泡鳴五部作

毒藥を飮む女

岩野泡鳴





「おい、あの婆アさんが靈感を得て來たやうだぜ。」
れいかんツて――?」
「云つて見りやア、まア、神さまのお告げを感づく力、さ。」
「そんな阿呆らしいことツて、ない。」
「けれど、ね、さうでも云はなけりやア、お前達のやうな者にやア分らない。――どうせ、神なんて、耶蘇教で云ふやうな存在としてはあるものぢやアない。從つて、神のお告げなどもないのだから、さう云つたところで、人間がその奧ぶかいところに持つてる一種の不思議な力だ。」
「そんなものがあるものか?」
「ないとも限らない――ぢやア、ね、お前は原田の家族にでもここにゐることをしやべつたのか?」
「あたい、しやべりやせん――云うてもえいおもたけれど、自分のうちへ知れたら困るとおもつて。」
「でも、あいつは、もう、知つてるぞ、森のある近所と云ふだけのことは。」
「森なら、どこにでもある。」
「さうだ、ねえ」と受けて、義雄はそれ以上の心配はお鳥に語らなかつた。無論、千代子が或形式を以つて實際お鳥を呪ひ殺さうとしてゐるらしいことも、お鳥には知らしてない。たださへ神經家であるのに、その上神經を惱ましめると、面倒が殖えるばかりだと思つてゐるからだ。
 が、お鳥も段々薄氣味が惡くなつたと見え、日のつに從つて、義雄の話を忘れるどころかありありと思ひ出すやうになつたかして、つひにはまた引ツ越しをしようと云ひ出した。もし知られると、今までにでも、云はないでいい人にまで目かけだとか、恩知らずだとか、呪ひ殺してやるだとか云つてゐるあいつのことだから、わざと近所隣りへいろんな面倒臭いことをしやべり立てるだらうからと云ふのである。
 然し、この頃お鳥はおもいかぜを引いてとこに這入つてゐた。近所の醫者を呼んで毎日見て貰ふと、非常に神經のつよい婦人だから、並み以上の熱を持ち、それがまた並み以上に引き去らないのだと説明した。その上、牛込の病院に行けないので、一方の痛みも亦大變ぶり返して來た。
 かの女は氣が氣でなくなつたと見え、獨りでもがいて、義雄にも聽えるやうに、
「何て因果な身になつたんだらう」と三疊の部屋で寢込みながら、忍び泣きに泣いた。おもての方の廣い、然し向う側の森から投げる蔭をかぶつた室――六疊――には、憲兵が三人で自炊する樣になつてゐた。
 義雄は同じ家にゐる憲兵等に物も云ひかはさなかつたが、毎日、晝間からお鳥の看護に努めた。同時に、自分もひどい痔に惱んだ。
 重吉からの返事は來ず、東京に殘つてゐる重吉の女房に問ひ合はせると、北海道の方をまはつてゐると云ふのであつた。義雄はまだ鑵詰の事業の手初めも出來ないのが、無聊ぶれうの感に堪へなかつた。
 丁度、その時、我善坊がぜんばうの方へいいハガキが屆いた。
龍土りゆうど會例會――一、時日――一、場所――一、會費――右御出席の有無○○區○○○町○○番地○○○○方へ御一報を乞ふ――年月日――幹事――」と、印刷摺りにしてある中へ、それぞれ必要な文字を入れたハガキであつた。
 龍土會と云ふのは、おもに自然主義派と云はれる文學者連を中心としての會合で、大抵毎月一囘晩餐の例會を開くことになつてゐる。幹事は二名づつのまはり持ちで、この月には田島秋夢と今一名かれと同じ新聞社にゐる人の名が出てゐた。
 義雄はこの會の最も忠實な常連の一人でもあるし、友人どもの顏も暫く見ないし、印刷を終つた自著『新自然主義』がいよ/\世間に出た當座の意氣込みもあつたことだし、喜んで出席することにした。そしてお鳥が、その日になつてもこちらの痔が惡くなるにきまつてるから止めて呉れろと頼んだのも承知しなかつた。

 なかちやうから檜町ひのきちやうの高臺にあがると、麻布あざぶの龍土町である。そこの第一聯隊と第三聯隊との間に龍土軒と云ふ佛蘭西フランス料理屋がある。そこが龍土會の會場であつた。
 義雄はそこに一番近いので、午後六時にはかツきり行つた。が、まだ誰れも來てゐない。
 ボーイを相手に玉を突いてゐるうちに、人がぽつり/\集つて來た。そのうちの一人が玉場へ飛び込んで來て、
「どうだ、久し振りで負かさうか?」かう云つて直ぐキユウを取つた。例の歌詠みから株屋の番頭に轉じた男だ。「然し、ねえ」と、かの永夢軒に於ける義雄の失敗を持ち出して來て、
「また電球をぶち毀すのは眞ツ平だぜ。」
「あれはどこの玉屋へ行つてもおほ評判ですぜ」と、そばにゐたそこの主人が少しおほ袈裟に笑つた。
「もう、大丈夫だよ。」まじめ腐つて答へながら、義雄も臺に向つたが、いろんなことが氣にかかつて、もろく勝負に負けた。
「よせ/\」と呼びに來たものもあつて、義雄も二階にあがつた。
 かれを見るのは近頃珍らしいので、皆が話をしかけた。
「君の著書をありがたう」と挨拶するものもある。
「あんな短い紹介だが、取り敢ず新刊紹介欄に載せて置いたよ」と云ふものもある。
「耽溺はどうなるのだらう」と、こちらが現代小説にやつた作のことを云ふものもある。
「君の女はどうした」と、ぶしつけに聽くものもある。
「顏の色が惡いが、過ぎるのだらう」と穿うがつたつもりでからかふものもある。
「また痔が惡くツて、ね、閉口してゐるのだ。」
「ぢやア、酒はやれまい」と、慰め顏に質問するものもある。が、渠はかた一方の耳がまだよくないので、左の方から云はれた言葉を度々聽き返したり、聽き落したりした。
 やがて椅子が定まつて、日本酒の徳利がまはつた。
 秋夢は幹事だから末席にゐる。渠は鋭い皮肉な短篇小説で名を出した人だが、外に「破戒」を書いた藤庵がゐる。「生」を書いた花村がゐる。劇場のマネジヤーを以つて任ずる内山がゐる。また外國新作物の愛讀者で、司法省の參事官をしてゐる西がゐる。その西が紹介した農商務省の山本といふ法學士がゐる。株屋の番頭がゐる。工學士の中里がゐる。麹町の詩人がゐる。琴の師匠の笛村がゐる。漫畫で知られる樣になつた杉田がゐる。或出版店の顧問、雜誌の編者等もゐる。
 かう云ふ人々の中にあつて、いつもかれ等の談話を賑はすのは田邊獨歩であつたが、今年の六月に肺病で死んでしまつた。餘り出席はしなかつたが、矢張り、會員であつた眉山は、獨歩の死ぬ少し前に自殺した。
 眉山の自殺してから間もなく、さき海岸の獨歩の病室で、「この龍土會の會員の中で、誰れが眉山の次ぎに死ぬだらう」と云ふ話が出た。
「無論、田村の狂死、さ」と、毒舌家の病人は笑つて、「あいつが生きてるうちに、おれは死にたくない。」
 さう言はれるほど、義雄も隨分毒舌の方であるし、それをあとで聽いた渠は曾て獨歩の思想をまだ舊式だと批評したことがあるのを思ひ出したりしたが、今夜は甚だ勢ひがない。酒は平氣で人並みに飮んでゐたが、持病のむづがゆく且痛むのを頻りにこらへてゐた。
 花村は「鳥の腹」と云ふのを文藝倶樂部に出した男を捕へて、あの小説は描寫でない、下手な説明だ、きはどいところがあるのは構はないが、説明的だから、それを人にひるやうになつてゐる、挑發的だと云つて、發賣禁止になつたのも止むを得まい、などといぢめてゐた。
 藤庵は、或新聞記者に向つて、謙遜らしく、人生の形式的方面をどう處分してゐればいいのだらうと云ふやうなことを質問してゐた。
 西は内山や中里と共に頻りにイブセンやメタリンクやストリンドベルヒの脚本を批評し合つてゐた。
 かう云ふ別々な話がいつまでも別々になつてゐないで、互ひに相まじはり、長い食卓のあちらからも、こちらからも、はたが行きかふ樣になつた時、義雄はその意味を取り違へたり、ただやかましい噪音が聽えたりする瞬間もあつた。それが如何にも殘念で、この耳だけに關して云つても、もう、これ等の人々と自由に話し合ふ資格がなくなつたのかとまで思つた。
「田村が乙に澄ましてゐやアがるので、今夜は少し賑やかでない、なア」と、株屋の番頭が云ふのが聽えた。「色をんなを持つと、ああおとなしくなるものか、なア?」
「けふは、何と云はれても、しやべる氣になれないのだ。」かう云つて、義雄は笑つたが、自分のいつも特別に注意を引くから/\笑ひも、それと好一對になつてゐる麹町の詩人の羅漢笑らかんわらひと云はれるのに壓倒された。
 そして、花村の耳も鼻も目も内臟も、どこもかも健全で、而も巖乘がんじような體格が何よりも羨ましくなつたと同時に、獨歩の死んだ時、茅ヶ崎へ集まつた席で、義雄は自分が花村に向つて、君は僕等すべての死んだあと始末をして、誰れよりもあとで死ぬ人だと云つたことを思ひ出した。

 次の忘年會大會の幹事を義雄も引き受けた龍土會の歸りには、おも立つた人々よりも一時代あとの若手連が二三名、麹町の詩人と共に付いて來た、が、中の町の隱れ家へは連れ込むことをしたくなかつた。と云ふのは、自分の痔が果して酒の爲めに非常に不氣分になつた上に、お鳥がうんうんうなつて寢てゐるのを思つたからで、しかもそれがたツた三疊のきたない部屋だもの――自分等の辨當を運ぶ辨當屋のある角で、渠等と無理に右と左にわかれた。
 例のどぶを渡つて、戸を明けると、今夜は斷つてあつたので締りはしてなかつたが、醉つてゐるのと早く横になりたいとの爲めの荒ぢからで、自分の引き明けた戸はがらりと大きな音を立てた。
「お歸りですか」と、下のかみさんが、炬燵こたつをしてある奧の方から聲をかけた。
「あ、只今」と答へて、渠は自分で戸締りをしてから、あがり段をあがつた。
 あたまの上には、無學、無趣味、無作法、卑俗で、話と云へば、賤業婦の噂ばかりの憲兵連がゐるのを思ひ出した。
 上にも下にも、こんな毛だ物同樣の野蠻人種が籠つてゐるほら穴より外に、義雄は自分の眠るところもない今の状態を考へて見た。
「吾人の頭腦は銀河に浴し、吾人の兩足は地獄のゆかを踏む」と云ふエマソンの警句が浮んだ。が、若しこのおほ袈裟な口調くてうで自分の考へを發表すれば、地獄のゆかをも踏み破つて、而も天上に須佐之男すさのをの暴威の雄たけびをやつて見たいほど絶望的だ。
「こんな腐つたからだ! こんな死獸のたいを借りたやうなからだ! こんな多くの惡病氣の問屋をしてゐるやうなからだ! ひよツとすると、耳や鼻や痔は何物かの梅毒から來てゐはしないかと疑はれるからだ! ええツ! こんなからだはどうでもなれ」と、義雄は二階へあがつてから、自分で自分を投げ出した。
「どうしたの」と、お鳥はその重たさうな首を枕からもたげた。「お酒が惡かつたのだろ――だから、あんなに行くなと云うたのに。」
 渠は默つて返事もしなかつたが、ほツこりと迫つて來る女のにほひを嗅いだ。渠には、鼻も亦右の方しか役に立つてゐないのだが、一方で僅かに嗅ぎ分けるこのにほひが、今のところ、たツた一つの慰めだ。この頃は、外のどぶの惡臭も氣にならなくなつた。この部屋へあがつて來るまで陰氣臭いことも、さう神經を惱ませなくなつた。その代り、お鳥のこの臭ひがどう嗅ぎ直して見ても、義雄には部落民臭くなつた。そのくせ、別にわきか何かのやうにいやな感じを伴つてゐるのではないが――。
 それでも、なほ、千代子の痩せて冷めたさうなところよりも、夜は、梅が香を包んでゐるやうに、此あツたかい臭ひのするところがいいのである。渠はこの臭ひがしないと、却つて寂しい、寂しい氣持ちになつた。
 お鳥がまた別にかぜの醫者を呼んでゐるのに、義雄がまた耳に通ふほかに他の醫院を訪ふのは、自分で我慢してゐた。そして、隔日に行く學校へは缺勤屆を出した。が、堪へ切れなくなつて、或る肛門病院へ行つた。そして注射をして貰つたのが、藥の利き目でか、一層不氣分を増した。
「あたいにこんな二重の苦しみをさせるから、その罰で自分もうへした二重の病氣になつたのだ。」
「そりやア、さうかも知れない――許して呉れ」と云つて、義雄はそれをお鳥の氣休めに供し、その實、自分が苦しいのにかく女の看護までをしてやらなければならない面倒を少しでも避けるやうにした。


「おかアさん! おかアさん!」
 義雄はぎよツとしてあたまを持ちあげた。お鳥が死んだ母親を呼んでゐるのである。
 病人を見ると、あふ向いて、目をつぶつたまま、久し振りの優しい微笑を浮べてゐる。
 炬燵の火も消えた眞夜中、しんとして、鼠一匹騷がない。消し忘れた置きランプの光に、時計のちくたくばかりが明らかに響く。
 その時計のこまかい確かな刻み――それが渠の痛みを全身に傳へる血脈にめぐつて、刻一刻快樂と思へた夢が、羽ばたきをして過ぎ行くのがあり/\と見える。
 ふと、その過ぎ行く快樂の夢を米國の浪漫的ろうまんちく詩人アランポーが歌つた「おほがらす」の姿にして見た。レノアと云ふ世に亡き乙女をとめを戀して、
「あはれ、やかに 吾れは 覺ゆ 寒き 師走しはすの 夜中なり、
炭の 燃えさし 離れ離れ 床に その影 落してき。
吾は 頻りに 朝を 待ちつ 無駄に 求めて わがしよより
借らん と せしは 憂さ の 晴らし」
であつたところへ、「何をたまひなたま不吉怖鳥ふきつこはどり古鳥ふるどり」の鳥類の惡魔か分らないやうな眞ツ黒なおほ鴉が闇の外から飛んで來て、書齋に備へつけられたパラス彫像の肩にとまつた。そして愛婦の今と同樣ノーモーア、「またもなし」と語つた。
 それは失戀と云ふ物を地上に引き据ゑて見たのだが、英國の畫家詩人ロセチの「昇天聖女せいによ」に、
「昇天 聖女 の 身を 傾けて
かかりしは 黄金こがねの 天津横木あまつよこぎ
まなこは、深みて、一しほ、海の
平らに 靜める それに まさり。
その手に 持ちしは、小百合さゆりを 三個、
髮なる きら星 かずは 七つ。」
とあるのも、つまり、これは失戀を天上に祭りあげたに過ぎない。
 ワルツホイトマンにも同じ系統の「搖り籠から」があり、義雄自身にも長い詩篇「三界獨白」中の「常盤ときはの泉」があつて、矢ツ張り、若々しい戀の失敗を地上なり、天上なりに引き据ゑ、祭りあげてゐたのが思ひ出された。
 然し現在の状態はどうだ?
 空想のでも、天女や戀人なら、まだしも――架空のでも、おほ鴉やアラバマから來たと云ふ鳥ならまだしも――義雄は身づから部落民だと思ふものを介抱してゐるのである。
 無論、世に神聖な戀愛などはない――あつても、ただの空想で、現世に活動する人間のかてにはならない。が、曾ては聖愛などを――その時から、肉的に見てたが――歌つたことがある渠は、今更らのやうに今昔こんじやくの感無しにはゐられなくなつた。
 部落民の熱病人に、殆んどあらゆる病氣の問屋! 渠は、かう思つて、ます/\絶望的な蠻勇氣ばんゆうぎを出した。
「死にたくはない――今、一度、この女を完全なからだに返して、その全身の愛を本統に自分に捧げさせて見ないぢやア置かないぞ。それからなら、自分が死んでもいい、また、破れ草履を棄てるやうに、この女をすツぱりおツぽり出してもいい。」
 かう考へて、渠は片手で自分の痛みの個所を押しこらへながら、熱に疲れてよく眠つてゐるかの女の二つの病氣の、直つた上の樂みを想像した。

 しんとした、そとには何物かが窺つてゐるやうだ。渠はこツそり罪惡でも犯してゐるやうにまたぎよツとした。
「おかアさん!」と輪郭のぼやけた一聲に、この僅か三ヶ月間に痩せの見えて來た顏の微笑がまだ浮んでゐる。
 また、夢を見てゐるのらしい――この飽くまでも見飽きぬ妖態!
 試みに、そのあツたかい胸から、渠は自分の一方の腕をのせてゐたのをやはらかに外すと、かのぢよは逃げるものを追ふやうに、兩の手を空しくさし延べた。が、直ぐそれを引ツ込めたかと思ふと、やがて、
「あア、ア、ア――」頼りなげに又苦しさうにもがいたあげく、半身をがばりともたげた。が、あたりをじろ/\見渡して、「畜生! 殺すぞ」と云ひながら、再び枕に就いた。
 ひどい熱になやんだあとの疲れで、眠りはまだこの恨みの深い人を纏つてゐると見えた。直ぐいびきをかき出した。そして、そのぐう/\云ふ響きが、おもて座敷の憲兵どものと何の遠慮もなく競争を始めた。
 みじめな人生の裏家住ひ――かう云ふことが義雄のあたまに浮んだ。こちらのいびきは、然し、相變らずうなされてゐると同時に、からだの筋肉が痙攣を引き起す前のやうにびく/\動いてゐる。
「鳥ちやん――鳥ちやん!」
 靜かに呼んで見たが覺めようともしない。あふ向けに吐く白い息と横向きに吐く白い息とが交叉した。渠は考へた、呼び起して、覺めた自分と同じやうに苦痛を感じさせるよりも、いツそのこと、死ぬまで斯うしてゐさせる方がまだしも功徳くどくかも知れない。且、自分に對しても、やきやき面倒を訴へないでいいと。
 若しこちらが昔の人のやうに十五六歳で結婚をしてゐたら、これくらゐの總領娘があつたかも知れない。無病息災であつたきのふは、駄々も捏ねたし、泣いて無理も云つた。が、その可愛さは、もう、なくなつた。
 過ぎ去つた快樂は現在の自分を滿足させるに足りないのに、矢ツ張り、こんなところにこびり付いてゐるのは、宿無し犬が掃き溜めの汚物に飢ゑをつなぐと同樣、ここに自分の苦痛の必然な餌じきを求めてゐるのだ。
 かう思ふと、渠には女の方も亦さうではないかと云ふ考へが起つた。この頃、かの女は非常に愛着を増した。少しでも男を自分のそばから離れさせまいとする。が、それは男を先づそとに見えない心臟や肺のあたりからがつ/\とかじつて、つひにはその全身をかの女の病熱と衰弱との喰ひ物にしてしまふのではなからうか?
 自分の戀も純潔でなければ、お鳥のも亦利害を混濁してゐると見ながら、ランプの光に獸性が目覺めて、二つの肉その物の腐爛して行く姿を心のまなこに見詰めてゐる。そしてこちらの手あしに女の存在を知らせるのは、こちらがかの女に相分つた毒血どくけつのあツたかみである。
 このまま死んで、腐つて、骨になつたら――? さうだ、その時は、
「二つのしやりかうべ!」恨みもない、執着もない、全く關係のないあかの他人だと渠は考へた――そして、また他人の寢ごとは却つてはツきり聽えるものだと誰れかが云つたことを。
 寢てゐる病人はまたうなされ出したが、今度は何かの怨靈をんれう盤石ばんじやくの重りを以つて息の根を押し止めようとしてゐるのを、四苦八苦のもがきで逃げようとするやうなありさまがあり/\と見えた。兩うでをくうに開いて、
「あアー! あアーア、ア、アー」と叫んだ時は、怨敵をんてきの姿も見えたかのやうに、義雄は三たびぎよツとした。かの女は目をきよろりと明けてこちらの驚いた顏を見た。
「何か云うた?」ぼんやりとほほ笑んでる。
「うなされてゐたよ。」
「さう――夢を見て、苦しかつた。」
「――」義雄はただかの女の顏を冷やかにのぞき込んで、寒い深夜のどこかそとを想像して見た。千代子が神社か大木の蔭で藁人形の釘を打つてゐたのではないか知らんと。


「熱の方は大分えいやうになつた。依つて、あすからでも、また牛込の病院へゆこか?」
「無理をしても惡いが、なア――おれも然し痔の方は少し辛抱出來るやうになつたから、また耳の療治にせツせとかよはうかと思つてるのだ。」
「こんな二人までも苦しい目に會ふのはをかしい――あたいの寫眞が一つ我善坊に置いてあるから、自分の寫眞と一つにして、あいつがそれを五寸釘でも打つてやせんだろか?」
「まさか、ねえ」と、こちらは何げなく見せて、
「よしんば、そんなことをしたところで、お前とあいつとの間に無線電信でもかかつてゐなけりやア、通じる筈がない、さ。」
「でも、さうして人を呪ひ殺した奴が田邊に一人あつた。」
「そりやア、自分を呪つてると云ふことを傳へぎきでもしたから、神經に負けて、われとわが身を殺したの、さ。」
「でも、自分はあいつに靈感が出て來たと云うたぢやないか?」
「それはちよツとさう思つただけで――きツとそれだとは思つてゐない。」
「でも、若し感づいて、ここへやつて來たらどうする?」
「今まで來なけりやア、もう、大丈夫分りツこはないの、さ。」
 かう云ふ話があつた時は、義雄とお鳥とが大工の家をていよく斷られて、假りにその隣りの辯護士のおやぢとその妾とがその間に出來た一人の子と共にゐる家の二階へ移つてゐた。同じ間取りの、同じ裏二階の三疊敷だ。
 そこの細君が矢ツ張り女房のある人と一緒になつてゐると云ふ事實は、同じやうな事情にあるお鳥をして少しその神經を休めさせた。
「隣りの人が云うてたが、もとはあのおやぢさんの息子の家で下女をしてをつて、おやぢさんの子を孕んだのださうや――見ツともない女だらうが?」
「見ツともないとしても、からだは無病息災だ。」斯う義雄が答へたのには自分の持ち物の方には面倒くさい病氣がとツ付いてゐると云ふ不平も含めた。
「自分が惡いのぢやないか?」とお鳥はこちらを睨み付けた。
 そこのおやぢと云ふのは、自分の息子が辯護士の若手として羽振りがいいのを自慢した後、義雄と同國だと分つた嬉しさに、「わたしも、同じやうな事情で、息子と同居してをる婆アさんがやかましいのに困つてをりますので、あなたのこともかねて人ごとには思うてをりませんでした」と云つた。
「なアに、あり勝ちのことですから」と、こちらは笑つて輕く受けたが、こんな死にぞくなひのおやぢなんかの同情は少しもありがたくないと思つた。
 義雄の耳は一向にはか/″\しくないのもまどろツこしくて溜らないのだが、痔の方がよくなつて來たので、學校の冬期試驗をやりにも行くし、段々氣力も恢復した。
 すると、自分の身に纏ひ付いたすべての面倒を早く振り切つて、早く樺太の事業に對する計畫に直進したくなつた。

 自分の耳も面倒だ。いとこの重吉が北の方からこちらの電報に對してまだ便りのないのも面倒だ。病人のお鳥も面倒だ。然し最も面倒なのは、夫婦に關する法律の規定と父の遺言とを楯に取り、我善坊の家にがん張つてゐるヒステリ女である。
「人を呪へば穴二つだ――早くあの千代子がくたばつてれりやア」と云ふ願ひが、義雄の胸を絶えず往來してゐた。ところが、意外にも、死んで呉れたのは千代子でなく、かの女が里にやつてあつたのを取り返した赤ん坊だ。
 龍土會の忘年會が、義雄と長谷天香といふ批評家との幹事で、午後五時から烏森の湖月であると云ふ日の晝過ぎであつた。渠が本郷の耳科醫院へ行つた歸りに、なかちやうの中通りを耳ばかり氣にして通り過ぎてしまひ、裏通りの隅にある例の辨當屋と反對になつたかどから出ると、今その辨當屋から出た千代子の姿が目に這入つた。
 目は落ち込んで、頬はずツとこけて、顏全體に血の色とては少しも見えず、五六間を隔てて見たところでは、全く憂ひと呪ひのおも影であつた。
 たツた僅かのあひだ見ないうちに、身體までが實際あんなに影の薄い怨靈をんれうになつてしまつたのかと思はれた。
 羽織りや着物は不斷着のままで、こちらには氣が付かず、下向き勝ちに歩いて、そのかどをお鳥のゐる方へ曲つた。
「たうとう嗅ぎ付きやアがつた」と思ひながら、直ぐ義雄はインバネスの袖で頬をこするふりをして、向うの横町へ逃げ込んだ。
 義雄は千代子を避けたのを誰れにも知られたくなかつた。その足で辻ぐるまに乘り、龍土軒の玉突場へ行つた。
 が、氣になつて、玉が當らないので、二階へ移つて洋食を二皿ばかりやりながら、曾てここへお鳥を連れて來たことを思ひ出した。
「洋食などいやぢや。」かう云つて、お鳥がわざとらしく兩手を袖の中へしまつてゐるのを見てこちらは喰ひ方を知らないのだと推察した。そして、そばに來てゐたおかみさんの手前もあることだから、こんな田舍者をいい氣に可愛がつてゐると思はれないやうに、
「まア、いやでも喰べさせてやるぞ」と、向うの皿の肉を自分のナイフで切つてやりながら、「こいつは好き嫌ひが多くツて困るんですよ」と云つた。
 何ぼくど/\しい千代子でも、もう、歸つてしまつただらうと思はれる頃、義雄はそこを出て、中の町へ向つた。然しまだ闇に野犬のしツぽを踏みはしないかと云ふやうな氣持ちで、おそるおそる假寓のどぶをまたいだ。
 すると、直ぐ下の女が出て來て、鬼の首を取つた手がらばなしをでもして聽かせるやうな待ち受けた樣子で、
「今しがた、奧さんが見えましたよ。」
「さうですか」と、わざと平氣ではしご段をあがらうとした。
「何だか、お子さんがヂフテリアで危篤だから――」
「えツ!」渠ははしごの第一段にかた足をかけたまま踏みとまつた。

 下の女は言葉を續けて、
「芝の慈惠病院の隣りの東京病院へ直ぐ來て下さいとおツしやつて、お歸りになりました。」
「さうですか、ありがたう」と答へて、渠はお鳥の藥臭い寢どこへ行つた。
「來たよ」と、かのぢよは半身を枕からもたげて、こちらを恨めしさうに見た。
「何が?」
「あいつが、さ。」
「さうか?」枕もとに坐つて、そ知らぬ風はして見たが、心のうちはかき亂されてゐた。第一、どうしてここを嗅ぎ付けただらう? 靈感などと云つても當てになつたものぢやアない。さきに、森のある近所などととぼけたのも、誰れかに聽いて知つてゐたのかも知れない。或は、また、先月の龍土會の歸りに麹町の詩人がそばまで來たから、あの男から大體の見當を聽いて來たのだらう。また、あんなに影が薄かつたのは病兒の看護に疲れたのに相違ない。それにしても、自分自身で出て來たのを見ると、子供はたとひ危篤だとしても、こちらが全く可愛がつてもゐないので、向うも燒けを起して來たのだらう。
 かう考へると、千代子の身の周圍を可なり興味づよく纏ひ付いてゐたこちらの不思議な幻影や、可なりおそろしく想像してゐた呪ひの魔力まりきや、罵倒しながらもかの女の子煩惱を取り柄として子供のことは委せ切りにしてあつた安心、などは全く消えてしまつた。が、きツと、かの女とお鳥とはまた云ひ合つてゐたのだと思つたので――それでわざと三時間ほどもよそへまはつてゐたのだが――その面倒くさい報告を聽かせられるのがいやであつた。
「また喧嘩したのだらう?」
「喧嘩などしやせん。」
「ぢやア、あがらなかつたのか?」
「さう、さ。」
「‥‥」それぢやア、まだしもよかつたと、義雄は多少氣を落ち付けた。
「でも」と、かの女は言葉を續け、「隣り近所へらないことまでしやべつて行つた。見ツともなくて、もう、ここにもをられませんぢやないか?」
「どんなことを云つたのだ?」
「どんなことツて――」お鳥がふくれツつらをして語つたのにると、千代子は先づ辨當屋に當りを付けて這入り込み、そこでこちらのゐどころを確かめ、そこを出てからお鳥のもとゐた大工に行き、またその隣りの蒲團屋にまで行つて、お鳥に關することを洗ひざらひしやべり立てたのである。お鳥は、また、下の女から、それを聽かせられ、氣になつて溜らないので、寢床から飛び起きて、千代子のまはつたさきを自分も一々まはり歩いて、自分の辯護をすると同時に、向うの惡口も吹き立てて來たさうだ。
「どいつも、こいつも仕やうのない女どもだ、なア。」
「でも、皆がをかしな人だ、目ばかりきよと/\させて、聽きたくもないことをわざ/\しやべりに來て、と云うてゐた。」
「お前も云つたのぢやアないか?」
「あたいのはあとのことぢや――然し」と、お鳥は餘ほど讓歩してやると云ふ態度で、「子供が病氣なのは可哀さうだから、行つておやり。」
「そりやア、行くが、ね――」考へて見ると、第一子(女であつた)もヂフテリヤの苦しみに枕もとの小ランプを攫まうとしながら死んだ。第三子(男であつた)も同じ病氣であつたが、母に抱かれながら、なぜこんな苦しい目に會はせるのかと云ふやうな目附きを殘して死んだ。第一子の時は初めての子でもあるし、二年二ヶ月も生きた記念があるので、殘念に思つたが、第三子は自分からの子として二度目の死でもあるし、たツた九ヶ月をさう抱きもしなかつたから、惜しくはなかつた。今囘の赤ん坊に至つては、見たことさへ稀れな上に、どうせまた死ぬのだらうと思ふと、全く愛着が起らない。

 それでも、子が死んだら、またその死骸の處分はしなければならないし、今夜は龍土會もあることだし、お鳥が成るべく早く歸つて來て呉れろと頼むにも拘らず、
「今夜はどうか分らない」と云つて、義雄は二階を下りた。そして下でそれとなく聽いて見ると、千代子は大變な權幕で、意張つて上り込まうとしたのだが、お鳥の病氣で寢てゐると云ふのをかこ付けに、下の人が氣を利かせてあがらせなかつたので、
「わたしも、そんな病人なんか相手にしても詰りませんから、では、歸ります」と、千代子は飽くまでも負け惜しみを云つたさうだ。
 それに、入院したのは赤ん坊一人と思つてゐたら、さうでなく生き殘つてる四人の子供をたツた一人除いたあとのすべてがその病院の厄介になつてゐるのだと分つた。
 車を驅けらした時は、もう、四時過ぎで、どこでもあかりをつけてゐた。
 東京病院の受け附けに驅けつけて聽くと、赤ん坊は既に息を引取つたと告げられた。そして、次女の富美子は普通の病室に、三男の知春ともはるは隔離室に這入つてゐることが分つた。
 義雄は、弟のかをるきりの火葬場へ行くつもりで、直ぐ支度をして來いと云ふ使ひを出してから、先づ知春の室に行つた。すると、千代子が一人附き添つてゐて、所天をつとを責めるに最もいい口實を得たと云はぬばかりの權幕だ。かの女は自分の混亂した忿激と愁傷とをまぶたの落ち窪んだ目に漲らせ、而も自分は亡兒の魂に從つて既に地獄か墓の底までも檢閲して來たやうなつよい暗い光を顏ぢうに現はして、
「あなたのおかげで、わたしも兒どもの死に目に逢へなかつたぢやアありませんか?」
「そりやア、知れ切つてらア、ね。」義雄はかの女に毒々しく見せたほどわる度胸をきめ込み、睨み付けながら、「おれの隣り近處へまでも、わざ/\らざらんおしやべりをしてゐやアがつたからだ。」
「おしやべりをしないで、どうします? あんな女のことは、一切合切しやべり立てて、隣り近處へ顏向けの出來ないまでにしてやるんだ。」その聲で、眠つてゐた兒が目を覺した。そして、父が一方の枕もとにゐるのを見て、びツくりしたやうに身をのり出し、他の一方にゐる母の膝にしがみ付いた。
「それもよからう、さ――また引ツ越させるだけのことだ。」
「どこへ逃げたツて」と、かの女は兒にそのまま蒲團をかけてやりながら、「このわたしの前ぢやア隱れおほせませんよ。」
「現在、けふ、あの辨當屋から貴さまが出たのをおれは見たのだ。面倒だからはづしてしまつたのだ。」
「さう――」千代子は意外だと云つたやうにぽかんとした。が、負けてゐないで、また語を繼ぎ、「然し、清水の居どころは當つたぢやアありませんか?」
「原田かどこかで云つてもらやア、當るのは當り前だ。」
「いいえ、そんなことア――あすこへは云つてなかつたぢやアありませんか?」
「ぢやア、麹町で聽いたのだらうよ。」
「あの方だツて、知りやアしません。」
「貴樣が口どめされてるの、さ。」
「あんなこと! あなたは餘つぽどうたぐりツぽいの、ねえ。」
「そんなことアどうでもいい」と、義雄は千代子の強情を押し付けたつもりになつた。が、今の應對で以つて見ると、かの女は中の町であんなおしやべりをして歩いたやうに、どこへでもこちらの知り合ひでかの女も會つたことがある人のところへは、この狂態を以つて吹聽ふいちやうしに行くらしい。原田へ度々行くのは勿論のこと、もう、麹町の詩人へも行つた樣子だ。

 思ひ出すと、かの麹町の詩人が我善坊の家へ遊びに來た時、千代子はこちらのゐる前でこちらの不行状を詩人に訴へた。然し、
「そりやア、然し、男子のことだから」と、かう麹町が答へたので、
「あなたまでがそんなことを」と叫んで、かの女は詩人をいきなり突き飛ばした。すると、同じやうに神經質の詩人は非常に氣を惡くして歸つた。
 それを見ても、誰れも千代子をまじめには相手にしまいが、意地惡くでも出て、こんな狂人きやうじんじみた女のおほ袈裟な言葉を釣り出し、それを根據にまたこちら自身の平生へいぜいを人が世間に廣告しては甚だ以つておほ迷惑だ。
「實に困つた女だ――その歩いたあとをお鳥がまた云ひ消して廻つたのも尤もだ」と、渠は考へて見た。
「わたしは、どうしても」と、千代子はなほその言葉をさし控へようとはしない。「どうしても、この神さまの力で、あなたの不身持ちが直るまでは、あなたと清水とがどこへまた隱れたツて、その隱れ場所を探し出してゐないぢやア置きません。あなたがたに隱れおほせる氣があるなら、わたしにも探し出す力があります。」
「さうなら、さうとして置け――だが、今囘も葬式に宗教上の儀式は使はせないぞ。」
「そんなことア御勝手におしなさい――また、さう云ふだらうと思つてたんですから。」
 義雄はもと耶蘇教信者であつた。そして、その教へを脱する頃になつて、千代子の方が信者になつた、が、かの女も今では變挺へんてこ陰陽學おんみやうがくつてしまつた。今年の父の葬式は父の信仰に從ひ佛式でやつたし、一昔以上前の第一子の時は、千代子の望みにまかせて耶蘇教式であつた。が、第三子の時は、滋賀縣の大津で無式で濟ませた。その次ぎが今囘のだが、渠としては死んだものは既に無も同然だから、ただそのまま土から土、闇から闇へ葬つてしまふつもりだ。
「死んだものなんか、掃き溜めへはふり投げて置いてもいい位のものだ。」
「どうせあなたが死ぬ、死ぬと云つてたから、あの子もその通り死んだのでせうし、うちには誰れも人情にあつい人がゐないのだから――あなたは色をんなのところばかりへ入り浸りになつてるし。馨さんは馨さんで、人の頼んだこともして呉れないで、勉強もしずに、どこかほつき歩いてばかりゐるし。おツ母さんはおツ母さんで、まだおアさんの一周忌も來ないうちに、娘の方へ逃げて行つた癖に、よこした手紙には、五尺も雪が降るところで寒いから、また歸りたい! も、ないものだ。」
 こんな繰り言を千代子が云ふのを、義雄は聽くやうな、聽かないやうな振りで、自分の心には、どうせ死ぬなら、何も分らない空體くうたいの時に死ぬ方がいい、人生の味ひが分つて、悲痛に悲痛を重ねて來ると、却つて未練が多くなるものだ、と云ふやうなことを考へてゐると、にこ/\した看護婦が病院の命令を受けてやつて來て、早く死體を引きとつて貰ひたいと云つた。
「今に人が來ますから、それまで待つて下さい」と、義雄は素直に答へた。が、さツきから病院の人々の死者並びにその家族に冷淡なのを怒つてゐたところだから、「どうせ傳染病は家へ引き取ることが出來ないのでせう」と、からかつて見た。そして、その看護婦に頼んで、會をやつてる湖月へ少し遲くなるからと云ふ理由の電話をかけて貰つた。
「まア、兎も角、死んだ兒の顏でも見納めに見ておいでなさいよ。」かう千代子が勸めたのにも意地を張つて、義雄は何か反抗の意味を云ひ返さないではゐられなかつた。
「血の氣のなくなつた顏などア、手めえのを見てゐりやア十分だ、――手めえマイナス氣ちがひイクオル死だ。子供は目をつぶつて、口に締りがなく、土色をして固くなつてるだらうが、そんなものも、もう、何度も見飽きてらア。」

 千代子の妹がきのふまで來てゐたが、家の方の世話が忙しいので、代りに專門の看護婦を雇つて附き切らせてあると云ふ富美子の病室へは、義雄は行く必要がないと思つた。
 富美子のはその祖父の死因と等しく腎臟が惡いのであつて、ヂフテリヤではなかつた。が、知春のはまだ小さいだけに死んだ子のが殆んど同時に移つたのである。義雄は、若し自分に梅毒氣味があるとすればその痔に於いて父のを遺傳したと思つてゐるし、富美子は又その祖父の腎臟を受けたし、知春は又その兄弟の病氣に傳染したのだ。然しこの知春のは手後れでなかつたから、注射が利いて、まだ熱は去らないが、――咽喉のひゆう/\云ふのは直つてゐた。
「もし生の悲痛に堪へるだけの活氣がないとすれば、こいつも今のうちに死んだ方がましだのに」と考へながら、義雄は知春の隔離されてるその室で、千代子から死んだおぢイさんからして後妻の姉に手を出しかけた程だから、その惡いむくいが子や孫にまでも來たのだと云ふやうな繰り言を聽かせられながらも、それを聽き流してゐた。かの女は病兒の無理をなだめて眠らせるやうにしながら、切りもなくいろんな不平を漏らしてゐた。
 やがて義雄の弟がやつて來たので、死骸に付き添つて桐ヶ谷へ行かせることにし、今夜はそこの火葬場の茶屋へとめて貰ひ、あすの朝、骨拾こつひろひをして歸るやうに命じた。
「とめて呉れるか知らん」と、馨はいやさうな顏をした。
「おれが前に經驗があるから、云ふのだ。」
「では」と、しぶ/\承知したので、義雄は渠に火葬の手續き證の出來てゐたのなどを渡した。
 人夫の代りに呼んだ車夫も來たと云ふので、知春の室には看護婦を殘し、千代子もしを/\として、義雄等と共に出て來た。
 死人の置き場が別に隔離室の建物のはづれに建つてゐて、田村の赤ん坊のほかに今一つの棺があつた。いづれにも、別々に蝋燭がともしてある。線香の立つてゐる粗雜な土皿もある。
 二名の看護婦が何か艶ツぽい聲をあげてきやツ/\と笑つてゐたが、義雄等の這入つて來たのを見て、急にしをらしい態度に改まり、火をつけたまま手に持つてゐた線香を棺の前の香皿かうざらにさし、
「南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛」と不慣れらしい聲で合唱した。
「たうとう死んでしまつて」と、千代子は棺を見詰めながら、「あんなに親が骨を折つて介抱したのに――憎らしい!」
「そんなことを云つたツて、死人にやア聽えやアしない。」かう云つたこちらの顏を、二名の看護婦はおそろしさうにふり返つて見た。渠自身もまじめになつてる自分の顏にはあごひげが三分ばかり延びてるのが自分の手ざはりで分つてゐた。この數日を剃るひまさへなかつたのだ。
「くるま屋」と、渠は怒鳴り付けるやうな聲で、――「これを乘せるのだ。」
「へい。」車夫はおづ/\棺に手をかけたが、輕いので、造作もなくその肩で運んだ。
 先づ馨が乘り、それから蹴込みへ白い布をかけた箱を乘せたのを見て、通りかかつた醫員が立ちどまり、
「何ですか、それは?」
「棺です」と、義雄はきつい、尖つた聲で答へた、分り切つてるぢやアないかと云はないばかりに。
「御注意までに申しますが、ね、知れると車は警察でやかましいのです。」
「ぢやア、これで包んでおやりなさい」と、千代子は自分の卷いてゐた絹の肩掛けをこちらへ渡した。醫員はそれを見て默つて本館の方へ行つてしまつた。
 一番長く――と云つても、きのふの夕方から――看護した若い婦人が一人、義雄等と共に裏門まで車に附いて來た。
「殘念だ、ねえ、もう、これツ切りかと思ふと――」
「お氣の毒でした、わ、ね。」
「桐ヶ谷だよ。」義雄が念を押すと、
「へい」と、車は駈け出した。
 歳の暮に近いさむ風がそのあとをひゆう/\云つてるのに義雄は氣が附いた。
 千代子はすすり泣きをして、袖を目に當てた。こちらも胸が一杯になつたが顏をむけて、愁ひの色を隱した。そして、氣を無理に持ち直して考へた、死に行くものは自分に關係がない――亡父でも、自分に殘して呉れたのは、ただ梅毒もしくは痔と僅かな財産だけだ――千代子も死ね、お鳥も死ね、入院してゐる二名の子も死ね、さうしたら、最も冷たい雪や氷の中へでも、自由自在に自分の事業をしに行けると。
「さうだ。どうしても、わが國の極北へ行かなければならない――でないと、あいつ、意志が弱いのだ、る/\と吹聽ばかりして、何も着手しない、と云ふ、友人間のそしりを脱する事が出來ない。」

 千代子の言葉に據れば、一昨日、重吉も樺太から歸つて來て義雄に會ひたいと云つてるさうだ。
 渠には、いよ/\この自分の事業により、やがて、自分のこれまでの失敗と不評判とを取り返して自分の同時にまた全人的發展なるところの社會的發展をも實現することが出來ると云ふ希望が輝いた。
「今晩は歸つて來なさるでせう、ね。」かう千代子が聽いたのを振り向きもせず、渠は自分が幹事の忘年會が湖月で多くの藝者などをまじへて賑やかに飮んでゐるありさまを想像しながら、「どうか分らない」と、すなはち、お鳥にも告げて來たのと同じ言葉を繰り返して、電車の乘り場へ急いだ。
 渠はそれほど、萬事を投げ出してまでも、友人仲間に孤立してゐる自分の意氣込みを發表したかつたのである。


 よそほつてまで見せるいつものむツつりとは少し違つた氣分で、義雄は自分の物だが、最も好かない家へ出かけて行つた。然し下宿屋田村の玄關をあがると、直ぐ女房の千代子に出くはしたので、いつもの通りまたむツつりした氣が起つて、物を云ひかけたくも無かつたが、ひて顏をやはらげた時は、棒立ちに立ちどまつてゐた。
 千代子も立ちどまつて、冷やかな笑みを示した目をぢツと所天をつとに投げた。そしていきなり、
「珍らしくにこ/\してらツしやいますが、何か面白いことでもありますか、ね?」
「‥‥」これで、もう、かれは素直に出られなくなつてしまつた、腹のどん底に用意してゐた聲を腹一杯に出して、「金がるんだ――三圓だ!」
「へい――」かのぢよはきよとんとして、所天の突然な太い大きな聲を出した顏を見守つてゐたが、飛び出たやうな眼をわざとらしく横にらして、「お金なんかありません!」
「何! こなひだ渡したのが、もう、無くなつたわけはない!」
「あれは」と、また向き合つて、「うちの暮しに入ります――お客さんが立て換へて呉れいと云つても困るぢやアありませんか?」
「下宿人に金を立て換へるときまつてやアしない!」
「あなたは御自分のうちの商賣を御存じないのですよ。」
「商賣はお前が勝手にしてゐるのだ、おれは別におれの仕事がある!」
「ぢやア、あんな目かけなどに夢中にならないで、せツせとその仕事をすればいいでせう――下宿屋は、ね、亡くなられたおアさんが、やめてしまふのも惜しいからわたしにしろとおツしやつたのですよ!」
「だから、勝手にするがいい、さ。おれは兎に角、今、音樂會に行く金が入るんだ。」
「ふン」と、かの女は鼻で受けて、横を向き、「きのふの新聞に在つた音樂倶樂部でせう――ありません!」
「よし!」かう云つて、渠は鳥うち帽をかぶつた儘、つか/\と、家族の居間へ這入つて行つた。
「あなたは」と、かの女はついて來て、「泥棒して行く氣です、ね。ぢやア、お待ちなさい、わたしが出しますから。」
「おれのうちの物を」と、つツ立つて勢ひを見せ、「おれが出すのに、何が泥棒だ?」
「だツて」と、一生懸命な口答へをするやうに口をとんがらかして、「箪笥をこはされるだけでも詰りませんから、ね、この家だツて、もう、抵當に這入つてゐますよ。」
「知れたことだ、今度の樺太の事業の爲めにやア、家どころか、家族やおれ自身をも犧牲にするかも知れないんだ。」
「あの女におだてられてでせう――」
「手めえにおれの心が分るものか?」
「分つてますとも!」
「ぐづ/\云はないで、出せ!」
「樺太の事業だつて、成功するか、しないか、分るものぢやアない――きのふだツて、二百圓よこせの電報が來たのを屆けたのに、どうするんだらう?」
「どうするも、かうするも、おれの考へだ。」
「あなたはおれ/\とお云ひなさいますが、ね、若し失敗したら、うちのものをみんなどうする氣です――かつゑさせても構はないのでせう」などと云ひながら、千代子は引き出しをあけて、さつを三枚出した。「ほんとに馬鹿々々しい!」
「出せ」と、引ツたくつて、「うちなんざアどうでもいいんだ!」
「そんなにあの女が――」
「いつも云ふ通り、ね」と、あごを突き出して、「おれは女の爲めに狂つてるんぢやアない!」
「狂つてるぢやアありませんか? ちツともうちにゐつかないで――」
「おりやア手前をいやなんだ!」
「いやでもなんでも、家内かないは家内ぢやアありませんか?」
「だから、早く自決しろと云ふんだ!」
 三人の子供はおづ/\しながら、一緒に室をのぞいてゐるので、女房のくど/\云ふのを相手にしないで、義雄は飛び出すやうに家を出てしまつた。

 その頃、義雄は、芝公園に接する或片側道かたがはみちの粗末な二軒長屋の一方の二階へ、お鳥を移してゐた。
 一度も二度も居場所を隱して歩いたが、魔のさすやうに發見せられるので、たうとう大膽になつてしまつた。樺太から事業上の電報などがいつやつて來るかも知れず、また新聞雜誌の寄稿依頼者があつた場合――これが本來の職業であるから――ゐどころが分らないのも困ると思つて、自分の家に近いここにきめたのである。
 お鳥は最初これを非常に反對した。
「また、やつて來て人に恥ぢをかかすのぢや。」
「もう、決してをどり込まないと誓はせてあるのだから。」
「分るもんか、あの氣違ひが!」
「來たら、蹴倒すだけのこと、さ。」
 時々、皿におかずやら、一人前のおはちに五もく飯やらを、子供が好意らしく屆けて來ることがあるが、お鳥は口に入れたことがない。
「毒が這入つてるかも知れへん。」
「まさか――」
「まさかと云うたツて」と、かの女は口びるを左右に引き張り、齒の間に少しつばををどらせ、「それだけまだ向うを信じてるんぢや。」
「信じるも、信じないもないぢやアないか」と、微笑しながら、「死ねばもろともだア。」
「あたい、まだ」と、眞面目くさつて、皮がたるんでくしや/\した顏の中から男を見詰めて、「あんな婆々ばゝアに殺されたうはない。」
「おれも死にたかアない。」かう、からかひ半分にあしらひながら、義雄は、家から屆けて來たものがあると、いつもみんな自分獨りで平らげた。かの女には、それがおのれを馬鹿にしてゐるとしきや思はれないやうであつた。
 かの女は一日物を云はないことがある。義雄はまたそれをいいしほにして、急ぎの原稿を書きつづけた。
 障子をあけると、向うは、もう、公園の一部で、烏が澤山集まるので、烏山と名の付いた森が見える。この森と家の建つてる側との間の道幅は廣いが、少し傾斜があつて、上では直角に曲つて、水道溜め場のある方に導く。その角を曲つて來る人の姿が見えると、「旦那さまや奧さまや、お助けでございます」をやり出す乞食こじきが、こもを敷いて毎日のやうに、丁度この二階の正面に出てゐる。
「また云うてる」と云つて、お鳥はよく障子のあはひからのぞいた。親子はいかにも哀れみを乞ふやうな樣子で、往來の男女を拜んでゐるが、人通りがちよツとでも絶えると、子は、
「何かたべたい。なア」と云つて、足を投げ出し、横になつて天をながめたりする。
「それ、それ」と親に注意されると、急に拜みの卑劣な姿勢に返つて、向うから見え出したものを見ない振りで見ながら、再び物乞ひの聲を張りあげる。
「あの子面白い子だ――あたいも何かたべたい、なア」
「ぢやア、またあすこのあんころかい?」
 かう云はれてかの女が機嫌を直すこともあつた。義雄はそれにお付き合ひしながらも、執筆を絶つたことはない。その乞食親子とこの書齋代用の二階とを舞臺にして、自分の事ではないが、自分が先驅者の一人であつたと思ふ詩界に於いて、落伍者となつた架空の一詩人を點出し、その無自覺な努力をしてゐるところを以つて、或る方面に對する諷刺をした小説が出來たのもこの叫びである。去年、苦心して書いた長篇「耽溺」が今年の二月に或雜誌で發表せられてから、渠は小説を書かうと云ふ確信が強くなつてゐたのだ。でも、いろんな雜誌や新聞から依頼して來るのは、多くは評論の方で、それに次いでは、まだ、渠としては、もう、興が去つてしまつた詩である。かう云ふ依頼を渠はすべてこの二階で受けた。
「お助けでございます」が始まると、お鳥はきツと障子のそばへ行つた。そして御成門おなりもんの電車停留所の方から傾斜をのぼつて來る男があると、どの男を見ても、先づ義雄の客ではないかと思つた。
ちごてた」と、失望した樣子で、「うちへ來るんかおもたら。」
「東京にやア、人は多くゐるから、ね。」
「でも、きのふ、あの加集かしふに似た人が通つた。」
「お前あいつを好きだ、ね――?」
「誰れがそんなこと云うた!」かの女は足ぶみして怒つた。机に向つてる男を見おろして、「あんな輕薄な奴、あたい嫌ひぢや!」
「おれも嫌ひだが、ね、小學時代の友人でもあるし、いろんな口聽きとして役に立つやうだから――」
「そりや自分の勝手やないか――あたい知らん!」
 そしてまた上から下りて來る女があると、かの女は先づ義雄の女房ではないかと――あれは綿服主義だとか云つていつもきたないなりをしてゐるが、立派さうな風の、若いのを見ると、また、女優ではないかと思つた。
 この上を拔けたところに、帝國女優學校の假教場があつて、そこへお鳥も這入らうとして義雄にかけ合つて貰つてるし、またその用意に三味線と踊りとを稽古してゐるのであつた。
 義雄とお鳥との間に出來た最初の約束はそんなことではなかつた。
 かの女が一たびその故郷なる紀州に歸るまで在學して卒業した或裁縫學校へ再び入學し、一二年間その高等科を修めさせることであつたが、裁縫などよりも琴の師匠にでもなる道を開いてやらうとしてゐるうちに、義雄自身の直つてしまつた或病氣を急激に受け繼いだが爲め、殆ど半年ばかりは病院通ひで經過してしまつた。
「もう、さう苦にならんさかい、最早もう何かの稽古にやつてお呉れ」と、かの女が云ひ出した頃には、かの女に對する渠の一度冷めかけた愛情が再び囘復してゐた。そして渠は、多少の慾目が手傳つてゐるとは身づから思ひながらも、既に二人まで失敗した女優養成を今一度かの女にやつて見ようと考へ付いた。それに、やがては自分も事業上一時は樺太へ出向かなければならないので、かの女をどこかへ――金錢上の責任は持つとして――託して置くやうにする必要もあつた。
「どうだ、女優になつて見ちやア?」
「そんなもの、いやぢや!」
「何も顏を赤くしないだツていいぢやアないか?――三枚目ぐらゐのところぢやア、牛耳ぎうじが取れるかも知れないぜ。」
「三枚目たら――?」
「――」義雄はその日それに對する返事をしなかつたが、かの女がさう云ふことに對して有する恐れだけは、毎日のやうに努めて取り去つてしまふやうにした。そして、顏のことは云はないで、歳がもう三四年若かつたら三枚目にも、第一流の花形にも行けたにきまつてるが、それにしても脊が高いのは女優として一つのいい武器だとも話した。
 六疊敷きの、外に向つたところに小さい一閑張りを置いて、その上で義雄が筆を走らせてゐるそばへ來て、かの女は片ひぢを突いて横になり、黄の勝つた中形矢絣やがすりの廣島銘仙の綿入れの、太く時色の※(「ころもへん+施のつくり」、第3水準1-91-72)ふきの出たところを、足袋の親指でさはりながら、云ひにくさうに、
「あたいでも成れるだろか」と聽いたこともあつた。
「お前の決心一つ、さ。」
「決心したツて、成れないこともある。」
 かの女は、それでも、頻りに獨りで鏡に向ひ、自分の顏をいろんな風に映して見る日がつづいた。
「大分乘り氣になつて來た、な」とは考へながら、義雄は後ろ向きにそ知らぬ風をして、友人なる有名な背景畫家の大野がいつか云つたことを思ひ出した。
「あいつア馬鹿だぜ――少し足りないぜ。」
「それやア、君のやうに藝者や苦勞人くろとばかり見て來た目にやア、ね――ありやアまだほんの田舍ものだ。土のにほひが拔けてないのだ。」
 この問答があつたのは、大野が義雄とお鳥とを招待した或るうなぎ屋の二階で、お鳥が便所に立つた留守の時だ。かの女が澄ましてもとの座に返つたところで、大野は醉眼でかの女を小娘か何かのやうにのぞき込みながら、
「可愛い、ねえ。」
「ふん」と、かの女は自分の顏をしやくつて、眼を横にらせた。これはかの女が誰れに對しても冷かされる時などにする表情だ、が、自分は餘ほど得意でゐるのだな、と義雄はいつも推察が出來た。けれども、こんな時ほど女の顏の缺點をさらけ出す時はないと渠には見えてゐるので――兎角、太い横じわが三筋寄り勝ちの額の下に、青みがかつた眼の玉が動き、あまり高くない鼻が擴がつて、その下で大きな口が一文字に引ける。意地の惡い表情の變化が豊富に出來ると思はれるのは、ただこの口がある爲めにだけだ。
「それにしても、もツと都會馴れなけりやア、ねえ――」
「田舍ものなら、田舍ものになれる――では、女優にしておくれ」と、かの女が云つたのは、それからまた二三日あとのことだ。
 女優學校へ傍聽生とでも云つたやうな入學の交渉は、校長が旅興行にまはつてゐるので、返事はそれで歸るまで得られないのであつた。
 その校長がわが國では有名な女優であつて、年中どんな忙しい生活をしてゐるのかも知らないお鳥は、不在で分らないと云ふ返事を聞いただけで、それがていのいい斷りではないかとあやぶんだ。
「そんなに心配するなよ、どうせ何事も手筈が延び/\して來たのぢやアないか?」
「だから、早う何かさせて呉れたらえいぢやないか?」じツと、また、にらむやうにして、「樺太のことと云うたら、――何でも自分のことは――火の付くやうに騷いでる癖に、あたいの事となつたら、いつでも平氣でぐづ/\させて置く!」
「ぢやア、下のお婆アさんに先づ三味線でも習つてゐるがいい、さ。」
「そんなら、早う頼んでくれたらえいぢやないか?」
「さう意地惡く云ふなよ。」義雄は、かの女が餘ほどじやうの籠つた時の外はおだやかに出ず、どことなく皮肉なやうな、いぢけたやうな物の云ひ振りをするのを、社會一般から見て、不自然な状態に置かれてゐるのを忘れない爲めだと受け取つてゐる。渠は、どうせ、今の妻は離別する時があると思つてゐるので、お鳥に對しても、時には「やがておれの女房が無くなるのだが」とも語つた。さうかと云つて、いづれ來るべき本妻離別の時となつて、お鳥のやうな女を正式の妻に直さうとは夢にも考へてゐない。
「本妻にして呉れ、して呉れ」が、子供が母に何かをねだるのを見てゐるのと同じやうに、渠にはうるさかつた。
 それには、毎日かの女のあたまを何か一つのきまつたことに占領させて置く必要から、さきには、義雄が何年か以前に使つた※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イオリンを持つて來た。すると、かの女は獨りでどうやらかうやら調子に辿り付いて、田舍で歌を聞きおぼえたストライキ節などを云はせるやうになつた。で、三味線もいけないことはなからうと云ふことが分つてゐた。
 義雄は自分の家から、繼母が殘して逃げて行つた古い三味線を、千代子の反對を受けたにも拘らず、ひツたくつて來たのである。それが毎日一度は、渠の坐つてる下から、ぺこん、ぺこんと聞えた。同時に、またかの女は近所のちよツとした踊りの師匠へ通つたので、二階の片隅では、しよツちう、五十錢であつらへて貰つたとか云ふ花やかなあふぎが擴げられたり、閉ぢられたりした。
「清水さん、お稽古をしませう。」かう本統のお師匠さんらしく呼びかけられて、お鳥が三味線を持つて下りて行つた時、義雄は客の加集泰助に對して二百圓の周旋を頼んでゐた。
 渠はこの客に對して信用を置かなくなつた。と云ふのは、不斷から輕薄な性質であるばかりか、その本職のやうにやつてる周旋が一向依頼通りに運んだことがない。家を抵當にするからと云つて、去年から頼んであつた事業費引出しの件も、たうとう意外の方面から突然に出來た。
 去年の歳末に迫つて子供が三人揃つて入院し、一人は死んだ騷ぎの時も、加集はたうとう工面し切れなかつたので、義雄は自分の足かけ七年間勤めた商業學校の英語教師を、どうせ辭職するのであつた豫定よりも、三ヶ月早く辭職し、その退職金を十二月三十一日と云ふ日に受け取つたので、僅かに年を越えることが出來た。
 けれども、今囘は、もう、二進につち三進さつちも行かなくなつたので、またこの加集を呼び寄せたのである。柄でもないと云はれる事業に於ける兵站部へいたんぶを勤める爲めに、技師や、弟以下におくれてまだ居殘つてる義雄ではあるが、かう早く金の追求が來るとは預期しなかつた。もつとも、その用意としては、地方の或都會の水道建設費二百寓圓を外資に仰がせることにして、渠の先輩で今コンミシヨンマチヤントをしてゐる人に話し込み、市の責任者の依頼状を待つことにまで運ばせたが、これは勸業銀行が出すから外資を仰ぐなと云ふことになつて、渠の奔走は無駄になつてしまつた。
 また、渠の玉突仲間なる或鑵詰問屋の主人へかけ込んでも見たが、少くとも第一囘の製品を見ないうちは、商賣の法則として、金の融通が出來ないと云はれた。
 家を二重抵當にするか、餘ほど好意ある人から信用貸しを仰ぐか、この二つの道しきやなかつたのを、この客は今度は、どこをどううまく立ちまはつたのか、信用で借りられさうだと云ふ話を持つて來た。
「ぢやア、頼む。」
「然し金のことだから、君も十分に責任を負うて呉れんと――」
「そりや、無論、約束する期限までにやア――」
「おい」と、今まで何となく下へ氣を取られてゐた加集が、俄かに「下手へたくそぢや、なア。」
「ふ、ふん。」義雄も客について又苦笑ひをした。
 お鳥は「今も昔は」を習つてるが、三味線がびつこのやうに歩いてるらしい。
「まだ聲を出せないのか?」
「出せば出せるだらうが、下の婆アさんを半分馬鹿にしてゐるから、いけないの、さ。」
「無論、あの婆アさんかて」と、時々、加集に關西辯が出るのはお鳥と同じやうで、「上手じやうずだと云へん。それに、五十づらをさげて、薄化粧をして、若い亭主に燒き餅を燒く奴だから、なア。」
「清水に聞いたのだらう――けれども、ね、如何に縁日商人だからツて」と、義雄は額の廣い、頬のこけた顏に、鋭い眼を眼鏡の裏から光らせながら、「さう馬鹿にするものぢやアないさ――お互ひに好き合つてゐるのだから。」
「よく夫婦喧嘩をすると云ふぢやないか?」
「そりやア、また、出來心からだらう、さ。」
「君等と反對だぜ、女が五十で、男が三十四では。」
「僕はさう年を取つてやしないぢやアないか?」
「いや、さ、年の割り合ひがよ――あいつは二十二ぢやさうぢやないか?」
「欲しけりやアやるよ、僕が樺太へ行つちまやア。」實際、義雄はその金を空鑵くうくわん材料に換へ、それを持つてあつちへ行かなければならないのだ。そしてその後のお鳥は、都合によれば、どうなつてもいいと思はないこともない、かう金の融通に困つてる時は、殊に。
「君の病氣の身がはりなんて」と、加集は反抗の樣子を見せようとしたが、顏に多少の釣り込まれた色が見えたのを、義雄はひそかに、「馬鹿な野郎だ」と認めた。
「聲をお出しなさいよ、聲を!」下の婆アさんの年に似合はない涼しい聲がした。
「出さないぢやア、いつまでも出ませんよ。」
「ナダイムスメノー」低く、然し氣取つてるやうな――
「やつてる、やつてる!」加集は背廣の洋服に圓まつて、その場にわざとらしくひツ繰り返つた。
 義雄が音樂倶樂部の入場費を自家から強奪したのはその日で、――かれが不愉快な心持ちで戻つて來た時、お鳥が同倶樂部へ伴はれて行く用意を濟まして、義雄の机に横ずわりにもたれ、むろ咲きのにほひすみれを頻りに鼻に當ててゐた。渠の友人なるアメリカ歸りの或客がかの女へ贈り物に持つて來た小鉢で、「あの人はなか/\ハイカラだ」と云つて、かの女はその客が歸つたあとまでも喜んだものだ。そして義雄の想像では、かの女がこれまでに餘ほど得意に感じたことはたツた三つだ――第一は、かの女の寢物語りから知つたことだが、さきの所天をつとたる小學教員に、紀州でまだほんの同僚であつた時、自分の寫眞を要求せられたことだ。第二は去年の夏、義雄に伴はれて甲州へ行つて、初めて温泉のお客さまとなつたことだ。そして第三が、すなはち、この贈り物を受けたことだ。
「あたい、あの人ツきや」と、かの女はじらし半分に云つた。
「でも、ね、お前のお望み通りの獨身者ぢやアないよ。」
「獨身者でなかつたかて」と、負け惜しみに、「自分のやうなおぢいさんではない。」
 今も亦じらしてゐるのだと思はれるので、義雄はそんな興には乘りたくなかつた。坐らないで、そしてかの女の正面には向つてるが、暫く物を云はなかつた。そして良くり返つたうは髭をいぢくりながら、曾てかの女が怒つて、その髭をひツ張つた時の痛さを思ひ出してゐた――まだ痛みが殘つてるやうだ。
 かの女はこれでもか、これでもかと云はないばかりに、紫の花の上に自分の鼻を突ツ込み、ふんふん、ふん/\嗅いで見せてゐた。が、こん負けをしてか、目だけで見あげて微笑した。
「さア、行かう。」
「でけた」と、疑問的にくびを優しく動かしてから、いきなり訴へるやうに、「あの加集の奴、好かん!」
「‥‥」
「あたいに、こなひだから、いやらしいことばツかり云うて!」
「いいぢやアないか」と、とぼけた振りで、「向うがお前を好いて呉れりやア?」
「では」と、花の鉢を兩手で持つて、すわり直した膝の上に置き、男の顏をうは向きに正視して、「あたいを取られてもえいか?」
「うん。」ふと、さうして呉れりやア、こんな面倒はなくなると云ふ氣が出て、「それもお前の決心一つだ。」


「念の爲めに聞いて置きますが、な。」音樂倶樂部の幹事の一人杉本博士の聲だ。
「この會では、正當な婦人でなければ出入りさせないことになつてゐますが、君はあの婦人に關係はないでせう、な?」
「關係!」義雄は、同倶樂部の演劇研究部へ鶴子と云ふ女をモデルに入れる爲め紹介しにつれて行つた時のことを思ひ出してゐた。無論關係はなかつたが、その時考への中にあつた痛いところを突かれたので、それを隱す爲めにわざとらしく胸をそらせた。
 こんな思ひ出に冷汗をかく氣がして、義雄は今夜の演奏會を小さくなつて見渡すと、あの夜、あの女や渠と共に、三味線につれて新工風くふう國風くにぶり舞踏の一なる、「木曾の御嶽おんたけさん」を稽古し、トコセ、キナヨ、ドン/\と云ふかけ聲などを擧げたりした連中は、すべてあちらこちらの椅子に陣取つてゐる。渠の早く目に付いたのは、博士――某銀行の頭取――某富豪の息子で、義太夫に上手なもの――常任幹事の細君――踊りのモデルなる濱野孃――。
 義雄は、演奏藝術に對する純粹な感興によりも、むしろ周圍の人々との關係に醉つてしまひながら、有樂座の下の眞ン中ごろで、通り道に接する椅子を、自分と並んで占領してゐる女が、さきに演劇のモデル志願を他の或理由でたツた一日で斷念したあの女のやうな美人でないのを、且田舍ものじみてゐるのを、誰れにも見られたくなかつた。が、いづれも美しい女連が先づ見のがさなかつた。
「田村さん、田村さん!」常任幹事の細君が廊下で義雄を捕へて、「あなた、今晩は、奧さんと御一緒?」
「え――」
「嘘でせう」と、濱野孃は、細君と目くばせしながら、踊りの時のやうにからだをしなやかに動かせた。「それで、この頃は不勉強、ね――トコセキナヨも、富本も。」
「‥‥」どうしておれの女房でないのを知つてるだらうと思つた時、ふと千代子が曾て、同倶樂部の素人しろうと試演會があつた時――その時、けふも來てゐる理學士が研究の爲めに習つてる踊りのうちに「保名やすなの狂亂」を踊つたが、――義雄の紹介も待たないで、いつもの出しや張り根性で、勝手に杉本博士に面會し、うちのがいつも御厄介になりましてなどと入らざらん挨拶をしたのに思ひ及んだ。あの時見てゐたに相違ないと氣が付いたが、ただ二人の美しい衣物の着こなしや、からだのしなやかさにいい感じを與へられながら、何げなく、「どうせ僕にやアどツちも駄目ですから、ね。」
「駄目ツて」と、細君があまえるやうにしなをして、「稽古おしなさいよ――あたし大分富本が進みました、わ。」
「あすからでも、つづけてらツしやいよ。」
「もう、僕にやア興味がなくなつたのでせう。」かう云つて、渠は樺太に於ける事業に對する誇りをひそかに胸に踊らせた。
「どうです、田村君、あの歌澤は?」番組の第四が終つてから、博士は義雄に立ち話をした。「富士の白雪などは最も面白いぢやアありませんか?」
「ちよツとひねくれて、含蓄があるやうなところが、ね、お宅で初めて聽いた時から面白い物だと思ひました。」
「さうでした、な、君は歌澤再興者の一人です。」博士のかうした自信を交へた誇張的な挨拶も、この流派の再びあたまをあげて來た當時であつたから、義雄には不愉快ではなかつた。
 番組第五の長唄「綱館つなやかた」が六左衞門等のいとで進行中、伊十郎が例の通り自慢らしく大きな音をたてて鼻をかんだのが、つい厭になつた爲め、氣を變へようとして席を立つた。すると、義雄は出口に近い一番うしろの、誰れもゐない一列の椅子の一つに腰かけて、黒い羽二重の羽織りを着た千代子が、痩せこけた顏から兩の眼を飛び出させるやうにぎろ/\させて、こちらを見てゐるのに出くはした。
「こいつだ、な、お鳥を何かの手段で呪つてると云ふのは!」直ぐにもなぐり付けたかつた。が、あたりにこの會の内輪に屬する連中がゐるので、からだ中にみなぎる怒りの顫へを微笑にまぎらせ、そツとその前の椅子に行きながら、成るべく小さな聲で、「お前も來たのか?」
「お目出たうございます!」
「‥‥」渠は吹き出したかつたが、かの女の多少は遠慮してゐるらしい聲が、持ち前の癇性かんしやうを運んで、ぴんと靜かな聽衆の耳に響いたと思はれたので、この演奏會のレコード破りをやつたやうな申しわけ無さを感じた。
「あなたばかりがいいことをして」と、こちらばかりに恨めしさうな目を注いで、「うちのものはどうするんです?」
 濱野孃や常任幹事の細君がじろ/\こちらを見てゐた。義雄は腰をかけたでもなくかけないでもなく、かの女に向つて椅子の背にもたれてゐるのに氣がついた。
 なほいつものやうな事を千代子が云つてるので、義雄は默つて廊下へ出てしまつた。が、かの女はついても來なかつた。
 ふら/\歩きながら、暫く氣を落ちつけて見ようとしたが、どうしても義雄の怒りと不面目な氣とが直らなかつた。
「千代子が來てゐるから、きツと面倒が起る。直ぐ歸れ」と、名刺の裏へ鉛筆で書き付け、案内の女に託したら、
「隣りのお方が取つてしまひました」と云つて、歸つて來た。
 渠が扉に付いてるガラス窓の羅紗をあげて、のぞいて見ると、渠の席へちやんと黒い羽二重の紋付きがかけて、メリンス無地の牡丹色の被布ひふと並んでゐる。そこばかりが見すぼらしいやうに思はれて、お鳥をつれて來るのではなかつたと後悔された。めて被布が道行きで、道行きがメリンスなどでなく、且、都會じみた柄であつたらいいのに――かの女がいい氣になつて着てゐるのを幸ひに、何も新調してやらないのも、あんな下らない病氣の爲めに、かの女の病院通ひの入費がかさんだ爲めだ。
「馬鹿々々しい!」渠は自分で自分を非難しながら、別な扉から這入り、夫婦で來てゐる大野のそばに行き、渠に廊下へ出て貰ふやうに頼んだ。
「僕もさツきから」と、大野は酒くさい息を吹きながら、「何か事件が起るぞと云つてたのだ。困つた、ねえ。」
「兎に角、君が行つて何とかこの場だけは無事に濟ませて呉れ給へ。」
「何でも君の細君を一先づ外へ出して、なだめるんだ、ねえ。」
「ぢやア、頼む!」
 義雄はまた扉の窓からのぞくと、新式な洋服を着た紳士然たる友人が聲をひそめるやうに千代子の顏に近づいてゐると、かの女は何か云つて、つんけん/\と顎をあげてゐるのが見える。氣違ひ聲がここまで聽えるやうだ。
 やがて大野は出て來たが、
「駄目、駄目!」首をふりながら、「相變らず分らない、ねえ。おれの云ふことなんか、田村の友人だから、信じないツて。」
「困る、なア。」
「今夜こそ逃がさないで、かたをつけると云つて、――ちやんと片手で」と、大野は口を結び、目を据ゑ、ちから強く握つた右の手を出して見せ、「向うの袂をやつてゐるよ。」
「仕やうのない奴ぢやアないか?」
「それもいいとして、さ、一方も亦大膽ぢやアないか? 見ツともなく袂を握られながら、どうせ來たのだから、わたしもおしまひまでゐませうツて。」
「おい、君」義雄は堪らなくなつて、「今一度二人を呼び出して呉れ給へ――どんなことが起るかも知れないから。」
「いやな役割だが、ねえ」と云ひながら、大野はまた這入つて行つたが、ぷり/\怒つて出て來た。「もうはふツとけ、はふツとけ――バーに行かう。」


 東洋軒の二階でビールを飮みながら、大野は義雄を冷かしたり、慰めたりしたが、義雄の耳にはそれがろくに這入らない程であつた。
 そのうち、長唄が濟んだかして、がや/\と食堂へ這入つて來たものがある。その間に常任幹事もまじつて來て、心配さうに二人に聽いた。
「どうしたのです?」
「實は、ねえ」と、大野が受けて、手短かにこのことのわけを話したので、義雄はそれにつづいて、
「どうもあなたに濟まないことがあつてはと思つて――どうだ、大野君、幹事の權利であの二人を追ひ出して貰はうか?」
「それにも及ばない、さ、おしまひまで聽きたいと云つてるし、僕からもこの場では必らず間違ひをするなと云つてあるから。」
「云つたツて、氣違ひが分りやアしない。」
「心配するにやア及ぶまい、あの樣子ぢやア、一方が惡く云やア、圖々しいから、無事に受けてるよ。」
 最後は呂昇ろしようの柳だが、義雄は勿論、大野もそれを聽く氣にならなかつた。が、ビールに飽いた頃、もう終りが近からうと見に行つて見ると、「必ず草木成佛」のところで、語り手の一特色なるほがらかなラ行音が直ぐ義雄の耳に這入つた。
 かれは大野夫婦の席の後ろの方から、お鳥と千代子との樣子をひそかに注意してゐたが、はねばかりが急がれる神經のいら/\する奧には、どうでもなれ、あの二人がどんな芝居をするか見てやらうと云ふやうな落ち付きもあつた。
「自分だけが早く出てしまへばわけアないぢやアありませんか」と、どこからとなく無言の聲が注意して呉れた。それが正面の二重舞臺の、敷きつめた赤い毛布の色が背後の金屏風に反射してゐる、その中央に据わつた赤い房が二つ下つた見臺のあたりからであつたやうにも聽えた。
「どうせ燒けツ腹だ」と、渠も亦無言で答へた。そして花でも降つて來さうな音樂に滿ちた空氣を、最後に於いて、出來るだけ澤山吸ひ込んで置かうと努めた。
 大野の細君の靜子がちよツと振り返つてこちらを見た。その所天をつとと同じやうに役者じみた所があつて、ちよツと微笑して見せるのにも、その圓く肉づいた頬ツぺたにまで表情が隘れてゐる。この女だ――姉よりも妹の方が眞面目だと義雄が批評したのを人づてに聽いて、曾て、わざ/\「不眞面目生」と稱して愛嬌ある手紙を渠によこしたのは。それから親しく行き來するやうになつたが、渠は、かの女の妹の眞面目腐つて田舍じみた傾向あるに反し、靜子は藝人じみても可なり垢ぬけした精神があるのをみして、かの女を自分等の集まる或詩人會へつれて行つたこともある。
 あれはかの女が大野と結婚する一二年前のことであつた。世間では、大野より以前に義雄はかの女と關係があつたと云つてる。それでさへ詰らないと思つてるのに、この男女がいよ/\結婚するとなつて、大野が先妻を虐待すると云ふごた/\の時、義雄が大野の先妻に同情したところから、またそれにもきたない關係があつたと大野がはの友人等に云はれた。靜子からは、また、かの女と大野との間を圓滿に成立させる責任があるやうに頻りに云つてよこして、義雄に訴へるやうな又渠の態度に抗議するやうな言葉があつた。
 實際、大野と靜子との手を握らせたのは――洋畫家たる大野の或特別な畫にかの女自身をして適當なモデルを供せしめる爲め――義雄の所爲せゐである。
「僕は、然し、結婚しろと云つて紹介したのではなかつた。」かう、義雄は靜子に語つたことがある。それは、然し、甚だ未練らしい言葉だと、渠自身も思つた。その時であつた――渠は、かの女と大野とが關係の途中で中たがひをしたのを仲裁する爲め、大野を日比谷公園の松本樓に待たせて置いて、靜子をそこへつれて行つたのは。
 大野は既に大分醉つてゐた。その上また義雄とビールやウヰスキを重ねてから、そこを出ると、電燈のちらつく樹かげで大野はふら/\と倒れかけた、靜子は、
「あぶない」と叫んで、抱きとめようとしたのを、
「大丈夫です」と、身づから踏みとまつて、大野は太い樹の幹に片手を支へた。義雄はこれを見て、
「相變らず芝居をやる男だ」と思つた。
 靜子をまかされた義雄は、かの女と共に急いで赤電車に乘つたが、車中から窓の外へ今喰つた物を吐いた。渠の背中をかの女はさすつてゐた。そしてかの女は電車から下りると、藥屋を叩き起して寶丹を買つた。
 靜子姉妹は新派に屬する日本畫家で、女二人の腕でその母と靜子の先夫の子とを養つてゐた。
 義雄は寶丹を飮ませられ、暫時その家に寢かせられた。やがて車が來て、それに乘つた時、またへどを吐いた。
 こんな記憶の間から「母の柳」が引かれて行く後ろ姿を義雄はまざ/\と見た。すると、
「田村さアん、田村さアん」と云ふ女の聲が青山あたりの電車の窓から聽える。
 さうだ、あれは、義雄の友人たる某漢詩人が有名な事件で殺されたその葬式の掛り員として、義雄等が人力車をつらねて青山に向ふ途中のことであつた。靜子が妹と一緒に九段行きに乘つてゐて叫んだのださうだが、義雄は後にかの女から、
「すまアし込んでゐて、一向氣が付かないんだもの」と、聽かせられた。かの女がまだ大野との間に親しみも何もなかつた時のことだとは云へ、その場の情熱に燃えると、前後もかまはず、
「何て向う見ずの女だツたらう」と渠は思ひ出して、獨り微笑をもらした。
 そして段々と自分の神經が舞臺の氣分に一致して來たと思ふ時、惜しいやうに幕が下つた。
 どや/\と聽衆が出て行くあとから、廊下の外の石段の上で、義雄と靜子とお鳥と千代子とが落ち合つた。
 千代子はお鳥の袂を片手でしツかり握つてゐる。
「見ツともないから、よせ?」と、義雄はあたりへ聽えないやうに云つた。
「よう御座います」と、これはまた皆にも聽えるやうに、「わたしの勝手です!」
 お鳥は何も云はないで、微笑にまぎらせてゐようとしてゐる。
「うちのはどうしたんでせう、ねえ」と、靜子は首を延ばして方々を見まはした。
「僕が見て來ます。」義雄は殆どがらんどうになつた聽衆席をのぞいて見たり、廊下をあちらこちら行つたりした後、便所のそとのところで大野が巡査と何か云ひ合つてゐるのに出くはした。
「そんな誤解をされちやア、僕は實に迷惑します。」
「誤解ぢやアない、實際ではありませんか?」
「馬鹿なことを!」
「馬鹿とは何だ?」
「どうしたんだ、君?」義雄はそこへ口を出した。
「なアに、ね」と、大野はふり向いて、怒りの爲めに聲まで顫はせて、「僕が君の細君に接吻をしてゐたと云ふんだ。」
「そりやア間違ひです――實は、ちよツとした事件の爲めに――」
「まア、君云はないでも濟むことは云はないでもいいんだ――野暮くさい誤解を解きやア。」
「何が野暮くさい?」巡査が赤い顏をしてゐるのは、息の臭ひで、義雄には、酒を飮んでゐると思はれた。
「まア、君」と、巡査をなだめるやうに、「僕が僕の妻に用があつてことづてを頼んだので――そんな野暮は云ひ給ふな――君は酒を飮んでるぢやアないか?」
「おれは決して醉つてをらん!」
「醉つてないかも知れないが、飮んでるのは事實でせう、顏に現はれてるから。」
「おれだツて、茶の代りに酒ぐらゐは飮む。」
「飮むのは御勝手ですが、それが爲めに云ひがかりを云はれちやア――」
「何が云ひがかりだ?」
「實際、僕がこの友人に對してすまないことになるのですから。」
「風俗壞亂だ――兎に角、警察署まで行つて貰はう。」
「何が風俗壞亂だ――馬鹿々々しい!」大野はかう云つて、巡査をにらみ付けた。
 靜子がいつのまにか後ろへ來てゐたが、
「あなたの爲めに」と、泣き出しさうな顏をして義雄に向ひ、「こんな詰らない目に會ふのだ、わ。――さア、行きませう」と、大野の上衣の末を引ツ張つた。
「また風俗壞亂だぞ」と、大野は押さへた聲で叫んだ。
「馬鹿なことを云ふにも程があるぢやアないか」と、義雄は巡査にも聽えるやうに靜子に云つて、皆と共に建物の外へ出た。
 晴れた夜で、夜ふけの寒い風が星々の光をちらつかせてゐた。
「事件は何でもないのですから」と云ひながら、倶樂部の常任幹事もついて來て、當の巡査をなだめてゐたやうであつたが、義雄は巡査がなほうるさく從つて來るのを見て、
「もう、あなたがついて來るにやア及びますまい。」
「何だ、警察まで來なけりやならん。」
「馬鹿を云ふな!」大野もまたむきになつた。「貴さまは醉つてるんだぞ!」
「貴さまとは警官に向つて無禮だぞ!」巡査も少し身がまへをして、「おれをそんなに馬鹿にする氣なら、鐡拳をくらはせて見せる!」
「う、う、う、なぐるなら、なぐつて見ろ! 醉ツ拂ひの警官に、人民をなぐる權利があるなら、なぐつて見ろ!」
「手出しをすりやア、おれも承知しないぞ!」義雄も大野の勢ひにつり込まれて、腕がむづ/\してゐた。
「まア、さう手荒いことは云はないでも」と、幹事が云つてるところへ、別な巡査がやつて來て、この二人で兩方を引き分けた。
 巡査が去つてから、幹事は云つた。
「有樂座で歡待しないからと云つて、あの巡査がその鬱忿うつぷんをこちらへ漏らすのだから、たまりません。」
「不都合極まる」と、まだ大野は納まらなかつた。
「いろんなことが起つて、すみませんでした」と、義雄は幹事に詫びたが、あらゆる面目を失つてしまつた氣がした。
 見まはしたが、三名の女はいづれもそこにゐなかつた。
 數寄屋橋すきやばしから日比谷公園に至る道で、女どもの後ろに追ツ付いたが、靜子が昂奮した口調で早口にお鳥に物を云つてるのが聽えた。
「だから、ね、早く田村さんと別れるやうにおしなさい――どうせ、いつか、棄てられるにきまつてますから。」
「‥‥」
「ね」と、のぞき込むやうにして、「分りましたか?」
「‥‥」お鳥が高いあたまを少しうなづかせるのが見えた。
「あなたも」と、靜子はちよこ/\千代子のがはにまはり、「あまりひどいでせう?」
「何がひどいのです!」千代子はその方へ向いて、顎に力を入れながら、「わたしが頼みもしないことを持つて來て、大野さんがぐづ/\云つたのです。」
「馬鹿を云ふな!」義雄も默つてゐられなくなり、つか/\と出て行つて、妻と、それから今の巡査とに對して押さへてゐた忿怒ふんぬを一緒にして、この言葉と同時に、かの女の横ツつらを思ひ切りなぐつた。
「そんな野蠻なことを――」靜子はとめようとした。
「おれが貴さまを追ツ拂ふやうに大野君に頼んだのだ!」
「おほきなお世話です――かうしてつかまへてる以上は、うちまで引ツ張つて行つて處分を付けます。警察へでも、どこへでも突き出してやる!」
「あなたも少しお考へなさいよ、田村さんの――」
「考へた上のことですから、ね!」
「わたし、もう、知らん!――田村さんは女をみんなおもちやにしてしまはうとするのです」と、靜子は立ちどまつて泣き出した。すすり上げながら、「そんな人でもなかつたのに!」
 義雄は引き入れられるやうな感じがして、かの女の姉妹と直接に行き來してゐた時のことを今一度親しく思ひ浮べさせられた。そばへ行つて、
「兎に角、ねえ、奧さん、これから大野君の家へ行つて、あいつによく以後こんなことをしないやうに話して貰ふつもりですから。」
「兎に角、奧さん」と、大野も千代子をなだめるやうに、「これから僕の家へいらツしやい。」
「わたし、不賛成です!」靜子はからだを振つて、その所天をつとから一歩を退いた。「田村さんのやうな人は、もう、來て貰ひたくありません。」
「貴さまにそんなことを云ふ」と、大野はおも/\しい聲を出して、「權利があるか?」
「わたしだツて、大野さんのところなどへちツとも行きたかアありません!」
「默れ!」義雄は妻の言葉を制してから、友人に向ひ、「君まで夫婦喧嘩をしちやア困るぢやアないか!」
「あいつが獨り勝手な横暴なことを云やアがるから!」
「ぢやア、わたしはあなたの家庭をおいとま致します。」
「勝手にしやアがれ!」
「そんなことを云ふなよ、君。」
「なアに」と、大野はまた巡査に向つた時のやうに怒りの聲を顫はせて、力づよく、「生意氣なことを云やアがる!」
 お鳥はただ默つて、何かの機を見てゐたのだらう、この時、さきを握られてゐる自分の袂を兩手でつかんで、うん―うん―うんと云ふやうに、左右に三度振つたかと思ふと、それが千代子の手から離れた。
「あんなことをしましたよ」と、千代子は甘えるやうに義雄を見あげたので、渠はいやで/\ならない妻がまだこツちに頼る氣があるのだと知つて、自分も逃げ出したくなつた。
 靜子はその家路とは反對の電車に乘つた――曾て義雄がかの女と一緒にそこから乘るが早いか、窓からへどを吐いた方角へだ。
 お鳥はその脊高い眞ツ直ぐなからだをそと輪に運んで、靜子とは反對の方へずん/\行つてしまふ。その歩き方は持ち前だが、これをうしろから見るたびに、かの女のまだ本統に直らないしもの病を義雄は思ひ出さずにはゐられないのであつた。
「今夜は、おいやでせうが、ね、どうしても離れませんよ」と云つて、千代子は渠がかの女から綿服主義にさせられてゐるそのごつ/\した羽織りの袂を握つた。
「今、僕が逃げたら」と、言葉を英語に換へて、「こいつが君の重荷だから、ね――君、先づ電車に乘り給へ。」
「君ア色をとこだよ。まア、やさしくついて行つてやり給へ。――僕はもツと醉ひのさめるまで散歩する。」
「ぢやア」と、邦語はうごに返つた、「失敬するよ。」
「僕のワイフは、實際、飯田町へ歸つたのか、なア?」
「大丈夫、君の方へまはつて行つたの、さ――どいつも、こいつも、おどかしやアがつて!」
「わたしは一生懸命です、おどかすの、おどかさないのなど云ふさわぎぢやアありません!」
「默れ! 人をさわがせたぢやアないか?」
「まア、奧さん、お靜かに」と、大野は少しうつ向きになり、兩手をうは向きに、低く擴げて、一歩を退いた。
「また芝居をしてゐる。」義雄はかう思ひながら、「ぢやア、失敬するよ。」
「おれは獨りぽツちだ、なア。」
 大野は投げ出すやうに云つて、力なささうにつツ立つた。多くの街燈から落ちる光が混亂して、渠の姿を舞臺の脚燈が反對にうへから照らして、明暗の光をそこに集めたやうに見えた。そして電車の響きさへ丁度途切れて、相變らず外套が欲しいやうな寒い風が吹いてゐた。
「失敬」と、今一度義雄は大野の方に向いたまま云はなければならなかつた。
 大野は軍人のやうな直立の姿勢に直り、右の手を横顏のところまであげ、ゆツくりした、低い、沈んだ調子で、同じく、
「失敬」と云つて、靴の底で少しつま立つと同時に、首を前方へ傾けた。


 義雄は千代子に引かれて、電車通りを、公園のふちに添つて歩いてゐたが、あの鶴子の爲めに遠のくやうになつた倶樂部の連中に、またこんなことがあつた爲め、又と再び會はせる顏がないかのやうな恥辱に滿ちて、一言も口を聽かなかつた。
 かの女も亦胸が張り詰めてゐるのを、その息づかひに現はした。かの女が月が滿ちた時に、よく苦しさうな息づかひをしたが、そのやうに肩で息をしてゐるのが、義雄によく分つた。
 公園をはづれようとするところにある交番の前へ來ると、かの女はその方をじろ/\見ながら、獨り手に巡査の立つてる方へ義雄を引ツ張つてゐるのであつた。
 義雄は踏みとまつた。それが渠の袂の長さ一杯にかの女をこちらへ引いたわけになつたので、その手ごたへでかの女は氣がついたやうだ。
「わたしはどうかしてゐるやうだ。」かう、かの女は獨り言を云つた。
「訴へてどうなるんだ」と、義雄はごくさげすんだ意味を心ばかりで叫んだ。この氣違ひ女め! 何を仕出かすかも知れやアしない! が、撒いてしまふ折もうまく見つからない。人通りは少いが、少くとも、一人や二人は絶えなかつた。
 橋を渡つて芝區へ這入ると、直ぐ友人なる辯護士の家があるので、そこへ立ち寄つて話をつけ、今夜はおだやかに別れようかとも考へた。が、大野に迷惑をかけたのを思ふと、重ねて友人を騷がせるでもなかつた。
 成るべく人通りの少い横町などをえらんで引ツ張られて行つたが、
「きやツ」とか「恨めしや」とか、今にもこの女が變化へんげになつてしまひはしないかと云ふ氣持ちが、渠のかの女を度々いぢめて來た記憶から、おそろしいほどに浮んで來た。不斷憎み飽きて、毆り飽きて、またと見たくはない顏を見て、一度でもいやな氣を重ねるでもないと、渠は出來るだけそツぱうを向いてゐた。
「年うへなばかりに増長して!」これは、もう、思ひ出したくもない。今の結婚法が改正せられ、男女どちらかの申し立てを裁判所で受理して、兎も角も訴訟を成立させることが、當分、望めるやうにならないとすれば、ただ/\この、自分には既に死骸の、女を早くどこかの闇へかたづけさせて呉れる願ひばかりだ。
 愛宕下あたごしたの通りを横切り、櫻川町の大きなどぶわきを歩いてる時、物好きにその中の黒い水たまりを人の門燈の光にのぞいて見た。そして、ふと、死んだ實母があかがねの足つきだらひに向ひ、おはぐろを付けてゐるのを、自分はそのわきで見てゐたことがあたまに浮んだ。きたないやうだが、身に滲み込むやうなにほひで、黒い物から出るのか、それとも、吐き出されたそれを受けるあか金から出るのか、分らなかつた。
 ここのはただの溝のにほひに違ひないが、をどんですえ腐つた物の發散する分子がぷんと鼻さきへにほつて來ると、何だかかな臭い氣がして、母が新らしく生き返つて來さうに見える。
「All or nothing ――生でなけりやア、死だ!」
 この間に讓歩はない! 妥協はない! 人間その物の破壞は本統の改造だ――改造はそして新建設だ。ぶツ倒されるか、ぶツ倒すか――そこに本統の新らしい自己が生れてゐる! 渠はかう答へながら、面倒な物を引きずつてゐるにやア及ばない――いツそのこと、握られた袂を、あの、柔術を習つたと云ふお鳥の手を試みて、わけもなくふり切り、千代子を轉がし込む氣になつてゐた。
 どぶの黒い水のおもてが暗くなつた。――そのまたうへが闇になつた。――自己の周圍がすべて眞ツ暗になつて――自己も、尖つた嗅覺のさきにをどみのあかがくツ付き、からだ中がひやりとしたと思つた。すると、反對に手ごたへがあつて、
「どうするつもりです、わたしを!」
「‥‥」渠の身の毛は全體によ立つてゐた。
「なアんだ、夫婦喧嘩かい!」かう云つて、黒い影が他方の路ばたを通り過ぎた。もう、十二時を越えたと思はれるのに、矢ツ張り、人通りが絶えない。
「‥‥」かの女は、さツさと、反對の側へ引ツ張つて道を進みながら、「人を水に投げ込まうたツて、そんな手は喰ひませんよ。」
「‥‥」
「それこそ馬鹿げ切つてる!」
「‥‥」渠が逃げようとして、ちよツと踏みとまると、かの女も直ぐ電氣に觸れたやうに手の握りを固めて、こちらをふり向いた。
「殺さうたツて、逃げようたツて、駄目ですよ、直ぐおほ聲をあげて、誰れにでも追ツかけて貰ひますから、ね」
 渠は答へもしないで歩いた。
 避けて來た交番だが、西の久保通りの、廣町角にあるのは、どうしてもその前を――しかも挨拶して――通らなければならないのであつた。父の生きてた時、家へも來て、いつも顏を見おぼえてる巡査がゐる交番だ。
 千代子がここで本統に出來心でも起したら大變なので、その交番の手前で義雄はおのれの袂をふり切つた。
「おまはりさん!」かの女は實際に甲高かんだかい聲を出した。
 義雄は自分が水をあびせかけられたと思つて、つツ立つた。幸ひに人力車の響きが通つた爲め、向うへは聽えなかつたやうだが、渠は再び袂を握られてゐた。
 何げないふりをして通る二人を、顏を知らない巡査がゐて、怪しさうに見詰めてゐた。
 若し今の聲が聽えてゐても、こちらが發したのだと思はせない爲めにと、義雄は、ふと、その向う側のそば屋へ這入る氣になつた。千代子もあとからはしご段をあがつて來た。
「こんなところで喰べるくらゐなら、いツそ今一つ向うの、いつもうちで取るとこへ行けばいいのに。」
 もう、自分の物だと思つたのか、かの女の聲は以前よりも落ち付いてゐた。が、義雄は一層いや氣がさして、無言でぐん/\まづい酒をあふつた。

 二三杯ででも赤くなると云はれる酒が、例外に飮んだ今夜に限り、大して顏に出たとは思はれなかつた。
 家に歸ると、直ぐ、千代子の母――もう、とこに這入つてゐた――を書齋に呼びつけ、
「不都合極まる女だから、千代子をけふ限り引き取つて行くやうにして下さい!」
「義雄さんはいつもさう云ふことをおツしやいます、が、ね、子供があるのにそんなことは出來ますまい?」
「子供などアどうでもいいんです――そんな呑氣のんきなことぢやアありません!」
「またどう云ふことがあつたのか、聽かないぢやア分りませんが、ね――」
「みんなあなたのことから起つたのぢやアありませんか?」千代子も傍へ來て、いやな眼をぎろつかせる。
「貴さまなどの出しや張る幕ぢやアない!」今まで默つて押さへてゐた心中のもや/\が一時に、ここだと云はないばかりにほとばしつて來た儘に、渠はおのれの妻が裏店うらだなのかかアか何かのやうに、燒けぼツくひじみた行爲に出た不埒ふらちを述べた。いやしくも表面だけはまだ亭主たる者を――そしておだやかに離婚しようと云つても、分らないで、承知しない癖に――その亭主を多くの公衆の前で侮辱したのだ! 分つた母なら、この申しわけに、直ぐ娘をつれて出て行くべきである! 精神的には、もう、どツちからも、夫婦でないと云ふことを證據立つたことになつてゐる。
「さうおツしやると、あなたに濟まないやうですが、ね――このがこの頃何だかいら/\してゐるのは、云つて見れば、まア、病氣なんですから、ね。」
「そんな氣違ひ病人は、母として、直ぐ引き取つて行かなけりやアなりますまい!」
「そんなことも出來ません、わ。」
「出來ますとも! 巣鴨へでも、どこへでも、つれてゆきさへすりやアいいのです――あとの始末はゆツくりお母さんとわたしとで出來ることです。」
「困つたことになりました、ねえ」と、母は娘の方へふり向いて、「このもあんまりわさ/\して、落ち付かないからいけないのですが――」
「でも、ね」と、千代子は母に頓着せず、「あなたが好きで、わたしを一緒に車に乘せてここへつれて來たのぢやア御座いませんか?」
 あれはまだ二人乘りの人力車が澤山あつた時代だ。そしてこの女も二十四五の若盛りであつた。或友人の紹介で尋ねて行つたのが縁となり、間もなく、たうとう約束までしてしまつたが、その友人があとで義雄に向つて、「結婚しろと云つて紹介したのではなかつた」と云つたのを思ひ出すと、丁度、義雄が大野の今の細君に向つて云つた同じやうな言葉と意味は違はなかつたのだ。
 かの女は小石川の方で、人の二階を借り、自炊をしながら、晝は小學の教員を勤め、夜は或音樂講習所の生徒であつた。今の状態とは違つて、おも長の上品に艶々しい顏に、姉のやうな優しみを帶びて、その着物の着こなしさへ、他の田舍出の女學生などとは違ひ、如何にもしなやかな姿に義雄は引かれた。そして三つ下の義雄ではあるが、渠が當時他の一人の女を思ひ思つてはね付けられた失望を全く取り返すことが出來た。
 渠は芝の我善坊がぜんばうから、毎夜のやうに、電車もなかつた丸の内の寂しい道をてく/\歩いて、江戸川のほとりまでかよつた。そしてそこから、直ぐ、築地の或西洋人のところへ、日本語を教へに且讃美歌改正の補助に――それが渠の毎日の仕事であつた――出かけたこともある。
「深川の叔父さんが、あす、わたしを引き取つて行くさうですよ」と、女があわてて告げたその晩に、義雄は非常手段として女を車に乘せ、かの驚きながらも寛大であつた父の家へつれて來たのである。
「そんなことは十五年も二十年も昔のことだい」
 それから、妻子をつれて田舍の中學教師にもなつた。文學專念の爲めに、東京の場末で貧乏な暮しをつづけたこともある。子供は六人も出來て、三人は死んだ。去年父が亡くなつたので父の實業を千代子に引きつがせたが、その年末にはいろんなことで非常な困窮をした。
「みんなあなたのせゐですよ、色氣違ひのあなたのせゐですよ」と疊みかけて、千代子はあまり喜びもせず、かの退職金――大晦日おほみそかに都合して貰つた――三分の二を手にした。
 義雄はその他の三分の一を以つて、お鳥と共に、氷川ひかはの森かげに於いて、新年を籠城したのであつた。けれども千代子はなほ自分へ義雄の愛が返ると思つてゐるのか、かう云つて叫んだ――
「昔のことだツて、今のことだツて、このわたしにやア、變りはないのです!」
「現に」と、渠は坐つた膝にまで力を入れて、「婆々アになつたぢやアないか?」
「そりやア五人も六人も子供を産んだのですもの!」
 母は當り前のことを云つてると云ふやうな顏つきをしてゐた。

「何かと云やア子供、子供と云ふ! それよりも自分自身のことをもツと忠實に考へて見ろ! 今の女の心持ちも知りやアがらんで!」
「ぢやア、あんな清水鳥しみずとりのやうなものが今樣いまやう美人ですか?」
「清水などア本統の問題ぢやアない! 人のことなどにやア口出ししないで、手前てめいのざまを見ろ!」
「どうせ、あなたの云ふ若々しいものにやア、今更らなれません、さ。」
「手前は、お母さんと同樣、ずツと時代におくれたうじ蟲だから、さう思へ!」
「これでも、武士の――」
「またか、よせ!――武士の娘だらうが、なからうが、活き活きした女の精神が死んでゐらア!」
 うじ蟲と云はれたのを母も怒つたのかして、
「わたしもあなたの御厄介にはなつてゐますが、ね、まさか、そんな物ぢやアないつもりですよ。」
「どうせ分らないのだ! 分らないものがゐるところにやア、おれの家もないのだ――勝手にしろ!」
 われを忘れたやうに叫んでゐたので、俄かに醉ひが發して來た。義雄はそこへ倒れた。隣りの寺の庭にある池から、時々緋鯉ひごひのはねる水音がして、急に靜まつた深夜の靜けさを破るのが聞えた。そして渠は、子供の時、あの鯉を釣つて、寺の和尚をしやうと自分の父とにひどく叱られたことがあるのを思ひ出してゐた。
 阿彌陀經を借りに行つたら、直ぐそれを坊さんになりたいのだと思つて、何なら増上寺の管長へも紹介しようと云つた、あの世間知らずの、然し柔和な和尚も死んだ。これと親友であつて、いろんな世間話を共にした父も、和尚年來の素志であつた本堂新築の工事の音を羨ましさうに聽きながら死んだ。自分の子供も、前後三人まで死んだ。女房も自分には死んで、もう、形骸ばかりだ。お鳥なるものも、その本體の半分か、四半分しきや自分に活きてゐない。
「自分を去るものはすべて形骸だ、否、死だ!」
 そして自分自身も亦死ぬ時があらうと云ふ考へに及んだ。すですでに過ぎ去つた自分の半生が、その死と同樣にくうであつた。――虚であつた。――無であつた。――理想とか、運命とか云ふ形式的概念、外存的思想などが出て來る餘地さへもない。今、この身に具體してゐる慾望ばかりが、闇夜に於ける燈臺の光のやうに僅かに唯一のいのちだ。
 今や義雄には樺太の事業に全心全力を注ぐのがそのいのちである。早く、もツと金が欲しい! 同時に、また、よく自分を理解して呉れる女が欲しい!
 ぞく/\と寒く、そして息詰るこの醉ひの苦しみはやがて又この現在の煩悶の苦しみであつた。
 ばちり! ばちり!
 水面に踊りあがる大きな緋鯉の姿が、締め切つた室に倒れた渠の肉眼に見えて來て、渠のつき詰めた思想に正しい合の手を添へて呉れるやうだ。
「おれは兎に角生きてゐる!」
「また、何か」と云はれたので、渠は千代子がまだそこにゐたのに氣付いた、「考へ込んでるんでせう――さツき逃げて行つた清水のことでも?」
「‥‥」無に歸したことを再び思ひ起させられるのがいやさに、起きあがつて、「下らないことは云ふな」と、眞面目に叱り付けたかつたが、からだが利かなかつた。
 千代子の何かにのぼせて來たやうな息使ひが烈しくなつてゐる樣子が、ちらりと見えただけである。
「以後は、ね、義雄さん」と、母もまたゐたのであつた、「かう云ふことのないやうにわたしからも云つて聽かせますから、けふのところは、あなたも、どうか、勘辨してやつて下さいませ――久し振りのお歸りぢやア御座いませんか?」こんなことを云ひながら、母は、押し入れから、かれの何ヶ月か觸れたこともない蒲團を出して、洋書の背皮文字が金色や銀色に輝いてる二つの大きな書棚の前に擴げた。
 然し、その夜も、それツ切りで、義雄は、暫く經つて障子をあけに來た千代子を、一歩も、この昔から書齋兼用の寢室であつたところへは入れなかつた。


 末の男の子は、父と云へば、恐れて少しも獨りでは近よらない。
 うへの子二名は、父のことを母がいつも馬鹿だ、馬鹿だと話してゐるのを聽いてゐるので、父のそばへ來ても何にも云はず、半ば下げすむやうな目を見張つてゐる。義雄はもとからこれを知つてゐた。
 で、翌朝、遲く起きると、直ぐ、何にも云はず、その家を出た。
 お鳥は二階の眞ン中で、だらりと足を投げ出し、そツぱうを向いてひぢまくらをしてゐた。
 不手腐つてる、な、と義雄は思つたが、今までおさらひをしてたかして、三味線がそのわきに横たはつてゐる。
 かの女が挨拶しないので、渠も默つてその後ろの方に坐つた。圓いニツケルの置き時計ばかりがちやき/\云つて、五分か六分を過ぎた。
「もう、別れさせて貰ふ!」かの女は半身を起して、こちらにねぢ向け、目で義雄をにらみ、足は投げ出したままだ。「相當の手續きをして呉れ!」
「手つづきも何も入るものか?」渠はわざとゆツくりして、「別れるなら、直ぐにも別れよう、さ。」
「では、病氣を直ぐ直せ!」
「そりやア、仕かたがないと諦める、さ、これまで隨分金をかけてもまだ直らないんだからね。」
「誰れがもとぢや――お前の外にありやせん!」
「今更らそんなことア云つても駄目だ――お前の好きなやうにするがいい!」
「でも、ええ氣になつて、引ツ張られていつたぢやないか?」
「いい氣でもなかつたの、さ。」
めて――けさ――早くでも」と、また例の荒い息使ひになつて、「歸りやええのに!」
「おれが寢坊なのはお前も知つてるぢやアないか?」
「場合が違ふ!――ふん! あたいが紀州を出て來たのが惡かつたんや」と云つて、再び向う向きにぶツ倒れた。そして渠の豫期通りにすすり泣きになつた。
 山出しも同樣な癖に、紀州を出て來たのが惡いのは、義雄は初めからさう思つた。無論のことだと。さきの亭主――それも本統の亭主であつたか、どうだか、分らないが――に棄てられたか、若しくは本人の云ふ通り自分からそれを見限つたかして、もツといい人に引ツかからうと云ふ野心から、東京へ出たのだ。そしてろくでもない炭屋の亭主――義雄の家の筋向うだ――にくツ付いて見たり、神田にゐる國のものだと云ふ人の、そしてちよツと同居した家の細君に疑はれて追ひ出されて來たり――それでゐて、こツちの本妻に立ち直らうとするなどとは以つての外だ。
 若し女優になれるとしたら、それだけででも仕合はせを與へられたのではないか? 多少ぬけたやうなところがあるのに――その癖、神經が過敏で――ちよツと熱でも出ると、直ぐうは言を云ふ。
「お母さん、お母さん、あア、ア、アーアツ」などと云つて、目をさますことは氷川ひかはの方にゐた時は一番烈しかつたと思はれたが、この頃では、またその習慣が囘復して來て、夢に見た母の姿を、枕もとに起きあがつてまでも見まはす樣子をする。
「おい、何をしてゐるんだ」と、義雄が注意するのに初めて氣が付き、
「また、何か云うた? お母さんが來た筈ぢやのに」と、眞面目くさつて微笑してゐる。
 義雄はそんな時に、度々、わざとではないかと疑つて見た。が、あかりの蔭に横たはつたかの女の、地肌のなめらかな白い顏が、引き締つて、青いやうに、緑のやうに、また紫のやうに見える時は、部落民でないかと云ふ疑ひを初めて起したのを今でも忘れないに拘らず、虚僞うそか眞面目かのやうな問題はいつも/\消えてしまつた。そして朝になつて、かの女のまづいたるんだ顏を見る度に、自分は廣い野原の眞ン中に狐からすツぽかされたやうな不興に落ちた。
「死んだと云ふものが二度と再び出て來るものか、ね」と、たま/\云つたことがある。「よくお前のおやぢが出て來ないものだ!」
「親さへ生きてて呉れたら、あたいもこんなことになりやアせん。」
「無論だらうが、ね、それでも本人の心がしツかりしてイないと――」
「だから」と、からだを振り、「あいつを追ひ出せと云うてる!」
「そりやアお前のある無しにやア關係しないでも、ね。」義雄は成るべくうそを云はないで通りぬけたかつた。
 それがかの女には渠の煮え切らない證據に見えるので、そんな時に泣いて渠をおどし付けようとしたこともある。そしてその末には、さきの亭主が去年一度歸つて來て呉れと云ふ手紙をよこしたに對し、返事をやらなかつたのを悔い、國であのつらかつた別れをしたあとで、まさかの時はこちらも死ぬつもりで、醫者なる兄の藥局からアヒサンを一服盜んで來てゐることを白状した。
 時には、義雄もこの神經がつよい女がどんなことを仕出かすまいものでもないと心配した。かの女は今も、泣き倒れてゐながら、
「あいつを追ひ出さなければ、あたいは死んでしまふ」と云つた。そんな時には渠はかの女に仕込んでやる仕事の話でもして、氣を轉じさせる外はないと思つた。
 が、けふはまだ起きツぱなしであるので、
「兎に角、おれは飯を喰ひたい、ねえ。」
「まだ喰べないの――?」かの女は俄かにまた半身を起した。そして面倒臭さうに顏をしかめてこちらをじツとながめてゐたが、「今下の人が、もうきお晝だと云うてたのに――なんにも無いよ」と云つた時は、全くその顏がやはらいでゐた。
 かの女は渠の食鹽に茶づけの給仕をしながら、ゆうべ、大野の細君が義雄の惡口を澤山云つたのを、かの女自身の恥辱であつたかのやうに訴へた。が、渠はそれを少しも氣にかけなかつた。
 烏山にからすががア/\云つてる聲にまじつて、櫻の咲いてゐる道ばたから、例の乞食の「お助けで御座います」が聽えてゐる。

 その日、お鳥が踊りの稽古に出ると、義雄は或新聞の日曜附録に頼まれた論文を書きあげてしまつた。それから義雄が外出したあとへ、加集泰助が尋ねて來たが、あがつてかの女と話しながら、暫く待つてゐた後、また來ると云つて出たさうだ。
 義雄は愛宕下あたごした町の大野の家へ行つて見たのであつた。が、主人はゐなかつた。何だか、不斷のやうにづか/\あがつて行きにくいやうな氣がして、細君を呼んで貰つた。
 なか/\出て來なかつた。それでも出て來た時は相變らずにこ/\してゐた。が、どこか澄ましてゐるやうなところが渠の目に付いた。
「今お稽古をしてあげてるのよ。」
「さうでせう、ね」と、先づ渠は云ふより外に仕かたがなかつた。この夫人も、畫を教へてゐるばかりに、矢張り、自分の女房のやうに、教員然たる、云ひ換へれば、人に對して誰れにでも子供あつかひをする風が滲みて來たのを、渠は發見したのである。「ゆうべは、どうも、失敬しました。」
「あなたの奧さんも隨分、ねえ――?」
「あいつア、もう仕やうがないのです。」
「あなただツて、さうでせう――もう、いや」と、つツ立つたまま、からだを振つて、「あなたのやうな人が來るのは!」
「さう云はれるだらうと思つたのです」と、渠は苦笑しながら、「ですが、ねえ、まア、そんなことは云ひツこなし、さ――どうせ、大野君がゐなけりやア歸りますから。」
「さう――失禮、ね。」かう云つて、かの女は障子をしめにかかつた。
「畜生!」と云ふやうな淡い憤慨心を懷いて、義雄は、ついその近處の玉突屋へ行つた。渠とも長らくこの遊びの仲間になつてゐる有名な金貸しが來てゐた。この人は、もと、歐米へまでも出かけて宗教の腐敗してゐるのを、實見して歸り、一種の自己發明の耶蘇教を傳へるには、外國人の補助などを仰いでゐちやア駄目だ、先づその費用たる金を自分で拵へなけりやアと云ふ考へを以つて、金貸しになつた。この動機が丁度、義雄の唯一の先輩たる人がコンミシヨンマチヤントになつたと同じなので、渠は初めのうちは多少の尊敬を以つて接してゐた。が、義雄の別な友人なる辯護士や會社員と大きな花を引いたり、惡辣あくらつな高利貸しとなつてゐるのを知るに至つて、もう、既に金ばかり欲しがるあり勝ちな平凡人に過ぎなくなつてゐると侮辱するやうになつた。さきに家を抵當に資本を貸せと交渉して見たのも、――どうせ出來なかつたが、――義雄は向うに一つも同情などは乞はないで、あり振れたアイスとしてであつた。けれども、丁度この人が獨り來合はせてゐたので、
「どうだ、負かしてやらうか、ね」と、義雄はキユウを取つた。
「今ちよツと途中で電話をかけに來たのだから。」かう云つて、渠は袖さきのカフスを直し、手袋をはめ始めた。
「さうか――こなひだの連勝をどうして呉れるのだ?」
「また、今度だ。」
「わたしとやりませう」と云つて、ボーイが出たが、どうも義雄は氣が乘らなかつた。いつもなら、出ると直ぐ親しい感じを起す青羅紗あをらしやの玉臺や、こち/\云ふ紅白象牙ざうげの玉などが、渠の目にもあたまにも、散らけて遠いところにあるやうに感じられた。
 三度に勝負まけをして、渠はキユウを置いた。
「どうも、晝間は氣が締まらないで駄目だ。」
 そしてお鳥の二階へ歸ると、やがて大野正則がやつて來た。

「もう、醉つてるのか?」
「例の、ね、書き割りの監督に行つてたの、さ――いつまで寒いと云ふのだらう?」
「君と一緒に濱町で目がさめると、意外のおほ雪であつたのも、こんな時候であつたよ。」
「さうだ、なア」と云ひながら、大野は少し離れて坐つてるお鳥を見て、「どうだ、御機嫌はいいか、ね?」
 かの女はほほ笑んだが、横を向いた。
「君の細君も無事のやうぢやアないか?」斯う義雄が受けた。
「だが、ね、君の細君にかぶれて、僕のもゆうべから變だよ――君にも何かいや味を云つたさうだが、あいつも感情家だから、ねえ。」
「まア、いい、さ、僕の事情のやうなものぢやアないんだから――僕も」と笑いながら、「けさ、やツと逃げて來たよ。」
「君が惡いんだよ」と、大野は片手を下向きに火鉢の少し上にけて、それを上下すると同時に幾度も首を小刻みに動かした。「役者のやうな眞似ばかりする」と云つて、お鳥は渠を初めから嫌つてゐるのである。今もこの樣子を、憎しみを帶びて見詰めてゐるのに氣が付き、
「いや」と、渠は恐れ入りましたと云ふやうなお辭儀をして、「お鳥さんがいらせられたのでした、な。」
「ふん」と、また横を向いて。
 大野は話題を轉じて、畫家の社會、殊に劇場の書き割り畫家の社會に、卑劣な人物が多いことなどを憤慨し始めた。
「畫家社會ばかりぢやアあるまいよ」と、義雄は答へた。「形式家のまだ勢力ある現代では、どの社會にでも、新らしい思想を體現し得るものを除いちやア、みんな僞善者でなけりやア卑劣家ばかり、さ。」
「大きにさうだ――君も蟹の鑵詰めなどに熱心するのをやめて、お互ひにしツかり戰つて行かうよ。君は詩人、僕は畫家ぢやアないか?」
「さうだ、ね」と、義雄も答へた。が、戰ふのは自分一個の力にあるので、如何に親友でも、自分と共に自分の自覺するだけのことを實行するものはないのだと思つた。落ち付いて、腹の底から出る聲で、「然し、僕は、この場合、どうしても、あの事業をやらなければならない――背水の陣を張つてる樣なものだから、ね。」
「それもさう、さ、な。」
「あたい、て來る、わ」と、お鳥は立ちあがつた。
「ぢやア、勝手にしなよ!」義雄はつツ放すやうに答へた。もと、二人で二階を借りてゐた氷川の家の細君――と云つても、一老人に對する下女あがりの妾――が手紙をよこした。前にかの女が勝手に頼んで置いた勤めの口だとは云つてるが、何か渠に對する反逆むほんをたくらんでゐるのかも知れないと思つたので、その手紙を見せろと迫つたのは今しがたのことだが、どうしても見せようとしなかつた。見せないのはこれまでにも度々あつたことで、身うちからのらしいのもさうしてどこかへ隱してゐた。「叔母さん、うちのお父さんはどこにゐるのでせう」と、義雄自身の子が云ひさうな子供のハガキも、義雄はかの女の留守にこツそり机の引き出しを探した時に、ふと發見したのであつたが――
「どこへいらせられますか、奧さんは?」
「‥‥」
「どうせ、めかけの口か、さうでなけりやア、くだらない電話交換手ぐらゐの話にきまつてらア、ね。」
「なんでもええ!」お鳥はぷり/\して階段を下りて行つた。
 格子戸の明く音がしてから、大野は障子のあはひから外をのぞいた。再び座に着いてから、
「よせよ、おい、あんな女!」
「僕だツて――その時機を見てゐるんだ」と云つて、義雄はゆうべのさまを思ひ出した。逃げよう、逃げようとして、たうとういやな巣まで引ツ張つて行かれた。お鳥の關係に於いても、あのかな臭いどぶをのぞき込むやうな場合にまで立ち至つたこともある。
「僕が今度は君の眞似言まねごとを言つて、しツぺい返しをする樣だが、ね」と、大野も靜子と結婚する、しないの騷ぎに、義雄が一時大野のもとの細君の方に肩を持つた時の言葉を持ち出して來て、「よツぽど細君の方がいいぢやアないか?」
「情ないことを云ふなよ、僕はもツと/\新らしい生活をやりたいんだ。」
「それも君の説だから惡い事もなからうが――まア、あんなへたなラシヤメンじみた女はペケペケ!」
「だから、どうせ兩方ともやめ、さ。」
 大野は、それから、芝居の興行と脚本作者の立ち場とを妥協的に論じ、座の方はどこへでも關係をつけるから今日の見物に分る程度の新らしい脚本を書けと、頻りに義雄に勸めた。
 が、義雄はいづれ脚本は書くが、そんな妥協的態度で、とても、自分等の考へるやうないい物は書けるものぢやアないと答へた。

 義雄は、大野につれられてビールを飮みに行き、暗くなつて歸つて見ると、加集が來て、下の老細君と二人で話をしてゐる。
 渠等二人が二階へあがると、加集は云つた。
「あの婆アさんは話ツきヤぜ。」
「さうだらう、亭主がいつも遲くでなけりやア仕事から歸らないから、その間は獨りでぽつねんとしてゐるんだ。」
「田村さんは清水さんにばかりくツついてて、一向下りて來ませんと云うてたぜ。」
「まさか、そんなお相手も出來ないぢやアないか?――そして、君にお鳥を貰へと云はなかつたか、ね?」
「‥‥」加集はちよツと赤い顏をしたが、「そんなこと云やせん。」
「それぢやア、僕も安心だが、ね」と、義雄はわざと冷かしを云つて見た。
「ゆうべ」と、下から機嫌を取るやうな風に出て、「活劇があつたさうぢや、な――?」
「誰れに聽いた?」
「清水にも、我善坊でも。」
「よせ、下らない!」かう云つて、義雄はこんな男はくはしいことも、短いことも聽かせるに及ばないと思つた。しやべる奴もしやべる奴なら、聽いた奴も、面白さうにここから又我善坊へ出かけるには及ぶまい! これも、自分に兩方の女に對する若しくはどちらかに對する眞實の愛がないからだらう――若しそれがあらば、こんなぐら/\した、ふた股膏藥じみた男の出入は禁止する! 「肝腎の用はどうしたい、きのふの――?」
「二三度行つて見たが、いつも留守でまだ會へん。」
「ぢやア、その方をもツと熱心にやつて呉れたらいいのに。」
「やるよ、心配しないでも」と、笑つてゐる。
「何の爲めにぶら/\してゐるんだ」と、云つてやりたかつた。
 格子が明いて、締まつたやうだ――
「清水さんですか」と云ふ婆アさんの聲がした。
 二人の眼は、見えない階下の方へばかり向いてゐた。
「ええ。」
 障子が靜かに明いた――
「寒かつたでせう――?」
 障子が靜かにしまつた――
「そんなに寒いことも――へ。」
 はしご段が靜かにとん、とん、とん――義雄の耳には、お鳥のいつも人前ではなか/\をかしい程氣取つてるその樣子までが聽えて來る。
 去年の暮れに買つてやつた細長い鶴の毛シヨールを二つに折つて、これを片手に持つたかの女が現はれた。
 いつもにないほど、にこ/\、にこ/\してゐる。
「やア、女優さんのお歸りか?」かう、あぐらをかいて見あげてゐた加集が云つた。
「馬鹿!」忽ち恥かしさうに顏を赤くしてにらみ付け、坐りもしないで、「馬鹿!――早うんで呉れ!」
「そないに」と、ちよツと口をとがらせたが、加集のます/\輕薄笑ひの心を加へたのが義雄に讀めた、「おこらんともええぢやないか?」
 そして義雄はこのありさまを見て、却つてかの女の外出事件に違つたこともなかつたのを感づいた。


 とンと強く叩きつける煙管きせるの音がして、
「わたしを何だと思つてるんだよ!」
「‥‥」
「假りのおめかけや、たまに旦那に來て貰ふかこひ者ぢやアないよ!」
「‥‥」
「お前の女房だ位は分らない野郎でもあるまい!」
「分つてらア、な。」
「それに何だツて、うちを明けるのだよ?」
 義雄は朝飯をしまつてから、机に向つてゐたのだが、下のこの怒鳴り聲に耳が引ツ張られてゐた。また一騷ぎあるだらうとは、婆アさんのゆうべの心配しかたで豫期してゐた。お鳥はけさも何だか慰めを云つて聽かせてゐたやうであつたのに――
「仲間のつきひだから、仕かたがねい、さ。」
「つきひ、つきひツて、幾度あるのか、ね? そんなつきひは斷つてしまひなさいと云つたぢやアないか? 碌にかせぎもしないで!」
「うへの先生でもやつてることだア、な。」
「先生がお手本なら、直ぐ、けふ限り、わたしが斷つてしまふよ。」
「斷るなら、斷るがいいが、ね。」
「生意氣をお云ひでない!」
 義雄は自分の女房より一段どころか、二段も三段もうへを行く女もあるのだと思つてゐるのだ。
「何が生意氣でい――これでも貴さまを年中喰はせてやつてらア!」
「喰はせるだけなら、ね、犬でも喰はせるよ! 米の御飯が南京米になり、南京米が麥になり――」
「何だ、この婆々ア! 見ツともねいことを云やアがつて!」
「なぐるなら、なぐつて見ろ! 働きもない癖に!」
 取ツ組み合つて、あツちの障子に當り、こツちのから紙にぶつかりしてゐるやうであつたが、大きな女のからだが疊の上に投げ飛ばされるやうな音がした。
「婆々ア女郎め!」
「殺してやるから、さう思へ!」
 臺どころの方でがた/\云はせてゐたが、またとツ組み合ひが始まつたらしい。
「おい、行つて見ろよ」と、義雄はお鳥に云つたが、
「あたい、おそろしい」と、ちひさくなつた。
 渠が下りて見ると、婆アさんをねぢ倒して、そのさか手に持つてゐる出齒庖丁を亭主がもぎ取つたところであつた。
「どうしたと云ふんです、ね?」
「あの野郎がまだ目をさまさないから」と、婆アさんはからだを起し、「今、根性こんじやうをつけてやらうとして。」
「どツちが」と、立つたまま荒い息をして、「腐つた根性でい?」
手前てめえに――きまつて――らア、ね」と、これも息を三度につきながら、立ちあがり、長火鉢の座に行つた。そして義雄に、「どうか――火の方へ――お近く。」
 亭主は、庖丁を臺所の方へ投げてから、婆アさんとさし向ひの座についた。そして、
「あり勝ちの夫婦喧嘩ですから、どうかあしからず」と云つて、若いが、こんな場合だけに血の氣の失せたやうな顏で笑つた。
 義雄には、この男がこんな老母のやうな女を女房と思つてゐられるのが不思議なほどであつた。ずツと若い時からのくツつき物なら知らず、まだこの二三年來の慣れ合ひだと聽いてるので、ただいろんな好き/″\もあるものだと思つた。
「まア、喧嘩をするにも及ばないでせう。」
「濟んで見りやア」と、眞面目な顏つきで亭主を見ながら、「馬鹿々々しいことですが、ねえ。」
「あは、は」と、亭主は笑つて見せた。
「女と云ふものは思ひ詰めりやア、われながらおそろしいものですから、ね――まア、先生も御用心なさいましよ。」
「十分用心が必要です、ね」と、ただほほゑんでゐた。
「わたしが先生の奧さんなら、をどり込んで殺してしまひますが、ね――まだあなたのは、教育もおあんなさるでせうから、おとなしく控へていらツしやるんです、わ。」
「さうでもないのだが――」かう云ふ人々が望む教育なるものが、今日のやうぢやア、これを與へるものの方針に非常に間違つたところのあるのを、義雄はどこかで訴へたくツてならないのである。「斯うすべからず」の消極概念が殆ど教育界全部を占領し、「斯うすべし」がまた、ほんの形式にばかりとどまつてゐて、有識者と云はれるものが凡て、如何に嚴格でも、また如何に熱心らしくあつても、くうに他を教へようとして、少しも自己の實行如何を反省しない! 何のことはない、法律と教育とで以つてわが國人は自由なるべき人間本能の誠實を、わざ/\、無意義に制限せられてゐるばかりだ!
 たとへば、結婚と云ふ形その物が道徳でも實質でもない。實質が既に違つた以上は、その形の破れてあらたまるのを認める法律が必要だ。同時に、また婦人から云つて見れば、くツ付き物が離れた場合にそこに獨立する精神や生活法がいつも具備してゐるところの教育を、不斷から、與へられてゐなければならない。お鳥のやうなものやこの婆アさんのやうな、身を棄てて低い生活に安んじられるものは、むしろどんな教育でもりはしないとしても、中流生活の婦人が無教育ではない癖に獨立生活的教育の素養がないのは、わが國の發展を害する最も大な缺陥の一つで、自分が千代子に苦しめられてゐるのもそれが爲めだと思つた。
「どうせこんなことを云つたツて分らない」のだから、義雄は再び「もう喧嘩はしツこなし、さ」と云つて、二階へあがつた。

 晩春も、もう、過ぎようとする或日の正午前のこと、お鳥は小さい聲で歌ひながら、三味線を獨りざらひしてゐた。
 義雄は机に向ひ、鳥の啼き聲も乞食の哀訴も聽えなかつた。
 が、ふと、自分の耳を疑はせるやうなことを叫んでるものがある。女のやうだ――否、自分の妻のやうだ――
「あなた、少しうちへ歸つて下さらないと困るぢやアありませんか? うちばかり明けて――うちがどうなつても構はないと云ふのですか? 子供だツて、云ふことを聽かないで――あなたがゐないぢやア、どうすることも出來ないぢやアありませんか?」
「馬鹿!」渠はひそかに應じて立ちあがつた。そして肉眼の力をふさいでゐたいやうな豫期をしながら、障子のすき間から下をのぞいて見た。
 道ばたに並んでる櫻の枝々からは、昨夜の雨に打たれた殘りの花びらが、まだおもたさうにひらり、ひらりと落ちてゐる。その中を、かの女のあふ向いた顏だけ見えたが、段々とあとずさりして下の方まで姿を現はしながら、なほ叫びつづけてゐる――
「困りますから、早く歸つて下さいよ。子供が云ふことを聽きません! どうか、お願ひですから、歸つて下さい! ほんとに、おねが――!」
 がツくりと倒れかけた――櫻の一つの根もとに敷かれた乞食のこもの端に、はき物のかかとが引ツかかつたのだ。
「お助け」をやめて、ぼんやり仰いでながめてゐた親子が、「あは、は」と笑つた。
 が、それをじろりと一べつして、かの女は僅かにからだを踏みこたへた――
「お願ひだから、ちよツとでも歸つて下さい!」
「阿呆ぢや、なア」と毒々しく云つて、いつのまにか後ろへ來てゐるお鳥の手が、義雄の背中にとまつて渠に顫へを傳へてゐた。
「旦那、見ツともないぢやアありませんか?」下の婆アさんもいやな顏をしてあがつて來てかう云つた。
「なアに」と、婆アさんを叱り付けるやうに、「うツちやつて置け、置け!」
「あなたはいいとしても、わたしのうちで困ります、わ。」
「あなた、聽えませんか?」
「また、云うてる!」お鳥は婆アさんにどうしようと云ふやうな樣子を見せた。
「わたしが兎も角下へ通して置きませうか?」
「さうです、な、――どうか」と、お鳥の聲も息詰つてるやうだ。
「あなた――あなた――ゐないのですか?」
 又のぞいて見ると、「聽えませんか、ゐないのですか」とをめいてるその前を、職人體の男と女學生とどこかの夫人が別々にじろ/\見返りながら通つて行く。
 乞食の哀訴はそれらに對してしなかつたやうである。
 がらりと格子戸が明いた――
「奧さん」と、婆アさんの激してゐるやうな強い聲がして、「まア、こちらへお這入りになつたらどうです、ね」
「ほんとに、困つてしまふ!」千代子はづか/\とこちらへ歩き出した。
「あたい、知らん!」かう云ひ放つて、お鳥は裏の方へ向つた窓ぎはへ行き、横向きに窓の眞ン中の柱に身をもたせかけた。
 義雄は、おもて窓に向つた自分の机に對して坐つた。

 格子戸が、がたりと荒々しく締つた――玄關の障子がまた荒々しく締つた――
「二階でせう。」
「へい――」
 どた/\、どたと荒い音があがつて來た。
「どうしたんです、ね、あなた!」
「‥‥」
「子供達が云ふことを聽かないで、仕やうがないぢやア御座いませんか?」
「‥‥」
「聽えないのですか?」
「‥‥」
「つんぼですか?」
「‥‥」義雄が、ふと、惡かつた一方の耳も先づ直つたらしいのを思ひ出してゐると、かの女はつづけて、
「たとひかた/\の耳はまだ直らないとしても、一方は聽えるでせう?」
「‥‥」
「返事をおしなさい! 子供が――」
「默れ! 子供は、ほんの、かこつけで、貴さま自身がだらう?」
「‥‥」千代子は、所天をつとが突然ふり向いてにらむ鋭い眼の力を受けて、灰色じみた顏色をちよツと赤くした。
 義雄は、かの女が小指一本ででもさはれば倒れさうな足もとで、段をあがつたところからこちらを見詰めてつツ立つてゐるのを、一歩でも近よらせないと云ふ勢ひを見せて、
「して、子供のことぐらゐを處分出來ない女だから、馬鹿なんだ!」
「さうは行きませんよ――」
「よせ!」
「父親があるのに留守ばかりぢやア――」
「おれは、ね」と、分らせるやうに念を押して、「手前てめえのゐるやうな家にやア父でもない! 所天をつとでもない!」
「馬鹿をお云ひなさんな!」
「分らず屋!」義雄はそれツ切り横を向いて、そ知らぬふりになつて考へた――おれは、妻に對してもこんなことをこれで三度もやらせて置くだけが、まだ弱い――妻も矢ツ張り、その後ろに來てゐる婆アさんと同樣、全く自分の所謂いはゆる無教育無自覺だと。けれども心のうちで、「若し少しでもあいつに理解力があつたら、それを絲口にして、おだやかにあの状態を改造して行かせるのに!」
「どツちが分らず屋だ」とつぶやきながら、かの女は二三歩お鳥の方へ行つて、「あなたもあなたでせう、うちが困るぐらゐのことは氣が付かないことアないだらう!」
「‥‥」
「自業自得で因業いんごふな病氣にかかつて、さ、入らないおかねまでつかはせたんですよ!――その衣物きものだツで、拵へて貰つたんだらう!――あすこに掛つてる白い首卷きだツて、買つて貰つたんだらう! 圍ひ者氣取りで、三味線など彈いて!」
「‥‥」
「さア、わたしの出るところへお出なさい!」
「何をする!」と、お鳥が云つた。
 義雄が胸おもく張り詰めてゐる怒りを動かして急にふり向くと、お鳥の廣島銘仙の袂を千代子が取りつかんだのを、攫まれた方がふり切るところであつた。同時に、お鳥は訴へるやうな目をこちらに向けてゐた。
「どこへ出るんだ!」渠は飛び込んで行つて、「この氣違ひ婆々ア!」
「婆々アでも、何でも、出るところへ出たら、分ります!」
「自分でて」と、お鳥も負けない氣で、「巡査のやうなものに笑はれて來い!」
「笑はれるのはお前さんですよ!――あなたも」と、千代子は義雄を返り見たが、鋭いにらみを避けるやうにして、「こんなみすぼらしいとこにゐないだツていいでせう?」
「何をぬかす!」渠は思ふさま千代子の横つらをぶつた。
「そんな手荒いことは」と、婆さんがとめようとした時は、千代子は既に横ざまに倒れてゐた。
「ぶつなら、いくらでも御ぶちなさい」と、案外けふはおとなしく起きあがつて、「警察へ出れば分るのですから。」
「そんなことを、奧さん、云ふものぢやアありませんよ。あなたも恥ぢなら、旦那さんにも恥ぢでせう?」
「恥ぢも何もかまふものですか?」
「さう無茶苦茶になつちやア、あなた――まア、下へ來て、氣を落ち付けなさいよ、旦那さんや清水さんには、わたしからまたよく申しますから。」
 義雄もお鳥も他の二人の樣子をばかり見つめてゐた。
 婆アさんの片手に背中を押されて段を下りかけた千代子が、こちらをちよツと恨めしさうにふり向いて見た時、かの女の少し前につた大きな前齒に血が付いてるのが見えた。
「早く引ツ越すんだ!」かう云ひ放つて、渠はどうせ行くべき北へ行くことを思つたのだがお鳥はさうとは知らず、
「それがええにきまつてる、さ。」


 毎日のやうにやつて來る加集だが、その引き受けた要件を一向はか取らせて呉れないので、義雄も亦棄て身になつて、よく方々の玉突屋へ通つた。
 耶蘇教あがりの高利貸しとも勝負した。友人の辯護士や會社員やアメリカ歸りの無職者とも勝負した。さう親しくもない官吏や年若い銀行員等とも勝つたり、負けたりした。
 多少でも名の知れてゐる文學者と云ふので、知らない人々までが面白半分に、渠の周圍にはいつも集まつて來た。
「田村さん、蟹の鑵詰とかはうまく儲かりますか」などと云はれて、義雄は一生懸命にやつてゐる勝負の腰を折られたこともあるが、
「まだその時節にはならないのです」と答へながら、遠く離れたキン玉を力一杯出して取らうとしたが、一方のに當つて一たびコシンに這入り、それから自分の玉はたてに二たび往來してなほその餘力がフロクになつた。
「あは、は、は!」見てゐるものは一切に笑つた。
「でも」と、義雄も微笑しながら、「當つたのは當つたのだらう。」
「さうきつく突いちやア、象牙の玉でもこはれますよ」と、女ボーイも口を出した。
「こはれたら、辨償するだけのこと、さ。」
「然し當ることは善く當る!」かう感心したやうにささやくものもあつた。
 こんな時には、義雄も額を油ぎらせるほど調子づいてゐるのである。そして夢中になつた時突きかたが普通の正しい姿勢と違ふので、それがおのづから渠の一特色となつて他人への愛嬌の種となつた。渠はこれを別に頓着しなかつた。
 或をんな友人が西洋料理を計畫しかけた時、
「田村さんなら、實費で通すから常連をつれて來て下さい、ね」と云つた。
「そりやアよからう――あなたの爲めなら、廣告屋の代りにもならう」と、渠は冗談半分に答へた。この計畫は立ち消えとなつた。
 ところが、今囘加集が一人の、玉突屋を開業したいと云ふ人――これが金を貸さうと云ふのだ――に紹介して置くと云つて、義雄を京橋へつれて行つた。
「おれに定連を頼むは、眞ツ平だぜ。」
「ええぢやないか、二百圓が出さへすりや?」
 この人は義雄も知つてる或文學者の弟で、新らしく手を出した出版業をこの頃大抵に見限り築地橋のそばの或家の二階を借りて、年うへの、何だか分らない女と同棲してゐるのであつた。よくよくおなじやうな人間にぶつかるものだと、義雄は考へた。
「僕も大切な金で」と、主人がおも/\しい氣分になつたのを義雄は見とめて、おのれもその氣分を解したと思つたが、「加集君の紹介でもあるし」が、渠に聽かされては、力のぬけた言葉ではあつた。「また、これから君にも交際して貰ひたいので、加集君にも話した通り、現金が近々歸つて來さへすれば、君の爲めになるのなら、融通してあげてもよいのです。」
「無論、僕の事業費に追加が必要なのですから。」
「それは加集君からよくうかがつてゐますし、君の事業の有望なのも分つてますが――この急場さへ切りぬけたら、あとはどうでもええと云ふやうな――」
「そんな無責任はしません!」
「無論、君のことだから――然し信用貸しですから、念の爲めに申して置くのです。」
 義雄はあツちの季候では、この頃やうやく蟹が取れ出すので、六七月となつて收穫の絶頂に達し、八月の半頃までで一先づおしまひになるのだから、先づ九月一杯に返却する約束なら、決して苦しいことではないことなどを説明した。
「然し僕は君の兄さんの文學には反對で、よく攻撃の矢も向けたが――それに關係を及ぼして貰つちやア困りますが、ね――」
「第一、兄とは別に關係のない金ですから――」
「さうなら實に結構です。」
 三人はそれから近所の玉突屋へ行つたが、義雄は他の二人の教へ手であつた。

 渠は玉を突きに出さへすれば、どうしても夜の十一時か十二時でなければ歸らなかつた。
 お鳥はこれを怒つて、いつもさきにとこへ這入つてゐた。
「おい、お孃さん、どうしたい」などと、一杯機嫌でそのそばへ坐ると、向うを向いてるまま、そら寢をしてゐることもある。そして突然こちらを向いて、
「あたいを大事にしないからぢやないか?」
 渠は、ランプの光が直接にかの女の顏に當らないやうに、その方へ、原稿紙の半切れを笠に張つて目隱しをしたその蔭を向けるのであつた。
「閨中美人!」そして部落民ぢやアないかの疑ひは、もう、ほんの、形式的に、渠のあたまにくツ付いてゐた。
 或夜、風の氣味だからいつもより早く、九時頃に義雄が歸つて來たら、女はちよツと出て來るからと云つただけで、明るいうちに外出したままださうだ。
「どこへいらしツたんでせう、ね?」
「さア――」
「もう、お歸りなさいませんでは、ねえ――」
「さア――」
「女おひとりぢやア、この頃ア物騷ですから。」
「なアに、あいつのことだから、また引ツかきむしるなんかして――」
「うふ」と、婆アさんは笑つた。きのふ、女房にしろ、しないと云ふ喧嘩をして、義雄が首ツ玉のところをかきむしられたのを、かの女は思ひ出したらしい。「あのお方も氣のきついお方です、ね――今どきの若い方ですから――でも、まだあなたの奧さんのはうが餘ツぽどいいぢやア御座いませんか?」
「さうですか、ね?」いい加減にあしらつてから、長火鉢のそばを離れ、二階にあがるが早いか、あかりを付けて戸棚をあけて見た。渠が心配したやうなことではなく、女の荷物はそのまま殘つてゐる。
 その代り、またそれ以上の心配がわれ知らず浮んだ。
「まさか――」と、打ち消しながらも、あの時を――あの、千代子がここへ躍り込んで來た時を――思ひ出さずにはゐられなかつた。千代子が歸つてから、女はまたあいつを早く追ひ出せとせがんだ。義雄はさう容易に法律が許さないと云つて聽かせた。――お鳥は、すると、負けてゐるからぢやないかと突ツかかつた。いや、さうぢやないと押さへ付けた。――そのあげく、女はむツとしてしまつて、何も云はないで出て行つた。義雄はせい/\したつもりで、散歩に出た。長くも留守にしてゐられない用があつたので、何げなく、烏山へ登つて見ようと云ふ氣を起した。毎日、毎日、障子をあけさへすればさし向ひになる山だが、これまで登つたこともなかつたのだ。
 すると、この山の、あツち側の急傾斜にひんしたところで、女がこツちの來たのも知らず、松の枝に自分の細帶を結びつけ、その出來た輪につかまつて、今にも首をかけようとしてゐた。
 渠はそのそばへ驅けて行つて、憎々しいほどに怒罵の聲をかけた。
「何をする!」
「死ぬ! 死!」女は渠の手をふり切らうとした。そして泣き聲になつて、「どうせ――みなに――こんなに恥ぢをかかされて――お母さんにも、兄さんにも濟まん!」
「何も死ぬにやア及ぶまい――」どうせ、こツちに對しちやア、もう、半ば死んでゐるのだから、ね、とまでも云ひたかつた。また一方には、申しわけに死ぬのは、申しわけをしなかつたと同樣ではないか? 生にばかり執着する渠には、これほど無責任なことはなかつた。さう云ふ心のうちで、「馬鹿だ、なア!」
「實際、死ぬ氣であつたのか」と、義雄はあとになつて尋ねて見た。
「さう、さ!」
「ぢやア、なぜ兄から盜んで來てゐると云ふそのアヒサンで死なない――もう、棄てたのか?」
「あれはもツと大事な場合でなけりやア――」
「二度も三度も死ねる氣かい――うそを云つてらア。」
 かう云ふ對話もあつたのを思ふと、然し、また、今夜は、うちにゐないだけ、何も事件がありさうでない――まさか外で毒藥を服用しようとは!
 渠は風邪の熱を出さうとして、水を大きなコツプに三四杯飮み、獨りで寢どこを敷いて、そこへもぐり込んだ。
 寢苦しいので、右を向いたり、左を向いたり、うつ伏しになつたりしながら、渠は女の歸りを待つた。――
 お鳥は、おれに身をまかせる前に、ちよツと朝鮮人へ目見えに行つたことがあるぞ! 然しあれは仲働きの候補で、いやだから一日でよしたと云つた。
 質屋の隱居のめかけでいいなら、十圓の口があると、桂庵から聽いて來たこともあるさうだ。
 おれのところへ來てから、病院通ひの外は、さう獨りで出歩いたことはない。
「どうせ、あたいは日かげの身だ――恥かしうて、うか/\外へも出られん」と云つてゐた。――
 渠は苦しいので左を向いた。
「けれども、どうせこんな身分でゐるときまつたら、お前のやうな貧乏人は相手にしやせん。」――ひよツとすると、ああ云ふつもりで、何かの野心を起したのぢやアなからうか?
 あの氷川の森かげの下女細君、あれがそんな風な口をかけてゐるのぢやアないか知らん? 一度手紙が來てから、よくあすこへ行き/\する。――
 渠は右を向いた。
 今夜も亦あすこなら、高が知れてゐる――が、あいつは、二三軒の口入れ屋を歩いた經驗がある。いざとならば、今度は大膽に暖簾のれんをくぐれよう――?
 現に、この隣りの桂庵婆アさんも、こなひだ、變ななぞをかけたと云つた。あの婆アさんはおれのおやぢの生きてる代からおれのうちへ出入りしてゐたのが分つた。して見ると、今は逃げて去つた繼母がまだゐる時、繼母がお鳥を第一に紹介した口入れ屋はこの隣りであつたらう。
「下らないことを――」と自分で云つて、また寢返りした。
 繼母を愛してゐた父は死んだ――その葬式はまだその時生きてゐた隣りの和尚さんに頼んだが、おれはどんな形式で以つてでも宗教家の手で葬られたくない。これはおれの主義だ――まさかの時の爲めに、おれは千代子にも、お鳥にも云つて聽かせた、おれがおれを去る時は、決しておれの主義を恥かしめるなと。
 宗教――形骸ではないか? たとひ宗教心――はあるとしても、却つて宗教その物にはない。生その物に執着する努力を宗教心と云ふなら、刹那々々の實生活がそれだ。今のおれの苦悶が即ち宗教心だ。――
 いつのまにか、渠は、仙臺の耶蘇教學校にある時、松島へ行つて度々獨禪どくぜんをしたことや、中學教師をしてゐる時、毎土曜日から日曜日にかけて比叡山へ登り、いろんな經文を調べたことなどを思ひ出してゐた。すると、自分の義兄の幼時からの遊び仲間であつて、自分の尊敬してゐた比叡山の僧で、十五年も山中の行をしたものが、行を終へて下山すると直ぐ、村の女の爲めに墮落したと云ふ記憶がともなつた。
「然し實際は墮落ではない、人間として當り前になつたのだ!」――
 渠はうつ伏しになつた。
 何だか、かう――寂しいやうな――身輕になつたやうな――さツぱりしたやうな――足かけ二年を初めて獨り寢をしてゐるのであつた。
 どこかの嚴肅な教會で讃美歌の聲とオルガンの音とがよく揃つて、その中へ惡念や惡物が何もかも消えて行くやうな――どこかの靜寂な本堂で蝋燭の光が眞ツ直ぐに燃えて永劫の聲が聽えるやうな――そんな氣分にもなつた。
 今一度女や事業を遠ざけて、世外の人になつても見たい――が、――或山の荒廢した堂内で一夜を明かした時、おれは狸でも狐でも出て來て呉れた方がいいと思つた。周圍の山林を吹きまくる風が唯一の頼母しい物であつた。が――その――その風は何だ? 矢ツ張り、今感じた永劫の聲だ――讃美の歌だ!
「形を以つて形を追つてゐたのだ。」まだ/\そんな低級な自分ではない――自分には少くとも一種の哲想がある。否その哲想を自由に具體化した生活がある。これはいつかは小説にも表現して見なければならないと思ふと、直ぐ又ほんの筆さき專門の作家や世の雜輩連の雜評に對して、今から用意した侮蔑の念が浮んだ――渠等は哲想のテツの字も分らないのだ、まして哲想を自由に具體化した人物の描寫をやと。
 渠は又あふ向けになつたが、左右に觸れるべきやはらか味の物はなかつた。そして自分のからだ中があせばんでゐるばかりが感じられた。然しこの病氣に苦しみ、女に苦しみ、事業に苦しみ、自分自身に苦しむ自分その物の熱とあせの臭みとが、この場合、一番懷かしかつた。

 がら/\と車の音がした。
 下の障子や格子戸があいて、婆アさんが外へ出た樣子だ。
 義雄も知つてる通り、かの女は、亭主が十一時から十二時までに歸りさへすれば、縁日商人の職業上當り前なので、喜んで出迎へるのである。そして、丁度可なりの傾斜を登つて來なければならないので、坂の中途まで行き、一緒になつてその荷車を押すのだ。
「今夜はどうだ、ね?」
「あんまりいいこともねい――もう、締めても――」
「まだ清水さんが歸らないんだよ。」
「へい――珍らしいことだ、なア。」
 燗酒かんざけのにほひが實際にして來た。
 錢勘定の音がちやら/\するにつれて、婆アさんが一心に銀貨と銅貨と、二錢銅と一錢銅とをより分けてゐるのが見えるやうだ。
 渠は熱苦しくなつたからだをまたうつ伏しにして、
「あれでも渠等は滿足して生活して行けるのだが――」と考へてゐた。
 直ぐこの隣りが切り開かれて、電車道になるのだが、まだ手がつけられてゐないので、電車の響きは遠くにばかり聽えてゐる。が、下では、もう、あかりを吹き消すけはひがした。
 神田から御成門おなりもんまでの切符代が無かつたのか、惜しまれたのかして、曾ては、その間を歩いて、夜中の一時半頃に我善坊へ歸つて來たこともある女だが、一緒になつてからは、こんなに遲くまで留守にしたことはない――と、かう思ひながら、渠は額を枕の切れに當てて、油あせを拭きつけた。
 嫉妬のほむらがからだ中にみなぎつてゐたのであつて、闇の中にも、壁に垂れた鬱金うこん木綿の三味線胴や、衣紋竹えもんだけにお鳥のぬけ出した不斷着などが見えるのがいやさに、堅く目をつぶつてその目を枕に押し伏せた。
「けふも、おれの留守に來やアがつたと云ふ加集の奴、たうとう物にしたのぢやアないか?」
 渠はもツと早くかの女をつ筈であつたのだとくやんだ。

十一


 女優志願の件も、本人のがらが向くまいと云ふことで、話の縁は切れたのだが、義雄はこれをお鳥にはツきりと告げなかつた。告げると直ぐ、また裁縫學校へ入れて呉れがうるさいにきまつてゐた。
 學校に入れるどころではない、お鳥その物とも、どうせ手を切つてしまふのだと、義雄は思つた――その時期は、樺太へ出發する時で、その後は、こちらに治療の責任ある例の病氣その他に就いて何と云つてよこしても、もう、返事をしなければいい。ただ可哀さうだから、返してやりたいのは、あの質物で――‐事業の先發隊の用意の金をすべて持つて行かせたあとで、直ぐ、なほ追加の空鑵材料を送つた時、金に困つてゐたのを見て、案外にも、お鳥は自分の所有物を提供して多少の手助けをして呉れた。その所有物の中には、母のかたみだと云ふ桐に鳳凰か何かの縫ひをした玉子色の繻子しゆすの帶や、水淺黄の奉書つむぎの裾に浪千鳥の縫ひある衣物などもある。この衣物、この帶を締めて今年の一月元旦に、かの女は自分と共に並んで寫眞を取つたが、如何にも野暮臭い花嫁が現はれた。
「兎に角、あの品だけは、どうしても、出してやるよ」と、義雄は時々念を押した。
「あたいをさへ可愛がりやア、あんな物はやる、さ」と、お鳥は、不斷その品ばかりを心配してゐるにも拘らず、平氣で云つたことがある。
「まだ、ね」と、輕く受けて、「おれの一身を田舍婆々アのかたみ位でふん縛ることは勿體もつたいないよ。」
「では、直ぐに質屋から出して來い」と、かの女は怒つた。
 あれを出してやらうか、それとも暗に手切れ金のつもりで新らしい衣物を一つ買つてやらうか、どツちを選ばうかと考へる日が義雄に來た。
「おい、何か衣物を欲しいことはないか、ね?」
「買うて呉れる」と、かの女は急に喜んでやはらかに首をかしげたが、「では、セルが欲しい。」
 その日、義雄は不時に這入つた原稿料をふところにして、かの女と共に白木屋へ行つた。二階は棚浚たなざらひの爲めに賑はつてゐて、かの女は一方の端から他方の端まで熱心に見て歩いても、買ひたい物が澤山あつて、豫定額の中をどれで滿たせばいいのか分らなくなつた。
「どれにしよ」と、のぼせ加減にかの女はあとについて來た義雄を返り見たが、渠はかうして別れることばかり考へてゐたので、ただ腫れ物をそツとして置くやうな氣で返事をした。
「どれでも好きなものを買へばいいだらう。」
「‥‥」かの女は、渠をふり棄てるやうにして、反對の側に足を運ばせたので、渠は椅子に腰かけて、圓テブルの上のマチを取りあげた。
 そして去年の暮の大晦日に、粗末なのだが、蒲團を一組買ひに出た時のことを思ひ出してゐた。案外安く買へたので愉快であつたので、その餘勢で麻布箪笥町の通りを赤坂の新町まで古道具屋や夜店などをひやかして歩き、古物の火鉢を約束したり、火ばしや餅あみを買つたり、――そしてそれがまかつたり、添へ物をさせたりするのが面白さに、入らない物まで値切つて見た。
「そんなに使つこたら、あとで困るぢやないか」と、お鳥の方から注意をした。が、それでもなほ、自分には、いろんなござ/\した物を買ひながら、店から店を渡る興味が盡きなかつた。
 そして自分とお鳥とは、共に兩方の手に持ち切れないほど、日常の必要物や化粧品や食物の皮包を持つてゐた。
「けふの氣分は、然し、丸で違ふ」と、義雄はわざとゆツくり煙を吹きながら、お鳥を初め多くの婦人連がちよこ/\とこごんでは歩み、歩んでは屈み、順ぐりに同じ切れをいぢつては行く樣子を傍觀してゐた。
「ちよツと來てな」と、お鳥はあわただしく顏をしかめて呼びに來た、そして義雄が立ちあがると、あたりに人がゐるのも構はず、渠の袂をぐツと引ツ張つて、「ちツとも一緒に見て呉れへん――人に買はれてしもたらどうする!」
 かの女は急いで白羽二重の夏帶地ばかりかかつてゐるところへ行き、その一つの端を攫んだと思ふと、一人の女の後ろを越えて、また向うにある一つの端を取つた。そして引き締つた笑がほで、
「どツちがええだろ?」
 中に圍まれた女は、直ぐその下からくぐり出て、お鳥にちよツといやな目付きを投げた。
 義雄は、かの女をしてぐづ/\と人の邪魔をさせて置くにも及ぶまいと思つたので、わけも無く自分の方のをあごを以つて示し、
「これがいいだらう」と、尤もらしく答へた。で、かの女は他方のを放したが、かの女の手に殘つたのは、竹に雀の墨繪が書いてあつた。
「では、これと下で見たセルとにしよか?」
「ぢやア、さうしなよ。」
 渠はこの二つの品に半襟を一つ加へてやり、これが代金を拂つてから、食堂で木原店きはらだな汁粉しるこを取り寄せた。

十二


 お鳥が最終電車に間に合はないほどの時刻に歸つて來たことが、今一囘あつた。そして矢ツ張り、前囘と同じやうに、氷川の森蔭の細君のところへ行つてゐたのだ。そしてあの人がいろんなおどけた話をして歸さなかつたものだから、つい、また遲くなつたと申しわけをした。そしてまた、あの人がこツちを引きとめてゐたのは、亭主の留守が寂しいからであつたのだからあのいやな自髮ぢぢイ歸つて來ると、人を直ぐ出て行けと云はないばかりにあしらつたと、訴へるやうに報告した。
 けふ、初めて縫ひ上つたセルを着てゐるのをちらと見て、義雄はかの女がこれを見せびらかしに行つたのだ、な、と分つた。が、前囘に於いて、既に女の夜遊びを懇々いましめて置いた言葉を破つたのを憤り切つてゐたので、何等の返事をもする氣にならなかつた。
 かの女が義雄の枕もとに坐り、不斷通りの笑がほを見せたのを、渠は枕の上からにらみ付け、おほきな聲を――下への遠慮の爲め――押しつぶすやうにして、
「馬鹿」と一喝した。「あんな女の相手をしてイて、うちをどうするんだ!」
「‥‥」見る/\顏色を變へて、「うちなどありやアせんやないか?――そんなに可愛けりやア、早うあいつを追ひ出して、あたいを本妻にせい!」かう云つて、かの女は力一杯に義雄を蒲團の上から兩手で突きのめした。
「‥‥」義雄は返事もしないで、あふ向いたまま、目をつぶつた。そしてこの女も駄目だ、かの千代子も駄目だ、また、父の遺産をすべて投げうつた事業も、あと僅か二百金の出來ない爲めに、すツかり時期を逸してしまふかも知れないと思つた時、寂しい、寂しい氣持ちが胸に迫つて、熱い涙が一滴自分の頬に傳つたのをおぼえた。
 あかりを吹き消した音がしてから、直ぐだ――
さいにして呉れ、妻にして呉れ」と、いつに無くこは張つたからだを、幾度も、かの女は義雄に投げつけた。「して呉れんと、殺すぞ」ともおどかした。
 それでも義雄は目を明けず、口も開かなかつた。うと/\と眠りに入りかけた頃、蒲團の一端が引ツ張れたのに氣が付いて、目をあけると、――いつの間にか枕もとに置いたランプがともされてゐて、お鳥はとこをぬけ出で、蒲團の裾に當る押し入れの膳やまな板を入れてある方の唐紙を靜かにあけた。
 光があたまで遮られてゐるのを幸ひ、見ない振りで、細目に目をあけて、かの女の横顏を見ると、かげのせゐか、低い鼻まで鼻筋がくツきり通つてゐるやうに目を据ゑて、押し入れの中をのぞき、右の手に出齒庖丁を取り出した。
 一度はぎよツとした爲めに、ねむ氣は全くさめてしまつたが、
「なに、くそ!」再び目をつぶつた。そして子供の時、空想的に望んで見たことが、今、多少の事實となつて來たと考へた。自分を「ぼくさん、ぼくさん」と云つて、よく菓子を呉れたり下駄の鼻緒を直して呉れたりした、あの船乘りのかみさんだ。他に土方の男が出來た爲めに、亭主をくびり殺さうとした時、亭主が氣が附いてはね起きると、枕もとに出齒庖丁もあつた。その翌晩は船が大阪にとまる順番であつた。そしてその翌々晩に、歸つて來て、渠は前々夜に何事もなかつたかのやうに、毒婦の室に入つた。義雄はこんな大膽なおやぢになつて見たいと、おぼろげにだが、思つたことがある。「手切れの口實にはいい機會が來た」と覺悟して渠は出來るだけ息をゆるやかにしてゐた。
 お鳥はそツと坐つたやうだ、その裾の下から押し出された空氣が、生あツたかく鼻を掠めて一種のにほひがあつたのに、義雄は今更らのやうな氣がした。
 自分には、これがかの女をいやになる心の條件の一大原因であるとも思はれた。
 蒲團がめくられたかと思ふと、やがてひイやりした物が輕く、義雄の左から右の方へ、そののどの上を横切つた。
「さうだらう、おどかしに過ぎない」とは口に出さないで、するりと顏をかの女の方から遠ざけて起き上り、「なによウする!」
「殺してやる! 殺してやる」
 その時は、もう、出齒は義雄の手に在つた。そして暫く、二人は無言で、睨み合つてゐた。
 お鳥は下へおりて行つた。下の臺所へ他人の刃物をでも取りに行つたのかと心配してゐると便所の戸を明ける音がした。
 義雄は明けツ放しの押入れから鰹節削りの小刀を取り出し、机の上のナイフと持つてゐた庖丁とを合はせて、自分の寢てゐた側の敷蒲團の下に隱した。そしてかの女と入れかはりに便所に行くふりをして下におり、臺所を探して見ると、下の人の使ふ庖丁はあつたので、これをいつもの位置とは違つてちよツと氣がつき難いところに置いた。渠があがつて來たら、かの女は渠の机のあたりにまご/\してゐたが、また押し入れへ行つて頻りに何かを探し始めた。
「ナイフも小刀もあるものかい」と、心に語りながら、義雄は堅い物を脇腹の横に避けて、それでもこれを少し押さへるやうにして、もとの通りに横たはつた。
 渠がその翌朝の十時頃に目をさますと、平生ふだんの通り飯の支度は出來てゐた。が、二人は無言で食事を終つた。
 それからも、義雄は無言で新聞を讀み、便所に下り、また衣物を着かへた。そして書き終りかけの長篇評論の原稿と共に、四五册の參考書をすツかり引きまとめ、風呂敷に包まうとしてゐると、お鳥は離れた方の窓下で足を投げ出し、片肱を突いて自分の裾から出た桃色のネルの端とこちらとを見比べながら、少しも小だはりの無い聲で云つた。
「どこへ行くの!」
「‥‥」義雄は、もう、これツ切りこの座敷へあがる必要はないと決心してゐたので、返事もしたくなかつた。
「ええ、どこへ行くの?」その聲は一段と優しくなつてゐた。
「‥‥」
「默つて行くなら、あたいも行く」と、異樣な顫へさへ帶びて來た。
「來たツて仕やうがない、さ」と、止むを得ずこれに應じて、うそは云ひたくなかつたが、「原稿料を取りに行くのだから、ね。」
 かう云つて包みをかツ浚ふやうにしてこれをかかへるが早いか、立ち上つてはしご段の下り口まで行つた。
「ちよツと待つて」と、お鳥は息をはずませて起きあがつて來て、義雄の袖を握つた。そしてそツと段の下の方をのぞいて見てから、もとの窓ぎはの方へ義雄を無言でぐん/\引ツ張つて行き、窪んで青みがかつた眼で、じツと力強く命令するやうに渠の顏を見詰め、かの女は先づその白い幅ツたい顏をのぼせさせてゐた。

十三


「向うの愛情が熱して來ただけに、却つて始末ににくいのだ」と、義雄はその日加集の宿にかけ込んで、お鳥のことを訴へるやうに語つた。そしてかの女と手を切る爲めの奔走をして貰ふやうに頼んだ。――質物は金が出來次第出してやること、病氣は直るまで改めて治療させてやること、この二ヶ條を條件として。
 加集は喜んで引き受けた。そして直ぐお鳥のところへ出かけた。もう、くツ付くなり、何となりしろと、義雄は心を落ち着けて、渠の留守二階で、渠の自炊兼用の机に向ひ原稿の續きを書いてゐた。
 すると渠はまもなく歸つて來た。手には馬肉の新聞紙包を持つてゐたが、
「えらいおこりやうだで、なア」と云ひながら、その包みを投げ出し、また背廣のポケットから正宗の二瓶を出して、義雄のそばにあぐらをかいた。
「また馬肉かい?」
「うん――うまいぢやないか?」
 義雄は去年痳病で苦しんだ頃、この肉が藥になると聽いて頻りに喰つたことがある。そして加集はくそのお相伴しやうばんをしたのであつた。
「おこつてるツて?」
「丸ツ切り、あいつア氣違ひぢや、なア。」
「おこつたツて、仕かたがないぢやアないか?」
「おれに、お前のやうなものは仲へ立つて貰はん云やがつたぜ。」
「ぢやア、どうすると云ふのだ?」
「直接に話を付ける云うた――おれのうちに隱れてるに違ひない云うて、こはい顏でにらみ腐つた。」
「ここを知る筈アなからう――?」
「無論だ――自分で自分のからだをひツかいたり、君の雜誌を引裂いたり、あのざまを君に見せたかつたよ。」
「うツちやつて置く、さ。」
「歸りに下の婆アさんにさう云うたら、あいつも失敬なやツちや、丁度いいからおれに貰つてやれと、さ。」笑ひながら、「馬鹿にしやがる!」
「‥‥」義雄はちよツと加集の顏色を見たら、何だか得意さうであつた。「どうともさせて置くがいい、さ、――おれだツて、もう、二度と再び喉を出しちやアゐられないから、ね。」
「今度こそ、見つかつたら、ひどい目に會ふぞ。」
「ふ、ふん」と、義雄も心配さうに笑つた。
「然しやつて來る氣づかひは無いし、なア」と、加集は立ちあがりながら、「まア、一杯やろうか――久し振りだ。」
 この時、がらりと下の格子戸が明いて、女の聲がした。義雄は身の毛がよだつた。
 加集は拔き足して行つて、下り口から下をのぞいてゐたが、
「なんぢやい」と、棄てぜりふで云つて、にこ/\戻つて來て、「廣告りを取りに來たんぢや――美人やで。」
 義雄はちツぽけな一私人の印刷屋の二階にゐるのに氣が附いて、ふと窓の外に目を送り、屋根から通りへ傾いてゐる大きな横看板の裏を見た。そしてこんな家の主人を相手に何か共同の發展をしようとしてゐる友人の、大して望みありさうでもない努力をいましめる氣になつた。

「晩飯にやア早過ぎるが」と云ひながらも、二人は自分等で拵へた食事を始めようとしてゐる時、加集への訪問客があつた。
「鶴田君ぢやで」と、加集は肩をすくめて義雄を見た。そして低い聲で、「あの金が出來たんなら、うまいが、なア。」
 飛び下りるやうにして迎へに行き、加集はこの鶴田と云ふ築地橋そばの人をも仲間に加へた。
「お約束の金は」と、鶴田はちよツと義雄に改まつて云つた、「いよ/\近々戻つて來ますから。」
「さうすれば、僕も」と、義雄の心では、その嬉しさよりも、寧ろお鳥の追跡を避けることが出來るのを、この場合、一番の幸ひだとして、「出發が直ぐにも出來るのです。」
 食事が終つてから、三人は玉突に出かけた。そしてその夜は、義雄は加集と共に加集の二階へ歸つて來て、二人で一組の蒲團[#「蒲團」は底本では「薄團」]を引ツ張り合つて眠つた。
 翌朝義雄が目を覺ました時、もう、加集は昨夜斷つてゐた通り、外出してゐなかつた。そして下の時計が十時を打つのを數へたが、自分は起きる氣にならなかつた――若し人間が人間を忘れ、自分が自分をどうでもいいとならば、家が人のであらうが、仕事が自分に迫つてゐようが、このまま斯うして、自分が寢飽きるか、人が追ツ拂ふかするまで、ぐツすり寢つづけてゐたいものだと。
 渠は仰向けにからだを延ばして見た時、これまであくせくと考へたり、働いたりして來たことの結果をすべて吐き出すやうなあくびを一つした。そして自分が持つて來た書物を座蒲團で卷いた枕の方へ無意味に兩眼を流れ出で、兩方のもみあげのあたりに傳ふ、生ぬるい涙じるを手の平で押しぬぐつた。
 また、うと/\して見たが、直ぐまた目が覺めた。下の印刷屋の格子戸が度々明いたり、締つたりする忙しさは、自分のあたまで通つて來た之までの忙しさと同じやうだと思つた時、今度格子戸を明けるものが若しお鳥であつたらどうだ? うか/\してゐて、なまなか柔術知りの女に寢込みでも襲はれたら?
 兎に角、渠は思ひ切つてはね起きた。さうして下で顏を洗つてから、近所の牛乳屋へ新聞を讀みに行つた。樺太のカラの字だけにでも注意を集めるやうになつてゐる渠は、或新聞に、あちらの鑵詰製造の景氣が今年はよかりさうだと書いてあつたのを見ては、微笑しないではゐられなかつたが、誰れもかれもと小資本の製造所が出來て、その競爭の結果、原料なる蟹の値段があがるばかりだとあつたのには、少からず心配の念をいだいた。もう五月の半ばを過ぎたのだ。これから大切な六月一杯にかけて、早く效果を擧げさせなければ――
 午後の五時頃まで待つてゐると、
「暑い、なア」と云つて、加集は歸つて來た。「二千五百圓の宅地をあの○○に」と、國から出た先輩の名を擧げ、「買はせようとしてるけれど、なか/\買はんて――ついでに、またあいつのところへ寄つて來たが、なア、ゐなかつたで。おれのうちを探してるのぢや、なア。ゆうべもおそくまで留守にして、歸つて來ると、直ぐ君の※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イオリンも三味線も皆たたき毀したさうぢや。」
「いツそのこと、あいつのからだもたたき毀れたら、肩拔けがすらア、ね。」
「きつう、おこつてるんぢやで――おツそろしいぞ、あいつのことだから――‐鼻にえらい皺を寄せて、きのふも殺す云うてたから、なア。」
 この時、下の格子戸が明いたやうであつたが、
「加集さんはをりますか」と、靜かに氣取つた聲がしたのは、確かにお鳥だ。
「たうとう來やアがつた」と、義雄は低語したが、その調子が引き締つてゐるのを身づからもおぼえた。それから少しのぼせたやうに調子がぐらついて、「どうして分つたらう?」
「加集さん。お客さんですよ」と、下のかみさんがうは付いた聲をかけた。
「へ――さア」と立ちあがつたが、義雄の方をふり返り、「不思議ぢやが、――君は、まア早く歸れよ。」

 義雄も急いで、机の原稿とそばの書物とをまとめて、風呂敷に包んでゐる時、お鳥は加集のあとからあがつて來た。
 とツつきの三疊の間から、おもての六疊へ這入つたところに突ツ立ち、悲しみを忍ぶやうな、そして又憤りを堪へ切れないやうな顏をして、かの女は義雄を睨み下ろした。
「どうして、また、分つたのだ?」義雄は頬のぴく/\し出した顏にわざと笑ひをたたへさせて下から見あげた。疊の縱の長さほどは距離があつたが、若し飛びかかつてでも來たらと云ふ用意に、右の方を立て膝にしてゐた。
「畜生!」かの女は斯う一言して、全身の力を籠めたやうにからだを振つた。
「さう、さ――お前も畜生なら、おれも畜生、さ、然し、ね」と、向うを荒立たせないつもりで言葉を優しくして、「おれの方はよく分つた條件を加集君まで持ち出してあるのだぞ!」
「あんな者の云ふことなど聽かん!」
「ふ、ふん」と、加集はかの女の正面に當るところにあぐらの片膝を抱いて、にやり/\笑つてゐた。
「逃げないでも、直接に話をきめる!」
「こんな場合に、お前とおれとでかたを付けるなんて、出來るものか?――兎に角、おれは加集君にまかせてあるから、ね。」ちよツと加集を見て立ちあがりながら、「僕は失敬するよ。」
「では、おれがあとでよく云ふから心配するな。」
「逃げないでもええ! 云ふことがある!」まだ睨みつづけてゐて、かの女の息は迫つてゐた。
「おれは、もう、二度とお前の命令じみたことは受けないよ。」かう云つて、次の間へ行かうとした時、かの女は忍び切れなくなつて、兩手を固めて飛びかかつて來た。
「何をする!」義雄は本包みをかかへない右の方の手でかの女の左の手くびを握りとめた。見れば、方式通り、母指を中にして他の指でそれを固めてゐるが、こんな用意をしたにも似合はず、少しも力が這入つてゐなかつたので、「まだおれに手頼たよる氣でゐる、な」と感じた。そして強くふり放せば倒れさうなのを加減して、形ばかり勢ひよくふり放した時、自分の手と女の手とがぎやくにつるりとすべり合つたので、その肌のすべツこさがをしめた。
 が、時の勢ひがあと戻りをさせなかつた。全く未練の無いやうな強さを見せて、障子を締め切り、ずん/\下へ下りた。
 自分の締めた障子が明くのを恐れたが、そんなけはひは無かつた。
 采女町うねめちやう木挽町こびきちやう四丁目と相對してゐる通りで、ここの印刷屋の横町を拔けると、直ぐ木挽橋へ出られた。義雄は通りの方を歸つて行くのを、二階から加集に見られるのもあんまり體裁のいいものではないと思つて、直ぐこの横町の細い溝板を渡つて、三十間堀のふちへ出た。
 あとからお鳥が追ツかけて來はしないかと云ふ恐れにばかり追はれて、おづ/\と急いで橋の袂までは來たが、いよ/\これを渡らうとする時になつて、どうしても足が進まなかつた。追ツかけて來るものが無いだけ、寂しいやうな氣がして、二足三足戻つても見た。が、思ひ切つてまた一二歩歸り路の方へ進んで、ぴたりと立ちどまつた。この時は、もう、加集に對する嫉妬の念が胸一杯に充ち滿ちて、あたまがぼうとまでしてゐた。
「若しや、けふ、あいつが立ち寄つた時、お鳥にこと更らに自分の住所を知らせて置いて、直ぐあとからやつて來いと云つて置いたのではなからうか?」堪らないほどもや/\して來た胸を押さへて、渠は跡もどりをした。

 印刷屋の格子をあけて締めた時には、自分の女房を寢取られてる現場を見た心持ちも斯うだらうと思へる程、義雄のあたまに血がのぼつてゐたのをおぼえた。
 印刷機械の一部や印刷紙などを積み重ねてあるあひだのはしご段を、づか/\とあがつて行つて三疊と六疊との間の障子をすツと明けた。注意したつもりのが、あまり勢ひよく明いて、柱にぴたりとあたつた。
「どうした」と、加集も多少びツくりして眉根をあげたのが、左右に引ツ張れて、ゆるい八の字に見えた。が、先刻さつきと同じところに、同じやうな坐り方をしてゐた。
 お鳥は、然し、横になつて、加集が車に乘る時に使ふ膝かけをその上にかけてゐた。
「燒けになつて、愼しみを失つたのか」と云つてやりたかつた。「いや、おれと別れたら、直ぐ困ることは知れ切つてるから、加集の意を迎へるつもりだらう」と思つた。
 かうなれば、もう、嫉妬よりも侮蔑の氣が勝つて來て、義雄は多少心を落ち付けた。
「なアに、ね」と坐り込み、「矢張り、僕が直接に、おだやかに、云つて聽かせた方がいいと考へ直したから――」
「もう、云うてらん」と、お鳥の上の膝かけが動いた。
「お鳥さんも大分わかつたやうだから、今少し氣を落ち付けさせる爲め、――少し――休むやうには云うたんぢや――僕も君の友人だから、君の爲めになるやうに計るによつて、なア、心配するな。」
「ぢやア、矢張り君に頼んで置くとしよう」と云つて、また立ちあがつた。もう、渠はどちらにも未練らしく言葉をつづけたくなかつた。
 そこを出で、再び溝板の横町を通り拔け、木挽橋を渡り、竹川町で品川行きの電車に乘つた。多少すツとして輕い氣持ちになつた時、さツきから左の腕にかかへてゐる書物の重さをおぼえた。
「どこへ行つて仕事をするつもりだ?」かう云つて、自問自答をして見たが、どうしても自分の我善坊の家へ歸る氣にはなれなかつた。
 宇田川町で電車を下り、御成門おなりもんの方へ一直線に急ぎ、またの電車線を横切つて、自分がきのふまで陣取つてゐたところに行つて見た。が、そこへもあがる氣がしないので、格子を這入つたところの疊に腰かけて、それと無くお鳥の昨夜來の樣子を聽いた。
 婆アさんが迷惑がつた顏つきをして、昨夜のあり樣を――加集にも同じ調子で語つたと思はれるやうに――語り、
「ゆうべ初めて分つたのですが、ね、あんなおそろしい方は、もう、眞ツ平です、わ――燒けになつていつこの家へ火付けをされないものでも無いのですから、ねえ――わたしも夜おそくまでたツた獨りでゐるものですもの、いざと云ふ場合にやア、女一人でどうすることも出來ません、わ、ね。」
「まさか、そんなことも――」
「いいえ、あなた、どうして――清水さんもまだあなたに未練があるやうですが、あなたもまだ思ひ切れないでせう?」
「僕は、もう、大丈夫ですよ。」
「尤もそれが奧さんの爲めです、わ、ね――清水さんのやうな方は、あなたもさん/″\もてあすんだのでせう、あの、加集さんにくツ付けておやんなさいよ、大した代物しろものでもないぢやアありませんか、ね?」
「どうとも勝手にさせますとも!」
 間代は既に今月拂つてあるので、それ以後自分の責任は無いからと云つて、義雄が立ちかけると、婆アさんは思ひ出したやうに、ゆうべ、我善坊の千代子がやつて來て、相變らずやき/\云ひながら、弟が病氣で入院したと云ふ樺太からの電報を見せたことを告げた。
 それでも渠はこの坂を向うへ越える氣になれないで、再び御成門の方へ引ツ返した。
「自分の家が無くなつたのだ! そして例の金が揃はないぢやア、弟の生命いのちもどうなることか分らない!」
 かう心に叫んで、久しく行き絶えてゐた濱町の怪しい家へこの夜を明しに行くと決心した。そこで小仕事に短い原稿を書いて、本夜の費用にすればいいからと。

十四


 翌朝、獨りになつてからまた一寢入りしたが、起きて近處の錢湯に行つて歸つて見ると、ゆうべから頼んで置いた使ひが歸つてゐて、或雜誌社からの稿料が來てゐた。費用を拂つて、なほ大分に殘りがあつた。
 電車に乘る前に、朝晝兼帶のちよツとした食事を濟ませ、竹川町で下車して加集のところへ行つて見ると、渠は外出してゐなかつた。
 また電車に乘つて三田の薩摩ツ原で下りた。渠は、鑵詰製造に必要なので釜をこしらへさせたところを思ひ出したからである。
 あの時、鑄釜いがまなら、値段も安くて、どこにでもあつた。然し時によると熱湯の勢ひで破裂することがあると云ふので、鐵をうち鍛へさせることにした。
 大人おとなの手でも殆ど二かかへもあらうと云ふ圓みの、その高さは脊延びをして中をのぞくほどの釜であつた。その鐵蓋は密閉して熱湯の壓力をしツかり押さへるだけの強さがあり、釜の横へ出して、また、その壓力測量機がついてゐた。
 いよ/\出來あがつたと云ふので、湯の代りに水を一杯に滿たせ、強力なポンプを以つてその上にまた水を送ると、壓力測量機の針がくる/\とまはつた。その機械の根を締めて、また一段の力を與へると、今度は釜と蓋との密閉部から、水が多くの細い線となつて吹き出し、あたりにゐる人々の顏となく、胴となく、裾となく、ちよツとの間にずぶ濡れにしてしまつた。あまり廣くもないおもて庭を逃げまどつた人々でも、こちらでポンプの手をゆるめた後までも飛ばツ尻を喰つてゐた。
 沸騰點以上なほ四五十度の熱と同樣の壓力をかけたのであつたが、これではまだいけないと云ふことになり、密閉部の工合をもつと緻密に直させた。
 そんな釜を厚い鐵板から鍛へあげさせたのである。それを、自分の身が形作られて行くやうな氣で、鐵工所へ見に行くのを義雄は毎日の樂しみにしてゐた。
 とんかち! とんかち! とんかち! そして赤くなつた鐵が段々に延びて行く。そして又延びて行くと同時に、半圓形になつて行く。
 これを見て、初めて、渠は實際にどんな形の物であるかを想像し得たが、二つの半圓形の厚板がまだ全圓に合はされないうちのこと、自分はお鳥の二階へ歸つて、晝間の工場であまりに目を見疲れさせた爲めに早寢をしたことがある。そして自分が熱鐵の板輪いたわに圍まれて、ぐん/\と締め上げられた苦しみの夢を見た。
 とんかち! とんかち! とんかち! と云ふ音が遠く聽える氣がして毎朝目をさまし、食事が濟むと直ぐまた出かけた。
 やがて兩半圓は會合した。そしてその會合部は、上から下まで、多くの大きなべうを以つて固められた。そして又その鋲の個所々々も、一たび熱せられて、打たれて、そして鍜へられて、釜の本體と一緒になつてしまつた。
 それに底が出來た。また、蓋が出來た。そして渠はアミーバがその母體を離れたやうにとんかちの音に別れた。
 が、その音は今や自分の中にもかすかに響いてゐた。
 とんかち! とんかち! とんかち! 鐵工所の門前に近づくほど、足の歩みが急がれて、その音が段々と明らかになつた。
 門が見えると、渠は飛び込んだ。すると、同じやうな釜が一つ出來あがつてゐた。
「そりやアどこ行きか、ね?」
「これですか」と、知り合ひの職工が答へた、「これは蟹の方ぢやアごわせん――どこか東京近在の註文です。」
「何に使ふのだらう、ね?」
「さア――旦那も、どうです、今一つ發展しちやア?」
「うまく行きやア、ね」と、義雄は微笑した。あちらがうまく行けば、この秋から朝鮮へ行つて、すつぽんの鑵詰をやる計畫と研究とも出來てゐた。
 そこを出てから、また行く先に迷つた。
 愛宕町あたごちやうの大野を思ひ出したが、あの有樂座以來何だか興がさめてゐて、行く氣にならなかつた。
 で、佐久間町の辯護士なる友人を久し振りで尋ね、玉突やら晩餐やらを一緒にしてから、再び加集のところへ行つて見た。が、午前からあの女と一緒に出た切りまだ歸宅しないと云ふ下のおかみさんの話なので、ぢやア、ゆうべはとまつたのかと聽くと、さうだと答へた。
 ゐなければ待つてゐようともしてゐたのだが、果して案のぢやうなるこの事實が分つたので待つのも馬鹿々々しくなつた。
 時計を出して見ると、もう十時に近かつた。これからは、もう、ゆうべのところへ行くより仕方が無かつた。

 その翌朝、また水天宮前から電車に乘り、竹川町で下りて、性懲しやうこりもなくまた行つて見ると幸ひに加集はゐたが、義雄を見て不安さうな顏つきをした。義雄はわざとお鳥のことは聽かずに、直ぐ金の話をした。
「どうだい、鶴田君は至急運ばせて呉れないか、ねえ?」
「さういても仕やうがありやへん――外へ融通してあるのが、今月末に返る云うてるのやさかい、なア。」
「ぢやア、そツちで少し都合が惡いから、今一ヶ月待つて呉れいとでも云つて來られりやア鶴田君もそれツ切りだらう――?」
「そんなことは無い筈ぢや――それよりや、君の方が九月一杯に返せんと、僕までが面目ないで。」
「おれの方は大丈夫だよ――然し大丈夫と云やア」と、義雄は少しどぎまぎするのをさう見せないやうにして、「あいつを物にしたのかい??」かう云つて、この點を突きとめさへすればもうお鳥との手切れ條件の一つなる治療條件は御免をかうむらうと云ふ下心があつた。
「そんなことがあるもんか」と、輕くらせようとした加集の顏には、どこかぼんやりしたやうな、とぼけたところが見えたと、義雄には思はれた。義雄がわざとらしくにや/\してゐるのに對抗したやうに、「そないに疑ふなら、今度轉宿させるところへて見よか?」
「行かうとも!」
「では、早う行かんとかち合ふで――けふの午後二時頃に移つて行く筈ぢや。」
「どこだい?」
「八丁堀の電車通りの裏手ぢや。」
「さア、行かう」と、義雄は立ちあがつた。「おれも二度とは直接に會ひたくないから、ねえ。」
「會うてたまるもんかい、僕の君に對する奔走が無駄になつてしまふぢやないか?」
 治療代はこツちで出し、本人はそつちで占領する――そんな都合のいい計算は人間その物の十露盤そろばん上には無いぞ、と義雄は云つてやりたかつた。
 加集が道々話したに依ると、お鳥が渠の居どころを知つたのは渠が義雄に紹介した或書生のハガキが殘つてゐたからであつて、かの女はその書生を尋ねて、加集のところを知つたのだ。
 二人は櫻橋で電車を下り、堀に添つて東へ入り、右に曲つた通りへ來た。
 一間ほどの窓格子の眞ン中に、一尺四方ばかりの額ぶちがかかつてゐて、その中に桃太郎や天狗やあかんべいなどの繪が書いてあつて、そのまた右に「百面相」と云ふ横長の看板が出たところがあつた。その格子に「明間あり」の紙札が張つてあつたのを加集はいきなり破り取つた。そして義雄を返り見て、低い聲で、
「ここぢや――失敬な奴ぢやないか、まだ札をはがしとりやへんのや、手附け金を取つてる癖に!」
「‥‥」義雄は默つてちよツと苦笑ひしたが、その金だツて、こちらがお鳥に自分等二人の日常費として來月十五日までの分を渡してある、その中から出したにきまつてると思つた。
 この百面相の窓格子のはづれと、どこかの倉との間に、一間四方あまりの空地があつた。そこにけち臭い氷屋の屋臺店が張つてあつた。そのよしのかげに這入り、
今日こんにちは」と、加集は聲をかけた。そして窓の奧から婆アさんが一人、樹の濡れ縁のところへ出て來たのに向つて、「まだ來ませんか?」
「ええ、まだ――」
「もう、おツつけ來るでせう――君、この二階だよ」と、屋臺店の奧を高くゆび指した。
 下は物置になつてゐるが、雨ざらしの大工はしごを登つて見ると、六疊敷の座敷があつた。壁や天井裏はすべて新聞紙を張りまはしてあり、大きな大黒を書いた去年の柱ごよみと、石版りの美人繪とが壁に向ひ合つてゐる。通りに向つた方は、家に付いてあがり口を取つたあとが一杯に窓で、そのそとに二三の盆栽を並べた臺が、日よけの爲めに掛け垂らしたよし簀から透いて見える。
 その簀の一端をあげて、義雄はそとへ出もしなささうなつばをしようとしたら、その下に氷店のあんこが伏せてあるガラス蓋が目にとまつた。で、渠は顏を引ツ込めて、奧の片隅の高い小窓のそとは何であらうかと思つてのぞいて見ると、隣りの押し迫つた屋根の上であつた。
「わざ/\ひどい所を探したものだ、ねえ。」
「でも、安いよつて、なア――いくらだと思ふ?」
「いくらだツて、もう、おれア――」
 そこへ二十四五の小綺麗なかみさんが茶を持つてあがつて來た。
「御主人はゐますか」と、加集はかの女に聲をかけた。
「けふは、○○の宮さんのとこへ招待されまして、つい、先刻せんこく出ましたが――」
「百面相ツて」と、義雄はまだ何のことか分らなかつたので、「どんなことをするのです?」
「をかしい藝人で」と、かの女は愛想笑ひをしながら、「ほんの、道樂が高じてこんな商賣をすることになつたのださうです。」
「きのふ、本人が」と、加集は得意さうな顏つきで、「どこかよんでくれる宴會でもあつたら、世話して呉れと云うてた。」
「そりやア何だか面白さうな仕事でせう、ね」と、義雄は笑ひながら。
「いえ、ほんの、道樂で――」
「藝が面白いよりや」と、加集が受けて、「本人が面白さうな人間ぢやて。」
「さうだらう、ね――そして氷の方もあなたのうちで――?」
「へい――」
「おい、一つやろか?」
「さア――」と、義雄は應じかねた。喉が渇いてゐて、こんな應對をしてゐるのさへ舌がくツ付き氣味であつたのだが、第一に何だかきたならしいやうな氣がした。第二に、また、ここにぐづ/\してゐられなかつた。「來ないうちに出ようぢやアないか?」
「では、おかみさん。」加集も立ちあがつて、「來たら、よろしう頼んます。」
 それから電車通りへ出て、二人は氷を飮んで別れた。

十五


 義雄はかかへてゐる長篇評論の結末を書かなければ、自分自身のその日、その日をささへる金にさへ困るにきまつてるのだが、落ち付いて書く場所がなかつた。
 この原稿を依頼した社へでも遊びに行つて見ようかと考へたが、まだ書きあげないのを持つて遊びに行つたとて、無責任としか見られないのにきまつてゐた。
 渠はふと大野を訪うて見たくなつた。そしてその細君とも話をして、いよ/\清水と手を切つたことを報告したくなつた。
 で、愛宕の塔下へ訪ねて行つたが、生憎あいにく、大野は留守であつた。細君はゐるとのことだが、子供がぎやア/\云つてゐるのが聽えたので、――子供と云ふものはその聲だけでも聽くさへ義雄にはいやなので――あがる氣にはなれなかつた。
 轉じて四谷へ行き、或婦人の獨身者を訪問した。この婦人は渠を冷かし半分で、
「なぜあたしを口説くどいて見なかつたの」と云つたことがある。
「どうせ口説いたツて、物にならうとは思へない人だから、ね」と、渠は眞面目に答へた。そして今日まで二人の交際は少しの氣まづさも無く續いて來た。渠には今更らの如く、かう云ふ交際が却つて無事で而も懷かしみもあるものであつたことが分つて來た。
 かの女が某華族の夫人と共に催した或慈善音樂會に於いて、渠は一場の演説をしたこともあつた。かの女の家でかの女と婦人論を爭つて、その母親に喧嘩してゐるのではないかと思はせたこともある。かの女の紹介で、何物であるかまだかの女にも分らない或美人――實際の美人であつた――を訪ねて行つて、その生活の樣子を探つて見たこともある。かの女が玉突屋兼業のレストランをやつて見ようと云ふ出來心を起した時、無駄であつたが、いろんな助力を與へたこともある。
 そんな關係で、渠が清水鳥と云ふ女に熱心になつてゐたことも、かの女は渠から聽いてよく知つてゐた。が、渠がいよ/\樺太へ出發する折は、そのお鳥を預かつて呉れないかと頼んで見た時、これは三ヶ月ほど前のことだが、
「そんなきたならしい病氣の人なんて、あたしいやです、わ」と、かの女は半ば怒つて、はね付けた。それでも渠はこの婦人には當り前の返事だと思つて、惡い氣はしなかつた。
「もう、この婦人しか無い、今の自分の心持ちを持つて行きどころは――その、いつもの忠告通り、女と手を切つたことをうち明け、叱られて、笑はれて、半ば同情の言葉を得て、二三時間だけでも、自分の落ち付きどころを借りて見よう」と、玄關の格子戸を明けたのであつたが、母親なる人が出て來て、ここも亦あての人の留守であるのを報じた。そしてこの老母が先づ旅の話を持ち出して、
「いつ、あなたはお立ちになりますか、ね?」
「もう、四五日中だと思ひます」と、義雄はわけもないやうに答へた。
 人や自轉車の行きかふ間をよけながら、渠は全く途方に暮れた。
 あまり好きでも無い酒を呼ぶ爲めに、肉屋やバーに這入る氣もなかつた。
「今一度お鳥の新居へ行つて見よう!」かう云ふむほん氣が確かに渠の心を占領したのは、渠が四谷見付けを這入り、麹町八丁目近くまで歩いた頃であつた。
 渠がまた八丁堀へ行つた時は、もうお鳥は例の六疊敷をかたづけて、角火鉢にかけたゆきひらの下を吹いてゐた。
 渠は、先刻さつきの若いかみさんが氷をかいてゐるのにちよツと挨拶して、はしごをあがつて行き半ばそのからだを現はした時、自分はこはい顏をしてゐる筈であつたが、つい、笑みを漏らした。
 かの女も亦こちらを返り見て、にツこりとした。そして常にでさへ珍らしかつたほどの優しみと嬉しみとを籠めた目付きで、こちらを見つづけた。
「このざまはどうだ!」かう、平生へいぜいと違はない態度で云つて、渠はかの女の大きな廂髮ひさしがみの上にたかつた灰を指のさきで輕く拂つてやつた。それからそのそばにあぐらをかいて、「どうだ御機嫌は?」
「知らん!」かう云つて、かの女は渠のからだを兩手で突き飛ばした。片手を後ろに突いた渠が、何とも云へなくなつて、眞面目な顏であぐらに直つたのを、かの女は前とは丸で違つた顏でにらみ付けて、
「衣物を買うて呉れたおもたら、手切れの爲めやなんて、加集に云うて――死んでお呉れ、あたいも死ぬさかい!」
「うん」と、横へ向いてはづしながら、「死ぬのは、いつでも死ねるよ。おれなどア、どうして生きて行くかが眞底しんそこからの問題だ。」
「お前だけ生きたら、ええのだろ――あたいをどうするつもりや?」
「棄てる神があれば、ね」と、渠は今度はかの女を冷やかに見て、「また拾ふ神もあり、さ。」
「神などありやアせん」と、かの女は目で渠を遠ざかるやうな色を見せた。
「ぢやア、加集をどうしたんだ、あの晩にとまつて――また、その次ぎのゆうべもだらう?」
「そんなことはない!」熱心にこちらを睨んで、訴へるやうに、「ゆうべうちで寢よとしたら、あの婆々アがあがつて來て早く立ちのいて呉れ云うた位ぢやないか? どうせ出るにきまつてゐたさかい、さう云うてやつたら――變な顏をしたけれど――人を棄てたり、人に恥ぢをかかせたりして!」情なささうにべそをかいた。
「そりやア、お前が分らないから、さ。」
「そツちが分らないのぢや――誰れが、いつまでも、めかけなどになつてゐるもんか?」
「さうして、何かい、加集の足かけなどになつたのか?」
「そんなことは無い!」かの女は怒つたやうに膝に力を入れて疊にぶつけ、顏を皺くちやにして見せた。
「その顏が、お前の見え透いたうその手だよ――もう、ちやんと、おれにやア分つてるのだから、ね。」
「‥‥」かの女は眞顏になつて目を少し落して、義雄の強みを藏する視線を避けたが、また見あげてあまえるやうに、「そんなら、何で來た? 歸つて貰ふ!」
「ふん――こんな詰らない部屋でも、ね、もう、前金を拂つたに相違ない以上はおれが借り主だらうぜ。」
「では」と、かの女は尋常な顏になつて、「人を棄てたりせんでもええぢやないか?」
「然し、ね」と義雄はわざと落ち付き拂つて、卷煙草を袂から出しながら、「お前とおれとは、もう、もとの通りにやア行かないよ。」
「どうして、さ?」かの女は、不思議さうに。
「二人の間には、第一、出齒庖丁が這入つた。」
「‥‥」
「それから、加集が這入つた。」
「そんなことは無い」と、また顏をしかめた。
 ゆきひらがぷう/\吹いてゐたので、かの女はその蓋を取つた。飯が煮えたのだ。
「誰れの爲めに焚けたのだか、ね――おさしつかへは御座いますまいか?」
「丁度ええとこぢやさかい」と、かの女は渠の冷かしに頓着せず、ゆき平をおろして、「何か買うてか?」
「さうだ、ねえ――」と、義雄は手を懷ろに入れかけた。
「お金はこツちにもある――けふも、あんまり癪にさはつたさかい、あの婆々アから間代の五日分だけ取り返して來てやつた。」かう云つて、かの女は喜んでゐた。

 かの女は正宗一本とかれいを一尾と買つて來て、膳ごしらへが出來た頃、加集が案内もせずあがつて來た。
「來てるのか、君」と渠は間の惡いやうな顏をして立つた。
「ああ。」義雄は、食膳代用の机に向つたまま、惡びれずに返事をした。「おれにやア、行くところも、ゐるところも無いのだ。――まア、一緒に一杯やらう――坐り給へ。」
「僕も一本あるぞ」と苦笑しながら、ポケツトから取り出したのをしほに、義雄と相對して腰をおろした。そしてからだを横にして、瓶を女の方につき出し、「お鳥さん、これもついでにつけてお呉れ。」
「‥‥」かの女はちよツとふり返つたが、取り合はなかつた。
「あれから、なア、また○○の」と、先輩の名を擧げて、「とこへて來たんぢや――銀行家なんて、なか/\けちんぼで、なア。」
「二千五百圓の宅地とかでかい――まア、つがう」と、義雄は加集と自分との猪口ちよくに出來た酒を注いだ。
 渠はお鳥に命じて、加集の持つて來た正宗をもかんしろと云つたが、かの女はそれに手をつけようともしなかつた。
「まア、さう嫌はんで」と、加集はかの女のつんとそツぱうを向いてる横顏を見た。渠の目には、これまでに見せたこともないけんがあつたと、義雄は讀んだ。
「ぢやア、おれが燗をしてやる、さ。」義雄はかう言つて、火鉢へ行つた。
 渠は半ば加集に後ろを向けてゐたが、加集がじろ/\とお鳥を見て、かの女の顏色を讀まうとしてゐる樣子が、自分の近眼鏡の裏に寫つた。
 その夜、加集もいろんな世間話をして、いつまでたつても歸らうとはしなかつた。
 義雄はまた、このいきさつがどうなることだと、心を据ゑて、半ば傍觀氣を起してゐた。
 お鳥だけはじれ/\してゐて、加集に歸れと云ふ素振りをばかり見せた。
「もう、締めますが――」下からかみさんの聲がかかつた。
「ぢやア、締めてもよう御座います」と、義雄は答へた。
 お鳥はこらへ切れなくなつたと見え、
「歸つて呉れ」と、加集につけ/\云つた。
「歸るなら、歸るやうに話をつけて行く。」かう、加集は強いことを云ひ出したが、その割りに聲が顫へてゐた。見ると、渠の顏は、義雄には、如何にも恨みある悲しみを表してゐるやうであつた。
「こツちの範圍内に立ち入らせたのが惡かつたのだ」と、義雄はひそかに、多少、同情の念が起つた。
「まア、一緒に寢よう、さ――僕も醉つてるから、ね。」
 お鳥は物も云はないで、自分だけのとこを敷いてゐた。
 義雄は下の漏れ縁をあがつて、奧の便所へ行つて、またはしごを登つて來た時、立ちあがつてゐる加集がこれも立つてゐるお鳥に突きのけられて、壁の大黒ごよみにぶつかつたところであつた。
「喧嘩なんかするな! 僕がこの場にゐる以上は、ね。」かう云つて、義雄は、一方に片よせて敷いた褥の上から、上の蒲團一枚を剥いで、加集に與へ、「仕やうがない――君はこれにくるまつて、寢て貰はう。」
「かしは餅かい?」加集は愛想らしく笑つた。
「さう、さ、ね――それでも女は女だ」と、義雄は自分の寢まきに着かへながら、
※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イオリンなどはぶち毀しても、衣物はこんな下らないのでも、何かの足しになると思つて持つて來てゐらア。」
「それも」と、お鳥はもう這入つてる褥の中から、「燒いたろかおもたんぢや。」
「あの婆アさんが」と、加集も少しゆつたりした聲になつて、「火事でも出されるのを心配してたのは尤もぢや、なア。」
「ほんとに、さう、さ、ね――然しここは、また」と、義雄は今見て來た締りを思ひ出して、「どうしたのだらう、ね、下の庭に戸締りも何もしてないぜ。ただよしを立て擴げて、細い横木で押さへてあるだけだ。」此時はもう女と並んでた。
「そりや僕も知らなんだ、なア。」加集は心配さうに蒲團から顏を出して、「用心が惡いやないか?」
「惡くツたツて仕方が無い、さ、――君が、わざ/\こんなところを見付けてやつたのだから。」
「そんなことまで僕も氣が付きやせん、さ。」
「然し、萬事よく釣り合つてらア、ね。」義雄のこの言葉を聽いて、お鳥は無言でだが怒つて渠の横腹をきつく突いた。
 義雄も默つてしまつたが、こツそりかの女の手を引き寄せ、
「どツちが好きだ」と、指さきで書くと、
「おまへ」と、かの女は書き返した。

 翌朝、遲くあさ飯を一緒に喰つてしまつた頃、加集は言葉を置き/\、かう云ひ出した――
「僕は――これから――時間があつて――出るが、なア――一體、この話は――どうなるんや?」
「どうなるツて」と、義雄もむツとして、「もう、濟んだやうな物、さ。」
「まだ濟みやせんぢやないか?」加集は眉根を引ツ釣らせて、「君は僕に依頼して、僕は君とあの女との手を切る奔走をしたんや。」
「そりやア、さうだがね、今となつちやア、もう、取り消されたのだ。僕自身でこれと僕との間は、切れるなり、またくツ付くなりする、さ。」
「でも、まだ君は取り消してない。」
「ぢやア、今僕が取り消すが、君の二三日來の奔走は實にありがたかつた。」かう云つて、一つあたまを無器用に下げた。
「如何に友人間でも、君はおれを馬鹿にしてるよ――僕だツて、一日をほかのことで奔走すりや、それだけ金になるからだを、君の爲めだおもて、この二三日棒に振つてるやないか?」
「然し君はその報酬は得てゐると思ふが、どうだ?」
「さう云はれると、なほ――」加集は言葉を中止して、お鳥が二人を少し離れて後ろ向きになつてゐるのを横目に見た。
「あれは、たとひ」と、義雄はかの女を見ずに、「何も分らない無智同樣の田舍者としたところが、兎に角まだ娼婦や何かでは無い。それを――」
「さう云はれると、僕も――然し君の爲めに手を切らせる一つの手段としては!」
「いいや、そんなことは、今更ら意味もない申しわけだ。僕は、だから、何も君のこの二三日のことを責めるのぢやアない!」
「然し――」
「それとも、友人間のことを金にする氣かい?」
「‥‥」加集は暫く默つてゐたが、決心の色を見せて、「どうせ、君がそんな不都合をするなら、金にしたる!」
「よし」と、義雄も坐り直して、「いくらの口錢を出せばいいのだ? その代り、またあの女にも要求があるだらうから、ね。」
「‥‥」
「僕はあらかじめ云つて置くが、あの女もまたこれまで通りにするか、それとも矢ツ張り手を切るか、それは君にもあの女にも受け合はれないのだ。が、あいつの處分はどツちとも僕自身がすることにきめたのだ。」
「さう云はれると、――僕も――實に――心――苦しい。」加集はその背を壁にもたせて、女と義雄とをどツちにも横目で見るやうにして、「實は、もう――僕のうちへもとまつたし、大森の砂風呂へも一緒にたし、――」
 義雄はこれを聽いて、くわツとのぼせた。想像と推斷とでは、既に分つてゐることだが、本人の口からかう當てつけられて云はれると、あたまにのぼせて、からだがひイやりしてしまつた。そして今までのぐわん張り方が馬鹿々々しくなると同時に、この女をわれからかばふのが女にも笑ひの種になつてはすまいかと思はれた。ゆうべのありさまだツて、自分がただいい氣になつてゐたに過ぎないのかも知れず、女が加集にむごく當つたのも却つて反對の意味があつて加集が馬鹿の爲めにこれを理解し得なかつたのだとも取れ出した。
「おい、ちよツとこツちを向け!」かう、義雄はお鳥に叫んだ。が、かの女は向きも返事もしなかつた。「おれが若しお前を處分するとしても、今加集が云つた事を土臺にすれば、おれの方はずツと責任が輕くなるのだ――返事をしろ、お前の口からも事實だと!」
「‥‥」かの女は矢張り無言で、少し仰向あふむき加減にそツぱうを見てゐるらしく、然しからだは全體に顫へてゐるのが見えた。
 義雄はこれを見て、あの烏山でかの女が縊死いししかけた時のありさまを思ひ合はせ、如何に憎い女でも、再びあんな眞似はさせたくなかつた。

 渠はどう自分の身を處していいか、ちよツと度を失つた時、加集は勝ち味な聲で、
「兎も角、僕が一時あの女を預かるのが順當ぢや!」
「預かれるなら、預かつて見ろ!」まだ實際の好意があるのをかの女にも分らせる爲めに、「君が預かるのは、どうせおもちやにする爲めだらう――?」
「うんにや――」加集は義雄のこはい目を避けて、かの女の方に向き、「僕だつて、男ぢや――君ぐらゐの世話はする!」
「これまでの僕ほどでは、もう、いかないよ――今のさし迫つた問題は、あの女を生かすか殺すかの問題だ。君が本氣で獨り者だから、少くとも、一生愛してやるか、僕が本氣な同情でかたをつけてやるか? 如何に馬鹿だツて、あいつも、もう、そこまで突き詰めてゐる樣子だから、ね。」
「そんなことを君に受け合ふ必要はない!」
「君は途中から逃げようと云ふのだらう――?」
「‥‥」加集はただぢツと、半ば横目で、義雄を見つめてゐた。
「さア、もう僕はどツちでもいい!」義雄は決心した樣子で他の兩人を見まはして、「僕はこの場合慾情は拔きだから、あの女の意向一つにまかせるが――その前に、一つ、僕がしツかりと事實の念を押して置く必要がある。――おい」と、またお鳥を呼び、「加集との關係を白状しろ!」
「‥‥」
「返事しろ!」
「‥‥」
「どうしてもしないと云ふのなら、今一つ聽くが、ね、お前は一時おれに來るつもりか、または加集に行く氣か、どツちだ?」
「‥‥」
「顫へてゐるのは、自分のしたことを後悔してゐるのかい? それとも、おれを恐ろしいのかい?」
「‥‥」
「うそを云つてたから、返事が出來ないのだらう――面倒だから、今一度だけ聽くが、ね、これで永久にお前と會はないことになるかも知れないのだぞ!」かう云つて、義雄は言葉を切り、お鳥の前をわざと荒々しく通つて、原稿の包みを手に取りあげ、もとの座に來て立つたまま、「返事が出來ないなら、返事をしない方で聽くが、ね――加集がおれに代つて、お前をおもちやにしようとするのだが、その方がよければ返事をしないがいい!」
 返事が無いので、義雄は、自分のかの女に對するこれまでの待遇に對して、かの女からゆうべとけさとに全くしツぺい返しを喰はせられたものと見た。そしてまた一段とくわツとなつた。
「加集! ぢやア、君にまかせた」と云つた聲さへ、耳からでも出たやうになつて、一度期どき忿懣ふんまんの情が顏に燃えあがつた。
 渠がからだの中心を失ひかけたほどそそくさと下り口まで行つた時、
「まア、待つて」と云ふ聲がして、自分の袂が引ツ張られたが、今や加集に語つた言葉に免じても女々めめしく再び坐りも出來ない氣がして、
「放せ、もう、これツ切りだい!」握られた袂をふり拂つた。さうして女が足もとにばツたり倒れた音を耳にとどめて、はしごをそと向きに急ぎ下り、下駄を引ツかけるが早いか、屋臺の後ろからかみさんが驚きの目を見張つてゐるのにちよツとの惡い挨拶をして外に飛び出した。

十六


「まア、待つて」が氣になつてはゐたが、待つてやつて、拜み倒されてもそれまでのことだ。
「お前」の代りに、「あなたには」などと初めて改まつた言葉を使つて、これまで一層世話にはなつたが、今となつては、加集にも義理がある――ぶつなり、蹴るなりして、思ふ十分に意趣は晴らして貰ふ代り、あの條件通りを行つて呉れい! こんな工合に向うが出まいものでもなかつたらう――結局、馬鹿を見るところであつた。
「幸ひにも、けふと云ふけふこそ、下らない責任をのがれたのだ――この結果は早く誰れかに發表しなければ」と云ふやうな氣がしながら、義雄はふら/\と我善坊の家に歸つた。
 生垣の間から隣りの寺の緋鯉の池が見える室に入り、ヅツクの旅行かばんを出して、その中へまだ手のあツたか味が殘つてる原稿や書物を初め、その他に、今の原稿が終れば、直ぐ何かあとを書く爲めの參考書をあれやこれやとえらび入れてゐた。
「あなた、どこをぶらついてたのです、ねえ。」千代子の無作法な歩みの足音も聽えて來て、「あツちから電報が來たことは聽いたでせう!」
「聽いたから、あせつてるのだ!」渠はかの女を睨むやうにしてちらと見たが、かの女は敷居のそとに立つて、おづ/\と相變らずの氣違ひづらをしてゐた。渠はひそかに、「こいつに氣違ひ責めにせられ、あいつには刃物責めにせられ、もとはと云へば、たとひおれの仕出しでかしたことにしろ、たまるものかい」と考へた。
「それならいいでせうが、――あなたは旅行なさるんですか、また自慢さうにあんな女を連れて――!」
「清水とは、ね」と、義雄は飽くまで念を押してやるつもりで、あごを堅く突き出してわざとらしくあげ下げして、「とツくに手を切つたのだ!」
 かう云つた時、渠はふと自分自身を返り見ると、この千代子にかぶれて、自分までが氣違ひじみた空氣を呼吸してゐた。
 ここにだツて、渠は一刻もとどまる氣は出なかつた。
「それは初めから當り前のことでさア、ね――喧嘩か何かしたのでせう! 若しあなたの弟があツちで病死でもして御覽なさいな、あの人をあなたがあの女のために殺したも同然ですよ! あなたが、ね――あなたがですよ!」
「うるさい! 死ぬやつア、どうしたツて死ぬんだ!」渠はかう叫んで、「若しやあのお鳥も――」と云ふやうな疑惧ぎぐの念が浮んだ。
 渠の精神はからだ中に顫へあがつた。そして八丁堀の堀端を歸る時氣になつたかの女の最後の一言が、今やまた耳の記憶から繰り返されて、あはれツぽく渠の胸に傳はつた。
「氣味がよかつた」と、私かに渠は自分を辯護し、かの「不如歸」劇で泣かせられるもの等のと同樣な安ツぽいあはれみの心などは踏みにじつてしまへと決心して、書物を七八册ねぢ込んだ革鞄を提げて立ちあがつた。
「車を呼べ、車を!」
「車なんか來ませんよ!」
「なんだと!」
「あなたはちつとも御存じないのですが、ね、呼びに行ツたツて、向うが、お前さんのとこは信用が出來ないからツて、ね――」
「‥‥」義雄はじろりとかの女を見詰めて、言葉が出なかつた。
「それほどまでにあなたのうちが困つてるのに」と、かの女は半ば哀訴の口調になつて、「あなたはちツともふり向きもしない氣ですか?」
「無論、さ!」力の拔けた聲だが、渠はなほ反抗せずにゐられなかつた、「おれにやア妻もない! 家もない! あの事業が失敗すりやア、おれ自身も無いか知れないのだ!」
「そんな無謀なことを云ひなすつたツて」などと云ひながら、かの女はあとを廊下のはづれまで追つて來たが、渠は自分で荷物をひツ提げて出た。

 我善坊を下つて西の久保の通りに出で、やツと辻ぐるまを見付けて、渠は手に提げた革鞄を車の蹴込みへ投げ込んだ。
 顏や脇の下の汗を拭き/\、くわツくわと照る太陽の下を走らせると、すツと輕くなつた自分の世界は却つて自分の世界でないやうに思へた。日は輝いてゐても、この數ヶ月來、滅多に心の晴天を仰いだこともなかつた渠には、あんまり明るい光の中を半ば自分が失はれて、取りとめも付かない。
 先づ心から落ち付けようと、自分のからだの住ひを車上で正して見た。すると目の前を横切つた一人の男の子が自分の總領息子の年輩であつた。
「かいるが鳴くから、かアいる」と云ひながら、ゆふ方よく外から歸つて來たものだが、或時自分の今乘つてるやうな車に敷かれて、手と足とを怪我した。若しあの時頸か胸かをでもやられたのであつたら――渠は自分の身になつて、ぞツとして目をつぶつた。
 すると、その子等の母がわさ/\と落ち付きもなく、しやりかうべにまで痩せこけて、子供を叱つたり、暮しのことを心配したりするあり樣が見えて來た。あの婆々アじみて――こんなことは、もう、考へたくもないので、目を明けた。
 若い婦人がからだの曲線を衣物のいい着こなしに表はして、顏を蝙蝠傘かうもりがさで隱して行く。すると、お鳥はあれからどうしたらう――自分は、もう、全く傍觀的にだが、今一度行つて見てやらうか知らんと考へられた。
 これに、また、「まア、待つて」がからみ付いて來て、かの女の死んだざまが見たくなつた。若し死んででもゐて呉れりやア、自分も自分の關係をはばからず天下にさらけ出し、かの女のどうせ死ぬべきものであつたこと、並に自分がどの點まで責めを負ふべきかを公表して、あとは誰れにでも勝手な判斷をさせてやる!
「然し、死ぬなんて――まさか――」あの加集さへあの場にゐなかつたら、かの女も手を擴げてもツと芝居をしただらう。自分も亦もツとかの女の心をゑぐれただらう。
 若い女を飽くまで試みるのも面白かつただらうにと云ふ氣になると、あの時滔々としやべつたことが前後の取りとめさへ無かつたことを思へて來た。
「二十歳をたツた二つばかり越えたに過ぎない女の爲めに、――おれもどうかしてゐたのだ! やり直しだぞ、お鳥! 待つてゐろ」と、力を入れて心に叫んだ。「お鳥――お鳥! お鳥、お鳥、お鳥!」
「さう足を踏みしめては困ります」と、車夫は走りながら後ろをふり返つた。まだあの女に迷つてゐるのかと云はれたほど、義雄は顏を赤くして澄まし込んだ。
 新橋停車場前の或休憇所に車を降り、荷物をそこに預けて置いて、電車に乘つた。
 氣が引けながらも、加集がゐたらいよ/\一喧嘩をする覺悟で行つて見ると、下の主人公が今お鳥の室から出て、はしごを下りるところであつた。
「こいつ、また、おれの遺利ゐりを奪ふ氣ででも――」義雄はむかツとした時、
「おう、旦那」と、主人は嬉しさうに下り立つて、「今あなたのお宅へ使ひを出しましたのですが、な――どうも、本人の云ふことがはツきり分りませんので――」
「どうかしましたか?」義雄はうツて變つて自分の世界が開けたので肩身が廣くなつた氣がしたと、同時に、「やツ付けた、な」と合點して、俄かに胸さわぎがし出したのである。

「まア、どうぞこちらへ――只今、やツとお休みになれましたから。」
 かう云つて主人が導くままに、義雄は百面相の客間へ通つた。
「アヒサンをやつたのぢやアありませんか?」
「えツ、そんな毒藥を!」主人はびツくりした聲を擧げると同時に、胸をらせて左の手を輕く後ろの疊へ突き、そツちへ引ツ張れたやうに眼と口とを傾けた。そして下くちびるを少し受け口にして見せたが、直ぐもとの顏に直つて、「わたしは、また、御酒をめしあがり過ぎたのかと思ひましたが――」
「まだ醫者に見せませんか?」義雄は氣が氣で無かつた。
「いや」と、主人は渠の樣子を見て、わざとらしい落ち付きを見せて、「御心配にやア及びません――もう、一時間も前に來ましたから。然し、そばに一升徳利が出てゐたので――」
「ありやア、醤油入れでした。」
「それに、大層吐きましたから、な――多分、酒を飮み過ぎたのだらうツて、醫者は下劑をかけて歸りました。」
「そりやア、丁度いい思ひ付きでしたらう。」義雄はかう云つて、この、想像には描いてゐたが、いよ/\事實と聽いては一たび突然に驚かれた事實を、まだ物足りないやうな氣がした。
 これまでにも、かの女の留守、留守に、度々かの女の荷物を探して見た。一つは、他の男からの手紙でも來てゐはしないかと思つてだが、次ぎに、それよりも重大な理由は、國を出る時用意してゐると云ふこの毒藥の有無であつた。どうしても見付からないので、うそを云つてるのだとも思つた。また知り合ひの醫者などに、それと無く、これを飮むとどんなきき目があるか、どんな結果を呈するか、など云ふことを聽いてゐたのだ。
「分量が多過ぎて、却つて吐いてしまつたから、助かつたのでせう。あの藥は死ぬにも度合があつて、多いと吐きますから――また少しづつなら、健康劑になつて外國婦人などにはこれをわざわざ、使用するものがあつて、たとへば、宴會とか舞踏會とかへ行きます、ね、少しづつやつてゐると、そのききめがいつか現はれて、ぼうツとその顏がほんのり櫻色になるさうです。」
「道理で」と、主人は、はたと膝を打ち、「眞ツ赤にのぼせてゐました。酒の醉ひだと思ひ違へたのも、無理はないでせう。さいが氷をかいてゐましたら、どんと倒れたやうな音がして、二階でうん/\うめく聲がしたと御らうじろ。わたしがあがつて見ると、それでせう――うちのものまでが皆七顛八倒でしたぜ。」
「そりやア」と、義雄は微笑にまぎらせて、「おさわがせしました、ね。」
「全體、あの方はどうした人です」と、主人に尋ねられ、
「實は」これ/\と、義雄はそこの老母も出て來た前でありの儘をぶちまけ、「かうなつちやア、僕が少くともそれが直るまでは、看てやらなけりやアなりますまいよ。」
「人助けでさア、ね。」主人はまた胸を反らすやうにした。「加集さんには御名刺は戴きましたが、何だかちやらツぽこばかり云つて――あんな人は」と、鼻をつまむ眞似をして顏をしかめた。
「いや、さうまで薄情でも無いでせうが、ね。」
「それが、あなた」と、うち消すやうに首を一つやはらかにまはして、襟を拔け衣紋えもんにして、「御失敗のもとぢやアありませんか?」
 その樣子も聲も、丸で、女がお客にあまえてゐるやうだ。
「なアに、失敗と云ふわけでもないのでせう、ね、ただ僕がまだあの子に愛情が殘つてゐて思ひ切れなかつたのが惡いのでした。」
「それもさうでせうが、な、女なんかいくらもありまさア――わたしのうちのでも、抛り出しさへすりやア、直ぐあとが二人も三人も待つてまさア。」
「これは惡くもない家柄ですが、ねえ」と、老母がそばから、
「道樂の爲めに、好きでこんな商賣をしてゐますんで――」
「百面相ツて、どう云ふことをするのです?」
「なアに、わけアないもんですが、な。」かう云つて、主人は次ぎの間から古行李を引きずつて來て、その中からいろんなめんやら道具やらを見せ、何でも手早く早變りをして、一人でいろんな人物になつて見せるのが藝だなどと説明する間にも、素顏にちよツと物を當てると、ひよツとこになつたり、おかめになつたりした。
「ただの鼠ぢやアあるめい」と、いつの間にか男之助になつたかと思ふと、面をちよツと裏返して、仁木彈正になり、卷き物を喰はへ、「ふ、ふ、ふ、ふ」と笑つた。そして、「これが○○の宮さん、○○○の宮さんのお氣に入りだから、ありがてい――どうか、あなたも御吹聽を願ひます。」

 馬鹿にされたやうな氣をして、その室を出て、義雄は二階へ行くと、お鳥はあたまだけ、枕の上に、こちらに向けて、氣だるさうに、
「來たの」と云つた。
「たうとうやツつけた、ね!」
「‥‥」かの女は顏をそむけた。涙聲で「どうせ生きてゐられへん!」
「おれに棄てられてか?」渠は冷然とそのそばに坐つた。
「‥‥」向う向きにただうなづいた。
「そして又加集に棄てられてだらう――?」
「‥‥」何の返事もなかつた。が、やがて獨り言のやうに、「死にさへすりやええのぢや!」
「さうだ、死にさへすりやア、おれが加集をも呼び付けて、墓地の奔走をさせ、おれも尋常に見送つてやつたのだが、ね、死にそくなつちやアまた問題が起るぞ。」
「起るも起らんも無い――あいつは、あたいが、わざと、世話が出けるか云うて念を押してやつたら、返事が出けなかつたさかい、追ひ返してやつた。」
「それ見ろ――誰れにだツて見限られらア、ね。」渠はかの女の精神が、もう、大丈夫正氣になつてゐることを認めた、で、語法を一歩進めて、「おれだツて、もう友人の手を付けたものを二度とは、可愛がれないよ――たとひ、お前の決心は精神に於いてお前をきよめたものと許してやつても、ね。」
「可愛がつてなど貰はんでもええ!」
「うん、さう諦めてゐさへすりやア、おれはまた一肌拔いで、お前の處分を付けてやつてから出發するよ。」
 かの女は向うを向きツ切りであつた。なんにも喰べたくないと云ふ上に、からだの自由が利かなかつた。
 渠はかの女の便器を求めに行つたり、自分の食物を用意したりして、ゆふ方になつた頃、加集がのツそりやつて來た。
「また君ア來てるか?」ぶりりとして立つてゐる。
「君こそ來るに及ばないんだらう!」義雄は、火鉢にかけた物の下をあふぎながら、横ざまにねめ付けた。
「君も男子だらう――あれだけはツきりと僕に委託して置いて!」
「そりやアおれから云ふことだぞ――どうして君アおれのその委託を正直に實行しない? この本人の樣子を見ろ!」義雄は顎でお鳥の方を示して、「毒をあふいで死にそくなつてるぢやアないか?」
「‥‥」加集もかの女の寢姿を見やつて、ぎツくりと來たやうであつたが、見る/\惡人のやうな相を顏に描いて、立つてるからだを固めた。「貴さまアこれツ切りおれをあの女に近よせないつもりだ、な?」
「さうだ――君自身がその權利を、けさ、抛棄したのだ!」
「おれだツて、若しやとおもてやつて來たのぢや、人情は持つてらア――この二三日、大事な時間を棒にふらせやがつて!」
「口錢が欲しけりやア金でやる――友人呼ばはりするな!」
「畜生!」かう叫んで、加集は義雄の横ツ腹を蹴つた。
「なに、くそ!」義雄は立ちあがつて、加集を力一杯に壁の美人へ突き飛ばした。みしりと云つて、張り子板の音がしたので渠は下の人々に氣がねする氣になり、――また横たはつてゐる女の爲めをも思つた。
 で、勢ひを盛り返して來た加集の爲めに、義雄は組み敷かれて、また二三度方々を蹴られたが、こちらの手出しはさし控へた。
「壯士を二三人つれて來て、おれは貴さまとあの女とにあやまらせてやるぞ! 待つてやがれ!」
 加集はこちらを尻目にかけて、はしごを下り始めた時、義雄は言葉で追ツかけた――
「貴さまのやうな奴が、ね、自分の色女をおしまひにやア賣り飛ばすのだぞ!」
「賣り飛ばされるやうな女ぢや!」
「弱蟲!」かう云つて、お鳥は加集が行つてしまつてから、顏だけをこちらに向けた、「あたいが起きてたら、あいつを締めあげてやるのに!」
「‥‥」お前の爲めを思つて負けてゐたのだとは、心で云つたが、義雄には正直に發言出來なかつた。

十七


 心配してゐるほどでもなく、加集は押し寄せても來なかつた。然し義雄は下の家族にも注意を與へて再び渠が來ても、あがらせるなと命じた。
 室の入口なる半間のひらき戸へ、うち側から輪かぎがかかるやうにして、義雄は毎日、毎夜かの女の看護をした。そしてそのかたはらで書きかけの原稿を書き終つたし、また或新聞社へ行つて、樺太からあちらの通信をすることを引き受ける相談をも整へた。
 二三日のうちに、お鳥のからだも段々自由が利くやうになつて、これまでとは打つて變り、義雄に對する情が忠實でこまやかになつた。そして、質物を出す話を渠がし出した時、
「あんな物はいつでもええ」と云つた。
 義雄はまたかの女に對して、まだ望みありさうにそツとして置いたかの女優志願は、その實駄目であつたのだからとうち明け、かの女が近頃になつて寫眞屋になりたいと云ひ出した志望を容れ、その方の學校へ入れてやる手續きなどをした。
「これで、兎に角、お前との最初の約束は實行出來る、ね。」
「學校がきまつても、金がつづかにや駄目ぢや――」かの女は下のかみさんを思ひ出したかして、「下のはな、色女であつたのが、かみさんを追ひ出して這入つたんやさうや。」
「お前も、どこかそんないい口を見付けろよ。」
「あたい、そんなことせんでもええ!」
「獨りで立つて行けるかい?」
「その學校さへ卒業すりや――」
「あやしいもの、さ、ね。」
 その月の末日になつて、加集がまたやつて來たが、今度は、いよ/\鶴田から借りる金が出來たと云ふ報告をしに來たのであつた。
 義雄と鶴田とは、後者の家で、加集の立ち會ひで、貸借の手續きを完了し、その歸りに、義雄は立會人に正式以上の口錢をやつて、
「以後清水のゐるところへ往つてはならないぞ」と、命じた。
「君のいつか云うた通り、あいつは夜になると美人に見えるが、なア――僕だツて、あんな臭い女はいやぢや」と、加集は答へた。
 このたツた一つの返事が、義雄のまだのぼせてゐた心とからだとに、ずツぷりと冷水をあびせかけた。

「アスタツマテ」と云ふ電報を、入院中だと云ふ弟をもはげますつもりで、樺太へ打つたのは、六月の一日であつた。そしてお鳥へは渠の歸京まで豫定三ヶ月の維持費を渡した。
 二日の正午頃、お鳥だけが義雄を上野へ見送りに來た。かの女は、手切れの用意とはその時夢にも知らず買つて貰つたかのセルの衣物に、竹に雁を書いた羽二重の夏帶を締めてゐた。考へ込んでばかりゐて、口數を利かなかつた。
 いよ/\乘り込むとなつて、停車場のプラトフオムを人通りのちよツと絶えたところへ來た時、かの女は低い聲でとぎれ/\に、
「あたい、もう、あんたばかりおもてます依つて、な、早う歸つて來てよ。」
「ああ――」と返事はしたが、義雄の心には、音信不通になるなら、これが一番いい時機だと云ふ考へが往來してゐた。そしてその方がかの女將來の一轉化にも爲めにならう、と。
 然し窓のうちそとで向ひ合つてから、渠は右の手をかの女にさし延ばした、かの女は自分の左の方にゐる人々の樣子をじろりと見てから、目を下に向けて、そツと自分も右の手を出した。「三ヶ月素直すなほに待つてゐられる女だらうか知らん」と疑ひながら、渠は握つた手を一つ振つてから、それを放した。そして、「あの八丁堀の家は、おれの云つた通り、きツとよすだらう、ね、加集に知れないやうに」と、念を押した。
「そんな心配はらん!」
 この優しいやうな、また強いやうな反抗の言葉が、この二十二の女の誠意に出たのか、それともこちらをいつも通り頼りない所帶持ちあつかひにした意なのか、――いづれとも義雄の胸で取れたり、うち消されたりしてゐる間に、汽車出發の汽笛が鳴つた。





底本:「泡鳴五部作 上巻」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年7月25日発行
   1994(平成6)年1月15日3刷
初出:「中央公論」中央公論社
   1914(大正3)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ポケット」と「ポケツト」の混在は、底本通りです。
入力:富田晶子
校正:雪森
2016年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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