一
僕は一夏を
僕の占領した室は二階で、二階はこの一室よりほかになかった。隣りの料理屋の地面から、
それに、その葉かげから、隣りの料理屋の
隣りの家族と言っては、主人夫婦に子供が二人、それに主人の姉と芸者とが加わっていた。主人夫婦はごくお人よしで家業大事とばかり、家の掃除と料理とのために、朝から晩まで一生懸命に働いていた。主人の姉――名はお
お君というその
僕が英語が出来るというので、僕の家の人を介して、井筒屋の主人がその子供に英語を教えてくれろと頼んで来た。それも
ある日、正ちゃんは、学校のないので、午前十一時ごろにやって来た。僕は大切な時間を取られるのが惜しかったので、いい加減に教えてすましてしまうと、
「うちの芸者も先生に教えていただきたいと言います」
と言い出した。
「面倒くさいから、厭だよ」と僕は答えたが、跡から思うと、その時からすでにその芸者は僕をだまそうとしていたのだ。正ちゃんは無邪気なもので、
「どうせ習らっても、馬鹿だから、分るもんか?」
「なぜ?」
「こないだも大ざらいがあって、
と、そとを指さしたので、僕もその方に向いた。いちじくの葉かげから見えたのは、しごき一つのだらしない寝巻き姿が、
「正ちゃん、いいものをあげようか?」
「ああ」と立ちあがって、両手を出した。
「ほうるよ」と、しなやかにだが、勢いよくからだが曲がるかと思うと、黒い物が飛んで来て、正ちゃんの手をはずれて、僕の肩に当った。
「おほ、ほ、ほ! 御免下さい」と、向うは笑いくずれたが、すぐ白いつばを吐いて、顔を洗い出した。飛んで来たのは僕のがま口だ。
「これはわたしのだ。さッき井戸端へ水を飲みに行った時、落したんだろう」
「あの
「
「
「帰ったら、礼を言っといておくれ」と、僕は僕の読みかけているメレジコウスキの小説を開らいた。
正ちゃんは、裏から来たので、裏から帰って行ったが、それと一緒に何か話しをしながら、家にはいって行く吉弥の素顔をちょっとのぞいて見て、あまり色が黒いので、僕はいや気がした。
二
僕はその夕がた、あたまの
「あら、先生!」と、第一にお貞婆さんが見つけて、立って来た。「こんなむさ苦しいところからおいでんでも――」
「なアに、僕は遠慮がないから――」
「まア、おはいりなさって下さい」
「失敬します」と、僕は台どころの板敷きからあがって、大きな
主人は
「どうも、毎度、子供がお世話になって」と、炉を隔てて僕と相対したお貞婆さんが改まって
「どうせ、丁寧に教えてあげる暇はないのだから、お礼を言われるまでのことはないのです」
「この暑いのに、よう精が出ます、な、朝から晩まで勉強をなさって?」
「そうやっていなければ喰えないんですから」
「
「貧乏ひまなしの
「どう致しまして、先生――おい、お君、先生にお茶をあげないか?」
そのうち、正ちゃんがどこからか帰って来て、僕のそばへ坐って、今
「どうも馬鹿な子供で困ります」と言うのを、
「なアに、ふたりとも利口なたちだから、おぼえがよくッて
「おッ
「それはありがとうござります」と、お貞はお君に目くばせしながら、
「風通しのええ二階の三番がよかろ。あすこへ御案内おし」
「なアに、どこでもいいですよ」と、僕は立ってお君さんについて行った。
「何をおあがりなさいます」と、お君のおきまり文句らしいのを聴くと、僕が西洋人なら僕の教えた片言を試みるのだろうと思われて、何だか厭な、
まず
「お
「結構です、まア一杯」と、僕は
婆さんはいろんな話をした。この家の二、三年前までは
「けさほどは失礼致しました」と、しとやかながら冷かすように手をついた。
「僕こそお礼を言いに来たのかも知れません」
「かも知れませんでは、お礼になりますまい!」
「いや、どうも――それでは、ありがとうござります」
と、僕はわざとらしくあたまを下げた。
「まア、それで、あたい気がすんだ、わ」
吉弥はお貞を見て、勝利がおに扇子を使った。
「全体、まア」と、はじめから
「なアに、おッ母さん、けさ、僕が落したがま口を拾ってもらったんです」というと、その跡は吉弥の笑い声で説明された。
「それでは、いッそだまっておれば
「ほんとに、あたい、そうしたらよかった」
「あいにく銅貨が二、三銭と来たら、いかに吉弥さんでも驚くだろう」
「この子はなかなか欲張りですよ」
「あら、叔母さん、そんなことはないわ」
「まア、一つさしましょう」と、僕は吉弥に
「叔母さん、どう?」
「今のところでは、口がかかっておらない」
「じゃア、僕がけさのお礼として
「それは済みませんけれど」と言いながら、婆アさんが承知のしるしに僕の猪口に酒を
三
「お前の生れはどこ?」
「東京」
「東京はどこ?」
「浅草」
「浅草はどこ?」
「あなたはしつッこいのね、
「あ、あの
「おあいにくさま、あんな池はとっくにうまってしまいましたよ」
「じゃア、うまった跡にぐらつく安借家が出来た、その二軒目だろう?」
「しどいわ、あなたは」と、ぶつ
「お嬢さん芸者万歳」と、僕は猪口をあげる真似をした。
「もう、よせよせ」僕は三味線を取りあげて、
「お前は全体いくつだ?」
「二十五」
「うそだ、少くとも二十七だろう?」
「じゃア、そうしておいて!」
「お
「あります」
「何をしている?」
「
「おッ母さんは?」
「芸者の
「
「
「姉さんは?」
「ないの」
「妹は?」
「芸者を引かされるはず」
「どこにつとめているの?」
「大宮」
「引かされてどうするの?」
「その人の奥さん」
「なアに、
「妾なんか、つまりませんわ」
「じゃア、おれの奥さんにしてやろうか?」と、からだを引ッ張ると、「はい、よろしく」と、笑いながら寄って来た。
四
翌朝、食事をすましてから、僕は机に向ってゆうべのことを考えた。吉弥が電燈の球に「やまと」のあき袋をかぶせ、はしご段の方に耳をそば立てた時の様子を見て、もろい
下座敷でなまめかしい声がして、だんだん二階へあがって来た。吉弥だ。書物を開らこうとしたところだが、まんざら厭な気もしなかった。
「田村先生、お早う」
「お前かい?」
「来たら、いけないの?」ぴッたり、僕のそばにからだを押しつけて坐った。それッきりで、目が物を言っていた。僕はその
「厭な人、ね」
「厭なら来ないがいい、さ」
「それでも、来たの――あたし、あなたのような人が好きよ。商売人?」
「ああ、商売人」
「どんな商売?」
「本書き商売」
「そんな商売がありますもんか?」
「まア、ない、ね」
「人を馬鹿にしてイるの、ね」と、僕の肩をたたいた。
僕を商売人と見たので、また厭気がしたが、他日わが国を
「あ、いたた!」
「うそうそ、そんなことで痛いものですか?」と、ふき出した。
「全体どうしてお前はこんなところにぐずついてるんだ?」
「東京へ帰りたいの」
「帰りたきゃア早く帰ったらいいじゃアないか?」
「おッ母さんにそう言ってやった、わ、迎えに来なきゃア死んじまうッて」
「おそろしいこッた。しかしそんなことで、びくつくおッ母さんじゃアあるまい」
「おッ母さんはそりゃアそりゃア可愛がるのよ」
「
「何でも出来る、わ」
「第一、三味線は
「ほんとうは、三味線はきらい、踊りが好きだったの」
「じゃア、踊って見るがいい」とは言ったものの、ふと顔を見合わせたら、抱きついてやりたいような気がしたのを、しつッこいと思わせないため、まぎらしに
「お前が踊りを好きなら、役者になったらどうだ?」
「あたい、賛成だ、わ。甲州にいた時、
「さぞこの尻が大きかっただろう、ね」うしろからぶつと、
「よして頂戴よ、お茶を引く、わ」と、僕の手を払った。
「お前が役者になる気なら、僕が十分周旋してやらア」
「どこへ、本郷座? 東京座?
「どこでもいいや、ね、それは僕の胸にあるんだ」
「あたい、役者になれば、妹もなりたがるにきまってる。それに、あたいの子――」
「え、お前の子供があるんか?」
「もとの
「いくつ?」
「十二」
「
「そうじゃアない、わ。青森の人で、手が切れてからも、一年に一度ぐらいは出て来て、子供の食い
吉弥はすぐ乗り気になって、いよいよそうと
五
それからというもの、僕は毎晩のように井筒屋へ飲みに行った。吉弥の顔が見たいのと、例の決心を確かめたいのであったが、当人の決心がまず本統らしく見えると、すぐまた僕はその親の意見を聴きにやらせた。親からは
六
僕は井筒屋の
「旦那、しゃぼん」という声が
このふたりは湯をあがってからも、必らず立ち話した。男は腰巻き一つで、うちわを使いながら、湯の番人の坐っている番台のふちに片手をかけて女に向うと、女はまた、どこで得たのか、白い
ほかにも芸者のはいりに来ているのは多いが、いつも目に立つのはこの女がこの男と相対してふざけたり、笑ったりしていたことである。はじめはこの男をひいきのお客ぐらいにしか僕は思っていなかったが、石鹸事件を知ったので、これは僕の恋がたきだと思った。否、恋がたきとして競争する必要もないが、吉弥が女優になりたいなどは真ッかなうそだと
きょうは早く行って、あの男またはその他の人に呼ばれないうちに、吉弥めをあげ、一つ精一杯なじってやろうと決心して、井筒屋へ行った。湯から帰ってすぐのことであった。
「
「きょうは今から吉弥さんを呼んで、十分飲みますぞ」
「毎度御ひいきは有難うございますけれど、先生はそうお遊びなさってもよろしゅうございますか?」
「なアに、かまいませんとも」
「しかし、まだ奥さんにはお目にかかりませんけれど、おうちでは独りでご心配なさっておられますよ。それがお可哀そうで」
「かかアは何も知ってませんや」
「いいえ、先生のようなお気質では、つれ添う身になったら大抵想像がつきますもの」
「よしんば、知れたッてかまいません」
「先生はそれでもよろしかろうが、私どもがそばにいて、奥さんにすみません」
「心配にゃア及びません、さ」景気よくは応対していたものの、考えて見ると、吉弥に熱くなっているのを勘づいているので、旦那があるからとてもだめだという心をほのめかすのではないかとも取れないことではない。また、一方には、飲むばかりで借りが出来るのを、もし払われないようなことがあってはと心配し出したのではないかとも取れた。僕はわざと作り笑いをもって平気をよそい、お貞やお君さんや正ちゃんやと時間つぶしの話をした。吉弥がまだ湯から帰らないのをひそかに知っていたからだ。
「吉弥は風呂に行ってまだ帰りませんが――もう、帰りそうなものだに、なア」と、お貞はお君に言った。
「もう、一時間半、二時間にもなる」と、正ちゃんが時計を見て口を出した。
「また、あの青木と
「気が強うて困ります」とは、その母が僕にかつて言ったことだ。まして雇い人などに対しては、最も皮肉な当り方をするので、吉弥はいつもこの娘を見るとぷりぷりしていた。その不平を吉弥はたびたび僕に漏らすことがあった。もっとも、お君さんをそういう気質に育てあげたのは、もとはと言えば、親たちが悪いのらしい。世間の評判を聴くと、まだ肩あげも取れないうちに、箱根のある旅館の助平おやじから大金を取って、水あげをさせたということだ。小癪な娘だけにだんだん焼けッ腹になって来るのは当り前だろう。
「あの青木の野郎、今度来たら十分言ってやらにゃア」と、お貞が受けて、「借金が返せないもんだから、うちへ来ないで、こそこそとほかでぬすみ喰いをしゃアがる!」
子供はふたりとも吹き出した。
「吉弥も吉弥だ、あんな奴にくッついておらなくとも、お客さんはどこにでもある。――あんな奴があって、うちの商売の邪魔をするのだ」
そう思うのも実際だ。僕が来てからの様子を見ていても、料理の仕出しと言ってもそうあるようには見えないし、あがるお客はなおさら少い。たよりとしていたのは、吉弥独りのかせぎ高だ。毎日夕がたになると、家族は
やがて吉弥はのッそり帰って来た。
「何をぐずぐずしておったんだ? すぐお座敷だよ」お貞はその割り合いに強くは当らなかった。
「そう」吉弥は平気で返事をして、炉のそばに坐って、「いらっしゃい」僕に挨拶をしたが、まるめて持っていた
「一本、どうか」と、僕のそばの巻煙草入れに手を出した。
その時、吉弥は僕のうしろに坐っているお君の鋭い目に出くわしたらしい。急に険相な顔になって、「何だい、そのにらみざまは?
「一体どうしたんだ」と、僕がちょっと吉弥に当って、お君をふり返ると、お君は黙って下を向いた。
「あたいがいるのがいけなけりゃア、いつからでも出すがいい。へん、去年身投げをした芸者のような
僕は何にも知らない風で、かの女の口をつぐませると、それまでわくわくしていたお貞が口を出し、
「まア、えい。まア、えい。――子供同士の
「厭だが、行ってやろうか」と、吉弥はしぶしぶ立って、大きな姿見のある化粧部屋へ行った。
七
「お座敷は先生だッたの、ねえ、――あんなことを言って、どうも失礼」と、吉弥は三味線をもってはいって来た。
「………」僕はさッきから独りで、どういう風に油をしぼってやろうかと、しきりに考えていたのだが、やさしい声をして、やさしい様子で来られては、今まで胸にこみ合っていたさまざまの
「お酌」と出した徳利から、心では受けまいと
「おこってるの?」
「………」
「ええ、おこッているの?」
「………」
「あたい知らないわ!」
吉弥はかっと顔を赤くして、立ちあがった。そのまま下へ行って、僕のおこっていることを言い、湯屋で見たことを
「おい、おい!」と命令するような強い声を出した。それでも、かの女は行ってしまったが、まさかそのまま来ないことはあるまいと思ったから、独りで酌をしながら待っていた。はたして銚子を持ってすぐ再びやって来た。向うがつんとしているので、今度は僕から物を言いたくなった。
「どうだい、僕もまた一つ
「あら、もう、知ってるの?」
「へん、そんなことを知らないような馬鹿じゃアねい。役者になりたいからよろしく頼むなんどと
「そりゃア、あんまり可哀そうだ、わ。あの人がいなけりゃア、東京へ帰れないじゃアないか、ね」
「どうして、さ?」
「じゃア、誰れが受け出してくれるの? あなた?」
「おれのはお前が女優になってからの問題だ。受け出すのは、心配なくおッ母さんが来て始末をつけると言ったじゃアないか?」
「だから、おッ母さんが来ると言ってるのでしょう――」
それで分ったが、おッ母さんの来るというのは、女優問題でわざわざ来るのではなく、青木という男に受け出されるそのかけ合いのためであったのだ。
「あんな者に受け出されて、やッぱし、こんなしみッたれた
「おおきにお世話だ、あなたよりもさきに東京へ帰りますよ」
「帰って、どうするんだ?」
「お嫁に行きますとも」
「誰れが貴さまのような者を貰ってくれよう?」
「
「それじゃア、青木が可哀そうだ」
「可哀そうも何もあったもんか? あいつもこれまでに大分金をつぎ込んだ男だから、なかなか思い切れるはずはない、さ」
「どんなに馬鹿だッて、そんなのろまな男はなかろうよ」
「どうせ、おかみさんがやかましくッて、あたいをここには置いとけないのだから、たまに向うから東京へ出て来るだけのことだろう、さ」
男はそんなものと高をくくられているのかと思えば、僕はまた厭気がさして来た。
「お嫁に行って、妾になって、まだその上に女優を欲張ろうとは、お前も随分ふてい奴、さ」
「そうとも、さ、こんなにふとったからだだもの、かせげるだけかせぐん、さ、ね」
「じゃア、もう、僕は手を引こう」と、僕は坐り直した。「青木が呼びに来るだろうから、下へ行け」
「あの人は今晩来ないことになったの――そんなに言わないで、さ、あなた」と、吉弥はあまえるようにもたれかかって、「今言ったことはうそ、みんなうそ。決心してイるんだから、役者にして頂戴よ。おッ母さんだッて、あたいから言えば、承知するに
僕は、女優問題さえ忘れれば、恨みもつらみもなかったのだから、こうやって飲んでいるのは悪くもなかった。
吉弥はまた早くこの厭な井筒屋を抜けて、自由の身になりたいのであった。何んでも早く青木から身受けの金を出させようと運動しているらしく、先刻もまた青木の言いなり放題になって、その代りに何かの
八
青木というのは、来遊の外国人を当て込んで、箱根や
青木は井筒屋の
住職のことはこの話にそう編み込む必要がないが、とにかく、かれは僕の室へよく遊びに来た、僕もよく遊びに行った。酔って来ると、随分面白い坊主で、いろんなことをしゃべり出す。それとなく、吉弥の評判を聴くと、色が黒いので、土地の人はかの女を「おからす芸者」ということを僕に言って聴かせたことがある。これを聴かされた日、僕は、帰って来てから吉弥にもっと顔をみがくように忠告した。かの女の黒いのはむしろ
「
住職の知り合いで、ある小銀行の役員をつとめている田島というものも、また、吉弥に熱くなっていることは、住職から聴いて知っていたが、この方に対しては別に心配するほどのこともないと見たから、僕も眼中に置かなかった。吉弥を通じて僕に会いたいということづてもあったが、僕は面倒だと思ってはねつけておいた。かつどうも当地にとどまる女ではないし、また帰ったら女優になると言っているから、女房にしようなどいう野心を起して、つまらない金は使わない方がよかろうと、かれに忠告してやれと僕は住職に勧めたことがある。一方にはそんなしおらしいことを言って、また一方では偽筆を書く、僕のその時の矛盾は――あとから見れば――はなはだしいもので、もう、ほとんど全く目が暗んでいたのだろう。
吉弥は、自分に取っては、最も多くの世話を受けている青木をも、あたまから見くびっていたのだから、平気で僕の筆を利用しようとした。それをもって綺麗に井筒屋を出る手つづきをさせようとしたのは翌朝のことであるが、そう早くは成功しなかった。
僕が昼飯を喰っている時、吉弥は僕のところへやって来て、飯の給仕をしてくれながら太い指にきらめいている宝石入りの指輪を
「どうしたんだ?」僕はいぶかった。
「人質に取ってやったの」
「おッ母さんの手紙がばれたんだろう――?」
「いいえ、ゆうべこれ(と、鼻をゆびさしながら)に負けたんで、現金がないと、さ」
「馬鹿野郎! だまされていやアがる」僕は僕のことでも頼んで出来なかったものを責めるような気になっていた。
「本統よ、そんなにうそがつける男じゃアないの」
「のろけていやがれ、おめえはよッぽどうすのろ芸者だ。――どれ、見せろ」
「よッぽどするでしょう?」抜いて出すのを受け取って見たが、
「馬鹿!」僕はまた
「しどい、わ」吉弥は真ッかになって、恨めしそうにそれを拾った。
「そんな物で身受けが出来る
「どうせ達磨でも、
「どれ」と、ひッたくりかけたら、
「いやよ」と、引ッ込めて、「あなたに見せたッて、けちをつけるだけ損だ」
「じゃア、勝手にしゃがアれ」
僕は飯をすまし、茶をつがせて、
「ああ、ああ、もう、死んじまいたくなった。いつおッ母さんがお金を持って来てくれるのか、もう一度手紙を出そうかしら?」
「いい旦那がついているのに、持って来るはずはない、さ」
「でも、何とやらで、いつはずれるか知れたものじゃアない」
「それがいけなけりゃア、また例のお若い人に
「それがいけなけりゃア――あなた?」
「馬鹿ア言え。そんな
「いやなこッた!」立ち上って、両手に
「あとでいらっしゃい」と言って二階の段を降りて行った。下では、「きイちゃん、御飯」と、呼びに来たお君の声がきこえた。
九
その日の午後、井筒屋へ電報が来た。吉弥の母からの電報で、今新橋を立ったという知らせだ。僕が何気なく行って見ると、吉弥が子供のように嬉しがっている様子が、その挙動に見えた。僕が
そこへ通知してあったのだろう、青木がやって来た。炉のそばへ来て、僕と家のものらにちょっと挨拶をしたが、これも落ちつきのない様子であった。
「まだお宅へはお話ししてないけれど、きょう私がいよいよ吉弥を身受け致します。おッ母さんがやって来るのも、その相談だから、そのつもりで、吉弥に対する一切の勘定書きを
こう言って、青木が僕の方を見た時には、僕の目に一種の勝利、征服、意趣返し、または誇りとも言うべき様子が映ったので、ひょッとすると、僕と吉弥の関係を勘づいていて特に金ずくで僕に対してこれ見よがしのふりをするのではないかと思われた。
さらに気をまわせば、吉弥は僕のことについていい加減のうそを並べ、うすのろだとか二本棒だとか、
しかし、不愉快な顔を見せるのは、焼き餅と見えるから、僕の出来ないことだし、出来ないと言っても、全くこれを心から取り除くことはなし得なかった。これを耐え忍ぶのは、僕がこれまで見せて来た快濶の態度に対しても、実に苦痛であった。しかし、その当面の苦痛はすぐ取れた。と言うのは、青木がすぐ立ちあがって、二階の方へ行ったからであるが、立ちあがった時、かたわらの吉弥に目くばせをしたので、吉弥は僕を見て顔を赤らめたまま青木の跡について行った。
僕は知らない風をしてお貞と相対していた。
「まア、吉弥さんも結構です、身受けをされたら」と、僕が煙草の煙を吹くと、
「そうだろうとは思っておったけれど」と、お貞は
「そりゃア、叔母さんの言うのももっともです、しかし、まア、男が
「吉弥も馬鹿です。男にはのろいし、金使いにはしまりがない。あちらに十銭、こちらに一円、うちで渡す物はどうするのか、方々からいつもその尻がうちへまわって来ます」
「帰るものは帰るがええ、さ」そばから、お君がくやしそうに口を出した。
「馬鹿な子ほど可愛いものだと言うけれど、ほんとうにまたあのお袋が可愛がっておるのでござります」お貞は僕にさも憎々しそうに言った。「あんな者でも、おってくれれば事がすんで行くけれど、おらなくなれば、またその代りを一苦労せにゃならん。――おい、お君、馬鹿どもにお
お君は、あざ笑いながら、台どころに働いている母にお
僕は何だか吉弥もいやになった、井筒屋もいやになった、また自分自身をもいやになった。
僕が帰りかけると、井筒屋の表口に車が二台ついた。それから降りたのは四十七、八の肥えた女――吉弥の母らしい――に、その亭主らしい男。母ばかりではない、おやじもやって来たのだ。僕はこらえていた不愉快の上に、また何だか、おそろしいような気が加わって、そこそこに帰って来た。
一〇
吉弥は、よもや、僕がたびたび勧め、かの女も十分決心したと言ったことを忘れはしまい。よしんば、親が承知しないで、その決心――それも実は当てにならない――をひる返すことがあるにしろ、一度はそれを親どもに話さないことはあるまい。話しさえすれば、親の方から僕に何とか相談があるに違いない。僕の方に乗り気になれば、すぐにも来そうなものだ。いや、もし吉弥がまだ僕のことを知らしてないとすれば、青木の来ているところで話し出すわけには行くまい。あいつも随分頓馬な奴だから、青木のいないところで、ちょっと両親に含ませるだけの気は利くまい。全体この話はどうなるだろうと、いろいろな考えやら、空想やらが僕のあたまに押し寄せて来て、ただわくわくするばかりで、心が落ちつかなかった。
窓の机に向って、ゆうがた、独り物案じに沈み、見るともなしにそとをながめていると、しばらく忘れていたいちじくの
そうだ、そうだ。今の僕には女優問題などは二の町のことで、もう、とっくに、僕というものは吉弥の胸に
僕の胸はいちじくの果よりもやわらかく、僕の心はいちじくの葉よりももろくなっていたのだ。
ふと浪の音が聴えて来た。泳ぎに行って知っているが、長くたわんだ、綺麗な海岸線を洗う波の音だ。さッと言っては押し寄せ、すッと静かに引きさがる浪の音が遠く聴えた。それに耳を傾けると、そのさッと言ってしばらく聴えなくなる間に、僕は何だかたましいを奪われて行くような気がした。それがそのまま吉弥の胸ではないかと思った。
こんなくだらない物思いに沈んでいるよりも、しばらく怠っていた海水浴でもして、すべての考えを一新してしまおうかと思いつき、まず、あぐんでいる
「おやッ!」かしらをあげると、井筒屋は大景気で、三味の
一一
その夜はまんじりとも眠れなかった。三味の音が浪の音に聴えたり、浪の音が三味の音に聴えたり、まるで夢うつつのうちに神経が
枕もとに手紙が来ていたので、寝床の中から取って見ると、妻からのである。言ってやった金が来たかと、急いで開いて見たが、
楊枝をくわえて、下に行くと、家のおかみさんが流しもとで何か洗っていた手をやすめて、
「先生、お早うござります」と、笑った。
「つい寝坊をして」と、僕は平気で井戸へ行ったが、その朝に限って井筒屋の垣根をはいることがこわいような、おッくうなような――実に、面白くなかった。顔を洗うのもそこそこにして、
僕も、馬鹿にされているのかと思うと、帰りたくならないではなかったが、しかしまた吉弥のことをつき止めなければ帰りたくない気もした。様子ではどうせ見込みのない女だと思っていても、どこか心の
その手紙を出しに行った跡へ、吉弥はお袋をつれて僕の室へあがっていた。
「先生、母ですよ」
「そう――おッ母さんですか」と、僕は挨拶をした。
「お留守のところへあがり込んで、どうも済みませんが、娘がいろいろお世話になって」と、丁寧にさげたあたまを再びあげるところを見ると、心持ちかは知らないが、何だか毒々しいつらつきである。からだは、その娘とは違って、丈が低く、横にでぶでぶ太って、豚の体に人の首がついているようだ。それに、口は物を言うたんびに横へまがる。
これで国府津へは三度目だが、なかなかいいところだとか、僕が避暑がてら勉強するには持って来いの場所だとか、遊んでいながら出来る仕事は結構で
吉弥は、ただにこにこしながら、僕の顔とお袋の顔とを順番に見くらべていたが、退屈そうにからだを机の上にもたせかけ、片手で机の上をいじくり出した。そして、今しがた僕が読んで納めた手紙を手に取り、封筒の裏の差出し人の名を見るが早いか、ちょっと顔色を変え、
「いやアだ」と、ほうり出し、「奥さんから来たのだ」
「これ、何をします!」お袋は体よくつくろって、「先生、この子は、ほんとうに、人さまに失礼ということを知らないで困るんですよ」
「なアに」僕は受けたが、その跡はどうあしらっていいのだか、ちょっとまごついた。止むを得ず、「実は」と、僕の方から口を切って、もし両親に異議がないなら、してまた本人がその気になれるなら、吉弥を女優にしたらどうだということを勧め、役者なるものは――とても、言ったからとて、分るまいとは思ったが、――世間の考えているような、またこれまでの役者みずからが考えているような、下品な職業ではないことを簡単に説明してやった。かつ、僕がやがて新らしい脚本を書き出し、それを舞台にのぼす時が来たら、俳優の――ことに女優の――二、三名は少くとも
「そりゃア御もっともです」と、お袋は
「お父さんの考えはどうでしょう?」
「私どものは、なアに、もう、どうでもいいので、始終私が家のことをやきもき致していまして、心配こそ掛けることはございましても、一つとして頼みにならないのでございますよ。私は、もう、独りで、うちのことやら、子供のことやらをあくせくしているのでございます」
「そりゃア、大抵なことじゃアないでしょう。――吉弥さんも少しおッ母さんを安心させなきゃア――」
「この子がまた、先生、一番意気地なしで困るんですよ」お袋は念入りに肩を動かして、さも
「だッて、来てくれなきゃア仕方がないじゃアないか?」吉弥はふくれッ面をした。「おッ母さんが来たら、
「おッ母さんだッて、いろんな用があるよ。お前の妹だッて、また公園で出なけりゃアならなくなったし、そうそうお前のことばかりにかまけてはいられないよ。半玉の時じゃアあるまいし、高が五十円か百円の身受け相談ぐらい、
「じゃア、勝手にしゃアがれ」
「あれですもの、先生、ほんとに困ります。これから先生に十分仕込んでいただかなければ、まるでお役に立ちませんよ」
「なァに、役者になるには年が行き過ぎているくらいなのですから、いよいよ決心してやるなら、自分でも考えが出るでしょう」
「きイちゃん、しッかりしないといけませんよ」と、お袋はそれでも娘には折れている。
「あたいだッて、たましいはあらア、ね」吉弥は僕の
僕はきまりが悪い気がしたが、お袋にうぶな奴と見抜かれるのも不本意であったから、そ知らぬふりに見せかけ、
「お父さんにもお目にかかっておきたいから、夕飯を向うのうなぎ屋へ御案内致しましょうか? おッ母さんも一緒に来て下さい」
「それは何よりの好物です。――ところで、先生、私はこれでもなかなか苦労が絶えないんでございますよ。娘からお聴きでもございましょうが、芸者の
「代りなど
「それが、ねえ、先生、商売ですもの」
「そりゃア、御もっともで」
「で、御承知でしょうが、青木という人の話もあって、きょう、もう、じきに来て、いよいよの決着が分るんでございますが、それが
「そうですとも、私の方の問題は役者になればいいので、吉弥さんがその青木という人と以後も関係があろうと、なかろうと、それは問うところはないのです」と、僕の言葉は、まだ金の問題には接近していなかっただけに、うわべだけは、とにかく、綺麗なものであった。
「しかし、この子が役者になる時は、先生から入費は一切出して下さるようになるんでしょう、ね」と、お袋はぬかりなく念を押した。
「そりゃア、そうですとも」僕は勢いよく答えたが、実際、その時になっての用意があるわけでもないから、少し引け気味があったので、思わず知らず、「その時ア私がどうともして
僕はなるようになれという気であったのだ。
お袋は、それから、なお世間話を初める、その間々にも、僕をおだてる言葉を絶たないと同時に、自分の自慢話しがあり、金はたまらないが身に絹物をはなさないとか、作者の誰れ彼れ(その芝居ものと僕が同一に見られるのをすこぶる遺憾に思ったが)はちょくちょく遊びに来るとか、商売がらでもあるが国府津を初め、日光、静岡、前橋などへも旅行したことがあるとかしゃべった。そのうち解けたような、また
一二
もう、ゆう飯時だからと思って、僕は家を
「おかみさん」と、はいって行って、「きょうはお客が二人あるから、ね」
「あの、先刻、吉弥さんからそれは承っております」と、おかみさんは
「もう、通知してあるのか? 気の早い奴だ、なア」と、僕は二階へあがりかけた。
おかみさんは、どうしたのか、あわてて僕を呼び止め、いつもと違った下座敷へ案内して、
「しばらくお待ちなさって――二階がすぐ明きますから」
「お客さんか、ね」と、僕は何気なくそこへ落ちついた。
かみさんが出て行った跡で、ふと気がつくと、二階に吉弥の声がしている。芸者が料理屋へ呼ばれているのは別に不思議はないのだが、実は吉弥の自白によると、ここのかみさんがひそかに取り持って、吉弥とかの小銀行の田島とを近ごろ接近させていたのだ。田島はこれがためにこの家に大分借金が出来たし、また他の方面でも負財のために
「お金こそ使わしてはやるが」と、かの女は答えた。「田島さんとほかの関係はない。考えて見ても分るだろうじゃアないか、奥さんになってくれいッて、もしなって国府津にいたら、あッちからもこッちからもあたいを
「お前はそう方々に罪をつくっているのか」と、僕はつッ込んだことがある。が、とにかく、この地にとどまっている女でないことだけは分っていたから、僕の疑いは多少安心な方で、すでにかの住職にも田島に対する僕の間接な忠告を伝えたくらいであった。しかし、その後も、毎日または隔日には必らず会っている様子だ。こうなれば、男の方ではだんだん焼けッ腹になって来る上、吉弥の勘定通り、ますます思いきれなくなるのは事実だ。それに、ある日、吉弥が僕の二階の窓から外をながめていた時、
「ちょいと、ちょいと」と、手招ぎをしたので、僕は首を出して、
「なんだ」と、大きな声を出した。
「静かにおしよ」と、かの女は僕を制して、「あれが田島よ」と、小声。
なるほど、ちょっと小意気だが、にやけたような男の通って行くよこ顔が見えた。男ッぷりがいいとはかねて聴かされていたが、色の白い、
その田島がてッきり来ているに相違ないと思ったから、僕はこッそり二階のはしご段をあがって行った。八畳の座敷が二つある、そのとッつきの方へはいり、立てかけてあった障子のかげに隠れて耳をそば立てた。
「おッ母さんは、ほんとに、どうする気だよ?」
「どうするか分りゃアしない」
「田村先生とは実際関係がないか?」
「また、しつッこい!――あったら、どうするよ?」
「それじゃア、青木が可哀そうじゃアないか?」
「可哀そうでも、可哀そうでなくッても、さ、あなたのお腹はいためませんよ」
「ほんとに役者になるのか?」
「なるとも、さ」
「なったッて、お前、じきに役に立たないッて、棄てられるに定まってるよ。その時アまたお前の厭な芸者にでもなるよりほかアなかろうぜ」
「そりゃア、あたいも考えてまさア、ね」
「そのくらいなら、初めから思いきって、おれの言う通りになってくれよ」
田島の声は、見ず転芸者を馬鹿にしているような句調ながら、まんざら全く浮薄の調子ではなかった。また、出来ることなら吉弥を引きとめて、自分の物にしたいという相談を持ちかけていたらしい。ことに最後の文句などには、深い呼吸が伴っているように聴えた。その「可哀そうじゃアないか」は、青木を出しに田島自身のことを言っていたのだろうが、吉弥は何の思いやりもなく、大変強く当っていた。かの女の浅はかな性質としては、もう、国府津に足を洗うのは――はたしてきょう、あすのことだか、どうだか分りもしないのに――大丈夫と思い込み、跡は野となれ、山となれ的に楽観していて、田島に対しもし未練がありとすれば、ただ行きがけの駄賃として二十円なり、三十円なりの
「あたい、ほんとうはお嫁に行くのよ、役者になれるか、どうだか知れやアしないから」などと、かの女は言わないでもいいことをしゃべった。
「どういう人にだ?」
「区役所のお役人よ――
僕は隣室の状景を想像する心持ちよりも、むしろこの一言にむかッとした。これがはたして事実なら――して、「お嫁に行くの」はさきに僕も聴いたことがあるから、――現在、吉弥の両親は、その定まった話をもたらしているのだと思われた。あの腹の黒い母親のことであるから、それくらいのたくらみはしかねないだろう。
「どうせ、二、三十円の月給取りだろうが、そんな者の
「お前さんのような借金持ちよりゃアいい、わ」
「馬鹿ァ言え!」
「子供の時から知ってる人で、前からあたいを貰いたいッて言ってたの――月給は四十円でも、お
「家はいいかも知れないが、月給のことはうそだろうぜ――しかしだ、そうなりゃア、おれたちアみな恨みッこなしだ」
「じゃア、そうと定めましょうよ」吉弥はうるさそうに三味線をじゃんじゃん引き出した。
「よせ、よせ!」と、三味線をひッたくったらしい。
「じゃア、もう、帰って頂戴よ、何度も言う通り、貰いがかかっているんだから」
「帰すなら、帰すようにするがいい」
「どうしたらいいのよ?」
「こうするんだ」
「いたいじゃアないか?」
「静かにせい!」この一言の勢いは、抜き身をもってはいって来た強盗ででもあるかのようであった。
「………」僕はいたたまらないで二階を下りて来た。
しばらくしてはしご段をとんとんおりたものがあるので、下座敷からちょッと顔を出すと、吉弥が便所にはいるうしろ姿が見えた。
誰れにでもああだろうと思うと、今さらのようにあの
一三
田島が帰ると同時に、入れ代って、吉弥の両親がはいって来た。
「明きましたから、どうぞ二階へ」と、今度はここのかみさんから通知して来たので、僕は室を出て、またはしご段をのぼろうとすると、その両親に出くわした。
「お言葉にあまえて」と、お袋は愛相よく、「先生、そろってまいりましたよ」
「さア、おあがんなさい」と、僕はさきに立って二階の奥へ通った。
おやじというのは、お袋とは違って、人のよさそうな、その代り
「お父さんの風ッたら、ありゃアしない」お袋がこう言うと、
「おりゃアいつも
「どうか、おくずしなさい。御遠慮なく」と、僕はまず膝をくずした。
「お父さんは」と、お袋はかえって無遠慮に言った、「まァ、下駄職に生れて来たんだよ、毎日、あぐらをかいて、台に向ってればいいんだ」
「そう馬鹿にしたもんじゃアないや、ね」と、おやじはあたまを
「
おかしくないのは僕だけであった。三人に酒を出し、御馳走を供し、その上三人から
僕の考え込んだ心は急に律僧のごとく精進癖にとじ込められて、甘い、楽しい、愉快だなどというあかるい方面から、全く
ふと、気がつくと、まだ日が暮れていない。三人は遠慮もなくむしゃむしゃやっている。僕は、また、
「先生は
「やがてやりましょう――まア、一杯、どうです、お父さん」と、僕は銚子を向けた。
「もう、先生、よろしゅうございますよ。うちのは二、三杯頂戴すると、あの通りになるんですもの」
「しかし、まだいいでしょう――?」
「いや、もう、この通り」と、おやじは今まで辛抱していた膝ッこを延ばして、ころりと横になり、
「ああ、もう、こういうところで、こうして、お花でも引いていたら申し分はないが――」
「お父さんはじきあれだから困るんです。お花だけでも、先生、私の心配は絶えないんですよ」
「そう言ったッて、ほかにおれの楽しみはないからしようがない、さ」
「あの人もやッぱし来るの?」吉弥がお袋に意味ありげの目を向けた。
「ああ、来るよ」お袋は軽く答えて、僕の方に向き直り、「先生、お父さんはもう帰していいでしょう?」
「そこは御随意になすってもらいましょう。――御窮屈なら、お父さん、おさきへ御飯を持って来させますから」と、僕は手をたたいて飯を呼んだ。
「お父さんは御飯を頂戴したら、すぐお帰りよ」と、お袋はその世話をしてやった。
僕は女優問題など全く撤回しようかと思ったくらいだし、こんなおやじに話したッて要領を得ないと考えたので、いい加減のところで切りあげておいたのだ。
飯を独りすませてから、独りで帰って行くのらくらおやじの姿がはしご段から消えると、僕の目に入れ代って映じて来るまぼろしは、吉弥のいわゆる「あの人」であった。ひょッとしたら、これがすなわち区役所の役人で、吉弥の帰京を待っている者――たびたび花を引きに来るので、おやじのお気に入りになっているのかも知れないと推察された。
一四
その跡に残ったのはお袋と吉弥と僕との三人であった。
「この方が水入らずでいい、わ」と、お袋は娘の顔を見た。
「青木は来たの?」吉弥はまた母の顔をじッと見つめた。
「ああ、来たよ」
「相談は定まって?」
「うまく行かないの、さ」
「あたい、厭だ、わ!」吉弥は顔いろを変えた。「だから、しッかりやって頂戴と言っておいたじゃアないか?」
「そう
「何が当り前だア、ね? 初めから引かしてやると言うんで、毎月、毎月
「そう、目の色まで変えないで、さ――先生の前じゃアないか、ね。実は、ね、半分だけあす渡すと言うんだよ」
「半分ぐらいしようがないよ、しみッたれな!」
「それがこうなんだよ、お前を引かせる以上は青木さん独りを思っていてもらいたい――」
「そんなおたんちんじゃアないよ」
「まア、お聴きよ」と、お袋は招ぎ猫を見たような手真似をして娘を制しながら、「そう来るのア向うの順じゃアないか? 何でもはいはいッて言ってりゃいいんだア、ね。――『そりゃア御もっとも』と返事をすると、ね、お前のことについて少し疑わしい点があると――」
「先生にゃア関係がないと言ってあるのに」
「いいえ、この方は大丈夫だが、ね、それ――」
「田島だッて、もう、とっくに手を切ッたって言ってあるよ」
「畜生!」僕は腹の中で叫んだ。
「それが、お前、焼き餅だァ、ね」と、お袋は、実際のところを承知しているのか、いないのか分らないが、そらとぼけたような笑い顔。「つとめをしている間は、お座敷へ出るにゃア、こッちからお客の好き嫌いはしていられないが、そこは気を
「そりゃア、そうです」と、僕は進まないながらの返事。
「実は、ね」と、吉弥はしまりなくにこつき出して、「こんなことがあったのよ。このお座敷に青木さんがいて、下に田島が来ていたの。あたい、両方のかけ持ちでしょう、上したの焼き持ち責めで困っちまった、わ。田島がわざと跡から攻めかけて来て、焼け飲みをしたんでしょう、酔ッぱらッちまって聴えよがしに歌ったの、『青木の馬鹿野郎』なんかんて。青木さんは年を取ってるだけにおとなしいんで、さきへ帰ってもらった、わ」
こう話しながらも、吉弥はたッた今あったことを僕が知っているとは思わないので、十分僕に気を許している様子であった。僕は、吉弥とお袋との鼻をあかすために、すッぱり腹をたち割って、僕の思いきりがいいところを見せてやりたいくらいであったが、しみッたれた男が二人も出来ているところへ、また一人加わったと思われるのが厭さに、何のこともない風で通していた。
「そんなことのないようにするのが」と、お袋は僕に向った、「芸者のつとめじゃアございませんか?」
「大きにそうです、ね」僕はこう答えたが、心では、「芸者どころか、女郎や地獄の腕前もない奴だ」と、卑しんでいた。
「あたいばかり責めたッて、しようがないだろうじゃないか?」吉弥はそのまなじりをつるしあげた。それに、時々、かの女の口が
「まア、すんだことはいいとして、さ」と、お袋は娘をなだめるように、「これからしばらく大事だから、よく気をおつけなさい。――先生にも頼んでおきたいんです、の。如才はございますまいが、青木さんが、井筒屋の方を済ましてくれるまで、――今月の末には必らずその残りを渡すと言うんですから――この月一杯は大事な時でございます。お互いに、ね、向うへ感づかれないように――」と、僕と吉弥とを心配そうに見まわした様子には、さすが、親としての威厳があった。
「そりゃアもちろんです」と、僕はまた答えた。僕は棄てッ鉢に飲んだ酒が十分まわって来たので、張りつめていた気も急にゆるみ、厭なにおいも身におぼえなくなり、年取った女がいるのは自分の母のごとく思われた。また、吉弥の坐っているのがふらふら動くように見えるので、あたかも遠いところの雲の上に、
僕は十四、五年以前に、現在の妻を貰ったのだ。僕よりも少し年上だけに、不断はしッかりしたところのある女だが、結婚の席へ出た時の妻を思えば、一、二杯の
そのうちにランプがついたのに気がつかなかった。
「先生はひどく考え込んでいらッしゃるの、ね」と、お袋の言葉に僕は楽しい夢を破られたような気がした。
「大分酔ったんです」と、僕はからだを横に投げた。
「きイちゃん」と、お袋は娘に目くばせをした。
「しッかりなさいよ、先生」吉弥は立って来て、僕に酌をした。かの女は僕を、もう、手のうちにまるめていると思っていたのか、ただ気まま勝手に
「きイちゃん、お弾きよ――先生、少し陽気に行きましょうじゃアございませんか?」
吉弥のじゃんじゃんが初まった。僕は聴きたくないので、
「まア、お待ち」と、それを制し、「まだお前の踊りを見たことがないんだから、おッ母さんに弾いてもらって、一つ僕に見せてもらおう」
「しばらく踊らないんですもの」と、吉弥は、僕を見て、膝に三味をのせたままでからだを横にひねった。
「………」僕は年の行かない娘が踊りのお
「おぼえている物をやったらいいじゃないか?」
「だッて」と、またからだを振ると同時に、左の手を
「お酌のつもりになって、さ」とは、僕が、かの女のますます無邪気な様子に引き入れられて、思わず出した言葉だ。
「そういう注文は困る、わ」吉弥は訴えるようにお袋をながめた。
「じゃア」と、お袋は娘と僕とを半々に見て、「私に弾けなくッても困るから、やさしい物を一つやってごらん。――『わが物』がいい、
「まるで子供のようだ、わ」吉弥ははにかんで立ち上り、身構えをした。
お袋の糸はなかなかしッかりしている。
「わがーアものーオと」の歌につれて、吉弥は踊り出したが、踊りながらも、
「何だかきまりが悪い、わ」と言った。
そのはにかんでいる様子は、今日まで多くの男をだまして来た女とは露ほども見えないで、
「待つウ身にイ、つらーアき、置きイごたーアつ」も通り抜けて、終りになり、踊り手は畳に手を突いて、しとやかにお辞儀をした。こうして踊って来た時代もあったのかと思うと、僕はその頸ッ玉に抱きついてやりたいほどであった。
「もう、御免よ」吉弥は初めて
「おッ母さん一杯お駄賃に頂戴よ」
「さア、僕が
「それでも」と、お袋は三味を横へおろして、
「よく覚えているだけ感心だ、わ。――先生、この子がおッ
「そうねだりゃアしない、わ」と、吉弥はほほえんだ。
「………」また金の話かと、僕はもうそんなことは聴きたくないから、すぐみんなで飯を喰った。
一五
お袋は一足さきへ帰ったので、吉弥と僕とのさし向いだ。こうなると、こらえていた胸が急にみなぎって来た。
「先生にこうおごらして済まない、わ、ねえ」と、可愛い目つきで吉弥が僕をながめたのに答えて、
「馬鹿!」と一声、僕は強く重い
「そのこわい目!」しばらく吉弥は見つめていたが、「どうしたのよ」と、かおをしがめて僕にすり寄って来た。
「ええッ、
吉弥はちょっとぎゃふんとしたようであったが、いずまいを直して、
「聴いてたの?」と、きまりが悪い様子。
「聴いてたどころか、隣りの座敷で見ていたも同前だい!」
「あたい、何も田島さんを好いてやしない、わ」
「もう、好く好かないの問題じゃアない、病気がうつる問題だよ」
「そんな物アとっくに直ってる、わ」
「分るもんか? 貴様の口のはたも、どこの馬の骨か分りもしない奴の毒を受けた結果だぞ」
言っておかなかったが、かの女の口のはたの
「
怒りはしたものの、僕は涙がこぼれた。それとなく、ハンケチを出して目を
その翌日、午前中に、吉弥の両親はいとま
「先生も御如才はないでしょうが――この月中が肝心ですから、ね」と、お袋の別れの言葉はまたこうであった。
「無論ですとも」と答えたが、僕はあとで無論もくそもあったものかという反抗心が起った。そして、それでもなお実は、吉弥がその両親を見送りに行った帰りに、立ち寄るのが本当だろうと、外出もしないで待っていたか、吉弥は来なかった。昼から来るかとの心待ちも無駄であった。その夜もとうとう見えなかった。
そのまたあくる日も、日が暮れるまで待っていたが、来なかった。もうお座敷に行ったろうからだめだと、――そして、井筒屋ははやらないが、井筒屋の独り芸者は外へ出てはやりッ子なんだから――あきらめて、書見でもしようと、半分以上は読み終ってあるメレジコウスキの小説「先駆者」を手に取った。国府津へ落ちついた当座は、面白半分一気に読みつづけて、そこまでは進んだが、僕の気が浮かれ出してからは、ほとんど全くこれを忘れていたありさまであったのだ。この書の主人公レオナドダヴィンチの独身生活が今さらのごとく
仰向けに枕して読みかけたが、ふと気がつくと、月が座敷中にその光を広げている。おもてに面した方の窓は障子をはずしてあったので、これは危険だという考えが浮んだ。こないだから持っていた考えだが、――吉弥の関係者は幾人あるか分らないのだから、僕は旅の者だけに、最も多くの恨みを買いやすいのである。いついかなる者から闇打ちを喰らわされるやも知れない。人通りのない時、よしんば出来心にしろ、石でもほうり込まれ、
心が散乱していて一点に集まらないので、眼は開いたページの上に注がれて、何を読んでいるのか締りがなかった。それでもじッと読みつづけていると、新らしい事件は出て来ないで、レオナドと吉弥とが僕の心をかわるがわる通過する。一方は
一方は、燃ゆるがごとき新情想を多能多才の
こう思うと、また、古寺の墓場のように荒廃した胸の中のにおいがして来て、そのくさい空気に、吉弥の姿が時を得顔に浮んで来る。そのなよなよした姿のほほえみが血球となって、僕の血管を循環するのか、僕は筋肉がゆるんで、がッかり疲労し、手も不断よりは重く、足も常よりは
僕の過敏な心と身体とは荒んでいるのだ。延びているのだ。固まっていた物が融けて行くように、立ち
「先駆者」を手から落したら、レオナドはいなくなったが、吉弥ばかりはまだ僕を去らない。
かの女は無努力、無神経の、ただ形ばかりのデカダンだ、僕らの考えとは違って、実力がない、中味がない、本体がない。こう思うと、これもまた
暑くッてたまらないので、むやみにうちわを使っていると、どこからか、
「
一六
僕が強く当ったので、向うは焼けになり、
「じゃア勝手にしろ」という気になったのではあるまいか? それなら、僕から行かなければ
井筒屋の店さきには、吉弥が見えなかった。
寝ころんでいたせいもあろう、あたまは重く、目は充血して
でこぼこした道を踏みしめ、踏みしめ、僕は歩いていたが、街道を通る人かげがすべて僕の敵であるかのように思われた。月光に投げ出した僕の影法師も、僕には何だかおそろしかった。
なるべく通行者に近よらないようにして、僕はまず例のうなぎ屋の前を通った。三味の音や歌声は聴えるが、吉弥のではない。いないのか知らんと、ほかに当てのある近所の料理屋の前を二、三軒通って見た。そこいらにもいそうもないような気がした。
青木の本陣とも言うべきは、二、三町さきの
「無学な上に年を取っているから、若いものに馬鹿にされたり、また、自分が一生懸命になっている女にまでも
ある時などかれは、思いものの心を
「姉さんさえ承知ならッて――大丈夫よ」
「………」青木は、しかしそう聴いてかえってこれを残念がり、実は本意でない、お前はそんなことをされても何ともないほどの薄情女かと、立っている吉弥の肩をしッかりいだき締めて、力一杯の誠意を見せようとしたこともあるそうだ。思いやると、この
こういうことを考えながら、僕もまたその無神経者――不実者――を追って、里見亭の前へ来た。いつも不景気な家だが、相変らずひッそりしている。いそうにもない。しかしまたこッそり乳くり合っているのかも知れないと思えば、急に僕の血は逆上して、あたまが燃え出すように熱して来た。
僕は、数丈のうわばみがぺろぺろ赤い舌を出し、この家のうちを
裏手は
その影を取り去ってしまおうとするかのように、僕はこわごわ一まわりして、また街道へ出た。
もとの道を自分の家の方へ歩んで行くと、暗いところがあったり、明るいところがあったり、ランプのあかりがさしたり、電燈の光が照らしたり――その明暗
たまたま、
僕は、――たとえば、
時計を見ると、もう、十時半だ。しかし、まだ暑いので、
そこへ何物か表から飛んで来て、裏窓の壁に当ってはね返り、ごろごろとはしご段を転げ落ちた。迷い鳥にしてはあまりに無謀過ぎ、あまりに重みがあり過ぎたようだ。
ぎょッとしたが、僕はすぐおもて窓をあけ、
「………」誰れだ? と、いつものような大きな声を出そうとしたら、下の方から、
「静かに静かに」と、声ではなく、ただ制する手ぶりをした女が見える。吉弥だ。
僕はすぐ二階をおりて外へ出た。
「………」まだ物を言わなかった。
「びッくりして?」まず、平生通りの調子でこだわりのない声を出したかの女の酔った様子が、なよなよした優しい
「また青木だろう?」
「いいえ、これから行くの」
「じゃア、早く行きゃアがれ!」僕はわざとひどくかの女を突き放って今夜もだめだとあきらめた。
「もう一つあげましょうか?」かの女は今一つ持っていた
「………」僕は黙ってそれを奪い取ってから、つかつかと家にはいった。
一七
その後、吉弥に会うたびごとに、おこって見たり、冷かして見たり、笑って見たり、可愛がって見たり――こッちでも要領を得なければ、向うでもその場、その場の商売ぶり。僕はお袋が立つ時にくれぐれ注意したことなどは全く無頓着になっていた。
東京からは、もう、金は送らないで妻が焼け半分の厭みッたらしい文句ばかりを言って来る。僕はそのふくれている様子を想像出来ないではないが、いりもしない反動心が起って来ると同時に、今度の事件には僕に最も新らしい生命を与える恋――そして、妻には決して望めないの――が含んでいるようにも思われた。それで、妾にしても芸者をつれて帰るかも知れないが、お前たち(親にも知らしてあると思ったから、暗にそれをも含めて)には決して心配はかけないという返事を出した。
僕があがるのはいつも井筒屋だが、吉弥と僕との関係を最も早く感づいたのは、そこのお君である。皮肉にも、隣りの室に忍び込んで、すべてを探偵したらしく、あったままの事実を並べて、吉弥を面と向っていじめたそうだ。
吉弥はこれが
「あの小まッちゃくれも、もう年ごろだから、焼いてるんだ、わ」と、吉弥は僕の胸をぶった。
「まさか、そんなわけじゃアあるまい」と、僕は答えた。
しかし、それから、お君は英語を習いに来なくなったのは事実だ。
僕も、これが動機となって、いくらかきまりが悪くなったのに加えて、自分の愛する者が年の若い娘にいじめられるところなどへ行きたくなくなった。また、お貞が、僕の顔さえ見れば、吉弥の
勉強をする時間が出来たわけだが、目的の脚本は少しも筆が取れないで、かえって読み終ったメレジコウスキの小説を縮小して、新情想を包んだ一大古典家、レオナドダヴィンチの高潔にしてしかも恨み多き生涯を紹介的に書き初めた。
ある晩のこと、虚心になって筆を走らせていると、吉弥がはしご段をとんとんあがって来た。
「………」何も言わずすぐ僕にすがりついてわッと泣き出した。あまり突然のことだから、
「どうしたのだ?」と、思わず大きな声をして、僕はかの女の片手を取った。
「………」かの女は僕に片手をまかせたままでしばらく僕の膝の上につッ伏していたが、やがて、あたまをあげて、そのくわえていた袖を離し、「青木と喧嘩したの」
「なアんだ」と、僕は手を離した。「乳くり合ったあげくの喧嘩だろう。それをおれのところへ持って来たッて、どうするんだ?」
「分ってしまった、わ」
「何が、さ?」僕はとぼけて見せたが、青木に嗅ぎつけられたのだとは直感した。
「何がッて、ゆうべ、うなぎ屋の裏口からこッそりはいって来て、立ち聴きしたと、さ」――では、先夜の僕がゆうべの青木になったのだ。また、うわばみの赤い舌がぺろぺろ僕の目の前に見えるようだ。僕はこれを胸に押さえて平気を装い、
「それがつらいのか?」
「どうしても、疑わしいッて聴かないんだもの、癪にさわったから、みんな言っちまった――『あなたのお世話にゃならない』て」
「それでいいじゃアないか?」
「じゃア、向うがこれからのお世話は断わると言うんだが、いいの?」
「いいとも」
「跡の始末はあなたがつけてくれて?」
「知れたこッた」と、僕は覚悟した。
こういうことにならないうち、早く切りあげようかとも思ったのだが、来べき金が来ないので、ひとつは動きがつかなくなったのだ。しかし、もう、こうなった以上は、僕も手を引くのをいさぎよしとしない。僕は意外に心が据った。
「もう少し書いたら行くから、さきへ帰っていな」と、僕は一足さきへ吉弥を帰した。
一八
やがて井筒屋へ行くと、吉弥とお貞と主人とか
「先生、とんだことになりまして、なア」と、あくまで事情を知らないふりで、「あなたさまに御心配かけては済みませんけれど――」
「なアに、こうなったら、私が引き受けてやりまさア」
「済まないこッてございますけれど――吉弥が悪いのだ、向うをおこらさないで、そッとしておけばいいのに」
「向うからほじくり出すのだから、しようがない、わ」
「もう、出来たことは何と言っても取り返しのつくはずがない。すッかり私におまかせ下さい」と、僕は男らしく断言した。
「しかし」と、主人が堅苦しい調子で、「世間へ、あの人の物と世間へ知れてしまっては、芸者が売れませんから、なア――また出来ないようなことがあっては、こちらが困るばかりで――」
「そりゃア、もう、大丈夫ですよ」と、僕は軽く答えたが、あまりに人を見くびった言い分を不快に感じた。
しかし、割合いにすれていない主人のことであるし、またその
「どうともして」とは、実際、何とか工面をしなければならないのだ、「必らず御心配はかけませんが、青木さんの方が成り立っていても、今月一杯はかかるんでしたから――そこいらの日限は、どうか、よろしく」と、念を押した。
「それはもちろんのことです」主人はちょっとにこついて見せたが、また持ち前のしがみッ面に返って、「青木があの時
「あいつがしみッたれだから、さ」お貞は煙管をはたいた。
「一杯飲もうか?」もう分ったろうと思ったから、僕は、吉弥を促がし、二階へあがった。
「泣いたんでびッくりしたでしょう?」吉弥は僕と相向って坐った時にこう言った。
「なアに」僕は吉弥の誇張的な態度をわざとらしく思っていたので、澄まして答えた。「お前の目玉に水ッ気が少しもなかったよ」
「もう、書けたの?」吉弥は待ちどおしそうに尋ねた。
「ああ」と、僕の返事には力がなかった。
僕は寝ころんでがぶかぶ三、四杯を独りで傾けた。
「あたいも書こう」と、吉弥が今度は筆を取り、僕の投げ出した足を尻に敷いて、
僕は手をたたいて人を呼び、まだ起きているだろうからと、印紙を買って
「………」吉弥もまた短い手紙を書きあげたのを、自慢そうだ――
「どれ見せろ」と、僕は取って見た。
下手くそな
「まさか、絶句はしない、わ」と、答えたのを思い出した。
「しばらく御ぶさた致し候。まずはおかわりもなく、御つとめなされ候よし、かげながら祝しおり候。さてとや、このほどよりの御はなし、母よりうけたまわり、うれしく存じ候」
てッきり、例の区役所先生に送るのだと分った。「うれしく」とは、一緒になることが定まっているのだろう。もっとも、僕はその人が承知して女優になるのを許せば、それでかまわないとも考えていたのだ。そのつづき、――
「ちかきうちに私も帰り申し候につき、くわしきことはお目もじの上申しあげそうろう。かしく。きくより」
菊とは吉弥の本名だ。さすが、当て名は書いてない。「馬鹿野郎! 人の前でのろけを書きゃアがった、な」
「のろけじゃアないことよ、
「『母より承わり、うれしく』だ――当て名を書け、当て名を! 隠したッて知れてらア」
「じゃア、書く、わ」笑いながら、「うわ封を書いて頂戴よ」と言って、かの女の筆を入れたのは「野沢さま」というのである。
僕はその封筒のおもてに浅草区千束町○丁目○番地渡瀬(これは吉弥の家)方野沢様と
「………」さきの偽筆は自分のために利益と見えたことだが、今のは自分の不利益になる事件が含んでいる代筆だ。僕は、何事もなるようになれというつもりで、苦しい胸を押えていた。が、表面では、そう沈んだようには見せたくなかったので、からかい半分に、「区役所が一番恋しいだろう?」
「いいえ」吉弥はにッこりしたが、口を歪めて、「あたい、やッぱし青木さんが一番可愛い、わ――実があって――長く世話をかけたんだもの」
「じゃア、僕はどうなるんだ?」
「これからは、あなたの」と、吉弥は僕の寝ころんでいる胸の上に自分の肩までもからだをもたせかけて、頸を一音ずつに動かしながら、「め――か――け」
十二時まで、僕らはぐずついていたら、お貞が出て来て、もう、時間だから、引きあげてくれろという頼みであった。僕は、立ちあがると、あたまがぐらぐらッとして、足がひょろついた。
あぶないと思ったからでもあろう、吉弥が僕を僕の
一九
返事を促しておいた劇場の友人から、一座のおもな一人には話しておいた、その他のことは僕の帰京後にしようと、ようやく言ってよこした。これを吉弥に報告すると、かの女はきまりが悪いと言う。なぜかとよくよく聴いて見ると、もしその一座にはいれるとしたら、数年前に東京で買われたなじみが、その時とは違って、そこの立派な立て
それに、最も肝心な先輩の返事が全く面白くなかった。女優に仕立てるには年が行き過ぎているし、一度芸者をしたものには、到底、舞台上の練習の困難に堪える気力がなかろう。むしろ断然関係を断つ方が僕のためだという忠告だ。僕の心の奥が絶えず語っていたところと寸分も違わない。
しかし、僕も男だ、体面上、一度約束したことを破る気はない。もう、人を頼まず、自分が自分でその場に全責任をしょうよりほかはない。
こうなると、自分に最も手近な家から探ぐって行かなければならない。で、僕は妻に手紙を書き、家の物を質に入れて
妻はこうなるのを予想していたらしい。実は、僕、吉弥のお袋が来た時、早手まわしであったが、僕の東京住宅の近処にいる友人に当てて、金子の調達を頼んだことがある。無効であった上に、友人は大抵のことを妻に注意した。妻は、また、これを全く知らないでいたのは
その上の男の子が、どこからか、「馬鹿馬鹿しいわい」という言葉をおぼえて来て、そのころ、しきりにそれを繰り返していたそうだが、妻は、それが今回のことの前兆であったと、
父からは厳格ないましめを書いてよこした。すぐさま帰って来いと言うので、僕の最後の手紙はそれと行き違いになったと見え、今度は妻が、父と相談の上、本人で出て来た。
僕が、あたまが重いので、散歩でもしようと玄関を出ると、向うから、車の上に
「馬鹿ッ!――馬鹿野郎!」車を下りる妻の権幕は非常なものであった。僕が妻からこんな下劣な侮辱の言を聴くのは、これが初めてであった。
「………」よッぽどのぼせているのだろうから、荒立ててはよくないと思って、僕はおだやかに二階へつれてあがった。
茶を出しに来たおかみさんと妻は普通の挨拶はしたが、おかみさんは初めから何だか済まないというような顔つきをしていた。それが下りて行くと、妻はそとへも聴えるような
「あなたは
「………」僕は苦笑しているほかなかった。
「こんな児があっても」と、かの女は抱き児が泣き出したのをわざとほうり出すように僕の前に置き、
「可愛くなけりゃア、捨てるなり、どうなりおしなさい!」
「………」これまで自分の子を抱いたことのない僕だが、あまりおぎゃアおぎゃア泣いてるので手に取りあげては見たが、間が悪くッて、あやしたりすかしたりする気になれなかった。
「子どもは子どもで、乳でも飲ましてやれ」と、無理に手渡しした。
「ほんとに、ほんとに、どんな悪魔がついたのだろう、人にこう心配ばかしさして」と、妻は僕の顔を
僕も、――今まで夢中になっていた女を実際通り悪く言うのは、不見識であるかのように思ったが、――それとなく分るような言葉をもって、首ッたけ
とにかく、妻は家、道具などを質入れする代りに、自分が人質に来たのだから、出来るつもりなら、帰って、僕自身で金を拵えて来いというのである。で、僕は明日ひとまず帰京することに
それにしても、今、吉弥を紹介しておく方が、僕のいなくなった跡で、妻の便利でもあろうと思ったから、――また一つには、吉弥の跡の行動を監視させておくのに都合がよかろうと思ったから――吉弥の進まないのを無理に
僕は、妻を
「東京へ帰ると、すぐまた浮気をするんだろう?」
「馬鹿ア言え。お前のために、随分腹を痛めていらア」
「もッと痛めてやる、わ」吉弥は僕の肩さきを力一杯につねった。
妻のところへ帰ると、僕のつく息が夕方よりも一層酒くさいため、また新らしい小言を聴かされたが、僕があやまりを言って、無事に済んだ。――しかし、妻のからだは、その夜、半ば死人のように固く冷たいような気がした。
二〇
その翌日、吉弥が早くからやって来て、そばを去らない。
「よっぽど
「奥さん、奥さん」と言われていれば、さほど憎くもない様子だ。いろいろうち解けた話もしていれば、また二人一緒になって、僕の
「長くここへ来ているの?」
「いいえ、去年の九月に」
「はやるの?」
「ええ、どこででもきイちゃんきイちゃんて言ってくれてよ」
「そう」と、あざ笑って、「はやりッ子だ、ねえ。――いくつ?」
「二十七」僕はこれを聴いて、吉弥が割合いに正直に出ていると思った。
「学校ははいったの?」
「いいえ」
「新聞は読めて?」
「仮名をひろって読みます、わ」
「それで役者になれるの?」
「そりゃアどうだか分りませんが、
二人はこんな問答もあった。
僕は、帰京したら、ひょッとすると再び来ないで済ませるかも知れないと思ったから、持って来た書籍のうち、最も入用があるのだけを取り出して、風呂敷包みの手荷物を拵えた。
遅くなるから、遅くなるからと、たびたび催促はされたが、何だか気が進まないので、まアいい、まアいいと時間を延ばし、――昼飯を過ぎ、――また晩飯を喫してから、――出発した。その日あたりからして、吉弥へ口のかかって来ることがなくなって来たのだ。狭いところだから、すぐ評判になったのであろう。妻を海岸へ案内しようと思ったが、それも吉弥が引き受けたのでまかしてしまった。
僕の東京の住家は芝区
「義雄かい?」僕の父であった。
「ただいま帰りました」と、僕はあわてて、少しきまりが悪く答えた。きょうは帰っただろうと、それとなく、わざわざ見まわりに来たところなのだろうから、父も随分心配しているのかと、僕のからだが縮みあがった。が、「まア、おはいんなさい」と、戸が明くのを待って、僕は父を座敷へ通した。
妻が残して行った二人の子供のいびきが、隣りの室から聴えている。
僕が茶を命じたら、
「今、火を起しますから」と、妻の母は答えた。
「もう、茶はいりませんよ、お婆アさん」と言っておいて、父は僕に対してすこぶる厳格な態度になり、
「今度のことはどうしたと言うんだ?」
「………」僕は少し心を落ち着けてから、父の顔を見い見い答えた。「このことは何にも聴いて下さんな、自分が苦しんで、自分が処分をつけるつもりですから」
「そうか」と、父は僕の何にも言わない決心を見て取ったのだろう、「じゃア、もう、きょうは遅いから帰る。あす、早速うちまで来てもらいたい」
こう言って、父は帰って行った。
妻が痩せたのを連想するせいか、父も痩せていたようだし、今、相対する母もまた頬が落ちている。僕は家族にパンを与えないで、自分ばかりが遊んでいたように思えた。
僕の書斎兼寝室にはいると、
神経の
さまざまの考えがなお取りとめもなく浮んで来て、僕というものがどこかへ行ってしまったようだ。その間にあって、――
しかし、その時はまだその時で、一層奮励の筆をもって、補いをつけることが出来ると、覚悟した。
すると、また、心の奥から、国府津に送る金はどうすると尋問し出す。これが最もさし迫った任務である。しかし、それもまた、僕には、残忍なほど明確な決心があった。
それがために、しかしわが家ながら、他家のごとく窮屈に思われ、夏の夜をうちわ使う音さえ遠慮がちに、近ごろにない寂しい
二一
子供の起きるのは早い。翌朝、僕が顔を洗うころには、もう、飯を済ましていた。
「お帰りなさい」とも、何とも言わないで、
僕が食膳に向うと、子供はそばへ来て、つッ立ったまま、姉の方が、
「学校は、もう、来月から始まるのよ」と言う。吉弥を今月中にという事件が忘れられない。弟の方はまた、
「お父さん、いちじくを取っておくれ」と言う。
いちじくと言われたので、僕はまた国府津の二階住いを冷かされたように胸に
「まだもう少し食べられないよ」と言って、僕は携えて来た
妻の母は心配そうな顔をしているが、僕のことは何にも尋ねないで、孫どもが僕の留守中にいたずらであったことを語り、庭のいちじくが熟しかけたので、取りたがって、見ていないうちに木のぼりを初め、途中から落ッこちたことなどを言ッつけた。子供は二人とも嫌な顔をした。
「お母さん、
「知りませんよ」と、母は
「知らないはずはない。おれの家をあずかっていながらどんな鍵でもぞんざいにしておくはずはない」
「実は大事にしまってあることはしまってありますが、お千代が渡してくれるなと言っていましたから――」
「千代は私の家内です、そんな言い分は立ちません」
「それでは出しますから」と、母は鍵を持って来て、そッけなく僕の前に置き、台どころの方へ行ってしまった。
僕は箪笥の前に行き、一々その引き出しを明け、おもな衣類を出して見た。大抵は妻の物である。
「行って来ますよ」という外出の時の声と姿とは、妻の年取るに従って、だんだん引き締って威厳を生じて来たのを思い出させた。
まだ
それに、まだ一つ、ずッと派手な襦袢がある。これは、僕らの一緒になる初めに買ってやった物だ。僕より年上の妻は、その時からじみな作りを好んでいたので、僕がわざわざ若作りにさせるため、買ってやったのだ。今では不用物だから、子供の大きくなるまでと言ってしまい込んであるが、その色は今も変らないで、燃えるような
「今の妻と吉弥とはどちらがいい?」と言う声が聴えるようだ。
「無論、吉弥だ」と、言いきりたいのだが、心の奥に誰れか耳をそば立てているものがあるような気がして、そう思うことさえ
とにかく、多少の
友人にでも出会ったら大変と、親しみのある東京の往来を、
僕は再び国府津へ行かないで――もし行ったら、ひょッとすると、旅の者が土地を荒らしたなど言いふらされて、袋だたきに
二二
国府津では、僕の推察通り、僕に対する反動が起った。
さすがは学校の先生だけあって、隣りに芸者がいても寄りつきもしない、なかなか堅い人であるというのが、僕に対する最初の評判であったそうだ。が、だんだん僕の私行があらわれて来るに従って、吉弥の両親と会見した、僕の妻が身受けの手伝いにやって来たなど、あることないことを、狭い土地だから、じきに言いふらした。
それに、吉弥が馬鹿だから、のろけ半分に出たことでもあろう、女優になって、僕に
僕が出発した翌日の晩、青木が井筒屋の二階へあがって、吉弥に、過日与えた小判の取り返し談判をした。
「男が
「わけなくやったのではない!」
「さんざん人をおもちゃにしゃアがって――貰った物ア返しゃアしない!」
「何だ、この薄情女め!」
無理に奪い取ろうとする、取られまいとする。追ッかけられて、二階の段を下り、化粧部屋の口で、とッつかまると、男は女の帯の間へ手をつッ込む。そうさせまいと、
僕の妻はちょうど井筒屋へ行っていたので、この芝居を、炉のそばで、家族と一緒に見たと言う。
「もう、二度とこんな家へ来やせんぞ」と、青木は投げられた物を手に取り、吉弥をにらんで帰って行った。
「泥棒じじい!」
吉弥は片足を一歩踏み出すと同時に、あごをもよほど憎らしそうに突き出して、くやしがった。その様子が大変おかしかったので、一同は言い合わせたように吹き出した。かの女もそれに
大きな台どころに大きな炉――くべた
「けちな野郎だ、なア?」お貞はこう言って、吉弥を慰めた。
「横つらへ投げつけてやったらよかったのに」と、正ちゃんも吉弥の肩を持った。
「きイちゃんの様子ッたら、なかった」と、お君が言ったので、一同はまた吹き出した。
「どうせ、あたいが馬鹿なんですから、ね」吉弥は横を向いた。
「一体どうしたわけなの?」僕の妻は仲裁的に口を出した。
「くれたもんを取り返しに来たの」
「あまりだますから、おこったんだろう?」
「だまされるもんが悪いのよ」
「そう?」妻は自分の夫もだまされているのだと思ってきまりが悪くなったが、すぐ気を変えて、冷かし半分に、「可哀そうに、貰ったと思ったら、おお
「ほんとに」と、吉弥も笑って、「指輪に
こういう話をしているうち、吉弥のお袋が一人の女をつれてやって来た。吉弥は僕の方もまた出来なくなるかと疑って、浅草へ電報を打ったので、今度はお袋が独りでやって来たのだ。つれた女は芸者の候補者だ。
お君が一座の人々をぎろぎろ見くらべているところで、お袋はお貞と吉弥とから事情を聴き、また僕の妻にも紹介された。妻もまたお袋にその思ったことや、将来の吉弥に対する注文やを述べたり、聴き
その間に、吉弥はどこかへ出て行った。あちらこちらで借り倒してある借金を払いに行ったのである。
主人がその代りに会合に加わって、
「もう、何とか返事がありそうなものですが――」
「そうです、ねえ」と、僕の妻は最終の責任を感じて、異境の空に独りぼっちの寂しさをおぼえた。僕は、出発の当時、井筒屋の主人に、すぐ、僕が出直して来なければ、電報で送金すると言っておいたのだ。
先刻から、正ちゃんもいなくなっていたが、それがうちへ駆けつけて来て、
「きイちゃんが、今、方々の払いをしておる」と、注進した。
「じゃア、電報がわせで来たんでしょう?」と、僕の妻は思わず叫んだ。
「そりゃア、いかん、呼んで来ねば」と、主人は正ちゃんをつれて大いそぎで出て行き、やがて吉弥を呼び返して来た。
「かわせが来たんですか?」と、妻はおこった様子。
「ええ」と、吉弥はしょげていた。
「じゃア、そう言ってくれないじゃア困ります、わ」
「出してお見」と、主人が仲にはいって調べて見ると、もう、二、三十円は払いに使ってあった。僕が直接に送ったのが失敗なのだ。
それから、妻と主人とお袋とで詳しい勘定をして、僕の宿料やら、井筒屋へ渡す分やらを取って行くと、吉弥のだらしなく使ったそとの借金ぐらいはなお払えるほど残った。しかし、それも僕のうなぎ屋なぞへ払う分にまわった。
「お客さんの分まで払うのア馬鹿馬鹿しい、わ」と、吉弥は自分の金でも取り扱うようなつもりでいた。
僕の妻は、そんなわけの物ではないということを――どんな理由でだか、そこまでは僕に報告しなかったが――説き聴かせ、お袋に談判して、吉弥のそとの借金だけはお袋が引き受けることにして、すぐ浅草へ取り寄せの電報を打たせた。
二三
その晩、僕の妻のところへ、井筒屋から御馳走を送って来たし、またお袋と吉称と新芸者とが遊びに来た。
「あなたはどこにお勤めでしたの?」とは、お袋が異様な問いであった。
「わたしはそんな
「ほんとです、ねえ、私も若い時は随分そんな苦労をさせられましたよ。今では、また、子供のために苦労――世間では、娘を芸者にして、親は左うちわで行けると申しますが、こんな働きのない子ばかりでは、どうして、どうして、かえって苦労は絶えません」
こういう話しがあってから、吉弥とお袋とは帰った。まだ青木から
妻は跡に残った新芸者――色は白いが、お多福――からその可哀そうな身の上ばなしを聴き、吉弥に対する憎みの反動として、その哀れな境遇に同情を寄せた。東京からわざわざやって来て、主人には気に入りそうな様子が見えないのであった。
この女から妻は吉弥の家の状態をも聴き、僕の推知していた通り吉弥の帰るのを待っている男(それが区役所先生の野沢だ)があって、今度もそれが拵えてやった新調の衣物を一揃えお袋が持って来たということまで分った。引かされるのを
「田村さんの奥さんに会いたい」という人が、突然やって来た。それが例の住職だ。
こうこう、こういう事情になっているところを、僕が逃げたというので、その代りに住職に
「いつ、どんな危険が奥さんにも及ぶか分りませんから、今晩急いで帰京する方がよろしかろう」との忠告だ。
僕の妻は子をいだいて青くなった。
吉弥のお袋の出した電報の返事が来たら、三人一緒に帰京する約束であったが、そうも出来ないので、妻は吉称の求めるままに少しばかり小遣いを貸し与え、荷物の
「憎いのは吉弥、馬鹿者はあなた、可哀そうなのは代りに行った芸者だ」と、妻は泣いて僕に語った。
その翌日から、妻は年中
僕の家は、病人と痩せッこけの住いに変じ、赤ん坊が時々
僕は独り机に向い、最も不愉快な思いがして、そぞろ
全く放棄されたこの家はただ僕一人の奮励いかんにあるのだが、第一に胸に浮ぶ問題は、
「この月末をどうしよう?」
しかもそれがこの二、三日に迫っているのだ。
二四
あわてたところで、だめなものはだめだから、まず書きかけた原稿を終ってしまおうと、メレジコウスキの小説縮写をつづけた。
レオナドの生涯は実に高潔にして、悲惨である。語らぬ恋の力が老死に至るまで一貫しているのは言わずもあれ、かれを師とするもののうちには、師の発展のはかばかしくないのをまどろッこしく思って、その対抗者の方へ裏切りしたものもあれば、また、師の人物が大き過ぎて、悪魔か聖者か分らないため、迷いに迷って
僕はその大エネルギと絶対忍耐性とを身にしみ込むほど
こんな理屈ッぽい考えを浮べながら筆を走らせていると、どこか高いところから、
「自分が
「耽溺が生命だ」と、
いずれにしても、僕の耽溺した状態から遊離した心が理屈を
筆を改めた二日目に原稿を書き終って、これを某雑誌社へ郵送した。書き出しの時の考えに従い、理屈は何も言わないで、ただ紹介だけにとどめたのだ。これが今月末の入費の一部になるのであった。
その夕がた、もう、吉弥も帰っているだろうと思い、現に必要な物を入れてある革鞄を浅草へ取りに行った。一つは、かの女の様子を探るつもりであった。
「おや、先生」と、吉弥が入り口の板の間まで出て来た。大きな
「………」僕は敷居をまたいでから、無言で立っていると、
「まア、おあがんなさいな」と言う。
見れば、もとは店さきでもあったらしい薄ぐらい八畳の間の右の片隅に僕の革鞄が置いてある。これに反対した方の壁ぎわは、少し低い板の間になっておやじの仕事場らしい。下駄の出来かけ、
僕はその室にあがって、誰れにもとつかず一礼すると、女の方は丁寧に挨拶したが、男の方は気がついたのか、つかないのか、飯にかこつけて僕を見ないようにしている。
吉弥はその男と火鉢をさし
「まア、御飯をお済ましなさい」こう、僕が所在なさに勧めると、
「もう、すんだの」と、吉弥はにッこりした。
「おッ母さんは?」
「赤坂へ行って、いないの」
「いつ帰りました?」
「きのう」
「僕の革鞄を持って来てくれたか、ね?」これはわざと聴いたのだ。
「あすこにある、わ」と、指さした。
「あれが入り用だから、取りに来ました」
「そう?」吉弥は無関係なように長い煙管をはたいた。
こんな話をしているうちに、跡の二人は食事を済ませ、家根屋の持って来るような
「菊ちゃん、もう済んだの?」と言って、お膳をかたづけた。
いかにも、もう吉弥ではなく、本名は菊子であった。かの女は男の立った跡へ直り、煙管でおのれの跡をさし示し、
「こッちへおいで」という御命令だ。
僕はおとなしくその通りに住まった。
二階では、例の花を引いている様子だ。
「あれだろう?」僕がこう聴くと、
「そうよ」と、菊子が嬉しがった。
馬鹿な奴だとは思ったが、僕はもう未練がないと言いたいくらいだから、物好き半分に根問いをして見た。二階にはおやじもいるし、他にまだ二人ばかりいる。跡からあがった(それも昼ごろから来ていたという)女は、浅草公園の待合○○の女将であった。
菊子の口のはたの
かの女は黒い眼鏡を
僕は女優問題については何も言わなかった。
十二、三歳の女の子がそとから帰って来て、
「姉さん、駄賃おくれ」と、火鉢のそばに足を投げ出した。顔の厭に平べッたい、前歯の二、三本欠けた、ちょっと見ても、愛相が尽きる子だ。菊子が青森の人に生んで、妹にしてあると言ったのは、すなわち、これらしい。話しばかりに聴いて想像していたのと違って、僕が最初からこの子を見ていたなら、ひょッとすると、この子を子役または花役者に仕上げてやりたいなどいう望みは起らなかったばかりか、吉弥に対してもまた全く女優問題は出なかったかも知れない。今一人、実の妹を見たかったのであるが、公園芸者になっているから、そこにはいなかった。
「先生がいらッしゃるじゃないか? ちゃんとお坐り」こう菊子が言ったので、子は渋々坐り直した。
「けいちゃん、お前、役者になるかい?」
「あたい、役者なんか厭だア」と、けいちゃんというのがからだを揺すった。
僕は菊子がその子をも女優にならせるという約束をこの通り返り見ないでいても、それを責める勇気はなかった。
二五
「さア、やるから遊んでおいで」と、菊子は二銭銅をほうり出すと、けいちゃんはそれを拾って出て行った。
菊子も僕を置いて二階へあがった。
二階では、――
「さァ、絶体だ」
「出る、出る!」
「助平だ、ねえ――?」
「降りてやらア」
「行けばいいのに――赤だよ」
「そりゃ来た!」
「こん畜生!」
ぺたぺたと花を引く音がしていた。
菊子がまだ国府津にいた時、僕をよろこばせようとして、
「帰ったら、うちの二階が明いてるから、隔日に来て、あすこで、勉強しなさいよ」と言った、その二階がいつもあのざまなのだろう。見す見す堕落の
やがて菊子が下りて来て、
「お父さんはお花に夢中よ」と言う。まだ多少はしおらしいところがあって、ちょッと顔を出せとでも言って来たものらしい。会いたくないと言ったのだろう。僕は、かのうなぎ屋で、おやじが「こんなところでお花でもやれば」と言ったのは、僕をその方へ引き込もうとして、僕の気を引いて見たのだろうと思い出された。
「なァに、どうせ僕は花はしないから――」
お袋はいないし、おやじは僕を避けている。婆アやも狭い台どころへ行って見えない。
一昔も過ぎたかのように思われる国府津のことが一時に僕の胸に込みあがって来て、僕は無言の恨みをただ眼のにらみに集めたらしい。
「あのこわい顔!」菊子は真面目にからだを
お袋がいずれ挨拶に来るというので、僕はそのまま
「二度と再び来るもんか?」こう、僕の心が胸の中で叫んだ。
僕が荷物を持って帰ったのを見て、妻は
「あのくらいにしてやったんだから、義理にもお袋が一度は来るでしょう――?」
「そうだろうよ」僕はいい加減な返事をした。
「吉弥だッてそうでさア、ね、小遣いを立てかえてあるし、
「目くらになっちゃア来られない、さ」
僕の返事は煮えきらなかったが、妻の熱心は「目くら」の一言に飛び立つようにからだを向き直し、
「えッ! もう、出たの?」と、問い返した。
吉弥の病気はそうひどくないにしても、罰当り、
「まだ耽溺が足りない」これは、僕の焼けッ腹が叫ぶ声であった。
革鞄をあけて、中の書物や書きかけの原稿などを調べながら、つくづく思うと、この夏中の仕事は――いろんな考えを持って行ったのだが――ただレオナドの紹介ばかりが出来たに過ぎない。それも、今月中の喰い物の一つになってしまうのだ。最も多望であった脚本創作のことなどは、ほとんど全く手がつかなかったと言ってもいい。
学校の方は一同僚の取りなしでうまく納まったという報告に接したが、質物の取り返しにはここしばらく原稿を大車輪になって働かなければならない。
僕は自分の腕をさすって見たが、何だか自分の物でないようであった。
二六
その後、四、五十日間は、学校へ行って不愉快な教授をなすほか、どこへも出ず、机に向って、思案と創作とに努めた。
愉快な問題にも、不愉快な疑問にも、僕は僕そッくりがひッたり当て
僕のからだは、土用休み早々、国府津へ逃げて行った時と同じように衰弱して、考えが少しもまとまらなくなった。そして、僕が残酷なほど滅多に妻子と家とを思い浮べないのは、その実、それが思い浮べられないほどに深く僕の心に喰い込んでいるからだという気がした。
「ええッ、少し遊んでやれ!」
こう決心して、僕はなけなしの財布を
池のほとりをぶらついて、十二階を見ると、吉弥すなわち菊子の家が思い出された。誰れかそのうちの者に
菊子はとうとう僕の家へ来なかった。お袋もまたそうであった。ひょッとすると、菊子の目が全くつぶれたのではないか知らん? あるいはまた野沢も、金がなくなったため、足が遠のいていはしないか? また、かの女は二度、三度、四度目の勤めに出てはいないか?
こういうことを思い浮べながら、玉乗りのあった前を通っていると
「どこへ行くんだ?」
「散歩だ」
「遠いところまで来たもんだ、な」
「なアに、意味もなく来たんだ」
「どッかで飲もう」ということになり、つれ立って、奥の
友人もうすうす聴いていたのか、そこで夏中の事件を問い
翌朝になって、僕も金がなければ、友人もわずかしか持っていない。止むを得ず、僕がいのこって、友人が当てのあるところへ行って取って来た。
「
「実に滑稽だ」
二人は目を見合わせて吹き出した。
僕は友人を連れて復讐に出かけるような意気込みになった。もっとも、酒の勢いが助けたのだ。
朝の八時近くであったから、まだ菊子のお袋もいた。
「先生、済まない御無沙汰をしていまして――一度あがるつもりですが」と、挨拶をするお袋の言葉などには、僕はもう頓着しなかった。
「菊ちゃんの病気はどうです?」僕は敵の本陣に切り込んだつもりだ。
「あの通り、だんだん悪くなって来まして、ねえ」と、お袋は実際心配そうな様子で「入院しなけりゃア直らないそうですが、それにゃア毎月小百円はいりますから――」
「野沢さんに出しておもらいなさい、な」と、僕は菊子に冷かし笑いを向けた。
「そううまくも行きません、わ」かの女も笑って眼鏡を片手で押さえた。
その様子が可哀そうにもならないではないが、僕は友人とともに、出て来た菓子を喰いながら、誇りがおに、昨夜から今朝にかけての滑稽の居残り事件をうち明けた。礼を踏まない渡瀬一家のことは、もう、忘れているということをそれとなく知らせたかったのだ。すると、お袋が、それを悟ったか、悟らなかったか、
「もう、先生、居残りは困ります、ねえ。私どもも国府津で困りましたよ。先生はいらッしゃらない、奥さんはお帰りになった、これと私とでどんなにやきもきしたか知れやアしません、わ」
「しかし、まア、無事に済んだから結構です」と、僕はあくまで冷淡だ。
「どうして、先生、私の方は無事どころじゃアございませんの。あれからというものは、毎日毎日、この子の眼病の話で、心配は絶えやアしませんよ」まだ僕の同情を買おうとしているらしい。
「いい気味だ!」僕の心は、しかし、こう言ってよろこんだが、考えて見ると、僕の家には、妻もまた重い病気にかかっているのだ。菊子の病気を冷笑する心は、やがてまた僕の妻のそれを
僕は妻のヒステリをもって菊子の毒眼を買い、両方の病気をもってまた僕自身の衰弱を
こう思うと、僕の生涯が夢うつつのように目前にちらついて来て、そのつかまえどころのない姿が、しかもひたひたと、僕なる物に浸り行くようになった。そして、形あるものはすべて僕の身に縁がないようだ。
僕の目の前には、僕その物の幻影よりほか浮んでいない。
「さア、行こう」と、友人は僕を促した。
「これから百花園に行くんです」と、僕も立ちあがった。
「冷淡! 残酷!」こういう無言の声が僕のあたまに聴えたが、僕はひそかにこれを弁解した。もし不愉快でも妻子のにおいがなお僕の胸底にしみ込んでいるなら、厭な菊子のにおいもまた永久に僕の心を離れまい。この後とても、幾多の女に接し、幾たびかそれから来たる苦しい味をあじわうだろうが、僕は、そのために窮屈な、型にはまった墓を掘ることが出来ない。冷淡だか、残酷だか知れないが、衰弱した神経には過敏な注射が必要だ。僕の追窮するのは即座に効験ある注射液だ。酒のごとく、アブサントのごとく、そのにおいの強い間が最もききめがある。そして、それが自然に圧迫して来るのが僕らの恋だ、あこがれだと。
こういうことを考えていると、いつの間にかあがり口をおりていた。
「どうか奥さんによろしく」と、お袋は言った。
菊子は、さすが、身の不自由を感じたのであろう、寂しい笑いを僕らに見せて、なごり惜しそうに、
「先生、私も目がよけりゃアお供致しますのに――」
僕はそれには答えないで、友人とともに、
「さようなら」を