事実を読者の前に告白すると、去年の八月頃すでに自分の小説を紙上に連載すべきはずだったのである。ところが余り暑い盛りに大患後の
身体をぶっ
通しに使うのはどんなものだろうという親切な心配をしてくれる人が出て来たので、それを
好い
機会に、なお二箇月の暇を
貪ることにとりきめて貰ったのが
原で、とうとうその二箇月が過去った十月にも筆を
執らず、十一十二もつい紙上へは
杳たる有様で暮してしまった。自分の当然やるべき仕事が、こういう風に、
崩れた波の崩れながら伝わって行くような具合で、ただだらしなく延びるのはけっして心持の好いものではない。
歳の改まる元旦から、いよいよ事始める
緒口を開くように事がきまった時は、長い間
抑えられたものが伸びる時の
楽よりは、背中に
背負された義務を片づける時機が来たという意味でまず何よりも
嬉しかった。けれども長い間
抛り出しておいたこの義務を、どうしたら
例よりも
手際よくやってのけられるだろうかと考えると、また新らしい苦痛を感ぜずにはいられない。
久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければすまないという気がいくらかある。それに自分の健康状態やらその他の事情に対して寛容の精神に
充ちた取り扱い方をしてくれた社友の好意だの、また自分の書くものを毎日日課のようにして読んでくれる読者の好意だのに、
酬いなくてはすまないという心持がだいぶつけ加わって来る。で、どうかして
旨いものができるようにと念じている。けれどもただ念力だけでは
作物のできばえを左右する訳にはどうしたって行きっこない、いくら
佳いものをと思っても、思うようになるかならないか自分にさえ予言のできかねるのが述作の常であるから、今度こそは長い間休んだ
埋合せをするつもりであると公言する勇気が出ない。そこに一種の苦痛が
潜んでいるのである。
この作を
公にするにあたって、自分はただ以上の事だけを言っておきたい気がする。作の性質だの、作物に対する自己の見識だの主張だのは今述べる必要を認めていない。実をいうと自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しばしば耳にするネオ
浪漫派の作家ではなおさらない。自分はこれらの主義を高く
標榜して
路傍の人の注意を
惹くほどに、自分の作物が固定した色に染つけられているという自信を持ち得ぬものである。またそんな自信を不必要とするものである。ただ自分は自分であるという信念を持っている。そうして自分が自分である以上は、自然派でなかろうが、象徴派でなかろうが、ないしネオのつく浪漫派でなかろうが全く構わないつもりである。
自分はまた自分の作物を新しい新しいと
吹聴する事も好まない。今の世にむやみに新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇における一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。
自分はすべて文壇に
濫用される空疎な流行語を
藉りて自分の作物の商標としたくない。ただ自分らしいものが書きたいだけである。手腕が足りなくて自分以下のものができたり、
衒気があって自分以上を
装うようなものができたりして、読者にすまない結果を
齎すのを恐れるだけである。
東京大阪を通じて計算すると、
吾朝日新聞の購読者は実に何十万という多数に上っている。その内で自分の
作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、その何人かの大部分はおそらく文壇の裏通りも
露路も
覗いた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を
真率に呼吸しつつ穏当に生息しているだけだろうと思う。自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を
公にし得る自分を幸福と信じている。
「
彼岸過迄」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は
空しい
標題である。かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を
持していた。が、ついそれを試みる機会もなくて
今日まで過ぎたのであるから、もし自分の
手際が許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。けれども小説は建築家の図面と違って、いくら下手でも活動と発展を含まない訳に行かないので、たとい自分が作るとは云いながら、自分の計画通りに進行しかねる場合がよく起って来るのは、普通の実世間において吾々の
企てが意外の障害を受けて予期のごとくに
纏まらないのと一般である。したがってこれはずっと書進んで見ないとちょっと分らない全く未来に属する問題かも知れない。けれどもよし
旨く行かなくっても、離れるともつくとも
片のつかない短篇が続くだけの事だろうとは予想できる。自分はそれでも
差支えなかろうと思っている。
(明治四十五年一月此作を朝日新聞に公けにしたる時の緒言)
敬太郎はそれほど
験の見えないこの間からの運動と奔走に少し
厭気が
注して来た。元々
頑丈にできた
身体だから単に
馳け歩くという労力だけなら大して苦にもなるまいとは自分でも承知しているが、思う事が引っ
懸ったなり
居据って動かなかったり、または引っ懸ろうとして手を出す
途端にすぽりと
外れたりする
反間が
度重なるに連れて、身体よりも頭の方がだんだん云う事を聞かなくなって来た。で、今夜は少し
癪も手伝って、飲みたくもない
麦酒をわざとポンポン抜いて、できるだけ
快豁な気分を自分と
誘って見た。けれどもいつまで
経っても、ことさらに借着をして陽気がろうとする自覚が
退かないので、しまいに下女を呼んで、そこいらを片づけさした。下女は敬太郎の顔を見て、「まあ田川さん」と云ったが、その
後からまた「本当にまあ」とつけ足した。敬太郎は自分の顔を
撫でながら、「赤いだろう。こんな好い色をいつまでも電灯に照らしておくのはもったいないから、もう寝るんだ。ついでに床を取ってくれ」と云って、下女がまだ何かやり返そうとするのをわざと
外して廊下へ出た。そうして便所から帰って夜具の中に
潜り込む時、まあ当分休養する事にするんだと口の内で
呟いた。
敬太郎は夜中に二
返眼を
覚ました。一度は
咽喉が渇いたため、一度は夢を見たためであった。三度目に眼が
開いた時は、もう明るくなっていた。世の中が動き出しているなと気がつくや
否や敬太郎は、休養休養と云ってまた眼を
眠ってしまった。その次には気の
利かないボンボン時計の大きな音が無遠慮に耳に響いた。それから
後はいくら苦心しても寝つかれなかった。やむを得ず横になったまま
巻煙草を一本吸っていると、半分ほどに燃えて来た
敷島の先が崩れて、白い枕が灰だらけになった。それでも彼はじっとしているつもりであったが、しまいに東窓から射し込む強い
日脚に打たれた気味で、少し頭痛がし出したので、ようやく
我を折って起き上ったなり、
楊枝を
銜えたまま、
手拭をぶら下げて湯に行った。
湯屋の時計はもう十時少し廻っていたが、流しの方はからりと片づいて、
小桶一つ出ていない。ただ
浴槽の中に一人横向になって、
硝子越に射し込んでくる日光を
眺めながら、
呑気そうにじゃぶじゃぶやってるものがある。それが敬太郎と同じ下宿にいる
森本という男だったので、敬太郎はやあ御早うと声を掛けた。すると、向うでも、やあ御早うと
挨拶をしたが、
「何です今頃
楊枝なぞを
銜え込んで、
冗談じゃない。そう云やあ
昨夕あなたの部屋に電気が
点いていないようでしたね」と云った。
「電気は
宵の口から
煌々と点いていたさ。僕はあなたと違って品行方正だから、夜遊びなんか
滅多にした事はありませんよ」
「全くだ。あなたは堅いからね。
羨ましいくらい堅いんだから」
敬太郎は少し
羞痒たいような気がした。相手を見ると依然として
横隔膜から下を湯に
浸けたまま、まだ
飽きずにじゃぶじゃぶやっている。そうして比較的
真面目な顔をしている。敬太郎はこの気楽そうな男の
口髭がだらしなく
濡れて一本一本
下向に垂れたところを眺めながら、
「僕の事はどうでも好いが、あなたはどうしたんです。役所は」と聞いた。すると森本は
倦怠そうに浴槽の
側に
両肱を置いてその上に額を
載せながら
俯伏になったまま、
「役所は御休みです」と頭痛でもする人のように答えた。
「何で」
「何ででもないが、僕の方で御休みです」
敬太郎は思わず自分の同類を一人発見したような気がした。それでつい、「やっぱり休養ですか」と云うと、相手も「ええ休養です」と答えたなり元のとおり
湯槽の側に
突伏していた。
敬太郎が
留桶の前へ腰をおろして、
三助に
垢擦を掛けさせている時分になって、森本はやっと
煙の出るような赤い
身体を全く湯の中から露出した。そうして、ああ好い心持だという顔つきで、流しの上へぺたりと
胡坐をかいたと思うと、
「あなたは好い体格だね」と云って敬太郎の
肉付を
賞め出した。
「これで近頃はだいぶ悪くなった方です」
「どうしてどうしてそれで悪かった日にゃ僕なんざあ」
森本は自分で自分の腹をポンポン
叩いて見せた。その腹は
凹んで背中の方へ
引つけられてるようであった。
「何しろ商売が商売だから身体は
毀す一方ですよ。もっとも不養生もだいぶやりましたがね」と云った後で、急に思い出したようにアハハハと笑った。敬太郎はそれに調子を合せる気味で、
「今日は僕も
閑だから、久しぶりでまたあなたの昔話でも伺いましょうか」と云った。すると森本は、
「ええ話しましょう」とすぐ乗気な返事をしたが、
活溌なのはただ返事だけで、挙動の方は
緩慢というよりも、すべての筋肉が湯に
でられた結果、当分
作用を中止している姿であった。
敬太郎が
石鹸を
塗けた頭をごしごしいわしたり、堅い足の裏や指の股を
擦ったりする間、森本は依然として胡座をかいたまま、どこ一つ洗う
気色は見えなかった。最後に
瘠せた
一塊の肉団をどぶりと湯の中に
抛り込むように
浸けて、敬太郎とほぼ同時に身体を拭きながら上って来た。そうして、
「たまに朝湯へ来ると
綺麗で好い心持ですね」と云った。
「ええ。あなたのは洗うんでなくって、本当に湯に
這入るんだからことにそうだろう。実用のための
入湯でなくって、快感を
貪ぼるための入浴なんだから」
「そうむずかしい這入り方でもないんでしょうが、どうもこんな時に身体なんか洗うな
億劫でね。ついぼんやり
浸ってぼんやり出ちまいますよ。そこへ行くと、あなたは三層倍も
勤勉だ。頭から足からどこからどこまで実によく手落なく洗いますね。
御負に
楊枝まで使って。あの綿密な事には僕もほとんど感心しちまった」
二人は連立って湯屋の
門口を出た。森本がちょっと通りまで行って巻紙を買うからというので、敬太郎もつき合う気になって、横丁を東へ切れると、道が急に悪くなった。
昨夕の雨が土を
潤かし抜いたところへ、今朝からの馬や車や人通りで、踏み返したり
蹴上げたりした泥の
痕を、二人は
厭うような
軽蔑するような様子で歩いた。日は高く
上っているが、地面から吸い上げられる水蒸気はいまだに
微かな波動を地平線の上に
描いているらしい感じがした。
「今朝の
景色は
寝坊のあなたに見せたいようだった。何しろ日がかんかん当ってる
癖に
靄がいっぱいなんでしょう。電車をこっちから
透かして見ると、乗客がまるで
障子に映る
影画のように、はっきり
一人一人見分けられるんです。それでいて
御天道様が向う側にあるんだからその一人一人がどれもこれもみんな灰色の化物に見えるんで、すこぶる奇観でしたよ」
森本はこんな話をしながら、紙屋へ
這入って巻紙と状袋で
膨らました
懐をちょっと抑えながら出て来た。表に待っていた敬太郎はすぐ今来た道の方へ足を向け直した。二人はそのままいっしょに下宿へ帰った。
上靴の
踵を鳴らして
階段を二つ
上り切った時、敬太郎は自分の部屋の障子を手早く開けて、
「さあどうぞ」と森本を
誘った。森本は、
「もう
直午飯でしょう」と云ったが、
躊躇すると思いの外、あたかも自分の部屋へでも這入るような
無雑作な態度で、敬太郎の後に
跟いて来た。そうして、
「あなたの
室から見た景色はいつ見ても好いね」と自分で窓の障子を開けながら、
手摺付の縁板の上へ
濡手拭を置いた。
敬太郎はこの
瘠せながら大した病気にも
罹らないで、毎日新橋の
停車場へ行く男について、平生から一種の好奇心を
有っていた。彼はもう三十以上である。それでいまだに一人で下宿
住居をして停車場へ通勤している。しかし停車場で何の係りをして、どんな事務を取扱っているのか、ついぞ当人に聞いた事もなければ、また向うから話した
試もないので、敬太郎には一切が
Xである。たまたま人を送って停車場へ行く場合もあるが、そんな時にはつい混雑に
取り
紛れて、停車場と森本とをいっしょに考えるほどの
余裕も出ず、そうかと云って、森本の方から自己の存在を思い起させるように、敬太郎の眼につくべき所へ顔を出す機会も起らなかった。ただ長い間同じ下宿に
立籠っているという縁故だか同情だかが
本で、いつの間にか
挨拶をしたり世間話をする仲になったまでである。
だから敬太郎の森本に対する好奇心というのは、現在の彼にあると云うよりも、むしろ過去の彼にあると云った方が適当かも知れない。敬太郎はいつか森本の口から、彼が
歴乎とした一家の主人公であった時分の話を聞いた。彼の女房の話も聞いた。二人の間にできた子供の死んだ話も聞いた。「
餓鬼が死んでくれたんで、まあ助かったようなもんでさあ。
山神の
祟には実際恐れを
作していたんですからね」と云った彼の言葉を、敬太郎はいまだに覚えている。その時しかも山神が分らなくって、何だと聞き返したら、山の神の漢語じゃありませんかと教えられたおかしさまでまだ記憶に残っている。それらを思い出しても、敬太郎から見ると、すべて森本の過去には一種ロマンスの
臭が、
箒星の
尻尾のようにぼうっとおっかぶさって怪しい光を放っている。
女についてできたとか切れたとかいう逸話以外に、彼はまたさまざまな
冒険譚の主人公であった。まだ
海豹島へ行って
膃肭臍は打っていないようであるが、北海道のどこかで
鮭を
漁って
儲けた事はたしかであるらしい。それから四国辺のある山から
安質莫尼が出ると触れて歩いて、けっして出なかった事も、当人がそう自白するくらいだから事実に違ない。しかし最も奇抜なのは
呑口会社の計画で、これは
酒樽の呑口を作る職人が東京にごく少ないというところから思いついたのだそうだが、せっかく大阪から呼び寄せた職人と衝突したために成立しなかったと云って彼はいまだに残念がっている。
儲口を離れた普通の浮世話になると、彼はまた非常に豊富な材料の所有者であるという事を容易に証拠立てる。
筑摩川の上流の何とかいう所から河を隔てて向うの山を見ると、
巌の上に熊がごろごろ昼寝をしているなどはまだ尋常の方なので、それが一層色づいて来ると、信州
戸隠山の奥の院というのは普通の人の登れっこない難所だのに、それを
盲目が
天辺まで登ったから驚ろいたなどという。そこへ
御参をするには、どんなに
脚の達者なものでも途中で一晩明かさなければならないので、森本も仕方なしに五合目あたりで
焚火をして夜の寒さを
凌いでいると、下から
鈴の響が聞えて来たから、不思議に思っているうちに、その鈴の
音がだんだん近くなって、しまいに
座頭が
上って来たんだと云う。しかもその座頭が森本に今晩はと
挨拶をしてまたすたすた上って行ったと云うんだから、余り妙だと思ってなおよく聞いて見ると、実は案内者が一人ついていたのだそうである。その案内者の腰に鈴を着けて、
後から来る
盲者がその鈴の音を頼りに上る事ができるようにしてあったのだと説明されて、やや
納得もできたが、それにしても敬太郎には随分意外な話である。が、それがもう少し
高じると、ほとんど
妖怪談に近い妙なものとなって、だらしのない彼の
口髭の下から最も
慇懃に発表される。彼が
耶馬渓を通ったついでに、
羅漢寺へ上って、日暮に一本道を急いで、杉並木の間を下りて来ると、突然一人の女と
擦れ違った。その女は
臙脂を塗って
白粉をつけて、婚礼に行く時の髪を
結って、
裾模様の
振袖に厚い帯を
締めて、
草履穿のままたった一人すたすた
羅漢寺の方へ
上って行った。寺に用のあるはずはなし、また寺の門はもう
締まっているのに、女は盛装したまま暗い所をたった一人で上って行ったんだそうである。――敬太郎はこんな話を聞くたびにへえーと云って、信じられ得ない意味の微笑を
洩らすにかかわらず、やっぱり相当の興味と緊張とをもって森本の
弁口を迎えるのが例であった。
この日も例によって例のような話が出るだろうという下心から、わざと廻り路までしていっしょに
風呂から帰ったのである。年こそそれほど取っていないが、森本のように、大抵な世間の関門を
潜って来たとしか思われない男の経歴談は、この夏学校を出たばかりの
敬太郎に取っては、多大の興味があるのみではない、聞きようしだいで随分利益も受けられた。
その上敬太郎は遺伝的に平凡を
忌む
浪漫趣味の青年であった。かつて東京の朝日新聞に
児玉音松とかいう人の冒険談が連載された時、彼はまるで
丁年未満の中学生のような熱心をもって毎日それを迎え読んでいた。その
中でも音松君が洞穴の中から
躍り出す
大蛸と戦った記事を大変面白がって、同じ科の学生に、君、蛸の大頭を目がけて
短銃をポンポン打つんだが、つるつる
滑って少しも
手応がないというじゃないか。そのうち大将の後からぞろぞろ出て来た
小蛸がぐるりと
環を作って彼を取り巻いたから何をするのかと思うと、どっちが勝つか熱心に見物しているんだそうだからねと大いに乗気で話した事がある。するとその友達が
調戯半分に、君のような
剽軽ものはとうてい文官試験などを受けて
地道に世の中を渡って行く気になるまい、卒業したら、いっその事思い切って南洋へでも出かけて、好きな
蛸狩でもしたらどうだと云ったので、それ以来「
田川の蛸狩」という言葉が友達間にだいぶ
流行り出した。この間卒業して以来足を
擂木のようにして世の中への出口を探して歩いている敬太郎に会うたびに、彼らはどうだね蛸狩は成功したかいと聞くのが常になっていたくらいである。
南洋の蛸狩はいかな敬太郎にもちと
奇抜過ぎるので、
真面目に思い立つ勇気も出なかったが、
新嘉坡の
護謨林栽培などは学生のうちすでに
目論んで見た事がある。当時敬太郎は、
果しのない
広野を
埋め尽す
勢で何百万本という護謨の樹が茂っている真中に、一階建のバンガローを
拵えて、その中に栽培監督者としての自分が
朝夕起臥する様を想像してやまなかった。彼はバンガローの
床をわざと裸にして、その上に大きな虎の皮を敷くつもりであった。壁には水牛の角を塗り込んで、それに鉄砲をかけ、なおその下に錦の袋に入れたままの日本刀を置くはずにした。そうして自分は真白なターバンをぐるぐる頭へ巻きつけて、広いヴェランダに
据えつけてある
籐椅子の上に寝そべりながら、強い
香のハヴァナをぷかりぷかりと
鷹揚に吹かす気でいた。それのみか、彼の足の下には、スマタラ産の黒猫、――
天鵞絨のような毛並と
黄金そのままの眼と、それから身の
丈よりもよほど長い
尻尾を持った怪しい猫が、背中を山のごとく高くして
蹲踞まっている訳になっていた。彼はあらゆる想像の光景をかく自分に満足の行くようにあらかじめ整えた後で、いよいよ実際の
算盤に取りかかったのである。ところが案外なもので、まず
護謨を植えるための地面を借り受けるのにだいぶんな
手数と暇が
要る。それから借りた地面を切り開くのが容易の事でない。次に地ならし植えつけに費やすべき
金高が以外に多い。その上絶えず人夫を使って草取をした上で、六年間
苗木の生長するのを馬鹿見たようにじっと指を
銜えて見ていなければならない段になって、敬太郎はすでに充分退却に価すると思い出したところへ、彼にいろいろの事情を教えてくれた護謨
通は、今しばらくすると、あの辺でできる護謨の供給が、世界の需用以上に超過して、栽培者は非常の恐慌を起すに違ないと
威嚇したので、彼はその後護謨の護の字も口にしなくなってしまったのである。
けれども彼の異常に対する
嗜欲はなかなかこれくらいの事で冷却しそうには見えなかった。彼は都の真中にいて、遠くの人や国を想像の夢に
上して楽しんでいるばかりでなく、毎日電車の中で乗り合せる普通の女だの、または散歩の道すがら行き逢う実際の男だのを見てさえ、ことごとく尋常以上に
奇なあるものを、マントの裏かコートの
袖に忍ばしていはしないだろうかと考える。そうしてどうかこのマントやコートを
引っくり返してその奇なところをただ
一目で好いからちらりと見た上、後は知らん顔をして済ましていたいような気になる。
敬太郎のこの傾向は、彼がまだ高等学校にいた時分、英語の教師が教科書としてスチーヴンソンの
新亜剌比亜物語という書物を読ました頃からだんだん頭を持ち上げ出したように思われる。それまで彼は
大の
英語嫌であったのに、この書物を読むようになってから、一回も下読を怠らずに、あてられさえすれば、必ず起立して訳を付けたのでも、彼がいかにそれを面白がっていたかが分る。ある時彼は興奮の余り小説と事実の区別を忘れて、十九世紀の
倫敦に実際こんな事があったんでしょうかと
真面目な顔をして教師に質問を掛けた。その教師はついこの間英国から帰ったばかりの男であったが、黒いメルトンのモーニングの尻から麻の
手帛を出して鼻の下を
拭いながら、十九世紀どころか今でもあるでしょう。倫敦という所は実際不思議な都ですと答えた。敬太郎の眼はその時驚嘆の光を放った。すると教師は
椅子を離れてこんな事を云った。
「もっとも書き手が書き手だから観察も奇抜だし、事件の解釈も
自から普通の人間とは違うんで、こんなものができ上ったのかも知れません。実際スチーヴンソンという人は
辻待の馬車を見てさえ、そこに一種のロマンスを見出すという人ですから」
辻馬車とロマンスに至って敬太郎は少し分らなくなったが、思い切ってその説明を聞いて見て、始めてなるほどと悟った。それから以後は、この平凡
極まる東京のどこにでもごろごろして、最も平凡を極めている辻待の人力車を見るたんびに、この車だって
昨夕人殺しをするための客を
出刃ぐるみ乗せていっさんに
馳けたのかも知れないと考えたり、または
追手の思わくとは反対の方角へ走る汽車の時間に間に合うように、美くしい女を
幌の中に隠して、どこかの
停車場へ飛ばしたのかも分らないと思ったりして、一人で
怖がるやら、面白がるやらしきりに喜こんでいた。
そんな想像を重ねるにつけ、これほど込み入った世の中だから、たとい自分の推測通りとまで行かなくっても、どこか尋常と変った新らしい調子を、彼の神経にはっと響かせ得るような事件に、一度ぐらいは
出会って
然るべきはずだという考えが自然と起ってきた。ところが彼の生活は学校を出て以来ただ電車に乗るのと、紹介状を貰って知らない人を訪問するくらいのもので、その他に何といって取り立てて云うべきほどの小説は一つもなかった。彼は毎日見る下宿の下女の顔に
飽き果てた。毎日食う下宿の
菜にも飽き果てた。せめてこの単調を破るために、満鉄の方ができるとか、朝鮮の方が
纏まるとかすれば、まだ衣食の
途以外に、幾分かの
刺戟が得られるのだけれども、両方共二三日前に当分
望がないと判然して見ると、ますます眼前の平凡が自分の無能力と密切な関係でもあるかのように思われて、ひどくぼんやりしてしまった。それで
糊口のための奔走はもちろんの事、往来に落ちたばら
銭を
探して歩くような
長閑な気分で、電車に乗って、漫然と人事上の探検を試みる勇気もなくなって、昨夕はさほど好きでもない
麦酒を大いに飲んで寝たのである。
こんな時に、非凡の経験に富んだ平凡人とでも評しなければ評しようのない森本の顔を見るのは、敬太郎にとってすでに一種の興奮であった。巻紙を買う
御供までして彼を自分の
室へ連れ込んだのはこれがためである。
森本は
窓際へ坐ってしばらく下の方を
眺めていた。
「あなたの
室から見た
景色は相変らず好うがすね、ことに今日は好い。あの洗い落したような空の
裾に、色づいた樹が、所々
暖たかく
塊まっている間から赤い
煉瓦が見える様子は、たしかに
画になりそうですね」
「そうですね」
敬太郎はやむを得ずこういう答をした。すると森本は自分が
肱を乗せている窓から一尺ばかり出張った縁板を見て、
「ここはどうしても
盆栽の一つや二つ
載せておかないと納まらない所ですよ」と云った。
敬太郎はなるほどそんなものかと思ったけれども、もう「そうですね」を繰り返す勇気も出なかったので、
「あなたは画や盆栽まで解るんですか」と聞いた。
「解るんですかは少し恐れ入りましたね。全く
柄にないんだから、そう聞かれても仕方はないが、――しかし田川さんの前だが、こう見えて盆栽も
弄くるし、金魚も飼うし、一時は画も好きでよく
描いたもんですよ」
「何でもやるんですね」
「何でも屋に
碌なものなしで、とうとうこんなもんになっちゃった」
森本はそう云い切って、自分の過去を悔ゆるでもなし、またその現在を悲観するでもなし、ほとんど鋭どい表情のどこにも出ていない不断の顔をして敬太郎を見た。
「しかし僕はあなた見たように変化の多い経験を、少しでも好いから
甞めて見たいといつでもそう思っているんです」と敬太郎が
真面目に云いかけると、森本はあたかも酔っ払のように、右の手を自分の顔の前へ出して、
大袈裟に右左に振って見せた。
「それがごく悪い。若い内――と云ったところで、あなたと僕はそう年も違っていないようだが、――とにかく若い内は何でも変った事がしてみたいもんでね。ところがその変った事を仕尽した上で、考えて見ると、何だ馬鹿らしい、こんな事ならしない方がよっぽど増しだと思うだけでさあ。あなたなんざ、これからの
身体だ。おとなしくさえしていりゃどんな発展でもできようってもんだから、
肝心なところで
山気だの
謀叛気だのって低気圧を起しちゃ親不孝に当らあね。――時にどうです、この間から伺がおう伺がおうと思って、つい忙がしくって、伺がわずにいたんだが、何か好い口は
見付かりましたか」
正直な敬太郎は
憮然としてありのままを答えた。そうして、とうてい当分これという
期待もないから、奔走をやめて少し休養するつもりであるとつけ加えた。森本はちょっと驚ろいたような顔をした。
「へえー、近頃は大学を卒業しても、ちょっくらちょいと口が見付からないもんですかねえ。よっぽど不景気なんだね。もっとも明治も四十何年というんだから、そのはずには違ないが」
森本はここまで来て少し首を
傾げて、自分の哲理を自分で
噛みしめるような
素振をした。敬太郎は相手の様子を見て、それほど
滑稽とも思わなかったが、心の内で、この男は心得があってわざとこんな
言葉遣をするのだろうか、または無学の結果こうよりほか言い現わす
手段を知らないのだろうかと考えた。すると森本が
傾げた首を急に
竪に直した。
「どうです、
御厭でなきゃ、鉄道の方へでも
御出なすっちゃ。何なら話して見ましょうか」
いかな
浪漫的な敬太郎もこの男に頼んだら好い地位が得られるとは想像し得なかった。けれどもさも軽々と云って
退ける彼の
愛嬌を、
翻弄と解釈するほどの
僻ももたなかった。
拠処なく苦笑しながら、下女を呼んで、
「森本さんの
御膳もここへ持って来るんだ」と云いつけて、酒を命じた。
森本は近頃
身体のために酒を慎しんでいると断わりながら、
注いでやりさえすれば、すぐ
猪口を
空にした。しまいにはもう止しましょうという口の下から、自分で徳利の尻を持ち上げた。彼は平生から閑静なうちにどこか気楽な風を帯びている男であったが、猪口を重ねるにつれて、その閑静が
熱ってくる、気楽はしだいしだいに
膨脹するように見えた。自分でも「こうなりゃ
併呑自若たるもんだ。
明日免職になったって驚ろくんじゃない」と威張り出した。敬太郎が飲めない口なので、時々思い出すように、
盃に
唇を付けて、
付合っているのを見て、彼は、
「田川さん、あなた本当に
飲けないんですか、不思議ですね。酒を飲まない
癖に冒険を愛するなんて。あらゆる冒険は酒に始まるんです。そうして女に終るんです」と云った。彼はつい今まで自分の過去を
碌でなしのように
蹴なしていたのに、酔ったら急に模様が変って、
後光が
逆に射すとでも評すべき態度で、
気を
吐き始めた。そうしてそれが大抵は失敗の気
であった。しかも敬太郎を前に置いて、
「あなたなんざあ、失礼ながら、まだ学校を出たばかりで本当の世の中は御存じないんだからね。いくら学士でございの、博士で
候のって、肩書ばかり振り廻したって、僕は
慴えないつもりだ。こっちゃちゃんと実地を踏んで来ているんだもの」と、さっきまで教育に対して多大の尊敬を払っていた事はまるで忘れたような風で、無遠慮なきめつけ方をした。そうかと思うと
噫のような
溜息を
洩らして自分の無学をさも
情なさそうに
恨んだ。
「まあ手っ取り早く云やあ、この世の中を猿
同然渡って来たんでさあ。こう申しちゃおかしいが、あなたより十層倍の経験はたしかに積んでるつもりです。それでいて、いまだにこの通り
解脱ができないのは、全く無学すなわち学がないからです。もっとも教育があっちゃ、こうむやみやたらと変化する訳にも行かないようなもんかも知れませんよ」
敬太郎はさっきから気の毒なる先覚者とでも云ったように相手を考えて、その云う事に相応の注意を払って聞いていたが、なまじい酒を飲ましたためか、今日はいつもより気
だの
愚痴だのが多くって、例のように純粋の興味が
湧かないのを残念に思った。好い加減に酒を切り上げて見たが、やっぱり物足らなかった。それで新らしく入れた茶を
勧めながら、
「あなたの経歴談はいつ聞いても面白い。そればかりでなく、僕のような世間見ずは、御話を伺うたんびに利益を得ると思って感謝しているんだが、あなたが今までやって来た生活のうちで、最も愉快だったのは何ですか」と聞いて見た。森本は熱い茶を吹き吹き、少し充血した眼を二三度ぱちつかせて黙っていた。やがて深い
湯呑を干してしまうとこう云った。
「そうですね。やった
後で考えると、みんな面白いし、またみんなつまらないし、自分じゃちょっと見分がつかないんだが。――全体愉快ってえのは、その、
女気のある方を指すんですか」
「そう云う訳でもないんですが、あったって
差支ありません」
「なんて、実はそっちの方が聞きたいんでしょう。――しかし
雑談抜きでね、田川さん。面白い面白くないはさておいて、あれほど
呑気な生活は世界にまたとなかろうという奴をやった
覚があるんですよ。そいつを一つ話しましょうか、御茶受の代りに」
敬太郎は一も二もなく所望した。森本は「じゃあちょっと小便をして来る」と云って立ちかけたが、「その代り断わっておくが女気はありませんよ。女気どころか、第一人間の
気がないんだもの」と念を押して廊下の外へ出て行った。敬太郎は一種の好奇心を
抱いて、彼の帰るのを待ち受けた。
ところが五分待っても十分待っても冒険家は容易に顔を現わさなかった。
敬太郎はとうとうじっと我慢しきれなくなって、自分で下へ降りて用場を探して見ると、森本の影も形も見えない。念のためまた
階段を
上って、彼の部屋の前まで来ると、
障子を五六寸明け放したまま、真中に手枕をしてごろりと向うむきに
転がっているものがすなわち彼であった。「森本さん、森本さん」と二三度呼んで見たが、なかなか動きそうにないので、さすがの敬太郎もむっとして、いきなり
室に
這入り込むや否や、森本の首筋を
攫んで強く
揺振った。森本は不意に
蜂にでも
螫されたように、あっと云って
半ば
跳ね起きた。けれども振り返って敬太郎の顔を見ると同時に、またすぐ
夢現のたるい眼つきに戻って、
「やああなたですか。あんまりちょうだいしたせいか、少し気分が変になったもんだから、ここへ来てちょっと休んだらつい眠くなって」と弁解する様子に、これといって
他を
愚弄する
体もないので、敬太郎もつい
怒れなくなった。しかし彼の待ち設けた冒険談はこれで
一頓挫を
来したも同然なので、一人自分の
室に引取ろうとすると、森本は「どうもすみません、御苦労様でした」と云いながら、また
後から敬太郎について来た。そうして
先刻まで自分の
坐っていた
座蒲団の上に、きちんと
膝を折って、
「じゃいよいよ世界に類のない呑気生活の御話でも始めますかな」と云った。
森本の呑気生活というのは、今から十五六年
前彼が技手に雇われて、北海道の内地を測量して歩いた時の話であった。
固より人間のいない所に
天幕を張って寝起をして、用が片づきしだい、また天幕を
担いで、先へ進むのだから、当人の断った通り、とうてい女っ
気のありようはずはなかった。
「何しろ高さ二丈もある
熊笹を切り開いて
途をつけるんですからね」と彼は右手を額より高く上げて、いかに熊笹が高く茂っていたかを形容した。その切り開いた途の両側に、朝起きて見ると、
蝮蛇がとぐろを巻いて日光を
鱗の上に受けている。それを遠くから棒で
抑えておいて、
傍へ寄って
打ち殺して肉を焼いて食うのだと彼は話した。敬太郎がどんな味がすると聞くと、森本はよく思い出せないが、何でも
魚肉と
獣肉の間ぐらいだろうと答えた。
天幕の中へは熊笹の葉と小枝を山のように積んで、その上に疲れた
身体を
埋めぬばかりに投げかけるのが例であるが、時には外へ出て
焚火をして、大きな熊を眼の前に見る事もあった。虫が多いので
蚊帳は
始終釣っていた。ある時その蚊帳を
担いで谷川へ下りて、何とかいう川魚を
掬って帰ったら、その晩から蚊帳が急に
腥さくなって困った。――すべてこれらは森本のいわゆる呑気生活の一部分であった。
彼はまた山であらゆる
茸を
採って食ったそうである。ます
茸というのは
広葢ほどの大きさで、切って
味噌汁の中へ入れて煮るとまるで
蒲鉾のようだとか、
月見茸というのは
一抱もあるけれども、これは残念だが食えないとか、
鼠茸というのは三つ葉の根のようで
可愛らしいとか、なかなか
精しい説明をした。大きな
笠の中へ、
野葡萄をいっぱい採って来て、そればかり
貪ぼっていたものだから、しまいに
舌が荒れて、飯が食えなくなって困ったという話もついでにつけ加えた。
食う話ばかりかと思うと、また一週間絶食をしたという
悲酸な物語もあった。それはみんなの
糧が尽きたので、人足が村まで米を取りに行った留守中に大変な豪雨があった時の事である。元々村へ出るには、
沢辺まで降りて、沢伝いに里へ下るのだから、
俄雨で谷が急にいっぱいになったが最後、米など
背負って帰れる訳のものでない。森本は腹が減って仕方がないから、じっと
仰向に寝て、ただ空を
眺めていたところが、しまいにぼんやりし出して、夜も昼もめちゃくちゃに分らなくなったそうである。
「そう長い間飲まず食わずじゃ、
両便とも
留まるでしょう」と敬太郎が聞くと、「いえ何、やっぱりありますよ」と森本はすこぶる気楽そうに答えた。
敬太郎は微笑せざるを得なかった。しかしそれよりもおかしく感じたのは、森本の形容した大風の勢であった。彼らの一行が測量の途次
茫々たる
芒原の中で、突然
面も向けられないほどの風に出会った時、彼らは
四つ
這になって、つい近所の密林の中へ逃げ込んだところが、
一抱も
二抱もある大木の枝も幹も
凄まじい音を立てて、一度に風から
痛振られるので、その動揺が根に伝わって、彼らの踏んでいる地面が、地震の時のようにぐらぐらしたと云うのである。
「それじゃたとい林の中へ逃げ込んだところで、立っている訳に行かないでしょう」と敬太郎が聞くと、「無論突伏していました」という答であったが、いくら
非道い風だって、土の中に張った大木の根が動いて、地震を起すほどの
勢があろうとは思えなかったので、敬太郎は覚えず吹き出してしまった。すると森本もまるで
他事のように同じく大きな声を出して笑い始めたが、それがすむと、急に
真面目になって、敬太郎の口を抑えるような手つきをした。
「おかしいが本当です。どうせ常識以下に飛び離れた経験をするくらいの僕だから、
不中用にゃあ違ないが本当です。――もっともあなた見たいに学のあるものが聞きゃあ全く
嘘のような話さね。だが田川さん、世の中には大風に限らず随分面白い事がたくさんあるし、またあなたなんざあその面白い事にぶつかろうぶつかろうと苦労して
御出なさる御様子だが、大学を卒業しちゃもう駄目ですよ。いざとなると大抵は自分の身分を思いますからね。よしんば自分でいくら身を落すつもりでかかっても、まさか親の
敵討じゃなしね、そう真剣に自分の
位地を
棄てて
漂浪するほどの
物数奇も今の世にはありませんからね。第一
傍がそうさせないから大丈夫です」
敬太郎は森本のこの言葉を、失意のようにもまた得意のようにも聞いた。そうして腹の中で、なるほど
常調以上の変った生活は、普通の学士などには送れないかも知れないと考えた。ところがそれを自分にさえ
抑えたい気がするので、わざと抵抗するような語気で、
「だって、僕は学校を出たには出たが、いまだに位置などは無いんですぜ。あなたは位置位置ってしきりに云うが。――実際位置の奔走にも
厭々してしまった」と投げ出すように云った。すると森本は比較的
厳粛な顔をして、
「あなたのは位置がなくってある。僕のは位置があって無い。それだけが違うんです」と若いものに教える態度で答えた。けれども敬太郎にはこの
御籤めいた言葉がさほどの意義を
齎さなかった。二人は少しの間
煙草を吹かして黙っていた。
「僕もね」とやがて森本が口を開いた。「僕もね、こうやって三年越、鉄道の方へ出ているが、もう
厭になったから
近々罷めようと思うんです。もっとも僕の方で罷めなけりゃ向うで罷めるだけなんだからね。三年越と云やあ僕にしちゃ長い方でさあ」
敬太郎は罷めるが好かろうとも罷めないが好かろうとも云わなかった。自分が罷めた経験も罷められた閲歴もないので、
他の進退などはどうでも構わないような気がした。ただ話が理に落ちて面白くないという自覚だけあった。森本はそれと察したか、急に調子を
易えて、世間話を快活に十分ほどした
後で、「いやどうも
御馳走でした。――とにかく田川さん若いうちの事ですよ、何をやるのも」と、あたかも自分が五十ぐらいの老人のようなことを云って帰って行った。
それから一週間ばかりの間、田川は落ちついて森本と話す機会を
有たなかったが、二人共同じ下宿にいるのだから、朝か晩に彼の姿を認めない事はほとんど
稀であった。顔を洗う所などで落ち合う時、敬太郎は彼の着ている
黒襟の掛ったドテラが常に目についた。彼はまた
襟開の広い新調の
背広を着て、妙な
洋杖を突いて、役所から帰るとよく出て行った。その洋杖が土間の瀬戸物製の
傘入に入れてあると、ははあ先生今日は
宅にいるなと思いながら敬太郎は常に下宿の
門を
出入した。するとその
洋杖がちゃんと例の所に立ててあるのに、森本の姿が不意に見えなくなった。
一日二日はつい気がつかずに過ぎたが、五日目ぐらいになっても、まだ森本の影が見えないので、
敬太郎はようやく不審の念を起し出した。給仕に来る下女に聞いて見ると、彼は役所の用でどこかへ出張したのだそうである。
固より役人である以上、いつ出張しないとも限らないが、敬太郎は平生からこの男を
相して、何でも
停車場の構内で、貨物の発送係ぐらいを勤めているに違ないと判じていたものだから、出張と聞いて少し案外な心持がした。けれども立つ時すでに五六日と断って行ったのだから、今日か
翌日は帰るはずだと下女に云われて見ると、なるほどそうかとも思った。ところが予定の時日が過ぎても、森本の変な洋杖が依然として傘入の中にあるのみで、当人のドテラ姿はいっこう洗面所へ現われなかった。
しまいに宿の
神さんが来て、森本さんから何か
御音信がございましたかと聞いた。敬太郎は自分の方で下へ聞きに行こうと思っていたところだと答えた。神さんは多少心元ない色を
梟のような丸い眼の
中に
漂よわせて出て行った。それから一週間ほど
経っても森本はまだ帰らなかった。敬太郎も再び不審を
抱き始めた。帳場の前を通る時に、まだですかとわざと立ち留って聞く事さえあった。けれどもその頃は自分がまた思い返して、位置の運動を始め出した
出花なので、自然その方にばかり頭を専領される日が多いため、これより以上立ち入って何物をも探る事をあえてしなかった。実を云うと、彼は森本の予言通り、衣食の
計のために、好奇家の権利を放棄したのである。
すると或晩主人がちょっと御邪魔をしても好いかと断わりながら
障子を開けて
這入って来た。彼は腰から古めかしい
煙草入を取り出して、その
筒を抜く時ぽんという音をさせた。それから銀の
煙管に
刻草を詰めて、濃い煙を巧者に鼻の穴から
迸しらせた。こうゆっくり構える彼の本意を、敬太郎は
判然向うからそうと切り出されるまで
覚らずに、どうも変だとばかり考えていた。
「実は少し御願があって上ったんですが」と云った主人はやや小声になって、「森本さんのいらっしゃる所をどうか教えて頂く訳に参りますまいか、けっしてあなたに御迷惑のかかるような事は致しませんから」と
藪から棒につけ加えた。
敬太郎はこの意外の質問を受けて、しばらくは何という
挨拶も口へ出なかったが、ようやく、「いったいどう云う訳なんです」と主人の顔を
覗き込んだ。そうして彼の意味を読もうとしたが、主人は煙管が詰ったと見えて、敬太郎の
火箸で
雁首を掘っていた。それが済んでから
羅宇の疎通をぷっぷっ試した上、そろそろと説明に取りかかった。
主人の云うところによると、森本は下宿代が
此家に六カ月ばかり
滞っているのだそうである。が、三年越しいる客ではあるし、遊んでいる人じゃなし、
此年の末にはどうかするからという当人の言訳を信用して、別段催促もしなかったところへ、今度の旅行になった。
家のものは
固より出張とばかり信じていたが、その
日限が過ぎていくら待っても帰らないのみか、どこからも何の
音信も来ないので、しまいにとうとう不審を起した。それで一方に本人の
室を調べると共に、一方に新橋へ行って出張先を聞き合せた。ところが室の方は荷物もそのままで、彼のおった時分と何の変りもなかったが、新橋の答はまた案外であった。出張したとばかり思っていた森本は、先月限り
罷められていたそうである。
「それであなたは平生森本さんと御懇意の間柄でいらっしゃるんだから、あなたに伺ったら多分どこに
御出か分るだろうと思って上ったような訳で。けっしてあなたに森本さんの分をどうのこうのと申し上げるつもりではないのですから、どうか居所だけ知らして頂けますまいか」
敬太郎はこの
失踪者の友人として、彼の
香ばしからぬ行為に立ち入った関係でもあるかのごとく主人から取扱われるのをはなはだ迷惑に思った。なるほど事実をいえば、ついこの間まである意味の
嘆賞を
懐にして森本に近づいていたには違ないが、こんな実際問題にまで秘密の打ち合せがあるように
見做されては、未来を
有つ青年として大いなる不面目だと感じた。
正直な彼は主人の
疳違を腹の中で
怒った。けれども怒る前にまず冷たい
青大将でも握らせられたような不気味さを覚えた。この妙に落ちつき払って古風な
煙草入から
刻みを
撮み出しては
雁首へ詰める男の誤解は、正解と同じような不安を
敬太郎に与えたのである。彼は談判に伴なう一種の芸術のごとく巧みに
煙管を扱かう人であった。敬太郎は彼の様子をしばらく
眺めていた。そうしてただ知らないというよりほかに、向うの疑惑を晴らす方法がないのを残念に思った。はたして主人は容易に煙草入を腰へ納めなかった。煙管を筒へ入れて見たり出して見たりした。そのたびに例の通りぽんぽんという音がした。敬太郎はしまいにどうしてもこの音を
退治てやりたいような気がし出した。
「僕はね、御承知の通り学校を出たばかりでまだ一定の職業もなにもない貧書生だが、これでも少しは教育を受けた事のある男だ。森本のような浮浪の
徒といっしょに見られちゃ、少し体面にかかわる。いわんや
後暗い関係でもあるように邪推して、いくら知らないと云っても
執濃く疑っているのは
怪しからんじゃないか。君がそういう態度で、二年もいる客に対する気ならそれで好い。こっちにも
料簡がある。僕は過去二年の間君のうちに厄介になっているが、一カ月でも
宿料を
滞おらした事があるかい」
主人は無論敬太郎の人格に対して失礼に当るような疑を毛頭
抱いていないつもりであるという事を繰り返して述べた。そうして万一森本から音信でもあって、彼の居所が分ったらどうぞ忘れずに教えて
貰いたいと頼んだ末、もしさっき聞いた事が敬太郎の気に
障ったら、いくらでも
詫まるから勘弁してくれと云った。敬太郎は主人の
煙草入を早く腰に差させようと思って、単に
宜しいと答えた。主人はようやく談判の道具を
角帯の後へしまい込んだ。
室を出る時の彼の様子に、別段敬太郎を疑ぐる
気色も見えなかったので、敬太郎は怒ってやって好い事をしたと考えた。
それからしばらく経つと、森本の室に、いつの間にか新らしい客が
這入った。敬太郎は彼の荷物を主人がどう片づけたかについて不審を
抱いた。けれども主人がかの煙草入を差して談判に来て以来、森本の事はもう聞くまいと決心したので、腹の中はともかく、
上部は知らん顔をしていた。そうして依然としてできるようなまたできないような地位を、元ほど
焦燥らない程度ながらも、まず自分のやるべき第一の義務として、根気に
狩り
歩るいていた。
或る晩もその用で内幸町まで行って留守を
食ったのでやむを得ずまた電車で引き返すと、偶然向う側に
黄八丈の
袢天で赤ん坊を
負った婦人が乗り合せているのに気がついた。その女は
眉毛の細くて濃い、首筋の美くしくできた、どっちかと云えば
粋な部類に属する型だったが、どうしても袢天
負をするという
柄ではなかった。と云って、背中の子はたしかに自分の子に違ないと敬太郎は考えた。なおよく見ると
前垂の下から
格子縞か何かの
御召が出ているので、敬太郎はますます変に思った。
外面は雨なので、五六人の乗客は皆
傘をつぼめて
杖にしていた。女のは
黒蛇目であったが、冷たいものを手に持つのが
厭だと見えて、彼女はそれを自分の
側に立て掛けておいた。その畳んだ
蛇の
目の先に赤い
漆で
加留多と書いてあるのが敬太郎の眼に留った。
この
黒人だか
素人だか分らない女と、私生児だか普通の子だか怪しい赤ん坊と、濃い
眉を心持八の字に寄せて
俯目勝な白い顔と、
御召の着物と、黒蛇の目に
鮮かな加留多という文字とが
互違に敬太郎の神経を
刺戟した時、彼はふと森本といっしょになって子まで生んだという女の事を思い出した。森本自身の口から出た、「こういうと未練があるようでおかしいが、
顔質は悪い方じゃありませんでした。
眉毛の濃い、時々八の字を寄せて人に物を云う癖のある」といったような言葉をぽつぽつ頭の中で
憶い起しながら、加留多と書いた傘の
所有主を注意した。すると女はやがて電車を下りて雨の中に消えて行った。後に残った敬太郎は一人森本の顔や様子を心に描きつつ、運命が今彼をどこに連れ去ったろうかと考え考え下宿へ帰った。そうして自分の机の上に差出人の名前の書いてない一封の手紙を見出した。
好奇心に
駆られた
敬太郎は破るようにこの無名氏の書信を
披いて見た。すると
西洋罫紙の第一行目に、親愛なる田川君として下に森本よりとあるのが何より先に眼に入った。敬太郎はすぐまた封筒を取り上げた。彼は視線の角度を幾通りにも変えて、そこに消印の文字を読もうと
力めたが、肉が薄いのでどうしても判断がつかなかった。やむを得ず再び本文に立ち帰って、まずそれから片づける事にした。本文にはこうあった。
「突然消えたんで定めて驚ろいたでしょう。あなたは驚ろかないにしても、
雷獣とそうしてズク(森本は平生下宿の主人夫婦を、雷獣とそうしてズクと呼んでいた。ズクは耳ズクの略である)彼ら両人は驚ろいたに違ない。打ち明けた御話をすると、実は少し下宿代を
滞おらしていたので、話をしたら雷獣とそうしてズクが面倒をいうだろうと思って、わざと断らずに、自由行動を取りました。僕の
室に置いてある荷物を始末したら――
行李の中には衣類その他がすっかり
這入っていますから、相当の金になるだろうと思うんです。だから両人にあなたから右を売るなり着るなりしろとおっしゃっていただきたい。もっとも彼雷獣は御承知のごとき
曲者故僕の許諾を待たずして、とっくの昔にそう取計っているかも知れない。のみならず、こっちからそう
穏便に出ると、まだ残っている僕の尻を、あなたに拭って貰いたいなどと、とんでもない難題を持ちかけるかも知れませんが、それにはけっして取り合っちゃいけません。あなたのように高等教育を受けて世の中へ出たての人はとかく雷獣
輩が
食物にしたがるものですから、その
辺はよく御注意なさらないといけません。僕だって教育こそないが、借金を踏んじゃ
善くないくらいの事はまさかに心得ています。来年になればきっと返してやるつもりです。僕に意外な経歴が数々あるからと云って、あなたにこの点まで疑われては、せっかくの親友を一人失くしたも同様、はなはだ
遺憾の
至だから、どうか雷獣ごときもののために僕を誤解しないように願います」
森本は次に自分が今大連で電気公園の娯楽がかりを勤めている
由を書いて、来年の春には活動写真買入の用向を帯びて、是非共出京するはずだから、その節は御地で久しぶりに御目にかかるのを今から
楽にして待っているとつけ加えていた。そうしてその
後へ自分が旅行した
満洲地方の景況をさも面白そうに一口ぐらいずつ
吹聴していた。中で最も敬太郎を驚ろかしたのは、
長春とかにある
博打場の光景で、これはかつて馬賊の大将をしたというさる日本人の経営に係るものだが、そこへ行って見ると、何百人と集まる汚ない支那人が、折詰のようにぎっしり詰って、
血眼になりながら、一種の
臭気を吐き合っているのだそうである。しかも長春の富豪が、
慰み半分わざと
垢だらけな着物を着て、こっそりここへ
出入するというんだから、森本だってどんな
真似をしたか分らないと敬太郎は考えた。
手紙の末段には
盆栽の事が書いてあった。「あの梅の鉢は
動坂の植木屋で買ったので、幹はそれほど古くないが、下宿の窓などに
載せておいて
朝夕眺めるにはちょうど手頃のものです。あれを
献上するからあなたの
室へ持っていらっしゃい。もっとも
雷獣とそうしてズクは両人共
極めて不風流
故、床の間の上へ
据えたなり放っておいて、もう枯らしてしまったかも知れません。それから上り口の土間の
傘入に、僕の
洋杖が差さっているはずです。あれも
価格から云えばけっして高く踏めるものではありませんが、僕の愛用したものだから、紀念のため是非あなたに進上したいと思います。いかな雷獣とそうしてズクもあの洋杖をあなたが取ったって、まさか故障は申し立てますまい。だからけっして御遠慮なさらずと好い。取って御使いなさい。――満洲ことに大連ははなはだ好い所です。あなたのような有為の青年が発展すべき所は当分ほかに無いでしょう。思い切って是非いらっしゃいませんか。僕はこっちへ来て以来満鉄の方にもだいぶ知人ができたから、もしあなたが本当に来る気なら、相当の御世話はできるつもりです。ただしその節は前もってちょっと御通知を願います。さよなら」
敬太郎は手紙を畳んで机の
抽出へ入れたなり、主人夫婦へは森本の消息について、何事も語らなかった。洋杖は依然として、傘入の中に差さっていた。敬太郎は
出入の
都度、それを見るたびに一種妙な感に打たれた。
敬太郎に
須永という友達があった。これは軍人の子でありながら軍人が
大嫌で、法律を
修めながら役人にも会社員にもなる気のない、至って
退嬰主義の男であった。少くとも敬太郎にはそう見えた。もっとも父はよほど以前に死んだとかで、今では母とたった二人ぎり、
淋しいような、また
床しいような生活を送っている。父は主計官としてだいぶ好い地位にまで
昇った上、元来が
貨殖の道に明らかな人であっただけ、今では
母子共衣食の上に不安の
憂を知らない好い身分である。彼の退嬰主義も
半ばはこの安泰な境遇に
慣れて、奮闘の
刺戟を失った結果とも見られる。というものは、父が比較的立派な地位にいたせいか、彼には
世間体の好いばかりでなく、実際ためになる親類があって、いくらでも出世の世話をしてやろうというのに、彼は何だかだと手前勝手ばかり並べて、今もってぐずぐずしているのを見ても分る。
「そう
贅沢ばかり云ってちゃもったいない。
厭なら僕に譲るがいい」と敬太郎は
冗談半分に須永を
強請ることもあった。すると須永は
淋しそうなまた気の毒そうな微笑を
洩らして、「だって君じゃいけないんだから仕方がないよ」と断るのが常であった。断られる敬太郎は冗談にせよ好い心持はしなかった。おれはおれでどうかするという気概も起して見た。けれども根が
執念深くない
性質だから、これしきの事で須永に対する反抗心などが永く続きようはずがなかった。その上身分が定まらないので、気の落ちつく背景を
有たない彼は、朝から晩まで下宿の
一と
間にじっと坐っている苦痛に
堪えなかった。用がなくっても半日は是非出て
歩るいた。そうしてよく須永の
家を
訪問れた。一つはいつ行っても大抵留守の事がないので、行く敬太郎の方でも張合があったのかも知れない。
「
糊口も糊口だが
[#「糊口だが」は底本では「口糊だが」]、糊口より先に、何か驚嘆に
価する事件に会いたいと思ってるが、いくら電車に乗って方々歩いても全く駄目だね。
攫徒にさえ会わない」などと云うかと思うと、「君、教育は一種の権利かと思っていたら全く一種の
束縛だね。いくら学校を卒業したって食うに困るようじゃ何の権利かこれあらんやだ。それじゃ
位地はどうでもいいから思う存分勝手な
真似をして構わないかというと、やっぱり構うからね。
厭に人を束縛するよ教育が」と
忌々しそうに嘆息する事がある。須永は敬太郎のいずれの不平に対しても余り同情がないらしかった。第一彼の態度からしてが本当に
真面目なのだか、またはただ
空焦燥に焦燥いでいるのか見分がつかなかったのだろう。ある時須永はあまり敬太郎がこういうような浮ずった事ばかり言い
募るので、「それじゃ君はどんな事がして見たいのだ。衣食問題は別として」と聞いた。敬太郎は警視庁の探偵見たような事がして見たいと答えた。
「じゃするが好いじゃないか、訳ないこった」
「ところがそうは行かない」
敬太郎は本気になぜ自分に探偵ができないかという理由を述べた。元来探偵なるものは世間の表面から底へ
潜る社会の潜水夫のようなものだから、これほど人間の不思議を
攫んだ職業はたんとあるまい。それに彼らの立場は、ただ
他の暗黒面を観察するだけで、自分と堕落してかかる危険性を帯びる必要がないから、なおの事都合がいいには相違ないが、いかんせんその目的がすでに罪悪の
暴露にあるのだから、あらかじめ人を
陥れようとする成心の上に打ち立てられた職業である。そんな人の悪い事は自分にはできない。自分はただ人間の研究者
否人間の異常なる
機関が暗い
闇夜に運転する有様を、驚嘆の念をもって
眺めていたい。――こういうのが敬太郎の主意であった。須永は
逆わずに聞いていたが、これという批判の言葉も放たなかった。それが敬太郎には老成と見えながらその実平凡なのだとしか受取れなかった。しかも自分を相手にしないような落ちつき払った風のあるのを
悪く思って別れた。けれども五日と
経たないうちにまた須永の
宅へ行きたくなって、表へ出ると
直神田行の電車に乗った。
須永はもとの小川亭即ち今の天下堂という高い建物を
目標に、須田町の方から右へ小さな横町を
爪先上りに折れて、二三度不規則に曲った
極めて分り
悪い所にいた。
家並の立て込んだ裏通りだから、山の手と違って無論屋敷を広く取る余地はなかったが、それでも門から玄関まで二間ほど
御影の上を渡らなければ、
格子先の
電鈴に手が届かないくらいの
一構であった。もとから自分の
持家だったのを、一時親類の
某に貸したなり久しく過ぎたところへ、父が死んだので、
無人の
活計には場所も広さも
恰好だろうという母の意見から、
駿河台の本宅を売払ってここへ引移ったのである。もっともそれからだいぶ手を入れた。ほとんど新築したも同然さとかつて須永が説明して聞かせた時に、
敬太郎はなるほどそうかと思って、二階の床柱や
天井板を見廻した事がある。この二階は須永の書斎にするため、後から
継ぎ足したので、風が強く吹く日には少し揺れる気味はあるが、ほかにこれと云って非の打ちようのない
綺麗に明かな四畳六畳
二間つづきの
室であった。その室に
坐っていると、庭に植えた松の枝と、
手斧目の付いた
板塀の上の方と、それから忍び返しが見えた。縁に出て
手摺から見下した時、敬太郎は松の根に一面と咲いた
鷺草を眺めて、あの白いものは何だと須永に聞いた事もあった。
彼は須永を訪問してこの座敷に案内されるたびに、書生と若旦那の区別を判然と心に呼び起さざるを得なかった。そうしてこう小ぢんまり片づいて暮している須永を
軽蔑すると同時に、閑静ながら
余裕のあるこの友の生活を
羨やみもした。青年があんなでは駄目だと考えたり、またあんなにもなって見たいと思ったりして、今日も二つの矛盾からでき上った
斑な興味を
懐に、彼は須永を訪問したのである。
例の
小路を二三度曲折して、須永の
住居っている通りの角まで来ると、彼より先に一人の女が須永の門を
潜った。敬太郎はただ
一目その後姿を見ただけだったが、青年に共通の好奇心と彼に固有の
浪漫趣味とが力を合せて、引き
摺るように彼を同じ門前に急がせた。ちょっと
覗いて見ると、もう女の影は消えていた。例の通り
紅葉を
引手に張り込んだ
障子が、閑静に
閉っているだけなのを、敬太郎は少し案外にかつ物足らず
眺めていたが、やがて
沓脱の上に脱ぎ捨てた
下駄に気をつけた。その下駄はもちろん女ものであったが、行儀よく向うむきに
揃っているだけで、下女が手をかけて直した
迹が少しも見えない。敬太郎は下駄の
向と、思ったより早く
上ってしまった女の
所作とを
継ぎ合わして、これは取次を乞わずに、
独りで勝手に障子を開けて
這入った
極めて懇意の客だろうと推察した。でなければ
家のものだが、それでは少し変である。須永の
家は彼と彼の母と
仲働きと下女の
四人暮しである事を敬太郎はよく知っていたのである。
敬太郎は須永の門前にしばらく立っていた。今這入った女の動静をそっと塀の外から
窺うというよりも、むしろ須永とこの女がどんな
文に二人の
浪漫を織っているのだろうと想像するつもりであったが、やはり
聞耳は立てていた。けれども内はいつもの通りしんとしていた。
艶めいた女の声どころか、
咳嗽一つ聞えなかった。
「
許嫁かな」
敬太郎はまず第一にこう考えたが、彼の想像はそのくらいで落ちつくほど、訓練を受けていなかった。――母は仲働を連れて親類へ行ったから今日は留守である。
飯焚は下女部屋に引き下がっている。須永と女とは今差向いで何か
私語いている。――はたしてそうだとするといつものように
格子戸をがらりと開けて頼むと大きな声を出すのも変なものである。あるいは須永も母も仲働もいっしょに出たかも知れない。おさんはきっと
昼寝をしている。女はそこへ
這入ったのである。とすれば泥棒である。このまま引返してはすまない。――敬太郎は
狐憑のようにのそりと立っていた。
すると二階の
障子がすうと
開いて、青い色の
硝子瓶を
提げた
須永の姿が不意に
縁側へ現われたので
敬太郎はちょっと
吃驚した。
「何をしているんだ。落し物でもしたのかい」と上から不思議そうに聞きかける須永を見ると、彼は
咽喉の
周囲に白いフラネルを
捲いていた。手に
提げたのは
含嗽剤らしい。敬太郎は上を向いて、
風邪を引いたのかとか何とか二三言葉を
換わしたが、依然として表に立ったまま、動こうともしなかった。須永はしまいに這入れと云った。敬太郎はわざと這入っていいかと念を入れて聞き返した。須永はほとんどその意味を
覚らない人のごとく、軽く
首肯いたぎり障子の内に引き込んでしまった。
階段を
上る時、敬太郎は奥の部屋で
微かに
衣摺の音がするような気がした。二階には今まで須永の羽織っていたらしい
黒八丈の
襟の掛ったどてらが脱ぎ捨ててあるだけで、ほかに平生と変ったところはどこにも認められなかった。敬太郎の性質から云っても、彼の須永に対する交情から云っても、これほど気にかかる女の事を、率直に切り出して聞けないはずはなかったのだが、今までにどこか罪な想像を
逞ましくしたという
疚ましさもあり、また
面と向ってすぐとは云い
悪い皮肉な
覘を付けた自覚もあるので、今しがた君の
家へ這入った女は全体何者だと無邪気に尋ねる勇気も出なかった。かえって自分の先へ先へと走りたがる心を
圧し隠すような風に、
「空想はもう当分やめだ。それよりか口の方が大事だからね」と云って、
兼て須永から聞いている
内幸町の叔父さんという人に、一応そういう方の用向で会っておきたいから紹介してくれと
真面目に頼んだ。叔父というのは須永の母の妹の
連合で、官吏から実業界へ這入って、今では四つか五つの会社に関係を
有っている相当な位地の人であったが、須永はその叔父の力を
藉りてどうしようという
料簡もないと見えて、「叔父がいろいろ云ってくれるけれども、僕は
余進まないから」と、かつて敬太郎に話した事があったのを、敬太郎は覚えていたのである。
須永は今朝すでにその叔父に会うはずであったが、
咽喉を痛めたため、外出を見合せたのだそうで、四五日内には大抵行けるだろうから、その時には是非話して見ようと答えたあとで、「叔父も忙がしい
身体だしね、それに方々から頼まれるようだから、きっととは受合われないが、まあ会って見たまえ」と念のためだか何だかつけ加えた。余り
望を置き過ぎられては困るというのだろうと敬太郎は解釈したが、それでも会わないよりは増しだぐらいに考えて、例に似ず
宜しく頼む気になった。が、口で頼むほど腹の中では心配も苦労もしていなかった。
元来彼が卒業後相当の地位を求めるために、腐心し運動し奔走し、今もなおしつつあるのは、当人の公言するごとく
佯りなき事実ではあるが、いまだに
成効の
曙光を拝まないと云って、さも苦しそうな声を出して見せるうちには、少なくとも五割方の
懸値が
籠っていた。彼は須永のような一人息子ではなかったが、(妹が片づいて、)母一人残っているところは両方共同じであった。彼は須永のように地面家作の所有主でない代りに、国に少し
田地を
有っていた。
固より大した
穀高になるというほどのものでもないが、
俵がいくらというきまった金に毎年替えられるので、二十や三十の下宿代に窮する身分ではなかった。その上女親の甘いのにつけ込んで、自分で自分の身を喰うような臨時費を請求した事も今までに一度や二度ではなかった。だから位地位地と云って騒ぐのが、全くの
空騒でないにしても、郷党だの
朋友だのまたは自分だのに対する虚栄心に
煽られている事はたしかであった。そんなら学校にいるうちもっと勉強して好い成績でも取っておきそうなものだのに、そこが
浪漫家だけあって、学課はなるべく怠けよう怠けようと心がけて通して来た結果、すこぶる
鮮やかならぬ及第をしてしまったのである。
それで約一時間ほど
須永と話す間にも、
敬太郎は位地とか衣食とかいう苦しい問題を自分と進んで持ち出しておきながら、やっぱり
先刻見た
後姿の女の事が気に掛って、
肝心の世渡りの方には口先ほど
真面目になれなかった。一度
下座敷で若々しい女の笑い声が聞えた時などは、誰か御客が来ているようだねと尋ねて見ようかしらんと考えたくらいである。ところがその考えている時間が、すでに自然をぶち
壊す道具になって、せっかくの問が
間外れになろうとしたので、とうとう口へ出さずにやめてしまった。
それでも須永の方ではなるべく敬太郎の好奇心に
媚びるような話題を持ち出した気でいた。彼は自分の住んでいる電車の裏通りが、いかに小さな家と細い
小路のために、
賽の
目のように区切られて、名も知らない都会人士の巣を形づくっているうちに、社会の上層に浮き上らない戯曲がほとんど
戸ごとに演ぜられていると云うような事実を敬太郎に告げた。
まず須永の五六軒先には日本橋辺の
金物屋の隠居の
妾がいる。その妾が
宮戸座とかへ出る役者を
情夫にしている。それを隠居が承知で黙っている。その向う横町に
代言だか
周旋屋だか分らない
小綺麗な
格子戸作りの
家があって、時々表へ女記者一名、女コック一名至急入用などという広告を
黒板へ書いて出す。そこへある時二十七八の美くしい女が、
襞を取った
紺綾の長いマントをすぽりと
被って、まるで西洋の看護婦という
服装をして来て職業の周旋を頼んだ。それが
其家の主人の
昔し書生をしていた家の御嬢さんなので、主人はもちろん妻君も驚ろいたという話がある。次に背中合せの裏通りへ出ると、
白髪頭で
廿ぐらいの妻君を持った高利貸がいる。人の評判では借金の
抵当に取った女房だそうである。その隣りの
博奕打が、大勢同類を寄せて、互に
血眼を
擦り合っている最中に、ねんね子で赤ん坊を
負ったかみさんが、勝負で夢中になっている亭主を
迎に来る事がある。かみさんが泣きながらどうかいっしょに帰ってくれというと、亭主は帰るには帰るが、もう一時間ほどして負けたものを取り返してから帰るという。するとかみさんはそんな意地を張れば張るほど負けるだけだから、是非今帰ってくれと
縋りつくように頼む。いや帰らない、いや帰れといって、往来の氷る夜中でも
四隣の
眠を驚ろかせる。……
須永の話をだんだん聞いているうちに、敬太郎はこういう実地小説のはびこる中に年来住み慣れて来た須永もまた人の見ないような芝居をこっそりやって、口を
拭ってすましているのかも知れないという気が強くなって来た。
固よりその推察の裏には
先刻見た後姿の女が薄い影を投げていた。「ついでに君の分も聞こうじゃないか」と切り込んで見たが、須永はふんと云って薄笑いをしただけであった。その後で簡単に「今日は
咽喉が痛いから」と云った。さも小説は
有っているが、君には話さないのだと云わんばかりの
挨拶に聞えた。
敬太郎が二階から玄関へ下りた時は、例の女下駄がもう見えなかった。帰ったのか、下駄箱へしまわしたのか、または気を
利かして隠したのか、彼にはまるで
見当がつかなかった。表へ出るや否や、どういう
料簡か彼はすぐ一軒の
煙草屋へ飛び込んだ。そうしてそこから一本の葉巻を
銜えて出て来た。それを吹かしながら須田町まで来て電車に乗ろうとする
途端に、喫煙御断りという社則を思い出したので、また万世橋の方へ歩いて行った。彼は本郷の下宿へ帰るまでこの葉巻を持たすつもりで、ゆっくりゆっくり足を運ばせながらなお須永の事を考えた。その須永はけっしていつものように単独には頭の中へは
這入って来なかった。考えるたびにきっと後姿の女がちらちら
跟いて来た。しまいに「本郷台町の三階から
遠眼鏡で世の中を
覗いていて、
浪漫的探険なんて気の利いた
真似ができるものか」と須永から
冷笑かされたような心持がし出した。
彼は
今日まで、俗にいう下町生活に
昵懇も趣味も
有ち得ない男であった。時たま日本橋の裏通りなどを通って、身を横にしなければ
潜れない
格子戸だの、
三和土の上から
訳もなくぶら下がっている
鉄灯籠だの、
上り
框の下を張り詰めた
綺麗に光る竹だの、杉だか何だか
日光が
透って赤く見えるほど薄っぺらな
障子の腰だのを眼にするたびに、いかにもせせこましそうな心持になる。こう万事がきちりと小さく整のってかつ光っていられては窮屈でたまらないと思う。これほど小ぢんまりと
几帳面に暮らして行く彼らは、おそらく食後に使う
楊枝の
削り
方まで気にかけているのではなかろうかと考える。そうしてそれがことごとく伝説的の法則に支配されて、ちょうど彼らの用いる
煙草盆のように、先祖代々順々に
拭き込まれた習慣を
笠に、恐るべく光っているのだろうと推察する。
須永の
家へ行って、用もない松へ大事そうな
雪除をした所や、狭い庭を
馬鹿丁寧に枯松葉で敷きつめた
景色などを見る時ですら、彼は繊細な江戸式の開花の
懐に、ぽうと育った
若旦那を
聯想しない訳に行かなかった。第一須永が
角帯をきゅうと
締めてきちりと坐る事からが彼には変であった。そこへ
長唄の好きだとかいう
御母さんが時々出て来て、
滑っこい
癖にアクセントの強い言葉で、
舌触の好い
愛嬌を振りかけてくれる折などは、昔から
重詰にして蔵の二階へしまっておいたものを、今取り出して来たという風に、
出来合以上の
旨さがあるので、
紋切形とは無論思わないけれども、
幾代もかかって辞令の練習を積んだ巧みが、その底に
潜んでいるとしか受取れなかった。
要するに
敬太郎はもう少し
調子外れの自由なものが欲しかったのである。けれども
今日の彼は少くとも想像の上において平生の彼とは違っていた。彼は徳川時代の
湿っぽい空気がいまだに
漂よっている黒い
蔵造の立ち並ぶ裏通に、親譲りの家を構えて、敬ちゃん御遊びなという友達を相手に、泥棒ごっこや大将ごっこをして成長したかった。月に一遍ずつ
蠣殼町の
水天宮様と深川の不動様へ御参りをして、
護摩でも上げたかった。(現に須永は母の御供をしてこういう
旧弊な
真似を当り前のごとくやっている。)それから
鉄無地の羽織でも着ながら、歌舞伎を
当世に
崩して往来へ流した
匂のする町内を
恍惚と歩きたかった。そうして習慣に
縛られた、かつ習慣を飛び
超えた
艶めかしい
葛藤でもそこに見出したかった。
彼はこの時たちまち森本の二字を思い浮かべた。するとその二字の周囲にある空想が妙に色を変えた。彼は
物好にも
自ら進んでこの
後ろ
暗い奇人に握手を求めた結果として、もう少しでとんだ迷惑を
蒙むるところであった。幸いに下宿の主人が自分の人格を信じたからいいようなものの、疑ぐろうとすればどこまでも疑ぐられ得る場合なのだから、主人の態度いかんに
依っては警察ぐらいへ行かなければならなかったのかも知れない。と、こう考えると、彼の空中に編み上げる勝手な
浪漫が急に
温味を失って、
醜くい想像からでき上った雲の峰同様に、意味もなく崩れてしまった。けれどもその奥に
口髭をだらしなく垂らした
二重瞼の
瘠ぎすの森本の顔だけは
粘り強く残っていた。彼はその顔を愛したいような、
侮りたいような、また
憐みたいような心持になった。そうしてこの
凡庸な顔の
後に解すべからざる怪しい物がぼんやり立っているように思った。そうして彼が
記念にくれると云った妙な
洋杖を
聯想した。
この洋杖は竹の根の方を曲げて
柄にした
極めて
単簡のものだが、ただ
蛇を彫ってあるところが普通の
杖と違っていた。もっとも輸出向によく見るように蛇の身をぐるぐる竹に巻きつけた毒々しいものではなく、彫ってあるのはただ頭だけで、その頭が口を開けて何か
呑みかけているところを
握にしたものであった。けれどもその呑みかけているのが何であるかは、握りの先が丸く
滑っこく
削られているので、
蛙だか
鶏卵だか誰にも
見当がつかなかった。森本は自分で竹を
伐って、自分でこの蛇を彫ったのだと云っていた。
敬太郎は下宿の
門口を
潜るとき何より先にまずこの洋杖に眼をつけた。というよりも
途すがらの聯想が、
硝子戸を開けるや否や、彼の眼を
瀬戸物の
傘入の方へ引きつけたのである。実をいうと、彼は森本の手紙を受取った当座、この洋杖を見るたびに、自分にも説明のできない妙な感じがしたので、なるべく眼を触れないように、
出入の際視線を
逸らしたくらいである。ところがそうすると今度はわざと見ないふりをして傘入の
傍を通るのが苦になってきて、
極めて軽微な程度ではあるけれどもこの変な洋杖におのずと
祟られたと云う風になって、しまった。彼自身もついには自分の神経を不思議に思い出した。彼は一種の利害関係から、過去に
溯ぼる
嫌疑を恐れて、森本の居所もまたその
言伝も主人夫婦に告げられないという弱味を
有っているには違ないが、それは良心の上にどれほどの
曇もかけなかった。
記念として上げるとわざわざ云って来たものを、快よく貰い受ける勇気の出ないのは、
他の好意を
空くする点において、面白くないにきまっているが、これとても苦になるほどではない。ただ森本の浮世の風にあたる運命が近いうちに終りを告げるとする。(おそらくはのたれ
死という終りを告げるのだろう。)その
憐れな
最期を今から予想して、この洋杖が傘入の中に立っているとする。そうして多能な彼の手によって
刻まれた、胴から下のない蛇の首が、何物かを呑もうとして呑まず、吐こうとして吐かず、いつまでも竹の棒の先に、口を
開いたまま
喰付いているとする。――こういう風に森本の運命とその運命を黙って代表している蛇の頭とを結びつけて考えた上に、その代表者たる蛇の頭を毎日握って歩くべく、近い内にのたれ死をする人から頼まれたとすると、敬太郎はその時に始めて妙な感じが起るのである。彼は自分でこの洋杖を傘入の中から抜き取る事もできず、また下宿の主人に命じて、自分の目の届かない所へ片づけさせる訳にも行かないのを
大袈裟ではあるが一種の
因果のように考えた。けれども詩で染めた色彩と、散文で行く
活計とはだいぶ一致しないところもあって、実際を云うと、これがために下宿を変えて落ちついた方が楽だと思うほど彼は洋杖に
災されていなかったのである。
今日も
洋杖は依然として傘入の中に立っていた。鎌首は
下駄箱の方を向いていた。敬太郎はそれを横に見たなり自分の
室に上ったが、やがて机の前に坐って、森本にやる手紙を書き始めた。まずこの間向うから来た
音信の礼を述べた上、なぜ早く返事を出さなかったかという弁解を二三行でもいいからつけ加えたいと思ったが、それを明らさまに打ち開けては、君のような
漂浪者を知己に
有つ僕の不名誉を考えると、書信の往復などはする気になれなかったからだとでも書くよりほかに仕方がないので、そこは例の奔走に取り
紛れと簡単な一句でごまかしておいた。次に彼が大連で好都合な職業にありついた祝いの言葉をちょっと入れて、その
後へだんだん東京も寒くなる時節柄、
満洲の
霜や風はさぞ
凌ぎ
悪いだろう。ことにあなたの
身体ではひどく
応えるに
違ないから、是非用心して病気に
罹らないようになさいと優しい文句を
数行綴った。敬太郎から云うと、実にここが手紙を出す主意なのだから、なるべく自分の同情が先方へ徹するように
旨くかつ長く、そうして誰が見ても実意の
籠っているように書きたかったのだけれども、読み直して見ると、やっぱり普通の人が普通時候の
挨拶に述べる用語以外に、何の新らしいところもないので、彼は少し失望した。と云って、
固々恋人に送る
艶書ほど熱烈な
真心を
籠めたものでないのは覚悟の前である。それで自分は文章が下手だから、いくら書き直したって駄目だくらいの口実の下に、そこはそのままにして
前へ進んだ。
森本が下宿へ置き去りにして行った荷物の始末については義理にも何とか書き添えなければすまなかった。しかしその処置のつけ方を亭主に聞くのは
厭だし、聞かなければ委細の報道はできるはずはなし、
敬太郎は筆の先を宙に浮かしたまま考えていたが、とうとう「あなたの荷物は、僕から主人に話して、どうでも彼の都合の
宜いように取り計らわせろとの御依頼でしたが、あなたの千里眼の通り、僕が何にも云わない先に、
雷獣の方で勝手に取計ってしまったようですからさよう御承知を願います。梅の
盆栽を下さるという事ですが、これは影も形も見えないようですから、頂きません。ただ御礼だけ申し述べておきます。それから」とつづけておいて、また筆を休めた。
敬太郎はいよいよ
洋杖のところへ来たのである。根が正直な男だから、あの洋杖はせっかくの
御覚召だから、ちょうだいして毎日散歩の時突いて出ますなどと空々しい
嘘は
吐けず、と言って御親切はありがたいが僕は貰いませんとはなおさら書けず。仕方がないから、「あの洋杖はいまだに
傘入の中に立っています。持主の帰るのを毎日毎夜待ち暮しているごとく立っています。雷獣もあの蛇の頭へは手を触れる事をあえてしません。僕はあの首を見るたびに、彫刻家としてのあなたの手腕に敬服せざるを得ないです」と
好加減な
御世辞を並べて、事実を
暈す手段とした。
状袋へ名宛を書くときに、森本の名前を思い出そうとしたが、どうしても胸に浮ばないので、やむを得ず大連電気公園内娯楽掛り森本様とした。今までの関係上主人夫婦の眼を
憚からなければならない手紙なので、下女を呼んでポストへ入れさせる訳にも行かなかったから、敬太郎はすぐそれを自分の
袂の中に
蔵した。彼はそれを持って夕食後散歩かたがた外へ出かける気で寒い
梯子段を下まで降り切ると、
須永から電話が掛った。
今日内幸町から
従妹が来ての話に、叔父は四五日内に用事で大阪へ行くかも知れないそうだから、余り遅くなってはと思って、立つ前に会って
貰えまいかと電話で聞いて見たら、
宜しいという返事だから、行く気ならなるべく早く行った方がよかろう。もっとも電話の上に
咽喉が痛いので、詳しい話はできなかったから、そのつもりでいてくれというのが彼の用向であった。敬太郎は「どうもありがとう。じゃなるべく早く行くようにするから」と礼を述べて電話を切ったが、どうせ行くなら今夜にでも行って見ようという気が起ったので、再び三階へ取って返してこの間
拵らえたセルの
袴を
穿いた上、いよいよ表へ出た。
曲り角へ来てポストへ手紙を入れる事は忘れなかったけれども、
肝心の森本の安否はこの時すでに敬太郎の胸に、ただ
微かな
火気を残すのみであった。それでも状袋が郵便函の口を
滑って、すとんと底へ落ちた時は、受取人の一週間以内に封を
披く様を想見して、
満更悪い心持もしまいと思った。
それから電車へ乗るまではただ一直線にすたすた歩いた。考も一直線に内幸町の方を向いていたが、電車が
明神下へ出る時分、何気なく今しがた電話口で須永から聞いた言葉を、頭の内で繰り返して見ると、覚えずはっと思うところが出て来た。須永は「今日内幸町からイトコが来て」とたしかに云ったが、そのイトコが彼の叔父さんの子である事は疑うまでもない。しかしその子が男であるか女であるかは不完全な日本語のまるで関係しないところである。
「どっちだろう」
敬太郎は突然気にし始めた。もしそれが男だとすれば、あの後姿の女についての手がかりにはならない。したがって女は彼の好奇心を
徒らに
刺戟しただけで、ちっとも動いて来ない。しかしもし女だとすると、日といい時刻といい、須永の玄関から上り具合といい、どうも自分より一足先へ
這入ったあの女らしい。想像と事実を
継ぎ合わせる事に巧みな彼は、そうと確かめないうちに、てっきりそうときめてしまった。こう解釈した時彼は、今まで
泡立っていた自分の好奇心に幾分の冷水を
注したような満足を覚えると共に、予期したよりも平凡な方角に、手がかりが一つできたと云うつまらなさをも感じた。
彼は小川町まで来た時、ちょっと電車を下りても
須永の
門口まで行って、友の口から事実を確かめて見たいくらいに思ったが、単純な好奇心以外にそんな立ち入った
詮議をすべき理由をどこにも見出し得ないので、我慢してすぐ三田線に移った。けれども
真直に神田橋を抜けて丸の内を疾駆する際にも、自分は今須永の
従妹の家に向って走りつつあるのだという心持は忘れなかった。彼は勧業銀行の
辺で下りるはずのところを、つい桜田本郷町まで乗り越して驚ろいてまた暗い方へ引き返した。
淋しい夜であったが尋ねる目的の家はすぐ知れた。丸い
瓦斯に
田口と書いた門の中を
覗いて見ると、思ったより奥深そうな
構であった。けれども実際は砂利を敷いた
路が往来から
筋違に玄関を隠しているのと、正面を
遮ぎる植込がこんもり黒ずんで立っているのとで、幾分か
厳めしい景気を夜陰に添えたまでで、門内に
這入ったところでは
見付ほど手広な
住居でもなかった。
玄関には
西洋擬いの
硝子戸が二枚
閉ててあったが、頼むといっても、
電鈴を押しても、取次がなかなか出て来ないので、
敬太郎はやむを得ずしばらくその
傍に立って内の様子を
窺がっていた。すると、どこからかようやく足音が聞こえ出して、眼の前の
擦硝子がぱっと明るくなった。それから
庭下駄で
三和土を踏む音が二足三足したと思うと、玄関の扉が片方
開いた。敬太郎はこの際取次の
風采を想望するほどの
物数奇もなく、全く漫然と立っていただけであるが、それでも
絣の
羽織を着た書生か、
双子の綿入を着た下女が、一応御辞儀をして彼の名刺を受取る事とのみ期待していたのに、
今戸を半分開けて彼の前に立ったのは、思いも寄らぬ立派な
服装をした老紳士であった。電気の光を背中に受けているので、顔は
判然しなかったが、
白縮緬の帯だけはすぐ彼の眼に映じた。その瞬間にすぐこれが田口という須永の叔父さんだろうという感じが敬太郎の頭に働いた。けれども事が余り意外なので、すぐ
挨拶をする
余裕も出ず少しはあっけに取られた気味で、ぼんやりしていた。その上自分をはなはだ若く考えている敬太郎には、四十代だろうが五十代だろうが
乃至六十代だろうがほとんど区別のない
一様の爺さんに見えるくらい、彼は老人に対して親しみのない男であった。彼は四十五と五十五を見分けてやるほどの同情心を年長者に対して
有たなかったと同時に、そのいずれに向っても慣れないうちは異人種のような
無気味を覚えるのが常なので、なおさら
迷児ついたのである。しかし相手は何も気にかからない様子で、「何か用ですか」と聞いた。
丁寧でもなければ
軽蔑でもない至って
無雑作なその言葉つきが、少し敬太郎の度胸を回復させたので、彼はようやく自分の姓名を名乗ると共に手短かく来意を告げる機会を得た。すると
年嵩な男は思い出したように、「そうそう
先刻市蔵(須永の名)から電話で話がありました。しかし今夜
御出になるとは思いませんでしたよ」と云った。そうして君そう早く来たっていけないという様子がその裏に見えたので、敬太郎は
精一杯言訳をする必要を感じた。老人はそれを聞くでもなし聞かぬでもなしといった風に黙って立っていたが、「そんならまたいらっしゃい。四五日うちにちょっと旅行しますが、その前に御目にかかれる暇さえあれば、御目にかかっても
宜うござんす」と云った。敬太郎は
篤く礼を述べてまた門を出たが、暗い
夜の中で、礼の述べ方がちと馬鹿丁寧過ぎたと思った。
これはずっと
後になって、須永の口から敬太郎に知れた話であるが、ここの主人は、この時玄関に近い応接間で、たった一人
碁盤に向って、白石と黒石を
互違に並べながら考え込んでいたのだそうである。それは客と
一石やった後の引続きとして、是非共ある問題を解決しなければ気がすまなかったからであるが、
肝心のところで敬太郎がさも
田舎者らしく玄関を騒がせるものだから、まずこの邪魔を追っ払った後でというつもりになって、じれったさの余り自分と取次に出たのだという。須永にこの
顛末を聞かされた時に、敬太郎はますます自分の
挨拶が
丁寧過ぎたような気がした。
中一日置いて、
敬太郎は堂々と田口へ電話をかけて、これからすぐ行っても
差支ないかと聞き合わせた。向うの電話口へ出たものは、敬太郎の言葉つきや話しぶりの比較的
横風なところからだいぶ位地の高い人とでも思ったらしく、「どうぞ少々御待ち下さいまし、ただいま主人の都合をちょっと尋ねますから」と丁寧な挨拶をして引き込んだが、今度返事を伝えるときは、「ああ、もしもし今ね、来客中で少し差支えるそうです。午後の一時頃来るなら来ていただきたいという事です」と前よりは言葉がよほど
粗末になっていた。敬太郎は、「そうですか、それでは一時頃上りますから、どうぞ御主人に
宜しく」と答えて電話を切ったが、内心は一種
厭な心持がした。
十二時かっきりに
午飯を食うつもりで、あらかじめ下女に云いつけておいた
膳が、時間通り出て来ないので、敬太郎は騒々しく鳴る大学の鐘に
急き立てられでもするように催促をして、できるだけ早く食事を済ました。電車の中では
一昨日の晩会った田口の態度を思い浮べて、今日もまたああいう風に
無雑作な取扱を受けるのか知らん、それとも向うで会うというくらいだから、もう少しは
愛嬌のある挨拶でもしてくれるか知らんと考えなどした。彼はこの紳士の好意で、相当の地位さえ得られるならば、多少腰を
曲めて窮屈な思をするぐらいは我慢するつもりであった。けれども
先刻電話の取次に出たもののように、五分と
経たないうちに、言葉使いを悪い方に改められたりすると、もう不愉快になって、どうかそいつがまた取次に出なければいいがと思う。その
癖自分のかけ方の自分としては少し横風過ぎた事にはまるで気がつかない
性質であった。
小川町の角で、
斜に
須永の
家へ
曲る横町を見た時、彼ははっと例の後姿の事を思い出して、急に
日蔭から
日向へ想像を移した。今日も美くしい須永の
従妹のいる所へ訪問に出かけるのだと自分で自分に教える方が、
億劫な
手数をかけて、好い顔もしない
爺さんに、衣食の
途を授けて下さいと
泣つきに行くのだと意識するよりも、敬太郎に取っては
遥かに
麗かであったからである。彼は須永の
従妹と田口の爺さんを自分勝手に親子ときめておきながらどこまでも二人を引き離して考えていた。この間の晩田口と向き合って玄関先に立った時も、光線の具合で
先方の人品は
判然分らなかったけれども、眼鼻だちの
輪廓だけで評したところが、あまり立派な方でなかった事は、この爺さんの第一印象として、敬太郎の胸に
夜目にも
疑なく描かれたのである。それでいて彼はこの男の娘なら、須永との関係はどうあろうとも、
器量はあまりいい方じゃあるまいという気がどこにも起らなかった。そこで離れていて合い、合っていて離れるような
日向日蔭の裏表を一枚にした頭を彼は田口家に対して
抱いていたのである。それを互違にくり返した
後、彼は田口の門前に立った。するとそこに大きな自働車が
御者を乗せたまま待っていたので、少し安からぬ感じがした。
玄関へ掛って名刺を出すと、
小倉の
袴を
穿いた若い書生がそれを受取って、「ちょっと」と云ったまま奥へ
這入って行った。その声が確かに
先刻電話口で聞いたのに違ないので、敬太郎は彼の
後姿を見送りながら
厭な
奴だと思った。すると彼は名刺を持ったまままた現われた。そうして「御気の毒ですが、ただいま来客中ですからまたどうぞ」と云って、敬太郎の前に
突立っていた。敬太郎も少しむっとした。
「先程電話で御都合を伺ったら、今客があるから午後一時頃来いという御返事でしたが」
「実はさっきの御客がまだ御帰りにならないで、
御膳などが出て
混雑しているんです」
落ちついて聞きさえすれば
満更無理もない言訳なのだが、電話以後この取次が
癪に
障っている敬太郎には彼の云い草がいかにも気に喰わなかった。それで自分の方から
先を越すつもりか何かで、「そうですか、たびたび御足労でした。どうぞ御主人へよろしく」と
平仄の合わない
捨台詞のような事を云った上、何だこんな自働車がと云わぬばかりにその
傍を
擦り抜けて表へ出た。
彼はこの日必要な会見を都合よく済ました
後、新らしく築地に世帯を持った友人の所へ廻って、
須永と彼の
従妹とそれから彼の叔父に当る田口とを想像の糸で巧みに
継ぎ合せつつある
一部始終を
御馳走に、晩まで話し込む気でいたのである。けれども田口の門を出て日比谷公園の
傍に立った彼の頭には、そんな
余裕はさらになかった。後姿を見ただけではあるが、
在所をすでに突き留めて、今その人の家を尋ねたのだという陽気な心持は
固よりなかった。位置を求めにここまで来たという自覚はなおなかった。彼はただ屈辱を感じた結果として、腹を立てていただけである。そうして自分を田口のような男に紹介した須永こそこの取扱に対して当然責任を負わなくてはならないと感じていた。彼は帰りがけに須永の所へ寄って、
逐一顛末を話した上、存分文句を並べてやろうと考えた。それでまた電車に乗って一直線に小川町まで引返して来た。時計を見ると、二時にはまだ二十分ほど
間があった。須永の
家の前へ来て、わざと往来から須永須永と二声ばかり呼んで見たが、いるのかいないのか二階の
障子は立て切ったままついに
開かなかった。もっとも彼は
体裁家で、平生からこういう呼び出し方を
田舎者らしいといって
厭がっていたのだから、聞こえても知らん顔をしているのではなかろうかと思って、
敬太郎は正式に玄関の
格子口へかかった。けれども取次に出た
仲働の口から「
午少し過に御出ましになりました」という言葉を聞いた時は、ちょっと張合が抜けて少しの間黙って立っていた。
「
風邪を引いていたようでしたが」
「はい、御風邪を召していらっしゃいましたが、今日はだいぶ好いからとおっしゃって、御出かけになりました」
敬太郎は帰ろうとした。仲働は「ちょっと御隠居さまに申し上げますから」といって、敬太郎を格子のうちに待たしたまま奥へ
這入った。と思うと
襖の陰から須永の母の姿が現われた。背の高い
面長の下町風に
品のある婦人であった。
「さあどうぞ。もうそのうち帰りましょうから」
須永の母にこう云い出されたが最後、
江戸慣れない敬太郎はどうそれを断って外へ出ていいか、いまだにその心得がなかった。
第一どこで断る隙間もないように、調子の好い文句がそれからそれへとずるずる彼の耳へ響いて来るのである。それが
世間体の好い
御世辞と違って、引き留められているうちに、上っては迷惑だろうという遠慮がいつの間にか
失くなって、つい気の毒だから少し話して行こうという気になるのである。敬太郎は云われるままにとうとう例の書斎へ腰をおろした。須永の母が御寒いでしょうと云って、仕切りの
唐紙を
締めてくれたり、さあ御手をお出しなさいと云って、
佐倉を
埋けた
火鉢を勧めてくれたりするうちに、一時
昂奮した彼の気分はしだいに落ちついて来た。彼はシキとかいう白い絹へ
秋田蕗を一面に大きく
摺った
襖の模様だの、
唐桑らしくてらてらした黄色い
手焙だのを
眺めて、このしとやかで能弁な、人を
外す事を知らないと云った風の母と話をした。
彼女の語るところによると、須永は今日
矢来の叔父の
家へ行ったのだそうである。
「じゃついでだから帰りに
小日向へ廻って御寺参りをして来ておくれって申しましたら、御母さんは近頃
無精になったようですね、この間も
他に代理をさせたじゃありませんか、年を取ったせいかしらなんて悪口を云い云い出て参りましたが、あれもねあなた、せんだって
中から風邪を引いて
咽喉を痛めておりますので、今日も何なら止した方がいいじゃないかととめて見ましたが、やっぱり若いものは用心深いようでもどこか
我無しゃらで、年寄の云う事などにはいっさい
無頓着でございますから……」
須永の留守へ行くと、彼の母は唯一の楽みのようにこういう調子で
伜の話をするのが常であった。敬太郎の方で須永の評判でも持ち出そうものなら、いつまででもその問題の
後へ
喰付いて来て、容易に話頭を改めないのが例になっていた。敬太郎もそれにはだいぶ慣れているから、この際も向うのいう通りをただふんふんとおとなしく聞いて、一段落の来るのを待っていた。
そのうち話がいつか
肝心の
須永を
逸れて、矢来の叔父という人の方へ移って行った。これは内幸町と違って、この
御母さんの実の弟に当る男だそうで、一種の
贅沢屋のように
敬太郎は須永から聞いていた。
外套の裏は
繻子でなくては見っともなくて着られないと云ったり、
要りもしないのに
古渡りの
更紗玉とか号して、石だか
珊瑚だか分らないものを
愛玩したりする話はいまだに覚えていた。
「何にもしないで
贅沢に遊んでいられるくらい好い事はないんだから、結構な御身分ですね」と敬太郎が云うのを引き取るように母は、「どうしてあなた、打ち明けた御話が、まあどうにかこうにかやって行けるというまでで、楽だの贅沢だのという段にはまだなかなかなのでございますからいけません」と打ち消した。
須永の親戚に当る人の財力が、さほど敬太郎に関係のある訳でもないので、彼はそれなり黙ってしまった。すると母は少しでも談話の
途切れるのを自分の過失ででもあるように、すぐ言葉を
継いだ。
「それでも
妹婿の方は
御蔭さまで、何だかだって方々の会社へ首を突っ込んでおりますから、この方はまあ不自由なく暮しておる模様でございますが、手前共や矢来の
弟などになりますと、云わば、
浪人同様で、昔に
比べたら、尾羽うち枯らさないばかりの
体たらくだって、よく弟ともそう申しては笑うこってございますよ」
敬太郎は何となく自分の身の上を
顧みて気恥かしい思をした。
幸にさきがすらすら
喋舌ってくれるので、こっちに受け答をする文句を考える必要がないのをせめてもの
得として聞き続けた。
「それにね、御承知の通り市蔵がああいう引っ込思案の男だもんでござんすから、私もただ学校を卒業させただけでは、全く心配が抜けませんので、まことに困り切ります。早く気に入った嫁でも貰って、年寄に安心でもさせてくれるようにおしなと申しますと、そう御母さんの都合のいいようにばかり世の中は行きゃしませんて、てんで相手にしないんでございますよ。そんなら世話をしてくれる人に頼んで、どこへでもいいから、
務にでも出る気になればまだしも、そんな事にはまたまるで
無頓着であなた……」
敬太郎はこの点において実際須永が
横着過ると
平生から思っていた。「余計な事ですが、少し目上の人から意見でもして上げるようにしたらどうでしょう。今御話の矢来の叔父さんからでも」と全く年寄に同情する気で云った。
「ところがこれがまた大の交際嫌の変人でございまして、忠告どころか、何だ銀行へ
這入って
算盤なんかパチパチ云わすなんて馬鹿があるもんかと、こうでございますから頭から相談にも何にもなりません。それをまた市蔵が
嬉しがりますので。矢来の叔父の方が好きだとか気が合うとか申しちゃよく出かけます。今日なども日曜じゃあるし御天気は好しするから、内幸町の叔父が大阪へ立つ前にちょっとあちらへ顔でも出せばいいのでございますけれども、やっぱり矢来へ行くんだって、とうとう自分の好きな方へ参りました」
敬太郎はこの時自分が今日何のために
馳け込むようにこの家を
襲ったかの原因について、また新らしく考え出した。彼は須永の顔を見たら随分過激な言葉を使ってもその不都合を責めた上、僕はもう二度とあすこの門は
潜らないつもりだから、そう思ってくれたまえぐらいの
台詞を云って帰る気でいたのに、
肝心の須永は
留守で、事情も何も知らない彼の母から、
逆さにいろいろな話をしかけられたので、
怒ってやろうという気は無論抜けてしまったのである。が、それでも行きがかり上、田口と会見を
遂げ得なかった
顛末だけは、一応この母の耳へでも構わないから入れておく必要があるだろう。それには話の中に内幸町へ行くとか行かないとかが問題になっている今が一番よかろう。――こう敬太郎は思った。
「実はその内幸町の方へ今日私も出たんですが」と云い出すと、自分の息子の事ばかり考えていた母は、「おやそうでございましたか」とやっと気がついてすまないという顔つきをした。この間から
敬太郎が
躍起になって口を
探している事や、探しあぐんで
須永に紹介を頼んだ事や、須永がそれを引き受けて内幸町の叔父に会えるように周旋した事は、須永の
傍にいる母として
彼女のことごとく見たり聞いたりしたところであるから、行き届いた人なら
先方で何も云い出さない前に、こっちからどんな模様ですぐらいは聞いてやるべきだとでも思ったのだろう。こう観察した敬太郎は、この一句を前置に、今までの成行を残らず話そうと
力めにかかったが、時々相手から「そうでございますとも」とか、「本当にまあ、
間の悪い時にはね」とか、どっちにも同情したような間投詞が出るので、自分がむかっ
腹を立てて
悪体を
吐いた事などは話のうちから
綺麗に抜いてしまった。須永の母は気の毒という言葉を何遍もくり返した
後で、田口を弁護するようにこんな事を云った。――
「そりゃあ実のところ忙しい男なので。
妹などもああして一つ家に住んでおりますようなものの、――何でごさんしょう。――
落々話のできるのはおそらく一週間に一日もございますまい。私が見かねて
要作さんいくら御金が
儲かるたって、そう働らいて
身体を壊しちゃ何にもならないから、たまには骨休めをなさいよ、身体が
資本じゃありませんかと申しますと、おいらもそう思ってるんだが、それからそれへと用が
湧いてくるんで、
傍から
掬くい出さないと、用が腐っちまうから仕方がないなんて笑って取り合いませんので。そうかと思うとまた妹や娘に今日はこれから鎌倉へ
伴れて行く、さあすぐ支度をしろって、まるで足元から鳥が立つように
急き立てる事もございますが……」
「御嬢さんがおありなのですか」
「ええ二人おります。いずれも年頃でございますから、もうそろそろどこかへ片づけるとか
婿を取るとかしなければなりますまいが」
「そのうちの一人の
方が、須永君のところへ
御出になる訳でもないんですか」
母はちょっと
口籠った。敬太郎もただ自分の好奇心を満足させるためにあまり立ち入った質問をかけ過ぎたと気がついた。何とかして話題を転じようと考えているうちに、相手の方で、
「まあどうなりますか。親達の考もございましょうし。
当人達の存じ寄りもしかと
聞糺して見ないと分りませんし。私ばかりでこうもしたい、ああもしたいといくら
熱急思ってもこればかりは致し方がございません」と何だか意味のありそうな事を云った。一度
退きかけた敬太郎の好奇心はこの答でまた打ち返して来そうにしたが、
善くないという
克己心にすぐ抑えられた。
母はなお田口の弁護をした。そんな忙がしい
身体だから、時によると心にもない約束違いなどをする事もあるが、いったん引き受けた以上は忘れる男ではないから、まあ旅行から帰るまで待って、
緩くり会ったら
宜かろうという注意とも
慰藉ともつかない
助言も与えた。
「矢来のはおっても会わん方で、これは仕方がございませんが、内幸町のはいないでも都合さえつけば
馳けて帰って来て会うといった風の
性質でございますから、今度旅行から帰って来さえすれば、こっちから何とも云ってやらないでも、向うできっと市蔵のところへ何とか申して参りますよ。きっと」
こう云われて見ると、なるほどそういう人らしいが、それはこっちがおとなしくしていればこそで、
先刻のようにぷんぷん怒ってはとうてい物にならないにきまり切っている。しかし
今更それを打ち明ける訳には行かないので、敬太郎はただ黙っていた。須永の母はなお「あんな顔はしておりますが、見かけによらない実意のある
剽軽者でございますから」と云って一人で笑った。
剽軽者という言葉は田口の
風采なり態度なりに照り合わせて見て、どうも
敬太郎の
腑に落ちない形容であった。しかし実際を聞いて見ると、なるほど当っているところもあるように思われた。田口は
昔しある御茶屋へ行って、姉さんこの電気灯は
熱り過ぎるね、もう少し暗くしておくれと頼んだ事があるそうだ。下女が
怪訝な顔をして小さい球と取り換えましょうかと聞くと、いいえさ、そこをちょいと
捻って暗くするんだと
真面目に云いつけるので、下女はこれは電気灯のない
田舎から出て来た人に違ないと見て取ったものか、くすくす笑いながら、旦那電気はランプと違って
捻ったって暗くはなりませんよ、消えちまうだけですから。ほらねとぱちッと音をさせて座敷を真暗にした上、またぱっと元通りに明るくするかと思うと、大きな声でばあと云った。田口は少しも
悄然ずに、おやおやまだ旧式を使ってるね。見っともないじゃないか、ここの
家にも似合わないこった。早く会社の方へ改良を申し込んでおくといい。順番に直してくれるから。とさももっともらしい忠告を与えたので、下女もとうとう
真に受け出して、本当にこれじゃ不便ね、だいち
点けっ
放しで寝る時なんか明る過ぎて、困る人が多いでしょうからとさも感心したらしく、改良に賛成したそうである。ある時用事が出来て
門司とか
馬関とかまで行った時の話はこれよりもよほど念が
入っている。いっしょに行くべきはずのAという男に
差支が起って、二日ばかり彼は宿屋で待ち合わしていた。その間の
退屈紛れに、彼はAを一つ
担いでやろうと
巧らんだ。これは町を歩いている時、一軒の写真屋の店先でふと思いついた
悪戯で、彼はその店から
地方の芸者の写真を一枚買ったのである。その裏へA様と書いて、手紙を添えた贈物のように
拵えた。その手紙は女を一人雇って、充分の時間を与えた上、できるだけAの心を動かすように
艶めかしく
曲らしたもので、誰が
貰っても
嬉しい顔をするに足るばかりか、今日の新聞を見たら、
明日ここへ御着のはずだと出ていたので、久しぶりにこの手紙を上げるんだから、どうか読みしだい、どこそこまで来ていただきたいと書いたなかなか安くないものであった。彼はその晩自分でこの手紙をポストへ入れて、翌日配達の時またそれを自分で受取ったなり、Aの来るのを待ち受けた。Aが着いても彼はこの手紙をなかなか出さなかった。
力めて
真面目な用談についての打合せなどを大事らしくし続けて、やっと同じ食卓で
晩餐の
膳に向った時、突然思い出したように
袂の中からそれを取り出してAに与えた。Aは表に至急親展とあるので、ちょっと
箸を下に置くと、すぐ封を開いたが、少し読み
下すと同時に包んである写真を抜いて裏を見るや
否や、急に丸めるように
懐へ入れてしまった。何か
急の用でもできたのかと聞くと、いや何というばかりで、
不得要領にまた箸を取ったが、どことなくそわそわした様子で、まだ段落のつかない用談をそのままに、少し失礼する腹が痛いからと云って自分の部屋に帰った。田口は下女を呼んで、今から十五分以内にAが外出するだろうから、出るときは車が待ってでもいたように、Aが何にも云わない先に彼を乗せて
馳け出して、その思わく通りどこの何という
家の
門へおろすようにしろと云いつけた。そうして自分はAより早く同じ家へ行って、
主婦を呼ぶや否や、今おれの宿の
提灯を
点けた車に乗って、これこれの男が来るから、来たらすぐ
綺麗な座敷へ通して、
叮嚀に取扱って、向うで何にも云わない先に、
御連様はとうから
御待兼でございますと云ったなり引き退がって、すぐおれのところへ知らせてくれと頼んだ。そうして一人で
煙草を吹かして腕組をしながら、事件の経過を待っていた。すると万事が
旨い具合に予定の通り進行して、いよいよ自分の出る順が来た。そこでAの部屋の
傍へ行って間の
襖を開けながら、やあ早かったねと
挨拶すると、Aは顔の色を変えて驚ろいた。田口はその前へ坐り込んで、実はこれこれだと残らず自分の
悪戯を話した上、「
担いだ代りに今夜は僕が
奢るよ」と笑いながら云ったんだという。
「こういう
飄気た
真似をする男なんでございますから」と須永の母も話した
後でおかしそうに笑った。敬太郎はあの自働車はまさか
悪戯じゃなかったろうと考えながら下宿へ帰った。
自動車事件以後
敬太郎はもう田口の世話になる見込はないものと
諦らめた。それと同時に
須永の
従弟と仮定された例の
後姿の正体も、ほぼ
発端の入口に当たる浅いところでぱたりと行きとまったのだと思うと、その底にはがゆいようなまた
煮切らないような不愉快があった。彼は
今日まで何一つ自分の力で、先へ突き抜けたという自覚を
有っていなかった。勉強だろうが、運動だろうが、その他何事に限らず本気にやりかけて、
貫ぬき
終せた
試がなかった。生れてからたった一つ行けるところまで行ったのは、大学を卒業したくらいなものである。それすら精を出さずにとぐろばかり巻きたがっているのを、
向で引き
摺り出してくれたのだから、中途で動けなくなった
間怠さのない代りには、やっとの思いで井戸を掘り抜いた時の
晴々した心持も知らなかった。
彼はぼんやりして四五日過ぎた。ふと学生時代に学校へ招待したある宗教家の談話を思い出した。その宗教家は家庭にも社会にも何の不満もない身分だのに、
自から進んで坊主になった人で、その当時の事情を述べる時に、どうしても不思議でたまらないからこの道に入って見たと云った。この人はどんな朗らかに
透き
徹るような空の下に立っても、四方から閉じ込められているような気がして苦しかったのだそうである。樹を見ても家を見ても往来を歩く人間を見ても
鮮かに見えながら、自分だけ
硝子張の箱の中に入れられて、外の物と
直に続いていない心持が絶えずして、しまいには
窒息するほど苦しくなって来るんだという。敬太郎はこの話を聞いて、それは一種の神経病に
罹っていたのではなかろうかと疑ったなり、
今日まで気にもかけずにいた。しかしこの四五日ぼんやり
屈託しているうちによくよく考えて見ると、彼自身が今までに、何一つ突き抜いて痛快だという感じを得た事のないのは、坊主にならない前のこの宗教家の心にどこか似た点があるようである。もちろん自分のは比較にならないほど微弱で、しかも性質がまるで違っているから、この坊さんのようにえらい勇断をする必要はない。もう少し奮発して
気張る事さえ覚えれば、当っても
外れても、今よりはまだ痛快に生きて行かれるのに、
今日までついぞそこに心を用いる事をしなかったのである。
敬太郎は一人でこう考えて、どこへでも進んで行こうと思ったが、また一方では、もうすっぽ抜けの
後の祭のような気がして、何という
当もなくまた
三四日ぶらぶらと暮した。その間に有楽座へ行ったり、落語を聞いたり、友達と話したり、往来を歩いたり、いろいろやったが、いずれも
薬缶頭を
攫むと同じ事で、世の中は少しも手に握れなかった。彼は
碁を打ちたいのに、碁を見せられるという感じがした。そうして同じ見せられるなら、もう少し面白い
波瀾曲折のある碁が見たいと思った。
すると
直須永と後姿の女との関係が想像された。もともと頭の中でむやみに
色沢を着けて
奥行のあるように組み立てるほどの関係でもあるまいし、あったところが
他の事を余計なおせっかいだと、自分で自分を
嘲けりながら、ああ馬鹿らしいと思う
後から、やっぱり何かあるだろうという好奇心が今のようにちょいちょいと
閃めいて来るのである。そうしてこの道をもう少し辛抱強く先へ押して行ったら、自分が今まで経験した事のない
浪漫的な或物にぶつかるかも知れないと考え出す。すると田口の玄関で
怒ったなり、あの女の研究まで投げてしまった自分の短気を、自分の好奇心に釣り合わない弱味だと思い始める。
職業についても、あんな
些細な
行違のために
愛想づかしをたとい一句でも口にして、自分と田口の敷居を高くするはずではなかったと思う。あれでできるともできないとも、まだ
方のつかない未来を中途半端に仕切ってしまった。そうして好んで
煮きらない思いに悩んでいる姿になってしまった。須永の母の保証するところでは、田口という老人は見かけに寄らない親切気のある人だそうだから、あるいは旅行から帰って来た上で、また改めて会ってくれないとも限らない。が、こっちからもう一遍会見の都合を問い合せたりなどして、常識のない馬鹿だと
軽蔑まれてもつまらない。けれどもどの道突き抜けた心持をしっかり
捕まえるためには馬鹿と云われるまでも、そこまで突っかけて行く必要があるだろう。――敬太郎は屈託しながらもいろいろ考えた。
けれども身の一大事を即座に決定するという非常な場合と違って、
敬太郎の思案には屈託の
裏に、どこか
呑気なものがふわふわしていた。この道をとどのつまりまで進んで見ようか、またはこれぎりやめにして、さらに新らしいものに移る支度をしようか。問題は
煎じつめるまでもなく当初から
至極簡単にでき上っていたのである。それに迷うのは、一度
籤を引き
損なったが最後、もう浮ぶ瀬はないという
非道い目に会うからではなくって、どっちに転んでも大した影響が起らないため、どうでも好いという怠けた心持がいつしらず働らくからである。彼は眠い時に本を読む人が、
眠気に抵抗する努力を
厭いながら、文字の意味を
判明頭に入れようと試みるごとく、
呑気の
懐で決断の卵を温めている癖に、ただ
旨く
孵化らない事ばかり苦にしていた。この不決断を
逃れなければという口実の
下に、彼は
暗に自分の
物数奇に
媚びようとした。そうして自分の未来を
売卜者の
八卦に訴えて判断して見る気になった。彼は
加持、
祈祷、
御封、
虫封じ、
降巫の
類に、全然信仰を
有つほど、非科学的に教育されてはいなかったが、それ相当の興味は、いずれに対しても昔から
今日まで失わずに成長した男である。彼の父は
方位九星に詳しい神経家であった。彼が小学校へ行く時分の事であったが、ある日曜日に、彼の父は尻を
端折って、
鍬を
担ついだまま庭へ飛び下りるから、何をするのかと思って、
後から
跟いて行こうとすると、父は敬太郎に向って、御前はそこにいて、時計を見ていろ、そうして十二時が鳴り出したら、大きな声を出して合図をしてくれ、すると御父さんがあの
乾に当る梅の根っこを掘り始めるからと云いつけた。敬太郎は子供心にまた例の家相だと思って、時計がちんと鳴り出すや否や命令通り、十二時ですようと大きな声で叫んだ。それで、その場は無事に済んだが、あれほど正確に
鍬を下ろすつもりなら、
肝心の時計が狂っていないようにあらかじめ直しておかなくてはならないはずだのにと敬太郎は父の
迂闊をおかしく思った。学校の時計と自分の
家のとはその時二十分近く違っていたからである。ところがその
後摘草に行った帰りに、馬に
蹴られて
土堤から下へ転がり落ちた事がある。不思議に
怪我も何もしなかったのを、
御祖母さんが大層喜んで、全く御地蔵様が御前の身代りに立って下さった
御蔭だこれ
御覧と云って、馬の
繋いであった
傍にある石地蔵の前に連れて行くと、石の首がぽくりと欠けて、
涎掛だけが残っていた。敬太郎の頭にはその時から怪しい色をした雲が少し流れ込んだ。その雲が
身体の具合や
四辺の事情で、濃くなったり薄くなったりする変化はあるが、成長した
今日に至るまで、いまだに抜け切らずにいた事だけはたしかである。
こういう
訳で、彼は明治の世に伝わる面白い職業の一つとして、いつでも
大道占いの
弓張提灯を
眺めていた。もっとも金を払って
筮竹の音を聞くほどの熱心はなかったが、散歩のついでに、寒い顔を提灯の光に映した女などが、
悄然そこに立っているのを見かけると、この暗い影を未来に投げて、思案に沈んでいる
憐れな人に、
易者がどんな希望と不安と
畏怖と自信とを与えるだろうという好奇心に
惹かされて、面白半分、そっと傍へ寄って、陰の方から
立聞をする事がしばしばあった。彼の友の
某が、自分の脳力に悲観して、試験を受けようか学校をやめようかと思い
煩っている頃、ある人が旅行のついでに、
善光寺如来の
御神籤をいただいて第五十五の吉というのを郵便で送ってくれたら、その中に
雲散じて月重ねて明らかなり、という句と、花
発いて再び
重栄という句があったので、物は試しだからまあ受けて見ようと云って、受けたら
綺麗に及第した時、彼は興に乗って、方々の神社で手当りしだい御神籤をいただき廻った事さえある。しかもそれは別にこれという目的なしにいただいたのだから彼は平生でも、優に
売卜者の
顧客になる資格を充分具えていたに違ない。その代り今度のような場合にも、どこか慰さみがてらに、まあやって見ようという浮気がだいぶ交っていた。
敬太郎はどこの
占ない
者に行ったものかと考えて見たが、あいにくどこという
当もなかった。
白山の裏とか、芝公園の中とか、銀座何丁目とか今までに名前を聞いたのは二三軒あるが、むやみに
流行るのは
山師らしくって行く気にならず、と云って、自分で
嘘と知りつつ
出鱈目を
強いてもっともらしく述べる
奴はなお不都合であるし、できるならば余り人の込み合わない
家で、閑静な
髯を生やした
爺さんが
奇警な言葉で、簡潔にすぱすぱと
道い
破ってくれるのがどこかにいればいいがと思った。そう思いながら、彼は自分の父がよく相談に出かけた、
郷里の
一本寺の隠居の顔を頭の中に
描き出した。それからふと気がついて、考えるんだかただ坐っているんだか分らない自分の様子が馬鹿馬鹿しくなったので、とにかく出てそこいらを歩いてるうちに、運命が自分を誘い込むような
占ない
者の看板にぶつかるだろうという
漠然たる頭に帽子を
載せた。
彼は久しぶりに下谷の
車坂へ出て、あれから東へ
真直に、寺の門だの、
仏師屋だの、
古臭い
生薬屋だの、徳川時代のがらくたを
埃といっしょに並べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと
門跡の中を抜けて、
奴鰻の角へ出た。
彼は小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の
祖父さんから、しばしば
観音様の
繁華を耳にした。
仲見世だの、
奥山だの、
並木だの、
駒形だの、いろいろ云って聞かされる中には、今の人があまり口にしない名前さえあった。広小路に
菜飯と
田楽を食わせるすみ屋という
洒落た家があるとか、駒形の御堂の前の
綺麗な
縄暖簾を下げた
鰌屋は
昔しから
名代なものだとか、
食物の話もだいぶ聞かされたが、すべての
中で最も敬太郎の頭を
刺戟したものは、
長井兵助の
居合抜と、
脇差をぐいぐい
呑んで見せる
豆蔵と、
江州伊吹山の
麓にいる前足が四つで
後足が六つある
大蟇の干し固めたのであった。それらには
蔵の二階の長持の中にある
草双紙の
画解が、子供の想像に都合の好いような説明をいくらでも与えてくれた。一本歯の
下駄を
穿いたまま、小さい
三宝の上に
曲がんだ男が、
襷がけで
身体よりも高く
反り返った刀を抜こうとするところや、大きな
蝦蟆の上に
胡坐をかいて、
児雷也が魔法か何か使っているところや、顔より大きそうな
天眼鏡を持った白い髯の爺さんが、
唐机の前に坐って、
平突ばったちょん
髷を上から
見下すところや、大抵の不思議なものはみんな絵本から抜け出して、想像の浅草に並んでいた。こういう訳で敬太郎の頭に映る観音の
境内には、歴史的に
妖嬌陸離たる色彩が、十八間の本堂を包んで、小供の時から常に
陽炎っていたのである。東京へ来てから、この怪しい夢は
固より手痛く打ち
崩されてしまったが、それでも時々は今でも観音様の屋根に
鵠の
鳥が巣を食っているだろうぐらいの考にふらふらとなる事がある。今日も浅草へ行ったらどうかなるだろうという
料簡が
暗に働らいて、足が
自ずとこっちに向いたのである。しかしルナパークの
後から活動写真の前へ出た時は、こりゃ
占ない
者などのいる所ではないと
今更のようにその
雑沓に驚ろいた。せめて
御賓頭顱でも
撫でて行こうかと思ったが、どこにあるか忘れてしまったので、本堂へ
上って、
魚河岸の
大提灯と
頼政の
鵺を
退治ている額だけ見てすぐ
雷門を出た。敬太郎の考えではこれから浅草橋へ出る間には、一軒や二軒の易者はあるだろう。もし
在ったら何でも構わないから入る事にしよう。あるいは高等工業の先を曲って柳橋の方へ抜けて見ても好いなどと、まるで時分どきに
恰好な
飯屋でも探す気で歩いていた。ところがいざ探すとなると
生憎なもので、
平生は散歩さえすればいたるところに
神易の看板がぶら下っている癖に、あの広い表通りに門戸を張っている
卜者はまるで見当らなかった。敬太郎はこの
企図もまた例によって例のごとく、突き抜けずに中途でおしまいになるのかも知れないと思って少し失望しながら
蔵前まで来た。するとやっとの事で尋ねる商売の
家が一軒あった。細長い堅木の厚板に、身の上判断と
割書をした下に、
文銭占ないと白い字で彫って、そのまた下に、
漆で塗った
真赤な
唐辛子が
描いてある。この奇体な看板がまず敬太郎の眼を
惹いた。
よく見るとこれは一軒の
生薬屋の店を仕切って、その狭い方へこざっぱりした
差掛様のものを作ったので、中に
七色唐辛子の袋を並べてあるから、看板の通りそれを売る
傍ら、占ないを見る趣向に違ない。
敬太郎はこう観察して、そっと
餡転餅屋に似た差掛の奥を
覗いて見ると、
小作りな婆さんがたった一人
裁縫をしていた。狭い
室一つの
住居としか思われないのに、
肝心の易者の影も形も見えないから、主人は
他行中で、細君が留守番をしているところかとも思ったが、店先の構造から推すと、奥は生薬屋の方と続いているかも知れないので、一概に留守と
見切をつける訳にも行かなかった。それで二三歩先へ出て、薬種店の方を
覗くと、八ツ
目鰻の干したのも釣るしてなければ、大きな亀の甲も飾ってないし、人形の腹をがらん胴にして、五色の五臓を外から見えるように、腹の中の
棚に
載せた古風の装飾もなかった。
一本寺の隠居に似た
髯のある爺さんは
固より坐っていなかった。彼は再び立ち戻って、身の上判断
文銭占ないという看板のかかった入口から
暖簾を
潜って内へ入った。
裁縫をしていた婆さんは、針の手をやめて、大きな
眼鏡の上から
睨むように敬太郎を見たが、ただ一口、
占ないですかと聞いた。敬太郎は「ええちょっと見て
貰いたいんだが、
御留守のようですね」と云った。すると婆さんは、
膝の上のやわらか物を
隅の方へ片づけながら、御上りなさいと答えた。敬太郎は云われる通り素直に上って見ると、狭いけれども居心地の悪いほど
汚れた
室ではなかった。現に畳などは取り替え立てでまだ新らしい
香がした。婆さんは煮立った
鉄瓶の湯を
湯呑に
注いで、
香煎を敬太郎の前に出した。そうして昔は薬箱でも載せた棚らしい所に片づけてあった小机を取りおろしにかかった。その机には無地の
羅紗がかけてあったが、婆さんはそれをそのまま敬太郎の正面に
据えて、そうして再び
故の座に帰った。
「
占ないは私がするのです」
敬太郎は意外の感に打たれた。この
小いさい
丸髷に
結った。
黒繻子の
襟のかかった着物の上に、地味な
縞の羽織を着た、一心に縫物をしている、純然家庭的の女が、自分の未来に横たわる運命の予言者であろうとは全く想像のほかにあったのである。その上彼はこの婦人の机の上に、
筮竹も
算木も
天眼鏡もないのを不思議に
眺めた。婆さんは机の上に乗っている細長い袋の中からちゃらちゃらと音をさせて、穴の
開いた
銭を九つ出した。敬太郎は始めてこれが看板に「文銭占ない」とある文銭なるものだろうと推察したが、さてこの九枚の文銭が、暗い中で自分を
操っている運命の糸と、どんな関係を
有っているか、固より想像し得るはずがないので、ただそこに
鋳出された模様と、それがしまってあった袋とを見比べるだけで、何事も云わずにいた。袋は
能装束の切れ端か、
懸物の表具の余りで
拵らえたらしく、金の糸が所々に光っているけれども、だいぶ古いものと見えて、
手擦と時代のため、派手な色を全く失っていた。
婆さんは年寄に似合わない白い
繊麗な指で、九枚の文銭を三枚ずつ
三列に並べたが、ひょっと顔を上げて、「身の上を御覧ですか」と聞いた。
「さあ
一生涯の事を一度に聞いておいても損はないが、それよりか今ここでどうしたらいいか、その方をきめてかかる方が僕には大切らしいから、まあそれを一つ願おう」
婆さんはそうですかと答えたが、それで御年はとまた敬太郎の年齢を尋ねた。それから生れた月と日を確めた。その
後で
胸算用でもする
案排しきで、指を折って見たり、ただ
考がえたりしていたが、やがてまた
綺麗な指で例の文銭を新らしく並べ
更えた。敬太郎は表に波が出たり、あるいは文字が現われたりして、三枚が三列に続く順序と排列を、深い意味でもあるような眼つきをして見守っていた。
婆さんはしばらく手を
膝の上に
載せて、何事も云わずに古い
銭の
面をじっと注意していたが、やがて考えの中心点が
明快纏まったという様子をして、「あなたは今迷っていらっしゃる」と云い切ったなり
敬太郎の顔を見た。敬太郎はわざと何も答えなかった。
「進もうかよそうかと思って迷っていらっしゃるが、これは御損ですよ。先へ
御出になった方が、たとい一時は思わしくないようでも、
末始終御為ですから」
婆さんは
一区限つけると、また口を閉じて敬太郎の様子を
窺った。敬太郎は始めからただ先方のいう事をふんふん聞くだけにして、こちらでは
喋舌らないつもりに、腹の中できめてかかったのであるが、婆さんのこの
一言に、ぼんやりした自分の頭が、相手の声に映ってちらりと姿を現わしたような気がしたので、ついその
刺戟に応じて見たくなった。
「進んでも
失敗るような事はないでしょうか」
「ええ。だからなるべくおとなしくして。短気を起さないようにね」
これは予言ではない、常識があらゆる人に教える忠告に過ぎないと思ったけれども婆さんの態度に、これという
故意とらしい点も見えないので、彼はなお質問を続けた。
「進むってどっちへ進んだものでしょう」
「それはあなたの方がよく分っていらっしゃるはずですがね。私はただ
最少し先まで
御出なさい、そのほうが御為だからと申し上げるまでです」
こうなると敬太郎も行きがかり上そうですかと云って
引込む訳に行かなくなった。
「だけれども道が二つ有るんだから、その内でどっちを進んだらよかろうと聞くんです」
婆さんはまた黙って
文銭の上を
眺めていたが、前よりは重苦しい口調で、「まあ
同なじですね」と答えた。そうして
先刻裁縫をしていた時に散らばした
糸屑を拾って、その中から
紺と赤の絹糸のかなり長いのを
択り出して、敬太郎の見ている前で、それを
綺麗に
縒り始めた。敬太郎はただ
手持無沙汰の
徒事とばかり思って、別段意にも
留めなかったが、婆さんは丹念にそれを五六寸の長さに
縒り上げて、文銭の上に
載せた。
「これを御覧なさい。こう縒り合わせると、一本の糸が二筋の糸で、二筋の糸が一本の糸になるじゃありませんか。そら
派手な赤と地味な
紺が。若い時にはとかく派手の方へ派手の方へと
駆け出してやり
損ない
勝のものですが、あなたのは今のところこの
縒糸みたように
丁度好い具合に、いっしょに
絡まり合っているようですから御仕合せです」
絹糸の
喩は何とも知らず面白かったが、御仕合せですと云われて見ると、
嬉しいよりもかえっておかしい心持の方が敬太郎を動かした。
「じゃこの紺糸で
地道を踏んで行けば、その間にちらちら派手な赤い色が出て来ると云うんですね」と敬太郎は向うの言葉を
呑み込んだような尋ね方をした。
「そうですそうなるはずです」と婆さんは答えた。始めから敬太郎は占ないの
一言で、是非共右か左へ片づけなければならないとまで
切に思いつめていた訳でもなかったけれども、これだけで帰るのも少し物足りなかった。婆さんの云う事が、まるで自分の胸とかけ
隔たった別世界の消息なら、
固より論はないが、意味の取り方ではだいぶ自分の今の身の上に、応用の
利く点もあるので、敬太郎はそこに
微かな未練を残した。
「もう何にも伺がう事はありませんか」
「そうですね。近い内にちょっとした事ができるかも知れません」
「災難ですか」
「災難でもないでしょうが、気をつけないとやり
損ないます。そうしてやり損なえばそれっきり取り返しがつかない事です」
敬太郎の好奇心は少し鋭敏になった。
「全体どんな
性質の事ですか」
「それは起って見なければ分りません。けれども盗難だの水難だのではないようです」
「じゃどうして
失敗らない工夫をして好いか、それも分らないでしょうね」
「分らない事もありませんが、もし御望みなら、もう一遍
占ないを立て直して見て上げても
宜うござんす」
敬太郎は、では御頼み申しますと云わない訳に行かなかった。婆さんはまた
繊細な指先を小器用に動かして、例の文銭を並べ
更えた。敬太郎から云えば
先の並べ方も今度の並べ方も大抵似たものであるが、婆さんにはそこに何か重大の差別があるものと見えて、その一枚を引っくり返すにも軽率に手は下さなかった。ようやく九枚をそれぞれ念入に片づけた
後で、婆さんは敬太郎に向って「大体分りました」と云った。
「どうすれば好いんですか」
「どうすればって、占ないには
陰陽の理で大きな形が現われるだけだから、実地は
各自がその場に臨んだ時、その大きな形に合わして考えるほかありませんが、まあこうです。あなたは自分のようなまた
他人のような、長いようなまた短かいような、出るようなまた
這入るようなものを待っていらっしゃるから、今度事件が起ったら、第一にそれを忘れないようになさい。そうすれば
旨く行きます」
敬太郎は
煙に巻かれざるを得なかった。いくら大きな形が陰陽の理で現われたにしたところで、これじゃ方角さえ立たない
霧のようなものだから、たとい
嘘でも本当でも、もう少し切りつめた応用の利くところを是非云わせようと思って、二三押問答をして見たが、いっこう
埒が明かなかった。敬太郎はとうとうこの禅坊主の
寝言に似たものを、
手拭に
包んだ
懐炉のごとく懐中させられて表へ出た。おまけに出がけに
七色唐辛子を二袋買って
袂へ入れた。
翌日彼は
朝飯の
膳に向って、煙の出る
味噌汁椀の
蓋を取ったとき、たちまち
昨日の唐辛子を思い出して、
袂から例の袋を取り出した。それを十二分に
汁の上に振りかけて、ひりひりするのを我慢しながら食事を済ましたが、婆さんの云わゆる「陰陽の理によって現われた大きな形」と頭の中に呼び起して見ると、まだ
漠然と
瓦斯のごとく残っていた。しかし手のつけようのない
謎に気を
揉むほど熱心な
占ない信者でもないので、彼はどうにかそれを解釈して見たいと
焦心る
苦悶を知らなかった。ただその分らないところに妙な
趣があるので、忘れないうちに、婆さんの云った通りを
紙片に書いて机の
抽出へ入れた。
もう一遍田口に会う手段を講じて見る事の可否は、
昨日すでに婆さんの
助言で断定されたものと敬太郎は解釈した。けれども彼は占ないを信じて動くのではない、動こうとする矢先へ婆さんが動く縁をつけてくれたに過ぎないのだと思った。彼は
須永へ行って彼の叔父がすでに大阪から帰ったかどうか尋ねて見ようかと考えたが、自動車事件の記憶がまだ新たに彼の胸を圧迫しているので、足を運ぶ勇気がちょっと出なかった。電話もこの際利用しにくかった。彼はやむを得ず、手紙で用を弁ずる事にした。彼はせんだって須永の母に話したとほぼ同様の
顛末を簡略に書いた後で、田口がもう旅行から帰ったかどうかを聞き合わせて、もし帰ったなら御多忙中はなはだ恐れ入るけれども、都合して会ってくれる訳には行くまいか、こっちはどうせ
閑な
身体だから、いつでも指定されて時日に出られるつもりだがと、この間の
権幕は、
綺麗に忘れたような口ぶりを見せた。敬太郎はこの手紙を出すと同時に、須永の返事を明日にも予想した。ところが二日立っても三日立っても何の
挨拶もないので、少し不安の念に悩まされ出した。なまじい
売卜者の言葉などに動かされて、恥を
掻いてはつまらないという後悔も
交った。すると四日目の午前になって、突然田口から電話口へ呼び出された。
電話口へ出て見ると案外にも主人の声で、今
直来る事ができるかという簡単な問い合わせであった。
敬太郎はすぐ出ますと答えたが、それだけで電話を切るのは何となくぶっきらぼう過ぎて
愛嬌が足りない気がするので、少し色を着けるために、
須永君から何か御話でもございましたかと聞いて見た。すると相手は、ええ市蔵から御希望を通知して来たのですが、
手数だから直接に私の方で御都合を伺がいました。じゃ御待ち申しますから、直どうぞ。と云ってそれなり
引込んでしまった。敬太郎はまた例の
袴を
穿きながら、今度こそ様子が好さそうだと思った。それからこの間買ったばかりの
中折を帽子掛から取ると、未来に富んだ顔に生気を
漲ぎらして
快豁に表へ出た。外には白い
霜を一度に
摧いた日が、
木枯しにも吹き
捲くられずに、
穏やかな往来をおっとりと一面に照らしていた。敬太郎はその中を
突切る電車の上で、光を
割いて進むような感じがした。
田口の玄関はこの間と違って
蕭条りしていた。
取次に袴を着けた例の書生が現われた時は、少しきまりが悪かったが、まさかせんだっては失礼しましたとも云えないので、素知らぬ顔をして
叮嚀に来意を告げた。書生は敬太郎を覚えていたのか、いないのか、ただはあと云ったなり名刺を受取って奥へ
這入ったが、やがて出て来て、どうぞこちらへと応接間へ案内した。敬太郎は取次の
揃えてくれた
上靴を
穿いて、御客らしく通るには通ったが、四五脚ある椅子のどれへ腰をかけていいかちょっと迷った。一番小さいのにさえきめておけば間違はあるまいという
謙遜から、彼は腰の高い
肱懸も装飾もつかない最も軽そうなのを
択って、わざと位置の悪い所へ席を占めた。
やがて主人が出て来た。敬太郎は使い慣れない切口上を使って、初対面の
挨拶やら会見の礼やらを述べると、主人は軽くそれを聞き流すだけで、ただはあはあと
挨拶した。そうしていくら区切が来ても、いっこう何とも云ってくれなかった。彼は主人の態度に失望するほどでもなかったが、自分の言葉がそう思う通り長く続かないのに弱った。一応頭の中にある挨拶を出し切ってしまうと、後はそれぎりで、
手持無沙汰と知りながら黙らなければならなかった。主人は
巻莨入から
敷島を一本取って、あとを心持敬太郎のいる方へ押しやった。
「市蔵からあなたの御話しは少し聞いた事もありますが、いったいどういう方を御希望なんですか」
実を云うと、敬太郎には何という特別の希望はなかった。ただ相当の位置さえ得られればとばかり考えていたのだから、こう聞かれるとぼんやりした答よりほかにできなかった。
「すべての方面に希望を
有っています」
田口は笑い出した。そうして
機嫌の好い顔つきをして、学士の
数のこんなに
殖えて来た
今日、いくら世話をする人があろうとも、そう最初から好い地位が得られる訳のものでないという事情を
懇ごろに説いて聞かせた。しかしそれは田口から改めて教わるまでもなく、敬太郎のとうから痛切に承知しているところであった。
「何でもやります」
「何でもやりますったって、まさか鉄道の切符切もできないでしょう」
「いえできます。遊んでるよりはましですから。将来の見込のあるものなら本当に何でもやります。第一遊んでいる苦痛を
逃れるだけでも結構です」
「そう云う御考ならまた私の方でもよく気をつけておきましょう。
直という訳にも行きますまいが」
「どうぞ。――まあ試しに使って見て下さい。あなたの
御家の――と云っちゃ余り変ですが、あなたの
私事にででもいいから、ちょっと使って見て下さい」
「そんな事でもして見る気がありますか」
「あります」
「それじゃ、ことに依ると何か願って見るかも知れません。いつでも構いませんか」
「ええなるべく早い方が結構です」
敬太郎はこれで会見を切り上げて、朗らかな顔をして表へ出た。
穏やかな冬の日がまた二三日続いた。
敬太郎は三階の
室から、窓に入る空と樹と
屋根瓦を
眺めて、自然を
橙色に暖ためるおとなしいこの日光が、あたかも自分のために世の中を照らしているような愉快を覚えた。彼はこの間の会見で、自分に都合の好い結果が、近い内にわが頭の上に落ちて来るものと固く信ずるようになった。そうしてその結果がどんな異様の形を
装って、彼の前に現われるかを、彼は最も楽しんで待ち暮らした。彼が田口に依頼した仕事のうちには、普通の依頼者の
申し
出以上のものまで含んでいた。彼は一定の職業から生ずる義務を希望したばかりでなく、
刺戟に
充ちた一時性の用事をも田口から期待した。彼の性質として、もし成効の影が彼を
掠めて
閃めくならば、おそらく尋常の雑務とは切り離された特別の精彩を帯びたものが、卒然彼の前に投げ出されるのだろうぐらいに考えた。そんな望を抱いて、彼は毎日美くしい日光に浴していたのである。
すると四日ばかりして、また田口から電話がかかった。少し頼みたい事ができたが、わざわざ呼び寄せるのも気の毒だし、電話では手間が
要ってかえって面倒になるし、仕方がないから、速達便で手紙を出す事にしたから、
委細はそれを見て承知してくれ。もし分らない事があったら、また電話で聞き合わしてもいいという通知であった。敬太郎はぼんやり見えていた
遠眼鏡の度がぴたりと合った時のように愉快な心持がした。
彼は机の前を
一寸も離れずに、速達便の届くのを待っていた。そうしてその間絶ず例の想像を
逞ましくしながら、田口のいわゆる用事なるものを胸の中で組み立てて見た。そこにはいつか
須永の門前で見た後姿の女が、ややともすると断わりなしに入り込んで来た。ふと気がついて、もっと実際的のものであるべきはずだと思うと、その時だけは自分で自分の空想を叱るようにしては、彼はもどかしい時を過ごした。
やがて待ち
焦れた状袋が彼の手に落ちた。彼はすっと音をさせて、封を裂いた。息も
継がずに巻紙の
端から端までを一気に読み通して、思わずあっという
微かな声を揚げた。与えられた彼の用事は待ち設けた空想よりもなお
浪漫的であったからである。手紙の文句は
固より簡単で用事以外の言葉はいっさい書いてなかった。今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で下りる四十
恰好の男がある。それは黒の
中折に
霜降の
外套を着て、顔の
面長い背の高い、
瘠せぎすの紳士で、
眉と眉の間に大きな
黒子があるからその特徴を
目標に、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろというだけであった。敬太郎は始めて自分が危険なる探偵小説中に主要の役割を演ずる一個の主人公のような心持がし出した。同時に田口が自己の社会的利害を
護るために、こんな暗がりの
所作をあえてして、他日の用に、
他の弱点を握っておくのではなかろうかと云う
疑を起した。そう思った時、彼は人の
狗に使われる不名誉と不徳義を感じて、一種
苦悶の
膏汗を
腋の下に流した。彼は手紙を手にしたまま、じっと
眸を
据えたなり固くなった。しかし須永の母から聞いた田口の性格と、自分が
直に彼に会った時の印象とを
纏めて考えて見ると、けっしてそんな人の悪そうな男とも思われないので、たとい他人の
内行に
探りを入れるにしたところで、必ずしもそれほど下品な
料簡から出るとは限らないという推断もついて見ると、いったん
硬直になった筋肉の底に、また
温たかい血が
通い始めて、徳義に逆らう
吐気なしに、ただ興味という一点からこの問題を面白く
眺める
余裕もできてきた。それで世の中に接触する経験の第一着手として、ともかくも田口から依頼された通りにこの仕事をやり
終せて見ようという気になった。彼はもう一度とくと田口の手紙を読み直した。そうしてそこに書いてある特徴と条件だけで、はたして満足な結果が実際に得られるだろうかどうかを確かめた。
田口から知らせて来た特徴のうちで、本当にその人の身を離れないものは、
眉と眉の間の
黒子だけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいう薄暗い光線の
下で、
乗降に忙がしい多数の客の
中から、指定された局部の一点を
目標に、これだと思う男を
過ちなく見つけ出そうとするのは容易の事ではない。ことに四時と五時の間と云えば、ちょうど役所の
退ける刻限なので、丸の内からただ一筋の電車を利用して、神田橋を出る役人の
数だけでも大したものである。それにほかと違って停留所が小川町だから、年の暮に間もない左右の
見世先に、幕だの楽隊だの、蓄音機だのを飾るやら
具えるやらして、電灯以外の景気を
点けて、不時の客を呼び寄せる混雑も
勘定に入れなければなるまい。それを想像して事の成否を考えて見ると、とうてい一人の
手際ではという
覚束ない心持が起って来る。けれどもまた尋ね出そうとするその人が、
霜降の
外套に黒の
中折という
服装で電車を降りるときまって見れば、そこにまだ
一縷の望があるようにも思われる。無論霜降の外套だけでは、どんな
恰好にしろ手がかりになり
様はずがないが、黒の中折を
被っているなら、色変りよりほかに用いる人のない
今日だから、すぐ眼につくだろう。それを
目宛に注意したらあるいは成功しないとも限るまい。
こう考えた敬太郎は、ともかくも停留所まで行って見る事だという気になった。時計を
眺めると、まだ一時を打ったばかりである。四時より三十分前に
向へ着くとしたところで、三時頃から
宅を出ればたくさんなのだから、まだ二時間の
猶予がある。彼はこの二時間を最も有益に利用するつもりで、じっとしたまま坐っていた。けれどもただ眼の前に、
美土代町と小川町が、
丁字になって交叉している三つ角の
雑沓が入り乱れて映るだけで、これと云って成功を
誘うに足る
上分別は浮ばなかった。彼の頭は考えれば考えるほど、同じ場所に吸いついたなりまるで動くことを知らなかった。そこへ、どうしても目指す人には会えまいという
掛念が、不安を伴って胸の中をざわつかせた。敬太郎はいっその事時間が来るまで外を歩きつづけに歩いて見ようかと思った。そう決心をして、両手を机の
縁に掛けて、勢よく立ち上がろうとする
途端に、この間浅草で
占ないの婆さんから聞いた、「近い内に何か事があるから、その時にはこうこういうものを忘れないようにしろ」という注意を思い出した。彼は婆さんのその時の言葉を、解すべからざる
謎として、ほとんど頭の外へ落してしまったにもかかわらず、参考のためわざわざ書きつけにして机の
抽出に入れておいた。でまたその
紙片を取り出して、自分のようで
他人のような、長いようで短かいような、出るようで
這入るようなという句を
飽かず
眺めた。初めのうちは今まで通りとうてい意味のあるはずがないとしか見えなかったが、だんだん繰り返して読むうちに、辛抱強く考えさえすれば、こういう妙な特性を
有ったものがあるいは出て来るかも知れないという気になった。その上敬太郎は婆さんに、自分が持っているんだから、いざという場合に忘れないようになさいと注意されたのを覚えていたので、何でも好い、ただ身の
周囲の物から、自分のようで
他人のような、長いようで短かいような、出るようで
這入るようなものを
探しあてさえすれば、比較的狭い範囲内で、この問題を解決する事ができる訳になって、存外早く片がつくかも知れないと思い出した。そこでわが自由になるこれから先の二時間を、全くこの
謎を解くための二時間として大切に利用しようと決心した。
ところがまず眼の前の机、書物、
手拭、
座蒲団から順々に進行して
行李鞄靴下までいったが、いっこうそれらしい物に出合わないうちに、とうとう一時間経ってしまった。彼の頭は
焦燥つと共に乱れて来た。彼の観念は彼の
室の中を
駆け
廻って落ちつけないので、制するのも聞かずに、戸外へ出て縦横に走った。やがて彼の前に、
霜降の
外套を着た黒の中折を
被った背の高い
瘠ぎすの紳士が、彼のこれから探そうというその人の権威を
具えて、ありありと現われた。するとその顔がたちまち大連にいる森本の顔になった。彼はだらしのない
髯を
生やした森本の
容貌を想像の眼で
眺めた時、突然電流に感じた人のようにあっと云った。
森本の二字はとうから
敬太郎の耳に変な響を伝える
媒介となっていたが、この頃ではそれが一層高じて全然一種の
符徴に変化してしまった。元からこの男の名前さえ出ると、必ず例の
洋杖を
聯想したものだが、洋杖が二人を
繋ぐ縁に立っていると解釈しても、あるいは二人の中を
割く邪魔に
挟まっていると
見傚しても、とにかく森本とこの竹の棒の間にはある
距離があって、そう
一足飛に片方から片方へ移る訳に行かなかったのに、今ではそれが一つになって、森本と云えば洋杖、洋杖と云えば森本というくらい
劇しく敬太郎の頭を
刺戟するのである。その刺戟を受けた彼の頭に、自分の所有のようなまた森本の所有のような、持主のどっちとも片づかないという観念が、
熱った血に流されながら偶然浮び上った時、彼はああこれだと叫んで、乱れ逃げる黒い影の内から、その洋杖だけをうんと
捕まえたのである。
「自分のような
他人のような」と云った婆さんの
謎はこれで解けたものと信じて、敬太郎は一人嬉しがった。けれどもまだ「長いような短かいような、出るような
這入るような」というところまでは考えて見ないので、彼はあまる二カ条の特性をも等しくこの洋杖の
中から
探し出そうという
料簡で、さらに新たな努力を
鼓舞してかかった。
始めは見方一つで長くもなり短かくもなるくらいの意味かも知れないと思って、先へ進んで見たが、それでは余り平凡過ぎて、解釈がついたもつかないも同じ事のような心持がした。そこでまた後戻りをして、「長いような短かいような」という言葉を
幾度か口の内でくり返しながら思案した。が、容易に解決のできる見込は立たなかった。時計を見ると、自由に使っていい二時間のうちで、もう三十分しか残っていない。彼は
抜裏と間違えて袋の口へ
這入り込んだ結果、好んで行き悩みの状態に
悶えているのでは無かろうかと、自分で自分の判断を危ぶみ出した。
出端のない行きどまりに立つくらいなら、もう一遍引き返して、新らしい
途を探す方がましだとも考えた。しかしこう時間が
逼っているのに、
初手から出直しては、とても間に合うはずがない、すでにここまで来られたという一部分の成功を
縁喜にして、是非先へ突き抜ける方が順当だとも考えた。これがよかろうあれがよかろうと右左に思い乱れている中に、彼の想像はふと全体としての
杖を離れて、握りに刻まれた
蛇の頭に移った。その瞬間に、
鱗のぎらぎらした細長い胴と、
匙の先に似た短かい頭とを我知らず比較して、胴のない
鎌首だから、長くなければならないはずだのに短かく切られている、そこがすなわち長いような短かいような物であると悟った。彼はこの答案を
稲妻のごとく頭の奥に
閃めかして、得意の余り
踴躍した。あとに残った「出るような
這入るような」ものは、大した苦労もなく約五分の間に解けた。彼は
鶏卵とも
蛙とも何とも名状しがたい或物が、
半ば蛇の口に隠れ、半ば蛇の口から現われて、
呑み尽されもせず、
逃れ切りもせず、出るとも這入るとも片のつかない状態を思い浮かべて、すぐこれだと判断したのである。
これで万事が
綺麗に解決されたものと考えた敬太郎は、
躍り上るように机の前を離れて、時計の鎖を帯に
絡んだ。帽子は手に持ったまま、
袴も
穿かずに
室を出ようとしたが、あの
洋杖をどうして持って出たものだろうかという問題がちょっと彼を
躊躇さした。あれに手を触れるのは無論、たとい
傘入から引き出したところで、森本が置き去りにして行ってからすでに久しい
今日となって見れば、主人に断わらないにしろ、
咎められたり怪しまれたりする
気遣はないにきまっているが、さて彼らが
傍にいない時、またおるにしても見ないうちに、それを
提げて出ようとするには相当の思慮か準備が必要になる。迷信のはびこる家庭に成長した敬太郎は、
呪禁に使う品物を(これからその目的に使うんだという
料簡があって)手に入れる時には、きっと人の見ていない機会を
偸んでやらなければ
利かないという言い伝えを、
郷里にいた頃、よく母から聞かされていたのである。敬太郎は宿の上り口の正面にかけてある時計を見るふりをして、二階の
梯子段の中途まで降りて下の様子を
窺がった。
主人は六畳の居間に、例の通り大きな瀬戸物の
丸火鉢を
抱え込んでいた。細君の姿はどこにも見えなかった。
敬太郎が梯子段の中途で、及び腰をして、
硝子越に
障子の中を
覗いていると、主人の頭の上で
忽然呼鈴が
烈しく鳴り出した。主人は
仰向いて番号を見ながら、おい誰かいないかねと
次の
間へ声をかけた。敬太郎はまたそろそろ三階の自分の
室へ帰って来た。
彼はわざわざ
戸棚を開けて、
行李の上に投げ出してあるセルの
袴を取り出した。彼はそれを
穿くとき、
腰板を
後に引き
摺って、
室の中を歩き廻った。それから
足袋を
脱いで、靴下に
更えた。これだけ
身装を改めた上、彼はまた三階を下りた。居間を
覗くと細君の姿は依然として見えなかった。下女もそこらにはいなかった。
呼鈴も今度は鳴らなかった。家中ひっそり
閑としていた。ただ主人だけは前の通り大きな丸火鉢に
靠れて、上り口の方を向いたなりじっと坐っていた。敬太郎は段々を下まで降り切らない先に、高い所から
斜に主人の丸くなった背中を見て、これはまだ都合が悪いと考えたが、ついに思い切って上り口へ出た。主人は
案の
上、「御出かけで」と
挨拶した。そうして
例の通り下女を呼んで
下駄箱にしまってある
履物を出させようとした。敬太郎は主人一人の眼を
掠すめるのにさえ苦心していたところだから、この上下女に出られては
敵わないと思って、いや
宜しいと云いながら、自分で下駄箱の
垂を上げて、早速靴を取りおろした。
旨い具合に下女は彼が土間へ降り立つまで出て来なかった。けれども、亭主は依然としてこっちを向いていた。
「ちょっと御願ですがね。室の机の上に今月の法学協会雑誌があるはずだが、ちょっと取って来てくれませんか。靴を
穿いてしまったんで、また
上るのが面倒だから」
敬太郎はこの主人に多少法律の心得があるのを知って、わざとこう頼んだのである。主人は自分よりほかのものでは
到底弁じない用事なので、「はあようがす」と云って
気さくに立って
梯子段を
上って行った。敬太郎はそのひまに例の
洋杖を
傘入から
抽き取ったなり、
抱き込むように羽織の下へ入れて、主人の座に帰らないうちにそっと表へ出た。彼は洋杖の頭の曲った
角を、右の
腋の下に感じつつ急ぎ足に本郷の通まで来た。そこでいったん羽織の下から
杖を出して
蛇の首をじっと
眺めた。そうして
袂の
手帛で上から下まで
綺麗に
埃を拭いた。それから後は普通の杖のように右の手に持って、力任せに振り振り歩いた。電車の上では、蛇の頭へ両手を重ねて、その上に
顋を
載せた。そうしてやっと今一段落ついた自分の努力を
顧みて、ほっと一息
吐いた。同時にこれから先指定された停留所へ行ってからの成否がまた気にかかり出した。考えて見ると、これほど骨を折って、
偸むように持ち出した洋杖が、どうすれば
眉と眉の間の
黒子を見分ける必要品になるのか、全く彼の思量のほかにあった。彼はただ婆さんに云われた通り、自分のような
他人のような、長いような短かいような、出るような
這入るようなものを、一生懸命に探し当てて、それを忘れないで
携さえているというまでであった。この怪しげに見えて平凡な、しかもむやみに軽い竹の棒が、寝かそうと起こそうと、手に持とうと
袖に隠そうと、未知の人を探す上に、はたして何の役に立つか知らんと疑ぐった時、彼はちょっとの
間、
瘧を振い落した人のようにけろりとして、車内を見廻わした。そうして頭の毛穴から湯気の立つほど
業を煮やした
先刻の努力を気恥かしくも感じた。彼は自分で自分の
所作を
紛らす
為に、わざと洋杖を取り直して、電車の
床をとんとんと軽く
叩いた。
やがて目的の場所へ来た時、彼はとりあえず青年会館の手前から引き返して、小川町の通へ出たが、四時にはまだ十五分ほど
間があるので、彼は人通りと電車の響きを横切って向う側へ渡った。そこには交番があった。彼は派出所の前に立っている巡査と同じ態度で、赤いポストの
傍から、
真直に南へ走る大通りと、
緩い弧線を描いて左右に廻り込む広い往来とを
眺めた。これから自分の活躍すべき舞台面を一応こういう風に検分した後で、彼はすぐ停留所の所在を確かめにかかった。
赤い
郵便函から五六間東へ
下ると、白いペンキで小川町停留所と書いた鉄の柱がすぐ彼の眼に
入った。ここにさえ待っていれば、たとい混雑に取り
紛れて注意人物を見失うまでも、刻限に自分の部署に着いたという強味はあると考えた彼は、これだけの安心を胸に握った上、また
目標の鉄の柱を離れて、
四辺の光景を見廻した。彼のすぐ後には
蔵造の瀬戸物屋があった。小さい
盃のたくさん並んだのを箱入にして額のように仕立てたのがその軒下にかかっていた。大きな
鉄製の
鳥籠に、陶器でできた
餌壺をいくつとなく外から
括りつけたのも、そこにぶら下がっていた。その隣りは皮屋であった。眼も爪も全く生きた時のままに残した大きな虎の皮に、
緋羅紗の
縁を取ったのがこの店の
重な装飾であった。
敬太郎は
琥珀に似たその虎の眼を深く見つめて立った。細長くって真白な皮でできた
襟巻らしいものの先に、
豆狸のような顔が付着しているのも
滑稽に見えた。彼は時計を出して時間を計りながら、また次の店に移った。そうして
瑪瑙で
刻った透明な
兎だの、
紫水晶でできた
角形の印材だの、
翡翠の
根懸だの
孔雀石の
緒締だのの、金の指輪やリンクスと共に、美くしく並んでいる宝石商の
硝子窓を
覗いた。
敬太郎はこうして店から店を順々に見ながら、つい天下堂の前を通り越して
唐木細工の店先まで来た。その時
後から来た電車が、突然自分の歩いている往来の向う側でとまったので、もしやという心から、
筋違に通を横切って細い横町の角にある
唐物屋の
傍へ近寄ると、そこにも一本の鉄の柱に、
先刻のと同じような、小川町停留所という文字が白く書いてあった。彼は念のためこの
角に立って、二三台の電車を待ち合わせた。すると最初には青山というのが来た。次には九段新宿というのが来た。が、いずれも
万世橋の方から
真直に進んで来るので彼はようやく安心した。これでよもやの
懸念もなくなったから、そろそろ元の位地に帰ろうというつもりで、彼は足の
向を
更えにかかった
途端に、南から来た一台がぐるりと
美土代町の角を回転して、また敬太郎の立っている傍でとまった。彼はその電車の運転手の頭の上に黒く掲げられた
巣鴨の二字を読んだ時、始めて自分の不注意に気がついた。三田方面から丸の内を抜けて小川町で降りるには、神田橋の大通りを
真直に突き当って、左へ曲っても今敬太郎の立っている停留所で降りられるし、また右へ曲っても
先刻彼の検分しておいた瀬戸物屋の前で降りられるのである。そうして両方とも同じ小川町停留所と白いペンキで書いてある以上は、自分がこれから
後を
跟けようという黒い中折の男は、どっちへ降りるのだか、彼にはまるで
見当がつかない事になるのである。眼を走らせて、二本の赤い鉄柱の
距離を目分量で測って見ると、一町には足りないくらいだが、いくら眼と鼻の間だからと云って、一方だけを専門にしてさえ
覚束ない彼の監視力に対して、両方共手落なく見張り
終せる
手際を要求するのは、どれほど自分の敏腕を高く見積りたい今の敬太郎にも絶対の不可能であった。彼は自分の
住居っている地理上の関係から、常に本郷三田間を連絡する電車にばかり乗っていたため、巣鴨方面から水道橋を通って同じく三田に続く線路の存在に、今が今まで気がつかずにいた自己の
迂闊を深く後悔した。
彼は困却の余りふと思いついた
窮策として、
須永の助力でも借りに行こうかと考えた。しかし時計はもう四時七分前に
逼っていた。ついこの裏通に住んでいる須永だけれども、門前まで駈けつける時間と、かい
摘んで用事を
呑み込ます時間を勘定に入れればとても間に合いそうにない。よしそのくらいの
間は取れるとしたところで、須永に一方の見張りを頼む以上は、もし例の紳士が彼のいる方へ降りるならば、何かの手段で敬太郎に合図をしなければならない。それもこの人込の中だから、手を挙げたり
手帛を振るぐらいではちょっと通じかねる。
紛れもなく敬太郎に分らせようとするには、往来を驚ろかすほどな大きな声で叫ぶに限ると云ってもいいくらいなものだが、そう云う
突飛なよほどな場合でも
体裁を重んずる須永のような男にできるはずがない。万一我慢してやってくれたところで、こっちから
駆けて行く間には、
肝心の黒の
中折帽を
被った男の姿は見えなくなってしまわないとも云えない。――こう考えた敬太郎はやむを得ないから運を天に任せてどっちか一方の停留所だけ守ろうと決心した。
決心はしたようなものの、それでは今立っている所を動かないための横着と同じ事になるので、わざと
成効を度外に置いて仕事にかかった不安を感ぜずにはいられなかった。彼は首を延ばすようにして、また東の停留所を望んだ。位地のせいか、
向の具合か、それとも自分が始終
乗降に慣れている訳か、どうもそちらの方が陽気に見えた。尋ねる人も何だか
向で降りそうな心持がした。彼はもう一度見張るステーションを移そうかと思いながら、なおかつ決しかねてしばらく
躊躇していた。するとそこへ江戸川行の電車が一台来てずるずるととまった。誰も
降者がないのを確かめた車掌は、一分と立たないうちにまた車を出そうとした。
敬太郎は錦町へ抜ける細い横町を背にして、眼の前の車台にはほとんど気のつかないほど、ここにいようかあっちへ行こうかと迷っていた。ところへ後の横町から突然
馳け出して来た一人の男が、敬太郎を突き
除けるようにして、ハンドルへ手をかけた運転手の台へ飛び上った。敬太郎の驚ろきがまだ回復しないうちに、電車はがたりと云う音を出してすでに動き始めた。飛び上がった男は
硝子戸の内へ半分
身体を入れながら失敬しましたと云った。敬太郎はその男と顔を見合せた時、彼の最後の視線が、自分の足の下に落ちたのを注意した。彼は敬太郎に当った
拍子に、敬太郎の持っていた
洋杖を
蹴飛ばして、それを持主の手から地面の上へ振り落さしたのである。敬太郎は
直曲んで洋杖を拾い上げようとした。彼はその時
蛇の頭が偶然
東向に倒れているのに気がついた。そうしてその頭の
恰好を何となしに、方角を教える
指標のように感じた。
「やっぱり東が好かろう」
彼は早足に瀬戸物屋の前まで帰って来た。そこで本郷三丁目と書いた電車から降りる客を、一人残らず物色する気で立った。彼は最初の二三台を親の
敵でも
覘うように
怖い眼つきで
吟味した
後、少し心に
余裕ができるに連れて、腹の中がだんだん
気丈になって来た。彼は自分の眼の届く広場を、一面の舞台と
見傚して、その上に自分と同じ態度の男が三人いる事を発見した。その一人は派出所の巡査で、これは自分と同じ方を向いて同じように立っていた。もう一人は天下堂の前にいるポイントマンであった。最後の
一人は広場の真中に青と赤の旗を神聖な
象徴のごとく振り分ける
分別盛りの
中年者であった。そのうちでいつ出て来るか知れない用事を期待しながら、人目にはさも退屈そうに立っているものは巡査と自分だろうと敬太郎は考えた。
電車は入れ代り立ち代り彼の前にとまった。乗るものは無理にも窮屈な箱の中に押し込もうとする、降りるものは
権柄ずくで上から
伸しかかって来る。敬太郎はどこの何物とも知れない
男女が
聚まったり散ったりするために、自分の前で無作法に演じ出す
一分時の争を何度となく見た。けれども彼の目的とする黒の中折の男はいくら待っても出て来なかった。ことに依ると、もうとうに西の停留所から降りてしまったものではなかろうかと思うと、こうして役にも立たない人の顔ばかり見つめて、眼のちらちらするほど一つ所に立っているのは、随分馬鹿気た
所作に見えて来る。敬太郎は下宿の机の前で熱に浮かされた人のように夢中で費やした
先刻の二時間を、充分
須永と打ち合せをして彼の援助を得るために利用した方が、
遥かに常識に
適った
遣口だと考え出した。彼がこの
苦い気分を痛切に
甞めさせられる頃から空はだんだん光を失なって、眼に映る物の色が一面に
蒼く沈んで来た。
陰鬱な冬の夕暮を補なう
瓦斯と電気の光がぽつぽつそこらの
店硝子を
彩どり始めた。ふと気がついて見ると、敬太郎から一間ばかりの所に、
廂髪に
結った一人の若い女が立っていた。電車の
乗降が始まるたびに、彼は注意の
余波を自分の左右に払っていたつもりなので、いつどっちから歩き寄ったか分らない婦人を思わぬ近くに見た時は、何より先にまずその存在に驚ろかされた。
女は年に合わして地味なコートを引き
摺るように長く着ていた。
敬太郎は若い人の肉を飾る
華麗な色をその裏に想像した。女はまたわざとそれを世間から押し包むようにして立っていた。
襦袢の
襟さえ
羽二重の
襟巻で隠していた。その羽二重の白いのが、夕暮の
逼るに連れて、空気から浮き出して来るほかに、女は身の
周囲に何といって
他の注意を
惹くものを着けていなかった。けれども
時節柄に
頓着なく、当人の
好尚を示したこの
一色が、敬太郎には何よりも
際立って見えた。彼は光の抜けて行く寒い空の下で、不調和な
異な物に出逢った感じよりも、
煤けた往来に
冴々しい一点を認めた気分になって女の
頸の
辺を注意した。女は敬太郎の視線を
正面に受けた時、心持
身体の
向を変えた。それでもなお落ちつかない様子をして、右の手を耳の所まで上げて、
鬢から
洩れた毛を
後へ掻きやる風をした。
固より女の髪は
綺麗に
揃っていたのだから、敬太郎にはこの挙動が
実のない
科としてのみ映ったのだが、その手を見た時彼はまた新たな注意を女から強いられた。
女は普通の日本の
女性のように絹の手袋を
穿めていなかった。きちりと合う
山羊の革製ので、
華奢な指をつつましやかに包んでいた。それが色の着いた
蝋を薄く手の甲に流したと見えるほど、肉と革がしっくりくっついたなり、一筋の
皺も
一分の
弛みも余していなかった。敬太郎は女の手を上げた時、この手袋が女の白い
手頸を三寸も深く隠しているのに気がついた。彼はそれぎり眼を転じてまた電車に向った。けれども
乗降の一混雑が済んで、思う人が出て来ないと、また心に二三分の
余裕ができるので、それを利用しようと待ち構えるほどの執着はなかったにせよ、電車の通り越した
相間相間には
覚られないくらいの視力を使って常に女の方を注意していた。
始め彼はこの女を「本郷行」か「亀沢町行」に乗るのだろうと考えていた。ところが両方の電車が一順廻って来て、自分の前に留っても、いっこう乗る様子がないので、彼は少々変に思った。あるいは無理に込み合っている車台に乗って、押し
潰されそうな窮屈を我慢するよりも、少し時間の浪費を
怺えた方が差引
得になるという主義の人かとも考えて見たが、満員という札もかけず、一つや二つの空席は充分ありそうなのが廻って来ても、女は少しも乗る
素振を見せないので、敬太郎はいよいよ変に思った。女は敬太郎から普通以上の注意を受けていると覚ったらしく、彼が少しでも手足の態度を改ためると、雨の降らないうちに
傘を広げる人のように、わざと彼の観察を
避ける準備をした。そうして故意に反対の方を見たり、あるいは向うへ二三歩あるき出したりした。それがため、妙に遠慮深いところのできた敬太郎はなるべく
露骨に女の方を見るのを
慎しんでいた。がしまいにふと気がついて、この女は不案内のため、自分の勝手で好い加減にきめた停留所の前に来て、乗れもしない電車をいつまでも待っているのではなかろうかと思った。それなら親切に教えてやるべきだという勇気が急に起ったので、彼は
逡巡する
気色もなく、真正面に女の方を向いた。すると女はふいと歩き出して、二三間先の宝石商の窓際まで行ったなり、あたかも敬太郎の存在を認めぬもののごとくに、そこで額を
窓硝子に着けるように、中に並べた指環だの、帯留だの
枝珊瑚の置物だのを
眺め始めた。敬太郎は見ず知らずの他人に入らざる
好意立をして、かえって自分と自分の品位を落したのを馬鹿らしく感じた。
女の
容貌は始めから大したものではなかった。
真向に見るとそれほどでもないが、横から眺めた鼻つきは誰の目にも少し低過ぎた。その代り色が白くて、
晴々しい心持のする
眸を
有っていた。宝石商の電灯は今
硝子越に
彼女の鼻と、
豊くらした頬の一部分と額とを照らして、
斜かけに立っている敬太郎の眼に、光と陰とから成る一種妙な
輪廓を与えた。彼はその輪廓と、長いコートに包まれた
恰好のいい彼女の姿とを胸に収めて、また電車の方に向った。
電車がまた二三台来た。そうして二三台共また
敬太郎の失望をくり返さして東へ去った。彼は成功を思い切った人のごとくに帯の下から時計を出して眺めた。五時はもうとうに過ぎていた。彼は
今更気がついたように、頭の上に
被さる黒い空を仰いで、
苦々しく
舌打をした。これほど骨を折って網を張った中へかからない鳥は、西の停留所から平気で逃げたんだと思うと、
他を
騙すためにわざわざ
拵らえた婆さんの予言も、大事そうに持って出た竹の
洋杖も、その洋杖が与えてくれた方角の暗示も、ことごとく
忌々しさの種になった。彼は暗い夜を
欺むいて眼先にちらちらする電灯の光を見廻して、自分をその中心に見出した時、この明るい輝きも
必竟自分の見残した夢の影なんだろうと考えた。彼はそのくらい興を
覚ましながらまだそのくらい
寝惚けた心持を失わずに立っていたが、やがて早く下宿へ帰って正気の人間になろうという覚悟をした。洋杖は自分の馬鹿を
嘲ける
記念だから、帰りがけに人の見ていない所で二つに折って、蛇の頭も鉄の輪の突がねもめちゃめちゃに、万世橋から御茶の水へ放り込んでやろうと決心した。
彼はすでに動こうとして一歩足を移しかけた時、また
先刻の若い女の存在に気がついた。女はいつの間にか宝石商の窓を離れて、元の通り彼から一間ばかりの所に立っていた。背が高いので、手足も
人尋常より
恰好よく伸びたところを、彼は快よく始めから眺めたのだが、今度はことにその右の手が彼の心を
惹いた。女は自然のままにそれをすらりと垂れたなり、まるで他の注意を予期しないでいたのである。彼は素直に調子の
揃った五本の指と、しなやかな
革で堅く
括られた
手頸と、手頸の
袖口の間から
微かに現われる肉の色を夜の光で認めた。風の少ない晩であったが、動かないで長く
一所に立ち尽すものに、寒さは
辛く当った。女は心持ち
顋を
襟巻の中に
埋めて、
俯目勝にじっとしていた。敬太郎は自分の存在をわざと眼中に置かないようなこの
眼遣の底に、かえって自分が気にかかっているらしい反証を得たと信じた。彼が先刻から
蚤取眼で、黒の中折帽を
被った紳士を探している間、この女は彼と同じ鋭どい注意を集めて、観察の矢を絶えずこっちに
射がけていたのではなかろうか。彼はある男を探偵しつつ、またある女に探偵されつつ、一時間
余をここに過ごしたのではなかろうか。けれどもどこの何物とも知れない男の、何をするか分らない行動を、何のために探るのだか、彼には何らの
考がなかったごとく、どこの何物とも知れない女から何を
仕出かすか分らない人として何のために自分が
覘われるのだか、そこへ行くとやはりまるで要領を得なかった。敬太郎はこっちで少し歩き出して見せたら向うの様子がもっと鮮明に分るだろうという気になって、そろりそろりと派出所の
後を西の方へ動いて行った。もちろん女に勘づかれないために、彼は振向いて後を見る動作を固く
憚かった。けれどもいつまでも前ばかり見て先へ行っては、
肝心の目的を達する機会がないので、彼は十間ほど来たと思う時分に、わざと見たくもない
硝子窓を
覗いて、そこに飾ってある
天鵞絨の
襟の着いた女の子のマントを
眺める風をしながら、そっと
後を振り向いた。すると女は自分の背後にいるどころではなかった。延び上ってもいろいろな人が自分を追越すように
後から後から来る陰になって、白い
襟巻も長いコートもさらに彼の眼に入らなかった。彼はそのまま前へ進む勇気があるかを自分に疑ぐった。黒い中折の帽子を被った人の事なら、定刻の五時を過ぎた今だから、断念してもそれほどの遺憾はないが、女の方はどんなつまらない結果に終ろうとも、
最少し観察していたかった。彼は女から自分が探偵されていると云う疑念を逆に投げ返して、こっちから女の行動を今しばらく注意して見ようという
物数奇を起した。彼は落し物を拾いに帰る人の急ぎ足で、また元の派出所近く来た。そこの暗い陰に身を寄せるようにして
窺うと、女は依然としてじっと通りの方を向いて立っていた。敬太郎の戻った事にはまるで気がついていない風に見えた。
その時
敬太郎の頭に、この女は処女だろうか細君だろうかという疑が起った。女は現代多数の日本婦人にあまねく行われる
廂髪に
結っているので、その辺の区別は始めから
不分明だったのである。が、いよいよ物陰に来て、
半後になったその姿を眺めた時は、第一番にどっちの階級に属する人だろうという問題が、新たに彼を
襲って来た。
見かけからいうとあるいは人に
嫁いだ経験がありそうにも思われる。しかし
身体の発育が尋常より
遥かに好いからことによれば年は存外取っていないのかも知れない。それならなぜあんな地味な
服装をしているのだろう。敬太郎は婦人の着る着物の色や
縞柄について、何をいう権利も
有たない男だが、若い女ならこの
陰鬱な
師走の空気を
跳ね返すように、
派出な色を肉の上に重ねるものだぐらいの
漠とした観察はあったのである。彼はこの女が若々しい自分の血に高い熱を与える
刺戟性の
文をどこにも見せていないのを不思議に思った。女の身に着けたものの内で、わずかに人の注意を
惹くのは
頸の
周囲を包む
羽二重の襟巻だけであるが、それはただ清いと云う感じを起す寒い色に過ぎなかった。あとは冬枯の空と似合った長いコートですぽりと隠していた。
敬太郎は年に合わして余りに
媚びる気分を失い過ぎたこの
衣服を再び
後から見て、どうしてもすでに男を知った結果だと判じた。その上この女の態度にはどこか
大人びた落ちつきがあった。彼はその落ちつきを品性と教育からのみ来た所得とは
見傚し得なかった。家庭以外の空気に触れたため、
初々しい
羞恥が、
手帛に振りかけた香水の
香のように自然と抜けてしまったのではなかろうかと疑ぐった。そればかりではない、この女の落ちつきの中には、落ちつかない筋肉の作用が、
身体全体の運動となったり、
眉や口の運動となって、ちょいちょい出て来るのを彼は
先刻目撃した。最も鋭敏に動くものはその眼であろうと彼は
疾くに認めていた。けれどもその鋭敏に動こうとする眼を、
強いて動かすまいと
力める女の態度もまた同時に認めない訳に行かなかった。だからこの女の落ちつきは、自分で自分の神経を殺しているという自覚に
伴なったものだと彼は
勘定していた。
ところが今
後から見た女は身体といい気分といい比較的沈静して両方の間に
旨く調子が取れているように思われた。
彼女は先刻と違って、別段姿勢を改ためるでもなく、そろそろ歩き出すでもなく、宝石商の窓へ寄り添うでもなく、寒さを
凌ぎかねる
風情もなく、ほとんど
閑雅とでも形容したい様子をして、一段高くなった人道の
端に立っていた。
傍には次の電車を待ち合せる人が二三散らばっていた。彼らは皆向うから来る車台を見つめて、早く自分の
傍へ招き寄せたい風に見えた。敬太郎が立ち
退いたので大いに安心したらしい彼女は、その
中で最も熱心に何かを待ち受ける
一人となって、筋向うの曲り角をじっと注意し始めた。敬太郎は派出所の陰を
上へ廻って車道へ降りた。そうしてペンキ塗の交番を
楯に、巡査の立っている横から女の顔を
覘うように見た。そうしてその表情の変化にまた驚ろかされた。今まで
後姿を
眺めて物陰にいた時は、彼女を包む
一色の目立たないコートと、その背の高さと、大きな
廂髪とを材料に、想像の国でむしろ自由過ぎる結論を
弄あそんだのだが、こうして彼女の知らない間に、その顔を遠慮なく眺めて見ると、全く新らしい人に始めて出逢ったような気がしない訳に行かなかった。要するに女は先刻より大変若く見えたのである。切に何物かを待ち受けているその眼もその口も、ただ
生々した一種
華やかな
気色に
充ちて、それよりほかの表情は
毫も見当らなかった。敬太郎はそのうちに処女の無邪気ささえ認めた。
やがて女の見つめている方角から一台の電車が弓なりに曲った線路を、ぐるりと
緩く廻転して来た。それが女のいる前で
滑るようにとまった時、中から二人の男が出た。一人は紙で包んだボール箱のようなものを
提げて、すたすた巡査の前を通り越して人道へ飛び上がったが、一人は降りると
直に女の前に行って、そこに立ちどまった。
敬太郎は女の笑い顔をこの時始めて見た。唇の薄い割に口の大きいのをその特徴の一つとして彼は最初から
眺めていたが、美くしい歯を
露き出しに現わして、
潤沢の
饒かな黒い大きな眼を、
上下の
睫の触れ合うほど、共に寄せた時は、この女から夢にも予期しなかった印象が新たに彼の頭に刻まれた。敬太郎は女の笑い顔に
見惚れると云うよりもむしろ驚ろいて相手の男に視線を移した。するとその男の頭の上に黒い
中折が乗っているのに気がついた。
外套は
判切霜降とは見分けられなかったが、帽子と同じ暗い光を敬太郎の
眸に投げた。その上背は高かった。
瘠ぎすでもあった。ただ
年齢の点に至ると、敬太郎にはとかくの判断を下しかねた。けれどもその人が寿命の
度盛の上において、自分とは
遥か
隔たった向うにいる事だけはたしかなので、彼はこの男を
躊躇なく四十
恰好と認めた。これだけの特点を前後なくほとんど同時に胸に入れ得た時、彼は自分が
先刻から馬鹿を尽してつけ
覘った本人がやっと今電車を降りたのだと断定しない訳に行かなかった。彼は例刻の五時がとうの
昔しに過ぎたのに、妙な
酔興を起して、やはり同じ所にぶらついていた自分を仕合せだと思った。その酔興を起させるため、自分の好奇心を釣りに若い女が偶然出て来てくれたのをありがたく思った。さらにその若い女が自分の探す人を、自分よりも倍以上の自信と忍耐をもって、待ち
終せたのを幸運の一つに数えた。彼はこの
Xという男について、田口のために、ある知識を供給する事ができると共に、同じ知識が
Yという女に関する自分の好奇心を幾分か満足させ得るだろうと信じたからである。
男と女はまるで敬太郎の存在に気がつかなかったと見えて、前後左右に遠慮する
気色もなく、なお立ちながら話していた。女は始終微笑を
洩らす事をやめなかった。男も時々声を出して笑った。二人が始めて顔を合わした時の
挨拶の様子から見ても彼らはけっして疎遠な間柄ではなかった。異性を
繋ぎ合わせるようで、その実両方の仲を
堰く、
慇懃な
男女間の礼義は彼らのどちらにも見出す事ができなかった。男は帽子の
縁に手をかける面倒さえあえてしなかった。敬太郎はその
鍔の下にあるべきはずの大きな
黒子を面と向って是非突き留めたかった。もし女がいなかったならば肉の上に取り残されたこの異様な一点を確かめるために、彼はつかつかと男の前へ進んで行って、何でも好いから、ただ口から
出任せの質問をかけたかも知れない。それでなくても、
直ちに彼の
傍へ近寄って、満足の行くまでその顔を
覗き込んだろう。この際そう云う大胆な行動を妨たげるものは、男の前に立っている例の女であった。女が敬太郎の態度を悪く疑ぐったかどうかは問題として、彼の挙動に不審を
抱いた様子は、同じ場所に長く立ち並んだ彼の目に親しく映じたところである。それを承知しながら、再びその視線の内に、自分の顔を無遠慮に突き出すのは、多少紳士的でない上に、
嫌疑の火の手をわざと強くして、自分の目的を自分で
打ち
毀すと同じ結果になる。
こう考えた敬太郎は、自然の順序として相応の機会が
廻って来るまでは、黒子の有る無しを見届けるだけは差し控えた方が得策だろうと判断した。その代り見え隠れに二人の
後を
跟けて、でき得るならば断片的でもいいから、彼らの談話を小耳に
挟もうと覚悟した。彼は先方の許諾を待たないで、彼らの言動を、ひそかに我胸に畳み込む事の徳義的価値について、別に良心の相談を受ける必要を認めなかった。そうして自分の骨折から出る結果は、
世故に通じた田口によって、必ず善意に利用されるものとただ
淡泊に信じていた。
やがて男は女を
誘なう風をした。女は笑いながらそれを
拒むように見えた。しまいに
半ば向き合っていた二人が、肩と肩を
揃えて瀬戸物屋の
軒端近く歩き寄った。そこから手を組み合わせないばかりに並んで東の方へ歩き出した。敬太郎は二三間早足に進んで、すぐ彼らの背後まで来た。そうして自分の歩調を彼らと同じ速度に改ためた。万一女に振り向かれても、疑惑を
免かれるために、彼はけっして彼らの後姿には眼を注がなかった。偶然前後して天下の往来を同じ方角に行くもののごとくに、
故意とあらぬ
方を見て歩いた。
「だって
余まりだわ。こんなに人を待たしておいて」
敬太郎の耳に入った第一の言葉は、女の口から出たこういう意味の句であったが、これに対する男の答は全く聞き取れなかった。それから五六間行ったと思う頃、二人の足が急に今までの歩調を失って、並んだ影法師がほとんど敬太郎の前に立ち
塞がりそうにした。敬太郎の方でも、
後から向うに突き当らない限りは先へ通り抜けなければ
跋が悪くなった。彼は二人の後戻りを恐れて、急に
傍にあった菓子屋の店先へ寄り添うように自分を片づけた。そうしてそこに並んでいる大きな
硝子壺の中のビスケットを見つめる風をしながら、二人の動くのを待った。男は
外套の中へ手を入れるように見えたが、それが済むと少し
身体を横にして、下向きに右手で持ったものを店の
灯に映した。男の顔の下に光るものが金時計である事が、その時敬太郎に分った。
「まだ六時だよ。そんなに遅かあない」
「遅いわあなた、六時なら。
妾もう少しで
帰るところよ」
「どうも御気の毒さま」
二人はまた歩き出した。敬太郎も
壺入のビスケットを見棄ててその
後に従がった。二人は
淡路町まで来てそこから
駿河台下へ抜ける細い横町を曲った。敬太郎も続いて曲ろうとすると、二人はその角にある西洋料理屋へ入った。その時彼はその
門口から射す強い光を浴びた男と女の顔を横から一眼見た。彼らが停留所を離れる時、二人連れ立ってどこへ行くだろうか、敬太郎にはまるで想像もつかなかったのだが、突然こんな
家へ
入いられて見ると、何でもない所だけに、かえって案外の感に打たれざるを得なかった。それは
宝亭と云って、敬太郎の元から知っている料理屋で、古くから大学へ
出入をする
家であった。近頃
普請をしてから新らしいペンキの色を半分電車通りに
曝して、
斜かけに立ち切られたような
棟を南向に見せているのを、彼は通り掛りに時々注意した事がある。彼はその薄青いペンキの光る内側で、額に仕立てたミュンヘン
麦酒の広告写真を仰ぎながら、
肉刀と
肉叉を
凄まじく闘かわした
数度の記憶さえ
有っていた。
二人の行先については、これという明らかな希望も予期も無かったが、少しは
紫がかった空気の匂う
迷路の中に引き入れられるかも知れないくらいの感じが
暗に働らいてこれまで後を
跟けて来た敬太郎には、
馬鈴薯や牛肉を揚げる油の
臭が、台所からぷんぷん往来へ
溢れる西洋料理屋は余りに平凡らしく見えた。けれども自分のとても近寄れない幽玄な所へ姿を隠して、それぎり出て来ないよりは、
遥かに都合が好いと考え直した彼は、二人の身体が、誰にでも近寄る事のできる、普通の洋食店のペンキの奥に囲われているのをむしろ心丈夫だと
覚った。幸い彼はこのくらいな程度の家で、冬空の外気に
刺戟された食慾を
充たすに足るほどの財布を懐中していた。彼はすぐ二人の
後を追ってそこの二階へ
上ろうとしたが、電灯の強く往来へ
射す
門口まで来た時、ふと気がついた。すでに女から顔を覚えられた以上、ほとんど同時に一つ二階へ押し上っては
不味い。ひょっとするとこの人は自分を
跟けて来たのだという疑惑を
故意先方に与える訳になる。
敬太郎は何気ない振をして、往来へ射す光を横切ったまま、黒い
小路を一丁ばかり先へ歩いた。そうしてその小路の尽きる坂下からまた黒い人となって、自分の影法師を自分の
身体の中へ畳み込んだようにひっそりと明るい門口まで帰って来た。それからその
門を
潜った。時々来た事があるので、彼はこの
家の勝手をほぼ承知していた。下には客を通す部屋がなくって、二階と三階だけで用を弁じているが、よほど込み合わなければ三階へは案内しない、大抵は二階で済むのだから、
上って右の奥か、左の横にある広間を
覗けば、大抵二人の席が見えるに違ない、もしそこにいなかったら表の方の細長い
室まで
開けてやろうぐらいの考で、
階段を上りかけると、白服の
給仕が彼を案内すべく上り口に立っているのに気がついた。
敬太郎は手に持った
洋杖をそのままに段々を
上り切ったので、給仕は彼の席を定める前に、まずその洋杖を受取った。同時にこちらへと云いながら背中を向けて、右手の広間へ彼を案内した。彼は給仕の
後から自分の洋杖がどこに落ちつくかを一目見届けた。するとそこに
先刻注意した黒の
中折帽が掛っていた。
霜降らしい
外套も、女の着ていた色合のコートも釣るしてあった。給仕がその
裾を動かして、竹の洋杖を
突込んだ時、大きな模様を抜いた
羽二重の裏が敬太郎の眼にちらついた。彼は
蛇の頭がコートの裏に隠れるのを待って、そらにその持主の方に眼を転じた。幸いに女は男と向き合って、入口の方に背中ばかりを見せていた。新らしい客の来た物音に、振り返りたい気があっても、ぐるりと廻るのが、いったん席に落ちついた品位を
崩す
恐があるので、必要のない限り、普通の婦人はそういう動作を避けたがるだろうと考えた敬太郎は、女の後姿を
眺めながら、ひとまず
安堵の思いをした。女は彼の推察通りはたして
後を向かなかった。彼はその
間に女の坐っているすぐ
傍まで行って背中合せに第二列の食卓につこうとした。その時男は顔を上げて、まだ腰もかけず
向も改ためない敬太郎を見た。彼の食卓の上には支那めいた
鉢に植えた松と梅の
盆栽が飾りつけてあった。彼の前にはスープの皿があった。彼はその中に大きな
匙を落したなり敬太郎と顔を見合せたのである。二人の間に
横わる六尺に足らない距離は明らかな電灯が
隈なく照らしていた。卓上に掛けた白い布がまたこの明るさを助けるように、
潔ぎいい光を四方の
食卓から反射していた。敬太郎はこういう都合のいい条件の具備した
室で、男の顔を満足するまで見た。そうしてその顔の
眉と眉の間に、田口から通知のあった通り、大きな
黒子を認めた。
この
黒子を別にして、男の
容貌にこれと云った特異な点はなかった。眼も鼻も口も全く人並であった。けれども離れ離れに見ると
凡庸な道具が
揃って、
面長な顔の表にそれぞれの位地を占めた時、彼は尋常以上に品格のある紳士としか誰の目にも映らなかった。敬太郎と顔を合せた時、スープの中に
匙を入れたまま、
啜る手をしばらくやめた態度などは、どこかにむしろ気高い風を帯びていた。敬太郎はそれなり背中を彼の方に向けて自分の席に着いたが、探偵という文字に普通付着している意味を心のうちで考え出して、この男の
風采態度と探偵とはとても釣り合わない性質のものだという気がした。敬太郎から見ると、この人は探偵してしかるべき何物をも彼の人相の上に
有っていなかったのである。彼の顔の表に並んでいる眼鼻口のいずれを取っても、その奥に秘密を隠そうとするには、余りにできが尋常過ぎたのである。彼は自分の席へ着いた時、田口から引き受けたこの
宵の仕事に対する自分の興味が、すでに三分の一ばかり蒸発したような失望を感じた。第一こんな
性質の仕事を田口から引き受けた徳義上の可否さえ疑がわしくなった。
彼は自分の注文を通したなり、ポカンとして
麺麭に手も
触れずにいた。男と女は彼らの
傍に坐った新らしい客に幾分か遠慮の気味で、ちょっとの
間話を途切らした。けれども敬太郎の前に暖められた白い皿が現われる頃から、また少し調子づいたと見えて、二人の声が
互違に敬太郎の耳に
入った。――
「今夜はいけないよ。少し用があるから」
「どんな用?」
「どんな用って、大事な用さ。なかなかそう安くは話せない用だ」
「あら好くってよ。
妾ちゃんと知ってるわ。――さんざっぱら
他を待たした癖に」
女は少し
拗ねたような物の云い方をした。男は
四辺に遠慮する風で、低く笑った。二人の会話はそれぎり静かになった。やがて思い出したように男の声がした。
「何しろ今夜は少し遅いから止そうよ」
「ちっとも遅かないわ。電車に乗って行きゃあ
直じゃありませんか」
女が勧めている事も男が
躊躇している事も敬太郎にはよく解った。けれども彼らがどこへ行くつもりなのだか、その
肝心な目的地になると、彼には何らの観念もなかった。
もう少し聞いている内にはあるいはあたりがつくかも知れないと思って、
敬太郎は自分の前に残された皿の上の
肉刀と、その傍に転がった赤い
仁参の
一切を
眺めていた。女はなお男を
強いる事をやめない様子であった。男はそのたびに何とかかとか云って
逃れていた。しかし相手を
怒らせまいとする優しい態度はいつも変らなかった。敬太郎の前に新らしい肉と
青豌豆が運ばれる時分には、女もとうとう
我を折り始めた。敬太郎は心の内で、女がどこまでも剛情を張るか、でなければ男が
好加減に降参するか、どっちかになればいいがと、ひそかに祈っていたのだから、思ったほど女の強くないのを発見した時は少なからず残念な気がした。せめて二人の間に名を出す必要のないものとして略されつつあった目的地だけでも、何かの
機会に小耳に
挟んでおきたかったが、いよいよ話が
纏まらないとなると、
男女の問答は自然ほかへ移らなければならないので、当分その望みも絶えてしまった。
「じゃ行かなくってもいいから、あれをちょうだい」と、やがて女が云い出した。
「あれって、ただあれじゃ分らない」
「ほらあれよ。こないだの。ね、分ったでしょう」
「ちっとも分らない」
「失敬ね、あなたは。ちゃんと分ってる癖に」
敬太郎はちょっと振り向いて
後が見たくなった。その時
階段を踏む大きな音が聞こえて、三人ばかりの客がどやどやと一度に
上って来た。そのうちの一人はカーキー色の服に長靴を
穿いた軍人であった。そうして
床の上を歩く音と共に、腰に釣るした剣をがちゃがちゃ鳴らした。三人は上って左側の
室へ案内された。この物音が例の男と女の会話を
攪き乱したため、敬太郎の好奇心もちらつく剣の光が落ちつくまで中途に停止していた。
「この間見せていただいたものよ。分って」
男は分ったとも分らないとも云わなかった。敬太郎には無論想像さえつかなかった。彼は女がなぜ
淡泊に自分の欲しいというものの名を
判切云ってくれないかを
恨んだ。彼は何とはなしにそれが知りたかったのである。すると、
「あんなもの今ここに持ってるもんかね」と男が云った。
「誰もここに持ってるって云やしないわ。ただちょうだいって云うのよ。
今度でいいから」
「そんなに欲しけりゃやってもいい。が……」
「あッ
嬉しい」
敬太郎はまた振り返って女の顔が見たくなった。男の顔もついでに見ておきたかった。けれども女と一直線になって、背中合せに坐っている自分の位置を考えると、この際そんな盲動は
慎しまなければならないので、眼のやりどころに困るという風で、ただ正面をぽかんと見廻した。すると勝手の
上り
口の方から、
給仕が白い皿を二つ持って入って来て、それを古いのと引き
更えに、二人の前へ置いて行った。
「小鳥だよ。食べないか」と男が云った。
「
妾もうたくさん」
女は焼いた小鳥に手を触れない様子であった。その代り暇のできた口を男よりは余計動かした。二人の問答から察すると、女の男にくれと
逼ったのは
珊瑚樹の
珠か何からしい。男はこういう事に精通しているという
口調で、いろいろな説明を女に与えていた。が、それは敬太郎には興味もなければ、解りもしない
好事家の
嬉しがる知識に過ぎなかった。
練物で作ったのへ指先の
紋を押しつけたりして、時々
旨くごまかした
贋物があるが、それは
手障りがどこかざらざらするから、本当の
古渡りとは
直区別できるなどと
叮嚀に女に教えていた。敬太郎は
前後を
綜合わして、何でもよほど
貴とい、また大変珍らしい、今時そう
容易くは手に入らない時代のついた
珠を、女が男から
貰う約束をしたという事が解った。
「やるにはやるが、御前あんなものを貰って
何にする気だい」
「あなたこそ何になさるの。あんな物を持ってて、男の癖に」
しばらくして男は「御前御菓子を食べるかい、
菓物にするかい」と女に聞いた。女は「どっちでも好いわ」と答えた。彼らの食事がようやく終りに近づいた合図とも見られるこの簡単な問答が、今までうっかりと二人の話に釣り込まれていた
敬太郎に、たちまち自分の義務を注意するように響いた。彼はこの料理屋を出た
後の二人の行動をも観察する必要があるものとして、自分で自分の役割を作っていたのである。彼は二人と同時に二階を下りる事の不得策を初めから承知していた。
後れて席を立つにしても、
巻煙草を一本吸わない先に、夜と人と、
雑沓と
暗闇の中に、彼らの姿を見失なうのはたしかであった。もし間違いなく彼らの影を踏んで
後から
喰付いて行こうとするなら、どうしても一足先へ出て、相手に気のつかない物陰か何かで、待ち合せるよりほかに仕方がないと考えた。敬太郎は早く勘定を済ましておくに
若くはないという気になって、早速
給仕を呼んでビルを請求した。
男と女はまだ落ちついて話していた。しかし二人の間に何というきまった題目も起らないので、それを種に意見や感情の
交換も始まる
機会はなく、ただだらしのない雲のようにそれからそれへと流れて行くだけに過ぎなかった。男の特徴に数えられた
眉と眉の間の
黒子なども偶然女の口に
上った。
「なぜそんな所に黒子なんぞができたんでしょう」
「何も近頃になって急にできやしまいし、生れた時からあるんだ」
「だけどさ。見っともなかなくって、そんな
所にあって」
「いくら見っともなくっても仕方がないよ。生れつきだから」
「早く大学へ行って取って貰うといいわ」
敬太郎はこの時
指洗椀の水に自分の顔の映るほど下を向いて、両手で自分の
米噛を隠すように
抑えながら、くすくすと笑った。ところへ給仕が釣銭を盆に乗せて持って来た。敬太郎はそっと立って目立たないように
階段の
上り
口までおとなしく足を運ぶと、そこに立っていた給仕が大きな声で、「御立あち」と下へ知らせた。同時に敬太郎は
先刻給仕に預けた
洋杖を取って来るのを忘れた事に気がついた。その洋杖はいまだに
室の
隅に置いてある帽子掛の下に突き込まれたまま、女の長いコートの
裾に隠されていた。敬太郎は室の中にいる
男女を
憚かるように、抜き足で後戻りをして、静かにそれを取り出した。彼が蛇の頭を握った時、すべすべした
羽二重の裏と、柔かい
外套の裏が、優しく手の甲に触れるのを彼は感じた。彼はまた爪先で歩かないばかりに気をつけて階段の上まで来ると、そこから急に調子を変えて、とん、とん、とんと
刻み
足に下へ
駆け下りた。表へ出るや否や電車通を直ぐ向うへ横切った。その突き当りに、大きな古着屋のような洋服屋のような店があるので、彼はその店の電灯の光を
後にして立った。こうしてさえいれば料理店から出る二人が大通りを右へ曲ろうが、左へ折れようが、または中川の角に添って
連雀町の方へ抜けようが、あるいは
門からすぐ
小路伝いに
駿河台下へ向おうが、どっちへ行こうと
見逃す
気遣はないと彼は心丈夫に
洋杖を突いて、目指す家の
門口を見守っていた。
彼は約十分ばかり待った後で、注意の
焼点になる光の
中に、いっこう人影が射さないのを不審に思い始めた。やむを得ず二階を
眺めてその窓だけ明るくなった奥を
覗くように、彼らの早く席を立つ事を祈った。そうして待ち
草臥れた眼を移すごとに、屋根の上に広がる黒い空を仰いだ。今まで地面の上を照らしている人間の光ばかりに
欺むかれて、まるでその存在を忘れていたこの大きな夜は、暗い頭の上で、
先刻から寒そうな雨を
醸していたらしく、敬太郎の心を
佗びしがらせた。ふと考えると、今までは自分に遠慮してただの話をしていた二人が、自分の立ったのを幸いに、自分の役目として是非聞いておかなければならないような
肝心の相談でもし始めたのではなかろうか。彼はこの疑惑と共に黒い空を仰ぎながら、そのうちに二人の向き合った姿をありありと認めた。
彼はあまり注意深く立ち廻って、かえって洋食店の門を早く出過ぎたのを
悔んだ。けれども二人が彼に
気兼をする以上は、たとい同じ席にいつまでも根が生えたように腰を
据えていたところで、やっぱり普通の世間話よりほかに聞く訳には行かないのだから、よし今まで
坐ったまま動かないものと仮定しても、その結果は早く席を立ったと、ほぼ同じ事になるのだと思うと、彼は寒いのを我慢しても、同じ所に見張っているより仕方なかった。すると帽子の
廂へ雨が
二雫ほど落ちたような気がするので、彼はまた
仰向いて黒い空を眺めた。
闇よりほかに何も眼を
遮ぎらない頭の上は、彼の立っている電車通と違って非常に静であった。彼は
頬の上に
一滴の雨を待ち受けるつもりで、久しく顔を上げたなり、
恰好さえ分らない大きな暗いものを見つめている
間に、今にも降り出すだろうという
掛念をどこかへ失なって、こんな落ちついた空の下にいる自分が、なぜこんな落ちつかない
真似を好んでやるのだろうと偶然考えた。同時にすべての責任が自分の今突いている竹の
洋杖にあるような気がした。彼は例のごとく
蛇の頭を握って、寒さに対する
欝憤を晴らすごとくに、二三度それを
烈しく振った。その時待ち佗びた人の影法師が
揃って洋食店の門口を出た。
敬太郎は何より先に女の細長い
頸を包む白い
襟巻に眼をつけた。二人はすぐと大通りへ出て、敬太郎の向う側を、先刻とは反対の方角に、元来た道へ引き返しにかかった。敬太郎も
猶予なく向うへ渡った。彼らは
緩い歩調で、
賑やかに飾った店先を
軒ごとに
覗くように足を運ばした。
後から
跟いて行く敬太郎は是非共二人に釣り合った歩き方をしなければならないので、その遅過ぎるのがだいぶ苦になった。男は
香の高い葉巻を
銜えて、行く行く夜の中へ
微かな色を立てる煙を吐いた。それが風の具合で
後から従がう敬太郎の鼻を時々快ろよく
侵した。彼はその
香いを
嗅ぎ嗅ぎ
鈍い足並を我慢して実直にその跡を踏んだ。男は背が高いので
後から見ると、ちょっと西洋人のように思われた。それには彼の吹かしている強い葉巻が多少
錯覚を助けた。すると
聯想がたちまち
伴侶の方に移って、女が
旦那から買って
貰った
革の手袋を
穿めている
洋妾のように思われた。敬太郎がふとこういう空想を起して、おかしいと思いながらも、なお一人で興を催していると、二人は最前待ち合わした停留所の前まで来てちょっと立ちどまったが、やがてまた線路を横切って向側へ越した。敬太郎も二人のする通りを
真似た。すると二人はまた
美土代町の
角をこちらから反対の側へ渡った。敬太郎もつづいて同じ側へ渡った。二人はまた歩き出して南へ動いた。角から半町ばかり来ると、そこにも赤く塗った鉄の柱が一本立っていた。二人はその柱の
傍へ寄って立った。彼らはまた三田線を利用して南へ、帰るか、行くか、する人だとこの時始めて気がついた敬太郎は、自分も是非同じ電車へ乗らなければなるまいと覚悟した。彼らは申し合せたように敬太郎の方を
顧みた。
固より彼のいる方から電車が横町を曲って来るからではあるが、それにしても敬太郎は余り好い心持はしなかった。彼は帽子の
鍔をひっくり返して、ぐっと下へおろして見たり、手で顔を
撫でて見たり、なるべく軒下へ身を寄せて見たり、わざと変な
見当を
眺めて見たりして、電車の現われるのをつらく待ち
佗びた。
間もなく一台来た。敬太郎はわざと二人の乗った
後から
這入って、
嫌疑を避けようと工夫した。それでしばらく後の方にぐずぐずしていると、女は例の長いコートの
裾を踏まえないばかりに引き
摺って車掌台の上に足を移した。しかしあとから
直続くと思った男は、案外
上る
気色もなく、足を
揃えたまま、両手を
外套の
隠袋に突き差して立っていた。敬太郎は女を見送りに男がわざわざここまで足を運んだのだという事にようやく気がついた。実をいうと、彼は男よりも女の方に余計興味を持っていたのである。男と女がここで分れるとすれば、無論男を捨てて女の先途だけを見届けたかった。けれども自分が田口から
依託されたのは女と関係のない黒い
中折帽を
被った男の行動だけなので、彼は我慢して車台に飛び上がるのを差し控えた。
女は車台に乗った時、ちょっと男に目礼したが、それぎり中へ
這入ってしまった。冬の
夜の事だから、
窓硝子はことごとく
締め切ってあった。女はことさらにそれを開けて内から首を出すほどの
愛嬌も見せなかった。それでも男はのっそり立って、車の動くのを待っていた。車は動き出した。二人の間に
挨拶の
交換がもう必要でないと認めたごとく、電力は急いで光る窓を南の
方へ運び去った。男はこの時口に
銜えた葉巻を土の上に投げた。それから足の向を変えてまた三ツ角の交叉点まで出ると、今度は左へ折れて
唐物屋の前でとまった。そこは
敬太郎が人に突き当られて、竹の
洋杖を取り落した記憶の新らしい停留所であった。彼は男の
後を見え隠れにここまで
跟いて来て、また見たくもない唐物屋の店先に飾ってある
新柄の
襟飾だの、
絹帽だの、
変り
縞の
膝掛だのを
覗き込みながら、こう遠慮をするようでは、探偵の興も
覚めるだけだと考えた。女がすでに離れた以上、自分の仕事に
飽が来たと云ってはすまないが、
前同様であるべき窮屈の程度が急に著るしく感ぜられてならなかった。彼の依頼されたのは中折の男が小川町で降りてから二時間内の行動に限られているのだから、もうこれで偵察の役目は済んだものとして、下宿へ帰って寝ようかとも思った。
そこへ男の待っている電車が来たと見えて、彼は長い手で鉄の棒を握るや
否や
瘠せた
身体を
体よくとまり切らない車台の上に乗せた。今まで
躊躇していた敬太郎は急にこの瞬間を失なってはという気が出たので、すぐ同じ車台に飛び上った。車内はそれほど込みあっていなかったので、乗客は自由に互の顔を見合う余裕を充分持っていた。敬太郎は箱の中に身体を入れると同時に、すでに席を占めた五六人から一度に視線を集められた。そのうちには今
坐ったばかりの中折の男のも
交っていたが、彼の敬太郎を見た眼のうちには、おやという認識はあったが、つけ
覘われているなという疑惑はさらに現われていなかった。敬太郎はようやく伸び伸びした心持になって、男と同じ側を
択って腰を掛けた。この電車でどこへ連れて行かれる事かと思って軒先を見ると、江戸川行と黒く書いてあった。彼は男が乗り換えさえすれば、自分も早速降りるつもりで、停留所へ来るごとに男の様子を
窺がった。男は
始終隠袋へ手を突き込んだまま、多くは自分の正面かわが
膝の上かを見ていた。その様子を形容すると、何にも考えずに何か考え込んでいると云う風であった。ところが九段下へかかった頃から、長い首を時々伸ばして、ある物を確かめたいように、窓の外を覗き出した。敬太郎もつい釣り込まれて、
見悪い外を
透かすように
眺めた。やがて電車の走る響の中に、
窓硝子にあたって
摧ける雨の音が、ぽつりぽつりと耳元でし始めた。彼は
携えている竹の
洋杖を眺めて、この代りに
雨傘を持って来ればよかったと思い出した。
彼は洋食店以後、中折を
被った男の
人柄と、世の中にまるで
疑をかけていないその眼つきとを注意した結果、この時ふと、こんな窮屈な思いをして、いらざる材料を集めるよるも、いっそ
露骨にこっちから話しかけて、当人の許諾を得た事実だけを田口に報告した方が、今更
遅蒔のようでも、まだ気が
利いていやしないかと考えて、自分で自分を彼に紹介する
便法を工夫し始めた。そのうち電車はとうとう終点まで来た。雨はますます烈しくなったと見えて、車がとまるとざあという音が急に彼の耳を
襲った。中折の男は困ったなと云いながら、
外套の
襟を立てて
洋袴の
裾を返した。敬太郎は洋杖を突きながら立ち上った。男は雨の中へ出ると、
直寄って来る
俥引を
捕まえた。敬太郎も
後れないように一台雇った。車夫は
梶棒を上げながら、どちらへと聞いた。敬太郎はあの車の
後について行けと命じた。車夫はへいと云ってむやみに
馳け出した。一筋道を
矢来の交番の下まで来ると、車夫は又梶棒をとめて、旦那どっちへ行くんですと聞いた。男の乗った車はいくら
幌の内から延び上っても影さえ見えなかった。敬太郎は車上に洋杖を突っ張ったまま、雨の音のする中で方角に迷った。
眼が
覚めると、自分の住み
慣れた六畳に、いつもの通り寝ている自分が、
敬太郎には全く変に思われた。
昨日の出来事はすべて本当のようでもあった。また
纏まりのない夢のようでもあった。もっと綿密に形容すれば、「本当の夢」のようでもあった。酔った気分で町の中に活動したという記憶も伴なっていた。それよりか、酔った気分が世の中に
充ち充ちていたという感じが一番強かった。停留所も電車も酔った気分に充ちていた。宝石商も、
革屋も、赤と青の旗振りも、同じ空気に酔っていた。薄青いペンキ塗の洋食店の二階も、そこに席を占めた
眉の間に
黒子のある紳士も、色の白い女も、ことごとくこの空気に包まれていた。二人の話しに出て来る、どこにあるか分らない所の名も、男が女にやる約束をした
珊瑚の
珠も、みんな
陶然とした一種の気分を帯びていた。最もこの気分に
充ちて活躍したものは竹の
洋杖であった。彼がその洋杖を突いたまま、
幌を打つ雨の下で、方角に迷った時の心持は、この気分の高潮に達した幕前の
一区切として、ほとんど狐から取り
憑かれた人の感じを彼に与えた。彼はその時店の
灯で
佗びしく照らされたびしょ
濡れの往来と、坂の上に小さく見える交番と、その左手にぼんやり黒くうつる木立とを見廻して、はたしてこれが今日の仕事の結末かと疑ぐった。彼はやむを得ず車夫に
梶棒を向け直させて、思いも寄らない本郷へ行けと命じた事を記憶していた。
彼は寝ながら
天井を
眺めて、自分に最も新らしい昨日の世界を、幾順となく眼の前に循環させた。彼は
二日酔の眼と頭をもって、
蚕の糸を
吐くようにそれからそれへと出てくるこの
記念の
画を
飽かず見つめていたが、しまいには眼先に
漂ようふわふわした夢の
蒼蠅さに
堪えなくなった。それでも
後から後からと向うで
独り
勝手に現われて来るので、彼は正気でありながら、何かに魅入られたのではなかろうかと云う疑さえ起した。彼はこの浅い疑に
関聯して、例の洋杖を胸に思い浮べざるを得なかった。昨日の男も女も彼の眼には絵を見るほど明らかであった。
容貌は
固より
服装から歩きつきに至るまでことごとく記憶の鏡に
判切りと映った。それでいて二人とも遠くの国にいるような心持がした。遠くの国にいながら、つい近くにあるものを見るように、
鮮やかな色と形を備えて
眸を
侵して来た。この不思議な影響が洋杖から出たかも知れないという神経を敬太郎はどこかに持っていた。彼は
昨夕法外な車賃を貪ぼられて、宿の
門口を
潜った時、何心なくその洋杖を持ったまま自分の
室まで帰って来て、これは人の目に触れる所に置くべきものでないという顔をして、寝る前に、
戸棚の奥の
行李の
後へ投げ込んでしまったのである。
今朝は
蛇の頭にそれほどの意味がないようにも思われた。ことにこれから田口に逢って、探偵の結果を報告しなければならないと云う実際問題の方が頭に浮いて来ると、なおさらそういう感じが深くなった。彼は一日の午後から
宵へかけて、妙に一種の空気に酔わされた気分で活動した自覚はたしかにあるが、いざその活動の結果を、普通の人間が処世上に利用できるように、筋の立った報告に
纏める段になると、自分の引き受けた仕事は
成効しているのか失敗しているのかほとんど分らなかった。したがって
洋杖の
御蔭を
蒙っているのか、いないのかも判然しなかった。床の中で前後をくり返した敬太郎には、まさしくその御蔭を蒙っているらしくも見えた。またけっしてその御蔭を蒙っていないようにも思われた。
彼はともかくも二日酔の魔を払い落してからの事だと決心して、急に
夜着を
剥ぐって
跳ね起きた。それから洗面所へ下りて氷るほど冷めたい水で頭をざあざあ洗った。これで
昨日の夢を髪の毛の根本から振い落して、普通の人間に立ち還ったような気になれたので、彼は景気よく三階の
室に
上った。そこの窓を
潔ぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸をした。こう精神作用を人間並に
刺戟した後で、彼は一服しながら、田口へ報告すべき事柄の順序や条項について
力めて実際的に思慮を
回らした。
突きとめて見ると、田口の役に立ちそうな種はまるで上がっていないようにも思われるので、
敬太郎は少し心細くなって来た。けれども先方では今朝にも彼の報告を待ち受けているように気が
急くので、彼はさっそく田口家へ電話を掛けた。これから
直行っていいかと聞くと、だいぶ待たした
後で、
差支ないという答が、例の書生の口を通して来たので、彼は
猶予なく内幸町へ出かけた。
田口の門前には車が二台待っていた。玄関にも靴と
下駄が一足ずつあった。彼はこの間と違って日本間の方へ案内された。そこは十畳ほどの広い座敷で、長い床に大きな
懸物が二幅掛かっていた。
湯呑のような深い
茶碗に、書生が番茶を一杯
汲んで出した。
桐を
刳った
手焙も同じ書生の手で運ばれた。柔かい
座蒲団も同じ男が勧めてくれただけで、女はいっさい出て来なかった。敬太郎は広い室の真中に
畏まって、主人の足音の近づくのを窮屈に待った。ところがその主人は用談が果てないと見えて、いつまで待ってもなかなか現われなかった。敬太郎はやむを得ず茶色になった古そうな
懸物の
価額を想像したり、手焙の
縁を
撫で廻したり、あるいは
袴の
膝へきちりと両手を乗せて一人改たまって見たりした。すべて自分の
周囲があまり
綺麗に
調っているだけに、居心地が新らし過ぎて彼は容易に落ちつけなかったのである。しまいに
違棚の上にある
画帖らしい物を取りおろしてみようかと思ったが、その立派な表紙が、これは装飾だから手を触れちゃいけないと
断るように光るので、彼はついに手を出しかねた。
こう敬太郎の神経を悩ました主人は、彼をやや小一時間も待たした
後で、ようやく応接間から出て来た。
「どうも長い間御待たせ申して。――客がなかなか帰らないものだから」
敬太郎はこの言訳に対して適当と思うような
挨拶を一と口と、それに添えた
叮嚀な
御辞儀を一つした。それからすぐ
昨日の事を云い出そうとしたが、何をどう先に述べたら都合がいいか、この場に臨んで急にまた迷い始めたうちに、切り出す機を逸してしまった。主人はまた冒頭からさも忙がしそうに声も
身体も取り扱かっている癖に、どこか腹の中に
余裕の貯蔵庫でもあるように、けっして
周章て探偵の結果を聞きたがらなかった。本郷では氷が張るかとか、三階では風が強く当るだろうとか、下宿にも電話があるのかとか、調子は
至極面白そうだけれども、その実つまらない事ばかり話の種にした。敬太郎は向うの問に従って主人の満足する程度にわが答えを運んでいたが、相手はこんな無意味な話を進めて行くうちに、
暗に彼の様子を注意しているらしかった。そこまでは彼もぼんやり気がついた。しかし主人がなぜそんな注意を自分に払うのか、その
訳はまるで解らなかった。すると、
「どうです
昨日は。
旨く行きましたか」と主人が突然聞き出した。こう聞かれるだろうぐらいの腹は始めから敬太郎にもあったのだが、正直に答えれば、「どうですか」という
他を馬鹿にした生返事になるので、彼はちょっと
口籠った
後、
「そうです御通知のあった人だけはやっと探し当てました」と答えた。
「
眉間に
黒子がありましたか」
敬太郎は少し隆起した黒い肉の一点を局部に認めたと答えた。
「
衣服もこっちから云って上げた通りでしたか。黒の
中折に、
霜降の
外套を着て」
「そうです」
「それじゃ大抵間違はないでしょう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね」
「時間は少し
後れたようです」
「何分ぐらい」
「何分か知りませんが、何でも五時よっぽど
過のようでした」
「よっぽど
過。よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。四時から五時までの間と、わざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから、五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。なぜそのまま帰って、その通り報知しないんです」
今まで
穏やかに
機嫌よく話していた
長者から突然こう
手厳しくやりつけられようとは、敬太郎は夢にも思わなかった。
敬太郎は今まで
下町出の旦那を眼の前に描いていた。それが突然規律ずくめの軍人として彼を威圧して来た時、彼はたちまち心の中心を狂わした。友達に対してなら云い得る「君のためだから」という言葉も
挨拶も
有っていたのだが、この場合にはそれがまるで役に立たなかった。
「ただ私の勝手で、時間が来てもそこを動かなかったのです」
敬太郎がこう答えるか答えないうちに、田口は今のきっとした態度をすぐ
崩して、
「そりゃ
私のために大変都合が好かった」と
機嫌の好い調子で受けたが、「しかしあなたの勝手と云うのは何です」と聞き返した。敬太郎は少し
逡巡した。
「なにそりゃ聞かないでも構いません。あなたの事だから。話したくなければ話さないでも
差支ない」
田口はこう云って、自分の前に引きつけた
手提煙草盆の
抽出を開けると、その中から
角でできた細長い
耳掻を
捜し出した。それを右の耳の中に入れて、さも
痒ゆそうに
掻き廻した。敬太郎は見ないふりをしてわざと自分を見ているような、また耳だけに気を取られているような、田口の
蹙面を薄気味悪く感じた。
「実は停留所に女が一人立っていたのです」と彼はとうとう自白してしまった。
「年寄ですか、若い女ですか」
「若い女です」
「なるほど」
田口はただ一口こう云っただけで、何とも後を
継いでくれなかった。敬太郎も
頓挫したなり言葉を
途切らした。二人はしばらく差向いのまま口を聞かずにいた。
「いや、若かろうが年寄だろうが、その婦人の事を聞くのはよくなかった。それはあなただけに関係のある事なんでしょうから、止しにしましょう。私の方じゃただ顔に
黒子のある男について、研究の結果さえ伺がえばいいんだから」
「しかしその女が黒子のある人の行動に
始終入り込んでくるのです。第一女の方で男を待ち合わしていたのですから」
「はあ」
田口はちょっと思いも寄らぬという顔つきをしたが、「じゃその婦人はあなたの御知合でも何でもないのですね」と聞いた。敬太郎は
固より知合だと答える勇気を
有たなかった。きまりの悪い思いをしても、見た事も口を
利いた事もない女だと正直に云わなければならなかった。田口はそうですかと、
穏かに敬太郎の返事を聞いただけで、少しも追窮する
気色を見せなかったが、急に
摧けた調子になって、
「どんな女なんです。その若い婦人と云うのは。器量からいうと」と興味に
充ちた顔を
提煙草盆の上に出した。
「いえ、なに、つまらない女なんです」と敬太郎は前後の
行きがかり上答えてしまって、実際頭の中でもつまらないような気がした。これが相手と場合しだいでは、うん器量はなかなか好い方だぐらいは固より云い兼ねなかったのである。田口は「つまらない女」という敬太郎の判断を聞いて、たちまち大きな声を出して笑った。敬太郎にはその意味がよく解らなかったけれども、何でも頭の上で
大濤が崩れたような心持がして、幾分か顔が熱くなった。
「よござんす、それで。――それからどうしました。女が停留所で待ち合わしているところへ男が来て」
田口はまた普通の調子に戻って、
真面目に事件の経過を聞こうとした。実をいうと敬太郎は自分がこれから話す
顛末を、どうして握る事ができたかの苦心談を、まず冒頭に
敷衍して、二つある同じ名の停留所の迷った事から、不思議な
謎の
活きて働らく
洋杖を、どう
抱え出して、どう利用したかに至るまでを、自分の
手柄のなるべく重く響くように、詳しく述べたかったのであるが、会うや
否や四時と五時とのいきさつでやられた上に、勝手に見張りの時間を延ばした源因になる例の女が、源因にも何にもならない見ず知らずの女だったりした
不味いところがあるので、自分を広告する勇気は全く抜けていた。それで男と女が洋食屋へ入ってから以後の事だけをごく
淡泊り話して見ると、
宅を出る時自分が心配していた通り、少しも
捕まえどころのない、あたかも灰色の雲を一握り田口の鼻の先で開いて見せたと同じような貧しい報告になった。
それでも田口は別段
厭な顔も見せなかった。落ちついた腕組をしまいまで解かずに、ただふんとか、なるほどとか、それからとか云う
繋ぎの言葉を、時々
敬太郎のために投げ込んでくれるだけであった。その代り報告の結末が来ても、まだ何か予期しているように、今までの態度を容易に変えなかった。敬太郎は仕方なしに、「それだけです。実際つまらない結果で御気の毒です」と言訳をつけ加えた。
「いやだいぶ参考になりました。どうも御苦労でした。なかなか骨が折れたでしょう」
田口のこの
挨拶の
中に、大した感謝の意を含んでいない事は無論であったが、自分が馬鹿に見えつつある今の敬太郎にはこれだけの
愛嬌が充分以上に聞こえた。彼は辛うじて恥を
掻かずにすんだという安心をこの時ようやく得た。同時に
垂味のできた気分が、すぐ田口に向いて働らきかけた。
「いったいあの人は何なんですか」
「さあ何でしょうか。あなたはどう鑑定しました」
敬太郎の前には黒の
中折を
被って、
襟開の広い
霜降の
外套を着た
[#「着た」は底本では「来た」]男の姿がありありと現われた。その人の様子といい
言葉遣いといい歩きつきといい、何から何まで
判切見えたには見えたが、田口に対する返事は一口も出て来なかった。
「どうも分りません」
「じゃ性質はどんな性質でしょう」
性質なら敬太郎にもほぼ
見当がついていた。「
穏やかな人らしく思いました」と観察の通りを答えた。
「若い女と話しているところを見て、そう云うんじゃありませんか」
こう云った時、田口の
唇の角に薄笑の影がちらついているのを認めた敬太郎は、何か答えようとした口をまた
塞いでしまった。
「若い女には誰でも
優しいものですよ。あなただって
満更経験のない事でもないでしょう。ことにあの男と来たら、人一倍そうなのかも知れないから」と田口は遠慮なく笑い出した。けれども笑いながらちゃんと敬太郎の上に自分の眼を注いでいた。敬太郎は
傍で自分を見たらさぞ気の
利かない
愚物になっているんだろうと考えながらも、やっぱり苦しい思いをして田口と共に笑わなければいられなかった。
「じゃ女は何物なんでしょう」
田口はここで観察点を急に男から女へ移した。そうして今度は自分の方で敬太郎にこういう質問を掛けた。敬太郎はすぐ正直に「女の方は男よりもなお分り
悪いです」と答えてしまった。
「
素人だか
黒人だか、大体の区別さえつきませんか」
「さよう」と云いながら、敬太郎はちょっと考がえて見た。
革の手袋だの、白い
襟巻だの、美くしい笑い顔だの、長いコートだの、続々記憶の表面に込み上げて来たが、それを
綜括ったところでどこからもこの問に応ぜられるような要領は得られなかった。
「割合に地味なコートを着て、革の手袋を
穿めていましたが……」
女の身に着けた品物の
中で、特に敬太郎の注意を
惹いたこの二点も、田口には何の興味も与えないらしかった。彼はやがて
真面目な顔をして、「じゃ男と女の関係について何か御意見はありませんか」と聞き出した。
敬太郎は
先刻自分の報告が
滞りなく済んだ
証拠に、御苦労さまと云う謝辞さえ受けた
後で、こう難問が続発しようとは
毫も思いがけなかった。しかも窮しているせいか、それが順をおってだんだんむずかしい方へ
競り
上って行くように感ぜられてならなかった。田口は敬太郎の行きづまった様子を見て、再び同じ問をほかの言葉で説明してくれた。
「例えば夫婦だとか、
兄弟だとか、またはただの友達だとか、
情婦だとかですね。いろいろな関係があるうちで何だと思いますか」
「私も女を見た時に、処女だろうか細君だろうかと考えたんですが……しかしどうも夫婦じゃないように思います」
「夫婦でないにしてもですね。肉体上の関係があるものと思いますか」
敬太郎の胸にもこの
疑は最初から多少
萌さないでもなかった。改ためて自分の心を解剖して見たら、彼ら二人の間に秘密の関係がすでに成立しているという仮定が遠くから彼を
操って、それがために
偵察の興味が一段と鋭どく
研ぎ澄まされたのかも知れなかった。肉と肉の間に起るこの関係をほかにして、研究に価する交渉は
男女の間に起り得るものでないと主張するほど彼は理論家ではなかったが、暖たかい血を
有った青年の常として、この観察点から
男女を
眺めるときに、始めて男女らしい心持が
湧いて来るとは思っていたので、なるべくそこを離れずに世の中を見渡したかったのである。年の若い彼の眼には、人間という大きな世界があまり
判切分らない代りに、男女という小さな宇宙はかく
鮮やかに映った。したがって彼は大抵の社会的関係を、できるだけこの一点まで切落して楽んでいた。停留所で逢った二人の関係も、敬太郎の気のつかない頭の奥では、すでにこういう
一対の男女として最初から結びつけられていたらしかった。彼はまたその背後に罪悪を想像して要もないのに恐れを
抱くほどの道徳家でもなかった。彼は世間並な道義心の所有者としてありふれた人間の
一人であったけれども、その道義心は彼の空想力と違って、いざという場合にならなければ働らかないのを常とするので、停留所の二人を自分に最も興味のある男女関係に引き直して見ても、別段不愉快にはならずにすんだのである。彼はただ
年齢の上において二人の相違の著るしいのを疑ぐった。が、また一方ではその相違がかえって彼の眼に映ずる「男女の世界」なるものの特色を濃く示しているようにも見えた。
彼の二人に対する心持は知らず知らずの間にこう
弛んでいたのだが、いよいよそうかと正式に田口から質問を掛けられて見ると、断然とした返答は、責任のあるなしにかかわらず、
纏まった形となって頭の中には現われ
悪かった。それでこう云った。――
「肉体上の関係はあるかも知れませんが、無いかも分りません」
田口はただ微笑した。そこへ例の
袴を
穿いた書生が、一枚の名刺を盆に
載せて持って来た。田口はちょっとそれを受取ったまま、「まあ分らないところが本当でしょう」と敬太郎に答えたが、すぐ書生の方を見て、「応接間へ通しておいて……」と命令した。
先刻からよほど窮していた矢先だから、敬太郎はこの来客を好い
機に、もうここで切り上げようと思って
身繕いにかかると、田口はわざわざ彼の立たない前にそれを
遮ぎった。そうして敬太郎の
辟易するのに
頓着なくなお質問を進行させた。そのうちで敬太郎の
明瞭に答えられるのはほとんど一カ条もなかったので、彼は大学で受けた口答試験の時よりもまだ
辛い思いをした。
「じゃこれぎりにしますが、男と女の名前は分りましたろう」
田口の最後と
断ったこの問に対しても、敬太郎は
固より満足な返事を
有っていなかった。彼は洋食店で二人の談話に注意を払う間にも何々さんとか何々子とかあるいは
御何とかいう言葉がきっとどこかへ
交って来るだろうと心待に待っていたのだが、彼らは特にそれを避ける必要でもあるごとくに、御互の名はもちろん、第三者の名もけっして引合にさえ出さなかったのである。
「名前も全く分りません」
田口はこの答を聞いて、
手焙の胴に当てた手を動かしながら、
拍子を取るように、指先で
桐の
縁を
敲き始めた。それをしばらくくり返した
後で、「どうしたんだか
余まり要領を得ませんね」と云ったが、
直言葉を
継いで、「しかしあなたは正直だ。そこがあなたの美点だろう。分らない事を分ったように報告するよりもよっぽど好いかも知れない。まあ買えばそこを買うんですね」と笑い出した。敬太郎は自分の観察が、はたして実用に向かなかったのを発見して、多少わが
迂闊に恥じ入る気も起ったが、しかしわずか二三時間の注意と忍耐と推測では、たとい自分より十層倍行き届いた人間に代理を頼んだところで、田口を満足させるような結果は得られる訳のものでないと固く信じていたから、この評価に対してそれほどの苦痛も感じなかった。その代り正直と
賞められた事も大した
嬉しさにはならなかった。このくらいの正直さ加減は全くの世間並に過ぎないと彼には見えたからである。
敬太郎は
先刻から頭の上らない田口の前で、たった
一言で好いから、思い切った自分の腹をずばりと云って見たいと考えていたが、ここで云わなければもう云う機会はあるまいという気がこの時ふと
萌した。
「要領を得ない結果ばかりで私もはなはだ御気の毒に思っているんですが、あなたの御聞きになるような立ち入った事が、あれだけの時間で、私のような
迂闊なものに
見極められる訳はないと思います。こういうと生意気に聞こえるかも知れませんが、あんな小刀細工をして
後なんか
跟けるより、
直に会って聞きたい事だけ遠慮なく聞いた方が、まだ
手数が
省けて、そうして動かない確かなところが分りゃしないかと思うのです」
これだけ云った敬太郎は、定めて
世故に
長けた相手から笑われるか、冷かされる事だろうと考えて田口の顔を見た。すると田口は案外にもむしろ
真面目な態度で「あなたにそれだけの事が解っていましたか。感心だ」と云った。敬太郎はわざと答を控えていた。
「あなたのいう方法は最も迂闊のようで、最も簡便なまた最も正当な方法ですよ。そこに気がついていれば人間として立派なものです」と田口が再びくり返した時、敬太郎はますます返答に窮した。
「それほどの
考がちゃんとあるあなたに、あんなつまらない仕事を
御頼申したのは
私が悪かった。人物を
見損なったのも同然なんだから。が、市蔵があなたを紹介する時に、そう云いましたよ。あなたは探偵のやるような仕事に興味を
有っておいでだって。それでね、ついとんでもない事を御願いして。
止しゃあよかった……」
「いえ
須永君にはそう云う意味の事をたしかに話した覚えがあります」と敬太郎は苦しい
思をして答えた。
「そうでしたか」
田口は敬太郎の矛盾をこの一句で切り
棄てたなり、それ以上に追窮する
愚をあえてしなかった。そうして問題をすぐ改めて見せた。
「じゃどうでしょう。黙って後なんどを跟けずに、あなたのいう通り尋常に玄関からかかって行っちゃ。あなたにそれだけの勇気がありますか」
「無い事もありません」
「あんなに跟け廻した後で」
「あんなに跟け廻したって、私はあの人達の不名誉になるような観察はけっしてしていないつもりです」
「ごもっともだ。そんなら一つ行って御覧なさい。紹介するから」
田口はこう云いながら、大きな声を出して笑った。けれども敬太郎にはこの申し出が
万更の
冗談とも思えなかったので、彼は紹介状を
携えて本当に
眉間の
黒子と向き合って話して見ようかという
料簡を起した。
「会いますから紹介状を書いて下さい。私はあの人と話して見たい気がしますから」
「
宜いでしょう。これも経験の一つだから、まあ会って
直に研究して御覧なさい。あなたの事だから田口に頼まれてこの間の晩
後を
跟けましたぐらいきっと云うでしょう。しかしそれは構わない。云いたければ云っても
宜うござんす。
私に遠慮は
要らないから。それからあの女との関係もですね、あなたに勇気さえあるなら聞いて御覧なさい。どうです、それを聞くだけの度胸があなたにありますか」
田口はここでちょっと言葉を切らして敬太郎の顔を見たが、答の出ないうちにまた自分から話を続けた。
「だが両方とも口へ出せるように自然が持ちかけて来るまでは、聞いても話してもいけませんよ。いくら勇気があったって、常識のない
奴だと思われるだけだから。それどころじゃない、あの男はただでさえ随分
会い
悪い
方なんだから、そんな事をむやみに
喋べろうものなら、
直帰ってくれぐらい云い兼ねないですよ。紹介をして上げる代りには、そこいらはよく用心しないとね……」
敬太郎は
固より
畏まりましたと答えた。けれども腹の中では黒の
中折の男を田口のように見る事がどうしてもできなかった。
田口は
硯箱と巻紙を取り寄せて、さらさらと紹介状を書き始めた。やがて
名宛を
認め終ると、「ただ通り一遍の
文言だけ並べておいたらそれで好いでしょう」と云いながら、
手焙の前に
翳した手紙を
敬太郎に読んで聞かせた。その中には書いた当人の自白したごとく、これといって特別の注意に
価する事は少しも出て来なかった。ただこの者は今年大学を卒業したばかりの法学士で、ことによると自分が世話をしなければならない男だから、どうか会って話をしてやってくれとあるだけだった。田口は異存のない敬太郎の顔を見届けた上で、すぐその巻紙をぐるぐると巻いて封筒へ入れた。それからその表へ
松本恒三様と大きく書いたなり、わざと封をせずに敬太郎に渡した。敬太郎は
真面目になって松本恒三様の五字を
眺めたが、
肥った
締りのない書体で、この人がこんな字を書くかと思うほど
拙らしくできていた。
「そう感心していつまでも
眺めていちゃあいけない」
「番地が書いてないようですが」
「ああそうか。そいつは
私の失念だ」
田口は再び手紙を受け取って、名宛の人の住所と番地を書き入れてくれた。
「さあこれなら好いでしょう。
不味くって大きなところは
土橋の
大寿司流とでも云うのかな。まあ役に立ちさえすればよかろう、我慢なさい」
「いえ結構です」
「ついでに女の方へも一通書きましょうか」
「女も御存じなのですか」
「ことによると知ってるかも知れません」と答えた田口は何だか意味のありそうに微笑した。
「
御差支さえなければ、おついでに一本書いていただいても
宜しゅうございます」と敬太郎も
冗談半分に頼んだ。
「まあ止した方が安全でしょうね。あなたのような年の若い男を紹介して、もし間違でもできると責任問題だから。
浪漫―何とか云うじゃありませんか、あなたのような人の事を。
私ゃ学問がないから、今頃
流行るハイカラな言葉を
直忘れちまって困るが、何とか云いましたっけね、あの、小説家の使う言葉は。……」
敬太郎はまさかそりゃこう云う言葉でしょうと教える気にもなれなかった。ただエヘヘと馬鹿みたように笑っていた。そうして長居をすればするほど、だんだん
非道く冷かされそうなので、心の内では、この一段落がついたら、早く切り上げて帰ろうと思った。彼は田口のくれた紹介状を
懐に収めて、「では二三日
内にこれを持って行って参りましょう。その模様でまた伺がう事に致しますから」と云いながら、
柔かい
座蒲団の上を
滑り下りた。田口は「どうも御苦労でした」と
叮嚀に
挨拶しただけで、ロマンチックもコスメチックもすっかり忘れてしまったという顔つきをして立ち上った。
敬太郎は帰り途に、今会った田口と、これから会おうという松本と、それから松本を待ち合わした例の
恰好のいい女とを、合せたり離したりしてしきりにその関係を考えた。そうして考えれば考えるほど一歩ずつ
迷宮の奥に引き込まれるような面白味を感じた。
今日田口での
獲物は松本という名前だけであるが、この名前がいろいろに
錯綜した事実を自分のために
締め
括っている妙な
嚢のように彼には思えるので、そこから何が出るか分らないだけそれだけ彼には楽みが多かった。田口の説明によると、近寄
悪い人のようにも聞こえるが、彼の見たところでは田口より数倍話しがしやすそうであった。彼は今日田口から得た印象のうちに、人を取扱う点にかけてなるほど老練だという
嘆美の声を見出した上、人物としてもどこか偉そうに思われる点が、時々彼の眼を射るようにちらちら輝やいたにもかかわらず、その前に
坐っている間、彼は
始終何物にか
縛られて自由に動けない窮屈な感じを取り去る事ができなかった。絶えず監視の
下に置かれたようなこの状態は、一時性のものでなくって、いくら面会の度数を重ねても、けっして薄らぐ折はなかろうとまで彼には見えたくらいである。彼はこういう風に気のおける田口と反対の側に、何でも遠慮なく聞いて怒られそうにない、話し声その物のうちにすでに
懐かし味の
籠ったような松本を想像してやまなかった。
翌朝さっそく支度をして松本に会いに行こうと思っているとあいにく寒い雨が降り出した。窓を細目に開けて高い三階から外を見渡した時分には、もう世の中が一面に
濡れていた。
屋根瓦に
徹るような
佗びしい色をしばらく
眺めていた
敬太郎は、田口の紹介状を机の上に置いて、出ようか止そうかとちょっと思案したが、早く会って見たいという気が強く起るので、とうとう机の前を離れた。そうして豆腐屋の
喇叭が、陰気な空気を
割いて鋭どく往来に響く下の方へ降りて行った。
松本の
家は
矢来なので、敬太郎はこの間の晩
狐につままれたと同じ思いをした交番下の
景色を想像しつつ、そこへ来ると、坂下と坂上が両方共
二股に割れて、
勾配のついた真中だけがいびつに
膨れているのを発見した。彼は寒い雨の
袴の
裾に吹きかけるのも
厭わずに足を留めて、あの晩車夫が
梶棒を握ったまま立往生をしたのはこのへんだろうと思う所を見廻した。今日も同じように雨がざあざあ落ちて、彼の踏んでいる土は地下の鉛管まで腐れ込むほど濡れていた。ただ昼だけに周囲は暗いながらも明るいので、立ちどまった時の心持はこの間とはまるで
趣が違っていた。敬太郎は
後の方に高く黒ずんでいる
目白台の森と、右手の奥に
朦朧と重なり合った
水稲荷の
木立を見て坂を
上った。それから同じ番地の家の何軒でもある矢来の中をぐるぐる歩いた。始めのうちは
小さい横町を右へ折れたり左へ曲ったり、濡れた
枳殻の垣を
覗いたり、古い
椿の
生い
被さっている墓地らしい
構の前を通ったりしたが、松本の家は容易に見当らなかった。しまいに尋ねあぐんで、ある横町の角にある車屋を見つけて、そこの若い者に聞いたら、何でもない事のようにすぐ教えてくれた。
松本の家はこの車屋の筋向うを
這入った突き当りの、竹垣に囲われた
綺麗な
住居であった。門を
潜ると子供が太鼓を鳴らしている音が聞こえた。玄関へかかって案内を頼んでもその太鼓の音は
毫もやまなかった。その代り
四辺は
森閑として人の住んでいる
臭さえしなかった。雨に
鎖された
家の奥から現われた十六七の下女は、手を突いて紹介状を受取ったなり無言のまま引っ込んだが、しばらくしてからまた出て来て、「はなはだ勝手を申し上げてすみませんでございますが、雨の降らない日においでを願えますまいか」と云った。今まで就職運動のため諸方へ行って断わられつけている敬太郎にも、この断り方だけは不思議に聞こえた。彼はなぜ雨が降っては面会に
差支えるのか
直反問したくなった。けれども下女に議論を仕かけるのも一種変な場合なので、「じゃ御天気の日に伺がえば御目にかかれるんですね」と
念晴しに聞き直して見た。下女はただ「はい」と答えただけであった。敬太郎は仕方なしにまた雨の降る中へ出た。ざあと云う音が急に
烈しく聞こえる中に、子供の鳴らす太鼓がまだどんどんと響いていた。彼は矢来の坂を
下りながら変な男があったものだという観念を
数度くり返した。田口がただでさえ
会い
悪いと云ったのは、こんなところを指すのではなかろうかとも考えた。その日は
家へ帰っても、気分が中止の姿勢に余儀なく
据えつけられたまま、どの方角へも進行できないのが苦痛になった。久しぶりに
須永の
家へでも行って、この間からの
顛末を茶話に半日を暮らそうかと考えたが、どうせ行くなら、今の仕事に一段落つけて、自分にも
見当の立った筋を
吹聴するのでなくては話しばいもしないので、ついに行かずじまいにしてしまった。
翌日は
昨日と打って変って好い天気になった。起き上る時、あらゆる
濁を雨の力で洗い落したように
綺麗に輝やく
蒼空を、
眩ゆそうに仰ぎ見た敬太郎は、
今日こそ松本に会えると喜こんだ。彼はこの間の晩
行李の
後に隠しておいた例の
洋杖を取り出して、今日は一つこれを持って行って見ようと考がえた。彼はそれを突いて、また
矢来の坂を
上りながら、昨日の下女が今日も出て来て、せっかくですが今日は御天気過ぎますから、も
少し曇った日においで下さいましと云ったらどんなものだろうと想像した。
ところが昨日と違って、門を
潜っても、子供の鳴らす太鼓の音は聞こえなかった。玄関にはこの前目に着かなかった
衝立が立っていた。その衝立には
淡彩の鶴がたった一羽
佇ずんでいるだけで、姿見のように細長いその
格好が、普通の寸法と違っている意味で敬太郎の注意を
促がした。取次には例の下女が現われたには相違ないが、その
後から遠慮のない足音をどんどん立てて二人の小供が衝立の影まで来て、珍らしそうな顔をして敬太郎を
眺めた。昨日に比べるとこれだけの変化を認めた彼は、最後にどうぞという案内と共に、
硝子戸の
締まっている座敷へ通った。その真中にある金魚鉢のように大きな瀬戸物の
火鉢の両側に、下女は
座蒲団を一枚ずつ置いて、その一枚を敬太郎の席とした。その座蒲団は
更紗の模様を染めた真丸の形をしたものなので、敬太郎は不思議そうにその上へ
坐った。
床の
間には
刷毛でがしがしと
粗末に書いたような
山水の
軸がかかっていた。敬太郎はどこが樹でどこが
巌だか見分のつかない画を、
軽蔑に値する装飾品のごとく
眺めた。するとその隣りに
銅鑼が
下っていて、それを
叩く棒まで添えてあるので、ますます変った
室だと思った。
すると
間の
襖を開けて隣座敷から
黒子のある主人が出て来た。「よくおいでです」と云ったなり、すぐ敬太郎の鼻の先に坐ったが、その調子はけっして
愛嬌のある方ではなかった。ただどこかおっとりしているので、相手に余り重きを置かないところが、かえって敬太郎に楽な心持を与えた。それで火鉢一つを境に、顔と顔を突き合わせながら、敬太郎は別段気がつまる思もせずにいられた。その上彼はこの間の晩、たしかに自分の顔をここの主人に覚えられたに違ないと思い込んでいたにもかかわらず、今会って見ると、覚えているのだか、いないのだか、平然としてそんな
素振は、口にも色にも出さないので、彼はなおさら
気兼の必要を感じなくなった。最後に主人は昨日雨天のため面会を謝絶した理由も言訳も
一言も述べなかった。述べたくなかったのか、述べなくっても構わないと認めていたのか、それすら敬太郎にはまるで判断がつかなかった。
話は自然の順序として、紹介者になった田口の事から始まった。「あなたはこれから田口に使って
貰おうというのでしたね」というのを冒頭に、主人は敬太郎の志望だの、卒業の成績だのを一通り聞いた。それから彼のいまだかつて考えた事もない、社会観とか人生観とかいうこむずかしい方面の問題を、時々持ち出して彼を苦しめた。彼はその時心のうちで、この松本という男は世に
著われない学者の一人なのではなかろうかと疑ぐったくらい、妙な
理窟をちらちらと
閃めかされた。そればかりでなく、松本は田口を
捕まえて、役には立つが頭のなっていない男だと
罵しった。
「
第一ああ忙がしくしていちゃ、頭の中に組織立った
考のできる
閑がないから駄目です。あいつの脳と来たら、
年が
年中摺鉢の中で、
擂木に
攪き廻されてる
味噌見たようなもんでね。あんまり活動し過ぎて、何の形にもならない」
敬太郎にはなぜこの主人が田口に対してこうまで
悪体を
吐くのかさっぱり訳が分らなかった。けれども彼の不思議に感じたのは、これほどの激語を放つ主人の態度なり口調なりに、
毫も毒々しいところだの、
小悪らしい点だのの見えない事であった。彼の
罵しる言葉は、人を罵しった経験を知らないような落ちつきを
具えた彼の声を通して、敬太郎の耳に響くので、敬太郎も強く反抗する気になれなかった。ただ一種変った人だという感じが新たに
刺戟を受けるだけであった。
「それでいて、
碁を打つ、
謡を
謡う。いろいろな事をやる。もっともいずれも
下手糞なんですが」
「それが
余裕のある
証拠じゃないでしょうか」
「余裕って君。――僕は
昨日雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような
高等遊民でないからです。いくら
他の感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」
「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
「文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」
松本は大きな
火鉢の
縁へ
両肱を掛けて、その一方の先にある
拳骨を
顎の支えにしながら
敬太郎を見た。敬太郎は初対面の客を客と感じていないらしいこの松本の様子に、なるほど高等遊民の
本色があるらしくも思った。彼は
煙草道楽と見えて、今日は大きな丸い
雁首のついた木製の西洋パイプを口から離さずに、時々思い出したような濃い煙を、まだ火の消えていない証拠として、
狼煙のごとくぱっぱっと揚げた。その煙が彼の顔の
傍でいつの間にか消えて行く具合が、どこにも
締りを設ける必要を認めていないらしい彼の眼鼻と相待って、今まで経験した事のない一種静かな心持を敬太郎に与えた。彼は少し薄くなりかかった髪を、頭の真中から左右へ分けているので、平たい頭がなおの事尋常に落ちついて見えた。彼はまた普通世間の人が着ないような茶色の無地の羽織を着て、同じ色の
上足袋を白の上に重ねていた。その色がすぐ坊主の
法衣を
聯想させるところがまた変に特別な男らしく敬太郎の眼に映った。自分で高等遊民だと名乗るものに会ったのはこれが始めてではあるが、松本の
風采なり態度なりが、いかにもそう云う階級の代表者らしい感じを、少し不意を打たれた気味の敬太郎に投げ込んだのは事実であった。
「失礼ながら御家族は大勢でいらっしゃいますか」
敬太郎は
自から高等遊民と称する人に対して、どういう訳かまずこういう問がかけて見たかった。すると松本は「ええ子供がたくさんいます」と答えて、敬太郎の忘れかかっていたパイプからぱっと煙を出した。
「奥さんは……」
「
妻は無論います。なぜですか」
敬太郎は取り返しのつかない
愚な問を出して、始末に行かなくなったのを後悔した。相手がそれほど感情を害した様子を見せないにしろ、不思議そうに自分の顔を眺めて、解決を予期している以上は、何とか云わなければすまない場合になった。
「あなたのような方が、普通の人間と同じように、家庭的に暮して行く事ができるかと思ってちょっと伺ったまでです」
「僕が家庭的に……。なぜ。高等遊民だからですか」
「そう云う訳でも無いんですが、何だかそんな心持がしたからちょっと伺がったのです」
「高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」
敬太郎はもう何も云う事がなくなってしまった。彼の頭脳の中では、返事に行き詰まった困却と、ここで問題を変えようとする努力と、これを
緒口に、
革の手袋を
穿めた女の関係を確かめたい希望が三ついっしょに働らくので、元からそれほど秩序の立っていない彼の思想になおさら暗い影を投げた。けれども松本はそんな事にまるで注意しない風で、困った敬太郎の顔を平気に
眺めていた。もしこれが田口であったなら
手際よく相手を打ち
据える代りに、打ち据えるとすぐ向うから局面を変えてくれて、相手に見苦るしい立ち往生などはけっしてさせない
鮮やかな腕を
有っているのにと敬太郎は思った。気はおけないが、人を取扱かう点において、全く
冴えた熟練を欠いている松本の前で、敬太郎は
図らず二人の相違を認めたような気がしていると、松本は偶然「あなたはそういう問題を考えて見た事がないようですね」と聞いてくれた。
「ええまるで考えていません」
「考える必要はありませんね。一人で下宿している以上は。けれどもいくら一人だって、広い意味での男対女の問題は考えるでしょう」
「考えると云うよりむしろ興味があるといった方が適当かも知れません。興味なら無論あります」
二人は人間として誰しも利害を感ずるこの問題についてしばらく話した。けれども
年歯の違だか段の違だか、松本の云う事は
肝心の肉を抜いた骨組だけを並べて見せるようで、
敬太郎の血の中まで
這入り込んで来て、共に流れなければやまないほどの切実な
勢をまるで持っていなかった。その代り敬太郎の秩序立たない断片的の言葉も口を出るとすぐ熱を失って、少しも松本の胸に
徹らないらしかった。
こんな縁遠い話をしている
中で、ただ一つ敬太郎の耳に新らしく響いたのは、
露西亜の文学者のゴーリキとかいう人が、自分の主張する社会主義とかを実行する上に、資金の必要を感じて、それを
調達のため細君同伴で
亜米利加へ渡った時の話であった。その時ゴーリキは大変な人気を一身に集めて、招待やら
驩迎やらに
忙殺されるほどの景気のうちに、自分の目的を苦もなく着々と進行させつつあった。ところが彼の本国から
伴れて来た細君というのが、本当の細君でなくて単に彼の情婦に過ぎないという事実がどこからか
曝露した。すると今まで狂熱に達していた彼の名声が、たちまちどさりと落ちて、広い新大陸に誰一人として彼と握手するものが無くなってしまったので、ゴーリキはやむを得ずそのまま亜米利加を去った。というのが筋であった。
「露西亜と亜米利加ではこれだけ
男女関係の解釈が違うんです。ゴーリキのやりくちは露西亜ならほとんど問題にならないくらい
些細な事件なんでしょうがね。下らない」と松本は全く下らなそうな顔をした。
「日本はどっちでしょう」と敬太郎は聞いて見た。
「まあ露西亜派でしょうね。僕は露西亜派でたくさんだ」と云って、松本はまた
狼煙のような濃い煙をぱっと口から吐いた。
ここまで来て見ると、この間の女の事を尋ねるのが敬太郎に取って少しも苦にならないような気がし出した。
「せんだっての晩神田の洋食店で私はあなたに御目にかかったと思うんですが」
「ええ会いましたね。よく覚えています。それから帰りにも電車の中で会ったじゃありませんか。君も江戸川まで乗ったようだが、あすこいらに下宿でもしているんですか。あの晩は雨が降って困ったでしょう」
松本ははたして敬太郎を記憶していた。それを初めから口に出すでもなく、今になってようやく気がついたふりをするでもなく、話してもよし話さないでもよしと云った風の態度が、無邪気から出るのか、度胸から出るのか、または
鷹揚な彼の生れつきから出るのか、敬太郎にはちょっと判断しかねた。
「
御伴がおありのようでしたが」
「ええ
別嬪を一人
伴れていました。あなたはたしか一人でしたね」
「一人です。あなたも御帰りには御一人じゃなかったですか」
「そうです」
ちょっとはきはき進んだ問答はここへ来てぴたりととまってしまった。松本がまた女の事を云い出すかと思って待っていると、「あなたの下宿は牛込ですか、小石川ですか」とまるで無関係の問を敬太郎はかけられた。
「本郷です」
松本は
腑に落ちない顔をして敬太郎を見た。本郷に住んでいる彼が、なぜ江戸川の終点まで乗ったのか、その説明を聞きたいと云わぬばかりの松本の眼つきを見た時、敬太郎は面倒だからここで一つ心持よく万事を打ち明けてしまおうと決心した。もし
怒られたら、
詫まるだけで、詫まって聞かれなければ、
御辞儀を
叮嚀にして帰れば好かろうと覚悟をきめた。
「実はあなたの
後を
跟けてわざわざ江戸川まで来たのです」と云って松本の顔を見ると、案外にも予期したほどの変化も起らないので、敬太郎はまず安心した。
「何のために」と松本はほとんどいつものような
緩い口調で聞き返した。
「人から頼まれたのです」
「頼まれた? 誰に」
松本は始めて、少し驚いた声の
中に、並より強いアクセントを置いて、こう聞いた。
「実は田口さんに頼まれたのです」
「田口とは。田口
要作ですか」
「そうです」
「だって君はわざわざ田口の紹介状を持って僕に会いに来たんじゃありませんか」
こう一句一句問いつめられて行くよりは、自分の方で一と思いに今までの経過を話してしまう方が楽な気がするので、
敬太郎は田口の速達便を受取って、すぐ小川町の停留所へ
見張に出た冒険の第一節目から始めて、電車が江戸川の終点に着いた後の雨の中の立往生に至るまでの
顛末を包まず打ち明けた。
固よりただ筋の通るだけを目的に、誇張は無論
布衍の
煩わしさもできる限り避けたので、時間がそれほどかからなかったせいか、松本は話の進行している間一口も敬太郎を
遮ぎらなかった。話が済んでからも、
直とは声を出す様子は見えなかった。敬太郎は主人のこの沈黙を、感情を害した結果ではなかろうかと推察して、怒り出されないうちに早く
詫まるに越した事はないと思い定めた。すると主人の方から突然口を
利き始めた。
「どうもけしからん奴だね、あの田口という男は。それに使われる君もまた君だ。よっぽどの馬鹿だね」
こういった主人の顔を見ると、
呆れ返っている風は誰の目にも着くが、怒気を帯びた様子は比較的どこにも現われていないので、敬太郎はむしろ安心した。この際馬鹿と呼ばれるぐらいの事は、彼に取って何でもなかったのである。
「どうも悪い事をしました」
「詫まって貰いたくも何ともない。ただ君が御気の毒だから云うのですよ。あんな者に使われて」
「それほど悪い人なんですか」
「いったい何の必要があって、そんな
愚な事を引き受けたのです」
物数奇から引き受けたという言葉は、この場合どうしても敬太郎の口へは出て来なかった。彼はやむを得ず、衣食問題の必要上どうしても田口に頼らなければならない事情があるので、面白くないとは知りながら、つい承諾したのだという風な答をした。
「衣食に困るなら仕方がないが、もう止した方がいいですよ。余計な事じゃありませんか、寒いのに雨に降られて人の
後を
跟けるなんて」
「私も少し
懲りました。これからはもうやらないつもりです」
この述懐を聞いた松本は何とも云わず、ただ
苦笑いをしていた。それが敬太郎には
軽蔑の意味にも
憐愍の意味にも取れるので、彼はいずれにしてもはなはだ肩身の狭い思をした。
「あなたは僕に対してすまん事をしたような風をしているが、実際そうなのですか」
根本義に
溯ぼったらそれほどに感じていない敬太郎もこう聞かれると、行がかり上そうだと思わざるを得なかった。またそう答えざるを得なかった。
「じゃ田口へ行ってね。この間僕の
伴れていた若い女は
高等淫売だって、僕自身がそう保証したと云ってくれたまえ」
「本当にそういう種類の女なんですか」
敬太郎はちょっと驚ろかされた顔をしてこう聞いた。
「まあ何でも好いから、高等淫売だと云ってくれたまえ」
「はあ」
「はあじゃいけない、たしかにそう云わなくっちゃ。云えますか、君」
敬太郎は現代に教育された青年の一人として、こういう意味の言葉を、年長者の前で口にする無遠慮を
憚かるほどの男ではなかった。けれども松本が
強いてこの四字を田口の耳へ押し込もうとする奥底には、何か不愉快なある物が
潜んでいるらしく思われるので、そう軽々しい調子で引き受ける気も起らなかった。彼が
挨拶に困ってむずかしい顔をしていると、それを見た松本は、「何、君心配しないでもいいですよ。相手が田口だもの」と云ったが、しばらくしてやっと気がついたように、「君は僕と田口との関係をまだ知らないんでしたね」と聞いた。敬太郎は「まだ何にも知りません」と答えた。
「その関係を話すと、君が田口に向ってあの女の事を
高等淫売だと云う勇気が
出悪くなるだけだからつまり僕には損になるんだが、いつまで罪もない君を馬鹿にするのも気の毒だから、聞かして上げよう」
こういう前置を置いた上、松本は田口と自分が社会的にどう交渉しているかを説明してくれた。その説明は最も簡単にすむだけに最も
敬太郎を驚ろかした。それを一言でいうと、田口と松本は近い親類の間柄だったのである。松本に二人の姉があって、一人が
須永の母、一人が田口の細君、という互の縁続きを始めて
呑み込んだ時、敬太郎は、田口の義弟に当る松本が、叔父という資格で、彼の娘と時間を
極めて停留所で待ち合わした上、ある料理店で会食したという事実を、世間の出来事のうちで最も平凡を極めたものの一つのように見た。それを込み入った
文でも隠しているように、一生懸命に自分の燃やした
陽炎を散らつかせながら、
後を
追かけて歩いたのが、さもさも馬鹿馬鹿しくなって来た。
「御嬢さんは何でまたあすこまで
出張っていたんですか。ただ私を釣るためなんですか」
「何須永へ行った帰りなんです。僕が田口で話していると、あの子が電話をかけて、四時半頃あすこで待ち合せているから、ちょっと帰りに降りてくれというんです。面倒だから止そうと思ったけれども、是非何とかかとかいうから、降りたところがね。
今朝御父さんから聞いたら、叔父さんが
御歳暮に
指環を買ってやると云っていたから、停留所で待ち伏せをして、
逃さないようにいっしょに行って買って貰えと云われたから
先刻からここで待っていたんだって、人の知りもしないのに、一人で勝手な請求を持ち出してなかなか動かない。仕方がないから、まあ西洋料理ぐらいでごまかしておこうと思って、とうとう宝亭へ連れ込んだんです。――実に田口という男は
箆棒だね。わざわざそれほどの
手数をかけて、何もそんな下らない
真似をするにも当らないじゃないか。
騙された君よりもよっぽど田口の方が箆棒ですよ」
敬太郎には騙された自分の方が
遥かに
愚物に思われた。そうと知ったら、探偵の結果を報告する時にも、もう少しは手加減が出来たものをと、
自から
赧い顔もしなければならなかった。
「あなたはまるで御承知ない事なんですね」
「知るものかね、君。いくら高等遊民だって、そんな暇の出るはずがないじゃありませんか」
「御嬢さんはどうでしょう。多分御存じなんだろうと思いますが」
「そうさ」と云って松本はしばらく思案していたが、やがて
判切した口調で、「いや知るまい」と断言した。「あの箆棒の田口に、一つ
取柄があると云えば云われるのだが、あの男はね、いくら
悪戯をしても、その悪戯をされた当人が、もう少しで恥を
掻きそうな
際どい時になると、ぴたりととめてしまうか、または自分がその場へ出て来て、当人の体面にかかわらない内に
綺麗に始末をつける。そこへ行くと
箆棒には違ないが感心なところがあります。つまりやりかたは
悪辣でも、結末には妙に
温かい
情の
籠った人間らしい点を見せて来るんです。今度の事でもおそらく自分一人で
呑み込んでいるだけでしょう。君が僕の
家へ来なかったら、僕はきっとこの事件を知らずに済むんだったろう。自分の娘にだって、君の馬鹿を証明するような
策略を、始めから
吹聴するほど
無慈悲な男じゃない。だからついでに
悪戯も止せばいいんだがね、それがどうしても止せないところが、要するに箆棒です」
田口の性格に対する松本のこういう批評を黙って聞いていた敬太郎は、自分の馬鹿な
振舞を
顧みる後悔よりも、自分を馬鹿にした責任者を
怨むよりも、むしろ悪戯をした田口を頼もしいと思う心が、わが胸の
裏で一番勝を制したのを自覚した。が、はたしてそういう人ならば、なぜ彼の前に出て話をしている間に、あんな窮屈な感じが起るのだろうという不審も
自ずと
萌さない訳に行かなかった。
「あなたの御話でだいぶ田口さんが解って来たようですが、私はあの
方の前へ出ると、何だか気が落ちつかなくって変に苦しいです」
「そりゃ向うでも君に気を許さないからさ」
こう云われて見ると、田口が自分に気を許していない
眼遣やら言葉つきやらがありありと
敬太郎の胸に、
疑もない記憶として読まれた。けれども田口ほどの老巧のものに、何で学校を出たばかりの
青臭い自分が、それほど苦になるのか、敬太郎は全く
合点が行かなかった。彼は見た通りのままの自分で、誰の前へ出ても通用するものと今まで固く
己れを信じていたのである。彼はただかような青年として、
他に
憚かられたり気をおかれたりする資格さえないように自分を
見縊っていただけに、経験の程度の違う年長者から、自分の
思わくと違う待遇を受けるのをむしろ不思議に考え出した。
「私はそんな裏表のある人間と見えますかね」
「どうだか、そんな細かい事は初めて会っただけじゃ分らないですよ。しかしあっても無くっても、僕の君に対する待遇にはいっこう関係がないからいいじゃありませんか」
「けれども田口さんからそう思われちゃ……」
「田口は君だからそう思うんじゃない、誰を見てもそう思うんだから仕方がないさ。ああして長い間人を使ってるうちには、だいぶ
騙されなくっちゃならないからね。たまに自然そのままの美くしい人間が自分の前に現われて来ても、やっぱり気が許せないんです。それがああ云う人の
因果だと思えばそれで好いじゃないか。田口は僕の義兄だから、こう云うと変に聞えるが、本来は美質なんです。けっして悪い男じゃない。ただああして何年となく事業の成功という事だけを
重に眼中に置いて、世の中と闘かっているものだから、人間の見方が妙に片寄って、こいつは役に立つだろうかとか、こいつは安心して使えるだろうかとか、まあそんな事ばかり考えているんだね。ああなると女に
惚れられても、こりゃ自分に惚れたんだろうか、自分の持っている金に惚れたんだろうか、すぐそこを疑ぐらなくっちゃいられなくなるんです。美人でさえそうなんだから君見たいな野郎が窮屈な取扱を受けるのは当然だと思わなくっちゃいけない。そこが田口の田口たるところなんだから」
敬太郎はこの批評で田口という男が自分にも
判切呑み込めたような気がした。けれどもこういう風に一々彼を
肯わせるほどの判断を、彼の頭に
鉄椎で
叩き込むように入れてくれる松本はそもそも何者だろうか、その点になると敬太郎は依然として
茫漠たる雲に対する思があった。批評に
上らない前の田口でさえ、この男よりはかえって活きた人間らしい気がした。
同じ松本について見ても、この間の晩神田の洋食屋で、田口の娘を相手にして
珊瑚樹の
珠がどうしたとかこうしたとか云っていた時の方が、よっぽど活きて動いていた。今彼の前に
坐っているのは、大きなパイプを
銜えた木像の霊が、口を
利くと同じような感じを敬太郎に与えるだけなので、彼はただその人の本体を
髣髴するに苦しむに過ぎなかった。彼が一方では
明瞭な松本の批評に心服しながら、一方では松本の何者なるかをこういう風に考えつつ、自分は頭脳の悪い、直覚の鈍い、世間並以下の人物じゃあるまいかと疑り始めた時、この
漠然たる松本がまた口を開いた。
「それでも田口が
箆棒をやってくれたため、君はかえって
仕合をしたようなものですね」
「なぜですか」
「きっと何か位置を
拵らえてくれますよ。これなりで放っておきゃ田口でも何でもありゃしない。それは責任を持って受合って上げても
宜い。が、つまらないのは僕だ。全く探偵のされ損だから」
二人は顔を見合せて笑った。敬太郎が丸い
更紗の
座蒲団の上から立ち上がった時、主人はわざわざ玄関まで送って出た。そこに飾ってあった墨絵の鶴の
衝立の前に、
瘠せた高い
身体をしばらく
佇ずまして、靴を
穿く敬太郎の
後姿を
眺めていたが、「妙な
洋杖を持っていますね。ちょっと拝見」と云った。そうしてそれを敬太郎の手から受取って、「へえ、
蛇の頭だね。なかなか
旨く
刻ってある。買ったんですか」と聞いた。「いえ
素人が刻ったのを貰ったんです」と答えた敬太郎は、それを振りながらまた
矢来の坂を江戸川の方へ
下った。
雨の降る日に面会を謝絶した松本の理由は、ついに当人の口から聞く機会を得ずに久しく過ぎた。
敬太郎もそのうちに取り
紛れて忘れてしまった。ふとそれを耳にしたのは、彼が田口の世話で、ある地位を得たのを縁故に、遠慮なく同家へ
出入のできる身になってからの事である。その時分の彼の頭には、停留所の経験がすでに新らしい匂いを失いかけていた。彼は時々
須永からその話を持ち出されては苦笑するに過ぎなかった。須永はよく彼に向って、なぜその前に僕の所へ来て打ち明けなかったのだと詰問した。内幸町の叔父が人を
担ぐくらいの事は、母から聞いて知っているはずだのにと
窘なめる事もあった。しまいには、君があんまり色気があり過ぎるからだと
調戯い出した。敬太郎はそのたびに「馬鹿云え」で通していたが、心の内ではいつも、須永の門前で見た後姿の女を思い出した。その女がとりも直さず停留所の女であった事も思い出した。そうしてどこか遠くの方で気恥かしい心持がした。その女の名が
千代子で、その妹の名が
百代子である事も、今の敬太郎には珍らしい報知ではなかった。
彼が松本に会って、すべて内幕の消息を聞かされた
後、田口へ顔を出すのは多少きまりの悪い思をするだけであったにかかわらず、顔を出さなければ
締め
括りがつかないという行きがかりから、笑われるのを覚悟の前で、また田口の門を
潜った時、田口ははたして大きな声を出して笑った。けれどもその笑の
中には
己れの機略に誇る高慢の響よりも、迷った人を本来の
路に返してやった喜びの勝利が聞こえているのだと敬太郎には解釈された。田口はその時訓戒のためだとか教育の方法だとかいった風の、恩に着せた言葉をいっさい使わなかった。ただ悪意でした訳でないから、
怒ってはいけないと断わって、すぐその場で相当の位置を
拵らえてくれる約束をした。それから手を鳴らして、停留所に松本を待ち合わせていた方の姉娘を呼んで、これが
私の娘だとわざわざ紹介した。そうしてこの
方は
市さんの御友達だよと云って敬太郎を娘に教えていた。娘は何でこういう人に引き合されるのか、ちょっと
解しかねた風をしながら、
極めてよそよそしく
叮嚀な
挨拶をした。敬太郎が千代子という名を覚えたのはその時の事であった。
これが田口の家庭に接触した始めての機会になって、敬太郎はその
後も用事なり訪問なりに縁を
藉りて、同じ人の門を潜る事が多くなった。時々は玄関脇の書生部屋へ
這入って、かつて電話で口を
利き合った事のある書生と世間話さえした。奥へも無論通る必要が生じて来た。細君に呼ばれて
内向の用を足す場合もあった。中学校へ行く長男から英語の質問を受けて窮する事も
稀ではなかった。
出入の度数がこう重なるにつれて、敬太郎が二人の娘に接近する機会も自然多くなって来たが、一種
間の延びた彼の調子と、比較的引き
締った田口の家風と、差向いで坐る時間の欠乏とが、容易に打ち解けがたい境遇に彼らを置き去りにした。彼らの間に取り換わされた言葉は、無論形式だけを重んずる堅苦しいものではなかったが、大抵は五分とかからない当用に過ぎないので、親しみはそれほど出る暇がなかった。彼らが公然と
膝を突き合わせて、例になく長い時間を、遠慮の
交らない談話に
更かしたのは、正月
半ばの
歌留多会の折であった。その時敬太郎は千代子から、あなた随分
鈍いのねと云われた。百代子からは、あたしあなたと組むのは
厭よ、負けるにきまってるからと
怒られた。
それからまた一カ月ほど
経って、梅の
音信の新聞に出る頃、敬太郎はある日曜の午後を、久しぶりに須永の二階で暮した時、偶然遊びに来ていた千代子に
出逢った。三人してそれからそれへと
纏まらない話を続けて行くうちに、ふと松本の評判が千代子の口に
上った。
「あの叔父さんも随分変ってるのね。雨が降ると一しきりよく御客を断わった事があってよ。今でもそうかしら」
「実は僕も雨の降る日に行って断られた
一人なんだが……」と
敬太郎が云い出した時、
須永と千代子は申し合せたように笑い出した。
「君も随分運の悪い男だね。おおかた例の
洋杖を持って行かなかったんだろう」と須永は
調戯い始めた。
「だって無理だわ、雨の降る日に洋杖なんか持って行けったって。ねえ田川さん」
この
理攻めの弁護を聞いて、敬太郎も苦笑した。
「いったい田川さんの洋杖って、どんな洋杖なの。わたしちょっと見たいわ。見せてちょうだい、ね、田川さん。下へ行って見て来ても好くって」
「今日は持って来ません」
「なぜ持って来ないの。今日はあなたそれでも好い御天気よ」
「大事な洋杖だから、いくら好い御天気でも、ただの日には持って出ないんだとさ」
「本当?」
「まあそんなものです」
「じゃ
旗日にだけ突いて出るの」
敬太郎は一人で二人に当っているのが少し苦しくなった。この次内幸町へ行く時は、きっと持って行って見せるという約束をしてようやく千代子の追窮を
逃れた。その代り千代子からなぜ松本が雨の降る日に面会を謝絶したかの源因を話して貰う事にした。――
それは珍らしく秋の日の曇った十一月のある
午過であった。千代子は松本の好きな
雲丹を母からことづかって
矢来へ持って来た。久しぶりに遊んで行こうかしらと云って、わざわざ乗って来た車まで返して、
緩くり腰を落ちつけた。松本には十三になる女を
頭に、男、女、男と
互違に順序よく四人の子が
揃っていた。これらは皆二つ違いに生れて、いずれも世間並に成長しつつあった。家庭に
華やかな匂を着けるこの生き生きした装飾物の外に、松本夫婦は取って二つになる
宵子を、指環に
嵌めた真珠のように大事に
抱いて離さなかった。彼女は真珠のように透明な青白い皮膚と、
漆のように濃い大きな眼を
有って、前の年の
雛の節句の前の
宵に松本夫婦の手に落ちたのである。千代子は五人のうちで、一番この子を
可愛がっていた。来るたんびにきっと何か
玩具を買って来てやった。ある時は余り多量に
甘いものをあてがって叔母から
怒られた事さえある。すると千代子は、大事そうに宵子を抱いて
縁側へ出て、ねえ宵子さんと云っては、わざと二人の親しい様子を叔母に見せた。叔母は笑いながら、何だね
喧嘩でもしやしまいしと云った。松本は、御前そんなにその子が好きなら御祝いの代りに上げるから、嫁に行くとき持っておいでと
調戯った。
その日も千代子は坐ると
直宵子を相手にして遊び始めた。宵子は生れてからついぞ
月代を
剃った事がないので、頭の毛が非常に細く
柔かに延びていた。そうして皮膚の青白いせいか、その髪の色が日光に照らされると、
潤沢の多い
紫を含んでぴかぴか
縮れ上っていた。「宵子さんかんかん
結って上げましょう」と云って、千代子は
鄭寧にその縮れ毛に
櫛を入れた。それから乏しい
片鬢を一束
割いて、その根元に赤いリボンを
括りつけた。宵子の頭は
御供のように平らに丸く開いていた。彼女は短かい手をやっとその御供の
片隅へ乗せて、リボンの
端を抑えながら、母のいる所までよたよた歩いて来て、イボンイボンと云った。母がああ好くかんかんが結えましたねと
賞めると、千代子は
嬉しそうに笑いながら、子供の後姿を
眺めて、今度は御父さんの所へ行って見せていらっしゃいと
指図した。宵子はまた足元の危ない歩きつきをして、松本の書斎の入口まで来て、四つ
這になった。彼女が父に礼をするときには必ず四つ這になるのが例であった。彼女はそこで自分の尻をできるだけ高く上げて、御供のような頭を敷居から二三寸の所まで下げて、またイボンイボンと云った。書見をちょっとやめた松本が、ああ好い頭だね、誰に結って貰ったのと聞くと、宵子は
頸を下げたまま、ちいちいと答えた。ちいちいと云うのは、舌の廻らない彼女の千代子を呼ぶ常の
符徴であった。
後に立って見ていた千代子は
小さい
唇から出る自分の名前を聞いて、また嬉しそうに大きな声で笑った。
そのうち子供がみんな学校から帰って来たので、今まで赤いリボンに占領されていた家庭が、急に幾色かの
華やかさを加えた。幼稚園へ行く七つになる男の子が、
巴の
紋のついた
陣太鼓のようなものを持って来て、
宵子さん叩かして上げるからおいでと連れて行った。その時千代子は
巾着のような
恰好をした赤い毛織の
足袋が廊下を動いて行く影を見つめていた。その足袋の
紐の先には丸い房がついていて、それが小いさな足を運ぶたびにぱっぱっと飛んだ。
「あの足袋はたしか御前が
編んでやったのだったね」
「ええ
可愛らしいわね」
千代子はそこへ坐って、しばらく叔父と話していた。そのうちに曇った空から淋しい雨が落ち出したと思うと、それが見る見る音を立てて、
空坊主になった
梧桐をしたたか
濡らし始めた。松本も千代子も申し合せたように、
硝子越の雨の色を眺めて、
手焙に手を
翳した。
「
芭蕉があるもんだから余計音がするのね」
「芭蕉はよく持つものだよ。この間から今日は枯れるか、今日は枯れるかと思って、毎日こうして見ているがなかなか枯れない。
山茶花が散って、
青桐が裸になっても、まだ青いんだからなあ」
「妙な事に感心するのね。だから
恒三は
閑人だって云われるのよ」
「その代り御前の叔父さんには芭蕉の研究なんか死ぬまでできっこない」
「したかないわ、そんな研究なんか。だけど叔父さんは内の御父さんよりか全く学者ね。わたし本当に敬服しててよ」
「
生意気云うな」
「あら本当よあなた。だって何を聞いても知ってるんですもの」
二人がこんな話をしていると、ただいまこの
方が御見えになりましたと云って、下女が一通の紹介状のようなものを持って来て松本に渡した。松本は「千代子待っておいで。今にまた面白い事を教えてやるから」と笑いながら立ち上った。
「
厭よまたこないだみたいに、西洋
煙草の名なんかたくさん覚えさせちゃ」
松本は何にも答えずに客間の方へ出て行った。千代子も茶の間へ取って返した。そこには雨に降り込められた空の光を補なうため、もう電気灯が
点っていた。台所ではすでに
夕飯の支度を始めたと見えて、
瓦斯七輪が二つとも忙がしく青い
を吐いていた。やがて小供は大きな食卓に二人ずつ向い合せに坐った。宵子だけは別に下女がついて食事をするのが例になっているので、この晩は千代子がその役を引受けた。彼女は
小さい朱塗の
椀と小皿に盛った魚肉とを盆の上に
載せて、横手にある六畳へ宵子を連れ込んだ。そこは
家のものの
着更をするために多く用いられる
室なので、
箪笥が二つと姿見が一つ、壁から飛び出したように
据えてあった。千代子はその姿見の前に
玩具のような椀と茶碗を載せた盆を置いた。
「さあ宵子さん、まんまよ。
御待遠さま」
千代子が
粥を
一匙ずつ
掬って口へ入れてやるたびに、宵子は
旨しい旨しいだの、ちょうだいちょうだいだのいろいろな芸を
強いられた。しまいに自分一人で食べると云って、千代子の手から匙を受け取った時、彼女はまた
丹念に匙の持ち方を教えた。宵子は
固より
極めて短かい単語よりほかに発音できなかった。そう持つのではないと叱られると、きっと
御供のような平たい頭を
傾げて、こう? こう? と聞き直した。それを千代子が面白がって、何遍もくり返さしているうちに、いつもの通りこう? と半分言いかけて、心持横にした大きな眼で千代子を見上げた時、突然右の手に持った匙を放り出して、千代子の
膝の前に
俯伏になった。
「どうしたの」
千代子は何の気もつかずに宵子を
抱き起した。するとまるで眠った子を抱えたように、ただ
手応がぐたりとしただけなので、千代子は急に大きな声を出して、宵子さん宵子さんと呼んだ。
宵子はうとうと
寝入った人のように眼を半分閉じて口を半分
開けたまま千代子の
膝の上に支えられた。千代子は平手でその背中を二三度
叩いたが、何の
効目もなかった。
「叔母さん、大変だから来て下さい」
母は驚ろいて
箸と茶碗を放り出したなり、足音を立てて
這入って来た。どうしたのと云いながら、電灯の真下で顔を
仰向にして見ると、
唇にもう薄く紫の色が
注していた。口へ
掌を当てがっても、
呼息の通う音はしなかった。母は
呼吸の
塞ったような苦しい声を出して、下女に
濡手拭を持って来さした。それを宵子の額に
載せた時、「
脈はあって」と千代子に聞いた。千代子はすぐ小さい
手頸を握ったが脈はどこにあるかまるで分らなかった。
「叔母さんどうしたら好いでしょう」と
蒼い顔をして泣き出した。母は
茫然とそこに立って見ている小供に、「早く御父さんを呼んでいらっしゃい」と命じた。小供は
四人とも客間の方へ
馳け出した。その足音が廊下の
端で止まったと思うと、松本が不思議そうな顔をして出て来た。「どうした」と云いながら、
蔽い
被さるように細君と千代子の上から宵子を
覗き込んだが、一目見ると急に
眉を寄せた。
「医者は……」
医者は時を移さず来た。「少し模様が変です」と云ってすぐ注射をした。しかし何の
効能もなかった。「駄目でしょうか」という苦しく張りつめた問が、固く結ばれた主人の
唇を
洩れた。そうして絶望を
怖れる怪しい光に
充ちた三人の眼が一度に医者の上に
据えられた。鏡を出して
瞳孔を眺めていた医者は、この時宵子の
裾を
捲って
肛門を見た。
「これでは仕方がありません。瞳孔も肛門も開いてしまっていますから。どうも御気の毒です」
医者はこう云ったがまた
一筒の注射を心臓部に試みた。
固よりそれは何の手段にもならなかった。松本は
透き
徹るような娘の肌に針の突き刺される時、
自から
眉間を
険しくした。千代子は涙をぽろぽろ膝の上に落した。
「病因は何でしょう」
「どうも不思議です。ただ不思議というよりほかに云いようがないようです。どう考えても……」と医者は首を傾むけた。「
辛子湯でも使わして見たらどうですか」と松本は
素人料簡で聞いた。「好いでしょう」と医者はすぐ答えたが、その顔には
毫も
奨励の色が出なかった。
やがて熱い湯を
盥へ
汲んで、湯気の
濛々と立つ真中へ
辛子を一袋
空けた。母と千代子は黙って宵子の着物を取り
除けた。医者は熱湯の中へ手を入れて、「もう少し
注水ましょう。余り熱いと
火傷でもなさるといけませんから」と注意した。
医者の手に
抱き取られた宵子は、湯の中に五六分
浸けられていた。三人は息を殺して柔らかい皮膚の色を見つめていた。「もう好いでしょう。
余まり長くなると……」と云いながら、医者は宵子を
盥から出した。母はすぐ受取ってタオルで
鄭寧に拭いて元の着物を着せてやったが、ぐたぐたになった宵子の様子に、ちっとも前と変りがないので、「少しの間このまま寝かしておいてやりましょう」と
恨めしそうに松本の顔を見た。松本はそれがよかろうと答えたまま、また座敷の方へ取って返して、来客を玄関に送り出した。
小さい
蒲団と小さい枕がやがて宵子のために
戸棚から取り出された。その上に常の夜の安らかな眠に落ちたとしか思えない宵子の姿を
眺めた千代子は、わっと云って
突伏した。
「叔母さんとんだ事をしました……」
「何も千代ちゃんがした訳じゃないんだから……」
「でもあたしが御飯を
喫べさしていたんですから……叔父さんにも叔母さんにもまことにすみません」
千代子は
途切れ途切れの言葉で、
先刻自分が
夕飯の世話をしていた時の、
平生と異ならない元気な様子を、何遍もくり返して聞かした。松本は腕組をして、「どうもやっぱり不思議だよ」と云ったが、「おい
御仙、ここへ寝かしておくのは
可哀そうだから、あっちの座敷へ連れて行ってやろう」と細君を
促がした。千代子も手を貸した。
手頃な
屏風がないので、ただ都合の好い位置を
択って、何の
囲いもない所へ、そっと北枕に寝かした。
今朝方玩弄にしていた風船玉を茶の間から持って来て、御仙がその枕元に置いてやった。顔へは白い
晒し
木綿をかけた。千代子は時々それを取り
除けて見ては泣いた。「ちょっとあなた」と御仙が松本を
顧みて、「まるで
観音様のように
可愛い顔をしています」と鼻を詰らせた。松本は「そうか」と云って、自分の坐っている席から宵子の顔を
覗き込んだ。
やがて白木の机の上に、
櫁と線香立と白団子が並べられて、
蝋燭の
灯が弱い光を放った時、三人は始めて眠から
覚めない宵子と自分達が遠く離れてしまったという心細い感じに打たれた。彼らは代る代る線香を上げた。その煙の
香が、二時間前とは全く違う世界に
誘ない込まれた彼らの鼻を断えず
刺戟した。ほかの子供は平生の通り早く寝かされた
後に、
咲子という十三になる長女だけが起きて線香の
側を離れなかった。
「御前も
御寝よ」
「まだ内幸町からも神田からも誰も来ないのね」
「もう来るだろう。好いから早く御寝」
咲子は立って廊下へ出たが、そこで振り
回って、千代子を招いた。千代子が同じく立って廊下へ出ると、小さな声で、
怖いからいっしょに
便所へ行ってくれろと頼んだ。便所には電灯が
点けてなかった。千代子は
燐寸を
擦って
雪洞に
灯を移して、咲子といっしょに廊下を曲った。帰りに下女部屋を
覗いて見ると、
飯焚が
出入の車夫と
火鉢を
挟んでひそひそ何か話していた。千代子にはそれが宵子の不幸を細かに語っているらしく思われた。ほかの下女は茶の間で来客の用意に盆を拭いたり茶碗を並べたりしていた。
通知を受けた親類のものがそのうち二三人寄った。いずれまた来るからと云って帰ったのもあった。千代子は来る人ごとに宵子の突然な最後をくり返しくり返し語った。十二時過から御仙は
通夜をする人のために、わざと
置火燵を
拵らえて
室に入れたが、誰もあたるものはなかった。主人夫婦は無理に勧められて寝室へ
退ぞいた。その
後で千代子は幾度か短かくなった線香の煙を新らしく
継いだ。雨はまだ降りやまなかった。夕方
芭蕉に落ちた響はもう聞こえない代りに、
亜鉛葺の
廂にあたる音が、非常に淋しくて悲しい
点滴を彼女の耳に絶えず送った。彼女はこの雨の中で、時々宵子の顔に当てた
晒を取っては
啜泣をしているうちに夜が明けた。
その日は女がみんなして宵子の
経帷子を縫った。
百代子が新たに内幸町から来たのと、ほかに懇意の
家の細君が二人ほど見えたので、小さい
袖や
裾が、方々の手に渡った。千代子は半紙と筆と
硯とを持って廻って、
南無阿弥陀仏という六字を誰にも一枚ずつ書かした。「
市さんも書いて上げて下さい」と云って、
須永の前へ来た。「どうするんだい」と聞いた須永は、不思議そうに筆と紙を受取った。
「細かい字で書けるだけ一面に書いて下さい。
後から六字ずつを
短冊形に
剪って
棺の中へ散らしにして入れるんですから」
皆な
畏こまって六字の
名号を
認ためた。咲子は見ちゃ
厭よと云いながら
袖屏風をして曲りくねった字を書いた。十一になる男の子は僕は仮名で書くよと断わって、ナムアミダブツと電報のようにいくつも並べた。
午過になっていよいよ棺に入れるとき松本は千代子に「御前着物を着換さしておやりな」と云った。千代子は泣きながら返事もせずに、冷たい宵子を裸にして
抱き起した。その背中には
紫色の斑点が一面に出ていた。着換が済むと御仙が小さい
珠数を手にかけてやった。同じく小さい
編笠と
藁草履を棺に入れた。
昨日の夕方まで
穿いていた赤い毛糸の
足袋も入れた。その
紐の先につけた丸い
珠のぶらぶら動く姿がすぐ千代子の眼に浮んだ。みんなのくれた
玩具も足や頭の所へ押し込んだ。最後に南無阿弥陀仏の
短冊を雪のように振りかけた上へ
葢をして、
白綸子の
被をした。
友引は
善くないという
御仙の説で、葬式を一日延ばしたため、
家の中は陰気な空気の
裡に常よりは
賑わった。七つになる
嘉吉という男の子が、いつもの
陣太鼓を
叩いて叱られた
後、そっと千代子の
傍へ来て、
宵子さんはもう帰って来ないのと聞いた。
須永が笑いながら、
明日は嘉吉さんも焼場へ持って行って、宵子さんといっしょに焼いてしまうつもりだと
調戯うと、嘉吉はそんなつもりなんか僕
厭だぜと云いながら、大きな眼をくるくるさせて須永を見た。
咲子は、御母さんわたしも
明日御葬式に行きたいわと御仙にせびった。あたしもねと九つになる
重子が頼んだ。御仙はようやく気がついたように、奥で田口夫婦と話をしていた夫を呼んで、「あなた、明日いらしって」と聞いた。
「行くよ。御前も行ってやるが好い」
「ええ、行く事にきめてます。小供には何を着せたらいいでしょう」
「
紋付でいいじゃないか」
「でも
余まり模様が派手だから」
「
袴を
穿けばいいよ。男の子は海軍服でたくさんだし。御前は黒紋付だろう。黒い帯は持ってるかい」
「持ってます」
「千代子、御前も持ってるなら喪服を着て
供に立っておやり」
こんな世話を焼いた後で、松本はまた奥へ引返した。千代子もまた線香を上げに立った。
棺の上を見ると、いつの間にか
綺麗な
花環が
載せてあった。「いつ来たの」と
傍にいる妹の
百代に聞いた。百代は小さな声で「
先刻」と答えたが、「叔母さんが小供のだから、白い花だけでは
淋しいって、わざと赤いのを
交ぜさしたんですって」と説明した。姉と妹はしばらくそこに並んで坐っていた。十分ばかりすると、千代子は百代の耳に口を付けて、「百代さんあなた宵子さんの死顔を見て」と聞いた。百代は「ええ」と
首肯ずいた。
「いつ」
「ほら
先刻御棺に入れる時見たんじゃないの。なぜ」
千代子はそれを忘れていた。妹がもし見ないと云ったら、二人で棺の
葢をもう一遍開けようと思ったのである。「御止しなさいよ、
怖いから」と云って百代は首をふった。
晩には
通夜僧が来て御経を上げた。千代子が傍で聞いていると、松本は坊さんを捕まえて、
三部経がどうだの、
和讃がどうだのという変な話をしていた。その会話の中には
親鸞上人と
蓮如上人という名がたびたび出て来た。十時少し廻った頃、松本は菓子と
御布施を僧の前に並べて、もう
宜しいから御引取下さいと
断わった。坊さんの帰った
後で御仙がその
理由を聞くと、「何坊さんも早く寝た方が勝手だあね。宵子だって御経なんか聴くのは
嫌だよ」とすましていた。千代子と百代子は顔を見合せて微笑した。
あくる日は風のない明らかな空の下に、小いさな棺が静かに動いた。
路端の人はそれを何か不可思議のものでもあるかのように
目送した。松本は
白張の
提灯や
白木の
輿が嫌だと云って、宵子の棺を喪車に入れたのである。その喪車の
周囲に垂れた黒い幕が揺れるたびに、
白綸子の
覆をした小さな棺の上に飾った花環がちらちら見えた。そこいらに遊んでいた子供が
駆け寄って来て、珍らしそうに車を
覗き込んだ。車と行き逢った時、脱帽して過ぎた人もあった。
寺では
読経も焼香も形式通り済んだ。千代子は広い本堂に坐っている間、不思議に涙も何も出なかった。叔父叔母の顔を見てもこれといって
憂に
鎖された様子は見えなかった。焼香の時、重子が
香をつまんで
香炉の
裏へ
燻るのを間違えて、灰を
一撮み取って、
抹香の中へ打ち込んだ折には、おかしくなって吹き出したくらいである。式が果ててから松本と須永と別に一二人棺につき添って火葬場へ廻ったので、千代子はほかのものといっしょにまた
矢来へ帰って来た。車の上で、切なさの少し減った今よりも、苦しいくらい悲しかった
昨日一昨日の気分の方が、清くて美くしい物を多量に含んでいたらしく考えて、その時味わった痛烈な悲哀をかえって恋しく思った。
骨上には
御仙と
須永と千代子とそれに
平生宵子の守をしていた
清という下女がついて都合
四人で行った。
柏木の
停車場を下りると二丁ぐらいな所を、つい気がつかずに
宅から車に乗って出たので時間はかえって長くかかった。火葬場の経験は千代子に取って生れて始めてであった。久しく見ずにいた郊外の
景色も忘れ物を思い出したように
嬉しかった。眼に入るものは青い
麦畠と青い大根畠と
常磐木の中に赤や黄や褐色を雑多に交ぜた森の色であった。前へ行く須永は時々
後を振り返って、
穴八幡だの
諏訪の
森だのを千代子に教えた。車が暗いだらだら坂へ来た時、彼はまた小高い杉の木立の中にある細長い塔を千代子のために
指した。それには
弘法大師千五十年
供養塔と
刻んであった。その下に
熊笹の生い茂った吹井戸を控えて、一軒の茶見世が橋の
袂をさも
田舎路らしく見せていた。折々坊主になりかけた高い樹の枝の上から、色の変った小さい葉が一つずつ落ちて来た。それが空中で非常に早くきりきり舞う姿が
鮮やかに千代子の眼を
刺戟した。それが容易に地面の上へ落ちずに、いつまでも途中でひらひらするのも、彼女には眼新らしい現象であった。
火葬場は日当りの好い
平地に南を受けて建てられているので、車を門内に引き入れた時、思ったより陽気な影が千代子の胸に射した。御仙が事務所の前で、松本ですがと云うと、郵便局の受付口みたような窓の中に坐っていた男が、
鍵は御持ちでしょうねと聞いた。御仙は変な顔をして急に
懐や帯の間を探り出した。
「とんだ事をしたよ。鍵を茶の間の
用箪笥の上へ置いたなり……」
「持って来なかったの。じゃ困るわね。まだ時間があるから急いで
市さんに取って来て貰うと好いわ」
二人の問答を
後の方で冷淡に聞いていた須永は、鍵なら僕が持って来ているよと云って、冷たい重いものを
袂から出して叔母に渡した。御仙がそれを受付口へ見せている間に、千代子は須永を
窘なめた。
「市さん、あなた本当に
悪らしい
方ね。持ってるなら早く出して上げればいいのに。叔母さんは宵子さんの事で、頭がぼんやりしているから忘れるんじゃありませんか」
須永はただ微笑して立っていた。
「あなたのような不人情な人はこんな時にはいっそ来ない方がいいわ。宵子さんが死んだって、涙一つ
零すじゃなし」
「不人情なんじゃない。まだ子供を持った事がないから、親子の情愛がよく解らないんだよ」
「まあ。よく叔母さんの前でそんな
呑気な事が云えるのね。じゃあたしなんかどうしたの。いつ子供持った
覚があって」
「あるかどうか僕は知らない。けれども千代ちゃんは女だから、おおかた男より美くしい心を持ってるんだろう」
御仙は二人の口論を聞かない人のように、用事を済ますとすぐ待合所の方へ歩いて行った。そこへ腰をかけてから、立っている千代子を手招きした。千代子はすぐ叔母の
傍へ来て座に着いた。須永も続いて
這入って来た。そうして二人の
向側にある涼み台みたようなものの上に腰をかけた。清もおかけと云って自分の席を
割いてやった。
四人が茶を
呑んで待ち合わしている
間に、
骨上の連中が二三組見えた。最初のは
田舎染みた御婆さんだけで、これは御仙と千代子の服装に対して遠慮でもしたらしく口数を多く
利かなかった。次には尻を
絡げた
親子連が来た。
活溌な声で、
壺を下さいと云って、一番安いのを十六銭で買って行った。三番目には
散髪に角帯を
締めた男とも女とも片のつかない
盲者が、紫の
袴を
穿いた女の子に手を引かれてやって来た。そうしてまだ時間はあるだろうねと念を押して、
袂から出した
巻煙草を吸い始めた。須永はこの盲者の顔を見ると立ち上ってぷいと表へ出たぎりなかなか返って来なかった。ところへ事務所のものが御仙の傍へ来て、用意が出来ましたからどうぞと
促がしたので、千代子は須永を呼びに裏手へ出た。
真鍮の掛札に何々殿と書いた
並等の
竈を、薄気味悪く左右に見て裏へ抜けると、広い
空地の
隅に
松薪が山のように積んであった。
周囲には
綺麗な
孟宗藪が
蒼々と茂っていた。その下が
麦畠で、麦畠の向うがまた岡続きに高く
蜿蜒しているので、北側の
眺めはことに
晴々しかった。
須永はこの空地の
端に立って広い眼界をぼんやり見渡していた。
「
市さん、もう用意ができたんですって」
須永は千代子の声を聞いて黙ったまま帰って来たが、「あの
竹藪は大変みごとだね。何だか
死人の
膏が
肥料になって、ああ
生々延びるような気がするじゃないか。ここにできる
筍はきっと
旨いよ」と云った。千代子は「おお
厭だ」と
云い
放にして、さっさとまた
並等を通り抜けた。
宵子の
竈は上等の一号というので、扉の上に紫の幕が張ってあった。その前に
昨日の花環が少し
凋みかけて、台の上に静かに横たわっていた。それが
昨夜宵子の肉を焼いた
熱気の
記念のように思われるので、千代子は急に息苦しくなった。
御坊が三人出て来た。そのうちの一番年を取ったのが「御封印を……」と云うので、須永は「よし、構わないから開けてくれ」と頼んだ。
畏まった御坊は自分の手で封印を切って、かちゃりと響く音をさせながら
錠を抜いた。黒い鉄の扉が左右へ
開くと、薄暗い奥の方に、灰色の丸いものだの、黒いものだの、白いものだのが、形を成さない
一塊となって
朧気に見えた。御坊は「今出しましょう」と断って、レールを二本前の方に
継ぎ足しておいて、鉄の
環に似たものを二つ棺台の
端にかけたかと思うと、いきなりがらがらという音と共に、かの形を成さない一塊の
焼残が四人の立っている鼻の下へ出て来た。千代子はそのなかで、例の
御供に似てふっくらと
膨らんだ宵子の
頭蓋骨が、生きていた時そのままの姿で残っているのを認めて急に
手帛を口に
銜えた。御坊はこの頭蓋骨と頬骨と外に二つ三つの大きな骨を残して、「あとは
綺麗に
篩って持って参りましょう」と云った。
四人は
各自木箸と竹箸を一本ずつ持って、台の上の
白骨を思い思いに拾っては、白い
壺の中へ入れた。そうして誘い合せたように泣いた。ただ須永だけは
蒼白い顔をして口も
利かず鼻も鳴らさなかった。「歯は別になさいますか」と聞きながら、御坊が小器用に歯を拾い分けてくれた時、
顎をくしゃくしゃと
潰してその中から二三枚
択り出したのを見た須永は、「こうなるとまるで人間のような気がしないな。砂の中から小石を拾い出すと同じ事だ」と
独言のように云った。下女が
三和土の上にぽたぽたと涙を落した。
御仙と千代子は
箸を置いて
手帛を顔へ当てた。
車に乗るとき千代子は杉の箱に入れた白い壺を
抱いてそれを
膝の上に
載せた。車が
馳け出すと冷たい風が膝掛と杉箱の間から吹き込んだ。高い
欅が
白茶けた幹を路の左右に並べて、彼らを送り迎えるごとくに細い枝を揺り動かした。その細い枝が
遥か頭の上で
交叉するほど
繁く両側から出ているのに、自分の通る所は存外明るいのを奇妙に思って、千代子は折々頭を上げては、遠い空を
眺めた。
宅へ着いて遺骨を仏壇の前に置いた時、すぐ寄って来た小供が、
葢を開けて見せてくれというのを彼女は断然拒絶した。
やがて家内中同じ
室で昼飯の
膳に向った。「こうして見ると、まだ子供がたくさんいるようだが、これで一人もう欠けたんだね」と須永が云い出した。
「生きてる内はそれほどにも思わないが、
逝かれて見ると一番惜しいようだね。ここにいる連中のうちで誰か代りになればいいと思うくらいだ」と松本が云った。
「
非道いわね」と重子が咲子に
耳語いた。
「叔母さんまた奮発して、宵子さんと
瓜二つのような子を
拵えてちょうだい。
可愛がって上げるから」
「宵子と同じ子じゃいけないでしょう、宵子でなくっちゃ。御茶碗や帽子と違って代りができたって、
亡くしたのを忘れる訳にゃ行かないんだから」
「
己は雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男が
厭になった」
敬太郎は
須永の門前で
後姿の女を見て以来、この二人を結びつける
縁の糸を常に想像した。その糸には一種夢のような
匂があるので、二人を眼の前に、須永としまた千代子として
眺める時には、かえってどこかへ消えてしまう事が多かった。けれども彼らが普通の人間として敬太郎の肉眼に現実の
刺戟を与えない折々には、失なわれた糸がまた二人の中を離すべからざる
因果のごとくに
繋いだ。田口の
家へ
出入するようになってからも、須永と千代子の関係については、
一口でさえ誰からも聞いた事はなし、また二人の様子を
直に観察しても尋常の
従兄弟以上に何物も
仄めいていなかったには違ないが、こういう当初からの
聯想に支配されて、彼の頭のどこかに、二人を常に
一対の
男女として認める傾きを
有っていた。女の
連添わない若い男や、男の手を組まない若い女は、要するに敬太郎から見れば自然を
損なった片輪に過ぎないので、彼が自分の知る彼らを頭のうちでかように組み合わせたのは、まだ片輪の境遇にまごついている二人に、自然が生みつけた通りの資格を早く与えてやりたいという道義心の要求から起ったのかも知れなかった。
それはこむずかしい
理窟だから、たといどんな要求から起ろうと敬太郎のために弁ずる必要はないが、この頃になって偶然千代子の結婚談を耳にした彼が、頭の中の世界と、頭の外にある社会との矛盾に、ちょっと首を
捻ったのは事実に相違なかった。彼はその話を書生の
佐伯から聞いたのである。もっとも佐伯のようなものが、まだ事の
纏まらない先から、奥の
委しい話を知ろうはずがなかった。彼はただ
漠然とした顔の筋肉をいつもより緊張させて、何でもそんな評判ですと云うだけであった。千代子を貰う人の名前も無論分らなかったが、身分の実業家である事はたしかに思われた。
「千代子さんは須永君の所へ行くのだとばかり思っていたが、そうじゃないのかね」
「そうも行かないでしょう」
「なぜ」
「なぜって聞かれると、僕にも
明瞭な答はでき
悪いんですが、ちょっと考えて見てもむずかしそうですね」
「そうかね、僕はまたちょうど好い夫婦だと思ってるがね。親類じゃあるし、年だって五つ六つ違ならおかしかなしさ」
「知らない人から見るとちょっとそう見えるでしょうがね。裏面にはいろいろ複雑な事情もあるようですから」
敬太郎は佐伯の云わゆる「複雑な事情」なるものを根掘り葉掘り聞きたくなったが、何だか自分を門外漢扱いにするような彼の言葉が
癪に
障るのと、たかが玄関番の書生から家庭の内幕を聞き出したと云われては自分の品格にかかわるのと、最後には、口ほど詳しい事情を佐伯が知っている
気遣がないのとで、それぎりその話はやめにした。そのおりついでながら奥へ行って細君に
挨拶をしてしばらく話したが、別に平生と何の変る様子もないので、おめでとうございますと云う勇気も出なかった。
これは敬太郎が須永の
宅で
矢来の叔父さんの
家にあった不幸を千代子から聞いたつい二三日前の事であった。その日彼が久しぶりに須永を訪問したのも、実はその結婚問題について須永の考えを確かめるつもりであった。須永がどこの
何人と結婚しようと、千代子がどこの何人に片づこうと、それは敬太郎の関係するところではなかったが、この二人の運命が、それほど
容易く右左へ未練なく離れ離れになり得るものか、または自分の想像した通り
幻しに似た糸のようなものが、二人にも見えない縁となって、彼らを
冥々のうちに
繋ぎ合せているものか。それともこの夢で織った帯とでも形容して
然るべきちらちらするものが、ある時は二人の眼に明らかに見え、ある時は全たく切れて、彼らをばらばらに孤立させるものか、――そこいらが敬太郎には知りたかったのである。
固よりそれは単なる
物数奇に過ぎなかった。彼は明らかにそうだと自覚していた。けれども須永に対してなら、この物数奇を満足させても無礼に当らない事も自覚していた。そればかりかこの物数奇を満足させる権利があるとまで信じていた。
その日は
生憎千代子に妨たげられた上、しまいには
須永の母さえ出て来たので、だいぶ長く坐っていたにもかかわらず、立ち入った話はいっさい持ち出す機会がなかった。ただ
敬太郎は偶然にも自分の前に並んだ三人が、ありのままの今の姿で、現に似合わしい夫婦と
姑になり
終せているという事にふと思い及んだ時、彼らを世間並の形式で
纏めるのは、最も容易い仕事のように考えて帰った。
次の日曜がまた幸いな暖かい
日和をすべての
勤め
人に恵んだので、敬太郎は朝早くから須永を尋ねて、郊外に
誘なおうとした。
無精でわがままな彼は玄関先まで出て来ながら、なかなか応じそうにしなかったのを、母親が無理に勧めてようやく靴を
穿かした。靴を穿いた以上彼は、敬太郎の意志通りどっちへでも動く人であった。その代りいくら相談をかけても、ある
判切した方角へ是非共足を運ばなければならないと主張する男ではなかった。彼と矢来の松本といっしょに出ると、二人とも行先を考えずに歩くので、一致してとんでもない所へ到着する事がままあった。敬太郎は現にこの人の母の口からその例を聞かされたのである。
この日彼らは両国から汽車に乗って
鴻の
台の下まで行って降りた。それから美くしい広い河に沿って
土堤の上をのそのそ歩いた。敬太郎は久しぶりに
晴々した好い気分になって、水だの岡だの
帆かけ
船だのを見廻した。須永も
景色だけは
賞めたが、まだこんな吹き晴らしの土堤などを歩く季節じゃないと云って、寒いのに
伴れ出した敬太郎を
恨んだ。早く歩けば暖たかくなると出張した敬太郎はさっさと歩き始めた。須永は
呆れたような顔をして
跟いて来た。二人は
柴又の
帝釈天の
傍まで来て、
川甚という
家へ
這入って飯を食った。そこで
誂らえた
鰻の
蒲焼が
甘たるくて食えないと云って、須永はまた苦い顔をした。
先刻から二人の気分が熟しないので、しんみりした話をする余地が出て来ないのを苦しがっていた敬太郎は、この時須永に「江戸っ子は
贅沢なものだね。細君を貰うときにもそう贅沢を云うかね」と聞いた。
「云えれば誰だって云うさ。何も江戸っ子に限りぁしない。君みたような
田舎ものだって云うだろう」
須永はこう答えて澄ましていた。敬太郎は仕方なしに「江戸っ子は
無愛嬌なものだね」と云って笑い出した。須永も突然おかしくなったと見えて笑い出した。それから
後は二人の気分と同じように、二人の会話も円満に進行した。敬太郎が須永から「君もこの頃はだいぶ落ちついて来たようだ」と評されても、彼は「少し
真面目になったかね」とおとなしく受けるし、彼が須永に「君はますます
偏窟に傾くじゃないか」と
調戯っても、須永は「どうも自分ながら
厭になる事がある」と快よく
己れの弱点を承認するだけであった。
こういう打ち解けた心持で、二人が差し向いに互の眼の奥を
見透して恥ずかしがらない時に、千代子の問題が持ち出されたのは、その真相を聞こうとする敬太郎に取って偶然の仕合せであった。彼はまず一週間ほど前耳にした彼女が近いうちに結婚するという
噂を
皮切に須永を
襲った。その時須永は少しも
昂奮した様子を見せなかった。むしろいつもより沈んだ調子で、「また何か縁談が起りかけているようだね。今度は
旨く
纏まればいいが」と答えたが、急に
口調を
更えて、「なに君は知らない事だが、今までもそう云う話は何度もあったんだよ」とさも
陳腐らしそうに説明して聞かせた。
「君は
貰う気はないのかい」
「僕が貰うように見えるかね」
話しはこんな風に、御互で引き
摺るようにしてだんだん先へ進んだが、いよいよ
際どいところまで打ち明けるか、さもなければ題目を
更えるよりほかに仕方がないという点まで押しつめられた時、須永はとうとう敬太郎に「また
洋杖を持って来たんだね」と云って苦笑した。敬太郎も笑いながら
縁側へ出た。そこから例の洋杖を取ってまた這入って来たが、「この通りだ」と
蛇の頭を須永に見せた。
須永の話は
敬太郎の予期したよりも
遥かに長かった。――
僕の父は早く死んだ。僕がまだ親子の情愛をよく解しない子供の頃に突然死んでしまった。僕は子がないから、自分の血を分けた
温たかい肉の
塊りに対する
情は、今でも比較的薄いかも知れないが、自分を生んでくれた親を
懐かしいと思う心はその
後だいぶ発達した。今の心をその時分持っていたならと考える事も
稀ではない。
一言でいうと、当時の僕は父にははなはだ冷淡だったのである。もっとも父もけっして甘い方ではなかった。今の僕の胸に映る彼の顔は、骨の高い血色の
勝れない、親しみの薄い、厳格な表情に
充ちた肖像に過ぎない。僕は自分の顔を鏡の
裏に見るたんびに、それが胸の中に収めた父の
容貌と大変似ているのを思い出しては不愉快になる。自分が父と同じ
厭な印象を、
傍の人に与えはしまいかと苦に病んで、そこで気が引けるばかりではない。こんな
陰欝な
眉や額が代表するよりも、まだましな温たかい情愛を、血の中に流している今の自分から推して、あんなに冷酷に見えた父も、心の底には自分以上に熱い涙を
貯えていたのではなかろうかと考えると、父の
記念として、彼の悪い
上皮だけを覚えているのが、子としていかにも情ない心持がするからである。父は死ぬ二三日前僕を枕元に呼んで、「市蔵、おれが死ぬと御母さんの
厄介にならなくっちゃならないぞ。知ってるか」と云った。僕は生れた時から母の厄介になっていたのだから、
今更改ためて父からそれを聞かされるのを妙に思った。黙って坐っていると、父は骨ばかりになった顔の筋を無理に動かすようにして、「今のように腕白じゃ、御母さんも構ってくれないぞ。もう少しおとなしくしないと」と云った。僕は母が今まで構ってくれたんだからこのままの僕でたくさんだという気が充分あった。それで父の
小言をまるで必要のない余計な事のように考えて病室を出た。
父が死んだ時母は非常に泣いた。葬式が出る
間際になって、僕は着物を着換えさせられたまま、
手持無沙汰だから、一人
縁側へ出て、
蒼い空を
覗き込むように
眺めていると、
白無垢を着た母が何を思ったか不意にそこへ出て来た。田口や松本を始め、
供に立つものはみんな
向の方で
混雑していたので、
傍には誰も見えなかった。母は
突然自分の坊主頭へ手を
載せて、泣き
腫らした眼を自分の上に
据えた。そうして小さい声で、「御父さんが
御亡くなりになっても、御母さんが今まで通り
可愛がって上げるから安心なさいよ」と云った。僕は何とも答えなかった。涙も落さなかった。その時はそれですんだが、
両親に対する僕の記憶を、生長の
後に至って、遠くの方で曇らすものは、二人のこの時の言葉であるという感じがその
後しだいしだいに強く明らかになって来た。何の意味もつける必要のない彼らの言葉に、僕はなぜ厚い疑惑の裏打をしなければならないのか、それは僕自身に聞いて見てもまるで説明がつかなかった。時々は母に向って
直に問い
糺して見たい気も起ったが、母の顔を見ると急に勇気が
摧けてしまうのが
例であった。そうして心の
中のどこかで、それを打ち明けたが最後、親しい
母子が離れ離れになって、永久今の
睦ましさに戻る機会はないと僕に
耳語くものが出て来た。それでなくても、母は僕の
真面目な顔を見守って、そんな事があったっけかねと笑いに
紛らしそうなので、そう
剥ぐらかされた時の残酷な結果を予想すると、とても口へ出された義理じゃないと思い直しては黙っていた。
僕は母に対してけっして柔順な
息子ではなかった。父の死ぬ前に枕元へ呼びつけられて意見されただけあって、小さいうちからよく母に
逆らった。大きくなって、女親だけになおさら優しくしてやりたいという分別ができた
後でも、やっぱり彼女の云う通りにはならなかった。この二三年はことに心配ばかりかけていた。が、いくら勝手を云い合っても、
母子は生れて以来の母子で、この
貴とい観念を傷つけられた
覚は、
重手にしろ
浅手にしろ、まだ経験した試しがないという考えから、もしあの事を云い出して、二人共後悔の
瘢痕を
遺さなければすまない
瘡を受けたなら、それこそ取返しのつかない不幸だと思っていた。この
畏怖の念は神経質に生れた僕の頭で
拵らえるのかも知れないとも
疑って見た。けれども僕にはそれが現在よりも明らかな未来として存在している事が多かった。だから僕はあの時の父と母の言葉を、それなり忘れてしまう事ができなかったのを、今でも情なく感ずるのである。
父と母の間はどれほど円満であったか、僕には分らない。僕はまだ
妻を貰った経験がないから、そう云う事を口にする資格はないかも知れないが、いかな仲の
善い夫婦でも、時々は
気不味い思をしあうのが人間の常だろうから、彼らだって永く添っているうちには面白くない
汚点を双方の胸の
裏に見出しつつ、世間も知らず互も口にしない不満を、自分一人
苦く味わって我慢した場合もあったのだろうと思う。もっとも父は
疳癖の強い割に陰性な男だったし、母は
長唄をうたう時よりほかに、大きな声の出せない
性分なので、僕は二人の言い争そう現場を、父の死ぬまでいまだかつて目撃した事がなかった。要するに世間から云えば、僕らの
宅ほど静かに
整のった家庭は
滅多に見当らなかったのである。あのくらい
他の悪口を露骨にいう松本の叔父でさえ、今だにそう認めて
間違ないものと信じ切っている。
母は僕に対して死んだ父を語るごとに、世間の夫のうちで最も完全に近いもののように説明してやまない。これは幾分か僕の腹の底に濁ったまま沈んでいる父の記憶を清めたいための弁護とも思われる。または彼女自身の記憶に時間の
布巾をかけてだんだん
光沢を出すつもりとも見られる。けれども慈愛に
充ちた親としての父を僕に紹介する時には、彼女の態度が全く一変する。平生僕が
目のあたりに見ているあの
柔和な母が、どうしてこう
真面目になれるだろうと驚ろくくらい、厳粛な
気象で僕を打ち
据える事さえあった。が、それは僕が中学から高等学校へ移る時分の昔である。今はいくら母に
強請って同じ話をくり返して
貰っても、そんな
気高い気分にはとてもなれない。僕の情操はその頃から学校を卒業するまでの間に、近頃の小説に出る主人公のように、まるで
荒み果てたのだろう。現代の空気に中毒した自分を
呪いたくなると、僕は時々もう一遍で好いから、母の前でああ云う崇高な感じに触れて見たいという
望を起すが、同時にその望みがとても
遂げられない過去の夢であるという悲しみも
湧いて来る。
母の性格は
吾々が昔から用い慣れた慈母という言葉で形容さえすれば、それで尽きている。僕から見ると彼女はこの二字のために生れてこの二字のために死ぬと云っても
差支ない。まことに気の毒であるが、それでも母は生活の満足をこの一点にのみ集注しているのだから、僕さえ充分の孝行ができれば、これに越した彼女の
喜はないのである。が、もしその僕が彼女の意に
背く事が多かったら、これほどの不幸はまた彼女に取ってけっしてない訳になる。それを思うと僕は非常に心苦しい事がある。
思い出したからここでちょっと云うが、僕は生れてからの一人息子ではない。子供の時分に
妙ちゃんという
妹と毎日遊んだ事を覚えている。その妹は大きな模様のある
被布を
平生着て、人形のように髪を切り下げていた。そうして僕の事を常に市蔵ちゃん市蔵ちゃんと云って、兄さんとはけっして呼ばなかった。この妹は父の
亡くなる何年前かに
実扶的里亜で死んでしまった。その頃は血清注射がまだ発明されない時分だったので、治療も大変に困難だったのだろう。僕は
固より実扶的里亜と云う名前さえ知らなかった。
宅へ見舞に来た松本に、御前も実扶的里亜かと
調戯われて、うんそうじゃないよ僕軍人だよと答えたのを今だに忘れずにいる。妹が死んでから当分はむずかしい父の顔がだいぶ優しく見えた。母に向って、まことに御前には気の毒な事をしたといった顔がことに
穏かだったので、小供ながら、ついその時の言葉まで
小さい胸に刻みつけておいた。しかし母がそれに対してどう答えたかは全く知らない。いくら思い出そうとしても思い出せないところをもって見ると、
初から覚えなかったのだろう。これほど鋭敏に父を観察する能力を、小供の時から持っていた僕が、母に対する注意に欠けていたのも不思議である。人間が自分よりも余計に
他を知りたがる癖のあるものだとすれば、僕の父は母よりもよほど他人らしく僕に見えていたのかも分らない。それを逆に云うと、母は観察に
価しないほど僕に親しかったのである。――とにかく妹は死んだ。それからの僕は父に対しても母に対しても一人息子であった。父が死んで以後の今の僕は母に対しての一人息子である。
だから僕は母をできるだけ大事にしなければすまない。が、実際は同じ源因がかえって僕をわがままにしている。僕は去年学校を卒業してから
今日まで、まだ就職という問題についてただの一日も頭を使った事がない。出た時の成績はむしろ好い方であった。席次を
目安に人を
採る今の習慣を利用しようと思えば、随分友達を
羨ましがらせる位置に坐り込む機会もないではなかった。現に一度はある方面から
人選の
依託を受けた某教授に呼ばれて意向を聞かれた記憶さえ
有っている。それだのに僕は動かなかった。
固より自慢でこう云う話をするのではない。真底を打ち明ければむしろ自慢の反対で、全く信念の欠乏から来た
引込み
思案なのだから不愉快である。が、朝から晩まで気骨を折って、世の中に持て
囃されたところで、どこがどうしたんだという横着は、無論断わる時からつけ
纏っていた。僕は時めくために生れた男ではないと思う。法律などを
修めないで、植物学か天文学でもやったらまだ
性に合った仕事が天から授かるかも知れないと思う。僕は世間に対してははなはだ気の弱い癖に、自分に対しては大変辛抱の好い男だからそう思うのである。
こういう僕のわがままをわがままなりに通してくれるものは、云うまでもなく父が
遺して行ったわずかばかりの財産である。もしこの財産がなかったら、僕はどんな苦しい思をしても、法学士の肩書を利用して、世間と戦かわなければならないのだと考えると、僕は死んだ父に対して改ためて感謝の念を捧げたくなると同時に、自分のわがままはこの財産のためにやっと存在を許されているのだからよほど腰の
坐らないあさはかなものに違ないと推断する。そうしてその犠牲にされている母が一層気の毒になる。
母は
昔堅気の教育を受けた婦人の常として、家名を揚げるのが子たるものの第一の
務だというような考えを、何より先に
抱いている。しかし彼女の家名を
揚げるというのは、名誉の意味か、財産の意味か、権力の意味か、または徳望の意味か、そこへ行くと全く何の分別もない。ただ
漠然と、一つが頭の上に落ちて来れば、すべてその他が
後を追って門前に
輻湊するぐらいに思っている。しかし僕はそういう問題について、何事も母に説明してやる勇気がない。説明して聞かせるには、まず僕の見識でもっともと認めた家名の揚げ方をした上でないと、僕にその資格ができないからである。僕はいかなる意味においても家名を揚げ得る男ではない。ただ
汚さないだけの見識を頭に入れておくばかりである。そうしてその見識は母に見せて喜こんで
貰えるどころか、彼女とはまるでかけ離れた縁のないものなのだから、母も心細いだろう。僕も淋しい。
僕が母にかける心配の数あるうちで、第一に挙げなければならないのは、今話した通りの僕の欠点である。しかしこの欠点を
矯めずに母と不足なく暮らして行かれるほど、母は僕を愛していてくれるのだから、ただすまないと思う心を失なわずに、このままで押せば押せない事もないが、このわがままよりももっと鋭どい失望を母に与えそうなので、僕が
私かに胸を痛めているのは結婚問題である。結婚問題と云うより僕と千代子を取り巻く周囲の事情と云った方が適当かも知れない。それを説明するには話の順序としてまず千代子の生れない当時に
溯ぼる必要がある。その頃の田口はけっして今ほどの
幅利でも資産家でもなかった。ただ将来見込のある男だからと云うので、父が母の
妹に当るあの叔母を嫁にやるように周旋したのである。田口は
固より僕の父を先輩として仰いでいた。なにかにつけて相談もしたり、世話にもなった。両家の間に新らしく成立したこの親しい関係が、月と共に加速度をもって円満に進行しつつある際に千代子が生れた。その時僕の母はどう思ったものか、大きくなったらこの子を市蔵の嫁にくれまいかと田口夫婦に頼んだのだそうである。母の語るところによると、彼らはその
折快よく母の頼みを承諾したのだと云う。固より後から百代が生まれる、
吾一という男の子もできる、千代子もやろうとすればどこへでもやられるのだが、きっと僕にやらなければならないほど確かに母に受合ったかどうか、そこは僕も知らない。
とにかく僕と千代子の間には両方共物心のつかない当時からすでにこういう
絆があった。けれどもその絆は僕ら二人を結びつける上においてすこぶる怪しい絆であった。二人は
固より天に
上る
雲雀のごとく自由に生長した。絆を
綯った人でさえ
確とその
端を握っている気ではなかったのだろう。僕は怪しい絆という文字を奇縁という意味でここに使う事のできないのを深く母のために悲しむのである。
母は僕の高等学校に
這入った時分それとなく千代子の事を
仄めかした。その頃の僕に色気のあったのは無論である。けれども未来の
妻という観念はまるで頭に無かった。そんな話に取り合う落ちつきさえ持っていなかった。ことに子供の時からいっしょに遊んだり
喧嘩をしたり、ほとんど同じ家に生長したと違わない親しみのある少女は、余り自分に近過ぎるためかはなはだ平凡に見えて、異性に対する普通の
刺戟を与えるに足りなかった。これは僕の方ばかりではあるまい、千代子もおそらく同感だろうと思う。その
証拠には長い交際の前後を通じて、僕はいまだかつて男として彼女から取り扱かわれた経験を記憶する事ができない。彼女から見た僕は、
怒ろうが泣こうが、
科をしようが色眼を使おうが、常に変らない
従兄に過ぎないのである。もっともこれは幾分か、純粋な
気象を受けて生れた彼女の性情からも出るので、そこになるとまた僕ほど彼女を知り抜いているものはないのだが、単にそれだけでああ
男女の
牆壁が取り
除けられる訳のものではあるまい。ただ一度……しかしこれは後で話す方が
宜かろうと思う。
母は自分のいう事に耳を借さなかった僕を
羞恥家と解釈して、再び時期を待つもののごとくに、この問題を
懐に収めた。羞恥は僕といえども否定する勇気がない。しかし千代子に意があるから
羞恥んだのだと取った母は、全くの反対を事実と認めたと同じ事である。要するに母は未来に対する準備という考から、僕ら二人をなるべく仲善く育て上げよう育て上げようと
力めた結果、男女としての二人をしだいに遠ざからした。そうして自分では知らずにいた。それを知らなければならないようにした僕は全く残酷であった。
その日の事を語るのが僕には実際の苦痛である。母は高等学校時代に
匂わした千代子の問題を、僕が大学の二年になるまで、じっと懐に
抱いたまま一人で
温めていたと見えて、ある晩――春休みの頃の花の咲いたという
噂のあったある日の晩――そっと僕の前に出して見せた。その時は僕もだいぶ
大人らしくなっていたので、静かにその問題を取り上げて、裏表から
鄭寧に
吟味する
余裕ができていた。母もその時にはただ遠くから匂わせるだけでなくて、自分の希望に正当の形式を与える事を忘れなかった。僕は何心なく
従妹は血属だから
厭だと答えた。母は千代子の生れた時くれろと頼んでおいたのだから貰ったらいいだろうと云って僕を驚ろかした。なぜそんな事を頼んだのかと聞くと、なぜでも
私の好きな子で、御前も
嫌うはずがないからだと、赤ん坊には応用の
利かないような
挨拶をして僕を弱らせた。だんだんそこを押して見ると、しまいに涙ぐんで、実は御前のためではない、全く私のために頼むのだと云う。しかもどうしてそれが母のためになるのか、その理由はいくら聞いても語らない。最後に何でもかでも千代子は
厭かと聞かれた。僕は厭でも何でもないと答えた。しかし当人も僕のところへ来る気はなし、田口の叔父も叔母も僕にくれたくはないのだから、そんな事を申し込むのは止した方が好い、先方で迷惑するだけだからと教えた。母は約束だから迷惑しても構わない、また迷惑するはずがないと主張して、
昔し田口が父の世話になったり
厄介になったりした例を数え挙げた。僕はやむを得ないからこの問題は卒業するまで解決を着けずにおこうと云い出した。母は不安の
裏に
一縷の望を現わした顔色をして、もう一遍とくと考えて見てくれと頼んだ。
こういう事情で、今まで母一人で
懐に
抱いていた問題を、その
後は僕も抱かなければならなくなった。田口はまた田口流に、同じ問題を
孵しつつあるのではなかろうか。たとい千代子をほかへ縁づけるにしても、いざと云う場合には一応こちらの承諾を得る必要があるとすれば、叔父も気がかりに違いない。
僕は不安になった。母の顔を見るたびに、彼女を
欺むいてその日その日を
姑息に送っているような気がしてすまなかった。
一頃は思い直してでき得るならば母の希望通り千代子を
貰ってやりたいとも考えた。僕はそのためにわざわざ用もない田口の家へ遊びに行ってそれとなく叔父や叔母の様子を見た。彼らは僕の母の肉薄に応ずる準備としてまえもって僕を
疎んずるような
素振を口にも挙動にもけっして示さなかった。彼らはそれほど浅薄なまた不親切な人間ではなかったのである。けれども彼らの娘の未来の夫として、僕が彼らの眼にいかに
憐れむべく映じていたかは、遠き前から僕の見抜いていたところと、ちっとも変化を来さないばかりか、近頃になってますますその
傾が著るしくなるように思われた。彼らは第一に僕の弱々しい体格と僕の
蒼白い顔色とを
婿として
肯がわないつもりらしかった。もっとも僕は神経の鋭どく動く
性質だから、物を誇大に考え過したり、
要らぬ
僻みを起して見たりする弊がよくあるので、自分の胸に収めた
委しい叔父叔母の観察を遠慮なくここに述べる非礼は
憚かりたい。ただ
一言で云うと、彼らはその当時千代子を僕の嫁にしようと明言したのだろう。少なくともやってもいいぐらいには考えていたのだろう。が、その
後彼らの社会に占め得た地位と、彼らとは背中合せに進んで行く僕の性格が、二重に実行の便宜を奪って、ただ
惚けかかった
空しい義理の
抜殻を、彼らの頭のどこかに置き去りにして行ったと思えば
差支ないのである。
僕と彼らとはあらゆる人の結婚問題についても多くを語る機会を持たなかった。ただある時叔母と僕との間にこんな会話が取り換わされた。
「
市さんももうそろそろ奥さんを探さなくっちゃなりませんね。姉さんはとうから心配しているようですよ」
「好いのがあったら母に知らしてやって下さい」
「市さんにはおとなしくって
優しい、親切な看護婦みたような女がいいでしょう」
「看護婦みたような嫁はないかって探しても、誰も
来手はあるまいな」
僕が苦笑しながら、
自ら
嘲けるごとくこう云った時、今まで向うの
隅で何かしていた千代子が、不意に首を上げた。
「あたし行って上げましょうか」
僕は彼女の眼を深く見た。彼女も僕の顔を見た。けれども両方共そこに意味のある何物をも認めなかった。叔母は千代子の方を振り向きもしなかった。そうして、「御前のようなむきだしのがらがらした者が、何で市さんの気に入るものかね」と云った。僕は低い叔母の声のうちに、
窘なめるようなまた
怖れるような一種の響を聞いた。千代子はただからからと面白そうに笑っただけであった。その時百代子も
傍にいた。これは姉の言葉を聞いて微笑しながら席を立った。形式を
具えない断りを云われたと解釈した僕はしばらくしてまた席を立った。
この事件後僕は同じ問題に関して母の満足を買うための努力をますます
屑よしとしなくなった。自尊心の強い父の子として、僕の神経はこういう点において自分でも驚ろくくらい過敏なのである。もちろん僕はその折の叔母に対してけっして感情を害しはしなかった。こっちからまだ正式の申し込みを受けていない叔母としては、ああよりほかに意向の
洩らし方も無かったのだろうと思う。千代子に至っては何を云おうが笑おうが、いつでも
蟠まりのない彼女の胸の中を、そのまま外に表わしたに過ぎないと考えていた。僕はその時の千代子の言葉や様子から察して、彼女が僕のところへ来たがっていない事だけは、従前通りたしかに認めたが、同時に、もし差し向いで僕の母にしんみり話し込まれでもしたら、ええそういう
訳なら御嫁に来て上げましょうと、その場ですぐ承知しないとも限るまいと思って、
私かに
掛念を
抱いたくらいである。彼女はそう云う時に、平気で自分の利害や親の意思を犠牲に供し得る
極めて純粋の女だと僕は常から信じていたからである。
意地の強い僕は母を
嬉しがらせるよりもなるべく自我を
傷けないようにと祈った。その結果千代子が僕の知らない間に、母から説き落されてはと掛念して、暗にそれを防ぐ分別をした。母は彼女の生れ落ちた当初すでに僕の嫁ときめただけあって、多くある
姪や
甥の中で、取り分け千代子を
可愛がった。千代子も子供の時分から僕の家を生家のごとく心得て遠慮なく
寝泊りに来た。その縁故で、田口と僕の家が昔に比べると比較的
疎くなった
今日でも、千代子だけは叔母さん叔母さんと云って、
生の親にでも逢いに来るような朗らかな顔をして、しげしげ
出入をしていた。単純な彼女は、自分の身を
的に時々起る縁談をさえ、隠すところなく母に打ち明けた。人の好い母はまたそれを素直に聞いてやるだけで、
恨めしい眼つき一つも見せ得なかった。僕の恐れる懇談は、こういう関係の深い二人の間に、いつ起らないとも限らなかったのである。
僕の分別というのはまずこの点に関して、当分母の口を
塞いでおこうとする用心に過ぎなかった。ところがいざ改たまって母にそれを切り出そうとすると、ただ自分の
我を通すために、弱い親の自由を奪うのは残酷な子に違ないという心持が、どこにか
萌すので、ついそれなりにしてやめる事が多かった。もっとも年寄の
眉を曇らすのがただ
情ないばかりでやめたとも云われない。これほど親しい間柄でさえ今まで思い切ったところを千代子に打ち明け得なかった母の事だから、たといこのままにしておいても、まあ当分は大丈夫だろうという考が、母に対する僕を多少
抑えたのである。
それで僕は千代子に関して何という
明瞭な所置も取らずに過ぎた。もっともこういう不安な状態で日を送った時期にも、まるで田口の家と打絶えた訳ではなかったので、
会には単に母の喜こぶ顔を見るだけの目的をもって内幸町まで電車を利用した覚さえあったのである。そういうある日の晩、僕は久しぶりに千代子から、習い立ての珍らしい手料理を
御馳走するからと引止められて、夕飯の
膳についた。いつも
留守がちな叔父がその日はちょうど内にいて、食事中例の
気作な話をし続けにしたため、若い人の陽気な笑い声が
障子に響くくらい家の中が
賑わった。飯が済んだ
後で、叔父はどういう考か、突然僕に「
市さん久しぶりに一局やろうか」と云い出した。僕はさほど気が進まなかったけれどもせっかくだから、やりましょうと答えて、叔父と共に別室へ
退いた。二人はそこで二三番打った。
固より下手と下手の勝負なので、時間のかかるはずもなく、
碁石を片づけてもまだそれほど遅くはならなかった。二人は
煙草を
呑みながらまた話を始めた。その時僕は適当な機会を利用してわざと叔父に「千代子さんの縁談はまだ
纏まりませんか」と聞いた。それは固より僕が千代子に対して他意のないという事を示すためであった。がまた一方では、一日も早くこの問題の解決が着けば、自分も安心だし、千代子も幸福だと考えたからである。すると叔父はさすがに男だけあって、何の
躊躇もなくこう云った。――
「いやまだなかなかそう行きそうもない。だんだんそんな話を持って来てくれるものはあるが、何しろむずかしくって弱る。その上調べれば調べるほど面倒になるだけだし、まあ大抵のところで纏まるなら纏めてしまおうかと思ってる。――縁談なんてものは妙なものでね。今だから御前に話すが、実は千代子の生れたとき、御前の御母さんが、これを市蔵の嫁に欲しいってね――生れ立ての赤ん坊をだよ」
叔父はこの時笑いながら僕の顔を見た。
「母は本気でそう云ったんだそうです」
「本気さ。姉さんはまた正直な人だからね。実に好い人だ。今でも時々
真面目になって叔母さんにその話をするそうだ」
叔父は再び大きな声を出して笑った。僕ははたして叔父がこう軽くこの事件を解釈しているなら、母のために少し弁じてやろうかと考えた。が、もしこれが
世慣れた人の巧妙な
覚らせぶりだとすれば、一口でも云うだけが
愚だと思い直して黙った。叔父は親切な人でまた
世慣れた人である。彼のこの時の言葉はどちらの眼で見ていいのか、僕には今もって解らない。ただ僕がその時以来千代子を貰わない方へいよいよ傾いたのは事実である。
それから二カ月ばかりの間僕は田口の家へ近寄らなかった。母さえ心配しなければ、それぎり内幸町へは足を向けずにすましたかも知れなかった。たとい母が心配するにしても、単に彼女に対する
掛念だけが問題なら、あるいは僕の
気随をいざという極点まで押し通したかも知れなかった。僕はそんな
[#「そんな」は底本では「そんに」]風に生みつけられた男なのである。ところが二カ月の末になって、僕は突然自分の片意地を
翻がえさなければ不利だという事に気がついた。実を云うと、僕と田口と疎遠になればなるほど、母はあらゆる機会を求めて、ますます千代子と接触するように
力め出したのである。そうしていつなんどき僕の最も恐れる直接の談判を、千代子に向って開かないとも限らないように、
漸々形勢を切迫させて来たのである。僕は思い切って、この危機を
一帳場先へ繰り越そうとした。そうしてその決心と共にまた田口の敷居を
跨ぎ出した。
彼らの僕を遇する態度に
固より変りはなかった。僕の彼らに対する様子もまた二カ月前の通りであった。僕と彼らとは
故のごとく笑ったり、ふざけたり、
揚足の取りっくらをしたりした。要するに僕の田口で
費やした時間は、騒がしいくらい陽気であった。本当のところをいうと、僕には少し陽気過ぎたのである。したがって腹の中が常に空虚な努力に疲れていた。鋭どい眼で注意したら、どこかに
偽の影が射して、本来の自分を醜く
彩っていたろうと思う。そのうちで自分の気分と自分の言葉が、半紙の裏表のようにぴたりと合った愉快を感じた
覚がただ一遍ある。それは家例として年に一度か二度田口の家族が
揃って遊びに出る日の出来事であった。僕は知らずに奥へ通って、千代子一人が閑静に坐っているのを見て驚ろいた。彼女は
風邪を引いたと見えて、
咽喉に湿布をしていた。常にも似ない
蒼い顔色も
淋しく思われた。微笑しながら、「今日はあたし御留守居よ」と云った時、僕は始めて
皆出払った事に気がついた。
その日彼女は病気のせいかいつもよりしんみり落ちついていた。僕の顔さえ見ると、きっと冷かし文句を並べて、どうしても悪口の云い合いを
挑まなければやまない彼女が、一人ぼっちで妙に沈んでいる姿を見たとき、僕はふと可憐な心を起した。それで席に着くや
否や、優しい
慰藉の言葉を口から出す気もなく
自から出した。すると千代子は一種変な表情をして、「あなた今日は大変優しいわね。奥さんを
貰ったらそういう風に優しくしてあげなくっちゃいけないわね」と云った。遠慮がなくて親しみだけ持っていた僕は、今まで千代子に対していくら
無愛嬌に振舞っても
差支ないものと
暗に
自から許していたのだという事にこの時始めて気がついた。そうして千代子の眼の
中にどこか嬉しそうな色の
微かながら漂ようのを認めて、自分が悪かったと後悔した。
二人はほとんどいっしょに生長したと同じような自分達の過去を振り返った。昔の記憶を語る言葉が互の
唇から当時を
蘇生らせる
便として
洩れた。僕は千代子の記憶が、僕よりも
遥かに
勝れて、細かいところまで
鮮やかに行き渡っているのに驚ろいた。彼女は今から四年前、僕が玄関に立ったまま
袴の
綻を彼女に縫わせた事まで覚えていた。その時彼女の使ったのは
木綿糸でなくて絹糸であった事も知っていた。
「あたしあなたの
描いてくれた
画をまだ持っててよ」
なるほどそう云われて見ると、千代子に画を描いてやった
覚があった。けれどもそれは彼女が十二三の時の事で、自分が田口に買って貰った絵具と紙を僕の前へ押しつけて無理矢理に描かせたものである。僕の画道における
嗜好は、それから以後
今日に至るまで、ついぞ
画筆を握った試しがないのでも分るのだから、赤や緑の単純な
刺戟が、一通り彼女の眼に映ってしまえば、興味はそこに尽きなければならないはずのものであった。それを保存していると聞いた僕は迷惑そうに苦笑せざるを得なかった。
「見せて上げましょうか」
僕は見ないでもいいと断った。彼女は構わず立ち上がって、自分の
室から僕の画を納めた手文庫を持って来た。
千代子はその中から僕の描いた画を五六枚出して見せた。それは赤い
椿だの、
紫の
東菊だの、色変りのダリヤだので、いずれも単純な
花卉の写生に過ぎなかったが、
要らない所にわざと手を掛けて、時間の浪費を
厭わずに、細かく
綺麗に塗り上げた
手際は、今の僕から見るとほとんど驚ろくべきものであった。僕はこれほど綿密であった自分の昔に感服した。
「あなたそれを描いて下すった時分は、今よりよっぽど親切だったわね」
千代子は突然こう云った。僕にはその意味がまるで分らなかった。画から眼を上げて、彼女の顔を見ると、彼女も黒い大きな
瞳を僕の上にじっと
据えていた。僕はどういう訳でそんな事を云うのかと尋ねた。彼女はそれでも答えずに僕の顔を見つめていた。やがていつもより小さな声で「でも近頃頼んだって、そんなに精出して描いては下さらないでしょう」と云った。僕は描くとも描かないとも答えられなかった。ただ腹の中で、彼女の言葉をもっともだと
首肯った。
「それでもよくこんな物を丹念にしまっておくね」
「あたし御嫁に行く時も持ってくつもりよ」
僕はこの言葉を聞いて変に悲しくなった。そうしてその悲しい気分が、すぐ千代子の胸に
応えそうなのがなお恐ろしかった。僕はその
刹那すでに涙の
溢れそうな黒い大きな眼を自分の前に想像したのである。
「そんな下らないものは持って行かないがいいよ」
「いいわ、持って行ったって、あたしのだから」
彼女はこう云いつつ、赤い椿や紫の東菊を重ねて、また文庫の中へしまった。僕は自分の気分を変えるためわざと彼女にいつごろ嫁に行くつもりかと聞いた。彼女はもう
直に行くのだと答えた。
「しかしまだきまった訳じゃないんだろう」
「いいえ、もうきまったの」
彼女は明らかに答えた。今まで自分の安心を得る最後の手段として、
一日も早く彼女の縁談が
纏まれば好いがと念じていた僕の心臓は、この答と共にどきんと音のする
浪を打った。そうして毛穴から
這い出すような
膏汗が、背中と
腋の下を不意に
襲った。千代子は文庫を
抱いて立ち上った。
障子を開けるとき、上から僕を
見下して、「
嘘よ」と一口
判切云い切ったまま、自分の
室の方へ出て行った。
僕は動く
考もなく
故の席に坐っていた。僕の胸には
忌々しい何物も宿らなかった。千代子の嫁に行く行かないが、僕にどう影響するかを、この時始めて実際に自覚する事のできた僕は、それを自覚させてくれた彼女の
翻弄に対して感謝した。僕は今まで気がつかずに彼女を愛していたのかも知れなかった。あるいは彼女が気がつかないうちに僕を愛していたのかも知れなかった。――僕は自分という正体が、それほど解り
悪い
怖いものなのだろうかと考えて、しばらく
茫然としていた。するとあちらの方で電話がちりんちりんと鳴った。千代子が縁伝いに急ぎ足でやって来て、僕にいっしょに電話をかけてくれと頼んだ。僕にはいっしょにかけるという意味が呑み込めなかったが、すぐ立って彼女と共に電話口へ行った。
「もう呼び出してあるのよ。あたし声が
嗄れて、
咽喉が痛くって話ができないからあなた代理をしてちょうだい。聞く方はあたしが聞くから」
僕は相手の名前も分らない、また向うの話の通じない電話をかけるべく、
前屈みになって用意をした。千代子はすでに受話器を耳にあてていた。それを通して彼女の頭へ送られる言葉は、
独り彼女が占有するだけなので、僕はただ彼女の小声でいう
挨拶を大きくして訳も解らず先方へ取次ぐに過ぎなかった。それでも始の内は
滑稽も構わず暇がかかるのも
厭わず平気でやっていたが、しだいに僕の好奇心を
挑発するような返事や質問が千代子の口から出て来るので、僕は
曲んだまま、おいちょいとそれを
御貸と声をかけて左手を
真直に千代子の方へ差し伸べた。千代子は笑いながら
否々をして見せた。僕はさらに姿勢を正しくして、受話器を彼女の手から奪おうとした。彼女はけっしてそれを離さなかった。取ろうとする取らせまいとする争が二人の間に起った時、彼女は手早く電話を切った。そうして大きな声をあげて笑い出した。――
こういう光景がもし今より一年前に起ったならと僕はその
後何遍もくり返しくり返し思った。そう思うたびに、もう遅過ぎる、時機はすでに去ったと運命から宣告されるような気がした。今からでもこういう光景を二度三度と重ねる機会は
捉まえられるではないかと、同じ運命が暗に僕を
唆のかす日もあった。なるほど二人の情愛を互いに反射させ合うためにのみ眼の光を使う手段を
憚からなかったなら、千代子と僕とはその日を基点として出立しても、今頃は人間の利害で
割く事のできない愛に
陥っていたかも知れない。ただ僕はそれと反対の方針を取ったのである。
田口夫婦の意向や僕の母の希望は、他人の
入智慧同様に意味の少ないものとして、単に彼女と僕を裸にした生れつきだけを比較すると、僕らはとてもいっしょになる見込のないものと僕は平生から信じていた。これはなぜと聞かれても満足の行くように答弁ができないかも知れない。僕は人に説明するためにそう信じているのでないから。僕はかつて文学好のある友達からダヌンチオと一少女の話を聞いた事がある。ダヌンチオというのは今の
以太利で一番有名な小説家だそうだから、僕の友達の主意は無論彼の勢力を僕に紹介するつもりだったのだろうが、僕にはそこへ引合に出された少女の方が彼よりも
遥かに興味が多かった。その話はこうである。――
ある時ダヌンチオが招待を受けてある会合の席へ出た。文学者を国家の装飾のようにもてはやす西洋の事だから、ダヌンチオはその席に
群がるすべての人から多大の尊敬と
愛嬌をもって偉人のごとく取扱かわれた。彼が満堂の注意を一身に集めて、衆人の間をあちこち
徘徊しているうち、どういう
機会か自分の
手巾を足の
下へ落した。混雑の際と見えて、彼は
固より、
傍のものもいっこうそれに気がつかずにいた。するとまだ年の若い美くしい女が一人その手巾を
床の上から取り上げて、ダヌンチオの前へ持って来た。彼女はそれをダヌンチオに渡すつもりで、これはあなたのでしょうと聞いた。ダヌンチオはありがとうと答えたが、女の美くしい器量に対してちょっと
愛嬌が必要になったと見えて、「あなたのにして持っていらっしゃい、進上しますから」とあたかも少女の喜びを予想したような事を云った。女は一口の答もせず黙ってその手巾を指先でつまんだまま
暖炉の
傍まで行っていきなりそれを火の中へ投げ込んだ。ダヌンチオは別にしてその他の席に居合せたものはことごとく微笑を
洩らした。
僕はこの話を聞いた時、年の若い茶褐色の髪毛を
有った以太利生れの美人を思い浮べるよりも、その代りとしてすぐ千代子の眼と
眉を想像した。そうしてそれがもし千代子でなくって妹の百代子であったなら、たとい腹の中はどうあろうとも、その場は礼を云って快よく手巾を貰い受けたに違いあるまいと思った。ただ千代子にはそれができないのである。
口の悪い松本の叔父はこの
姉妹に
渾名をつけて常に
大蝦蟆と
小蝦蟆と呼んでいる。二人の口が
唇の薄い割に長過ぎるところが銀貨入れの
蟇口だと云っては常に二人を笑わせたり怒らせたりする。これは性質に関係のない顔形の話であるが、同じ叔父が口癖のようにこの姉妹を評して、
小蟇はおとなしくって好いが、
大蟇は少し猛烈過ぎると云うのを聞くたびに、僕はあの叔父がどう千代子を観察しているのだろうと考えて、必ず彼の眼識に
疑を
挟さみたくなる。千代子の言語なり挙動なりが時に猛烈に見えるのは、彼女が女らしくない粗野なところを内に
蔵しているからではなくって、余り女らしい優しい感情に前後を忘れて自分を投げかけるからだと僕は固く信じて疑がわないのである。彼女の
有っている善悪是非の分別はほとんど学問や経験と独立している。ただ直覚的に相手を目当に燃え出すだけである。それだから相手は時によると
稲妻に打たれたような思いをする。当りの強く
烈しく来るのは、彼女の胸から純粋な
塊まりが一度に多量に飛んで出るという意味で、
刺だの毒だの
腐蝕剤だのを吹きかけたり浴びせかけたりするのとはまるで訳が違う。その証拠にはたといどれほど
烈しく
怒られても、僕は彼女から清いもので自分の
腸を洗われたような気持のした場合が今までに何遍もあった。
気高いものに出会ったという感じさえ
稀には起したくらいである。僕は天下の前にただ一人立って、彼女はあらゆる女のうちでもっとも女らしい女だと弁護したいくらいに思っている。
これほど
好く思っている千代子を
妻としてどこが不都合なのか。――実は僕も自分で自分の胸にこう聞いた事がある。その時
理由も何もまだ考えない先に、僕はまず恐ろしくなった。そうして夫婦としての二人を長く眼前に想像するにたえなかった。こんな事を母に云ったら定めし驚ろくだろう、同年輩の友達に話してもあるいは通じないかも知れない。けれども
強いて沈黙のなかに記憶を
埋める必要もないから、それを自分だけの感想に
止めないでここに自白するが、一口に云うと、千代子は恐ろしい事を知らない女なのである。そうして僕は恐ろしい事だけ知った男なのである。だからただ釣り合わないばかりでなく、夫婦となればまさに逆にでき上るよりほかに仕方がないのである。
僕は常に考えている。「純粋な感情ほど美くしいものはない。美くしいものほど強いものはない」と。強いものが恐れないのは当り前である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の眼から出る強烈な光に
堪えられないだろう。その光は必ずしも
怒を示すとは限らない。
情の光でも、愛の光でも、もしくは
渇仰の光でも同じ事である。僕はきっとその光のために
射竦められるにきまっている。それと同程度あるいはより以上の輝くものを、返礼として彼女に与えるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。僕は芳烈な一樽の清酒を貰っても、それを味わい尽くす資格を持たない
下戸として、
今日まで世間から教育されて来たのである。
千代子が僕のところへ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない。彼女は美くしい
天賦の感情を、あるに任せて
惜気もなく夫の上に
注ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が、彼女から精神上の営養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から予期するに違いない。年のいかない、学問の乏しい、見識の狭い点から見ると気の毒と評して
然るべき彼女は、頭と腕を挙げて実世間に打ち込んで、肉眼で
指す事のできる権力か財力を
攫まなくっては男子でないと考えている。単純な彼女は、たとい僕のところへ嫁に来ても、やはりそう云う働きぶりを僕から要求し、また要求さえすれば僕にできるものとのみ思いつめている。二人の間に横たわる根本的の不幸はここに存在すると云っても
差支ないのである。僕は今云った通り、
妻としての彼女の美くしい感情を、そう多量に受け入れる事のできない至って
燻ぶった
性質なのだが、よし焼石に水を
濺いだ時のように、それをことごとく吸い込んだところで、彼女の望み通りに利用する訳にはとても行かない。もし純粋な彼女の影響が僕のどこかに表われるとすれば、それはいくら説明しても彼女には全く分らないところに、思いも寄らぬ形となって発現するだけである。万一彼女の眼にとまっても、彼女はそれをコスメチックで塗り堅めた僕の頭や
羽二重の
足袋で包んだ僕の足よりもありがたがらないだろう。要するに彼女から云えば、美くしいものを僕の上に永久浪費して、しだいしだいに結婚の不幸を嘆くに過ぎないのである。
僕は自分と千代子を比較するごとに、必ず恐れない女と恐れる男という言葉をくり返したくなる。しまいにはそれが自分の作った言葉でなくって、西洋人の小説にそのまま出ているような気を起す。この間講釈好きの松本の叔父から、詩と哲学の区別を聞かされて以来は、恐れない女と恐れる男というと、たちまち自分に縁の遠い詩と哲学を
想い出す。叔父は
素人学問ながらこんな方面に興味を
有っているだけに、面白い事をいろいろ話して聞かしたが、僕を
捕まえて「御前のような感情家は」と
暗に詩人らしく僕を評したのは間違っている。僕に云わせると、恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命である。僕の思い切った事のできずにぐずぐずしているのは、何より先に結果を考えて
取越苦労をするからである。千代子が風のごとく自由に振舞うのは、先の見えないほど強い感情が一度に胸に
湧き出るからである。彼女は僕の知っている人間のうちで、最も恐れない
一人である。だから恐れる僕を
軽蔑するのである。僕はまた感情という自分の重みでけつまずきそうな彼女を、運命のアイロニーを解せざる詩人として深く
憐れむのである。
否時によると彼女のために
戦慄するのである。
須永の話の末段は少し
敬太郎の理解力を苦しめた。事実を云えば彼はまた彼なりに詩人とも哲学者とも云い得る男なのかも知れなかった。しかしそれは
傍から彼を見た眼の評する言葉で、敬太郎自身はけっしてどっちとも思っていなかった。したがって詩とか哲学とかいう文字も、月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして、ほとんど一顧に
価しないくらいに
見限っていた。その上彼は
理窟が
大嫌いであった。右か左へ自分の
身体を動かし得ないただの理窟は、いくら
旨くできても彼には用のない
贋造紙幣と同じ物であった。したがって恐れる男とか恐れない女とかいう
辻占に似た文句を、黙って聞いているはずはなかったのだが、しっとりと
潤った身の上話の続きとして、感想がそこへ流れ込んで来たものだから、敬太郎もよく解らないながら素直に耳を傾むけなければすまなかったのである。
須永もそこに気がついた。
「話が
理窟張ってむずかしくなって来たね。あんまり一人で調子に乗って
饒舌っているものだから」
「いや構わん。大変面白い」
「
洋杖の
効果がありゃしないか」
「どうも不思議にあるようだ。ついでにもう少し先まで話す事にしようじゃないか」
「もう無いよ」
須永はそう云い切って、静かな水の上に眼を移した。敬太郎もしばらく黙っていた。不思議にも今聞かされた須永の詩だか哲学だか分らないものが、形の
判然しない雲の峰のように、頭の中に
聳えて容易に消えそうにしなかった。何事も語らないで彼の前に
坐っている須永自身も、平生の
紋切形を離れた怪しい一種の人物として彼の眼に映じた。どうしてもまだ話の続きがあるに違ないと思った敬太郎は、今の一番しまいの物語はいつごろの事かと須永に尋ねた。それは自分の三年生ぐらいの時の出来事だと須永は答えた。敬太郎は同じ関係が過去一年余りの間にどういう径路を取ってどう進んで、今はどんな解釈がついているかと聞き返した。須永は苦笑して、まず外へ出てからにしようと云った。二人は
勘定を済まして外へ出た。須永は先へ立つ敬太郎の得意に振り動かす洋杖の影を見てまた苦笑した。
柴又の
帝釈天の
境内に来た時、彼らは平凡な
堂宇を、義理に拝ませられたような顔をしてすぐ門を出た。そうして二人共汽車を利用してすぐ東京へ帰ろうという気を起した。
停車場へ来ると、
間怠るこい
田舎汽車の発車時間にはまだだいぶ
間があった。二人はすぐそこにある茶店に入って休息した。次の物語はその時敬太郎が前約を
楯に須永から聞かして貰ったものである。――
僕が大学の三年から四年に移る夏休みの出来事であった。
宅の二階に
籠ってこの暑中をどう暮らしたら
宜かろうと思案していると、母が下から
上って来て、
閑になったら鎌倉へちょっと行って来たらどうだと云った。鎌倉にはその一週間ほど前から田口のものが避暑に行っていた。元来叔父は余り
海辺を好まない
性質なので、
一家のものは毎年軽井沢の別荘へ行くのを例にしていたのだが、その年は是非海水浴がしたいと云う娘達の希望を
容れて、材木座にある、ある人の
邸宅を借り入れたのである。移る前に千代子が
暇乞かたがた
報知に来て、まだ行っては見ないけれども、山陰の涼しい
崖の上に、二段か三段に建てた割合手広な
住居だそうだから是非遊びに来いと母に勧めていたのを、僕は
傍で聞いていた。それで僕は母にあなたこそ行って遊んで来たら
気保養になってよかろうと忠告した。母は
懐から千代子の手紙を出して見せた。それには千代子と百代子の連名で、母と僕にいっしょに来るようにと、彼らの女親の命令を伝えるごとく書いてあった。母が行くとすれば年寄一人を汽車に乗せるのは心配だから、是非共僕がついて行かなければならなかった。
変窟な僕からいうと、そう
混雑した所へ二人で押しかけるのは、世話にならないにしても気の毒で
厭だった。けれども母は行きたいような顔をした。そうしてそれが僕のために行きたいような顔に見えるので僕はますます厭になった。が、とどのつまりとうとう行く事にした。こう云っても人には通じないかも知れないが、僕は意地の強い男で、また意地の弱い男なのである。
母は内気な性分なので
平生から余り旅行を好まなかった。昔風に重きをおかなければ承知しない厳格な父の生きている頃は外へもそうたびたびは出られない様子であった。現に僕は父と母が娯楽の目的をもっていっしょに家を留守にした例を覚えていない。父が死んで自由が
利くようになってからも、そう勝手な時に好きな所へ行く機会は不幸にして僕の母には与えられなかった。一人で遠くへ行ったり、長く
宅を
空けたりする
便宜を
有たない彼女は、
母子二人の家庭にこうして幾年を老いたのである。
鎌倉へ行こうと思い立った日、僕は彼女のために一個の
鞄を
携えて
直行の汽車に乗った。母は車の動き出す時、隣に腰をかけた僕に、汽車も久しぶりだねと笑いながら云った。そう云われた僕にも実は余り
頻繁な経験ではなかった。新らしい気分に誘われた二人の会話は
平生よりは
生々していた。何を話したか自分にもいっこう覚えのない事を、聞いたり聞かれたりして断続に任せているうちに車は目的地に着いた。あらかじめ通知をしてないので
停車場には誰も
迎に来ていなかったが、車を雇うとき
某さんの別荘と注意したら、車夫はすぐ心得て引き出した。僕はしばらく見ないうちに、急に新らしい家の多くなった砂道を通りながら、松の間から遠くに見える
畠中の黄色い花を美くしく
眺めた。それはちょっと見るとまるで菜種の花と同じ
趣を
具えた目新らしいものであった。僕は車の上で、このちらちらする色は何だろうと考え抜いた
揚句、突然
唐茄子だと気がついたので
独りおかしがった。
車が別荘の門に着いた時、
戸障子を取り
外した座敷の中に動く人の影が往来からよく見えた。僕はそのうちに白い
浴衣を着た男のいるのを見て、多分叔父が
昨日あたり東京から来て泊ってるのだろうと思った。ところが奥にいるものがことごとく僕らを迎えるために玄関へ出て来たのに、その男だけは少しも顔を見せなかった。もちろん叔父ならそのくらいの事はあるべきはずだと思って、座敷へ通って見ると、そこにも彼の姿は見えなかった。僕はきょろきょろしているうちに、叔母と母が汽車の中はさぞ暑かったろうとか、見晴しの好い所が手に
入って結構だとか、年寄の女だけに
口数の多い
挨拶のやりとりを始めた。千代子と百代子は母のために浴衣を勧めたり、脱ぎ捨てた着物を
晒干してくれたりした。僕は下女に風呂場へ案内して貰って、水で顔と頭を洗った。海岸からはだいぶ
道程のある山手だけれども水は存外悪かった。
手拭を
絞って
金盥の底を見ていると、たちまち砂のような
滓が
澱んだ。
「これを御使いなさい」という千代子の声が突然
後でした。振り返ると、乾いた白いタオルが肩の所に出ていた。僕はタオルを受取って立ち上った。千代子はまた
傍にある鏡台の
抽出から
櫛を出してくれた。僕が鏡の前に
坐って髪を解かしている間、彼女は風呂場の入口の柱に
身体を持たして、僕の
濡れた頭を眺めていたが、僕が何も云わないので、向うから「悪い水でしょう」と聞いた。僕は鏡の中を見たなり、どうしてこんな色が着いているのだろうと云った。水の問答が済んだとき、僕は櫛を鏡台の上に置いて、タオルを肩にかけたまま立ち上った。千代子は僕より先に柱を離れて座敷の方へ行こうとした。僕は
藪から棒に
後から彼女の名を呼んで、叔父はどこにいるかと尋ねた。彼女は立ち止まって振り返った。
「御父さんは四五日前ちょっといらしったけど、
一昨日また用が出来たって東京へ御帰りになったぎりよ」
「ここにゃいないのかい」
「ええ。なぜ。ことによると今日の夕方
吾一さんを連れて、またいらっしゃるかも知れないけども」
千代子は
明日もし天気が好ければ
皆と魚を
漁りに行くはずになっているのだから、田口が都合して今日の夕方までに来てくれなければ困るのだと話した。そうして僕にも是非いっしょに行けと勧めた。僕は魚の事よりも
先刻見た
浴衣がけの男の居所が知りたかった。
「先刻誰だか男の人が一人座敷にいたじゃないか」
「あれ高木さんよ。ほら秋子さんの兄さんよ。知ってるでしょう」
僕は知っているともいないとも答えなかった。しかし腹の中では、この高木と呼ばれる人の何者かをすぐ了解した。百代子の学校
朋輩に高木秋子という女のある事は前から承知していた。その人の顔も、百代子といっしょに
撮った写真で知っていた。
手蹟も
絵端書で見た。一人の兄が
亜米利加へ行っているのだとか、今帰って来たばかりだとかいう話もその頃耳にした。困らない家庭なのだろうから、その人が鎌倉へ遊びに来ているぐらいは怪しむに足らなかった。よしここに別荘を持っていたところで不思議はなかった。が、僕はその高木という男の住んでいる家を千代子から聞きたくなった。
「ついこの下よ」と彼女は云ったぎりであった。
「別荘かい」と僕は重ねて聞いた。
「ええ」
二人はそれ以外を語らずに座敷へ帰った。座敷では母と叔母がまだ海の色がどうだとか、大仏がどっちの見当にあたるとかいうさほどでもない事を、問題らしく聞いたり教えたりしていた。百代子は千代子に彼らの父がその日の夕方までに来ると云って、わざわざ知らせて来た事を告げた。二人は
明日魚を
漁りに行く時の楽みを、今
眼の当りに
描き出して、すでに手の内に握った人のごとく語り合った。
「高木さんもいらっしゃるんでしょう」
「
市さんもいらっしゃい」
僕は行かないと答えた。その理由として、少し
宅に用があって、今夜東京へ帰えらなければならないからという説明を加えた。しかし腹の中ではただでさえこう
混雑しているところへ、もし田口が吾一でも連れて来たら、それこそ自分の寝る場所さえ無くなるだろうと心配したのである。その上僕は
姉妹の知っている高木という男に会うのが
厭だった。彼は
先刻まで二人と僕の評判をしていたが、僕の来たのを見て、遠慮して裏から帰ったのだと百代子から聞いた時、僕はまず窮屈な思いを
逃れて好かったと喜こんだ。僕はそれほど知らない人を
怖がる性分なのである。
僕の帰ると云うのを聞いた二人は、驚ろいたような顔をしてとめにかかった。ことに千代子は
躍起になった。彼女は僕を
捉まえて変人だと云った。母を一人残してすぐ帰る法はないと云った。帰ると云っても帰さないと云った。彼女は自分の妹や弟に対してよりも、僕に対しては
遥かに自由な言葉を使い得る特権を
有っていた。僕は平生から彼女が僕に対して振舞うごとく大胆に率直に(ある時は善意ではあるが)威圧的に、他人に向って振舞う事ができたなら、僕のような他に欠点の多いものでも、さぞ愉快に世の中を渡って行かれるだろうと想像して、大いにこの小さな
暴君を
羨ましがっていた。
「えらい
権幕だね」
「あなたは親不孝よ」
「じゃ叔母さんに聞いて来るから、もし叔母さんが泊って行く方がいいって、おっしゃったら、泊っていらっしゃい。ね」
百代子は仲裁を試みるような口調でこう云いながら、すぐ年寄の話している座敷の方へ立って行った。僕の母の意向は無論聞くまでもなかった。したがって百代子の年寄二人から
齎らした返事もここに述べるのは
蛇足に過ぎない。要するに僕は千代子の捕虜になったのである。
僕はやがてちょっと町へ出て来るという
口実の
下に、午後の暑い日を
洋傘で
遮ぎりながら別荘の附近を順序なく
徘徊した。久しく見ない土地の昔を
偲ぶためと云えば云えない事もないが、僕にそんな
寂びた心持を
嬉しがる風流があったにしたところで、今はそれに
耽る落ちつきも
余裕も与えられなかった。僕はただうろうろとそこらの標札を読んで歩いた。そうして比較的立派な
平屋建の門の柱に、高木の二字を認めた時、これだろうと思って、しばらく門前に
佇んだ。それから
後は全く何の目的もなしになお
緩漫な歩行を約十五分ばかり続けた。しかしこれは僕が自分の心に、高木の家を見るためにわざわざ表へ出たのではないと申し渡したと同じようなものであった。僕はさっさと引き返した。
実を云うと、僕はこの高木という男について、ほとんど何も知らなかった。ただ一遍百代子から彼が適当な配偶を求めつつある由を聞いただけである。その時百代子が、御姉さんにはどうかしらと、ちょうど相談でもするように僕の顔色を見たのを覚えている。僕はいつもの通り冷淡な調子で、好いかも知れない、御父さんか御母さんに話して御覧と云ったと記憶する。それから以後僕の田口の
家に足を入れた度数は何遍あるか分らないが、高木の名前は少くとも僕のいる席ではついぞ誰の口にも
上らなかったのである。それほど親しみの薄い、顔さえ見た事のない男の
住居に何の興味があって、僕はわざわざ砂の焼ける暑さを
冒して外出したのだろう。僕は
今日までその理由を誰にも話さずにいた。自分自身にもその時にはよく説明ができなかった。ただ遠くの方にある一種の不安が、僕の
身体を動かしに来たという
漠たる感じが胸に
射したばかりであった。それが鎌倉で暮らした二日の間に、
紛れもないある形を取って発展した結果を見て、僕を散歩に誘い出したのもやはり同じ力に違いないと今から思うのである。
僕が別荘へ帰って一時間
経つか経たないうちに、僕の注意した門札と同じ名前の男がたちまち僕の前に現われた。田口の叔母は、高木さんですと云って
叮嚀にその男を僕に紹介した。彼は見るからに肉の
緊った血色の好い青年であった。年から云うと、あるいは僕より上かも知れないと思ったが、そのきびきびした顔つきを形容するには、是非共青年という文字が必要になったくらい彼は生気に
充ちていた。僕はこの男を始めて見た時、これは自然が反対を比較するために、わざと二人を同じ座敷に並べて見せるのではなかろうかと疑ぐった。無論その不利益な方面を代表するのが僕なのだから、こう改たまって引き合わされるのが、僕にはただ悪い
洒落としか受取られなかった。
二人の
容貌がすでに意地の好くない対照を与えた。しかし様子とか
応対ぶりとかになると僕はさらにはなはだしい相違を自覚しない訳に行かなかった。僕の前にいるものは、母とか叔母とか
従妹とか、皆親しみの深い血属ばかりであるのに、それらに取り
捲かれている僕が、この高木に比べると、かえってどこからか客にでも来たように見えたくらい、彼は自由に遠慮なく、しかもある程度の品格を落す危険なしに
己を取扱かう
術を心得ていたのである。知らない人を
怖れる僕に云わせると、この男は生れるや否や交際場裏に
棄てられて、そのまま今日まで同じ所で人と成ったのだと評したかった。彼は十分と経たないうちに、すべての会話を僕の手から奪った。そうしてそれをことごとく一身に集めてしまった。その代り僕を
除け
物にしないための注意を払って、時々僕に一句か二句の言葉を与えた。それがまた
生憎僕には興味の乗らない話題ばかりなので、僕はみんなを相手にする事もできず、高木一人を相手にする訳にも行かなかった。彼は田口の叔母を親しげに御母さん御母さんと呼んだ。千代子に対しては、僕と同じように、千代ちゃんという
幼馴染に用いる名を、自然に命ぜられたかのごとく使った。そうして僕に、先ほど御着になった時は、ちょうど千代ちゃんとあなたの
御噂をしていたところでしたと云った。
僕は初めて彼の容貌を見た時からすでに
羨ましかった。話をするところを聞いて、すぐ及ばないと思った。それだけでもこの場合に僕を不愉快にするには充分だったかも知れない。けれどもだんだん彼を観察しているうちに、彼は自分の得意な点を、劣者の僕に見せつけるような態度で、誇り顔に発揮するのではなかろうかという疑が起った。その時僕は急に彼を
憎み出した。そうして僕の口を
利くべき機会が廻って来てもわざと沈黙を守った。
落ちついた今の気分でその時の事を回顧して見ると、こう解釈したのはあるいは僕の
僻みだったかも分らない。僕はよく人を疑ぐる代りに、疑ぐる自分も同時に疑がわずにはいられない
性質だから、結局
他に話をする時にもどっちと
判然したところが云い
悪くなるが、もしそれが本当に僕の
僻み
根性だとすれば、その裏面にはまだ凝結した形にならない
嫉が
潜んでいたのである。
僕は男として嫉
の強い方か弱い方か自分にもよく解らない。競争者のない一人息子としてむしろ大事に育てられた僕は、少なくとも家庭のうちで嫉
を起す機会を
有たなかった。小学や中学は自分より成績の好い生徒が幸いにしてそう無かったためか、
至極太平に通り抜けたように思う。高等学校から大学へかけては、席次にさほど重きをおかないのが、一般の習慣であった上、年ごとに自分を高く見積る見識というものが加わって来るので、点数の多少は大した苦にならなかった。これらをほかにして、僕はまだ痛切な恋に落ちた経験がない。一人の女を二人で争った
覚はなおさらない。自白すると僕は若い女ことに美くしい若い女に対しては、普通以上に精密な注意を払い得る男なのである。往来を歩いて
綺麗な顔と綺麗な着物を見ると、雲間から明らかな日が射した時のように晴やかな心持になる。
会にはその所有者になって見たいと云う
考も起る。しかしその顔とその着物がどうはかなく変化し得るかをすぐ予想して、
酔が去って急にぞっとする人のあさましさを覚える。僕をして
執念く美くしい人に
附纏わらせないものは、まさにこの酒に
棄てられた淋しみの障害に過ぎない。僕はこの気分に乗り移られるたびに、若い時分が突然
老人か坊主に変ったのではあるまいかと思って、非常な不愉快に
陥る。が、あるいはそれがために恋の嫉
というものを知らずにすます事が出来たかも知れない。
僕は普通の人間でありたいという希望を
有っているから、嫉
心のないのを自慢にしたくも何ともないけれども、今話したような訳で、
眼の当りにこの高木という男を見るまでは、そういう名のつく感情に強く心を奪われた
試がなかったのである。僕はその時高木から受けた名状しがたい不快を明らかに覚えている。そうして自分の所有でもない、また所有する気もない千代子が源因で、この嫉
心が燃え出したのだと思った時、僕はどうしても僕の嫉
心を
抑えつけなければ自分の人格に対して申し訳がないような気がした。僕は存在の権利を失った嫉
心を
抱いて、誰にも見えない腹の中で
苦悶し始めた。幸い千代子と百代子が日が薄くなったから海へ行くと云い出したので、高木が必ず彼らに
跟いて行くに違ないと思った僕は、早く跡に一人残りたいと願った。彼らははたして高木を誘った。ところが意外にも彼は何とか言訳を
拵えて容易に立とうとしなかった。僕はそれを僕に対する遠慮だろうと推察して、ますます
眉を暗くした。彼らは次に僕を誘った。僕は
固より応じなかった。高木の面前から一刻も早く
逃れる機会は、与えられないでも手を出して奪いたいくらいに思っていたのだが、今の気分では二人と浜辺まで行く努力がすでに
厭であった。母は失望したような顔をして、いっしょに行っておいでなと云った。僕は黙って遠くの海の上を
眺めていた。
姉妹は笑いながら立ち上った。
「相変らず
偏窟ねあなたは。まるで腕白小僧見たいだわ」
千代子にこう
罵しられた僕は、実際誰の目にも立派な腕白小僧として見えたろう。僕自身も腕白小僧らしい思いをした。調子の好い高木は
縁側へ出て、二人のために
菅笠のように大きな
麦藁帽を取ってやって、行っていらっしゃいと
挨拶をした。
二人の後姿が別荘の門を出た後で、高木はなおしばらく年寄を相手に話していた。こうやって避暑に来ていると気楽で好いが、どうして日を送るかが大問題になってかえって苦痛になるなどと、実際活気に
充ちた
身体を暑さと退屈さに持ち扱かっている風に見えた。やがて、これから晩まで何をして暮らそうかしらと
独言のように云って、不意に思い出したごとく、
玉はどうですと僕に聞いた。幸いにして僕は生れてからまだ玉突という遊戯を試みた事がなかったのですぐ断った。高木はちょうど好い相手ができたと思ったのに残念だと云いながら帰って行った。僕は
活溌に動く彼の後影を見送って、彼はこれから
姉妹のいる浜辺の方へ行くに違いないという気がした。けれども僕は
坐っている席を動かなかった。
高木の去った
後、母と叔母はしばらく彼の
噂をした。初対面の人だけに母の印象はことに深かったように見えた。気のおけない、至って行き届いた人らしいと云って
賞めていた。叔母はまた母の批評を一々実例に照らして確かめる風に見えた。この時僕は高木について知り得た
極めて乏しい知識のほとんど全部を訂正しなければならない事を発見した。僕が百代子から聞いたのでは、
亜米利加帰りという話であった彼は、叔母の語るところによると、そうではなくって全く
英吉利で教育された男であった。叔母は英国流の紳士という言葉を誰かから聞いたと見えて、二三度それを使って、何の心得もない母を驚ろかしたのみか、だからどことなく
品の善いところがあるんですよと母に説明して聞かせたりした。母はただへえと感心するのみであった。
二人がこんな話をしている内、僕はほとんど一口も口を
利かなかった。ただ
上部から見て平生の調子と何の変るところもない母が、この際高木と僕を比較して、腹の中でどう思っているだろうと考えると、僕は母に対して気の毒でもありまた
恨めしくもあった。同じ母が、千代子対僕と云う古い関係を一方に置いて、さらに千代子対高木という新らしい関係を一方に想像するなら、はたしてどんな心持になるだろうと思うと、たとい少しの不安でも、避け得られるところをわざと与えるために彼女を連れ出したも同じ事になるので、僕はただでさえ不愉快な上に、年寄にすまないという苦痛をもう一つ重ねた。
前後の模様から
推すだけで、実際には事実となって現われて来なかったから何とも云い兼ねるが、叔母はこの場合を利用して、もし縁があったら千代子を高木にやるつもりでいるぐらいの
打明話を、僕ら
母子に向って、相談とも宣告とも片づかない形式の
下に、する気だったかも知れない。すべてに気がつく癖に、こうなるとかえって僕よりも
迂遠い母はどうだか、僕はその場で叔母の口から、僕と千代子と永久に手を別つべき談判の第一節を予期していたのである。幸か不幸か、叔母がまだ何も云い出さないうちに、
姉妹は浜から広い
麦藁帽の
縁をひらひらさして帰って来た。僕が僕の占いの的中しなかったのを、母のために喜こんだのは事実である。同時に同じ出来事が僕を
焦躁しがらせたのも
嘘ではない。
夕方になって、僕は姉妹と共に東京から来るはずの叔父を
停車場に迎えるべく母に命ぜられて
家を出た。彼らは
揃の
浴衣を着て白い
足袋を
穿いていた。それを
後から見送った彼らの母の眼に彼らがいかなる誇として映じたろう。千代子と並んで歩く僕の姿がまた僕の母には
画として普通以上にどんなに
価が高かったろう。僕は母を
欺むく材料に自然から使われる自分を心苦しく思って、門を出る時振り返って見たら、母も叔母もまだこっちを見ていた。
途中まで来た頃、千代子は思い出したように突然とまって、「あっ高木さんを誘うのを忘れた」と云った。百代子はすぐ僕の顔を見た。僕は足の運びを
止めたが、口は開かなかった。「もう好いじゃないの、ここまで来たんだから」と百代子が云った。「だってあたし
先刻誘ってくれって頼まれたのよ」と千代子が云った。百代子はまた僕の顔を見て
逡巡った。
「
市さんあなた時計持っていらしって。今何時」
僕は時計を出して百代子に見せた。
「まだ間に合わない事はない。誘って来るなら来ると好い。僕は先へ行って待っているから」
「もう遅いわよあなた。高木さん、もしいらっしゃるつもりならきっと一人でもいらしってよ。後から忘れましたって
詫まったらそれで
好かないの」
姉妹は二三度押問答の末ついに後戻りをしない事にした。高木は百代子の予言通りまだ汽車の着かないうちに急ぎ足で構内へ
這入って来て、姉妹に、どうも
非道い、あれほど頼んでおくのにと云った。それから御母さんはと聞いた。最後に僕の方を向いて、先ほどはと
愛想の好い
挨拶をした。
その晩は叔父と
従弟を待ち合わした上に、僕ら
母子が新たに食卓に加わったので、食事の時間がいつもより、だいぶ
後れたばかりでなく、
私かに恐れた通りはなはだしい混雑の
中に
箸と茶椀の動く光景を見せられた。叔父は笑いながら、
市さんまるで火事場のようだろう、しかし
会にはこんな騒ぎをして飯を食うのも面白いものだよと云って、間接の言訳をした。閑静な
膳に慣れた母は、この
賑やかさの中に実際叔父の言葉通り愉快らしい顔をしていた。母は内気な癖にこういう陽気な席が好きなのである。彼女はその時偶然口に
上った
一塩にした
小鰺の焼いたのを
美味いと云ってしきりに
賞めた。
「
漁師に頼んどくといくらでも
拵えて来てくれますよ。何なら、帰りに持っていらっしゃいな。姉さんが好きだから上げたいと思ってたんですが、ついついでが無かったもんだから、それにすぐ
腐くなるんでね」
「わたしもいつか
大磯で
誂えてわざわざ東京まで持って帰った事があるが、よっぽど気をつけないと途中でね」
「腐るの」千代子が聞いた。
「叔母さん
興津鯛御嫌。あたしこれよか興津鯛の方が
美味いわ」と百代子が云った。
「興津鯛はまた興津鯛で結構ですよ」と母はおとなしい答をした。
こんなくだくだしい会話を、僕がなぜ覚えているかと云うと、僕はその時母の顔に表われた、さも満足らしい気持をよく注意して見ていたからであるが、もう一つは僕が母と同じように
一塩の
小鰺を好いていたからでもある。
ついでだからここで云う。僕は自分の
嗜好や性質の上において、母に大変よく似たところと、全く違ったところと両方
有っている。これはまだ誰にも話さない秘密だが、実は単に自分の心得として、過去幾年かの間、僕は母と自分とどこがどう違って、どこがどう似ているかの詳しい研究を人知れず重ねたのである。なぜそんな
真似をしたかと母に聞かれては云い兼ねる。たとい僕が自分に聞き
糺して見ても
判切云えなかったのだから、
理由は話せない。しかし結果からいうとこうである。――欠点でも母と共に
具えているなら僕は大変
嬉しかった。長所でも母になくって僕だけ
有っているとはなはだ不愉快になった。そのうちで僕の最も気になるのは、僕の顔が父にだけ似て、母とはまるで縁のない眼鼻立にでき上っている事であった。僕は今でも鏡を見るたびに、器量が落ちても構わないから、もっと母の人相を多量に受け
継いでおいたら、母の子らしくってさぞ心持が好いだろうと思う。
食事の
後れた
如く、寝る時間も
順繰に延びてだいぶ遅くなった。その上急に
人数が増えたので、床の位置やら部屋割をきめるだけが叔母に取っての
一骨折であった。男三人はいっしょに固められて、同じ
蚊帳に寝た。叔父は
肥った
身体を持ち扱かって、
団扇をしきりにばたばた云わした。
「
市さんどうだい、暑いじゃないか。これじゃ東京の方がよっぽど楽だね」
僕も僕の隣にいる吾一も東京の方が楽だと云った。それでは何を苦しんでわざわざ鎌倉
下りまで出かけて来て、狭い蚊帳へ押し合うように寝るんだか、叔父にも吾一にも僕にも説明のしようがなかった。
「これも
一興だ」
疑問は叔父の一句でたちまち
納りがついたが、暑さの方はなかなか去らないので誰もすぐは寝つかれなかった。吾一は若いだけに、
明日の
魚捕の事を叔父に向ってしきりに質問した。叔父はまた
真面目だか
冗談だか、船に乗りさえすれば、魚の方で
風を
望んで
降るような
旨い話をして聞かせた。それがただ自分の
伜を相手にするばかりでなく、時々はねえ市さんと、そんな事にまるで冷淡の僕まで
聴手にするのだから少し変であった。しかし僕の方はそれに対して相当な
挨拶をする必要があるので、話の済む前には、僕は当然同行者の
一人として
受答をするようになっていた。僕は
固より行くつもりでも何でもなかったのだから、この変化は僕に取って少し意外の感があった。気楽そうに見える叔父はそのうち大きな
鼾声をかき始めた。吾一もすやすや
寝入った。ただ僕だけは
開いている眼をわざと閉じて、
更けるまでいろいろな事を考えた。
翌日眼が
覚めると、隣に寝ていた吾一の姿がいつの間にかもう見えなくなっていた。僕は寝足らない頭を枕の上に着けて、夢とも思索とも名のつかない
路を
辿りながら、時々別種の人間を
偸み見るような好奇心をもって、叔父の寝顔を
眺めた。そうして僕も寝ている時は、
傍から見ると、やはりこう
苦がない顔をしているのだろうかと考えなどした。そこへ吾一が
這入って来て、
市さんどうだろう天気はと相談した。ちょっと起きて見ろと
促がすので、起き上って
縁側へ出ると、海の方には一面に柔かい
靄の幕がかかって、近い
岬の木立さえ常の色には見えなかった。降ってるのかねと僕は聞いた。吾一はすぐ庭先へ飛び下りて、空を
眺め出したが、少し降ってると答えた。
彼は今日の船遊びの中止を深く
気遣うもののごとく、二人の姉まで縁側へ引張出して、しきりにどうだろうどうだろうをくり返した。しまいに最後の審判者たる彼の父の意見を必要と認めたものか、まだ寝ている叔父をとうとう呼び起した。叔父は天気などはどうでも好いと云ったような眠たい眼をして、空と海を一応見渡した上、なにこの模様なら今にきっと晴れるよと云った。吾一はそれで安心したらしかったが、千代子は
当にならない無責任な天気予報だから心配だと云って僕の顔を見た。僕は何とも云えなかった。叔父は、なに大丈夫大丈夫と受合って
風呂場の方へ行った。
食事を済ます頃から霧のような雨が降り出した。それでも風がないので、海の上は平生よりもかえって
穏やかに見えた。あいにくな天気なので人の好い母はみんなに気の毒がった。叔母は今にきっと本降になるから今日は止したが好かろうと注意した。けれども若いものはことごとく行く方を主張した。叔父はじゃ
御婆さんだけ残して、若いものが
揃って出かける事にしようと云った。すると叔母が、では
御爺さんはどっちになさるのとわざと叔父に聞いて、みんなを笑わした。
「今日はこれでも若いものの部だよ」
叔父はこの言葉を
証拠立てるためだか何だか、さっそく立って
浴衣の尻を
端折って下へ降りた。
姉弟三人もそのままの姿で縁から降りた。
「御前達も尻を
捲るが好い」
「
厭な事」
僕は山賊のような
毛脛を
露出しにした叔父と、
静御前の
笠に似た
恰好の
麦藁帽を
被った女二人と、黒い
兵児帯をこま結びにした弟を、縁の上から見下して、全く都離れのした不思議な団体のごとく
眺めた。
「
市さんがまた何か悪口を云おうと思って見ている」と百代子が薄笑いをしながら僕の顔を見た。
「早く降りていらっしゃい」と千代子が叱るように云った。
「市さんに悪い
下駄を貸して上げるが好い」と叔父が注意した。
僕は一も二もなく降りたが、約束のある高木が来ないので、それがまた一つの問題になった。おおかたこの天気だから見合わしているのだろうと云うのが、みんなの意見なので、僕らがそろそろ歩いて行く間に、吾一が
馳足で
迎に行って連れて来る事にした。
叔父は例の調子でしきりに僕に話しかけた。僕も相手になって歩調を合せた。そのうちに、男の足だものだから、いつの間にか
姉妹を乗り越した。僕は一度振り返って見たが、二人は
後れた事にいっこう
頓着しない様子で、
毫も追いつこうとする努力を示さなかった。僕にはそれがわざと
後から来る高木を待ち合せるためのようにしか取れなかった。それは誘った人に対する礼儀として、彼らの取るべき当然の
所作だったのだろう。しかしその時の僕にはそう思えなかった。そう思う余地があっても、そうは感ぜられなかった。早く来いという合図をしようという考で振り向いた僕は、合図を
止めてまた叔父と歩き出した。そうしてそのまま
小坪へ
這入る入口の
岬の所まで来た。そこは海へ
出張った山の
裾を、人の通れるだけの狭い
幅に
削って、ぐるりと向う側へ廻り込まれるようにした坂道であった。叔父は一番高い坂の角まで来てとまった。
彼は突然彼の体格に相応した大きな声を出して姉妹を呼んだ。自白するが、僕はそれまでに何度も
後を振り返って見ようとしたのである。けれども気が
咎めると云うのか、自尊心が許さないと云うのか、振り向こうとするごとに、首が
猪のように堅くなって後へ回らなかったのである。
見ると二人の姿はまだ一町ほど下にあった。そうしてそのすぐ後に高木と吾一が続いていた。叔父が遠慮のない大きな声を出して、おおいと呼んだ時、姉妹は同時に僕らを見上げたが、千代子はすぐ後にいる高木の方を向いた。すると高木は
被っていた
麦藁帽を右の手に取って、僕らを目当にしきりに振って見せた。けれども四人のうちで声を出して叔父に応じたのはただ吾一だけであった。彼はまた学校で号令の
稽古でもしたものと見えて、海と
崖に反響するような答と共に両手を一度に頭の上に差し上げた。
叔父と僕は崖の鼻に立って彼らの近寄るのを待った。彼らは叔父に呼ばれた
後も呼ばれない前と同じ遅い歩調で、何か話しながら
上って来た。僕にはそれが尋常でなくって、大いにふざけているように見えた。高木は茶色のだぶだぶした
外套のようなものを着て時々
隠袋へ手を入れた。この暑いのにまさか外套は着られまいと思って、最初は不思議に
眺めていたが、だんだん近くなるに従がって、それが薄い
雨除である事に気がついた。その時叔父が突然、
市さんヨットに乗ってそこいらを遊んで歩くのも面白いだろうねと云ったので、僕は急に気がついたように高木から眼を転じて
脚の下を見た。すると
磯に近い所に、真白に塗った
空船が一
艘、静かな波の上に浮いていた。
糠雨とまでも
[#「糠雨とまでも」は底本では「糖雨とまでも」]行かない細かいものがなお降りやまないので、海は一面に
暈されて、
平生なら手に取るように見える向う側の絶壁の樹も岩も、ほとんど
一色に
眺められた。そのうち
四人はようやく僕らの
傍まで来た。
「どうも御待たせ申しまして、実は
髭を
剃っていたものだから、途中でやめる訳にも行かず……」と高木は叔父の顔を見るや否や
云訳をした。
「えらい物を着込んで暑かありませんか」と叔父が聞いた。
「暑くったって脱ぐ訳に行かないのよ。上はハイカラでも下は
蛮殻なんだから」と千代子が笑った。高木は
雨外套の下に、
直に
半袖の薄い
襯衣を着て、変な
半洋袴から余った
脛を丸出しにして、
黒足袋に
俎下駄を引っかけていた。彼はこの通りと雨外套の下を僕らに示した上、日本へ帰ると服装が自由で
貴女の前でも
気兼がなくって好いと云っていた。
一同がぞろぞろ
揃って道幅の六尺ばかりな
汚苦しい漁村に
這入ると、一種不快な
臭がみんなの鼻を
撲った。高木は
隠袋から白い
手巾を出して短かい髭の上を
掩った。叔父は突然そこに立って僕らを見ていた子供に、西の者で南の方から養子に来たものの
宅はどこだと奇体な質問を掛けた。子供は知らないと云った。僕は千代子に何でそんな妙な聞き方をするのかと尋ねた。
昨夕聞き合せに人をやった
家の主人が云うには、名前は忘れたからこれこれの男と云って探して歩けば分ると教えたからだと千代子が話して聞かした時、僕はこの
呑気な教え方と、同じく呑気な聞き方を、いかにも余裕なくこせついている自分と比べて見て、妙に
羨ましく思った。
「それで分るんでしょうか」と高木が不思議な顔をした。
「分ったらよっぽど奇体だわね」と千代子が笑った。
「何大丈夫分るよ」と叔父が受合った。
吾一は面白半分人の顔さえ見れば、西のもので南の方から養子に来たものの宅はどこだと聞いては、そのたびにみんなを笑わした。一番しまいに、
編笠を
被って白い
手甲と
脚袢を着けた
月琴弾の若い女の休んでいる汚ない茶店の婆さんに同じ
問をかけたら、婆さんは案外にもすぐそこだと
容易く教えてくれたので、みんながまた手を
拍って笑った。それは往来から山手の方へ三級ばかりに仕切られた石段を登り切った小高い所にある小さい
藁葺の家であった。
この細い石段を思い思いの
服装をした六人が前後してぞろぞろ登る姿は、
傍で見ていたら定めし変なものだったろうと思う。その上六人のうちで、これから何をするか
明瞭した考を
有っていたものは誰もないのだからはなはだ気楽である。
肝心の叔父さえただ船に乗る事を知っているだけで、後は網だか釣だか、またどこまで
漕いで出るのかいっこう
弁別えないらしかった。百代子の
後から足の力で
擦り
減らされて凹みの多くなった石段を踏んで行く僕はこんな無意味な行動に、
己れを
委ねて悔いないところを、避暑の
趣とでも云うのかと思いつつ
上った。同時にこの無意味な行動のうちに、意味ある劇の大切な一幕が、ある男とある女の間に
暗に演ぜられつつあるのでは無かろうかと疑ぐった。そうしてその一幕の中で、自分の
務めなければならない役割がもしあるとすれば、
穏かな顔をした運命に、軽く
翻弄される役割よりほかにあるまいと考えた。最後に何事も打算しないでただ
無雑作にやって
除ける叔父が、人に気のつかないうちに、この幕を完成するとしたら、彼こそ比類のない巧妙な
手際を
有った作者と云わなければなるまいという気を起した。僕の頭にこういう影が射した時、すぐ
後から
跟いて
上って来る高木が、これじゃ暑くってたまらない、
御免蒙って
雨防衣を脱ごうと云い出した。
家は下から見たよりもなお小さくて汚なかった。戸口に
杓子が一つ打ちつけてあって、それに
百日風邪吉野平吉一家一同と書いてあるので、主人の名がようやく分った。それを見つけ出して、みんなに聞こえるように読んだのは、
目敬い吾一の手柄であった。中を
覗くと天井も壁もことごとく黒く光っていた。人間としては婆さんが一人いたぎりである。その婆さんが、今日は天気がよくないので、おおかたおいでじゃあるまいと云って早く海へ出ましたから、今浜へ下りて呼んできましょうと断わりを述べた。舟へ乗って出たのかねと叔父が聞くと、婆さんは多分あの船だろうと答えて、手で海の上を
指した。
靄はまだ晴れなかったけれども、
先刻よりは空がだいぶ明るくなったので、沖の方は比較的
判切見える中に、指された船は遠くの向うに小さく
横わっていた。
「あれじゃ大変だ」
高木は
携えて来た双眼鏡を
覗きながらこう云った。
「随分
呑気ね、
迎いに行くって、どうしてあんな所へ迎に行けるんでしょう」と千代子は笑いながら、高木の手から双眼鏡を受取った。
婆さんは何
直ですと答えて、
草履を
穿いたまま、石段を
馳け下りて行った。叔父は
田舎者は気楽だなと笑っていた。吾一は婆さんの
後を追かけた。百代子はぼんやりして汚ない縁へ腰をおろした。僕は庭を見廻した。庭という名のもったいなく聞こえる縁先は
五坪にも足りなかった。
隅に
無花果が一本あって、
腥ぐさい空気の中に、青い葉を少しばかり茂らしていた。枝にはまだ熟しない
実が
云訳ほど
結って、その一本の
股の所に、
空の
虫籠がかかっていた。その下には
瘠せた鶏が二三羽むやみに爪を立てた地面の中を
餓えた
嘴でつついていた。僕はその
傍に伏せてある
鉄網の
鳥籠らしいものを
眺めて、その
恰好がちょうど
仏手柑のごとく不規則に
歪んでいるのに一種
滑稽な思いをした。すると叔父が突然、何分
臭いねと云い出した。百代子は、あたしもう御魚なんかどうでも好いから、早く帰りたくなったわと心細そうな声を出した。この時まで双眼鏡で海の方を見ながら、
断えず千代子と話していた高木はすぐ
後を振り返った。
「何をしているだろう。ちょっと行って様子を見て来ましょう」
彼はそう云いながら、手に持った
雨外套と双眼鏡を置くために
後の縁を
顧みた。
傍に立った千代子は高木の動かない前に手を出した。
「こっちへ御出しなさい。持ってるから」
そうして高木から二つの品を受け取った時、彼女は改めてまた彼の
半袖姿を見て笑いながら、「とうとう
蛮殻になったのね」と評した。高木はただ苦笑しただけで、すぐ浜の方へ下りて行った。僕はさも運動家らしく発達した彼の肩の肉が、急いで石段を下りるために手を振るごとに動く様を後から無言のまま注意して
眺めた。
船に乗るためにみんなが
揃って浜に下り立ったのはそれから約一時間の
後であった。浜には何の祭の前か
過か、深く砂の中に
埋められた高い
幟の棒が二本僕の眼を
惹いた。吾一はどこからか
磯へ打ち上げた枯枝を拾って来て、広い砂の上に大きな字と大きな顔をいくつも並べた。
「さあ御乗り」と坊主頭の船頭が云ったので、六人は順序なくごたごたに
船縁から
這い上った。偶然の結果千代子と僕は
後のものに押されて、仕切りの付いた
舳の方に二人
膝を突き合せて坐った。叔父は一番先に、
胴の
間というのか、真中の広い所に、
家長らしく
胡坐をかいてしまった。そうして高木をその日の客として取り扱うつもりか、さあどうぞと案内したので、彼は
否応なしに叔父の
傍に座を占めた。百代子と吾一は彼らの次の
間と云ったような仕切の中に船頭といっしょに這入った。
「どうですこっちが
空いてますからいらっしゃいませんか」と高木はすぐ
後の百代子を
顧みた。百代子はありがとうといったきり席を移さなかった。僕は始めから千代子と一つ
薄縁の上に坐るのを快く思わなかった。僕の高木に対して
嫉妬を起した事はすでに明かに自白しておいた。その嫉妬は程度において
昨日も
今日も同じだったかも知れないが、それと共に競争心はいまだかつて
微塵も僕の胸に
萌さなかったのである。僕も男だからこれから先いつどんな女を
的に劇烈な恋に
陥らないとも限らない。しかし僕は断言する。もしその恋と同じ度合の劇烈な競争をあえてしなければ思う人が手に入らないなら、僕はどんな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を
懐ろにして恋人を見棄ててしまうつもりでいる。男らしくないとも勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも、
他から評したらどうにでも評されるだろう。けれどもそれほど切ない競争をしなければわがものにできにくいほど、どっちへ動いても好い女なら、それほど切ない競争に
価しない女だとしか僕には認められないのである。僕には自分に
靡かない女を無理に
抱く喜こびよりは、相手の恋を自由の野に放ってやった時の男らしい気分で、わが失恋の
瘡痕を
淋しく見つめている方が、どのくらい良心に対して満足が多いか分らないのである。
僕は千代子にこう云った。――
「千代ちゃん行っちゃどうだ。あっちの方が広くって
楽なようだから」
「なぜ、ここにいちゃ邪魔なの」
千代子はそう云ったまま動こうとしなかった。僕には高木がいるからあっちへ行けというのだというような説明は、露骨と聞こえるにしろ、
厭味と受取られるにしろ、全く口にする勇気は出なかった。ただ彼女からこう云われた僕の胸に、一種の
嬉しさが
閃めいたのは、口と腹とどう裏表になっているかを
曝露する好い
証拠で、自分で自分の薄弱な性情を自覚しない僕には痛い打撃であった。
昨日会った時よりは気のせいか少し控目になったように見える高木は、千代子と僕の間に起ったこの問答を聞きながら知らぬふりをしていた。船が
磯を離れたとき、彼は「好い
案排に空模様が直って来ました。これじゃ日がかんかん照るよりかえって結構です。船遊びには持って来いという御天気で」というような事を叔父と話し合ったりした。叔父は突然大きな声を出して、「船頭、いったい何を
捕るんだ」と聞いた。叔父もその他のものも、この時まで何を捕るんだかいっこう知らずにいたのである。坊主頭の船頭は、
粗末[#ルビの「ぞんざい」は底本では「そんざい」]な言葉で、
蛸を捕るんだと答えた。この奇抜な返事には千代子も百代子も驚ろくよりもおかしかったと見えて、たちまち声を出して笑った。
「蛸はどこにいるんだ」と叔父がまた聞いた。
「ここいらにいるんだ」と船頭はまた答えた。
そうして湯屋の
留桶を少し深くしたような
小判形の桶の底に、
硝子を張ったものを水に伏せて、その中に顔を
突込むように押し込みながら、海の底を
覗き出した。船頭はこの妙な道具を
鏡と
称えて、二つ三つ余分に持ち合わせたのを、すぐ僕らに貸してくれた。第一にそれを利用したのは船頭の
傍に座を取った吾一と百代子であった。
鏡がそれからそれへと順々に回った時、叔父はこりゃ
鮮やかだね、何でも見えると
非道く感心していた。叔父は人間社会の事に大抵通じているせいか、
万に
高を
括る癖に、こういう自然界の現象に
襲われるとじき驚ろく
性質なのである。自分は千代子から渡された鏡を受け取って、最後に一枚の硝子越に海の底を眺めたが、かねて想像したと少しも異なるところのない
極めて平凡な海の底が眼に
入っただけである。そこには
小さい岩が多少の
凸凹を描いて一面に
連なる間に、
蒼黒い
藻草が限りなく
蔓延っていた。その藻草があたかも
生温るい風に
嬲られるように、波のうねりで静かにまた永久に細長い茎を前後に
揺かした。
「
市さん蛸が見えて」
「見えない」
僕は顔を上げた。千代子はまた首を
突込んだ。彼女の
被っていたへなへなの
麦藁帽子の
縁が水に
浸って、船頭に
操つられる船の勢に
逆らうたびに、可憐な波をちょろちょろ起した。僕はその
後に見える彼女の黒い髪と白い
頸筋を、その顔よりも美くしく眺めていた。
「千代ちゃんには、
目付かったかい」
「駄目よ。
蛸なんかどこにも泳いでいやしないわ」
「よっぽど慣れないとなかなか
目付ける訳に行かないんだそうです」
これは高木が千代子のために説明してくれた言葉であった。彼女は両手で
桶を
抑えたまま、
船縁から乗り出した
身体を高木の方へ
捻じ曲げて、「
道理で見えないのね」といったが、そのまま水に
戯れるように、両手で抑えた桶をぶくぶく動かしていた。百代子が向うの方から御姉さんと呼んだ。吾一は居所も分らない蛸をむやみに突き廻した。突くには二間ばかりの細長い
女竹の先に一種の穂先を着けた変なものを用いるのである。船頭は桶を歯で
銜えて、片手に
棹を使いながら、船の動いて行くうちに、蛸の居所を探しあてるや
否や、その長い竹で巧みにぐにゃぐにゃした怪物を突き刺した。
蛸は船頭一人の手で、
何疋も船の中に上がったが、いずれも同じくらいな大きさで、これはと驚ろくほどのものはなかった。始めのうちこそ
皆珍らしがって、
捕れるたびに騒いで見たが、しまいにはさすが元気な叔父も少し
飽きて来たと見えて、「こう蛸ばかり捕っても仕方がないね」と云い出した。高木は
煙草を吹かしながら、
舟底にかたまった
獲物を眺め始めた。
「千代ちゃん、蛸の泳いでるところを見た事がありますか。ちょっと来て御覧なさい、よっぽど妙ですよ」
高木はこう云って千代子を招いたが、
傍に坐っている僕の顔を見た時、「
須永さんどうです、蛸が泳いでいますよ」とつけ加えた。僕は「そうですか。面白いでしょう」と答えたなり
直席を立とうともしなかった。千代子はどれと云いながら高木の傍へ行って新らしい座を占めた。僕は
故の所から彼女にまだ泳いでるかと尋ねた。
「ええ面白いわ、早く来て御覧なさい」
蛸は八本の足を真直に
揃えて、細長い身体を一気にすっすっと区切りつつ、水の中を一直線に船板に突き当るまで進んで行くのであった。中には
烏賊のように黒い墨を
吐くのも
交っていた。僕は中腰になってちょっとその光景を覗いたなり故の席に戻ったが、千代子はそれぎり高木の傍を離れなかった。
叔父は船頭に向って蛸はもうたくさんだと云った。船頭は帰るのかと聞いた。向うの方に大きな
竹籃のようなものが二つ三つ浮いていたので、蛸ばかりで
淋しいと思った叔父は、船をその一つの
側へ
漕ぎ寄せさした。申し合せたように、
舟中立ち上って
籃の内を覗くと、七八寸もあろうと云う魚が、縦横に狭い水の中を
馳け廻っていた。その或ものは水の色を離れない
蒼い光を
鱗に帯びて、自分の勢で前後左右に作る波を肉の裏に
透すように輝やいた。
「一つ
掬って御覧なさい」
高木は大きな
掬網の
柄を千代子に握らした。千代子は面白半分それを受取って水の中で動かそうとしたが、動きそうにもしないので、高木は
己れの手を添えて二人いっしょに
籃の中を
覚束なく
攪き廻した。しかし魚は
掬えるどころではなかったので、千代子はすぐそれを船頭に返した。船頭は同じ
掬網で叔父の命ずるままに何疋でも水から上へ
択り出した。僕らは
危怪な蛸の単調を破るべく、
鶏魚、
鱸、
黒鯛の変化を喜こんでまた岸に
上った。
僕はその晩一人東京へ帰った。母はみんなに引きとめられて、帰るときには吾一か誰か送って行くという条件の
下に、なお二三日鎌倉に
留まる事を
肯んじた。僕はなぜ母が彼らの勧めるままに、人を
好く落ちついているのだろうと、鋭どく
磨がれた自分の神経から推して、
悠長過ぎる彼女をはがゆく思った。
高木にはそれから以後ついぞ顔を合せた事がなかった。千代子と僕に高木を加えて
三つ
巴を描いた一種の関係が、それぎり発展しないで、そのうちの劣敗者に当る僕が、あたかも運命の
先途を予知したごとき態度で、中途から
渦巻の外に
逃れたのは、この話を聞くものにとって、定めし不本意であろう。僕自身も幾分か火の手のまだ収まらないうちに、取り急いで
纏を撤したような心持がする。と云うと、僕に始からある
目論見があって、わざわざ鎌倉へ出かけたとも取れるが、
嫉妬心だけあって競争心を
有たない僕にも相応の
己惚は陰気な暗い胸のどこかで時々ちらちら
陽炎ったのである。僕は自分の矛盾をよく研究した。そうして千代子に対する
己惚をあくまで積極的に利用し切らせないために、他の思想やら感情やらが、入れ代り立ち替り雑然として吾心を奪いにくる
煩らわしさに悩んだのである。
彼女は時によると、天下に
只一人の僕を愛しているように見えた。僕はそれでも進む訳に行かないのである。しかし未来に眼を
塞いで、思い切った態度に出ようかと思案しているうちに、彼女はたちまち僕の手から逃れて、全くの他人と違わない顔になってしまうのが常であった。僕が鎌倉で暮した二日の間に、こういう
潮の
満干はすでに二三度あった。或時は自分の意志でこの変化を支配しつつ、わざと近寄ったり、わざと
遠退いたりするのでなかろうかという
微かな疑惑をさえ、僕の胸に煙らせた。そればかりではない。僕は彼女の言行を、
一の意味に解釈し終ったすぐ
後から、まるで反対の意味に同じものをまた解釈して、その
実どっちが正しいのか分らないいたずらな
忌々しさを感じた
例も少なくはなかった。
僕はこの二日間に
娶るつもりのない女に釣られそうになった。そうして高木という男がいやしくも眼の前に出没する限りは、
厭でもしまいまで釣られて行きそうな心持がした。僕は高木に対して競争心を有たないと先に断ったが、誤解を防ぐために、もう一度同じ言葉をくり返したい。もし千代子と高木と僕と三人が巴になって恋か愛か人情かの
旋風の中に狂うならば、その時僕を動かす力は高木に勝とうという競争心でない事を僕は断言する。それは高い塔の上から下を見た時、恐ろしくなると共に、飛び下りなければいられない神経作用と同じ物だと断言する。結果が高木に対して勝つか負けるかに帰着する
上部から云えば、競争と見えるかも知れないが、動力は全く独立した一種の働きである。しかもその動力は高木がいさえしなければけっして僕を
襲って来ないのである。僕はその二日間に、この怪しい力の
閃を
物凄く感じた。そうして強い決心と共にすぐ鎌倉を去った。
僕は強い
刺戟に
充ちた小説を読むに
堪えないほど弱い男である。強い刺戟に充ちた小説を実行する事はなおさらできない男である。僕は自分の気分が小説になりかけた
刹那に驚ろいて、東京へ引き返したのである。だから汽車の中の僕は、半分は優者で半分は劣者であった。比較的乗客の少ない中等列車のうちで、僕は自分と書き出して自分と裂き
棄てたようなこの小説の続きをいろいろに想像した。そこには海があり、月があり、
磯があった。若い男の影と若い女の影があった。始めは男が
激して女が泣いた。
後では女が激して男が
宥めた。ついには二人手を引き合って音のしない砂の上を歩いた。あるいは
額があり、畳があり、涼しい風が吹いた。二人の若い男がそこで意味のない口論をした。それがだんだん熱い血を頬に呼び寄せて、ついには二人共自分の人格にかかわるような言葉使いをしなければすまなくなった。
果は立ち上って
拳を
揮い合った。あるいは……。芝居に似た光景は幾幕となく眼の前に
描かれた。僕はそのいずれをも
甞め試ろみる機会を失ってかえって自分のために喜んだ。人は僕を老人みたようだと云って
嘲けるだろう。もし詩に訴えてのみ世の中を渡らないのが老人なら、僕は嘲けられても満足である。けれどももし詩に
涸れて
乾びたのが老人なら、僕はこの品評に甘んじたくない。僕は始終詩を求めてもがいているのである。
僕は東京へ帰ってからの気分を想像して、あるいは
刺戟を眼の前に控えた鎌倉にいるよりもかえって
焦躁つきはしまいかと心配した。そうして相手もなく一人焦躁つく事のはなはだしい苦痛をいたずらに胸の
中に描いて見た。偶然にも結果は他の一方に
外れた。僕は僕の希望した通り、平生に近い落ちつきと冷静と
無頓着とを、比較的容易に、
淋しいわが二階の上に
齎らし帰る事ができた。僕は新らしい
匂のする
蚊帳を座敷いっぱいに釣って、軒に鳴る
風鈴の音を楽しんで寝た。
宵には町へ出て草花の
鉢を
抱えながら
格子を開ける事もあった。母がいないので、すべての世話は
作という小間使がした。鎌倉から帰って、始めてわが家の
膳に向った時、給仕のために黒い丸盆を
膝の上に置いて、僕の前に
畏こまった作の姿を見た僕は
今更のように彼女と鎌倉にいる
姉妹との相違を感じた。作は
固より好い器量の女でも何でもなかった。けれども僕の前に出て畏こまる事よりほかに何も知っていない彼女の姿が、僕にはいかに
慎ましやかにいかに控目に、いかに女として
憐れ深く見えたろう。彼女は恋の何物であるかを考えるさえ、自分の身分ではすでに生意気過ぎると思い定めた様子で、おとなしく
坐っていたのである。僕は珍らしく彼女に優しい言葉を掛けた。そうして彼女に年はいくつだと聞いた。彼女は十九だと答えた。僕はまた突然嫁に行きたくはないかと尋ねた。彼女は
赧い顔をして下を向いたなり、露骨な問をかけた僕を気の毒がらせた。僕と作とはそれまでほとんど用の口よりほかに
利いた事がなかったのである。僕は鎌倉から新らしい記憶を持って帰った反動として、その時始めて、自分の家に使っている
下婢の女らしいところに気がついた。愛とは
固より彼女と僕の間に云い得べき言葉でない。僕はただ彼女の身の
周囲から出る落ちついた、気安い、おとなしやかな空気を愛したのである。
僕が作のために安慰を得たと云っては、自分ながらおかしく聞こえる。けれども今考えて見てもそれよりほかの源因は全く考えつかないようだから、やっぱり作が――作がというより、その時の作が代表して僕に見せてくれた
女性のある方面の性質が、想像の
刺戟にすら
焦躁立ちたがっていた僕の頭を静めてくれたのだろうと思う。白状すれば鎌倉の
景色は折々眼に浮かんだ。その景色のうちには無論人間が活動していた。ただそれが僕の遠くにいる、僕とはとても利害を
一にし得ない人間の活動らしく見えたのは幸福であった。
僕は二階に
上って書架の整理を始めた。
綺麗好な母が
始終気をつけて掃除を
怠たらなかったにかかわらず、一々書物を並べ直すとなると、思わぬ
埃の色を、目の届かない陰に見つけるので、残らず
揃えるまでには、なかなか手間取った。僕は暑中に似合わしい閑事業として、なるべく時間のかかるように、気が向けば手にした本をいつまでも読み
耽ってみようという気楽な方針で
蝸牛のごとく進行した。作は時ならない
払塵の音を聞きつけて、
梯子段から
銀杏返しの頭を出した。僕は彼女に書架の一部を
雑巾で拭いて
貰った。しかしいつまでかかるか分らない仕事の手伝を、済むまでさせるのも気の毒だと思って、すぐ
階下へ下げた。僕は一時間ほど書物を伏せたり立てたりして少し
草臥れたから
煙草を吹かして休んでいると、作がまた梯子段から顔を出した。そうして、私でよろしければ何ぞ致しましょうかと尋ねた。僕は作に何かさせてやりたかった。不幸にして西洋文字の読めない彼女には手の出せない書物の整理なので、僕は気の毒だけれども、なに好いよと断ってまた下へ追いやった。
作の事をそう一々云う必要もないが、つい前からの関係で、彼女のその時の行動を覚えていたから話したのである。僕は一本の
巻煙草を呑み切った
後でまた整理にかかった。今度は作のためにわれ
一人の世界を
妨たげられる
虞なしに、書架の二段目を一気に片づけた。その時僕は久しく友達に借りて、つい返すのを忘れていた妙な書物を、偶然
棚の
後から発見した。それはむしろ薄い小形の本だったので、ついほかのものの
向側へ落ちたなり埃だらけになって、
今日まで僕の眼を
掠めていたのである。
僕にこの本を貸してくれたものはある文学
好の友達であった。僕はかつてこの男と小説の話をして、思慮の勝ったものは、万事に考え込むだけで、いっこう
華やかな行動を仕切る勇気がないから、小説に書いてもつまらないだろうと云った。僕の平生からあまり小説を愛読しないのは、僕に小説中の人物になる資格が乏しいので、資格が乏しいのは、考え考えしてぐずつくせいだろうとかねがね思っていたから、僕はついこういう質問がかけて見たくなったのである。その時彼は机上にあったこの本を
指して、ここに書いてある主人公は、非常に
目覚しい思慮と、恐ろしく
凄まじい思い切った行動を
具えていると告げた。僕はいったいどんな事が書いてあるのかと聞いた。彼はまあ読んで見ろと云って、その本を取って僕に渡した。標題にはゲダンケという
独乙字が書いてあった。彼は
露西亜物の翻訳だと教えてくれた。僕は薄い書物を手にしながら、重ねてその
梗を彼に尋ねた。彼は梗
などはどうでも好いと答えた。そうして中に書いてある事が
嫉妬なのだか、
復讐なのだか、深刻な
悪戯なのだか、
酔興な計略なのだか、
真面目な所作なのだか、
気狂の推理なのだか、常人の打算なのだか、ほとんど分らないが、何しろ
華々しい行動と同じく華々しい思慮が伴なっているから、ともかくも読んで見ろと云った。僕は書物を借りて帰った。しかし読む気はしなかった。僕は読み
耽らない癖に、小説家というものをいっさい馬鹿にしていた上に、友達のいうような事にはちっとも心を動かすべき興味を
有たなかったからである。
この出来事をすっかり忘れていた僕は、何の気もつかずにそのゲダンケを今
棚の
後から引き出して厚い
塵を払った。そうして
見覚のある例の独乙字の標題に眼をつけると共に、かの文学好の友達と彼のその時の言葉とを思い出した。すると突然どこから起ったか分らない好奇心に
駆られて、すぐその一
頁を開いて初めから読み始めた。中には恐るべき話が書いてあった。
ある女に
意のあったある男が、その婦人から相手にされないのみか、かえってわが知り合の人の所へ嫁入られたのを根に、新婚の夫を殺そうと企てた。ただしただ殺すのではない。女房が見ている前で殺さなければ面白くない。しかもその見ている女房が彼を下手人と知っていながら、いつまでも指を
銜えて、彼を見ているだけで、それよりほかにどうにも手のつけようのないという複雑な殺し方をしなければ気がすまない。彼はその
手段として一種の方法を案出した。ある
晩餐の席へ招待された好機を利用して、彼は急に
劇しい
発作に
襲われたふりをし始めた。
傍から見るとまるで狂人としか思えない挙動をその場であえてした彼は、同席の一人残らずから、全くの狂人と信じられたのを見すまして、心の内で図に当った策略を祝賀した。彼は人目に触れやすい社交場
裡で、同じ
所作をなお二三度くり返した後、発作のために精神に
狂の出る危険な人という評判を一般に博し得た。彼はこの
手数のかかった準備の上に、手のつけようのない殺人罪を築き上げるつもりでいたのである。しばしば起る彼の発作が、
華やかな交際の色を暗く
損ない出してから、今まで懇意に
往来していた誰彼の門戸が、彼に対して急に固く
鎖されるようになった。けれどもそれは彼の苦にするところではなかった。彼はなお自由に
出入のできる一軒の家を持っていた。それが取りも直さず彼のまさに死の国に
蹴落そうとしつつある友とその細君の家だったのである。彼はある日何気ない顔をして友の
住居を
敲いた。そこで世間話に時を移すと見せて、暗に目の前の人に飛びかかる機を
窺った。彼は机の上にあった重い
文鎮を取って、突然これで人が殺せるだろうかと尋ねた。友は
固より彼の問を
真に受けなかった。彼は構わずできるだけの力を文鎮に込めて、細君の見ている前で、最愛の夫を打ち殺した。そうして狂人の名の
下に、
瘋癲院に送られた。彼は驚ろくべき思慮と分別と推理の力とをもって、以上の
顛末を基礎に、自分のけっして狂人でない訳をひたすら弁解している。かと思うと、その弁解をまた疑っている。のみならず、その疑いをまた弁解しようとしている。彼は
必竟正気なのだろうか、狂人なのだろうか、――僕は書物を手にしたまま
慄然として恐れた。
僕の
頭は僕の
胸を
抑えるためにできていた。行動の結果から見て、はなはだしい
悔を
遺さない過去を
顧みると、これが人間の常体かとも思う。けれども胸が熱しかけるたびに、厳粛な頭の威力を無理に加えられるのは、普通誰でも経験する通り、はなはだしい苦痛である。僕は
意地張という点において、どっちかというとむしろ陰性の
癇癪持だから、
発作に心を
襲われた人が急に理性のために喰い留められて、
劇しい自動車の速力を即時に殺すような苦痛は
滅多に
甞めた事がない。それですらある場合には命の心棒を無理に曲げられるとでも云わなければ形容しようのない活力の燃焼を内に感じた。二つの争いが起るたびに、常に頭の命令に屈従して来た僕は、ある時は僕の頭が強いから屈従させ得るのだと思い、ある時は僕の胸が弱いから屈従するのだとも思ったが、どうしてもこの争いは生活のための争いでありながら、人知れず、わが命を
削る争いだという
畏怖の念から
解脱する事ができなかった。
それだから僕はゲダンケの主人公を見て驚ろいたのである。親友の命を虫の息のように
軽く見る彼は、理と
情との間に何らの矛盾をも
扞格をも認めなかった。彼の有する
凡ての知力は、ことごとく
復讐の燃料となって、残忍な兇行を
手際よく仕遂げる方便に供せられながら、
毫も悔ゆる事を知らなかった。彼は周密なる思慮を
率いて、
満腔の毒血を相手の頭から浴びせかけ得る偉大なる俳優であった。もしくは尋常以上の頭脳と情熱を兼ねた狂人であった。僕は平生の自分と比較して、こう顧慮なく一心にふるまえるゲダンケの主人公が大いに
羨ましかった。同時に
汗の
滴るほど恐ろしかった。できたらさぞ痛快だろうと思った。でかした
後は定めし
堪えがたい良心の
拷問に逢うだろうと思った。
けれどももし僕の高木に対する
嫉妬がある不可思議の径路を取って、
向後今の数十倍に
烈しく身を焼くならどうだろうと僕は考えた。しかし僕はその時の自分を自分で想像する事ができなかった。始めは人間の元来からの作りが違うんだから、とてもこんな
真似はしえまいという見地から、すぐこの問題を
棄却しようとした。次には、僕でも同じ程度の
復讐が充分やって
除けられるに違いないという気がし出した。最後には、僕のように平生は頭と胸の争いに悩んでぐずついているものにして始めてこんな猛烈な兇行を、冷静に打算的に、かつ組織的に、
逞ましゅうするのだと思い出した。僕は最後になぜこう思ったのか自分にも分らない。ただこう思った時急に変な心持に襲われた。その心持は純然たる恐怖でも不安でも不快でもなく、それらよりは
遥かに複雑なものに見えた。が、
纏って心に現われた状態から云えば、ちょうどおとなしい人が酒のために大胆になって、これなら何でもやれるという満足を感じつつ、同時に酔に打ち勝たれた自分は、品性の上において平生の自分より遥に堕落したのだと気がついて、そうして堕落は酒の影響だからどこへどう避けても人間としてとても
逃れる事はできないのだと沈痛に
諦らめをつけたと同じような変な心持であった。僕はこの変な心持と共に、千代子の見ている前で、高木の脳天に重い
文鎮を骨の底まで打ち込んだ夢を、大きな眼を
開きながら見て、驚ろいて立ち上った。
下へ降りるや
否や、いきなり
風呂場へ行って、水をざあざあ頭へかけた。茶の間の時計を見ると、もう
午過なので、それを好い
機会に、そこへ
坐わって飯を片づける事にした。給仕には例の通り
作が出た。僕は
二た
口三口無言で飯の
塊りを頬張ったが、突然彼女に、おい作僕の顔色はどうかあるかいと聞いた。作は
吃驚した眼を大きくして、いいえと答えた。それで問答が切れると、今度は作の方がどうか遊ばしましたかと尋ねた
「いいや、大してどうもしない」
「急に御暑うございますから」
僕は黙って二杯の飯を食い終った。茶を
注がして飲みかけた時、僕はまた突然作に、鎌倉などへ行って
混雑するより
宅にいる方が
静で好いねと云った。作は、でもあちらの方が御涼しゅうございましょうと云った。僕はいやかえって東京より暑いくらいだ、あんな所にいると気ばかりいらいらしていけないと説明してやった。作は御隠居さまはまだ当分あちらにおいででございますかと尋ねた。僕はもう帰るだろうと答えた。
僕は僕の前に
坐っている
作の姿を見て、
一筆がきの
朝貌のような気がした。ただ
貴とい名家の手にならないのが
遺憾であるが、心の中はそう云う種類の
画と同じく簡略にでき上っているとしか僕には受取れなかった。作の
人柄を画に
喩えて何のためになると聞かれるかも知れない。深い意味もなかろうが、実は彼女の給仕を受けて飯を食う間に、今しがたゲダンケを読んだ自分と、今黒塗の盆を持って
畏まっている彼女とを比較して、自分の腹はなぜこうしつこい油絵のように複雑なのだろうと
呆れたからである。白状すると僕は高等教育を受けた
証拠として、
今日まで自分の頭が
他より複雑に働らくのを自慢にしていた。ところがいつかその働らきに疲れていた。何の
因果でこうまで事を細かに刻まなければ生きて行かれないのかと考えて情なかった。僕は
茶碗を
膳の上に置きながら、作の顔を見て
尊とい感じを起した。
「作御前でもいろいろ物を考える事があるかね」
「私なんぞ別に何も考えるほどの事がございませんから」
「考えないかね。それが好いね。考える事がないのが一番だ」
「あっても
智慧がございませんから、筋道が立ちません。全く駄目でございます」
「仕合せだ」
僕は思わずこう云って作を驚ろかした。作は突然僕から冷かされたとでも思ったろう。気の毒な事をした。
その夕暮に思いがけない母が出し抜けに鎌倉から帰って来た。僕はその時
日の限りかけた二階の縁に
籐椅子を持ち出して、作が
跣足で庭先へ水を打つ音を聞いていた。下へ
降りて玄関へ出た時、僕は母を送って来るべきはずの吾一の代りに、千代子が彼女の
後に
跟いて
沓脱から
上ったのを見て非常に驚ろいた。僕は籐椅子の上で千代子の事を全く考えずにいたのである。考えても彼女と高木とを離す事はできなかったのである。そうして二人は当分鎌倉の舞台を動き得ないものと信じていたのである。僕は日に焼けて心持色の黒くなったと思われる母と顔を見合わして
挨拶を取り
替す前に、まず千代子に向ってどうして来たのだと聞きたかった。実際僕はその通りの言葉を第一に用いたのである。
「叔母さんを送って来たのよ。なぜ。驚ろいて」
「そりゃありがとう」と僕は答えた。僕の千代子に対する感情は鎌倉へ行く前と、行ってからとでだいぶ違っていた。行ってからと帰って来てからとでもまただいぶ違っていた。高木といっしょに
束ねられた彼女に対するのと、こう一人に切り離された彼女に対するのとでもまただいぶ違っていた。彼女は年を取った母を吾一に托するのが不安心だったから、自分で
随いて来たのだと云って、作が足を洗っている
間に、母の
単衣を
箪笥から出したり、それを旅行着と着換えさせたりなどして、元の千代子の通り
豆やかにふるまった。僕は母にあれから何か面白い事がありましたかと尋ねた。母は満足らしい顔をしながら、別にこれという珍らしい事も無かったと答えたが、「でもね久しぶりに
好い
気保養をしました。御蔭で」と云った。僕にはそれが
傍にいる千代子に対しての礼の言葉と聞こえた。僕は千代子に今日これからまた鎌倉へ帰るのかと尋ねた。
「泊って行くわ」
「どこへ」
「そうね。内幸町へ行っても好いけど、あんまり広過ぎて
淋しいから。――久しぶりにここへ泊ろうかしら、ねえ叔母さん」
僕には千代子が始めから僕の家に寝るつもりで出て来たように見えた。自白すれば僕はそこへ坐って十分と経たないうちに、また眼の前にいる彼女の言語動作を一種の立場から観察したり、評価したり、解釈したりしなければならないようになったのである。僕はそこに気がついた時、非常な不愉快を感じた。またそういう努力には自分の神経が疲れ切っている事も感じた。僕は自分が自分に
逆らって余儀なくこう心を働かすのか。あるいは千代子が
厭がる僕を無理に強いて動くようにするのか。どっちにしても僕は腹立たしかった。
「千代ちゃんが来ないでも吾一さんでたくさんだのに」
「だってあたし責任があるじゃありませんか。叔母さんを招待したのはあたしでしょう」
「じゃ僕も招待を受けたんだから、送って来て
貰えば好かった」
「だから
他の云う事を聞いて、もっといらっしゃれば
好いのに」
「いいえあの時にさ。僕の帰った時にさ」
「そうするとまるで看護婦みたようね。好いわ看護婦でも、ついて来て上げるわ。なぜそう云わなかったの」
「云っても断られそうだったから」
「あたしこそ断られそうだったわ、ねえ叔母さん。たまに招待に応じて来ておきながら、
厭にむずかしい顔ばかりしているんですもの。本当にあなたは少し病気よ」
「だから千代子について来て貰いたかったのだろう」と母が笑いながら云った。
僕は母の帰るつい一時間前まで千代子の来る事を予想し得なかった。それは今改めてくり返す必要もないが、それと共に僕は母が高木について
齎らす報道をほとんど確実な未来として予期していた。
穏やかな母の顔が不安と失望で曇る時の気の毒さも予想していた。僕は今この予期と全く反対の結果を眼の前に見た。彼らは二人とも常に変らない親しげな叔母
姪であった。彼らの
各自は各自に特有な
温か
味と
清々しさを、いつもの通り互いの上に、また僕の上に、心持よく加えた。
その晩は散歩に出る時間を倹約して、女二人と共に二階に
上って涼みながら話をした。僕は母の命ずるまま
軒端に
七草を
描いた
岐阜提灯をかけて、その中に細い
蝋燭を
点けた。熱いから電灯を消そうと
発議した千代子は、遠慮なく畳の上を暗くした。風のない月が高く
上った。柱に
凭れていた母が鎌倉を思い出すと云った。電車の音のする所で月を
看るのは何だかおかしい気がすると、この間から海辺に
馴染んだ千代子が評した。僕は
先刻の
籐椅子の上に腰をおろして
団扇を使っていた。
作が下から二度ばかり上って来た。一度は
煙草盆の火を入れ
更えて、僕の足の下に置いて行った。二返目には近所から取り寄せた
氷菓子を盆に
載せて持って来た。僕はそのたびごと階級制度の厳重な封建の
代に生れたように、卑しい召使の位置を
生涯の分と心得ているこの作と、どんな人の前へ出ても
貴女としてふるまって通るべき気位を
具えた千代子とを比較しない訳に行かなかった。千代子は作が出て来ても、作でないほかの女が出て来たと同じように、なんにも気に留めなかった。作の方ではいったん
起って
梯子段の
傍まで行って、もう降りようとする
間際にきっと振り返って、千代子の
後姿を見た。僕は自分が鎌倉で高木を
傍に見て暮した二日間を思い出して、材料がないから何も考えないと明言した作に、千代子というハイカラな有毒の材料が与えられたのを
憐れに
眺めた。
「高木はどうしたろう」という問が僕の口元までしばしば出た。けれども単なる消息の興味以外に、何かためにする不純なものが自分を前に押し出すので、その
都度卑怯だと遠くで
罵られるためか、つい聞くのをいさぎよしとしなくなった。それに千代子が帰って母だけになりさえすれば、彼の話は遠慮なくできるのだからとも考えた。しかし実を云うと、僕は千代子の口から
直下に高木の事を聞きたかったのである。そうして彼女が彼をどう思っているか、それを
判切胸に畳み込んでおきたかったのである。これは
嫉妬の作用なのだろうか。もしこの話を聞くものが、嫉妬だというなら、僕には少しも異存がない。今の
料簡で考えて見ても、どうもほかの名はつけ
悪いようである。それなら僕がそれほど千代子に恋していたのだろうか。問題がそう推移すると、僕も返事に
窮するよりほかに仕方がなくなる。僕は実際彼女に対して、そんなに熱烈な愛を
脈搏の上に感じていなかったからである。すると僕は人より二倍も三倍も
嫉妬深い訳になるが、あるいはそうかも知れない。しかしもっと適当に評したら、おそらく僕本来のわがままが源因なのだろうと思う。ただ僕は
一言それにつけ加えておきたい。僕から云わせると、すでに鎌倉を去った
後なお高木に対しての嫉妬心がこう燃えるなら、それは僕の性情に欠陥があったばかりでなく、千代子自身に重い責任があったのである。相手が千代子だから、僕の弱点がこれほどに濃く胸を染めたのだと僕は明言して
憚らない。では千代子のどの部分が僕の人格を堕落させるだろうか。それはとても分らない。あるいは彼女の親切じゃないかとも考えている。
千代子の様子はいつもの通り
明っ
放しなものであった。彼女はどんな問題が出ても苦もなく口を
利いた。それは
必竟腹の中に何も考えていない
証拠だとしか取れなかった。彼女は鎌倉へ行ってから水泳を自習し始めて、今では背の立たない所まで行くのが楽みだと云った。それを用心深い百代子が
剣呑がって、
詫まるように悲しい声を出して
止めるのが面白いと云った。その時母は
半ば心配で半ば
呆れたような顔をして、「何ですね女の癖にそんな
軽機な真似をして。これからは
後生だから叔母さんに免じて、あぶない悪ふざけは
止しておくれよ」と頼んでいた。千代子はただ笑いながら、大丈夫よと答えただけであったが、ふと
縁側の椅子に腰を掛けている僕を
顧みて、
市さんもそう云う
御転婆は
嫌でしょうと聞いた。僕はただ、あんまり好きじゃないと云って、月の光の
隈なく落ちる表を
眺めていた。もし僕が自分の品格に対して尊敬を払う事を忘れたなら、「しかし高木さんには気に入るんだろう」という言葉をその
後にきっとつけ加えたに違ない。そこまで引き
摺られなかったのは、僕の体面上まだ仕合せであった。
千代子はかくのごとく明けっ放しであった。けれども夜が
更けて、母がもう寝ようと云い出すまで、彼女は高木の事をとうとう一口も話頭に
上せなかった。そこに僕ははなはだしい
故意を認めた。白い紙の上に一点の暗い
印気が落ちたような気がした。鎌倉へ行くまで千代子を天下の
女性のうちで、最も純粋な
一人と信じていた僕は、鎌倉で暮したわずか二日の間に、始めて彼女の
技巧を疑い出したのである。その
疑が今ようやく僕の胸に根をおろそうとした。
「なぜ高木の話をしないのだろう」
僕は寝ながらこう考えて苦しんだ。同時にこんな問題に睡眠の時間を奪われる
愚さを自分でよく承知していた。だから苦しむのが馬鹿馬鹿しくてなお
癇が起った。僕は例の通り二階に一人寝ていた。母と千代子は下座敷に
蒲団を並べて、一つ
蚊帳の中に身を横たえた。僕はすやすや寝ている千代子を自分のすぐ下に想像して、
必竟のつそつ苦しがる僕は負けているのだと考えない訳に行かなくなった。僕は寝返りを打つ事さえ
厭になった。自分がまだ眠られないという弱味を
階下へ響かせるのが、勝利の報知として千代子の胸に伝わるのを恥辱と思ったからである。
僕がこうして同じ問題をいろいろに考えているうちに、同じ問題が僕にはいろいろに見えた。高木の名前を口へ出さないのは、全く彼女の僕に対する好意に過ぎない。僕に気を悪くさせまいと思う親切から彼女はわざとそれだけを遠慮したのである。こう解釈すると鎌倉にいた時の僕は、あれほど単純な彼女をして、僕の前に高木の二字を
公けにする勇気を失わしめたほど、不合理に機嫌を悪くふるまったのだろう。もしそうだとすれば、自分は人の気を悪くするために、人の中へ出る、不愉快な動物である。
宅へ
引込んで
交際さえしなければそれで
宜い。けれどももし親切を
冠らない
技巧が彼女の本義なら……。僕は技巧という二字を細かに割って考えた。高木を
媒鳥に僕を釣るつもりか。釣るのは、最後の目的もない癖に、ただ僕の彼女に対する愛情を一時的に
刺戟して楽しむつもりか。あるいは僕にある意味で高木のようになれというつもりか。そうすれば僕を愛しても好いというつもりか。あるいは高木と僕と戦うところを
眺めて面白かったというつもりか。または高木を僕の眼の前に出して、こういう人がいるのだから、早く思い切れというつもりか。――僕は技巧の二字をどこまでも割って考えた。そうして技巧なら戦争だと考えた。戦争ならどうしても勝負に終るべきだと考えた。
僕は寝つかれないで負けている自分を
口惜しく思った。電灯は蚊帳を釣るとき消してしまったので、
室の中に
隙間もなく
蔓延る
暗闇が窒息するほど重苦しく感ぜられた。僕は眼の見えないところに眼を明けて頭だけ働らかす苦痛に
堪えなくなった。寝返りさえ慎んで我慢していた僕は、急に
起って
室を明るくした。ついでに
縁側へ出て雨戸を一枚細目に開けた。月の傾むいた空の下には動く風もなかった。僕はただ比較的冷かな空気を肌と
咽喉に受けただけであった。
翌日はいつも一人で寝ている時より一時間半も早く眼が
覚めた。すぐ起きて下へ降りると、
銀杏返しの上へ白地の
手拭を
被って、
長火鉢の灰を
篩っていた
作が、おやもう
御目覚でと云いながら、すぐ顔を洗う道具を風呂場へ並べてくれた。僕は帰りに
埃だらけの茶の間を
爪先で通り抜けて玄関へ出た。その時ついでに二人の寝ている座敷を
蚊帳越しに
覗いて見たら、
目敏い母も
昨日の汽車の疲が出たせいか、まだ静かな
眠を
貪ぼっていた。千代子は
固より夢の底に
埋まっているように正体なく枕の上に首を落していた。僕は
目的もなく表へ出た。朝の散歩の
趣を久しく忘れていた僕には、常に変わらない町の色が、暑さと
雑沓とに染めつけられない安息日のごとく
穏やかに見えた。電車の線路が
研ぎ澄まされた光を
真直に地面の上に伸ばすのも落ちついた感じであった。けれども僕は散歩がしたくって出たのではなかった。ただ眼が早く
覚め過ぎて、
中有に延びた命の断片を、運動で
埋めるつもりで歩くのだから、それほどの興味は空にも地にも
乃至町にも見出す事ができなかった。
一時間ばかりして僕はむしろ疲れた顔を母からも千代子からも怪しまれに戻って来た。母はどこへ行ったのと聞いたが、
後から、
色沢が好くないよ、どうかおしかいと尋ねた。
「
昨夕好く寝られなかったんでしょう」
僕は千代子のこの言葉に対して答うべき
術を知らなかった。実を云うと、
昂然としてなに好く寝られたよと云いたかったのである。不幸にして僕はそれほどの
技巧家でなかった。と云って、正直に寝られなかったと自白するには余り自尊心が強過ぎた。僕はついに何も答えなかった。
三人が同じ食卓で
朝飯を済ますや
否や、母が昨日涼しいうちにと頼んでおいた
髪結が来た。
洗い
立の白い胸掛をかけて、
敷居越に手を突いた彼女は、御帰りなさいましと親しい
挨拶をした。彼女はこの職業に共通なめでたい口ぶりを
有っていた。それを得意に使って、内気な母に避暑を誇の種に話させる機会を一句ごとに作った。母は満足らしくも見えたが、そう
蝶蝶しくは
饒舌り得なかった。髪結はより
効目のある相手として、すぐ年の若い千代子を選んだ。千代子は
固より誰彼の容赦なく一様に
気易く応対のできる女だったので、御嬢様と呼びかけられるたびに相当の
受答をして話を
勢ました。千代子の泳の
噂が出た時、髪結は
活溌で
宜しゅうございます、近頃の御嬢様方はみんな水泳の
稽古をなさいますと誰が聞いても
拵えたような御世辞を云った。
妙な事を
吹聴するようでおかしいが、実をいうと僕は女の髪を上げるところを見ているのが好きであった。母が
乏しい髪を工面して、どうかこうか
髷に
結い上げる様子は、いくら
上手が
纏めるにしても、それほど
見栄のある
画ではないが、それでも退屈を
凌ぐには
恰好な慰みであった。僕は髪結の手の動く
間に、自然とでき上って行く小さな母の
丸髷を
眺めていた。そうして腹の中で、千代子の髪を日本流に
櫛を入れたらさぞみごとだろうと思った。千代子は色の美くしい、癖のない、長くて多過ぎる髪の所有者だったからである。この場合いつもの僕なら、千代ちゃんもついでに
結って御貰いなときっと勧めるところであった。しかし今の僕にはそんな親しげな要求を彼女に向って投げかける気が
出悪かった。すると偶然にも千代子の方で、何だかあたしも一つ結って見たくなったと云い出した。母は
御結いよ久しぶりにと
誘なった。
髪結は是非御上げ遊ばせな、私始めて
御髪を拝見した時から
束髪にしていらっしゃるのはもったいないと思っとりましたとさも
結いたそうな口ぶりを見せた。千代子はとうとう鏡台の前に坐った。
「何に結おうかしら」
髪結は島田を勧めた。母も同じ意見であった。千代子は長い髪を背中に垂れたまま突然
市さんと呼んだ。
「あなた何が好き」
「
旦那様も島田が好きだときっとおっしゃいますよ」
僕はぎくりとした。千代子はまるで平気のように見えた。わざと僕の方をふり返って、「じゃ島田に結って見せたげましょうか」と笑った。「好いだろう」と答えた僕の声はいかにも
鈍に聞こえた。
僕は千代子の髪のでき上らない先に二階へ
上った。僕のような神経質なものが
拘わって来ると、無関係の人の眼にはほとんど小供らしいと思われるような
所作をあえてする。僕は中途で鏡台の
傍を離れて、美くしい
島田髷をいただく女が男から
強奪する嘆賞の租税を
免かれたつもりでいた。その時の僕はそれほどこの女の虚栄心に
媚びる好意を
有たなかったのである。
僕は自分で自分の事をかれこれ取り
繕ろって好く聞えるように話したくない。しかし僕ごときものでも
長火鉢の
傍で起るこんな戦術よりはもう少し高尚な問題に頭を使い得るつもりでいる。ただそこまで引き
摺り落された時、僕の弱点としてどうしても脱線する気になれないのである。僕は自分でそのつまらなさ加減をよく心得ていただけに、それをあえてする僕を自分で
憎み自分で
鞭うった。
僕は
空威張を卑劣と同じく
嫌う人間であるから、低くても
小さくても、自分らしい自分を話すのを名誉と信じてなるべく隠さない。けれども、世の中で認めている偉い人とか高い人とかいうものは、ことごとく長火鉢や台所の卑しい人生の
葛藤を超越しているのだろうか。僕はまだ学校を卒業したばかりの経験しか
有たない青二才に過ぎないが、僕の知力と想像に訴えて考えたところでは、おそらくそんな偉い人高い人はいつの世にも存在していないのではなかろうか。僕は松本の叔父を尊敬している。けれども露骨なことを云えば、あの叔父のようなのは偉く見える人、高く見せる人と評すればそれで足りていると思う。僕は僕の敬愛する叔父に対しては
偽物贋物の名を加える非礼と
僻見とを
憚かりたい。が、事実上彼は世俗に
拘泥しない顔をして、腹の中で拘泥しているのである。小事に
齷齪しない手を
拱ぬいで、頭の奥で齷齪しているのである。外へ出さないだけが、普通より
品が好いと云って僕は讃辞を呈したく思っている。そうしてその外へ出さないのは財産の
御蔭、
年齢の御蔭、学問と見識と修養の御蔭である。が、最後に彼と彼の家庭の調子が程好く取れているからでもあり、彼と社会の関係が
逆なようで実は
順に行くからでもある。――話がつい横道へ
外れた。僕は僕のこせこせしたところを余り長く弁護し過ぎたかも知れない。
僕は今いう通り早く二階へ
上ってしまった。二階は日が近いので、
階下よりはよほど
凌ぎ
悪いのだけれども、平生いつけたせいで、僕は一日の大部分をここで暮らす事にしていたのである。僕はいつもの通り机の前に
坐ったなりただ
頬杖を突いてぼんやりしていた。今朝
煙草の灰を
棄てたマジョリカの灰皿が
綺麗に
掃除されて僕の
肱の前に
載せてあったのに気がついて、僕はその中に現わされた二羽の
鵞鳥を
[#「鵞鳥を」は底本では「鷲鳥を」]眺めながら、その灰を
空けた
作の手を想像に
描いた。すると下から
梯子段を踏む音がして誰か上って来た。僕はその足音を聞くや否や、すぐそれが作でない事を知った。僕はこうぼんやり屈托しているところを千代子に見られるのを屈辱のように感じた。同時に
傍にあった書物を開けて、
先刻から読んでいたふりをするほど器用な機転を用いるのを好まなかった。
「
結えたから見てちょうだい」
僕は僕の前にすぐこう云いながら坐る彼女を見た。
「おかしいでしょう。久しく結わないから」
「大変美くしくできたよ。これからいつでも島田に
結うといい」
「二三度
壊しちゃ結い、壊しちゃ結いしないといけないのよ。毛が
馴染まなくって」
こんな事を聞いたり答えたり三四
返しているうちに、僕はいつの間にか昔と同じように美くしい素直な邪気のない千代子を眼の前に見る気がし出した。僕の心持が何かの調子で
和らげられたのか、千代子の僕に対する態度がどこかで角度を改ためたのか、それは
判然と云い
悪い。こうだと説明のできる
捕どころは両方になかったらしく記憶している。もしこの
気易い状態が一二時間も長く続いたなら、あるいは僕の彼女に対して
抱いた変な疑惑を、過去に
溯ぼって当初から
真直に黒い棒で誤解という名の
下に消し去る事ができたかも知れない。ところが僕はつい
不味い事をしたのである。
それはほかでもない。しばらく千代子と話しているうちに、彼女が単に頭を見せに
上って来たばかりでなく、今日これから鎌倉へ帰るので、そのさようならを云いにちょっと顔を出したのだと云う事を知った時、僕はつい用意の足りない
躓ずき方をしたのである。
「早いね。もう帰るのかい」と僕が云った。
「早かないわ、もう一晩泊ったんだから。だけどこんな頭をして帰ると何だかおかしいわね、御嫁にでも行くようで」と千代子が云った。
「まだみんな鎌倉にいるのかい」と僕が聞いた。
「ええ。なぜ」と千代子が聞き返した。
「高木さんも」と僕がまた聞いた。
高木という名前は今まで千代子も口にせず、僕も話頭に
上すのをわざと
憚かっていたのである。が、何かの
機会で、
平生通りの打ち解けた遠慮のない気分が復活したので、その中に引き込まれた矢先、つい何の気もつかずに使ってしまったのである。僕はふらふらとこの問をかけて彼女の顔を見た時たちまち後悔した。
僕が煮え切らないまた
捌けない男として彼女から一種の
軽蔑を受けている事は、僕のとうに話した通りで、実を云えば二人の交際はこの黙許を認め合った上の親しみに過ぎなかった。その代り千代子が常に
畏れる点を、
幸にして僕はただ一つ
有っていた。それは僕の無口である。彼女のように万事明けっ放しに腹を見せなければ気のすまない者から云うと、いつでも、しんねりむっつりと構えている僕などの態度は、けっして気に入るはずがないのだが、そこにまた妙な
見透かせない心の存在が
仄めくので、彼女は昔から僕を全然知り抜く事のできない、したがって軽蔑しながらもどこかに恐ろしいところを有った男として、ある意味の尊敬を払っていたのである。これは
公けにこそ明言しないが、向うでも腹の底で正式に認めるし、僕も
冥々のうちに彼女から僕の権利として要求していた事実である。
ところが偶然高木の名前を口にした時、僕はたちまちこの尊敬を永久千代子に奪い返されたような心持がした。と云うのは、「高木さんも」という僕の問を聞いた千代子の表情が急に変化したのである。僕はそれを
強ちに勝利の表情とは認めたくない。けれども彼女の眼のうちに、今まで僕がいまだかつて彼女に見出した試しのない、一種の
侮蔑が輝やいたのは疑いもない事実であった。僕は予期しない瞬間に、
平手で
横面を力任せに打たれた人のごとくにぴたりと
止まった。
「あなたそれほど高木さんの事が気になるの」
彼女はこう云って、僕が両手で耳を
抑えたいくらいな高笑いをした。僕はその時鋭どい侮辱を感じた。けれどもとっさの場合何という返事も出し得なかった。
「あなたは
卑怯だ」と彼女が次に云った。この突然な形容詞にも僕は全く驚ろかされた。僕は、御前こそ卑怯だ、呼ばないでもの所へわざわざ人を呼びつけて、と云ってやりたかった。けれども年弱な女に対して、向うと同じ程度の激語を使うのはまだ早過ぎると思って我慢した。千代子もそれなり黙った。僕はようやくにして「なぜ」というわずか二字の問をかけた。すると千代子の濃い
眉が動いた。彼女は、僕自身で僕の卑怯な意味を充分自覚していながら、たまたま
他の指摘を受けると、自分の弱点を相手に隠すために、
取り
繕ろって
空っとぼけるものとこの問を解釈したらしい。
「なぜって、あなた自分でよく解ってるじゃありませんか」
「解らないから聞かしておくれ」と僕が云った。僕は
階下に母を控えているし、感情に訴える若い女の気質もよく
呑み込んだつもりでいたから、できるだけ相手の気を抜いて話を落ちつかせるために、その時の僕としては、ほとんど無理なほどの、低いかつ
緩い調子を取ったのであるが、それがかえって千代子の気に入らなかったと見える。
「それが解らなければあなた馬鹿よ」
僕はおそらく
平生より
蒼い顔をしたろうと思う。自分ではただ眼を千代子の上にじっと
据えた事だけを記憶している。その時何物も恐れない千代子の眼が、僕の視線と無言のうちに行き合って、両方共しばらくそこに
止まっていた事も記憶している。
「千代ちゃんのような
活溌な人から見たら、僕見たいに
引込思案なものは無論
卑怯なんだろう。僕は思った事をすぐ口へ出したり、またはそのまま
所作にあらわしたりする勇気のない、
極めて
因循な男なんだから。その点で卑怯だと云うなら云われても仕方がないが……」
「そんな事を誰が卑怯だと云うもんですか」
「しかし
軽蔑はしているだろう。僕はちゃんと知ってる」
「あなたこそあたしを軽蔑しているじゃありませんか。あたしの方がよっぽどよく知ってるわ」
僕はことさらに彼女のこの言葉を肯定する必要を認めなかったから、わざと返事を控えた。
「あなたはあたしを学問のない、
理窟の解らない、取るに足らない女だと思って、腹の中で馬鹿にし切ってるんです」
「それは御前が僕をぐずと
見縊ってるのと同じ事だよ。僕は御前から卑怯と云われても構わないつもりだが、いやしくも徳義上の意味で卑怯というなら、そりゃ御前の方が間違っている。僕は少なくとも千代ちゃんに関係ある事柄について、道徳上卑怯なふるまいをした
覚はないはずだ。ぐずとか煮え切らないとかいうべきところに、卑怯という言葉を使われては、何だか道義的勇気を欠いた――というより、徳義を解しない下劣な人物のように聞えてはなはだ心持が悪いから訂正して貰いたい。それとも今いった意味で、僕が何か千代ちゃんに対してすまない事でもしたのなら遠慮なく話して貰おう」
「じゃ卑怯の意味を話して上げます」と云って千代子は泣き出した。僕はこれまで千代子を自分より強い女と認めていた。けれども彼女の強さは単に
優しい一図から出た
女気の
凝り
塊りとのみ解釈していた。ところが今僕の前に現われた彼女は、ただ勝気に充ちただけの、世間にありふれた、俗っぽい婦人としか見えなかった。僕は心を動かすところなく、彼女の涙の間からいかなる説明が出るだろうと待ち設けた。彼女の
唇を
洩れるものは、自己の体面を飾る強弁よりほかに何もあるはずがないと、僕は固く信じていたからである。彼女は
濡れた
睫毛を二三度
繁叩いた。
「あなたはあたしを
御転婆の馬鹿だと思って
始終冷笑しているんです。あなたはあたしを……愛していないんです。つまりあなたはあたしと結婚なさる気が……」
「そりゃ千代ちゃんの方だって……」
「まあ御聞きなさい。そんな事は御互だと云うんでしょう。そんならそれで
宜うござんす。何も
貰って下さいとは云やしません。ただなぜ愛してもいず、細君にもしようと思っていないあたしに対して……」
彼女はここへ来て急に
口籠った。不敏な僕はその後へ何が出て来るのか、まだ
覚れなかった。「御前に対して」と
半ば彼女を
促がすように問をかけた。彼女は突然物を
衝き破った風に、「なぜ
嫉妬なさるんです」と云い切って、前よりは
劇しく泣き出した。僕はさっと血が顔に
上る時の
熱りを両方の
頬に感じた。彼女はほとんどそれを注意しないかのごとくに見えた。
「あなたは
卑怯です、徳義的に卑怯です。あたしが叔母さんとあなたを鎌倉へ招待した
料簡さえあなたはすでに
疑っていらっしゃる。それがすでに卑怯です。が、それは問題じゃありません。あなたは
他の招待に応じておきながら、なぜ
平生のように愉快にして下さる事ができないんです。あたしはあなたを招待したために恥を
掻いたも同じ事です。あなたはあたしの
宅の客に侮辱を与えた結果、あたしにも侮辱を与えています」
「侮辱を与えた覚はない」
「あります。言葉や仕打はどうでも構わないんです。あなたの態度が侮辱を与えているんです。態度が与えていないでも、あなたの心が与えているんです」
「そんな立ち入った批評を受ける義務は僕にないよ」
「男は卑怯だから、そう云う下らない
挨拶ができるんです。高木さんは紳士だからあなたを
容れる雅量がいくらでもあるのに、あなたは高木さんを容れる事がけっしてできない。卑怯だからです」
それから市蔵と千代子との間がどうなったか僕は知らない。別にどうもならないんだろう。少なくとも
傍で見ていると、二人の関係は昔から
今日に至るまで全く変らないようだ。二人に聞けばいろいろな事を云うだろうが、それはその時限りの気分に制せられて、まことしやかに前後に通じない
嘘を、永久の価値あるごとく話すのだと思えば間違ない。僕はそう信じている。
あの事件ならその当時僕も聞かされた。しかも両方から聞かされた。あれは誤解でも何でもない。両方でそう信じているので、そうしてその信じ方に両方とも無理がないのだから、
極めてもっともな衝突と云わなければならない。したがって夫婦になろうが、友達として暮らそうが、あの衝突だけはとうてい
免かれる事のできない、まあ二人の持って生れた、
因果と見るよりほかに仕方がなかろう。ところが不幸にも二人はある意味で密接に引きつけられている。しかもその引きつけられ方がまた
傍のものにどうする権威もない宿命の力で支配されているんだから恐ろしい。取り澄ました警句を用いると、彼らは離れるために合い、合うために離れると云った風の気の毒な
一対を形づくっている。こう云って君に解るかどうか知らないが、彼らが夫婦になると、不幸を
醸す目的で夫婦になったと同様の結果に
陥いるし、また夫婦にならないと不幸を続ける精神で夫婦にならないのと
択ぶところのない不満足を感ずるのである。だから二人の運命はただ
成行に任せて、自然の手で直接に発展させて
貰うのが一番上策だと思う。君だの僕だのが何のかのと
要らぬ世話を焼くのはかえって当人達のために好くあるまい。僕は知っての通り、市蔵から見ても千代子から見ても他人ではない。ことに
須永の姉からは、二人の身分について今まで頼まれたり相談を受けたりした
例は何度もある。けれども天の
手際で
旨く行かないものを、どうして僕の力で
纏める事ができよう。つまり姉は無理な夢を自分一人で見ているのである。
須永の姉も田口の姉も、僕と市蔵の性質が余りよく似ているので驚ろいている。僕自身もどうしてこんな変り者が親類に二人
揃ってできたのだろうかと考えては不思議に思う。須永の姉の
料簡では、市蔵の
今日は全く僕の感化を受けた結果に過ぎないと見ているらしい。僕が姉の気に入らない点をいくらでも
有っている内で、最も彼女を不愉快にするものは、不明なる僕のわが
甥に及ぼしたと認められているこの悪い影響である。僕は僕の市蔵に対する今日までの態度に
顧みて、この非難をもっともだと
肯ずる。それがために市蔵を田口家から疎隔したという不服もついでに承認して
差支ない。ただ彼ら姉二人が僕と市蔵とを、同じ型からでき上った
偏窟人のように
見傚して、同じ
眉を僕らの上に等しく
顰めるのは疑もなく誤っている。
市蔵という男は世の中と接触するたびに内へとぐろを
捲き込む
性質である。だから一つ
刺戟を受けると、その刺戟がそれからそれへと廻転して、だんだん深く細かく心の奥に喰い込んで行く。そうしてどこまで喰い込んで行っても際限を知らない同じ作用が連続して、彼を苦しめる。しまいにはどうかしてこの内面の活動から
逃れたいと祈るくらいに気を悩ますのだけれども、自分の力ではいかんともすべからざる
呪いのごとくに引っ張られて行く。そうしていつかこの努力のために
斃れなければならない、たった一人で斃れなければならないという
怖れを
抱くようになる。そうして
気狂のように疲れる。これが市蔵の
命根に
横わる一大不幸である。この不幸を転じて
幸とするには、内へ内へと向く彼の命の方向を逆にして、外へとぐろを
捲き出させるよりほかに仕方がない。外にある物を頭へ運び込むために眼を使う代りに、頭で外にある物を
眺める心持で眼を使うようにしなければならない。天下にたった一つで好いから、自分の心を奪い取るような偉いものか、美くしいものか、
優しいものか、を見出さなければならない。一口に云えば、もっと
浮気にならなければならない。市蔵は始め浮気を
軽蔑してかかった。今はその浮気を渇望している。彼は自己の幸福のために、どうかして
翩々たる軽薄才子になりたいと
心から神に念じているのである。軽薄に浮かれ得るよりほかに彼を救う
途は天下に一つもない事を、彼は、僕が彼に忠告する前に、すでに承知していた。けれども実行はいまだにできないでもがいている。
僕はこういう市蔵を仕立て上げた責任者として親類のものから
暗に
恨まれているが、僕自身もその点については
疚ましいところが大いにあるのだから仕方がない。僕はつまり性格に応じて人を導く
術を心得なかったのである。ただ自分の
好尚を移せるだけ市蔵の上に移せばそれで充分だという無分別から、勝手しだいに若いものの柔らかい精神を動かして来たのが、すべての
禍の
本になったらしい。僕がこの過失に気がついたのは今から二三年前である。しかし気がついた時はもう遅かった。僕はただなす能力のない手を
拱ぬいて、心の
中で嘆息しただけであった。
事実を
一言でいうと、僕の今やっているような生活は、僕に最も適当なので、市蔵にはけっして向かないのである。僕は本来から気の移りやすくでき上った、
極めて安価な批評をすれば、生れついての
浮気ものに過ぎない。僕の心は絶えず外に向って流れている。だから外部の
刺戟しだいでどうにでもなる。と云っただけではよく
腑に落ちないかも知れないが、市蔵は在来の社会を教育するために生れた男で、僕は通俗な世間から教育されに出た人間なのである。僕がこのくらい好い年をしながら、まだ大変若いところがあるのに引き
更えて、市蔵は高等学校時代からすでに老成していた。彼は社会を考える種に使うけれども、僕は社会の考えにこっちから乗り移って行くだけである。そこに彼の長所があり、かねて彼の不幸が
潜んでいる。そこに僕の短所があり、また僕の幸福が宿っている。僕は茶の湯をやれば静かな心持になり、
骨董を
捻くれば
寂びた心持になる。そのほか
寄席、芝居、
相撲、すべてその時々の心持になれる。その結果あまり眼前の事物に心を奪われ過ぎるので、自然に
己なき空疎な感に打たれざるを得ない。だからこんな超然生活を営んで強いて自我を押し立てようとするのである。ところが市蔵は自我よりほかに当初から何物を
有っていない男である。彼の欠点を補なう――というより、彼の不幸を切りつめる生活の径路は、ただ内に
潜り込まないで外に応ずるよりほかに仕方がないのである。しかるに彼を幸福にし得るその唯一の策を、僕は間接に彼から奪ってしまった。親類が
恨むのはもっともである。僕は本人から恨まれないのをまだしもの仕合せと思っているくらいである。
今からたしか一年ぐらい前の話だと思う。何しろ市蔵がまだ学校を出ない時の話だが、ある日偶然やって来て、ちょっと
挨拶をしたぎりすぐどこかへ見えなくなった事がある。その時僕はある人に頼まれて、書斎で日本の
活花の歴史を調べていた。僕は調べものの方に気を取られて、彼の顔を出した時、やあとただふり返っただけであったが、それでも彼の血色がはなはだ
勝れないのを苦にして、仕事の区切がつくや否や彼を探しに書斎を出た。彼は
妻とも仲が
善かったので、あるいは茶の間で話でもしている事かと思ったら、そこにも姿は見えなかった。妻に聞くと子供の部屋だろうというので、縁伝いに
戸を開けると、彼は咲子の机の前に
坐って、女の雑誌の口絵に出ている、ある美人の写真を眺めていた。その時彼は僕を
顧みて、今こういう美人を発見して、
先刻から十分ばかり相対しているところだと告げた。彼はその顔が眼の前にある間、頭の中の苦痛を忘れて
自から愉快になるのだそうである。僕はさっそくどこの何者の令嬢かと尋ねた。すると不思議にも彼は写真の下に書いてある女の名前をまだ読まずにいた。僕は彼を
迂闊だと云った。それほど気に入った顔ならなぜ名前から先に頭に入れないかと尋ねた。時と場合によれば、細君として申し受ける事も不可能でないと僕は思ったからである。しかるに彼はまた何の必要があって姓名や住所を記憶するかと云った風の
眼使をして僕の注意を怪しんだ。
つまり僕は
飽くまでも写真を実物の代表として
眺め、彼は写真をただの写真として眺めていたのである。もし写真の背後に、本当の位置や身分や教育や性情がつけ加わって、紙の上の肖像を
活かしにかかったなら、彼はかえって気に入ったその顔まで
併せて打ち棄ててしまったかも知れない。これが市蔵の僕と根本的に違うところである。
市蔵の卒業する二三カ月前、たしか去年の四月頃だったろうと思う。僕は彼の母から彼の結婚に関して、今までにない長時間の相談を受けた。姉の意思は
固より田口の姉娘を彼の嫁として迎えたいという単純にしてかつ
頑固なものであった。僕は女に
理窟を聞かせるのを、男の恥のように思う癖があるので、むずかしい事はなるべく控えたが、何しろこういう問題について、できるだけ本人の自由を許さないのは親の義務に
背くのも同然だという意味を、昔風の彼女の
腑に落ちるように砕いて説明した。姉は御承知の通り極めて
穏やかな女ではあるが、いざとなると同じ意見を何度でもくり返して
憚からない婦人に共通な特性を一人前以上に
具えていた。僕は彼女の
執拗を
悪むよりは、その根気の
好過ぎるところにかえって妙な
憐れみを
催した。それで、今親類中に、市蔵の尊敬しているものは僕よりほかにないのだから、ともかくも一遍呼び寄せてとくと話して見てくれぬかという彼女の
請を快よく引受けた。
僕がこの目的を
果すために市蔵とこの座敷で会見を
遂げたのは、それから四日目の日曜の朝だと記憶する。彼は卒業試験間近の多忙を目の前に控えながら座に着いて、何試験なんかどうなったって構やしませんがと苦笑した。彼の説明によると、かねてその話は彼の母から何度も聞かされて、何度も決答をくり延ばした
陳腐なものであった。もっとも彼のそれに対する態度は、問題の陳腐と反比例にすこぶる切なさそうに見えた。彼は最後に母から
口説かれた時、卒業の上、どうとも解決するから、それまで待って
呉れろと母に頼んでおいたのだそうである。それをまだ試験も済まない先から僕に呼びつけられたので、多少迷惑らしく見えたばかりか、年寄は気が短かくって困ると言葉に出してまで訴えた。僕ももっともだと思った。
僕の推測では、彼が学校を出るまでとかくの決答を延ばしたのは、そのうちに千代子の縁談が、自分よりは適当な候補者の上に
纏いつくに違ないと
勘定して、直接に母を失望させる代りに、周囲の事情が母の意思を
翻えさせるため自然と彼女に圧迫を加えて来るのを待つ一種の逃避手段に過ぎないと思われた。僕は市蔵にそうじゃ無いかと聞いた。市蔵はそうだと答えた。僕は彼にどうしても母を満足させる気はないかと尋ねた。彼は何事によらず母を満足させたいのは山々であると答えた。けれども千代子を
貰おうとはけっして云わなかった。意地ずくで貰わないのかと聞いたら、あるいはそうかも知れないと云い切った。もし田口がやっても好いと云い、千代子が来ても好いと云ったらどうだと念を押したら、市蔵は返事をしずに黙って僕の顔を
眺めていた。僕は彼のこの顔を見ると、けっして話を先へ進める気になれないのである。
畏怖というと
仰山すぎるし、同情というとまるで
憐れっぽく聞こえるし、この顔から受ける僕の心持は、何と云っていいかほとんど分らないが、永久に相手を
諦らめてしまわなければならない絶望に、ある
凄味と
優し
味をつけ加えた特殊の表情であった。
市蔵はしばらくして自分はなぜこう人に
嫌われるんだろうと突然意外な述懐をした。僕はその時ならないのと平生の市蔵に似合しからないのとで驚ろかされた。なぜそんな
愚痴を
零すのかと
窘なめるような調子で反問を加えた。
「愚痴じゃありません。事実だから云うのです」
「じゃ誰が御前を嫌っているかい」
「現にそういう叔父さんからして僕を嫌っているじゃありませんか」
僕は再び驚ろかされた。あまり不思議だから二三度押問答の末推測して見ると、僕が彼に特有な一種の表情に支配されて話の進行を停止した時の態度を、全然彼に対する
嫌悪の念から出たと受けているらしかった。僕は極力彼の誤解を打破しに掛った。
「おれが何で御前を
悪む必要があるかね。子供の時からの関係でも知れているじゃないか。馬鹿を云いなさんな」
市蔵は叱られて激した様子もなくますます
蒼い顔をして僕を見つめた。僕は
燐火の前に
坐っているような心持がした。
「おれは御前の叔父だよ。どこの国に
甥を
憎む叔父があるかい」
市蔵はこの言葉を聞くや否やたちまち薄い
唇を
反らして
淋しく笑った。僕はその淋しみの裏に、奥深い軽侮の色を
透し見た。自白するが、彼は理解の上において僕よりも
優れた頭の所有者である。僕は百もそれを承知でいた。だから彼と接触するときには、彼から馬鹿にされるような
愚をなるべく慎んで外に出さない用心を
怠らなかった。けれども時々は、つい年長者の
傲る心から、親しみの強い彼を
眼下に
見下して、浅薄と
心付ながら、その場限りの無意味にもったいをつけた訓戒などを与える折も無いではなかった。
賢こい彼は僕に恥を
掻かせるために、自分の優越を利用するほど、品位を欠いた
所作をあえてし得ないのではあるが、僕の方ではその
都度彼に対するこっちの相場が下落して行くような屈辱を感ずるのが例であった。僕はすぐ自分の言葉を訂正しにかかった。
「そりゃ広い世の中だから、
敵同志の親子もあるだろうし、命を
危め合う夫婦もいないとは限らないさ。しかしまあ一般に云えば、兄弟とか叔父甥とかの名で
繋がっている以上は、繋がっているだけの親しみはどこかにあろうじゃないか。御前は相応の教育もあり、相応の頭もある癖に、何だか妙に一種の
僻みがあるよ。それが御前の弱点だ。是非直さなくっちゃいけない。
傍から見ていても不愉快だ」
「だから叔父さんまで
嫌っていると云うのです」
僕は返事に窮した。自分で気のつかない自分の矛盾を今市蔵から指摘されたような心持もした。
「僻みさえさらりと
棄ててしまえば何でもないじゃないか」と僕はさも事もなげに云って
退けた。
「僕に
僻があるでしょうか」と市蔵は落ちついて聞いた。
「あるよ」と僕は考えずに答えた。
「どういうところが僻んでいるでしょう。
判然聞かして下さい」
「どういうところがって、――あるよ。あるからあると云うんだよ」
「じゃそういう弱点があるとして、その弱点はどこから出たんでしょう」
「そりゃ自分の事だから、少し自分で考えて見たらよかろう」
「あなたは不親切だ」と市蔵が思い切った沈痛な調子で云った。僕はまずその調子に
度を失った。次に彼の眼の色を見て
萎縮した。その眼はいかにも
恨めしそうに僕の顔を見つめていた。僕は彼の前に
一言の
挨拶さえする勇気を振い起し得なかった。
「僕はあなたに云われない先から考えていたのです。おっしゃるまでもなく自分の事だから考えていたのです。誰も教えてくれ手がないから
独りで考えていたのです。僕は毎日毎夜考えました。余り考え過ぎて頭も
身体も続かなくなるまで考えたのです。それでも分らないからあなたに聞いたのです。あなたは自分から僕の叔父だと明言していらっしゃる。それで叔父だから他人より親切だと云われる。しかし今の御言葉はあなたの口から出たにもかかわらず、他人より冷刻なものとしか僕には聞こえませんでした」
僕は
頬を伝わって流れる彼の涙を見た。幼少の時から
馴染んで
今日に及んだ彼と僕との間に、こんな
光景はいまだかつて一回も起らなかった事を僕は君に明言しておきたい。したがってこの
昂奮した青年をどう取り扱っていいかの心得が、僕にまるで無かった事もついでに断っておきたい。僕はただ
茫然として手を
拱ぬいていた。市蔵はまた僕の態度などを眼中において、自分の言葉を調節する余裕を
有たなかった。
「僕は僻んでいるでしょうか。たしかに僻んでいるでしょう。あなたがおっしゃらないでも、よく知っているつもりです。僕は僻んでいます。僕はあなたからそんな注意を受けないでも、よく知っています。僕はただどうしてこうなったかその訳が知りたいのです。いいえ母でも、田口の叔母でも、あなたでも、みんなよくその訳を知っているのです。ただ僕だけが知らないのです。ただ僕だけに知らせないのです。僕は世の中の人間の
中であなたを一番信用しているから聞いたのです。あなたはそれを残酷に拒絶した。僕はこれから
生涯の敵としてあなたを
呪います」
市蔵は立ち上った。僕はそのとっさの際に決心をした。そうして彼を呼びとめた。
僕はかつてある学者の講演を聞いた事がある。その学者は現代の日本の開化を解剖して、かかる開化の影響を受けるわれらは、
上滑りにならなければ必ず神経衰弱に
陥いるにきまっているという理由を、
臆面なく聴衆の前に
曝露した。そうして物の真相は知らぬ内こそ知りたいものだが、いざ知ったとなると、かえって知らぬが
仏ですましていた昔が
羨ましくって、今の自分を後悔する場合も少なくはない、私の結論などもあるいはそれに似たものかも知れませんと苦笑して壇を
退ぞいた。僕はその時市蔵の事を思い出して、こういう
苦い真理を
承わらなければならない我々日本人も随分気の毒なものだが、彼のようにたった一人の秘密を、
攫もうとしては恐れ、恐れてはまた攫もうとする青年は一層
見惨に違あるまいと考えながら、腹の中で暗に同情の涙を彼のために
濺いだ。
これは単に僕の一族内の事で、君とは全く利害の交渉を
有たない話だから、君が市蔵のためにせっかく心配してくれた親切に対する前からの
行がかりさえなければ、打ち明けないはずだったが、実を云うと、市蔵の太陽は彼の生れた日からすでに曇っているのである。
僕は誰にでも明言して
憚からない通り、いっさいの秘密はそれを開放した時始めて自然に
復る
落着を見る事ができるという主義を
抱いているので、穏便とか現状維持とかいう言葉には一般の人ほど重きを置いていない。したがって
今日までに自分から進んで、市蔵の運命を生れた当時に
溯って、逆に照らしてやらなかったのは僕としてはむしろ不思議な手落と云ってもいいくらいである。今考えて見ると、僕が市蔵に呪われる
間際まで、なぜこの事件を秘密にしていたものか、その意味がほとんど分らない。僕はこの秘密に風を入れたところで、彼ら
母子の間柄が悪くなろうとは夢にも想像し得なかったからである。
市蔵の太陽は彼の生れた日からすでに曇っていたという僕の言葉の裏に、どんな事実が含まれているかは、彼と
交りの深い君の耳で聞いたら、すでに具体的な響となって解っているかも知れない。
一口でいうと、彼らは本当の母子ではないのである。なお誤解のないように
一言つけ加えると、本当の母子よりも
遥かに仲の好い
継母と
継子なのである。彼らは血を分けて始めて成立する通俗な親子関係を
軽蔑しても
差支ないくらい、情愛の糸で離れられないように、自然からしっかり
括りつけられている。どんな魔の振る
斧の
刃でもこの糸を絶ち切る訳に行かないのだから、どんな秘密を打ち明けても
怖がる必要はさらにないのである。それだのに姉は非常に恐れていた。市蔵も非常に恐れていた。姉は秘密を手に握ったまま、市蔵は秘密を手に握らせられるだろうと待ち受けたまま、二人して非常に恐れていた。僕はとうとう彼の恐れるものの正体を取り出して、彼の前に他意なく並べてやったのである。
僕はその時の問答を一々くり返して今君に告げる勇気に乏しい。僕には
固よりそれほどの大事件とも始から見えず、またなるべく平気を装う必要から、つまり何でもない事のように話したのだが、市蔵はそれを命がけの報知として、必死の緊張の
下に受けたからである。ただ前の続きとして、事実だけを一口に
約めて云うと、彼は姉の子でなくって、小間使の腹から生れたのである。僕自身の家に起った事でない上に、二十五年以上も
経った昔の話だから、僕も詳しい
顛末は知ろうはずがないが、何しろその小間使が須永の種を宿した時、姉は相当の金をやって彼女に暇を取らしたのだそうである。それから宿へ
下った妊婦が男の子を生んだという報知を待って、また子供だけ引き取って
表向自分の子として養育したのだそうである。これは姉が須永に対する義理からでもあろうが、一つは自分に子のできないのを苦にしていた矢先だから、本気に吾子として
愛しむ考も無論手伝ったに違ない。実際彼らは君の見るごとく、また
吾々の見るごとく、最も親しい親子として
今日まで発展して来たのだから、御互に事情を
明し合ったところで
毫も
差支の起る訳がない。僕に云わせると、世間にありがちな
反の
合ない本当の親子よりもどのくらい肩身が広いか分りゃしない。二人だって、そうと知った上で、今までの
睦まじさを回顧した時の方が、どんなに愉快が多いだろう。少なくとも僕ならそうだ。それで僕は市蔵のために特にこの美くしい点を力のあらん限り
彩る事を
怠らなかった。
「おれはそう思うんだ。だから少しも隠す必要を認めていない。御前だって健全な精神を持っているなら、おれと同じように思うべきはずじゃないか。もしそう思う事ができないというなら、それがすなわち御前の
僻みだ。解ったかな」
「解りました。
善く解りました」と市蔵が答えた。僕は「解ったらそれで好い、もうその問題についてかれこれというのは
止しにしようよ」と云った。
「もう止します。もうけっしてこの事について、あなたを
煩らわす日は来ないでしょう。なるほどあなたのおっしゃる通り僕は僻んだ解釈ばかりしていたのです。僕はあなたの御話を聞くまでは非常に
怖かったです。胸の肉が
縮まるほど怖かったです。けれども御話を聞いてすべてが明白になったら、かえって安心して気が楽になりました。もう怖い事も不安な事もありません。その代り何だか急に心細くなりました。
淋しいです。世の中にたった一人立っているような気がします」
「だって御母さんは元の通りの御母さんなんだよ。おれだって今までのおれだよ。誰も御前に対して変るものはありゃしないんだよ。神経を起しちゃいけない」
「神経は起さなくっても淋しいんだから仕方がありません。僕はこれから
宅へ帰って母の顔を見るときっと泣くにきまっています。今からその時の涙を予想しても
淋しくってたまりません」
「御母さんには黙っている方がよかろう」
「無論話しゃしません。話したら母がどんな苦しい顔をするか分りません」
二人は
黙然として相対した。僕は
手持無沙汰に
煙草盆の
灰吹を叩いた。市蔵はうつむいて
袴の
膝を見つめていた。やがて彼は
淋しい顔を上げた。
「もう一つ伺っておきたい事がありますが、聞いて下さいますか」
「おれの知っている事なら何でも話して上げる」
「僕を生んだ母は今どこにいるんです」
彼の実の母は、彼を生むと間もなく死んでしまったのである。それは産後の
肥立が悪かったせいだとも云い、または別の
病だとも聞いているが、これも詳しい話をしてやるほどの材料に欠乏した僕の記憶では、とうてい
餓えた彼の眼を静めるに足りなかった。彼の
生母の最後の運命に関する僕の話は、わずか二三分で尽きてしまった。彼は
遺憾な顔をして彼女の名前を聞いた。
幸にして僕は
御弓という古風な名を忘れずにいた。彼は次に死んだ時の彼女の
年齢を問うた。僕はその点に関して、何という
確とした知識を
有っていなかった。彼は最後に、彼の
宅に奉公していた時分の彼女に会った事があるかと尋ねた。僕はあると答えた。彼はどんな女だと聞き返した。気の毒にも僕の記憶はすこぶる
朦朧としていた。事実僕はその当時十五六の少年に過ぎなかったのである。
「何でも島田に
結ってた事がある」
このくらいよりほかに要領を得た返事は一つもできないので、僕もはなはだ残念に思った。市蔵はようやく
諦らめたという眼つきをして、一番しまいに、「じゃせめて寺だけ教えてくれませんか。母がどこへ
埋っているんだか、それだけでも知っておきたいと思いますから」と云った。けれども御弓の
菩提所を僕が知ろうはずがなかった。僕は
呻吟しながら、
已を得なければ姉に聞くよりほかに仕方あるまいと答えた。
「御母さんよりほかに知ってるものは無いでしょうか」
「まああるまいね」
「じゃ分らないでもよござんす」
僕は市蔵に対して気の毒なようなまたすまないような心持がした。彼はしばらく庭の方を向いて、
麗かな
日脚の中に咲く大きな
椿を
眺めていたが、やがて視線をもとに戻した。
「御母さんが是非千代ちゃんを貰えというのも、やっぱり血統上の考えから、
身縁のものを僕の嫁にしたいという意味なんでしょうね」
「全くそこだ。ほかに何にもないんだ」
市蔵はそれでは貰おうとも云わなかった。僕もそれなら貰うかとも聞かなかった。
この会見は僕にとって美くしい経験の一つであった。双方で腹蔵なくすべてを打ち明け合う事ができたという点において、いまだに僕の貧しい過去を飾っている。相手の市蔵から見ても、あるいは生れて始めての
慰藉ではなかったかと思う。とにかく彼が帰ったあとの僕の頭には、善い
功徳を施こしたという愉快な感じが残ったのである。
「万事おれが引き受けてやるから心配しないがいい」
僕は彼を玄関に送り出しながら、最後にこういう言葉を彼の背に暖かくかけてやった。その代り姉に会見の結果を報告する時ははなはだまずかった。
已を得ないから、卒業して頭に暇さえできれば、はっきりどうにか片をつけると云っているから、それまで待つが好かろう、今かれこれ突っつくのは試験の邪魔になるだけだからと、姉が聞いても無理のないところで、ひとまず
宥めておいた。
僕は同時に事情を田口に話して、なるべく市蔵の卒業前に千代子の縁談が運ぶように
工夫した。委細を聞いた田口の口振は平生の通り如才なくかつ
無雑作であった。彼は僕の注意がなくっても、その辺は心得ているつもりだと答えた。
「けれども必竟は本人のために
嫁入けるんで、(そう申しちゃ角が立つが、)姉さんや市蔵の
便宜のために、千代子の結婚を無理にくり上げたり、くり延べたりする訳にも行かないものだから」
「ごもっともだ」と僕は承認せざるを得なかった。僕は元来田口家と親類並の
交際をしているにはいるが、その実彼らの娘の縁談に、進んで口を出したこともなければ、また向うから相談を受けた
例も
有たないのである。それで
今日まで千代子にどんな候補者があったのか、間接にさえほとんどその
噂を耳にしなかった。ただ前の年鎌倉の避暑地とかで市蔵が会って、気を悪くしたという高木だけは、市蔵からも千代子からも名前を教えられて覚えていた。僕は突然ながら田口にその男はどうなったかと尋ねた。田口は
愛嬌らしく笑って、高木は始めから候補者として打って出たのではないと告げた。けれども相当の身分と教育があって独身の男なら、誰でも候補者になり得る権利は有っているのだから、候補者でないとはけっして断言できないとも告げた。この
曖昧な男の事を僕はなお
委しく聞いて見て、彼が今
上海にいる事を確かめた。上海にいるけれどもいつ帰るか分らないという事も確かめた。彼と千代子との間柄はその後何らの発展も見ないが、信書の往復はいまだに絶えない、そうしてその信書はきっと
父母が眼を通した上で本人の手に落つるという条件つきの往復であるという事まで確めた。僕は一も二もなく、千代子には
其男が好いじゃないかと云った。田口はまだどこかに慾があるのか、または別に
考を有っているのか、そうするつもりだとは明言しなかった。高木のいかなる人物かをまるで解しない僕が、それ以上勧める権利もないから、僕はついそのままにして引き取った。
僕と市蔵はその後久しく会わなかった。久しくと云ったところでわずか一カ月半ばかりの時日に過ぎないのだが、僕には卒業試験を眼の前に控えながら、家庭問題に
屈托しなければならない彼の事が非常に気にかかった。僕はそっと姉を
訪ねてそれとなく彼の近況を探って見た。姉は平気で、何でもだいぶ忙がしそうだよ、卒業するんだからそのはずさねと云って澄ましていた。僕はそれでも不安心だったから、ある日一時間の
夕を僕と会食するために
割かせて、彼の家の近所の洋食店で共に
晩餐を食いながら、ひそかに彼の様子を
窺った。彼は平生の通り落ちついていた。なに試験なんかどうにかこうにかやっつけまさあと受合ったところに、
満更の虚勢も見えなかった。大丈夫かいと念を押した時、彼は急に
情なそうな顔をして、人間の頭は思ったより堅固にできているもんですね、実は僕自身も
怖くってたまらないんですが、不思議にまだ壊れません、この様子ならまだ当分は使えるでしょうと云った。
冗談らしくもあり、また
真面目らしくもあるこの言葉が、妙に
憐れ深い感じを僕に与えた。
若葉の時節が過ぎて、
湯上りの
単衣の胸に、
団扇の風を入れたく思うある日、市蔵がまたふらりとやって来た。彼の顔を見るや
否や僕が第一にかけた言葉は、試験はどうだったいという一語であった。彼は
昨日ようやくすんだと答えた。そうして
明日からちょっと旅行して来るつもりだから
暇乞に来たと告げた。僕は成績もまだ分らないのに、遠く走る彼の心理状態を疑ってまた多少の不安を感じた。彼は京都附近から
須磨明石を経て、ことに
因ると、広島
辺まで行きたいという希望を述べた。僕はその旅行の比較的
大袈裟なのに驚ろいた。及第とさえきまっていればそれでも好かろうがと間接に不賛成の意を
仄めかして見ると、彼は試験の結果などには存外冷淡な
挨拶をした。そんな事に気を
遣う叔父さんこそ平生にも似合わしからんじゃありませんかと云って、ほとんど相手にならなかった。話しているうちに、僕は彼の思い
立が及落の成績に関係のない別方面の動機から
萌しているという事を発見した。
「実はあの事件以来妙に頭を使うので、近頃では落ちついて書斎に
坐っている事が困難になりましてね。どうしても旅行が必要なんですから、まあ試験を中途で
已めなかったのが感心だぐらいに
賞めて許して下さい」
「そりゃ御前の金で御前の行きたい所へ行くのだから少しも
差支はないさ。考えて見れば少しは飛び歩いて気を換えるのも好かろう。行って来るがいい」
「ええ」と云って市蔵はやや満足らしい顔をしたが、「実は大きな声で話すのも気の毒でもったいないんですが、叔父さんにあの話を聞いてから以後は、母の顔を見るたんびに、変な心持になってたまらないんです」とつけ足した。
「不愉快になるのか」と僕はむしろ
厳かに聞いた。
「いいえ、ただ気の毒なんです。始めは
淋しくって仕方がなかったのが、だんだんだんだん気の毒に変化して来たのです。実はここだけの話ですけれども、近頃では母の顔を朝夕見るのが苦痛なんです。
今度の旅行だって、かねてから卒業したら母に京大阪と宮島を見物させてやりたいと思っていたのだから、昔の僕なら
供をする気で
留守を叔父さんにでも頼みに出かけて来るところなんですが、今云ったような訳で、関係がまるで逆になったもんだから、少しでも母の
傍を離れたらという気ばかりして」
「困るね、そう変になっちゃあ」
「僕は離れたらまたきっと母が恋しくなるだろうと思うんですが、どうでしょう。そう
旨くはいかないもんでしょうか」
市蔵はさも
懸念らしくこういう問をかけた。彼より経験に富んだ年長者をもって自任する僕にも、この点に関する彼の未来はほとんど想像できなかった。僕はただ自分に信念がなくって、わが心の事を
他に尋ねて安心したいと願う彼の胸の
裏を
憐れに思った。
上部はいかにも優しそうに見えて、実際は
極めて意地の強くでき上った彼が、こんな弱い
音を出すのは、ほとんど
例のない事だったからである。僕は僕の力の及ぶ限り彼の心に保証を与えた。
「そんな心配はするだけ損だよ。おれが受合ってやる。大丈夫だから遊んで来るが
好い。御前の御母さんはおれの姉だ。しかもおれよりも学問をしないだけに、よほど純良にできている、誰からも敬愛されべき婦人だ。あの姉と君のような情愛のある子がどうして離れっ切りに離れられるものか。大丈夫だから安心するが好い」
市蔵は僕の言葉を聞いて実際安心したらしく見えた。僕もやや安心した。けれども一方では、このくらい根のない
慰藉の言葉が、
明晰な頭脳を
有った市蔵に、これほどの影響を与えたとすれば、それは彼の神経がどこか調子を失なっているためではなかろうかという疑も起った。僕は突然極端の出来事を予想して、一人身の旅行を危ぶみ始めた。
「おれもいっしょに行こうか」
「叔父さんといっしょじゃ」と市蔵が苦笑した。
「いけないかい」
「
平生ならこっちから誘っても行って貰いたいんだが、何しろいつどこへ立つんだか分らない、云わば気の向きしだい予定の狂う旅行だから御気の毒でね。それに僕の方でもあなたがいると束縛があって面白くないから……」
「じゃ
止そう」と僕はすぐ申し出を撤回した。
市蔵が帰った
後でも、しばらくは彼の事が変に気にかかった。暗い秘密を彼の頭に判で押した以上、それから出る一切の責任は、当然僕が
背負って立たなければならない気がしたからである。僕は姉に会って、彼女の様子を見もし、また市蔵の近況を聞きもしたくなった。茶の間にいた
妻を呼んで、相談かたがた
理由を話すと、存外物に驚ろかない妻は、あなたがあんまり余計なおしゃべりをなさるからですよと云って、始めはほとんど取り合わなかったが、しまいに、なんで
市さんに間違があるもんですか、市さんは年こそ若いが、あなたよりよっぽど分別のある人ですものと、
独りで受合っていた。
「すると市蔵の方で、かえっておれの事を心配している訳になるんだね」
「そうですとも、誰だってあなたの
懐手ばかりして、舶来のパイプを
銜えているところを見れば、心配になりますわ」
そのうち子供が学校から帰って来て、
家の中が急に
賑やかになったので、市蔵の事はつい忘れたぎり、夕方までとうとう思い出す暇がなかった。そこへ姉が自分の方から突然尋ねて来た時は、僕も覚えず
冷りとした。
姉はいつもの通り、家族の集まっている真中に坐って、
無沙汰の
詫やら、時候の
挨拶やらを長々しく
妻と交換していた。僕もそこに座を占めたまま動く機会を失った。
「市蔵が
明日から旅行するって云うじゃありませんか」と僕は好い加減な時分に聞き出した。
「それについてね……」と姉はやや
真面目になって僕の顔を見た。僕は姉の言葉を皆まで聞かずに、「なに行きたいなら行かしておやんなさい。試験で頭をさんざん使った
後だもの。少しは楽もさせないと
身体の毒になるから」とあたかも市蔵の行動を弁護するように云った。姉は
固より同じ意見だと答えた。ただ彼の健康状態が旅行に
堪えるかどうかを
気遣うだけだと告げた。最後に僕の見るところでは大丈夫なのかと聞いた。僕は大丈夫だと答えた。妻も大丈夫だと答えた。姉は安心というよりも、むしろ物足りない顔をした。僕は姉の使う健康という言葉が、身体に関係のない精神上の意味を
有っているに違ないと考えて、腹の中で一種の苦痛を感じた。姉は僕の顔つきから直覚的に影響を受けたらしい心細さを額に
刻んで、「
恒さん、
先刻市蔵がこちらへ上った時、何か様子の変ったところでもありゃしませんでしたかい」と聞いた。
「何そんな事があるもんですか。やっぱり普通の市蔵でさあ。ねえ
御仙」
「ええちっとも違っておいでじゃありません」
「わたしもそうかと思うけれども、何だかこの間から調子が変でね」
「どんななんです」
「どんなだと云われるとまた話しようもないんだが」
「全く試験のためだよ」と僕はすぐ打ち消した。
「姉さんの
神経ですよ」と妻も口を出した。
僕らは夫婦して姉を慰さめた。姉はしまいにやや
納得したらしい顔つきをして、みんなと
夕食を共にするまで話し込んだ。帰る時には散歩がてら、子供を連れて電車まで見送ったが、それでも気がすまないので、子供を先へ返して、断わる姉の
傍に席を取ったなり、とうとう彼女の家まで来た。
僕は幸い二階にいた市蔵を姉の前に呼び出した。御母さんが御前の事を大層心配してわざわざ
矢来まで来たから、今おれがいろいろに云ってようやく安心させたところだと告げた。したがって旅行に出すのは、つまり僕の責任なんだから、なるべく年寄に心配をかけないように、着いたら着いた所から、立つなら立つ所から、また
逗留するなら逗留する所から、必ず
音信を
怠たらないようにして、いつでも用ができしだいこっちから呼び返す事のできる注意をしたら好かろうと云った。市蔵はそのくらいの面倒なら僕に注意されるまでもなくすでに心得ていると答えて、彼の母の顔を見ながら微笑した。
僕はこれで幾分か姉の心を柔らげ得たものと信じて十一時頃また電車で矢来へ帰って来た。
僕を
迎に玄関に出た妻は、待ちかねたように、どうでしたと尋ねた。僕はまあ安心だろうよと答えた。実際僕は安心したような心持だったのである。で、
明る日は新橋へ見送りにも行かなかった。
約束の
音信は至る所からあった。
勘定すると大抵日に一本ぐらいの割になっている。その代り多くは旅先の
画端書に二三行の文句を書き込んだ簡略なものに過ぎなかった。僕はその端書が着くたびに、まず安心したという顔つきをして、
妻からよく笑われた。一度僕がこの様子なら大丈夫らしいね、どうも御前の予言の方が適中したらしいと云った時、妻は
愛想もなく、当り前ですわ、三面記事や小説見たような事が、
滅多にあってたまるもんですかと答えた。僕の妻は小説と三面記事とを同じ物のごとく
見傚す女であった。そうして両方とも
嘘と信じて疑わないほど
浪漫斯に縁の遠い女であった。
端書に満足した僕は、彼の封筒入の
書翰に接し出した時さらに
眉を開いた。というのは、僕の恐れを
抱いていた彼の手が、
陰欝な色に巻紙を染めた
痕迹が、そのどこにも見出せなかったからである。彼の状袋の中に巻き納めた文句が、彼の端書よりもいかに
鮮かに、彼の変化した気分を示しているかは、実際それを読んで見ないと分らない。ここに二三通取ってある。
彼の気分を変化するに
与かって効力のあったものは京都の空気だの宇治の水だのいろいろある中に、
上方地方の人の使う言葉が、東京に育った彼に取っては最も興味の多い
刺戟になったらしい。何遍もあの辺を通過した経験のあるものから云うと馬鹿げているが、市蔵の当時の神経にはああ云う
滑らかで静かな調子が、
鎮経剤以上に優しい影響を与え得たのではなかろうかと思う。なに若い女の? それは知らない。無論若い女の口から出れば
効目が多いだろう。市蔵も若い男の事だから、求めてそう云う所へ近づいたかも知れない。しかしここに書いてあるのは、不思議に御婆さんの例である。――
「僕はこの辺の人の言葉を聞くと
微かな酔に身を任せたような気分になります。ある人はべたついて
厭だと云いますが、僕はまるで反対です。厭なのは東京の言葉です。むやみに角度の多い
金米糖のような調子を得意になって出します。そうして
聴手の心を粗暴にして威張ります。僕は
昨日京都から大阪へ来ました。今日朝日新聞にいる友達を尋ねたら、その友人が
箕面という
紅葉の名所へ案内してくれました。時節が時節ですから、紅葉は無論見られませんでしたが、
渓川があって、山があって、山の行き当りに滝があって、大変好い所でした。友人は僕を休ませるために社の
倶楽部とかいう二階建の建物の中へ案内しました。そこへ
這入って見ると、幅の広い長い土間が、
竪に家の間口を貫ぬいていました。そうしてそれがことごとく
敷瓦で敷きつめられている模様が、何だか支那の御寺へでも行ったような沈んだ心持を僕に与えました。この家は何でも誰かが始め別荘に
拵えたのを、朝日新聞で買い取って倶楽部用にしたのだとか聞きましたが、よし別荘にせよ、
瓦を畳んで出来ている、この広々とした土間は何のためでしょう。僕はあまり妙だから友人に尋ねて見ました。ところが友人は知らんと云いました。もっともこれはどうでも構わない事です。ただ叔父さんがこう云う事に明らかだから、あるいは知っておいでかも知れないと思って、ちょっと
蛇足に書き添えただけです。僕の御報知したいのは実はこの広い土間ではなかったのです。土間の上に下りていた
御婆さんが問題だったのです。御婆さんは二人いました。一人は立って、一人は
椅子に腰をかけていました。ただし両方ともくりくり坊主です。その立っている方が、僕らが
這入るや
否や、友人の顔を見て
挨拶をしました。そうして『おや
御免やす。今八十六の御婆さんの頭を
剃っとるところだすよって。――御婆さんじっとしていなはれや、もう少しだけれ。――よう剃ったけれ毛は一本もありゃせんよって、何も恐ろしい事ありゃへん』と云いました。椅子に腰をかけた御婆さんは頭を
撫でて『大きに』と礼を述べました。友人は僕を
顧みて野趣があると笑いました。僕も笑いました。ただ笑っただけではありません。百年も昔の人に生れたような
暢気した心持がしました。僕はこういう心持を
御土産に東京へ持って帰りたいと思います」
僕も市蔵がこういう心持を、姉へ御土産として持って来てくれればいいがと思った。
次のは
明石から来たもので、前に比べると多少複雑なだけに、市蔵の性格をより
鮮やかに現わしている。
「今夜ここに来ました。月が出て庭は明らかですが、僕の部屋は影になってかえって暗い心持がします。飯を食って
煙草を呑んで海の方を
眺めていると、――海はつい庭先にあるのです。
漣さえ打たない静かな晩だから、
河縁とも池の
端とも片のつかない
渚の
景色なんですが、そこへ涼み船が一
艘流れて来ました。その船の
形好は夜でよく分らなかったけれども、幅の広い底の平たい、どうしても海に浮ぶものとは思えない
穏やかな形を
具えていました。屋根は確かあったように覚えます。その軒から画の具で染めた
提灯がいくつもぶら下がっていました。薄い光の奥には無論人が
坐っているようでした。三味線の音も聞こえました。けれども
惣体がいかにも落ちついて、
滑るように楽しんで僕の前を流れて行きました。僕は静かにその影を見送って、
御祖父さんの若い時分の話というのを思い出しました。叔父さんは
固より御存じでしょう、御祖父さんが昔の通人のした月見の
舟遊を実際にやった話を。僕は母から二三度聞かされた事があります。屋根船を
綾瀬川まで
漕ぎ
上せて、静かな月と静かな波の映り合う真中に立って、用意してある
銀扇を開いたまま、夜の光の遠くへ投げるのだと云うじゃありませんか。扇の
要がぐるぐる廻って、
地紙に塗った
銀泥をきらきらさせながら水に落ちる景色は定めてみごとだろうと思います。それもただの一本ならですが、船のものがそうがかりで、ひらひらする光を投げ
競う光景は想像しても
凄艶です。
御祖父さんは
銅壺の中に酒をいっぱい入れて、その酒で
徳利の
燗をした
後をことごとく
棄てさしたほどの
豪奢な人だと云うから、銀扇の百本ぐらい一度に水に流しても平気なのでしょう。そう云えば、遺伝だか何だか、叔父さんにも貧乏な割にはと云っては失礼ですが、どこかに
贅沢なところがあるようですし、あんな内気な母にも、妙に陽気な事の好きな方面が昔から見えていました。ただ僕だけは、――こういうとまたあの問題を持ち出したなと
早合点なさるかも知れませんが、僕はもうあの事について叔父さんの心配なさるほど
屈托していないつもりですから安心して下さい。ただ僕だけはと断るのはけっして
苦い意味で云うのではありません。僕はこの点において、叔父さんとも母とも生れつき違っていると申したいのです。僕は比較的楽に育った、物質的に幸福な子だから、贅沢と知らずに贅沢をして平気でいました。着物などでも、母の注意で、人前へ出て恥かしくないようなものを身に着けながら、これが当然だと澄ましていました。けれどもそれは永く習慣に養われた結果、自分で知らない不明から出るので、一度そこに気がつくと、急に不安になります。着物や食事はまあどうでもいいとして、僕はこの間ある富豪のむやみに金を使う様子を聞いて恐ろしくなった事があります。その男は芸者は
幇間を大勢集めて、
鞄の中から出した
札の
束を、その前でずたずたに裂いて、それを
御祝儀とか
称えて、みんなにやるのだそうです。それから立派な着物を着た
[#「着た」は底本では「来た」]まま湯に
這入って、あとは
三助にくれるのだそうです。彼の乱行はまだたくさんありましたが、いずれも天を恐れない暴慢
極まるもののみでした。僕はその話を聞いた時無論彼を
悪みました。けれども気概に乏しい僕は、悪むよりもむしろ恐れました。僕から彼の
所行を見ると、強盗が
白刃の抜身を畳に突き立てて良民を
脅迫しているのと同じような感じになるのです。僕は実に天とか、人道とか、もしくは神仏とかに対して申し訳がないという、真正に宗教的な意味において恐れたのです。僕はこれほど臆病な人間なのです。
驕奢に近づかない先から、驕奢の絶頂に達して
躍り狂う人の、一転化の
後を想像して、
怖くてたまらないのであります。――僕はこんな事を考えて、静かな波の上を流れて行く涼み船を見送りながら、このくらいな程度の慰さみが人間としてちょうど手頃なんだろうと思いました。僕も叔父さんから注意されたように、だんだん
浮気になって行きます。
賞めて下さい。月の差す二階の客は、神戸から遊びに来たとかで、僕の
厭な東京語ばかり使って、折々詩吟などをやります。その中に
艶めかしい女の声も
交っていましたが、二三十分前から急におとなしくなりました。下女に聞いたらもう神戸へ帰ったのだそうです。夜もだいぶ
更けましたから、僕も休みます」
「
昨夕も手紙を書きましたが、今日もまた
今朝以来の出来事を御報知します。こう続けて叔父さんにばかり手紙を上げたら、叔父さんはきっと皮肉な薄笑いをして、あいつどこへも
文をやる所がないものだから、
已を得ず姉と
己に対してだけ、時間を
費やして
音信を
怠らないんだと、腹の中で云うでしょう。僕も筆を
執りながら、ちょっとそう云う考えを起しました。しかし僕にもしそんな愛人ができたら、叔父さんはたとい僕から手紙を
貰わないでも、喜こんで下さるでしょう。僕も叔父さんに音信を怠っても、その方が幸福だと思います。実は今朝起きて二階へ
上って海を
見下していると、そういう幸福な二人連が、
磯通いに西の方へ行きました。これはことによると僕と同じ宿に泊っている御客かも知れません。女がクリーム色の
洋傘を
翳して、素足に着物の
裾を少し
捲りながら、浅い波の中を、男と並んで行く
後姿を、僕は
羨ましそうに
眺めたのです。波は非常に澄んでいるから高い所から見下すと、
陸に近いあたりなどは、日の照る空気の中と変りなく何でも
透いて見えます。泳いでいる
海月さえ
判切見えます。宿の客が二人出て来て泳ぎ廻っていますが、彼らの水中でやる
所作が、一挙一動ことごとく手に取るように見えるので、芸としての水泳の価値が、だいぶ下落するようです。(午前七時半)」
「今度は西洋人が一人水に
浸っています。あとから若い女が出て来ました。その女が波の中に立って、二階に残っているもう一人の西洋人を呼びます。『ユー、カム、ヒヤ』と云って英語を使います。『イット、イズ、ヴェリ、ナイス、イン、ウォーター』と云うような事をしきりに申します。その英語はなかなか達者で
流暢で
羨ましいくらい
旨く出ます。僕はとても及ばないと思って感心して聞いていました。けれども英語の達者なこの女から呼ばれた西洋人はなかなか下りて来ませんでした。女は泳げないんだか、泳ぎたくないんだか、胸から下を水に
浸けたまま波の中に立っていました。すると先へ下りた方の西洋人が女の手を
執って、深い所へ連れて行こうとしました。女は身を
竦めるようにして
拒みました。西洋人はとうとう海の中で女を横に
抱きました。女の
跳ねて水を
蹴る音と、その笑いながら、きゃっきゃっ騒ぐ声が、遠方まで響きました。(午前十時)」
「今度は下の座敷に芸者を二人連れて泊っていた客が
端艇を
漕ぎに出て来ました。この端艇はどこから持って来たか分りませんが、
極めて小さいかつすこぶる危しいものです。客は漕いでやるからと云って、芸者を乗せようとしますが、芸者の方では
怖いからと断ってなかなか乗りません。しかしとうとう客の意の通りになりました。その時年の若い方が、わざわざ
喫驚して見せる
科が、よほど馬鹿らしゅうございました。端艇がそこいらを漕ぎ廻って帰って来ると、年上の芸者が、宿屋のすぐ裏に
繋いである和船に向って、船頭はん、その船
空いていまっかと、大きな声で聞きました。今度は和船の中に、
御馳走を入れて、また海の上に出る相談らしいのです。見ていると、芸者が宿の下女を使って、
麦酒だの水菓子だの三味線だのを船の中へ運び込ましておいて、しまいに自分達も乗りました。ところが
肝心の御客はよほど威勢のいい男で、
遥か向うの方にまだ端艇を漕ぎ廻していました。誰も乗せ手がなかったと見えて、今度は
黒裸の浦の子僧を一人
生捕っていました。芸者はあきれた顔をして、しばらくその方を眺めていましたが、やがて
根かぎりの大きな声で、
阿呆と呼びました。すると阿呆と呼ばれた客が端艇をこっちへ
漕ぎ戻して来ました。僕は面白い芸者でまた面白い客だと思いました。(午前十一時)」
「僕がこんなくだくだしい事を物珍らしそうに報道したら、叔父さんは
物数奇だと云って定めし苦笑なさるでしょう。しかしこれは旅行の御蔭で僕が改良した
証拠なのです。僕は自由な空気と共に往来する事を始めて覚えたのです。こんなつまらない話を一々書く面倒を
厭わなくなったのも、つまりは考えずに
観るからではないでしょうか。考えずに観るのが、今の僕には一番薬だと思います。わずかの旅行で、僕の神経だか性癖だかが直ったと云ったら、直り方があまり安っぽくって恥ずかしいくらいです。が、僕は今より十層倍も安っぽく母が僕を生んでくれた事を切望して
已まないのです。
白帆が雲のごとく
簇って
淡路島の前を通ります。反対の側の松山の上に
人丸の
社があるそうです。人丸という人はよく知りませんが、
閑があったらついでだから行って見ようと思います」
敬太郎の冒険は物語に始まって物語に終った。彼の知ろうとする世の中は最初遠くに見えた。近頃は眼の前に見える。けれども彼はついにその中に
這入って、何事も演じ得ない門外漢に似ていた。彼の役割は絶えず受話器を耳にして「世間」を聴く一種の
探訪に過ぎなかった。
彼は森本の口を通して放浪生活の断片を聞いた。けれどもその断片は
輪廓と表面から成る
極めて浅いものであった。したがって罪のない面白味を、野性の好奇心に
充ちた彼の頭に吹き込んだだけである。けれども彼の頭の中の
隙間が、
瓦斯に似た冒険
譚で
膨脹した奥に、彼は人間としての森本の
面影を、
夢現のごとく見る事を得た。そうして同じく人間としての彼に、知識以外の同情と反感を与えた。
彼は田口と云う実際家の口を通して、彼が社会をいかに
眺めているかを少し知った。同時に高等遊民と自称する松本という男からその人生観の一部を聞かされた。彼は親しい社会的関係によって
繋がれていながら、まるで毛色の
異なったこの二人の対照を胸に
据えて、幾分か
己れの世間的経験が広くなったような心持がした。けれどもその経験はただ広く面積の上において延びるだけで、深さはさほど増したとも思えなかった。
彼は千代子という
女性の口を通して幼児の死を聞いた。千代子によって
叙せられた「死」は、彼が世間並に想像したものと違って、美くしい
画を見るようなところに、彼の快感を
惹いた。けれどもその快感のうちには涙が交っていた。苦痛を
逃れるために
已を得ず流れるよりも、悲哀をできるだけ長く
抱いていたい意味から出る涙が
交っていた。彼は独身ものであった。小児に対する同情は極めて乏しかった。それでも美くしいものが美くしく死んで美くしく葬られるのは
憐れであった。彼は
雛祭の
宵に生れた女の子の運命を、あたかも御雛様のそれのごとく
可憐に聞いた。
彼は
須永の口から
一調子狂った
母子の関係を聞かされて驚ろいた。彼も国元に一人の母を
有つ身であった。けれども彼と彼の母との関係は、須永ほど親しくない代りに、須永ほどの
因果に
纏綿されていなかった。彼は自分が子である以上、親子の間を解し得たものと信じて疑わなかった。同時に親子の間は平凡なものと
諦らめていた。より込み入った親子は、たとえ想像が出来るにしても、いっこう腹にはこたえなかった。それが須永のために深く掘り下げられたような気がした。
彼はまた須永から彼と千代子との間柄を聞いた。そうして彼らは
必竟夫婦として作られたものか、
朋友として存在すべきものか、もしくは
敵として
睨み合うべきものかを疑った。その疑いの結果は、半分の好奇と半分の好意を
駆って彼を松本に走らしめた。彼は案外にも、松本をただ舶来のパイプを
銜えて世の中を傍観している男でないと発見した。彼は松本が須永に対してどんな考でどういう所置を取ったかを
委しく聞いた。そうして松本のそういう所置を取らなければならなくなった事情も
審らかにした。
顧みると、彼が学校を出て、始めて実際の世の中に接触して見たいと志ざしてから
今日までの経歴は、単に人の話をそこここと聞き廻って歩いただけである。耳から知識なり感情なりを伝えられなかった場合は、小川町の停留所で
洋杖を大事そうに突いて、電車から下りる
霜降の
外套を着た男が若い女といっしょに洋食屋に這入る
後を
跟けたくらいのものである。それも今になって記憶の台に
載せて
眺めると、ほとんど冒険とも探検とも名づけようのない
児戯であった。彼はそれがために
位地にありつく事はできた。けれども人間の経験としては
滑稽の意味以外に通用しない、ただ自分にだけ
真面目な、行動に過ぎなかった。
要するに人世に対して彼の有する最近の知識感情はことごとく鼓膜の働らきから来ている。森本に始まって松本に終る
幾席かの長話は、最初広く薄く彼を動かしつつ
漸々深く狭く彼を動かすに至って突如としてやんだ。けれども彼はついにその中に
這入れなかったのである。そこが彼に物足らないところで、同時に彼の仕合せなところである。彼は物足らない意味で
蛇の頭を
呪い、仕合せな意味で蛇の頭を祝した。そうして、大きな空を仰いで、彼の前に突如としてやんだように見えるこの劇が、これから先どう永久に
流転して行くだろうかを考えた。