一月二十七日の読売新聞で日高未徹君は、余の国民記者に話した、コンラッドの小説は自然に重きをおき過ぎるの結果主客
日高君の説によると、コンラッドは背景として自然を用いたのではない、自然を人間と対等に取扱ったのである、自然の活動が人間の活動と相交渉し、相対立する場合を写した作物である。これを主客顛倒と見るのは始めから自然は客であるべきはずとの
いかにもごもっともな御説で、余はこれに反対すると云わんよりは、むしろ大賛成を表したいくらいである。せんだってもある人がコンラッドのようなものを描いてどこが面白いかと聞いたから、余は、自然の経過は人情の経過と同じような興味をもって読む事のできるものだ、普通のが人情小説なら、コンラッドのは自然情小説だと答えたくらいだから、余は日高君よりは一歩極端に走って、自然と人間を対等に取扱う境を通り越して、自然を主、人間を客と見た面白味をさえ解しているつもりである。
現にタイフーンのごときまた、舟火事(名前を忘れたり)のごときは単にタイフーンを写し、単に舟火事を写したものとして立派な雄篇である。首尾一貫前後相待って
ところが同じ船と海の事を書たものでも、船長が眼病で、船の操縦ができないのを、眼の見えるふりでどこまでも押し通す様子などになると、筋は海を離れて、船長自身の個人の身の上話しに移ってしまう。だからこういう場合にいくら海が活動してもそれほど役に立たない。それよりか船長の一身上の生活の行路の方が気にかかる、その方を
これではまだ日高君は首肯されないかも知れないからもっとも
普通の小説のような脚色がありながら、その方の筋はいっこうできていないで、かえって自然力の活動ばかり
要するに日高君の御説ははなはだごもっともなのである。けれども余のコンラッドを非難した意味、及びこの意味において非難すべき作物をコンラッドが書いたと云う事も、日高君が承認されん事を希望する。
この答弁は日高君に対してのみならず、世間の読者のうちで、まだコンラッドを知らずして、余の説と日高君の説の矛盾だけを見てその調和に苦しむ人のために草したのである。