最後の一句

森鴎外




 元文げんぶん三年十一月二十三日の事である。大阪で、船乘業ふなのりげふ桂屋太郎兵衞かつらやたろべゑと云ふものを、木津川口きづがはぐちで三日間さらした上、斬罪に處すると、高札かうさつに書いて立てられた。市中到る處太郎兵衞の噂ばかりしてゐる中に、それを最も痛切に感ぜなくてはならぬ太郎兵衞の家族は、南組みなみぐみ堀江橋際ほりえばしぎはの家で、もう丸二年程、殆ど全く世間との交通を絶つて暮してゐるのである。
 この豫期すべき出來事を、桂屋へ知らせに來たのは、程遠からぬ平野町ひらのまちに住んでゐる太郎兵衞が女房の母であつた。この白髮頭のおうなの事を桂屋では平野町のおばあ樣と云つてゐる。おばあ樣とは、桂屋にゐる五人の子供がいつも好い物をお土産に持つて來てくれる祖母に名づけた名で、それを主人も呼び、女房も呼ぶやうになつたのである。
 おばあ樣を慕つて、おばあ樣にあまえ、おばあ樣にねだる孫が、桂屋に五人ゐる。その四人は、おばあ樣が十七になつた娘を桂屋へよめによこしてから、今年十六年目になるまでの間に生れたのである。長女いちが十六歳、二女まつが十四歳になる。其次に、太郎兵衞が娘をよめに出す覺悟で、平野町の女房の里方さとかたから、赤子あかごのうちに貰ひ受けた、長太郎と云ふ十二歳の男子がある。其次に又生れた太郎兵衞の娘は、とくと云つて八歳になる。最後に太郎兵衞の始て設けた男子の初五郎がゐて、これが六歳になる。
 平野町の里方は有福なので、おばあ樣のお土産はいつも孫達に滿足を與へてゐた。それが一昨年太郎兵衞の入牢にふらうしてからは、兎角孫達に失望を起させるやうになつた。おばあ樣が暮し向の用に立つ物を主に持つて來るので、おもちややお菓子は少くなつたからである。
 しかしこれから生ひ立つて行く子供の元氣は盛んなもので、只おばあ樣のお土産が乏しくなつたばかりでなく、おつ母樣かさまの不機嫌になつたのにも、程なく馴れて、格別しをれた樣子もなく、相變らず小さい爭鬪と小さい和睦との刻々に交代する、賑やかな生活を續けてゐる。そして「遠い/\所へ往つて歸らぬ」と言ひ聞された父の代りに、このおばあ樣の來るのを歡迎してゐる。
 これに反して、厄難やくなんに逢つてからこのかた、いつも同じやうな悔恨と悲痛との外に、何物をも心に受け入れることの出來なくなつた太郎兵衞の女房は、手厚くみついでくれ、親切に慰めてくれる母に對しても、ろく/\感謝の意をも表することがない。母がいつ來ても、同じやうな繰言くりごとを聞せて歸すのである。
 厄難に逢つた初には、女房は只茫然と目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつてゐて、食事も子供のために、器械的に世話をするだけで、自分は殆ど何も食はずに、しきりに咽が乾くと云つては、湯を少しづつ呑んでゐた。夜は疲れてぐつすり寢たかと思ふと、度々目を醒まして溜息を衝く。それから起きて、夜なかに裁縫などをすることがある。そんな時は、傍に母の寢てゐぬのに氣が附いて、最初に四歳になる初五郎が目を醒ます。次いで六歳になるとくが目を醒ます。女房は子供に呼ばれて床にはいつて、子供が安心して寢附くと、又大きく目をあいて溜息を衝いてゐるのであつた。それから二三日立つて、やう/\泊り掛けに來てゐる母に繰言を言つて泣くことが出來るやうになつた。それから丸二年程の間、女房は器械的に立ち働いては、同じやうに繰言を言ひ、同じやうに泣いてゐるのである。
 高札の立つた日には、午過ぎに母が來て、女房に太郎兵衞の運命の極まつたことを話した。しかし女房は、母の恐れた程驚きもせず、聞いてしまつて、又いつもと同じ繰言を言つて泣いた。母は餘り手ごたへのないのを物足らなく思ふ位であつた。此時長女のいちは、襖の蔭に立つて、おばあ樣の話を聞いてゐた。

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 桂屋にかぶさつて來た厄難と云ふのはかうである。主人太郎兵衞は船乘とは云つても、自分が船に乘るのではない。北國通ひの船を持つてゐて、それに新七と云ふ男を乘せて、運送の業を營んでゐる。大阪では此太郎兵衞のやうな男を居船頭と云つてゐた。居船頭の太郎兵衞が沖船頭の新七を使つてゐるのである。
 元文元年の秋、新七の船は、出羽國秋田から米を積んで出帆した。其船が不幸にも航海中に風波の難に逢つて、半難船の姿になつて、積荷の半分以上を流出した。新七は殘つた米を賣つて金にして、大阪へ持つて歸つた。
 さて新七が太郎兵衞に言ふには、難船をしたことは港々で知つてゐる。殘つた積荷を賣つた此金は、もう米主に返すには及ぶまい。これは跡の船をしたてる費用に當てようぢやないかと云つた。
 太郎兵衞はそれまで正直に營業してゐたのだが、營業上に大きい損失を見た直後に、現金を目の前に並べられたので、ふと良心の鏡が曇つて、其金を受け取つてしまつた。
 すると、秋田の米主の方では、難船の知らせを得た後に、殘り荷のあつたことやら、それを買つた人のあつたことやらを、人傳ひとづてに聞いて、わざ/\人を調べに出した。そして新七の手から太郎兵衞に渡つた金高までを探り出してしまつた。
 米主は大阪へ出て訴へた。新七は逃走した。そこで太郎兵衞が入牢してとう/\死罪に行はれることになつたのである。

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 平野町のおばあ樣が來て、恐ろしい話をするのを※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、252-下-27]娘のいちが立聞をした晩の事である。桂屋の女房はいつも繰言を言つて泣いた跡で出る疲が出て、ぐつすり寐入つた。女房の兩脇には、初五郎と、とくとが寢てゐる。初五郎の隣には長太郎が寢てゐる。とくの隣にまつ、それに並んでいちが寢てゐる。
 暫く立つて、いちが何やら布團の中で獨言を言つた。「ああ、さうしよう。きつと出來るわ」と、云つたやうである。
 まつがそれを聞き附けた。そして「[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、253-上-7]えさん、まだ寐ないの」と云つた。
「大きい聲をおしでない。わたし好い事を考へたから。」いちは先づかう云つて妹を制して置いて、それから小聲でかう云ふ事をささやいた。お父つさんはあさつて殺されるのである。自分はそれを殺させぬやうにすることが出來ると思ふ。どうするかと云ふと、願書ねがひしよと云ふものを書いてお奉行樣に出すのである。しかし只殺さないで置いて下さいと云つたつて、それでは聽かれない。お父つさんを助けて、其代りにわたくし共子供を殺して下さいと云つて頼むのである。それをお奉行樣が聽いて下すつて、お父つさんが助かれば、それで好い。子供は本當に皆殺されるやら、わたしが殺されて、小さいものは助かるやら、それはわからない。只お願をする時、長太郎だけは一しよに殺して下さらないやうに書いて置く。あれはお父つさんの本當の子でないから、死ななくても好い。それにお父つさんが此家の跡を取らせようと云つて入らつしやつたのだから、殺されない方が好いのである。いちは妹にそれだけの事を話した。
「でもこはいわねえ」と、まつが云つた。
「そんなら、お父つさんが助けてもらひたくないの。」
「それは助けてもらひたいわ。」
「それ御覽。まつさんは只わたしに附いて來て同じやうにさへしてゐれば好いのだよ。わたしが今夜願書を書いて置いて、あしたの朝早く持つて行きませうね。」
 いちは起きて、手習の清書をする半紙に、平假名で願書を書いた。父の命を助けて、其代りに自分と妹のまつ、とく、弟の初五郎をおしおきにして戴きたい、實子でない長太郎だけはお許下さるやうにと云ふだけの事ではあるが、どう書き綴つて好いかわからぬので、幾度も書き損つて、清書のためにもらつてあつた白紙が殘少になつた。しかしとう/\一番鷄の啼く頃に願書が出來た。
 願書を書いてゐるうちに、まつが寐入つたので、いちは小聲で呼び起して、床の傍に疊んであつた不斷着に著更へさせた。そして自分も支度をした。
 女房と初五郎とは知らずに寐てゐたが、長太郎が目を醒まして、「ねえさん、もう夜が明けたの」と云つた。
 いちは長太郎の床の傍へ往つてささやいた。「まだ早いから、お前は寐ておいで。ねえさん達は、お父つさんの大事な御用で、そつと往つて來る所があるのだからね。」
「そんならおいらも往く」と云つて、長太郎はむつくり起き上がつた。
 いちは云つた。「ぢやあ、おおき、著物を著せて上げよう。長さんは小さくても男だから、一しよに往つてくれれば、其方が好いのよ」と云つた。
 女房は夢のやうにあたりの騷がしいのを聞いて、少し不安になつて寢がへりをしたが、目は醒めなかつた。
 三人の子供がそつと家を拔け出したのは、二番鷄の啼く頃であつた。戸の外は霜の曉であつた。提灯を持つて、拍子木をたゝいて來る夜廻の爺いさんに、お奉行樣の所へはどう往つたら往かれようと、いちがたづねた。爺いさんは親切な、物分りの好い人で、子供の話を眞面目に聞いて、月番の西奉行所のある所を、丁寧に教へてくれた。當時の町奉行は、東が稻垣淡路守種信いながきあはぢのかみたねのぶで、西が佐佐又四郎成意なりむねである。そして十一月には西の佐佐が月番に當つてゐたのである。
 爺いさんが教へてゐるうちに、それを聞いてゐた長太郎が、「そんなら、おいらの知つた町だ」と云つた。そこで※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、253-下-29]妹は長太郎を先に立てて歩き出した。
 やう/\西奉行所に辿り附いて見れば、門がまだ締まつてゐた。門番所の窓の下に往つて、いちが「もし/\」と度々繰り返して呼んだ。
 暫くして窓の戸があいて、そこへ四十恰好の男の顏が覗いた。「やかましい。なんだ。」
「お奉行樣にお願があつてまゐりました」と、いちが丁寧に腰を屈めて云つた。
「ええ」と云つたが、男は容易に詞の意味を解し兼ねる樣子であつた。
 いちは又同じ事を言つた。
 男はやう/\わかつたらしく、「お奉行樣には子供が物を申し上げることは出來ない、親が出て來るが好い」と云つた。
「いゝえ、父はあしたおしおきになりますので、それに就いてお願がございます。」
「なんだ。あしたおしおきになる。それぢやあ、お前は桂屋太郎兵衞の子か。」
「はい」といちが答へた。
「ふん」と云つて、男は少し考へた。そして云つた。「怪しからん。子供までが上を恐れんと見える。お奉行樣はお前達におあひはない。歸れ歸れ。」かう云つて、窓を締めてしまつた。
 まつがあね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、254-上-22]に言つた。「ねえさん、あんなに叱るから歸りませう。」
 いちは云つた。「默つてお出。叱られたつて歸るのぢやありません。ねえさんのする通りにしてお出。」かう云つて、いちは門の前にしやがんだ。まつと長太郎とは附いてしやがんだ。
 三人の子供は門のあくのを大ぶ久しく待つた。やう/\貫木くわんのきをはづす音がして、門があいた。あけたのは、先に窓から顏を出した男である。
 いちが先に立つて門内に進み入ると、まつと長太郎とが背後うしろに續いた。
 いちの態度が餘り平氣なので、門番の男は急に支へ留めようともせずにゐた。そして暫く三人の子供の玄關の方へ進むのを、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)つて見送つて居たが、やう/\我に歸つて、「これこれ」と聲を掛けた。
「はい」と云つて、いちはおとなしく立ち留まつて振り返つた。
「どこへ往くのだ。さつき歸れと云つたぢやないか。」
「さう仰やいましたが、わたくし共はお願を聞いて戴くまでは、どうしても歸らない積りでございます。」
「ふん。しぶとい奴だな。兎に角そんな所へ往つてはいかん。こつちへ來い。」
 子供達は引き返して、門番の詰所つめしよへ來た。それと同時に玄關脇から、「なんだ、なんだ」と云つて、二三人の詰衆つめしゆうが出て來て、子供達を取り卷いた。いちは殆どかうなるのを待ち構へてゐたやうに、そこにうづくまつて、懷中から書附を出して、眞先にゐる與力よりきの前に差し附けた。まつと長太郎も一しよに蹲つて禮をした。
 書附を前へ出された與力は、それを受け取つたものか、どうしたものかと迷ふらしく、默つていちの顏を見卸してゐた。
「お願でございます」と、いちが云つた。
「こいつ等は木津川口で曝し物になつてゐる桂屋太郎兵衞の子供でございます。親の命乞をするのだと云つてゐます」と、門番が傍から説明した。
 與力は同役の人達を顧みて、「では兎に角書附を預かつて置いて、伺つて見ることにしませうかな」と云つた。それには誰も異議がなかつた。
 與力は願書をいちの手から受け取つて、玄關にはいつた。

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 西町奉行の佐佐は、兩奉行の中の新參で、大阪に來てから、まだ一年立つてゐない。役向やくむきの事は總て同役の稻垣に相談して、城代じやうだいに伺つて處置するのであつた。それであるから、桂屋太郎兵衞の公事くじに就いて、前役の申繼を受けてから、それを重要事件として氣に掛けてゐて、やうやう處刑の手續が濟んだのを重荷を卸したやうに思つてゐた。
 そこへ今朝になつて、宿直の與力が出て、命乞いのちごひの願に出たものがあると云つたので、佐佐は先づ切角運ばせた事に邪魔がはいつたやうに感じた。
「參つたのはどんなものか。」佐佐の聲は不機嫌であつた。
「太郎兵衞の娘兩人と倅とがまゐりまして、年上の娘が願書を差上げたいと申しますので、これに預つてをります。御覽になりませうか。」
「それは目安箱めやすばこをもお設になつてをる御趣意から、次第によつては受け取つても宜しいが、一應はそれぞれ手續のあることを申聞せんではなるまい。兎に角預かつてをるなら、内見しよう。」
 與力は願書を佐佐の前に出した。それを披いて見て佐佐は不審らしい顏をした。「いちと云ふのがその年上の娘であらうが、何歳になる。」
「取り調べはいたしませんが、十四五歳位に見受けまする。」
「さうか。」佐佐は暫く書附を見てゐた。不束ふつゝかな假名文字で書いてはあるが、條理が善く整つてゐて、大人でもこれだけの短文に、これだけの事柄を書くのは、容易であるまいと思はれる程である。大人が書かせたのではあるまいかと云ふ念が、ふと萌した。續いて、上を僞る横着物わうちやくもの所爲しよゐではないかと思議した。それから一應の處置を考へた。太郎兵衞は明日の夕方迄曝すことになつてゐる。刑を執行するまでには、まだ時がある。それまでに願書を受理しようとも、すまいとも、同役に相談し、上役に伺ふことも出來る。又しや其間に情僞じやうぎがあるとしても、相當の手續をさせるうちには、それを探ることも出來よう。兎に角子供を歸さうと、佐佐は考へた。
 そこで與力にはかう云つた。此願書は内見したが、これは奉行に出されぬから、持つて歸つて町年寄まちどしよりに出せと云へと云つた。
 與力は、門番が歸さうとしたが、どうしても歸らなかつたと云ふことを、佐佐に言つた。佐佐は、そんなら菓子でも遣つて、すかして歸せ、それでも聽かぬなら引き立てて歸せと命じた。
 與力の座を起つた跡へ、城代じやうだい太田備中守資晴おほたびつちゆうのかみすけはるが訪ねて來た。正式の見廻りではなく、私の用事があつて來たのである。太田の用事が濟むと、佐佐は只今かやうかやうの事があつたと告げて、自分の考を述べ、指圖をうた。
 太田は別に思案もないので、佐佐に同意して、午過ぎに東町奉行稻垣をも出席させて、町年寄五人に桂屋太郎兵衞が子供を召し連れて出させることにした。情僞があらうかと云ふ、佐佐の懸念も尤もだと云ふので、白洲へは責道具を並べさせることにした。これは子供を嚇して實を吐かせようと云ふ手段である。
 丁度此相談が濟んだ所へ、前の與力が出て、入口に控へて氣色を伺つた。
「どうぢや、子供は歸つたか」と、佐佐が聲を掛けた。
「御意でござりまする。お菓子をつかはしまして歸さうと致しましたが、いちと申す娘がどうしても聽きませぬ。とうとう願書を懷へ押し込みまして、引き立てて歸しました。妹娘はしくしく泣きましたが、いちは泣かずに歸りました。」
「餘程情のこはい娘と見えますな」と、太田が佐佐を顧みて云つた。

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 十一月二十四日のひつじ下刻げこくである。西町奉行所の白洲ははればれしい光景を呈してゐる。書院には兩奉行が列座する。奧まつた所には別席を設けて、表向の出座ではないが、城代が取調の模樣を餘所よそながら見に來てゐる。縁側には取調を命ぜられた與力が、書役を隨へて著座する。
 同心どうしん等が三道具みつだうぐを衝き立てて、嚴めしく警固してゐる庭に、拷問に用ゐる、あらゆる道具が並べられた。そこへ桂屋太郎兵衞の女房と五人の子供とを連れて、町年寄五人が來た。
 尋問は女房から始められた。しかし名を問はれ、年を問はれた時に、かつがつ返事をしたばかりで、其外の事を問はれても、「一向に存じませぬ」、「恐れ入りました」と云ふより外、何一つ申し立てない。
 次に長女いちが調べられた。當年十六歳にしては、少しをさなく見える、痩肉やせじしの小娘である。しかしこれはちとの臆する氣色もなしに、一部始終の陳述をした。祖母の話を物蔭から聞いた事、夜になつて床に入つてから、出願を思ひ立つた事、妹まつに打明けて勸誘した事、自分で願書を書いた事、長太郎が目を醒したので同行を許し、奉行所の町名を聞いてから、案内をさせた事、奉行所に來て門番と應對し、次いで詰衆の與力に願書の取次を頼んだ事、與力等に強要せられて歸つた事、凡そ前日來經歴した事を問はれる儘に、はつきり答へた。
「それではまつの外には誰にも相談はいたさぬのぢやな」と、取調役が問うた。
「誰にも申しません。長太郎にも精しい事は申しません。お父つさんを助けて戴く樣に、お願しに往くと申しただけでございます。お役所から歸りまして、年寄衆のお目に掛かりました時、わたくし共四人の命を差し上げて、父をお助け下さるやうに願ふのだと申しましたら、長太郎が、それでは自分も命が差し上げたいと申して、とうとうわたくしに自分だけのお願書を書かせて、持つてまゐりました。」
 いちがかう申し立てると、長太郎が懷から書附を出した。
 取締役の指圖で、同心が一人長太郎の手から書附を受け取つて、縁側に出した。
 取締役はそれを披いて、いちの願書と引き比べた。いちの願書は町年寄の手から、取調の始まる前に、出させてあつたのである。
 長太郎の願書には、自分も※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、256-下-2]や弟妹と一しよに、父の身代りになつて死にたいと、前の願書と同じ手跡で書いてあつた。
 取調役は「まつ」と呼びかけた。しかしまつは呼ばれたのに氣が附かなかつた。いちが「お呼になつたのだよ」と云つた時、まつは始めておそるおそる項垂れてゐた頭を擧げて、縁側の上の役人を見た。
「お前は※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、256-下-8]と一しよに死にたいのだな」と、取調役が問うた。
 まつは「はい」と云つて頷いた。
 次に取調役は「長太郎」と呼び掛けた。
 長太郎はすぐに「はい」と云つた。
「お前は書附に書いてある通りに、兄弟一しよに死にたいのぢやな。」
「みんな死にますのに、わたしが一人生きてゐたくはありません」と、長太郎ははつきり答へた。
「とく」と取調役が呼んだ。とくは※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、256-下-16]や兄が順序に呼ばれたので、こんどは自分が呼ばれたのだと氣が附いた。そして只目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)つて役人の顏を仰ぎ見た。
「お前も死んでも好いのか。」
 とくは默つて顏を見てゐるうちに、唇に血色が亡くなつて、目に涙が一ぱい溜まつて來た。
「初五郎」と取調役が呼んだ。
 やう/\六歳になる末子の初五郎は、これも默つて役人の顏を見たが、「お前はどうぢや、死ぬるのか」と問はれて、活溌にかぶりを振つた。書院の人々は覺えず、それを見て微笑んだ。
 此時佐佐が書院の敷居際まで進み出て、「いち」と呼んだ。
「はい。」
「お前の申立には※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)はあるまいな。若し少しでも申した事に間違があつて、人に教へられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隱して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責道具のある方角を指さした。
 いちは指された方角を一目見て、少しもたゆたはずに、「いえ、申した事に間違はございません」と言ひ放つた。其目は冷かで、其詞は徐かであつた。
「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞屆けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顏を見ることは出來ぬが、それでも好いか。」
「よろしうございます」と、同じような、冷かな調子で答へたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上の事には間違はございますまいから」と言ひ足した。
 佐佐の顏には、不意打に逢つたやうな、驚愕の色が見えたが、それはすぐに消えて、險しくなつた目が、いちの面に注がれた。憎惡を帶びた驚異の目とでも云はうか。しかし佐佐は何も言はなかつた。
 次いで佐佐は何やら取調役にささやいたが、間もなく取調役が町年寄に、「御用が濟んだから、引き取れ」と言ひ渡した。
 白洲を下がる子供等を見送つて、佐佐は太田と稻垣とに向いて、「生先おひさきの恐ろしいものでござりますな」と云つた。心の中には、哀な孝行娘の影も殘らず、人に教唆けうさせられた、おろかな子供の影も殘らず、只氷のやうに冷かに、刃のやうに鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響してゐるのである。元文頃の徳川家の役人は、固より「マルチリウム」といふ洋語も知らず、又當時の辭書には獻身と云ふ譯語もなかつたので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衞の娘に現れたやうな作用があることを、知らなかつたのは無理もない。しかし獻身の中に潜む反抗のほこさきは、いちと語を交へた佐佐のみではなく、書院にゐた役人一同の胸をも刺した。

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 城代も兩奉行もいちを「變な小娘だ」と感じて、その感じには物でもいてゐるのではないかと云ふ迷信さへ加はつたので、孝女に對する同情は薄かつたが、當時の行政司法の、元始的な機關が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹した。桂屋太郎兵衞の刑の執行は、「江戸へ伺中うかゞひちゆう日延ひのべ」と云ふことになつた。これは取調のあつた翌日、十一月二十五日に町年寄に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都に於いて大嘗會だいじやうゑ御執行ごしつかう相成候あひなりさふらうてより日限も不相立儀あひたたざるぎに付、太郎兵衞事、死罪しざい御赦免ごしやめん被仰出おほせいだされ、大阪北、南組、天滿の三口御構おかまひの上追放」と云ふことになつた。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別を告げることが出來た。大嘗會と云ふのは、貞享四年に東山天皇の盛儀があつてから、桂屋太郎兵衞の事を書いた高札の立つた元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に、五十一年目に、櫻町天皇が擧行し給ふまで、中絶してゐたのである。
(大正四年十月「中央公論」第三十年第十一號)





底本:「日本現代文學全集 7 森鴎外集」講談社
   1962(昭和37)年1月19日初版第1刷
   1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷
入力:青空文庫
1997年10月8日公開
2004年3月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について