オリンポスの果実

田中英光





 秋ちゃん。
 と呼ぶのも、もう可笑おかしいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近いはずだ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに女房にょうぼうもらい、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、近頃ちかごろ風の便りにききました。
 時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした追憶ついおくをするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。
 こいというには、あまりに素朴そぼくな愛情、ろくろく話さえしなかった仲でしたから、あなたはもう忘れているかもしれない。しかし、ぼくは今日、ロスアンゼルスで買った記念の財布さいふのなかから、あのとき大洋丸で、あなたに貰った、あんずの実を、とりだし、ここ京城けいじょう陋屋ろうおくもささぬ裏庭にてました。そのとき、急にこうしたものが書きたくなったのです。
 これはむろん恋情れんじょうからではありません。ただむかしの愛情の思い出と、あなたに、お聞きしたかったことが、聞けなかった心残りからです。
 思わせぶりではありますがその言葉は、この手記の最後まで、とっておかして下さい。


 あなたにとってはどうでしょうか、ぼくにとって、あのオリムピアへの旅は、一種青春の酩酊めいていのごときものがありました。あの前後を通じて、ぼくはひどい神経衰弱すいじゃくにかかっていたような気がします。
 ぼくだけではなかったかも知れません。たとえば、すでに三十近かった、ぼく達のキャプテン整調の森さんでさえ、出発の二三日前、あるいかがわしい場処へ、デレゲェション・バッジを落してきたのです。
 モオラン(Morning-run)と称する、朝の駆足かけあしをやって帰ってくると、森さんが、合宿わきの六地蔵の通りで背広を着て、うつむいたまま、何かを探していました。
 駆けているぼく達――といっても、かじの清さんに、七番の坂本さん、二番のとらさん、それに、ぼくといった真面目まじめな四五人だけでしたが――をみると、森さんは、真っ先に、ぼくをよんで、「オイ、大坂ダイハン、いっしょに探してくれ」とたのむのです。ぼくの姓は坂本ですが、七番の坂本さんと間違まちがやすいので、いつも身体からだの大きいぼくは、侮蔑ぶべつ的な意味もふくめて、大坂ダイハンと呼ばれていました。
 そのとき、バッジを悪所に落した事情をきくと、日頃いじめられているだけに、みんなが笑うと一緒いっしょに、き出したくなるのを、我慢がまんできなかったほど、い気味だ、とおもいましたが、それから、しばらくして、ぼくは、森さんより、もっとひどい失敗をやってしまったのです。
 出発の前々夜、合宿引上げの酒宴しゅえんが、おわると、皆は三々五々、芸者買いに出かけてしまい、残ったのは、また、舵の清さん、七番の坂本さん、それと、ぼくだけになってしまいました。ぼくも、遊びに行こうとは思っておりましたが、ともあれ東京に実家があるので、一度は荷物を置きに、帰らねばなりません。
 その夜は、いくら飲んでも、いがまわらず、むなしい興奮と、練習づかれからでしょう、頭はうつろ、ひとみはかすみ、まぶたはおもく時々痙攣けいれんしていました。なにしろ、それからの享楽きょうらく妄想もうそうして、夢中むちゅうで、合宿を引き上げる荷物も、いい加減にしばりおわると、清さんが、「坂本さん、今夜は、家だろうね」とからかうのに、「勿論もちろんですよ」こう照れた返事をしたまま、自動車をよびに、戸外に出ました。
 そのとき学生服を着ていて、協会から、作って貰った、そろいの背広は始めてまとうれしさもあり、その夜、遊びに出るまで、着ないつもりで手をとおさないまま、蒲団ふとんの間に、つつんでおいた、それが悪かったんです。はじめから、着ていればよかった。
 運転手と助手から、荷物を運び入れてもらったり、ぼくは、自動車の座席にふんぞりかえり、その夜の後の享楽ばかり思っていました。なにしろ、二十はたちのぼくが、餞別せんべつだけで二百円ばかり、ポケットに入れていたんですから――。
 そのころ、ぼくは、銀座のシャ・ノアルというカフェのN子という女給から、誘惑ゆうわくされていました。そして、それが、ぼくが好きだというより、ぼくの童貞どうていだという点に、迷信めいしんじみた興味をもち、かつ、その色白で、瞳のすずしい彼女かのじょが、先輩Kさんの愛人である、とも、きかされていました。その晩、それを思い出すと、腹がたってたまらず、よし、おれでも、大人なみの遊びをするぞと、覚悟かくごをきめていた訳です。が、さすがにこうやって働いている運転手さん達には、すまなく感じ、うちに着いてから、七十銭ぎめのところを一円やりました。
 うちに入ると、助手が運んでくれた荷物は、ぐちゃぐちゃにこわれている。が、最初のぼくの荷造りが、いい加減だったのですから、気にもとめず、玄関げんかんへ入り、その荷物を置いたうしろから顔をだした、しわ雀斑そばかすだらけの母に、「ほら、背広まで貰ったんだよ」と手をッこんで、出してみせようとしたが手触てざわりもありません。「おやッ」といぶかしく、運んでくれた助手にたずねてみようと、表に出てみると、もう自動車は、白いけむりが、かすかなほどはるかの角を曲るところでした。「可笑おかしいなア」とぼやきつつ、ふたたび玄関に入って、気づかう母に、「なんでもない。あるよ、あるよ」といいながら、包みの底の底までひっくり返してみましたが、ブレザァコオトはあっても、背広のかげも形もありません。なにしろ明後日、出発のこととて、外出用のユニホォムである背広がなくなったらコオチャアや監督かんとくに合せる顔もない、金を出して作り直すにも日時がないとおもうと根が小心者のぼくのことである。もう、顔色まで変ったのでしょう。はや、キンキン声で、「お前はだらしがないからねエ」としかりつける母には、「あア、合宿に忘れてきたんだ。もう一度帰ってくる。大丈夫だいじょうぶだよ」といいおき、また通りに出ると車をとめ、合宿まで帰りました。
 艇庫ていこには、もう、てしまった艇番夫婦ふうふをのぞいては、だれ一人いなくなっています。二階にあがり、念のため押入おしいれをさがしてみましたが、もとより、あろうはずがありません。
 もう、先程さきほどまでの、享楽をおもっての興奮はどこへやら、ただ血眼ちまなこになってしまった、ぼくは、それでも、ひょッとしたら落ちてはいないかなアと、浅ましい恰好かっこうで、自動車のみちすじを、どこからどこまで、うようにして探してみました。そのうち、ひょッとしたら、合宿の戸棚とだなのグリスかんの後ろになかったかなアと、みぞのなかをみつめている最中、ふとおもいつくと、ぐまた合宿の二階に駆けあがって、戸棚をあけ、鉄亜鈴てつあれいや、エキスパンダアをどけてやはり鑵の背後にないのをみると、否々いやいや、ひょッとしたら、あの道端みちばた草叢くさむらのかげかもしれないぞと、また周章あわてて、駆けおりてゆくのでした。
 捜せば、捜すだけ、なくなったということだけが、はっきりしてきます、頭のなかは、火が燃えているように熱く、空っぽでした。もう、駄目だめだとあきらめかけているうち、ひょッとしたら、さっき家で、蒲団を全部、ひろげてみなかったんじゃなかったか、という錯覚さっかくが、ふいに起りました。そうなると、また一も二もありません。一縷いちるの望みだけをつないで、また車をつかまえると「渋谷しぶや、七十銭」と前二回とも乗った値段をつけました。
 と、その眼のぎょろっとした運転手は「八十銭やって下さいよ」とうそぶきます。場所が場所だけに、学生の遊里帰りとでも、間違えたのでしょう、ひどく反感をもった態度でしたが、こちらは何しろ気が顛倒てんとうしています。言い値どおりに乗りました。
 ぼくは、車にられているうち、どうも、はじめの運転手にられたんだ、という気がしてきました。(彼奴あいつに一円もやった。泥棒どろぼうに追銭とはこのことだ)と思えば口惜くやしくてならない。たまりかねて、「ねエ、運転手君。……」と背広がなくなったいきさつを全部、この一癖ひとくせありげな、運転手に話してきかせました。
 すると、彼は自信ありげな口調で、「そりやア、やられたにきまっているよ。こんな商売をしているのには、そんなのが多いからね」とうなずきます。ぼくは、「そうかねエ」とにもつかぬ嘆声たんせいを発したが、心はどうしよう、と口惜しく、張りけるばかりでした。が、その運転手は同情どころかい、といった小面憎こづらにくさで、黙りかえっています。
 それでいて、家につくと、彼は突然とつぜん、ここは渋谷とはちがう、恵比寿えびすだから、十銭ましてくれ、ときりだしました。てッきり、められたと思いましたから、こちらも口汚くちぎたなののしりかえす。と、向うは金梃レバーをもち、ドアをあけ、飛びだしてきました。「喧嘩けんかか。ハ、面白おもしろいや」とさけび、ええ、やるか、と、ぼくも自棄やけだったのですが、もし血をみるにいたればクルウのはじ、母校の恥、おまけにオリムピック行は、どうなるんだと、思いかえし、「オイ、それじゃア、交番に行こう」と強く言いました。「行くとも! さア行こう」たけりたった相手は、ぼくのかたつかみます。振りきったぼくは、ええ面倒めんどうとばかり十銭はらってやりました。「ざまア見ろ」とか棄台詞すてぜりふを残して車は行きました。ぼくは、前より余計しょんぼりとなって玄関のしきいをまたいだのです。
 気の強い母は、ぼくの顔をみるなり、みつくように、「あったかえ」と訊ねました。ぼくは無言で、荷物のところへ行くと、蒲団はすでにたたんで、風呂敷ふろしきが、上にっています。どうしていいか分らなくなったぼくは、空の風呂敷をつまんで、振って、捨てると、ただ、母の怒罵どばをさける為と、万一を心頼みにして、「やっぱり合宿かなア。もう一度、捜してくらア」と留める母をふりきり、家を出ました。勝気な母も、やっぱり女です、兄が夜業でまだ帰りませんし、「困ったねエ」を連発していました。
 ぼくはまた、自動車で、渋谷から向島むこうじままで行きました。熱が出たようにあつい額を押え、いきどおりといにギリギリしながら、艇庫につき、念を入れてもう一回、押入れなぞ改めてはみましたが夜もけ、人気ひとけのない二階はたださえ、がらんとして、いよいよ、もう駄目だ、という想いを強めるだけです。
 ぼくは二階の廊下ろうかを歩き、屋上の露台ろだいのほうへ登って行きました。眼の下には、するどバウをした滑席艇スライデングシェルがぎっしり横木につまっています。そのラッカアりの船腹が、仄暗ほのぐらい電燈に、丸味をおび、つやつやしく光っているのも、みょうに心ぼそい感じで、ベランダに出ました。遥か、浅草あさくさ装飾燈そうしょくとうが赤くかがやいています。時折、言問橋ことといばしを自動車のヘッドライトが明滅めいめつして、行き過ぎます。すでに一そうの船もいない隅田川すみだがわがくろく、ふくらんで流れてゆく。チャップチャップ、船台を洗う波の音がきこえる、ぼくは小説ロマンスめいた気持でしょう、死にたくなりました。死んだ方が楽だと、感じたからです。
 大体が、文学少年であったぼくが、ただ、身体の大きいために選ばれて、ボオト生活、約一箇年、「昨日も、今日も、ただ水の上に、陽がれて行った」と日記に書く、気の弱いぼくが、それも一人だけの、新人フレッシュマンとして、たくましい先輩達にし、きたえられていたのですから、ぼくにとっては肉体的の苦痛も、ですが、それよりも、精神的なへばりのほうが我慢できなかった。
 ぼくは、ボオトのことばかりでなく、日常生活でも、することが一々無態ぶざまだというので、先輩達にずいぶん叱られた。叱られた上に馬鹿にされていました。ぼくみたいに、弱気な人間には、ひとから侮辱ぶじょくされて抵抗ていこうの手段がないとあきらめ切る時ほど、悲しい事はありません。なにをいっても、大坂ダイハンおこらない、と先輩達は感心していましたが、怒ったら、ボオトをめるよりほかに手段がない。また、そうしてボオトを止めるのは、ぼくのひそかに傲慢ごうまん痩意地やせいじにとって、自殺にもひとしかった。
 それで、背広を失くした苦痛に、加えて、こうした先輩達の罵声が、どんなに辛辣しんらつであろうかと、思っただけでもたまりません。蔭口かげぐちや皮肉をとばす、整調森さんの意地悪さ、面とむかって「ぶちまわすぞ」とおどかす五番松山さんのすさまじさ、そうした予感が、えがたいまでに、ちらつきます。またそうした先輩達のむちから、いつもかばってくれるコオチャアやO・B達に対しても、ぼくの過失はなお済まない気がします。
 もだえ悶え、ぼくは手摺てすりによりかかりました。其処そこは三階、下はコンクリイトの土間です。飛び降りれば、それでおしまい。思い切って、ぼくは、頭をまえに突き出しました。ちょうど手摺がこしの辺に、あたります。はなれかかった足指には、力が一杯いっぱい、入っています。「神様!」ぼくは泣いていたかもしれません。しかし、その瞬間しゅんかん、ぼくがつばをすると、それは落ちてから水溜みずたまりでもあったのでしょう。ボチャンという、かすかな音がしました。すると、ぼくには、不意と、なにか死ぬのが莫迦々々ばかばかしくなり、ことに、死ぬまでの痛さが身にみておもわれ、いそいで、足をバタつかせ、圧迫されていた腸のあたりを、まえにもどしました。いま考えると、可笑しいのですが、そのときは満天の星、銀と輝く、美しい夜空のもとで、ほんとに困って死にたかった。
 そんな簡単に、自殺をしようと考えるのには、多分、耽読たんどくした小説の悪影響あくえいきょうもあったのでしょう。ぼくは冷たい風がかみをなぶるのに、やッと気がつきかけたが、もうなんとしても、背広は出てこないという点に、考えがぶつかると、やはり死の容易さに、かれてゆきます。ぼくは、なにか、ほかの方法で死にたいと、思いました。身投げは泳げるし、鉄道自殺は汚い、ああ、もう、と目茶苦茶な気持に駆りたてられ、合宿横にある交番に、さしかかると、「オイ」と巡査じゅんさに呼びとがめられました。それまでは、これから、向島の待合に行って、芸者と遊んだ末、無理心中でもしようかという虫の良い了見りょうけんも起しかけていたのですが、ハッと冷水をかけられた気がいたしました。
 こんな夜おそく、学生がへんな恰好かっこうでうろついていたからでしょう。巡査は、ぼくのそばにきて、じっとみつめてから、なんだという顔になり、「ああ君はWの人じゃないか」といい、大学の艇庫ばかり並んでいるところですから、ボオト選手の日頃の行状を知っていて、「いいねエ、君等は、飲みすぎですか」と笑いかけます。ぼくのあおざめた顔を、酒のゆえとでも思ったのでしょう。照れくさくなったぼくは、折から来かかった円タクを呼びとめ、また、渋谷へと命じました。
 家に着いたぼくは、なにもいわず、ただ「ねかしてくれ」と頼んだそうですが、あまり顔色と眼付が変なのに、心配した母は、すぐ、叱りもせずに、とこをしいてくれました。翌朝、眼の覚めたときは、もう十時過ぎでしたろう。まくらもとの障子しょうじ一面に、赫々あかあかと陽がさしています。「ああ、気持よい」と手足をのばした途端とたんふすまごしに、舵手だしゅの清さんと、母の声がします。ぼくの胸は、直ぐ、一杯にふさがりました。
 もう寝たふりをして置こうと、夜着をかぶり、きたくもない話なので、耳を塞いでいると、そのうち、またねむってしまったようです。あの頃は、よく眠りました。練習休みの日なぞ、家に帰って、食べるだけ食べると、あとは、丸一日、眠ったものです。それ程、心身共に、疲れ果てていたのでしょう。ところが、やがて、「やア、坊主ぼうず、ねてるな」という兄の親しい笑い声と、同時に、夜着をひッぱがれました。二十歳にもなっているぼくを、坊主なぞ呼ぶのは、可笑しいのですが、早くから、父を失い、いちばん末ッ子であったぼくは、家族中で、いつでもねこ可愛かわいがりに愛されていて、身体こそ、六尺、十九貫もありましたが、ベビイ・フェイスの、だ、ほんとに子供でした。
 ぼくの蒲団をまくった兄は、母から事情をきいたとみえ、叱言こごと一ついわず、「馬鹿、それ位のことでくよくよするやつがあるかい。さア、一緒に、洋服を作りに行ってやるから、起きろ、起きろ」とせかしたてるのです。ぼくは途端に、「ほんと」と飛び起きました。兄は会社関係から、日本毛織の販売所に、親しいひとがいて、特に、二日で間に合うように頼んでやる、というので、ぼくは大慌おおあわてに、支度したくを始めました。
 あとになって、わかったのですが、この朝、老いた母は、六時頃に起きて、合宿まで行ってくれ、また合宿では、清さんがひとり、明方に帰って来ていて、母から話をきくと、一緒に、家まで様子を見にきてくれたとのことでした。清さんは、ぼくを落着くまで、静かにほって置いたほうが好いだろう。背広のことは、コオチャアや監督に、よく話をしておきます。災難だから、仕方がない。明朝、出発のときは、ブレザァコオトをきて颯爽さっそうと出て来るように言って下さい。なアに、学生服で、あちらに行ったって、差支さしつかえないでしょう、と言い置いてくれたよし。兄は、その頃、すでに、共産党のシンパサイザァだったらしいのですから、ぼくや母の杞憂きゆうは、てんで茶化していたようでしたが、さすがに、一人の弟の晴衣はれぎとて心配してくれたとみえます。母といい、兄といい肉親の愛情のまえでは、ひとことの文句も言えません。
 服は仮縫かりぬいなしに、ユニホォムと同色同型のものを、出帆しゅっぱんの時刻までに、間に合してくれることになりましたが、やはり出来てきたのは少し違うので、ぼくはこの為、旅行中、背広に関しては、いつも顔を赤らめねばなりませんでした。


 出発の朝、ぼくは向島むこうじまの古本屋で、啄木たくぼく歌集『悲しき玩具がんぐ』を買い、その扉紙とびらがみに、『はろばろと海をわたりて、亜米利加アメリカへ、ゆく朝。墨田すみだあたりにて求む』と書きました。
 それから、合宿で、恒例こうれいのテキにカツを食い、一杯いっぱいの冷酒に征途せいとをことほいだ後、晴れのブレザァコオトもうれしく、ほてるような気持で、旅立ったのです。
 あとは、御承知ごしょうちのようなコオスで、大洋丸まで辿たどりつきました。文字通りの熱狂ねっきょう的な歓送のなか、名も知られぬぼくなどにまで、サインをたのみにくるおじょうさん、チョコレェトや花束はなたばなどをくれる女学生達。旗と、人と、体臭たいしゅうと、あせに、もまれ揉れているうち、ふと、ぼくは狂的な笑いの発作ほっさを、我慢がまんしている自分に気づきました。
 勿論もちろん、こんなに盛大せいだいに見送って頂くことに感謝はしていたのです。ことに、京浜間に多い工場という工場の、窓から、さくから、あるいは屋根にまで登って、日の丸の旗をってくれていた職工さんや女工さんの、目白押めじろおしの純真な姿を、汽車の窓からみたときには、思わずなみだがでそうになりました。
 しかし、例の狂的な笑いの発作が、船に乗って、多勢の見送り人達に、身動きもならないほど囲まれると、また、我慢できぬほど猛烈もうれつに、起ってきて、ぼくは教わったばかりの船室ケビンにもぐりこみ、思う存分、笑ってから、再びデッキに出たのです。
 むかし、教えて頂いた中学、学院の諸先生、友人、後輩こうはい連も来ていてくれました。銅鑼どらが鳴ってから一件の背広を届けに、兄が、母の表現を借りると、スルスルとましらのように、人波をかきわけ登ってきてくれました。これは帰朝してから、聞いたことですが、故郷鎌倉かまくらでの幼馴染おさななじみの少年少女も来ていてくれたそうです。なかでも、波止場はとば人混ひとごみのなかで、押しつぶされそうになりながら、手巾ハンカチをふっている老母の姿をみたときは目頭めがしらが熱くなりました。周囲に、家の下宿人の親切な人が、二人来ていてくれたので安心しながら、ぼくは、兄が買ってくれたテエプをほうりましたが、なかなか母にとどきません。
 女学生の一群にとびんだり、学校の友人達の手にはいったりしても、母にはとどかないのです。その内、ようやく、一つが、母の近くの、サラリイマン風の人に取られたのを、下宿人のHさんが話して、母に渡してくれました。少しヒステリイ気味のある母は、テエプをにぎり、しゃくり上げるように泣いていました。あまり泣くのをみている内、なにか、ホッとする気持になり、左右を見廻みまわすと、大抵たいていの選手達が、だれでも一人は、若い女のひとに来てもらっている、花やかさに見えました。
 ぼく達のクルウでも、豪傑ごうけつ風な五番の松山さん迄が、見知り越しのシャ・ノアルの女給とテエプをかわしています。こと美男ハンサムな、六番の東海さんなんかは、テエプというテエプが綺麗きれいな女に握られていました。肉親と男友達の情愛に、見送られているぼくは幸福にはちがいありません。が、母には勿体もったいないが、むすめさんがひとりまじっていて、しかった。
 そのさびしい気持は出帆しゅっぱんしてからも続きました。見送りの人達のかげも波止場もかすみ、港も燈台もへだたって、歓送船も帰ったあと、花束や、テエプの散らかった甲板かんぱんにひとり、島と、かもめと、波のうねりを、見詰みつめていると、もはや旅愁りょしゅうといった感じがこみあげて来るのでした。
 出発時のはなやかな空気はそのまま、船を包んで――ぼく達のクルウにも残っていました。朝のデンマアク体操も、B甲板を廻るモオニング・ランも、午前と午後のバック台も棒引も、隅田川にいるときとは比べものにならないほど楽だったし、みんなも、向うに着くまではという気が、いくらかはあったのでしょう。東海さんや、補欠の有沢さんを中心とするのろけ話や、森さんや松山さんを囲んでのエロ話も、さかんなものでした。
 合宿の頃から、ずうッと一人ぼっちだったぼくは、多勢の他テイムのなかにまざると、余計さびしく、出帆してから二三日、練習以外の時間は、ただ甲板を散歩したり、船室で、啄木を読んだり、船室が、相部屋の松山さん、沢村さんに占領せんりょうされているときは、喫煙室きつえんしつで、母へ手紙を書いたりしていました。
 故国を離れてから三日目、ぼくははずかしい白状をしなければなりません。無暗むやみに淋しくなったぼくはスモオキング・ルウムの片隅かたすみで、とても非常識な手紙を書こうとしていたのです。無論、書きかけただけで、実行はしませんでしたが、その前年の夏、鎌倉の海で、一寸ちょっと遊んだ、文化学院のお嬢さんに、ラブレタアを書いてやろうと思ったのです。返事は多分、向うに着いて貰えるだろうと思いましたが、その、つぶらなひとみをした、お嬢さんには、すでに恋人こいびとがあったかも知れないとおもうと、気恥かしくなって来て、めにしました。


 やはり、あなたと初めておいした晩のことは、はっきりおぼえています。
 例の、食事中にはネクタイをきちんと結べ、フォオクをがちゃつかすな、スウプを飲むのに音を立てるな、頭髪とうはつに手をれるな、といった食卓作法テエブルマナアも、まだ出発して一週間にならない、あのころはよく守られていました。
 そうした夕食後の一刻ひとときを、やはり新人フレッシュマンため、仲間はずれになっている、KOのフォアァの補欠で、銀座ボオイの綽名あだなのある、村川と、一等船客専用のA甲板かんぱんを――Aデッキを練習以外には使うな、などという規則が守られていたのは、初めの二三日でした。――ぶらついていると、「オーイ、活動が一等の食堂にあるぞオ」とだれかがさけんで、四五人、けて行きました。「行って見ようや」とぼくは村川をさそい、KOの二番の柴山しばやま補欠サブの河堀とも一緒いっしょになって、デッキを降り、食堂に入って行きますと、映画は始まっていて、代表選手の練習を集めた実写物らしく女子選手のダイビングが、空中に美しい弓なりのえがいているところでした。
 ぼく達、ボオトの場景が最後ラストかざり、ていれば、撮影さつえいされた覚えもある荒川あらかわ放水路、あししげみも、川面かわもさざなみも、すべて強烈きょうれつ斜陽しゃようの逆光線に、かがやいているなかを、エイト・オアス・シェルの影画シルエットが、キラキラする水をするどく切り、すさまじい速さで、進んでゆくのでした。影画のようなオォルでも、上げれば、水泡すいほうと、飛沫しぶきが、同時に光ります。「いいなア」と誰かが溜息ためいきをついていました。いでいれば、あんなにつらいものでも、見ていれば綺麗きれいに違いありません。
 映画が済んでから、またAデッキに出てみますと、太平洋は、けぶるような朧月夜おぼろづきよでした。きりがすこしたれこめ、うねりもゆるやかな海面を、ながめながら、Bデッキへの降り口にまで来たときです。甲板の反対側から、まわってきた、あなた達と、ぱったり一緒になってしまいました。すずめのようにしゃべりあっているあなた達に、村川は、「どうぞお先に」とふざけて、言いました。女子ハアドルの内田さんが、先に進みでて、「おおきに」とましたお辞儀じぎをしたので、あなた達は笑いくずれる。
 そのとき、全く偶然ぐうぜんで、すぐ前にいたあなたに、ぼくが「活動みていたんですか」ときいた。あなたはおどろいたように顔をあげて、ぼくをみた、真面目まじめになった、あなたの顔が、月光に、青白く輝いていた。それは、童女のかおと、成熟した女の貌との混淆こんこうによる奇妙きみょう魅力みりょくでした。
 みじんも化粧けしょうもせず、白粉おしろいのかわりに、健康がぷんぷんにおう清潔さで、あなたはぼくをきつけた。あなたの言葉は田舎いなかの女学生丸出しだし、かみはまるで、老嬢ろうじょうのような、ひっつめでしたが、それさえ、なにか微笑ほほえましい魅力でした。
 あなたは、薄紫うすむらさき浴衣ゆかたに、黄色い三尺をふッさりと結んでいた。そして、「ボオトはきれいねエ」と言いながら、そでをひるがえして真似まねをした。ぼくは別れるとき、「お名前は」とか、「なにをやって居られるんですか」とか、きました。そしたら、あなたは、「うち、いややわ」と急に、たもとで、顔をかくし、笑い声をたてて、バタバタ駆けて行ってしまった。お友達のなかでいちばん背の高いあなたが、子供のようにねてゆくところを、ぼくは、拍子抜ひょうしぬけしたように、ぽかんと眺めていたのです。そのくせ、心のなかには、うしおのように、温かいなにかが、ふツふツとき、くるってくるのでした。
 船室に帰ってから、ぼくは大急ぎで、選手名簿めいぼを引き出し、女子選手のところを、探してみました。すると、あなたの顔ではありますが、全然、さっきの魅力を失った、ただの田舎女学生の、薄汚うすぎたなく取り澄ました、肖像しょうぞうが発見されました。そこに (熊本秋子、二十歳、K県出身、N体専に在学中種目ハイ・ジャムプ記録一メエトル五七)と出ているのを、何度も読みかえしました。なかでも、高知県出身とある偶然さが、うれしかった。ぼくも高知県――といっても、本籍ほんせきがあるだけで、行ったことはなかったのですが、それでも、この次、お逢いしたときの、話のきっかけが出来たと、ぼくには嬉しかった。


 翌朝から、ぼくは、あなたを、先輩達に言わせれば、まるで犬の様につけまわし出しました。船の頂辺のボオト・デッキから、船底のCデッキまで、ぼくはひまさえあると、くるくる廻り歩き、あなたの姿を追って、一目遠くからでも見れば、満足だったのです。
 その晩、B甲板の船室のかげで、あなたが手摺てすりもたれかかって、海を見ているところを、みつけました。うでをくんで背中をまるめている、あなたの緑色のスエタアのうえに、お下げにした黒髪くろかみが、颯々さつさつと、風になびき、折柄おりからの月光に、ひかっていました。勿論もちろんぼくには、馴々なれなれしく、そばによって、声をかける大胆だいたんさなどありません。ただ、あなたの横にいた、柴山のかたたたき、「なにを見てる」とたずねました。それは、あなたに言った積りでした。柴山は、「海だよ」と答えてくれました。ぼくも船板ふなばたから、見下ろした。真したにはすこし風の強いため、舷側げんそくくだけるなみが、まるで石鹸シャボンのようにあわだち、沸騰ふっとうして、飛んでいました。
 次の晩、ぼくが、二等船室から喫煙室きつえんしつのほうに、階段をのぼって行くと、上り口の右側の部屋から、溌剌はつらつとしたピアノの音が、流れてきます。“春が来た、春が来た、野にも来た”といているようなので、そっとその部屋をのぞくと、あなたが、ピアノの前にちんまりと腰をかけ、その傍に、内田さんが立っていました。
 二人は、覗いているぼくに気づくと、顔を見合せ、花やかに、笑いだしました。その花やいだ笑いに、つりこまれるように、ぼくは、その部屋が男子禁制のレディスルウムであるのも忘れ、ふらふらと入りんでしまいました。あなた達は、怪訝けげんな顔をして、ぼくを見ています。ぼくも入ったきり、なんとも出来ぬ、羞恥しゅうちにかられ、立ちすくんでしまった。
 すると、あなた達はそそくさ、部屋を出て行きました。ぼくも、その後から、急いでげだしたのです。
 翌晩、船で、簡単な晩餐会ばんさんかいがあって、その席上、選手全員の自己紹介が行われました。なにしろ元気一杯な連中ばかりですから、溌剌とした挨拶あいさつが、食堂中にひびわたります。やり丹智タンチさんが女にしては、堂々たる声で、「槍の丹智で御座ございます」とお辞儀じぎをすると、TAをCHIとちがやすいものですから、男達は、どっと笑い出しました。ぼくには、大きな体の丹智さんが、呆気あっけにとられ、すわりもならず、立っているのが、その時には、ほんとうにお気の毒でした。いつもなら、無邪気むじゃきに笑えたでしょう。が、あなたの上に、すぐ考えて、それが如何いかにも、女性をけがす、許されない悪巫山戯わるふざけに、思えたのです。
 ぼくの番になったら、美辞麗句れいくを連ね、あなたに認められようと思っていたのに、はずかしがり屋のぼくは、口のなかで、もぐもぐ、せいと名前を言ったら、もうおしまいでした。
 あなたの番になると、あなたは、じずおくせず明快に、「高飛びの熊本秋子です」と名乗って着席しました。ぼくには、その人怖じしない態度が好きだった。
 それから何日、ったでしょう、ぼくはその間、どうしたらあなたと友達になれるかと、そればかりを考えていました。前にも言ったとおり、恥かしがりで孤独こどくなぼくには、なにかにつけ、目立った行為こういはできなかった。
 ある夜、船員達の素人芝居しろうとしばいがあるというので、みんな一等食堂に行き、すっかりがらんとしたあとぼくがツウリスト・ケビンの間を歩いていますと、仄明ほのあかるい廊下ろうかはずれに、月光に輝いた、実にさおな海がみえました。と、その間から、ひょいと、あなたの顔が、覗いてひっこんだのです。ぼくは我を忘れ駆けて行ってみました。すると、手摺に頬杖ほおづえついた、あなたが、一人で月をながめていました。月は、横浜をってから大きくなるばかりで、その夜はちょうど十六夜いざよいあたりでしたろうか。太平洋上の月の壮大そうだいさは、玉兎ぎょくと、銀波に映じ、といった古風な形容がぴったりするほどです。満々たる月、満々たる水といいましょうか。みきった天心に、皎々こうこうたる銀盤ぎんばんが一つ、ぽかッとうかび、水波渺茫すいはびょうぼうかすんでいるあたりから、すぐ眼の前までの一帯の海が、限りない縮緬皺ちりめんじわをよせ、洋上一面に、金光が、ちろッちろッと走っているさまは、まことに、ものすさまじいばかりの景色でした。
 ぼくは一瞬いっしゅん度胆どぎもかれましたが、こんな景色とて、これが、あの背広を失った晩に見たらどんなにつまらなく見えたでしょうか。いわばあなたとの最初の邂逅かいこうが、こんなにも、海を、月を、夜を、かぐわしくさせたとしか思われません。ぼくは胸をふくらませ、あなたを見つめました。
 その夜のあなたは、また、薄紫うすむらさき浴衣ゆかたに、黄色い三尺帯をめ、髪を左右に編んでお下げにしていました。化粧けしょうをしていない、小麦色のはだが、ぼくにしっとりとした、落着きをあたえてくれます。顔つき合せては、恥かしく、というより、何も彼にもが、しろがね色に光り輝く、この雰囲気ふんいきのなかでは、しゃべるよりもだまって、あなたと、海をみているほうが、たのしかった。
 随分ずいぶん、長い間、沈黙ちんもくが続いた後で、ぽつんとぼくが、「熊本さんも、高知ですか」とたずねました。あなたはうなずいてから、「坂本さんは、高知の、どこでしたの」と言います。「いや、高知は両親の生れた所ですけれど、まだ知りません。ずっと東京です」「そう。高知は良い国よ。水が綺麗きれいだし、人が親切で」「ええ、いています。母がよく、話してくれます。ほら、よさこい節ってあるんでしょう」「ええ、こんなんですわ」とあなたは、悪戯いたずらのように、くるくる動く黒眼勝くろめがちの、まつげの長いひとみを、輝かせ、えくぼをよせて頬笑ほほえむと、たもとひるがえし、かるく手拍子てびょうしを打って『土佐は良いとこ、南を受けて、薩摩颪さつまおろしがそよそよと』と小声で歌いながら、ゆっくり、おどりだしました。
 ぼくが可笑おかしがって、吹出ふきだすと、あなたも声を立てて、笑いながら、『土佐の高知の、播磨屋はりまや橋で、ぼうさん、かんざし、買うをみた』とすそをひるがえし、活溌かっぱつに、踊りだしました。文句の面白おもしろさもあって、踊るひと、るひと共に、大笑い、天地も、ために笑った、と言いたいのですが、これは白光浄土じょうどとも呼びたいくらい、荘厳そうごんな月夜でした。
 しかし、その月光のその一刻ひとときは、長かったようで、ぐ終ってしまいました。それは、あなたの友達の内田さんが、船室の蔭から、ひょッこり姿を、現わしたからです。内田さんも、あなたの様子にニコニコ笑って来るし、ぼく達も、笑ってむかえましたが、ぼくにとっては月の光りも、一時に、色褪いろあせた気持でした。


 それから、三人そろって、芝居しばいを見に行きました。なにをやっていたか、もう忘れています。多分、碌々ろくろく、見ていなかったのでしょう。ぼくは別れて、後ろの席から、あなたの、お下げがみと、内田さんの赤いベレエぼうが、時々、動くのを見ていたことだけおぼえています。
 それからの日々が、いかに幸福であったことか。だ、だれにも気づかれず、ぼくはあなたへの愛情を育てていけた。ぼくはそのころあなたと顔を合せるだけで、もう満ち足りた気持になってしまうのでした。朝の楽しい駆足かけあし、Aデッキをまわりながら、あなた達が一層下のBデッキで、デンマアク体操をしているのが、みえるところまでくると、ぼくはすぐあなたを見付けます。
 なかでも、長身なあなたが、若い鹿しかのように、しなやかな、ひきしまった肉体を、リズミカルにゆさぶっているのが、次の一廻り中、眼にちらついています。今度、Bデッキの上を駆ける頃になると、あなたは、海風に髪をなびかせながら、いっぱいに腕を開き、張りきった胸をそらしている。その真剣しんけんな顔付が、また、次の一廻り中、眼の前にある。その次、Bデッキの上まで来るとあなたは腕をあげあしを思い切り蹴上けあげている、というように、以前は、きらいだった駆足も、駆けている間中、あなたが見えるといったたのしさに変りました。
 それからすっかり腹をかした朝の食事、オオトミイルに牛乳をなみなみと注いで、あなたを見ると、林檎りんご丸噛まるかじりに頬張ほおばっているところ、なにかふっと笑っては、自分に照れ、うつむいてしまいます。(よく、食うなア)と、あなたに言った積りですが、案外、自分のことでしょう。
 朝飯を食うと午前中の練習で、八時半から十一時頃まで、ボオト・デッキと体育室ギムナジウムルウムの前に置いてあるバック台を、まず、三百本以上は、まって引きました。大体、三番のかじさんと、四番のぼくはならんで引くのが原則ですが、下手糞へたくそため、時々、五番の松山さんや整調の森さんとも引きます。ぼくは、どうが長くて、上体が重く、いつも起上りレカバリーが、おくれて、しかられるのですが、あの数日は、すばらしい好調でした。
 いつもはとなりのバック台に、合わそうとすればするほど合わないのが、その頃は合わそうとしないでも、いつの間にかチャッチャッとリズムが出てくるのです。身も心も浮々うきうきしていて、普段ふだん音痴おんちのぼくでも、ひどく音楽的になれたのでしょう。そのリズムに乗ってしまえばしめたもので、カタンと足で蹴り身体をたおした瞬間しゅんかん、もう上半身は起き上がり、スウッと身体は前に出てゆきます。手首をブラッときだし、全身が倒れた反動で、ひとりでに進むのをゆるくセエブしながら、みはるかす眼下ひろびろと、日に輝く太平洋が青畳あおだたみのようにいでいるのを見るのは、まことに気持のいものです。
 そんな時、監督かんとくに廻って来た総監督の西博士が、コオチャアの黒井さんに、「みんな、坂本君位、身体があれば大したものだなア」とめて下さるのを聞くと、いつもクルウの先輩せんぱい連からは、「大きな身体を、持てあましていやがって――」など言われているだけに、思わず、ハッとあがってしまい、また、普段の地金が出るのではないかと固くなるのでした。
 ある日、バック台を引いたあとで、腕組みをしながら、あとの人達のやるのを見ていて、ひょいと眼をあげると、あなたのあせばんだ顔が、体育室の円窓越しに、此方こちらながめていました。ぼくはぐ、はずかしくなって、視線をそらせようとすると、あなたも、さびしいくらい白い歯をみせ、笑うと、窓硝子ガラスをトントンこぶしたた真似まねをしてから、身をひるがえし逃げてゆきました。
 それからとうものは、ぼくは、バック台をひきながらも、背後の体育室のなかで、かすかに、モーターの廻り出す音でも、聞えると、あなたが来ているかなと、胸がたかまるのでした。
 いつでしたか、いちばん後まで残り、バック台をしまってからも、皆、降りて行ってしまうまで海を眺めるふりをし、誰もいなくなってから、体育室に入ってみました。
 すると、あなたと、内田さんが、木馬に乗って、ギッコンギッコンとすさまじい速さで、上がったり下がったりしています。おまけに、あなた達はパンツ一枚なのですから、太股ふとももの紅潮した筋肉が張りきって、プリプリ律動するのがみえ、ぼくはすっかり駄目だめになり、ほうほうのていで、退却たいきゃくしたことがあります。
 午後は、ぼく達の棒引が終ってから、あなたがたの練習をみるのが、また楽しみでした。
 ことに、あなたのアマゾンヌの様な、トレエニング・パンツの姿が、A甲板の端から此方まで、風をきって疾走しっそうしてくる。それも、ひどく真剣な顔が汗みどろになっているのが、一種異様な美しさでした。
よ、わが愛する者の姿みゆ。視よ、山をとび、おかおどりこえ来る。わが愛する者は※(「けものへん+章」、第3水準1-87-80)しかのごとく、また小鹿のごとし)
 紫紺しこんのセエタアの胸高いあたりに、あかく、Nippon といとりし、くるぶしまで同じ色のパンツをはいて、足音をきこえぬくらいの速さで、ゴオルに躍りこむ。と、すこしはなれている、ぼくにさえ聞えるほどのはげしい動悸どうき粒々つぶつぶの汗が、小麦色に陽焼ひやけした、豊かなほおしたたり、黒いリボンで結んだ、髪の乱れが、くびすじに、汗にれ、まつわりついているのを、無造作にかきあげる。
 七番の坂本さんが、ぼくのかたを叩いて、「すごいなア」という。あなたの真剣さに、感動したのでしょう。「ええ」とうなずきながら、ぼくはふいと目頭が熱くなったのに、自分でおどろき、汗をぬぐうふりをすると、あわてて船室に駆け降りました。
 ふなばたでは、やりの丹智さんが、大洋にむかって、ひもをつけた、槍を投げています。ブンと風をきり、五十メエトルも海にむかって、突き刺さって行く槍の穂先ほさきが、波にちるとき、キラキラッと陽にくるめくのが、素晴すばらしい。と、上の甲板からは、ダイビングの女子選手が、胴のまわりを、吊鐶つりわおさえたまま、空中に、さッと飛びこむ。アクロバットなどより真面目まじめな美しさです。
 と、また、男達のほうでも、ボクサアは、いつきそうな形相で、サンドバッグを叩いていますし、レスラアは、筋肉のかたまりにみえる、すさまじさで、ブリッジの練習。体操の選手は選手で、贅肉ぜいにくのない浮彫うきぼりのような体を、平行棒に、海老えび上がりさせては、くるくる廻っています。おおかた上のプールでは、水泳選手の河童かっぱ連が、水沫みずしぶきをたてて、浮いたりしずんだり、ウォタアポロの、球をうばいあっているのでしょう。
 それでありながら、古代ギリシャ、ロオマの巨匠きょしょう達が発見した、人間の文字通り具体的な、観念にかれぬという意味での美しさが、百花撩乱りょうらんと咲き乱れておりました。
 しかしながら、その中に育った、ぼく達の愛情は、肉体のあらわにみえる処に、あればあるほど肉体的でない、まるで童話メルヘンこい物語めいた、静かさでありました。あなたと語り合うことは、おそろしく、眼を見交みかわすことが、楽しく、もくして身近くあるよりも、ただ訳もなく一緒いっしょに遊んでいるほうが、うれしかったのです。
 夜の食事のときなど、メニュウが、手紙になったり、先の方に絵葉書がついていたりします。ぼくはその上に書く、あなたへの、愛の手紙など空想して、コオルドビイフでもんでいるのです。メニュウには、ほとん錦絵にしきええがかれています。歌麿うたまろなぞいやですが、広重ひろしげの富士と海の色はすばらしい。そのあいのなかに、とけこむ、ぼくの文章も青いまでに美しい。ところで、あなたはパセリなどくわえながら、時々こちらに、ちらっと笑いかけてくれるのでした。
 夜は、がいして平安一路な航海、月や星の美しい甲板で、浴衣ゆかたがけや、スポオツドレスのあなたが、近くに仄白ほのじろく浮いてみえるのを、意識しながら、照り輝く大海原おおうなばらを、眺めているのは、また幸福なものでした。
 なかでも、わけて愉しかったのは、昼食から三時までの練習休みの時間、大抵たいていのひとが暑さにかまけて、昼寝ひるねでもしているか、すずしい船室を選んで麻雀マアジャンでもたたかわしているのに、ぼくは炎熱えんねつけるような甲板の上ででも、あなたや内田さんと、デッキ・ゴルフや、シャブルボオドをして遊んでいれば、暑さなど、おもってもみない、楽しさで充実じゅうじつした時間でした。
 飯を食うと、ぼくは直ぐAデッキに出て、コオチャア黒井さんが昼寝している横の、デッキ・チェアにこしを降し、瀝青チャンのように、たぎった海を見ています。しばらってから、黄色いブラウスに白いスカアトをはいた、あなたと、赤いベレエ帽に、紺の上衣うわぎを着た内田さんとが、笑いながらやって来ます。内田さんは、ぼくに、「ぼんち、デッキ・ゴルフやろう」と言ってから、今度は黒井さんの手をひっぱって、無理に起します。黒井さんは、「ああァ」と大欠伸おおあくびをしてから、周囲をみまわし、「大坂ダイハンとか、よし、また、ひねってやろう」とゆっくり立ち上がるのでした。
 そこで、あなたと内田さんの組と、ぼくと黒井さんの組が対抗してゲエムを始めます。ぼくにとって、勝負なぞ、初めは、どうでも好いのですが、やはり良い当りをみせて、あなたの持ち輪を圏外けんがいみぞのなかに、叩き落したときなぞ、思わず快心のみがうかぶ、得意さでした。
 ことに、ぼくをいつも庇護ひごしてくれる黒井さんが、そういうとき、「うまい」と一言、めてくれるのが、ふだんクルウの先輩達が、ぼくをまるで、運動神経のゼロなように、コオチャアに言いつけているのを知っているだけ、とても嬉しかったのです。
 勿論もちろん、あなた達のほうでも、ぼく達を負かしたときには、手を叩いて、嬉しがっていた。勝負の面白さが、純粋じゅんすいに勝負だけの面白さで、その時には、恋も、コオチャアも、女も、利害も、過去も未来もなかったのです。
 後年、ぼくは、る女達と、もっと恋愛れんあいらしい肉体的な交際を結びました。しかし、それが、所謂いわゆる恋愛らしい、形を採ればとるほど、ぼくは恋愛をよそおって、実は、損得を計算している自分に気づくのでした。
 おもうに、あのとき、燃える空と海に包まれ、そして、焼きつくような日光をあびた甲板に、勝っているときは嬉しく、負けたときは口惜くやしく、遊びの楽しさのほかには、なにもなかった。ぼくは、本当に、黄金の日々を過していたのでした。
 もう、あの日当りでのデッキ・ゴルフの愉しさは、書くのをめましょう。もっと、純粋な愉しさがあって、書けば書くほど、うそになる気がします。
 しかし、この黄金の書に、ものを書く時間は短かく、これと殆ど同時に、ぼくには、大きな不幸がしのびよって来ていました。それは、まず第一に、ほかの人間達が、ぼく等の友情のなかに、かげを落して来だしたことです。次には、ぼく達が、他の人達に注目されるほど、仲良くなって行ったことです。


 ある日、写真機を持出した村川が、ぼくを呼んで、あなたと内田さんの写真をとるからさそうてきてくれ、と言います。ぼくが「いやだ」と断ると、「なんでい、熊本は、お前のいう事なら、きくよ」と笑います。
 結局、あなた達の写真をもらえるうれしさもあり、白地に、むらさき菖蒲しょうぶを散らした浴衣ゆかたをきたあなたと、あかいレザアコオトをきた内田さんを、ボオト・デッキのかげに、ひっぱり出し、村川が、写真をり、また、ぼくと村川の写真を、内田さんが撮りました。
 二三日って、出来上がった写真を、交換こうかんし、サインもし合っていました。あなたの顔は、眼がまるく、鼻がちんまりして、色が黒く、いかにも、漁師のむすめさんといった風だし、内田さんの顔は、また、色っぽい美人のねこ、といった感じに撮れていたので、みんなで、それを指摘し合っては、騒々そうぞうしく笑っていると、東海さんが通りかかり、ものも言わず、写真をとり上げ、一寸ちょっと見るなり、「フン」と鼻で笑って、ほうり出し、行ってしまった。
 その晩でしたか、七番の坂本さんが、女子選手のブロマイドを買い、皆に見せながら、一々名前をきいていましたが、なかに分らないのがあって、誰か、名簿めいぼを取りに立とうとすると、東海さんが、突然とつぜん、大声で、「大坂ダイハンに聞けよ。大坂は、女の選手のことなら、とてもくわしいんだ」といいます。昼間の写真のことだなと、ぼくは胸にこたえました。すると、松山さんが、「ほう、大坂ダイハンはそんなに、女子選手のつうなんか」といったので、皆、笑いだしたけれど、ぼくには、そのときの、誰彼だれかれの皮肉な目付が、ぞっとするほど、いやだった。
 またある日、ぼくが、練習が済み、水を貰おうと、食堂へ降りて行くと、入口でぱったり、あなたと同じジャンパアの中村さんに、いました。と、十六さいのこの女学生は、突然、ぼくの顔をのぞきこむように、「うちの写真、貰ってくれやはる」といいます。
 おどろいて、まじまじしているのに、「ここで待っててね」といいざま、子栗鼠こりすのような素早さで、とんで行き、ぼくが椅子いすこしかける間もなく、ちいさい中村さんは、息をきり、ちんまりした鼻の頭にあせき、もどって来ると、ぼくのに、写真をわたし、また駆けて行ってしまいました。
 あとでみた、写真には、ハアト形のなかに、おすましな田舎いなか女学校の三年生がいて、おまけに稚拙ちせつなサインがしてあるのが、いかにも可愛かわいく、ほほ笑んでしまった。
 当時、すこし自惚うぬぼれて、考えちがいしていましたが、これは多分、同室のあなた達が、ぼくや村川の写真を、中村さんにみせたので、少女らしい競争心を出し、まず、ぼくに写真をくれたのでしょう。
 その後、しばらくしてから、「坂本さん、ボオトの写真、うち、しいわ」と女学生服をきた彼女かのじょから、兄貴にでもねだるようにして、せがまれました。「いやだ」というと、「熊本さんにはあげたくせに――」と、口をとがらせ、イィをされたので、驚いたぼくは、バック台を引いている写真をやってしまいました。
 こうした風に、段々、へんなうわさがたつのに加えて、人のい村川が、無意識にふりまいた、デマゴオグも、また相当の反響はんきょうがあったと思われます。
 だ、ませた中学生に過ぎなかった彼としては、自分が、いかに女の子と親しくしているかを、大いに、みせびらかしたかったのでしょう。それだけ、ぼくより、無邪気むじゃきだったとも、言えますが、ぼくにしてみれば、彼が、あなた達、女子選手をいかにも、中性の化物らしく批評ひひょうし、「熊本や、内田の奴等やつらがなア」 と二言目には、あなた達が、村川に交際を求めるような口吻こうふんろうし、やたらに、写真を撮らしたり、ぼく達四人の交友を、針小棒大しんしょうぼうだいに言いらすのをきいては、しゃくさわるやら、心配やら、はらはらしてりました。
 しかし、これは、人間の本能的な弱さからだと、ぼくには許せる気になるのでしたが、同時に、誰でもが持っている岡焼おかやき根性とは、いっても、クルウの先輩連が、ぼくにびせる罵詈讒謗ばりざんぼうには、嫉妬しっと以上の悪意があって、当時、ぼくはこれを、気が変になるまで、にくんだのです。
 そのころ、整調でもあり主将もしている、クルウでいちばん年長者の森さんは、ぼくをみると、すぐこんな皮肉をいうのでした。「大坂ダイハンは、熊本と、もう何回接吻せっぷんをした」 とか 「おしりにさわったか」とか、あるいは、もっと悪どいことをうれしそうにいって、嘲笑ちょうしょうするのでした。
 七番のおとなしい坂本さんまでが、「大坂ダイハンは秋ちゃんと仲が良いのう」とひやかし半分に、ぼくのかたたたきます。六番の美男の東海さんは「※(「虫+斯」、第3水準1-91-65)きりぎりすみたいな、あんな女のどこが好いのだ。おい」と、ぼくの面をしげしげとのぞいてたずねます。五番の柔道じゅうどう三段の松山さんは、「くされ女の尻を、犬みたいに追いまわしやがって――」とすごい剣幕けんまくにらみつけます。三番の、もとはぼくを正選手レギュラアに引張ってくれた、沢村さんまでが、「あんな女のどこが好いかのう。女がめずらしいのじゃろう。不思議だのう」と、みんなにたずねるようにするのがくせでした。二番のとらさんは、広い胸幅をゆすりあげ、その話をするときは、ぼくを見ないようにして、「でれでれしやがって」と、忌々いまいましそうに、たんきとばします。この態度が、むしろ、好きでした。
 舳手バウの梶さんは、ぼくの次に、新しい選手ですし、それに、七番の商科の坂本さん、二番の専門部の虎さんと共に、クルウの政経科で固めた中心勢力とは、派が合わぬだけ、別に何んともいわず、皆と一緒いっしょにいるときは、軽蔑けいべつした風をしていますが、ひとりで逢うと、時々、「おおいに、若いときのおもをつくれよ」とか、文科の学生らしく、煽動せんどうしてくれました。こうして、好意とまでゆかないでも、気にしないでいてくれる、梶さん、清さんのような人達もありましたが、前述したような、クルウ大方の空気は、ひがんでいるぼくにとって、もはや、クルウのなかばかりでなく、船中の誰も彼もが、白眼視しているような気になり、切なくてたまらなかったのです。
 たとえば、船に、横浜解纜かいらんの際、中学の先生から紹介して貰った、Kさんという、中学で四年先輩のひとが、見習船員をしておりました。Kさんは、未だ高等商船を出たばかりで、学生気のけない明るい青年で、後輩のぼくの面倒めんどうをよくみてくれて、船の隅々迄すみずみまで、案内もしてくれるし、一緒に記念撮影さつえいなどもしていました。
 ところが、その頃、船の前端にある彼の部屋に、夜遊びに行ってみると、何かのきっかけで、Kさんが、「女子選手ッて、みんな、すごいのばかりだね」といいだしました。ビクッとしたのになおも、「あれで、男の選手へ、モオションをかけるのが、いるっていうじゃないか。アッハッハ……」と大口あいて笑うのです。
 その時は、てッきり、ぼくにあてこすっているのか、忠告していると取り、早々に逃げ出したのですが、それからは、なるべく、Kさんにまで逢わないようにしていました。しかし、いま考えれば、これも、ぼくのひがみだったのです。


 横浜を出てから一週間もったころ、朝の練習が済むと、B甲板かんぱんに、全員集合を命ぜられました。役員のひとりで、豪放磊落ごうほうらいらくなG博士が肩幅かたはばの広い身体からだをゆすりあげ、設けの席につくと、みんなをずっと見廻みまわしたのち、
「諸君。ぼくはこんなことを、日本選手でもあり、立派な紳士しんし淑女しゅくじょでもあるみなさんに、お話するのは、じつに残念であるが、むを得ん。とにかく、本日只今ただいまから、男子と女子の交際は、絶対にこれを禁止する。
 遊ぶのは勿論もちろんならんし、話をしても不可いかん。今後、この規則を破るものがあったら、発見次第それぞれの所属チイムの責任者によって、処分してもらう。なお、その程度によっては、ホノルルなり、サンフランシスコなりに、船が着いたら、下船させてしまうぞ。スポオツマンとしての資格の欠けるものに、日本は選手として、出場して貰いたくないのだ」
 日頃、太ッ腹な氏としては、めずらしく、話すのもけがらわしいといった激越げきえつぶりでした。ぼくにしてみれば、話の最中ふりかえって此方こちらをみる、クルウの先輩達せんぱいたちもいるし、それでなくとも、氏の一言一句が、ただ、ぼくに向っての叱声しっせいに聞え、かあッと、あがってしまうのでした。氏は語をついで、
「だいたい、この前のアムステルダム行の時は、このことをおそれ、男子船と女子船とを別々に立たせたものだ、今回も前に比べれば、人数も増えているし、万一のことがあってはと心配して『男女七歳にして席を同じうせず』式の議論から、別々に立たせるのを主張する人もあったが、ぼくは、『厳粛なる自由スタアンリバティ』をとなえ、笑って、その議論を一蹴いっしゅうした。諸君、もう一度、君達の胸のバッジをみたまえ。光輝こうきある日の丸の下に、書かれた Japanese Delegation の文字は、伊達だてでは、ねエんだろ。おれは今朝、あるいまわしい場面を、この船の事務員が見たとか、いう話をきいたときは、初めは話のほうが信用できなかった。いや、今でも、そんな話は信用しとらん。
 しかし、こういっただけで、し、その事実ありとしても、その当人達は、充分じゅうぶん自戒じかいしてくれると思う。たのむから諸君、二度と俺にこんなことを、言わさないでくれ。終りッ」
 そういいてると博士をはじめ、幹部連はさっさと引揚ひきあげてしまいましたが、そうなると、今度はかえって、あとのさわぎが大変。どこにでもいるうわさ好きな人達が、大声で、見てきたようなうそをいいあったり、猥褻わいせつな想像をしあっては喜んでいる。そのなかで、ぼく一人、また一人ぼッち、茫然ぼうぜんと身動きもできませんでした。
 ボオトの連中はてっきり、ぼくとあなたをこの醜聞スキャンダルにあてめてしまったのでしょう。森さんなんかは血相かえ、「俺達のなかで、困るのは、まあ大坂ダイハン一人位のものだな」と皮肉をいいます。松山さんは、「大坂ダイハンだけ困るんじゃねえぞ。ボオト部全体のはじだからな」とぼくをにらみつけます。と、東海さんが、「Gさんも、ああ言うんだし、皆でよく今後を打合せたらどうだい」と横目でぼくを見ながらいう。日頃、寡黙かもくなKOの主将、八郎さんまで、「よかろう」と積極的にくちばしをだします。結局、それからぼくの査問会らしきものが、皆で開かれることになりました。
 もっとも、あとで考えると、G博士のいった醜聞は、子供ッぽいぼく等の友情などは、問題としておらず、先夜、ある男女が、ボオト・デッキのかげで、抱擁ほうようし合っていたのを、船員にみられたという噂からだったのを、すでに連中は知っていたかとも思われますが――。
 皆はぞろぞろ二等のサロンに入りました。ぼくは、勢い、衆目の帰するところです。出帆しゅっぱん前からの神経異常が、あなたとのたのしい交わりに、まぎらわされてはいたが、こうした場合一度に出て来て、頭のしんは重だるく、気力もなくなり、なにをいわれても聞いてはいずにうなずくばかりでした。
 ぼくは前から、左側のまぶただけが二重ふたえで、右は一重瞼なのです。それを両方共、二重にするためには、眼を大きく上にみはってから、パチリとやれば、右も二重瞼になる。それを、あなたとう前には、よくやって、顔を綺麗きれいにしようと思ったものです。そのくせがちょうど、皆から査問を受けている最中、ひょっくり出て、ひとみをパチリと動かす。
 と、森さんが、「おい大坂ダイハンさんか」と真ッ赤になって怒りだした。しまった。ぼくは取返しのつかない思いにうつむく。と、「どうしたんだ」松山さんが、面白おもしろがり、声を荒げて聞いた。森さんが「いやいやらしいッたら、ありゃしない。此奴こいつったら」と、ぼくのほうをあごでしゃくって、「ウインクの真似まねをしてやがるんだ。こんなにしてな」と、さも厭らしく三白眼さんぱくがんをむいてみせます。「ハハア、それがウインクてんだな。新式の――」と補欠サブの佐藤が、にくらしく、お節介せっかいな口を出すと、皆がどッとふきだしました。
 その笑いのなかで、ぼくはもう死にたい、という気がするほど、弱虫でした。まだ、松山氏は、沢村さんに向って、「こんなにするんだとよ。気味が悪い」とやって見せています。こんなふうに、皆からあつかわれるのには慣れていますが、あなたのことが、有るだけに、たまらなかったのです。
 結局さんざん嘲弄ちょうろうされてから、解放されましたが、それからまた、バック台練習は、以前のように口喧やかましく、先輩達から怒鳴どなられるようになるし、怒鳴られるほど、またギゴチなくなって行きました。
 こう書くと、いかにもぼくが、弱々しいだけに見えますが、先輩達だとて、ぼくが本当に弱く降参しきっていれば、あれまでいじめなかったでしょう。加えて、ぼくには、文学少年にありがちな孤独癖こどくへきがありました。それも生意気だとか、図々しいとか見られていたのでしょう。実際、図々しい処もありました。あなたから、この手記の初めに書いた、あんずの実を貰ったのは、その問題があった日の昼のことでしたから――。
 とにかく、その日の昼は、もうあなたと遊べなくなった淋しさと、口惜くやしさから、ほとんど飯も食べずに、トレイニング・パンツに着更きがえ、だれもいないB甲板をうろついていると、ひょッくりあなたと小さい中村じょうに逢いました。
 中村さんは、小さいくちをとがらせ、「うち、つまらんわア、もう男のひとと、遊んではいけない言うて、監督かんとくさんから説教されたわ。おんなじ船に乗ってて、口いてもいかん、なんて、阿呆あほらしいわ」ぼくも、合槌あいづちうって「すこし、変ですね」と言えば、あなたも「ほんとうにつまらんわア」中村嬢は、益々ますます雄弁ゆうべんに「ほんとにいやらし。山田さんや高橋さんみたいに、仰山ぎょうさん白粉おしろいや紅をべたべたるひといるからやわ」と、なおも小さな唇をつきだします。ぼくはただ、中村さんにしゃべらしておいて、心のなかでは、つまらない、つまらない、と言い続けていました。
 やがて、あなたは、剽軽ひょうきんに、「こんなにしていて、見つけられたら大変やわ、これ上げましょ」と、ぼくのてのひらに、よくれた杏の実をひとつせると、二人で船室のほうへけてゆきました。ぼくも、杏の実をにぎりしめ、くるくると鉄梯子てつばしごをあがって、頂辺てっぺんのボオト・デッキに出ました。
 太平洋は、日本晴の上天気。雲も波もなく、ただ一面にボオッと、青いままかすんでいます。ぼくは、手摺てすりもたれかかって、杏を食べはじめました。甘酸あまずっぱい実を、よくながめては、食べているうち、ふっと瞼の裏が、熱くなりました。食いおわった杏の種子を、陽にかがやく海に、ほうろうとしてから、ふと思い直し、ポケットのなかに、しまいこみました。
 しばらく海をみてから、もう練習かなと、Bデッキを瞰下みおろすと、皆はまだ麻雀マアジャンでもしているのでしょう。甲板にいるのはデッキ・チェアに寄りかかったあなたと、船客で羅府ロスアンゼルス行の第二世のお嬢さんだけ。二人で、なにか仲良さそうに話している。こちらは、莫迦ばかみたいに、頬笑ほほえんで、瞰下していると、あなたは、ぐ気づき、上をむいて、にっこりした。となりのお嬢さんも、おなじく見上げる。ぼくは、視線のやりばに困るから、船尾のほうを眺めるふりをしている。とまもなく、第二世のお嬢さんは、眼をつむり、てしまっている様子です。
 思いきって、ぼくが合図に、右手を高くあげると、あなたも右手をあげてる。ほんとうに、片眼をおもいッきり、つぶってウインクをしてみる。あなたの顔は、笑いだす。ぼくも、だらしなくにこにこします。
 一瞬いっしゅん、船はとまり、時も停止し、ただ、この上もなく、じいんとあおい空と、碧い海、暖かい碧一色の空間にぼくはけ込んだ気がしたが、それもつか、ぼくは誰かにみられるのと、こうした幸福の持続が、あんまりおそろしく、身体をひるがえし、バック台の方へげて行き、こっとん、こっとん、微笑びしょうのうちに、二三回ひいてから、また、手摺まで走って行ってはあなたに手をあげ、あなたも手をあげこたえると、また、にこにこと笑いかわして、バック台まで逃げてゆく。そうしているときは愉しく、その想い出も愉しかった。
 翌晩でしたか、ひどい時化しけの最中、すき焼会がありました。大抵たいていのひとが出て来ないほど、船が、すさまじくロオリングするなか、ぼくはさかんに、牛飲馬食、二番のとらさんや、水泳のやすさんなんかと一緒いっしょに、殆ど、最後まで残って、たしか飯を五杯以上は食いました。その飯には、杏の味の甘美かんびさが、まだ残っている気がしたのでした。

 そして、いよいよ Blue Hawaii です。


 ハワイのおもは、レイの花からでした。
 第一装だいいっそうのブレザァコオトに着更きがえ、甲板かんぱんに立っていると、上甲板のほうで、「ふかれた」とさわぎたて、みんなけてゆきました。しかし、ぼくはようやく、雲影うんえい模糊もことみえそめた島々のあおさを驚異きょうい憧憬どうけいの眼でみつめたまま、動く気もしなかったのです。
 未知の国を初めてまのあたりながめる感動と、あなたへの思慕しぼとがありました。そのころ、漸くにして、自分の技倆ぎりょうの未熟さはさておき、とにかく日の丸の下に戦わねばならぬ、自分の重責を、あなたへの思い深まるに連れて、深く自覚自責するものがありました。ぼくは、あなたへの愛情をどうしても、帰国後まで、大切に、しまっておかねばならぬと、おもった。しかし、具体的なことはまだ一言も言わなかったし、言えもしなかった。ぼくの焦躁しょうそうはひどいものでした。
 ようやく波止場も見えてきて、全員集合を命ぜられたとき、いつもの様に、ぼくの眼は、あなたの姿を探していました。る人達が、わめきちらす、女子選手達のおしりについての無遠慮ぶえんりょな評言を、ぼくはえられないような弱い気になって、聞くともなく聞いていると、いちばんおくれてあなたが、うちしおれた姿をみせた。
 あなたは、先頃の明るさにひきかえ、一夜の中に、みにくく、年老としとって、なにか人目をじ、泣いたあとのような赤い眼と手にしわくちゃの手巾ハンカチを持っていました。ぼくは、あなたが、てっきりぼく達のことについて、なにか言われたのではないかと、勝手な想像をして、黯然あんぜんとなったのです。おまけに、そのとき、あなたはぼくがってから、初めて厚目に、白粉おしろいをつけ、紅をっていた。その田舎娘いなかむすめみたいなお化粧けしょうが、なみだくずれたあなたほど、みじめに可哀想かわいそうにみえたものはありません。
 あたかも、ぐそのあとで、ぼくの胸には、歓迎邦人ほうじんからの、白い首飾くびかざりの花がけられました。有名な選手などは、二つも三つも掛けてもらっていましたが、ぼくが洋装をした田舎の小母おばさん然たるおくさんに、にこにこ笑いながら掛けて貰ったレイの花は、ひとつでも堪えられないくらい芳烈ほうれつかおりを放っていました。ぼくは、そのにおいのなかに、恋情れんじょうの苦しさをあまくするすべを発見したのでした。
 それから、間もなくもよおして頂いた、ハワイの官民歓迎会の、ハワイアン・ギタアと、フラ・ダンス、いずれも土人の亡国歌、余韻嫋々よいんじょうじょうたる悲しさがありましたが、ぼくは、その悲しさに甘く陶酔とうすいしている自分を、すぐ発見して、なにか可憐いとしく思ったのです。ハワイでは、あなたと一度も、話し出来ませんでしたが、ぼくは、美しい異国の風景のなかに、あなたの姿を、まぼろしにえがくだけで、満足でした。
 ぼく達が日本語よりも、英語がうまいのを自慢じまんにしている運転手君――というのは、ぼく達が波止場から邦人の提供してくれた、自動車に乗りこむと、早速、英語で話しかけて来て、皆が、第二世君と思っていたのに、土人かしらと、いささ唖然あぜんとしていると「あなた達、英語出来ないんですねエ」と軽蔑けいべつしたように、初めて日本語を使った――その小生意気な運転手君に連れられて一同と共に、奇勝ノアノパリに向う途中とちゅう、ものすご大雷雨だいらいうに、おそわれました。が、たちまち、からりと晴れると、なんとそのとおるようなあおい空の見事さ。雨にれ、緑のいっそうあざやかに光りかがやく、草木のあいだに、撩乱りょうらんと咲きほこっている、紅紫黄白こうしこうはく、色とりどりの花々の美しさ、あなたは何処どこにでもいる気がふッといたしました。
 ぼくはものを感じるのは、まあ人並ひとなみだろうと、思っていますが、おぼえるのは、面倒臭めんどうくさいと考えるゆえもあって、自信がありません。
 それでも、ノアノパリの絶壁ぜっぺき上に立ち、世界で三番目に強いと言われる風速何十メエトルかの突風とっぷう、顔をたえずたたかれ上衣うわぎをしょっちゅうくられているような烈風を受けつつ、眺めた景色は髣髴ほうふつと、今でもうかんできます。眼前にひろがる蒼茫そうぼうたる平原、かすれたようなコバルト色の空、懸垂直下けんすいちょっか、何百米かの切りたったがけの真下は、牧場とみえて、何百頭もの牛馬が草をんでいる。その牛馬一ぴき々々の玩具おもちゃのような小ささ、でもさすがに、けだものの生々しい毛皮の色が、今も眼にあります。
 しかし、後方右側にそびえたつ、なんとか峰はたえず陽に輝き、左側のなんとか峰はたえず雨に降られている。これは、そのむかしハワイの王様なんとか一世が、なんとかいう蛮人ばんじん酋長しゅうちょうを、火牛の戦法で、この崖から追い落した。で、陽の照っているほうは、なんとか一世の善霊ぜんりょうしずまり、雨に降られているほうは、蛮人なんとかの悪霊、鎮まるという、こんな伝説の固有名詞は全部忘れてしまいました。が、折からの驟雨しゅううが晴れて、水々しい山頂をくっきりと披璃はりのような青い空に、聳えさせていた峰々のうるわしさは、忘れません。
 あなたはあのとき、びッしょり濡れて、善霊峰の下の洞穴どうけつに、風雨をけていた。スカアトのひだも崩れ、手巾ハンカチかぶって強風にあおられている。あなたは、朝の印象もあって、ばかに惨めにみえました。が、その苦しさも、ハワイの素晴しい自然が、すぐなぐさめてくれ、甘いものとする。そう考えるほど、ぼくは自分のなかだけで、恋情を育てていたのです。

 午後から、ハワイのロオイング倶楽部クラブに、招待されて練習に行きました。
 コオスはほんとうに、草花につつまれているのどかさで、小波さざなみひとつなく、目にみえる流れさえない掘割ほりわりでした。隅田すみだ川の濁流だくりゅう、ポンポン蒸汽、伝馬船てんません、モオタアボオト等に囲まれ、せせこましい練習をしていた、ぼく達にとって、文字どおり、ドリイミング・コオスといった感じです。ていは、固定席フィックス滑席艇スライデングに移るまえにあった。ドギュウと日本では称しているような昔なつかしいもの。それにオォルのにぎりも太く、ブレエドのはばも広く、艇はおそいけれど、バランスがよく、舟足も軽い。まっさおい水の上に、艇をポオンと置いてから、約一月ひとつきぶりに、シャッシャッとぎだすと、一本々々のオォルに水が青い油のように、ネットリからみついて、スプラッシュなどしようと思っても、出来ないあんばい。三十本も漕ぐと、艇はたちまちコオスのはしまで行ってしまう。河幅わずか十米あまり。漕いでいるオォルの先に、ぷうんと熱帯の花々が匂うばかりです。さすがに先輩せんぱいたちも感にたえたか、ぼくはいつもの叱言こごと一つさえ、きませんでした。五番の松山さんが、突然「あーア」とおおきい溜息ためいきをつき、「おーイ、みんな、漕ぐのはめろッ、ろッ寝ろッ」とさけびさま、オォルをぽおんと投げだし、ぼくの太股ふともものうえに、もじゃもじゃの頭をせました。彼のおにをもあざむくばかりのかおが、ニコニコ笑うのをみると、ぼくは股の上の彼の感触かんしょくから、へんに肉感的センシュアルなくすぐッたさを覚え、みんなにならって、やはり三番の沢村さんのひざに、頭をのせ仰向あおむけになりました。と、そんなけちな肉感なんか、忽ちすッとんでしまうほど空はとろけそうに碧く、ギラギラ燃えていた。その空の奥に、あなたの顔の輪廓りんかくが、ぼおっと浮んだような気がしました。

 あなたに逢いたい、逢いたいと思っていた。そうしたら、ワイキキ・ビイチに行く途中、凱旋門がいせんもんのところで、あなたと内田さん達の一行に、ぱったり逢いました。ぼく達の自動車は、助手席のところにぼく、うしろに三番の沢村さん、二番の虎さんなんかが乗っていた。あなたはその日、朝からずうっとしおれどおしのようでした。ただ、内田さんは、たいへん元気で、あなた達がつけたぼくの綽名あだなを呼び「ぼんぼん、アイスクリイムあげよう」と片手に、容器をささげてとんで来ました。ちょうど、車が動きだしたところだったので、はにかみながらうでばした。ぼくには届かず、うしろの沢村さんが、ひッたくッてしまった。そして、なにか猥褻わいせつなことを内田さんに言い、自分もすこし照れた様子で、わざと「うまい。うまい」と内田さんのほうに、みせびらかしながら、虎さんと食ってしまいました。虎さんも助平な事を言い、豪傑ごうけつ笑いしてから食っていた。
 ぼくははなはだ、憤慨ふんがいしたが、弱いのだから止むを得ません。ただ、半べそをきつつ、「ひどいわ。意地悪」と叫んでいる内田さんに、たいへん愛情を感じました。
 しかし、それはその時に、き上がった感情です。あなたに対しては、心の中で、すでに、愛さなければならないという規範きはんを、打ちてていたと思います。
 ホノルル・ブロオドウェイの十仙店テンセンストアで、ぼくは、あかのセエムがわ表紙のノオトを買いました。初めて、米国の金でした買物、金五十仙なり。ぼくは、それをあなたとの、日記帳にしようと思っていやらしく、紅い色のものを買ったのです。しかし、それも後からおもえば買わなかったほうが、いや買ったにしても、なんにも書かぬ白紙カイエブランシュのなかに、記憶きおくだけをとどめておいたほうが、良かった結果になりました。

 翌月の午後は、個人外出を許され、船の出帆しゅっぱん時刻は、確か、七時でしたが、ひとりぼっちで歩いていても、面白おもしろくなく、帰ったならば、案外また、あなたに逢えるかとも思うと、四時頃からもう帰船しました。
 午前中の甲板には、銭拾いの土人達が多勢、集まって来ていて、それが頂辺てっぺんのデッキから、真ッ逆様さかさまに、蒼い海へ、水煙みずけむりをあげて、次から次へ、飛びこむと、こちらでほうったいくつもの銀貨が海の中を水平に、ゆらゆら光りながら、落ちて行く。それを逸早いちはやく、くわえあげたものから、ぽっかりぽっかりと海面に首を出し、ぷうっと口々に水をきながら、片手で水をたたき、片手に金をかざしてみせる。とまた、忽ちさるごとく甲板にじのぼってきては、同じ芸当を繰返くりかえすのでした。その中に、ぼくは片足の琉球人りゅうきゅうじん城間クスクマぼうという、赤銅色しゃくどういろたくましい三十男を発見し、彼の生活力の豊富さにおどろいたものです。
 然し、外出から帰ってみると、甲板には、もう土人達は一人もいず、その代りに第二世のおじょうさんたちが、花やかに着飾って、まだ、あまり帰っていない選手達を取り巻いていました。
 真面目でもあるし、ことにフェミニストの坂本さんが、やはり、五六人のお嬢さん達に取り囲まれていましたが、ぼくの姿をみるなり「ああ坂本君」と呼んで「この人もボオトの選手です。大きいでしょう」とか、紹介しょうかいしておいて、自分は歓迎に来ている県人会の人達のほうへ行ってしまいました。ぼくは周囲の女性達をみるなり、坂本さんが、ぼくにまかして、立ち去ったのが、すぐ諒解りょうかいできました。美醜びしゅうはとわず、とにかく、その頃の言葉で、心臓の強いお嬢さん達でした。
 いずれも二十歳前後の娘さんとみえますが、なかに一人、豊かにえたかたをむきだした洋装の、だぼ沙魚はぜみたいなお嬢さんが、リイダア格で、「サインして下さいよう」とサイン帳をつきだすと、あとは我も我もと、キャアキャア手帳をつきつけます。「ぼくなんかサインしてもつまりませんよ」と、それでもしつけられるままに、ぼくが女持の万年筆を借りて、Xth Olympic, Japanese Rowing Team, No.4. S. Sakamoto と書きながら、驚いたのは、そのだぼはぜ嬢、「いのよ、好いのよ」と嬌声きょうせいを発し、「あなた、とても好いわ」とぼくの肩に手を置いた事です。馬鹿です。ぼくは相好そうごう崩して喜んだらしい。「チャアミングよ」というお嬢さんもいれば、「日本人で、こんなに大きい。スプレンディッド」というひともいる。いよいよ、好い気持になって、ワアワアへしあってくる娘さん達の、香油こうゆと、あせと白粉のムッとする体臭たいしゅうにむせていると、いきなり、また吃驚びっくりさせられました。というのは、そのだぼはぜ嬢が、愈々いよいよひとみこびをたたえて、「けっして、助平とは思わないでね」とウインクをするのです。失礼! が、ぼくはふき出したい衝動しょうどうのあとで、泣き出したいような気になりました。だって、このお嬢さん達は、きっと祖国を知らないんだ。だから日本の礼儀れいぎ、日本の言葉もよく知らないのだろう。笑ってはいけない、と思いました。で、「ええ、思いませんとも」真面目に言いきりましたが、そういう口のから、へんに肉感的な微苦笑びくしょうが、唇をゆがめるのを、おさえられませんでした。
 すると、そのだぼはぜ嬢はいきなり、ハンドバッグのなかから、自分の写真を取り出し、サインをしてくれます。とそばから、「わたしも上げる」とか言いながら、パアスを探すお嬢さんがいます。二三枚、貰った写真は、いずれもブロマイド式にったものですが、正直綺麗きれいなひとは、一人もいませんでした。
 その上、「あなた、メモ貸して、ミイのアドレス書く」と、だぼはぜ嬢が切り出し、また、続けて、二三人が、達者な英語で、御自分のアドレスを書いてくれました。
「あなた、向うのアドレス、着いたら、教えて」とだぼはぜお嬢さんが言うのを、うんうんうなずいている中、ぼくは、そのグルッペのすみに、ひとりの可憐かれんな娘を見つけました。
 美しい顔ではありませんが、色の黒い、せた顔に、子供らしい瞳が、くるくるしていて可愛かわいらしい。先刻から、だぼはぜさんの蔭にかすんで、悄然しょんぼりしているのが、今朝からのあなたの姿に連想され、「テエプ、このうちの一人に抛ってね」とだぼはぜ嬢が自信ありげに念を押したとき、よしあのに抛ろうと、とっさに決めたのでした。
 出帆の銅鑼どらが鳴りだしたとき、ぼくは白いテエプを、その娘に投げてやりました。さびしい顔立が、人混ひとごみにまれ、船がはなれて行けば、いっそうたよりなげに見える、そのぼんやりした瞳に、ぼくが、テエプを抛ろうとすると、その瞳は、急にれてみえるほど、生々と光りだした気がしました。この娘は、まだ十七で、帰りに寄航したときも逢いましたし、内地に子供らしい手紙を度々たびたびくれました。
 あとで、船室に集まった皆が、ハワイでの収穫しゅうかくを話しあったとき、坂本さんが、ニヤニヤ笑いながら、ぼくとだぼ沙魚嬢のロオマンスをきました。こんな巫山戯ふざけた話になると、みんなとても機嫌きげんよく、森さんが、ず、「ほう、大坂ダイハンは、最近、大当りだな」とひやかせば、松山さん、「色男はちがうな」と、大口開いて笑うし、虎さんは、「ドレドレ」とだぼはぜ嬢の写真をとって見ようとする。「おれにも貸せ」と梶さんが手をばす。「待て、待て」と横からのぞいていた沢村さんが怒る。あとは、ワアッと大笑いでした。
 あなたとの友情も、こんなに巫山戯半分で、皆と共々に笑える余裕よゆうがあったなら、あんなに皆からにくまれず、また、ぼくも苦しいおもいをしなくても、済んだ、と思います。


 それまではみんな、ぼくを精々、嫉妬しっとするくらいで、別に詰問きつもんするだけの根拠こんきょはなかったのですが、はからずも、ハワイで買ったあかいセエム革の手帳が、それに役立つことになりました。
 ハワイを出て、海はれだしました。甲板かんぱんに出ても、これまで群青ぐんじょうに、かがやいていたおだやかな海が、いまは暗緑色にふくれあがり、いちめんの白波が奔馬ほんばかすみのように、飛沫しぶきをあげ、荒れくるうのをみるのは、なにか、胸ふさがる思いでした。船の針路をながめると、二三間もあるような、大きなうねりが、屏風びょうぶをおし立てたように、あとからあとから続いて来ます。
 さすが、おおきな汽船だけに、まア、リフトの昇降時しょうこうじにかんじる、不愉快ふゆかいさといったほどのものでしたが、やはり甲板に出てくる人の数は少なく、喫煙室スモオキングルウムで、麻雀マアジャンでもするか、コリントゲエムでもやっている連中が多かったのです。
 そういう時、ぼくはひとり、甲板の手摺てすりもたれ、あわだったなみを、みつめているのが、何よりの快感でした。あなたとは、もう遊べませんでした。で、ぼくは、あなたとレエスのことばかり、空想していました。ボオトは、勝負はとにかく、全力を出し切らねばならない。全力を出し、クルウが遺憾いかんなく、たたかえたとします。そうしたら日本に帰って、あなたと堂々と結婚けっこんできると思う。
 そんな風に楽しい空想をえがいているときでも、絶えず、先輩達の眼、周囲の口が、想われて、それがなによりいやでした。こうした悪意に対して、ぼくは、それを、じっと受けこたえるだけで、精一杯せいいっぱいでした。
 当時、ぼくは二十さい、たいへん理想に燃えていたものです。なによりも、貧しき人々を救いたいという非望を、愛していました。だから、そのころ、なにか苦しい目にぶつかると、あの哀れな人達プロレタリアアトを思えと、自分に言いきかせて、頑張がんばったものです。
 それでいながら、たとえば、舷側げんそくきあがり、渦巻うずまき、泡だっては消えてゆく、太平洋の水のとおる淡青さに、生命もらぬ、と思う、はかない気持もあった。
 船室では、同室の沢村さん松山さんが、いないときが多かったので、いつでも、自分の上段の寝室しんしつにあがり、そべって、日記をつけていました。日記の書き出しには、こんなことが書いてありました。
≪ぼくはあのひとが好きでたまらない。この頃のぼくはひとりでいるときでも、なんでも、あのひとと一緒いっしょにいる気がしてならない。ぼくの呼吸も、ぼくの皮膚ひふも、息づくのが、すでに、あのひとなしに考えられない。たえず、ぼくの血管のなかには、あのひとの血が流れているほど、いつも、あのひとはぼくの身近にいる。それでいて、ぼくはあのひとの指先にさえさわったことはないのだ。むろん触りたくはない。触るとおもっただけで、体中の血が、こおるほど、厭らしい。なぜだか、はっきり言えないが。
 どこが好きかときかれたら、ぼくは困るだろう。それほど、ぼくはあのひとが好きだ。綺麗きれいかときかれても、わからない、と答えるだろう。利巧りこうかいといわれても、どうだか、としか返事できないだろう。気性が好きか、といわれても、さアとしか言えない、それ程、ぼくはあのひとについて、なんにも知らないし、知ろうとも、知りたいとも思わない。
 ただ、二人でよく故里ふるさと鎌倉かまくら浜辺はまべをあるいているゆめをみる。ふたりとも一言もしゃべりはしない。それでいて、黙々もくもくと寄りって、歩いているだけで、おたがいには、なにもかもが、すっかりわかりきっているのだ。あたたかい白砂だ。なごやかな春の海だ。ぼくは、その海一杯に日射ひざしをあびているように、そのときは暖かい。
 が目ざめてのち、ぼくはあのひとのまぼろしだけとともに、まわりはつめたい鉄のかべにとりかこまれようやく生きている気がする。
 ぼくみたいな男でも、かりにも日本の Delegation として戦うのだ。自分の全力のくだけるまで闘わなければ済まない。こいなぞ、という個人的な感情は、揚棄アウフヘエベンせよ。それが、義務だという声もきこえる。それより、ぼくもてたいと望んでいる。が、そう考えているときのぼくに、はや、あのひとの面影おもかげがつきそっている。あのひとが、そう一緒に望んでくれる、と思うのだ。
 これからのぼくは、一心に、あのひとを、どっかにしまもう。日本に帰る日まで、一個人に立ち返れるまで、とこの言葉を呪文じゅもんとして、ぼくは、もう、あのひとの片影なりとも、心に描くまい≫
 そう書いた、次の日の日記に、
≪かにかくにあんずの味のほろ苦く、舌にのこれる初恋のこと≫
 もっと、ここに書くのも気恥きはずかしいほど、あまったるい文句も書いてありました。で、ぼくは大切に、一々トランクの奥底おくそこにしまい込んでいたのです。
 ところが、ある日の午後、例によって、ベッドから、あしをぶらんぶらんさせ、トランクを台にして日記を書いていると、いま外に出たばかりの松山さんと沢村さんが、カッタアシャツ一枚で、ぬッと入って来ました。
 ぼくは、あなたのことを、感傷的な形容詞で一杯、書き散らしていたところですから、なにか照れくさく、まごまごすると、あわてて手帳をベッドの上の網棚あみだなに、ほうりあげ、そそくさ、部屋を出て行きました。
 二十分程してから、もういないだろうと、おそる恐る、とびらをあけると、松山さんは、ぼくのトランクにこしをかけたままでしたが、沢村さんは、ぼくの顔を見るや、立ち上がって、なにかを、ぼくの寝台に抛りあげ、そのまま、下段の自分のベッドに転がり、松山さんと、意味ありげに顔を見合せ、ぼくのほうをりかえります。
 ぼくは、ばつが悪く、再び扉をしめ、出ようとすると、沢村さんが、「おい、大坂ダイハン」と呼びとめました。「え」といぶかるぼくに、「ああ、ぼくはあの女が好きでたまらない、か」と、ぼくの日記の一節を手痛く、たたきつけた。続いて、松山さんが、にこりともせず、おこったような口調で、「あア、好きで好きでたまらない、か」と言いざま、二人とも、声のない嘲笑ちょうしょうを、ぼくの胸にねじこむような眼付で、ぼくの顔をみながら、ドアをばたんと、乱暴に閉め、足音高く、出て行きました。
 ぼくはカアッとなり、屈辱くつじょくの思いにひかれ、ベッドの上から、紅いセエム革の手帳を、わしづかみにし、一気に、階段をとんであがり、誰もいない、Cデッキのかげに行ってから、思いッきり手帳をとおくに投げつけました。
 手帳は、空中で風を受け、瞬間しゅんかん止まったようでしたが、ふっとき飛ばされると、もう、はるかの船腹におちていました。沸騰ふっとうする飛沫に、翻弄ほんろうされ、そのままあおい水底にしずんで行くかと思われましたが、不意と、ぽッかり赤い表紙がうかび、浮いたり、沈んだり、はては紅い一点となり、消えうせ、太平洋の藻屑もくずとなった。

十一


 おろかにもその晩、ぼくはよくねむれませんでした。
 翌朝、いつもの様に、朝の駆足モオランをやっているときです。あのときのオリムピック応援歌おうえんかげよ日の丸、緑の風に、ひびけ君が代、黒潮越えて)その繰返しリフレインで、(光りだ、はえだ)と歌うべきところを、みんなは、禿はげさんとかげで呼んでいる黒井コオチャアへのあてこすりから、(光りだ、禿だ)と歌うのです。ぼくは黒井さんが好きでしたし、その若禿のために、許婚いいなずけを失ったという、噂話うわさばなしもきかされているので、うたう気にはなれません。
 と号令が速足進めに変り、「オイチニッオイチニッ」と、黒井さんが調子を張り上げます。「四番、もっと手を振って」と注意され、ぼくは勢いよくうでを振り上げようとすると、可笑おかしなことに、手と足と一緒いっしょに動き、交互こうごにならないのです。たとえば、右脚みぎあしをあげると、自然に右腕が上がって、左腕が上がらないのです。無理に、互い違いに動かそうとすると、手が上がらなくなるばかりではありません。歩けなくなるのです。
 その不恰好ぶかっこうなざまは、たちまち、皆に発見され、どッと笑いものにされてしまいました。
たのむぜ、おい、女のしり追いかけるのもいいが、歩くのだけは一人前に歩いてくれよ」と森さん。「ボオトがろくにげもせんと思ったら、よう歩けもせんのか。それでもよう女だけ、出来るもんじゃ」と沢村さん。「貴様は、あまり女が好きだから、手も動かなくなるんじゃ。しっかり歩け。ぶちまわすぞ」と松山さん。「やれやれ、なんと無器用かなア」と東海さん。等々。
 ぼくは、自分の神経が病気なのを、はっきり感じました。なんのために。あかいセエムがわがちらつく気持でした。眩暈めまいが起ればよかったのです。がぼくは、そのまま歩き続けました。その中、黒井さんも手の上がらないのを注意しなくなり、皆のぶツぶツ言うのも聞えなくなりました。
 その日は、バック台も棒引も、目茶苦茶でした。棒引はいつも、腕力のそう違わない沢村さんが相手なのに、その日は、力も段違いな松山さんが、前のバック台にすわり、「ほれっ、引いてみろ」と頑張がんばり、木株のような腕を曲げ、鼻の穴を大きくして、にらみつけます。そのひとみには、むしろ敵意さえ感じられました。ちょッとなわゆるめてからパッと引くと訳ないのですが、それをやると、ひどく皆からおこられ、何遍なんべんでもりなおしです。黒井さんが、「もう好い」と言うまで、ぼくは油汗あぶらあせをだらだら流しづめでした。
 晩になって、B甲板かんぱん捲揚台ウインチのまわりに、皆が集まっているので、行ってみると、腕角力うでずもうの最中でした。初め、KOの八郎さんと、十九歳の美少年上原――彼はぼく同様新人ですが、商工部のときから漕いでいるし、ボオトも上手で、皆から愛されていました。――の二人がやって、八郎さんが負けると、「うん、上原はなかなか強い。おれとやろう」と松山さんが節くれだった毛深い腕を出します。「いやア」と上原も顔負けしながら、やっていると、やはり、問題ではなく、松山さんが強い。
 松山さんは機嫌きげんよく、上原をめていましたが、ぼくと視線が合うと、忽ち、不機嫌な顔付になって、「おい、大坂ダイハン、上原とやってみい。お前の方が一ツ歳上としうえじゃないか」ときめつけます。ぼくは今朝以来、自信が、少しもないので、「いや、上原君のほうが強いですよ」とべそかき笑いをしますと、「ばか、貴様は、女の尻にいつくだけが、得意なんだな」とののしり、豪傑ごうけつ笑いしてから、上原なんかと行ってしまいました。
 周囲には、女の選手達、ことにちびの中村さんも居ましたので、ぼくは完全に度を失い、立ち去ろうとすると、中村さんが、少女らしく、そばにいる七番の坂本さんに、「ぼんちは身体からだが大きいけれど、弱いの」とたずねます。坂本さんは、ぼくをからかうように、「大坂ダイハン温和おとなしいもんな」と笑います。するととなりにいた沢村さんが、大きな声で、「青大将なのよ」とぼくのいちばんきら綽名あだなを呼んでから、気持よさそうに笑い出しました。「まあ、青大将」だれか、女のひとが、そう言って、くすッと笑うのに、羞恥しゅうちで消え入りそうになりながら、ぼくはようやく、そこからげ出したのです。
 ひとりで、暗い海をしばらくみてから、に帰ろうと、喫煙室きつえんしつのなかを通り抜けていると、一隅いちぐうで沢村、森、松山、東海さん達が、麻雀マアジャンをやっていましたが、「おい、おい」と河村さんが、ぼくを呼びとめます。
 どうせまた、嘲弄ちょうろうされるとおもいましたが、知らん振りもできないので、近よると、「おい、さっき中村がお前のことを、ボンチと呼んでいたが、あれはお前の綽名か」とききます。「さアどうですか」と白ばっくれるのに、「どういう意味か、知ってるか」とニヤニヤ皆と目くばせしてから、たずねます。関西弁で、ぼっちゃんという事じゃないですか、と正直に答えようと思いましたが、また反感を買ってもと思い、「知りません」といささかくすぐつたい返事をすると、横から、東海さんが、大声で、「あれは関西で、白痴はくちのことを言うんだよ」と言えば、沢村さんも、「そうとも、ボンチはつまりポンチと同じことじゃ。阿呆あほうのことをいうんだぞ」と大笑い。と、森さんが、したり顔で、「ああ、それでわかった。女の選手達が、大坂ダイハンのことをボンチとか、ボンボンとか呼んでいるのは、そういう意味か」と、言えば、松山さんも荒々あらあらしく、「大坂ダイハンよ、お前はれている女から、いつも馬鹿と呼ばれているんだぞ」と罵り、そこで皆から、ひとしきり嘲笑の雨。
 ぼくは、しばしポカンとしていましたが、え切れなくなると、「そうですか」と一言。泣きッつらをみられないようにまた暗い甲板に。
 もやの深い晩なので、Aデッキから、ボオト・デッキに上がり、誰にも見られず、索具さくぐの蔭で悲しもうと、近づいて行くと、向うから、靴音くつおとがきこえて来た。
 やがて、靄の底から、ぼんやり現われたのは、立派な白髯しらひげはやした、紅毛のおじいさんでした。ぼくのしょんぼりした姿をみると、にこにこ笑いながら「How do you do?」と太い声できく。外人と話し合うのは初めてでしたが、先方の好意が感ぜられてうれしく、「Thank you, Sir. I'm very well,」と、サアをつけました。「That's good.」と、お爺さんは、重々しくうなずいて、「Are you a delegation of Japanese Olympic Team?」と尋ねます。「Yes, I am.」と言ってから、ニッコリ笑ってしまいました。すると、「What's team?」といたような気がするので、「Boat Crew.」と答えますと、「What's?」と小首をかたむけます。おや、間違ったかなと想い、出来るだけ叮嚀ていねいに、「Please say once more.」と頼むと、からから笑い、サッカアと真似まねをしたり、ボクシング、となぐる真似をします。やはりそうかと、ほがらかになり、「I am a oarsman Rowing.」と漕ぐ恰好をすると、大袈裟おおげさな身振りで、「Oh! I see. It's really splendid!」とぼくのかたたたいてから、顔をのぞき込み、「What's the matter with you?」と気づかってくれる様です。こうなれば、なんでも叮嚀に言うに限ると思いましたから、「Thank you, Sir. Never mind, please. I am very glad to see you. How a lovely night!」とか、こんな靄の深い、いやな晩なのも忘れ、お世辞をいいました。と、お爺さんは、またアッハーと笑い、「I think so, too.」と答えると、「O.K. boy, good night.」と笑い続け去って行きます。
 暫く、靴音が遠くなってから、とても若々しいハミングが、フウフウフフン、ウフフフフンとかきこえて来ました。いつか佐藤が、食堂で、亜米利加アメリカ人のハミングの真似をして、事務員にしかられた事を思い出し、ぼくの出鱈目でたらめ英語も可笑おかしく、ぼくはプウとき出すと、すっかり気分がよくなって、寝に帰ったのです。
 しかし、翌日も、またその次の日も同じような皆の悪意が露骨ろこつで、病的になったぼくの神経をずたずたに切りさいなみます。あなたに、えないまま、海の荒れる日が、桑港サンフランシスコに着くまで、続きました。

十二


 ぼくは、もう日本に帰るまで、あなたとは口をくまいと、かたく心にちかったのです。日本をはなれるにしたがって、日本が好きになるとは、誰しもが言うところです。幼いマルキストであったぼくですが、――ハワイを過ぎ、桑港サンフランシスコも近くなると、今更いまさらのように、自分は日本選手だ、という気持を感じて来ました。
 そのころ、ぼくは、人知れず、ひまさえあれば、バック台を引いて、練習をしていました。ようやく静まってきた波のうねりをみながら、一望千里、はてしない大洋のあおさに、あまい少年の感傷を注いで、スライドのすべる音をきいていたのも、忘れられぬ思い出であります。
 船が桑港サンフランシスコに入る前夜、ぼくは日本をつとき、学校の先生からたのまれた、羅府ロスアンゼルスにいる先生の親戚しんせきへの贈物おくりもの、女の着物の始末に困って、副監督ふくかんとくのM氏に相談しました。M氏は、それを誰か女の選手に、彼女かのじょの持物として、預かってもらえと言います。浅ましい話ですが、ぼくはそれをきくと、眼の色が変るほど、興奮しました。あなたに預かって貰えたら、と思ったのです。口を利かずともどんな形にでも、あなたとつながっているものがしかった。ぼくは、その着物にひそませる、恋文こいぶみのことなど考えて、その夜も、またねむれませんでした。
 もう二時間ほどで、桑港サンフランシスコに入るという午後、ぼくは、M氏から、誰という名前はきかず、その着物を預かって貰えるからとの話で、着物をお願いしました。
 がっかりすると言うより、ぼんやりして、海を見ていると、舵手だしゅの清さんがやって来て、かたたたきます。「どうしたんだい、坂本さん」微笑ほほえんでいる清さんは、本当に、ぼくを気遣きづかってくれるのでしょう。「いや、別に」とぼくは、だらしなく悄気しょげた声を出しました。「ばかに、元気がないじゃないか」「ええ」とうなずいて、清さんの顔をみていると、このひとに、なにもかにも打明けたら、さっぱりするだろうという、気がふッといたしました。
 と、清さんは、急に真顔になって、「坂本さん。ちょッと話があるんだ。来てくれませんか」と先に立ち、上甲板じょうかんぱんに登って行きます。ああ、そのことかと、胸にギクリ来ましたが、結局、言われたほうが、楽になると思い、ついて行くと、ボオト・デッキから更に階段をあがり、船の頂上、プウルのある甲板にでました。方二間位のプウルには、青々と水がたたえられ、船の動揺どうようにしたがって、れています。周囲にベンチが二つ、置かれてあるだけのせまい甲板です。「まア、けましょう」といわれ、ならんでこしを降ろしたまま、しばらく沈黙ちんもくが続きました。もう港が近いとみえ、かもめはるか下の海上を飛んでいるのが見えます。
「少し、話しにくいことなんですが――」と前置きをして、清さんは切り出しました。「実は、あんたのことで、変なうわさがあるのを前からきいていましたが、坂本さんに限って、そんな莫迦ばかはしないと、ぼくはいつも打消していました。
 ところが、この頃、あんまり、森さんや、松山さん達が、心配するんでね、ぼくも、もう米国に着いたことだし、ここで、坂本さんにしっかりして貰えなきゃ困るんで、今日、改まって、く訳ですが、一体、あの噂は、何処どこら辺までが本当なんです」
 ぼくも、こんな風に言われると、やはり、自分の精神的な、苦悩くのうは大切にしまっておきたく、それとはあべこべに、あなたとの楽しかった遊びが、次から次へと、走馬燈そうまとうのようにおもい出され、清さんのそれからの御意見も、いつしか空吹く風と、きき流したくなりました。と、不意に、(意見せられて、さし俯向うつむいて――)という、おけさの一節が、頭にうかびました。(泣いていながらぬしのこと)なにかうったえるものが欲しかった。自然ネイチュアよ! と眼をあげた刹那せつな、映じた風景は、むろん異国的ではありながら、そのくせ未生みしょう前とでもいいますか、どこかで一回はながめたことがあるという感懐かんかいが、肉体をしびれさせるほど、強くおそいました。
 みよ、この時、髣髴ほうふつせまってくるものは、水天青一色、からりと晴れ、さわやかに碧い、みじんも湿しめりッ気をふくまぬ、おおらかな空気のなかに、真ッ白い国が浮びあがってくる。ゆめのような美しさだ。夢がこれほど実感をともなって、みえたことはないというのは、オリムピックを通じての感想ではありましたが、それをこの時ほど、如実にょじつに感じたことはありません。
 白い国! 蜃気楼ミュアジュもかくや、――など陳腐ちんぷな形容ですが、事実、ぼくは蜃気楼ミュアジュをみた想いでした。背後には、青空をくっきりとかくした、峰々みねみね紫紺しこん山肌やまはだ、手前には、油のようにとろりと静かな港の水、その間に、整然とたち並んだ、白いビルディング、ビルディング、ビルディング。それがいかにも、摩天楼スカイスクレエパアという名にふさわしく、空も山も、ためにちいさくみえる豪華ごうかさです。その頭上に、七月の太陽が、カアッと一面に反射して、すべては絢爛けんらんと光りかがやき、明るさとまぶしさに息づいているのです。ぼく達の大洋丸は、悠々ゆうゆうと、海を圧して、碇泊中ていはくちゅうの汽船、軍艦ぐんかんの間をい、白い鴎に守られつつ、進んで行きます。
 しかし、実のところ、ぼくは鴎も船も港も山も、なに一つ覚えてはおりません。ただ、青い海に浮んだ白い大都市が、燦然さんぜんと、迫ってきた、あの感じが、いつもぼくに、ある永劫えいごうのものへの旅を誘います。金門湾、桑港サンフランシスコ! と、ぼくは、むかしなつかしい名を口にして、そのときも、今、聞かされている意見より、もっと、悠久なものについて考えていました。清さんも、同じ種類の感動におそわれたのか、ぼくに、「ほら、もう桑港サンフランシスコじゃないか。元気をだしなよ」と肩を叩いて話を打ちきり、二人はしばし、くちびるつぐみ、じっと、この新しい大陸をみつめていました。

十三


 税関の検査も、愛想のい税関吏達の笑いの中に済んで、上陸したぼく達の前には、ただ WELCOME の旗の波と、群集の歓呼かんこの声がち満ちていました。市長さんから、大きな金の鍵ゴオルデンキイを頂くまでの市中行進も、ゆめのような眩惑げんわくさにあふれたものでしたが、そのうち、忘れられぬ一つの現実的な風景がありました。
 桑港フリスコの日当りの好いおかの下に、ぼく達をむかえて熱狂ねっきょうする邦人ほうじんの一群があり、その中に、一人ぽつねんと、たたずんでいる男がいた。つぶれた鼻に、いびつな耳、一目でボクサアとわかる、その男は、あまりにも、みすぼらしい風体ふうていと、うつろなひとみをしていました。
 一行中の朴拳闘ぼくけんとう選手が、この男をみるなり、「金徳一だ!」とさけび、けよって手をにぎっていましたが、その男の表情は、依然いぜん白痴はくちに近いものでした。金徳一は、知る人ぞ知る、先のバンタム級の世界ベストテンに数えられた名選手でした。リングでの負傷がたたって落ち目が続き、帰国の旅費もないとやら。ぼくは、絢爛けんらんたる、あの行進の最中、かれまぼろしが、暗示するものを、打消すことが出来なかったのです。
 桑港フリスコの夜、船から降りたった波止場のはずれに、ガアドがあって、その上に、冷たくかかっていた、小さく、まんまるい月も忘れられません。ななめ下には、教会堂の尖塔せんとうするどく、空に、つきさって、この通俗的な抒情画じょじょうがを、さらに、完璧かんぺきなものにしていました。
 月の色が、どこで、どんなときにみても、変らないというのは、人間にとって、はなはだもの悲しいことです。
 黄色イエロオタクシイの運転手に、インチキ英語ブロオクンイングリッシュを使って、とんでもない支那街シナがいに、連れこまれたことも、市場通りマアケットストリイトで、一本五十セントなりの赤ネクタイを買ったことも、今はなつかしい思い出のひとつです。
 しかし、その夜、フォックス劇場シアタアできいた『君が代』の荘厳そうごんさは、なお耳底にのこる、深刻なものがありました。シュウマンハインクとかいう、とてもふとったおばあさんで、世界的な歌手が、我々が入場して行くと、日の丸の旗と、星条旗を両手に持ち、歌ってくれたのです。満場の視線が、明るいライトを浴びた我々に集まり、むずかゆい様な面映おもはゆさでした。が、その明るい光線を横ぎって、身体からだをすぼめ、こしを降ろした、あなたの黒い影が、焼きつくように、ぼくの網膜もうまくに残っていました。あなたは、随分ずいぶんやつれていた。
 翌日、南加サウスカルホルニア大学で、ていを借りられるとのことで、練習に行きました。金門湾をまわって、オオクランドに出て、一路坦々たんたん、沿道の風光は明媚めいびそのものでした。鵞鳥がちょうが遊ぶあおい湖、ひつじの群れる緑の草原、赤い屋根、白い家々。大学もそんなユウトピアの中にあります。
 艇を借りるとき、世話を焼いてくれた、親切な南加大学の補欠漕手サブそうしゅの上背も、六尺八寸はあり、おどろかされたことでした。
 練習コオスは流れるよどみ、オォルがねばる、気持よさです。久しりに、はりきった、清さんの号令で、艇は船台ランディングはなれ、下流に向いました。
 と、突然とつぜんぎすぎようとする橋の上に、群れていた観衆が、なつかしい母国語で、「万歳ばんざい」を叫んでくれます。みれば、顔の黄色い、日本人ばかり。おおかた、聞き伝えて、近在から寄り集まった移民のお百姓達ひゃくしょうたちでありましょう。質素な服装ふくそう、日に焼けた顔、その熱狂ぶりもはげしくて、彼等の朴訥ぼくとつな歓迎には、心打たれるものがありました。
 ぼくは、愈々いよいよ、あなたを忘れねば、と繰返くりかえし、オォルに力を入れて、スライドをっていたときです。前のシイトの松山さんが、「めい、止めろ」と叫びざま、オォルを投げだすや、振返って、ぼくをめつけ、「貴様、一人で、バランスをこわしていやがる。そんなに女が気になるか」ぼくには一言もない怒罵どばでした。森さんがまた、「大坂ダイハン、貴様これからあの女と口をくな。顔もみるな。少しは考えろ」とくちばしを入れるのに松山さんが続けて、「貴様のためにクルウの調子がくるって、もし、負けたら、手足の折れるまで、なぐりたおすから、そう思え」それから、なんとしかられたか忘れました。ただ、河口にならんだ蒸汽船の林立する煙突えんとつから、けむりが、濛々もうもうと、夕焼け空を暗くしていたのを、なんとなくおぼえています。

 翌日、スタンフォド大学に、全米陸上競技大会を、見学に行きました。
 くま鹿しかむという、幽邃ゆうすいな金門公園をけて、乗っていたロオルスロオイスが、時速九十キロで一時間とばしても変化のないような、青草と、羊群のつづく、いくつもの大牧場を通って――途中とちゅうでだいぶ自動車をめた露骨ろこつなランデェブウにもお目にかかりました。――いやだった。――そしてスタンフォドに着いたら、大学の森中、数千台の自動車でうまっている人出でした。
 スタンドで、あなたの水色のベレエぼうが、眼の前にあった。それだけを憶えています。競技はろくに憶えていません。ただ、赤いユニホォムを着た、でぶのじいさんが、米国一流のハムマア投げ、と、きかされ、ものめずらしく、ながめていたのだけ記憶きおくにあります。
 そのうち、隣席りんせきにいた、副監督ふくかんとくのM氏が、ぼくに、御愛用ごあいようの時価千円ほどのコダックをわたして便所に行ったそうです。そうです、というのは、それほど、その時のぼくの頭には、あなたの水色のベレエが、いっぱいにつまっていたのです。あなたのぬすみ見た横顔は、苦悩くのう疲労ひろうのあとが、ありありとしていて、いかにもみにくく、ぼくは眼をふさぎたい想いでした。

 船に帰って、ピンポンをしていると、M氏が来て「坂本君、コダックは」ときます。愕然がくぜん、ぼくは脳天を金槌かなづちでなぐられた気がしました。預かった憶えは、ないと言えばよかったのですが、言われた途端とたん、ハッとしたものがあって、――卑劣ひれつなぼくは、「村川君に、じゃなかったのですか」と苦しまぎれにうそきました。M氏は、「そうだったかな」と気軽く言い、小首をひねりながら、村川をさがしに行きましたが、ぼくは、居たたまれず、船室に駆けこみ、頭をおさえて、七転八倒しちてんばっとうの苦しみでした。
 お金持のM氏は、誰に預けたかを、そのまま追求もせず、あきらめておられたようですが、ぼくは良心の苛責かしゃくに、えられず、あなたへの愛情へ、ある影を、ずっと落すようになりだしました。
 それから、ぼくの眼は、あなたを追わなくなりました。しかし、心は。

十四


 ロスアンゼルスへの外港、サンピイドロの海は、巨艦きょかんサラトガ、ミシシッピイ等の船腹を銀色に光らせ、いぶし銀のようにくすんでいました。曇天どんてんゆえもあって、海も街も、重苦しい感じでした。
 ぼくたちは、ロングビイチの近くにある、フォオド工場の提供してくれた、V8の新車八台に分乗して、工場の見学後、ロングビイチの合宿に着きました。
 日本人のコックさんが、広島弁丸出しのおくさんと一緒いっしょに、すぐ、久しりの味噌汁みそしるで、昼飯をくわしてくれました。むすめの花子さんは十五さいでしたか、豊頬黒瞳ほうきょうこくとう、まめまめしく、ぼく達のよごれ物の洗濯せんたくなどしてくれる、可愛かわいらしさでした。
 翌日、マリンスタジアムに練習始め。ぼく達よりも、近所の邦人ほうじんの方々が、張り切って、自家用車で、練習場まで、送って下さるやら、スタンドに陣取じんどって声援せいえんして下さるやら、それよりもさわいでくれたのが、となり近所のメリケン・ボオイズ、ガアルズ達で、映画のアワア・ギャングもかくや、と思われる顔触かおぶれが、脱衣場だついじょうにまで、入りこんで、パンツの世話まで、手伝ってくれるのには顔負けでした。
 コオスは掘割ほりわりになっていて、流れはほとんどありません。大体、二千メエトルの長さしかなく、なんども、往復して練習をしました。すでに、ブラジル、英国、独逸、カナダ等、各国の選手達は集まっていて、彼等かれらの大きな身体からだには、平均五尺八寸、十六貫六百のぼく達も、子供のように見えるほどでした。
 それに、彼等が奥さんや、恋人御同伴こいびとごどうはんなのも、すぐ眼につきました。
 しかし、ぼく達も、隅田川すみだがわでの恋人、「さくら」が、一足先きに艇庫ていこに納まり、各国の競艇のなかに、一際ひときわ優美エレガント肢体したいつややかに光らせているのをみたときは、なんともいえぬ、うれしさで、彼女のお腹を、ぺたぺたと愛撫あいぶしたものです。

 ある国の選手達は、ロングビイチの海水浴場に入りびたり、ビイチ・パラソルのかげに、いかがわしい娘たちと、おおっぴらな抱擁ほうようをしていたのを、見たこともあります。練習場の入口におしよせる観衆のなかから、くちびるほおな、職業女プロスチチュウトを呼びだして、近くの芝生でいちゃついていた、外国の選手達もみました。
 微笑ほほえましかったのは、米国のスカアル選手のダグラスさん、六尺八寸はあろうと思われる長身巨躯きょくが軽々と、左手にスカアル、右手に、美しい奥さんをいて、艇庫から、船台まで運び、そこで別れの接吻ベエゼなどしてから、おたがいに、片手をあげては、スカアルの小さくなるまで、合図をかわしていました。
 独逸クルウのだれかの愛人リイベとみえる、一人のゲルマン娘は、いつも毅然きぜんとしていて、練習時間には、つつましく、ひとり日蔭椅子いすすわり、編物か、読書にふけっていて、その端麗たんれいな姿にも、心打たれるものがありました。
 しかし、ぼく達は、向うの新聞に、オォバアワアクであると、批評されたほど、傍目わきめもふらずに練習を重ねるのでした。外国のクルウが、一、二回コオスを引いて、一日の練習を終るのに、ぼく達は午前中に四回、午後に四回とコオスを引き、それでも、隅田川にいたころくらべれば、軽すぎるほどでした。タイムは、それにもかかわらず、遊んでいるような外国クルウに比し、全然、おとっておりましたが、ぼく達は、努力しすぎて負けることを、少しもはじとせぬいさぎよい気持でした。ぼくも今は、ただ、ボオトをぐことだけに夢中になれたのでした。

 練習帰りのある日。いつもの様に、独りとぼとぼ、歩いていると、背後から、飛ばしてきた古色蒼然そうぜんたるロオドスタアがキキキキ……と止って、なかから、煙草たばこきだし、禿頭はげあたまをつきだし、容貌魁偉ようぼうかいいじいさんが、「ヘロオ、ボオイ」としゃがれた声で、呼びかけ、どぎまぎしているぼくを、自動車に乗れ、とすすめるのです。遠慮えんりょなく、乗せてもらうと、目貫めぬきの通りにドライブしながら、ぼくの胸にさした日の丸のバッジを見詰みつめ、「おれは日本が好きだ。若いとき、船乗りだったから、横浜や、神戸こうべに、度々たびたび行ったよ。ゲイシャガアルは素晴しいね」とか言い、しわくちゃの顔いっぱいに、歯のまばらな口を開け、笑ってみせます。とうとう、煙草の脂臭やにくさい鼻息に閉口しながらも、親切な爺さんのあやし気な日本回想記をきかされ、途中とちゅうでアイスクリイムまでおごって貰い、合宿まで送り届けられたのでした。
 こうして、ぼくはあなたのことを忘れ、只管ひたすら、練習に精根を打ちこんでいた頃、日本から、初めての書簡に、接しました。
 合宿前の日当りの芝生しばふに、みんなは、円く坐って、黒井さんが読みあげる、封筒ふうとう宛名あてなに「ホラ、彼女かのじょからだ」とか一々、騒ぎたてていました。東海さんのところへは、横浜で、テエプを交した女学生七人から、連名のファン・レタアも来たりしました。松山さんにも、シャ・ノアルの女給さんから、便りがあり、皆に冷かされて、嬉しそうでした。
 その中、ぼくの名前でも一通、「おや、これは日本からとはちがうぞ」とぼくを見た、黒井さんの眼が、心なしか、光った気がしました。と、坂本さんが、ぼくのかたたたき、「秋子ちゃんからじゃないか」と笑いながら、言います。皆の顔が、一瞬いっしゅん憎悪ぞうおゆがんだような気がしました。我慢がまんできないようないやらしい沈黙ちんもくのなかで、ぼくは手紙を受取ると、そのまま、宿舎に入り、便所に飛びこんで、かぎを降しました。
 風呂場シャワルウム兼用けんようになっている、その部屋で、ぼくは冷っこい便器に、こしけると、封筒を裏返してみました。ただ、K生より、となっています。ぼくはてっきり、あなたからだと信じこみ、胸おどらせ、封を切る手も、ふるわせ、読み下して行くと、なんだ、がっかりしました。と言っては悪いでしょう。船で知り合った、中学の先輩せんぱい、Kさんからの親切な激励状げきれいじょうだったのです。再び、表の芝生にでた、ぼくの顔は蒼褪あおざめていたかも知れません。坂本さんから、また、「大坂ダイハン、顔色変ったね」とひやかされました。
 二三日って、午後の練習を終え、ヘンリイ山本君の運転する、ロオドスタアの踏段ふみだんに足をせ、合宿まで、帰ってくると、庭前の芝生に、花やかな色彩をあふれさせた、女子選手の人達が、五六人、来ていて、先に帰ったクルウの連中に、囲まれ、しゃべり合っているのが、ハッと眼につきました。ぼくは、もう、途端とたんに、自動車から、飛び降りたい位、気持が顛倒てんとうしました。
 しかし、ぐ、あなたの来ていないのに気づくと、笑いかける内田さん、中村じょうの顔にも答えず、な顔をして、そのまま宿舎にとびみました、と、後ろから、花やいだ笑い声が、追い駆けてきて、「ぼんち、秋っぺがいないんで、くさってるのね」確か、中村嬢の声でした。続いて東海さんの低音バスが、小声でなにか言っています。また、なにかぼくの蔭口ではないかと、焦々いらいらしている耳に、内田さんの声が、「熊本さん、この頃、とても、しょげているのよ。可哀かわいそうよ」「ぼんちのことで」と誰か女のひとが、き返している様でした。ぼくは耳をふさぎ、声を大にして、「うるさいッ」とでも、怒鳴どなりつけてやりたかった。続いて、聞えてきたのは、太い調子のひそひそ声で、なにか陰険いんけんな悪口か、猥褻わいせつな批判らしく、無遠慮にひびいてくる高らかな皆の笑い声と共に、ぼくはまた、すっかり悄気しょげてしまったのです。
 女の人達が帰ってから、ぼくの狸寝たぬきねをしている部屋に、松山さんと、沢村さんが入って来ました。松山さんは、ことほか御機嫌ごきげんで、「村の祭が、取り持つえんで――」という、卑俗ひぞくな歌を、口ずさんでいましたが、ぼくの寝姿をみるなり、「オリムピックが取り持つ縁で、嬉しい秋ちゃんとの仲になり」と歌いかえてから、沢村さんと顔見合せ、ゲラゲラ笑いだしました。ぼくは、不愉快ふゆかいそのもののような気持で、ベッドに引繰ひっくり返ったまま、眼を閉じていると、松山さんは、なおも、手近にあった通俗雑誌を手にとり、ぼくの横にわざと、ごろりと寝て、いかにも精力的らしい体臭たいしゅうをぷんぷんさせながら、雑誌をめくり、適当な恋愛れんあい小説をみつけると、その一節を、こんな風に読みかえて、ぼくを嘲弄ちょうろうしようとしました。
「そう言うと、熊本秋子は、坂本の胸に深く顔をうずめた。その白いうなじに、坂本は接吻せっぷんしたい誘惑ゆうわくはげしく感じたが、二人の純潔じゅんけつのために、それをも差しひかえて、右の手をばし、豊穣ほうじょうな彼女の肉体を初めて抱きしめたのである」
 ぼくは泣きだしたい気持でした。松山さんはなおも、いやらしく女の声色も使って、「『いやですわ。いやですわ』と秋子はさけびながら、坂本の胸を両手でおしつけた。秋子のかおるような呼吸が感ぜられ、坂本はなやましいほど幸福な気がした。
『今ではいけないのでしょうか』
『いいえ、日本にお帰りになってから』」
 あえて、ぼくは神聖な愛情とは呼びません。しかし、子供めいたおたがいの友情を、そんなふうに歪曲わいきょくしてもてあそばれることは、我慢がまんできない腹立たしさでした。

十五


 翌日、練習休みで、近くのゴルフリンクへ一同でピクニックに行きました。
 前夜、ねむられぬ頭は重く、はてしないみどりの芝生しばふに、初夏の燦然さんぜんたる風景も、眼に痛いおもいでした。
 東海さんが、顔馴染なじみのフォオド会社のふとった紳士しんしに、ゴルフを教えてもらい、なんども空振からぶりをして、地面をたた恰好かっこう面白おもしろがって、みんな笑いくずれていましたが、ぼくにはつまらなかった。
 みんな、写真機を買いたてで、ぼくも金十八ドルなりのイイストマンを大切にかかえていましたが、なにを写す元気もなく、ぼんやりしているところを、あべこべに何度も写されたりしました。
 結局、朝から夕方まで、ぼんやりすわったり歩いたりしただけで、帰ってきました。帰ってからポケットにふと、手を入れると、全財産百五十弗ばかりを入れた蟇口がまぐちがありません。
 ぼくはたちまち逆上して、身体からだ中や其処そこらを探しまわった揚句あげくの果は、おそらく、ゴルフ場で落したに相違そういないときめてしまいました。百五十弗は、当時の為替かわせ率で、四百五十円位にあたります。素人しろうと下宿をして働いている、母の粒々辛苦りゅうりゅうしんくの金とおもえば居ても立ってもおられず、明朝、だ皆の起きないうちにけだし、ゴルフ場まで探しに行こうと思いました。
 翌朝、未明に合宿を出ると、すぐ表で、ぱったり出逢であったのは、近所の、小さい友達で、リンキイ君、ぼく達がリンカアンと綽名あだなをつけた少年でした。ぼくをみると、鳶色とびいろひとみかがやかせ、「どうしたのホスマラア」と可愛かわいい声でさけびます。十歳位の少年ですが、ぼくとは気が合って、かれの家にも引張って行かれ、二間位のせせこましい家に、いっぱいに置かれたオルガンで、下手糞へたくそなスワニイ河をきかされたり、やさしいお母さんにも紹介しょうかいしてもらお茶コオヒイを頂いたり、または彼氏自慢じまんの映画スタアのサイン入りのブロマイドを何枚となく、貰ったことがあります。
 その朝、ぼくの様子が気になるのか、彼氏はまた仕草ジェスチュアで、ぼくのかたたたき、「なんでも打明けてくれ」というのです。「金をおとした」と答えると「いくら」とき、金額を話すと「オウ」とまゆしかめたり、肩をすぼめたり、おおげさにおどろいてみせ、一緒いっしょさがしに行く、といいはってきかないのです。
 とうとう、二キロもあるゴルフ場まで、ついて来て、朝露あさつゆれた芝生の上を、口笛吹くちぶえふき吹き、探してくれました。ぼくは勿論もちろん一生懸命いっしょうけんめいで、すみから隅まで、草の根をしわけて探してみましたが、処々にのこっているコカコラの空瓶あきびん、チュウインガムの食滓たべかすなどのほかには、水滴をつづった青草が、どこまでも意地悪く、羅列られつしているばかりです。
 大体、前の日、歩いた記憶きおく辿たどり、さがしてみたのですが、一通り歩いても、どうしてもありません。リンキイ君が、五セント玉をひとつ拾っただけで、「チェッ」と舌打ち諸共もろとも、銀貨を空にほうりあげ、意気なスタイルをみせてくれただけの事でした。
 歩きつかれ、探しつかれて、帰ってくると、みんな朝飯を食いに食堂に行った後のがらんとした寝室しんしつを、コックの小母おばさんが、掃除そうじしていましたが、ぼくをみるなり「坂本さん。これあんたんじゃろう。随分ずいぶん、あんたを探していたのよ」と差出してくれたのは、くしたとばかり、思っていた蟇口です。ぼくのベッドの下に落ちていたそうで、この様子をぼくについて来て、ぼんやりみていた Mr. Lincoln いきなりぼくの手をにぎりしめ「ありがと。ありがと」と打振ります。ぼくには、少年の親切が、身にみてうれしかった。
 これは後の話ですが、ぼく達が帰国する日も迫ったころ、ぼくは日本への土産みやげに、自動車のナムバア・プレェトがしく、それをこのリンキイにたのみますと、その日、子供に借りた自転車で、附近ふきんを乗りまわしていたぼくの瞳に、道路の真中で、五六人の少年少女が集まり、リンキイが先に立って、なに事か、一心不乱に、働いているのがみえました。
 近よってみると、まだ新しいナムバア・プレェトが、アスファルト路の欠けた処をふさぐためにくぎづけにしてあるのを、子供達が、各自家から持出した、金槌かなづち、やっとこの類で、取りはずすのに、大童おおわらわでした。勿論、警官にみつかれば、しかられるのでしょうが、このアワア・ギャング達は、おめずおくせず、堂々と取ってのけ、その場で、ぼくにくれるのでした。
 また、帰国が近づいた頃、うす汚い、真鍮しんちゅうのロケットをぼくにくれた、カアペンタアという八つ位のお嬢さんも、ぼくと仲がく、再々、彼女の宅にも引張って行かれました。そのむすめのお母さんは、すこし眼に険のある美人でしたが、おそろしく早口で捲舌まきじたしゃべるので、なにを言うやら、さっぱりわからず、いつもぼくは面喰めんくらいました。帰国のとき、ぼくは、この少女に、持って行った浴衣カルナモクを、一枚上げたところ、早速、その別嬪べっぴんのお母さんが着て、見送りに出ていたのには、苦笑させられたものです。

十六


 練習が終り、みんな、ぱだかで、シャワルウムに飛びこみ、頭から、ザアザアお湯を浴びているうち、一人が、当時の流行歌(マドロスのこい)を≪赤い夕陽ゆうひの海に、歌うは、恋のうウた≫と歌いだし、みんなで、にぎやかに合唱していると、となりの部屋から、太いバスの仏蘭西フランス語が≪セネ、カル、シャントプウ、アキタルポウ≫と同じ歌を、突然とつぜんうたいだしたのには、おどろきもしましたが、うれしくもなって、皆一緒いっしょに、両国語の合唱が始まったのでした。
 それは、仏蘭西の選手達でしたが、ほかに、独逸ドイツの選手達も、ずいぶん気持の好い連中で、ぼく達と顔を合せるたびに、直ぐ「オハヨオ」と愛嬌あいきょうたっぷりに、日本語で挨拶あいさつしてくれます。それが、朝、昼、夕方おかまいなしなのも嬉しく、ぼく達も「グウテンモルゲン」で一日中、間に合せます。
 伊太利イタリイの選手達は、みんな、船乗り上がりかなにからしく、うでかた刺青いれずみをみせていましたが、人柄ひとがらは、たいへん、あっさりしていて気持よく、いつぞやぼくと東海さんと連れだって、彼等かれら女の子達ヤンキイガアルズと遊んでいる芝生しばふを通りかかると、「ヘエイ、ボオイズ」とか、変なアクセントの英語で呼びとめ、ぼく達とかたを組み、写真をってくれました。連中のうちで、コオルマンひげを生した色男ハンサムボオイが真中になり、アメリカむすめが、両脇りょうわきで、カメラに入りましたが、あとで出来上がったのをみたら、ぼくの鼻がずいぶん低く、いやだった。
 しかし、この人達も、短い練習の時間だけは、非常に真摯しんしに、熱心で、漕法そうほうは、英国の剣橋ケンブリッジ大学をのぞいては、皆、レカバリイが少ないのが、目につきました。日本流の漕法では、≪ボオトは気でげ腹で漕げ≫というのですが、彼等は腕とあしとだけで猛烈もうれつに漕ぎ、ピッチも五十前後まで楽に上がる様でした。
 ことに、米国代表南加大学(金色熊ゴオルデンベア)クルウが、ロングビイチに姿を現わしたのは、開会式オオプニングセレモニイの二三日前でしたが、彼等の漕法は、ほとんど、体を使わないで、ぼく等よりもオォルのスペイスがあり、一糸乱れず、脚のリズムで、スタアトからゴオルまで、一貫したスパアトで持って入り、しかも、ごうも、調子が変っていないのには、感心させられました。
 どんな練習にも、全力をあげ、精も根も使い果し、ゴオルに入って「イジョオル(Easyoar)」がかかると、バタバタたおれてしまう日本選手の猛練習振りは、彼等には、全然、非科学的にみえるようでした。(A crew of Coxswains.)とぼく達は彼地あちらの新聞に、一言で、かたづけられていたものです。
 あらゆる人種からなる、十三万人の観衆に包まれた開会式オオプニングセレモニイは、南カルホルニアの晴れわたった群青ぐんじょうの空に、数百羽の白鳩しろばとをはなち、その白いかげが点々と、碧玻璃へきはりのような空に消えて行くころ炎々えんえんと燃えあがった塔上とうじょうの聖火に、おなじく塔上の聖火に立った七人の喇叭手らっぱしゅが、おごそかに吹奏すいそうする嚠喨りゅうりょうたる喇叭の音、その余韻よいんも未だ消えない中、荘重そうちょうに聖歌を合唱し始めた、スタンドに立ちならぶ三千人の白衣の合唱団、その歌声に始まって行ったのでした。
 ぼくは、その風景を、男子の本懐ほんかいだと、感動して、ながめていた。殊に、あの日、塔上にあおいだ万国旗のなかの、日の丸の、きわだった美しさは、幼いマルキストではあったぼくですが、にじむような美しさで、ひとみにのこりました。身体からだがふるえるほど、それは強烈な印象でした。
 大きな声ではいえぬことです。その日、フウバア大統領の前を、颯爽さっそうと、分列行進をしていった女子選手達のうちに、あなたのりりしい晴れ姿をちらっと垣間見かいまみました。はるかな美しさで、ぼくは、そッと、まぶたのうちに、しまっておいた。

十七


 オリムピックのなかでも、ブリュウリボンと呼ばれる、壮麗そうれいなレガッタのなかで、ぼくには、負けてあおいだ、南カルホルニアの無為むいにして青い空ほど、象徴しょうちょう的に思われたものはありません。

 スタアトラインにならんで「ムッシュ。エティオプレ」「パルテ」という出発の号音を聞いたときは、ただいだ。並んだ、剣橋ケンブリッジクルウのオォルのあわが、スタアト・ダッシュ、力漕りきそう三十本の終らないうちに、段々、小さくなり、はては消えてゆく。敵の身体からだがみえていたのは、本当に、スタアト、五六本の間で、たちまち、グイグイッとなにかに引張られているような、強烈な引きで彼等かれらの身体は、ぼくの眼の前から、消えてゆき、あとには、山のようにりあがった白い水泡みなわがくるくるまわりながら、残っている。それもつか薄青うすあお渦紋かもんにかわり、消えてしまった。しかし、ぼく達は、相手のない、不敵さで、ただ、漕いだ。
 あとで、みていた人達は、もう千メエトルあったなら、日本クルウは、英国をいていたかも知れない、と言ったそうです。それほど、ゴオルでは、へたばっていながらも、気魄きはくでは、敵を追っていたらしい。四艇身ていしん半の開きも、わずかにみえるほど、日本人の気魄は、彼等を追いめていたのでしょうか。ゴオル直前で、ブラジル・クルウを三艇身、ちゃって、伊太利イタリイに肉迫した、必死の力漕には、すさまじいものあり、すでに、英伊二そうとも、ゴオルに着いているだけ、外国人は、無駄むだな努力に必死な、ぼく達をあきれてみていたらしい。最後のスパアト五百米では、日本のクルウは、身体の動きこそ、ちぢまれ、オォルは少しも、他のクルウに比べて、遜色そんしょくなかったという。しかし、ゴオルに入った途端とたん、ぼく達の耳朶じだひびいたピストルは、過去二年間にわたる血となみだあせの苦労が、この五分間で終った合図でもありました。
 そのときのぼく等の様子を、当時の羅府ロスアンゼルス新報が、こんなに報告しています。
≪夕刻のロングビイチは鉛色なまりいろのヘイズにおおわれ、競艇レギャッタコオスは夏に似ぬ冷気におそわれ、一種凄壮せいそうの気みなぎる時、海国日本の快男児九名は真紅しんくのオォル持つ手に血のにじめるがごとき汗をしたたらしつつ必死の奮闘ふんとうを続けてついに敗れた。この日、我が稲門健児とうもんけんじは不幸にも、北側の第一レインを割り当てられ、逆風と逆浪げきろうの最もはげしい難路を辿たどらねばならず、つ、長身にして、短躯たんくのクルウを連ね、天候さえ冷え勝ちで、天の利、地の利、人の利、すべて我々に幸いせず。たのむは、日本男児の気概きがいのみ、強豪きょうごう伊太利と英国を向うに廻し、スタアトからピッチを三十七に上げ、力漕、また力漕、しかも力およばず、千メエトルでは英国におくれること五艇身、伊太利に遅れること三艇身、千五百メエトルにいたるや、懸隔益々甚けんかくますますはなはだしく、英国と伊太利が二艇身半の差、日本は三艇身遅れて続き、さらにブラジルが後を追う。
 が、最後の五百メエトルに日本選手は渾身こんしんの勇をふるって、ピッチを四十に上げ、見る見る中に伊太利へ追い着くと見え伊太利の舵手だしゅガゼッチも大喝だいかつ一声、漕手をはげまし、五万の群集は熱狂ねっきょう的な声援せいえんを送ったが、時すでおそく、一艇身半をへだてて伊太利は決勝線にんだ。
 決勝線突入後、他の三国選手が、余裕よゆうを示して、ボオトをランデングに附け、掛声かけごえ勇ましく、頭上高く差し上げたに引き替え、日本選手は決勝線に入ると同時に、精力全く尽き、クルウ全員ぐッたりとオォルの上に突っし、森整調以下、ほとんど失神の状態となり、矢野清舵手は、両手に海水をすくって戦友の背中に浴せ、比較ひかく的元気な松山五番もこれに手伝い、坂本四番の介抱かいほうに努めるなど、その光景は惨憺さんたんたるものがあった。選手は幸いにして、数分後には、気を取り直しボオトを引き上げ、更衣所こういじょに帰るや、一同その場に打ちたおれ、語るに言葉なく、此所ここにもつづるレギヤツタ血涙史けつるいしの一ペエジを閉じた≫
 ボオトを漕ぐ苦しさについて、ぼくは、あえて書こうとは思いません。漕いだものには書かなくても判り、漕がないものには書いても判らぬだろうと思われるからです。ただ、それほど、言語を絶した苦しさがあるものと思って下さい。

 あのとき、観覧席かんらんせき一隅いちぐうに、日本女子選手の娘達むすめたちが、純白のスカアトに、紫紺しこんのブレザァコオトを着て、日の丸をうち振り、声援していてくれた、と後でききました。しかし、ぼくは、そのとき、あなたの姿なぞ求めようともしない、口惜くやしさで負けたレエスに興奮していた。
 負けたという実感より、気持の上では、漕ぎたりない無念さで、更衣所にひきげてきたとき、いちばん若いKOの上原が、ユニホォムをぎかけ、ふいと、せきを切ったように泣きだしました。
 すると主将の八郎さんが、かつてみない激しさで「泣くな。勝ってから、泣け」とみつくようにしかった。
 その激しい言葉に、自己感傷におぼれかけていたぼくは、身体がふるえるほど、むちうたれたのです。

 第二回戦セカンドヒイトは、独逸ドイツ加奈陀カナダ新西蘭ニュウジイランドとぶつかり、これも日本は、第三着で、到頭とうとう、準決勝戦に出る資格を失ったのでした。

十八


 レエスも済み、すべきことを失ったようなぼくは、あなたのことを、やっと具体的に考える機会にめぐまれた訳ですが、ぼくの心のいやしさからか、遠すぎるあなたの代りは、身近くのあてもない享楽きょうらくを求めて、彷徨さまよいあるき、なにかの幸福を手掴てづかみにしたい焦慮しょうりょに、身悶みもだえしながら、遂々とうとう帰国の日まで過してしまいました。
 帰国するまでに、約二週間はありましたから、その間、羅府ロスアンゼルスのブロオドウェイを、あるいは、ロングビイチの下町を、またはマウントロオの養狐場ようこじょうを、ただ訳もなく遊び歩いたのも、ひたすら手近な享楽で、眼の前にふたをしている気持でした。
 夜、ロスアンゼルスからの帰りに、自動車をめさせ、みんな一斉いっせいに降りたって、小便をしたとき、故国日本をおもいだすような、かえるの鳴声をきいたことも、ほのかにおぼえています。或いは、海水浴場の近くで、六十さい前後の老人夫婦から、十五歳位の少年少女のカップルにいたるまで、ダンスをたのしんでいるホオルをのぞいたことも、ダウンタアオンで五セントはらい、メリイゴオランドの木馬にまたがったことも、ボオルを黒ん坊ニグロにぶつけて、亜米利加アメリカ美人を落したことも――。
 その黒ん坊が、意外にも日本人だったのです。とらさんが、ボオルをにぎって、モオションをつけると、いきなり黒ん坊があざやかな日本語で、「旦那だんなはん、やんわり、たのみまっせ」と言い、ぼく達が、おどろあきれていると、「顔は黒うってますが、心は同じ日本人でさア」その言葉の終らないうちに、虎さんの直球が、黒ん坊の額にはずみ、彼が引繰ひっくり返ると、そのはずみに仕掛しかけが破れ、右上の鳥籠とりかごこしかけていた亜米利加美人がばちゃんと、下のプウルに落ちこみました。
 さては、射的場で、うさぎったことも、十仙出して本物のインディアンと腕角力うでずもうをしたことも、マジック・タアオンの鏡の部屋で――。
 そうだ、マジック・タアオンで、起ったあなたについての幻想げんそうを書いてみましょう。
 金十五仙なりを払って、魔術まじゅつの街の入口の真暗い部屋に入り、その部屋をぬけると、長い廊下ろうかがありました。やはり、手探りしながら、歩く暗さで、しばらくゆくと、突然とつぜん、足下のゆかが左右にれだし、しっかりみしめて歩かぬと、転げそうでした。廊下の行詰りになったかべをおすと、薄暗うすぐら寝室しんしつで、ランプがついていて、マントルピイスの上が白く光るので、近よってみると、人骨がばらばらにおいてあるのでした。子供だましみたいなので、微笑ほほえみながら、次の部屋へのドアを開けると、戸口に一人のギャングが立ちはだかり、ピストルをつきつけています。こちらは可笑おかしくなってきて、ニヤニヤすると、向うも、毛色の変った、ジャップの少年なので、気抜きぬけしたのか、ニヤッと笑いかえして引込ひっこみました。
 次から、次へ、仕組んであるマジックも、ことさら故意わざとらしくみえ、「つまんないの」とつぶやきながら、興味なく歩いている、ぼくのひとみに、ふと映ったのは、薄暗い片隅かたすみでなにもかも忘れ、ぴったり抱擁ほうようしあっている、うら若い男女でした。こればかりは実物で、見ていてもこちらがへんになるくらい熱烈ねつれつなながい接吻せっぷんをしています。これには、いちばんおどろいて、部屋のはしにあった階段を、むちゃくちゃにけあがりました。二三十段も駆けあがり、次の一足を踏みだそうとすると、足にれるものがありません。階段だけで、二階の床がないのです。あわてていたこととて、思わず眼下の暗黒のなかに、くらくらっとちかけたとき、足もとの階段が、独りでに、すうっと降りだしました。いっそ、地の底までもと思ったのに、着いたところは、又さっきの部屋で、男女二人は、まだきあっていて、余計、たまらなく、飛びだそうとした刹那せつな、ふいに、その若い二人が、ゆめの中のあなたとぼくのように、錯覚さっかくされ、もう一度、振りかえり、見定めるため近づいてみようかとさえ思ったことでした。
 日本の選手一同、車を連ねて聖林ハリウッド見物に行ったのもそのころでした。
 車は全部、在留邦人ほうじんの方々の御好意ごこういで、提供して頂き、スマアトな中級車から、豪奢ごうしゃな高級車ばかり。ぼくの乗せて頂いたのも、華奢きゃしゃ白塗しろぬりのリンカン・ジェフアで、車内に、ラジオも、シガレット・ライタアも装備そうびしてある豪勢ごうせいさでした。
 途中とちゅう、サンキスト・オレンジのたわわに実る陽光まばゆい南カルホルニアの平野を疾駆しっく、処々に働いている日本人農夫の襤褸ぼろながらも、平和に、尊い姿を拝見はいけんしました。
 有名なパサデナの邸宅街ていたくがいを通り、御殿ごてんのような建物に、貧富ひんぷ懸隔けんかくにつき、考えさせられることも多かった。
 聖林ハリウッドに入ると、フォオド・シボレエを自動車カアではなく機械マシンだと称する国だけあって、ぼく達の車も見劣みおとりするような瀟洒しょうしゃな自動車が一杯いっぱいで、建物も白堊はくあや銀色に塗られたのが多く、光り耀かがやくような街でした。ぼく達はフォックス撮影所スタディオの前で降り、所内の見物からはじめました。セットに、山あり海あり、冬景色あり夏景色あり、汽船あり、汽車あり、支那街シナがいあり水の都ナポリありで、ぼくは歩いている中、なにか、サンボリストの詩みたいなものを感じ、ひどく興奮しました。
 昼食を、所長さんの御招待で頂き、サアビスにおどってくれたのが、当時のスタア、ロジタ・モレノじょうでした。まるで、人形のような端正たんせいさと、牡鹿めじかのような溌刺はつらつさで、現実世界にこんな造り物のような、あでやかに綺麗きれいな女のひとも住むものかと、ぼくは呆然ぼうぜん、口をあけて見ていました。最後に、ステップ、ウインク、投げキッスと、三拍子さんびょうし、続けてやられたとき、そのれたような漆黒しっこくの瞳が、瞬間しゅんかんあやしくうるんで光るばかりにまばゆく、ぼくは前後不覚のい心地でした。
 そのとき、やはり、心持ちくちをあけてみていた、あなたの小さい黄色い顔が、ちらっとぼくの網膜もうまくかすめました。

 帰りには、チャイニイズ・グロオマン劇場で、オニイルの奇妙な幕間狂言ストレンジ・インタアルウドという映画の封切ふうきりに招待されました。その時はもう、接吻の長さだけ気になる、ぼくは、うつけさでした。

十九


 またしばらくして、日本選手一同がそろって、ベニスという下町へ遊びに行った日がありました。附近ふきんで、いちばん大きなダウンタアオンで、途中とちゅうの風光の美しさも類のないものでした。
 あおい海に沿った、遠くに緑の半島がかすみ、近くには赤い屋根のバンガロオが、処々ところどころに、点在する白楊はくよう並木路なみきみちを、曲りまわって行きました。まるで、泰西たいせい名画のみごとな版画をみているように、湿しめり気のない空気が、すべてのものを明るく、浮立うきたたせてみせてくれるのでした。
 突然とつぜん、ぼくのわきすわっていた、坂本さんが、ぼくの横腹をこづきます。ひょいとみると、女子選手ばかりを乗せた、前のバスが、おくれて、こちらの車台とくっつきそうになって走っています。その背後の座席に、あなたが坐っていて、人形をかざし、こちらに見せびらかすようにして顔を硝子ガラスしつけていました。
 硝子窓につぶされ、へこんだ鼻をしているその顔がまるで、泣きだしそうな羞恥しゅうちゆがんでおり、それをえて、友達と笑い合っては、道化どうけ人形をおどらせ、あなたは、こちらの注意をこうとしていました。おそらくぼくを笑わそうとして、無理におどけてみせてくれるのだと、ぼくは考えあなたの故意わざとらしさが悲しく、あなたに似合わない大胆だいたんさが苦々しくて、ぼくにはそのとき、あなたが大変、みにくくみえた。
 とうとう、前の車が故障でとまり、みんながぞろぞろ降りだしたのをみたとき、ぼくは顔をまともに合せたら、あなたが、どんな表情になるか、眼に見える心地がして、そればかりが気懸きがかりになりました。
 果して、あなたはピエロ人形を片手に、踊らせながら、やはり、泣き笑いみたいな顔で、ぼくのほうをちらっと見たが、ぼくが笑いもせず、かえって視線のやり場に困った鬱陶うっとうしい顔をしているのをみると、あなたは、面をせ、くるりとうしろを向き、ひとりで、バスに乗ってしまった。車が出て、背後の硝子窓にもたれかかった人形は、あなたの手と一緒いっしょに再び踊りだした。しかし、顔をみせない、あなたが、友達と笑いあっているのか、ひょっとしたら、泣いてなぐさめられているのか、想像のつかないまま、あなたのかたふるえていました。
 ぼくは一体、人目をはばかったのか、それともそうしたあなたがきらいだったのか、それもわからぬ複雑奇怪きかいな気持で、どうでもなれとバスにられていました。気の弱い、我儘わがままなぼくもいやだったし、あなたも厭だった。
 そうして、人形は踊りをめ、バスの後窓に凭れたまま、小さくなり、見えなくなって行くのでした。
 ベニスに着いてから、ドラゴンの口が出入り道になっているサイクロレエンに乗りました。
 トロッコ様の箱車はこぐるまの座席が三段にわけてあり、まえに豪傑ごうけつの虎さんと色男の有沢さんが乗り、真中にぼくと清さん、うしろに柴山と村川が乗りました。前に横たえてある棒をしっかりにぎっているうち、車はすべりだし、深い穴のなかにちてゆきます。再び、登りだしたときは、背もるような急角度の勾配こうばいでした。あれよ、あれよという間に、いちばん頂辺てっぺんにまで出ると、はるかサンピイドロの海が眼下にかすみ、沖にはキャバレエになっているという豪華船ごうかせん――当時は禁酒法ドライでしたから――がまめのように、ちいさい。が次の瞬間しゅんかんに、車は急転直下、直角にちかい絶壁ぜっぺきを、素晴しい速力ですべり落ちてきます。背中を丸くして、横棒にかじりついていても、こしが浮くすさまじさです。と、すぐ前から、「ヒェーッ」という金属的な悲鳴が、風に流れきこえてきました。色男の有沢さんの声です。実際、声でもたてねばやり切れぬ、気持でした。車はあるいは急角度に横にまがりななめにおち、ガッタンガッタンと、登ったかとおもえば、また陥ちる、頭のかみが、風にふかれてい上がるのも、恐怖きょうふに追われ逆立つおもいでした。
 もう後では、目をつむってこらえている内、するすると竜の口から再びきだされて、おしまいでした。降りたった六人は、今更いまさらのようにそびえたつサイクロレエンをながめて、感にたえた顔をしていましたが、有沢さんの悲鳴をだれかが言いだすと、途端とたんに、みんなゲラゲラと大笑いがとまりませんでした。
 それまでに、サイクロレエンに乗っていたっぱらいの水兵が、滑走かっそうの途中、立ち上がり、横木にはさまれてくびを折ったとか、赤ん坊をいた若妻が滑りおちる恐怖にたえかね、子供を手放したので、赤ん坊がおっこち頭を割って死んだとか、そんな話もきかされていたのですが、自分が実際乗ってみると、そんなうそのような話も真実におもわれる物凄ものすごさでした。
 ぼくはサイクロレエンから降りたった後、なにもかもが飛び去ったあとのような心地よさで独り、岸にたち、潮風に、髪の毛をなぶらせながら、青黒くひかる海を、虚心きょしんに、ながめていました。

 その後、羅府ロスアンゼルス動物園へ、選手一同おもむいた折にも、おおきな象の二三頭が、放しいになって自由に散歩しているあいだを、内田さんと手をつなぎ歩いているあなたの姿をお見掛みかけしたことがあります。
 その朝、ぼくはデレゲェションバッジをなくなし、みんなにまた口汚くちぎたなくいわれる疑懼ぎくと、ひとつは日頃ひごろ嘲弄ちょうろうされる復讐ふくしゅうの気持もあって、実に男らしくないことですが、手近にあった東海さんの上着からバッジをぬすみ、東海さんの困却こんきゃくをまのあたりみせられ、いささ後悔こうかいの念にられ、良心の苛責かしゃくもひどかったときなので、ともすれば見失いそうな自分の姿をつかまえるため、すっかり茫然ぼうぜんとしていて、近くにあった、あなたの姿にも、痛いものをみるおもいで眼をそらした。
 そのくせ、そのときでも、あなたが見えなくなると、バッジの件を考える苦しさよりもあなたを想う甘さにかれるのでした。
 そうしたときでも、いつもあなたには逢いたいような、逢いたくないような気持が、たとえば、『逢わぬは逢うにいやまさる』といった都々逸どどいつの文句のように錯綜さくそうして、あなたをしたっていたのです。
 マウントロオで、ケエブルカアから降りて村川と二人、養狐場ようこじょうのほうへ行きかけると、すれちがった若い亜米利加娘アメリカむすめが二人、とつぜんぼく達を呼びとめ、ぼくの持っていたカメラでうつしてくれというのです。たいへんほがらかな、可愛かわいい娘さん達なので、喜んで、一緒に写真をとったり名刺めいしもらったり、手振てぶり身振りで会話をしたりしました。そうしたとき、奇妙きみょうに強く、想われるのはやはりあなたの面影おもかげでした。

 ホワイトポイントへ魚釣さかなつりにも行きましたが、ぼくは釣なぞしたことがないので、無闇むやみやたらにそこいら辺を歩きまわっただけでした。ひとりで、ホテルの裏にでると、ダンス場があって、ちょうどヒリッピン人の会合があり、彼等かれらが、勝手放題に、みだらな踊り方をしたり、または木蔭こかげ抱擁ほうようし合っているのをみると、急にさびしく、あなたがしくてたまらなくなるのでした。

 試合ゲエムが済んだあとでは、みんな、各自、県人会のひとに案内して貰ったり、または自分達同士でロスアンゼルスに遊びに行ったりしては、やれ今日は飛行機に乗ったとか、秘密のキャバレエで酒を飲まされたとか、レビュウガアルのアパアトで三十ドルもとられたとか、そんな話の種を持って帰っては、面白そうに話しあうのでしたが、ぼくはまた、独りぽっちの仕様ことなしに、近所の子供と遊んだり、子供達から自転車を借りて乗りまわしたり、ただあてもなく散歩したり、そんな無為むいな日々をすごすことが多かった。

 いまでもおもいだす、なつかしいみちは、合宿裏の花壇かだんにかこまれた鋪道ほどうのことです。
 ジギタリス、アネモネ、グラジオラス、サフラン、そんな花々につつまれて、一日中、があたっている明るさ暖かさでした。ぼくがその路を、胸にあかく日の丸のマアクの入ったスエタアを着て、トレエニングパンツのゴムをぱちんぱちんとお腹にはじきながら、ぶらぶら何遍なんべんも往復し一体どんな歌をうたっていたと思います。おけさ節に、インタアナショナル、北大校歌に、オリムピック応援歌おうえんか、さては浪花節なにわぶしに近代詩といった取り交ぜで、興がわくままに大声はりあげ、しかも音痴おんちはこの上なしというのですから、他人には見せも聞かせもしたくない、のんびりした阿呆あほらしい風景でした。
 そんなとき、いちばん誰はばからず、あなたのことを想って、たのしいときを過しました。白昼、花々におう小路をさまよい、勝手な空想にふけっていれば、あなたはいつもぼくの身近く、きよらかな童女のような相貌そうぼうで、ぼくにつきまとっていたのです。

二十


 宿舎の近くに、アイスクリイムスタンドがあって、そこに、十八さいになる、ナンシイという可愛かわい看板娘かんばんむすめがおりました。
 ぼくなぞは、夜間照明のベエスボオルなどを近所の子供達と見物した帰りに、スマックなぞかじりに立寄るくらいでしたが、KOの柴山や上原などは、よくかよっていて行けばいつも顔を合せるほどでした。ことに美少年の上原などは、ナンシイじょうと仲が良く、いつもスタンドにひじつきあっては話を交していました。
 ある日の事、一緒いっしょに近所の床屋とこやまできた柴山とかたをくんで、その店に入って行くと、上原がもう来ていて、娘さんとなにか笑い話をしています。ぼく達はすみっこでチョコレエトクリイムをもらい、二人でぼそぼそめているとき、入口のドアを荒々あらあらしくして一人のアメリカの大学生が入ってきて、なにも註文ちゅうもんせず、スタンドの前に立ち、うでを組んだまま、じっと上原とナンシイ嬢の様子をみつめていました。
 やがて上原のそばにつかつかと立ち寄り、彼の肩を押えて、早口になにか言いだします。素破すわとおどろき柴山と立ち上がろうとしましたが、意外にも大学生は、なごやかな表情で、上原にドライブをしないかとさそっています。上原はぼく達に一緒に来るかい、と聞き、ぼく達が承諾しょうだくすると、それではと、大学生に、行くむねを返事していました。
 そこで四人が、表においてあった大学生のセダンに乗りこむと、かれは、ロングビイチの海岸まで車を走らせて行きました。にぎやかで面白おもしろそうな海水浴場のほうは素通りにして、荒涼こうりょうとした砂っ原に降りると、大学生は上原の腕をとって、浪打際なみうちぎわのほうへゆきます。さっきから大学生の上原をみる眼が少し変ってるなと思っていたら、大学生はやにわに、上半身、真裸まっぱだかになって、上原に角力すもうをいどみかけるのです。上原は、はにかんだような微笑ほほえみをうかべながらも、シャツをぎ裸になりました。
 ナルシサスもかくやと思われる美しい顔立ちに十九歳の若々しい肉体は、アポロのように見事に発育して引きしまっています。大学生も毛深くてたくましいヘラクレスみたいな身体をしていましたが、上原のすべすべした小麦色の皮膚ひふを愛情のこもった眼付で、でまわしていました。
 二人の相撲すもうは力を入れ、むきになっているくせに、時々いかにもこそばゆいという風に身悶みもだえしてキャッキャッと笑い興じていました。あせばんで転がるたびに砂まみれになってゆく、上原の肉体も、額に髪がからみついた顔も、だんだん紅潮してゆくに従って、筋肉の線に、ふくらみもでて来て美しく、ぼく達でさえいささか色情的になやましさを覚えたほどです。しかし何時迄いつまでもみているのは莫迦々々ばかばかしくなって、ぼくと柴山はその場をはずし、なんとなくそこらを散歩してから歩いて帰りました。
 おそく夕方になってからもどってきた上原が、その大学生の着ていたレザァコオトを貰ったりしているので、ぼくは人間の愛欲の複雑さがちらっとわかった気がしました。

 帰朝する前日でしたか、ロオタリイ倶楽部クラブでの、ベルばかり鳴らしてはそのたびに立ったりすわったりする学者ばかりのしかつめらしい招待会から帰ってくると、在留邦人ほうじんの歓送会が、夕方から都ホテルであるとのことで、出迎でむかえの自動車も来ていて、ぐとんで行ったのでした。
 男はタキシイド、女は紋服もんぷくかイブニング・ドレスといった豪奢ごうしゃ宴会えんかいで、カルホルニア一流の邦人名士の御接待でした。ぼくの坐った卓子テエブルは、沢村、松山、虎さんとぼくの四人で、接待して下さる邦人のほうは、立派な御主人夫妻と上品なお祖母様ばあさま、それに二十一になる美しいお嬢さんの御一家でした。
 話をしているうちに偶然ぐうぜん、そのお嬢さんがぼくの育った鎌倉かまくら稲村いなむらヶ崎さきについ昨年まで、おられたことがわかり、二人の間に、七里ヶ浜や極楽寺ごくらくじあたりの景色や土地の人のうわさなどがはずみ、ぼくは浮々うきうきたのしかったのです。その内に始まった饗応きょうおうの演芸が、いかにも亜米利加三界まで流れてきたという感じの浪花節なにわぶしで、虎髭とらひげはやした語り手が苦しそうに見えるまで面をゆがめて水戸黄門様の声をしぼりだすのに、御祖母様は顔をしかめ、「わたしはどうしても、浪花節はうるさいばかりできらいですよ」といわれる。お嬢さんとの会話で気が浮立っていたぼくは、また尾鰭おひれについて出しゃばり、浪花節を下品だとけなしてから、子供の頃より好きだった歌舞伎かぶきを熱心にめると、しとやかに坐っていたおくさんが、さも感にえたと言わぬばかりに、「そのお若さでお芝居しばいがお好きとはおめずらしい。御感心ですこと」とお世辞を言ってくれるので、ぼくは一層、有頂天になるのでした。お嬢さんはN女子大の国文科を出たとかで、芝居の話もくわしく、知ったか振りをしたぼくが南北なんぼく五瓶ごへい、正三、治助じすけなどというむかしの作者達の比較ひかく論をするのに、上手な合槌あいづちを打ってくれ、ぼくは今夜はまさに自分の独擅場どくせんじょうだなと得意な気がして、たまらなくうれしかったのです。
 沢村さん始め皆は、いつになくおしゃべりなぼくをあきれてみつめ(大坂ダイハンが、エヘ)とさも軽蔑けいべつしたような表情をするのでしたが、その夜は、明らかに教養でみんなを圧倒あっとうしたていなのも嬉しく、なおも図にのって、お嬢さんにびるように、「吉右衛門きちえもん菊五郎きくごろうはどうも歌舞伎のオオソドックスに忠実だとはおもえません。まア羽左衛門うざえもんあたりの生世話きぜわの風格ぐらいが――」などにもつかぬ気障きざっぽいことを言っていると、突然とつぜん、大広間の奥からけたたましいジャズが鳴りひびき、続いて、「どうぞ皆さんダンスにお立ち下さい」というマイクロフォンの高声がきこえて来ました。すると奥さんはたいへん丁寧ていねいにお嬢さんに向い、「佐保子や、お前坂本さんにダンスをお願いしなさい」と言われたので、ぼくは一遍いっぺん冷汗三斗れいかんさんとの思いがしました。改めてお嬢さんの金糸銀糸でぬいとりした衣裳いしょうや、指にかがや金剛石ダイヤモンド、金と教養にあかしみがきこんだミルク色のきずひとつない上品な顔をみると、ぼくはダンスは下手だし、その手をとるのもこわくなり、「駄目だめです。ぼくはおどれないんですから」と消え入りそうな声で、どもり吃りいいました。お嬢さんはかすかに片頬かたほおでほほえむと折からプロポオズして来た陸上のF氏の肩にかるく手をかけ、踊って行ってしまいました。
 急に悄気しょげてしまったぼくが片隅でひとりダンスを拝見していると、いつの間にかぼくの横に、油もつけていないバサバサの長髪ちょうはつを無造作にきあげた、血色の悪い小男の青年がやって来て立っていました。はかまもつけず薄汚うすよごれた紺絣こんがすりの着流しで、貧乏臭びんぼうくさふところ手をし、ぼんやりダンスをみているけれど、選手ではないし、招待側の邦人のひとりかとおもい、「今晩は、どうも――」と挨拶あいさつをすると「いやいや」と周章あわてて、ぼくの顔をみてかなしい薄笑いをして、「ぼくは単なる見物人ですよ」と言いました。
 たたみかけて、「米国はもうながいんですか」ときけば、「いやまだ上陸して一週間位ですよ」「なにか勉強に」と続けると、「いえいえ遊んでいるんです。日本は煩さくって」「こちらに御親類でも」となお煩さくいうと、「いやなにもありません。行き当り飛蝗ばったとともに草枕くさまくら」と最前の浪花節の句をいってから笑いました。ではさっきから何処どこにもぐっていたのかと不審ふしんになり、それとなくたずねようとした刹那せつな、ぼくは彼の懐中かいちゅうにねじこまれている本が前田河広一郎まいだこうひろいちろうの≪三等船客≫なのを見て、ハッとして、「文戦はやはりさかんにやっていますか」ときいてみると、「えッ」と吃驚びっくりしたように問い返してから、「いや、ぼくは左翼さよくは嫌いだから――」と歪んだ笑いかたをしました。
 ぼくはなんだか、その青年にニヒリズムを感じて、さびしく、そして、それが米国最後のいちばん強い印象となりました。

二十一


 行きは、よいよい帰りはこわい、と子供のころうたう童謡どうようがあります。あの歌のように人生、行きと帰りとではずいぶん気持がちがうものです。再び、サンピイドロの港、春洋丸の甲板かんぱんで、見送りに来てくれた在留邦人ほうじんの方々がうちる日の丸の、小旗の波と五色のテエプの雨をながめながら、ぼくはなんともいえぬわびしさでした。
 勝ってかえる人達はとにかく元気でした。陸上の東田良平が、大きなかめの子を二ひき、記念にもらくびひもをつけ、ほがらかに引張って歩いているのが目立っていました。アメリカ人に、「Mayachita, Mayachita」と呼ばれて人気のある水泳の宮下も、船橋ブリッジの上で手を打ちふりながら、いつまで熱狂ねっきょう的な歓送にこたえていました。負けて還るほうは、拳闘けんとう某氏ぼうしのように責任を感じて丸坊主まるぼうずになったひともいましたが、やはり気恥きはずかしさやひがみもあり張りめた気も一遍いっぺんに折れた、がっかりさで、ぼくは雑沓ざっとうするスモオキング・ルウムの片隅かたすみにしょんぼりこしを降ろしていたのです。
 あなたとのことも、きの船では、帰りの船でこそ話もしよう遊びもできようと、あれやこれや空想をえがいていたのですが、さて眼前、現実にその時が来てみると、最前、船のタラップを、ドレスしおおもても萎れて登ってきたあなたの可憐かれんな姿が目のあたりにちらつきながら、手も足も出ず心もしびれ、なるままになれと思うのが、やっと精一杯いっぱいのかたちでした。
 出帆しゅっぱん前のはなやかな混雑もうるさいままに、独りで、ガアデン・ルウムに入って行ってみると、すでに先客がひとり、ひっそりとした青い空気のなかで、硝子ガラス越し一杯の陽光を浴びながら、熱帯樹の葉っぱをもてあそんでいました。
 その男は百メエトルの満野でした。かつて吉岡が擡頭たいとうするまでの名スプリンタアではありましたが今度のオリムピックには成績も悪く、いまは凋落ちょうらく一途いっとにあったようです。かれはぼくをみると磊落らいらくに笑い、退屈たいくつなまま色々な打明話をしてくれました。彼はKOの予科三年で続いて二度落第していると語り、「こんども駄目だめだから、まア退学は固いね」と他人言ひとごとのように笑っていました。小学校のときからけてばかりきてとしり、いま学校を追われる様になってもスポオツで食う見込はたたず、「まア国に帰って、兄貴の店でも手伝うか」と言っていましたが、スポオツでなにもつかみ得なかった悔恨かいこんが、彼の心身をむしばんでいるさまがありありと感ぜられ、外では歓呼の声や旗の波のどよめきがうしおのようにひびいてくるままに、なにかスポオツマンの悲哀ひあい、身にみるものがあって、ぼくも心がむなしかったのです。
 なみに明け浪にれる日々。それから毎日、海をみてくらしていました。だれやらの抒情詩じょじょうしではありませんが、ただ青く遠きあたりは、たとうれば、古き思い出。舷側げんそくに、しろくあわだっては消えて行く水沫うたかたは、またきょうの日のわれの心か、と少年の日の甘ったるい感傷におぼれこんでもみるのでした。阿呆あほうなぼくは時折、あなたのことを思い出しては、痛く胸をむ苦さと快さをたのしんでいました。
 アメリカをってから五日目。暖かい陽光をいっぱいに浴びた甲板のデッキ・チェアにこしを降ろして、蒼々あおあおいだ太平洋をみるともなくながめていますと、どやどやと下のケビンから十人ばかりの女子選手達があがって来ました。
 内田さんや中村じょうのなかに交ってあなたの姿もみえたとき、ぼくは心が定らないままげだしたい衝動しょうどうにかられました。しかし女のひとが好きでつおっちょこちょいのぼくは、あなた達から好意を持たれているのを意識しているだけ、なにか気のいた文句を一言聞かせたく、そのためだけでも浮々うきうきみんなむかえるのでした。みんなはおしゃべりな小鳥のようにぺちゃくちゃさえずりながら、附近ふきんのデッキ・チェアに群がりましたが、ぼくの顔をみるや、急に内田さんから始まって、ひそひそ話になり、一度にぱっと飛びたって、一瞬いっしゅんの間に全部いなくなってしまいました。あとにあなたともう一人、円盤えんばんの石見嬢が残っていましたが、石見さんもみんなのにわかに席から立ち去ってしまったのにおどろくと、きょろきょろあたりを見廻みまわして、初めてあなたとぼくに気づくと、こちらが照れてしまうほどになり、大きな身体からだをもじもじさせ、スカアトのひだを直したりして体裁ていさいつくろってから、大急ぎでけ去ってしまいました。
 さて、ぼくは、あなたのそばのデッキ・チェアにすわり直してはみましたが、やはり、はげしい羞恥しゅうちにいじかんだような、かたいあなたの容子ようすをみていると、ぼくも同様あがってしまい、そのくせ、意地悪いうちの連中がやってきて、なにか言うなら言え、とそのときの糞度胸くそどきょうはきめていたのですが、愈々いよいよ話をする段になるとなにから話そうかと切りだすすべをさがして、ぼくは外見落着きをよそおってはいるものの、頭のなかは火のように燃えていました。
 と、自分の靴先くつさきをみるともなく見詰めていたぼくのひとみに、あなたのあしが写ってきました。海風が、あなたのスカアトをそよとく、静かな一瞬です。短かい靴下ソックス穿いていたあなたの脚に生毛うぶげがいっぱいに生えているのがみえました。そのときほど、毛の生えた脚をしているあなたがいやらしく見えたことはありません。
 男は女が自分に愛されようと身も心も投げだしてくると、すきだらけになった女のあらが丸見えになりたまらなく女が鼻につくそうです。女が反対に自分から逃げようとすればするほど、女がしたわしくなるとかきいています。そこに手練手管てれんてくだとかいうものが出来るのでしょう。
 ぼくは羞恥に火照ほてった顔をして、ちょこんと結んだひっつめのかみをみせ、項垂うなだれているあなたが、恍惚こうこつと、なにかしらぼくのささやきを待ち受けている風情ふぜいにみえると、再び毛の生えたあなたの脚がクロオズアップされ、悪寒おかんに似た戦慄せんりつが身体中を走りました。
 ぼくはそれまであなたへの愛情に、肉慾にくよくを感じたことがなかった。しかしこの時、あなたの一杯に毛の生えた脚の、女らしい体臭たいしゅうせると、ぼくはぞっとしていたたまれず、「熊本さんはふとりましたね」とかなんとか、あなたのやつれを気づかっていたつい最前の自分も忘れ、お座なり文句もそこそこに、立ちあがると逃げだしてしまいました。海を眺めに行ったのです。あとに残ったあなたのさびしい表情が、形容のつかぬ残酷ざんこくさで黙殺もくさつできると同時に、あなたの、やるせなさそうな表情は心に残った。ぼくは自分を勝手だとおもいました。ふくれあがった海をみながら――。

二十二


 とかく帰りの旅は気もゆるみやすく、つ練習がないので、みんなは酒を飲んだり、麻雀マアジャンをしたりした無為むいの日々を送っていましたが、どうも一種、頽廃たいはいの気風がなにか船中にただよいだした感じがしてなりませんでした。
 ハワイに入る前夜、園遊会が盛大せいだいに開かれ、会長のK博士夫妻もインデアンの羽根飾はねかざぼうかぶって出場するなごやかさでした。
 ぼくは借り物競争に出て、算盤そろばんと女の帽子と草の葉を一枚、集めてくるのにあたり、はじめに近くに見物していた内田さんの頭から、ものもいわずに、あかいベレエ帽をひったくり、ポケットにねじこむと、ドタドタと階段をおっこちて、事務所に殺到さっとう、事務員のひとが、呆気あっけにとられているか、笑っているのか見極みきわめもできぬ素早さで算盤をひったくり、次いで、階段を、大股おおまたに、三段位ずつ飛びあがって、頂辺てっぺんのガアデン・ルウムに入ろうとすると、ぴったり足がとまりました。緑したたる芭蕉ばしょうの葉かげに、若い男女が二人、相擁あいようしあって、愛をささやいているのです。それだけをみて、ぼくはくるりと引っ返し、競争を廃棄はいきしました。算盤をかえして、次にベレエ帽をかえすとき、内田さんは、「ぼんち、どうしてめたの」とかれ、「草の葉がなかったんだ」と答えると、「莫迦ばかね。ここにあるじゃないの」と彼女の胸にさしていた、忘れな草の造花を差出してくれました。

二十三


 再び青きハワイ――。

 ワイキキ。プウルを村川と二人、平泳の競泳をしながら、日本へ帰ったらうんと遊ぼうや、とつまらない約束やくそくをし、プウルから上がり、脱衣場だついじょうもどって行ったら、まんまと五ドル入りの財布さいふぬすまれていました。

 ホノルルの日本領事館で、官民合同の歓迎会かんげいかいもよおされたのち、邦人ほうじんの方の御好意ごこういで、選手一同ハワイの名勝ダイヤモンド・ヘッドからハナウマイへかけて、見物させてもらいました。ことにハナウマイのはてしない白砂のなだらかさ、緑葉び張ったパルムのこずえあざやかさ、赤や青の海草が繚乱りょうらんと潮にれてみえる岩礁がんしょうの、幾十ひろいてみえる海のあおさは、原始的な風景というより風景の純粋じゅんすいさといった感銘かんめいがふかく、ながく心に残っています。
 また、それまでみも知らぬ赤の他人の邦人の方が、日本選手という名前だけで、自動車と昼食とアイスクリイムを提供してくれ、その上、細々と御世話を焼いて下さった御好意は、真実、日本人同士ならばこそという気持を味ってうれしかった。あれほど、損得からはなれた親切さには、その後めったにいません。

 出帆しゅっぱん前の船に、またハワイ生れのおじょうさん達が集まって、はなやかな、幾分エロチックな空気をふりまいていました。
 きのときに会った、だぼはぜ嬢さんや、テエプを投げてやった可憐かれんむすめも、みんな集まっていて、会えばおたがいに忘れず、なによりも微笑びしょうが先に立つなつかしさでした。
 だぼはぜ嬢は、相不変あいかわらずの心臓もので、ぼく達よりも一船前にホノルルを去った野球部のDさんやHさんに、生のパインアップルをやけに沢山たくさんことづけました。船室に置いておいたら、いつの間にかだれか食ってしまい、ぼくには、そんなむなしいおくり物をする、だぼはぜ嬢さんがあわれだった。Dさんにファン・レタアもたのまれたのですが、それも結局、次から次へと託づけて行くうちに幾人もの男達に読まれて笑われ、どうにか当人にわたったにしても、所詮しょせん真面目まじめには読んで貰えないものにと思われて気の毒だったのです。
 また例の可憐な娘に、テエプをほう約束やくそくをしたら、その娘は下船するとき、彼女かのじょの写真と手紙を渡してくれました。船が出てから、便所に持ちこんで読んだらこんな風に書いてありました。
≪二三日前、新聞でオリムピック選手達が、明日ホノルルに寄航するという記事を読み、坂本さんにも会えると思ったら、その晩ゆめをみました。
 ずっと前、日本に帰って死んだお祖母ばあさんが夢に出てきて、わたしの手をいてくれ、「これから坂本さんのお宅に行くんだよ」と言います。「嬉しいなア」と妾は喜んで、冷たくてカサカサするお祖母さんの手にすがり、どんどん暗いせまみちを歩いて行きますと、まだ見たこともない日本の町は、燈火とうかが少なくて、たいへんさびしくありました。
 少し前方に、大きな灯のついた家がひとつあってお祖母さんは指をさし、「あれが坂本さんのホオムだよ」と申されました。
 ところが、お家の前に広い深い河がありまして、お祖母さんは妾の腕をけそうに引張り、ジャブジャブ渡って行きましたが、妾の着物はびしょぬれで、しわくちゃになりました。すると、お祖母さんは、たいへんこわい顔になって、「坂本さんのお宅は、お行儀がうるさいから、ちゃんとしたなりで、お前が行かないと、花嫁はなよめさんにはなれないよ」と怒ったので、妾はいつ迄もいつ迄も泣いていました≫
 それからなんと書いてあったか忘れましたが、要するに、お兄さんみたいな気がするとか、いつ迄も忘れずにお便りを下さいな、とかそんな手紙の文句でした。でも、その夢の話だけは非常にシムボリックな気がして、感銘ふかく覚えています。異境につちかわれた一輪の花の、やはり、実を結びがたいなやみとはかなさがあらわにあらわれていて、ぼくには如何いかにも哀れに、悲しい夢だとおもわれたのです。

二十四


 ハワイをでると、あとはもう横浜まで海ばかりだという気持が、なにかぼくを気抜けさせるものがあって、船室に引籠ひきこもって啄木たくぼく歌集を読んだり、日向ひなたに出ては海をながめたり、そんな時を過していました。たとえば、往きの船が、しょっちゅう太陽を感じさせる雰囲気ふんいきに包まれていたとすれば、帰りの船はまた絶えず月光がこいしいような、感傷の旅でした。ぼくは自己批判もくそもなく、あまくて下手な歌や詩を作り、酩酊めいていしている時が多かった。
 そうしたる日のこと、中村さんにプロムナアド・デッキで、ぱったりうといきなりサインブックをつきつけられ、「なにか記念になるものを書いて」とたのまれました。船室に持って帰って、前のペエジってみますと、――乙女おとめの君の夢よ、安かれ。――とか、高く強く速く頑張れアルティアスアスフォルティアスモルティアズ中村嬢――とか、様々な文句が書いてあるなかに、Y女子監督が――鯨吠くじらほゆ太平洋に金波照り行方ゆくえ知れぬ月の旅かな――とかいう様な歌を書いているので、ぼくも臆面おくめんなく――かにかくにオリムピックのおもとなりにし人と土地のことかな、――と書きなぐり、中村嬢にわたしておきました。
 すると、二三日って、甲板かんぱんで逢った内田さんがぼくに、「坂本さん、お願いがあるんやけれど」とめずらしく改まった調子です。「ハア」とぼくがかたくなると、今度は笑いだして、うしろに居た百メエトルのM嬢をふりかえり、「ねエ坂本さんの歌うまかったわねエ」「いや駄目だめですよ」と照れるぼくを黙殺もくさつして、「ねエMさんがあなたに歌をかいて下さいって。いくつでも出来るだけ」Mさんというひとはピチピチとした弾力のある子供っぽい愛くるしい顔をしているくせに、コケットの様な濃厚のうこうなお化粧けしょうをいつもしていました。
 そこでぼくは彼女達かのじょたち婉然えんぜんと頼まれると、唯々諾々いいだくだくとしてひき受け、その夜は首をひねって、彼女の桃色ももいろのノオトに書きも書いたり、――かにかくに太平洋に星多き夜はともすれば人の恋しき――から始まり――海ののノオトはなみが消しゆきぬこのかなしみは誰が消すらむ――に終る、面皰にきびだらけの歌を十首ばかり作りあげ、翌日M嬢に手渡そうとおもいました。
 面皰といえば思いだす、面白い話があります。同船していたブラジル人で十五歳位の女の子がいて、それが大分早熟で、体操のKさんのあとばかり追っていました。
 或るときブリッジのかげで、Kさんの名前を呼びわめいている女の子が、あまり一生懸命いっしょうけんめいに呼び探しているので、「ヘェイ、ぼくと遊ぼう」と覚束おぼつかない英語でからかうと、女の子は急に貴婦人のように取りまし、しげしげ、ぼくの顔をみていましたが、いきなりくちびるをとがらせ「面皰ピムプルズ!」と吐きつけると、バタバタけ去って行ってしまった。あとでぼくは、練習をめてから、めっきり増えた面皰づらをで、苦くわびしい想いでした。

 翌日、歌をかいたノオトを返したくM嬢をさがしていると、また甲板で中村さんに出会い、M嬢は船室に内田さんと二人でいるとのことなので、早く渡してあげたく、かつて一度も行ったことのない、女の船室のほうへ行き、名札のかかったドアを軽くたたくと、中から内田さんの声がものうげに「どうぞ」という。開けたとたんに、ぼくは吃驚びっくりしました。内田さんがたった一人で、それもシュミイズ一枚で、横坐よこずわりになり、かみいていたのです。白粉おしろい香水こうすいにおいにむっとみちた部屋でした。
 内田さんは入って来たのがぼくなのをみると、一寸ちょっと坐り直し「坂本さんだったの」とみあげます。ぼくは内田さんのセックス圧倒あっとうされて居たたまれない気持で、早々にノオトを渡し、とびらを開けて出るのとほとんど同時でした。会長のK博士が温顔をきびしく結ばれて、此方こっち洋杖ステッキの音もコツコツとやって来られたのです。ぼくは、びっくり敗亡、飛ぶようにして自分の船室に逃げ帰りましたが、内田さんの小首をかしげた横坐りの姿は、可愛かわいねこのような魅力みりょく媚態びたいあふれていて、ながく心に残りました。
 しかし、それから間もなく、KOのボオトの連中が坊主ぼうずになるような事件をき起したとき、ぼくは、なにか危なかったと胸をなでる気持がありました。
 事件といっても、大したことではなく、村川から聞いたところによると、みんなっぱらってブリッジにいると、中村さんを始め女のひと達が二三人あがって来た。それをこちらが不良学生みたいに取囲んで、酔った勢いで、ワアワア言っていると、中村さんが、真っ先に泣きだし、それを折悪おりあしく来かかったTコオチャアに見つけられ、みんなはその場で叱責しっせきされたばかりでなく、Tさんは主将の八郎さんに告げたので、八郎さんがまたみんなを呼びつけて烈火れっかのようにいかり、自分から先に髪を刈って坊主になったので、皆もいさぎよくそろって丸坊主になり、謹慎きんしんの意を表したとのことでした。

二十五


 横浜まで、あと一週間という日になった。
 プロムナアド・デッキの手摺てすりりかかって海につばいていると、うしろからかたたたかれ、振返ふりかえると丸坊主まるぼうずになりたての柴山でした。
 かれはひどく真面目まじめぶった顔付で「坂本君、熊本さんのことでなにか聞いたか」とたずねます。「いや別に」と答えると声をひそめ、「大変なことがあるんだ。これがおおやけになったら熊本さんの一生は台なしだよ。君はあんなにして特に親しいから、君からいっぺん忠告してやれよ」と親切にお節介せっかいを焼いてくれます。ぼくは息づまるほどのショックを受け柴山をみつめていました。
「昨夜なア、うちの河堀と金沢が、ボオト・デッキですずんでいたら、暗いかげになったほうでガサゴソ物音がするんだそうだ。なんだとおもってみてたら、熊本秋子とネルチンスキイのやつが二人ッきりでうでを組んで出てきた。それで、此方こっちで見ているとも知らずネルチンスキイが、熊本にながいこと接吻せっぷんしてけつかったそうだ。きたない」
 ネルチンスキイというのは一船おくれて日本に遠征えんせいに来るはず芬蘭フィンランドの陸上選手監督かんとくで、一足先きに事務上の連絡旁々れんらくかたがたこの船に乗った、中年の好紳士こうしんしです。背が高く口髭くちひげたくわえ、あぶらぎった赭顔あからがおをしていました。
 ぼくは頭のなかが熱くなり、うそだ嘘だとおもいながらも柴山の言葉を否定するなんの根拠こんきょもないままに、無性むしょうに腹が立ってきました。柴山は続けます。
「それで、金沢が帰ってきて陸上の連中に話したから、みんなおこっていたよ。二三人で呼びだして、熊本をなぐろうかとまで言っているんだぜ」
 ぼくはこれは大変だ、と思いました。とにかく河堀と金沢に会ってから真相を確かめ、その上であなたにってお話をするのだ、と心に決め、柴山の親切に、厚く礼をいってからその場を立ち去りました。
 ず、河堀をさがしに行くとスモオキング・ルウムで、これも丸坊主になりたての頭で、煙草たばこかしていました。「ちょっと」と呼びだし、照れくさいのを我慢がまんして、あなたの一件をたずねますと、KOボオイの標準型で立派な青年紳士のおもむきのある彼はかるく笑い、
「そりゃア柴山の話が大きいんだ。そこまでぼく達はみなかった。ただ暗い処を二人でごそごそしていたし、出てきたとき熊本が泣いていて、それをネルチンスキイがなぐさめていた様子が変だったから、金沢がみんなに話したんでしょう。しかし、ぼくには、なにも他人のことだし、だれにも言いふらしたりしませんよ。安心なさい」
 とニヤニヤ笑いながら、ぼくの肩を叩きます。マドロス・パイプをおつくわえ、落着いてけむりをくゆらす彼の態度にはなにか信用できるものがあって、ぼくはくれぐれもそのうわさを打消すように頼むと、こんどは、階段を飛ぶように降りて、金沢の船室を叩いてみました。
 折よく在室とみえ「お入り」と重々しい声です。ドアを開けると、元来禁欲そうじみた風貌ふうぼうの彼にはよく似合うりたての頭をして、寝台しんだいにどっかと胡坐あぐらをかき、これも丸坊主の村川と、しきりに大声で笑いあって、なにかうれしそうに話をしていました。
 入って行ったぼくをみると、彼は顔をあげて意外らしく、「オウ」と挨拶あいさつします。ぼくが改まって、「金沢君、お願いがあるんだけれど」と切り出すと、「え、なんだい」彼はおおげさにまゆひそめました。ぼくは下劣げれつ流布るふされているぼく達の交友が、ここでもストイックの彼に、誤解ごかいされてはと「実は変にとられたら困るけれど」と前置きすれば、「いや別に変に思わないよ」ともう冷たい声でっぱなされました。
 ぼくは懸命けんめいになればなるほど拙劣せつれつなのを知りながら「実はあなたが昨夜、熊本さんについて見たことを、あなたの胸だけにしまっておいてもらいたいのです」と言いかければ、彼は不愉快ふゆかいそうにかん高く、ぼくをさえぎり「なにもおれはそんなことをしゃべり歩いたりはしないよ。言ってみたって何の得にもならないし、第一、俺は熊本みたいな女に少しも興味がないもの」と、そこで一寸と口を切ってから、また落着いたしゃがれ声にかえり「しかし、実際女の選手ってだらしがねエな」と村川をかえりみれば、村川も即座そくざに、「じッせえ、女流選手っていうのは、なっちゃいないね」と合槌あいづちを打ちます。ぼくは無責任な批評をするな、と腹がたちましたが、金沢は続いて無造作に、「しかし誰かに言い触らすようなことはしないよ。それは約束やくそくします」という。その言い方に、ぼくはふッと、彼の大人を感じると、なにか信用して好い気になり、安心すると同時に、一遍いっぺん気恥きはずかしくなってきて急いで、彼の部屋を辞しました。
 無茶苦茶にけあるきたいような衝動しょうどうにかられて、階段をかけ上って行くと、森さん、松山さん、沢村さん達がいずれ麻雀マアジャンでも果てたあとか、たくましく笑い合って降りて来かかり、血走ったぼくの様子をみると、顔見合せて、さらにどっと笑いたてました。
 てッきり、あなたの一件で笑われたと、ぼくは尚更なおさら口惜くやしがって、あなたを捜しまわりましたが、その晩はついに見つからず、また不眠ふみんの夜を送りました。
 翌日、海は晴れていた。ぼくは、あなたを探して船の上から下までせめぐった。逢ってなにか一言いわなければ、納まらない気持だったのです。その日も、むなしく海がれました。ぼくはスモオキング・ルウムの一隅いちぐうすわり、ひとり薄汚うすよごれた感傷をんでいました。
 そのころの流行歌の一節に、≪花は咲くのになぜ私だけ、二度と春みぬ定めやら≫というのがありました。ぼくは其処そこのところが、奇妙きみょうに好きで、誰もいないのを幸い、何遍も何遍もかけ直しては、面をたれて、歌をきいていました。
 逢魔おうまヶ時ときという海の夕暮でした。ぼくは電燈もつけず、仄暗ほのくらい部屋のなかで、ばかばかしくもほろほろと泣いてみたい、そんな気持で、なんども、そのあまい歌声をきいていました。その時ひょいと顔をあげると愕然がくぜんとしました。あなたの仄白い顔が、窓からのぞいているのです。あんなに捜してもみつからなかったのに、一体どこにかくれていたんです、とも言いたく、お元気でなによりですと、喜んでもあげたかった。
 が、おどろきのほうが強く、まじまじ目を見開いているぼくの顔にあなたは「ぼんち、今晩は」と笑いかけ、さびしさに甘えようとしているぼくの表情がわかると、ふッと身体からだを乗りだし「そんなとこで、なにしてんの。ホホ……」と少しヒステリカルに笑い、顔見合せると急に笑いんで、やるせない沈黙ちんもく瞬時しゅんじが流れましたが、ふっと表情をかえたあなたは「ぼんち映画みに行かないの」といいてたまま、くるりと身をひるがえし、甲板かんぱんはしの映画場のほうへ行ってしまいました。
 機械的に、そのあとから、ぼくもねおき、活動を見に急いだのです。
 映画は、むかしなつかしい大河内伝次郎主演、辻吉朗監督『沓掛くつかけ時次郎』でありました。ところは太平洋の真唯中まっただなか、海のどよめきを伴奏ばんそうにして、映画幕は潮風にあおられ、ふくれたり、ちぢんだりしています。見物人は船客一同に加えて、満天の星と、あるいは、海の鱗族うろくず共ものぞいているかも知れません。
 ぼくは、舷側げんそくの手摺にもたれて、みんなの頭越しに、この傷だらけのフィルムを、ぼんやりながめていました。
 義理人情にからまれた男、沓掛時次郎の物語はへんてこに悲しいものでした。それに、説明を買ってでたレスラアB氏の説明が出鱈目でたらめで、たとえば≪すけ≫と読むべきところを≪助人じょにん≫と読みあげるようなあやまりが、ぼくには奇妙な哀愁あいしゅうとなって、引きこまれるのでした。かざりのないたばがみに、白い上衣うわぎを着たあなたが項垂うなだれたまま、映画をまるで見ていないようなのも悲しかった。
 映画が済んで、みんな立ってしまったあと、ぼくは独り、舷縁ふなべりこしけ、柱に手をまいて暗い海をみていた。青白いスクリインは、バタバタと風にあおられ、そのまえに乱雑に転がったデッキ・チェア、みんな、むなしい風景でした。
 もう、なんにも、あなたに言いたくなくなって、ぼんやり、一等船室の大広間に足をみ入れると、悚然しょうぜん、頭から水を掛けられたようなショックを受け、絨毯じゅうたんのうえに身が釘付くぎづけになりました。あなたが、衆人環視かんしのなかで泣いていたのです。
 あとで聞くと、あなたは、その夜映画説明をしたB選手に醜聞スキャンダルの件で、面罵めんばされたのだといいます。ぼくがそばに居合せたらおそらく、身体のふるえるいきどおりに気がくるいそうだったことでしょう。
 このとき、一足なかに踏み込み、その光景をみるなり、ぼくは居竦いすくんでしまいました。こんのベレエぼうに紺のブレザァコオトを着た内田さんが、看護婦のように、あなたに寄りって慰めていました。室内にいた二十人ばかりの男女の視線が一斉いっせいに、立竦んでいるぼくに注がれた気がして居たたまれず、すぐ表に出てしまいました。
 あなたが災難にあっているのに、何にもしてやれない自分がはがゆく、ぐるぐるデッキをまわり歩きました。黒い海だった。走る波でした。
 二三回、プロムナアド・デッキを歩いて、先程の広間の前まで来ると、そこの手摺に凭れてあなたが陸上の川北氏と話をしていました。
 思いきったぼくは臆面おくめんもなく、あなた達の間に割りこみました。あなたは泣いたあとの汚い顔はしていたけれど、なにか頼りなげな可憐かれんな風がありました。
 ぼくは不作法にも突然とつぜんあなたに向い、口を切りました。「どうしたんですか。一体、熊本さん」あなたは顔をあげ、ひどく泣きじゃくりながら、話しだしました。このひとはだ少女ではないか、それを汚れた眼鏡でみるなんて、と、ぼくは憤慨ふんがいしながら、あなたの話を聞いていました。
「昨夜六時頃、Bデッキを散歩していますとネルチンスキイさんが、笑いながら傍によってきて、よくは判らないんですけれど、光るものと言うから多分夜光虫でしょう、をみせてあげるからボオト・デッキに行こうッて言うのでしょう。わたし一人で、いやだったから断ると、無理に、そりゃしつこくさそうのでしょ。内田さんがいてくれたら、気が強いんですけれど、心細いのにね。相手が外国のひとで、よく言葉がわからないから、し失礼になったら――と思って、ついて行ったんです。そしたら、ボオト・デッキに上って、暗いほうへ、ずんずん行って、すみに立っていたの。気味がわるかったけれど我慢がまんして一緒いっしょならんでいると、訳のわからない早口を言って、わたしの顔をみたり、なんにも見えない暗い海をみたりしていましたが、いきなり、私の手をこうしてにぎったのでしょ。ぞうっとして、急いで、りきって、帰ってきたんです。それだけなの」
 それだけの事実が、こんなにも歪曲わいきょくされ拡大されて伝わって行くとはと、ぼくが訳もなく口惜しがっているあいだに、川北氏は考えをまとめ、しずかに意見を述べだしました。
「だから、熊本君、さっきも言ったように、ネルチンスキイ氏に、なにもそれ程の邪意じゃいはなかったのじゃないかな。外国人は、女の手を握ったり、接吻したりするのは平気だから、しかすると単なる親愛の意味からやったに過ぎないのじゃないかとも思う。しかしそういう処へ、男と二人ッきりでいたという、あなたも賢明けんめいじゃなかった。これからは、気をつけるんですね。
 けれど、ネルチンスキイ氏にも、一度会って話はしておきましょう。なんでも彼方あちらの習慣通りにやられてはたまらない。ぼくが会って、あなたのことも、明瞭めいりょうに、あやまらせて置きます」
 ぼくはこんなにテキパキあなたに話ができる川北氏がうらやましかった。ぼくには、悔恨かいこん憧憬どうけいしかない。しかし、この人には理性と実行力があるのだと、尊敬する気持で、ぼくは、ネルチンスキイを捜す、川北氏のあとについて行きました。
 折よくプウルの傍の手摺によりかかり、海に唾を吐きちらしているネルチンスキイをみつけると、川北氏は傍に近づきたくみな英語で話しかけます。ぼくは初めから川北氏に無視された形でしたが、ここでも語学の点で、尚更ひっこんでいなくてはならず、それでもなにかの役に立てばと独りで興奮して、二人の会話を傍観ぼうかんしていました。
 ぼくにはよく解らないながら、川北氏の一言一句はネルチンスキイの肺腑はいふわたるとみえ、彼はいかにも恐縮きょうしゅくした様子で、「I'm sorry.」を繰返くりかえしてはうなずいていました。タイなしのカッタアシャツに灰色の上衣をひっかけた五尺そこそこ無髯むぜんの川北氏が、六尺有余、でっぷりした赭顔の鼻下にちょび髭を蓄えた堂々たる紳士のネルチンスキイを説得している有様は、まるで書生が大臣をへこましているような快感がありました。
 その話も結着して、川北氏に別れ独りになって甲板を歩いていると、なんとも言えぬ淋しさがこみあげてきて、なに一つできぬ自分がほんとにいやになった。自分の意気地なさ、だらしなさ、情けなさが身にしみ、自分の影法師かげぼうしまで、いやになって、なんにも取縋とりすがるものがないのです。星影あわき太平洋、意地のわるい黒い海だった。
≪花は咲くのになぜ私だけ、二度と春みぬ定めやら≫と音痴おんちの歌をくり返しては口ずさみ、薄暗い廊下ろうかを歩いてゆくと、向うの端から、仄白くあなたの姿がうかんできました。亡霊ぼうれいのようなはかなさで、あなたはまた誰にかののしられたのか、両掌りょうてで顔をおおい、泣きじゃくりながら近づいて来るのです。
 ぼくと向きあっても、あなたはおおっていたを放さず肩をふるわせて泣いているのでした。次の瞬間、ぼくは夢中むちゅうであなたの肩をたたき、出来る限りのやさしさをめ、「秋ッペさん泣くのはおよしよ。もう横浜が近いんだ」
 すると、あなたは顔から手を放し、子供みたいに、こっくりして領いた。その時の、あなたのひとみ柔軟じゅうなんな美しさは、今も目にあります。「笑って」といったら、ほんとに、あなたはにっこり笑った。
 ぼくには、それだけが精一杯だったのです。
 あの夜、それだけで別れて横浜まで、お逢いしなかった。けれど、あのときの別れが、今日迄も続いている気がします。

二十六


 その翌日――横浜に着く四日前――ぼくは酒を飲みました。
 前の夜、あなたに言い足りなかった口惜くやしさで、めずらしく朝から晩まで飲んでいました。そのうちぱらってしまって、船の酒場に入ってくる誰彼だれかれなしを取っつかまえては、くだをまきさかずきいていました。
 日がれると、いつの間にかホッケエ部の船室に入りこみ、ウイスキイのびんを片手に、時々喇叭呑らっぱのみをやりながら、「レエスに負けたって仕方がねエよ。だけど負けたのははずかしいねエ」とかなんとか同じ文句を繰返くりかえしているうち、監督かんとくのHさんからかたたたかれ、「どうも君みたいな酒豪しゅごうにはホッケエ部で、太刀打たちうちできるものがいないから、たのむから帰っててくれよ」とにこやかにさとされ、「はい、はい」と素直に立ち上がると、自分の部屋の前まで来ましたが、ちょうど同室の沢村さん、松山さんとそこで一緒いっしょになりました。
大坂ダイハン、いい機嫌きげんだな」とか、ひやかされてぼくはうれしそうに、「えエ、えエ」と首を振っていましたが、松山さんが部屋に入ったあと、沢村さんがぼくの首をき、のぞきこむようにして、「ぼんち、熊本さんは」とささやくのが、てっきり、あなたの醜聞の一件を指しているのだと思うと、ぼくには、これまでのこの人達の悪意が一ぺんにおもい出され、気のついたときには、もう沢村さんの身体からだかべしつけ、ぎりぎり憎悪ぞうおゆがんだ眼で、かれひとみにらみつけていました。
 瞬間しゅんかん、ア、しまった、と思った時にはすでにおそく、そのすきに立ち直った沢村さんが、「貴様やる気だな」とさけびざま、ぼくをきとばすと、ぐのしかかって来て、ぼくのくびめつけました。
 そのとき松山さんが部屋から出て来て、この有様をみるなり、「おい、沢村よせよ、大坂ダイハンはだいぶ酔っているぜ」と止めてくれましたが、沢村さんは一度手をはなしたかとおもうと、今度はなんともいえぬ意地悪い眼付で、まじまじぼくを見詰みつめているうち、不意に、平手で、力一杯いっぱい、ぼくの横ッつらを張った。ぼくはことさらなぐられるのも感じないほど酔っている風によそおい、くちびるを開けてフラフラして見せているのに、沢村さんは、続けて、ぼくの右頬みぎほおから左頬へと、びんたをわせ、松山さんをかえりみてはニヤニヤ笑い、「こら、大坂ダイハン、これでもか。これでもか」 といくつも撲った。

二十七


 そうして、横浜に着きました。
 朝靄あさもやを、微風びふういて、さざら波のたった海面、くすんだ緑色の島々、玩具おもちゃのような白帆しらほ伝馬船てんません、久しりにみる故国日本の姿は綺麗きれいだった。かもめとびかう燈台とうだいのあたりをけて、船が岸壁がんぺきに向おうとすると、すでに、満艦飾まんかんしょくをほどこした歓迎船かんげいせんが、数隻すうせき出迎えに来てくれていました。
 埠頭バンドを埋めた黒山の群衆のなかから、日の丸の旗がちらちら見えるのに、負けてきた、という感慨かんがいが、今更いまさらのように口惜くやしく、済まないなアとみあげて来ました。
 もはやどやどやと上がりこんで来た連中で、甲板かんぱん一杯いっぱいになり身動きもできません。新聞記者さんが一人、二人、ぼくのような者にまでインタアビュウに来てくれるのでした。
 しかし色んな事で上気してしまっているぼくには、話といっても別に出来ませんでした。が、その翌日の地方版をみると勇ましく片手を挙げたぼくの写真の下に、≪坂本君は語る≫として次の様な記事が出ていました。
≪オォルの折れるまでうでの折れる迄もと思い全力を挙げて戦って参りましたが武運つたなく敗れて故郷の皆様みなさま御合おあわせする顔もありません。ただ、心配なのは今度の戦績で、今後日本人がボオトにおいて、果してどれだけの活躍かつやくが出来るかと危ぶまれることです。この上は、四年後のベルリンに備えて、明日からでも不断の精進を続け、必ず今日の無念さを晴らしたいと存じます≫
 ぼくは、ぼくの気持通りに書いてくれた、記者さんの御好意に感謝はしましたものの、今更のようにジャアナリズムの魔術まじゅつあきれたものです。ぼくの寸言も真実、しゃべったものではありませんでした。

 さて、横浜に着く迄に、あなたにいておきたかった一言は、やはり、「あなたはぼくが好きですか」でありました。その返事を聞けなかった事がぼくの心残りだと、この手記の始めに思わせ振りに書いて置きました。しかし、聞いたからとて今思えばなんになろう。今になって残っているのは言葉でも肉体でもなく、ただ愛情の周囲を歩いたおもい出だけです。今のあなたにはおいしたくない。
 あのとき、帰りの船であなたがぼくの啄木歌集の余白に書いて下さった言葉を覚えています。
 ≪きの船ではずいぶん面白おもしろ御一緒ごいっしょに遊んで頂きましたわ。真珠しんじゅゆめのように一生忘れられない思い出になりましょう。日本に帰りましたら是非お遊びにいらして下さい。寄宿舎の豚小屋ぶたごやに≫
 そして、そのペエジのすぐ裏には、レスラア某氏ぼうしの書いてくれたこんな文句がありました。
≪世界は酒と女と金≫
 横浜おきで歓迎船が見えだしてから、ぼくはあわてて、あなたの写真を内田さんと一緒にらせてもらいました。あなたの衣裳いしょうも顔もしわくちゃにレンズのなかにぼけて写っていました。あなたの顔は往きの船の健康さにひきかえ、うれいのかげで深くくもっていました。ぼくはそれをぼくへの愛情のためかと手前勝手に解釈していたのです。
 帰朝して三日目、高知県主催の歓迎会が丸の内の中央会館でありました。あなたも同じ高知県なので、勿論もちろんお逢いできると思い、慌てて道を歩き交通巡査じゅんさしかられるほどの興奮の仕方で出席しました。しかし、面窶おもやつれしているあなたにお逢いしても、やはりなんにも話せませんでした。
 ただ、エレベエタアを一緒のはこで、身体からだれ合って降りたときと、挨拶あいさつ壇上だんじょうに登る際、降りて来たあなたとれちがったときとが、限りなく苦しかった。
 帰ってとこに入り目をつむっていると、あなたが船のなかでボクサアのIさんとピンポンをしているときの姿態がうかんできた。あなたはとてもピンポンが上手で、それだけ汗塗あせまみれになってやっていた。うす肌着はだぎがぴったりくっつき、あなたの肉体の線があらわにみえていました。
 そのうちどうした機勢はずみか、Iさんの強打した直球が、あなたのスカアトから股の間に飛びこんだら、皆もドッと笑ったけれど、あなただけいつまでも体をつぼめて、ヒステルカルに癇高かんだかく笑い続けていました。
 笑いが止まるとあなたは直ぐ、真紅まっかな顔になって、部屋に帰ってしまいましたが、そのときぼくがあなたをなぐりつけたい腹立たしさで、一隅いちぐうから笑いもせずににらみつけていたのを御存知ですか。
 ぼくはあなたへの愛情に、肉体を考えたことがないと前にも書きました。帰朝してから随分ずいぶん色んな歓迎会ももよおして頂き、酔ったあとで友達同士、女遊びをする機会も多かったのですが、ぼくはどんな場合でも、芸者なり商売女に、「ぼくにはだいじなひとがいるから、悪いけれど気にしないで」とまともな顔で断って、指一本、彼女達かのじょたちに触れたことはありませんでした。
 帰ってしばらくして、銀座のシャ・ノアルにクルウがそろって行ったことがあります。初めに書いた、かつてぼくの童貞どうていとやらに興味を持ったN子という女給もいれば、松山さんも沢村さんの女達もいるカフエでした。ぼく達が入って行くと、マスタアが挨拶に来るは、女給が総出で取り巻くは、大変なものでした。
 ぼくはそのころむやみに酒を飲むようになっていましたから、一人でがぶがぶとあおり、手近にすわっていた京人形みたいな女給をちょっと好きになって、「君の名前は」とか訊いているうち、いきなり背後から生温かいうでがぺたっとくびのまわりに巻きつきました。振返ふりかえると熱柿じゅくしみたいなにおいをぷんぷんさせたN子です。「聞いたわよ、坂本さん、船のなかで女のひととすごかったんですッてねエ」「ああ」とぼくは素直です。「こんなおばあちゃんじゃ、きらい」とN子はぼくの頸にぶら下がったまま、ぼくのひざに坐り、白粉おしろいと紅の顔をぼくの胸におしつけます。
 実をいうとぼくは肉体の快感もあって、こういう酩酊めいてい為方しかたいなあ、と思いかけていましたが、便所に立ったとらさんが帰って来て、「オイ表に出てみろよ、大変な貼出はりだしが出ているぜ、ハッハッハ」と豪傑ごうけつ笑いをするので、清さんと一緒に出てみますと、入口に立てかけた大看板に(只今オリムピックボオト選手一同御来店中)と墨痕ぼっこんあざやかに書いてあります。
 しばらく唖然あぜんと突っ立っていたぼくは、折から身体をして行く銀座の人混ひとごみにもまれ、段々、酔いが覚めて白々しい気持になるのでした。もうそのまま、帰りたくもなりましたが、皆で来ているのでそれもならず、再び店内に入ると、もはや、ほろ苦くなった酒をあおるのもめてしまった。間もなく、マスタアが出て来て、「お写真をとらせて下さい」という。酔払った連中は、二つ返事で銘々めいめい美女をあいようし、威勢いせいよくシャムパングラスを左手にささげ立ったところを、ポッカアンとマグネシュウムがはじけて一同、写真に撮られてしまいました。
 所詮しょせん、だらしのないぼくが、そんなにも女色がきらいだったというのはひとえに、あなたからの手紙の御返事を待っていたからです。
 県人会でお逢いした翌日、ぼくは横浜へ着いた日に撮ったあなたの写真を、すぐあなたの寄宿舎のほうへ送っておきました。勿論もちろん、あなたの御迷惑ごめいわくを考え、あっさりした御手紙をえておいたのですが、きっと返事が来るだろうと信じていました。返事が来れば、それからお付合をして、あるいは結婚が出来るかとも思っていました。
 ぼくはその夏、鎌倉かまくらの家へ行っていました。
 毎日、夕暮ゆうぐれになるとあなたからの手紙が廻送かいそうされているような気がして、姉の子をおぶい、散歩に出た浜辺はまべから、いのるような気持で、姉の家に帰って行ったものです。
 相模さがみの海の夕焼け空も、太平洋の夕照とかわりありません。到頭とうとうあなたの手紙は来なかった。

 それから間もなく、ぼくは兄の指導下に、学内のR・Sを手始めとして、段々本格的な左翼さよく運動へと走って行きました。続いて学内サアクルの検挙、一人の母をてて地下へ、工場へ。ストライキからつかまって転向、というヤンガアジェネレェション一通りの経過をへたぼくが、狂熱きょうねつ的な文学青年になったのは、オリムピックの翌々年の春でした。
 なにより先に、あなたとの思い出が書きたく、すでに書きめの原稿紙げんこうしも五六十枚になった頃、偶然ぐうぜん、新宿の一食堂で、中村さんに逢いました。
 暫く見ないうちにすっかり大人になった、来年はまた伯林ベルリンに行けると張切っていた中村さんから、ず、あなたが中国辺の女学校で、体操の先生をしているとの話を聞きました。同時に、内田さんが有名なスポオツマンの某氏と、恋愛れんあい結婚をしたとの話を聞きました。
 そのときの衝動しょうどうは強く、帰ってから直ぐ書きかけの原稿紙を全部、破ってしまいました。こんな興奮するようでは、だとても書けないとあきらめたからです。
 次の年、徴兵ちょうへい検査で、本籍ほんせきのある高知県に帰ったとき、特殊とくしゅ飲食店を開いている伯父おじさんから商売がら廃娼はいしょう反対演説を聞いたあと、こっちも一杯機嫌きげんで、あなたの話をほのめかすと、伯父さんは、「熊本秋子さんなら直ぐ、隣町となりまちの床屋のむすめさんじゃきに、伯父さんもよう知っとるし、本当におまはんがその気なら、じき話を決めるがのうし」と大乗気になられ、かえって此方こちら辟易へきえきしました。
 それよりも去年の暮、出征しゅっせいしていた頃、北京ペキン郊外こうがい豊台駅前のカフェに入った処が、高知県出身の女給さんばかりが多くいて、あなたのうわさが、偶然オリムピックの話から出たのには驚きました。あなたと同じ女学校で三年下だったという其処そこのある女給さんは、なかなか色白細面はそおもての美人でしたが、あなたのことを「とてもすらりとした可愛かわいいお方でしたわ」とお世辞を言っていました。

 そうして、ぼく達のグルウプの人々は――。
 帰朝して間もなくインタアカレッジでがされたエキジビジョンの風景を想い出します。
 真紅しんくのオォルに真紅のシャツ。みんな出立いでたちは甲斐々々かいがいしく、ラウドスピイカアも、「これより、オリムピック・クルウの独漕どくそうがあります」と華々はなばなしく放送してくれたのでしたが、橄欖かんらんみどりしたたるオリムピアがすでにむかしに過ぎ去ってしまった証拠しょうこには、みんなの面に、身体に、帰ってからの遊蕩ゆうとう、不節制のあとが歴々と刻まれ、くもり空、どんよりにごった隅田川すみだがわを、ていれるしオォルは揃わぬし、外から見た目には綺麗きれいでも、ぼくには早や、落莫らくばく蕭条しょうじょうの秋となったものが感ぜられました。
 そうして二三年ってから。
『若き君の多幸を祈る』と啄木歌集の余白に書いてくれた美少年上原が、女に身を持ちくずし、下関の旅館で自殺をしたときいた。銀座ボオイの綽名あだながあった村川が、おめかけ上がりのダンサアと心中して一人だけ生残ったとの噂もきいた。
 沢村さんは満洲まんしゅうへ、松山さんはジャワへ、森さんは北支ほくし、七番の坂本さんはアラスカへと皆どこかへ行ってしまった。
 東海さんは昨年、戦地で逢いました。補欠サブの佐藤は戦死したと聞きました。
 戦地で、覚悟かくごを決めた月光も明るい晩のこと、ふっと、あなたへ手紙を書きましたが、やはり返事は来ませんでした。

 あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか。





底本:「オリンポスの果実」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年9月30日発行
   1991(平成3)年11月30日52刷改版
初出:「文学界」
   1940(昭和15)年9月号
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋
校正:伊藤時也
2000年2月7日公開
2011年6月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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