赤い壺

種田山頭火




『あきらめ』ということほど言い易くして行い難いことはない。それは自棄ではない、盲従ではない、事物の情理を尽して後に初めて許される『魂のおちつき』である。

 私は酒席に於て最も強く自己の矛盾を意識する、自我の分裂、内部の破綻をまざまざと見せつけられる。酔いたいと思う私と酔うまいとする私とが、火と水とが叫ぶように、また神と悪魔とが戦うように、私の腹のどん底で噛み合い押し合いいがみ合うている。そして最後には、私の肉は虐げられ私の魂は泣き濡れて、遣瀬ない悪夢に沈んでしまうのである。

 私自身は私というものを信ずることが出来ないのに他人が私を信じてくれるとは何という皮肉であろう!

 遠い死は恐ろしく近い死は懐かしい。

 死を意識して、そして死に対して用意する時ほど、冷静に自己を観照することはない。死が落ちかかれば自己の絶滅であるが、死の近づき来ることによって自己の真実を掴むことが出来る。

 悪魔の手は掴もう掴もうとしている。それだけでも悪魔の心は親しいものではないか。

 結婚して後悔しないものが何人あるか、親となって後悔しないものが何人あるか。――私も亦、その何人の中の一人であることを悲しむ。

 最初には酔覚の水がうまくて水を飲んでいたが度々飲み続けているうちに、水そのものを味わい飲むようになった。そして水を飲まずにはいられないようになった。

 彼が真実を主張したとき、彼の周囲の人々は同意し讃嘆した。しかし彼が進んで真実を実行したとき、人々は怒罵し嘲笑した。斯くして彼は彼の周囲から永久に別れてしまったのである。

 強者は破壊する、弱者は弥縫する。強者は創造する、弱者は模倣する。

 すべてに失望した人――生きていても詰らない、死ぬるのも詰らないと思う人は再び官能の陶酔に帰って来る。そして野良猫が残肴を漁るように、爛れた神経の尖端で腐肉の中を吸いまわる。彼は闇にうごめく絶望の影である。しかも彼は往々にして――若しも彼が真摯であるならば――そこで『神の子を孕める悪魔』を捉えることがある。

 遊蕩児にただ一つ羨ましい事がある。彼は歓楽の悲哀――それは恐らく遊蕩児のみが味わい得る――『泣笑』とでも呼びたい情趣を色読している。

 地獄から来た男は走らない、叫ばない。黙って地上を見詰めつつ歩む。

 歓楽に誘惑がある如く、苦痛にも魅力がある。生存がただ苦痛であって、そして死を恐れない人がその儘生きているのは、屡々、生存慾のためよりも苦痛の底の甘味を解している故である。
(「層雲」大正五年一月号)





底本:「山頭火随筆集」講談社文芸文庫、講談社
   2002(平成14)年7月10日第1刷発行
   2007(平成19)年2月5日第9刷発行
初出:「層雲 大正五年一月号」
   1916(大正5)年1月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年5月19日作成
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