不苦心談

森鴎外





 ファウストを訳した時の苦心を話すことを、東亜之光の編者に勧められた。然るに私は余り苦心していない。少くも話の種にする程、苦心していない。こう云うのがえらがるのでないことは勿論である。また過誤のあった時、分疏ぶんそをするために予め地をなして置くのでもない。これは私の性質と境遇とから生じた事実である。あるいはそれではギョオテに済むまいとめられるかも知れない。しかしこれまで舞台に上されるファウストを日本語で書いた人もなく、またそう云う人が近い将来に出そうでもなかったので、無謀かは知らぬが、私がその瀬踏をして見た。これは苦労性の人には出来ぬ事かも知れない。私の性質と境遇とが、却て比較的短日月の間にそれをさせたのだと云っても好いかも知れない。


 ファウストの善本は無論ゾフィインアウスガアベである。私はそれを持っている。然るに私は零砕の時間を利用して訳するのだから、三冊物を持ち歩くことが出来ない。それでハルナック本から訳した。ただ疑わしい処をゾフィインアウスガアベで調べて見ただけである。コンメンタアルの類も多少持っている。それも一々読んで置いて訳したのではない。ただ疑わしい処をコンメンタアルで調べて見ただけである。こう云う方法に従ったのは、単に手数を省こうとしたのではなかった。手を抜こうとしたのではなかった。私は当初から原文を素直に読んで、その時の感じを直写しようと思っていたのである。


 ファウストの訳本は最初高橋五郎君のが出た。次いで私のを印刷しているうちに、町井正路君のが出た。どちらも第一部だけである。私は自分が訳してしまうまで、他人の訳本を読まずにいた。第一部も第二部も訳してしまってから、両君の第一部の訳を読んで見た。そして両君の努力を十分に認めた。もっとも高橋君のは昔発表せられた時瞥見べっけんして、舞台に上すには適していぬと云うことだけは知っていた。そう云うわけで、私は両君の影響を受けてはいない。早く出ていた高橋君の訳を参考しなかったのも、やはり原文を素直に読んで、その時の感じを直写しようと思っていたからである。


 私は高橋君の努力をも町井君の努力をも十分に認めているが、中にも高橋君が非常に綿密に研究せられた処のあるのを見て感心している。原文とイギリス訳とを対照せられたのは決して、徒労ではなかった。


 私は自分の訳本ファウストについて、一度心の花に書いたことがある。その中に正誤表を作った事や、象嵌ぞうがんで版型を改めた事を言った。然るにその正誤表がまだ世間に行き渡っていない。そこで正誤表を作ったと云うのは虚言だと云う人がある。あれは虚言ではない。正誤表は先ず第一部のが出来て、多少世間に出ている。次いで第二部のが出来て、これも多少世間に出ている。就中なかんずく私の手許から贈遺した本には、正誤表の出来た後、それを添えなかったことはない。書肆しょし富山房も誠意がないではなかったが、買った本は誰が買ったか分からぬので、正誤表の送りようがないと云うことであった。帝国劇場で第一部の興行のあった時、第一部の正誤表は出来ていたので、富山房はそれを劇場で配布しようかとも云った。しかし私は本を読む人と劇を観る人とは自ら別だから、それは無益だろうと云った。さて今既に印刷しおわっているファウスト考には、右の第一部、第二部の正誤表を合併して、更に訂正を加えて添えてあるのである。


 正誤表に載せてある誤には、誤植もあれば、誤写もある。原稿は私の書いたのを、筆工に写させた。それが印刷所に廻ったのである。原稿を口授して筆受させたのだと云う人があるが、そうではない。誤植や誤写の外に、誤訳がある。誤植や誤写は自分に発見し易いが、誤訳はそれがむずかしい。人に指摘して貰って知ることが多い。私は今日まで指摘して貰って、私のそれを承認した誤訳を、ここに発表しようと思う。それは指摘してくれられた人には、没すべからざる恩誼があるから、それに対して公に謝したいためである。


 しかし体にきずのある人は、衣服でそれをおおっていられる限は掩っている。人に衣服を剥がれるまでは露呈しない。精神上にも自家の醜は隠される間は隠している。そればかりではない。フランスの誰やらの本に、大賊が刑せられる時、人間の一番大切なる秘密を語ろうと云った。人が何かと問うた。賊は「白状するな」と云ったと云うのである。これは処世法の最深刻なるものかも知れない。これに反して、人に余儀なくせられたのでなく、ことさらに自家の醜を白状した人が稀にはある。ルソオの如きがそれである。しかしルソオは精神病になり掛かっていたらしい。私の誤訳を指摘してくれられた人達の指摘の形式は、よしや私がそれは承認するにしても、私にそれを発表することを余儀なくしてはいなかった。その形式が座談になっているのは、その席で礼を言えば済む。私信になっているのは、礼状を遣れば済む。公開書になっているのも、罵詈ばりがしてあれば、棄て置いても好い。あるいは棄て置くのが最紳士らしいかも知れない。また先方にも過誤がある場合には、それを捉えて罵詈の返報をすることも出来る。必ずしも自ら屈して自家の過誤だけを発表しなくても好い。然るに私はここにそれを敢てしようと思う。私は公に謝するのだと云った。それは美徳である。自分の行為が美徳に合うことは喜ばしくないでもないが、私はその美徳のためにのみこの挙に出づるのではない。発表した方が愉快だからである。即ち身勝手である。


 第一に指摘してくれられたのは、興行の時メフィストフェレスを勤められた伊庭孝君である。第一部で、ファウストの書斎に魔除のペンタグランマが画いてある場所は、シュウェルレである。これはチュウルシュウェルレで敷居である。それが鴨居と訳してあった。ダハシュウェルレと云う語もないではないがふと上の方に画いてありそうに思っただけの間違であった。丁度これと似た事が今一つある。それは第二部で、メフィストフェレスがファウストの旧宅に這入った時、家が震動してエストリヒから土が落ちると云うことがある。エストリヒとは床である。それが天井に使ってある。しかし土が落ちるとしてあったので、これは私が誤らずに済んだ。


 伊庭孝君が今一つ指摘してくれられたのは、第一部でグレエトヘンが花占をする時、花弁をむしる、あの花弁である。あれが原文にブレッテルとしてあったので、私は葉と訳した。それは後に牧野富太郎君に尋ねて知るまで、あの植物の形をはっきり想い浮べていなかったためである。ブレッテルはブルウメンブレッテルだと云って聞せてくれられたのは伊庭君である。この誤訳は牧野君の意見をも質した上で私が承認した。


 第二に指摘してくれられた人は杉梅三郎君である。伊庭君の忠言は度々逢うので、座談のついでに聞いたのだが、杉君はわざわざ手紙で知らせてくれられた。それは第一部の閭門りょもんの外で、娘等に物を言い掛ける一老女である。アルテと書いてある。アルテはアイネ・アルテである。それを複数に誤って老人等と訳してあった。アルテが一老女だと云うことは、どのコンメンタアルにもある。高橋君も町井君も正しく訳していられる。それを私はうっかり誤った。苦心しなかった結果である。私は杉君に返事を遣って、礼を言った。それから後に逢った時、第二部をも細閲して貰うように頼んで置いた。

十一


 第三に指摘してくれられた人は向軍治君である。これは新人と云う雑誌に出ている。第一部の劇場にての前戯に、道化方がアイン・ブラアウェル・クナアベのいるのは劇場の利方だと云っている。このしっかりした男は役者である。それを作者と誤って訳した。すぐその跡で、道化方が作者にブラアヴであれと云っているので、誤ったのである。イギリス訳には役者と云う語が入れてあるのがある。どのコンメンタアルにも役者とことわってある。高橋君も町井君も正しく訳している。それを私はうっかり誤った。そしてその誤のために、次の数句のうちにあるデンをデルと見誤った。向君には私はまだ礼を言わずにいる。新人の書振では、私なんぞが礼を言ったって受けられぬかも知れない。しかし兎に角ここで感謝の意だけ発表して置く。新人には別に二三の指摘がしてあったが、それは私のここで発表しようと思っている事件の範囲外だと、私は認める。

十二


 以上のうちで伊庭君の指摘せられた誤訳は、他の誤植や誤写なんぞと一しょに、最初別々に印刷した第一部と第二部との正誤表に載っているが、杉君と向君との指摘せられた誤訳は両部を合併して、ファウスト考に添えるはずの正誤表にだけ載っている。私は今後幾度でも、機会を得次第に正誤して行く積であるから、あらゆる読者に尚沢山指摘がして貰いたい。そして私の苦心の足りなかった処を補って貰いたい。これはファウストには限らない。先頃沼波ぬなみ武夫君は一幕物の中のサロメの誤訳を指摘してくれられた。近比ちかごろ伊庭孝君は同書の中の痴人と死との誤訳を指摘してくれられた。それ等も改版の折に訂正したく思っている。

十三


 私は誤訳をしたのを、苦心が足りなかったのだと云った。そんなら私がもっと物に念を入れる性質で、もっと時間に余裕のある境遇にいたら、誤訳をしないだろうかと云うに、私はそうは思わない。人間のする事業に過誤のない事業はない。書物に誤謬のない書物はない。飜訳に誤訳のない飜訳はない。あるはずである。それをあらせまいと努力するより外ない。私は私の性質と境遇との許す限り、この努力をしようと思う。

十四


 ファウストは一万二千百十一句ある。その中で諸家のコンメンタアルに異説のある難句が、枚挙するにいとまあらぬ程である。然るにここに書いた四箇条の誤訳は、皆極平易な句に過ぎぬ。そうでないのは所謂いわゆる「とがき」などである。今後は難渋な句の誤訳をも、もしどこかにあったら、発見して貰いたい。私は訳本ファウストを読まれる人達に、一層深い望をしょくしている。





底本:「ファウスト 森鴎外全集11」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年2月22日第1刷発行
   2007(平成19)年6月25日第5刷発行
入力:門田裕志
校正:米田
2012年1月7日作成
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