木精

森鴎外




 いわ屏風びょうぶのように立っている。登山をする人が、始めて深山薄雪草みやまうすゆきそうの白い花を見付けて喜ぶのは、ここの谷間である。フランツはいつもここへ来てハルロオと呼ぶ。
 麻のようなブロンドな頭を振り立って、どうかしたら羅馬ロオマ法皇の宮廷へでも生捕いけどられて行きそうな高音でハルロオと呼ぶのである。
 呼んでしまってじいっとして待っている。
 しばらくすると、大きい鈍いコントルバスのような声でハルロオと答える。
 これが木精こだまである。
 フランツはなんにも知らない。ただ暖かい野の朝、雲雀ひばりが飛び立って鳴くように、冷たい草叢くさむらゆうべ※(「虫+車」、第3水準1-91-55)こおろぎが忍びやかに鳴く様に、ここへ来てハルロオと呼ぶのである。しかし木精の答えてくれるのがうれしい。木精に答えてもらうために呼ぶのではない。呼べば答えるのが当り前である。日の明るく照っている処に立っていれば、影が地に落ちる。地に影を落すために立っているのではない。立っていれば影が差すのが当り前である。そしてその当り前の事が嬉しいのである。
 フランツは父がふもとの町から始めて小さいくつを買って来て穿かせてくれた時から、ここへ来てハルロオと呼ぶ。呼べばいつでも木精の答えないことはない。
 フランツは段々大きくなった。そして父の手伝をさせられるようになった。それで久しい間例の岩の前へ来ずにいた。
 ある日の朝である。山を一面に包んでいた雪が、いただきにだけ残って方々のもみの木立が緑の色を現して、深い深い谷川の底を、水がごうごうと鳴って流れる頃の事である。フランツは久振ひさしぶりで例の岩の前に来た。
 そして例のようにハルロオと呼んだ。
 麻のようなブロンドな頭を振り立って呼んだ。しかし声は少しさびを帯びた次高音になっているのである。
 呼んでしまって、じいっとして待っている。
 暫くしてもう木精が答える頃だなと思うのに、山はひっそりしてなんにも聞えない。ただ深い深い谷川がごうごうと鳴っているばかりである。
 フランツは久しく木精と問答をしなかったので、自分が時間の感じを誤っているかと思って、また暫くじいっとして待っていた。
 木精はやはり答えない。
 フランツはじいっとしていつまでもいつまでも待っている。
 木精はいつまでもいつまでも答えない。
 これまでいつも答えた木精が、どうしても答えないはずはない。もしや木精は答えたのを、自分がどうかして聞かなかったのではないかと思った。
 フランツは前より大きい声をしてハルロオと呼んだ。
 そしてまたじいっとして待っている。
 もう答えるはずだと思う時間が立つ。
 山はひっそりしていて、ごうごうという谷川の音がするばかりである。
 また前に待った程の時間が立つ。
 聞こえるものは谷川の音ばかりである。
 これまではフランツはただ不思議だ不思議だと思っていたばかりであったが、この時になって急に何とも言えない程心細く寂しくなった。たとえばこれまで自由に動かすことの出来た手足が、ふいと動かなくなったような感じである。麻痺まひの感じである。麻痺は一部分の死である。死の息が始めてフランツのうなじに触れたのである。フランツは麻のようなブロンドな髪が一本一本逆につような心持がして、何を見るともなしに、身の周匝まわりを見廻した。目に触れる程のものに、何の変った事もない。目の前には例の岩が屏風の様に立っている。日の光がところどころ霧の幕を穿うがって、樅の木立を現わしている。風の少しもない日の癖で、霧がたちまち細い雨になって、今まで見えていた樅の木立がまた隠れる。谷川の音の太い鈍い調子を破って、どこかで清い鈴の音がする。牝牛めうしくびに懸けてある鈴であろう。
 フランツは雨に濡れるのも知らずに、じいっと考えている。余り不思議なので、夢ではないかとも思って見た。しかしどうも夢ではなさそうである。
 暫くしてフランツは何か思い付いたというような風で、「木精は死んだのだ」とつぶやいた。そしてぼんやり自分の住んでいる村の方へ引き返した。
 同じ日の夕方であった。フランツはどうも木精の事が気に掛かってならないので、また例の岩の処へ出掛けた。
 この日丁度午過ひるすぎからごく軽い風が吹いて、高い処にも低い処にもまろがっていた雲が少しずつ動き出した。そして銀色に光る山の巓が一つ見え二つ見えて来た。フランツが二度目に出掛けた頃には、巓という巓が、藍色あいいろに晴れ渡った空にはっきりと画かれていた。そして断崖だんがいになって、山の骨のむき出されているあたりは、紫を帯びたくれない※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)におうのである。
 フランツが例の岩の処に近づくと、忽ち木精の声がにぎやかに聞えた。小さい時から聞き馴れた、大きい、鈍い、コントルバスのような木精の声である。
 フランツは「おや、木精だ」と、覚えず耳をそばだてた。
 そして何を考えるひまもなく駈け出した。例の岩の処に子供の集まっているのが見える。子供は七人である。皆ブリュネットな髪をしている。血色の好い丈夫そうな子供である。
 フランツはついに見たことのない子供の群れを見て、気兼をして立ち留まった。
 子供達は皆じいっとして木精を聞いていたのであるが、木精の声が止んでしまうと、また声を揃えてハルロオと呼んだ。
 勇ましい、底力のある声である。
 暫くすると木精が答えた。大きい大きい声である。山々に響き谷々に響く。
 空にそびえている山々の巓は、この時あざやかな紅に染まる。そしてあちこちにある樅の木立は次第に濃くなる鼠色ねずみいろひたされて行く。
 七人の知らぬ子供達は皆じいっとして、木精の尻声しりごえが微かになって消えてしまうまで聞いている。どの子の顔にも喜びの色が輝いている。その色は生の色である。
 群れを離れてやはりじいっとして聞いているフランツが顔にも喜びがひらめいた。それは木精の死なないことを知ったからである。
 フランツは何と思ってか、そのままきびすめぐらして、自分の住んでいる村の方へ帰った。
 歩きながらフランツはこんな事を考えた。あの子供達はどこから来たのだろう。麓の方に新しい村が出来て、遠い国から海を渡って来た人達がそこに住んでいるということだ。あれはおおかたその村の子供達だろう。あれが呼ぶハルロオには木精が答える。自分のハルロオに答えないので、木精が死んだかと思ったのは、間違であった。木精は死なない。しかしもう自分は呼ぶことはそう。こん度呼んで見たら、答えるかも知れないが、もう廃そう。
 やみが次第に低い処から高い処へ昇って行って、山々の巓は最後の光を見せて、とうとう闇に包まれてしまった。村の家にちらほら燈火が附き始めた。
(明治四十三年一月)





底本:「普請中 青年 森鴎外全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版森鴎外全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜9月刊
入力:鈴木修一
校正:mayu
2001年7月31日公開
2006年4月28日修正
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