旅日記

昭和十三年

種田山頭火




 五月廿八日 廿九日 澄太居柊屋。

やうやく旅立つことが出来た(旅費を送つて下さつた澄太緑平の二君にこゝで改めてお礼を申上げる)。
八時出発、朝飯が足らなかつたから餅屋に寄つて餅を食べる、それから理髪する(ずゐぶん長う伸びてゐた)。
四辻駅で、折よくやつて来た汽車に乗る、繁村の松原、佐波川の流、あの山この道、思ひ出の種ならぬはない。
富海下車、一杯ひつかけて歩く、椿峠を越えて湯野へ、湯野温泉は改修されて立派になつてゐる、一浴一杯、戸田駅へ急ぐ、S君の事が想ひだされてたまらなかつた。
四時の汽車で徳山へ、いつもかはらぬ白船君夫妻の厚情に甦つたやうな気がした、豪雨の中を櫛ヶ浜まで歩いて、そこからまた汽車で柳井に下車したけれど適当な宿が見つからないので夜行で広島へ、三時半着、待合室で夜の明けるのを待ちかねて澄太居、いや、これからは柊屋へ押しかけた、澄太君が寝床からニコ/\起きて来た。
うまい酒だつた(酒そのものも文字通りの生一本だつた)、あゝ極楽々々!
午後、奥さもマヽいつしよに出かける、新天地でニユース映画を観る、帰途、小野さんの宅に立寄る。
晩酌のよろしさ、しばらく話して、ぐつすりと寝た。

 五月三十日 梅雨日和。

句稿整理。
螻子居を訪ねる、それから黙壺君に逢ふ、マア/\ヤア/\! それで万事OKだ! うれしいな。
黙壺君と同道して再び螻子居へ、そして三人で澄太君へ、とぶ螢、それをとらへるみんなのすがた、私は酔うて、たゞもう愉快であつた。
それから、黙壺君と二人ぎりになり、新天地を飲み歩いた、泥酔してしまつた、黙壺君すみませんでした!

 五月三十一日 曇、黙壺居。

朝酒のうまさよ。
高等学校の郊汀さんを訪ふ、初対面であるが、どちらもノンベイなので、新天地へ出かけて飲みまはる、中国新聞社で黙壺君に落ち合ひ、三人元気よく江波の山陽茶屋(とでもいはうか)まで押しだして、うまい料理を食べた、そして、それから、……それから、そして、……地マヽ々々!

 六月一日 晴、螻子居。

身心混沌として我と我を罵るのみ、――といつたやうなていたらく!
螻子居の厄介になる、昼酒、晩酌、読書、雑談、散歩、螻子君と共に一日一夜たのしく暮らした。
今日は野の川で水浴した、多少身心がさつぱしマヽた。

 六月二日 柊屋、晴、曇。

そんなことはどうでもよい、澄太君夫妻の温情につゝまれてゐた。
S氏K氏の邸宅に押しかけて短冊を売りつけた、あゝ不快、不快、不快。……
  澄太居雑詠
よい酒でよい蛙でほんに久しぶり
雨ふる古い古い石塔が青葉がくれに
青葉をへだててお隣は味噌でも摺るらしい音
柊のあを/\としておだやかなくらし
朝の鏡の白い花のかげ
蛙ひとしきりそれからまた降る
   □
海は曇つて何もない雨
つんばくろよいつしよにゆかう

 六月三日 晴。

七時出立、己斐まで電車、そこから歩くつもりだつたが、酒づかれでまた電車で宮嶋へ、青葉の紅葉谷公園はよかつたけれど、I旅館へ短冊売にいつて気持が悪くなつたので、早々海を渡つて汽車に乗り込んだ、麻里布で下車、人絹会社のM氏を訪ねる、黙壺君からの紹介があるので気持よく五六枚買うて貰ふ。
何とかいふ安宿に泊る、何だか変な家だ。
夜はバスで岩国へ出かけた、錦帯橋の上で河鹿に聞き入つた、さびしいがよい夜であつた。

 六月四日 晴、M居。

起きるより酒屋へ駈けつけて一杯また一杯。
岩国の町へはまはらないで愛宕村を歩いた、山のみどりがめざましい、おゝ、あの山がそれか、あの山林で弟は自殺したのか、弟よ、お前はあまりに弱く、そしてあまりに不幸だつたね!
藤生から汽車で柳井へ、バスで伊保庄へ、Mさんに面接する、白船君を通して知つてはゐたけれど、旧知の友達のやうな気がした、話すほどに飲むほどに酔うてしまうてすゝめれマヽるまゝに泊めてもらつた。
近来にない楽しい対酌であつた。

 六月五日 晴。

朝から酒、それもよろしい(Mさんのところは造り酒屋で、Mさんはその主人で、しかもさうたうの左党だ)、お土産として生一本を頂戴する、酒銘として幾山河は好いでないこともないが、牧水の門人としてのMさんの心意気が見えてうれしい、殊に傍書の「白玉の」の歌はうれしい。
昨日とおなじバスで柳井へ戻り、文友君の店を襲うた、そしてあたゝかい歓待をうけた、ありがたかつた。
六時の汽車で運ばれて、無事帰庵、めでたし/\。
帰来無別事
雑草茫々
浮塵寂々
中国のよろしさ
ありがたい人情
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 六月五日 曇。

更けて戻つて、そのまゝ寝た。
何といふ寂しさだらう。
どこにゐても落ちつけない私ではある。……

 六月六日 晴、曇、晴、曇。

Mさんから貰つて戻つた酒があるので樹明君を招待する、折よく敬君も一樽持参で来てくれて、久しぶりに三人で快飲歓談した、かういふ会合が人生にめつたにあるものではない、うれしかつた、ことにおとなしくこゝろよく別れたのがよかつたよかつた!

 六月七日――十日

――なやましい、せつないといふより外はなかつた、私は私を見失つてしまつた、ぢつと死を見つめてゐた。――

 六月十一日 曇、梅雨入。

やつと起きあがつて、身のまはりをかたづける。
敬君、出張の途中ちよつと来庵。
街へ出かける、うどん玉でも買うて来て食べよう。
胡瓜は一本だけ助かつて、四本は枯れてしまつた、肥料が不足なのか、それとも足りすぎたのか。
雑草がやたらにはびこる、荒地野菊ののさばりざまはどうだ。
螢がとぶ、こほろぎが鳴く。
筍がによき/\のぞきだした。
夕方、暮羊君来庵。

 六月十二日 梅雨らしく。

早起、身辺整理。
落ちついて紫蘇茶一杯。
今日もうどん。
仔を奪はれて、下の家の牛が悲しい声で鳴きつゞけてゐる、主人もいぢらしく思うて、連れだして草をたべさせてゐる。
降る降る、漏る漏る。
……やりきれなくなつて出かける、むちやくちやに飲み歩くほどに、トラどころぢやないタンクになつてしまつた。……

 六月十三日 雨。

動けない、食べないで寝てゐた。

 六月十四日 曇。

ぢつとしてゐられなくなり、農学校へ出かけて、みんないつしよに飲む、酔うてW店に泊つた。
・手と手
   妙な握手
・夾竹桃
・泰山木
・藪柑子
・かなめの芽
 ――
 ――
・ひよどり
・頬白
・きつつき
・ひたき
・みそさゞい
 ――
 ――

 六月十五日 雨。 六月十六日 曇。

苦しい、苦しい、苦しい、……Nさんを訪ねる、酒!

 六月十七日 雨。

Kから返事が来た、涙なしでは読まれない。
払へるだけ払ふ、そしてほどよく飲んで酔うて、そしてまたW店の厄介になつた。

 六月十八日 雨、のち晴。

労れてはゐるけれど、樹明君に頼まれて事務を手伝ふ、そして共に宿直室に泊る。

 六月十九日 曇。

今日も手伝ふ、午後帰庵してほつとした。

 六月廿日 雨。

死ぬにも死ねないみじめさである。

 六月廿一日 雨。

無言行をつゞける。

 六月廿二日 雨、夏至。

おなじく。――
いかに生くべきか、かうしてゐて私はどうするのか、どうなるのか、考へてゐたところで、どうにもならない私ではないか。
自己の純化生活の正しさ建て直せ建て直せ
時代の認識人生の真実私は再出発する外ない

 六月廿三日 曇。

窮すれば通ず、といふ、やうやく転一歩した、さらに転一歩しよう、しなければならない。
五日ぶりに外出、W店へ筍を持つていつてあげる、飲まないで戻つたのは上出来だつた。
文字通り一文なし、それでも落ちついてをれる。
一切放下着、水の湧くやうに、溢れるやうに流れるやうに。

 六月廿四日 雨、雨、雨。

食べるものがない、何もかもなくなつた、ぢつとして雨を観てゐた。……
今日も郵便は来ないのか、今日も待ちぼけか!
どしや降りの中をポストまで出かけたついでに樹明君を学校に訪ねる、先日の手伝賃を貰ふ、ありがたう、助かつた、さつそく一杯ひつかける、買物をする、そのまゝ戻つた。
緑平老から句集を頂戴する、ほんによい句集、いかにも緑平らしい句集だ、雀の句にはとても好きなのがある。
寝苦しかつた、すなほになれ無理をするな
   今日の買物
弐十弐銭 酒
十弐銭  煙草
七十銭  米
十七銭  麦
十八銭  石油
五銭   胡瓜

 六月廿五日 曇――晴。

水音、水音、水音はよいかなよいかな。
矛盾――私の矛盾は私自身で解消せしめなければならない、強い意志と直き実行とが解消してくれる、強くなれ、直くあれ。
午後、散歩がてらポストへ、途中、一杯ひつかけたいのをぐつと抑へて、その代りに四句拾うて戻つた!
くちなしを活ける、かんざうをも、――どちらも好きな花である。
梅雨寒といふのでもあらう、なか/\寒い、綿入を出して着た。
腹が空つては句も作れない、今日はあたりまへに三度の御飯を食べた、朝のお菜は筍、昼は胡瓜、晩は豆腐、これでも私には御馳走だ!
   今日の食費
一金拾六銭  米麦代
一金五銭   副食物代
  合計二十一銭、一食七銭也。

 六月廿六日 快晴。

早起、梅雨晴、どうやら梅雨もあがつたらしい。
今日も郵便は来ないのか、誰か来ないかな。
午前、暮羊君徃訪、酒によばれ新聞を貸して貰ふ。
午後、暮羊君来訪、四方山話。
散歩がてらポストへ、そして……あゝ。……

 六月廿八日[#「廿八日」はママ] 晴。

――どんなに私が愚劣であつたかは、事務室へまで押しかけて、かつて怒つたことのない樹明君を怒らしたことでも解る、何といふ愚劣だらう、あゝ私は樹明君に何と詫びたらよからう。――
乱酔して、昨夜も 今夜もW店に倒れてゐた。

 六月廿八日 晴。

庵中独坐、自責に堪へないで苦悩するばかりだつた。

 六月廿九日 晴。

自省自戒。
妄執を払拭せよ。
・珍問答
  お月さんですよ!
  小鳥でございます。
・すゞしく鼻毛をぬいてもらふ。

 六月卅日 曇。

すこし落ちつく、身辺を整理する。
青山青白雲白、――私の境地はこゝにある。
夏蝉が鳴きだした。

 七月一日 曇――晴――曇。

新一歩。――
早起して、清掃、洗濯。
おちついて読書。
梅雨模様だけれど私は晴れつゝある。
酒に執するなかれ、たゞ酒に執しない様にと私は私に願求、私には名利の慾望はあまりない、ないといつてもよいぐらゐだ、酒が飲みたい、――これが私の慾であり癌である、私はほんたうに酒を味ふやうになりたい、ならなければならない。――
句には執してもよい、それが私の生きぬく道でもある、私は酒に於てそして句に於て私の宿業を感じる感ぜざるを得ないのである。――
行乞の仕度をする、近々旅に出ようと思ふ、旅は私を新たにする(酒は私を甘やかしすぎる)。
行乞しなければいけない、行乞は私を深める(酒は私を狂はしめる)。
私は落ちついた、このしづけさは嵐のあとのそれだ、私は先日慟哭した、あふれる涙が身心を洗ひ浄めた。
強い人間であれ。――
知足安分の境地、何よりも貪る心があさましい、酒に対する私の態度は何といふ醜さぞ。
断乎として節酒減食を実行する。
中村さんが山口からの帰途来訪、慰忠魂菓子(板垣陸相供ふるところの)お裾分を頂戴した、そしていつものやうに、貧乏の話、文学の話、戦争の話をしておとなしく別れた。
終夜不眠(夜中眠れないなどゝいふことがあるべきでない、食べる物がうまくないことがあつてはならないやうに)。

 七月二日 曇。

いよ/\梅雨晴らしい。
朝蝉のよろしさ、藪蚊のにくさ。
飯が足らないので(米もないので)、筍粥にしていたゞく。
過去一切を清算せよしなければならない
手紙を書く、樹明君へ、そしてKへ、書きをへてほつとした、こんな手紙は書きたくない、書いてはならない。
ポストへ、五日ぶりの外出、W店で飲む、空腹と睡眠不足のためだらう、たいへん酔うた、酔うて彷徨した、とうたう倒れてしまつた。……

 七月三日 晴――風――曇。

朝酒一本飲んで戻つた。
戦時的色彩が日にまし濃厚になる、私もひし/\と時局を感じる、しみ/″\戦争を感じる。
土方母堂、そしてリユシコフ将軍の新聞記事が胸をうつた、あゝ人間。
自然はよいかな芸術はありがたいかな
山頭火に与ふ
  酔中の自己打診
     自己批判
     自己忠告
生死の一線
  彷徨
  超越
  逍遙

 七月四日 曇、時々微雨。

早起したが食べるものはない、番茶を飲むだけ。
絶食、――思索、――読書、――句作。
Kから女子出産、母子共健全とのたよりがあつた、めでたしめでたしと独り言をいふばかりである!
雑草を活ける、甘草はよろしいな、いぬころ草は可愛いな。
暮れてから、暮羊君来訪、暫時俳談。
夜は空腹も忘れて、近作の推敲に一心だつた。

 七月五日 雨。

寝床の中へまで雨が漏つてきたので、びつくりして、詮方なしに起きたが、まだ夜が明けない、裏の棚田で水鶏がせつなげに啼いてゐた。……
落ちついて紫蘇茶一杯すゝつて読書。
うれしいたよりが二つ、一つはKから、そして一つは樹明君から。――
山口へ行く、三月ぶりだ、折よく来てくれたバスに乗つて、まづ一杯、また一杯、また/\一杯。
買へるだけ買ふ、――といつても僅かだが、――持ちきれないほどの品物を持つて、雨の中を戻つた、大出来、大出来!
また街へ、また買物。
ゆつくり晩酌をやつてゐるところへ、暮羊君来庵、いさゝかの酒を酌みかはしながら俳談する。
それからまた/\街へ、払へるだけ払ふ、そして飲めるだけ飲む。……
象徴詩としての俳句
    俳句の象徴性
○俳句は気合のやうなものだ、禅坊主の喝のやうなものだと思ふ。
自己に徹することが自然に徹することだ
 自然に徹するとは空の世界を体マヽすることである。

 七月六日 雨。

……いつのまにやら、どうしてやら、ちやんと帰つて来て寝てゐた。……
今日も山口へ行く、ハイカイコジキだ、つらいね。
W君もH君もN君も不在、H君には逢へた、小学校はよいな、参観してゐると涙ぐましくなる。
湯田はよいとこ(たゞ温泉がある故に)、酔うてとうたうS屋に泊る、いやなおかみさんだけれど、宿そのものは悪くない。
おかげでぐつすり、ほんにぐつすり睡れた。

 七月七日 曇――雨。

朝酒は止めて、一浴して歩いて帰つた。
日支事変一周年、正午のサイレンと共に黙祷、あゝ……あゝ。
夕方、樹明君と敬君と同道して来庵、うれしかつた、酒とビフテキとの御馳走を頂戴する、内證内證!

 七月八日 雨――曇。

早すぎるけれど早く起きた、短夜がまだ長すぎる、年はとりたくないものだ、朝酒の御馳走をいたゞく。
落ちついて読書。
欝欝たへがたくして、――酒まで苦い!

 七月九日 晴。

朝寝だつた、マヽれわたつた大空を昇る太陽!
いよ/\梅雨もあがつたらしい、暑くなつた、すこしぢたばたすると汗びつしよりになる、いよ/\夏だ。
旅、旅、行乞、行乞、山頭火、山頭火。
愛国婦人会の本部から来信、傷病将士慰安のために書画展覧会を開催するから、彩筆報国の意味で寄贈せよとの事、私は喜んで、ほんたうに喜んで寄贈する、それだけでも私の自責の念はだいぶ救はれる、ありがたいと思ふ。
心も軽く身もかろく、あたりを整理する。
ちよつと街へ出かけて、米と油を買ふ。
もう裸がよくなつた、裸で勉強する。
まつたく不眠、蛙のコーラスも悪くないな。

 七月十日 晴――曇――雨。

未明起床、夜が朝となる景象を観賞する、不眠の余得とでもいはうか。
早朝、訪問者があつて、風呂の売物はないかと訊ねる、それも面白かつた。
今日も好晴(夕方くづれたけれど)、炎天らしくなつて照りつける、私は冬が嫌ひなだけ夏が好きだ。
暮羊君来訪、そして暮羊居徃訪、カン/\帽(むろん去年の)を頂戴した。
澄太君へ送るべき原稿を書きあげてポストへ、帰途、W店に寄ると、Tといふのんべいさんがゐる、いつしよに飲む、飲むより酔ふた、酔うたけれど乱れなかつた。
愛国婦人会へ寄贈すべき半切の画箋紙を暮羊君から寄贈して貰つた。
労れて酔うて熟睡した、めでたし/\。

 七月十一日 晴。

今日は遺骨を迎へる日である。
十時のバスで山口へ行く、一張羅を質入して、やうやく小遣をこしらへて、――理髪する、温泉にはいる、一杯ひつかける、――山口駅は儀仗兵やら遺族やら、大衆やらが炎天の下にたたずんで待つてゐる、私もその一人となる、暑い暑い、ばら/\雨が天の涙のやうに落ちる!
十二時過ぎて、その汽車が着いた、あゝ二百数十柱! 声なき凱旋、――悲しい場面であつた。
白い函の横に供へられた桔梗二三輪、鳩が二三羽飛んで来て、空にひるがへる、すすり泣きの声が聞える、弔銃のつゝましさ、ラツパの哀音、――行列はしゆく/\として群集の間を原隊へ帰つて行つた。……
一応帰庵して、五時の列車でSへ、四月ぶりの徃訪であつたが、まるで叱られにいつたやうなものであつた、泰山木が咲いてゐた、私の好きな花、そしてなつかしい花。
土蟹、蛙、水鶏の声、水音、物みなしづかでおちついてゐる、私の心臓だけがあはたゞしい!
酒、酒はうまい。
一杯機嫌で、愛国婦人会から申込まれてゐた半切と短冊とを書きあげる(傷病将士慰問、書画即売、展覧会の一部として、私は喜んで書いて贈るのである)、慰安するのでなくてかへつて慰安されるのだ
自己嫌忌、自己嘲罵がこみあげてくるが、幸にして酔うて熟睡することが出来た。
途上見聞の一、
日の丸をふりまはす子供に母親が説き諭してゐる。――
今日はバンザイではありませんよ、おとなしくお迎へするんですよ。
血縁の重苦しさよ

 七月十二日 曇――晴。

早起すぎるけれど起きる、五時をちよつとまはつたところだ、そこらを散歩する。
蛙は愛嬌者だが、蟹もなか/\の愛嬌者だ。
大崎の郵便局まで出かける、玉祖神社に参拝。
神域の清らかさ、朝酒臭いのが恥づかしい。
一時の汽車で帰省、味噌と浴衣と小遣とを貰つて、どの駅にも帰宅する遺骨を迎へる人々、また暗涙をそゝられる。
夕方散歩、W店に寄る、K老人が飲んでゐる、いつしよに飲みかはすうちにたうとう寝入り込んでしまつた。
飲仲間! 私の仲間、K老人もその一員である。

 七月十三日 雨。

朝飯を御馳走になつて、跣足で戻つた。
昨日の今日で、身心が何となく重苦しい、罰だ、罰は甘んじて受けなければならない。
物資統制、価マヽ公定、等々で戦時色が日にまし濃厚になる、私もまた日にまし生活の窮迫に苦しむ、だが、物心総動員の秋だ、誰でもが頑張らなければならない。
窓にちかく竹の子が枝を葉をひろげる。
どこからともなく、いつからともなく鼠がやつて来て、いたづらをする、鼠よ、食べる物のあるところへ行きなさい!
ポストまで出かけて、いろ/\買物をする、米、麦、石油、豆腐。……
自動車に轢かれて、小犬が断末魔の悲鳴をあげてゐる、見るにたへない、聞くにたへなかつた。
夏水仙を持つてかへつて活ける、楚々として純白な美しさ。
生れて初めて糠味噌をこしらへる、少々塩が利きすぎたが、うまく出来た、さつそく茄子を漬ける。
今日は楽しい日だつた、今日は今日の幸福を味はつた、有難い一日であつた。
夕、敬君来庵、間もまく[#「間もまく」はママ]、酒と肴とを持つて暮羊君来庵、三人でつゝましくたのしく飲んだ。
私はよく物を貰ふ、人がよく物を下さる。
私は何でもありがたく頂戴する。
私は物貰ひに出来てゐる人間だらうか。

恩に狎れてはいけない。
人情に甘えてはならない。

 七月十四日 晴、曇。

早起、花を剪る、車百合は床の壺に、夾竹桃は仏前に。
身辺整理。――
Sから貰つた味噌を食べる、何だか涙ぐましくなつた。
いろ/\のたよりを受取る、いろ/\のたよりを発送する。
旧の六月十七夜、椹野河原は人出が多からう、今年は煙火の催物はないが。
近在散歩、歩けばずゐぶん暑い。
ふと気づくと、縞萱を盗み切られてゐる、惜しいと思ふよりも嫌な気がする。
・関東震災遺聞
・H老人とマツチ
・K夫人と水道
・汁かけ飯
・感謝、水、米、生命
 惜しむのではない、尊ぶのである。
 物を大切にする心

 七月十五日 曇、晴。

早起、読書、思索、句作、散歩。――
曇ると梅雨らしいが、晴れると炎天だ。
今日もポストまで出かける、ついでに新聞を借りて読む。
人さま/″\といふ感が深い。
ポストへ、アメリカ行の小包が入国拒絶で返つて来たので(茶の実を入れてあつたので)、不快を覚えたが、入浴してさつぱりと忘れてしまうことが出来た。
夕方、敬君来、つゞいて樹明来、暮羊来、お土産のハムを下物におもしろく飲み、めづらしく句を作つたが、三人いつしよに街へ出かけて、K屋、F屋とほつつき歩いて、みんなだらしなくなつた、先づ敬君が行方不明、樹明君が雲隠れ、そして虎になつた暮君を虎になりたがる山頭火が辛うじて引張つて帰つた、二時頃だつたらう。
句会が苦界になつた次第である。

 七月十六日 晴。

不快、内外清掃。
桔梗が咲き初めた。
自戒、自粛、自制せよ、孤坐観心
かねての約束の如く、山口詩選出版記念茶話会へ招待されたので出かける、一時のバスで湯田へ。
いつものやうに一浴して(一杯は差控へて)、白石校に長谷さんを訪ねる、それから下井田さんを訪ねる、新聞雑誌を読ませて貰ふ、行水させて貰ふ、夕飯の御馳走になる、酒三本、快く微酔した、ハダカとハダカとのつきあいはうれしかつた。
七時前、長谷、福富、下井田等と八木食堂へ、出席者十人ばかり、新聞記者がしやべること/\、私もまけずにしやべりちらしたが。
十時頃、そこを切りあげて、長谷君の部屋で飲む、誰もが興奮してゐる、和田君は泣いて語る、中原君は酔うて寝る、下井田君は人生批判をつゞける、福富さんと長谷さんとはおとなしい、私はやたらに飲む、……それから湯田へ出かけて飲みつゞける、三時近くなつたので、すまないが、中原君の蚊帳の中に入れて貰つた。
□老人対話(湯田浴場にて)
□座席を譲られて(バスの中で)
ステツキから杖

 七月十七日 快晴、真夏。

早々眼覚めたけれど、朝寝の癖があるらしいから遠慮して九時過ぎ起きた、すぐ温泉へ出かけて一浴、そして一杯、朝飯を頂戴してお暇乞する、二人はさらに椹野川で泳いだ、河原の石ころがそれ/″\のよさを具へてゐる事実に今更のやうに驚嘆したりした。
明日の来庵を約して、一時半の汽車で帰庵。
留守に福富さん来訪、すまなかつた、外に誰だか友達もやつて来たらしい。

 七月十八日 晴。

朝早く身もかろく心もすが/\しく。
句稿など整理しつゝ待つてゐる。――
正午すぎ中原君来庵、焼酎を奢つて貰つて飲みかはす、どちらも酔うてしまつて、湯田へ出かける、それはやつぱり酔興だつた、酔中はなれ/″\になつて、そここゝさまようたが、やうやく夜が明けて歩いて戻つた。……
自制、自制、今の私に缺げてゐるものは、無くてならないものは自制である、自制せよ自制せよ
┌自我本位説
└生命〃〃
  新らしい生命観

 七月十九日 晴。

暑かつた、――まつたく真夏の天地になつた。
茫々たり、漠々たり、混沌として何物もなし、しかも堪へがたく憂愁たゞよふ。……
夜、中原君来訪、同君のよさが事毎にあらはれて、ます/\好きになる、私を心配してくれる心持がたまらなくうれしい、酔態の見苦しかつたことを聞かされたが、大した醜態は演じなかつたらしい、日頃の狂態までには到らなかつたことを知つて、ほつとした。
蚊帳の中でランプも点けないで、十一時まで話し合つた。
かねて読みたいと思つてゐた雪国と浅草紅団とを持つて来て下さつた、ありがたし/\。
労れて安心して安眠した、めでたし/\。
今日はまたアメリカの大月さんからコーヒーを頂戴した、ありがたう/\/\。

 七月廿日 晴。

申分のない土用入。
快眠した朝の心、落ちついて読書。
みん/\蝉がだん/\家ちかく身ぢかく来て鳴きつゞける、しみ/″\とした気分で聴いてゐる。
蟻よ、君の勤勉には頭がさがるが、家の中まではいつてくれるな、からだを螫さないやうに頼むよ。
母蜘蛛よ、子袋は重からうな、大切にしなさい。
――無くなつた、やつと見つかつた、ほつとした、それは巻煙草一本のゆくへである、――神経衰弱的動作はよろしくない。――
暮れて暮羊君来庵、先夜の連中に対して不平をならべる、近日、飲み直すことにする、何とか彼とか、酒飲は酒を飲む機会と口実とをつかむものである!

 七月廿一日 晴。

沈静、句稿整理。
暮羊居から新聞を借りて読む、婦人公論も。
まつたく土用だ、よい暑さだ!
夕風に吹かれて散歩、飲みたくなつて、銭はないけれど、Wさんを訪ねて、飲まして貰ふ、酔つぱらふ、でも戻ることは戻つた、こけつまろびつで。――
“諸行無常”
“木魂”

随処作マヽ 立処皆真
  (臨済)
・老木挽さんがいふ――
山の子は山で。――

 七月廿二日 晴、晴、晴。

――宿酔気味――散歩――山口へ――Sさん、Wさん、Fさん、――酔境空寂、――最終バスで帰庵、――風呂敷包も、下駄も、何もかもなくなつてしまつた、――あゝさつぱりした、よかつた!

 七月廿三日 晴。

空々寂々。――
花屋が来て、縞萱と桔梗とを所望して、十五銭くれた。
暮羊居で米一升分けて貰ふ。
初めて熊蝉が鳴く。
夾竹桃の花が美しい、まさに万緑叢中紅一点。
飯のうまさ。
暮羊君来庵、同道して、四時の汽車で防府へ行く、令兄のところで御馳走になる、悪筆を揮ふ、十時の汽車で帰る、駅前でIさんに逢ふ、三人で飲む、近来にない愉快な一夜だつた。
帰庵したのは一時頃だつたらう、蚊帳も吊らないで寝てしまつた!
・花の良心
  花屋老人の事
・停車場待合室

 七月廿四日 晴、風が涼しかつた。

私は二日酔をしない、いうぜんとして落ちついてゐる。
涼しい昼寝、あゝ勿体ない、赦して下さい、すみません。
昼も夜も暮羊君来庵、ブラジルコーヒーを味ふ。
今夜は意外な訪問者があつた、Mのおかみさんとその娘、何もないからコーヒーを少しあげた!
涼しすぎる風、蒲団なしでは寝てゐられなかつた。

 七月廿五日 晴。

早起、焼香、肌寒。――
節食、それは絶食の前提となるだらう。
老鶯啼く、ゆつくりしんみりコーヒーを味ふ。
所在なさにあちらへいつたりこちらへきたり、そこらをあるきまはる。……
雪国を読む、寂しい小説だ、康成百パアの小説だ、人生は一切徒労か、情熱いたづらに燃えて、燃えつくすのか!
よい日であつた、よい風が吹いた、よい人生であれ。
午後、暮羊君来庵、読書、昼寝、談笑。……
身心が何となくだるい、風に労れたのでもあらうか。
Yさんの戦死は私を悲しがらせて、――どうにもならない。

 七月廿六日 晴――曇。

好晴がつゞいたが曇となつた、どうやら雨が近いらしい、物みな待ちかまへてゐる。
待つともなく待つもの、――来なかつた。
絶食、食べるものがないから食べないのだが、身心清掃の工作としてよろしい。
落ちついて読書。――

 七月廿七日 曇――晴。

未明起床、明けゆく情調を味ふ、よいかな、夏の朝。
絶食第二日、梅茶一杯、身心安静。
散歩、五日ぶりの外出である、一杯借りた機嫌で、米も石油も借りて帰つた!
飯のありがたさ、あたゝかい麦飯のうまさ。
九江陥落! ああとさけぶほかない、この感嘆詞には千万無量のおもひがこもつてゐる。
まことに盛夏酷暑だ。
夕立が来てくれさうな雷鳴だつたが、ばら/\雨で終つた、一雨ざつと来ると、人間よりも草木がよろこぶだらうに。
暮羊君の奥さんからカマス二尾頂戴する、憾むらくは酒がないと嘆じてゐるところへ、暮羊君が一本さげて来庵、ほんたうにうまい酒であり、そしてよい酒であつた。
おかげで、前後不覚、ぐつすり睡れた。

 七月廿八日 晴。

ようねむれた朝のこゝろたのしく。
浅草紅団、なか/\おもしろい。
何となくいら/\して落ちつけない、どうしたのだらう、気まぐれ山頭火
今日もずゐぶん暑かつた、我がまゝ気まゝに暮らした、感謝々々。
・断食か、行乞か。
・閑愁
・うれしがりや

 七月廿九日 晴曇。

早く起きた、朝蝉まことによろし。
何となく倦怠、顔を剃り、身体を水拭きする。
すなほにつゝましく読書。
今日は一句もなかつた、それでよろし、それもよからう。

 七月卅日 曇。

落ちついて、――蝉も私もきり/″\すも。
今日も郵便は来なかつた。
胡瓜一つ――一つしかつてゐない――をもいで御飯をたべる。
私としてはめづらしく頭が痛い、散歩、暮羊居で、ラツキヨウを下物にコツプ酒。
夕方、樹明君来庵、飯が食べたいといはれても、麦飯、胡瓜、味噌、そして白湯しかなかつた、杉の葉を燻して、しばらく漫談。
しづかさ、さびしさ、かなしさ、早く寝た。
軽く詠うて深く感じさせる
良心――意志――行動

 七月卅一日 曇、微雨。

沈欝。――
涼しすぎる、秋風のやうな。――
五日ぶりに、やつと郵便が来たことは来たけれど。――
煙草がなくなつた、食べるものもなくならうとしてゐる。
シヨウユウライス
マヽを読みつゞける。――

 八月一日 雨――曇――晴。

朝のうちは時化模様で、風雨が強くなりさうだつたが、だん/\おさまつて、おだやかな晴天になつた。
つゝましく、今日も歳事記を読みつゞけた。
早寝する。

 八月二日 晴――曇。

絶食、身心を清掃しよう
思ひがけなく、Kからうれしい手紙、といふよりもありがたい手紙が来た、あゝKよ、Kよ、私は、私は。……
樹明君酔つぱらつてころげこんだ、寝せてをいて、街へ出かける、買物いろ/\、何よりも、米と酒!
樹明君と同道して暮羊居まで。
私は旅へ。――
八月三日┐
    ├旅日記
〃 八日┘





底本:「山頭火全集 第八巻」春陽堂書店
   1987(昭和62)年7月25日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:小林繁雄
校正:仙酔ゑびす
2010年4月22日作成
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