鳴りつけてやりたかった。続いて、聞えてきたのは、太い調子のひそひそ声で、なにか
陰険な悪口か、
猥褻な批判らしく、無遠慮に
響いてくる高らかな皆の笑い声と共に、ぼくは
又、すっかり
悄気てしまったのです。
女の人達が帰ってから、ぼくの
狸寝をしている部屋に、松山さんと、沢村さんが入って来ました。松山さんは、
殊の
他、
御機嫌で、「村の祭が、取り持つ
緑で――」という、
卑俗な歌を、口ずさんでいましたが、ぼくの寝姿をみるなり、「オリムピックが取り持つ縁で、嬉しい秋ちゃんとの仲になり」と歌いかえてから、沢村さんと顔見合せ、ゲラゲラ笑いだしました。ぼくは、
不愉快そのもののような気持で、ベッドに
引繰り返ったまま、眼を閉じていると、松山さんは、なおも、手近にあった通俗雑誌を手にとり、ぼくの横にわざと、ごろりと寝て、いかにも精力的らしい
体臭をぷんぷんさせながら、雑誌をめくり、適当な
恋愛小説をみつけると、その一節を、こんな風に読みかえて、ぼくを
嘲弄しようとしました。
「そう言うと、熊本秋子は、坂本の胸に深く顔をうずめた。その白いうなじに、坂本は
接吻したい
誘惑を
烈しく感じたが、二人の
純潔のために、それをも差し
控えて、右の手を
伸ばし、
豊穣な彼女の肉体を初めて抱きしめたのである」
ぼくは泣きだしたい気持でした。松山さんはなおも、
厭らしく女の声色も使って、「『いやですわ。いやですわ』と秋子は
叫びながら、坂本の胸を両手でおしつけた。秋子の
薫るような呼吸が感ぜられ、坂本は
悩ましいほど幸福な気がした。
『今ではいけないのでしょうか』
『いいえ、日本にお帰りになってから』」
あえて、ぼくは神聖な愛情とは呼びません。しかし、子供めいたお
互いの友情を、そんなふうに
歪曲して
弄ばれることは、
我慢できない腹立たしさでした。
翌日、練習休みで、近くのゴルフリンクへ一同でピクニックに行きました。
前夜、
眠られぬ頭は重く、
涯しないみどりの
芝生に、初夏の
陽の
燦然たる風景も、眼に痛いおもいでした。
東海さんが、顔
馴染のフォオド会社の
肥った
紳士に、ゴルフを教えてもらい、なんども
空振りをして、地面を
叩く
恰好を
面白がって、みんな笑い
崩れていましたが、ぼくにはつまらなかった。
みんな、写真機を買いたてで、ぼくも金十八
弗也のイイストマンを大切に
抱えていましたが、なにを写す元気もなく、ぼんやりしている
処を、あべこべに何度も写されたりしました。
結局、朝から夕方まで、ぼんやり
坐ったり歩いたりしただけで、帰ってきました。帰ってからポケットにふと、手を入れると、全財産百五十弗ばかりを入れた
蟇口がありません。
ぼくは
忽ち逆上して、
身体中や
其処らを探しまわった
揚句の果は、
恐らく、ゴルフ場で落したに
相違ないときめてしまいました。百五十弗は、当時の
為替率で、四百五十円位にあたります。
素人下宿をして働いている、母の
粒々辛苦の金とおもえば居ても立ってもおられず、明朝、
未だ皆の起きないうちに
抜けだし、ゴルフ場まで探しに行こうと思いました。
翌朝、未明に合宿を出ると、すぐ表で、ぱったり
出逢ったのは、近所の、小さい友達で、リンキイ君、ぼく達がリンカアンと
綽名をつけた少年でした。ぼくをみると、
鳶色の
瞳を
輝かせ、「
どうしたの」と
可愛い声で
叫びます。十歳位の少年ですが、ぼくとは気が合って、
彼の家にも引張って行かれ、二間位のせせこましい家に、いっぱいに置かれたオルガンで、
下手糞なスワニイ河をきかされたり、やさしいお母さんにも
紹介して
貰い
お茶を頂いたり、または彼氏
自慢の映画スタアのサイン入りのブロマイドを何枚となく、貰ったことがあります。
その朝、ぼくの様子が気になるのか、彼氏はまた
仕草で、ぼくの
肩を
叩き、「なんでも打明けてくれ」というのです。「金をおとした」と答えると「いくら」と
訊き、金額を話すと「オウ」と
眉を
顰めたり、肩をすぼめたり、おおげさに
愕いてみせ、
一緒に
捜しに行く、といいはってきかないのです。
とうとう、二
粁もあるゴルフ場まで、ついて来て、
朝露に
濡れた芝生の上を、
口笛吹き吹き、探してくれました。ぼくは
勿論、
一生懸命で、
隅から隅まで、草の根を
押しわけて探してみましたが、処々に
遺っているコカコラの
空瓶、チュウインガムの
食滓などのほかには、水滴をつづった青草が、どこまでも意地悪く、
羅列しているばかりです。
大体、前の日、歩いた
記憶を
辿り、さがしてみたのですが、一通り歩いても、どうしてもありません。リンキイ君が、五
仙玉をひとつ拾っただけで、「チェッ」と舌打ち
諸共、銀貨を空に
抛りあげ、意気なスタイルをみせてくれただけの事でした。
歩きつかれ、探しつかれて、帰ってくると、みんな朝飯を食いに食堂に行った後のがらんとした
寝室を、コックの
小母さんが、
掃除していましたが、ぼくをみるなり「坂本さん。これあんたんじゃろう。
随分、あんたを探していたのよ」と差出してくれたのは、
失くしたとばかり、思っていた蟇口です。ぼくのベッドの下に落ちていたそうで、この様子をぼくについて来て、ぼんやりみていた Mr. Lincoln いきなりぼくの手を
握りしめ「ありがと。ありがと」と打振ります。ぼくには、少年の親切が、身に
染みて
嬉しかった。
これは後の話ですが、ぼく達が帰国する日も迫った
頃、ぼくは日本への
土産に、自動車のナムバア・プレェトが
欲しく、それをこのリンキイに
頼みますと、その日、子供に借りた自転車で、
附近を乗り
廻していたぼくの瞳に、道路の真中で、五六人の少年少女が集まり、リンキイが先に立って、なに事か、一心不乱に、働いているのがみえました。
近よってみると、まだ新しいナムバア・プレェトが、アスファルト路の欠けた処を
塞ぐために
釘づけにしてあるのを、子供達が、各自家から持出した、
金槌、やっとこの類で、取りはずすのに、
大童でした。勿論、警官にみつかれば、
叱られるのでしょうが、このアワア・ギャング達は、おめず
臆せず、堂々と取ってのけ、その場で、ぼくにくれるのでした。
また、帰国が近づいた頃、うす汚い、
真鍮のロケットをぼくにくれた、カアペンタアという八つ位のお嬢さんも、ぼくと仲が
善く、再々、彼女の宅にも引張って行かれました。その
娘のお母さんは、すこし眼に険のある美人でしたが、
恐しく早口で
捲舌に
喋るので、なにを言うやら、さっぱり
判らず、いつもぼくは
面喰いました。帰国のとき、ぼくは、この少女に、持って行った
浴衣を、一枚上げたところ、早速、その
別嬪のお母さんが着て、見送りに出ていたのには、苦笑させられたものです。
練習が終り、みんな、
素ッ
裸で、シャワルウムに飛びこみ、頭から、ザアザアお湯を浴びているうち、一人が、当時の流行歌(マドロスの
恋)を≪赤い
夕陽の海に、歌うは、恋のうウた≫と歌いだし、
皆で、
賑やかに合唱していると、
直ぐ
隣の部屋から、太いバスの
仏蘭西語が≪セネ、カル、シャントプウ、アキタルポウ≫と同じ歌を、
突然、
謡いだしたのには、
驚きもしましたが、
嬉しくもなって、皆
一緒に、両国語の合唱が始まったのでした。
それは、仏蘭西の選手達でしたが、
他に、
独逸の選手達も、ずいぶん気持の好い連中で、ぼく達と顔を合せるたびに、直ぐ「オハヨオ」と
愛嬌たっぷりに、日本語で
挨拶してくれます。それが、朝、昼、夕方おかまいなしなのも嬉しく、ぼく達も「グウテンモルゲン」で一日中、間に合せます。
伊太利の選手達は、みんな、船乗り上がりかなにからしく、
腕や
肩に
刺青をみせていましたが、
人柄は、たいへん、あっさりしていて気持よく、いつぞやぼくと東海さんと連れだって、
彼等が
女の子達と遊んでいる
芝生を通りかかると、「ヘエイ、ボオイズ」とか、変なアクセントの英語で呼びとめ、ぼく達と
肩を組み、写真を
撮ってくれました。連中のうちで、コオルマン
髭を生した
色男が真中になり、アメリカ
娘が、
両脇で、カメラに入りましたが、あとで出来上がったのをみたら、ぼくの鼻がずいぶん低く、
厭だった。
しかし、この人達も、短い練習の時間だけは、非常に
真摯に、熱心で、
漕法は、英国の
剣橋大学を
除いては、皆、レカバリイが少ないのが、目につきました。日本流の漕法では、≪ボオトは気で
漕げ腹で漕げ≫というのですが、彼等は腕と
脚とだけで
猛烈に漕ぎ、ピッチも五十前後まで楽に上がる様でした。
殊に、米国代表南加大学(
金色熊)クルウが、ロングビイチに姿を現わしたのは、
開会式の二三日前でしたが、彼等の漕法は、
殆ど、体を使わないで、ぼく等よりもオォルのスペイスがあり、一糸乱れず、脚のリズムで、スタアトからゴオル
迄、一貫したスパアトで持って入り、しかも、
毫も、調子が変っていないのには、感心させられました。
どんな練習にも、全力をあげ、精も根も使い果し、ゴオルに入って「イジョオル(Easyoar)」がかかると、バタバタ
倒れてしまう日本選手の猛練習振りは、彼等には、全然、非科学的にみえるようでした。(A crew of Coxswains.)とぼく達は
彼地の新聞に、一言で、かたづけられていたものです。
総ゆる人種からなる、十三万人の観衆に包まれた
開会式は、南カルホルニアの晴れ
渡った
群青の空に、数百羽の
白鳩をはなち、その白い
影が点々と、
碧玻璃のような空に消えて行く
頃、
炎々と燃えあがった
塔上の聖火に、おなじく塔上の聖火に立った七人の
喇叭手が、
厳かに
吹奏する
嚠喨たる喇叭の音、その
余韻も未だ消えない中、
荘重に聖歌を合唱し始めた、スタンドに立ち
並ぶ三千人の白衣の合唱団、その歌声に始まって行ったのでした。
ぼくは、その風景を、男子の
本懐だと、感動して、
眺めていた。殊に、あの日、塔上に
仰いだ万国旗のなかの、日の丸の、きわだった美しさは、幼いマルキストではあったぼくですが、にじむような美しさで、
瞳にのこりました。
身体がふるえる
程、それは強烈な印象でした。
大きな声ではいえぬことです。その日、フウバア大統領の前を、
颯爽と、分列行進をしていった女子選手達のうちに、あなたのりりしい晴れ姿をちらっと
垣間見ました。はるかな美しさで、ぼくは、そッと、
瞼のうちに、
蔵っておいた。
オリムピックのなかでも、
青リボンと呼ばれる、
壮麗なレガッタのなかで、ぼくには、負けて
仰いだ、南カルホルニアの
無為にして青い空ほど、
象徴的に思われたものはありません。
スタアトラインに
並んで「ムッシュ。エティオプレ」「パルテ」という出発の号音を聞いたときは、ただ
漕いだ。並んだ、
剣橋クルウのオォルの
泡が、スタアト・ダッシュ、
力漕三十本の終らないうちに、段々、小さくなり、はては消えてゆく。敵の
身体がみえていたのは、本当に、スタアト、五六本の間で、
忽ち、グイグイッとなにかに引張られているような、強烈な引きで
彼等の身体は、ぼくの眼の前から、消えてゆき、あとには、山のように
盛りあがった白い
水泡がくるくる
廻りながら、残っている。それも
束の
間、
薄青い
渦紋にかわり、消えてしまった。しかし、ぼく達は、相手のない、不敵さで、ただ、漕いだ。
あとで、みていた人達は、もう千
米あったなら、日本クルウは、英国を
抜いていたかも知れない、と言ったそうです。それほど、ゴオルでは、へたばっていながらも、
気魄では、敵を追っていたらしい。四
艇身半の開きも、
僅かにみえるほど、日本人の気魄は、彼等を追い
詰めていたのでしょうか。ゴオル直前で、ブラジル・クルウを三艇身、
打っ
棄って、
伊太利に肉迫した、必死の力漕には、
凄まじいものあり、すでに、英伊二
艘とも、ゴオルに着いているだけ、外国人は、
無駄な努力に必死な、ぼく達を
呆れてみていたらしい。最後のスパアト五百米では、日本のクルウは、身体の動きこそ、ちぢまれ、オォルは少しも、他のクルウに比べて、
遜色なかったという。しかし、ゴオルに入った
途端、ぼく達の
耳朶に
響いたピストルは、過去二年間にわたる血と
涙と
汗の苦労が、この五分間で終った合図でもありました。
そのときのぼく等の様子を、当時の
羅府新報が、こんなに報告しています。
≪夕刻のロングビイチは
鉛色のヘイズに
覆われ、
競艇コオスは夏に似ぬ冷気に
襲われ、一種
凄壮の気
漲る時、海国日本の快男児九名は
真紅のオォル持つ手に血のにじめるが
如き汗を
滴らしつつ必死の
奮闘を続けて
遂に敗れた。この日、我が
稲門健児は不幸にも、北側の第一レインを割り当てられ、逆風と
逆浪の最も
激しい難路を
辿らねばならず、
且つ、長身に
伍して、
短躯のクルウを連ね、天候さえ冷え勝ちで、天の利、地の利、人の利、すべて我々に幸いせず。
頼むは、日本男児の
気概のみ、
強豪伊太利と英国を向うに廻し、スタアトからピッチを三十七に上げ、力漕、また力漕、しかも力
及ばず、千メエトルでは英国に
遅れること五艇身、伊太利に遅れること三艇身、千五百メエトルに
至るや、
懸隔益々甚だしく、英国と伊太利が二艇身半の差、日本は三艇身遅れて続き、
更にブラジルが後を追う。
が、最後の五百メエトルに日本選手は
渾身の勇を
揮って、ピッチを四十に上げ、見る見る中に伊太利へ追い着くと見え伊太利の
舵手ガゼッチも
大喝一声、漕手を
励まし、五万の群集は
熱狂的な
声援を送ったが、時
既に
遅く、一艇身半を
隔てて伊太利は決勝線に
逃げ
込んだ。
決勝線突入後、他の三国選手が、
余裕を示して、ボオトをランデングに附け、
掛声勇ましく、頭上高く差し上げたに引き替え、日本選手は決勝線に入ると同時に、精力全く尽き、クルウ全員ぐッたりとオォルの上に突っ
俯し、森整調以下、
殆ど失神の状態となり、矢野清舵手は、両手に海水をすくって戦友の背中に浴せ、
比較的元気な松山五番もこれに手伝い、坂本四番の
介抱に努めるなど、その光景は
惨憺たるものがあった。選手は幸いにして、数分後には、気を取り直しボオトを引き上げ、
更衣所に帰るや、一同その場に打ち
倒れ、語るに言葉なく、
此所にも
綴るレギヤツタ
血涙史の一ペエジを閉じた≫
ボオトを漕ぐ苦しさについて、ぼくは、
敢て書こうとは思いません。漕いだものには書かなくても判り、漕がないものには書いても判らぬだろうと思われるからです。ただ、それほど、言語を絶した苦しさがあるものと思って下さい。
あのとき、
観覧席の
一隅に、日本女子選手の
娘達が、純白のスカアトに、
紫紺のブレザァコオトを着て、日の丸をうち振り、声援していてくれた、と後でききました。しかし、ぼくは、そのとき、あなたの姿なぞ求めようともしない、
口惜しさで負けたレエスに興奮していた。
負けたという実感より、気持の上では、漕ぎたりない無念さで、更衣所にひき
揚げてきたとき、いちばん若いKOの上原が、ユニホォムを
脱ぎかけ、ふいと、
堰を切ったように泣きだしました。
すると主将の八郎さんが、かつてみない激しさで「泣くな。勝ってから、泣け」と
噛みつくように
叱った。
その激しい言葉に、自己感傷に
溺れかけていたぼくは、身体が
慄えるほど、
鞭うたれたのです。
第二回戦は、
独逸、
加奈陀、
新西蘭とぶつかり、これも日本は、第三着で、
到頭、準決勝戦に出る資格を失ったのでした。
レエスも済み、
為すべきことを失ったようなぼくは、あなたのことを、やっと具体的に考える機会に
恵まれた訳ですが、ぼくの心の
卑しさからか、遠すぎるあなたの代りは、身近くのあてもない
享楽を求めて、
彷徨あるき、なにかの幸福を
手掴みにしたい
焦慮に、
身悶えしながら、
遂々帰国の日まで過してしまいました。
帰国するまでに、約二週間はありましたから、その間、
羅府のブロオドウェイを、
或いは、ロングビイチの下町を、
又はマウントロオの
養狐場を、ただ訳もなく遊び歩いたのも、ひたすら手近な享楽で、眼の前に
蓋をしている気持でした。
夜、ロスアンゼルスからの帰りに、自動車を
停めさせ、
皆が
一斉に降りたって、小便をしたとき、故国日本を
想いだすような、
蛙の鳴声をきいたことも、
仄かに
憶えています。或いは、海水浴場の近くで、六十
歳前後の老人夫婦から、十五歳位の少年少女のカップルに
至るまで、ダンスを
愉しんでいるホオルを
覗いたことも、ダウンタアオンで五
仙を
払い、メリイゴオランドの木馬に
跨がったことも、ボオルを
黒ん坊にぶつけて、
亜米利加美人を落したことも――。
その黒ん坊が、意外にも日本人だったのです。
虎さんが、ボオルを
握って、モオションをつけると、いきなり黒ん坊が
鮮やかな日本語で、「
旦那はん、やんわり、
頼みまっせ」と言い、ぼく達が、
驚き
呆れていると、「顔は黒う
塗ってますが、心は同じ日本人でさア」その言葉の終らないうちに、虎さんの直球が、黒ん坊の額にはずみ、彼が
引繰り返ると、そのはずみに
仕掛が破れ、右上の
鳥籠に
腰かけていた亜米利加美人がばちゃんと、下のプウルに落ちこみました。
さては、射的場で、
兎を
撃ったことも、十仙出して本物のインディアンと
腕角力をしたことも、マジック・タアオンの鏡の部屋で――。
そうだ、マジック・タアオンで、起ったあなたについての
幻想を書いてみましょう。
金十五仙なりを払って、
魔術の街の入口の真暗い部屋に入り、その部屋をぬけると、長い
廊下がありました。やはり、手探りしながら、歩く暗さで、
暫くゆくと、
突然、足下の
床が左右に
揺れだし、しっかり
踏みしめて歩かぬと、転げそうでした。廊下の行詰りになった
壁をおすと、
薄暗い
寝室で、ランプがついていて、マントルピイスの上が白く光るので、近よってみると、人骨がばらばらにおいてあるのでした。子供だましみたいなので、
微笑みながら、次の部屋へのドアを開けると、戸口に一人のギャングが立ちはだかり、ピストルをつきつけています。こちらは
可笑しくなってきて、ニヤニヤすると、向うも、毛色の変った、ジャップの少年なので、
気抜けしたのか、ニヤッと笑いかえして
引込みました。
次から、次へ、仕組んであるマジックも、ことさら
故意とらしくみえ、「つまんないの」と
呟きながら、興味なく歩いている、ぼくの
瞳に、ふと映ったのは、薄暗い
片隅でなにもかも忘れ、ぴったり
抱擁しあっている、うら若い男女でした。こればかりは実物で、見ていてもこちらがへんになるくらい
熱烈なながい
接吻をしています。これには、いちばん
駭いて、部屋の
端にあった階段を、むちゃくちゃに
駆けあがりました。二三十段も駆けあがり、次の一足を踏みだそうとすると、足に
触れるものがありません。階段だけで、二階の床がないのです。
慌てていたこととて、思わず眼下の暗黒のなかに、くらくらっと
陥ちかけたとき、足もとの階段が、独りでに、すうっと降りだしました。いっそ、地の底までもと思ったのに、着いたところは、又さっきの部屋で、男女二人は、まだ
抱きあっていて、余計、
堪らなく、飛びだそうとした
刹那、ふいに、その若い二人が、
夢の中のあなたとぼくのように、
錯覚され、もう一度、振りかえり、見定めるため近づいてみようかとさえ思ったことでした。
日本の選手一同、車を連ねて
聖林見物に行ったのもその
頃でした。
車は全部、在留
邦人の方々の
御好意で、提供して頂き、スマアトな中級車から、
豪奢な高級車ばかり。ぼくの乗せて頂いたのも、
華奢な
白塗りのリンカン・ジェフアで、車内に、ラジオも、シガレット・ライタアも
装備してある
豪勢さでした。
途中、サンキスト・オレンジのたわわに実る陽光
眩ゆい南カルホルニアの平野を
疾駆、処々に働いている日本人農夫の
襤褸ながらも、平和に、尊い姿を
拝見しました。
有名なパサデナの
邸宅街を通り、
御殿のような建物に、
貧富の
懸隔につき、考えさせられることも多かった。
聖林に入ると、フォオド・シボレエを
自動車ではなく
機械だと称する国だけあって、ぼく達の車も
見劣りするような
瀟洒な自動車が
一杯で、建物も
白堊や銀色に塗られたのが多く、光り
耀くような街でした。ぼく達はフォックス
撮影所の前で降り、所内の見物からはじめました。セットに、山あり海あり、冬景色あり夏景色あり、汽船あり、汽車あり、
支那街あり水の都ナポリありで、ぼくは歩いている中、なにか、サンボリストの詩みたいなものを感じ、ひどく興奮しました。
昼食を、所長さんの御招待で頂き、サアビスに
踊ってくれたのが、当時のスタア、ロジタ・モレノ
嬢でした。まるで、人形のような
端正さと、
牡鹿のような
溌刺さで、現実世界にこんな造り物のような、
艶やかに
綺麗な女のひとも住むものかと、ぼくは
呆然、口をあけて見ていました。最後に、ステップ、ウインク、投げキッスと、
三拍子、続けてやられたとき、その
濡れたような
漆黒の瞳が、
瞬間、
妖しくうるんで光るばかりに
眩ゆく、ぼくは前後不覚の
酔い心地でした。
そのとき、やはり、心持ち
唇をあけてみていた、あなたの小さい黄色い顔が、ちらっとぼくの
網膜を
掠めました。
帰りには、チャイニイズ・グロオマン劇場で、オニイルの
奇妙な幕間狂言という映画の
封切に招待されました。その時はもう、接吻の長さだけ気になる、ぼくは、
痴けさでした。
また
暫くして、日本選手一同が
揃って、ベニスという下町へ遊びに行った日がありました。
附近で、いちばん大きなダウンタアオンで、
途中の風光の美しさも類のないものでした。
碧い海に沿った、遠くに緑の半島が
霞み、近くには赤い屋根のバンガロオが、
処々に、点在する
白楊の
並木路を、曲りまわって行きました。まるで、
泰西名画のみごとな版画をみているように、
湿り気のない空気が、
全てのものを明るく、
浮立たせてみせてくれるのでした。
突然、ぼくの
脇に
坐っていた、坂本さんが、ぼくの横腹をこづきます。ひょいとみると、女子選手ばかりを乗せた、前のバスが、おくれて、こちらの車台とくっつきそうになって走っています。その背後の座席に、あなたが坐っていて、人形をかざし、こちらに見せびらかすようにして顔を
硝子に
押しつけていました。
硝子窓に
潰され、
凹んだ鼻をしているその顔がまるで、泣きだしそうな
羞恥に
歪んでおり、それを
堪えて、友達と笑い合っては、
道化人形を
踊らせ、あなたは、こちらの注意を
惹こうとしていました。
恐らくぼくを笑わそうとして、無理におどけてみせてくれるのだと、ぼくは考えあなたの
故意とらしさが悲しく、あなたに似合わない
大胆さが苦々しくて、ぼくにはそのとき、あなたが大変、
醜くみえた。
とうとう、前の車が故障でとまり、みんながぞろぞろ降りだしたのをみたとき、ぼくは顔をまともに合せたら、あなたが、どんな表情になるか、眼に見える心地がして、そればかりが
気懸りになりました。
果して、あなたはピエロ人形を片手に、踊らせながら、やはり、泣き笑いみたいな顔で、ぼくのほうをちらっと見たが、ぼくが笑いもせず、
反って視線のやり場に困った
鬱陶しい顔をしているのをみると、あなたは、面を
伏せ、くるりとうしろを向き、ひとりで、バスに乗ってしまった。車が出て、背後の硝子窓に
凭れかかった人形は、あなたの手と
一緒に再び踊りだした。しかし、顔をみせない、あなたが、友達と笑いあっているのか、ひょっとしたら、泣いて
慰められているのか、想像のつかないまま、あなたの
肩は
震えていました。
ぼくは一体、人目を
憚かったのか、それともそうしたあなたが
嫌いだったのか、それも
判らぬ複雑
奇怪な気持で、どうでもなれとバスに
揺られていました。気の弱い、
我儘なぼくも
厭だったし、あなたも厭だった。
そうして、人形は踊りを
止め、バスの後窓に凭れたまま、小さくなり、見えなくなって行くのでした。
ベニスに着いてから、
竜の口が出入り道になっているサイクロレエンに乗りました。
トロッコ様の
箱車の座席が三段にわけてあり、まえに
豪傑の虎さんと色男の有沢さんが乗り、真中にぼくと清さん、うしろに柴山と村川が乗りました。前に横たえてある棒をしっかり
握っているうち、車は
滑りだし、深い穴のなかに
陥ちてゆきます。再び、登りだしたときは、背も
反るような急角度の
勾配でした。あれよ、あれよという間に、いちばん
頂辺にまで出ると、
遥かサンピイドロの海が眼下にかすみ、沖にはキャバレエになっているという
豪華船――当時は
禁酒法でしたから――が
豆のように、ちいさい。が次の
瞬間に、車は急転直下、直角にちかい
絶壁を、素晴しい速力ですべり落ちてきます。背中を丸くして、横棒にかじりついていても、
腰が浮くすさまじさです。と、すぐ前から、「ヒェーッ」という金属的な悲鳴が、風に流れきこえてきました。色男の有沢さんの声です。実際、声でもたてねばやり切れぬ、気持でした。車はあるいは急角度に横にまがり
斜めにおち、ガッタンガッタンと、登ったかとおもえば、また陥ちる、頭の
髪が、風にふかれて
舞い上がるのも、
恐怖に追われ逆立つおもいでした。
もう後では、目をつむってこらえている内、するすると竜の口から再び
吐きだされて、おしまいでした。降りたった六人は、
今更のように
聳えたつサイクロレエンを
眺めて、感にたえた顔をしていましたが、有沢さんの悲鳴を
誰かが言いだすと、
途端に、みんなゲラゲラと大笑いがとまりませんでした。
それまでに、サイクロレエンに乗っていた
酔っぱらいの水兵が、
滑走の途中、立ち上がり、横木にはさまれて
頸を折ったとか、赤ん坊を
抱いた若妻が滑りおちる恐怖にたえかね、子供を手放したので、赤ん坊がおっこち頭を割って死んだとか、そんな話もきかされていたのですが、自分が実際乗ってみると、そんな
嘘のような話も真実におもわれる
物凄さでした。
ぼくはサイクロレエンから降りたった後、なにもかもが飛び去ったあとのような心地よさで独り、岸にたち、潮風に、髪の毛をなぶらせながら、青黒くひかる海を、
虚心に、
眺めていました。
その後、
羅府動物園へ、選手一同
赴いた折にも、
巨きな象の二三頭が、放し
飼いになって自由に散歩しているあいだを、内田さんと手を
繋ぎ歩いているあなたの姿をお
見掛けしたことがあります。
その朝、ぼくはデレゲェションバッジをなくなし、
皆にまた
口汚なくいわれる
疑懼と、ひとつは
日頃嘲弄される
復讐の気持もあって、実に男らしくないことですが、手近にあった東海さんの上着からバッジを
盗み、東海さんの
困却をまのあたりみせられ、
些か
後悔の念に
駆られ、良心の
苛責もひどかったときなので、ともすれば見失いそうな自分の姿を
掴まえる
為、すっかり
茫然としていて、近くにあった、あなたの姿にも、痛いものをみる
想いで眼をそらした。
その
癖、そのときでも、あなたが見えなくなると、バッジの件を考える苦しさよりもあなたを想う甘さに
惹かれるのでした。
そうしたときでも、いつもあなたには逢いたいような、逢いたくないような気持が、
例えば、『逢わぬは逢うにいやまさる』といった
都々逸の文句のように
錯綜して、あなたを
慕っていたのです。
マウントロオで、ケエブルカアから降りて村川と二人、
養狐場のほうへ行きかけると、すれちがった若い
亜米利加娘が二人、とつぜんぼく達を呼びとめ、ぼくの持っていたカメラで
撮してくれというのです。たいへん
朗らかな、
可愛い娘さん達なので、喜んで、一緒に写真をとったり
名刺を
貰ったり、
手振り身振りで会話をしたりしました。そうしたとき、
奇妙に強く、想われるのはやはりあなたの
面影でした。
ホワイトポイントへ
魚釣りにも行きましたが、ぼくは釣なぞしたことがないので、
無闇やたらにそこいら辺を歩きまわっただけでした。ひとりで、ホテルの裏にでると、ダンス場があって、ちょうどヒリッピン人の会合があり、
彼等が、勝手放題に、
淫らな踊り方をしたり、または
木蔭で
抱擁し合っているのをみると、急に
淋しく、あなたが
欲しくてたまらなくなるのでした。
試合が済んだあとでは、みんな、各自、県人会のひとに案内して貰ったり、または自分達同士でロスアンゼルスに遊びに行ったりしては、やれ今日は飛行機に乗ったとか、秘密のキャバレエで酒を飲まされたとか、レビュウガアルのアパアトで三十
弗もとられたとか、そんな話の種を持って帰っては、面白そうに話しあうのでしたが、ぼくはまた、独りぽっちの仕様ことなしに、近所の子供と遊んだり、子供達から自転車を借りて乗りまわしたり、ただあてもなく散歩したり、そんな
無為な日々をすごすことが多かった。
いまでも
憶いだす、なつかしい
路は、合宿裏の
花壇にかこまれた
鋪道のことです。
ジギタリス、アネモネ、グラジオラス、サフラン、そんな花々につつまれて、一日中、
陽があたっている明るさ暖かさでした。ぼくがその路を、胸に
紅く日の丸のマアクの入ったスエタアを着て、トレエニングパンツのゴムをぱちんぱちんとお腹にはじきながら、ぶらぶら
何遍も往復し一体どんな歌をうたっていたと思います。おけさ節に、インタアナショナル、北大校歌に、オリムピック
応援歌、さては
浪花節に近代詩といった取り交ぜで、興がわくままに大声はりあげ、しかも
音痴はこの上なしというのですから、他人には見せも聞かせもしたくない、のんびりした
阿呆らしい風景でした。
そんなとき、いちばん誰
憚からず、あなたのことを想って、
愉しいときを過しました。白昼、花々
匂う小路をさまよい、勝手な空想にふけっていれば、あなたはいつもぼくの身近く、
浄らかな童女のような
相貌で、ぼくにつき
纏っていたのです。
宿舎の近くに、アイスクリイムスタンドがあって、そこに、十八
歳になる、ナンシイという
可愛い
看板娘がおりました。
ぼくなぞは、夜間照明のベエスボオルなどを近所の子供達と見物した帰りに、スマックなぞ
噛りに立寄るくらいでしたが、KOの柴山や上原などは、よくかよっていて行けばいつも顔を合せるほどでした。ことに美少年の上原などは、ナンシイ
嬢と仲が良く、いつもスタンドに
肘つきあっては話を交していました。
ある日の事、
一緒に近所の
床屋まできた柴山と
肩をくんで、その店に入って行くと、上原がもう来ていて、娘さんとなにか笑い話をしています。ぼく達は
隅っこでチョコレエトクリイムを
貰い、二人でぼそぼそ
嘗めているとき、入口のドアを
荒々しく
押して一人のアメリカの大学生が入ってきて、なにも
註文せず、スタンドの前に立ち、
腕を組んだまま、じっと上原とナンシイ嬢の様子をみつめていました。
やがて上原の
傍につかつかと立ち寄り、彼の肩を押えて、早口になにか言いだします。
素破とおどろき柴山と立ち上がろうとしましたが、意外にも大学生は、
和やかな表情で、上原にドライブをしないかと
誘っています。上原はぼく達に一緒に来るかい、と聞き、ぼく達が
承諾すると、それではと、大学生に、行く
旨を返事していました。
そこで四人が、表においてあった大学生のセダンに乗りこむと、
彼は、ロングビイチの海岸まで車を走らせて行きました。
賑やかで
面白そうな海水浴場のほうは素通りにして、
荒涼とした砂っ原に降りると、大学生は上原の腕をとって、
浪打際のほうへゆきます。さっきから大学生の上原をみる眼が少し変ってるなと思っていたら、大学生はやにわに、上半身、
真裸になって、上原に
角力をいどみかけるのです。上原は、はにかんだような
微笑みを
浮べながらも、シャツを
脱ぎ裸になりました。
ナルシサスもかくやと思われる美しい顔立ちに十九歳の若々しい肉体は、アポロのように見事に発育して引き
締っています。大学生も毛深くて
逞しいヘラクレスみたいな身体をしていましたが、上原のすべすべした小麦色の
皮膚を愛情のこもった眼付で、
撫でまわしていました。
二人の
相撲は力を入れ、むきになっている
癖に、時々いかにもこそばゆいという風に
身悶えしてキャッキャッと笑い興じていました。
汗ばんで転がるたびに砂
塗れになってゆく、上原の肉体も、額に髪が
絡みついた顔も、だんだん紅潮してゆくに従って、筋肉の線に、
膨らみもでて来て美しく、ぼく達でさえ
些か色情的に
悩ましさを覚えたほどです。しかし
何時迄もみているのは
莫迦々々しくなって、ぼくと柴山はその場をはずし、なんとなくそこらを散歩してから歩いて帰りました。
遅く夕方になってから
戻ってきた上原が、その大学生の着ていたレザァコオトを貰ったりしているので、ぼくは人間の愛欲の複雑さがちらっと
判った気がしました。
帰朝する前日でしたか、ロオタリイ
倶楽部での、
鐘ばかり鳴らしてはその
度に立ったり
坐ったりする学者ばかりのしかつめらしい招待会から帰ってくると、在留
邦人の歓送会が、夕方から都ホテルであるとのことで、
出迎えの自動車も来ていて、
直ぐとんで行ったのでした。
男はタキシイド、女は
紋服かイブニング・ドレスといった
豪奢な
宴会で、カルホルニア一流の邦人名士の御接待でした。ぼくの坐った
卓子は、沢村、松山、虎さんとぼくの四人で、接待して下さる邦人のほうは、立派な御主人夫妻と上品なお
祖母様、それに二十一になる美しいお嬢さんの御一家でした。
話をしているうちに
偶然、そのお嬢さんがぼくの育った
鎌倉の
稲村ヶ崎につい昨年
迄、おられたことが
解り、二人の間に、七里ヶ浜や
極楽寺辺りの景色や土地の人の
噂などがはずみ、ぼくは
浮々と
愉しかったのです。その内に始まった
饗応の演芸が、いかにも亜米利加三界まで流れてきたという感じの
浪花節で、
虎髭を
生した語り手が苦しそうに見えるまで面を
歪めて水戸黄門様の声を
絞りだすのに、御祖母様は顔を
顰め、「
妾はどうしても、浪花節は
煩さいばかりで
嫌いですよ」といわれる。お嬢さんとの会話で気が浮立っていたぼくは、また
尾鰭について出しゃばり、浪花節を下品だとけなしてから、子供の頃より好きだった
歌舞伎を熱心に
賞めると、しとやかに坐っていた
奥さんが、さも感に
堪えたと言わぬばかりに、「そのお若さでお
芝居がお好きとはお
珍しい。御感心ですこと」とお世辞を言ってくれるので、ぼくは一層、有頂天になるのでした。お嬢さんはN女子大の国文科を出たとかで、芝居の話も
詳しく、知ったか振りをしたぼくが
南北、
五瓶、正三、
治助などという
昔の作者達の
比較論をするのに、上手な
合槌を打ってくれ、ぼくは今夜は
正に自分の
独擅場だなと得意な気がして、たまらなく
嬉しかったのです。
沢村さん始め皆は、いつになくお
喋りなぼくを
呆れてみつめ(
大坂が、エヘ)とさも
軽蔑したような表情をするのでしたが、その夜は、明らかに教養でみんなを
圧倒した
態なのも嬉しく、なおも図にのって、お嬢さんに
媚びるように、「
吉右衛門や
菊五郎はどうも歌舞伎のオオソドックスに忠実だとはおもえません。まア
羽左衛門あたりの
生世話の風格ぐらいが――」など
愚にもつかぬ
気障っぽいことを言っていると、
突然、大広間の奥からけたたましいジャズが鳴り
響き、続いて、「どうぞ皆さんダンスにお立ち下さい」というマイクロフォンの高声がきこえて来ました。すると奥さんはたいへん
丁寧にお嬢さんに向い、「佐保子や、お前坂本さんにダンスをお願いしなさい」と言われたので、ぼくは
一遍に
冷汗三斗の思いがしました。改めてお嬢さんの金糸銀糸でぬいとりした
衣裳や、指に
輝く
金剛石、金と教養にあかし
磨きこんだミルク色の
疵ひとつない上品な顔をみると、ぼくはダンスは下手だし、その手をとるのも
恐くなり、「
駄目です。ぼくは
踊れないんですから」と消え入りそうな声で、
吃り吃りいいました。お嬢さんはかすかに
片頬でほほえむと折からプロポオズして来た陸上のF氏の肩にかるく手をかけ、踊って行ってしまいました。
急に
悄気てしまったぼくが片隅でひとりダンスを拝見していると、いつの間にかぼくの横に、油もつけていないバサバサの
長髪を無造作に
掻きあげた、血色の悪い小男の青年がやって来て立っていました。
袴もつけず
薄汚れた
紺絣の着流しで、
貧乏臭い
懐ろ手をし、ぼんやりダンスをみているけれど、選手ではないし、招待側の邦人のひとりかとおもい、「今晩は、どうも――」と
挨拶をすると「いやいや」と
周章て、ぼくの顔をみて
哀しい薄笑いをして、「ぼくは単なる見物人ですよ」と言いました。
畳みかけて、「米国はもうながいんですか」ときけば、「いやまだ上陸して一週間位ですよ」「なにか勉強に」と続けると、「いえいえ遊んでいるんです。日本は煩さくって」「こちらに御親類でも」と
尚煩さくいうと、「いやなにもありません。行き当り
飛蝗とともに
草枕」と最前の浪花節の句をいってから笑いました。ではさっきから
何処にもぐっていたのかと
不審になり、それとなく
尋ねようとした
刹那、ぼくは彼の
懐中にねじこまれている本が
前田河広一郎の≪三等船客≫なのを見て、ハッとして、「文戦はやはり
盛んにやっていますか」ときいてみると、「えッ」と
吃驚したように問い返してから、「いや、ぼくは
左翼は嫌いだから――」と歪んだ笑いかたをしました。
ぼくはなんだか、その青年にニヒリズムを感じて、
寂しく、そして、それが米国最後のいちばん強い印象となりました。
行きは、よいよい帰りは
恐い、と子供の
頃うたう
童謡があります。あの歌のように人生、行きと帰りとではずいぶん気持が
違うものです。再び、サンピイドロの港、春洋丸の
甲板で、見送りに来てくれた在留
邦人の方々がうち
振る日の丸の、小旗の波と五色のテエプの雨を
眺めながら、ぼくはなんともいえぬ
佗しさでした。
勝って
還る人達はとにかく元気でした。陸上の東田良平が、大きな
亀の子を二
匹、記念に
貰い
頸に
紐をつけ、
朗らかに引張って歩いているのが目立っていました。アメリカ人に、「Mayachita, Mayachita」と呼ばれて人気のある水泳の宮下も、
船橋の上で手を打ちふりながら、いつ
迄も
熱狂的な歓送に
応えていました。負けて還るほうは、
拳闘の
某氏のように責任を感じて
丸坊主になったひともいましたが、やはり
気恥かしさや
僻みもあり張り
詰めた気も
一遍に折れた、がっかりさで、ぼくは
雑沓するスモオキング・ルウムの
片隅にしょんぼり
腰を降ろしていたのです。
あなたとのことも、
往きの船では、帰りの船でこそ話もしよう遊びもできようと、あれやこれや空想を
描いていたのですが、さて眼前、現実にその時が来てみると、最前、船のタラップを、
服も
萎れ
面も萎れて登ってきたあなたの
可憐な姿が目のあたりにちらつきながら、手も足も出ず心も
痺れ、なるままになれと思うのが、やっと精
一杯のかたちでした。
出帆前の
華やかな混雑も
煩さいままに、独りで、ガアデン・ルウムに入って行ってみると、すでに先客がひとり、ひっそりとした青い空気のなかで、
硝子越し一杯の陽光を浴びながら、熱帯樹の葉っぱを
弄んでいました。
その男は百
米の満野でした。かつて吉岡が
擡頭するまでの名スプリンタアではありましたが今度のオリムピックには成績も悪く、いまは
凋落の
一途にあったようです。
彼はぼくをみると
磊落に笑い、
退屈なまま色々な打明話をしてくれました。彼はKOの予科三年で続いて二度落第していると語り、「こんども
駄目だから、まア退学は固いね」と
他人言のように笑っていました。小学校のときから
駆けてばかりきて
歳を
老り、いま学校を追われる様になってもスポオツで食う見込はたたず、「まア国に帰って、兄貴の店でも手伝うか」と言っていましたが、スポオツでなにも
掴み得なかった
悔恨が、彼の心身を
蝕ばんでいるさまがありありと感ぜられ、外では歓呼の声や旗の波のどよめきが
潮のように
響いてくるままに、なにかスポオツマンの
悲哀、身に
染みるものがあって、ぼくも心がむなしかったのです。
浪に明け浪に
暮れる日々。それから毎日、海をみて
暮していました。
誰やらの
抒情詩ではありませんが、ただ青く遠きあたりは、たとうれば、古き思い出。
舷側に、しろく
泡だっては消えて行く
水沫は、またきょうの日のわれの心か、と少年の日の甘ったるい感傷に
溺れこんでもみるのでした。
阿呆なぼくは時折、あなたのことを思い出しては、痛く胸を
噛む苦さと快さを
愉しんでいました。
アメリカを
発ってから五日目。暖かい陽光をいっぱいに浴びた甲板のデッキ・チェアに
腰を降ろして、
蒼々と
凪いだ太平洋をみるともなく
眺めていますと、どやどやと下のケビンから十人ばかりの女子選手達があがって来ました。
内田さんや中村
嬢のなかに交ってあなたの姿もみえたとき、ぼくは心が定らないまま
逃げだしたい
衝動にかられました。しかし女のひとが好きで
且つおっちょこちょいのぼくは、あなた達から好意を持たれているのを意識しているだけ、なにか気の
利いた文句を一言聞かせたく、その
為だけでも
浮々と
皆を
迎えるのでした。みんなはお
喋りな小鳥のようにぺちゃくちゃ
囀りながら、
附近のデッキ・チェアに群がりましたが、ぼくの顔をみるや、急に内田さんから始まって、ひそひそ話になり、一度にぱっと飛びたって、
一瞬の間に全部いなくなってしまいました。あとにあなたともう一人、
円盤の石見嬢が残っていましたが、石見さんもみんなの
俄かに席から立ち去って
了ったのに
驚くと、きょろきょろ
辺りを
見廻して、初めてあなたとぼくに気づくと、こちらが照れてしまうほど
真ッ
赧になり、大きな
身体をもじもじさせ、スカアトの
襞を直したりして
体裁を
繕ってから、大急ぎで
駆け去ってしまいました。
さて、ぼくは、あなたの
傍のデッキ・チェアに
坐り直してはみましたが、やはり、
烈しい
羞恥にいじかんだような、
堅いあなたの
容子をみていると、ぼくも同様あがってしまい、その
癖、意地悪いうちの連中がやってきて、なにか言うなら言え、とそのときの
糞度胸はきめていたのですが、
愈々話をする段になるとなにから話そうかと切りだす
術をさがして、ぼくは外見落着きを
装ってはいるものの、頭のなかは火のように燃えていました。
と、自分の
靴先きをみるともなく見詰めていたぼくの
瞳に、あなたの
脚が写ってきました。海風が、あなたのスカアトをそよと
吹く、静かな一瞬です。短かい
靴下を
穿いていたあなたの脚に
生毛がいっぱいに生えているのがみえました。そのときほど、毛の生えた脚をしているあなたが
厭らしく見えたことはありません。
男は女が自分に愛されようと身も心も投げだしてくると、
隙だらけになった女のあらが丸見えになり
堪らなく女が鼻につくそうです。女が反対に自分から逃げようとすればするほど、女が
慕わしくなるとかきいています。そこに
手練手管とかいうものが出来るのでしょう。
ぼくは羞恥に
火照った顔をして、ちょこんと結んだひっつめの
髪をみせ、
項垂れているあなたが、
恍惚と、なにかしらぼくの
囁きを待ち受けている
風情にみえると、再び毛の生えたあなたの脚がクロオズアップされ、
悪寒に似た
戦慄が身体中を走りました。
ぼくはそれ
迄あなたへの愛情に、
肉慾を感じたことがなかった。
然しこの時、あなたの一杯に毛の生えた脚の、女らしい
体臭に
噎せると、ぼくはぞっとしていたたまれず、「熊本さんは
肥りましたね」とかなんとか、あなたの
萎れを気づかっていたつい最前の自分も忘れ、お座なり文句もそこそこに、立ちあがると逃げだしてしまいました。海を眺めに行ったのです。あとに残ったあなたの
淋しい表情が、形容のつかぬ
残酷さで
黙殺できると同時に、あなたの、やるせなさそうな表情は心に残った。ぼくは自分を勝手だとおもいました。
膨れあがった海をみながら――。
とかく帰りの旅は気もゆるみ
易く、
且つ練習がないので、みんなは酒を飲んだり、
麻雀をしたりした
無為の日々を送っていましたが、どうも一種、
頽廃の気風がなにか船中に
漂いだした感じがしてなりませんでした。
ハワイに入る前夜、園遊会が
盛大に開かれ、会長のK博士夫妻もインデアンの
羽根飾り
帽を
冠って出場する
和やかさでした。
ぼくは借り物競争に出て、
算盤と女の帽子と草の葉を一枚、集めてくるのにあたり、はじめに近くに見物していた内田さんの頭から、ものもいわずに、
紅いベレエ帽をひったくり、ポケットにねじこむと、ドタドタと階段をおっこちて、事務所に
殺到、事務員のひとが、
呆気にとられているか、笑っているのか
見極めもできぬ素早さで算盤をひったくり、次いで、階段を、
大股に、三段位ずつ飛びあがって、
頂辺のガアデン・ルウムに入ろうとすると、ぴったり足がとまりました。緑
滴たる
芭蕉の葉かげに、若い男女が二人、
相擁しあって、愛を
囁いているのです。それだけをみて、ぼくはくるりと引っ返し、競争を
廃棄しました。算盤をかえして、次にベレエ帽をかえすとき、内田さんは、「ぼんち、どうして
止めたの」と
訊かれ、「草の葉がなかったんだ」と答えると、「
莫迦ね。ここにあるじゃないの」と彼女の胸にさしていた、忘れな草の造花を差出してくれました。
再び青きハワイ――。
ワイキキ。プウルを村川と二人、平泳の競泳をしながら、日本へ帰ったらうんと遊ぼうや、とつまらない
約束をし、プウルから上がり、
脱衣場に
戻って行ったら、まんまと五
弗入りの
財布を
盗まれていました。
ホノルルの日本領事館で、官民合同の
歓迎会が
催されたのち、
邦人の方の
御好意で、選手一同ハワイの名勝ダイヤモンド・ヘッドからハナウマイへかけて、見物させて
貰いました。
殊にハナウマイの
涯しない白砂のなだらかさ、緑葉
伸び張ったパルムの
梢の
鮮やかさ、赤や青の海草が
繚乱と潮に
揺れてみえる
岩礁の、幾十
尋と
透いてみえる海の
碧さは、原始的な風景というより風景の
純粋さといった
感銘がふかく、ながく心に残っています。
また、それ
迄みも知らぬ赤の他人の邦人の方が、日本選手という名前だけで、自動車と昼食とアイスクリイムを提供してくれ、その上、細々と御世話を焼いて下さった御好意は、真実、日本人同士ならばこそという気持を味って
嬉しかった。あれ
程、損得から
離れた親切さには、その後めったに
逢いません。
出帆前の船に、またハワイ生れのお
嬢さん達が集まって、
華やかな、幾分エロチックな空気をふりまいていました。
往きのときに会った、だぼはぜ嬢さんや、テエプを投げてやった
可憐な
娘も、みんな集まっていて、会えばお
互いに忘れず、なによりも
微笑が先に立つ
懐しさでした。
だぼはぜ嬢は、
相不変の心臓もので、ぼく達よりも一船前にホノルルを去った野球部のDさんやHさんに、生のパインアップルをやけに
沢山託づけました。船室に置いておいたら、いつの間にか
誰か食ってしまい、ぼくには、そんな
空しい
贈り物をする、だぼはぜ嬢さんが
哀れだった。Dさんにファン・レタアも
頼まれたのですが、それも結局、次から次へと託づけて行くうちに幾人もの男達に読まれて笑われ、どうにか当人に
渡ったにしても、
所詮、
真面目には読んで貰えないものにと思われて気の毒だったのです。
また例の可憐な娘に、テエプを
抛る
約束をしたら、その娘は下船するとき、
彼女の写真と手紙を渡してくれました。船が出てから、便所に持ちこんで読んだらこんな風に書いてありました。
≪二三日前、新聞でオリムピック選手達が、明日ホノルルに寄航するという記事を読み、坂本さんにも会えると思ったら、その晩
夢をみました。
ずっと前、日本に帰って死んだお
祖母さんが夢に出てきて、
妾の手を
曳いてくれ、「これから坂本さんのお宅に行くんだよ」と言います。「嬉しいなア」と妾は喜んで、冷たくてカサカサするお祖母さんの手に
縋り、どんどん暗い
狭い
路を歩いて行きますと、まだ見たこともない日本の町は、
燈火が少なくて、たいへん
淋しくありました。
少し前方に、大きな灯のついた家がひとつあってお祖母さんは指をさし、「あれが坂本さんのホオムだよ」と申されました。
ところが、お家の前に広い深い河がありまして、お祖母さんは妾の腕を
抜けそうに引張り、ジャブジャブ渡って行きましたが、妾の着物はびしょぬれで、
皺くちゃになりました。すると、お祖母さんは、たいへん
怖い顔になって、「坂本さんのお宅は、お行儀が
煩さいから、ちゃんとしたなりで、お前が行かないと、
花嫁さんにはなれないよ」と怒ったので、妾はいつ迄もいつ迄も泣いていました≫
それからなんと書いてあったか忘れましたが、要するに、お兄さんみたいな気がするとか、いつ迄も忘れずにお便りを下さいな、とかそんな手紙の文句でした。でも、その夢の話だけは非常にシムボリックな気がして、感銘ふかく覚えています。異境に
培われた一輪の花の、やはり、実を結びがたい
悩みと
儚なさが
露わにあらわれていて、ぼくには
如何にも哀れに、悲しい夢だとおもわれたのです。
ハワイをでると、あとはもう横浜まで海ばかりだという気持が、なにかぼくを気抜けさせるものがあって、船室に
引籠って
啄木歌集を読んだり、
日向に出ては海を
眺めたり、そんな時を過していました。
例えば、往きの船が、しょっちゅう太陽を感じさせる
雰囲気に包まれていたとすれば、帰りの船はまた絶えず月光が
恋しいような、感傷の旅でした。ぼくは自己批判も
糞もなく、
甘くて下手な歌や詩を作り、
酩酊している時が多かった。
そうした
或る日のこと、中村さんにプロムナアド・デッキで、ぱったり
逢うといきなりサインブックをつきつけられ、「なにか記念になるものを書いて」と
頼まれました。船室に持って帰って、前の
頁を
繰ってみますと、――
乙女の君の夢よ、安かれ。――とか、
高く強く速く頑張れ中村嬢――とか、様々な文句が書いてあるなかに、Y女子監督が――
鯨吠ゆ太平洋に金波照り
行方知れぬ月の旅かな――とかいう様な歌を書いているので、ぼくも
臆面なく――かにかくにオリムピックの
想い
出となりにし人と土地のことかな、――と書きなぐり、中村嬢に
渡しておきました。
すると、二三日
経って、
甲板で逢った内田さんがぼくに、「坂本さん、お願いがあるんやけれど」と
珍しく改まった調子です。「ハア」とぼくが
堅くなると、今度は笑いだして、うしろに居た百
米のM嬢をふりかえり、「ねエ坂本さんの歌うまかったわねエ」「
否、
駄目ですよ」と照れるぼくを
黙殺して、「ねエMさんがあなたに歌をかいて下さいって。
幾つでも出来るだけ」Mさんというひとはピチピチとした弾力のある子供っぽい愛くるしい顔をしている
癖に、コケットの様な
濃厚なお
化粧をいつもしていました。
そこでぼくは
彼女達に
婉然と頼まれると、
唯々諾々としてひき受け、その夜は首をひねって、彼女の
桃色のノオトに書きも書いたり、――かにかくに太平洋に星多き夜はともすれば人の恋しき――から始まり――海の
上のノオトは
浪が消しゆきぬこのかなしみは誰が消すらむ――に終る、
面皰だらけの歌を十首ばかり作りあげ、翌日M嬢に手渡そうとおもいました。
面皰といえば思いだす、面白い話があります。同船していたブラジル人で十五歳位の女の子がいて、それが大分早熟で、体操のKさんの
跡ばかり追っていました。
或るときブリッジの
蔭で、Kさんの名前を呼び
喚いている女の子が、あまり
一生懸命に呼び探しているので、「ヘェイ、ぼくと遊ぼう」と
覚束ない英語でからかうと、女の子は急に貴婦人のように取り
澄まし、しげしげ、ぼくの顔をみていましたが、いきなり
唇をとがらせ「
面皰!」と吐きつけると、バタバタ
駆け去って行ってしまった。あとでぼくは、練習を
止めてから、めっきり増えた面皰づらを
撫で、苦く
佗しい想いでした。
翌日、歌をかいたノオトを返したくM嬢をさがしていると、また甲板で中村さんに出会い、M嬢は船室に内田さんと二人でいるとのことなので、早く渡してあげたく、かつて一度も行ったことのない、女の船室のほうへ行き、名札のかかったドアを軽く
叩くと、中から内田さんの声がものうげに「どうぞ」という。開けたとたんに、ぼくは
吃驚しました。内田さんがたった一人で、それもシュミイズ一枚で、
横坐りになり、
髪を
梳いていたのです。
白粉と
香水の
匂いにむっとみちた部屋でした。
内田さんは入って来たのがぼくなのをみると、
一寸坐り直し「坂本さんだったの」とみあげます。ぼくは内田さんの
女に
圧倒されて居たたまれない気持で、早々にノオトを渡し、
扉を開けて出るのと
殆ど同時でした。会長のK博士が温顔をきびしく結ばれて、
此方に
洋杖の音もコツコツとやって来られたのです。ぼくは、びっくり敗亡、飛ぶようにして自分の船室に逃げ帰りましたが、内田さんの小首を
傾げた横坐りの姿は、
可愛い
猫のような
魅力と
媚態に
溢れていて、ながく心に残りました。
しかし、それから間もなく、KOのボオトの連中が
坊主になるような事件を
惹き起したとき、ぼくは、なにか危なかったと胸をなでる気持がありました。
事件といっても、大したことではなく、村川から聞いた
処によると、
皆が
酔っぱらってブリッジにいると、中村さんを始め女のひと達が二三人あがって来た。それをこちらが不良学生みたいに取囲んで、酔った勢いで、ワアワア言っていると、中村さんが、真っ先に泣きだし、それを
折悪しく来かかったTコオチャアに見つけられ、みんなはその場で
叱責されたばかりでなく、Tさんは主将の八郎さんに告げたので、八郎さんがまたみんなを呼びつけて
烈火のように
怒り、自分から先に髪を刈って坊主になったので、皆もいさぎよく
揃って丸坊主になり、
謹慎の意を表したとのことでした。
横浜まで、あと一週間という日になった。
プロムナアド・デッキの
手摺に
凭りかかって海に
唾を
吐いていると、うしろから
肩を
叩かれ、
振返ると
丸坊主になりたての柴山でした。
彼はひどく
真面目ぶった顔付で「坂本君、熊本さんのことでなにか聞いたか」と
訊ねます。「いや別に」と答えると声をひそめ、「大変なことがあるんだ。これが
公けになったら熊本さんの一生は台なしだよ。君はあんなにして特に親しいから、君からいっぺん忠告してやれよ」と親切にお
節介を焼いてくれます。ぼくは息づまるほどのショックを受け柴山をみつめていました。
「昨夜なア、うちの河堀と金沢が、ボオト・デッキで
涼んでいたら、暗い
蔭になったほうでガサゴソ物音がするんだそうだ。なんだとおもってみてたら、熊本秋子とネルチンスキイの
奴が二人ッきりで
腕を組んで出てきた。それで、
此方で見ているとも知らずネルチンスキイが、熊本にながいこと
接吻してけつかったそうだ。
汚ない」
ネルチンスキイというのは一船
遅れて日本に
遠征に来る
筈の
芬蘭の陸上選手
監督で、一足先きに事務上の
連絡旁々この船に乗った、中年の
好紳士です。背が高く
口髭を
蓄え、
膏ぎった
赭顔をしていました。
ぼくは頭のなかが熱くなり、
嘘だ嘘だとおもいながらも柴山の言葉を否定するなんの
根拠もないままに、
無性に腹が立ってきました。柴山は続けます。
「それで、金沢が帰ってきて陸上の連中に話したから、みんな
怒っていたよ。二三人で呼びだして、熊本を
撲ろうかとまで言っているんだぜ」
ぼくはこれは大変だ、と思いました。とにかく河堀と金沢に会ってから真相を確かめ、その上であなたに
逢ってお話をするのだ、と心に決め、柴山の親切に、厚く礼をいってからその場を立ち去りました。
先ず、河堀を
捜しに行くとスモオキング・ルウムで、これも丸坊主になりたての頭で、
煙草を
吹かしていました。「ちょっと」と呼びだし、照れ
臭いのを
我慢して、あなたの一件を
尋ねますと、KOボオイの標準型で立派な青年紳士の
趣のある彼はかるく笑い、
「そりゃア柴山の話が大きいんだ。そこ
迄ぼく達はみなかった。ただ暗い処を二人でごそごそしていたし、出てきたとき熊本が泣いていて、それをネルチンスキイが
慰めていた様子が変だったから、金沢がみんなに話したんでしょう。しかし、ぼくには、なにも他人のことだし、
誰にも言いふらしたりしませんよ。安心なさい」
とニヤニヤ笑いながら、ぼくの肩を叩きます。マドロス・パイプを
乙に
銜え、落着いて
煙をくゆらす彼の態度にはなにか信用できるものがあって、ぼくはくれぐれもその
噂を打消すように頼むと、こんどは、階段を飛ぶように降りて、金沢の船室を叩いてみました。
折よく在室とみえ「お入り」と重々しい声です。ドアを開けると、元来禁欲
僧じみた
風貌の彼にはよく似合う
刈りたての頭をして、
寝台にどっかと
胡坐をかき、これも丸坊主の村川と、しきりに大声で笑いあって、なにか
嬉しそうに話をしていました。
入って行ったぼくをみると、彼は顔をあげて意外らしく、「オウ」と
挨拶します。ぼくが改まって、「金沢君、お願いがあるんだけれど」と切り出すと、「え、なんだい」彼はおおげさに
眉を
顰めました。ぼくは
下劣に
流布されているぼく達の交友が、ここでもストイックの彼に、
誤解されてはと「実は変にとられたら困るけれど」と前置きすれば、「いや別に変に思わないよ」ともう冷たい声で
突っぱなされました。
ぼくは
懸命になればなる
程、
拙劣なのを知りながら「実はあなたが昨夜、熊本さんについて見たことを、あなたの胸だけに
蔵っておいて
貰いたいのです」と言いかければ、彼は
不愉快そうにかん高く、ぼくを
遮り「なにも
俺はそんなことを
喋り歩いたりはしないよ。言ってみたって何の得にもならないし、第一、俺は熊本みたいな女に少しも興味がないもの」と、そこで一寸と口を切ってから、また落着いた
嗄れ声にかえり「
然し、実際女の選手ってだらしがねエな」と村川を
顧みれば、村川も
即座に、「じッせえ、女流選手っていうのは、なっちゃいないね」と
合槌を打ちます。ぼくは無責任な批評をするな、と腹がたちましたが、金沢は続いて無造作に、「しかし誰かに言い触らすようなことはしないよ。それは
約束します」という。その言い方に、ぼくはふッと、彼の大人を感じると、なにか信用して好い気になり、安心すると同時に、
一遍に
気恥かしくなってきて急いで、彼の部屋を辞しました。
無茶苦茶に
駆けあるきたいような
衝動にかられて、階段をかけ上って行くと、森さん、松山さん、沢村さん達がいずれ
麻雀でも果てたあとか、たくましく笑い合って降りて来かかり、血走ったぼくの様子をみると、顔見合せて、
更にどっと笑いたてました。
てッきり、あなたの一件で笑われたと、ぼくは
尚更、
口惜しがって、あなたを捜しまわりましたが、その晩は
遂に見つからず、また
不眠の夜を送りました。
翌日、海は晴れていた。ぼくは、あなたを探して船の上から下まで
馳せめぐった。逢ってなにか一言いわなければ、納まらない気持だったのです。その日も、むなしく海が
暮れました。ぼくはスモオキング・ルウムの
一隅に
坐り、ひとり
薄汚れた感傷を
噛んでいました。
その
頃の流行歌の一節に、≪花は咲くのになぜ私だけ、二度と春みぬ定めやら≫というのがありました。ぼくは
其処のところが、
奇妙に好きで、誰もいないのを幸い、何遍も何遍もかけ直しては、面をたれて、歌をきいていました。
逢魔ヶ時という海の夕暮でした。ぼくは電燈もつけず、
仄暗い部屋のなかで、ばかばかしくもほろほろと泣いてみたい、そんな気持で、なんども、その
甘い歌声をきいていました。その時ひょいと顔をあげると
愕然としました。あなたの仄白い顔が、窓から
覗いているのです。あんなに捜してもみつからなかったのに、一体どこにかくれていたんです、とも言いたく、お元気でなによりですと、喜んでもあげたかった。
が、
驚きのほうが強く、まじまじ目を見開いているぼくの顔にあなたは「ぼんち、今晩は」と笑いかけ、
寂しさに甘えようとしているぼくの表情が
判ると、ふッと
身体を乗りだし「そんなとこで、なにしてんの。ホホ……」と少しヒステリカルに笑い、顔見合せると急に笑い
止んで、やるせない
沈黙の
瞬時が流れましたが、ふっと表情をかえたあなたは「ぼんち映画みに行かないの」といい
棄てたまま、くるりと身を
翻えし、
甲板の
端の映画場のほうへ行ってしまいました。
機械的に、そのあとから、ぼくも
跳ねおき、活動を見に急いだのです。
映画は、むかし
懐しい大河内伝次郎主演、辻吉朗監督『
沓掛時次郎』でありました。ところは太平洋の
真唯中、海のどよめきを
伴奏にして、映画幕は潮風にあおられ、ふくれたり、ちぢんだりしています。見物人は船客一同に加えて、満天の星と、
或いは、海の
鱗族共ものぞいているかも知れません。
ぼくは、
舷側の手摺に
凭れて、みんなの頭越しに、この傷だらけのフィルムを、ぼんやり
眺めていました。
義理人情に
絡まれた男、沓掛時次郎の物語はへんてこに悲しいものでした。それに、説明を買ってでたレスラアB氏の説明が
出鱈目で、たとえば≪
助ッ
人≫と読むべきところを≪
助人≫と読みあげるような
誤りが、ぼくには奇妙な
哀愁となって、引きこまれるのでした。
飾りのない
束ね
髪に、白い
上衣を着たあなたが
項垂れたまま、映画をまるで見ていないようなのも悲しかった。
映画が済んで、みんな立ってしまったあと、ぼくは独り、
舷縁に
腰を
掛け、柱に手をまいて暗い海をみていた。青白いスクリインは、バタバタと風に
煽られ、そのまえに乱雑に転がったデッキ・チェア、みんな、
虚しい風景でした。
もう、なんにも、あなたに言いたくなくなって、ぼんやり、一等船室の大広間に足を
踏み入れると、
悚然、頭から水を掛けられたようなショックを受け、
絨毯のうえに身が
釘付けになりました。あなたが、衆人
環視のなかで泣いていたのです。
あとで聞くと、あなたは、その夜映画説明をしたB選手に
醜聞の件で、
面罵されたのだといいます。ぼくが
傍に居合せたら
恐らく、身体の
震える
憤りに気が
狂いそうだったことでしょう。
このとき、一足なかに踏み込み、その光景をみるなり、ぼくは
居竦んでしまいました。
紺のベレエ
帽に紺のブレザァコオトを着た内田さんが、看護婦のように、あなたに寄り
添って慰めていました。室内にいた二十人ばかりの男女の視線が
一斉に、立竦んでいるぼくに注がれた気がして居たたまれず、すぐ表に出てしまいました。
あなたが災難にあっているのに、何にもしてやれない自分がはがゆく、ぐるぐるデッキを
廻り歩きました。黒い海だった。走る波でした。
二三回、プロムナアド・デッキを歩いて、先程の広間の前まで来ると、そこの手摺に凭れてあなたが陸上の川北氏と話をしていました。
思いきったぼくは
臆面もなく、あなた達の間に割りこみました。あなたは泣いたあとの汚い顔はしていたけれど、なにか頼りなげな
可憐な風がありました。
ぼくは不作法にも
突然あなたに向い、口を切りました。「どうしたんですか。一体、熊本さん」あなたは顔をあげ、ひどく泣きじゃくりながら、話しだしました。このひとは
未だ少女ではないか、それを汚れた眼鏡でみるなんて、と、ぼくは
憤慨しながら、あなたの話を聞いていました。
「昨夜六時頃、Bデッキを散歩していますとネルチンスキイさんが、笑いながら傍によってきて、よくは判らないんですけれど、光るものと言うから多分夜光虫でしょう、をみせてあげるからボオト・デッキに行こうッて言うのでしょう。わたし一人で、
嫌だったから断ると、無理に、そりゃしつこく
誘うのでしょ。内田さんがいてくれたら、気が強いんですけれど、心細いのにね。相手が外国のひとで、よく言葉が
解らないから、
若し失礼になったら――と思って、ついて行ったんです。そしたら、ボオト・デッキに上って、暗いほうへ、ずんずん行って、
隅に立っていたの。気味がわるかったけれど
我慢して
一緒に
並んでいると、訳のわからない早口を言って、わたしの顔をみたり、なんにも見えない暗い海をみたりしていましたが、いきなり、私の手をこうして
握ったのでしょ。ぞうっとして、急いで、
振りきって、帰ってきたんです。それだけなの」
それだけの事実が、こんなにも
歪曲され拡大されて伝わって行くとはと、ぼくが訳もなく口惜しがっているあいだに、川北氏は考えを
纏め、しずかに意見を述べだしました。
「だから、熊本君、さっきも言ったように、ネルチンスキイ氏に、なにもそれ程の
邪意はなかったのじゃないかな。外国人は、女の手を握ったり、接吻したりするのは平気だから、
若しかすると単なる親愛の意味からやったに過ぎないのじゃないかとも思う。しかしそういう処へ、男と二人ッきりでいたという、あなたも
賢明じゃなかった。これからは、気をつけるんですね。
けれど、ネルチンスキイ氏にも、一度会って話はしておきましょう。なんでも
彼方の習慣通りにやられては
堪らない。ぼくが会って、あなたのことも、
明瞭に、あやまらせて置きます」
ぼくはこんなにテキパキあなたに話ができる川北氏が
羨しかった。ぼくには、
悔恨と
憧憬しかない。しかし、この人には理性と実行力があるのだと、尊敬する気持で、ぼくは、ネルチンスキイを捜す、川北氏のあとについて行きました。
折よくプウルの傍の手摺によりかかり、海に唾を吐きちらしているネルチンスキイをみつけると、川北氏は傍に近づき
巧みな英語で話しかけます。ぼくは初めから川北氏に無視された形でしたが、ここでも語学の点で、尚更ひっこんでいなくてはならず、それでもなにかの役に立てばと独りで興奮して、二人の会話を
傍観していました。
ぼくにはよく解らないながら、川北氏の一言一句はネルチンスキイの
肺腑に
染み
渡るとみえ、彼はいかにも
恐縮した様子で、「I'm sorry.」を
繰返しては
頷いていました。タイなしのカッタアシャツに灰色の上衣をひっかけた五尺そこそこ
無髯の川北氏が、六尺有余、でっぷりした赭顔の鼻下にちょび髭を蓄えた堂々たる紳士のネルチンスキイを説得している有様は、まるで書生が大臣をへこましているような快感がありました。
その話も結着して、川北氏に別れ独りになって甲板を歩いていると、なんとも言えぬ淋しさがこみあげてきて、なに一つできぬ自分がほんとに
厭になった。自分の意気地なさ、だらしなさ、情けなさが身にしみ、自分の
影法師まで、いやになって、なんにも
取縋るものがないのです。星影あわき太平洋、意地のわるい黒い海だった。
≪花は咲くのになぜ私だけ、二度と春みぬ定めやら≫と
音痴の歌をくり返しては口ずさみ、薄暗い
廊下を歩いてゆくと、向うの端から、仄白くあなたの姿が
浮んできました。
亡霊のような
儚なさで、あなたはまた誰にか
罵られたのか、
両掌で顔をおおい、泣きじゃくりながら近づいて来るのです。
ぼくと向きあっても、あなたは
覆っていた
掌を放さず肩をふるわせて泣いているのでした。次の瞬間、ぼくは
夢中であなたの肩を
叩き、出来る限りのやさしさを
籠め、「秋ッペさん泣くのはおよしよ。もう横浜が近いんだ」
すると、あなたは顔から手を放し、子供みたいに、こっくりして領いた。その時の、あなたの
瞳の
柔軟な美しさは、今も目にあります。「笑って」といったら、ほんとに、あなたはにっこり笑った。
ぼくには、それだけが精一杯だったのです。
あの夜、それだけで別れて横浜まで、お逢いしなかった。けれど、あのときの別れが、今日迄も続いている気がします。
その翌日――横浜に着く四日前――ぼくは酒を飲みました。
前の夜、あなたに言い足りなかった
口惜しさで、
珍しく朝から晩まで飲んでいました。そのうち
酔っ
払ってしまって、船の酒場に入ってくる
誰彼なしを取っ
掴まえては、
管をまき
盃を
強いていました。
日が
暮れると、いつの間にかホッケエ部の船室に入りこみ、ウイスキイの
瓶を片手に、時々
喇叭呑みをやりながら、「レエスに負けたって仕方がねエよ。だけど負けたのは
恥かしいねエ」とかなんとか同じ文句を
繰返しているうち、
監督のHさんから
肩を
叩かれ、「どうも君みたいな
酒豪にはホッケエ部で、
太刀打できるものがいないから、
頼むから帰って
寝てくれよ」とにこやかに
訓され、「はい、はい」と素直に立ち上がると、自分の部屋の前まで来ましたが、ちょうど同室の沢村さん、松山さんとそこで
一緒になりました。
「
大坂、いい
機嫌だな」とか、ひやかされてぼくは
嬉しそうに、「えエ、えエ」と首を振っていましたが、松山さんが部屋に入ったあと、沢村さんがぼくの首を
抱き、
覗きこむようにして、「ぼんち、熊本さんは」と
囁くのが、てっきり、あなたの醜聞の一件を指しているのだと思うと、ぼくには、これ
迄のこの人達の悪意が一ぺんに
想い出され、気のついたときには、もう沢村さんの
身体を
壁に
押しつけ、ぎりぎり
憎悪に
歪んだ眼で、
彼の
瞳を
睨みつけていました。
瞬間、ア、しまった、と思った時にはすでに
遅く、その
隙に立ち直った沢村さんが、「貴様やる気だな」と
叫びざま、ぼくを
突きとばすと、
直ぐのしかかって来て、ぼくの
頸を
絞めつけました。
そのとき松山さんが部屋から出て来て、この有様をみるなり、「おい、沢村よせよ、
大坂はだいぶ酔っているぜ」と止めてくれましたが、沢村さんは一度手をはなしたかとおもうと、今度はなんともいえぬ意地悪い眼付で、まじまじぼくを
見詰めているうち、不意に、平手で、力
一杯、ぼくの横ッ
面を張った。ぼくはことさら
撲られるのも感じないほど酔っている風に
装い、
唇を開けてフラフラして見せているのに、沢村さんは、続けて、ぼくの
右頬から左頬へと、びんたを
喰わせ、松山さんを
顧みてはニヤニヤ笑い、「こら、
大坂、これでもか。これでもか」 といくつも撲った。
そうして、横浜に着きました。
朝靄を、
微風が
吹いて、さざら波のたった海面、くすんだ緑色の島々、
玩具のような
白帆、
伝馬船、久し
振りにみる故国日本の姿は
綺麗だった。
鴎とびかう
燈台のあたりを
抜けて、船が
岸壁に向おうとすると、すでに、
満艦飾をほどこした
歓迎船が、
数隻出迎えに来てくれていました。
埠頭を埋めた黒山の群衆のなかから、日の丸の旗がちらちら見えるのに、負けてきた、という
感慨が、
今更のように
口惜しく、済まないなアと
込みあげて来ました。
もはやどやどやと上がりこんで来た連中で、
甲板は
一杯になり身動きもできません。新聞記者さんが一人、二人、ぼくのような者にまでインタアビュウに来てくれるのでした。
しかし色んな事で上気してしまっているぼくには、話といっても別に出来ませんでした。が、その翌日の地方版をみると勇ましく片手を挙げたぼくの写真の下に、≪坂本君は語る≫として次の様な記事が出ていました。
≪オォルの折れる
迄、
腕の折れる迄もと思い全力を挙げて戦って参りましたが武運
拙なく敗れて故郷の
皆様に
御合せする顔もありません。
只、心配なのは今度の戦績で、今後日本人がボオトに
於て、果してどれだけの
活躍が出来るかと危ぶまれることです。この上は、四年後のベルリンに備えて、明日からでも不断の精進を続け、必ず今日の無念さを晴らしたいと存じます≫
ぼくは、ぼくの気持通りに書いてくれた、記者さんの御好意に感謝はしましたものの、今更のようにジャアナリズムの
魔術に
呆れたものです。ぼくの寸言も真実、
喋ったものではありませんでした。
さて、横浜に着く迄に、あなたに
訊いておきたかった一言は、やはり、「あなたはぼくが好きですか」でありました。その返事を聞けなかった事がぼくの心残りだと、この手記の始めに思わせ振りに書いて置きました。
然し、聞いたからとて今思えばなんになろう。今になって残っているのは言葉でも肉体でもなく、ただ愛情の周囲を歩いた
想い出だけです。今のあなたにはお
逢いしたくない。
あのとき、帰りの船であなたがぼくの啄木歌集の余白に書いて下さった言葉を覚えています。
≪
往きの船ではずいぶん
面白く
御一緒に遊んで頂きましたわ。
真珠の
夢のように一生忘れられない思い出になりましょう。日本に帰りましたら是非お遊びにいらして下さい。寄宿舎の
豚小屋に≫
そして、その
頁のすぐ裏には、レスラア
某氏の書いてくれたこんな文句がありました。
≪世界は酒と女と金≫
横浜
沖で歓迎船が見えだしてから、ぼくは
慌てて、あなたの写真を内田さんと一緒に
撮らせて
貰いました。あなたの
衣裳も顔も
皺くちゃにレンズのなかにぼけて写っていました。あなたの顔は往きの船の健康さにひきかえ、
憂いの
影で深く
曇っていました。ぼくはそれをぼくへの愛情の
為かと手前勝手に解釈していたのです。
帰朝して三日目、高知県主催の歓迎会が丸の内の中央会館でありました。あなたも同じ高知県なので、
勿論お逢いできると思い、慌てて道を歩き交通
巡査に
叱られるほどの興奮の仕方で出席しました。しかし、
面窶れしているあなたにお逢いしても、やはりなんにも話せませんでした。
只、エレベエタアを一緒の
箱で、
身体が
触れ合って降りたときと、
挨拶に
壇上に登る際、降りて来たあなたと
擦れちがったときとが、限りなく苦しかった。
帰って
床に入り目をつむっていると、あなたが船のなかでボクサアのIさんとピンポンをしているときの姿態が
浮んできた。あなたはとてもピンポンが上手で、それだけ
汗塗れになってやっていた。
薄い
肌着がぴったりくっつき、あなたの肉体の線が
露わにみえていました。
そのうちどうした
機勢か、Iさんの強打した直球が、あなたのスカアトから股の間に飛びこんだら、皆もドッと笑ったけれど、あなただけいつまでも体をつぼめて、ヒステルカルに
癇高く笑い続けていました。
笑いが止まるとあなたは直ぐ、
真紅な顔になって、部屋に帰ってしまいましたが、そのときぼくがあなたを
撲りつけたい腹立たしさで、
一隅から笑いもせずに
睨みつけていたのを御存知ですか。
ぼくはあなたへの愛情に、肉体を考えたことがないと前にも書きました。帰朝してから
随分色んな歓迎会も
催して頂き、酔ったあとで友達同士、女遊びをする機会も多かったのですが、ぼくはどんな場合でも、芸者なり商売女に、「ぼくにはだいじな
女がいるから、悪いけれど気にしないで」とまともな顔で断って、指一本、
彼女達に触れたことはありませんでした。
帰って
暫くして、銀座のシャ・ノアルにクルウが
揃って行ったことがあります。初めに書いた、
嘗てぼくの
童貞とやらに興味を持ったN子という女給もいれば、松山さんも沢村さんの女達もいるカフエでした。ぼく達が入って行くと、マスタアが挨拶に来るは、女給が総出で取り巻くは、大変なものでした。
ぼくはその
頃むやみに酒を飲むようになっていましたから、一人でがぶがぶと
煽り、手近に
坐っていた京人形みたいな女給をちょっと好きになって、「君の名前は」とか訊いているうち、いきなり背後から生温かい
腕がぺたっと
頸のまわりに巻きつきました。
振返ると
熱柿みたいな
臭いをぷんぷんさせたN子です。「聞いたわよ、坂本さん、船のなかで女のひとと
凄かったんですッてねエ」「ああ」とぼくは素直です。「こんなお
婆ちゃんじゃ、
嫌い」とN子はぼくの頸にぶら下がったまま、ぼくの
膝に坐り、
白粉と紅の顔をぼくの胸におしつけます。
実をいうとぼくは肉体の快感もあって、こういう
酩酊の
為方も
好いなあ、と思いかけていましたが、便所に立った
虎さんが帰って来て、「オイ表に出てみろよ、大変な
貼出しが出ているぜ、ハッハッハ」と
豪傑笑いをするので、清さんと一緒に出てみますと、入口に立てかけた大看板に(只今オリムピックボオト選手一同御来店中)と
墨痕鮮やかに書いてあります。
しばらく
唖然と突っ立っていたぼくは、折から身体を
押して行く銀座の
人混みに
揉れ、段々、酔いが覚めて白々しい気持になるのでした。もうそのまま、帰りたくもなりましたが、皆で来ているのでそれもならず、再び店内に入ると、もはや、ほろ苦くなった酒を
呻るのも
止めてしまった。間もなく、マスタアが出て来て、「お写真をとらせて下さい」という。酔払った連中は、二つ返事で
銘々美女を
相擁し、
威勢よくシャムパングラスを左手に
捧げ立った
処を、ポッカアンとマグネシュウムが
弾けて一同、写真に撮られてしまいました。
所詮、だらしのないぼくが、そんなにも女色が
嫌いだったというのは
偏えに、あなたからの手紙の御返事を待っていたからです。
県人会でお逢いした翌日、ぼくは横浜へ着いた日に撮ったあなたの写真を、すぐあなたの寄宿舎のほうへ送っておきました。
勿論、あなたの
御迷惑を考え、あっさりした御手紙を
添えておいたのですが、きっと返事が来るだろうと信じていました。返事が来れば、それからお付合をして、
或いは結婚が出来るかとも思っていました。
ぼくはその夏、
鎌倉の家へ行っていました。
毎日、
夕暮になるとあなたからの手紙が
廻送されているような気がして、姉の子をおぶい、散歩に出た
浜辺から、
祈るような気持で、姉の家に帰って行ったものです。
相模の海の夕焼け空も、太平洋の夕照とかわりありません。
到頭あなたの手紙は来なかった。
それから間もなく、ぼくは兄の指導下に、学内のR・Sを手始めとして、段々本格的な
左翼運動へと走って行きました。続いて学内サアクルの検挙、一人の母を
棄てて地下へ、工場へ。ストライキから
掴まって転向、というヤンガアジェネレェション一通りの経過をへたぼくが、
狂熱的な文学青年になったのは、オリムピックの翌々年の春でした。
なにより先に、あなたとの思い出が書きたく、すでに書き
溜めの
原稿紙も五六十枚になった頃、
偶然、新宿の一食堂で、中村さんに逢いました。
暫く見ないうちにすっかり大人になった、来年はまた
伯林に行けると張切っていた中村さんから、
先ず、あなたが中国辺の女学校で、体操の先生をしているとの話を聞きました。同時に、内田さんが有名なスポオツマンの某氏と、
恋愛結婚をしたとの話を聞きました。
そのときの
衝動は強く、帰ってから直ぐ書きかけの原稿紙を全部、破ってしまいました。こんな興奮するようでは、
未だとても書けないと
諦めたからです。
次の年、
徴兵検査で、
本籍のある高知県に帰ったとき、
特殊飲食店を開いている
伯父さんから商売
柄の
廃娼反対演説を聞いたあと、こっちも一杯
機嫌で、あなたの話をほのめかすと、伯父さんは、「熊本秋子さんなら直ぐ、
隣町の床屋の
娘さんじゃきに、伯父さんもよう知っとるし、本当におまはんがその気なら、じき話を決めるがのうし」と大乗気になられ、
却って
此方が
辟易しました。
それよりも去年の暮、
出征していた頃、
北京郊外豊台駅前のカフェに入った処が、高知県出身の女給さんばかりが多くいて、あなたの
噂が、偶然オリムピックの話から出たのには驚きました。あなたと同じ女学校で三年下だったという
其処のある女給さんは、なかなか色白
細面の美人でしたが、あなたのことを「とてもすらりとした
可愛いお方でしたわ」とお世辞を言っていました。
そうして、ぼく達のグルウプの人々は――。
帰朝して間もなくインタアカレッジで
漕がされたエキジビジョンの風景を想い出します。
真紅のオォルに真紅のシャツ。みんな
出立ちは
甲斐々々しく、ラウドスピイカアも、「これより、オリムピック・クルウの
独漕があります」と
華々しく放送してくれたのでしたが、
橄欖の
翠りしたたるオリムピアがすでに
昔に過ぎ去ってしまった
証拠には、みんなの面に、身体に、帰ってからの
遊蕩、不節制のあとが歴々と刻まれ、
曇り空、どんより
濁った
隅田川を、
艇は
揺れるしオォルは揃わぬし、外から見た目には
綺麗でも、ぼくには早や、
落莫蕭条の秋となったものが感ぜられました。
そうして二三年
経ってから。
『若き君の多幸を祈る』と啄木歌集の余白に書いてくれた美少年上原が、女に身を持ち
崩し、下関の旅館で自殺をしたときいた。銀座ボオイの
綽名があった村川が、お
妾上がりのダンサアと心中して一人だけ生残ったとの噂もきいた。
沢村さんは
満洲へ、松山さんはジャワへ、森さんは
北支、七番の坂本さんはアラスカへと皆どこかへ行ってしまった。
東海さんは昨年、戦地で逢いました。
補欠の佐藤は戦死したと聞きました。
戦地で、
覚悟を決めた月光も明るい晩のこと、ふっと、あなたへ手紙を書きましたが、やはり返事は来ませんでした。
あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか。