一
また正月が来た。振り返ると過去が丸で夢のやうに見える。何時の
間に
斯う
年齢を取つたものか不思議な位である。
此感じをもう少し強めると、過去は夢としてさへ存在しなくなる。全くの無になつてしまふ。実際近頃の
私は時々たゞの無として自分の過去を
観ずる事がしば/\ある。いつぞや上野へ展覧会を見に行つた時、公園の森の下を歩きながら、自分は
或目的をもつて
先刻から足を運ばせてゐるにも
拘はらず、
未だ
曾て一
寸も動いてゐないのだと考へたりした。
是は
耄碌の結果ではない。
宅を出て、電車に乗つて、山下で降りて、それから靴で大地の上をしかと踏んだといふ記憶を
慥かに
有つた上の感じなのである。自分は
其時終日
行いて
未だ
曾て
行かずといふ句が
何処かにあるやうな気がした。さうして
其句の意味は
斯ういふ心持を表現したものではなからうかとさへ思つた。
これをもつと
六づかしい哲学的な言葉で
云ふと、
畢竟ずるに過去は一の
仮象に過ぎないといふ事にもなる。金剛経にある過去
心は
不可得なりといふ意義にも通ずるかも知れない。さうして
当来の
念々は
悉く
刹那の現在からすぐ過去に流れ込むものであるから、又瞬刻の現在から何等の段落なしに未来を生み出すものであるから、過去に
就て云ひ
得べき事は現在に就ても言ひ
得べき道理であり、また未来に
就いても下し
得べき理窟であるとすると、一生は
終に夢よりも不確実なものになつてしまはなければならない。
斯ういふ見地から
我といふものを解釈したら、いくら正月が来ても、自分は決して
年齢を取る
筈がないのである。
年齢を取るやうに見えるのは、全く暦と鏡の
仕業で、
其暦も鏡も実は無に等しいのである。
驚くべき事は、これと同時に、現在の我が天地を
蔽ひ尽して
儼存してゐるといふ確実な事実である。一挙手一投足の末に至る
迄此「
我」が認識しつゝ絶えず過去へ
繰越してゐるといふ動かしがたい
真境である。だから
其処に眼を付けて自分の
後を振り返ると、過去は夢
所ではない。
炳乎として明らかに
刻下の我を
照しつゝある探照燈のやうなものである。従つて正月が来るたびに、自分は矢張り世間
並に
年齢を取つて老い朽ちて行かなければならなくなる。
生活に対する
此二つの見方が、同時にしかも矛盾なしに両存して、普通にいふ所の論理を超越してゐる異様な現象に
就いて、自分は今何も説明する
積はない。又解剖する手腕も
有たない。たゞ年頭に際して、自分は
此一体二様の見解を抱いて、わが全生活を、大正五年の潮流に
任せる覚悟をした迄である。
若し無に即して
云へば、自分は今度の春を迎へる必要も何もない。
否明治の始めから生れないのと同じやうなものである。
然し
有になづんで云へば、多病な
身体が又一年
生き延びるにつれて、自分の
為すべき事はそれ
丈量に
於て増すのみならず、質に
於ても
幾分か改良されないとも限らない。従つて天が自分に又一年の寿命を
借して
呉れた事は、平常から時間の欠乏を感じてゐる自分に取つては、
何の位の幸福になるか分らない。自分は出来る
丈余命のあらん限りを最善に利用したいと心掛けてゐる。
趙州和尚といふ有名な唐の坊さんは、趙州古仏晩年
発心と人に
云はれた
丈あつて、六十一になつてから初めて道に
志した
奇特な心懸の人である。七歳の童児なりとも、我に
勝るものには我れ
即ち彼に問はん、百歳の
老翁なりとも我に及ばざる者には我れ即ち
侘を教へんと云つて、
南泉といふ禅坊さんの所へ行つて二十年間
倦まずに修業を継続したのだから、卒業した時にはもう八十になつてしまつたのである。
夫から趙州の観音院に移つて、始めて人を
得度し出した。さうして百二十の高齢に至る迄
化導を
専らにした。
寿命は自分の極めるものでないから、
固より予測は出来ない。自分は多病だけれども、趙州の
初発心の時よりもまだ十年も若い。たとひ百二十
迄生きないにしても、力の続く間、努力すればまだ少しは何か出来る様に思ふ。それで私は天寿の許す限り趙州の
顰にならつて奮励する
心組でゐる。古仏と
云はれた人の
真似も長命も、無論自分の
分でないかも知れないけれども、
羸弱なら
羸弱なりに、現にわが眼前に開展する月日に対して、あらゆる意味に
於ての感謝の意を致して、自己の天分の
有り
丈を尽さうと思ふのである。
自分は
点頭録の最初に
是丈の事を云つて置かないと気が済まなくなつた。
二 軍国主義(一)
今度の
欧洲戦争が爆発した当時、自分は
或人から突然質問を掛けられた。
「
何んな影響が出て来るでせう」
「
左様」
自分は実際考へる
暇を
有たなかつた。けれども答へなければならなかつた。
「
何んな影響が出て来るか、来て見なければ無論解りませんけれども、何しろ吾々が
是はと驚ろくやうな
目覚ましい結果は予期しにくいやうに思ひます。元来
事の起りが宗教にも道義にも
乃至一般人類に共通な深い根柢を有した思想なり感情なり欲求なりに動かされたものでない以上、
何方が勝つた所で、善が栄えるといふ
訳でもなし、又
何方が負けたにした所で、
真が
勢を失ふといふ事にもならず、美が
輝を減ずるといふ
羽目にも陥る危険はないぢやありませんか」
自分はさう
云ひ切つて
仕舞つた。さうして戦争の展開する場面が非常に広い割に、又それに要する破壊的動力が
凄じい
位猛烈な割に、案外落付いてゐられるのは、全く
此見解が知らず/\胸の
裡にあるからだらうと、
私かに自分で自分を判断した。
実際
此戦争から人間の信仰に革命を引き起すやうな結果は出て来やうとも思はれない。又従来の倫理観を一変するやうな段落が生じやうとも考へられない。これが
為に
美醜の標準に
狂ひが出やうとは
猶更懸念できない。
何の方面から見ても、吾々の精神生活が急劇な変化を受けて、
所謂文明なるものゝ本流に、強い角度の方向転換が行はれる
虞はないのである。
戦争と名のつくものゝ多くは古来から大抵
斯んなものかも知れないが、ことに今度の戦争は、
其仕懸の空前に
大袈裟な
丈に、やゝともすると深みの足りない裏面を対照として
却て思ひ出させる
丈である。自分は常にあの弾丸とあの
硝薬とあの毒
瓦斯とそれからあの
肉団と鮮血とが、我々人類の未来の運命に、
何の位の貢献をしてゐるのだらうかと考へる。さうして
或る時は気の毒になる。或る時は悲しくなる。又或る時は馬鹿々々しくなる。最後に
折々は滑稽さへ感ずる場合もあるといふ残酷な事実を自白せざるを得ない。
左様した立場から眺めると、
如何に
凄じい光景でも、如何に
腥ぐさい舞台でも、それに相応した内面的背景を
具へて居ないといふ点に
於て、又それに比例した強硬な脊髄を有して居ないといふ意味に於て、浅薄な活動写真だの
軽浮なセンセーシヨナル小説だのと
択ぶ所がないやうな気になる。たとひ殺傷に参加する人々個々の頭上には、千差万別の悲劇が
錯綜紛糾して、時々刻々に彼等の運命を変化しつゝあらうとも、それは当座限りの影響に
過ない。永久に
吾人一般の内面生活を変色させるやうな強い結果は
何処からも生れて来ない。とすると、今度の戦争は有史以来特筆大書すべき深刻な事実であると共に、まことに根の張らない見掛倒しの
空々しい事実なのである。(つゞく)
三 軍国主義(二)
然しもう少し低い見地に立つて、もつと手近な所を眺めると、
此戦争の当然将来に
齎すべき結果は、いくらでも吾々の視線の
中に
這入つて来なければならない。政治上にせよ、経済上にせよ、
向後解決されべき諸問題は
何の
位彼等の前に
横はつてゐるか分らないと
云つても
好い位である。
其中で事件の当初から最も自分の興味を
惹いたもの、又現に惹きつゝあるものは、軍国主義の未来といふ問題に外ならなかつた。人道の為の争ひとも、信仰の為の闘ひとも、又意義ある文明の為の衝突とも
見做す事の出来ない
此砲火の響を、自分はたゞ軍国主義の発現として考へるより外に翻訳の仕様がなかつたからである。欧洲大乱といふ複雑極まる混乱した現象を、
斯う
鷲攫に纏めて観察した時、自分は始めて
此戦争に
或意味を附着する事が出来た。さうして
重に
其意味からばかり勝敗の
成行を眺めるやうになつた。従つて個人としての同情や反感を度外に置くと、
独逸だの
仏蘭西だの
英吉利だのといふ国名は、自分に取つてもう重要な言葉でも何でもなくなつて
仕舞つた。自分は軍国主義を
標榜する独逸が、
何の位の程度に
於て聯合国を打ち破り得るか、又
何れ
程根強くそれらに抵抗し得るかを興味に
充ちた眼で見詰めるよりは、
遥により鋭い神経を働かせつつ、独逸に
因つて代表された軍国主義が、多年
英仏に於て培養された個人の自由を破壊し去るだらうかを観望してゐるのである。国土や領域や
羅甸民族やチユトン人種や
凡て具象的な事項は、今の自分に
左した問題になつてゐない。
独逸は当初の予期に反して
頗る強い。聯合軍に対して
是程持ち
応へやうとは誰しも思つてゐなかつた位に強い。すると勝負の上に
於て、
所謂軍国主義なるものゝ価値は、もう
大分世界各国に認められたと
云はなければならない。さうして
向後独逸が成功を収めれば収める程、
此価値は
漸々高まる丈である。英吉利のやうに個人の自由を重んずる国が、強制徴兵案を議会に提出するのみならず、それが百五対四百三の大多数を以て第一
読会を通過したのを見ても、
其消息はよく
窺はれるだらう。
かつてギッシングの書いたものを読んだら、小さいうち学校で体操を強ひられるのが、非常の苦痛と不快を彼に与へたといふ事が
精しく述べてあつた末に、もしわが英国で本人の意思に逆つて迄も徴兵を強制するやうになつたと仮定したら、自分は
何んな心持になるだらう、さういふ事実は万々起る
筈はないのだけれども、たゞ想像して見てさへ
堪へられないと附け加へてあつた。ギッシングのやうに
独居を好む人は特別だと
云ふかも知れないが、英国人の自由を愛する念と云つたら、
殆ど第二の天性として一般に行き渡つてゐるのだから、強制徴兵に対する嫌悪の情は、誰しもギッシングに譲らないと見ても間違はないのである。
其英国で無理にも国民を兵籍に入れやうとするのには
至大の困難があると思はなければならない。其困難を
冒して新しい議案が持ち出され、又其議案が過半の多数に
因つて通過されたとすると、現に非常な変化が英国民の頭の
中に起りつつある証拠になる。さうして
此変化は既に独逸が
真向に振り
翳してゐる軍国主義の勝利と見るより外に仕方がない。戦争がまだ片付かないうちに、英国は精神的にもう独逸に負けたと評しても好い位のものである。(つゞく)
四 軍国主義(三)
開戦の
劈頭から首都
巴里を
脅かされやうとした
仏蘭西人の脳裏には英国民よりも
遥に深く
此軍国主義の影響が刻み付けられたに違ない。たゞでさへ
何うして
独逸に復讐してやらうかと考へ続けに考へて来た彼等が、
愈となると、
却て
其独逸の為に領土の一部分を
蹂躪されるばかりか、政庁さへ遠い所へ移さなければならなくなつたのは、彼等に取つて
甚だ痛ましい事実である。
其事実を眼前に見た彼等の精神に、一種の強い感銘が起るのも
亦必然の結果と
云はなければなるまい。飛行船から投下された爆弾以外に、まだ
寸土も敵兵に踏まれてゐない英国に比較すると、
此精神的打撃は
更に
幾倍の深刻さを加へてゐると見るのが
正に妥当の見解である。
不幸にして強制徴兵案の様に自分の想像を事実の上で直接
確めて
呉れる程の鮮やかな現象が、
仏蘭西ではまだ起つてゐないから、自分は自分の
臆説をさう
手際よく実際に証明する
訳に行かない。けれども戦争の経過につれて、彼等の公表する思想なり言説なりに現れて来る変化を
迹付ければ、自分の考への大して
正鵠を失つてゐない事
丈は
略慥なやうに思はれる。
此間或雑誌で「力」といふ観念に
就て独仏両者を比較したパラントといふ人の文章を読んだ時、自分は
益其感を深くした。
彼は「力」といふ考への
中に、
独逸人の混入した不純な概念を列挙した末、
仏蘭西のそれも
矢張り変に
歪んでしまつたといふ事を
下の様に説いてゐる。
「仏蘭西では科学的に
所謂「力」といふものが正義権利の観念と衝突した。ルーテル式独逸式ではないが、ルソー式、トルストイ式、四
海同胞式、平和式、平等式、人道式なる
此観念のために本来の「力」といふ考へがつい曲げられて
不徳不仁の属性を帯びるやうになつてしまつた。そこで正義と人道と平和の為に
此「力」といふものを軽蔑し
且否定しなければならなくなつた。さうして美と正義を一致させ、美と調和を一致させる美学を建設した。奮闘も差別も自然の法則であるといふ事を忘れた。美
其物も一種の「力」であり、又「力」の発現であるといふ事を忘れた。正義
其物も本来の意味から云へば平衡を得た「力」に過ぎないといふ事を忘れた。「力」の方が原始的で、正義の方は
却て
転来的であるといふ事も忘れた。
斯んな
僻見に比べるとニーチエの方が
何の位
尤もであつたか分らない。……そこで吾々は
何うしても「力」といふ観念をこゝで一新する必要がある。さうして本当の意味でもう一度それを評価の階段中に入れ
易へなければならない。自然の法則を現すといふ点に
於て「力」は科学的なものである。勝利を
冀ふ人間の精神を現すといふ点に於て「力」は高尚なものである。吾々はもう権利と「力」とを対立させる事を
已めなければ
行けない。権利がなくつて負けるのはまだしもだが、権利がある上に負けるのは二重の敗北である。最大の損害である。無上の不幸である」
冗漫と難渋とを恐れて、わざと大意
丈を抄訳した
此一節を読んで見ても、相手の軍国主義が
何んな風に仏蘭西の思想界の一部に食ひ入りつゝあるかが解るだらう。(つゞく)
五 軍国主義(四)
すると戦争のまだ落着しないうちから、年来
独逸によつて
標榜された軍国的精神なるものは既に敵国を動かし始めたのである。遠い東の
果に住んでゐる吾々の視聴を刺戟する
位強く彼等の心を動かし始めたのである。さうして
此影響はたとひ今度の戦争が片付いても、容易に彼等の脳裏から
拭ひ去る事が出来ないのである。単に過去の経験を痛切に記憶すべく余儀なくされた結果として拭ひ去る事が出来ないばかりでなく、未来に対する配慮からしても到底
此影響を超越する
訳には行かないのである。
待対世界の
凡てのものが
悉く条件つきで
其存在を許されてゐる以上、
向後に回復されべき欧洲の平和にも、
亦絶対の権威が伴つてゐない事だけは誰の眼にも明かである。
然し彼等が
其平和の必要条件として、それとは全く両立しがたい腕力の二字を常に念頭に置くべく
強ひられるに至つては、彼等と
雖も今更ながら天のアイロニーに驚かざるを得まい。現代に
所謂列強の平和とはつまり腕力の平均に外ならないといふ平凡な理窟を彼等は又新しく天から教へられたのである。土俵の真中で四つに組んで動かない力士は、外観上
至極平和さうに見える。今迄彼等の
享有した平和も、実はそれ程に高価で、又それ程に苦痛性を帯びてゐたのである。しかも彼等は相撲取のやうにそれを自覚してゐなかつたために突然罰せられた。換言すれば生存上腕力の必要を
向後当分の
間忘れる事の出来ないやうに
遣付けられた。軍国主義が今迄彼等に及ぼした、又
是から先彼等に及ぼすべき影響は決して浅いものではない。又短いものではなからう。
普魯西人は文明の敵だと叫んで見たり、
独逸人が
傍にゐると食つた物が
消化れないで困ると
云つたりしたニーチエは、偉大なる「力」の主張者であつた。不思議にも彼の力説した議論の一面を、彼の最も
忌み
悪んだ独逸人が、今政治的に又国際的に、実行してゐるのである。さうして成効してゐるのである。軍国主義の精神には一時的以上の真理が
何処かに
伏在してゐると認めても
差支ないかも知れない。
然し自分の軍国主義に対する興味は、
此処迄観察して来ると
其処で消えてしまはなければならない。自分はこれ以上同じ問題に
就いて考へる必要を認めない。又手数も
厭はしい気がする。自分はもつと高い場所に
上りたくなる。もつと広い眼界から人間を眺めたくなる。さうして今
独逸を縦横に
且獰猛に活躍させてゐる
此軍国主義なるものを、もつと遠距離から、もつと小さく観察したい。
将来に於ける人間の生存上
赤裸々なる腕力の発現が、
大仕掛の準備、
即ち戦争といふ形式を以て世の中に起るとすれば、それを解釈するものは、腕力の発現そのものが目的で人間が戦争をするのであるとするか、又は目的は
他にあるが、それを
遂行する手段として
已を得ず戦争に訴へたのだとしなければならない。
然し戦争
其物が面白くつて戦争をしたものが昔からあるだらうか。ナポレオンの様な
此方面の天才ですら、
夜打朝懸、
軍さの
懸引に興味は
有つてゐたかも知れないが、たゞ戦ひたいから戦つたのだとは受け取れない。たとひ露骨な腕力沙汰が個人の本能だとしても、相手を殺したり
傷けたりしない程度に
於て
其本能を満足させるのが人情である。一日に何千何万といふ人命を
賭にして
此本能に
飽満の悦楽を与へるのが戦争であるとは、誰しも
云ひ得まい。すると戦争は戦争の為の戦争ではなくつて、他に
何等かの目的がなくてはならない、
畢竟ずるに一の手段に過ぎないといふ事に帰着してしまふ。
何れの方面から見ても手段は目的以下のものである。目的よりも低級なものである。人間の目的が平和にあらうとも、芸術にあらうとも、信仰にあらうとも、知識にあらうとも、それを今批判する余裕はないが、とにかく戦争が手段である以上、人間の目的でない以上、それに成効の実力を付与する軍国主義なるものも
亦決して活力評価表の上に於て、決して上位を
占むべきものでない事は明かである。
自分は独逸によつて今日迄
鼓吹された軍国的精神が、
其敵国たる英仏に多大の影響を与へた事を
優に認めると同時に、
此時代錯誤的精神が、自由と平和を愛する彼等に
斯く多大の影響を与へた事を悲しむものである。
六 トライチケ(一)
欧洲戦争が起つてから、
独乙の学者思想家の言論を実際的に解釈するものが続々出て来た。
最初
英吉利の雑誌にはニーチエといふ名前が
頻りに見えた。ニーチエは今度の事件が起る十年も前、既に英語に翻訳されてゐる。英吉利の思想界にあつて別に
新らしい名前でもない。然し彼等は
其名前に特別な
新らしい意味を
着けた。さうして彼の思想を
此大戦争の影響者である如くに言ひ出した。是は誰の
眼にも
映る程
屡繰り
返された。
基督の道徳は
奴隷の道徳であると罵つたのは正にニーチエであると同時に、ビスマークを憎みトライチケを侮つたのもニーチエであるとすると、彼が
斯ういふ解釈を受けて満足するかどうかは疑問である。本人の思はく
如何は別問題として、彼の唱道した超人主義の哲学が、此際
独乙に取つて、
何れ程役に立つてゐるかも遠方に生れた自分には殆んど見当が付かない。
仏蘭西の一批評家は「
所謂独乙的発展」といふ題目の
下に、ヘーゲルとビスマークとヰリアム二世の名を列挙した。彼はヘーゲルの様な純粋の哲学者を軍人政治家と結び
付ける許りか、其思想が彼等軍人政治家の実行に深い関係を有してゐるのだといふ
事を説明しやうと試みた。彼の云ふ所によると、
普魯西の軍国主義はヘーゲルの観念論の結果に外ならんといふのである。――元来独乙のアイヂアリズムは観念の科学であつて、其観念なるものが又大いに感情的分子を
含んでゐる。文字の示現通り単なる冥想や思索でなくつて、場合が許すならば、
何時でも実行的に変化するのみならず、時としては侵略的にさへなりかねない
程毒々しいものである。アイヂアリズムが論議の援助を受けて、主観客観の一致を発見したが最後、こゝに外界と内界の
墻壁を破壊して、凡てを吸収し尽さなければ
已まない
事になる。アイヂアリズムから思ひも寄らない物質主義が現はれてくる。是は最初から無関心で出立しない哲学として、陥るべき当然の結果である。
此批評家の云ふ
事が、果して真相の解釈であるか
何うか、是も自分には分らない。唯遠くにゐて、其土地の空気を呼吸しない
所為か、
斯ういふ説明は自分から見て
何うも切実でないやうな気がする。奇抜な
事は
突飛な位奇抜とは思ふが、それがため却つて成程と首肯しがたくなる位なものである。
例を挙げればまだ沢山あるが、さう一々も覚えてゐないから、まづ此位にして置いて、自分は一寸
斯ういふ現象に就いてこゝに挿話的ながら考へて見たいと思ふ
事がある。
英仏の評論家は現在の戦争を単に当面の事実としてばかり眺めてゐないのみならず、又それを政治上の問題としてばかり考へてゐないのみならず、其背後に必ず
或思想家なり学者なりの言説を大いなる
因子として数へたがつてゐる傾向に見える。実際欧洲の思想家や学者はそれ程実社会を動かしてゐるのだらうか。
自分は日露戦争が、我日本の生んだ大哲学者の影響を
蒙つて発現したとは決して思はない。日清戦争も其通りである。戦争はとにかく、其他の小事件にせよ、我日本に起つた歴史的事実の背景に、思想家の思想を基点として据ゑ得るものは殆んどないやうに思ふ。現代の日本に在つて政治は
飽く迄も政治である。思想は又
何所迄も思想である。二つのものは同じ社会にあつて、てんでんばら/\に孤立してゐる。さうして相互の間に何等の理解も交渉もない。たまに両者の連鎖を見出すかと思ふと、それは発売禁止の形式に於て起る抑圧的なものばかりである。山陽の日本外史が維新の大業に醗酵分となつて交り込んだのは、例外中の例外で、しかもそれは明治大正以前の事実に過ぎない。日本の思想家が貧弱なのだらうか。日本の政治家の眼界が狭いのだらうか。又は西洋の批評家の解釈に誇張が多過ぎるのだらうか。自分は三つとも否定する訳に行くまいと思ふ。さうして其内で西洋の批評家の誇張が一番少ないと思ふ。(つゞく)
七 トライチケ(二)
もしトライチケの名がニーチエやヘーゲルと同じ意味に於て此戦争の
引合に出るならば、自分は少なくとも
是丈の
事を
頭のうちに入れて置く方が便利だと考へる。さうすれば大した困難と誤解なしに、現下
独乙に於る彼の地位が、比較的明瞭に想像され得るからである。
ニーチエやヘーゲルは此事件後に復活した名前ではない。只在来の名前に英仏人が
新らしい意義を付けた丈である。
疾うから知れてゐる彼等の内容を、一種の刺戟に充ちた異様の
眼で、特別に眺めた丈である。トライチケも復活した名でないかも知れない。けれども前者と違つて、
此際新らしい解釈を受ける必要のない名である。今迄のトライチケを今迄通りに見てゐれば、視線の角度を改める必要も手数も要らないで、すぐ彼と今度の戦争との関係が解るのである。彼の説はニーチエ程高踏的でなかつた。孤峰頂上から下界へ向つて命令するが如き態度で、詩のやうな哲学、又哲学のやうな詩を絶叫しはしなかつた。無論ヘーゲル程神秘の
雲のうちに隠れて弁証の稲妻を双手に弄する人ではなかつた。彼は最初から確実に地上を
歩いてゐた。のみならず彼の眼界は狭い
独乙によつて東西南北共に仕切られてゐた。従つて今更新らしく彼を翻訳する必要もなければ又しやうとした所で其余地もないのである。たゞ当時の彼を当時の儘引き延ばして、今の戦争に連続させさへすれば、それで両者の関係は可なり判然するのである。自分はわざと両者の関係と云つた。実は彼が今次の大戦争に及ぼした影響と云ひたいのであるが、それはニーチエやヘーゲルの場合と同じく、影響の程度からいつて、自分には
能く
解らないから、仕方なしにさういふ言葉
遣ひを遠慮した。しかも其上に前述べた通り、
彼我国情の
差違並びに批評家の誇張などを念頭に置いて、是からトライチケを一瞥しやうとするのである。
千八百三十四年ドレスデンに生れた彼は、父が軍籍に在つた関係から云つても、母が士官の娘であつた因縁から見ても、兵士たるべき運命を
有つて生れたと同じ
事であつた。小供の時、疱瘡に罹つたのと、それに引き続いて耳の病気に冒されたので、幸か不幸か、彼は彼の既
定の行路を全然見捨てなければならなくなつた。
然し十四
位から彼の父に送る手紙の中には、もう政治上の意見などがちらほら散見し始めたさうである。さうして十六になるかならない
内に、彼はいつの
間にか熱烈なる独乙統一論者になつて仕舞つた。無論
普魯西を盟主としなければならないといふのが、彼の当初からの主張であつた。彼がライプチツヒに遊学した頃、教授の講義は
碌に聴きもせず、手当り次第に
一人ぼつちの乱読を
恣まにした
時ですら、書物から得る凡ての知識は、みな此普魯西中心の国家といふ大理想を構成する
為に利用されたのである。
彼はマキア
ルを読んだ。正義だらうが道徳だらうが、国家の為ならば、
何時犠牲に供しても
差支ないものだといふ信念を抱くやうになつた。専政だらうが圧制だらうが、
苟も国家の統一を維持し、又国家の威力を増進する以上は、いくら
何う用ひても構はないものだといふ決論に到着した。さうして其意見を彼の父に書いて
遣つた。是は彼がゲツチンゲンで修業してゐる
頃で、
年歯にすると二十二三の時の
事である。(つゞく)
八 トライチケ(三)
東西南北どちらの方角を眺めても、彼の眼に映ずるものは
悉く
独乙の敵であつた。彼は
魯西亜を軽蔑した。年来独乙の統一に反対する
墺地利も、彼の憎悪を
免かれなかつた。ミルトンとシエクスピヤを嘆美しながらも、それらの詩人を有する
英吉利は、彼から見ると独乙の発展に妨害ある一種の邪魔
物に過ぎなかつた。彼は到底
一戦争しなければ
済まないと考へた。さうして其戦争から真に強固にして健全な独乙が生れて
来るといふ
事を信じて疑はなかつた。
多数の聴講生を有する彼は、此目的をもつて大学で
普国史を講じ出した。ごた/\した小邦はみんな取り
潰してしまはなければならないといふ彼の本意は、
此一事でも
窺はれた。彼は自ら小邦に生れた
事を忘れた。彼の
父に対する義理も忘れた。彼は父に向つて云つた。
「
親子の情合のために自分の信念を
枉げる
事は、私には
何うしても出来ません」
彼は此言葉と共にライプチツヒを去つた。再び招かれて
其所で演説を試みた
時、彼は独乙統一のために、焔のやうな熱烈の言辞を二万の聴衆の上に
浴せ
掛けた。無邪気な彼等は呆然として驚ろいた。
所へビスマークが現はれた。さうしてビスマークは彼の要する理想の人物であつた。ビスマークの
時めく
普魯西政府は
猶の
事統一の中心にならねばならなかつた。彼の
所謂「国家」とならねばならなかつた。「第一に自由、夫から統一」といふ叫び声を無意味なものとして聞き流した彼は、「第一に国家の権利、夫から国家」といふ
旗幟を無遠慮に押し立てた。さうして其国家は即ち普魯西である。他の小邦は幾多の犠牲を甘んじても、此中央政府の意志と命令に従はなければならないといふのが彼の意見であつた。
「国家の実質とも
見傚し得べき「力」を
有たない小邦が、何で
国家を代表する
事が出来よう」
彼は
斯ういつて、多くの小邦を
睥睨した。其内には彼の故郷のサクソニーも無論
含まれてゐた。
千八百六十七年ビスマークの力によつて成就された北独乙の聯合は、此意味から見て、彼の理想をある程度迄現実にしたものに違なかつた。其結果として凡てに課せられたる義務兵役と、其義務兵役から生ずる驚ろくべき多くの軍隊とは、支配権を有する
普魯西に取つて大いなる力であつた。それを独乙勢力の増進に必要な条件、即ち西方発展策に応用したのが即ち
普仏戦争なのである。
彼の教授を受けた多くの学生は其時従軍した。彼等の一人が熱烈な告別の辞を述べた時、「どんな犠牲を払つても勝て」と云つた彼は、
忽ちヒーローとして青年から目されるやうになつた。彼は
固より独乙の勝利を信じて疑はなかつたのである。さうして不思議の沈黙に陥つたかと思ふと、彼は負けた
仏蘭西に課すべき条件の項目を其間に調べ出した。彼はアルサス、ローレンの歴史を研究した末、此二州は元々独乙のものであつたのだから、戦勝後は当然旧主の手に帰るべきものだといふ説を発表した。(つゞく)
九 トライチケ(四)
独乙は勝つた。独乙帝国は成立した。彼が十年の間
夢に迄見た希望は遂に達せられた。
「統一の星は
上つた。其
途を妨ぐるものは災を
蒙れ」
是が彼の言葉であつた。此光輝ある時期に際会しながら、
猶且つ厭世哲学を説くハルトマンの如きは
畢竟ずるに一種の精神病者に過ぎないと彼は断言した。其癖意志の肯定は国家として第一の義務であると主張する彼は、ハルトマンによつて復活されたる意志の哲学、即ち宇宙実在の中心点を意志の上に置く哲学によつて大いに動かされたのである。彼は実社界を至極
手荒いものに考へた。仁義博愛は
口に云ふべくして政治上に行ふべきものでないと信じた。
斯くして彼はあらゆる人道的及び自由主義の運動に反対したのである。……
自分はトライチケの影響で今度の欧洲戦争が起つたとは云はない。彼の生時にあつてすら、彼はビスマークの顧問でもなければ又助言者でもなかつた。彼の主張とビスマークの実行とは
寧ろ偶然に一致したのだらう。たとひ彼が鉄血宰相の謳歌者であつたにした所で、謳歌されるビスマークの方では、
夫程彼の言論に動かされてゐなかつたかも知れない。それにも
拘はらず結果から云へば、彼はビスマークの政治上で断行した
事を、彼の学説と言論によつて一々
裏書したと云つても
差支ないのである。さうして今日の独乙が、社会主義者其他の反抗に関せず、当時の方針を
基儘継続して、
其極今度の大乱を引き起したとすれば、思想家としてトライチケの独乙に対する立場も
亦自然明瞭になつた訳である。
是丈の関係を明かにすると、自分の癖として、又根本問題に立ち返つて、質問が
起したくなる。
「トライチケの
鼓吹した軍国主義、国家主義は
畢竟独乙統一の
為ではないか。其統一は四囲の圧迫を防ぐためではないか。既に統一が成立し、帝国が成立し、侵略の
虞なくして独乙が優に存在し得た暁には撤回すべき性質のものではないか。もし永久に此主義で押し通すとならば、論理上此主義其物に価値がなくてはならない。さうして其価値によつて此主義の存在が保証されなければならない。そんな価値が果して
何処から出て
来るだらうか」
個人の場合でも唯喧嘩に強いのは自慢にならない。
徒らに
他を
傷める丈である。国と国とも同じ
事で、単に勝つ見込があるからと云つて、
妄りに
干戈を動かされては近所が迷惑する丈である。文明を破壊する以外に何の効果もない。勝つたものは勝つた
後で、其損害を償ふ以上の貢献を、大きな文明に対してしなければならない筈である。少なくとも其心掛がなくてはならない筈である。自分は今の独乙にそれ丈の
事を仕終せる精神と実力があるか
何うかを
危ぶまざるを得ないのである。するとトライチケの主張は独乙統一前には生存上有効でもあり必要でもあり合
理的でもあつて、今の独乙には無効で不必要で不合理なものかも知れないといふ
事に帰着する。
然しながら彼は云つた。――
「ヰリアム帝は独乙に祖国を与へたるのみならず、より平
衡を得たる又より合理的なる支配の下に文明世
界を置いた。全世界を健全にするは独乙の事業なりと云つた詩人ガイベルの
言葉は今に実現せられるだらう」
して見るとトライチケは、独乙が全欧のみならず、全世界を征服する迄、此軍国主義国家主義で押し通す
積だつたかも知れない。然しながら、我々人類が
悉く独乙に征服された時、我々は其報酬として独乙から果して何を給与されるのだらう。独乙もトライチケもまづ
其所から説明してかゝらなければならない。