私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を
憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を
執っても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字などはとても使う気にならない。
私が先生と知り合いになったのは
鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという
端書を受け取ったので、私は多少の金を
工面して、出掛ける事にした。私は金の工面に
二、
三日を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と
経たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに
勧まない結婚を
強いられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに
肝心の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は
固より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
学校の授業が始まるにはまだ
大分日数があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に
留まる覚悟をした。友達は中国のある資産家の
息子で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって
一人ぼっちになった私は別に
恰好な宿を探す面倒ももたなかったのである。
宿は鎌倉でも
辺鄙な方角にあった。
玉突きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い
畷を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。
私は毎日海へはいりに出掛けた。古い
燻ぶり返った
藁葺の
間を通り抜けて
磯へ下りると、この
辺にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が
銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういう
賑やかな景色の中に
裹まれて、砂の上に
寝そべってみたり、
膝頭を波に打たしてそこいらを
跳ね
廻るのは愉快であった。
私は実に先生をこの
雑沓の
間に見付け出したのである。その時海岸には
掛茶屋が二軒あった。私はふとした
機会からその一軒の方に行き
慣れていた。
長谷辺に大きな別荘を構えている人と違って、
各自に専有の
着換場を
拵えていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった
風なものが必要なのであった。彼らはここで茶を飲み、ここで休息する
外に、ここで海水着を洗濯させたり、ここで
鹹はゆい
身体を清めたり、ここへ帽子や
傘を預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ
一切を
脱ぎ
棄てる事にしていた。
私がその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとするところであった。私はその時反対に
濡れた
身体を風に吹かして水から上がって来た。二人の
間には目を
遮る幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したかも知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が
放漫であったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を
伴れていたからである。
その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや
否や、すぐ私の注意を
惹いた。純粋の日本の
浴衣を着ていた彼は、それを
床几の上にすぽりと
放り出したまま、腕組みをして海の方を向いて立っていた。彼は我々の
穿く
猿股一つの
外何物も肌に着けていなかった。私にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に
由井が
浜まで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間西洋人の海へ入る様子を
眺めていた。私の
尻をおろした所は少し小高い丘の上で、そのすぐ
傍がホテルの裏口になっていたので、私の
凝としている
間に、
大分多くの男が塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と
股は出していなかった。女は
殊更肉を隠しがちであった。大抵は頭に
護謨製の
頭巾を
被って、
海老茶や
紺や
藍の色を波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の
眼には、猿股一つで済まして
皆なの前に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。
彼はやがて自分の
傍を顧みて、そこにこごんでいる日本人に、
一言二言何かいった。その日本人は砂の上に落ちた
手拭を拾い上げているところであったが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。
私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の
後姿を見守っていた。すると彼らは
真直に波の中に足を踏み込んだ。そうして
遠浅の
磯近くにわいわい騒いでいる
多人数の
間を通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ
身体を
拭いて着物を着て、さっさとどこへか行ってしまった。
彼らの出て行った
後、私はやはり元の
床几に腰をおろして
烟草を吹かしていた。その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなかった。しかしどうしてもいつどこで会った人か
想い出せずにしまった。
その時の私は
屈托がないというよりむしろ
無聊に苦しんでいた。それで
翌日もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ
掛茶屋まで出かけてみた。すると西洋人は来ないで先生一人
麦藁帽を
被ってやって来た。先生は
眼鏡をとって台の上に置いて、すぐ
手拭で頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が
昨日のように騒がしい
浴客の中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその
後が追い掛けたくなった。私は浅い水を頭の上まで
跳かして相当の深さの所まで来て、そこから先生を
目標に
抜手を切った。すると先生は昨日と違って、一種の
弧線を
描いて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。それで私の目的はついに達せられなかった。私が
陸へ上がって
雫の垂れる手を振りながら掛茶屋に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。
私は次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した。けれども物をいい掛ける機会も、
挨拶をする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいくら
賑やかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はその
後まるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。
或る時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に
脱ぎ
棄てた
浴衣を着ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向きになって、浴衣を二、三度
振った。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の
隙間から下へ落ちた。先生は
白絣の上へ
兵児帯を締めてから、眼鏡の
失くなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ
腰掛の下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
次の日私は先生の
後につづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。二
丁ほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い
蒼い海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人より
外になかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。私は自由と歓喜に
充ちた筋肉を動かして海の中で
躍り狂った。先生はまたぱたりと手足の運動を
已めて仰向けになったまま
浪の上に寝た。私もその
真似をした。青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促した。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の
路を浜辺へ引き返した。
私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
それから
中二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と
掛茶屋で出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ
大分長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に
極りが悪くなった。「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の
境内にある別荘のような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も
解った。私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の
口癖だといって弁解した。私はこの間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう
鎌倉にいない事や、色々の話をした末、日本人にさえあまり
交際をもたないのに、そういう外国人と
近付きになったのは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時
暗に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく
沈吟したあとで、「どうも君の顔には
見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。
私は月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。私は先生と別れる時に、「これから折々お
宅へ伺っても
宜ござんすか」と聞いた。先生は
単簡にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりでいたので、先生からもう少し
濃かな言葉を予期して
掛ったのである。それでこの物足りない返事が少し私の自信を
傷めた。
私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安に
揺かされるたびに、もっと前へ進みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私は若かった。けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのか
解らなかった。それが先生の亡くなった
今日になって、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の
素気ない
挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。
傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから
止せという警告を与えたのである。
他の懐かしみに応じない先生は、
他を
軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。
私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の
日数があるので、そのうちに一度行っておこうと思った。しかし帰って二日三日と
経つうちに、
鎌倉にいた時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上に
彩られる大都会の空気が、記憶の復活に伴う強い
刺戟と共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新しい学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の
弛みができてきた。私は何だか不足な顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分の
室の中を
見廻した。私の頭には再び先生の顔が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。
始めて先生の
宅を訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。晴れた空が身に
沁み込むように感ぜられる
好い
日和であった。その日も先生は留守であった。鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも
大抵宅にいるという事を聞いた。むしろ外出嫌いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、
理由もない不満をどこかに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。
下女の顔を見て少し
躊躇してそこに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた
内へはいった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
私はその人から
鄭寧に先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると
雑司ヶ谷の墓地にある
或る仏へ花を
手向けに行く習慣なのだそうである。「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた。私は
会釈して外へ出た。
賑かな町の方へ一
丁ほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ
踵を
回らした。
私は墓地の手前にある
苗畠の左側からはいって、両方に
楓を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。するとその
端れに見える
茶店の中から先生らしい人がふいと出て来た。私はその人の
眼鏡の
縁が日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
先生は同じ言葉を二
遍繰り返した。その言葉は
森閑とした昼の
中に異様な調子をもって繰り返された。私は急に何とも
応えられなくなった。
「私の
後を
跟けて来たのですか。どうして……」
先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の
中には
判然いえないような一種の曇りがあった。
私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「
誰の墓へ参りに行ったか、
妻がその人の名をいいましたか」
「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだから」
先生はようやく
得心したらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで
解らなかった。
先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。
依撒伯拉何々の墓だの、
神僕ロギンの墓だのという
傍に、
一切衆生悉有仏生と書いた
塔婆などが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と
彫り付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」といって先生は苦笑した。
先生はこれらの墓標が現わす
人種々の様式に対して、私ほどに
滑稽もアイロニーも認めてないらしかった。私が丸い
墓石だの細長い
御影の
碑だのを指して、しきりにかれこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ
真面目に考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。
墓地の区切り目に、大きな
銀杏が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い
梢を見上げて、「もう少しすると、
綺麗ですよ。この木がすっかり
黄葉して、ここいらの地面は
金色の落葉で
埋まるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。
向うの方で
凸凹の地面をならして新墓地を作っている男が、
鍬の手を休めて私たちを見ていた。私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。
これからどこへ行くという
目的のない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。先生はいつもより口数を
利かなかった。それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行った。
「すぐお
宅へお帰りですか」
「ええ別に寄る所もありませんから」
二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。
「いいえ」
「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」
「いいえ」
先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一
町ほど歩いた
後で、先生が不意にそこへ戻って来た。
「あすこには私の友達の墓があるんです」
「お友達のお墓へ
毎月お参りをなさるんですか」
「そうです」
先生はその日これ以外を語らなかった。
私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う
度数が重なるにつれて、私はますます
繁く先生の玄関へ足を運んだ。
けれども先生の私に対する態度は初めて
挨拶をした時も、懇意になったその
後も、あまり変りはなかった。先生は
何時も静かであった。ある時は静か過ぎて
淋しいくらいであった。私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が
後になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、
馬鹿げていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた
嬉しく思っている。人間を愛し
得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の
懐に
入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。
今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影が
射すように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその曇りを先生の
眉間に認めたのは、
雑司ヶ谷の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。しかしそれは単に一時の
結滞に過ぎなかった。私の心は五分と
経たないうちに平素の弾力を回復した。私はそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、
小春の尽きるに
間のない
或る晩の事であった。
先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた
銀杏の
大樹を
眼の前に
想い浮かべた。勘定してみると、先生が
毎月例として墓参に行く日が、それからちょうど三日目に当っていた。その三日目は私の課業が
午で
終える楽な日であった。私は先生に向かってこういった。
「先生
雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
「まだ
空坊主にはならないでしょう」
先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった。
「今度お
墓参りにいらっしゃる時にお
伴をしても
宜ござんすか。私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
「しかしついでに散歩をなすったらちょうど
好いじゃありませんか」
先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、どこまでも
墓参と散歩を切り離そうとする
風に見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。
「じゃお墓参りでも
好いからいっしょに
伴れて行って下さい。私もお墓参りをしますから」
実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の
眉がちょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも
嫌悪とも
畏怖とも片付けられない
微かな不安らしいものであった。私は
忽ち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、
他といっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の
妻さえまだ伴れて行った事がないのです」
私は不思議に思った。しかし私は先生を研究する気でその
宅へ
出入りをするのではなかった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ
尊むべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい
交際ができたのだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を
繋ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚していなかった。それだから
尊いのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい
眼で研究されるのを絶えず恐れていたのである。
私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の
宅へ行くようになった。私の足が段々
繁くなった時のある日、先生は突然私に向かって聞いた。
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」
「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお
邪魔なんですか」
「邪魔だとはいいません」
なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲の
極めて狭い事を知っていた。先生の元の同級生などで、その
頃東京にいるものはほとんど二人か三人しかないという事も知っていた。先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは
皆な私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。
「私は
淋しい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「そりゃまたなぜです」
私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは
幾歳ですか」といった。
この問答は私にとってすこぶる
不得要領のものであったが、私はその時
底まで押さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と
経たないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出るや
否や笑い出した。
「また来ましたね」といった。
「ええ来ました」といって自分も笑った。
私は
外の人からこういわれたらきっと
癪に
触ったろうと思う。しかし先生にこういわれた時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。
「私は
淋しい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに
打つかりたいのでしょう……」
「私はちっとも
淋しくはありません」
「若いうちほど
淋しいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の
宅へ来るのですか」
ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。
「あなたは私に会ってもおそらくまだ
淋しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのためにその淋しさを
根元から引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは
外の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
先生はこういって淋しい笑い方をした。
幸いにして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の
私は、この予言の
中に含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その
内いつの間にか先生の食卓で
飯を食うようになった。自然の結果奥さんとも口を
利かなければならないようになった。
普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇からいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが
源因かどうかは疑問だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。
これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り
除ければ、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美しいという
外に何の感じも残っていない。
ある時私は先生の
宅で酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て
傍で
酌をしてくれた。先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の
呑み干した
盃を差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた
後、迷惑そうにそれを受け取った。奥さんは
綺麗な
眉を寄せて、私の半分ばかり
注いで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと先生の間に
下のような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は
滅多にないのにね」
「お前は
嫌いだからさ。しかし
稀には飲むといいよ。
好い心持になるよ」
「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご
愉快そうね、少しご
酒を召し上がると」
「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
「今夜はいかがです」
「今夜は
好い心持だね」
「これから毎晩少しずつ召し上がると
宜ござんすよ」
「そうはいかない」
「召し上がって下さいよ。その方が
淋しくなくって好いから」
先生の
宅は夫婦と
下女だけであった。行くたびに
大抵はひそりとしていた。高い笑い声などの聞こえる試しはまるでなかった。
或る
時は宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ
蒼蠅いもののように考えていた。
「一人
貰ってやろうか」と先生がいった。
「
貰ッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
「子供はいつまで
経ったってできっこないよ」と先生がいった。
奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。
私の知る限り先生と奥さんとは、仲の
好い夫婦の
一対であった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論
解らなかったけれども、座敷で私と
対坐している時、先生は何かのついでに、
下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は
静といった)。先生は「おい静」といつでも
襖の方を振り向いた。その呼びかたが私には
優しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も
甚だ素直であった。ときたまご
馳走になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の
間に
描き出されるようであった。
先生は時々奥さんを
伴れて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は
箱根から貰った
絵端書をまだ持っている。
日光へ行った時は
紅葉の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外があった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声がした。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも
言逆いらしかった。先生の宅は玄関の次がすぐ座敷になっているので、
格子の前に立っていた私の耳にその
言逆いの調子だけはほぼ分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先生よりも低い
音なので、誰だか
判然しなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いているようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿へ帰った。
妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも
呑み込む能力を失ってしまった。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下から私を誘った。
先刻帯の間へ
包んだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私は帰ったなりまだ
袴を着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
その晩私は先生といっしょに
麦酒を飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「今日は
駄目です」といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
私の腹の中には始終
先刻の事が
引っ
懸っていた。
肴の骨が
咽喉に刺さった時のように、私は苦しんだ。打ち明けてみようかと考えたり、
止した方が
好かろうかと思い直したりする動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分りますか」
私は何の答えもし得なかった。
「実は
先刻妻と少し
喧嘩をしてね。それで
下らない神経を
昂奮させてしまったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」
私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。
二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一
丁も二丁もつづいた。その
後で突然先生が口を
利き出した。
「悪い事をした。怒って出たから
妻はさぞ心配をしているだろう。考えると女は
可哀そうなものですね。
私の妻などは私より
外にまるで頼りにするものがないんだから」
先生の言葉はちょっとそこで
途切れたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移って行った。
「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し
滑稽だが。君、私は君の眼にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
「
中位に見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はまた口を閉じて、無言で歩き出した。
先生の
宅へ帰るには私の下宿のつい
傍を通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲り角で分れるのが先生に済まないような気がした。「ついでにお
宅の前までお
伴しましょうか」といった。先生は
忽ち手で私を
遮った。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、
妻君のために」
先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその
後も長い間この「妻君のために」という言葉を忘れなかった。
先生と奥さんの間に起った
波瀾が、大したものでない事はこれでも
解った。それがまた
滅多に起る現象でなかった事も、その後絶えず
出入りをして来た私にはほぼ推察ができた。それどころか先生はある時こんな感想すら私に
洩らした。
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。
妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の
一対であるべきはずです」
私は今前後の
行き
掛りを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか、
判然いう事ができない。けれども先生の態度の
真面目であったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。私は心の
中で
疑らざるを得なかった。けれどもその疑いは一時限りどこかへ
葬られてしまった。
私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人
差向いで話をする機会に出合った。先生はその日
横浜を
出帆する汽船に乗って外国へ行くべき友人を
新橋へ送りに行って留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその
頃の習慣であった。私はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する
礼義としてその日突然起った出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。
その時の
私はすでに大学生であった。始めて先生の
宅へ来た
頃から見るとずっと成人した気でいた。奥さんとも
大分懇意になった
後であった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。
差向いで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと断っておきたい事がある。
先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少し
経ってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。
先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と
密切の関係をもっている私より
外に敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常に
惜しい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を
利いては済まない」と答えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが
謙遜過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている
誰彼を
捉えて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて
云々してみた。私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、
解らなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。
私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」
「あの人は
駄目ですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり
下らない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それが
解らないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」
奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方がむしろ
真面目だった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」
「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
奥さんは急に薄赤い顔をした。
奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「本当いうと
合の
子なんですよ」といった。奥さんの父親はたしか
鳥取かどこかの出であるのに、お母さんの方はまだ江戸といった
時分の
市ヶ谷で生れた女なので、奥さんは冗談半分そういったのである。ところが先生は全く方角違いの
新潟県人であった。だから奥さんがもし先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、
艶めかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと
慎んでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう
艶っぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に
描き得たに過ぎなかった。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって
見惨なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。
私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、
先刻いった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
ただ一つ私の記憶に残っている事がある。
或る時
花時分に私は先生といっしょに
上野へ行った。そうしてそこで美しい
一対の
男女を見た。彼らは
睦まじそうに寄り添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を
峙だてている人が沢山あった。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
「仲が
好さそうですね」と私が答えた。
先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の
外に置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。
「君は恋をした事がありますか」
私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
私は答えなかった。
「したくない事はないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、
冷評しましたね。あの
冷評のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が
交っていましょう」
「そんな
風に聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。
解っていますか」
私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。
我々は群集の中にいた。群集はいずれも
嬉しそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
「恋は罪悪ですか」と
私がその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」
私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に
上る
楷段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものが全く性質を
異にしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」
私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」
先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味は
朦朧としてよく
解らなかった。その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと
判然いって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに
真実を話している気でいた。ところが実際は、あなたを
焦慮していたのだ。私は悪い事をした」
先生と私とは博物館の裏から
鶯渓の方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の
隙間から広い庭の一部に茂る
熊笹が
幽邃に見えた。
「君は私がなぜ
毎月雑司ヶ谷の墓地に
埋っている友人の墓へ参るのか知っていますか」
先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
「また悪い事をいった。
焦慮せるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで
止めましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
私には先生の話がますます
解らなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。
年の若い
私はややともすると
一図になりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであった。とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもただ
独りを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あんまり
逆上ちゃいけません」と先生がいった。
「
覚めた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は
肯がってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると
厭になります。私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた
椿の花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく
眺める癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
その時
生垣の向うで金魚売りらしい声がした。その
外には何の聞こえるものもなかった。大通りから二
丁も深く折れ込んだ
小路は
存外静かであった。
家の中はいつもの通りひっそりしていた。私は次の
間に奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を
呪うより
外に仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に
怖くなったんです」
私はもう少し先まで同じ道を
辿って行きたかった。すると
襖の陰で「あなた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次の
間へ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には
解らなかった。それを想像する余裕を与えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が
欺かれた返報に、残酷な
復讐をするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の
膝の前に
跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を
載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を
斥けたいと思うのです。私は今より一層
淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と
己れとに
充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。
その
後私は奥さんの顔を見るたびに気になった。先生は奥さんに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
奥さんの様子は満足とも不満足とも
極めようがなかった。私はそれほど近く奥さんに接触する機会がなかったから。それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。最後に先生のいる席でなければ私と奥さんとは
滅多に顔を合せなかったから。
私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷たい眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生は
坐って考える
質の人であった。先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか。私にはそうばかりとは思えなかった。先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った
石造家屋の
輪廓とは違っていた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれどもその思想家の
纏め上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれているらしかった。
これは私の胸で推測するがものはない。先生自身すでにそうだと告白していた。ただその告白が雲の
峯のようであった。私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを
蔽い
被せた。そうしてなぜそれが恐ろしいか私にも
解らなかった。告白はぼうとしていた。それでいて明らかに私の神経を
震わせた。
私は先生のこの人生観の基点に、
或る強烈な恋愛事件を仮定してみた。(無論先生と奥さんとの間に起った)。先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが
手掛りにもなった。しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。すると二人の恋からこんな
厭世に近い覚悟が出ようはずがなかった。「かつてはその人の前に
跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を
載せさせようとする」といった先生の言葉は、現代一般の
誰彼について用いられるべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
雑司ヶ谷にある
誰だか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。私はそれが先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のできない私は、先生の頭の中にある
生命の断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども私に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある
生命の扉を開ける
鍵にはならなかった。むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。
そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。その
頃は日の
詰って行くせわしない秋に、誰も注意を
惹かれる
肌寒の季節であった。先生の
附近で盗難に
罹ったものが三、四日続いて出た。盗難はいずれも宵の口であった。大したものを持って行かれた
家はほとんどなかったけれども、はいられた所では必ず何か取られた。奥さんは気味をわるくした。そこへ先生がある晩家を
空けなければならない事情ができてきた。先生と同郷の友人で地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生は
外の二、三名と共に、ある所でその友人に
飯を食わせなければならなくなった。先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。私はすぐ引き受けた。
私の行ったのはまだ
灯の
点くか点かない暮れ方であったが、
几帳面な先生はもう
宅にいなかった。「時間に
後れると悪いって、つい今しがた出掛けました」といった奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。
書斎には
洋机と
椅子の
外に、沢山の書物が美しい
背皮を並べて、
硝子越に
電燈の光で照らされていた。奥さんは火鉢の前に敷いた
座蒲団の上へ私を
坐らせて、「ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい」と断って出て行った。私はちょうど主人の帰りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。私は
畏まったまま
烟草を飲んでいた。奥さんが茶の間で何か
下女に話している声が聞こえた。書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲った
角にあるので、
棟の位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさを
領していた。ひとしきりで奥さんの話し声が
已むと、
後はしんとした。私は泥棒を待ち受けるような心持で、
凝としながら気をどこかに配った。
三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。「おや」といって、軽く驚いた時の眼を私に向けた。そうして客に来た人のように
鹿爪らしく控えている私をおかしそうに見た。
「それじゃ窮屈でしょう」
「いえ、窮屈じゃありません」
「でも退屈でしょう」
「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」
奥さんは手に
紅茶茶碗を持ったまま、笑いながらそこに立っていた。
「ここは隅っこだから番をするには
好くありませんね」と私がいった。
「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て
頂戴。ご
退屈だろうと思って、お茶を入れて持って来たんですが、茶の間で
宜しければあちらで上げますから」
私は奥さんの
後に
尾いて書斎を出た。茶の間には
綺麗な
長火鉢に
鉄瓶が鳴っていた。私はそこで茶と菓子のご
馳走になった。奥さんは
寝られないといけないといって、茶碗に手を触れなかった。
「先生はやっぱり時々こんな会へお
出掛けになるんですか」
「いいえ
滅多に出た事はありません。
近頃は段々人の顔を見るのが
嫌いになるようです」
こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという
風も見えなかったので、私はつい大胆になった。
「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」
「いいえ私も嫌われている一人なんです」
「そりゃ
嘘です」と私がいった。「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」
「なぜ」
「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
「あなたは学問をする
方だけあって、なかなかお
上手ね。
空っぽな理屈を使いこなす事が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それと
同なじ理屈で」
「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。
空の
盃でよくああ飽きずに
献酬ができると思いますわ」
奥さんの言葉は少し
手痛かった。しかしその言葉の
耳障からいうと、決して猛烈なものではなかった。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを
見出すほどに奥さんは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。
私はまだその
後にいうべき事をもっていた。けれども奥さんから
徒らに議論を仕掛ける男のように取られては困ると思って遠慮した。奥さんは飲み干した
紅茶茶碗の底を
覗いて黙っている私を
外らさないように、「もう一杯上げましょうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡した。
「いくつ? 一つ? 二ッつ?」
妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の
数を聞いた。奥さんの態度は私に
媚びるというほどではなかったけれども、
先刻の強い言葉を
力めて打ち消そうとする
愛嬌に
充ちていた。
私は黙って茶を飲んだ。飲んでしまっても黙っていた。
「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんがいった。
「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、
叱り付けられそうですから」と私は答えた。
「まさか」と奥さんが再びいった。
二人はそれを
緒口にまた話を始めた。そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした。
「奥さん、
先刻の続きをもう少しいわせて下さいませんか。奥さんには
空な理屈と聞こえるかも知れませんが、私はそんな
上の
空でいってる事じゃないんだから」
「じゃおっしゃい」
「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより
外に仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は
真面目ですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」
「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」
「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺っていい質問ですから、あなたに伺います」
「何もそんな事を開き直って聞かなくっても
好いじゃありませんか」
「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」
「まあそうよ」
「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、
己惚になるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」
「その信念が先生の心に
好く映るはずだと私は思いますが」
「それは別問題ですわ」
「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」
「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより
近頃では人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の
一人として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
奥さんの嫌われているという意味がやっと私に
呑み込めた。
私は奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に一種の
刺戟を与えた。それで奥さんはその
頃流行り始めたいわゆる新しい言葉などはほとんど使わなかった。
私は女というものに深い
交際をした経験のない
迂闊な青年であった。男としての私は、異性に対する本能から、
憧憬の目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれは懐かしい春の雲を
眺めるような心持で、ただ
漠然と夢みていたに過ぎなかった。だから実際の女の前へ出ると、私の感情が突然変る事が時々あった。私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、その場に臨んでかえって変な
反撥力を感じた。奥さんに対した私にはそんな気がまるで出なかった。普通
男女の間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。私は奥さんの女であるという事を忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
「それがどうして急に変化なすったんですか」
「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
「奥さんはその
間始終先生といっしょにいらしったんでしょう」
「無論いましたわ。夫婦ですもの」
「じゃ先生がそう変って行かれる
源因がちゃんと
解るべきはずですがね」
「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に
辛いんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで
何遍あの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」
「先生は何とおっしゃるんですか」
「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです」
私は黙っていた。奥さんも言葉を
途切らした。
下女部屋にいる下女はことりとも音をさせなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」と私が答えた。
「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいった。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」
「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
奥さんは火鉢の灰を
掻き
馴らした。それから
水注の水を
鉄瓶に
注した。鉄瓶は
忽ち鳴りを沈めた。
「私はとうとう
辛防し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
奥さんは眼の
中に涙をいっぱい
溜めた。
始め
私は理解のある
女性として奥さんに対していた。私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の
心臓を動かし始めた。自分と夫の間には何の
蟠まりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼を
開けて
見極めようとすると、やはり
何にもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。
奥さんは最初世の中を見る先生の眼が
厭世的だから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、かえってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで
厭になったのだろうと推測していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度はどこまでも
良人らしかった。親切で優しかった。疑いの
塊りをその日その日の
情合で包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう
人世観とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって
頂戴」
私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるものがあると信じていた。
「私には
解りません」
奥さんは予期の
外れた時に見る
憐れな表情をその
咄嗟に現わした。私はすぐ私の言葉を継ぎ足した。
「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。先生は
嘘を
吐かない
方でしょう」
奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。
「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」
「先生がああいう
風になった
源因についてですか」
「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」
「どんな事ですか」
奥さんはいい渋って
膝の上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた判断して下すって。いうから」
「私にできる判断ならやります」
「みんなはいえないのよ。みんないうと
叱られるから。叱られないところだけよ」
私は緊張して
唾液を
呑み込んだ。
「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の
好いお友達が一人あったのよ。その
方がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」
奥さんは私の耳に
私語くような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから
後なんです。先生の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
「その人の墓ですか、
雑司ヶ谷にあるのは」
「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくって
堪らないんです。だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの」
私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。
私は私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。奥さんもまたできるだけ私によって慰められたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。けれども私はもともと事の
大根を
攫んでいなかった。奥さんの不安も実はそこに
漂う薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。知れているところでも
悉皆は私に話す事ができなかった。したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、
覚束ない私の判断に
縋り付こうとした。
十時
頃になって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前に
坐っている私をそっちのけにして立ち上がった。そうして
格子を開ける先生をほとんど
出合い
頭に迎えた。私は取り残されながら、
後から奥さんに
尾いて行った。
下女だけは
仮寝でもしていたとみえて、ついに出て来なかった。
先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のうちに
溜った涙の光と、それから黒い
眉毛の根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常なものとして注意深く
眺めた。もしそれが
詐りでなかったならば、(実際それは詐りとは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは
感傷を
玩ぶためにとくに私を相手に
拵えた、
徒らな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないんで
張合が抜けやしませんか」といった。
帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を
潰させて気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥さんはそういいながら、
先刻出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを
袂へ入れて、人通りの少ない
夜寒の
小路を曲折して
賑やかな町の方へ急いだ。
私はその晩の事を記憶のうちから
抽き抜いてここへ
詳しく書いた。これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を
貰って帰るときの気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。私はその
翌日午飯を食いに学校から帰ってきて、
昨夜机の上に
載せて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った
鳶色のカステラを出して
頬張った。そうしてそれを食う時に、
必竟この菓子を私にくれた二人の
男女は、幸福な
一対として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生の
宅へ
出はいりをするついでに、衣服の
洗い
張りや
仕立て
方などを奥さんに頼んだ。それまで
繻絆というものを着た事のない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。子供のない奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって
退屈凌ぎになって、
結句身体の薬だぐらいの事をいっていた。
「こりゃ
手織りね。こんな
地の
好い着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫い
悪いのよそりゃあ。まるで針が立たないんですもの。お
蔭で針を二本折りましたわ」
こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に
面倒くさいという顔をしなかった。
冬が来た時、
私は偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。
父はかねてから
腎臓を病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの
病は慢性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現に父は養生のお
蔭一つで、
今日までどうかこうか
凌いで来たように客が来ると
吹聴していた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている
機に突然
眩暈がして引ッ繰り返った。
家内のものは軽症の
脳溢血と思い違えて、すぐその手当をした。
後で医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。
冬休みが来るにはまだ少し
間があった。私は学期の終りまで待っていても
差支えあるまいと思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを
嘗めた私は、とうとう帰る決心をした。国から旅費を送らせる
手数と時間を省くため、私は
暇乞いかたがた先生の所へ行って、
要るだけの金を一時立て替えてもらう事にした。
先生は少し
風邪の気味で、座敷へ出るのが
臆劫だといって、私をその書斎に通した。書斎の
硝子戸から冬に
入って
稀に見るような懐かしい
和らかな日光が
机掛けの上に
射していた。先生はこの日あたりの
好い
室の中へ大きな火鉢を置いて、
五徳の上に懸けた
金盥から立ち
上る
湯気で、
呼吸の苦しくなるのを防いでいた。
「大病は
好いが、ちょっとした
風邪などはかえって
厭なものですね」といった先生は、苦笑しながら私の顔を見た。
先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。
「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は
真平です。先生だって同じ事でしょう。試みにやってご覧になるとよく
解ります」
「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病に
罹りたいと思ってる」
私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」
先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の
茶箪笥か何かの
抽出から出して来た奥さんは、白い半紙の上へ
鄭寧に重ねて、「そりゃご心配ですね」といった。
「
何遍も卒倒したんですか」と先生が聞いた。
「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」
「ええ」
先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。
「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。
「そうさね。私が代られれば代ってあげても
好いが。――
嘔気はあるんですか」
「どうですか、何とも書いてないから、
大方ないんでしょう」
「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。
私はその晩の汽車で東京を立った。
父の病気は思ったほど悪くはなかった。それでも着いた時は、
床の上に
胡坐をかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢してこう
凝としている。なにもう起きても
好いのさ」といった。しかしその
翌日からは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。母は
不承無性に
太織りの
蒲団を畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気が強くおなりなんだよ」といった。
私には父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなかった。
私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に
父母の顔を見る自由の
利かない男であった。妹は他国へ
嫁いだ。これも急場の間に合うように、おいそれと呼び寄せられる女ではなかった。
兄妹三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしている私だけであった。その私が母のいい付け通り学校の課業を
放り出して、休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。
「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり
仰山な手紙を書くものだからいけない」
父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていた
床を上げさせて、いつものような元気を示した。
「あんまり軽はずみをしてまた
逆回すといけませんよ」
私のこの注意を父は愉快そうにしかし
極めて軽く受けた。
「なに大丈夫、これでいつものように
要心さえしていれば」
実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、息も切れなければ、
眩暈も感じなかった。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格別それを気に留めなかった。
私は先生に手紙を書いて
恩借の礼を述べた。正月上京する時に持参するからそれまで待ってくれるようにと断わった。そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈も
嘔気も皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の
風邪についても
一言の見舞を
附け加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生の
噂などをしながら、
遥かに先生の書斎を想像した。
「こんど東京へ行くときには
椎茸でも持って行ってお上げ」
「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」
「
旨くはないが、別に
嫌いな人もないだろう」
私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。
先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大層な喜びになった。もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なかったが。
第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事をちょっと断わっておきたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しか
貰っていない。その一通は今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私
宛で書いた大変長いものである。
父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど
戸外へは出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を
気遣って、私が引き添うように
傍に付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑って応じなかった。
私は退屈な父の相手としてよく
将碁盤に向かった。二人とも無精な
性質なので、
炬燵にあたったまま、盤を
櫓の上へ
載せて、
駒を動かすたびに、わざわざ手を
掛蒲団の下から出すような事をした。時々
持駒を
失くして、次の勝負の来るまで双方とも知らずにいたりした。それを母が灰の中から
見付け出して、
火箸で
挟み上げるという
滑稽もあった。
「
碁だと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤は
好いね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」
父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。要するに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍しいので、この
隠居じみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日が
経つに
伴れて、若い私の気力はそのくらいな
刺戟で満足できなくなった。私は
金や
香車を握った
拳を頭の上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。
私は東京の事を考えた。そうして
漲る心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける
鼓動を聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた。
私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分らないほど
大人しい男であった。
他に認められるという点からいえばどっちも
零であった。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊興のために
往来をした
覚えのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに
冷やか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなかに先生の力が
喰い込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。
私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々
陳腐になって来た。これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや
歓待されるのに、その峠を
定規通り通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがちになるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも
解らない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、
儒者の家へ
切支丹の
臭いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼に
留まった。私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。
父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。念のためにわざわざ遠くから相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められなかった。私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。
「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。
「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。
私は自分の
極めた
出立の日を動かさなかった。
東京へ帰ってみると、
松飾はいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
私は
早速先生のうちへ金を返しに行った。例の
椎茸もついでに持って行った。ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置いた。椎茸は新しい菓子折に入れてあった。
鄭寧に礼を述べた奥さんは、次の
間へ立つ時、その折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の
御菓子」と聞いた。奥さんは懇意になると、こんなところに
極めて
淡泊な
小供らしい心を見せた。
二人とも父の病気について、色々
掛念の問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった。
「なるほど
容体を聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気をつけないといけません」
先生は
腎臓の
病について私の知らない事を多く知っていた。
「自分で病気に
罹っていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある
士官は、とうとうそれでやられたが、全く
嘘のような死に方をしたんですよ。何しろ
傍に寝ていた
細君が看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいといって、細君を起したぎり、
翌る朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思ってたんだっていうんだから」
今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。
「私の
父もそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」
「医者は何というのです」
「医者は
到底治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」
「それじゃ
好いでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから」
私はやや安心した。私の変化を
凝と見ていた先生は、それからこう付け足した。
「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても
脆いものですね。いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから」
「先生もそんな事を考えてお
出ですか」
「いくら丈夫の私でも、
満更考えない事もありません」
先生の口元には微笑の影が見えた。
「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う
間に死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にも
解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお
蔭ですね」
「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」
その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。先生のいった自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、
後は何らのこだわりを私の頭に残さなかった。私は今まで
幾度か手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。
その年の六月に卒業するはずの
私は、ぜひともこの論文を
成規通り四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸を
疑った。
他のものはよほど前から材料を
蒐めたり、ノートを
溜めたりして、
余所目にも
忙しそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。私にはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやり出した。そうして
忽ち動けなくなった。今まで大きな問題を
空に
描いて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考えていた私は、頭を
抑えて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思想を系統的に
纏める手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加える事にした。
私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。私がかつてその選択について先生の意見を尋ねた時、先生は
好いでしょうといった。
狼狽した気味の私は、
早速先生の所へ出掛けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与えてくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。しかし先生はこの点について
毫も私を指導する任に当ろうとしなかった。
「
近頃はあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好いでしょう」
先生は一時非常の読書家であったが、その
後どういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなったようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。私は論文をよそにして、そぞろに口を開いた。
「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」
「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。それから……」
「それから、まだあるんですか」
「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い込んだのです」
先生の言葉はむしろ平静であった。世間に背中を向けた人の
苦味を帯びていなかっただけに、私にはそれほどの
手応えもなかった。私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに帰った。
それからの私はほとんど論文に
祟られた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。私は一年
前に卒業した友達について、色々様子を聞いてみたりした。そのうちの
一人は
締切の日に車で事務所へ
馳けつけて
漸く間に合わせたといった。他の一人は五時を十五分ほど
後らして持って行ったため、
危く
跳ね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理してもらったといった。私は不安を感ずると共に度胸を
据えた。毎日机の前で精根のつづく限り働いた。でなければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを
見廻した。私の眼は
好事家が
骨董でも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。
梅が咲くにつけて寒い風は段々
向を南へ
更えて行った。それが
一仕切経つと、桜の
噂がちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文に
鞭うたれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居を
跨がなかった。
私の自由になったのは、
八重桜の散った枝にいつしか青い葉が
霞むように伸び始める初夏の季節であった。私は
籠を抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を
一目に見渡しながら、自由に
羽搏きをした。私はすぐ先生の
家へ行った。
枳殻の垣が黒ずんだ枝の上に、
萌るような芽を吹いていたり、
柘榴の枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて初めてそんなものを見るような珍しさを覚えた。
先生は
嬉しそうな私の顔を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といった。私は「お
蔭でようやく済みました。もう何にもする事はありません」といった。
実際その時の私は、自分のなすべきすべての仕事がすでに
結了して、これから先は威張って遊んでいても構わないような晴やかな心持でいた。私は書き上げた自分の論文に対して充分の自信と満足をもっていた。私は先生の前で、しきりにその内容を
喋々した。先生はいつもの調子で、「なるほど」とか、「そうですか」とかいってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。私は物足りないというよりも、
聊か拍子抜けの気味であった。それでもその日私の気力は、
因循らしく見える先生の態度に逆襲を試みるほどに
生々していた。私は青く
蘇生ろうとする大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。
「先生どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変
好い心持です」
「どこへ」
私はどこでも構わなかった。ただ先生を
伴れて郊外へ出たかった。
一時間の
後、先生と私は目的どおり市を離れて、村とも町とも区別の付かない静かな所を
宛もなく歩いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉を
ぎ取って
芝笛を鳴らした。ある
鹿児島人を友達にもって、その人の
真似をしつつ自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。私が得意にそれを吹きつづけると、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。
やがて若葉に
鎖ざされたように
蓊欝した小高い
一構えの下に細い
路が
開けた。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだらだら
上りになっている入口を
眺めて、「はいってみようか」といった。私はすぐ「植木屋ですね」と答えた。
植込の中を
一うねりして奥へ
上ると左側に
家があった。明け放った
障子の内はがらんとして人の影も見えなかった。ただ
軒先に据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が動いていた。
「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」
「構わないでしょう」
二人はまた奥の方へ進んだ。しかしそこにも人影は見えなかった。
躑躅が燃えるように咲き乱れていた。先生はそのうちで
樺色の
丈の高いのを指して、「これは
霧島でしょう」といった。
芍薬も
十坪あまり一面に植え付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けているのは一本もなかった。この芍薬
畠の
傍にある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字なりに寝た。私はその余った
端の方に腰をおろして
烟草を吹かした。先生は
蒼い
透き
徹るような空を見ていた。私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。その若葉の色をよくよく
眺めると、一々違っていた。同じ
楓の
樹でも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。細い杉苗の
頂に投げ
被せてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。
私はすぐその帽子を取り上げた。
所々に着いている赤土を
爪で
弾きながら先生を呼んだ。
「先生帽子が落ちました」
「ありがとう」
身体を半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、変な事を私に聞いた。
「突然だが、君の
家には財産がよっぽどあるんですか」
「あるというほどありゃしません」
「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」
「どのくらいって、山と
田地が少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」
先生が私の
家の経済について、問いらしい問いを掛けたのはこれが始めてであった。私の方はまだ先生の暮し向きに関して、何も聞いた事がなかった。先生と知り合いになった始め、私は先生がどうして遊んでいられるかを
疑った。その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。しかし私はそんな
露骨な問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた。若葉の色で疲れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。
「先生はどうなんです。どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」
「私は財産家と見えますか」
先生は平生からむしろ質素な
服装をしていた。それに
家内は
小人数であった。したがって住宅も決して広くはなかった。けれどもその生活の物質的に豊かな事は、内輪にはいり込まない私の眼にさえ明らかであった。要するに先生の暮しは
贅沢といえないまでも、あたじけなく切り詰めた無弾力性のものではなかった。
「そうでしょう」と私がいった。
「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな
家でも造るさ」
この時先生は起き上って、縁台の上に
胡坐をかいていたが、こういい終ると、竹の
杖の先で地面の上へ円のようなものを
描き始めた。それが済むと、今度はステッキを突き刺すように
真直に立てた。
「これでも元は財産家なんだがなあ」
先生の言葉は半分
独り
言のようであった。それですぐ
後に
尾いて行き損なった私は、つい黙っていた。
「これでも元は財産家なんですよ、君」といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。私はそれでも何とも答えなかった。むしろ不調法で答えられなかったのである。すると先生がまた問題を
他へ移した。
「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」
私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。月々国から送ってくれる
為替と共に来る簡単な手紙は、例の通り父の
手蹟であったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。その上書体も確かであった。この種の病人に見る
顫えが少しも筆の
運びを乱していなかった。
「何ともいって来ませんが、もう
好いんでしょう」
「
好ければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」
「そうですか」
私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。
「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、
貰うものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
「ええ」
私は先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまりに実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。
「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような
言葉遣いをするのが気に
触ったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬか分らないものだからね」
先生の
口気は珍しく苦々しかった。
「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。
「君の
兄弟は何人でしたかね」と先生が聞いた。
先生はその上に私の家族の
人数を聞いたり、親類の有無を尋ねたり、
叔父や
叔母の様子を問いなどした。そうして最後にこういった。
「みんな
善い人ですか」
「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵
田舎者ですから」
「田舎者はなぜ悪くないんですか」
私はこの
追窮に苦しんだ。しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の
親戚なぞの
中に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな
鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。私はまたここで何かいおうとした。すると
後ろの方で犬が急に
吠え出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。
縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗の
傍に、
熊笹が
三坪ほど地を隠すように茂って生えていた。犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。そこへ
十ぐらいの
小供が
馳けて来て犬を
叱り付けた。小供は
徽章の着いた黒い帽子を
被ったまま先生の前へ
廻って礼をした。
「叔父さん、はいって来る時、
家に
誰もいなかったかい」と聞いた。
「誰もいなかったよ」
「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」
「そうか、いたのかい」
「ああ。叔父さん、
今日はって、断ってはいって来ると
好かったのに」
先生は苦笑した。
懐中から
蟇口を出して、五銭の
白銅を小供の手に握らせた。
「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」
小供は
怜悧そうな眼に
笑いを
漲らして、
首肯いて見せた。
「今
斥候長になってるところなんだよ」
小供はこう断って、
躑躅の間を下の方へ駈け下りて行った。犬も
尻尾を高く巻いて小供の後を追い掛けた。しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駈けていった。
先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。先生の気にする財産
云々の
掛念はその時の
私には全くなかった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。
先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私に
解らない事はなかった。しかし私はこの句についてもっと知りたかった。
犬と
小供が去ったあと、広い若葉の園は再び
故の静かさに帰った。そうして我々は沈黙に
鎖ざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前にある
樹は大概
楓であったが、その枝に
滴るように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて
縁日へでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に
瞑想から
呼息を吹き返した人のように立ち上がった。
「もう、そろそろ帰りましょう。
大分日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」
先生の背中には、さっき縁台の上に
仰向きに寝た
痕がいっぱい着いていた。私は両手でそれを払い落した。
「ありがとう。
脂がこびり着いてやしませんか」
「
綺麗に落ちました」
「この羽織はつい
此間拵えたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、
妻に
叱られるからね。有難う」
二人はまただらだら
坂の中途にある
家の前へ来た。はいる時には誰もいる
気色の見えなかった
縁に、お
上さんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金魚鉢の横から、「どうもお
邪魔をしました」と
挨拶した。お上さんは「いいえお
構い申しも致しませんで」と礼を返した
後、
先刻小供にやった
白銅の礼を述べた。
門口を出て二、三
町来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間は
誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
「事実で
差支えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」
先生は笑い出した。あたかも
時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった
風に。
「
金さ君。金を見ると、どんな
君子でもすぐ悪人になるのさ」
私には先生の返事があまりに平凡過ぎて
詰らなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し
後れがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。
「そら見たまえ」
「何をですか」
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
待ち合わせるために振り向いて
立ち
留まった私の顔を見て、先生はこういった。
その時の
私は腹の中で先生を憎らしく思った。肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにいた。しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態度に
拘泥る様子を見せなかった。いつもの通り沈黙がちに落ち付き払った歩調をすまして運んで行くので、私は少し
業腹になった。何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。
「先生」
「何ですか」
「先生はさっき少し
昂奮なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮したのを
滅多に見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」
先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを
手応えのあったようにも思った。また
的が
外れたようにも感じた。仕方がないから
後はいわない事にした。すると先生がいきなり道の
端へ寄って行った。そうして
綺麗に刈り込んだ
生垣の下で、
裾をまくって小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。
「やあ失敬」
先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。私たちの通る道は段々
賑やかになった。今までちらほらと見えた広い
畠の斜面や
平地が、全く眼に
入らないように左右の
家並が
揃ってきた。それでも
所々宅地の隅などに、
豌豆の
蔓を竹にからませたり、
金網で
鶏を囲い飼いにしたりするのが閑静に
眺められた。市中から帰る
駄馬が仕切りなく
擦れ違って行った。こんなものに始終気を
奪られがちな私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。先生が突然そこへ
後戻りをした時、私は実際それを忘れていた。
「私は
先刻そんなに昂奮したように見えたんですか」
「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
「いや見えても構わない。実際
昂奮するんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むしろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな
執着力をいまだかつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高い
処に、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっと
盾を突いてみようとした私は、この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。
「私は
他に
欺かれたのです。しかも血のつづいた
親戚のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや
否や許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を
小供の時から
今日まで
背負わされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。しかし私はまだ
復讐をしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」
私は
慰藉の言葉さえ口へ出せなかった。
その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。
私はむしろ先生の態度に
畏縮して、先へ進む気が起らなかったのである。
二人は市の
外れから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。電車を降りると間もなく別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」といった。私は笑って帽子を
脱った。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかと
疑った。その眼、その口、どこにも
厭世的の影は
射していなかった。
私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられない事が
間々あったといわなければならない。先生の談話は時として
不得要領に終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例として私の胸の
裏に残った。
無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと
解ってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」
「私は何にも隠してやしません」
「隠していらっしゃいます」
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で
纏め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を
悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
先生はあきれたといった
風に、私の顔を見た。
巻烟草を持っていたその手が少し
顫えた。
「あなたは大胆だ」
「ただ
真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を
訐いてもですか」
訐くという言葉が、突然恐ろしい
響きをもって、私の耳を打った。私は今私の前に
坐っているのが、一人の
罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は
蒼かった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の
因果で、人を
疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で
好いから、
他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が
増かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。
私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り及第した。卒業式の日、私は
黴臭くなった古い冬服を
行李の中から出して着た。式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない
厚羅紗の下に密封された自分の
身体を持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょになった。
私は式が済むとすぐ帰って
裸体になった。下宿の二階の窓をあけて、
遠眼鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、
室の真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
私はその晩先生の家へ
御馳走に招かれて行った。これはもし卒業したらその日の
晩餐はよそで
喰わずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
食卓は約束通り座敷の
縁近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い
糊の
硬い
卓布が美しくかつ清らかに電燈の光を
射返していた。先生のうちで
飯を食うと、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、
箸や
茶碗が置かれた。そうしてそれが必ず洗濯したての
真白なものに限られていた。
「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、
一層始めから色の着いたものを使うが
好い。白ければ純白でなくっちゃ」
こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に
整然と片付いていた。
無頓着な私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。
「先生は
癇性ですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」と答えた事があった。それを
傍に聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に
馬鹿馬鹿しい
性分だ」といって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという意味か、私には
解らなかった。奥さんにも
能く通じないらしかった。
その晩私は先生と向い合せに、例の白い
卓布の前に
坐った。奥さんは二人を左右に置いて、
独り庭の方を正面にして席を占めた。
「お目出とう」といって、先生が私のために
杯を上げてくれた。私はこの
盃に対してそれほど
嬉しい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの
源因であった。けれども先生のいい方も決して私の
嬉しさを
唆る
浮々した調子を帯びていなかった。先生は笑って
杯を上げた。私はその笑いのうちに、
些とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も
汲み取る事ができなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語っていた。
奥さんは私に「結構ね。さぞお
父さんやお
母さんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
「ええ、たしかしまってあるはずですが」
卒業証書の
在処は二人ともよく知らなかった。
飯になった時、奥さんは
傍に
坐っている
下女を次へ立たせて、自分で
給仕の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の
仕来りらしかった。始めの一、二回は
私も窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、
茶碗を奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。
「お茶? ご
飯? ずいぶんよく食べるのね」
奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そんなに
調戯われるほど食欲が進まなかった。
「もうおしまい。あなた
近頃大変
小食になったのね」
「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと
水菓子を運ばせた。
「これは
宅で
拵えたのよ」
用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に
振舞うだけの余裕があると見えた。私はそれを二杯
更えてもらった。
「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をずらして、
敷居際で背中を
障子に
靠たせていた。
私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという
目的もなかった。返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお
役人?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。
「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくらいなんですから。だいちどれが
善いか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないと
解らないんだから、選択に困る訳だと思います」
「それもそうね。けれどもあなたは
必竟財産があるからそんな
呑気な事をいっていられるのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」
私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事実を認めた。しかしこういった。
「少し先生にかぶれたんでしょう」
「
碌なかぶれ方をして下さらないのね」
先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」
私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの
躑躅の咲いている五月の初めを思い出した。あの時帰り
途に、先生が
昂奮した語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろ
凄い言葉であった。けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。
「奥さん、お
宅の財産はよッぽどあるんですか」
「何だってそんな事をお聞きになるの」
「先生に聞いても教えて下さらないから」
奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
「教えて上げるほどないからでしょう」
「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、
宅へ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」
先生は庭の方を向いて、澄まして
烟草を吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかった。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。――そりゃどうでも
宜いとして、あなたはこれから何か
為さらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていちゃ……」
「ごろごろばかりしていやしないさ」
先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。
私はその夜十時過ぎに先生の家を辞した。二、三日うちに帰国するはずになっていたので、座を立つ前に私はちょっと
暇乞いの言葉を述べた。
「また当分お目にかかれませんから」
「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」
私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。しかし暑い盛りの八月を東京まで来て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
「まあ九月
頃になるでしょう」
「じゃずいぶんご
機嫌よう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。ずいぶん暑そうだから。行ったらまた
絵端書でも送って上げましょう」
「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」
先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。
「何まだ行くとも行かないとも
極めていやしないんです」
席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」と聞いた。私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。何ともいって来ない以上、悪くはないのだろうくらいに考えていた。
「そんなに
容易く考えられる病気じゃありませんよ。
尿毒症が出ると、もう
駄目なんだから」
尿毒症という言葉も意味も私には
解らなかった。この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私はそんな術語をまるで聞かなかった。
「本当に大事にしてお上げなさいよ」と奥さんもいった。「毒が脳へ
廻るようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」
無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。
「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」
「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」
奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でも
憶い出したのか、沈んだ調子でこういったなり下を向いた。私も父の運命が本当に気の毒になった。
すると先生が突然奥さんの方を向いた。
「
静、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」
「なぜ」
「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それとも
己の方がお前より前に片付くかな。大抵世間じゃ
旦那が先で、
細君が後へ残るのが当り前のようになってるね」
「そう
極った訳でもないわ。けれども男の
方はどうしても、そら年が上でしょう」
「だから先へ死ぬという理屈なのかね。すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事になるね」
「あなたは特別よ」
「そうかね」
「だって丈夫なんですもの。ほとんど
煩った
例がないじゃありませんか。そりゃどうしたって私の方が先だわ」
「先かな」
「え、きっと先よ」
先生は私の顔を見た。私は笑った。
「しかしもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」
「どうするって……」
奥さんはそこで
口籠った。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分を
更えていた。
「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。
老少不定っていうくらいだから」
奥さんはことさらに私の方を見て
笑談らしくこういった。
私は立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。
「君はどう思います」と先生が聞いた。
先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、
固より私に判断のつくべき問題ではなかった。私はただ笑っていた。
「寿命は分りませんね。私にも」
「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと
極った年数をもらって来るんだから仕方がないわ。先生のお
父さんやお母さんなんか、ほとんど
同じよ、あなた、亡くなったのが」
「亡くなられた日がですか」
「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」
この知識は私にとって新しいものであった。私は不思議に思った。
「どうしてそう一度に死なれたんですか」
奥さんは私の問いに答えようとした。先生はそれを
遮った。
「そんな話はお
止しよ。つまらないから」
先生は手に持った
団扇をわざとばたばたいわせた。そうしてまた奥さんを顧みた。
「
静、おれが死んだらこの
家をお前にやろう」
奥さんは笑い出した。
「ついでに地面も下さいよ」
「地面は
他のものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものは
皆なお前にやるよ」
「どうも有難う。けれども横文字の本なんか
貰っても仕様がないわね」
「古本屋に売るさ」
「売ればいくらぐらいになって」
先生はいくらともいわなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしく見えた。それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ
何遍おっしゃるの。
後生だからもう
好い加減にして、おれが死んだらは
止して
頂戴。
縁喜でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんの
厭がる事をいわなくなった。私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「ご病人をお
大事に」と奥さんがいった。
「また九月に」と先生がいった。
私は
挨拶をして
格子の外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした
木犀の
一株が、私の
行手を
塞ぐように、
夜陰のうちに枝を張っていた。私は二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に
被われているその
梢を見て、来たるべき秋の花と香を
想い浮べた。私は先生の
宅とこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように、いっしょに記憶していた。私が偶然その
樹の前に立って、再びこの宅の玄関を
跨ぐべき次の秋に思いを
馳せた時、今まで格子の間から
射していた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。
私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に
調える買物もあったし、ご
馳走を詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ
賑やかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であった。用事もなさそうな
男女がぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに会った。彼は私を無理やりにある
酒場へ連れ込んだ。私はそこで
麦酒の泡のような彼の
気を聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。
私はその
翌日も暑さを
冒して、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変
臆劫に感ぜられた。私は電車の中で汗を
拭きながら、
他の時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない
田舎者を憎らしく思った。
私はこの
一夏を無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを
履行するに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日を
丸善の二階で
潰す覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。
買物のうちで一番私を困らせたのは女の
半襟であった。小僧にいうと、いくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。その上
価が
極めて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付かないのもあった。私は全く弱らせられた。そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんを
煩わさなかったかを悔いた。
私は
鞄を買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを
威嚇かすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに
一切の
土産ものを入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の
料簡が
解らないというよりも、その言葉が一種の
滑稽として訴えたのである。
私は
暇乞いをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った。この冬以来父の病気について先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私はむしろ父がいなくなったあとの母を想像して気の毒に思った。そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の
到底故のような健康体になる見込みのない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは
定めて心細いだろう、我々も子として
遺憾の
至りであるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。
私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦の事を
想い浮べた。ことに二、三日前
晩食に呼ばれた時の会話を
憶い出した。
「どっちが先へ死ぬだろう」
私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと
判然分っていたならば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより
外に仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。私は人間を
果敢ないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。
[#改ページ]
宅へ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。
「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来るから」
父は庭へ出て何かしていたところであった。古い
麦藁帽の後ろへ、
日除のために
括り付けた
薄汚ないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ
廻って行った。
学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていた
私は、それを予期以上に喜んでくれる父の前に恐縮した。
「卒業ができてまあ結構だ」
父はこの言葉を
何遍も繰り返した。私は心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先生の
家の食卓で、「お目出とう」といわれた時の先生の
顔付とを比較した。私には口で祝ってくれながら、腹の底でけなしている先生の方が、それほどにもないものを珍しそうに
嬉しがる父よりも、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る
田舎臭いところに不快を感じ出した。
「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」
私はついにこんな口の
利きようをした。すると父が変な顔をした。
「何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう少し意味があるんだ。それがお前に
解っていてくれさえすれば、……」
私は父からその
後を聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこういった。
「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう
三月か
四月ぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどういう
仕合せか、今日までこうしている。
起居に不自由なくこうしている。そこへお前が卒業してくれた。だから
嬉しいのさ。せっかく
丹精した息子が、自分のいなくなった
後で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば
嬉しいだろうじゃないか。大きな考えをもっているお前から見たら、
高が大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」
私は
一言もなかった。
詫まる以上に恐縮して
俯向いていた。父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全く
愚かものであった。私は
鞄の中から卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。証書は何かに
圧し
潰されて、元の形を失っていた。父はそれを
鄭寧に
伸した。
「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
「中に
心でも入れると
好かったのに」と母も
傍から注意した。
父はしばらくそれを
眺めた
後、
起って
床の間の所へ行って、
誰の目にもすぐはいるような正面へ証書を置いた。いつもの私ならすぐ何とかいうはずであったが、その時の私はまるで
平生と違っていた。父や母に対して少しも逆らう気が起らなかった。私はだまって父の
為すがままに任せておいた。
一旦癖のついた
鳥の
子紙の証書は、なかなか父の自由にならなかった。適当な位置に置かれるや
否や、すぐ
己れに自然な
勢いを得て倒れようとした。
私は母を
蔭へ呼んで父の病状を尋ねた。
「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」
「もう何ともないようだよ。
大方好くおなりなんだろう」
母は案外平気であった。都会から
懸け隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう事に掛けてはまるで無知識であった。それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれほど驚いて、あんなに心配したものを、と私は心のうちで独り
異な感じを
抱いた。
「でも医者はあの時
到底むずかしいって宣告したじゃありませんか」
「だから人間の
身体ほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が
手重くいったものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさないようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、
強情でねえ。自分が
好いと思い込んだら、なかなか
私のいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね」
私はこの前帰った時、無理に
床を上げさして、
髭を
剃った父の様子と態度とを思い出した。「もう大丈夫、お母さんがあんまり
仰山過ぎるからいけないんだ」といったその時の言葉を考えてみると、
満更母ばかり責める気にもなれなかった。「しかし
傍でも少しは注意しなくっちゃ」といおうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。ただ父の
病の性質について、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。しかしその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料に過ぎなかった。母は別に感動した様子も見せなかった。ただ「へえ、やっぱり
同じ病気でね。お気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その
方は」などと聞いた。
私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。父は私の注意を母よりは
真面目に聞いてくれた。「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、
己の
身体は
必竟己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番
能く心得ているはずだからね」といった。それを聞いた母は苦笑した。「それご覧な」といった。
「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに免状を持って来たから、それが
嬉しいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」
「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。お
腹のなかではまだ大丈夫だと思ってお
出のだよ」
「そうでしょうか」
「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだがね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの
家にいる気かなんて」
私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い
田舎家を想像して見た。この
家から父一人を引き去った
後は、そのままで立ち行くだろうか。兄はどうするだろうか。母は何というだろうか。そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私は母を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて
貰うものは、分けて貰って置けという注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ
試しはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方が
剣呑さ」
私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この
陳腐なような母の言葉を
黙然と聞いていた。
私のために赤い
飯を
炊いて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうちで
暗にそれを恐れていた。私はすぐ断わった。
「あんまり
仰山な事は
止してください」
私は
田舎の客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、何か事があれば
好いといった
風の人ばかり
揃っていた。私は子供の時から彼らの席に
侍するのを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそう
甚しいように想像された。しかし私は父や母の手前、あんな
野鄙な人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。
「仰山仰山とおいいだが、
些とも仰山じゃないよ。生涯に二度とある事じゃないんだからね、お客ぐらいするのは当り前だよ。そう遠慮をお
為でない」
母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でも
貰ったと同じ程度に、重く見ているらしかった。
「呼ばなくっても
好いが、呼ばないとまた何とかいうから」
これは父の言葉であった。父は彼らの陰口を気にしていた。実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。
「東京と違って田舎は
蒼蠅いからね」
父はこうもいった。
「お父さんの顔もあるんだから」と母がまた付け加えた。
私は
我を張る訳にも行かなかった。どうでも二人の都合の
好いようにしたらと思い出した。
「つまり私のためなら、
止して下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのが
厭だからというご
主意なら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありません」
「そう理屈をいわれると困る」
父は苦い顔をした。
「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義理ぐらいは知っているだろう」
母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せてもなかなか
敵うどころではなかった。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が
平生から私に対してもっている不平の全体を見た。私はその時自分の言葉使いの
角張ったところに気が付かずに、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
父はその
夜また気を
更えて、客を呼ぶなら
何日にするかと私の都合を聞いた。都合の
好いも悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に
寝起きしている私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折れて出たのと同じ事であった。私はこの穏やかな父の前に
拘泥らない頭を下げた。私は父と相談の上
招待の日取りを
極めた。
その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは
明治天皇のご病気の報知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の
田舎家のうちに多少の曲折を経てようやく
纏まろうとした私の卒業祝いを、
塵のごとくに吹き払った。
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
眼鏡を掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ
行幸になった陛下を
憶い出したりした。
小勢な
人数には広過ぎる古い家がひっそりしている中に、
私は
行李を解いて書物を
繙き始めた。なぜか私は気が落ち付かなかった。あの
目眩るしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、
頁を一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持よく勉強ができた。
私はややともすると机にもたれて
仮寝をした。時にはわざわざ
枕さえ出して本式に昼寝を
貪ぼる事もあった。眼が覚めると、
蝉の声を聞いた。うつつから続いているようなその声は、急に
八釜しく耳の底を
掻き乱した。私は
凝とそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸に
抱いた。
私は筆を
執って友達のだれかれに短い
端書または長い手紙を書いた。その友達のあるものは東京に残っていた。あるものは遠い故郷に帰っていた。返事の来るのも、
音信の届かないのもあった。私は
固より先生を忘れなかった。原稿紙へ
細字で三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分というようなものを題目にして書き
綴ったのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ東京にいるだろうかと
疑った。先生が奥さんといっしょに
宅を
空ける場合には、五十
恰好の
切下の女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生にあの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違えていた。先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は
一向音信の
取り
遣りをしていなかった。私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁のない奥さんの方の
親戚であった。私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んでいるその人の姿を思い出した。もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あの切下のお
婆さんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考えた。そのくせその手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、私は
能く承知していた。ただ私は
淋しかった。そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。しかしその返事はついに来なかった。
父はこの前の冬に帰って来た時ほど
将棋を差したがらなくなった。将棋盤はほこりの
溜ったまま、
床の
間の隅に片寄せられてあった。ことに陛下のご病気以後父は
凝と考え込んでいるように見えた。毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。それからその
読がらをわざわざ私のいる所へ持って来てくれた。
「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」
父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。
「
勿体ない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
こういう父の顔には深い
掛念の
曇りがかかっていた。こういわれる私の胸にはまた父がいつ
斃れるか分らないという心配がひらめいた。
「しかし大丈夫だろう。おれのような
下らないものでも、まだこうしていられるくらいだから」
父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも
己れに落ちかかって来そうな危険を予感しているらしかった。
「お父さんは本当に病気を
怖がってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですぜ」
母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを
拭いた。
父の元気は次第に衰えて行った。
私を驚かせたハンケチ付きの古い
麦藁帽子が自然と
閑却されるようになった。私は黒い
煤けた棚の上に
載っているその帽子を
眺めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し
慎んでくれたらと心配した。父が
凝と
坐り込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。
「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下の
病と父の病とを結び付けて考えていた。私にはそうばかりとも思えなかった。
「気じゃない。本当に
身体が悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くらしい」
私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
「今年の夏はお前も
詰らなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さんの
身体もあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方が好かったんだよ」
私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それから一週間
後であった。そうしていよいよと
極めた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。時間に束縛を許さない悠長な
田舎に帰った私は、お
蔭で好もしくない社交上の苦痛から救われたも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
崩御の報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。
己も……」
父はその
後をいわなかった。
私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで
旗竿の
球を包んで、それで旗竿の先へ三
寸幅のひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風のない空気のなかにだらりと下がった。私の
宅の古い門の屋根は
藁で
葺いてあった。雨や風に打たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、
所々の
凸凹さえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの
地と、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とを
眺めた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつて先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは
大分趣が違っていますかね」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見せるのが恥ずかしくもあった。
私はまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしているなかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしない
渦の中に、自然と
捲き込まれている事に気が付かなかった。しばらくすれば、その
灯もまたふっと消えてしまうべき運命を、
眼の前に控えているのだとは
固より気が付かなかった。
私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆を
執りかけた。私はそれを十行ばかり書いて
已めた。書いた所は
寸々に引き裂いて
屑籠へ投げ込んだ。(先生に
宛ててそういう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例に
徴してみると、とても返事をくれそうになかったから)。私は
淋しかった。それで手紙を書くのであった。そうして返事が来れば
好いと思うのであった。
八月の
半ばごろになって、
私はある
朋友から手紙を受け取った。その中に地方の中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探し
廻る男であった。この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっと
好い地方へ相談ができたので、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。私はすぐ返事を出して断った。知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へ
廻してやったら
好かろうと書いた。
私は返事を出した後で、父と母にその話をした。二人とも私の断った事に異存はないようであった。
「そんな所へ行かないでも、まだ
好い口があるだろう」
こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。
迂闊な父や母は、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。
「相当の口って、
近頃じゃそんな
旨い口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さんと私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」
「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなたの所のご
二男は、大学を卒業なすって何をしてお
出ですかと聞かれた時に返事ができないようじゃ、おれも肩身が狭いから」
父は
渋面をつくった。父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。その郷里の
誰彼から、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業したての私を片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まるで足を空に向けて歩く
奇体な人間に異ならなかった。私の方でも、実際そういう人間のような気持を折々起した。私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の
懸隔の
甚しい父と母の前に
黙然としていた。
「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら
好いじゃないか。こんな時こそ」
母はこうより
外に先生を解釈する事ができなかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きているうちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人ではなかった。
「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。
「何にもしていないんです」と私が答えた。
私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はたしかにそれを記憶しているはずであった。
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやっていそうなものだがね」
父はこういって、私を
諷した。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得て働いている。
必竟やくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
父はこうもいった。私はそれでもまだ黙っていた。
「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」と母が聞いた。
「いいえ」と私は答えた。
「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でも
好いからお出しな」
「ええ」
私は
生返事をして席を立った。
父は明らかに自分の病気を恐れていた。しかし医者の来るたびに
蒼蠅い質問を掛けて相手を困らす
質でもなかった。医者の方でもまた遠慮して何ともいわなかった。
父は死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分がいなくなった
後のわが
家を想像して見るらしかった。
「
小供に学問をさせるのも、
好し
悪しだね。せっかく修業をさせると、その小供は決して
宅へ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」
学問をした結果兄は今
遠国にいた。教育を受けた因果で、
私はまた東京に住む覚悟を固くした。こういう子を育てた父の
愚痴はもとより不合理ではなかった。永年住み古した
田舎家の中に、たった一人取り残されそうな母を
描き出す父の想像はもとより
淋しいに違いなかった。
わが
家は動かす事のできないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある間は、動かす事のできないものと信じていた。自分が死んだ
後、この孤独な母を、たった一人
伽藍堂のわが家に取り残すのもまた
甚だしい不安であった。それだのに、東京で
好い地位を求めろといって、私を
強いたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお
蔭でまた東京へ出られるのを喜んだ。
私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった。私は先生に手紙を書いて、家の事情を
精しく述べた。もし自分の力でできる事があったら何でもするから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。また取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。しかし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。
「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」
母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事は
他が気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」
母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。
「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんな
好い口がないとも限らないんだから、早く頼んでおくに越した事はないよ」
「ええ。とにかく返事は来るに
極ってますから、そうしたらまたお話ししましょう」
私はこんな事に掛けて
几帳面な先生を信じていた。私は先生の返事の来るのを心待ちに待った。けれども私の予期はついに
外れた。先生からは一週間
経っても何の
音信もなかった。
「
大方どこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
私は母に向かって
言訳らしい言葉を使わなければならなかった。そうしてその言葉は母に対する言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。私は
強いても何かの事情を仮定して先生の態度を弁護しなければ不安になった。
私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの病気を忘れる事があった。未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。私はついに先生の忠告通り財産分配の事を父にいい出す機会を得ずに過ぎた。
九月始めになって、
私はいよいよまた東京へ出ようとした。私は父に向かって当分今まで通り学資を送ってくれるようにと頼んだ。
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」
私は父の希望する地位を
得るために東京へ行くような事をいった。
「無論口の見付かるまでで
好いですから」ともいった。
私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。けれども事情にうとい父はまたあくまでもその反対を信じていた。
「そりゃ
僅の
間の事だろうから、どうにか都合してやろう。その代り永くはいけないよ。相当の地位を
得次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日から
他の世話になんぞなるものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていないようだね」
父はこの
外にもまだ色々の
小言をいった。その中には、「昔の親は子に食わせてもらったのに、今の親は子に食われるだけだ」などという言葉があった。それらを私はただ黙って聞いていた。
小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父はいつ行くかと私に尋ねた。私には早いだけが
好かった。
「お母さんに日を見てもらいなさい」
「そうしましょう」
その時の私は父の前に
存外おとなしかった。私はなるべく父の機嫌に逆らわずに、
田舎を出ようとした。父はまた私を
引き
留めた。
「お前が東京へ行くと
宅はまた
淋しくなる。何しろ
己とお母さんだけなんだからね。そのおれも
身体さえ達者なら
好いが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」
私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。私は取り散らした書物の間に
坐って、心細そうな父の態度と言葉とを、
幾度か繰り返し眺めた。私はその時また
蝉の声を聞いた。その声はこの
間中聞いたのと違って、つくつく
法師の声であった。私は夏郷里に帰って、煮え付くような蝉の声の中に
凝と坐っていると、変に悲しい心持になる事がしばしばあった。私の哀愁はいつもこの虫の
烈しい
音と共に、心の底に
沁み込むように感ぜられた。私はそんな時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。
私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに、私を取り巻く人の運命が、大きな
輪廻のうちに、そろそろ動いているように思われた。私は
淋しそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた
憶い浮べた。先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、いっしょに私の頭に
上りやすかった。
私はほとんど父のすべても知り
尽していた。もし父を離れるとすれば、
情合の上に親子の心残りがあるだけであった。先生の多くはまだ私に
解っていなかった。話すと約束されたその人の過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私はぜひともそこを通り越して、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であった。私は母に日を見てもらって、東京へ立つ日取りを
極めた。
私がいよいよ立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父はまた突然
引っ
繰り
返った。私はその時書物や衣類を詰めた
行李をからげていた。父は
風呂へ入ったところであった。父の背中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。私は
裸体のまま母に後ろから抱かれている父を見た。それでも座敷へ
伴れて戻った時、父はもう大丈夫だといった。念のために
枕元に
坐って、
濡手拭で父の頭を
冷していた私は、九時
頃になってようやく
形ばかりの夜食を済ました。
翌日になると父は思ったより元気が
好かった。
留めるのも聞かずに歩いて便所へ行ったりした。
「もう大丈夫」
父は去年の暮倒れた時に私に向かっていったと同じ言葉をまた繰り返した。その時ははたして口でいった通りまあ大丈夫であった。私は今度もあるいはそうなるかも知れないと思った。しかし医者はただ用心が肝要だと注意するだけで、念を押しても
判然した事を話してくれなかった。私は不安のために、
出立の日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。
「もう少し様子を見てからにしましょうか」と私は母に相談した。
「そうしておくれ」と母が頼んだ。
母は父が庭へ出たり
背戸へ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんな事が起るとまた必要以上に心配したり気を
揉んだりした。
「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」と父が聞いた。
「ええ、少し延ばしました」と私が答えた。
「おれのためにかい」と父が聞き返した。
私はちょっと
躊躇した。そうだといえば、父の病気の重いのを裏書きするようなものであった。私は父の神経を過敏にしたくなかった。しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。
「気の毒だね」といって、庭の方を向いた。
私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。行李はいつ持ち出しても
差支えないように、堅く
括られたままであった。私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考えた。
私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒した。医者は絶対に
安臥を命じた。
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そうであった。私は兄と
妹に電報を打つ用意をした。けれども寝ている父にはほとんど何の
苦悶もなかった。話をするところなどを見ると、
風邪でも引いた時と全く同じ事であった。その上食欲は不断よりも進んだ。
傍のものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。
「どうせ死ぬんだから、
旨いものでも食って死ななくっちゃ」
私には旨いものという父の言葉が
滑稽にも
悲酸にも聞こえた。父は旨いものを口に入れられる都には住んでいなかったのである。
夜に
入ってかき
餅などを焼いてもらってぼりぼり
噛んだ。
「どうしてこう
渇くのかね。やっぱり
心に丈夫の所があるのかも知れないよ」
母は失望していいところにかえって頼みを置いた。そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。
伯父が見舞に来たとき、父はいつまでも引き留めて帰さなかった。
淋しいからもっといてくれというのが
重な理由であったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも、その目的の一つであったらしい。
父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。
私はその間に長い手紙を九州にいる兄
宛で出した。
妹へは母から出させた。私は腹の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる最後の
音信だろうと思った。それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという意味を書き込めた。
兄は忙しい職にいた。妹は妊娠中であった。だから父の危険が眼の前に
逼らないうちに呼び寄せる自由は
利かなかった。といって、折角都合して来たには来たが、
間に合わなかったといわれるのも
辛かった。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
「そう
判然りした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは承知していて下さい」
停車場のある町から迎えた医者は私にこういった。私は母と相談して、その医者の周旋で、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。父は
枕元へ来て
挨拶する白い服を着た女を見て変な顔をした。
父は死病に
罹っている事をとうから自覚していた。それでいて、眼前にせまりつつある死そのものには気が付かなかった。
「今に
癒ったらもう
一返東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」
母は仕方なしに「その時は私もいっしょに
伴れて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。
時とするとまた非常に
淋しがった。
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向かって
何遍もそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。私は
笑いを帯びた先生の顔と、
縁喜でもないと耳を
塞いだ奥さんの様子とを
憶い出した。あの時の「おれが死んだら」は単純な仮定であった。今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。私は先生に対する奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。
「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に
癒ったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと
吃驚しますよ、変っているんで。電車の新しい線路だけでも大変
増えていますからね。電車が通るようになれば自然
町並も変るし、その上に市区改正もあるし、東京が
凝としている時は、まあ
二六時中一分もないといっていいくらいです」
私は仕方がないからいわないでいい事まで
喋舌った。父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
病人があるので自然
家の出入りも多くなった。近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割で代る代る見舞に来た。中には比較的遠くにいて
平生疎遠なものもあった。「どうかと思ったら、この様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっとも
瘠せていないじゃないか」などといって帰るものがあった。私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし始めた。
その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。私は母や
伯父と相談して、とうとう兄と
妹に電報を打った。兄からはすぐ行くという返事が来た。妹の夫からも立つという
報知があった。妹はこの前
懐妊した時に流産したので、今度こそは癖にならないように大事を取らせるつもりだと、かねていい越したその夫は、妹の代りに自分で出て来るかも知れなかった。
こうした落ち付きのない間にも、
私はまだ静かに
坐る余裕をもっていた。
偶には書物を開けて十
頁もつづけざまに読む時間さえ出て来た。
一旦堅く
括られた私の
行李は、いつの間にか解かれてしまった。私は
要るに任せて、その中から色々なものを取り出した。私は東京を立つ時、心のうちで
極めた、この夏中の日課を顧みた。私のやった事はこの日課の
三が
一にも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。しかしこの夏ほど思った通り仕事の運ばない
例も少なかった。これが人の世の常だろうと思いながらも私は
厭な気持に
抑え付けられた。
私はこの不快の
裏に坐りながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだ
後の事を想像した。そうしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全然異なった二人の面影を
眺めた。
私が父の
枕元を離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出した。
「少し
午眠でもおしよ。お前もさぞ
草臥れるだろう」
母は私の気分を了解していなかった。私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。私は
単簡に礼を述べた。母はまだ
室の入口に立っていた。
「お父さんは?」と私が聞いた。
「今よく寝てお
出だよ」と母が答えた。
母は突然はいって来て私の
傍に
坐った。
「先生からまだ何ともいって来ないかい」と聞いた。
母はその時の私の言葉を信じていた。その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。しかし父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。私は心得があって母を
欺いたと同じ結果に陥った。
「もう
一遍手紙を出してご覧な」と母がいった。
役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を
厭うような私ではなかった。けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。私は父に
叱られたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下げられるのを
遥かに恐れていた。あの依頼に対して今まで返事の
貰えないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても
埒は明きませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んで
廻らなくっちゃ」
「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」
「だから出やしません。
癒るとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」
「そりゃ
解り切った話だね。今にもむずかしいという大病人を
放ちらかしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」
私は始め心のなかで、何も知らない母を
憐れんだ。しかし母がなぜこんな問題をこのざわざわした際に持ち出したのか理解できなかった。私が父の病気をよそに、静かに坐ったり書見したりする余裕のあるごとくに、母も眼の前の病人を忘れて、
外の事を考えるだけ、胸に
空地があるのかしらと
疑った。その時「実はね」と母がいい出した。
「実はお父さんの生きてお
出のうちに、お前の口が
極ったらさぞ安心なさるだろうと思うんだがね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れないけれども、それにしても、まだああやって口も
慥かなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」
憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。
兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。父は
平生から何を
措いても新聞だけには眼を通す習慣であったが、
床についてからは、退屈のため
猶更それを読みたがった。母も
私も
強いては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。
「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変
好いようじゃありませんか」
兄はこんな事をいいながら父と話をした。その
賑やか過ぎる調子が私にはかえって不調和に聞こえた。それでも父の前を
外して私と差し向いになった時は、むしろ沈んでいた。
「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」
「
私もそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」
兄は私の弁解を黙って聞いていた。やがて、「よく
解るのかな」といった。兄は父の理解力が病気のために、平生よりはよっぽど
鈍っているように観察したらしい。
「そりゃ
慥かです。
私はさっき二十分ばかり
枕元に
坐って色々話してみたが、調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ」
兄と前後して着いた
妹の夫の意見は、我々よりもよほど楽観的であった。父は彼に向かって妹の事をあれこれと尋ねていた。「
身体が身体だからむやみに汽車になんぞ乗って
揺れない方が好い。無理をして見舞に来られたりすると、かえってこっちが心配だから」といっていた。「なに今に治ったら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこっちから出掛けるから
差支えない」ともいっていた。
乃木大将の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ大変だ」といった。
何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。「
私も実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
その
頃の新聞は実際
田舎ものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。私は父の枕元に坐って
鄭寧にそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分の
室へ持って来て、残らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから
官女みたような
服装をしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。
悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな
樹や草を震わせている
最中に、突然私は一通の電報を先生から受け取った。洋服を着た人を見ると犬が
吠えるような所では、一通の電報すら大事件であった。それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ呼び出した。
「何だい」といって、私の封を開くのを
傍に立って待っていた。
電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。
「きっとお
頼もうしておいた口の事だよ」と母が推断してくれた。
私もあるいはそうかも知れないと思った。しかしそれにしては少し変だとも考えた。とにかく兄や
妹の夫まで呼び寄せた私が、父の病気を
打遣って、東京へ行く訳には行かなかった。私は母と相談して、行かれないという返電を打つ事にした。できるだけ簡略な言葉で父の病気の
危篤に陥りつつある
旨も付け加えたが、それでも気が済まなかったから、
委細手紙として、細かい事情をその日のうちに
認めて郵便で出した。頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当に
間の悪い時は仕方のないものだね」といって残念そうな顔をした。
私の書いた手紙はかなり長いものであった。母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろうと考えていた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私
宛で届いた。それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。
「
大方手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」
母はどこまでも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。私もあるいはそうかとも考えたが、先生の平生から
推してみると、どうも変に思われた。「先生が口を探してくれる」。これはあり
得べからざる事のように私には見えた。
「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないですね」
私は母に向かってこんな分り切った事をいった。母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」と答えた。私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何の役にも立たないのは知れているのに。
その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件について話をする機会がなかった。二人の医者は立ち合いの上、病人に
浣腸などをして帰って行った。
父は医者から
安臥を命ぜられて以来、両便とも寝たまま
他の手で始末してもらっていた。潔癖な父は、最初の間こそ
甚だしくそれを
忌み嫌ったが、
身体が
利かないので、やむを得ずいやいや
床の上で用を足した。それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日を
経るに従って、無精な
排泄を意としないようになった。たまには
蒲団や敷布を汚して、
傍のものが
眉を寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。もっとも尿の量は病気の性質として、極めて少なくなった。医者はそれを苦にした。食欲も次第に衰えた。たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、
咽喉から下へはごく
僅しか通らなかった。好きな新聞も手に取る気力がなくなった。
枕の
傍にある
老眼鏡は、いつまでも黒い
鞘に納められたままであった。子供の時分から仲の好かった
作さんという今では一
里ばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で
羨ましいね。
己はもう
駄目だ」
「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
浣腸をしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。父は医者のお
蔭で大変楽になったといって喜んだ。少し自分の寿命に対する度胸ができたという
風に機嫌が直った。
傍にいる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、あたかも私の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。
傍にいる私はむずがゆい心持がしたが、母の言葉を
遮る訳にもゆかないので、黙って聞いていた。病人は
嬉しそうな顔をした。
「そりゃ結構です」と
妹の夫もいった。
「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。
私は今更それを否定する勇気を失った。自分にも何とも訳の分らない
曖昧な返事をして、わざと席を立った。
父の病気は最後の一撃を待つ
間際まで進んで来て、そこでしばらく
躊躇するようにみえた。家のものは運命の宣告が、今日
下るか、今日下るかと思って、毎夜
床にはいった。
父は
傍のものを
辛くするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。その点になると看病はむしろ楽であった。要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に
各自の寝床へ引き取って
差支えなかった。何かの拍子で眠れなかった時、病人の
唸るような声を
微かに聞いたと思い誤った
私は、一
遍半夜に床を抜け出して、念のため父の
枕元まで行ってみた事があった。その
夜は母が起きている番に当っていた。しかしその母は父の横に
肱を曲げて枕としたなり寝入っていた。父も深い眠りの
裏にそっと置かれた人のように静かにしていた。私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
私は兄といっしょの
蚊帳の中に寝た。
妹の夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れた座敷に
入って休んだ。
「
関さんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」
関というのはその人の
苗字であった。
「しかしそんな忙しい
身体でもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんよりも兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」
「困っても仕方がない。
外の事と違うからな」
兄と
床を並べて寝る私は、こんな寝物語をした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないという考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子として親の死ぬのを待っているようなものであった。しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを
憚かった。そうしてお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。
実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うといって承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。その代り自分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
「お前の卒業祝いは
已めになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。私はアルコールに
煽られたその時の乱雑な有様を
想い出して苦笑した。飲むものや食うものを
強いて
廻る父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
私たちはそれほど仲の
好い兄弟ではなかった。
小さいうちは
好く
喧嘩をして、年の少ない私の方がいつでも泣かされた。学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を
眺めて、常に動物的だと思っていた。私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、兄はいつでも私には近くなかったのである。それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の
優しい心持がどこからか自然に
湧いて出た。場合が場合なのもその大きな
源因になっていた。二人に共通な父、その父の死のうとしている
枕元で、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「一体
家の財産はどうなってるんだろう」
「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては
高の知れたものだろう」
母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
「まだ手紙は来ないかい」と私を責めた。
「先生先生というのは一体
誰の事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と
私は答えた。私は自分で質問をしておきながら、すぐ
他の説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いた事は聞いたけれども」
兄は
必竟聞いても
解らないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。
先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは
詰らん人間に限るといった
風の
口吻を
洩らした。
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な
了簡だからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ
嘘だ」
私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく
解るかと聞き返してやりたかった。
「それでもその人のお
蔭で地位ができればまあ結構だ。お
父さんも喜んでるようじゃないか」
兄は後からこんな事をいった。先生から
明瞭な手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もできず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の
早呑み
込みでみんなにそう
吹聴してしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでもなく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が書いてあればいいがと念じた。私は死に
瀕している父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その
他妹の夫だの
伯父だの
叔母だのの手前、私のちっとも
頓着していない事に、神経を悩まさなければならなかった。
父が変な黄色いものも
嘔いた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。
兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。
「お前ここへ帰って来て、
宅の事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかった。
「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土の
臭いを
嗅いで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、
田舎でも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど
好いだろう」
「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。
「おれにそんな事ができるものか」と兄は
一口に
斥けた。兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気が
充ち
満ちていた。
「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取らなくっちゃなるまい」
「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」
兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ
後について、こんな風に語り合った。
父は時々
囈語をいうようになった。
「
乃木大将に済まない。実に
面目次第がない。いえ私もすぐお
後から」
こんな言葉をひょいひょい出した。母は気味を悪がった。なるべくみんなを
枕元へ集めておきたがった。気のたしかな時は
頻りに
淋しがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことに
室の
中を
見廻して母の影が見えないと、父は必ず「お
光は」と聞いた。聞かないでも、眼がそれを物語っていた。
私はよく
起って母を呼びに行った。「何かご用ですか」と、母が
仕掛けた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があった。そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。突然「お光お
前にも色々世話になったね」などと
優しい言葉を出す時もあった。母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。そうした後ではまたきっと丈夫であった昔の父をその対照として
想い出すらしかった。
「あんな
憐れっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶん
酷かったんだよ」
母は父のために
箒で背中をどやされた時の事などを話した。今まで
何遍もそれを聞かされた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の
記念のように耳へ受け入れた。
父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ
遺言らしいものを口に出さなかった。
「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。
「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために
好し
悪しだと考えていた。二人は決しかねてついに
伯父に相談をかけた。伯父も首を傾けた。
「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いかも知れず」
話はとうとう
愚図愚図になってしまった。そのうちに
昏睡が来た。例の通り何も知らない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。「まあああして楽に寝られれば、
傍にいるものも助かります」といった。
父は時々眼を開けて、
誰はどうしたなどと突然聞いた。その誰はつい
先刻までそこに
坐っていた人の名に限られていた。父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、
闇を縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。母が
昏睡状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。
そのうち舌が段々
縺れて来た。何かいい出しても
尻が
不明瞭に
了るために、要領を得ないでしまう事が多くあった。そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い声を出した。我々は
固より不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならなかった。
「頭を冷やすと
好い心持ですか」
「うん」
私は看護婦を相手に、父の
水枕を取り
更えて、それから新しい氷を入れた
氷嚢を頭の上へ
載せた。がさがさに割られて
尖り切った氷の破片が、
嚢の中で落ちつく間、私は父の
禿げ上った額の
外でそれを柔らかに
抑えていた。その時兄が
廊下伝いにはいって来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。
空いた方の左手を出して、その郵便を受け取った私はすぐ不審を起した。
それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。
並の
状袋にも入れてなかった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を
鄭寧に
糊で
貼り付けてあった。私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれを
懐に差し込んだ。
その日は病人の出来がことに悪いように見えた。
私が
厠へ行こうとして席を立った時、廊下で行き合った兄は「どこへ行く」と番兵のような口調で
誰何した。
「どうも様子が少し変だからなるべく
傍にいるようにしなくっちゃいけないよ」と注意した。
私もそう思っていた。
懐中した手紙はそのままにしてまた病室へ帰った。父は眼を開けて、そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々説明してやると、父はそのたびに
首肯いた。首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。
「どうも色々お世話になります」
父はこういった。そうしてまた昏睡状態に陥った。
枕辺を取り巻いている人は無言のまましばらく病人の様子を見詰めていた。やがてその
中の一人が立って次の
間へ出た。するとまた一人立った。私も三人目にとうとう席を
外して、自分の
室へ来た。私には
先刻懐へ入れた郵便物の中を開けて見ようという目的があった。それは病人の枕元でも容易にできる
所作には違いなかった。しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、
一息にそこで読み通す訳には行かなかった。私は特別の時間を
偸んでそれに
充てた。
私は繊維の強い包み紙を引き掻くように
裂き破った。中から出たものは、
縦横に引いた
罫の中へ行儀よく書いた原稿
様のものであった。そうして封じる便宜のために、
四つ
折に
畳まれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。
私の心はこの多量の紙と
印気が、私に何事を語るのだろうかと思って驚いた。私は同時に病室の事が気にかかった。私がこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる、少なくとも、私は兄からか母からか、それでなければ
伯父からか、呼ばれるに
極っているという
予覚があった。私は落ち付いて先生の書いたものを読む気になれなかった。私はそわそわしながらただ最初の一
頁を読んだ。その頁は
下のように
綴られていた。
「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に
逸するようになります。そうすると、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるで
嘘になります。私はやむを得ず、口でいうべきところを、筆で申し上げる事にしました」
私はそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事ができた。私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす
気遣いはないと、私は初手から信じていた。しかし筆を
執ることの嫌いな先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気になったのだろう。先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。
「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」
私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲われた。私はつづいて
後を読もうとした。その時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。私はまた驚いて立ち上った。廊下を
馳け抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。私はいよいよ父の上に最後の瞬間が来たのだと覚悟した。
病室にはいつの間にか医者が来ていた。なるべく病人を楽にするという主意からまた
浣腸を試みるところであった。看護婦は
昨夜の疲れを休めるために別室で寝ていた。慣れない兄は
起ってまごまごしていた。
私の顔を見ると、「ちょっと手をお
貸し」といったまま、自分は席に着いた。私は兄に代って、
油紙を父の
尻の下に
宛てがったりした。
父の様子は少しくつろいで来た。三十分ほど
枕元に
坐っていた医者は、
浣腸の結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。帰り
際に、もしもの事があったらいつでも呼んでくれるようにわざわざ断っていた。
私は今にも
変がありそうな病室を
退いてまた先生の手紙を読もうとした。しかし私はすこしも
寛くりした気分になれなかった。机の前に坐るや
否や、また兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。そうして今度呼ばれれば、それが最後だという
畏怖が私の手を
顫わした。私は先生の手紙をただ無意味に
頁だけ
剥繰って行った。私の眼は
几帳面に
枠の中に
篏められた
字画を見た。けれどもそれを読む余裕はなかった。拾い読みにする余裕すら
覚束なかった。私は一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りに
畳んで机の上に置こうとした。その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」
私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に
凝結したように感じた。私はまた逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐらいずつの割で
倒に読んで行った。私は
咄嗟の
間に、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする
文字を、眼で刺し通そうと試みた。その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。私は
倒まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を
自烈たそうに畳んだ。
私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の
枕辺は
存外静かであった。頼りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を
手招ぎして、「どうですか様子は」と聞いた。母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は
首肯いた。父ははっきり「有難う」といった。父の精神は存外
朦朧としていなかった。
私はまた病室を
退いて自分の部屋に帰った。そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。私は突然立って帯を締め直して、
袂の中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で医者の家へ
馳け込んだ。私は医者から父がもう
二、
三日保つだろうか、そこのところを
判然聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。医者は
生憎留守であった。私には
凝として彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。心の
落ち
付きもなかった。私はすぐ
俥を
停車場へ急がせた。
私は停車場の壁へ
紙片を
宛てがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで
宅へ届けるように
車夫に頼んだ。そうして思い切った
勢いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、また
袂から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。
[#改ページ]
「……
私はこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいから
宜しく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に
入ったものと記憶しています。私はそれを読んだ時
何とかしたいと思ったのです。少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。ご承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力をあえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません。実をいうと、私はこの自分をどうすれば
好いのかと思い
煩っていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました。
馳足で絶壁の
端まで来て、急に底の見えない谷を
覗き込んだ人のように。私は
卑怯でした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度において
煩悶したのです。
遺憾ながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張ではありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの
糊口の
資、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は
状差へあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。
宅に相応の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって
藻掻き
廻るのか。私はむしろ
苦々しい気分で、遠くにいるあなたにこんな
一瞥を与えただけでした。私は返事を上げなければ済まないあなたに対して、
言訳のためにこんな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと
無躾な言葉を
弄するのではありません。私の本意は
後をご覧になればよく
解る事と信じます。とにかく私は何とか
挨拶すべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
その
後私はあなたに電報を打ちました。
有体にいえば、あの時私はちょっとあなたに会いたかったのです。それからあなたの希望通り私の過去をあなたのために物語りたかったのです。あなたは返電を
掛けて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を
眺めていました。あなたも電報だけでは気が済まなかったとみえて、また後から長い手紙を寄こしてくれたので、あなたの
出京できない事情がよく
解りました。私はあなたを失礼な男だとも何とも思う訳がありません。あなたの大事なお父さんの病気をそっち
退けにして、何であなたが
宅を
空けられるものですか。そのお父さんの
生死を忘れているような私の態度こそ不都合です。――私は実際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんの事を忘れていたのです。そのくせあなたが東京にいる
頃には、
難症だからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに。私はこういう矛盾な人間なのです。あるいは私の
脳髄よりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません。私はこの点においても充分私の
我を認めています。あなたに許してもらわなくてはなりません。
あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。それでその意味の返事を出そうかと考えて、筆を
執りかけましたが、一行も書かずに
已めました。どうせ書くなら、この手紙を書いて上げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それがためです。
「
私はそれからこの手紙を書き出しました。
平生筆を持ちつけない私には、自分の思うように、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、あなたに対する私のこの義務を
放擲するところでした。しかしいくら
止そうと思って筆を
擱いても、何にもなりませんでした。私は一時間
経たないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、これが義務の
遂行を重んずる私の性格のように思われるかも知れません。私もそれは
否みません。私はあなたの知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右前後を
見廻しても、どの方角にも根を張っておりません。故意か自然か、私はそれをできるだけ切り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。むしろ
鋭敏過ぎて
刺戟に堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になったのです。だから
一旦約束した以上、それを果たさないのは、大変
厭な心持です。私はあなたに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。
その上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても
差支えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の
生命と共に
葬った方が
好いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは
真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。
私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを
凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお
攫みなさい。私の暗いというのは、
固より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。その倫理上の考えは、今の若い人と
大分違ったところがあるかも知れません。しかしどう間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた
損料着ではありません。だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。私のそれに対する態度もよく
解っているでしょう。私はあなたの意見を
軽蔑までしなかったけれども、決して尊敬を払い
得る程度にはなれなかった。あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。私は時々笑った。あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。その
極あなたは私の過去を
絵巻物のように、あなたの前に展開してくれと
逼った。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが
無遠慮に私の腹の中から、
或る生きたものを
捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を
啜ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが
厭であった。それで
他日を約して、あなたの要求を
斥けてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に
浴びせかけようとしているのです。私の
鼓動が
停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。
「私が両親を
亡くしたのは、まだ私の
廿歳にならない時分でした。いつか
妻があなたに話していたようにも記憶していますが、二人は同じ病気で死んだのです。しかも妻があなたに不審を起させた通り、ほとんど同時といっていいくらいに、前後して死んだのです。実をいうと、父の病気は恐るべき
腸窒扶斯でした。それが
傍にいて看護をした母に伝染したのです。
私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。
宅には相当の財産があったので、むしろ
鷹揚に育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも父か母かどっちか、片方で
好いから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事ができたろうにと思います。
私は二人の
後に
茫然として取り残されました。私には知識もなく、経験もなく、また分別もありませんでした。父の死ぬ時、母は傍にいる事ができませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ事さえまだ知らせてなかったのです。母はそれを
覚っていたか、または
傍のもののいうごとく、実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたか、それは分りません。母はただ
叔父に万事を頼んでいました。そこに
居合せた私を指さすようにして、「この子をどうぞ
何分」といいました。私はその前から両親の許可を得て、東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでにいうつもりらしかったのです。それで「東京へ」とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ
後を引き取って、「よろしい決して心配しないがいい」と答えました。母は強い熱に堪え
得る体質の女なんでしたろうか、叔父は「
確かりしたものだ」といって、私に向って母の事を
褒めていました。しかしこれがはたして母の遺言であったのかどうだか、今考えると分らないのです。母は無論父の
罹った病気の恐るべき名前を知っていたのです。そうして、自分がそれに伝染していた事も承知していたのです。けれども自分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこになると疑う余地はまだいくらでもあるだろうと思われるのです。その上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明らかなものにせよ、
一向記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから……しかしそんな事は問題ではありません。ただこういう
風に物を解きほどいてみたり、またぐるぐる
廻して
眺めたりする
癖は、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。それはあなたにも始めからお断わりしておかなければならないと思いますが、その実例としては当面の問題に大した関係のないこんな記述が、かえって役に立ちはしないかと考えます。あなたの方でもまあそのつもりで読んでください。この
性分が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は
後来ますます
他の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。それが私の
煩悶や苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは
慥かですから覚えていて下さい。
話が
本筋をはずれると、分り
悪くなりますからまたあとへ引き返しましょう。これでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた
他の人と比べたら、あるいは多少落ち付いていやしないかと思っているのです。世の中が眠ると聞こえだすあの電車の
響ももう
途絶えました。雨戸の外にはいつの間にか
憐れな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子で
微かに鳴いています。何も知らない
妻は次の
室で無邪気にすやすや
寝入っています。私が筆を
執ると、一字一
劃ができあがりつつペンの先で鳴っています。私はむしろ落ち付いた気分で紙に向っているのです。
不馴れのためにペンが横へ
外れるかも知れませんが、頭が
悩乱して筆がしどろに走るのではないように思います。
「とにかくたった一人取り残された
私は、母のいい付け通り、この
叔父を頼るより
外に
途はなかったのです。叔父はまた
一切を引き受けて
凡ての世話をしてくれました。そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。
私は東京へ来て高等学校へはいりました。その時の高等学校の生徒は今よりもよほど
殺伐で粗野でした。私の知ったものに、
夜中職人と
喧嘩をして、相手の頭へ
下駄で傷を負わせたのがありました。それが酒を飲んだ
揚句の事なので、夢中に
擲り合いをしている
間に、学校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃんと、
菱形の白いきれの上に書いてあったのです。それで事が面倒になって、その男はもう少しで警察から学校へ照会されるところでした。しかし友達が色々と骨を折って、ついに
表沙汰にせずに済むようにしてやりました。こんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞かせたら、定めて
馬鹿馬鹿しい感じを起すでしょう。私も実際馬鹿馬鹿しく思います。しかし彼らは今の学生にない一種
質朴な点をその代りにもっていたのです。当時私の月々叔父から
貰っていた金は、あなたが今、お父さんから送ってもらう学資に比べると
遥かに少ないものでした。(無論物価も違いましょうが)。それでいて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず数ある同級生のうちで、経済の点にかけては、決して人を
羨ましがる
憐れな境遇にいた訳ではないのです。今から回顧すると、むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。というのは、私は月々
極った送金の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。
何も知らない私は、
叔父を信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいもののように尊敬していました。叔父は事業家でした。県会議員にもなりました。その関係からでもありましょう、政党にも縁故があったように記憶しています。父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く
篤実一方の男でした。楽しみには、茶だの花だのをやりました。それから詩集などを読む事も好きでした。
書画骨董といった
風のものにも、多くの趣味をもっている様子でした。家は
田舎にありましたけれども、二
里ばかり隔たった
市、――その市には叔父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が
懸物だの、
香炉だのを持って、わざわざ父に見せに来ました。父は
一口にいうと、まあマン・オフ・ミーンズとでも評したら
好いのでしょう。比較的上品な
嗜好をもった田舎紳士だったのです。だから
気性からいうと、
闊達な叔父とはよほどの
懸隔がありました。それでいて二人はまた妙に仲が好かったのです。父はよく叔父を評して、自分よりも
遥かに働きのある頼もしい人のようにいっていました。自分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の
材幹が
鈍る、つまり世の中と闘う必要がないからいけないのだともいっていました。この言葉は母も聞きました。私も聞きました。父はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます。「お前もよく覚えているが
好い」と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにいます。このくらい私の父から信用されたり、
褒められたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。私にはただでさえ誇りになるべき叔父でした。父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇りではなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです。
「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の
住居には、新しい主人として、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするより
外に仕方がなかったのです。
叔父はその
頃市にある色々な会社に関係していたようです。業務の都合からいえば、今までの
居宅に
寝起きする方が、二
里も
隔った私の家に移るより遥かに便利だといって笑いました。これは私の父母が亡くなった
後、どう
邸を始末して、私が東京へ出るかという相談の時、叔父の口を
洩れた言葉であります。私の家は
旧い歴史をもっているので、少しはその
界隈で人に知られていました。あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では
由緒のある家を、相続人があるのに
壊したり売ったりするのは大事件です。今の私ならそのくらいの事は何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、
家はそのままにして置かなければならず、はなはだ
所置に苦しんだのです。
叔父は仕方なしに私の
空家へはいる事を承諾してくれました。しかし
市の方にある
住居もそのままにしておいて、両方の間を
往ったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといいました。私に
[#「私に」は底本では「私は」]固より異議のありようはずがありません。私はどんな条件でも東京へ出られれば
好いくらいに考えていたのです。
子供らしい私は、
故郷を離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという
旅人の心で望んでいたのです。休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ
後、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
私の留守の間、叔父はどんな
風に両方の間を
往き来していたか知りません。私の着いた時は、家族のものが、みんな
一つ
家の内に集まっていました。学校へ出る子供などは
平生おそらく市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために
田舎へ遊び半分といった
格で引き取られていました。
みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいた時より、かえって
賑やかで陽気になった家の様子を見て
嬉しがりました。叔父はもと私の部屋になっていた
一間を占領している一番目の男の子を追い出して、私をそこへ入れました。座敷の
数も少なくないのだから、私はほかの部屋で構わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の
宅だからといって、聞きませんでした。
私は折々亡くなった父や母の事を思い出す
外に、何の不愉快もなく、その
一夏を叔父の家族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を
揃えて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。二度目には
判然断りました。三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。彼らの主意は
単簡でした。早く
嫁を
貰ってここの家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろというだけなのです。家は
休暇になって帰りさえすれば、それでいいものと私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必要だから
貰う、両方とも理屈としては
一通り聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には、よく
解ります。私も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょう。しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが
遠眼鏡で物を見るように、
遥か先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた私の家を去りました。
「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の
周囲を取り
捲いている青年の顔を見ると、
世帯染みたものは一人もいません。みんな自由です、そうして
悉く単独らしく思われたのです。こういう気楽な人の
中にも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされて、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、
四辺に
気兼をして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。
後から考えると、私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
学年の終りに、私はまた
行李を
絡げて、親の墓のある
田舎へ帰って来ました。そうして去年と同じように、
父母のいたわが
家の中で、また
叔父夫婦とその子供の変らない顔を見ました。私は再びそこで
故郷の
匂いを
嗅ぎました。その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。ただこの前
勧められた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと
肝心の当人を
捕まえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の
従妹に当る女でした。その女を
貰ってくれれば、お互いのために便宜である、父も
存生中そんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。父が叔父にそういう
風な話をしたというのもあり
得べき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始めて気が付いたので、いわれない前から、
覚っていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく
解りました。私は
迂闊なのでしょうか。あるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に
無頓着であったのが、おもな
源因になっているのでしょう。私は
小供のうちから
市にいる叔父の
家へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。あなたもご承知でしょう、
兄妹の間に恋の成立した
例のないのを。私はこの公認された事実を勝手に
布衍しているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた
男女の間には、恋に必要な
刺戟の起る清新な感じが失われてしまうように考えています。
香をかぎ
得るのは、香を
焚き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた
刹那にあるごとく、恋の衝動にもこういう
際どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、
馴れれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん
麻痺して来るだけです。私はどう考え直しても、この
従妹を妻にする気にはなれませんでした。
叔父はもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。けれども善は急げという
諺もあるから、できるなら今のうちに
祝言の
盃だけは済ませておきたいともいいました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。私はまた断りました。叔父は
厭な顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません。結婚の申し込みを拒絶されたのが、女として
辛かったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛していない事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。
「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年
経った夏の
取付でした。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には
故郷がそれほど懐かしかったからです。あなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の
匂いも格別です、父や母の記憶も
濃かに
漂っています。一年のうちで、七、八の
二月をその中に
包まれて、穴に入った
蛇のように
凝としているのは、私に取って何よりも温かい
好い心持だったのです。
単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断る、断ってさえしまえば
後には何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に
屈托した覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように
好い顔をして私を自分の
懐に
抱こうとしません。それでも
鷹揚に育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。
叔母も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
私の
性分として考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、
鈍い私の眼を洗って、急に世の中が
判然見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくなった
後でも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっともその
頃でも私は決して理に暗い
質ではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の
塊りも、強い力で私の血の中に
潜んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に
跪きました。
半は
哀悼の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
私の世界は
掌を翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。
何遍も自分の眼を
疑って、何遍も自分の眼を
擦りました。そうして心の
中でああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう
色気の付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができたのです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、
盲目の眼が
忽ち
開いたのです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
私が
叔父の態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。
俄然として心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の
行先がどうなるか分らないという気になりました。
「私は今まで叔父
任せにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ
父母に対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい
身体だと自称するごとく、毎晩同じ所に
寝泊りはしていませんでした。二日
家へ帰ると三日は
市の方で暮らすといった
風に、両方の間を
往来して、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいという言葉を
口癖のように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間の
掛かる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を
捕まえる機会を得ませんでした。
私は叔父が市の方に
妾をもっているという
噂を聞きました。私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも
怪しむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた
覚えのない私は驚きました。友達はその
外にも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように
他から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
私はとうとう
叔父と談判を開きました。談判というのは少し
不穏当かも知れませんが、話の
成行きからいうと、そんな言葉で形容するより外に
途のないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから
猜疑の眼で叔父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
遺憾ながら私は今その談判の
顛末を詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこへ
辿りつきたがっているのを、
漸との事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を
執る
術に慣れないばかりでなく、
貴い時間を
惜むという意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を。あの時あなたは私に
昂奮していると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました。私がただ
一口金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、
憎悪と共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、
陳腐だったかも知れません。けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は
冷やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で
体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。
「
一口でいうと、叔父は
私の財産を
胡魔化したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に
容易く行われたのです。すべてを叔父
任せにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる
尊い男とでもいえましょうか。私はその時の
己れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が
口惜しくって
堪りません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は
塵に汚れた
後の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。
もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います。
叔父は策略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと
下卑た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。私は
従妹を愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。
胡魔化されるのはどっちにしても同じでしょうけれども、
載せられ方からいえば、従妹を
貰わない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは私の
我が通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない
些細な事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ
馬鹿気た意地に見えるでしょう。
私と叔父の間に
他の
親戚のものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していませんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を
欺いたと
覚ると共に、
他のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ
賞め抜いていた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の
論理でした。
それでも彼らは私のために、私の所有にかかる
一切のものを
纏めてくれました。それは金額に見積ると、私の予期より
遥かに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って
公沙汰にするか、二つの方法しかなかったのです。私は
憤りました。また迷いました。訴訟にすると
落着までに長い時間のかかる事も恐れました。私は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の結果、
市におる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の
形に変えようとしました。旧友は
止した方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く
故郷を離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。
私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど
経った
後の事です。
田舎で
畠地などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないものでした。自白すると、私の財産は自分が
懐にして家を出た若干の公債と、
後からこの友人に送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては
固より非常に減っていたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に
陥し入れたのです。
「金に不自由のない
私は、
騒々しい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる
婆さんの必要も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、
宅を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は
覚束なく見えたのです。ある日私はまあ
宅だけでも探してみようかというそぞろ
心から、散歩がてらに
本郷台を西へ下りて
小石川の坂を
真直に
伝通院の方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その
頃は左手が
砲兵工廠の
土塀で、右は原とも丘ともつかない
空地に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、
何心なく向うの
崖を
眺めました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の
趣が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な
宅はないだろうかと思いました。それで
直ぐ
草原を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに
好い町になり切れないで、がたぴししているあの
辺の
家並は、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした。私は
露次を抜けたり、
横丁を
曲ったり、ぐるぐる歩き
廻りました。しまいに
駄菓子屋の
上さんに、ここいらに小ぢんまりした
貸家はないかと尋ねてみました。上さんは「そうですね」といって、
少時首をかしげていましたが、「かし
家はちょいと……」と全く思い当らない
風でした。私は
望のないものと
諦らめて帰り掛けました。すると上さんがまた、「
素人下宿じゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静かな
素人屋に一人で下宿しているのは、かえって
家を持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも
日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、
市ヶ谷の
士官学校の
傍とかに住んでいたのだが、
厩などがあって、
邸が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、
無人で
淋しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には
未亡人と一人娘と
下女より
外にいないのだという事を確かめました。私は閑静で
至極好かろうと心の
中に思いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、
素性の知れない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという
掛念もありました。私は
止そうかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい
服装はしていませんでした。それから大学の制帽を
被っていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれどもその頃の大学生は今と違って、
大分世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子に一種の自信を
見出したくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなしにその軍人の遺族の
家を訪ねました。
私は
未亡人に会って
来意を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て
差支えないという
挨拶を
即坐に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また
判然した人でした。私は軍人の
妻君というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この
気性でどこが
淋しいのだろうと疑いもしました。
「私は
早速その家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは
宅中で一番
好い
室でした。
本郷辺に高等下宿といった
風の家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い
間の様子を心得ていました。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。
室の広さは八畳でした。
床の横に
違い
棚があって、
縁と反対の側には
一間の
押入れが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り
南向きの縁に明るい日がよく差しました。
私は移った日に、その室の
床に
活けられた花と、その横に立て
懸けられた
琴を見ました。どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や
煎茶を
嗜なむ父の
傍で育ったので、
唐めいた趣味を
小供のうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう
艶めかしい装飾をいつの間にか
軽蔑する癖が付いていたのです。
私の父が
存生中にあつめた道具類は、例の
叔父のために
滅茶滅茶にされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。それからその
中で面白そうなものを四、五
幅裸にして
行李の底へ入れて来ました。私は移るや
否や、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いった琴と
活花を見たので、急に勇気がなくなってしまいました。
後から聞いて始めてこの花が私に対するご
馳走に活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう。
こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を
掠めて通るでしょう。移った私にも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした
邪気が予備的に私の自然を損なったためか、または私がまだ
人慣れなかったためか、私は始めてそこのお
嬢さんに会った時、へどもどした
挨拶をしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
私はそれまで
未亡人の
風采や態度から
推して、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の
妻君だからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、
悉く打ち消されました。そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の
匂いが新しく入って来ました。私はそれから床の正面に
活けてある花が
厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
その花はまた規則正しく
凋れる
頃になると活け
更えられるのです。琴も
度々鍵の手に折れ曲がった
筋違の
室に運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に
頬杖を突きながら、その琴の
音を聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく
解らないのです。けれども余り込み入った手を
弾かないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して
旨い方ではなかったのです。
それでも
臆面なく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも
活方はいつ見ても同じ事でした。それから
花瓶もついぞ変った
例がありませんでした。しかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、
一向肉声を聞かせないのです。
唄わないのではありませんが、まるで
内所話でもするように小さな声しか出さないのです。しかも
叱られると全く出なくなるのです。
私は喜んでこの下手な活花を
眺めては、まずそうな琴の
音に耳を傾けました。
「私の気分は国を立つ時すでに
厭世的になっていました。
他は頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで
染み込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する
叔父だの
叔母だの、その
他の
親戚だのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は
沈鬱でした。鉛を
呑んだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く
尖ってしまったのです。
私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな
源因になっているように思われます。金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私ならば、たとい
懐中に余裕ができても、好んでそんな面倒な
真似はしなかったでしょう。
私は
小石川へ引き移ってからも、当分この緊張した気分に
寛ぎを与える事ができませんでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を
見廻していました。不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。私は
家のものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に
坐っていました。時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に
注いでいたのです。おれは物を
偸まない
巾着切みたようなものだ、私はこう考えて、自分が
厭になる事さえあったのです。
あなたは
定めて変に思うでしょう。その私がそこのお
嬢さんをどうして
好く余裕をもっているか。そのお嬢さんの下手な
活花を、どうして
嬉しがって
眺める余裕があるか。同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより
外に仕方がないのです。解釈は頭のあるあなたに任せるとして、私はただ
一言付け足しておきましょう。私は金に対して人類を
疑ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから
他から見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
私は
未亡人の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。奥さんは私を静かな人、
大人しい男と評しました。それから勉強家だとも
褒めてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく
解りませんが、何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を
鷹揚な
方だといって、さも尊敬したらしい口の
利き方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と
真面目に説明してくれました。奥さんは始め私のような書生を
宅へ置くつもりではなかったらしいのです。どこかの役所へ勤める人か何かに
坐敷を貸す
料簡で、近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。俸給が
豊かでなくって、やむをえず
素人屋に下宿するくらいの人だからという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。奥さんは自分の胸に
描いたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって
褒めるのです。なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。しかしそれは
気性の問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥さんはまた女だけにそれを私の全体に
推し広げて、同じ言葉を応用しようと
力めるのです。
「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ付かなくなりました。自分の心が自分の
坐っている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれました。要するに奥さん始め
家のものが、
僻んだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。
奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな
風に取り扱ってくれたものとも思われますし、また自分で公言するごとく、実際私を
鷹揚だと観察していたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で
胡魔化されていたのかも
解りません。
私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。奥さんともお嬢さんとも
笑談をいうようになりました。茶を入れたからといって向うの
室へ呼ばれる日もありました。また私の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。私は急に交際の区域が
殖えたように感じました。それがために大切な勉強の時間を
潰される事も何度となくありました。不思議にも、その妨害が私には
一向邪魔にならなかったのです。奥さんはもとより
閑人でした。お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。
私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。お嬢さんは縁側を直角に曲って、私の
室の前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、次の室の
襖の影から姿を見せる事もありました。お嬢さんは、そこへ来てちょっと
留まります。それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」と聞きます。私は大抵むずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、
傍で見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。しかし実際をいうと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。
頁の上に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。そうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強ですか」と聞くのです。
お嬢さんの
部屋は茶の間と続いた六畳でした。奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さんの部屋にいる事もありました。つまりこの二つの部屋は
仕切があっても、ないと同じ事で、親子二人が
往ったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。私が外から声を掛けると、「おはいんなさい」と答えるのはきっと奥さんでした。お嬢さんはそこにいても
滅多に返事をした事がありませんでした。
時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこに
坐って話し込むような場合もその
内に出て来ました。そういう時には、私の心が妙に不安に
冒されて来るのです。そうして若い女とただ
差向いで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。しかし相手の方はかえって平気でした。これが琴を
浚うのに声さえ
碌に出せなかった
[#「出せなかった」は底本では「出せなかったの」]あの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。それでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼にはよくそれが
解っていました。よく解るように振舞って見せる
痕迹さえ明らかでした。
「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと
一息するのです。それと同時に、物足りないようなまた済まないような気持になるのです。私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょう。しかしその
頃の私たちは大抵そんなものだったのです。
奥さんは
滅多に外出した事がありませんでした。たまに
宅を留守にする時でも、お嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです。私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を
能く観察していると、何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、
或る場合には、私に対して
暗に警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。
私は奥さんの態度をどっちかに
片付けてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのです。しかし
叔父に
欺かれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏み込んだ疑いを
挟まずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、どっちかが
偽りだろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私には
呑み込めなかったのです。
理由を考え出そうとしても、考え出せない私は、罪を女という一字に
塗り付けて我慢した事もありました。
必竟女だからああなのだ、女というものはどうせ
愚なものだ。私の考えは行き
詰まればいつでもここへ落ちて来ました。
それほど女を
見縊っていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。私の理屈はその人の前に全く用を
為さないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、
気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛という不可思議なものに
両端があって、その高い
端には神聖な感じが働いて、低い端には
性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を
捕まえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事のできない
身体でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の
臭いを帯びていませんでした。
私は母に対して反感を
抱くと共に、子に対して恋愛の度を
増して行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。その上、それが
互い
違いに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを
忌むのだと解釈したのです。お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の
萌さなかった私は、その時
入らぬ心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。
「私は奥さんの態度を色々
綜合して見て、私がここの
家で充分信用されている事を確かめました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。
他を
疑り始めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、
欺されるのもここにあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです。私は
他を信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。
私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかったのです。私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうと
力めました。ところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、私の国元の事情を知りたがるのです。私はとうとう何もかも話してしまいました。私は二度と国へは帰らない。帰っても何にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。お嬢さんは泣きました。私は話して
好い事をしたと思いました。私は
嬉しかったのです。
私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。それからは私を自分の
親戚に当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。私は腹も立ちませんでした。むしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちに私の
猜疑心がまた起って来ました。
私が奥さんを
疑り始めたのは、ごく
些細な事からでした。しかしその些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。私はどういう拍子かふと奥さんが、
叔父と同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようと
力めるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に見えた人が、急に
狡猾な策略家として私の眼に映じて来たのです。私は
苦々しい唇を
噛みました。
奥さんは最初から、
無人で
淋しいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私もそれを
嘘とは思いませんでした。懇意になって色々打ち明け話を聞いた
後でも、そこに
間違いはなかったように思われます。しかし一般の経済状態は大して
豊かだというほどではありませんでした。利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。
私はまた警戒を加えました。けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。私は一人で自分を
嘲笑しました。馬鹿だなといって、自分を
罵った事もあります。しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです。私の
煩悶は、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくって
堪らなくなるのです。不愉快なのではありません。絶体絶命のような行き詰まった心持になるのです。それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。
「私は相変らず学校へ出席していました。しかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持がしました。勉強もその通りでした。眼の中へはいる活字は心の底まで
浸み渡らないうちに
烟のごとく消えて行くのです。私はその上無口になりました。それを二、三の友達が誤解して、
冥想に
耽ってでもいるかのように、
他の友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした。都合の
好い仮面を人が貸してくれたのを、かえって
仕合せとして喜びました。それでも時々は気が済まなかったのでしょう、発作的に
焦燥ぎ
廻って彼らを驚かした事もあります。
私の宿は
人出入りの少ない
家でした。親類も多くはないようでした。お嬢さんの学校友達がときたま遊びに来る事はありましたが、
極めて小さな声で、いるのだかいないのだか分らないような話をして帰ってしまうのが常でした。それが私に対する遠慮からだとは、いかな私にも気が付きませんでした。私の所へ訪ねて来るものは、大した乱暴者でもありませんでしたけれども、
宅の人に
気兼をするほどな男は一人もなかったのですから。そんなところになると、下宿人の私は
主人のようなもので、
肝心のお嬢さんがかえって
食客の
位地にいたと同じ事です。
しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければお嬢さんの
室で、突然男の声が聞こえるのです。その声がまた私の客と違って、すこぶる低いのです。だから何を話しているのかまるで分らないのです。そうして分らなければ分らないほど、私の神経に一種の
昂奮を与えるのです。私は
坐っていて変にいらいらし出します。私はあれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろうかとまず考えて見るのです。それから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案してみるのです。坐っていてそんな事の知れようはずがありません。そうかといって、
起って行って
障子を開けて見る訳にはなおいきません。私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。私は客の帰った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。お嬢さんや奥さんの返事は、また極めて簡単でした。私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで
追窮する勇気をもっていなかったのです。権利は無論もっていなかったのでしょう。私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を
裏切している物欲しそうな
顔付とを同時に彼らの前に示すのです。彼らは笑いました。それが
嘲笑の意味でなくって、好意から来たものか、また好意らしく見せるつもりなのか、私は即坐に解釈の余地を
見出し得ないほど
落付を失ってしまうのです。そうして事が済んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、
何遍も心のうちで繰り返すのです。
私は自由な
身体でした。たとい学校を中途で
已めようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、あるいはどこの何者と結婚しようが、
誰とも相談する必要のない位地に立っていました。私は思い切って奥さんにお嬢さんを
貰い受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくありました。けれどもそのたびごとに私は
躊躇して、口へはとうとう出さずにしまったのです。断られるのが恐ろしいからではありません。もし断られたら、私の運命がどう変化するか分りませんけれども、その代り今までとは方角の違った場所に立って、新しい世の中を見渡す便宜も生じて来るのですから、そのくらいの勇気は出せば出せたのです。しかし私は
誘き寄せられるのが
厭でした。
他の手に乗るのは何よりも
業腹でした。
叔父に
欺された私は、これから先どんな事があっても、人には欺されまいと決心したのです。
「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物を
拵えろといいました。私は実際
田舎で織った
木綿ものしかもっていなかったのです。その
頃の学生は
絹の
入った着物を肌に着けませんでした。私の友達に
横浜の
商人か
何かで、
宅はなかなか
派出に暮しているものがありましたが、そこへある時
羽二重の
胴着が配達で届いた事があります。すると
皆ながそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、
折角の胴着を
行李の底へ
放り込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せました。すると運悪くその胴着に
蝨がたかりました。友達はちょうど
幸いとでも思ったのでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、
根津の大きな
泥溝の中へ
棄ててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の
所作を
眺めていましたが、私の胸のどこにも
勿体ないという気は少しも起りませんでした。
その頃から見ると私も
大分大人になっていました。けれどもまだ自分で
余所行の着物を拵えるというほどの
分別は出なかったのです。私は卒業して
髯を生やす時代が来なければ、服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのです。それで奥さんに書物は
要るが着物は要らないといいました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。買った本をみんな読むのかと聞くのです。私の買うものの
中には字引きもありますが、当然眼を通すべきはずでありながら、
頁さえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました。私はどうせ要らないものを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。その上私は色々世話になるという口実の
下に、お嬢さんの気に入るような帯か
反物を買ってやりたかったのです。それで万事を奥さんに依頼しました。
奥さんは自分一人で行くとはいいません。私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩き
廻る習慣をもっていなかったものです。その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少
躊躇しましたが、思い切って出掛けました。
お嬢さんは大層着飾っていました。
地体が色の白いくせに、
白粉を豊富に塗ったものだからなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。
三人は
日本橋へ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより
暇がかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々
反物をお嬢さんの肩から胸へ
竪に
宛てておいて、私に二、三歩
遠退いて見てくれろというのです。私はそのたびごとに、それは
駄目だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。
こんな事で時間が
掛って帰りは
夕飯の時刻になりました。奥さんは私に対するお礼に何かご
馳走するといって、
木原店という
寄席のある狭い
横丁へ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせる
家も狭いものでした。この
辺の地理を
一向心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。
我々は
夜に
入って
家へ帰りました。その
翌日は日曜でしたから、私は終日
室の
中に閉じ
籠っていました。月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から
調戯われました。いつ
妻を迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。それから私の
細君は非常に美人だといって
賞めるのです。私は三人
連で日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます。
「私は
宅へ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。しかし定めて迷惑だろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんな
風にして、女から気を引いて見られるのかと思いました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。私はその時自分の考えている通りを
直截に打ち明けてしまえば好かったかも知れません。しかし私にはもう
狐疑という
薩張りしない
塊りがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、ひょいと
留まりました。そうして話の角度を故意に少し
外らしました。
私は
肝心の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に
大分重きを置いているらしく見えました。
極めようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。それからお嬢さんより
外に子供がないのも、容易に手離したがらない
源因になっていました。嫁にやるか、
聟を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。
話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれがために、私は機会を
逸したと同様の結果に
陥ってしまいました。私は自分について、ついに
一言も口を開く事ができませんでした。私は
好い加減なところで話を切り上げて、自分の
室へ帰ろうとしました。
さっきまで
傍にいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に行って、背中をこっちへ向けていました。私は立とうとして振り返った時、その
後姿を見たのです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。お嬢さんがこの問題についてどう考えているか、私には見当が付きませんでした。お嬢さんは戸棚を前にして
坐っていました。その戸棚の一
尺ばかり
開いている
隙間から、お嬢さんは何か引き出して
膝の上へ置いて
眺めているらしかったのです。私の眼はその隙間の
端に、
一昨日買った
反物を見付け出しました。私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ
解らないほど不意でした。それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと
判然した時、私はなるべく
緩くらな方がいいだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うといいました。
奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が
入り込まなければならない事になりました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を
来しています。もしその男が私の生活の
行路を横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起らなかったでしょう。私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です。自白すると、私は自分でその男を
宅へ
引張って来たのです。無論奥さんの
許諾も必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。ところが奥さんは
止せといいました。私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。だから私は私の
善いと思うところを
強いて断行してしまいました。
「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと
小供の時からの
仲好でした。小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは
真宗の坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです。私の生れた地方は大変
本願寺派の勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんは
他のものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が
年頃になったとすると、
檀家のものが相談して、どこか適当な所へ嫁にやってくれます。無論費用は坊さんの
懐から出るのではありません。そんな訳で
真宗寺は大抵
有福でした。
Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が
纏まったものかどうか、そこも私には分りません。とにかくKは医者の
家へ養子に行ったのです。それは私たちがまだ中学にいる時の事でした。私は
教場で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。
Kの養子先もかなりな財産家でした。Kはそこから学資を
貰って東京へ出て来たのです。出て来たのは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。その時分は一つ
室によく二人も三人も机を並べて
寝起きしたものです。Kと私も二人で同じ
間にいました。山で
生捕られた動物が、
檻の中で抱き合いながら、外を
睨めるようなものでしたろう。二人は東京と東京の人を
畏れました。それでいて六畳の
間の中では、天下を
睥睨するような事をいっていたのです。
しかし我々は
真面目でした。我々は実際偉くなるつもりでいたのです。ことにKは強かったのです。寺に生れた彼は、常に
精進という言葉を使いました。そうして彼の行為動作は
悉くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを
畏敬していました。
Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。これは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、
解りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは
遥かに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます。元来Kの
養家では彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向って、それでは養父母を
欺くと同じ事ではないかと
詰りました。大胆な彼はそうだと答えるのです。道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。私は無論解ったとはいえません。しかし年の若い私たちには、この
漠然とした言葉が
尊とく響いたのです。よし解らないにしても
気高い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする
意気組に
卑しいところの見えるはずはありません。私はKの説に賛成しました。私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。
一図な彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。しかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、子供ながら私はよく承知していたつもりです。よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが
至当になるくらいな語気で私は賛成したのです。
「Kと
私は同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好きな道を歩き出したのです。知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした。
最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。
駒込のある寺の
一間を借りて勉強するのだといっていました。私が帰って来たのは九月上旬でしたが、彼ははたして
大観音の
傍の汚い寺の中に
閉じ
籠っていました。彼の座敷は本堂のすぐ傍の狭い
室でしたが、彼はそこで自分の思う通りに勉強ができたのを喜んでいるらしく見えました。私はその時彼の生活の段々坊さんらしくなって行くのを認めたように思います。彼は
手頸に
珠数を懸けていました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する
真似をして見せました。彼はこうして日に
何遍も珠数の輪を勘定するらしかったのです。ただしその意味は私には
解りません。円い輪になっているものを一粒ずつ数えてゆけば、どこまで数えていっても終局はありません。Kはどんな所でどんな心持がして、
爪繰る手を留めたでしょう。
詰らない事ですが、私はよくそれを思うのです。
私はまた彼の室に聖書を見ました。私はそれまでにお
経の名を
度々彼の口から聞いた覚えがありますが、
基督教については、問われた事も答えられた
例もなかったのですから、ちょっと驚きました。私はその
理由を
訊ねずにはいられませんでした。Kは理由はないといいました。これほど人の
有難がる書物なら読んでみるのが当り前だろうともいいました。その上彼は機会があったら、『コーラン』も読んでみるつもりだといいました。彼はモハメッドと剣という言葉に大いなる興味をもっているようでした。
二年目の夏に彼は国から催促を受けてようやく帰りました。帰っても専門の事は何にもいわなかったものとみえます。
家でもまたそこに気が付かなかったのです。あなたは学校教育を受けた人だから、こういう消息をよく解しているでしょうが、世間は学生の生活だの、学校の規則だのに関して、驚くべく無知なものです。我々に何でもない事が
一向外部へは通じていません。我々はまた比較的内部の空気ばかり吸っているので、校内の事は細大ともに世の中に知れ渡っているはずだと思い過ぎる癖があります。Kはその点にかけて、私より世間を知っていたのでしょう、澄ました顔でまた戻って来ました。国を立つ時は私もいっしょでしたから、汽車へ乗るや
否やすぐどうだったとKに問いました。Kはどうでもなかったと答えたのです。
三度目の夏はちょうど私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。私はその時Kに帰国を勧めましたが、Kは応じませんでした。そう
毎年家へ帰って何をするのだというのです。彼はまた踏み
留まって勉強するつもりらしかったのです。私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。私の郷里で暮らしたその二カ月間が、私の運命にとって、いかに
波瀾に富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。私は不平と
幽欝と孤独の
淋しさとを一つ胸に
抱いて、九月に
入ってまたKに
逢いました。すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。彼は私の知らないうちに、
養家先へ手紙を出して、こっちから自分の
詐りを白状してしまったのです。彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。
今更仕方がないから、お前の好きなものをやるより
外に
途はあるまいと、向うにいわせるつもりもあったのでしょうか。とにかく大学へ入ってまでも養父母を
欺き通す気はなかったらしいのです。また欺こうとしても、そう長く続くものではないと見抜いたのかも知れません。
「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親を
騙すような
不埒なものに学資を送る事はできないという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを
私に見せました。Kはまたそれと前後して実家から受け取った
書翰も見せました。これにも前に劣らないほど厳しい
詰責の言葉がありました。
養家先へ対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、こっちでも
一切構わないと書いてありました。Kがこの事件のために復籍してしまうか、それとも
他に妥協の道を講じて、依然養家に
留まるか、そこはこれから起る問題として、差し当りどうかしなければならないのは、月々に必要な学資でした。
私はその点についてKに何か
考えがあるのかと尋ねました。Kは
夜学校の教師でもするつもりだと答えました。その時分は今に比べると、
存外世の中が
寛ろいでいましたから、内職の口はあなたが考えるほど
払底でもなかったのです。私はKがそれで充分やって行けるだろうと考えました。しかし私には私の責任があります。Kが養家の希望に
背いて、自分の行きたい道を行こうとした時、賛成したものは私です。私はそうかといって手を
拱いでいる訳にゆきません。私はその場で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを
跳ね付けました。彼の性格からいって、自活の方が友達の保護の
下に立つより
遥に快よく思われたのでしょう。彼は大学へはいった以上、自分一人ぐらいどうかできなければ男でないような事をいいました。私は私の責任を
完うするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。それで彼の思う通りにさせて、私は手を引きました。
Kは自分の望むような口をほどなく探し出しました。しかし時間を
惜しむ彼にとって、この仕事がどのくらい
辛かったかは想像するまでもない事です。彼は今まで通り勉強の手をちっとも
緩めずに、新しい荷を
背負って猛進したのです。私は彼の健康を
気遣いました。しかし
剛気な彼は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。
同時に彼と養家との関係は、段々こん
絡がって来ました。時間に余裕のなくなった彼は、前のように私と話す機会を奪われたので、私はついにその
顛末を詳しく聞かずにしまいましたが、解決のますます困難になってゆく事だけは承知していました。人が仲に入って調停を試みた事も知っていました。その人は手紙でKに帰国を
促したのですが、Kは到底
駄目だといって、応じませんでした。この
剛情なところが、――Kは学年中で帰れないのだから仕方がないといいましたけれども、向うから見れば剛情でしょう。そこが事態をますます険悪にしたようにも見えました。彼は養家の感情を害すると共に、実家の
怒りも買うようになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の
効果もありませんでした。私の手紙は
一言の返事さえ受けずに葬られてしまったのです。私も腹が立ちました。今までも
行掛り上、Kに同情していた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。
最後にKはとうとう復籍に決しました。養家から出してもらった学資は、実家で弁償する事になったのです。その代り実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。昔の言葉でいえば、まあ
勘当なのでしょう。あるいはそれほど強いものでなかったかも知れませんが、当人はそう解釈していました。Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに
継母に育てられた結果とも見る事ができるようです。もし彼の実の母が生きていたら、あるいは彼と実家との関係に、こうまで
隔たりができずに済んだかも知れないと私は思うのです。彼の父はいうまでもなく
僧侶でした。けれども義理堅い点において、むしろ
武士に似たところがありはしないかと疑われます。
「Kの事件が一段落ついた
後で、
私は彼の姉の夫から長い封書を受け取りました。Kの養子に行った先は、この人の親類に当るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、この人の意見が重きをなしていたのだと、Kは私に話して聞かせました。
手紙にはその後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。姉が心配しているから、なるべく早く返事を
貰いたいという依頼も付け加えてありました。Kは寺を
嗣いだ兄よりも、
他家へ縁づいたこの姉を好いていました。彼らはみんな一つ腹から生れた
姉弟ですけれども、この姉とKとの間には
大分年歯の差があったのです。それでKの
小供の時分には、
継母よりもこの姉の方が、かえって本当の母らしく見えたのでしょう。
私はKに手紙を見せました。Kは何ともいいませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような意味の書状が二、三度来たという事を打ち明けました。Kはそのたびに心配するに及ばないと答えてやったのだそうです。運悪くこの姉は生活に余裕のない家に片付いたために、いくらKに同情があっても、物質的に弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。
私はKと同じような返事を彼の義兄
宛で出しました。その
中に、万一の場合には私がどうでもするから、安心するようにという意味を強い言葉で書き現わしました。これは
固より私の
一存でした。Kの
行先を心配するこの姉に安心を与えようという好意は無論含まれていましたが、私を
軽蔑したとより
外に取りようのない彼の実家や
養家に対する意地もあったのです。
Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の
中頃になるまで、約一年半の間、彼は独力で
己れを支えていったのです。ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。それには無論養家を出る出ないの
蒼蠅い問題も手伝っていたでしょう。彼は段々
感傷的になって来たのです。時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で
背負って立っているような事をいいます。そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未来に
横たわる
光明が、次第に彼の眼を
遠退いて行くようにも思って、いらいらするのです。学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に
上るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの
鈍いのに気が付いて、過半はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の
焦慮り方はまた普通に比べると
遥かに
甚しかったのです。私はついに彼の気分を落ち付けるのが
専一だと考えました。
私は彼に向って、余計な仕事をするのは
止せといいました。そうして当分
身体を楽にして、遊ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。
剛情なKの事ですから、容易に私のいう事などは聞くまいと、かねて予期していたのですが、実際いい出して見ると、思ったよりも説き落すのに骨が折れたので弱りました。Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで
酔興です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱に
罹っているくらいなのです。私は仕方がないから、彼に向って
至極同感であるような様子を見せました。自分もそういう点に向って、人生を進むつもりだったとついには明言しました。(もっともこれは私に取ってまんざら空虚な言葉でもなかったのです。Kの説を聞いていると、段々そういうところに釣り込まれて来るくらい、彼には力があったのですから)。最後に私はKといっしょに住んで、いっしょに向上の
路を
辿って行きたいと
発議しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に
跪く事をあえてしたのです。そうして
漸との事で彼を私の家に連れて来ました。
「私の座敷には控えの
間というような四畳が付属していました。玄関を上がって私のいる所へ通ろうとするには、ぜひこの四畳を横切らなければならないのだから、実用の点から見ると、
至極不便な
室でした。私はここへKを入れたのです。もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて、次の間を共有にして置く考えだったのですが、Kは狭苦しくっても一人でいる方が
好いといって、自分でそっちのほうを
択んだのです。
前にも話した通り、奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだから、なるべくなら
止した方が
好いというのです。私が決して世話の焼ける人でないから構うまいというと、世話は焼けないでも、気心の知れない人は
厭だと答えるのです。それでは今
厄介になっている私だって同じ事ではないかと
詰ると、私の気心は初めからよく分っていると弁解して
已まないのです。私は苦笑しました。すると奥さんはまた理屈の方向を
更えます。そんな人を連れて来るのは、私のために悪いから
止せといい直します。なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向うで苦笑するのです。
実をいうと私だって
強いてKといっしょにいる必要はなかったのです。けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれを受け取る時に
躊躇するだろうと思ったのです。彼はそれほど独立心の強い男でした。だから私は彼を私の
宅へ置いて、
二人前の食料を彼の知らない
間にそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。しかし私はKの経済問題について、
一言も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。
私はただKの健康について
云々しました。一人で置くとますます人間が
偏屈になるばかりだからといいました。それに付け足して、Kが
養家と
折合の悪かった事や、実家と離れてしまった事や、色々話して聞かせました。私は
溺れかかった人を抱いて、自分の熱を向うに移してやる覚悟で、Kを引き取るのだと告げました。そのつもりであたたかい面倒を見てやってくれと、奥さんにもお嬢さんにも頼みました。私はここまで来て
漸々奥さんを説き伏せたのです。しかし私から何にも聞かないKは、この
顛末をまるで知らずにいました。私もかえってそれを満足に思って、のっそり引き移って来たKを、知らん顔で迎えました。
奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や
何かをしてくれました。すべてそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。――Kが相変らずむっちりした様子をしているにもかかわらず。
私がKに向って新しい
住居の心持はどうだと聞いた時に、彼はただ
一言悪くないといっただけでした。私からいわせれば悪くないどころではないのです。彼の今までいた所は北向きの湿っぽい
臭いのする汚い
室でした。
食物も室
相応に粗末でした。私の家へ引き移った彼は、
幽谷から
喬木に移った趣があったくらいです。それをさほどに思う
気色を見せないのは、一つは彼の強情から来ているのですが、一つは彼の主張からも出ているのです。仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの
贅沢をいうのをあたかも不道徳のように考えていました。なまじい昔の高僧だとか
聖徒だとかの
伝を読んだ彼には、ややともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。肉を
鞭撻すれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあったのかも知れません。
私はなるべく彼に
逆らわない方針を取りました。私は氷を
日向へ出して
溶かす工夫をしたのです。今に
融けて温かい水になれば、自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。
「私は奥さんからそういう
風に取り扱われた結果、段々快活になって来たのです。それを自覚していたから、同じものを今度はKの上に応用しようと試みたのです。Kと私とが性格の上において、
大分相違のある事は、長く
交際って来た私によく
解っていましたけれども、私の神経がこの家庭に入ってから多少
角が取れたごとく、Kの心もここに置けばいつか沈まる事があるだろうと考えたのです。
Kは私より強い決心を有している男でした。勉強も私の倍ぐらいはしたでしょう。その上持って生れた頭の
質が私よりもずっとよかったのです。
後では専門が違いましたから何ともいえませんが、同じ級にいる
間は、中学でも高等学校でも、Kの方が常に上席を占めていました。私には平生から何をしてもKに及ばないという自覚があったくらいです。けれども私が
強いてKを私の
宅へ
引っ
張って来た時には、私の方がよく事理を
弁えていると信じていました。私にいわせると、彼は我慢と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。これはとくにあなたのために付け足しておきたいのですから聞いて下さい。肉体なり精神なりすべて我々の能力は、外部の
刺戟で、発達もするし、破壊されもするでしょうが、どっちにしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、よく考えないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、自分はもちろん
傍のものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。
粥ばかり食っていると、それ以上の堅いものを
消化す力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。だから何でも食う
稽古をしておけと医者はいうのです。けれどもこれはただ慣れるという意味ではなかろうと思います。次第に刺戟を増すに従って、次第に営養機能の抵抗力が強くなるという意味でなくてはなりますまい。もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみればすぐ
解る事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全くここに気が付いていなかったのです。ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだと
極めていたらしいのです。
艱苦を繰り返せば、繰り返すというだけの
功徳で、その艱苦が気にかからなくなる時機に
邂逅えるものと信じ切っていたらしいのです。
私はKを説くときに、ぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。しかしいえばきっと反抗されるに
極っていました。また昔の人の例などを、
引合に持って来るに違いないと思いました。そうなれば私だって、その人たちとKと違っている点を明白に述べなければならなくなります。それを
首肯ってくれるようなKならいいのですけれども、彼の性質として、議論がそこまでゆくと容易に
後へは返りません。なお先へ出ます。そうして、口で先へ出た通りを、行為で実現しに
掛ります。彼はこうなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で自分を破壊しつつ進みます。結果から見れば、彼はただ自己の成功を打ち砕く意味において、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。彼の
気性をよく知った私はついに何ともいう事ができなかったのです。その上私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神経衰弱に
罹っていたように思われたのです。よし私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違いないのです。私は彼と
喧嘩をする事は恐れてはいませんでしたけれども、私が孤独の感に
堪えなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤独の境遇に置くのは、私に取って忍びない事でした。一歩進んで、より孤独な境遇に突き落すのはなお
厭でした。それで私は彼が
宅へ引き移ってからも、当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。ただ穏やかに周囲の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。
「私は
蔭へ
廻って、奥さんとお嬢さんに、なるべくKと話をするように頼みました。私は彼のこれまで通って来た無言生活が彼に
祟っているのだろうと信じたからです。使わない鉄が腐るように、彼の心には
錆が出ていたとしか、私には思われなかったのです。
奥さんは取り付き
把のない人だといって笑っていました。お嬢さんはまたわざわざその例を挙げて私に説明して聞かせるのです。火鉢に火があるかと尋ねると、Kはないと答えるそうです。では持って
来ようというと、
要らないと断るそうです。寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだといったぎり応対をしないのだそうです。私はただ苦笑している訳にもゆきません。気の毒だから、何とかいってその場を取り
繕っておかなければ済まなくなります。もっともそれは春の事ですから、
強いて火にあたる必要もなかったのですが、これでは取り付き把がないといわれるのも無理はないと思いました。
それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるように
力めました。Kと私が話している所へ
家の人を呼ぶとか、または家の人と私が一つ
室に落ち合った所へ、Kを引っ張り出すとか、どっちでもその場合に応じた方法をとって、彼らを接近させようとしたのです。もちろんKはそれをあまり好みませんでした。ある時はふいと
起って室の外へ出ました。またある時はいくら呼んでもなかなか出て来ませんでした。Kはあんな
無駄話をしてどこが面白いというのです。私はただ笑っていました。しかし心の
中では、Kがそのために私を
軽蔑していることがよく
解りました。
私はある意味から見て実際彼の軽蔑に
価していたかも知れません。彼の眼の着け所は私より
遥かに高いところにあったともいわれるでしょう。私もそれを
否みはしません。しかし眼だけ高くって、
外が釣り合わないのは手もなく
不具です。私は何を
措いても、この際彼を人間らしくするのが専一だと考えたのです。いくら彼の頭が偉い人の
影像で
埋まっていても、彼自身が偉くなってゆかない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性の
傍に彼を
坐らせる方法を講じたのです。そうしてそこから出る空気に彼を
曝した上、
錆び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
この試みは次第に成功しました。初めのうち融合しにくいように見えたものが、段々一つに
纏まって
来出しました。彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。彼はある日私に向って、女はそう
軽蔑すべきものでないというような事をいいました。Kははじめ女からも、私同様の知識と学問を要求していたらしいのです。そうしてそれが見付からないと、すぐ軽蔑の念を生じたものと思われます。今までの彼は、性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線ですべての
男女を一様に観察していたのです。私は彼に、もし我ら二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうといいました。彼はもっともだと答えました。私はその時お嬢さんの事で、多少夢中になっている
頃でしたから、自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。しかし裏面の消息は彼には
一口も打ち明けませんでした。
今まで書物で城壁をきずいてその中に立て
籠っていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見ているのは、私に取って何よりも愉快でした。私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから、自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。私は本人にいわない代りに、奥さんとお嬢さんに自分の思った通りを話しました。二人も満足の様子でした。
「Kと
私は同じ科におりながら、専攻の学問が違っていましたから、自然出る時や帰る時に遅速がありました。私の方が早ければ、ただ彼の
空室を通り抜けるだけですが、遅いと簡単な
挨拶をして自分の部屋へはいるのを例にしていました。Kはいつもの眼を書物からはなして、
襖を開ける私をちょっと見ます。そうしてきっと今帰ったのかといいます。私は何も答えないで
点頭く事もありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。
ある日私は
神田に用があって、帰りがいつもよりずっと
後れました。私は急ぎ足に門前まで来て、
格子をがらりと開けました。それと同時に、私はお嬢さんの声を聞いたのです。声は
慥かにKの
室から出たと思いました。玄関から
真直に行けば、茶の間、お嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、という
間取なのですから、どこで誰の声がしたくらいは、久しく
厄介になっている私にはよく分るのです。私はすぐ格子を締めました。するとお嬢さんの声もすぐ
已みました。私が靴を脱いでいるうち、――私はその時分からハイカラで
手数のかかる
編上を
穿いていたのですが、――私がこごんでその
靴紐を解いているうち、Kの部屋では誰の声もしませんでした。私は変に思いました。ことによると、私の
疳違かも知れないと考えたのです。しかし私がいつもの通りKの室を抜けようとして、襖を開けると、そこに二人はちゃんと
坐っていました。Kは例の通り今帰ったかといいました。お嬢さんも「お帰り」と坐ったままで挨拶しました。私には気のせいかその簡単な挨拶が少し
硬いように聞こえました。どこかで自然を踏み
外しているような調子として、私の
鼓膜に響いたのです。私はお嬢さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひっそりしていたから聞いて見ただけの事です。
奥さんははたして留守でした。
下女も奥さんといっしょに出たのでした。だから
家に残っているのは、Kとお嬢さんだけだったのです。私はちょっと首を傾けました。今まで長い間世話になっていたけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして、
宅を空けた
例はまだなかったのですから。私は何か急用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。お嬢さんはただ笑っているのです。私はこんな時に笑う女が嫌いでした。若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れませんが、お嬢さんも下らない事によく笑いたがる女でした。しかしお嬢さんは私の顔色を見て、すぐ
不断の表情に帰りました。急用ではないが、ちょっと用があって出たのだと
真面目に答えました。下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません。私は沈黙しました。
私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も帰って来ました。やがて
晩食の食卓でみんなが顔を合わせる時刻が来ました。下宿した当座は万事客扱いだったので、食事のたびに下女が
膳を運んで来てくれたのですが、それがいつの間にか崩れて、
飯時には向うへ呼ばれて行く習慣になっていたのです。Kが新しく引き移った時も、私が主張して彼を私と同じように取り扱わせる事に
極めました。その代り私は薄い板で造った足の
畳み込める
華奢な食卓を奥さんに
寄附しました。今ではどこの
宅でも使っているようですが、その
頃そんな卓の周囲に並んで飯を食う家族はほとんどなかったのです。私はわざわざ
御茶の
水の家具屋へ行って、私の工夫通りにそれを造り
上げさせたのです。
私はその卓上で奥さんからその日いつもの時刻に
肴屋が来なかったので、私たちに食わせるものを買いに町へ行かなければならなかったのだという説明を聞かされました。なるほど客を置いている以上、それももっともな事だと私が考えた時、お嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。しかし今度は奥さんに
叱られてすぐ
已めました。
「一週間ばかりして
私はまたKとお嬢さんがいっしょに話している
室を通り抜けました。その時お嬢さんは私の顔を見るや
否や笑い出しました。私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったのでしょう。それをつい黙って自分の居間まで来てしまったのです。だからKもいつものように、今帰ったかと声を掛ける事ができなくなりました。お嬢さんはすぐ
障子を開けて茶の間へ入ったようでした。
夕飯の時、お嬢さんは私を変な人だといいました。私はその時もなぜ変なのか聞かずにしまいました。ただ奥さんが
睨めるような眼をお嬢さんに向けるのに気が付いただけでした。
私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は
伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと
廻ってまた
富坂の下へ出ました。散歩としては短い方ではありませんでしたが、その
間に話した事は
極めて少なかったのです。性質からいうと、Kは私よりも無口な男でした。私も多弁な方ではなかったのです。しかし私は歩きながら、できるだけ話を彼に
仕掛けてみました。私の問題はおもに二人の下宿している家族についてでした。私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているか知りたかったのです。ところが彼は海のものとも山のものとも
見分けの付かないような返事ばかりするのです。しかもその返事は要領を得ないくせに、極めて簡単でした。彼は二人の女に関してよりも、専攻の学科の方に多くの注意を払っているように見えました。もっともそれは二学年目の試験が目の前に
逼っている
頃でしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。
我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももう
後一年だといって奥さんは喜んでくれました。そういう奥さんの
唯一の
誇りとも見られるお嬢さんの卒業も、間もなく来る順になっていたのです。Kは私に向って、女というものは何にも知らないで学校を出るのだといいました。Kはお嬢さんが学問以外に
稽古している
縫針だの琴だの
活花だのを、まるで眼中に置いていないようでした。私は彼の
迂闊を笑ってやりました。そうして女の価値はそんな所にあるものでないという昔の議論をまた彼の前で繰り返しました。彼は別段
反駁もしませんでした。その代りなるほどという様子も見せませんでした。私にはそこが愉快でした。彼のふんといったような調子が、依然として女を
軽蔑しているように見えたからです。女の代表者として私の知っているお嬢さんを、物の
数とも思っていないらしかったからです。今から回顧すると、私のKに対する
嫉妬は、その時にもう充分
萌していたのです。
私は夏休みにどこかへ行こうかとKに相談しました。Kは行きたくないような
口振を見せました。無論彼は自分の自由意志でどこへも行ける
身体ではありませんが、私が誘いさえすれば、またどこへ行っても
差支えない身体だったのです。私はなぜ行きたくないのかと彼に尋ねてみました。彼は理由も何にもないというのです。
宅で書物を読んだ方が自分の勝手だというのです。私が避暑地へ行って涼しい所で勉強した方が、身体のためだと主張すると、それなら私一人行ったらよかろうというのです。しかし私はK一人をここに残して行く気にはなれないのです。私はただでさえKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余り
好い心持ではなかったのです。私が最初希望した通りになるのが、何で私の心持を悪くするのかといわれればそれまでです。私は馬鹿に違いないのです。
果しのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲へ入りました。二人はとうとういっしょに
房州へ行く事になりました。
「Kはあまり旅へ出ない男でした。
私にも
房州は始めてでした。二人は何にも知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか
保田とかいいました。今ではどんなに変っているか知りませんが、その
頃はひどい漁村でした。
第一どこもかしこも
腥いのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを
擦り
剥くのです。
拳のような大きな石が打ち寄せる波に
揉まれて、始終ごろごろしているのです。
私はすぐ
厭になりました。しかしKは
好いとも悪いともいいません。少なくとも
顔付だけは平気なものでした。そのくせ彼は海へ入るたんびにどこかに
怪我をしない事はなかったのです。私はとうとう彼を説き伏せて、そこから
富浦に行きました。富浦からまた
那古に移りました。すべてこの沿岸はその時分から
重に学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど
手頃の海水浴場だったのです。Kと私はよく海岸の岩の上に
坐って、遠い海の色や、近い水の底を
眺めました。岩の上から
見下す水は、また特別に
綺麗なものでした。赤い色だの
藍の色だの、普通
市場に
上らないような色をした
小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが鮮やかに指さされました。
私はそこに坐って、よく書物をひろげました。Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。私にはそれが考えに
耽っているのか、景色に
見惚れているのか、もしくは好きな想像を
描いているのか、全く
解らなかったのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。Kは何もしていないと
一口答えるだけでした。私は自分の
傍にこうじっとして坐っているものが、Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事がよくありました。それだけならまだいいのですが、時にはKの方でも私と同じような希望を
抱いて岩の上に坐っているのではないかしらと
忽然疑い出すのです。すると落ち付いてそこに書物をひろげているのが急に厭になります。私は不意に立ち
上ります。そうして遠慮のない大きな声を出して
怒鳴ります。
纏まった詩だの歌だのを面白そうに
吟ずるような
手緩い事はできないのです。ただ野蛮人のごとくにわめくのです。ある時私は突然彼の
襟頸を後ろからぐいと
攫みました。こうして海の中へ突き落したらどうするといってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうど
好い、やってくれと答えました。私はすぐ首筋を
抑えた手を放しました。
Kの神経衰弱はこの時もう
大分よくなっていたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過敏になって来ていたのです。私は自分より落ち付いているKを見て、
羨ましがりました。また憎らしがりました。彼はどうしても私に取り合う
気色を見せなかったからです。私にはそれが一種の自信のごとく映りました。しかしその自信を彼に認めたところで、私は決して満足できなかったのです。私の疑いはもう一歩前へ出て、その性質を
明らめたがりました。彼は学問なり事業なりについて、これから自分の進んで行くべき前途の
光明を再び取り返した心持になったのだろうか。単にそれだけならば、Kと私との利害に何の衝突の起る訳はないのです。私はかえって世話のし
甲斐があったのを
嬉しく思うくらいなものです。けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私は決して彼を許す事ができなくなるのです。不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している
素振に全く気が付いていないように見えました。無論私もそれがKの眼に付くようにわざとらしくは振舞いませんでしたけれども。Kは元来そういう点にかけると
鈍い人なのです。私には最初からKなら大丈夫という安心があったので、彼をわざわざ
宅へ連れて来たのです。
「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。もっともこれはその時に始まった訳でもなかったのです。旅に出ない前から、私にはそうした腹ができていたのですけれども、打ち明ける機会をつらまえる事も、その機会を作り出す事も、私の
手際では
旨くゆかなかったのです。今から思うと、その頃私の周囲にいた人間はみんな妙でした。女に関して立ち入った話などをするものは一人もありませんでした。中には話す
種をもたないのも
大分いたでしょうが、たといもっていても黙っているのが普通のようでした。比較的自由な空気を呼吸している今のあなたがたから見たら、定めし変に思われるでしょう。それが
道学の
余習なのか、または一種のはにかみなのか、判断はあなたの理解に任せておきます。
Kと私は何でも話し合える中でした。
偶には愛とか恋とかいう問題も、口に
上らないではありませんでしたが、いつでも抽象的な理論に落ちてしまうだけでした。それも
滅多には話題にならなかったのです。大抵は書物の話と学問の話と、未来の事業と、抱負と、修養の話ぐらいで持ち切っていたのです。いくら親しくってもこう堅くなった日には、突然調子を
崩せるものではありません。二人はただ堅いなりに親しくなるだけです。私はお嬢さんの事をKに打ち明けようと思い立ってから、
何遍歯がゆい不快に悩まされたか知れません。私はKの頭のどこか一カ所を突き破って、そこから柔らかい空気を吹き込んでやりたい気がしました。
あなたがたから見て
笑止千万な事もその時の私には実際大困難だったのです。私は旅先でも
宅にいた時と同じように
卑怯でした。私は始終機会を捕える気でKを観察していながら、変に高踏的な彼の態度をどうする事もできなかったのです。私にいわせると、彼の心臓の周囲は黒い
漆で
重く塗り固められたのも同然でした。私の
注ぎ懸けようとする血潮は、一滴もその心臓の中へは入らないで、
悉く
弾き返されてしまうのです。
或る時はあまりKの様子が強くて高いので、私はかえって安心した事もあります。そうして自分の疑いを腹の中で後悔すると共に、同じ腹の中で、Kに
詫びました。詫びながら自分が非常に下等な人間のように見えて、急に
厭な心持になるのです。しかし
少時すると、以前の疑いがまた逆戻りをして、強く打ち返して来ます。すべてが疑いから割り出されるのですから、すべてが私には不利益でした。
容貌もKの方が女に好かれるように見えました。性質も私のようにこせこせしていないところが、異性には気に入るだろうと思われました。どこか
間が抜けていて、それでどこかに
確かりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。
学力になれば専門こそ違いますが、私は無論Kの敵でないと自覚していました。――すべて向うの
好いところだけがこう一度に
眼先へ散らつき出すと、ちょっと安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。
Kは落ち付かない私の様子を見て、
厭ならひとまず東京へ帰ってもいいといったのですが、そういわれると、私は急に帰りたくなくなりました。実はKを東京へ帰したくなかったのかも知れません。二人は
房州の鼻を
廻って向う側へ出ました。我々は暑い日に
射られながら、苦しい思いをして、
上総のそこ
一里に
騙されながら、うんうん歩きました。私にはそうして歩いている意味がまるで
解らなかったくらいです。私は
冗談半分Kにそういいました。するとKは足があるから歩くのだと答えました。そうして暑くなると、海に入って行こうといって、どこでも構わず
潮へ
漬りました。その
後をまた強い日で照り付けられるのですから、
身体が
倦怠くてぐたぐたになりました。
「こんな
風にして歩いていると、暑さと疲労とで自然
身体の調子が狂って来るものです。もっとも病気とは違います。急に
他の身体の中へ、自分の霊魂が
宿替をしたような気分になるのです。
私は
平生の通りKと口を
利きながら、どこかで平生の心持と離れるようになりました。彼に対する親しみも憎しみも、
旅中限りという特別な性質を
帯びる風になったのです。つまり二人は暑さのため、
潮のため、また歩行のため、在来と異なった新しい関係に入る事ができたのでしょう。その時の我々はあたかも道づれになった
行商のようなものでした。いくら話をしてもいつもと違って、頭を使う込み入った問題には触れませんでした。
我々はこの調子でとうとう
銚子まで行ったのですが、道中たった一つの例外があったのを今に忘れる事ができないのです。まだ房州を離れない前、二人は
小湊という所で、
鯛の
浦を見物しました。もう
年数もよほど
経っていますし、それに私にはそれほど興味のない事ですから、
判然とは覚えていませんが、何でもそこは
日蓮の生れた村だとかいう話でした。日蓮の生れた日に、鯛が二
尾磯に打ち上げられていたとかいう
言伝えになっているのです。それ以来村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至ったのだから、浦には鯛が沢山いるのです。我々は小舟を
傭って、その鯛をわざわざ見に出掛けたのです。
その時私はただ
一図に波を見ていました。そうしてその波の中に動く少し紫がかった鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。しかしKは私ほどそれに興味をもち得なかったものとみえます。彼は鯛よりもかえって日蓮の方を頭の中で想像していたらしいのです。ちょうどそこに
誕生寺という寺がありました。日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでしょう、立派な
伽藍でした。Kはその寺に行って
住持に会ってみるといい出しました。実をいうと、我々はずいぶん変な
服装をしていたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、
菅笠を買って
被っていました。着物は
固より双方とも
垢じみた上に汗で
臭くなっていました。私は坊さんなどに会うのは
止そうといいました。Kは
強情だから聞きません。
厭なら私だけ外に待っていろというのです。私は仕方がないからいっしょに玄関にかかりましたが、心のうちではきっと断られるに違いないと思っていました。ところが坊さんというものは案外
丁寧なもので、広い立派な座敷へ私たちを通して、すぐ会ってくれました。その時分の私はKと
大分考えが違っていましたから、坊さんとKの談話にそれほど耳を傾ける気も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮の事を聞いていたようです。日蓮は
草日蓮といわれるくらいで、
草書が大変上手であったと坊さんがいった時、字の
拙いKは、何だ下らないという顔をしたのを私はまだ覚えています。Kはそんな事よりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしょう。坊さんがその点でKを満足させたかどうかは疑問ですが、彼は寺の
境内を出ると、しきりに私に向って日蓮の事を
云々し出しました。私は暑くて
草臥れて、それどころではありませんでしたから、ただ口の先で
好い加減な
挨拶をしていました。それも面倒になってしまいには全く黙ってしまったのです。
たしかその
翌る晩の事だと思いますが、二人は宿へ着いて
飯を食って、もう寝ようという少し前になってから、急にむずかしい問題を論じ合い出しました。Kは
昨日自分の方から話しかけた日蓮の事について、私が取り合わなかったのを、快く思っていなかったのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だといって、何だか私をさも軽薄もののようにやり込めるのです。ところが私の胸にはお嬢さんの事が
蟠っていますから、彼の
侮蔑に近い言葉をただ笑って受け取る訳にいきません。私は私で弁解を始めたのです。
「その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱点のすべてを隠しているというのです。なるほど後から考えれば、Kのいう通りでした。しかし人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、
出立点がすでに反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私はなおの事自説を主張しました。するとKが彼のどこをつらまえて人間らしくないというのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくないような事をいうのだ。また人間らしくないように振舞おうとするのだ。
私がこういった時、彼はただ自分の修養が足りないから、
他にはそう見えるかも知れないと答えただけで、
一向私を
反駁しようとしませんでした。私は張合いが抜けたというよりも、かえって気の毒になりました。私はすぐ議論をそこで切り上げました。彼の調子もだんだん沈んで来ました。もし私が彼の知っている通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだろうといって
悵然としていました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。霊のために肉を
虐げたり、道のために
体を
鞭うったりしたいわゆる
難行苦行の人を指すのです。Kは私に、彼がどのくらいそのために苦しんでいるか
解らないのが、いかにも残念だと明言しました。
Kと私とはそれぎり寝てしまいました。そうしてその
翌る日からまた普通の
行商の態度に返って、うんうん汗を流しながら歩き出したのです。しかし私は
路々その晩の事をひょいひょいと思い出しました。私にはこの上もない
好い機会が与えられたのに、知らない
振りをしてなぜそれをやり過ごしたのだろうという悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいという抽象的な言葉を用いる代りに、もっと
直截で簡単な話をKに打ち明けてしまえば好かったと思い出したのです。実をいうと、私がそんな言葉を創造したのも、お嬢さんに対する私の感情が土台になっていたのですから、事実を
蒸溜して
拵えた理論などをKの耳に吹き込むよりも、
原の
形そのままを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だったでしょう。私にそれができなかったのは、学問の交際が基調を構成している二人の親しみに、
自から一種の惰性があったため、思い切ってそれを突き破るだけの勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。気取り過ぎたといっても、虚栄心が
祟ったといっても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。
我々は真黒になって東京へ帰りました。帰った時は私の気分がまた変っていました。人間らしいとか、人間らしくないとかいう
小理屈はほとんど頭の中に残っていませんでした。Kにも宗教家らしい様子が全く見えなくなりました。おそらく彼の心のどこにも霊がどうの肉がどうのという問題は、その時宿っていなかったでしょう。二人は異人種のような顔をして、忙しそうに見える東京をぐるぐる
眺めました。それから
両国へ来て、暑いのに
軍鶏を食いました。Kはその
勢いで
小石川まで歩いて帰ろうというのです。体力からいえばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ応じました。
宅へ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚きました。二人はただ色が黒くなったばかりでなく、むやみに歩いていたうちに大変
瘠せてしまったのです。奥さんはそれでも丈夫そうになったといって
賞めてくれるのです。お嬢さんは奥さんの矛盾がおかしいといってまた笑い出しました。旅行前時々腹の立った私も、その時だけは愉快な心持がしました。場合が場合なのと、久しぶりに聞いたせいでしょう。
「それのみならず
私はお嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が付きました。久しぶりで旅から帰った私たちが
平生の通り落ち付くまでには、万事について女の手が必要だったのですが、その世話をしてくれる奥さんはとにかく、お嬢さんがすべて私の方を先にして、Kを
後廻しにするように見えたのです。それを露骨にやられては、私も迷惑したかもしれません。場合によってはかえって不快の念さえ起しかねなかったろうと思うのですが、お嬢さんの
所作はその点で甚だ要領を得ていたから、私は
嬉しかったのです。つまりお嬢さんは私だけに
解るように、
持前の親切を余分に私の方へ割り
宛ててくれたのです。だからKは別に
厭な顔もせずに平気でいました。私は心の
中でひそかに彼に対する
歌を奏しました。
やがて夏も過ぎて九月の
中頃から我々はまた学校の課業に出席しなければならない事になりました。Kと私とは
各自の時間の都合で出入りの刻限にまた遅速ができてきました。私がKより
後れて帰る時は一週に三度ほどありましたが、いつ帰ってもお嬢さんの影をKの
室に認める事はないようになりました。Kは例の眼を私の方に向けて、「今帰ったのか」を規則のごとく繰り返しました。私の会釈もほとんど器械のごとく簡単でかつ無意味でした。
たしか十月の中頃と思います。私は
寝坊をした結果、
日本服のまま急いで学校へ出た事があります。
穿物も
編上などを結んでいる時間が惜しいので、
草履を突っかけたなり飛び出したのです。その日は時間割からいうと、Kよりも私の方が先へ帰るはずになっていました。私は戻って来ると、そのつもりで玄関の
格子をがらりと開けたのです。するといないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。私はいつものように
手数のかかる靴を
穿いていないから、すぐ玄関に上がって
仕切の
襖を開けました。私は例の通り机の前に
坐っているKを見ました。しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。私はあたかもKの
室から
逃れ出るように去るその
後姿をちらりと認めただけでした。私はKにどうして早く帰ったのかと問いました。Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。私が自分の室にはいってそのまま坐っていると、間もなくお嬢さんが茶を持って来てくれました。その時お嬢さんは始めてお帰りといって私に
挨拶をしました。私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるような
捌けた男ではありません。それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような人間だったのです。お嬢さんはすぐ座を立って
縁側伝いに向うへ行ってしまいました。しかしKの室の前に立ち留まって、
二言三言内と外とで話をしていました。それは
先刻の続きらしかったのですが、前を聞かない私にはまるで解りませんでした。
そのうちお嬢さんの態度がだんだん平気になって来ました。Kと私がいっしょに
宅にいる時でも、よくKの
室の縁側へ来て彼の名を呼びました。そうしてそこへ入って、ゆっくりしていました。無論郵便を持って来る事もあるし、洗濯物を置いてゆく事もあるのですから、そのくらいの交通は同じ宅にいる二人の関係上、当然と見なければならないのでしょうが、ぜひお嬢さんを専有したいという強烈な一念に動かされている私には、どうしてもそれが当然以上に見えたのです。ある時はお嬢さんがわざわざ私の室へ来るのを回避して、Kの方ばかりへ行くように思われる事さえあったくらいです。それならなぜKに宅を出てもらわないのかとあなたは聞くでしょう。しかしそうすれば私がKを無理に
引張って来た主意が立たなくなるだけです。私にはそれができないのです。
「十一月の寒い雨の降る日の事でした。
私は
外套を
濡らして例の通り
蒟蒻閻魔を抜けて細い
坂路を
上って
宅へ帰りました。Kの室は
空虚でしたけれども、火鉢には継ぎたての火が暖かそうに燃えていました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に
翳そうと思って、急いで自分の室の
仕切りを開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く残っているだけで、
火種さえ尽きているのです。私は急に不愉快になりました。
その時私の足音を聞いて出て来たのは、奥さんでした。奥さんは黙って室の真中に立っている私を見て、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、日本服を着せてくれたりしました。それから私が寒いというのを聞いて、すぐ次の
間からKの火鉢を持って来てくれました。私がKはもう帰ったのかと聞きましたら、奥さんは帰ってまた出たと答えました。その日もKは私より
後れて帰る時間割だったのですから、私はどうした訳かと思いました。奥さんは
大方用事でもできたのだろうといっていました。
私はしばらくそこに
坐ったまま
書見をしました。宅の中がしんと静まって、
誰の話し声も聞こえないうちに、
初冬の寒さと
佗びしさとが、私の
身体に食い込むような感じがしました。私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。私はふと
賑やかな所へ行きたくなったのです。雨はやっと
歇ったようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、私は用心のため、
蛇の
目を肩に
担いで、
砲兵工廠の裏手の
土塀について東へ坂を
下りました。その時分はまだ道路の改正ができない
頃なので、坂の
勾配が今よりもずっと急でした。道幅も狭くて、ああ
真直ではなかったのです。その上あの谷へ下りると、南が高い建物で
塞がっているのと、
放水がよくないのとで、往来はどろどろでした。ことに細い石橋を渡って
柳町の通りへ出る間が
非道かったのです。
足駄でも長靴でもむやみに歩く訳にはゆきません。誰でも
路の真中に自然と細長く泥が
掻き分けられた所を、
後生大事に
辿って行かなければならないのです。その幅は
僅か一、二
尺しかないのですから、手もなく往来に敷いてある帯の上を踏んで向うへ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になってそろそろ通り抜けます。私はこの細帯の上で、はたりとKに出合いました。足の方にばかり気を取られていた私は、彼と向き合うまで、彼の存在にまるで気が付かずにいたのです。私は不意に自分の前が
塞がったので偶然眼を上げた時、始めてそこに立っているKを認めたのです。私はKにどこへ行ったのかと聞きました。Kはちょっとそこまでといったぎりでした。彼の答えはいつもの通りふんという調子でした。Kと私は細い帯の上で身体を
替せました。するとKのすぐ後ろに一人の若い女が立っているのが見えました。近眼の私には、今までそれがよく分らなかったのですが、Kをやり越した
後で、その女の顔を見ると、それが
宅のお嬢さんだったので、私は少なからず驚きました。お嬢さんは心持薄赤い顔をして、私に
挨拶をしました。その時分の
束髪は今と違って
廂が出ていないのです、そうして頭の
真中に
蛇のようにぐるぐる巻きつけてあったものです。私はぼんやりお嬢さんの頭を見ていましたが、次の瞬間に、どっちか
路を譲らなければならないのだという事に気が付きました。私は思い切ってどろどろの中へ片足
踏ん
込みました。そうして比較的通りやすい所を
空けて、お嬢さんを渡してやりました。
それから柳町の通りへ出た私はどこへ行って
好いか自分にも分らなくなりました。どこへ行っても面白くないような心持がするのです。私は
飛泥の上がるのも構わずに、
糠る
海の中を
自暴にどしどし歩きました。それから
直ぐ宅へ帰って来ました。
「私はKに向ってお嬢さんといっしょに出たのかと聞きました。Kはそうではないと答えました。
真砂町で偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入った質問を控えなければなりませんでした。しかし食事の時、またお嬢さんに向って、同じ問いを掛けたくなりました。するとお嬢さんは私の嫌いな例の笑い方をするのです。そうしてどこへ行ったか
中ててみろとしまいにいうのです。その
頃の私はまだ
癇癪持ちでしたから、そう
不真面目に若い女から取り扱われると腹が立ちました。ところがそこに気の付くのは、同じ食卓に着いているもののうちで奥さん一人だったのです。Kはむしろ平気でした。お嬢さんの態度になると、知ってわざとやるのか、知らないで
無邪気にやるのか、そこの区別がちょっと
判然しない点がありました。若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ
方でしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが宅へ来てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の
嫉妬に
帰していいものか、または私に対するお嬢さんの技巧と
見傚してしかるべきものか、ちょっと分別に迷いました。私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の
裏面にこの感情の働きを明らかに意識していたのですから。しかも
傍のものから見ると、ほとんど取るに足りない
瑣事に、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。これは
余事ですが、こういう
嫉妬は愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。
私はそれまで
躊躇していた自分の心を、
一思いに相手の胸へ
擲き付けようかと考え出しました。私の相手というのはお嬢さんではありません、奥さんの事です。奥さんにお嬢さんを
呉れろと明白な談判を開こうかと考えたのです。しかしそう決心しながら、一日一日と私は断行の日を延ばして行ったのです。そういうと私はいかにも
優柔な男のように見えます、また見えても構いませんが、実際私の進みかねたのは、意志の力に不足があったためではありません。Kの来ないうちは、
他の手に乗るのが
厭だという我慢が私を
抑え付けて、一歩も動けないようにしていました。Kの来た
後は、もしかするとお嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず私を制するようになったのです。はたしてお嬢さんが私よりもKに心を傾けているならば、この恋は口へいい出す価値のないものと私は決心していたのです。恥を
掻かせられるのが
辛いなどというのとは少し訳が違います。こっちでいくら思っても、向うが内心
他の人に愛の
眼を
注いでいるならば、私はそんな女といっしょになるのは厭なのです。世の中では
否応なしに自分の好いた女を嫁に
貰って
嬉しがっている人もありますが、それは私たちよりよっぽど世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく
呑み込めない
鈍物のする事と、当時の私は考えていたのです。一度貰ってしまえばどうかこうか落ち付くものだぐらいの哲理では、承知する事ができないくらい私は熱していました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時にもっとも
迂遠な愛の実際家だったのです。
肝心のお嬢さんに、直接この私というものを打ち明ける機会も、長くいっしょにいるうちには時々出て来たのですが、私はわざとそれを避けました。日本の習慣として、そういう事は許されていないのだという自覚が、その頃の私には強くありました。しかし決してそればかりが私を束縛したとはいえません。日本人、ことに日本の若い女は、そんな場合に、相手に
気兼なく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと私は見込んでいたのです。
「こんな訳で
私はどちらの方面へ向っても進む事ができずに立ち
竦んでいました。
身体の悪い時に
午睡などをすると、眼だけ
覚めて周囲のものが
判然見えるのに、どうしても手足の動かせない場合がありましょう。私は時としてああいう苦しみを人知れず感じたのです。
その
内年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに
歌留多をやるから
誰か友達を連れて来ないかといった事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。往来で会った時
挨拶をするくらいのものは多少ありましたが、それらだって決して
歌留多などを取る
柄ではなかったのです。奥さんはそれじゃ私の知ったものでも呼んで来たらどうかといい直しましたが、私も
生憎そんな陽気な遊びをする心持になれないので、
好い加減な
生返事をしたなり、打ちやっておきました。ところが晩になってKと私はとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。客も誰も来ないのに、
内々の
小人数だけで取ろうという歌留多ですからすこぶる静かなものでした。その上こういう遊技をやり付けないKは、まるで
懐手をしている人と同様でした。私はKに一体
百人一首の歌を知っているのかと尋ねました。Kはよく知らないと答えました。私の言葉を聞いたお嬢さんは、
大方Kを
軽蔑するとでも取ったのでしょう。それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有様になって来ました。私は相手次第では
喧嘩を始めたかも知れなかったのです。幸いにKの態度は少しも最初と変りませんでした。彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった私は、無事にその場を切り上げる事ができました。
それから二、三日
経った
後の事でしたろう、奥さんとお嬢さんは朝から市ヶ谷にいる親類の所へ行くといって
宅を出ました。Kも私もまだ学校の始まらない
頃でしたから、留守居同様あとに残っていました。私は書物を読むのも散歩に出るのも
厭だったので、ただ漠然と火鉢の
縁に
肱を載せて
凝と
顋を支えたなり考えていました。
隣の
室にいるKも
一向音を立てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。もっともこういう事は、二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。
十時頃になって、Kは不意に仕切りの
襖を開けて私と顔を
見合せました。彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。私はもとより何も考えていなかったのです。もし考えていたとすれば、いつもの通りお嬢さんが問題だったかも知れません。そのお嬢さんには無論奥さんも食っ付いていますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のように、私の頭の中をぐるぐる
回って、この問題を複雑にしているのです。Kと顔を見合せた私は、今まで
朧気に彼を一種の邪魔ものの如く意識していながら、明らかにそうと答える訳にいかなかったのです。私は依然として彼の顔を見て黙っていました。するとKの方からつかつかと私の座敷へ入って来て、私のあたっている火鉢の前に
坐りました。私はすぐ
両肱を火鉢の縁から取り
除けて、心持それをKの方へ押しやるようにしました。
Kはいつもに似合わない話を始めました。奥さんとお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろうというのです。私は大方
叔母さんの所だろうと答えました。Kはその叔母さんは何だとまた聞きます。私はやはり軍人の
細君だと教えてやりました。すると女の年始は大抵十五日
過だのに、なぜそんなに早く出掛けたのだろうと質問するのです。私はなぜだか知らないと挨拶するより
外に仕方がありませんでした。
「Kはなかなか奥さんとお嬢さんの話を
已めませんでした。しまいには
私も答えられないような立ち入った事まで聞くのです。私は面倒よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思い出すと、私はどうしても彼の調子の変っているところに気が付かずにはいられないのです。私はとうとうなぜ今日に限ってそんな事ばかりいうのかと彼に尋ねました。その時彼は突然黙りました。しかし私は彼の結んだ口元の肉が
顫えるように動いているのを注視しました。彼は元来無口な男でした。
平生から何かいおうとすると、いう前によく口のあたりをもぐもぐさせる
癖がありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するように
容易く
開かないところに、彼の言葉の重みも
籠っていたのでしょう。
一旦声が口を破って出るとなると、その声には普通の人よりも倍の強い力がありました。
彼の口元をちょっと
眺めた時、私はまた何か出て来るなとすぐ
疳付いたのですが、それがはたして
何の準備なのか、私の予覚はまるでなかったのです。だから驚いたのです。彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみて下さい。私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです。
その時の私は恐ろしさの
塊りといいましょうか、または苦しさの塊りといいましょうか、何しろ一つの塊りでした。石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなったのです。呼吸をする弾力性さえ失われたくらいに堅くなったのです。幸いな事にその状態は長く続きませんでした。私は一瞬間の
後に、また人間らしい気分を取り戻しました。そうして、すぐ
失策ったと思いました。
先を越されたなと思いました。
しかしその
先をどうしようという分別はまるで起りません。恐らく起るだけの余裕がなかったのでしょう。私は
腋の下から出る気味のわるい汗が
襯衣に
滲み
透るのを
凝と我慢して動かずにいました。Kはその
間いつもの通り重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けてゆきます。私は苦しくって
堪りませんでした。おそらくその苦しさは、大きな広告のように、私の顔の上に
判然りした字で
貼り付けられてあったろうと私は思うのです。いくらKでもそこに気の付かないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分の事に
一切を集中しているから、私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。重くて
鈍い代りに、とても容易な事では動かせないという感じを私に与えたのです。私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念に絶えず
掻き乱されていましたから、
細かい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。そのために私は前いった苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるようになったのです。つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念が
萌し始めたのです。
Kの話が一通り済んだ時、私は何ともいう事ができませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事もいえなかったのです。またいう気にもならなかったのです。
午食の時、Kと私は向い合せに席を占めました。
下女に給仕をしてもらって、私はいつにない
不味い
飯を済ませました。二人は食事中もほとんど口を
利きませんでした。奥さんとお嬢さんはいつ帰るのだか分りませんでした。
「二人は
各自の
室に引き取ったぎり顔を合わせませんでした。Kの静かな事は朝と同じでした。
私も
凝と考え込んでいました。
私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機が
後れてしまったという気も起りました。なぜ
先刻Kの言葉を
遮って、こっちから逆襲しなかったのか、そこが非常な
手落りのように見えて来ました。せめてKの
後に続いて、自分は自分の思う通りをその場で話してしまったら、まだ好かったろうにとも考えました。Kの自白に一段落が付いた今となって、こっちからまた同じ事を切り出すのは、どう思案しても変でした。私はこの不自然に打ち勝つ方法を知らなかったのです。私の頭は悔恨に
揺られてぐらぐらしました。
私はKが再び
仕切りの
襖を
開けて向うから突進してきてくれれば
好いと思いました。私にいわせれば、先刻はまるで
不意撃に会ったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという
下心を持っていました。それで時々眼を上げて、襖を
眺めました。しかしその襖はいつまで
経っても
開きません。そうしてKは永久に静かなのです。
その
内私の頭は段々この静かさに
掻き乱されるようになって来ました。Kは今襖の向うで何を考えているだろうと思うと、それが気になって
堪らないのです。不断もこんな
風にお互いが仕切一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。それでいて私はこっちから進んで襖を開ける事ができなかったのです。
一旦いいそびれた私は、また向うから働き掛けられる時機を待つより
外に仕方がなかったのです。
しまいに私は
凝としておられなくなりました。無理に凝としていれば、Kの部屋へ飛び込みたくなるのです。私は仕方なしに立って縁側へ出ました。そこから茶の間へ来て、何という目的もなく、
鉄瓶の湯を
湯呑に
注で一杯呑みました。それから玄関へ出ました。私はわざとKの室を回避するようにして、こんな風に自分を往来の真中に
見出したのです。私には無論どこへ行くという
的もありません。ただ
凝としていられないだけでした。それで方角も何も構わずに、正月の町を、むやみに歩き
廻ったのです。私の頭はいくら歩いてもKの事でいっぱいになっていました。私もKを
振い落す気で歩き廻る訳ではなかったのです。むしろ自分から進んで彼の姿を
咀嚼しながらうろついていたのです。
私には第一に彼が
解しがたい男のように見えました。どうしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋が
募って来たのか、そうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には解しにくい問題でした。私は彼の強い事を知っていました。また彼の
真面目な事を知っていました。私はこれから私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くをもっていると信じました。同時にこれからさき彼を相手にするのが変に気味が悪かったのです。私は夢中に町の中を歩きながら、自分の室に
凝と
坐っている彼の
容貌を始終眼の前に
描き出しました。しかもいくら私が歩いても彼を動かす事は到底できないのだという声がどこかで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。私は永久彼に
祟られたのではなかろうかという気さえしました。
私が疲れて
宅へ帰った時、彼の室は依然として
人気のないように静かでした。
「私が家へはいると間もなく
俥の音が聞こえました。今のように
護謨輪のない時分でしたから、がらがらいう
厭な
響きがかなりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました。
私が
夕飯に呼び出されたのは、それから三十分ばかり
経った
後の事でしたが、まだ奥さんとお嬢さんの
晴着が脱ぎ
棄てられたまま、次の室を乱雑に
彩っていました。二人は遅くなると私たちに済まないというので、飯の支度に間に合うように、急いで帰って来たのだそうです。しかし奥さんの親切はKと私とに取ってほとんど無効も同じ事でした。私は食卓に坐りながら、言葉を惜しがる人のように、
素気ない
挨拶ばかりしていました。Kは私よりもなお
寡言でした。たまに
親子連で外出した女二人の気分が、また
平生よりは
勝れて晴れやかだったので、我々の態度はなおの事眼に付きます。奥さんは私にどうかしたのかと聞きました。私は少し心持が悪いと答えました。実際私は心持が悪かったのです。すると今度はお嬢さんがKに同じ問いを掛けました。Kは私のように心持が悪いとは答えません。ただ口が
利きたくないからだといいました。お嬢さんはなぜ口が利きたくないのかと
追窮しました。私はその時ふと重たい
瞼を上げてKの顔を見ました。私にはKが何と答えるだろうかという好奇心があったのです。Kの唇は例のように少し
顫えていました。それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。お嬢さんは笑いながらまた何かむずかしい事を考えているのだろうといいました。Kの顔は心持薄赤くなりました。
その晩私はいつもより早く
床へ入りました。私が食事の時気分が悪いといったのを気にして、奥さんは十時頃
蕎麦湯を持って来てくれました。しかし私の
室はもう
真暗でした。奥さんはおやおやといって、仕切りの
襖を細目に開けました。
洋燈の光がKの机から
斜めにぼんやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きていたものとみえます。奥さんは
枕元に坐って、
大方風邪を引いたのだろうから
身体を
暖ためるがいいといって、
湯呑を顔の
傍へ突き付けるのです。私はやむをえず、どろどろした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みました。
私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。無論一つ問題をぐるぐる
廻転させるだけで、
外に何の効力もなかったのです。私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。私は半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたのです。私はまだ寝ないのかと襖ごしに聞きました。もう寝るという簡単な
挨拶がありました。何をしているのだと私は重ねて問いました。今度はKの答えがありません。その代り五、六分経ったと思う頃に、
押入をがらりと開けて、
床を延べる音が手に取るように聞こえました。私はもう
何時かとまた尋ねました。Kは一時二十分だと答えました。やがて
洋燈をふっと吹き消す音がして、
家中が真暗なうちに、しんと静まりました。
しかし私の眼はその暗いなかでいよいよ
冴えて来るばかりです。私はまた半ば無意識な状態で、おいとKに声を掛けました。Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。私は
今朝彼から聞いた事について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。私は無論
襖越にそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と考えたのです。ところがKは
先刻から二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような
素直な調子で、今度は応じません。そうだなあと低い声で渋っています。私はまたはっと思わせられました。
「Kの
生返事は
翌日になっても、その翌日になっても、彼の態度によく現われていました。彼は自分から進んで例の問題に触れようとする
気色を決して見せませんでした。もっとも機会もなかったのです。奥さんとお嬢さんが
揃って一日
宅を
空けでもしなければ、二人はゆっくり落ち付いて、そういう事を話し合う訳にも行かないのですから。
私はそれをよく心得ていました。心得ていながら、変にいらいらし出すのです。その結果始めは向うから来るのを待つつもりで、
暗に用意をしていた私が、折があったらこっちで口を切ろうと決心するようになったのです。
同時に私は黙って
家のものの様子を観察して見ました。しかし奥さんの態度にもお嬢さんの
素振にも、別に
平生と変った点はありませんでした。Kの自白以前と自白以後とで、彼らの挙動にこれという差違が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で、
肝心の本人にも、またその監督者たる奥さんにも、まだ通じていないのは
慥かでした。そう考えた時私は少し安心しました。それで無理に機会を
拵えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるものを取り逃さないようにする方が好かろうと思って、例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく事にしました。
こういってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の経過には、
潮の
満干と同じように、色々の
高低があったのです。私はKの動かない様子を見て、それにさまざまの意味を付け加えました。奥さんとお嬢さんの言語動作を観察して、二人の心がはたしてそこに現われている通りなのだろうかと
疑ってもみました。そうして人間の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように、
明瞭に
偽りなく、
盤上の数字を指し
得るものだろうかと考えました。要するに私は同じ事をこうも取り、ああも取りした
揚句、
漸くここに落ち付いたものと思って下さい。更にむずかしくいえば、落ち付くなどという言葉は、この際決して使われた義理でなかったのかも知れません。
その
内学校がまた始まりました。私たちは時間の同じ日には連れ立って
宅を出ます。都合がよければ帰る時にもやはりいっしょに帰りました。外部から見たKと私は、何にも前と違ったところがないように親しくなったのです。けれども腹の中では、
各自に
各自の事を勝手に考えていたに違いありません。ある日私は突然往来でKに肉薄しました。私が第一に聞いたのは、この間の自白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。私のこれから取るべき態度は、この問いに対する彼の答え次第で
極めなければならないと、私は思ったのです。すると彼は
外の人にはまだ
誰にも打ち明けていないと明言しました。私は事情が自分の推察通りだったので、内心
嬉しがりました。私はKの私より横着なのをよく知っていました。彼の度胸にも
敵わないという自覚があったのです。けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。学資の事で
養家を三年も
欺いていた彼ですけれども、彼の信用は私に対して少しも損われていなかったのです。私はそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答えを腹の中で否定する気は起りようがなかったのです。
私はまた彼に向って、彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。しかるに彼はそこになると、何にも答えません。黙って下を向いて歩き出します。私は彼に
隠し立てをしてくれるな、すべて思った通りを話してくれと頼みました。彼は何も私に隠す必要はないと
判然断言しました。しかし私の知ろうとする点には、
一言の返事も与えないのです。私も往来だからわざわざ立ち留まって
底まで突き留める訳にいきません。ついそれなりにしてしまいました。
「ある日私は久しぶりに学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けながら、新着の外国雑誌を、あちらこちらと
引っ
繰り返して見ていました。私は担任教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べて来いと命ぜられたのです。しかし私に必要な事柄がなかなか見付からないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然幅の広い机の向う側から小さな声で私の名を呼ぶものがあります。私はふと眼を上げてそこに立っているKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近付けました。ご承知の通り図書館では
他の人の邪魔になるような大きな声で話をする訳にゆかないのですから、Kのこの
所作は誰でもやる普通の事なのですが、私はその時に限って、一種変な心持がしました。
Kは低い声で勉強かと聞きました。私はちょっと調べものがあるのだと答えました。それでもKはまだその顔を私から放しません。同じ低い調子でいっしょに散歩をしないかというのです。私は少し待っていればしてもいいと答えました。彼は待っているといったまま、すぐ私の前の空席に腰をおろしました。すると私は気が散って急に雑誌が読めなくなりました。何だかKの胸に
一物があって、談判でもしに来られたように思われて仕方がないのです。私はやむをえず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうとしました。Kは落ち付き払ってもう済んだのかと聞きます。私はどうでもいいのだと答えて、雑誌を返すと共に、Kと図書館を出ました。
二人は別に行く所もなかったので、
竜岡町から
池の
端へ出て、
上野の公園の中へ入りました。その時彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。前後の様子を
綜合して考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩に
引っ
張り
出したらしいのです。けれども彼の態度はまだ実際的の方面へ向ってちっとも進んでいませんでした。彼は私に向って、ただ漠然と、どう思うというのです。どう思うというのは、そうした恋愛の
淵に
陥った彼を、どんな眼で私が
眺めるかという質問なのです。
一言でいうと、彼は現在の自分について、私の批判を求めたいようなのです。そこに私は彼の
平生と異なる点を確かに認める事ができたと思いました。たびたび繰り返すようですが、彼の天性は
他の思わくを
憚かるほど弱くでき上ってはいなかったのです。こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。
養家事件でその特色を強く胸の
裏に
彫り付けられた私が、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果なのです。
私がKに向って、この際
何んで私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいつもにも似ない
悄然とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいといいました。そうして迷っているから自分で自分が分らなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるより
外に仕方がないといいました。私は
隙かさず迷うという意味を聞き
糺しました。彼は進んでいいか
退いていいか、それに迷うのだと説明しました。私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。すると彼の言葉がそこで不意に行き詰りました。彼はただ苦しいといっただけでした。実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合のいい返事を、その
渇き切った顔の上に
慈雨の如く
注いでやったか分りません。私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています。しかしその時の私は違っていました。
「私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の
身体、すべて私という名の付くものを五
分の
隙間もないように用意して、Kに向ったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している
要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを
眺める事ができたも同じでした。
Kが理想と現実の間に
彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ
一打で彼を倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼の
虚に付け込んだのです。私は彼に向って急に厳粛な改まった態度を示し出しました。無論策略からですが、その態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に
滑稽だの
羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。私はまず「精神的に向上心のないものは
馬鹿だ」といい放ちました。これは二人で
房州を旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。私は彼の使った通りを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。しかし決して
復讐ではありません。私は復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。私はその
一言でKの前に横たわる恋の
行手を
塞ごうとしたのです。
Kは
真宗寺に生れた男でした。しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の
宗旨に近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは承知していますが、私はただ
男女に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔から
精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、
禁欲という意味も
籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、
摂欲や
禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の
妨害になるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。その
頃からお嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。そこには同情よりも
侮蔑の方が余計に現われていました。
こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。しかし前にもいった通り、私はこの一言で、彼が
折角積み上げた過去を
蹴散らしたつもりではありません。かえってそれを今まで通り積み重ねて行かせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていました。
「馬鹿だ」とやがてKが答えました。「僕は馬鹿だ」
Kはぴたりとそこへ立ち
留まったまま動きません。彼は地面の上を見詰めています。私は思わずぎょっとしました。私にはKがその
刹那に
居直り強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいという事に気が付きました。私は彼の
眼遣いを参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そうして、
徐々とまた歩き出しました。
「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で
暗に待ち受けました。あるいは待ち伏せといった方がまだ適当かも知れません。その時の私はたといKを
騙し打ちにしても構わないくらいに思っていたのです。しかし私にも教育相当の良心はありますから、もし誰か私の
傍へ来て、お前は
卑怯だと
一言私語いてくれるものがあったなら、私はその瞬間に、はっと我に立ち帰ったかも知れません。もしKがその人であったなら、私はおそらく彼の前に赤面したでしょう。ただKは私を
窘めるには余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だったのです。目のくらんだ私は、そこに敬意を払う事を忘れて、かえってそこに付け込んだのです。そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです。
Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私はその時やっとKの眼を
真向に見る事ができたのです。Kは私より
背の高い男でしたから、私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。私はそうした態度で、
狼のごとき心を罪のない羊に向けたのです。
「もうその話は
止めよう」と彼がいいました。彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。私はちょっと
挨拶ができなかったのです。するとKは、「
止めてくれ」と今度は頼むようにいい直しました。私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。
狼が
隙を見て羊の
咽喉笛へ
食い付くように。
「
止めてくれって、僕がいい出した事じゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし君が止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」
私がこういった時、
背の高い彼は自然と私の前に
萎縮して小さくなるような感じがしました。彼はいつも話す通り
頗る
強情な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられない
質だったのです。私は彼の様子を見てようやく安心しました。すると彼は
卒然「覚悟?」と聞きました。そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、――覚悟ならない事もない」と付け加えました。彼の調子は
独言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。
二人はそれぎり話を切り上げて、
小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは
淋しいものでした。ことに霜に打たれて
蒼味を失った杉の
木立の
茶褐色が、薄黒い空の中に、
梢を並べて
聳えているのを振り返って見た時は、寒さが背中へ
噛り付いたような心持がしました。我々は夕暮の
本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向うの
岡へ
上るべく小石川の谷へ下りたのです。私はその
頃になって、ようやく
外套の下に
体の
温味を感じ出したぐらいです。
急いだためでもありましょうが、我々は帰り
路にはほとんど口を聞きませんでした。
宅へ帰って食卓に向った時、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。私はKに誘われて
上野へ行ったと答えました。奥さんはこの寒いのにといって驚いた様子を見せました。お嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。
平生から無口なKは、いつもよりなお黙っていました。奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、
碌な
挨拶はしませんでした。それから
飯を
呑み込むように
掻き込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分の
室へ引き取りました。
「その
頃は
覚醒とか新しい生活とかいう
文字のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、
一意に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出す事のできないほど
尊い過去があったからです。彼はそのために
今日まで生きて来たといってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向って猛進しないといって、決してその愛の
生温い事を証拠立てる訳にはゆきません。いくら
熾烈な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏み
留まって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去が指し示す
路を今まで通り歩かなければならなくなるのです。その上彼には現代人のもたない
強情と我慢がありました。私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。
上野から帰った晩は、私に取って比較的安静な
夜でした。私はKが
室へ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机の
傍に
坐り込みました。そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑そうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手を
翳した
後、自分の室に帰りました。
外の事にかけては何をしても彼に及ばなかった私も、その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に対してもっていたのです。
私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の
襖が二
尺ばかり
開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には
宵の通りまだ
燈火が
点いているのです。急に世界の変った私は、少しの
間口を
利く事もできずに、ぼうっとして、その光景を
眺めていました。
その時Kはもう寝たのかと聞きました。Kはいつでも遅くまで起きている男でした。私は黒い
影法師のようなKに向って、何か用かと聞き返しました。Kは大した用でもない、ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。Kは
洋燈の
灯を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の声は不断よりもかえって落ち付いていたくらいでした。
Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の室はすぐ元の
暗闇に帰りました。私はその暗闇より静かな夢を見るべくまた眼を閉じました。私はそれぎり何も知りません。しかし
翌朝になって、
昨夕の事を考えてみると、何だか不思議でした。私はことによると、すべてが夢ではないかと思いました。それで
飯を食う時、Kに聞きました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだといいます。なぜそんな事をしたのかと尋ねると、別に
判然した返事もしません。調子の抜けた頃になって、近頃は熟睡ができるのかとかえって向うから私に問うのです。私は何だか変に感じました。
その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、二人はやがていっしょに
宅を出ました。
今朝から昨夕の事が気に
掛っている私は、途中でまたKを
追窮しました。けれどもKはやはり私を満足させるような答えをしません。私はあの事件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。Kはそうではないと強い調子でいい切りました。
昨日上野で「その話はもう
止めよう」といったではないかと注意するごとくにも聞こえました。Kはそういう点に掛けて鋭い自尊心をもった男なのです。ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた「覚悟」という言葉を連想し出しました。すると今までまるで気にならなかったその二字が妙な力で私の頭を
抑え始めたのです。
「Kの果断に富んだ性格は
私によく知れていました。彼のこの事件についてのみ
優柔な訳も私にはちゃんと
呑み込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり
攫まえたつもりで得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を、頭のなかで
何遍も
咀嚼しているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら
揺き始めるようになりました。私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。すべての疑惑、
煩悶、
懊悩、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに
畳み込んでいるのではなかろうかと
疑り始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を
眺め返してみた私は、はっと驚きました。その時の私がもしこの驚きをもって、もう
一返彼の口にした覚悟の内容を公平に
見廻したらば、まだよかったかも知れません。悲しい事に私は
片眼でした。私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと
一図に思い込んでしまったのです。
私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐその声に応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない
間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を
極めました。私は黙って機会を
覘っていました。しかし二日
経っても三日経っても、私はそれを
捕まえる事ができません。私はKのいない時、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考えたのです。しかし片方がいなければ、片方が邪魔をするといった
風の日ばかり続いて、どうしても「今だ」と思う好都合が出て来てくれないのです。私はいらいらしました。
一週間の
後私はとうとう堪え切れなくなって
仮病を
遣いました。奥さんからもお嬢さんからも、K自身からも、起きろという催促を受けた私は、
生返事をしただけで、十時
頃まで
蒲団を
被って寝ていました。私はKもお嬢さんもいなくなって、家の
内がひっそり静まった頃を
見計らって寝床を出ました。私の顔を見た奥さんは、すぐどこが悪いかと尋ねました。
食物は
枕元へ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。
身体に異状のない私は、とても寝る気にはなれません。顔を洗っていつもの通り茶の間で
飯を食いました。その時奥さんは
長火鉢の
向側から給仕をしてくれたのです。私は
朝飯とも
午飯とも片付かない
茶椀を手に持ったまま、どんな風に問題を切り出したものだろうかと、そればかりに
屈托していたから、外観からは実際気分の
好くない病人らしく見えただろうと思います。
私は飯を
終って
烟草を吹かし出しました。私が立たないので奥さんも火鉢の
傍を離れる訳にゆきません。
下女を呼んで
膳を下げさせた上、
鉄瓶に水を
注したり、火鉢の
縁を
拭いたりして、私に調子を合わせています。私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました。奥さんはいいえと答えましたが、今度は向うでなぜですと聞き返して来ました。私は実は少し話したい事があるのだといいました。奥さんは何ですかといって、私の顔を見ました。奥さんの調子はまるで私の気分にはいり込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し渋りました。
私は仕方なしに言葉の上で、
好い加減にうろつき
廻った末、Kが
近頃何かいいはしなかったかと奥さんに聞いてみました。奥さんは思いも寄らないという風をして、「何を?」とまた反問して来ました。そうして私の答える前に、「あなたには何かおっしゃったんですか」とかえって向うで聞くのです。
「Kから聞かされた打ち明け話を、奥さんに伝える気のなかった私は、「いいえ」といってしまった後で、すぐ自分の
嘘を
快からず感じました。仕方がないから、別段何も頼まれた覚えはないのだから、Kに関する用件ではないのだといい直しました。奥さんは「そうですか」といって、
後を待っています。私はどうしても切り出さなければならなくなりました。私は突然「奥さん、お嬢さんを私に下さい」といいました。奥さんは私の予期してかかったほど驚いた様子も見せませんでしたが、それでも
少時返事ができなかったものと見えて、黙って私の顔を
眺めていました。一度いい出した私は、いくら顔を見られても、それに
頓着などはしていられません。「下さい、ぜひ下さい」といいました。「私の妻としてぜひ下さい」といいました。奥さんは年を取っているだけに、私よりもずっと落ち付いていました。「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか」と聞くのです。私が「急に
貰いたいのだ」とすぐ答えたら笑い出しました。そうして「よく考えたのですか」と念を押すのです。私はいい出したのは突然でも、考えたのは突然でないという訳を強い言葉で説明しました。
それからまだ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れてしまいました。男のように
判然したところのある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話のできる人でした。「
宜ござんす、差し上げましょう」といいました。「差し上げるなんて
威張った口の
利ける境遇ではありません。どうぞ貰って下さい。ご存じの通り父親のない
憐れな子です」と
後では向うから頼みました。
話は簡単でかつ
明瞭に片付いてしまいました。最初からしまいまでにおそらく十五分とは
掛らなかったでしょう。奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だといいました。本人の
意嚮さえたしかめるに及ばないと明言しました。そんな点になると、学問をした私の方が、かえって形式に
拘泥するくらいに思われたのです。親類はとにかく、当人にはあらかじめ話して承諾を
得るのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」といいました。
自分の
室へ帰った私は、事のあまりに訳もなく進行したのを考えて、かえって変な気持になりました。はたして大丈夫なのだろうかという疑念さえ、どこからか頭の底に
這い込んで来たくらいです。けれども大体の上において、私の未来の運命は、これで定められたのだという観念が私のすべてを新たにしました。
私は
午頃また茶の間へ出掛けて行って、奥さんに、
今朝の話をお嬢さんに
何時通じてくれるつもりかと尋ねました。奥さんは、自分さえ承知していれば、いつ話しても構わなかろうというような事をいうのです。こうなると何だか私よりも相手の方が男みたようなので、私はそれぎり引き込もうとしました。すると奥さんが私を引き留めて、もし早い方が希望ならば、今日でもいい、
稽古から帰って来たら、すぐ話そうというのです。私はそうしてもらう方が都合が
好いと答えてまた自分の室に帰りました。しかし黙って自分の机の前に
坐って、二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像してみると、何だか落ち付いていられないような気もするのです。私はとうとう帽子を
被って表へ出ました。そうしてまた坂の下でお嬢さんに行き合いました。何にも知らないお嬢さんは私を見て驚いたらしかったのです。私が帽子を
脱って「今お帰り」と尋ねると、向うではもう病気は
癒ったのかと不思議そうに聞くのです。私は「ええ癒りました、癒りました」と答えて、ずんずん
水道橋の方へ曲ってしまいました。
「私は
猿楽町から
神保町の通りへ出て、
小川町の方へ曲りました。私がこの
界隈を歩くのは、いつも古本屋をひやかすのが目的でしたが、その日は
手摺れのした書物などを
眺める気が、どうしても起らないのです。私は歩きながら絶えず
宅の事を考えていました。私には
先刻の奥さんの記憶がありました。それからお嬢さんが宅へ帰ってからの想像がありました。私はつまりこの二つのもので歩かせられていたようなものです。その上私は時々往来の真中で我知らずふと立ち留まりました。そうして今頃は奥さんがお嬢さんにもうあの話をしている時分だろうなどと考えました。また
或る時は、もうあの話が済んだ頃だとも思いました。
私はとうとう
万世橋を渡って、
明神の坂を上がって、
本郷台へ来て、それからまた
菊坂を下りて、しまいに
小石川の谷へ下りたのです。私の歩いた距離はこの三区に
跨がって、いびつな円を
描いたともいわれるでしょうが、私はこの長い散歩の間ほとんどKの事を考えなかったのです。今その時の私を回顧して、なぜだと自分に聞いてみても
一向分りません。ただ不思議に思うだけです。私の心がKを忘れ
得るくらい、一方に緊張していたとみればそれまでですが、私の良心がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。
Kに対する私の良心が復活したのは、私が宅の
格子を開けて、玄関から
坐敷へ通る時、すなわち例のごとく彼の
室を抜けようとした瞬間でした。彼はいつもの通り机に向って書見をしていました。彼はいつもの通り書物から眼を放して、私を見ました。しかし彼はいつもの通り今帰ったのかとはいいませんでした。彼は「病気はもう
癒いのか、医者へでも行ったのか」と聞きました。私はその
刹那に、彼の前に手を突いて、
詫まりたくなったのです。しかも私の受けたその時の衝動は決して弱いものではなかったのです。もしKと私がたった二人
曠野の真中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。しかし奥には人がいます。私の自然はすぐそこで食い留められてしまったのです。そうして悲しい事に永久に復活しなかったのです。
夕飯の時Kと私はまた顔を合せました。何にも知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い眼を私に向けません。何にも知らない奥さんはいつもより
嬉しそうでした。私だけがすべてを知っていたのです。私は鉛のような飯を食いました。その時お嬢さんはいつものようにみんなと同じ食卓に並びませんでした。奥さんが催促すると、次の室で
只今と答えるだけでした。それをKは不思議そうに聞いていました。しまいにどうしたのかと奥さんに尋ねました。奥さんは
大方極りが悪いのだろうといって、ちょっと私の顔を見ました。Kはなお不思議そうに、なんで極りが悪いのかと
追窮しに
掛かりました。奥さんは微笑しながらまた私の顔を見るのです。
私は食卓に着いた初めから、奥さんの
顔付で、事の
成行をほぼ推察していました。しかしKに説明を与えるために、私のいる前で、それを
悉く話されては
堪らないと考えました。奥さんはまたそのくらいの事を平気でする女なのですから、私はひやひやしたのです。幸いにKはまた元の沈黙に帰りました。
平生より多少機嫌のよかった奥さんも、とうとう私の恐れを
抱いている点までは話を進めずにしまいました。私はほっと
一息して室へ帰りました。しかし私がこれから先Kに対して取るべき態度は、どうしたものだろうか、私はそれを考えずにはいられませんでした。私は色々の弁護を自分の胸で
拵えてみました。けれどもどの弁護もKに対して面と向うには足りませんでした、
卑怯な私はついに自分で自分をKに説明するのが
厭になったのです。
「私はそのまま二、三日過ごしました。その二、三日の間Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしていたのはいうまでもありません。私はただでさえ何とかしなければ、彼に済まないと思ったのです。その上奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように
刺戟するのですから、私はなお
辛かったのです。どこか男らしい気性を
具えた奥さんは、いつ私の事を食卓でKに
素ぱ抜かないとも限りません。それ以来ことに目立つように思えた私に対するお嬢さんの
挙止動作も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは断言できません。私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。
私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考えました。無論私のいない時にです。しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、
面目のないのに変りはありません。といって、
拵え事を話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を
詰問されるに
極っています。もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前に
曝け出さなければなりません。
真面目な私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一
分一
厘でも、私には堪え切れない不幸のように見えました。
要するに私は正直な
路を歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは
狡猾な男でした。そうしてそこに気のついているものは、今のところただ天と私の心だけだったのです。しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない
窮境に
陥ったのです。私はあくまで滑った事を隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に
挟まってまた
立ち
竦みました。
五、六日
経った
後、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。私はまだ話さないと答えました。するとなぜ話さないのかと、奥さんが私を
詰るのです。私はこの問いの前に固くなりました。その時奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。
「道理で
妾が話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか。
平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」
私はKがその時何かいいはしなかったかと奥さんに聞きました。奥さんは別段何にもいわないと答えました。しかし私は進んでもっと
細かい事を尋ねずにはいられませんでした。奥さんは
固より何も隠す訳がありません。大した話もないがといいながら、一々Kの様子を語って聞かせてくれました。
奥さんのいうところを
綜合して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きをもって迎えたらしいのです。Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ
一口いっただけだったそうです。しかし奥さんが、「あなたも喜んで下さい」と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑を
洩らしながら、「おめでとうございます」といったまま席を立ったそうです。そうして茶の間の
障子を開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつですか」と聞いたそうです。それから「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」といったそうです。奥さんの前に
坐っていた私は、その話を聞いて胸が
塞るような苦しさを覚えました。
「勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので、私は全くそれに気が付かずにいたのです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に
値すべきだと私は考えました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が
遥かに立派に見えました。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」という感じが私の胸に渦巻いて起りました。私はその時さぞKが
軽蔑している事だろうと思って、一人で顔を
赧らめました。しかし今更Kの前に出て、恥を
掻かせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。
私が進もうか
止そうかと考えて、ともかくも
翌日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。私は今でもその光景を思い出すと
慄然とします。いつも
東枕で寝る私が、その晩に限って、偶然西枕に
床を敷いたのも、何かの
因縁かも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。見ると、いつも立て切ってあるKと私の
室との
仕切の
襖が、この間の晩と同じくらい
開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。私は暗示を受けた人のように、床の上に
肱を突いて起き上がりながら、
屹とKの室を
覗きました。
洋燈が暗く
点っているのです。それで床も敷いてあるのです。しかし
掛蒲団は
跳返されたように
裾の方に重なり合っているのです。そうしてK自身は向うむきに
突ッ
伏しているのです。
私はおいといって声を掛けました。しかし何の答えもありません。おいどうかしたのかと私はまたKを呼びました。それでもKの
身体は
些とも動きません。私はすぐ起き上って、
敷居際まで行きました。そこから彼の室の様子を、暗い
洋燈の光で
見廻してみました。
その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室の中を
一目見るや
否や、あたかも
硝子で作った義眼のように、動く能力を失いました。私は
棒立ちに
立ち
竦みました。それが
疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああ
失策ったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を
物凄く照らしました。そうして私はがたがた
顫え出したのです。
それでも私はついに私を忘れる事ができませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは予期通り私の
名宛になっていました。私は夢中で封を切りました。しかし中には私の予期したような事は何にも書いてありませんでした。私は私に取ってどんなに
辛い文句がその中に書き
列ねてあるだろうと予期したのです。そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの眼に触れたら、どんなに軽蔑されるかも知れないという恐怖があったのです。私はちょっと眼を通しただけで、まず助かったと思いました。(
固より
世間体の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。)
手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は
薄志弱行で到底
行先の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその
後に付け加えてありました。世話ついでに死後の
片付方も頼みたいという言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて済まんから
宜しく
詫をしてくれという句もありました。国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。必要な事はみんな
一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後に
墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。
私は
顫える手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを
皆なの眼に着くように、元の通り机の上に置きました。そうして振り返って、
襖に
迸っている血潮を始めて見たのです。
「私は突然Kの頭を
抱えるように両手で少し持ち上げました。私はKの
死顔が
一目見たかったのです。しかし
俯伏しになっている彼の顔を、こうして下から
覗き込んだ時、私はすぐその手を放してしまいました。
慄としたばかりではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。私は上から今
触った冷たい耳と、
平生に変らない
五分刈の濃い髪の毛を
少時眺めていました。私は少しも泣く気にはなれませんでした。私はただ恐ろしかったのです。そうしてその恐ろしさは、眼の前の光景が官能を
刺激して起る単調な恐ろしさばかりではありません。私は
忽然と冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。
私は何の
分別もなくまた私の
室に帰りました。そうして八畳の中をぐるぐる
廻り始めました。私の頭は無意味でも当分そうして動いていろと私に命令するのです。私はどうかしなければならないと思いました。同時にもうどうする事もできないのだと思いました。座敷の中をぐるぐる廻らなければいられなくなったのです。
檻の中へ入れられた
熊のような態度で。
私は時々奥へ行って奥さんを起そうという気になります。けれども女にこの恐ろしい有様を見せては悪いという心持がすぐ私を
遮ります。奥さんはとにかく、お嬢さんを驚かす事は、とてもできないという強い意志が私を
抑えつけます。私はまたぐるぐる廻り始めるのです。
私はその間に自分の室の
洋燈を
点けました。それから時計を折々見ました。その時の時計ほど
埒の
明かない遅いものはありませんでした。私の起きた時間は、正確に分らないのですけれども、もう
夜明に
間もなかった事だけは明らかです。ぐるぐる
廻りながら、その夜明を待ち
焦れた私は、永久に暗い夜が続くのではなかろうかという思いに悩まされました。
我々は七時前に起きる習慣でした。学校は八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合わないのです。
下女はその関係で六時頃に起きる訳になっていました。しかしその日私が下女を起しに行ったのはまだ六時前でした。すると奥さんが今日は日曜だといって注意してくれました。奥さんは私の足音で眼を覚ましたのです。私は奥さんに眼が覚めているなら、ちょっと私の
室まで来てくれと頼みました。奥さんは寝巻の上へ
不断着の羽織を
引っ
掛けて、私の
後に
跟いて来ました。私は室へはいるや
否や、今まで
開いていた仕切りの
襖をすぐ立て切りました。そうして奥さんに飛んだ事ができたと小声で告げました。奥さんは何だと聞きました。私は
顋で隣の室を指すようにして、「驚いちゃいけません」といいました。奥さんは
蒼い顔をしました。「奥さん、Kは自殺しました」と私がまたいいました。奥さんはそこに
居竦まったように、私の顔を見て黙っていました。その時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。「済みません。私が悪かったのです。あなたにもお嬢さんにも済まない事になりました」と
詫まりました。私は奥さんと向い合うまで、そんな言葉を口にする気はまるでなかったのです。しかし奥さんの顔を見た時不意に我とも知らずそういってしまったのです。Kに詫まる事のできない私は、こうして奥さんとお嬢さんに
詫びなければいられなくなったのだと思って下さい。つまり私の自然が
平生の私を出し抜いてふらふらと
懺悔の口を開かしたのです。奥さんがそんな深い意味に、私の言葉を解釈しなかったのは私にとって幸いでした。蒼い顔をしながら、「不慮の出来事なら仕方がないじゃありませんか」と慰めるようにいってくれました。しかしその顔には驚きと
怖れとが、
彫り付けられたように、
硬く筋肉を
攫んでいました。
「私は奥さんに気の毒でしたけれども、また立って今閉めたばかりの
唐紙を開けました。その時Kの
洋燈に油が尽きたと見えて、
室の中はほとんど
真暗でした。私は引き返して自分の洋燈を手に持ったまま、入口に立って奥さんを顧みました。奥さんは私の後ろから隠れるようにして、四畳の中を
覗き込みました。しかしはいろうとはしません。そこはそのままにしておいて、雨戸を開けてくれと私にいいました。
それから
後の奥さんの態度は、さすがに軍人の
未亡人だけあって要領を得ていました。私は医者の所へも行きました。また警察へも行きました。しかしみんな奥さんに命令されて行ったのです。奥さんはそうした
手続の済むまで、誰もKの部屋へは
入れませんでした。
Kは小さなナイフで
頸動脈を切って
一息に死んでしまったのです。
外に
創らしいものは何にもありませんでした。私が夢のような薄暗い
灯で見た唐紙の血潮は、彼の
頸筋から一度に
迸ったものと知れました。私は
日中の光で明らかにその
迹を再び
眺めました。そうして人間の血の
勢いというものの
劇しいのに驚きました。
奥さんと私はできるだけの
手際と工夫を用いて、Kの
室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸い彼の
蒲団に吸収されてしまったので、畳はそれほど汚れないで済みましたから、後始末は
[#「後始末は」は底本では「後始未は」]まだ楽でした。二人は彼の
死骸を私の室に入れて、不断の通り寝ている
体に横にしました。私はそれから彼の実家へ電報を打ちに出たのです。
私が帰った時は、Kの
枕元にもう線香が立てられていました。室へはいるとすぐ
仏臭い
烟で鼻を
撲たれた私は、その烟の中に
坐っている女二人を認めました。私がお嬢さんの顔を見たのは、
昨夜来この時が始めてでした。お嬢さんは泣いていました。奥さんも眼を赤くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらい
寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、
一滴の
潤を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。
私は黙って二人の
傍に坐っていました。奥さんは私にも線香を上げてやれといいます。私は線香を上げてまた黙って坐っていました。お嬢さんは私には何ともいいません。たまに奥さんと
一口二口言葉を
換わす事がありましたが、それは当座の用事についてのみでした。お嬢さんにはKの生前について語るほどの余裕がまだ出て来なかったのです。私はそれでも
昨夜の
物凄い有様を見せずに済んでまだよかったと心のうちで思いました。若い美しい人に恐ろしいものを見せると、
折角の美しさが、そのために破壊されてしまいそうで私は
怖かったのです。私の恐ろしさが私の髪の毛の末端まで来た時ですら、私はその考えを度外に置いて行動する事はできませんでした。私には
綺麗な花を罪もないのに
妄りに
鞭うつと同じような不快がそのうちに
籠っていたのです。
国元からKの父と兄が出て来た時、私はKの遺骨をどこへ
埋めるかについて自分の意見を述べました。私は彼の生前に
雑司ヶ谷近辺をよくいっしょに散歩した事があります。Kにはそこが大変気に入っていたのです。それで私は
笑談半分に、そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。私も今その約束通りKを雑司ヶ谷へ
葬ったところで、どのくらいの
功徳になるものかとは思いました。けれども私は私の生きている限り、Kの墓の前に
跪いて月々私の
懺悔を新たにしたかったのです。今まで構い付けなかったKを、私が万事世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kの父も兄も私のいう事を聞いてくれました。
「Kの葬式の帰り
路に、私はその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。事件があって以来私はもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。奥さんもお嬢さんも、国から出て来たKの父兄も、通知を出した知り合いも、彼とは何の縁故もない新聞記者までも、必ず同様の質問を私に掛けない事はなかったのです。私の良心はそのたびにちくちく刺されるように痛みました。そうして私はこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。
私の答えは誰に対しても同じでした。私はただ彼の私
宛で書き残した手紙を繰り返すだけで、
外に
一口も附け加える事はしませんでした。葬式の帰りに同じ問いを掛けて、同じ答えを得たKの友人は、
懐から一枚の新聞を出して私に見せました。私は歩きながらその友人によって指し示された箇所を読みました。それにはKが父兄から勘当された結果
厭世的な考えを起して自殺したと書いてあるのです。私は何にもいわずに、その新聞を
畳んで友人の手に帰しました。友人はこの
外にもKが気が狂って自殺したと書いた新聞があるといって教えてくれました。忙しいので、ほとんど新聞を読む暇がなかった私は、まるでそうした方面の知識を欠いていましたが、腹の中では始終気にかかっていたところでした。私は何よりも
宅のものの迷惑になるような記事の出るのを恐れたのです。ことに名前だけにせよお嬢さんが引合いに出たら
堪らないと思っていたのです。私はその友人に
外に何とか書いたのはないかと聞きました。友人は自分の眼に着いたのは、ただその二種ぎりだと答えました。
私が今おる家へ
引っ
越したのはそれから間もなくでした。奥さんもお嬢さんも前の所にいるのを
厭がりますし、私もその
夜の記憶を毎晩繰り返すのが苦痛だったので、相談の上移る事に
極めたのです。
移って二カ月ほどしてから私は無事に大学を卒業しました。卒業して半年も
経たないうちに、私はとうとうお嬢さんと結婚しました。外側から見れば、万事が予期通りに運んだのですから、
目出度といわなければなりません。奥さんもお嬢さんもいかにも幸福らしく見えました。私も幸福だったのです。けれども私の幸福には黒い影が
随いていました。私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。
結婚した時お嬢さんが、――もうお嬢さんではありませんから、
妻といいます。――妻が、何を思い出したのか、二人でKの
墓参りをしようといい出しました。私は意味もなくただぎょっとしました。どうしてそんな事を急に思い立ったのかと聞きました。妻は二人
揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろうというのです。私は何事も知らない妻の顔をしけじけ
眺めていましたが、妻からなぜそんな顔をするのかと問われて始めて気が付きました。
私は妻の望み通り二人連れ立って
雑司ヶ谷へ行きました。私は新しいKの墓へ水をかけて洗ってやりました。妻はその前へ線香と花を立てました。二人は頭を下げて、合掌しました。妻は定めて私といっしょになった
顛末を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。私は腹の中で、ただ自分が悪かったと繰り返すだけでした。
その時妻はKの墓を
撫でてみて立派だと評していました。その墓は大したものではないのですけれども、私が自分で石屋へ行って
見立てたりした
因縁があるので、妻はとくにそういいたかったのでしょう。私はその新しい墓と、新しい私の妻と、それから地面の下に
埋められたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の
冷罵を感ぜずにはいられなかったのです。私はそれ以後決して妻といっしょにKの墓参りをしない事にしました。
「私の亡友に対するこうした感じはいつまでも続きました。実は私も初めからそれを恐れていたのです。年来の希望であった結婚すら、不安のうちに式を挙げたといえばいえない事もないでしょう。しかし自分で自分の先が見えない人間の事ですから、ことによるとあるいはこれが私の心持を一転して新しい生涯に
入る
端緒になるかも知れないとも思ったのです。ところがいよいよ夫として朝夕
妻と顔を合せてみると、私の
果敢ない希望は手厳しい現実のために
脆くも破壊されてしまいました。私は妻と顔を合せているうちに、
卒然Kに
脅かされるのです。つまり妻が中間に立って、Kと私をどこまでも結び付けて離さないようにするのです。妻のどこにも不足を感じない私は、ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸にはすぐそれが
映ります。映るけれども、理由は
解らないのです。私は時々妻からなぜそんなに考えているのだとか、何か気に入らない事があるのだろうとかいう
詰問を受けました。笑って済ませる時はそれで
差支えないのですが、時によると、妻の
癇も
高じて来ます。しまいには「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう」とか、「何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない」とかいう
怨言も聞かなくてはなりません。私はそのたびに苦しみました。
私は
一層思い切って、ありのままを妻に打ち明けようとした事が何度もあります。しかしいざという間際になると自分以外のある力が不意に来て私を
抑え付けるのです。私を理解してくれるあなたの事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話しておきます。その時分の私は妻に対して
己れを飾る気はまるでなかったのです。もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻の前に
懺悔の言葉を並べたなら、妻は
嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないのです。それをあえてしない私に利害の打算があるはずはありません。私はただ妻の記憶に暗黒な一点を
印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに
一雫の
印気でも
容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。
一年
経ってもKを忘れる事のできなかった私の心は常に不安でした。私はこの不安を
駆逐するために書物に
溺れようと
力めました。私は猛烈な
勢をもって勉強し始めたのです。そうしてその結果を世の中に
公にする日の来るのを待ちました。けれども無理に目的を
拵えて、無理にその目的の達せられる日を待つのは
嘘ですから不愉快です。私はどうしても書物のなかに心を
埋めていられなくなりました。私はまた腕組みをして世の中を
眺めだしたのです。
妻はそれを
今日に困らないから心に
弛みが出るのだと観察していたようでした。妻の家にも親子二人ぐらいは
坐っていてどうかこうか暮して行ける財産がある上に、私も職業を求めないで
差支えのない境遇にいたのですから、そう思われるのももっともです。私も幾分かスポイルされた気味がありましょう。しかし私の動かなくなった原因の主なものは、全くそこにはなかったのです。
叔父に
欺かれた当時の私は、
他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、
他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこの
己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。それがKのために
美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。
他に
愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。
「書物の中に自分を
生埋めにする事のできなかった私は、酒に魂を
浸して、
己れを忘れようと試みた時期もあります。私は酒が好きだとはいいません。けれども飲めば飲める
質でしたから、ただ量を頼みに心を
盛り
潰そうと
力めたのです。この
浅薄な方便はしばらくするうちに私をなお
厭世的にしました。私は
爛酔の
真最中にふと自分の位置に気が付くのです。自分はわざとこんな
真似をして己れを
偽っている
愚物だという事に気が付くのです。すると
身振いと共に眼も心も
醒めてしまいます。時にはいくら飲んでもこうした仮装状態にさえ
入り込めないでむやみに沈んで行く場合も出て来ます。その上技巧で愉快を買った
後には、きっと
沈鬱な反動があるのです。私は自分の最も愛している
妻とその母親に、いつでもそこを見せなければならなかったのです。しかも彼らは彼らに自然な立場から私を解釈して
掛ります。
妻の母は時々
気拙い事を妻にいうようでした。それを妻は私に隠していました。しかし自分は自分で、単独に私を責めなければ気が済まなかったらしいのです。責めるといっても、決して強い言葉ではありません。妻から何かいわれたために、私が激した
例はほとんどなかったくらいですから。妻はたびたびどこが気に入らないのか遠慮なくいってくれと頼みました。それから私の未来のために酒を
止めろと忠告しました。ある時は泣いて「あなたはこの
頃人間が違った」といいました。それだけならまだいいのですけれども、「Kさんが生きていたら、あなたもそんなにはならなかったでしょう」というのです。私はそうかも知れないと答えた事がありましたが、私の答えた意味と、妻の了解した意味とは全く違っていたのですから、私は心のうちで悲しかったのです。それでも私は妻に何事も説明する気にはなれませんでした。
私は時々妻に
詫まりました。それは多く酒に酔って遅く帰った
翌日の朝でした。妻は笑いました。あるいは黙っていました。たまにぽろぽろと涙を落す事もありました。私はどっちにしても自分が不愉快で
堪らなかったのです。だから私の妻に詫まるのは、自分に詫まるのとつまり同じ事になるのです。私はしまいに酒を
止めました。妻の忠告で止めたというより、自分で
厭になったから止めたといった方が適当でしょう。
酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。しかし読めば読んだなりで、
打ち
遣って置きます。私は妻から何のために勉強するのかという質問をたびたび受けました。私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は
寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。
同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは
正しく失恋のために死んだものとすぐ
極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう
容易くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で
淋しくって仕方がなくなった結果、急に
所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた
慄としたのです。私もKの歩いた
路を、Kと同じように
辿っているのだという
予覚が、折々風のように私の胸を
横過り始めたからです。
「その内
妻の母が病気になりました。医者に見せると
到底癒らないという診断でした。私は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身のためでもありますし、また愛する妻のためでもありましたが、もっと大きな意味からいうと、ついに人間のためでした。私はそれまでにも何かしたくって
堪らなかったのだけれども、何もする事ができないのでやむをえず
懐手をしていたに違いありません。世間と切り離された私が、始めて自分から手を出して、幾分でも
善い事をしたという自覚を得たのはこの時でした。私は
罪滅しとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたのです。
母は死にました。私と
妻はたった二人ぎりになりました。妻は私に向って、これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなったといいました。自分自身さえ頼りにする事のできない私は、妻の顔を見て思わず涙ぐみました。そうして妻を不幸な女だと思いました。また不幸な女だと口へ出してもいいました。妻はなぜだと聞きます。妻には私の意味が
解らないのです。私もそれを説明してやる事ができないのです。妻は泣きました。私が
不断からひねくれた考えで彼女を観察しているために、そんな事もいうようになるのだと
恨みました。
母の亡くなった
後、私はできるだけ妻を親切に取り扱ってやりました。ただ、当人を愛していたからばかりではありません。私の親切には
箇人を離れてもっと広い背景があったようです。ちょうど妻の母の看護をしたと同じ意味で、私の心は動いたらしいのです。妻は満足らしく見えました。けれどもその満足のうちには、私を理解し得ないために起るぼんやりした
稀薄な点がどこかに含まれているようでした。しかし妻が私を理解し得たにしたところで、この物足りなさは増すとも減る
気遣いはなかったのです。女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を
嬉しがる性質が、男よりも強いように思われますから。
妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。私はただ若い時ならなれるだろうと
曖昧な返事をしておきました。妻は自分の過去を振り返って
眺めているようでしたが、やがて
微かな
溜息を
洩らしました。
私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が
閃きました。初めはそれが偶然
外から襲って来るのです。私は驚きました。私はぞっとしました。しかししばらくしている
中に、私の心がその
物凄い閃きに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から
潜んでいるもののごとくに思われ出して来たのです。私はそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと
疑ってみました。けれども私は医者にも誰にも
診てもらう気にはなりませんでした。
私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ
毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。私はその感じのために、知らない
路傍の人から
鞭うたれたいとまで思った事もあります、こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。
私がそう決心してから
今日まで何年になるでしょう。私と妻とは元の通り仲好く暮して来ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかし私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、私は
妻に対して非常に気の毒な気がします。
「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の
刺戟で
躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや
否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと
抑え付けるようにいって聞かせます。すると私はその
一言で
直ぐたりと
萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で
他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は
冷やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります。
波瀾も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。
妻が見て
歯痒がる前に、私自身が
何層倍歯痒い思いを重ねて来たか知れないくらいです。私がこの
牢屋の
中に
凝としている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、
必竟私にとって一番楽な努力で
遂行できるものは自殺より
外にないと私は感ずるようになったのです。あなたはなぜといって眼を
るかも知れませんが、いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。
私は
今日に至るまですでに二、三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事があります。しかし私はいつでも妻に心を
惹かされました。そうしてその妻をいっしょに連れて行く勇気は無論ないのです。妻にすべてを打ち明ける事のできないくらいな私ですから、自分の運命の
犠牲として、妻の
天寿を奪うなどという
手荒な
所作は、考えてさえ恐ろしかったのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の
廻り合せがあります、二人を
一束にして火に
燻べるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としか私には思えませんでした。
同時に私だけがいなくなった
後の妻を想像してみるといかにも
不憫でした。母の死んだ時、これから世の中で頼りにするものは私より外になくなったといった彼女の
述懐を、私は
腸に
沁み込むように記憶させられていたのです。私はいつも
躊躇しました。妻の顔を見て、
止してよかったと思う事もありました。そうしてまた
凝と
竦んでしまいます。そうして妻から時々物足りなそうな眼で
眺められるのです。
記憶して下さい。私はこんな
風にして生きて来たのです。始めてあなたに
鎌倉で会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、私の気分に大した変りはなかったのです。私の後ろにはいつでも黒い影が
括ッ
付いていました。私は
妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。あなたが卒業して国へ帰る時も同じ事でした。九月になったらまたあなたに会おうと約束した私は、
嘘を
吐いたのではありません。全く会う気でいたのです。秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても、きっと会うつもりでいたのです。
すると夏の暑い盛りに
明治天皇が
崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その
後に生き残っているのは
必竟時勢遅れだという感じが
烈しく私の胸を打ちました。私は
明白さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では
殉死でもしたらよかろうと
調戯いました。
「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。
平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の
笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。
それから約一カ月ほど
経ちました。
御大葬の夜私はいつもの通り書斎に
坐って、
相図の
号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが
乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。
西南戦争の時敵に旗を
奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい
今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た
年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の
間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた
一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく
解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに
呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは
箇人のもって生れた性格の相違といった方が
確かかも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で
己れを
尽したつもりです。
私は
妻を残して行きます。私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは
仕合せです。私は妻に残酷な
驚怖を与える事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。妻の知らない
間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。私は死んだ後で、妻から
頓死したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。
私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を
判然描き出す事ができたような心持がして
嬉しいのです。私は
酔興に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より
外に誰も語り得るものはないのですから、それを
偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。
渡辺華山は
邯鄲という
画を
描くために、死期を一週間繰り延べたという話をつい
先達て聞きました。
他から見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心の
中にあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。私の努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。
半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
しかし私は今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。この手紙があなたの手に落ちる
頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。妻は十日ばかり前から
市ヶ谷の
叔母の所へ行きました。叔母が病気で手が足りないというから私が勧めてやったのです。私は妻の留守の
間に、この長いものの大部分を書きました。時々妻が帰って来ると、私はすぐそれを隠しました。
私は私の過去を善悪ともに
他の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が
己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の
唯一の希望なのですから、私が死んだ
後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」