従四
位下左近衛少将兼
越中守細川忠利は、寛永十八年
辛巳の春、よそよりは早く咲く領地
肥後国の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して
参勤の
途に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。徳川将軍は名君の誉れの高い三代目の家光で、島原
一揆のとき賊将
天草四郎
時貞を討ち取って大功を立てた忠利の身の上を気づかい、三月二十日には
松平伊豆守、
阿部豊後守、
阿部対馬守の連名の
沙汰書を作らせ、針医
以策というものを、京都から
下向させる。続いて二十二日には同じく執政三人の署名した沙汰書を持たせて、
曽我又左衛門という
侍を上使につかわす。大名に対する将軍家の取扱いとしては、
鄭重をきわめたものであった。島原征伐がこの年から三年前寛永十五年の春平定してからのち、江戸の
邸に
添地を賜わったり、
鷹狩の
鶴を下されたり、ふだん
慇懃を尽くしていた将軍家のことであるから、このたびの大病を聞いて、先例の許す限りの慰問をさせたのも
尤もである。
将軍家がこういう手続きをする前に、熊本花畑の
館では忠利の病が
革かになって、とうとう三月十七日
申の刻に五十六歳で
亡くなった。奥方は
小笠原兵部大輔秀政の娘を将軍が養女にして
妻せた人で、今年四十五歳になっている。名をお
千の
方という。
嫡子六丸は六年前に元服して将軍家から
光の字を賜わり、
光貞と名のって、従四位下
侍従兼
肥後守にせられている。今年十七歳である。江戸参勤中で
遠江国浜松まで帰ったが、
訃音を聞いて引き返した。光貞はのち名を
光尚と改めた。二男
鶴千代は小さいときから立田山の
泰勝寺にやってある。京都妙心寺出身の
大淵和尚の弟子になって宗玄といっている。三男松之助は細川家に旧縁のある長岡氏に養われている。四男勝千代は家臣南条
大膳の養子になっている。女子は二人ある。長女
藤姫は松平
周防守忠弘の奥方になっている。二女竹姫はのちに
有吉頼母英長の妻になる人である。弟には忠利が
三斎の三男に生まれたので、四男
中務大輔立孝、五男
刑部興孝、六男長岡式部
寄之の三人がある。
妹には稲葉
一通に嫁した
多羅姫、
烏丸中納言光賢に嫁した
万姫がある。この万姫の腹に生まれた
禰々姫が忠利の嫡子光尚の奥方になって来るのである。目上には長岡氏を名のる兄が二人、前野長岡両家に嫁した姉が二人ある。隠居三斎
宗立もまだ存命で、七十九歳になっている。この中には嫡子光貞のように江戸にいたり、また京都、そのほか遠国にいる人だちもあるが、それがのちに知らせを受けて
歎いたのと違って、熊本の
館にいた限りの人だちの歎きは、わけて痛切なものであった。江戸への注進には
六島少吉、津田六左衛門の二人が立った。
三月二十四日には
初七日の営みがあった。四月二十八日にはそれまで館の居間の
床板を引き放って、土中に置いてあった
棺を
舁き上げて、江戸からの
指図によって、
飽田郡春日村岫雲院で
遺骸を
荼にして、
高麗門の外の山に葬った。この
霊屋の下に、翌年の冬になって、
護国山妙解寺が
建立せられて、江戸品川東海寺から
沢庵和尚の同門の啓室和尚が来て住持になり、それが寺内の
臨流庵に隠居してから、忠利の二男で出家していた宗玄が、天岸和尚と号して跡つぎになるのである。忠利の法号は
妙解院殿台雲宗伍大居士とつけられた。
岫雲院で
荼になったのは、忠利の遺言によったのである。いつのことであったか、忠利が
方目狩に出て、この岫雲院で休んで茶を飲んだことがある。そのとき忠利はふと
腮髯の伸びているのに気がついて住持に
剃刀はないかと言った。住持が
盥に水を取って、剃刀を添えて出した。忠利は
機嫌よく
児小姓に髯を
剃らせながら、住持に言った。「どうじゃな。この剃刀では
亡者の頭をたくさん剃ったであろうな」と言った。住持はなんと返事をしていいかわからぬので、ひどく困った。このときから忠利は岫雲院の住持と心安くなっていたので、
荼所をこの寺にきめたのである。ちょうど荼
の最中であった。
柩の供をして来ていた家臣たちの群れに、「あれ、お鷹がお鷹が」と言う声がした。
境内の
杉の木立ちに限られて、鈍い青色をしている空の下、円形の石の
井筒の上に
笠のように垂れかかっている葉桜の上の方に、二羽の鷹が輪をかいて飛んでいたのである。人々が不思議がって見ているうちに、二羽が尾と
嘴と触れるようにあとさきに続いて、さっと落して来て、桜の下の井の中にはいった。寺の門前でしばらく何かを言い争っていた五六人の中から、二人の男が
駈け出して、井の
端に来て、石の井筒に手をかけて中をのぞいた。そのとき鷹は水底深く沈んでしまって、
歯朶の茂みの中に鏡のように光っている水面は、もうもとの通りに平らになっていた。二人の男は
鷹匠衆であった。井の底にくぐり入って死んだのは、忠利が愛していた
有明、
明石という二羽の鷹であった。そのことがわかったとき、人々の間に、「それではお鷹も
殉死したのか」とささやく声が聞えた。それは殿様がお隠れになった当日から
一昨日までに殉死した家臣が十余人あって、中にも一昨日は八人一時に切腹し、
昨日も一人切腹したので、
家中誰一
人殉死のことを思わずにいるものはなかったからである。二羽の鷹はどういう手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたか、どうして目に見えぬ
獲物を追うように、井戸の中に飛び込んだか知らぬが、それを
穿鑿しようなどと思うものは一人もない。鷹は殿様のご
寵愛なされたもので、それが荼
の当日に、しかもお荼
所の岫雲院の井戸にはいって死んだというだけの事実を見て、鷹が殉死したのだという判断をするには十分であった。それを疑って別に原因を尋ねようとする余地はなかったのである。
中陰の四十九日が五月五日に済んだ。これまでは宗玄をはじめとして、
既西堂、
金両堂、
天授庵、
聴松院、
不二庵等の
僧侶が
勤行をしていたのである。さて五月六日になったが、まだ殉死する人がぽつぽつある。殉死する本人や親兄弟妻子は言うまでもなく、なんの
由縁もないものでも、京都から来るお針医と江戸から下る御上使との接待の用意なんぞはうわの空でしていて、ただ殉死のことばかり思っている。例年
簷に
葺く端午の
菖蒲も
摘まず、ましてや
初幟の祝をする子のある家も、その子の生まれたことを忘れたようにして、静まり返っている。
殉死にはいつどうしてきまったともなく、自然に
掟が出来ている。どれほど殿様を大切に思えばといって、誰でも勝手に殉死が出来るものではない。
泰平の世の江戸参勤のお供、いざ戦争というときの陣中へのお供と同じことで、
死天の山
三途の川のお供をするにもぜひ殿様のお許しを得なくてはならない。その許しもないのに死んでは、それは
犬死である。武士は
名聞が大切だから、犬死はしない。敵陣に飛び込んで
討死をするのは立派ではあるが、軍令にそむいて
抜駈けをして死んでは功にはならない。それが犬死であると同じことで、お許しのないに殉死しては、これも犬死である。たまにそういう人で犬死にならないのは、
値遇を得た君臣の間に黙契があって、お許しはなくてもお許しがあったのと変らぬのである。
仏涅槃ののちに起った大乗の教えは、
仏のお許しはなかったが、
過現未を通じて知らぬことのない仏は、そういう教えが出て来るものだと知って
懸許しておいたものだとしてある。お許しがないのに殉死の出来るのは、
金口で説かれると同じように、大乗の教えを説くようなものであろう。
そんならどうしてお許しを得るかというと、このたび殉死した人々の中の内藤長十郎
元続が願った手段などがよい例である。長十郎は
平生忠利の机廻りの用を勤めて、格別のご懇意をこうむったもので、病床を離れずに介抱をしていた。もはや本復は
覚束ないと、忠利が悟ったとき、長十郎に「
末期が近うなったら、あの不二と書いてある大文字の
懸物を枕もとにかけてくれ」と言いつけておいた。三月十七日に容態が次第に重くなって、忠利が「あの懸物をかけえ」と言った。長十郎はそれをかけた。忠利はそれを一目見て、しばらく
瞑目していた。それから忠利が「足がだるい」と言った。長十郎は
掻巻の
裾をしずかにまくって、忠利の足をさすりながら、忠利の顔をじっと見ると、忠利もじっと見返した。
「長十郎お願いがござりまする」
「なんじゃ」
「ご病気はいかにもご重体のようにはお見受け申しまするが、神仏の加護良薬の功験で、一日も早うご全快遊ばすようにと、祈願いたしておりまする。それでも万一と申すことがござりまする。もしものことがござりましたら、どうぞ長十郎
奴にお供を仰せつけられますように」
こう言いながら長十郎は忠利の足をそっと持ち上げて、自分の
額に押し当てて戴いた。目には涙が一ぱい浮かんでいた。
「それはいかんぞよ」こう言って忠利は今まで長十郎と顔を見合わせていたのに、半分寝返りをするように
脇を向いた。
「どうぞそうおっしゃらずに」長十郎はまた忠利の足を戴いた。
「いかんいかん」顔をそむけたままで言った。
列座の者の中から、「弱輩の身をもって推参じゃ、控えたらよかろう」と言ったものがある。長十郎は当年十七歳である。
「どうぞ」
咽につかえたような声で言って、長十郎は三度目に戴いた足をいつまでも額に当てて放さずにいた。
「情の
剛い
奴じゃな」声はおこって
叱るようであったが、忠利はこの
詞とともに二度うなずいた。
長十郎は「はっ」と言って、両手で忠利の足を
抱えたまま、床の
背後に
俯伏して、しばらく動かずにいた。そのとき長十郎の心のうちには、非常な難所を通って往き着かなくてはならぬ所へ往き着いたような、力の
弛みと心の落着きとが満ちあふれて、そのほかのことは何も意識に上らず、
備後畳の上に涙のこぼれるのも知らなかった。
長十郎はまだ弱輩で何一つきわだった功績もなかったが、忠利は始終目をかけて
側近く使っていた。酒が好きで、別人なら無礼のお
咎めもありそうな
失錯をしたことがあるのに、忠利は「あれは長十郎がしたのではない、酒がしたのじゃ」と言って笑っていた。それでその恩に報いなくてはならぬ、その
過ちを
償わなくてはならぬと思い込んでいた長十郎は、忠利の病気が
重ってからは、その報謝と賠償との道は殉死のほかないとかたく信ずるようになった。しかし細かにこの男の心中に立ち入ってみると、自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが、ほとんど同じ強さに存在していた。反面から言うと、もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないと心配していたのである。こういう弱みのある長十郎ではあるが、死を
怖れる念は
微塵もない。それだからどうぞ殿様に殉死を許して戴こうという
願望は、何物の
障礙をもこうむらずにこの男の意志の全幅を領していたのである。
しばらくして長十郎は両手で持っている殿様の足に力がはいって少し踏み伸ばされるように感じた。これはまただるくおなりになったのだと思ったので、また最初のようにしずかにさすり始めた。このとき長十郎の心頭には老母と妻とのことが浮かんだ。そして殉死者の遺族が主家の優待を受けるということを考えて、それで
己は家族を安穏な地位において、安んじて死ぬることが出来ると思った。それと同時に長十郎の顔は晴れ晴れした気色になった。
四月十七日の朝、長十郎は衣服を改めて母の前に出て、はじめて殉死のことを明かして
暇乞いをした。母は少しも驚かなかった。それは互いに口に出しては言わぬが、きょうは
倅が切腹する日だと、母もとうから思っていたからである。もし切腹しないとでも言ったら、母はさぞ驚いたことであろう。
母はまだもらったばかりのよめが勝手にいたのをその席へ呼んでただ支度が出来たかと問うた。よめはすぐに
起って、勝手からかねて用意してあった杯盤を自身に運んで出た。よめも母と同じように、夫がきょう切腹するということをとうから知っていた。髪を
綺麗に
撫でつけて、よい分のふだん着に着換えている。母もよめも改まった、
真面目な顔をしているのは同じことであるが、ただよめの目の
縁が赤くなっているので、勝手にいたとき泣いたことがわかる。杯盤が出ると、長十郎は弟左平次を呼んだ。
四人は黙って杯を取り交わした。杯が一順したとき母が言った。
「長十郎や。お前の好きな酒じゃ。少し過してはどうじゃな」
「ほんにそうでござりまするな」と言って、長十郎は微笑を含んで、
心地よげに杯を重ねた。
しばらくして長十郎が母に言った。「よい心持ちに酔いました。先日からかれこれと心づかいをいたしましたせいか、いつもより酒が利いたようでござります。ご免をこうむってちょっと一休みいたしましょう」
こう言って長十郎は起って居間にはいったが、すぐに部屋の真ん中に転がって、
鼾をかきだした。女房があとからそっとはいって枕を出して当てさせたとき、長十郎は「ううん」とうなって寝返りをしただけで、また鼾をかき続けている。女房はじっと夫の顔を見ていたが、たちまちあわてたように起って部屋へ往った。泣いてはならぬと思ったのである。
家はひっそりとしている。ちょうど主人の決心を母と妻とが言わずに知っていたように、家来も女中も知っていたので、勝手からも
厩の方からも笑い声なぞは聞こえない。
母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、じっと物を思っている。主人は居間で鼾をかいて寝ている。あけ放ってある居間の窓には、下に風鈴をつけた
吊荵が吊ってある。その風鈴が折り折り思い出したようにかすかに鳴る。その下には
丈の高い石の
頂を掘りくぼめた
手水鉢がある。その上に伏せてある
捲物の
柄杓に、やんまが一
疋止まって、羽を山形に垂れて動かずにいる。
一時立つ。
二時立つ。もう
午を過ぎた。食事の支度は女中に言いつけてあるが、
姑が食べると言われるか、どうだかわからぬと思って、よめは聞きに行こうと思いながらためらっていた。もし自分だけが食事のことなぞを思うように取られはすまいかとためらっていたのである。
そのときかねて
介錯を頼まれていた関小平次が来た。姑はよめを呼んだ。よめが黙って手をついて機嫌を伺っていると、姑が言った。
「長十郎はちょっと一休みすると言うたが、いかい時が立つような。ちょうど関殿も来られた。もう起こしてやってはどうじゃろうの」
「ほんにそうでござります。あまり遅くなりません方が」よめはこう言って、すぐに
起って夫を起しに往った。
夫の居間に来た女房は、さきに枕をさせたときと同じように、またじっと夫の顔を見ていた。死なせに起すのだと思うので、しばらくは
詞をかけかねていたのである。
熟睡していても、庭からさす昼の明りがまばゆかったと見えて、夫は窓の方を背にして、顔をこっちへ向けている。
「もし、あなた」と女房は呼んだ。
長十郎は目をさまさない。
女房がすり寄って、そびえている肩に手をかけると、長十郎は「あ、ああ」と言って
臂を伸ばして、両眼を開いて、むっくり起きた。
「たいそうよくお休みになりました。お袋さまがあまり遅くなりはせぬかとおっしゃりますから、お起し申しました。それに関様がおいでになりました」
「そうか。それでは
午になったと見える。少しの間だと思ったが、酔ったのと疲れがあったのとで、時の立つのを知らずにいた。その代りひどく気分がようなった。
茶漬でも食べて、そろそろ東光院へ往かずばなるまい。お
母あさまにも申し上げてくれ」
武士はいざというときには
飽食はしない。しかしまた空腹で大切なことに取りかかることもない。長十郎は実際ちょっと寝ようと思ったのだが、覚えず気持よく寝過し、
午になったと聞いたので、食事をしようと言ったのである。これから
形ばかりではあるが、
一家四人のものがふだんのように
膳に向かって、午の食事をした。
長十郎は心静かに支度をして、関を連れて
菩提所東光院へ腹を切りに往った。
長十郎が忠利の足を戴いて願ったように、平生恩顧を受けていた家臣のうちで、これと前後して思い思いに殉死の願いをして許されたものが、長十郎を加えて十八人あった。いずれも忠利の深く信頼していた侍どもである。だから忠利の心では、この人々を子息
光尚の保護のために残しておきたいことは山々であった。またこの人々を自分と一しょに死なせるのが
残刻だとは十分感じていた。しかし彼ら一人一人に「許す」という一言を、身を
割くように思いながら与えたのは、勢いやむことを得なかったのである。
自分の親しく使っていた彼らが、命を惜しまぬものであるとは、忠利は信じている。したがって殉死を苦痛とせぬことも知っている。これに反してもし自分が殉死を許さずにおいて、彼らが生きながらえていたら、どうであろうか。
家中一同は彼らを死ぬべきときに死なぬものとし、恩知らずとし、
卑怯者としてともに
歯せぬであろう。それだけならば、彼らもあるいは忍んで命を光尚に捧げるときの来るのを待つかも知れない。しかしその恩知らず、その卑怯者をそれと知らずに、先代の主人が使っていたのだと言うものがあったら、それは彼らの忍び得ぬことであろう。彼らはどんなにか口惜しい思いをするであろう。こう思ってみると、忠利は「許す」と言わずにはいられない。そこで病苦にも増したせつない思いをしながら、忠利は「許す」と言ったのである。
殉死を許した家臣の数が十八人になったとき、五十余年の久しい間治乱のうちに身を処して、人情
世故にあくまで通じていた忠利は病苦の中にも、つくづく自分の死と十八人の侍の死とについて考えた。
生あるものは必ず滅する。老木の朽ち枯れるそばで、若木は茂り栄えて行く。
嫡子光尚の周囲にいる
少壮者どもから見れば、自分の任用している
老成人らは、もういなくてよいのである。邪魔にもなるのである。自分は彼らを生きながらえさせて、自分にしたと同じ奉公を光尚にさせたいと思うが、その奉公を光尚にするものは、もう幾人も出来ていて、手ぐすね引いて待っているかも知れない。自分の任用したものは、年来それぞれの職分を尽くして来るうちに、人の
怨みをも買っていよう。少くも
娼嫉の的になっているには違いない。そうしてみれば、
強いて彼らにながらえていろというのは、通達した考えではないかも知れない。殉死を許してやったのは慈悲であったかも知れない。こう思って忠利は多少の
慰藉を得たような心持ちになった。
殉死を願って許された十八人は寺本八左衛門
直次、大塚喜兵衛
種次、内藤長十郎
元続、太田小十郎正信、原田十次郎
之直、
宗像加兵衛
景定、同
吉太夫景好、橋谷市蔵
重次、井原十三郎
吉正、田中意徳、本庄喜助
重正、伊藤太左衛門
方高、右田
因幡統安、野田喜兵衛
重綱、津崎五助
長季、小林理右衛門
行秀、林与左衛門
正定、宮永勝左衛門
宗佑の人々である。
寺本が先祖は
尾張国寺本に住んでいた寺本太郎というものであった。太郎の子
内膳正は今川家に仕えた。内膳正の子が左兵衛、左兵衛の子が
右衛門佐、右衛門佐の子が与左衛門で、与左衛門は朝鮮征伐のとき、加藤
嘉明に属して功があった。与左衛門の子が八左衛門で、大阪
籠城のとき、後藤
基次の下で働いたことがある。細川家に
召し
抱えられてから、千石取って、鉄砲五十
挺の
頭になっていた。四月二十九日に安養寺で切腹した。五十三歳である。藤本
猪左衛門が
介錯した。大塚は百五十石取りの
横目役である。四月二十六日に切腹した。介錯は池田八左衛門であった。内藤がことは前に言った。太田は祖父伝左衛門が加藤清正に仕えていた。忠広が
封を除かれたとき、伝左衛門とその子の源左衛門とが
流浪した。小十郎は源左衛門の二男で
児小姓に召し出された者である。百五十石取っていた。殉死の
先登はこの人で、三月十七日に
春日寺で切腹した。十八歳である。介錯は
門司源兵衛がした。原田は百五十石取りで、お
側に勤めていた。四月二十六日に切腹した。介錯は
鎌田源太夫がした。宗像加兵衛、同
吉太夫の兄弟は、宗像中納言
氏貞の
後裔で、親清兵衛
景延の代に召し出された。兄弟いずれも二百石取りである。五月二日に兄は流長院、弟は
蓮政寺で切腹した。兄の介錯は高田十兵衛、弟のは村上市右衛門がした。橋谷は
出雲国の人で、
尼子の
末流である。十四歳のとき忠利に召し出されて、知行百石の
側役を勤め、食事の毒味をしていた。忠利は病が重くなってから、橋谷の
膝を枕にして寝たこともある。四月二十六日に西岸寺で切腹した。ちょうど腹を切ろうとすると、城の太鼓がかすかに聞えた。橋谷はついて来ていた
家隷に、外へ出て
何時か聞いて来いと言った。家隷は帰って、「しまいの四つだけは聞きましたが、総体の
桴数はわかりません」と言った。橋谷をはじめとして、一座の者が
微笑んだ。橋谷は「
最期によう笑わせてくれた」と言って、家隷に羽織を取らせて切腹した。吉村
甚太夫が介錯した。井原は
切米三人
扶持十石を取っていた。切腹したとき阿部
弥一右衛門の家隷林左兵衛が介錯した。田中は
阿菊物語を世に残したお菊が孫で、忠利が
愛宕山へ学問に往ったときの幼な友達であった。忠利がそのころ出家しようとしたのを、ひそかに
諫めたことがある。のちに知行二百石の側役を勤め、算術が達者で用に立った。老年になってからは、君前で
頭巾をかむったまま安座することを
免されていた。当代に
追腹を願っても許されぬので、六月十九日に
小脇差を腹に突き立ててから願書を出して、とうとう許された。加藤安太夫が介錯した。本庄は
丹後国の者で、流浪していたのを三斎公の部屋附き
本庄久右衛門が召使っていた。仲津で
狼藉者を取り押さえて、五人扶持十五石の
切米取りにせられた。本庄を名のったのもそのときからである。四月二十六日に切腹した。伊藤は
奥納戸役を勤めた切米取りである。四月二十六日に切腹した。介錯は
河喜多八助がした。右田は
大伴家の浪人で、忠利に知行百石で召し抱えられた。四月二十七日に自宅で切腹した。六十四歳である。松野右京の家隷田原勘兵衛が介錯した。野田は天草の家老野田
美濃の
倅で、切米取りに召し出された。四月二十六日に源覚寺で切腹した。介錯は
恵良半衛門がした。津崎のことは別に書く。小林は二人扶持十石の切米取りである。切腹のとき、高野勘右衛門が介錯した。林は南郷下田村の百姓であったのを、忠利が十人扶持十五石に召し出して、花畑の
館の
庭方にした。四月二十六日に
仏巌寺で切腹した。介錯は
仲光半助がした。宮永は二人扶持十石の台所役人で、先代に殉死を願った最初の男であった。四月二十六日に
浄照寺で切腹した。介錯は吉村
嘉右衛門がした。この人々の中にはそれぞれの家の
菩提所に葬られたのもあるが、また
高麗門外の山中にある
霊屋のそばに葬られたのもある。
切米取りの殉死者はわりに多人数であったが、中にも津崎五助の事蹟は、きわだって面白いから別に書くことにする。
五助は二人扶持六石の切米取りで、忠利の
犬牽きである。いつも鷹狩の供をして
野方で忠利の気に入っていた。主君にねだるようにして、殉死のお許しは受けたが、家老たちは皆言った。「ほかの方々は
高禄を賜わって、
栄耀をしたのに、そちは殿様のお犬牽きではないか。そちが志は殊勝で、殿様のお許しが出たのは、この上もない
誉れじゃ。もうそれでよい。どうぞ死ぬることだけは思い止まって、御当主にご奉公してくれい」と言った。
五助はどうしても聴かずに、五月七日にいつも
牽いてお供をした犬を連れて、
追廻田畑の
高琳寺へ出かけた。女房は戸口まで見送りに出て、「お前も男じゃ、お歴々の衆に負けぬようにおしなされい」と言った。
津崎の家では
往生院を菩提所にしていたが、往生院は
上のご
由緒のあるお寺だというのではばかって、高琳寺を
死所ときめたのである。五助が墓地にはいってみると、かねて介錯を頼んでおいた松野
縫殿助が先に来て待っていた。五助は肩にかけた
浅葱の
嚢をおろしてその中から
飯行李を出した。
蓋をあけると握り飯が二つはいっている。それを犬の前に置いた。犬はすぐに食おうともせず、尾をふって五助の顔を見ていた。五助は人間に言うように犬に言った。
「おぬしは畜生じゃから、知らずにおるかも知れぬが、おぬしの頭をさすって下されたことのある殿様は、もうお亡くなり遊ばされた。それでご恩になっていなされたお歴々は皆きょう腹を切ってお供をなさる。おれは
下司ではあるが、
御扶持を戴いてつないだ命はお歴々と変ったことはない。殿様にかわいがって戴いたありがたさも同じことじゃ。それでおれは今腹を切って死ぬるのじゃ。おれが死んでしもうたら、おぬしは今から野ら犬になるのじゃ。おれはそれがかわいそうでならん。殿様のお供をした鷹は
岫雲院で井戸に飛び込んで死んだ。どうじゃ。おぬしもおれと一しょに死のうとは思わんかい。もし野ら犬になっても、生きていたいと思うたら、この握り飯を食ってくれい。死にたいと思うなら、食うなよ」
こう言って犬の顔を見ていたが、犬は五助の顔ばかりを見ていて、握り飯を食おうとはしない。
「それならおぬしも死ぬるか」と言って、五助は犬をきっと見つめた。
犬は
一声鳴いて尾をふった。
「よい。そんなら
不便じゃが死んでくれい」こう言って五助は犬を抱き寄せて、脇差を抜いて、一刀に刺した。
五助は犬の死骸をかたわらへ置いた。そして懐中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。誰やらの
邸で歌の会のあったとき見覚えた通りに半紙を横に二つに折って、「家老衆はとまれとまれと仰せあれどとめてとまらぬこの五助
哉」と、常の詠草のように書いてある。署名はしてない。歌の中に五助としてあるから、二重に名を書かなくてもよいと、すなおに考えたのが、自然に故実にかなっていた。
もうこれで何も手落ちはないと思った五助は「松野様、お頼み申します」と言って、
安座して
肌をくつろげた。そして犬の血のついたままの脇差を
逆手に持って、「お
鷹匠衆はどうなさりましたな、お
犬牽きは
只今参りますぞ」と
高声に言って、一声
快よげに笑って、腹を十文字に切った。松野が
背後から首を打った。
五助は身分の軽いものではあるが、のちに殉死者の遺族の受けたほどの手当は、あとに残った後家が受けた。男子一人は小さいとき出家していたからである。後家は五人扶持をもらい、新たに家屋敷をもらって、忠利の三十三回忌のときまで存命していた。五助の甥の子が二代の五助となって、それからは代々
触組で奉公していた。
忠利の許しを得て殉死した十八人のほかに、阿部弥一右衛門
通信というものがあった。初めは
明石氏で、幼名を
猪之助といった。はやくから忠利の
側近く仕えて、千百石余の身分になっている。島原征伐のとき、子供五人のうち三人まで軍功によって新知二百石ずつをもらった。この弥一右衛門は家中でも殉死するはずのように思い、当人もまた忠利の
夜伽に出る順番が来るたびに、殉死したいと言って願った。しかしどうしても忠利は許さない。「そちが志は満足に思うが、それよりは生きていて
光尚に奉公してくれい」と、何度願っても、同じことを繰り返して言うのである。
一体忠利は弥一右衛門の言うことを聴かぬ癖がついている。これはよほど古くからのことで、まだ猪之助といって小姓を勤めていたころも、猪之助が「ご
膳を差し上げましょうか」と伺うと、「まだ空腹にはならぬ」と言う。ほかの小姓が申し上げると、「よい、出させい」と言う。忠利はこの男の顔を見ると、反対したくなるのである。そんなら叱られるかというと、そうでもない。この男ほど精勤をするものはなく、万事に気がついて、手ぬかりがないから、叱ろうといっても叱りようがない。
弥一右衛門はほかの人の言いつけられてすることを、言いつけられずにする。ほかの人の申し上げてすることを申し上げずにする。しかしすることはいつも
肯綮にあたっていて、間然すべきところがない。弥一右衛門は意地ばかりで奉公して行くようになっている。忠利は初めなんとも思わずに、ただこの男の顔を見ると、反対したくなったのだが、のちにはこの男の意地で勤めるのを知って憎いと思った。憎いと思いながら、
聡明な忠利はなぜ弥一右衛門がそうなったかと回想してみて、それは自分がしむけたのだということに気がついた。そして自分の反対する癖を改めようと思っていながら、月がかさなり年がかさなるにしたがって、それが次第に改めにくくなった。
人には
誰が上にも好きな人、いやな人というものがある。そしてなぜ好きだか、いやだかと
穿鑿してみると、どうかすると
捕捉するほどの
拠りどころがない。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。しかし弥一右衛門という男はどこかに人と親しみがたいところを持っているに違いない。それは親しい友達の少いのでわかる。誰でも立派な侍として尊敬はする。しかしたやすく近づこうと試みるものがない。まれに物ずきに近づこうと試みるものがあっても、しばらくするうちに根気が続かなくなって遠ざかってしまう。まだ猪之助といって、前髪のあったとき、たびたび話をしかけたり、何かに手を
借してやったりしていた年上の男が、「どうも阿部にはつけ入る
隙がない」と言って
我を折った。そこらを考えてみると、忠利が自分の癖を改めたく思いながら改めることの出来なかったのも怪しむに足りない。
とにかく弥一右衛門は何度願っても殉死の許しを得ないでいるうちに、忠利は亡くなった。亡くなる少し前に、「弥一右衛門
奴はお願いと申すことを申したことはござりません、これが
生涯唯一のお願いでござります」と言って、じっと忠利の顔を見ていたが、忠利もじっと顔を見返して、「いや、どうぞ光尚に奉公してくれい」と言い放った。
弥一右衛門はつくづく考えて決心した。自分の身分で、この場合に殉死せずに生き残って、家中のものに顔を合わせているということは、百人が百人
所詮出来ぬことと思うだろう。犬死と知って切腹するか、浪人して熊本を去るかのほか、しかたがあるまい。だがおれはおれだ。よいわ。武士は
妾とは違う。
主の気に入らぬからといって、立場がなくなるはずはない。こう思って一日一日と例のごとくに勤めていた。
そのうちに五月六日が来て、十八人のものが皆殉死した。熊本中ただその
噂ばかりである。誰はなんと言って死んだ、誰の死にようが誰よりも見事であったという話のほかには、なんの話もない。弥一右衛門は以前から人に用事のほかの話をしかけられたことは少かったが、五月七日からこっちは、御殿の詰所に出ていてみても、一層寂しい。それに相役が自分の顔を見ぬようにして見るのがわかる。そっと横から見たり、
背後から見たりするのがわかる。不快でたまらない。それでもおれは命が惜しくて生きているのではない、おれをどれほど悪く思う人でも、命を惜しむ男だとはまさかに言うことが出来まい、たった今でも死んでよいのなら死んでみせると思うので、
昂然と
項をそらして詰所へ出て、昂然と項をそらして詰所から引いていた。
二三日立つと、弥一右衛門が耳にけしからん噂が聞え出して来た。誰が言い出したことか知らぬが、「阿部はお許しのないを幸いに生きているとみえる、お許しはのうても追腹は切られぬはずがない、阿部の腹の皮は人とは違うとみえる、
瓢箪に油でも塗って切ればよいに」というのである。弥一右衛門は聞いて思いのほかのことに思った。悪口が言いたくばなんとも言うがよい。しかしこの弥一右衛門を
竪から見ても横から見ても、命の惜しい男とは、どうして見えようぞ。げに言えば言われたものかな、よいわ。そんならこの腹の皮を瓢箪に油を塗って切って見しょう。
弥一右衛門はその日詰所を引くと、急使をもって別家している弟二人を山崎の邸に呼び寄せた。居間と客間との間の建具をはずさせ、嫡子
権兵衛、二男
弥五兵衛、つぎにまだ前髪のある五男
七之丞の三人をそばにおらせて、主人は威儀を正して待ち受けている。権兵衛は幼名権十郎といって、島原征伐に立派な働きをして、新知二百石をもらっている。父に劣らぬ若者である。このたびのことについては、ただ一度父に「お許しは出ませなんだか」と問うた。父は「うん、出んぞ」と言った。そのほか二人の間にはなんの
詞も交わされなかった。親子は心の底まで知り抜いているので、何も言うにはおよばぬのであった。
まもなく
二張の
提燈が門のうちにはいった。三男
市太夫、四男
五太夫の二人がほとんど同時に玄関に来て、雨具を脱いで座敷に通った。中陰の翌日からじめじめとした雨になって、
五月闇の空が晴れずにいるのである。
障子はあけ放してあっても、蒸し暑くて風がない。そのくせ
燭台の火はゆらめいている。
螢が一匹庭の木立ちを縫って通り過ぎた。
一座を見渡した主人が口を開いた。「夜陰に呼びにやったのに、皆よう来てくれた。
家中一般の噂じゃというから、おぬしたちも聞いたに違いない。この弥一右衛門が腹は瓢箪に油を塗って切る腹じゃそうな。それじゃによって、おれは今瓢箪に油を塗って切ろうと思う。どうぞ皆で見届けてくれい」
市太夫も五太夫も島原の軍功で新知二百石をもらって別家しているが、中にも市太夫は早くから若殿附きになっていたので、御代替りになって人に
羨まれる一人である。市太夫が
膝を進めた。「なるほど。ようわかりました。実は
傍輩が言うには、弥一右衛門殿は御先代の御遺言で続いて御奉公なさるそうな。親子兄弟相変らず
揃うてお勤めなさる、めでたいことじゃと言うのでござります。その
詞が何か意味ありげで歯がゆうござりました」
父弥一右衛門は笑った。「そうであろう。目の先ばかり見える
近眼どもを相手にするな。そこでその死なぬはずのおれが死んだら、お許しのなかったおれの子じゃというて、おぬしたちを
侮るものもあろう。おれの子に生まれたのは運じゃ。しょうことがない。恥を受けるときは一しょに受けい。兄弟
喧嘩をするなよ。さあ、瓢箪で腹を切るのをよう見ておけ」
こう言っておいて、弥一右衛門は子供らの面前で切腹して、自分で首筋を左から右へ刺し貫いて死んだ。父の心を測りかねていた五人の子供らは、このとき悲しくはあったが、それと同時にこれまでの不安心な
境界を一歩離れて、重荷の一つをおろしたように感じた。
「
兄き」と二男弥五兵衛が嫡子に言った。「兄弟喧嘩をするなと、お
父っさんは言いおいた。それには誰も異存はあるまい。おれは島原で持場が悪うて、知行ももらわずにいるから、これからはおぬしが
厄介になるじゃろう。じゃが何事があっても、おぬしが手にたしかな
槍一本はあるというものじゃ。そう思うていてくれい」
「知れたことじゃ。どうなることか知れぬが、おれがもらう知行はおぬしがもらうも同じじゃ」こう言ったぎり権兵衛は腕組みをして顔をしかめた。
「そうじゃ。どうなることか知れぬ。追腹はお許しの出た殉死とは違うなぞという
奴があろうて」こう言ったのは四男の五太夫である。
「それは目に見えておる。どういう目に
逢うても」こう言いさして三男市太夫は権兵衛の顔を見た。「どういう目に逢うても、兄弟離れ離れに相手にならずに、固まって行こうぞ」
「うん」と権兵衛は言ったが、打ち解けた様子もない。権兵衛は弟どもを心にいたわってはいるが、やさしく物をいわれぬ男である。それに何事も一人で考えて、一人でしたがる。相談というものをめったにしない。それで弥五兵衛も市太夫も念を押したのである。
「
兄いさま方が揃うておいでなさるから、お父っさんの悪口は、うかと言われますまい」これは前髪の七之丞が口から出た。女のような声ではあったが、それに強い信念が
籠っていたので、一座のものの胸を、暗黒な前途を照らす光明のように照らした。
「どりゃ。おっ母さんに言うて、
女子たちに
暇乞いをさしょうか」こう言って権兵衛が席を起った。
従四位下侍従兼肥後守光尚の家督相続が済んだ。家臣にはそれぞれ新知、加増、
役替えなどがあった。中にも殉死の侍十八人の家々は、嫡子にそのまま父のあとを継がせられた。嫡子のある限りは、いかに幼少でもその数には
漏れない。
未亡人、老父母には扶持が与えられる。家屋敷を拝領して、作事までも
上からしむけられる。先代が格別
入懇にせられた家柄で、
死天の旅のお供にさえ立ったのだから、家中のものが
羨みはしても
妬みはしない。
しかるに一種変った
跡目の処分を受けたのは、阿部弥一右衛門の遺族である。嫡子権兵衛は父の跡をそのまま継ぐことが出来ずに、弥一右衛門が千五百石の知行は細かに
割いて弟たちへも配分せられた。一族の知行を合わせてみれば、前に変ったことはないが、本家を継いだ権兵衛は、小身ものになったのである。権兵衛の肩幅のせまくなったことは言うまでもない。弟どもも一人一人の知行は
殖えながら、これまで千石以上の本家によって、大木の陰に立っているように思っていたのが、今は
橡栗の
背競べになって、ありがたいようで迷惑な思いをした。
政道は
地道である限りは、
咎めの帰するところを問うものはない。
一旦常に変った処置があると、誰の
捌きかという詮議が起る。当主のお覚えめでたく、お
側去らずに勤めている大目附役に、林外記というものがある。小才覚があるので、若殿様時代のお
伽には相応していたが、物の大体を見ることにおいてはおよばぬところがあって、とかく
苛察に傾きたがる男であった。阿部弥一右衛門は故殿様のお許しを得ずに死んだのだから、真の殉死者と弥一右衛門との間には境界をつけなくてはならぬと考えた。そこで阿部家の
俸禄分割の策を献じた。光尚も思慮ある大名ではあったが、まだ
物馴れぬときのことで、弥一右衛門や嫡子権兵衛と懇意でないために、思いやりがなく、自分の手元に使って
馴染みのある市太夫がために加増になるというところに目をつけて、外記の言を用いたのである。
十八人の侍が殉死したときには、弥一右衛門はお側に奉公していたのに殉死しないと言って、家中のものが
卑しんだ。さてわずかに二三日を隔てて弥一右衛門は立派に切腹したが、事の当否は
措いて、一旦受けた侮辱は容易に消えがたく、誰も弥一右衛門を
褒めるものがない。
上では弥一右衛門の
遺骸を
霊屋のかたわらに葬ることを許したのであるから、跡目相続の上にも
強いて境界を立てずにおいて、殉死者一同と同じ扱いをしてよかったのである。そうしたなら阿部一族は
面目を施して、こぞって忠勤を励んだのであろう。しかるに
上で一段下がった扱いをしたので、家中のものの阿部家
侮蔑の念が
公に認められた形になった。権兵衛兄弟は次第に
傍輩にうとんぜられて、
怏々として日を送った。
寛永十九年三月十七日になった。先代の殿様の一週忌である。
霊屋のそばにはまだ
妙解寺は出来ていぬが、向陽院という
堂宇が立って、そこに妙解院殿の
位牌が安置せられ、
鏡首座という僧が住持している。
忌日にさきだって、紫野大徳寺の
天祐和尚が京都から
下向する。年忌の営みは晴れ晴れしいものになるらしく、一箇月ばかり前から、熊本の城下は準備に忙しかった。
いよいよ当日になった。うららかな
日和で、霊屋のそばは桜の盛りである。向陽院の周囲には幕を引き廻わして、歩卒が警護している。当主がみずから臨場して、まず先代の位牌に焼香し、ついで殉死者十九人の位牌に焼香する。それから殉死者遺族が許されて焼香する、同時に御紋附
上下、同
時服を拝領する。
馬廻以上は
長上下、
徒士は
半上下である。
下々の者は
御香奠を拝領する。
儀式はとどこおりなく済んだが、その間にただ一つの珍事が
出来した。それは阿部権兵衛が殉死者遺族の一人として、席順によって妙解院殿の位牌の前に進んだとき、焼香をして
退きしなに、脇差の
小柄を抜き取って
髻を押し切って、位牌の前に供えたことである。この場に詰めていた侍どもも、不意の出来事に驚きあきれて、
茫然として見ていたが、権兵衛が何事もないように、
自若として五六歩退いたとき、一人の侍がようよう我に返って、「阿部殿、お待ちなされい」と呼びかけながら、追いすがって押し止めた。続いて二三人立ちかかって、権兵衛を別間に連れてはいった。
権兵衛が
詰衆に尋ねられて答えたところはこうである。貴殿らはそれがしを乱心者のように思われるであろうが、全くさようなわけではない。父弥一右衛門は一生
瑕瑾のない御奉公をいたしたればこそ、故殿様のお許しを得ずに切腹しても、殉死者の列に加えられ、遺族たるそれがしさえ他人にさきだって御位牌に御焼香いたすことが出来たのである。しかしそれがしは不肖にして父同様の御奉公がなりがたいのを、
上にもご承知と見えて、知行を
割いて弟どもにおつかわしなされた。それがしは故殿様にも御当主にも亡き父にも一族の者どもにも
傍輩にも面目がない。かように存じているうち、今日御位牌に御焼香いたす場合になり、とっさの間、感慨胸に迫り、いっそのこと武士を棄てようと決心いたした。お場所
柄を顧みざるお
咎めは甘んじて受ける。乱心などはいたさぬというのである。
権兵衛の答を光尚は聞いて、不快に思った。第一に権兵衛が自分に
面当てがましい
所行をしたのが不快である。つぎに自分が外記の策を
納れて、しなくてもよいことをしたのが不快である。まだ二十四歳の血気の殿様で、情を抑え欲を制することが足りない。恩をもって
怨みに報いる寛大の心持ちに乏しい。即座に権兵衛をおし
籠めさせた。それを聞いた弥五兵衛以下一族のものは門を閉じて上の
御沙汰を待つことにして、夜陰に一同寄り合っては、ひそかに一族の前途のために評議を
凝らした。
阿部一族は評議の末、このたび先代一週忌の
法会のために下向して、まだ
逗留している天祐和尚にすがることにした。市太夫は和尚の旅館に往って一部始終を話して、権兵衛に対する上の処置を軽減してもらうように頼んだ。和尚はつくづく聞いて言った。承れば御一家のお
成行き気の毒千万である。しかし上の御政道に対してかれこれ言うことは出来ない。ただ権兵衛殿に死を賜わるとなったら、きっと御助命を願って進ぜよう。ことに権兵衛殿はすでに
髻を払われてみれば、
桑門同様の身の上である。御助命だけはいかようにも申してみようと言った。市太夫は頼もしく思って帰った。一族のものは市太夫の復命を聞いて、一条の活路を得たような気がした。そのうち日が立って、天祐和尚の帰京のときが次第に近づいて来た。和尚は殿様に
逢って話をするたびに、阿部権兵衛が助命のことを折りがあったら言上しようと思ったが、どうしても折りがない。それはそのはずである。光尚はこう思ったのである。天祐和尚の逗留中に権兵衛のことを沙汰したらきっと助命を請われるに違いない。大寺の和尚の
詞でみれば、
等閑に聞きすてることはなるまい。和尚の立つのを待って処置しようと思ったのである。とうとう和尚は
空しく熊本を立ってしまった。
天祐和尚が熊本を立つや否や、光尚はすぐに阿部権兵衛を井出の口に引き
出だして
縛首にさせた。先代の御位牌に対して不敬なことをあえてした、
上を恐れぬ所行として処置せられたのである。
弥五兵衛以下一同のものは寄り集まって評議した。権兵衛の所行は
不埓には違いない。しかし亡父弥一右衛門はとにかく殉死者のうちに数えられている。その相続人たる権兵衛でみれば、死を賜うことは
是非がない。武士らしく切腹仰せつけられれば異存はない。それに何事ぞ、
奸盗かなんぞのように、白昼に縛首にせられた。この様子で推すれば、一族のものも安穏には差しおかれまい。たとい別に御沙汰がないにしても、縛首にせられたものの一族が、何の面目あって、傍輩に立ち
交わって御奉公をしよう。この上は是非におよばない。何事があろうとも、兄弟わかれわかれになるなと、弥一右衛門殿の言いおかれたのはこのときのことである。一族
討手を引き受けて、ともに死ぬるほかはないと、一人の異議を称えるものもなく決した。
阿部一族は妻子を引きまとめて、権兵衛が山崎の屋敷に立て
籠った。
おだやかならぬ一族の様子が
上に聞えた。
横目が
偵察に出て来た。山崎の屋敷では門を厳重に
鎖して静まりかえっていた。市太夫や五太夫の宅は空屋になっていた。
討手の
手配りが定められた。表門は
側者頭竹内数馬長政が指揮役をして、それに
小頭添島九兵衛、同じく野村
庄兵衛がしたがっている。数馬は千百五十石で鉄砲組三十
挺の
頭である。
譜第の
乙名島徳右衛門が供をする。添島、野村は当時百石のものである。裏門の指揮役は知行五百石の側者頭高見権右衛門
重政で、これも鉄砲組三十挺の頭である。それに目附畑十太夫と竹内数馬の小頭で当時百石の
千場作兵衛とがしたがっている。
討手は四月二十一日に差し向けられることになった。前晩に山崎の屋敷の周囲には夜廻りがつけられた。夜がふけてから侍分のものが一人覆面して、
塀をうちから乗り越えて出たが、廻役の
佐分利嘉左衛門が組の足軽丸山
三之丞が討ち取った。そののち夜明けまで何事もなかった。
かねて近隣のものには沙汰があった。たとい当番たりとも在宿して火の用心を怠らぬようにいたせというのが一つ。討手でないのに、阿部が屋敷に入り込んで手出しをすることは厳禁であるが、
落人は勝手に討ち取れというのが二つであった。
阿部一族は討手の向う日をその前日に聞き知って、まず邸内を
隈なく掃除し、見苦しい物はことごとく焼きすてた。それから
老若打ち寄って酒宴をした。それから老人や女は自殺し、幼いものはてんでに刺し殺した。それから庭に大きい穴を掘って
死骸を埋めた。あとに残ったのは
究竟の若者ばかりである。弥五兵衛、市太夫、五太夫、七之丞の四人が指図して、障子
襖を取り払った広間に家来を集めて、
鉦太鼓を鳴らさせ、高声に念仏をさせて夜の明けるのを待った。これは老人や妻子を
弔うためだとは言ったが、実は
下人どもに
臆病の念を起させぬ用心であった。
阿部一族の立て籠った山崎の屋敷は、のちに斎藤勘助の住んだ所で、向いは山中又左衛門、左右両隣は
柄本又七郎、平山三郎の住いであった。
このうちで柄本が家は、もと天草郡を三分して領していた柄本、天草、
志岐の三家の一つである。小西行長が肥後半国を治めていたとき、天草、志岐は罪を犯して
誅せられ、柄本だけが残っていて、細川家に仕えた。
又七郎は平生阿部弥一右衛門が一家と心安くして、主人同志はもとより、妻女までも互いに往来していた。中にも弥一右衛門の二男弥五兵衛は
鎗が得意で、又七郎も同じ
技を
嗜むところから、親しい中で広言をし合って、「お手前が
上手でもそれがしにはかなうまい」、「いやそれがしがなんでお手前に負けよう」などと言っていた。
そこで先代の殿様の病中に、弥一右衛門が殉死を願って許されぬと聞いたときから、又七郎は弥一右衛門の胸中を察して気の毒がった。それから弥一右衛門の追腹、家督相続人権兵衛の向陽院での振舞い、それがもとになっての死刑、弥五兵衛以下一族の
立籠りという順序に、阿部家がだんだん否運に傾いて来たので、又七郎は親身のものにも劣らぬ心痛をした。
ある日又七郎が女房に言いつけて、夜ふけてから阿部の屋敷へ見舞いにやった。阿部一族は
上に
叛いて籠城めいたことをしているから、男同志は交通することが出来ない。しかるに最初からの行きがかりを知っていてみれば、一族のものを悪人として憎むことは出来ない。ましてや年来懇意にした間柄である。婦女の身としてひそかに見舞うのは、よしや後日に発覚したとて申しわけの立たぬことでもあるまいという考えで、見舞いにはやったのである。女房は夫の
詞を聞いて、喜んで心尽くしの品を取り揃えて、夜ふけて隣へおとずれた。これもなかなか気丈な女で、もし後日に発覚したら、罪を自身に引き受けて、夫に迷惑はかけまいと思ったのである。
阿部一族の喜びは非常であった。世間は花咲き鳥歌う春であるのに、不幸にして神仏にも人間にも見放されて、かく
籠居している我々である。それを見舞うてやれという夫も夫、その言いつけを守って来てくれる妻も妻、実にありがたい心がけだと、
心から感じた。女たちは涙を流して、こうなり果てて死ぬるからは、世の中に誰一人
菩提を
弔うてくれるものもあるまい、どうぞ思い出したら、一遍の
回向をしてもらいたいと頼んだ。子供たちは門外へ一足も出されぬので、ふだん優しくしてくれた柄本の女房を見て、右左から取りすがって、たやすく放して帰さなかった。
阿部の屋敷へ討手の向う前晩になった。柄本又七郎はつくづく考えた。阿部一族は自分と親しい間柄である。それで後日の
咎めもあろうかとは思いながら、女房を見舞いにまでやった。しかしいよいよ明朝は上の討手が阿部家へ来る。これは逆賊を征伐せられるお上の
軍も同じことである。御沙汰には火の用心をせい、手出しをするなと言ってあるが、武士たるものがこの場合に
懐手をして見ていられたものではない。情けは情け、義は義である。おれにはせんようがあると考えた。そこで
更闌けて抜き足をして、後ろ口から薄暗い庭へ出て、阿部家との境の
竹垣の結び
縄をことごとく切っておいた。それから帰って身支度をして、
長押にかけた
手槍をおろし、
鷹の羽の紋の付いた
鞘を払って、夜の明けるのを待っていた。
討手として阿部の屋敷の表門に向うことになった竹内数馬は、武道の誉れある家に生まれたものである。先祖は細川高国の手に属して、
強弓の名を得た島村
弾正貴則である。
享禄四年に高国が
摂津国尼崎に敗れたとき、弾正は敵二人を
両腋に
挟んで海に飛び込んで死んだ。弾正の子市兵衛は河内の
八隅家に仕えて一時八隅と称したが、
竹内越を領することになって、
竹内と改めた。竹内市兵衛の子吉兵衛は小西行長に仕えて、
紀伊国太田の城を水攻めにしたときの功で、豊臣太閤に
白練に朱の日の丸の陣羽織をもらった。朝鮮征伐のときには小西家の人質として、李王宮に三年押し
籠められていた。小西家が滅びてから、加藤清正に千石で召し出されていたが、主君と物争いをして白昼に熊本城下を立ち
退いた。加藤家の討手に備えるために、鉄砲に玉をこめ、火縄に火をつけて持たせて退いた。それを三斎が豊前で千石に召し抱えた。この吉兵衛に五人の男子があった。長男はやはり吉兵衛と名のったが、のち
剃髪して八隅
見山といった。二男は七郎右衛門、三男は次郎太夫、四男は八兵衛、五男がすなわち数馬である。
数馬は忠利の
児小姓を勤めて、島原征伐のとき殿様のそばにいた。寛永十五年二月二十五日細川の手のものが城を乗り取ろうとしたとき、数馬が「どうぞお
先手へおつかわし下されい」と忠利に願った。忠利は聴かなかった。押し返してねだるように願うと、忠利が立腹して、「
小倅、勝手にうせおれ」と叫んだ。数馬はそのとき十六歳である。「あっ」と言いさま駈け出すのを見送って、忠利が「怪我をするなよ」と声をかけた。
乙名島徳右衛門、
草履取一人、
槍持一人があとから続いた。主従四人である。城から打ち出す鉄砲が
烈しいので、島が数馬の着ていた
猩々緋の陣羽織の
裾をつかんであとへ引いた。数馬は振り切って城の石垣に
攀じ登る。島も是非なくついて登る。とうとう城内にはいって働いて、数馬は手を負った。同じ場所から攻め入った柳川の立花
飛騨守宗茂は七十二歳の
古武者で、このときの働きぶりを見ていたが、渡辺新弥、
仲光内膳と数馬との三人が
天晴れであったと言って、三人へ連名の感状をやった。落城ののち、忠利は数馬に
関兼光の脇差をやって、禄を千百五十石に加増した。脇差は一尺八寸、
直焼無銘、
横鑢、銀の
九曜の
三並びの
目貫、
赤銅縁、
金拵えである。目貫の穴は二つあって、一つは鉛で
填めてあった。忠利はこの脇差を秘蔵していたので、数馬にやってからも、登城のときなどには、「数馬あの脇差を貸せ」と言って、借りて差したこともたびたびある。
光尚に阿部の討手を言いつけられて、数馬が喜んで詰所へ下がると、
傍輩の一人がささやいた。
「
奸物にも取りえはある。おぬしに表門の
采配を振らせるとは、林殿にしてはよく出来た」
数馬は耳をそばだてた。「なにこのたびのお役目は
外記が申し上げて仰せつけられたのか」
「そうじゃ。外記殿が殿様に言われた。数馬は御先代が出格のお取立てをなされたものじゃ。ご恩報じにあれをおやりなされいと言われた。もっけの幸いではないか」
「ふん」と言った数馬の
眉間には、深い
皺が刻まれた。「よいわ。討死するまでのことじゃ」こう言い放って、数馬はついと起って
館を下がった。
このときの数馬の様子を光尚が聞いて、竹内の屋敷へ使いをやって、「怪我をせぬように、首尾よくいたして参れ」と言わせた。数馬は「ありがたいお
詞をたしかに承ったと申し上げて下されい」と言った。
数馬は傍輩の口から、外記が自分を推してこのたびの役に当らせたのだと聞くや否や、即時に討死をしようと決心した。それがどうしても動かすことの出来ぬほど堅固な決心であった。外記はご恩報じをさせると言ったということである。この詞ははからず聞いたのであるが、実は聞くまでもない、外記が
薦めるには、そう言って薦めるにきまっている。こう思うと、数馬は立ってもすわってもいられぬような気がする。自分は御先代の引立てをこうむったには違いない。しかし元服をしてからのちの自分は、いわば大勢の
近習のうちの一人で、別に出色のお扱いを受けてはいない。ご恩には誰も浴している。ご恩報じを自分に限ってしなくてはならぬというのは、どういう意味か。言うまでもない、自分は殉死するはずであったのに、殉死しなかったから、命がけの場所にやるというのである。命は何時でも喜んで棄てるが、さきにしおくれた殉死の代りに死のうとは思わない。今命を惜しまぬ自分が、なんで御先代の中陰の果ての日に命を惜しんだであろう。いわれのないことである。
畢竟どれだけのご
入懇になった人が殉死するという、はっきりした境はない。同じように勤めていた御近習の若侍のうちに殉死の沙汰がないので、自分もながらえていた。殉死してよいことなら、自分は誰よりもさきにする。それほどのことは誰の目にも見えているように思っていた。それにとうにするはずの殉死をせずにいた人間として
極印を打たれたのは、かえすがえすも口惜しい。自分はすすぐことの出来ぬ汚れを身に受けた。それほどの
辱を人に加えることは、あの外記でなくては出来まい。外記としてはさもあるべきことである。しかし殿様がなぜそれをお聴きいれになったか。外記に傷つけられたのは忍ぶことも出来よう。殿様に棄てられたのは忍ぶことが出来ない。島原で城に乗り入ろうとしたとき、御先代がお呼び止めなされた。それはお馬廻りのものがわざと
先手に加わるのをお止めなされたのである。このたび御当主の怪我をするなとおっしゃるのは、それとは違う。惜しい命をいたわれとおっしゃるのである。それがなんのありがたかろう。古い
創の上を新たに
鞭うたれるようなものである。ただ一刻も早く死にたい。死んですすがれる汚れではないが、死にたい。犬死でもよいから、死にたい。
数馬はこう思うと、矢も
楯もたまらない。そこで妻子には阿部の討手を仰せつけられたとだけ、
手短に言い聞かせて、一人ひたすら支度を急いだ。殉死した人たちは皆
安堵して死につくという心持ちでいたのに、数馬が心持ちは苦痛を逃れるために死を急ぐのである。乙名島徳右衛門が事情を察して、主人と同じ決心をしたほかには、一家のうちに数馬の心底を
汲み知ったものがない。今年二十一歳になる数馬のところへ、去年来たばかりのまだ娘らしい
女房は、当歳の女の子を抱いてうろうろしているばかりである。
あすは討入りという四月二十日の夜、数馬は行水を使って、
月題を
剃って、髪には忠利に拝領した名香
初音を
焚き込めた。
白無垢に
白襷、
白鉢巻をして、肩に
合印の
角取紙をつけた。腰に帯びた刀は二尺四寸五分の
正盛で、先祖島村弾正が尼崎で討死したとき、故郷に送った
記念である。それに
初陣の時拝領した兼光を差し添えた。門口には馬がいなないている。
手槍を取って庭に降り立つとき、数馬は
草鞋の
緒を
男結びにして、余った緒を小刀で切って捨てた。
阿部の屋敷の裏門に向うことになった高見権右衛門はもと和田氏で、
近江国和田に住んだ和田
但馬守の
裔である。初め
蒲生賢秀にしたがっていたが、和田庄五郎の代に細川家に仕えた。庄五郎は岐阜、関原の戦いに功のあったものである。忠利の兄与一郎
忠隆の下についていたので、忠隆が慶長五年大阪で妻前田氏の早く落ち延びたために父の勘気を受け、入道
休無となって流浪したとき、
高野山や京都まで供をした。それを三斎が小倉へ呼び寄せて、高見氏を名のらせ、
番頭にした。知行五百石であった。庄五郎の子が権右衛門である。島原の戦いに功があったが、軍令にそむいた
廉で、一旦役を召し上げられた。それがしばらくしてから帰参して
側者頭になっていたのである。権右衛門は討入りの支度のとき黒羽二重の紋附きを着て、かねて秘蔵していた備前
長船の刀を取り出して帯びた。そして十文字の槍を持って出た。
竹内数馬の手に島徳右衛門がいるように、高見権右衛門は一人の小姓を連れている。阿部一族のことのあった二三年前の夏の日に、この小姓は非番で部屋に昼寝をしていた。そこへ相役の一人が供先から帰って
真裸になって、
手桶を
提げて井戸へ水を汲みに行きかけたが、ふとこの小姓の寝ているのを見て、「おれがお供から帰ったに、水も汲んでくれずに寝ておるかい」と言いざまに枕を
蹴った。小姓は
跳ね起きた。
「なるほど。目がさめておったら、水も汲んでやろう。じゃが枕を足蹴にするということがあるか。このままには済まんぞ」こう言って抜打ちに相役を
大袈裟に切った。
小姓は静かに相役の胸の上にまたがって止めを刺して、乙名の小屋へ行って
仔細を話した。「即座に死ぬるはずでござりましたが、ご不審もあろうかと存じまして」と、
肌を脱いで切腹しようとした。乙名が「まず待て」と言って権右衛門に告げた。権右衛門はまだ役所から下がって、衣服も改めずにいたので、そのまま
館へ出て忠利に申し上げた。忠利は「
尤ものことじゃ。切腹にはおよばぬ」と言った。このときから小姓は権右衛門に命を捧げて奉公しているのである。
小姓は
箙を負い半弓を取って、主のかたわらに引き添った。
寛永十九年四月二十一日は
麦秋によくある薄曇りの日であった。
阿部一族の立て籠っている山崎の屋敷に討ち入ろうとして、竹内数馬の手のものは
払暁に表門の前に来た。夜通し
鉦太鼓を鳴らしていた屋敷のうちが、今はひっそりとして
空家かと思われるほどである。門の
扉は
鎖してある。板塀の上に二三尺伸びている
夾竹桃の
木末には、
蜘のいがかかっていて、それに夜露が真珠のように光っている。
燕が一羽どこからか飛んで来て、つと塀のうちに入った。
数馬は馬を乗り放って降り立って、しばらく様子を見ていたが、「門をあけい」と言った。足軽が二人塀を乗り越してうちにはいった。門の廻りには敵は一人もいないので、錠前を打ちこわして
貫の木を抜いた。
隣家の柄本又七郎は数馬の手のものが門をあける物音を聞いて、前夜結び縄を切っておいた竹垣を踏み破って、駈け込んだ。毎日のように
往き
来して、
隅々まで案内を知っている家である。手槍を構えて台所の口から、つとはいった。座敷の戸を締め切って、
籠み入る討手のものを一人一人討ち取ろうとして控えていた一族の中で、裏口に人のけはいのするのに、まず気のついたのは弥五兵衛である。これも手槍を提げて台所へ見に出た。
二人は槍の穂先と穂先とが触れ合うほどに相対した。「や、又七郎か」と、弥五兵衛が声をかけた。
「おう。かねての広言がある。おぬしが槍の手並みを見に来た」
「ようわせた。さあ」
二人は一歩しざって槍を交えた。しばらく戦ったが、槍術は又七郎の方が優れていたので、弥五兵衛の胸板をしたたかにつき抜いた。弥五兵衛は槍をからりと棄てて、座敷の方へ引こうとした。
「
卑怯じゃ。引くな」又七郎が叫んだ。
「いや逃げはせぬ。腹を切るのじゃ」言いすてて座敷にはいった。
その
刹那に「おじ様、お相手」と叫んで、前髪の七之丞が電光のごとくに飛んで出て、又七郎の
太股をついた。
入懇の弥五兵衛に深手を負わせて、覚えず気が
弛んでいたので、手錬の又七郎も少年の手にかかったのである。又七郎は槍を棄ててその場に倒れた。
数馬は門内に入って人数を屋敷の隅々に配った。さて真っ先に玄関に進んでみると、正面の板戸が細目にあけてある。数馬がその戸に手をかけようとすると、島徳右衛門が押し隔てて、詞せわしくささやいた。
「お待ちなさりませ。殿は今日の総大将じゃ。それがしがお先をいたします」
徳右衛門は戸をがらりとあけて飛び込んだ。待ち構えていた市太夫の槍に、徳右衛門は右の目をつかれてよろよろと数馬に倒れかかった。
「邪魔じゃ」数馬は徳右衛門を押し退けて進んだ。市太夫、五太夫の槍が左右のひわらをつき抜いた。
添島九兵衛、野村庄兵衛が続いて駆け込んだ。徳右衛門も痛手に屈せず取って返した。
このとき裏門を押し破ってはいった高見権右衛門は十文字槍をふるって、阿部の家来どもをつきまくって座敷に来た。
千場作兵衛も続いて
籠み入った。
裏表二手のものどもが入り違えて、おめき叫んで
衝いて来る。障子襖は取り払ってあっても、三十畳に足らぬ座敷である。市街戦の惨状が野戦よりはなはだしいと同じ道理で、
皿に盛られた
百虫の
相啖うにもたとえつべく、目も当てられぬありさまである。
市太夫、五太夫は相手きらわず槍を交えているうち、全身に数えられぬほどの
創を受けた。それでも屈せずに、槍を棄てて刀を抜いて切り廻っている。七之丞はいつのまにか倒れている。
太股をつかれた柄本又七郎が台所に伏していると、高見の手のものが見て、「手をお
負いなされたな、お見事じゃ、早うお引きなされい」と言って、奥へ通り抜けた。「引く足があれば、わしも奥へはいるが」と、又七郎は苦々しげに言って
歯咬みをした。そこへ主のあとを慕って入り込んだ家来の一人が駈けつけて、肩にかけて退いた。
今一人の柄本家の
被官天草平九郎というものは、主の
退き
口を守って、半弓をもって目にかかる敵を射ていたが、その場で討死した。
竹内数馬の手では島徳右衛門がまず死んで、ついで小頭添島九兵衛が死んだ。
高見権右衛門が十文字槍をふるって働く間、半弓を持った小姓はいつも
槍脇を詰めて敵を射ていたが、のちには刀を抜いて切って廻った。ふと見れば鉄砲で権右衛門をねらっているものがある。
「あの
丸はわたくしが受け止めます」と言って、小姓が権右衛門の前に立つと、丸が来てあたった。小姓は即死した。竹内の組から抜いて高見につけられた小頭千場作兵衛は
重手を負って台所に出て、
水瓶の水を
呑んだが、そのままそこにへたばっていた。
阿部一族は最初に弥五兵衛が切腹して、市太夫、五太夫、七之丞はとうとう皆深手に息が切れた。家来も多くは討死した。
高見権右衛門は裏表の人数を集めて、阿部が屋敷の裏手にあった物置小屋を
崩させて、それに火をかけた。風のない日の薄曇りの空に、煙がまっすぐにのぼって、遠方から見えた。それから火を踏み消して、あとを水でしめして引き上げた。台所にいた千場作兵衛、そのほか重手を負ったものは家来や傍輩が肩にかけて続いた。時刻はちょうど
未の刻であった。
光尚はたびたび家中のおもだったものの家へ遊びに往くことがあったが、阿部一族を討ちにやった二十一日の日には、松野左京の屋敷へ
払暁から出かけた。
館のあるお
花畠からは、山崎はすぐ向うになっているので、光尚が館を出るとき、阿部の屋敷の方角に人声物音がするのが聞こえた。
「今討ち入ったな」と言って、光尚は
駕籠に乗った。
駕籠がようよう一町ばかりいったとき、注進があった。竹内数馬が討死をしたことは、このときわかった。
高見権右衛門は討手の総勢を率いて、光尚のいる松野の屋敷の前まで引き上げて、阿部の一族を残らず討ち取ったことを執奏してもらった。光尚はじきに逢おうと言って、権右衛門を書院の庭に廻らせた。
ちょうど
卯の花の真っ白に咲いている
垣の間に、小さい
枝折戸のあるのをあけてはいって、権右衛門は芝生の上に
突居た。光尚が見て、「手を負ったな、一段骨折りであった」と声をかけた。
黒羽二重の衣服が血みどれになって、それに引上げのとき小屋の火を踏み消したとき飛び散った炭や灰がまだらについていたのである。
「いえ。かすり
創でござりまする」権右衛門は何者かに
水落をしたたかつかれたが懐中していた鏡にあたって穂先がそれた。創はわずかに血を鼻紙ににじませただけである。
権右衛門は討入りのときのめいめいの働きをくわしく言上して、第一の功を単身で弥五兵衛に深手を負わせた隣家の柄本又七郎に譲った。
「数馬はどうじゃった」
「表門から一足先に駈け込みましたので見届けません」
「さようか。皆のものに庭へはいれと言え」
権右衛門が一同を呼び入れた。
重手で自宅へ
舁いて行かれた人たちのほかは、皆芝生に平伏した。働いたものは血によごれている、小屋を焼く手伝いばかりしたものは、灰ばかりあびている。その灰ばかりあびた中に、畑十太夫がいた。光尚が声をかけた。
「十太夫、そちの働きはどうじゃった」
「はっ」と言ったぎり黙って伏していた。十太夫は
大兵の臆病者で、阿部が屋敷の外をうろついていて、引上げの前に小屋に火をかけたとき、やっとおずおずはいったのである。最初討手を仰せつけられたときに、お次へ出るところを劍術者
新免武蔵が見て、「
冥加至極のことじゃ、ずいぶんお手柄をなされい」と言って背中をぽんと打った。十太夫は色を失って、ゆるんでいた
袴の
紐を締め直そうとしたが、手がふるえて締まらなかったそうである。
光尚は座を起つとき言った。「皆
出精であったぞ。帰って休息いたせ」
竹内数馬の幼い娘には養子をさせて家督相続を許されたが、この家はのちに絶えた。高見権右衛門は三百石、千場作兵衛、野村庄兵衛は
各五十石の加増を受けた。柄本又七郎へは
米田監物が承って組頭
谷内蔵之允を使者にやって、
賞詞があった。
親戚朋友がよろこびを言いに来ると、又七郎は笑って、「
元亀天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と言った。二年立って、正保元年の夏、又七郎は創が
癒えて光尚に
拝謁した。光尚は鉄砲十挺を預けて、「創が根治するように湯治がしたくばいたせ、また府外に別荘地をつかわすから、場所を望め」と言った。又七郎は
益城小池村に屋敷地をもらった。その背後が
藪山である。「藪山もつかわそうか」と、光尚が言わせた。又七郎はそれを辞退した。竹は平日もご用に立つ。戦争でもあると、竹束がたくさんいる。それを
私に拝領しては気が済まぬというのである。そこで藪山は
永代御預けということになった。
畑十太夫は追放せられた。竹内数馬の兄八兵衛は私に討手に加わりながら、弟の討死の場所に居合わせなかったので、閉門を仰せつけられた。また馬廻りの子で近習を勤めていた
某は、阿部の屋敷に近く住まっていたので、「火の用心をいたせ」と言って当番をゆるされ、父と一しょに屋根に上がって火の子を消していた。のちにせっかく当番をゆるされた
思召しにそむいたと心づいてお
暇を願ったが、光尚は「そりゃ臆病ではない、以後はも少し気をつけるがよいぞ」と言って、そのまま勤めさせた。この近習は光尚の亡くなったとき殉死した。
阿部一族の死骸は井出の口に引き出して、吟味せられた。白川で一人一人の創を洗ってみたとき、柄本又七郎の槍に胸板をつき抜かれた弥五兵衛の創は、誰の受けた創よりも立派であったので、又七郎はいよいよ面目を施した。
大正二年一月