蚯蚓が風邪の妙薬だといひ出してから、
彼方此方の垣根や
塀外を
穿くり荒すのを
職業にする人達が出来て来た。郊外生活の地続き、猫の額ほどな
空地に十歩の春を
娯まうとする花いぢりも、かういふ
輩に
遭つては
何も
角も滅茶苦茶に荒されてしまふ。
箏曲家の鈴木鼓村氏は
巨大胃を
有つた男として聞えてゐる人だが、氏は風邪にかゝると、五合
飯と味噌汁をバケツに一杯食べて、それから
平素余り好かない煙草を
暴に吸ふのださうな。「さうすると
身体ぢゆうの
何処にも風邪の
匿れる場所が無くなつてしまふ。」と言つてゐる。
昆虫学者として名高い、それがためにノオベル賞金をも
貰つた
仏蘭西のアンリ・フアブル先生は、いつも風邪をひくと、自分の頭を灰のなかに
突込むといふ事だ。すると一
頻り
咳が出て風邪はけろりと
癒つてしまふ。
「随分荒療治ですな。」
と
或人がいふと、フアブル先生
済ましたもので、
「何でもありません。
一寸風邪のお葬式をやつたのです。」
大隈伯の台所に長く働いてゐる或る料理人の話によると、伯爵家の台所はかなり
贅沢なものだが、それとは打つて変つて伯自身のお
膳立は伯爵夫人のお
心添で滋養本位の
柔い物づくめなので
頓と腕の見せどころが無いさうだ。また味加減をつけるにも、例の
口喧しい伯の事とて
他一
倍講釈はするが、舌は正直なもので、何でも
鹹つぱくさへして置けば恐悦して
舌鼓を打つてゐるといふ事だ。
この料理人の言葉によると、「伯の腰巾着で仕合せなのは
武富や尾崎や高田で、それぞれ大臣の椅子に
日向ぼつこをしてゐるが、自分一人は折角の腕を持ちながら一
向主人に味はつて貰へない」のださうだ。
以前
仏蘭西の大統領官舎でフエリツクス・フオウルからルウベエ、フワリエエルと三代の大統領に料理番を勤めた男があつて、ある時こんな事を言つてゐた。
「フオウルは仲々の料理通で
牡蠣や蟹が大の好物で葡萄酒も本場の飛切りといふ奴しか口にしなかつた。ルウベエは南仏蘭西の田舎生れだが、それでもお国料理の
魚羹のやうな物は滅多に
命令けた事は無かつたし、
美味いものを
拵へると相応に味はつて呉れたものだ。ところがフワリエエルと来てはお話にも
何にもなつたものでは無い。何もかも油でいためて、
加之に
葱を添へて置かなくつちや承知しないんだからな。こんな男にいつ
迄ついて居るでもあるまいと思つて、
体よく
此方からお暇を貰つて来た。」
これで見ると、腕のある料理番は、忘れても田舎者の大統領や総理大臣の台所には住み込まない事だ。料理が味はつて貰へない上に、事によると給金までも安いかも知れない。
ゴリキイが肺炎で危篤だといふ事だ。戦争が始まつてから、ある新聞の特派通信員となつて、戦地に出掛けてゐたから、風邪でも引き込んだのが、肺炎に変つたらしい。
「お
腹の
空いてゐる人間の魂は、お腹のいゝ人達の魂に比べると、
営養もよく、ずつと
健全だ。」と言つたゴリキイは、自慢だけに
健全な
霊魂は
有つてゐるが、
肉体は余り達者では無く
終始肺病に苦しんでゐた。
二三年
前伊太利のカプリ島に
謫居してゐた頃、日本人の学生がその近所に旅をしてゐる事を聞いて、日本人といふものはまだ見た事が無い、一度会つてみたいものだと、
恰で動物園に新着の
鸚鵡でも見るやうな物好きな気持で、その日本人に会つた事があつた。
その折ゴリキイは、
件の日本人に向つて、日本画を
賞め、日本人を賞め、日本が東洋一体のお弟子を教育する態度は、歴史にも滅多に見られぬ素晴しいものだといつて賞めちぎつたさうだが、そのお弟子の
間にもお隣の
袁氏のやうな不良書生がゐる事を聞かせたらどんなに言ふだらう。
いつだつたか、
莫斯科の芸術座の近くでゴリキイが料理屋に入つてゐると、崇拝者の多くがその姿を見つけてぞろ/\店先に
集つて来た。それを見たゴリキイは例の放浪性を発揮して、
「君達はポカンと口を
開けて何に
見惚れてるんだね。僕は踊子でもなければ、
死人でも無いんだ。ちよい/\小説を書いて暮らす男が、何が面白くてそんなにきよろ/\するんだね。」
と噛みつくやうに
怒鳴つた。
翌日の新聞は、その話を伝へて、自分の崇拝者をこんなに
邪慳に取扱つたゴリキイには、お行儀作法の端くれでも教へ込まなければなるまいと、
冷かしを言つてゐたが、そんな事をいふ
輩は崇拝者を持つた事の無い奴で、世の中に崇拝者程うるさいものは無い。
そのなかで
別けてうるさいのは女の崇拝者で、妻君を崇拝者に
有つたのは一番事が面倒だ。だから
凡ての学者、芸術家、政治家にとつて最も無難な
行り
方は、成るべく自分の細君に
解らないやうに物を言ふ事だ。
新渡戸博士は婦人雑誌の原稿をかく時には、細君の同意を
得るやうな考へしか書かないさうだが、
以ての
外の不了見である。
京都大学の
新村教授は日本画家の
作物を
難して、
画家はどうしても本を読まなければ駄目だと言つたさうだ。
画家に本を読めといふのは大学教授に
髯を
剃れといふのと同じやうに良い事には相違ない。だが
剃立の顔が学者に似合はない事もあるやうに、どうかすると本に
食中りをする
画家もある事を忘れてはならない。新村教授は本を読む
画家の代表として富岡鉄斎をあげて、あの人の
画には気品があるといつたさうだが、よしんば気品はあるにしても、鉄斎の画には
画家の
敏感が少しも出てゐない。
画家に本よりも
大切なのは
敏感である。
むかし
今津に
米屋与右衛門といふ男が居た。
富豪の家に生れたが、学問が好きで色々の書物を貪り読んだ。珍らしい働き手で、
酒男と一緒に倉に入つてせつせと稼いだから、
身代は太る一方だつたが、太るだけの物は
道修繕、
橋普請といつたやうな公共事業に費して少しも
惜まなかつた。亡くなつた時には方々の人がやつて来て声を立てて泣いた。なかに一人智恵の足りない婆さんが
交つてゐて、おろ/\声で、
「これ程学問してさへこんな
好いお方だつたから、もしか学問などしなかつたらどんなにか立派な人だつたらうに。」
と言つたさうだ。
婆め、なか/\皮肉な事を言ひをるわい。
紐育のあるペンキ商店での出来事だ。――ある日主人が店の
間へ出て来ると、多くのペンキ缶のなかに、たつた一つ
曾ぞ自分の店で取扱つた事の無いペンキ缶が転がつてゐる。主人はそれを見て支配人を呼んだ。
「この缶は
何うしたのだい。うちで扱つたことの無い
代物ぢや無いか。」
「
左様で御座います。扱つた事はありません。」
主人の眼は不思議さうに支配人の顔を見た。
「扱はないものが、何だつて店に転がつてるんだね。」
支配人は
例のやうににこ/\顔で、
「さればで御座います。今朝程一人のお客さんがお見えになりまして、このペンキは
此方の店で買つたのだが、不用になつたから
原価で買ひ戻して呉れまいかと
仰有います。見ると店で扱つた品では御座いませんが、お客様の機嫌を損じてもと思つて、言ひなり通りお金を渡して、缶を受取つて置きましたやうな訳で……」
それを聞いた主人は手を
拍つて喜んださうだ。支配人の考へでは、その缶は
何店で買つたものか知らないが、客がそれを戻さうとする時には、ペンキ屋といへば、直ぐ今の店が代表的に頭に浮んで来たのでそこへ持ち込んだに過ぎなかつた。それをいや違ひます、手前共で扱つた品ではありませんといへば、客の頭に
他のペンキ屋を思ひ浮ばせるのみか自分の店に対して不愉快な悪い印象を与へる事になる。そこが気転の
利かし
処で、はい/\と言つて二つ返事で買ひ戻しておけば、客は少からぬ好意をもつて店を見る事になる。
僅なペンキ一缶の価でこの「好意」が買へたかと思ふとこんな嬉しい事はないといふのださうだ。
そんぢよそこらの
百貨店や小売店は、牛が
をかむやうに、
山県公が
擂餌を食べるやうに、よくこの話しを噛みしめて貰ひたい。
十六日の午前五時四十九分、梅田着の上り列車で同志会総理加藤高明男が南海遊説の
帰途に大阪へ立寄るといふので、まだ薄暗い
朝靄のなかから、一等待合室へ顔を出した
待受の三人衆、一人は
北浜花外楼の
女将、あとの二人は
痩せたお役人とまる/\
肥つた浪人者。
女将は皺くちやな鼻先に今朝は薄化粧さへ施してゐる。二人の男の顔を見比べて「もう程なうお着きだつしやろ。ま、雨が
霽れてお出迎へするにもほんまに結構だつせ」と二三日前から取つて置きの愛嬌を、
撒水のやうに寝不足らしい男の顔へぶち撒けてゐる。外には女将が乗りつけて来た男爵お待受けの自動車が、雨上りの道へのつそり
匍匐つてゐる。二人の男はお茶代を
弾いてゐる女将の腹を
見透したやうに、四五銭がとこ顔を
歪めて、一寸笑顔を見せた。
瘠せた男は役人生活をしてゐるからには、
何日また大臣の椅子に
直らうかも知れぬ加藤さんだ、一寸出迎へをした位で、そんな場合に官等の一つも
上る事が出来たなら、飛んだ
儲け
物だ位は心得てゐる。
昨夕から
毀れかけの眼覚時計に
螺旋を巻いて、今朝はいつもにない
夙起をして来てゐるのだ。
肥つた男は以前御用雑誌の記者をしてゐる頃、加藤男の計らひで支那視察に出掛ける事になり、しこたま旅費も貰つて、そのなかから
流行のフロツクコートも一着
拵へたが、出発間際になつて風邪を引込んで、
延々になつてゐるうち、つい
沙汰止みになつてしまつた。旅費はいつの間にかポケツトの内で消えてしまつて、済まない/\とだけは思つてゐるのだが、幸ひ今日男爵が大阪へ来る事なら、一寸顔出しをして、
従来の気まづさと旅費の張消しをしようと思つてゐるのだ。で、敬意を表する積りでその折のフロツクコートだけは今朝も着込んでゐる。
時計はずん/\
経つて
往つたが、この三人の他には誰一人出迎へるものもない。三人は人数の少いだけ
御利益も多からうと、胸をわく/\させてゐると、程なく汽車は夜通し駆け廻つて
懶けきつた
身体を
廊下へ横たへた。三人は息せき駆け出して往つたが、出て来る
群集のなかには加藤男らしいものは影さへ見せなかつた。
三人は詰らなささうにすた/\構内を出て来た。――皆は言ひ合せたやうにお腹が
空いてゐるのだ。実際胃の腑だけは正直なのを持合せてゐるのだから……。
西園寺陶庵侯の雨声会が
久し
振に近日開かれるといふ事だ。招かれる文士のなかには例年通り今から、
即吟の
下拵へに
取蒐つてゐる
向もあるらしいと聞いてゐる。
いつだつたかの雨声会に、夏目漱石氏が
招待を受けて、
素気なく辞退した事があつた。その後陶庵侯が京都の田中村に隠退してゐる頃、漱石氏も京都へ遊びに来合せてゐたので、それを機会に二人をさし向ひに
衝き合はせてみようと思つたのは、
活花去風流の家元西川一草亭であつた。
一草亭は露伴、黙語、月郊などにも花を教へた事のある趣味の男で、陶庵侯の
邸へもよく花を活けに
往くし、漱石氏へも教へに出掛けるしするので、ついこんな事を思ひついて、それを漱石氏に話してみた。
皮肉な胃病持ちの小説家は、じろりと一草亭の顔を見た。
「西園寺さんに会へつていふのかい、何だつてあの人に会はなければならないんだね。」
「お会ひになつたら、
屹度面白い話があるでせうよ。」
「何だつて、そんな事が
判るね。」
花の家元だけに一草亭は二人の会合を、
苅萱と野菊の
配合位に軽く思つて、それを一寸取持つてみたいと思つたに過ぎなかつた。一草亭はこれまで
色々な草花の配合をして来たが、花は一度だつて、
「何だつて会はなければならないんだね。」
などと駄目を押した事は無かつた。胃病持ちは
面倒臭いなと一草亭は思つた。
一草亭が思ひついたやうに、この二人が無事に顔を合はせたところで、あの通り
旋毛曲りの人達だけに、二人はまさか小説の話や俳諧の噂もすまい。二三時間も黙つて向き合つた末、最後に
椎茸か
高野豆腐かの話でもしてその
儘別れたに相違なからう。
九州遊説中の原政友会総裁が鹿児島の鶴鳴館で歓迎を受けた時の事、発起人の挨拶に次いで堀切代議士が五分間演説に、
予て大きい/\とは聞いてゐたが、西郷南洲が実際大きかつた事を今度鹿児島へ来て初めて知つたと、南洲を桜島大根か何ぞのやうに言つてのけると、次に立つたのが床次竹二郎代議士で、
成程南洲も大きかつたに相違ないが
往時の偉人を
賞める
許りでは
詰らぬ、吾々自ら偉人となつた積りで働かなければならぬと、
蜀山人が見たといふ
鰻になりかけた
薯蕷のやうに、半分
方偉人になりかけたやうな事を言つて、のつそり引下つた。
すると、末座の方から「諸君!」といつて立ち上つた一人の男、海老のやうに腰を
屈め、海老のやうに真赤になつて、「自分は
姶良郡
帖佐の住人で
臍の
緒切つて
以来演説などいふ下らぬ事をやつた事もなし、またやらうとも思はなかつたが、一生に一度の積りで今日は
喋舌らして貰ひたい」といふ
冒頭で、
徐々皮肉つた一条。
「南洲翁の大きかつた事を今になつて
吃驚するやうでは、
寧そ
吃驚せずに死んだ方がましだ。何故といふに、そんな人は
明日になつたら、また
候自分の下らぬ事に
吃驚するかも知れないから。また床次君のやうに自分が偉人らしい
言草も気に喰はぬ、
身不肖ながら朝夕南洲翁に
随いてゐたから、翁の
面目はよく知つてゐるが、翁は一度だつて床次君のやうに偉人になつた積りで働いた事は無かつた。」
と
遣つたので床次氏は勿論の事、原
敬迄が半分偉人になつた積りの顔を歪めて苦笑してゐたさうだ。その男といふのは何でも帖佐辺の村長だといふ事だ。
亡くなつた市川斎入は茶人だけに、
紫野の大徳寺にある、千利休の
塔形の
墓石に
甚く感心をして、
「成程、あの
墓石に耳を当てがふと、
何時でも茶の湯の
沸る音がしてまんな。
私も
俳優甲斐に
洒落た
墓石が一つ欲しうおまんね。」
と言つてゐるので、或人が、
「君は幽霊や
宙釣りが
巧かつたから、
墓石にも一つケレンを
仕組んでみたら
何うだい。」
と
冷かすと、
「
阿呆らしい。」
と皺くちやな顔を歪めて
くれたさうだ。
だが、それは斎入が物を
識らないからで、徳川時代の洒落者の多かつた江戸町人の
墓石には、故人が好物の形に似せた墓も少くなかつた。碁好きの墓に台石を碁盤に
拵へ、
碁笥を
花立に見立てたのや、酒飲みの墓を徳利形や、酒樽形に刻んだのもあつた。
可笑しいのは
賭博が好きだつたからといつて、
墓石に
骰子の目まで盛つたのがあつた事だ。それを考へて
伜の右団次も
亡父の墓を幽霊の姿にでも刻んだら面白からう。
この伝で今の名士の墓を
定めたら、大隈伯のはメガホン型、原敬のは巡査のサアベル型、山本権兵衛のは
英蘭銀行の証券型、尾崎学堂のはテオドラ夫人の……。
洋画家の
鹿子木孟郎氏は、結婚した当座といふもの、子供が無いのを
甚く苦に病んでゐたが、
巴里で秘方の薬でも授かつたものか、二度目の洋行から帰つて来ると、程なく花のやうな女の
児を
儲けた。それは
恰ど結婚後十三年目に当つてゐたが、その後間もなく男の児を生んで、今では立派な子持になつてゐる。
その初めての産があつた時、同じ
画家仲間の
某がどんな
婦人でもたつた十ヶ月で
為る仕事を、
画家ともいはれるものが物の十三年も
懸つて、
漸と仕上げるなんて、そんな
間抜な事があるものかと、
厳い抗議を申込んだのが、その頃の笑ひ話になつて残つてゐる。
小説家の
柳川春葉氏は大の子供好きだが、自分には子供が居無いので、
狗ころや小猫を
可愛がつて、お客の前をも
厭はず、土足の
儘で
上下しをするので、
清潔好きのお客のなかには気を悪くする向きもあつたが、近頃は
何うした事か、そんな物も余り
掛け
構はなくなつたばかしか、友達の顔を見ると、よくこんな事をいふ。
「君、僕も
既う結婚後十三年になるよ。」
「へえ十三年にもなるかな。それはお
慶い。」
「
有難う。何しろ十三年目だからね。」
「早いもんだな。」
「ほんとにさ。十三年目なんだからね。」
「
可笑しいぢやないか、十三年目が
何うかしたのかい。」
「うん何だか子供が出来さうなんだよ、何しろ十三年目だからね。」
聞けば柳川夫人はもう臨月に間もない
身体ださうで、お
慶い訳である。春葉氏の説によると、結婚後一二年で直ぐ出来るやうな、
極安手な
早上りは別として、少し遅い子供は七年目とか十三年目とかちやんと年期を追うて出来るものなのださうだ。
してみると、子供の無い者も、心配は十四年目から始めてもまだ遅くない。
石井柏亭、坂井
犀水等の美術学校改革案は、無論ある点では美術学校の宿弊に触れてゐる。正木校長は世間の噂通りに判らず屋の無能だし、その蔭に隠れてにや/\笑つてゐる大村
西崖が、美術界切つての策士であるのは誰も知つてゐる。
だが、石井柏亭氏
等の
後方にも岩村
透男といふ茶目が控へてゐる。あの改革案が岩村男の
指金で無かつたら、
夙くの
往昔に文部省の方でも取りあげてゐたに相違ないといふのは、少しく美術界の消息に通じてゐる者の誰しも首肯する所だ。
岩村男は洋行帰り当時は、洒脱な交際ぶりと
諧謔交りの口上手と無学者ばかりの美術界に幾らか本を読んでゐる、
若くは本が読めるといふので重宝がられて、自分でも下手な絵の方はそつち
除に、美術の批評家になり
済して
了つた。
所がその美術の批評眼といふのが
甚だ怪しい。文展審査員当時も、出品をじろりと一
瞥して「
拙いな」と顔を
顰めて吐き出すやうに言ふが、さういふ口の下から、落款の「石井柏亭」といふ文字が目につくと、打つて変つたやうに「だが、よく見ると
好いね。
却々傑作だよ。」といふやうになつた事もある。
岩村男は口癖のやうに「八百屋の店先に転がつてゐる大根の曲線が解らぬやうでは裸体美の話は出来ぬ。」と言つてゐるが、世の中には大根の曲線だけが解つて、裸体美の一向解らぬ者が無いでもない。
誰やらの言ひ草ではないが、美術の批評家には二つの資格が要る。第一には美術が解らぬといふ事だ。第二には解らぬ癖にお
喋舌がしてみたいといふ事だ。この二つを十分に備へたもので、初めて立派な美術批評家といへるが、かうした意味に
於て岩村男を秀れた美術批評家といふのに無論異存はない。
だが、美術学校改革問題では、
寧ろ岩村男一派のいふ事に真実があるのだから、美術通を以て任ずる高田文相はこの際同校に思ひ切つた革新が施して貰ひたい。これは
極々の
内証話だが、高田文相も岩村男と同じ意味に於て立派に二つの資格を備へた美術通である。
市内で相応に名を売つてゐる或る
鶏肉屋の
主人「
鶏肉の味は
鶏を
落す
瞬間にあります。」と言つて
厳べらしく語り出す。
「味噌汁を
拵へるのに、味噌の煮え立つ前に、
滑つこい
焼石を
鍋に
衝込むものがある。かうすると味噌が
はつと
吃驚して、その瞬間に
所謂味噌の味噌臭い匂ひが
失くなつて、
真実の味となる。」
「鶏を料理するにも、この焼石の機転が無くてはならぬ。鶏を安心させておいて、その瞬間にはつと落す。落すにはそれ/″\自分が手に
入つた方法を
択んで
差支ないが、
唯落すその一瞬間は鶏に
気取られぬ程の
微妙な
点が無くてはならぬ。気取られたが最後肉の味はまづくなる。自分は今日まで幾千羽といふ鶏を
潰したが吾ながら
巧かつたと思ふやうなは
真に数へる程しか無かつた。」と。
巴里の葡萄検査所の横に、銀の塔を看板に出してゐる料理屋がある。三四年
前まで
其家にゐた主人は、
家鴨料理の名人で、家鴨を片手でぶら下げながら、一寸庖丁を当てて切つて出すのが得意だつた。その日記を見ると、六十幾つまで二十五年の間三万四千余りの家鴨を料理したと書いてゐる。
三万四千羽! よくもこれだけの殺生をしたものだと思ふ。
「幾ら
職業とは言ひながら、そんなに
生物を殺す気持はどんなだらう。」
と
訊くと、
件の
鶏屋の云ふ。
「
職業ではありません。
職業では
迚も殺生は出来ません。料理は芸の一つで、芸には工夫とそれに
附物の
楽みといふものがありますからね。」
香取秀真氏が法隆寺の峰の薬師で取調べたところに
拠ると、お薬師様に
奉納物の鏡には、随分
傑れた
価値のものも
鮮くなかつたが、同じ
献上物の刀剣は
皆なまくらで鏡と比べたらてんで
談話にもならなかつたさうだ。峰の薬師は祈願を籠めると、
霊験のあらたかなので聞えた仏様で、大願成就の暁には、その祈願者の身につけた物のうちで、一番
大切な物を奉納しなければならぬと言伝へになつてゐる。
身に着けた物のうちで、一番
大切な物といふと、
往時はいふ迄も無く男には刀、女には鏡で無ければならなかつた。といふ訳で峰の薬師には刀剣と鏡とがどつさりあつて、
何れも素晴しい
名作揃ひだといふ噂だつたが、調べてみると鏡には逸品が鮮くないのに、刀は揃ひも揃つてなまくら
許りとは飛んだ愛嬌である。
これで見ると、女には正直者が多いが、男には仏様の前でもペテンを
行り兼ねない
手合が少くないといふ事になる。
願を掛けて願が叶ふ。掛けた当座は腰の
業物を奉納しようと思ひながら、願が叶ふとついそれが惜しくなつて、飛んだ
贋物で
胡麻化してしまふ。お薬師様が刀の
鑑定に下手で、
加之に無口だから
可いやうなものの、
若しか
犬養木堂のやうな
鑑定自慢で、口汚ない仏様だつたら
溜つたものでは無からう。
しかし今では女も男に負けぬ程
狡くなつた。大隈伯が願を掛けたら、
屹度義足を奉納する。
貞奴だつたら
桃介さんの
心の
臓でも納めよう。彼等は
孰方も、もつと立派な
掛替のあることを知つてゐるから……。
鋳金家の岡崎雪声氏のところへ或る男が牛の彫像を頼みにやつて来た事がある。その男のいふのでは、牛程人間の役に立つものは
鮮い。田を
耕へし、荷車を
曳き、頭から
尻尾の
尖まで何一つ捨てるところも無い。やくざな軍人の政治家のやうな者が銅像になる世の中に、牛を表彰しないといふ法は無いといふのださうな。
岡崎氏も人並
外れた牛好きだけに、喜んでその註文を引受けて製作にかゝつたが、
件の
註文主は、牛を馬に乗り替へたものか、その後
頓と音沙汰をしないので、岡崎氏は今では
身銭を切つて、こつこつ
仕揚に取りかかつてゐる。そして出来あがつた上は
太秦のそれに
倣つて牛祭を催す事に
定めて、伊原
青々園の
祭文を、
梅幸の振付で、その
往時の
丑之助の名に
因んで菊五郎が踊るのだといふ。
太秦の牛祭は、静かな秋の
夜半過ぎてからの祭で、鞍馬の火祭、宇治の
県祭と並んで夜祭の三絶と呼ばれてゐる。岡崎氏は大の夜祭好きで、東京にそれが無いのを何よりも残念がつて牛祭だけは是非夜の祭にしたいと言つてゐる。――といふのは、氏は何よりも夜が好きなので、いつも夕方になると、ナハチガルのやうに、ふらりと巣を飛び出した
儘、明方近くまで
彼方此方を枝移りして飛び歩くのが癖になつてゐるからだ。
夜の祭には色々
好い拾ひ物がある。県祭などにも
色々な面白い夢が転がつてゐるのを聞くが、
頼山陽なども、その夢を拾つた一
人で、相手は何でも特殊部落の娘だつたらしいといふ事だ。
摂津の
大物が
浦に
片葉の
蘆しか
生きないといふ伝説は古い蘆刈の物語に載つてゐる。
むかし
基督がエルサレムの何とかいふ郊外を通りかかつた事があつた。暖い日で額が汗ばむ程なので、基督は外套を脱いで、そこらの楊の木に
引掛けた
儘、岡を
上つて多くの群衆にお説教をしに出掛けた。
空には小鳥が鳴いてゐるし、お
腹には弟子
達が焼いて呉れた
犢の肉が一杯詰つてゐるしするので、基督はこれ迄にない上機嫌で、
親父の神様に代つて、
姦通のほかは大抵の罪はかけ構ひなく、
大負に負けて天国へ通してやつてもいゝやうな事を言つた。実際その日はぶら/\天国へ
旅立でもするには持つて来いといふ日和だつた。
楊の木は自分の頭にすつぽり
被せかけられた外套を見た。どこかの金持の女が寄附したらしい立派な毛織で、神様の一人息子が着るのに不足のないものだつた。楊の木は自分にもこんな外套が一枚あつたらなあと思つた。聞くともなしに聞くと、基督は今
姦通のほかは大抵の罪は許してもいゝやうなお説教をしてゐる。楊の木は片足踏み出したと思ふと、外套を
被いた儘こそ/\逃げ出して
往つた。
お説教が済むと、基督はいゝ気持で岡の下へおりて来た。見ると外套も無ければ楊の木も見えない。てつきり持逃げされたなと思ふと、基督は楊の木を
呪はずには居られなかつた。それ以来その郊外には楊の木は育たなくなつたさうだ。
自分も基督に劣らぬ上等の外套を一着持つてゐる。この
頃の暖い春日和にはそれをいろんな木に懸けて休むが、一度だつて盗まれた事が無い。日本の木は日本の
婦人のやうにむやみに外套を欲しがらないものと見える。
文部視学官の丸山
環氏は九人の
子福者で、お湯に入る時には自分が
湯槽に
浸りながら、順ぐりに飛び込んで来る子供達を芋の子でも洗ふやうに
垢を
擦つてやる。それを夫人がタオルで
清潔に
拭くと、女中が着物を
被せるといふ手順で子供達をそつくり湯を済ます時分には、親はげんなりと
草臥てしまふといふ事だ。その
故かして氏は
朋輩知人の家に子供が四人も
生きるといふと、その顔を見る
度に、
「君悪い事は言はないが、もう
宜い加減に
止したら
何うだ。」
と、しみ/″\
意見立をするさうだ。
エレン・ケイは子供は男二人女二人が最も理想的だと言つた。――確かエレン・ケイがかう言つたやうに覚えてゐるが、人間は何でも覚えるといふ訳には
往かないから、
若かするとケイの言つた事では無かつたかも知れぬが、何だかケイの言ひさうな事のやうに思はれる――実際男二人女二人は何からいつても都合が
善ささうだ。だが、親の
間違で(親といふものはよく間違を言つたり、
為たりするものなのだ)その四人が五人に殖えたからといつて、何も首を
縊つて死ぬるにも及ぶまい。五人は五人で、その時はまた理論の立て方もある。
英吉利の貴族は、恋で平民の娘と一緒になつたり、金で
亜米利加辺の
跳つ
返りと結婚したりするので、それによつて血統の廃頽を救つてゐると言はれてゐるが、今度の戦争で貴族出の若者の多くは死んだり、傷ついたりしてゐるから、戦後の英吉利は血において最も革命的であらうと目されてゐる。社会上、思想上において英吉利が
従来の
伝統を維持して
往くにはエレン・ケイの
所謂、男二人女二人では
迚も
追付くまい。
独逸や
仏蘭西では心配する戦後の人口減少が、英吉利ではその上にまた
伝統の危機を伴ふところが面白い。
小説家の田村俊子は自分でも書いてゐる通り、主人の
松魚はそつちのけに、よく他の男と散歩に出掛る。同じ小説家仲間の徳田秋声、上司
小剣、正宗白鳥などもちよい/\そのお相手になるが、こんな人達が
皆揃つて一緒に出掛ける時になると、男三人に女一人だけに、そこはまた不思議なもので、俊子が誰と誰との
間に
挿まるかが一寸問題になる。
相手は
妙齢の
縹緻よしといふでは無し、また別に色つぽい
談話をするのでもなしするから、そんなに肩が擦れ合はないでもよかりさうなものだが、そこは男と女だけにまた格別なものと見える。
別けて面白いのは、いゝ加減散歩をして、さてこれから別れようといふ時で、
「俊子は誰と一緒に帰るだらうな。」
とは、言はず語らずの間に、皆の胸に起きて来る疑問なのだ。俊子が一人離れて
側道へ
逸れてしまへばそれでいゝのだが、
帰途の都合からそのなかの一人と
途連になるやうな事があると、
彼の二人は何だか物寂しい、
欺されたやうな気持になるのださうだ。
酸いも甘いも知りぬいた筈の小説家とは言ひ条、男と女だ、無理もないさ――忘れてゐたが、田村俊子は女である。
尤も自分は実地会つてみたといふ訳では無いが、俊子自身のいふのでは
確に女である。
新著『きのふけふ』で、今は亡き
数の美妙斎を始め、紅葉、緑雨、二葉亭などの逸事を書いた内田魯庵氏は、
友人の台所の小遣帳から晩飯の
菜まで知りぬいてゐるのが自慢で、
隠し
立をする友人には随分気味を悪がられた程の人だ。
今では丸善の顧問で、禿げ上つた額を
撫でながら一流の皮肉で納まつてゐるが、時折店の註文帳を調べてみて、A博士は先頃何とかいふ本を取寄せたと思つたら、それが直ぐ論文になつて
翌月の雑誌に出たとか、B小説家の新作小説は、
先日月賦払ひで
漸と買取つたモウパツサン全集の焼直しに過ぎないとかいふ事を、
極内々で
吹聴するのを道楽にしてゐる。
むかし
笠置の
解脱上人が、
栂尾の
明恵上人を訪ねた事があつた。その折明恵は
質素な
緇衣の下に、
婦人の着さうな、
緋の勝つた派手な下着を
被てゐるので、解脱はそれが気になつて溜らなかつた。出家の身分で、とりわけ上人とも呼ばれる境涯でありながら、こんな下着を被てゐるとは実際
何うかしてゐるなと思つた。で、話の途切れに、
「つかない事を言ふやうぢやが、つひぞ見馴れない立派な下着を被てゐられますな。」
と幾らか皮肉の積りで言つてみた。
すると明恵は言はれて初めて気が
注いたやうに、
「これでござるかな。」と一寸自分の襟を
扱いて見せた。「これは
予て私に
帰依してゐる或る
町家の一人娘が亡くなつたので、その親達から何かの
代にと言つて寄進して参つたから、娘の
菩提のためと思つて、一寸身につけてゐるやうな仕儀で――えらい所へお目が
留りましたな。」
と言つて
粛ましやかに一寸笑つてみせた。
解脱上人はそれを聞いて、
「要らぬ所へ目がついたな。ほんの一寸の
間でもそんな所へ心を
遣つたと思へば、明恵の思はくも
恥しい」
と顔から火が出るやうな思ひをしたさうだ。
何も魯庵氏の事をいふのではないが、世の中には随分緋の下着を見つけたのを自慢に吹聴する者が居ないでもない。――よく断つておくが、何も魯庵氏の事ばかり言つたのではない。
洋画家の
満谷国四郎氏はこの
頃謡曲に夢中になつて、
画室で裸体画の
素描を
行る時にも、「今はさながら
天人も
羽根なき鳥の如くにて……」と
低声で
謡ひ出すのが癖になつてゐる。
先日備中酒津に同じ
画家仲間の
児島虎次郎氏を訪ねて、二三日そこに
逗留してゐたが、満谷氏が
何うかすると
押売に謡ひ出さうとするのを知つてゐる児島氏は、奥の一
室に子供が寝かしてあるといふのを口実に
巧く難を
遁れたといふ事だ。
以前京都で月に一度づつ琵琶法師の藤村
性禅氏を中心に
平曲好きの人達の会合が催されてゐた事があつた。場所は
寺町四条の浄教寺で、京都図書館長の湯浅半月氏を始め二三の
弾手が集まつたが、
聴衆はいつも十人そこ/\で、それも初めの一二段を聴くと、
何時の間にかこそ/\逃げ出して、肝腎の藤村
検校が出る頃には、
聴衆は一人も居ないといふやうな事が少くなかつた。
これではならぬと、仲間の
歌詠や
画家に
塗つて貰つた
短冊を五六枚と、茶菓子一皿を景品のつもりで、最後まで聴いて呉れた人に送ることにしたが、短冊と茶菓子の人並外れて好きな京都人も、矢張り最後まで居残る人は一人も無かつたので、折角の名案も何の役にも立たなかつた事がある。
人間に馬鹿と悧巧と二
種あるやうに、音曲にも二つの種類がある。一つは涙を流す音曲。今一つは汗を流す音曲。
詩人の
蒲原有明氏は、どんな
好い景色を見ても、そこで何か
喰べねば印象が薄いといつて、
異つた土地へ
往く
度に、
土地の名物をぱくづきながら景色を見る事にしてゐる。
「僕は景色を見るばかりでは満足出来ない、その上に気色を喰べるんでなくつちや……」
とは氏が
例もよく言ふ事だ。
野口
米次郎氏は「
蟇を食べるのは、その唄をも食べるといふ事だ。七面鳥を頬張るのは、その夢をも頬張るといふ事だ。」といつて、よく唄やら夢やらを頬張つてゐる。
つまりこの人達は物を食べる時は、想像をも一緒に
嚥み
下してゐるのだ。
西川一草亭氏はこれとは
反対に、物を食べる時には、その値段から切り離して持前の味のみを味はひ
度いと言つてゐる。
甘藷は
廉いからとか、七面鳥の肉は
高価いからとかいふ、その値段の観念に
煩はされないで、味自身を味はひ度いといふのだ。
女房と
朝飯と――
何方が
人世に関係する所が大きいだらうと疑つた者がある。
「なに朝飯さへ
甘く食べさせて呉れるなら、女房のする事は
大抵見遁してやるさ。」
と言つたものがある。
芸術に技巧家があるやうに生活にもまた技巧家がある。尾崎法相の生活は西園寺陶庵侯のそれと比べて技巧がいかにも
態とらしい。中村
鴈治郎の生活は片岡
仁左衛門や市村
羽左衛門のそれと並べてみると、技巧が著しく目に立つ。
画家では竹内栖鳳の生活に技巧が勝つてゐるのは誰しも知つてゐる所だ。
栖鳳と鴈治郎とがある所で落合つた時の挨拶を
側にゐて聞いた者がある。その者の
談話によると、二人は柔かい
牡丹刷毛で
腋の下を
擽ぐるやうなお上手ばかり言ひ合つて、一向
談話に真実が
籠つてゐないので、一
言でもいゝから
真実の事を言はし
度いと思つて、
「唯今は何時頃でせう。」
と
訊いてみた。
すると、鴈治郎と栖鳳とはめい/\角帯の
間から、時計を取り出してみた。栖鳳氏は言つた。
「私のは三時半です。一寸狂つてやしないかと思ひますが。」
鴈治郎は一寸時計を振つてみた。
「
私のも三時半だす。さつきにから止つてたやうに思ひまんがな。」
二人は忠実な自分の時計をすらお上手なしには報告出来ないのだ。それを見て取つた第三者は自分の信じてゐる基督の名によつて、二人の懐中時計を持主相応のお上手ものにして欲しいと祈つたさうだ。
自分の
霊魂と自分の
女房を信じない人も、懐中時計だけは信ずる。その懐中時計をすらお上手なしに報告出来ない人は、世にも
不幸な技巧家である。
飛田遊廓の漏洩問題については主務省と府の当事者と
互に責任の
塗りつこをして、自分ばかりが良い
児にならうとしてゐる。
ニツク・カアタアといへば、活動写真好きの茶目連は先刻御存じの探偵物の主人公だが、以前
巴里にこの名を名乗つて大仕事をする宝石商荒しがあつた。巴里の宝石商といふ宝石商は、ニツク・カアタアの名前を聞くと、
怖毛を
顫つて縮み上つたものだつた。時の警視総監は刑事中での
腕利として知られてゐたガストン・ワルゼエといふ男にこの宝石荒しの探偵を
命令けた。
ワルゼエはよく淫売狩をも
行つた男で、何でもその当時巴里で名うての
白首を情婦にして、内職には
盗賊を稼いでゐた。その頃流行の探偵小説から思ひついて、ニツク・カアタアといふ名で宝石屋荒しを
行つてゐたのが、実はそのワルゼエ自身なので、上官の捜索命令をうけた時は
流石に
苦笑をしない訳に
往かなかつた。所が
間が悪く
徒党の一人が
捉まつたので、到頭
露れて逮捕せられてしまつた。
自分は知事や警部長などいふ、役人を
親戚に
有たないやうに、神様をも伯父さんに持合はせてゐないから、はつきり見通した事は言はれないが、世の中には随分巴里の宝石屋荒しのやうな事は少くないと思ふ。
呉々も言つておくが、自分は知事や警部長や神様やを伯父さんには持つて居ない。自分の伯父さん達は何も知らない代りに、何も
喋舌らない人ばかりさ。
悪戯好きのある男が
弾機仕掛の
玩具の蛇を
麦酒瓶に入れて、
胡桃の栓をしたまゝ瓶を庭先に
投り出しておいた。すると、
食意地の張つた鴉が一羽下りて来て、胡桃が欲しさに、瓶の栓を
嘴に
啣へて力一杯引張つた。胡桃の栓がすぽりと抜けると、弾機仕掛の蛇がぬつと鎌首を出した。
吃驚した鴉は一
足二
足後方に
飛び
退つて、じつと蛇の頭を見てゐたが、急に厭世的な顔をしたと思ふと、その
儘引くりかへつて死んで
了つた。
悪戯好きの男は不思議に思つて、鴉を解剖してみると、心臓が破裂してゐたさうだ。遊廓問題に行き悩んでゐる府知事の
智慧袋のやうに、
量の小さい鴉の
心の臓は、この怖ろしい出来事に出遭つて
何うにも
持堪へる事が出来なかつたのだ。――と言つて、別段笑ふにも当るまい、鴉は維新三傑の
子息では無かつたのだから。
ある時英国の一文豪が下院の演壇に立つて、
「諸君吾輩が考ふるに……」
と
厳べらしく言つてその儘口を閉ぢた事がある。
暫くして文豪はまた口を開いた。
「諸君吾輩が考ふるに……」
行き
詰つた文豪は
洋盃の水を
嚥んで勢ひをつけた。
「諸君吾輩が考ふるに……」
こゝまで
漕ぎ直して来て、また黙りこくつてしまふと、皮肉な一議員は議長を呼んだ。
「議長。尊敬すべき議員は三
度考へられましたが、到頭何一つお考へになりませんでしたな。」
と半畳を入れたので、弁士は満場の
笑声のなかに顔を火のやうにして引き下らねばならなかつた。
大久保知事は、遊廓問題について府会の十七人組の前で、二十八日迄に何とか考へると約束しながら、その英国の文豪と同じやうに何一つ考へなかつた。――それに何の無理があらう、物を考へるにはなかなか高価な材料が要る。府知事は誠実らしい顔付と、人形のやうな夫人と、
流行の山高帽とその
外色んな物を持つてはゐるが、唯一つ肝腎な物を持合はさない。肝腎な物とは他でもない、「
勇気」である。
陰陽博士で聞えた
安倍晴明の後裔が京都の
上京に住んでゐる。ある時日の
暮れ
方に
急ぎ
歩で一条戻り橋を通りかゝると、橋の下から、
「
安倍氏々々」
と言つて自分の名を呼ぶものがある。
立停まつてみると、
附近には誰一人姿は見えない。
安倍氏は
凝と耳を傾けた。声は橋の下から聞えて来るらしい。
掠めたやうな調子で、
「自分はもと洛中を騒がした鬼だが、余り
悪戯が過ぎるとあつて
貴方の御先祖安倍晴明殿のために、この橋の下に
封ぜられて
了つた。晴明殿はその後私の事などはすつかり忘れて了はれて、程なく亡くなられ申したが、私こそいゝ災難で、橋の下に封ぜられた
儘あつたら千年の月日を過ごして了つた。
何うか一生のお願ひだから封を解いて貰ひ度い。」
と言ふのだ。
安倍氏は亡くなつた
父親の遺言にも、鬼の事は一向聞いて居なかつたので
流石に一寸驚いた。家へ帰つて色々古い書物を
捗つて見ると、封を解く
呪文だけは
何うにか
了解めたが、さて封を解いたものか
何うか一寸始末に困つた。
「折角先祖が封じたものを
解いて、もしか鬼が知事か警部長かの耳の穴にでも入つて、何処かのやうに遊廓でも建て増されては溜らないからな。」
安倍氏はかうも考へたので、その後はどんな急用があつても、戻り橋だけは通らない事に
定めてゐると聞いた。
新約全書の鬼は豚の尻の穴に逃げ込んだので、豚はすつかり気が狂つて海に入つて死んで了つたさうだ。安倍氏も一つ思ひ切つてその鬼を戻り橋の下から引張り出して大学の構内にでも追ひ込んだら面白からう。
那辺には頭に鬼の入るだけの
空地を
有つた学者が
ちよつと居る筈だから。
最近に『東西文学比較評論』といふ著作を公にした
高安月郊氏は
飄逸な詩人風の性行をもつて知られてゐる人だが、ずつと以前自作の脚本を川上音二郎一派の手で
新富座の舞台に
上した事があつた。
ある日の事、月郊氏が
幕間の時間を川上の楽屋で世間話に過してゐると、そこへその当時の大立物伊藤
春畝公が金子堅太郎、末松
謙澄などいふ子分を連れて
ぬつと入つて来た。何でも
御贔屓がひに
劇を見に来たのだが、
例の気紛れで
貞奴でも
調弄はうと思つて楽屋口を
潜つたらしかつた。
川上夫妻は狭つ苦しい自分の楽屋に、鷹揚な伊藤公の姿を見つけたので流石に一寸どぎまぎした。見ると床の間の
上座には作者の月郊君が坐つてゐる。公爵などいふものは、床柱か女かの前で無ければ坐るべきものでないと思つてゐる川上は、成るべくなら、床柱と女房との真中に公爵を坐らせてみたかつた。で、
眇のやうな眼つきをして一寸月郊君の顔を見た。
月郊君も
何うやら川上の
意は察したらしかつたが、実は伊藤公とは生れて初めての同座で、今後またこんな機会があらうとも思はれない。それに自分は今度の
劇では作者であり、伊藤公は
普通の
観客に過ぎない。作者が
観客に座を譲るやうな気弱い事では作者
冥加に尽きるかも知れないからと、その
儘素知らぬ顔で
凝と尻を
落つけてゐた。
流石に伊藤公は
無頓着で、悪い顔もせず、入口にどかりと
胡坐を掻いたまゝ、例の女の唇を数知れず
嘗めた口元を
歪めながら、芝居話に興じてゐたが、お伴の小さい政治家二人は苦り切つた顔をして
閾際に
衝立つてゐたさうだ。
何によらず小さいのは
惨なものだが、とりわけ政治家の小さいのは気の毒なものだ。
この頃京都図書館長を辞めて早稲田大学の図書館に転ずるとかいふ湯浅半月氏は、例の女買ひについて
頻と噂を立てられてゐるが、流石に口上手の男だけに、別に
弁疏がましい事もせず、
「京都にはもう飽いたからな。」
と言つてゐる。
女買ひをするにも、
昵懇になると面倒だからといつて同じ女を滅多に二度と
聘ばないのを自慢にしてゐる位だから京都に飽いたといふのに無理も無いが、この評判の女買ひを肝腎の湯浅夫人だけは今日まで少しも知らなかつたさうだ。
湯浅夫人は神戸の女学院にゐた頃、書庫の図書を一冊も残らず読み尽したといふ程の読書人で、図書館長としては半月氏よりも、ずつと適任者であるが、堅い
基督信者で、
終始神様のお
側に居過ぎた
故で、つい人間の事を忘れて
了つたらしい。
神様といふものは随分費用のかゝるものだが、その中で
新教の神様は
質素で倹約で
加之に
涙脆いので
婦人には愛される
方だが、余りに
同情があり過ぎるので、時々困らせられる。
半月氏は
例も笑ひ話しに、
「僕の父は
金儲と道楽が好きだつたが、
性来父に及ばない僕等兄弟は父の才能を二人で分担して、兄は金儲を、僕は道楽の方を
演る事に
定めてゐるのだ。」
と言つてゐる。半月氏の兄といふのは、洋画家湯浅一郎氏の
阿父さん治郎氏のことだ。
子息の才能の総和が
親爺のそれに匹敵するのは
何うにか辛抱出来るが、大久保甲東の息子達のやうなのは一寸……。
少し前の事だが、Kといふ若い法学士が夜更けて
或料理屋の門を出た。酒好きな上に酒よりも好きな
妓を相手に夕方から
夜半過ぎまで
立続けに
呷飲りつけたので、
大分酔つ払つてゐた。
街灯の
灯も
点つてゐない真ツ暗がりに、Kは自分の鼻先に
脊のひよろ高い男が
立塞がつてゐるのを見たので、
酔つ
払がよくするやうにKは丁寧に帽子を取つてお辞儀をしたが、相手は会釈一つしないのでKは少し
然とした。
「さあ、
退いた/\。
成り
立の法学士様のお通りだぞ。」
Kはとろんこの眼を見据ゑて怒鳴るやうに言つたが、相手は一
寸も身動きしようとしなかつた。
喧嘩早いKは、いきなり
拳をふり揚げて
厭といふ程相手の頭をどやしつけた。が、相手は蚊の止つた程にも感ぜぬらしく、Kを
見下してにや/\笑つてゐる。若い法学士は侮辱されたやうに、
暴にいきり立つて、
「野郎かうして呉れるぞ。」
といきなり両手を拡げて
武者振ついたと思ふと、力一杯
頭突を食はせた。法律の
箇条書で一杯詰つてゐる筈の頭は、案外空つぽだつたと見えて、缶詰の
空殻を投げたやうに、かんと音がした。
Kは
脳振盪を起してその
儘引くり返つて死んで
了つた。相手は相変らず
身動もしない。身動しないのもその筈で、相手は無神経な電信柱で、酔払つたKは
夜目にそれを人間と見違へて喧嘩をしたのだつた。
Kは生き残つた母の手で青山の墓地に葬られたが、毎晩のやうにその夢枕に立つて、頭の
向が違つてる違つてるといふので、母は人夫を雇つて掘返してみると、
かんと音のした頭は果して南向に葬られてゐた。母親は泣き/\向きを直して葬つて了ふと、それ以来また夢枕に立たなくなつたさうだ。
役人に
嘘吐きが多いやうに
瓜哇人には魔法使が多い。日本の女で
馬来半島に住んでゐる仏蘭西人の
妾が、ある時
国許に送つて
遣らなければならぬ筈の
金銭の事で心配してゐると、そこへ瓜哇の魔法使が通りかゝつて、
「お前は
金銭の事で屈託してゐるらしいが、さう心配するが物はない。今日
午過に、お前の主人が頭が病めるといひ出す。その折お前は何となく
睡つぽくなるだらうからそれを
きつかけに主人に相談してみろ、
屹度金銭は出来る。」
と言つて教へて呉れた。
女は不審しながらも、魔法使の事は
予て聞いてゐるので
幾分待心で居ると、午過になつて案の定主人が頭が病めるといひ出し、自分は睡つぽくなつて来た。こゝぞと思つてお
金銭の一件を相談すると、主人は二つ返事で重い財布を投げ出して呉れたさうだ。
瓜哇の魔法使は又かういふ事をする。多くの人の見る前で、砂を盛つた植木鉢へコスモスの
種子などを
蒔いて、じつと
祈祷を
凝す。すると
種子が
弾けて芽はぐん/\砂を持上げて頭を出して来る。一寸二寸と
瞬く
間に茎が伸びたと思ふと、最後に小さい花がぱつと開く。
蹇を立たせた基督だつて、これ以上の不思議は出来まいと思はれる程だ。言ふ迄もなく基督は神様のお坊ちやんで、瓜哇の魔法使は乞食坊主である。
日本の魔法使も、
埃臭い
飛田の土の中から、コスモスの
芽生には似てもつかない
色々な物を見せてくれる。
業突張の予選派の
面。
食しん坊の同志会の胃の腑。泥だらけな市長の
掌面……。
むかし津山藩主の何とかいつた奥方は、余程
悋気深い
性だつたと見えて、殿の愛妾を
縊め殺した上、太腿の肉を切り取り、それを
羹にして何喰はぬ顔で殿が晩酌の膳に
上しておいた。殿が何の肉だと
訊くと、
「
貴方様の御好物でございますよ。」
といつて、にやりと笑つたといふ事だ。
大和屋の
妓浜勇は、亡くなつた秋月桂太郎と
好い仲だつたが、いつだつたか秋月が病気の全快祝に、
赤飯だけの工面はついたが、
帛紗の持合せが無いので思案に余つて浜勇に相談した事があつた。浜勇にしても色気は有り余る程たつぷり持合せてゐるが、肝腎のお
銭といつては一
文も無かつた。といつて男の頼みを
無下に断る訳にも
往かなかつたので、思案の末がたつた一枚きりの
縮緬の腰巻を
外した。
「これなと
染替ておこ。」
といつて新しく
色揚をして、帛紗に仕立てて間に合はせたさうだ。
画家のミレエの細君は貧乏で食べる物が無くなつた時には、
雲脂だらけな頭をした亭主を胸に抱へて、
麺麭の代りだといつて、熱い
接吻をして呉れたものださうだ。
尾崎テオドラ夫人は、「
主人は国事に頭を使つてゐるから、家庭では成るべく気を
遣はないやうに静かにさせてゐる。とりわけ食事は女中任せには出来ないから」といつて手製のオムレツ
許りを頬張らせてゐるさうだ。
散銭に色々文字替りがあるやうに、
顔立で
別けると女にも色々種類はあるが、大抵は
皆男に親切なものさ。
講道館の嘉納治五郎氏は、書画を
娯み
度いが、
正真物の書画は値段が張つて
迚も買へないからといつて、書画代用の妙案を実行してゐる。
それは他でもない相模や紀州の海岸で、人里離れた、眺望のいゝ山を買込んで、自分の別荘地としておくのだ。別荘地といつたところで、掘立小屋一つ建てるのでは無く、夏になると、南向きの恰好な足場に
天幕を張つて、飯だけは近くにある田舎町の
旅籠屋から運ばせる事にして、日がな一日
天幕を出たり入つたりして自然を娯むのだ。
「
真物の山水のなかへ
浸つて、自分も景物の一つになつて暮らす気持は、雪舟の名幅を見てるよりも、ずつと気が利いてるからな。」
と氏は言ひ/\してゐる。
そんなだつたら何も自分で山を買はなくとも、
何処でも構はない景色の
美い
土地へ勝手に
天幕を持込んだらよかりさうなものだが、嘉納氏に言はせると、さうは
往かない。
「人間には所持慾つて奴があつて自分の
有にしないでは
落付いて娯まれないのだ。兎一つ
棲まないやうな禿山だつて自分の
有にするとまた格別だからな。」
成程聴いてみれば無理もない。世の中には髪の毛一本生えてない禿頭を、自分の持物だといふだけで、毎朝磨きをかけてゐる人間もある事だから。
「相模や紀州の
突端だけに、
往来が不自由で、さう/\は出掛けられないが、
然し雪舟の名幅だつて、
何時も掛け通しにして置く訳のものでは無い。一年に一度が精々なのを思ふと、夏休みに一度でも禿山を見舞つたら、それで十分ぢやないか。」
と言つてゐる嘉納氏は、
「さういふ雪舟代用の山だつたら、一度見せて貰ひ度いものだ。」
と
愛相を言ふ人があると、急に顔の
相好を崩して、
「是非見て貰ひ度い、
富豪が雪舟を見せ度がる格で、禿山でも自分の者になると、
矢張見て貰ひたくてなあ。」
風景画好きの嘉納氏が、雪舟の代りに禿山を掘出したのは面白いが、そんぢよそこらの美人画好きも、
春章や歌麿の美人画代りに、
活きた
女菩薩でも探し出して、腰弁当でちよく/\出掛けたらどんな物だらう。
森田
草平氏が手紙の上手な事は隠れもない事実で、氏から手紙で金の工面でも頼まれると、どんな男でもついふら/\となつて、
唯一人しかない
女房を誤魔化してでも金を
拵へてやり度くなるといふ事だ。
一部の
画家仲間に
天才人と言はれた青木繁が、また借金の名人で、どんな
画家でも
出合頭にこの男と
打衝つて二
語三
語話してゐると、慈善会の切符でも押し付けられたやうに、つい
懐中から財布が取り出したくなるといふ事だ。
尤も
画家などいふものは、無駄口と
同情は
他一
倍持合せてゐる癖に、金といつては
散銭一つ持つてない
輩が多いが、さういふ
輩は財布を
開ける代りに、青木氏を自分の
宅に連れ込んで、一
月二
月は
立養ひをしたものださうだ。
青木氏が東京に居られなくなつて
浴衣一枚で九州
落をした事がある、その折
門司か何処かで自分が子供の時の先生が
土地の小学校長をしてゐるのを思ひ出した。青木氏は倒れ込むには恰好の
家だとは思つたが、流石に着のみ着の
儘の自分の姿が振りかへられた。
所へ
魚釣の
帰途らしい子供が一人通りかゝつた。手には
小鮒を四五
尾提げてゐる。青木氏は
懐中の
写生帖から子供の好きさうな
画を一枚引き裂いて、それと小鮒の二尾程と
取り
替つこをした。
「いゝ物が手に入つた、これさへあれば
大手を振つて先生の
家へ倒れ込まれる。」
青木氏は
独語を言ひ/\、久し振に校長の
宅を訪ねた。校長は玄関へ飛び出して来た。(念の為言つておくが、学校教員といふものは
自宅では玄関番をしたり、子供の
襁褓を洗つたりするものなのだ。)
青木氏は校長の顔を見て、
「
先日から門司へ写生に来てゐましたが、今日は一寸釣りに出掛けて、お
門を通り掛つたものですから……」
と言つて
蠱術のやうに小鮒を校長の鼻先で振つて見せた。校長は、
「さうか、よく訪ねて呉れた。」
といつて、手を
執る
許りにして、青木氏を座敷へ引張り上げた。
何処を
何う言ひ繕つたものか、青木氏はその
儘二
月程校長の
宅に平気でごろ/\してゐたさうだ。――これを
天才といふに何の不思議もない筈だ。他人が顔を
赧めないでは居られない事を、平気で
遣つて
退ける事が出来るのだもの。
月の終りにはタゴオルが来る、七月にはゴリキイが来ると聞いてゐるのに、今度はまた露国詩壇の革新者コンスタンチン・バリモントが来るといふ噂が伝はつてゐる。
バリモントは仏蘭西のユゴオのやうに太陽と美との熱愛者で、その名高い詩集にも『太陽のやうに』といふのがある位だ。この詩人が文壇に立つてから、二十五年目の記念会が三四年
前ペテルブルグ大学で開かれたことがあつた。その折ブラウン教授の挨拶に、
「バリモントがこの世に生れたのは太陽を見るためだつた。太陽はこの詩人の心を
饒かに、その夢を黄金にした。太陽はその詩の
何れもに燃えてゐる。」
と言つた程、お
天道様に惚れてゐる人なのだ。この人が暗い淋しい露西亜を出て、明るい陽気な「日出づる国」へ旅立するのに不思議はない筈だ。
(その自伝によると)バリモントは
五歳の時に、
婦人を見るとぽつと顔を
赧めるやうになり、
九歳の時には真剣に女に惚れるやうになり、十四の時に肉慾を覚えたと言つてゐる。
五歳といへばまだミルク・キヤラメルの欲しい年頃だ、日本では『好色一代男』の主人公が腰元の手を取つて、「恋は闇といふ事を知らずや」といつたのは、確か
七歳だといふから、バリモントはそれ以上の
早熟た子供で、その頃から
乳母にお尻を叩かれては、くす/\喜んでゐたに相違ない。
二十二歳の時、友達が自殺をしたのに
感化れて、三階の窓から下の敷石を目がけて
身投をした事があつた。骨は砕けて、
身体は
血塗れになつたが、不思議と
生命だけは取り留めて、それからはずつと
健康でゐる。バリモントは後にその折の事を思ひ出して、
「お蔭で
創が
癒つてからは、人間も一段と悧巧になり、
従来のやうに
鬱々しないで、その日その日を
娯しむやうになつた。」
と言つてゐる。
女がお産をして強くなり、色男が女に捨てられて賢くなる格で三階から飛下りて
吃驚したのでそれ迄
皮膜を
被つてゐた智慧が急に
弾け出したのだ。それを思ふとやくざな知事や大臣は紙屑のやうに一度三階から
投り出してやり度くなる。
人間といふものは、生れて来る時
下駄を
穿いて来なかつた
故か、
身投でもして死ぬる時は
屹度履物を脱いでゐる。それも
其辺へだらしなく
投り出さないで、きちんと
爪先を揃へた
儘脱ぎ捨ててゐる。
恰で借りた物を返すといつた風だ。得て
投身でもする人は、借りた金を返さないやうな
輩に多いが、履物だけは自分の持合せでありながら借物ででもあるやうにきちんと取揃へてゐる。だから芝居でもそれに
倣つて、舞台で
情死者の身投をする時には、
俳優は
極つたやうに履物を揃へる。
それも古風な身投などの場合に限らず、電車や汽車で
轢死をする場合にも、履物だけはちやんと揃へてゐるから
可笑しい。どんな
粗忽屋でも下駄を穿いた儘で
軌道に飛び込むやうな無作法な事はしない。
家鴨が外套を脱いで鴨鍋へ飛び込むやうに、自殺でもしようといふ
心掛のある者は、履物を脱ぎ揃へて
軌道に横になる位の儀式はちやんと心得てゐる。
電車の車掌なども、轢死者があつた場合は、
其奴が男か女か、
老人か子供か、馬鹿か悧巧かを吟味する前に、先づ履物を調べる。そして履物がちやんと揃へて脱ぎ捨ててあるのを見ると、
「
占めた。やつぱり自殺だつた。」
と、
吻と胸先を撫でおろすさうだ。だから間違つて電車に
轢き殺される場合には、成るべく履物を
後先へ、
片々は天国へ、
片々は地獄へ届く程跳ね飛ばす事だけは忘れてはならない。さもないと、自殺に
定められて、
慰藉金も貰へない上に、理窟の立たない厭世観さへ
抱かされるやうな事になる。
同じ淵でも身投をする場所は大抵
定つてゐるやうに、長い電車線路でも轢死する場所は、大抵見当がついてゐるさうだ。だから、
狡い運転手になると、その区間だけは速力の加減をする事を忘れない。
もしか大隈伯が身投でもする場合には、
矢張履物を脱いで、義足を
露出しに死ぬるだらうかと疑つた者がある。すると、いやあの人の事だ、死ぬ前に義足は割引で売つてしまふだらうと言つたものがある。
トルストイ伯は、息子のイリヤが十八歳の頃、ある日
屏風の裏表で背中合せになつて、
「イリヤ、こゝでは誰も聞いては居ないし、私達もお互に顔が見えないから、恥かしい事は無い。お前は今日まで女と関係した事があるかい。」
と訊いた。
息子のイリヤが、
「
否、そんな事はありません。」
と答へると、トルストイは急に
欷歔をし出した。そして子供のやうにおい/\声を立てて泣き出すので、息子のイリヤも屏風の裏でしく/\泣き入つたといふ事だ。
トルストイは私に相談して泣いた訳でも無かつたから、
何故息子の返事を聞いて泣き出したか解る筈もないが、察する所、自分が若い頃の
不品行に比べて、息子の純潔なのに
つい知らず感激させられたものらしい。
新渡戸稲造博士は、自分が
近眼の原因をある学生に訊かれた時、次の
室の夫人に聞えないやうに声を低めて、
「無論本も読んだには読んだがね、
然し本を幾ら読んだからつて、人間は
近眼になるものぢやない。僕は学生時代にね……」と『英文武士道』の表紙のやうに一寸顔を
紅くして「気恥しい訳だが、性慾の自己満足を余り
行り過ぎたもんだでね……」
と言つて、口が酸つぱくなる程性慾の自己満足を戒めたさうだ。
新渡戸博士が自分の
近眼と性慾の自己満足を結びつけて、深く後悔して
居るのは
善い事だが、世の中には
近眼者といつても
沢山居る事だし、その
近眼者が皆が皆まで博士のやうな「良心」を持合せてゐまいから、
達て
近眼を恥ぢよと言つた所でさう/\恥ぢもすまい。
聖アントニウスはあの通りの道心堅固な生涯を送りながら、
猶側の人の目に見える迄性慾の煩悶に陥つてゐた。アントニウスの眼の前には毎夜のやうに裸の美人が映つて、聖者を誘惑しようとして
有ゆる
戯けた姿をして踊り狂つてゐたといふ事だ。
男の
聖者が多く女の
聖者を
渇仰するに対して、女の
聖者は大抵男の
聖者に
帰依をする。ロヨラは聖母マリヤの信仰家であつたが、婦人の多くはナザレの
耶蘇と精神的結婚を遂げてゐるのだ。もし耶蘇があの
年齢で髪の毛の縮れた
女房でも迎へてゐたなら、大抵の女は教会で
欠伸か
居睡りかをするだらう。実際女は猫のやうなもので、鼠のゐない時には
屹度欠伸か居睡りをする事を知つてゐる。
今日阪神電車に乗ると、私の前に
齢の頃は四十恰好の職人風らしい男が腰をかけてゐた。
木綿物だが
小瀟洒した
身装をしてゐるのにメリヤスの
襦袢のみは
垢染んで薄汚かつた。
閉てきつた
鎧戸に鳥打帽の頭を当てがつて、こくり/\
居睡りをしてゐたが、電車が
大物を出た頃に、ひよいと頭を持ち直して、ぱつちり眼を
開けた。そして手早く
胸釦を外して、シヤツを裏返したと思ふと、指先に何かちよつぴり
抓むで左の
掌面に載つけた。――よく見ると、会社の重役のやうに血を吸つて
真紅になつてゐる
虱なのだ。
虱は慌てて
其辺を
這ひ回つたが、職人の掌面は職人の住むでゐる世界よりもずつと広かつた。虱は方角を
取り
損つて中指にのぼりかけた。生れて唯の一度も運を掴んだ事のない掌面だけに、指も
普通よりはずつと短かつたので、虱は直ぐと指先に
上りきつた。
職人はわざと皆に見えるやうに中指を鼻先に持つて来て、
四辺を見越してにやり笑つた。この無作法な
素振を見て誰一人怒り出さうともしなかつた。皆は顔を見合せて苦笑ひするより外に仕方が無かつた。
蚤に
小つぽけな馬車を
牽かす蚤飼の話は噂に聞いてゐるのみで、実地見た事はないが、虱は唯もうその辺を這ひ回るのみで、芸人としては一向
価値が無い。
職人は暫くそんな
悪戯をしてゐたが、最後に
袂を探つて、マツチを取り出したと思ふと、ぱつと火を
磨つて虱の背に当てがつた。この
懶惰な芸人は
手脚をもじもじさせてゐたが、
ぴちと
爆ぜたやうな音がしたと思ふと、
身体はその
儘見えなくなつてしまつた。
恰ど耶蘇の死骸が墓のなかで
紛失したやうなもので、不思議は四福音書にあるやうに、職人の掌面にもあるものなのだ。
「人は自分の蚤を殺すには、自分の流儀を使ふ外には仕方が無い。」
――仏蘭西人はよくこんな事をいふが、
真実だなと思つた。
少し
談話が古いが、日独の国交が断絶して、独逸の日本留学生が一
纏めに
店立を食はされた時の事、皆は
和蘭経由で
英吉利に落ち延びようとして、日を
定めて一緒に
伯林のレアタア
停車場を
発つた。
何がさて、急場の事なり、書物や
古履や
日本魂などいふ、やくざな荷厄介な物は、
皆一纏めに下宿屋の押入に取残した
儘逃げて来たので、
皆は
腑抜のやうな顔をして溜息ばかり
吐いてゐた。もしか兵隊さんの大きな
面が窓越しに
覗きでもしようものなら、
皆は
護謨毬のやうに一度に腰掛から
飛上つたかも知れない。
汽車がレアタアの次ぎの駅に着くと、一人の若い娘が入つて来て空席に腰をおろした。それを見ると
其辺の黄いろい
萎びた顔が一度に
灯が
点いたやうに明るくなつた。――それに何の無理があらう、娘の直ぐ隣には、A医学士がゐる。医学士は、女をパラピンのやうに
掌面に丸め込む事に馴れてゐる男だ。
皆は言ひ合せたやうに、眼を閉ぢて
睡つた風をしてゐた。医学士は娘に向つて、一言二言話してゐるうちに、
例も女を
蕩す折にするやうに、掌面の講釈を始めた。支那の哲学者が言つたやうに(A医学士は哲学者とか
袋鼠とか自分の知らない物は
悉皆支那に
棲んでゐると思つてゐるのだ)人間一生の「
幸運」は掌面の恰好と大きさとに現れてゐるといふ
前置で、
「お嬢さんのと僕のと、
何方が掌面が大きいのでせう、一つ比べてみませんか。」
と言つて、
安々と娘の
暖さうな掌面と不恰好な自分のをぴたりと合せたと思ふと、その
儘凝と握り締めた。
狸寝入の連中は、もう胸をわくわくさせ出した。娘が別に振切らうともしないのに味をしめた医学士は、
円まつちい娘の首根つこを抱いたと思ふと、いきなり唇を鳴らした。
「うまい事を
行つたのう。」
直前のK法学士が、
溜らなささうに
喚いて眼を
露くと、皆は一度に眼を
開いて笑ひ出した。娘はとう/\
居溜らなくなつて次の
室に逃げ出したさうだ。
国境へ立退きのどさくさにも、まだ女の唇を忘れないのは
流石に医者だけある。医者といふ者は、死人の枕もとに坐つて、薬代の胸算用が出来る程余裕のある人間だ。
メフイストフエレスは若い学生に、女の手を握らうと思へば医者になれと勧めた。実際医学ほど詰らぬ学問も少いが、
唯一つ女の手が握れるので埋合せがつく。
京都に
今歳八十幾つかになる
老人で、
指頭画の達者な爺さんがある。古い
支那画などを
指頭で
臨すが、なか/\上手だ。夏目漱石氏が先年京都に遊びに来てからは、
「京都では別にこれといつて気に入つた物もないが、唯黄檗と指頭画とには
悉皆感服させられた。」
と言ひ/\してゐる。
指頭画は下らぬ芸で、大雅堂なども一
頻りこれに凝つた時代があつたが、友達に戒められて思ひ
止まつてしまつた。
「何故黄檗が
好いんだらう。」
といふと、
「一体お寺の本山などいふものは、山の腹か
頂辺かに建ててある。見ると
嶮しく落つこちさうで危い。そこになると、黄檗はあの通り
平地に建つてゐるので、
廓然と気持がいゝつたらない。」
と言つてゐるが、実の所は胃病持だけに高い所は息切れがして堪らない
故らしい。
漱石氏は近頃よく
拙い
画を
描く。臆面もなく
拙い画を
描く。正岡子規は画をかくのに、
枕頭に草花や果物を置いて、よく写生したものだが、漱石氏は一向写生といふ事をしない。
他人が
手器用にさつさと筆を
塗つて
往くのを見ると、羨ましさうに
ちよつと舌打をして、
「画つてものは、そんなに忙しさうに
描いちや駄目だよ、
緩くり落着いて掛らなくつちや。」
と言ひ/\、子供のやうに長く寝そべつて、だらけた胃袋を畳の上に投げ出しながら、何ぞといふと黄檗のやうなお寺の屋根瓦を一枚一枚
描きにかゝる。そしてそれが出来上ると、今度は黄檗で見たやうな松の樹を描いて、克明にも松の葉を一本々々つけてゆく。
「そんな
出鱈目な山水なぞ
描かないで、何か写生したらよかりさうなものだ。」
といふと、にやりと笑つて、黄檗の禅坊主がするやうに、いかにも意味がありさうに一寸指先きで自分の胸元を指して見せる。そこには黄檗に似てもつかない弱い胃の腑が溜息を
吐いてゐる。
兵庫には
化狸と間違つて婆さんを叩き殺した者があるさうだ。西洋のある学者は
霙の降る冬の日に
蝙蝠傘をさして大学から帰る
途々、家へ着いたなら、蝙蝠傘を壁にたてかけて置いて、自分は
暖炉に当つて暖まらうと
娯みに思つてゐるうち、
宅へ
辿り着く頃には、すつかり自分と蝙蝠傘とを取り違へ、傘を
暖炉に暖ためながら、自分は
夜ぴて壁に
凭れてゐたといふことだ。学者でさへ蝙蝠傘と自分とを取違へる世の中だ。馬鹿者が婆さんを狸と見違へるに無理もない筈だ。
狸退治の極意を一寸こゝにお話すると、(
何うか成るべく口の中で
低声で読んで欲しい、さもないと狸が
立聞するかも知れないから)狸はよく
雨夜に出て
悪戯をする。春雨のしと/\降る折、夜道を一人通ると、だしぬけに
傘が重くなる事がある。
「狸だな、やい誰だと思つてるんだ。見違ふない。」
独語を言ひ/\、てつきり狸が
傘の上に
載つかゝつてゐるものと思つて、誰でもが唯もう
無中になつて頭の方ばかり気にする。
だが、これは飛んだ間違ひで、実はこの時狸は
傘の
柄にぶら下つてゐるのだ。だから
夜途で雨傘が重くなつたら、いきなり
拳を固めて
厭といふ程柄の下を
擲つてみる。すると狸はその
儘気絶をするか、さもなければ
這ひ
踞つて
屹度謝罪をする。
序でに狐退治の極意を披露すると、田舎の一軒屋などでは、夜が更けると狐がとん/\と
扉を叩いて
悪戯をする事がある。その時狐は
後向になつて持前の太い尻尾で
扉に
触つてゐるのだ。さういふ折には何気ない調子で、
「どなた?」
と訊いておいて、暫くしてから
扉を開けると、狐は屹度
其辺の小陰に身を潜めてゐる。
態とぶつくさ言ひながら、また
扉を
閉て切ると、直ぐ
後からとん/\と聞える。
「どなた?」
と
扉を開けると、狐は
既う居ない。三度目が
愈々の
正念場で、
扉を閉めて暫く待つてゐると、
興にはづんだ狐の脚音がして、尻尾の
扉に触る音が聞えたか聞えぬかに、
矢庭に
扉を引開けると、後向きに尻尾を振りあげた狐は、
機みを
喰つて
閾越しに庭に転げ込んで来るので、直ぐ
手捕にする事が出来る。
以上
狐狸退治の秘伝、親類縁者たりとも
極内々の事内々の事。
伊予の松山は日露戦争
以来俘虜の収容地になつてゐるので、そんな事から
彼地の実業家井上
要氏は
色々な方面の報道を集めて俘虜研究を
行つてゐる。
井上氏の言葉によると、露西亜の俘虜は一向研究心が無いから、長い間日本に居ても、日本語はからきし判らなかつたのに、独逸の俘虜は大抵日本語が解る。解るのみならず、上手にそれを操る事が出来る。
物を買ふにも、露西亜の俘虜は行きつけの店へ入つて、お
昵懇の積りで笑顔の一つも見せる事を知つてゐるが、独逸の俘虜には一向
行きつけの店といふものが無い。
韈一つ買ふにも、市中の雑貨商を二三軒歩き廻つた上、一番
廉い店で買ふ事にする。
露西亜人は俘虜になつても、自分は大国の国民だ、
沢庵を
噛つて、紙と
木片とで出来上つた家に住んでゐる日本人などと比べ物にはならないといふので、日本人が滅多に手も着けない
飛切の上等品を買込むが、独逸人は夢にもそんな贅沢な
真似はしない。買ふ物も買ふ物も、みんな日本人が手に取らうともしない下等品で、値段が廉くさへあれば、喜んで買ひ取る。
だから露西亜の俘虜は何時でも借金だらけで「
霊魂」が
抵当になるものなら、書入れに少しの
躊躇もしないが、
可憎日本では「
霊魂」の相場が安過ぎるので
詮事無しに自分達が本国から送つて貰ふ筈の月給を抵当に、行きつけの店から借り出すものが多かつたが、独逸人は借金どころか毎週
定つたやうに貯金をする。もしか日本の監督将校が首でも
縊りさうな顔をしてゐると、
「
何うだ金が要るのか、利子さへきちんと払つたら幾らでも立替へるぞ。」
といふやうな事をいふ。
露西亜人はあゝした
暢気な、お人好しの国民だから、俘虜になつても、例のオブロモフ主義で
喰つては寝転び、
偶に女の顔を見てにや/\する位が
落だが、独逸人となると例の研究好きで、暇さへあると何か
取調を始める。誰だったか
[#「誰だったか」はママ]独逸人を地獄へ
堕したら、
屹度地獄と
伯林との比較研究を始めて、地獄の道にも伯林の
大通のやうに菩提樹の
並樹を植付けたい。それには自分に受負はせて呉れたら格安に勉強するとでも
吐くだらうと言つたが、松山に居る独逸の俘虜で、日本の紋の研究を始めて、材料をどつさり集めてゐるのがあるさうだ。
独逸の俘虜は物を買ふのに、屹度
雨降の日を
選つて出掛ける。雨降りだと、日本人がうるさく
附き
纏はないから、
韈一つ買ふにも町中歩きまはつて、ゆつくり値段の廉いのを捜す事が出来るからださうだ。
早稲田大学の美学教授
紀淑雄氏は、近頃真黒に
燻つた仏画を持ち廻つて
頻りと
購客を捜してゐる。幾らだと訊くと、「まあ、ずつと見切つた所で一万円」といふので、大抵の人は肝腎の仏画は見ないで
紀氏の顔を見て笑つて済ましてゐる。
紀氏は
遅緩かしくなつて、友達仲間を説き廻つて、
「誰でもいゝ、この
画を一万円に
周旋つて呉れたなら、手数料として千円位出しても
可い。」
といふので、仲間の美術通や
画家などは、
血眼になつて得意先を駈けづり廻つてゐる。言ふ迄もなく美術通や
画家などいふものは、
閑暇がある代りに
金銭が無い
連中である。
一体仏画といふものは
ざらにあるが、名高い二十五菩薩
来迎や
山越の阿弥陀などを
除けると、
何れも凡作揃ひでお
談話にもならぬが、美術の好きな者には
盲目が多く、
盲目には
富豪が多いから、下らぬ仏画に万金を投じても悔いないのだ。
紀君の仏画はまだ見た事もないし、それに売物の事だから
彼是言はうとも思はないが、一体何を
標準に一万円といふ売値をつけたのだと訊いてみると、亡くなつた岡倉覚三氏がその画を見て、米国へ持込んだら
屹度三万円には売れるだらうといつた、その一
言を
標準に、大負けに負けて一万円といふのださうな。
岡倉覚三氏は邦画の
鑑定にかけては、随分鋭い鑑識を持つてゐた人だから、あの人の鑑定つきだったら
[#「だったら」はママ]、三万円位
投り出す
富豪があつたかも知れないが、さうかといつて紀氏も地獄へまで
鑑定書を取りにも
往けまい。
尤も大隈伯にでも頼んだら、二つ返事で地獄の門番に
添書だけは書いて呉れるかも知れない。あの人は人に親切を尽すといふ事は、
添書をつける事だと
弁へてゐるのだから。
その一万円が手に入つたら、紀氏は真面目に
支那画を研究したいと言つてゐる。支那画も
善いには相違なからう。人間といふものは、
金銭が手に入らない
間は、いろんな
善いことを考へつくものだから。
大阪美術
倶楽部で催された故
清元順三の
追悼会に、家元
延寿太夫が順三との
幼馴染を
懐ひ出して、病後の
窶れにも
拘らず、
遙々下阪して来たのは美しい情誼であつた。
延寿太夫はその席上で、『
角田川』を語つた。清元としては
甚く上品なもので、何も判らない
聴衆は
何れも手を
拍つて喜んでゐたが、自分は
独り
欺かれたやうな気持がしない事もなかつた。
意気で、
うまみで持つてゐる清元を、
強ひて上品に
拗曲げようとするのは
寧ろ当流音曲の自殺である。四代目お葉は二代目の不思議な横死が
富本の手で行はれたかも知れないといふ
疑一つで、富本の紋章に縁のある桜の花は生涯家に植ゑさせなかつた程だ。家の芸が自分で首を
縊らうとするのを見たら、どんなに言ふだらう。
先代の延寿は道楽といふ道楽を
仕尽して、とどの
果には
舌切情死までしようとした。さういふ遊蕩的分子をその血にたんと持伝へてゐたから、舌切雀のやうに
情死で損じた舌をも、
何うにか工夫して独吟となると
聴客の魂を吸ひつけるやうな
離れ
業も出来たのだ。ラムネの
瓶にはギヤマンの「魂」が、露西亜人にはだらけた「心」が要るやうに、清元に無くて叶はぬものは、この遊蕩的分子である。
今の家元は
所謂上流夫人といふ階級の気に入らうとして、清元を『角田川』のやうなお上品なものにしようとしてゐる。今の上流夫人の好くものは、お手製の西洋菓子と、オペラ
袋と、新音曲と――
孰れもお上品で軽い物揃ひである。
飛田遊廓反対者が一木内相を訪問すると、内相はブリキ製の
玩具人形のやうな謹厳な顔をして、
「人間の性慾といふものは、
却々抑へ切れないものだから、それを遂げさす機関も無くてはならない。」
と言つたさうだ。
卸し立ての
手帛のやうに真白で
皺の寄らない心を持つた或る
真言の尼僧は、半裸体の仏様のお姿を見て、
「まあ、仏様にも
臍がある……」
と言つて、悲しさうな声を出して泣いたさうだ。一木内相が人間に性慾があるのを発見したのは、仏様に臍があるのを見つけたと同じやうに、非常な発見で、この場合内相が若い
比丘尼のやうに声を立てて泣かなかつたのは、流石に男である。男といふものは女と同じやうに神様の
玩具に過ぎないが、女には胸を押へると泣き出す仕掛があるのに、男にはそれが無いだけの
相違だ。
一木内相は男である。男だから毎週土曜日の午後には東京を
発つて小田原の別荘へ行く事に
定めてゐる。別荘には夫人が待つてゐる。夫人は言ふ迄もなく女である。――それを思ふと、何事も二
宮宗の勤倹一点張でやり通さうとする内相に、性慾は余り贅沢過ぎるやうだ。
神様は
粘土で人間を作るのに、
凡て自分に
肖せたといふ事だ。ジヨオヂ・ムアに従ふと、英吉利の男も
矢張神様のやうに、自分達に肖せて女を
拵へるが、それに要る土だけは亜米利加から取寄せてゐるといふ事だ。
一木内相の
理想通りに女を拵へさせたら、どんな物が出来上るだらう。
堅麺麭のやうな二宮宗に、ちよつぴり性慾を
撮み込んだ、
恰でサンドヰツチのやうな女が
生るに相違ない。
先日来遊した露国の詩人バリモントは、
態々日光まで出掛けて往つたが、噂と違つて一向結構な
点が無いので失望した、多分京都や奈良へ往つたら、この償ひがつくだらうと、心細い事を言つてゐるさうだ。
日光を結構な
土地と思つたのが間違で、日光には
鋳掛屋の荷物のやうな、ぴか/\した建物があるだけで、
那処では芸術は死んでゐる。あれを有難いものと思つてゐるのは、関東人に腹の底からの田舎者が多いのを証拠立ててゐる訳だ。バリモントも
態々日光へ出掛けるなぞ無駄な事をしたものだが、それでも感服しなかつただけが
取得だ。矢張評判に
背かないだけの詩人の
感覚といふものを持つてゐると見える。
日本の景色を
恰で
楽園のやうに云ふ人がある。エデンに
嘘吐きの
蛇と、
騙され
易い女とが居るやうに、日本にもこの二つが
ざらに居るから、この意味で
楽園だといふのに異議は無いが、景色はさう/\自慢する程のものではない。バリモントも詩人だといふからには、景色だけを見に
態々来なかつた筈だ。
関西へ来たなら、是非見せて置きたいものが二つ三つある。一つは京都の博物館にある
婆藪仙人と今一つは法隆寺の宝蔵にゐる何とか言つた仏体だ。(
以前訳のあつた女の名前も
時々忘れる事があるやうに、名高い仏様のお名前もどうかすると想ひ出せない事があるものだ。)
日本に長く居た工芸家のリイチ氏なども、日本の彫刻は大抵見尽したから、
価値はちやんと解つてゐるなどと、
甚く
喰つたやうな事を言つてゐたが、
件の仏像に惚れぬいてゐる富本憲吉氏が、
「頼むから、たつた五分間でもいゝ見て欲しい。」
と、
嫌がるのを無理に引張つて
往くと、魂でも吸ひつけられたやうにその前に
棒立になつて、
「素敵だな。こんなものが日本にあらうとは思ひ掛けなかつた。ビンチのジヨコンダが思ひ出されるやうな作品だ。いや、ジヨコンダ以上だ。」
と
賞立てた事のある仏体だ。
ジヨコンダも謎のやうに笑つてゐるが、法隆寺の仏様も笑つてゐる。ジヨコンダの笑ひは人間臭いが、この仏様の笑ひは天人の笑ひである。笑ひといへば京都博物館の婆藪仙人も笑つてゐる。これは地獄を見て来た者の笑ひである。
ある男が慶応大学の
鎌田栄吉氏に、ほんの
愛相のつもりで、
「近頃はどんな本をお読みですかい。」
と訊いてみた。すると鎌田氏は馬のやうに気取つて、そして馬のやうににやりとして、
「近頃は本なぞ
些とも読みませんさ。世間は私や
門野君を――」と
側に居合はせた門野幾之進氏を一寸振り返つて、「まるで本ばかり読んでゐる男のやうに思つてると見えて、よくそんな質問に
出会しますがね……」
と言つてゐた。
先日まで京都図書館長をしてゐた湯浅半月氏に、
「君の顔はどこかモウパツサンに
肖てゐる。」
と
出鱈目の挨拶をした者がある。すると湯浅氏は禿かかつた前額をつるりと撫で下して、
「誰やらもそんな事を言つたつけが……」
と言つて、その
翌日これまで図書館に持合はさなかつたモウパツサン全集の英訳を丸善に註文したといふ事だ。
湯浅氏がモウパツサンに少しも肖てゐないやうに、誰も鎌田氏を
読書人だと思ふものも無からうが、当人になつてみると、世間がそんなに
買被りをしてゐるらしく思はれるものと見える。
だが、かう言つた所で鎌田氏も失望するが物は無い。本を読むといふ事は、ココアを
啜るといふ事と同じで、何も大した事では無いのだ。渋沢男爵などは、
婿の
阪谷男が万国経済会議に出掛ける
餞別にポケツト論語を贈つたさうだが、あれなども
何ういふ気でした事か一寸考へ及ばれない。
論語は
善い本だ。
善い本だからと言つて、それで人生が
引くり
覆るものなら、この世は幾度か
既う引くり覆つてゐる筈だ。
トルストイは『芸術とは何ぞや』といふ書物のなかで仏蘭西の新しい詩人を攻撃しようとして、作家連の詩集から例証をあげるのに奇抜な方法を選んだ。それはいろんな詩集から廿八頁目の詩を引つこ抜いて来るといふ方法なのだ。
茶話子は散歩をするのに、四つ辻へ来ると手に持つた
洋杖なり
蝙蝠傘なりを真直に立ててみてそれが倒れる方へ歩き出す事がよくある。
近頃新画の展覧会があちこちで開かれるが、作家と絵の
出来栄について何の
好悪も持たない今の成金のなかには、眼を閉ぢて
番組を押へるとか、又は
従来自分と縁起のよかつた、
25とか
73とかの番号に当つてゐるのを捜すとかして、それを買取る事にきめるのがある。
そんな時には
何うかすると同じやうな買手が顔を出すもので、互に意地を張つた末が、
定つたやうに
ぢやん拳で
縁極めをする。よく新画の展覧会へ出掛けると、一つの画幅の前で
火喰鳥のやうな鋭い顔をした男が三四人、
ぢやん拳をして、きやつ/\
乾躁ぎ散らしてゐるのを見掛ける事がある。
なかには地所を買ふより割高になるといつて、展覧会があると、絵なぞ一
目とも見ようとはしないで、電話でもつて何号から何号まで総高
幾干を
取除けて置いて貰ひたいと、
恰ど勧業債券でも買込むやうな取引をするのがあるさうだ。
大浦の隠居さんが取引した議員政治家の値段と、栖鳳が書きなぐつた雀一羽とを比べてみると、雀の方がずつと値が高い。流石は結構な美術国である。
一心寺に
元和の
往時、天王寺で
討死した本多
忠朝と家来九人を葬つた
墳のある事は、誰もがよく知つてゐる筈だ。
忠朝は生きてゐる
間は、鉄の棒を
揮りまはす
外には何の能も無かつた男に相違ないが、死んでからは面白い内職にありついてゐる。内職といふのは、禁酒の
願を聞くといふ事なのだ。一体男に禁酒させるのは、女に有難がられる第一の
功徳で、世の中に仕事といふ仕事は沢山あるが、女に有難がられる仕事ほど
行り
甲斐のあるものは無い。
忠朝の墓前に小さな壺があつていつも
蓋がしてあるが、中には銀のやうな水が溢れてゐる。酒を断たうとする者は、その水を
戴いて飲むと、
何日の間にか
酒嫌ひになるといふ事だ。
ある日
其処を通りかゝると、頭を
島田に結つた十七八の女が、壺から水を
掬むで
家から持つて来たらしい
硝子瓶に入れてゐるのがある。
「
何うするんだね。」
と訊くと、
「檀那はんが酒癖が悪うおますよつて、ぶぶうに入れて上げるのだつせ。」
と、女は「救世主」のやうな、おせつかいな顔をして私を見た。実際女といふものは、男の知らぬ
間に、その飲物のなかへ
色々な物を
撮み込むのが好きで溜らぬらしい。それが
酒断の水であらうと、塩であらうと、
莫児比涅であらうと、
悉皆持合せの
おせつかいからする事なので、男は目を
閉つて謹んでそれを戴かなければならぬ。
ハウプトマンの『沈鐘』を読むと、鐘師のハインリツヒが山の上で怪しい女と酒を飲んで踊つてゐると、村に残した子供二人が、大事さうに小さな瓶を
提げて坂を
上つて来る。瓶のなかには何があるのだと訊くと悲しさうな顔をして、
「
母様の涙です。」
といふ
条がある。
母様の涙は少し
鹹つぽいが、忠朝の墓の水は
冷つこい。どちらも妙に酒飲みの
阿父さんには
効力があるといふ事だ。
先日ある会で画家の
鏑木清方氏と池田輝方氏とが出会つて、
「どうだい
閑だつたら久し振に一緒に築地辺でも
かうか。」
といふやうな
談話が持上つて、二人は嬉しさうに築地へ散歩に出掛けた。
清方といふ人は江戸ツ子によくある
酷い郷土自慢で、
偶に病気にでも
罹つて、箱根辺へ保養に出掛けなければならぬ折には、家族と
水盃も仕兼ねない程の旅行嫌ひで、東京市内でも山の手は田舎臭いといつて、滅多に出掛けた事が無いさうだが、その日は築地だつたから、別れに水盃の必要もなかつた。
だが、これには
理由のある事、清方氏は輝方氏とは同じやうに築地で育つた人で、子供の時分には互に顔は見知らなかつたものの、清方氏の
家には葡萄棚があつて、夏になると美しい房が
鈴生に
生るので、
腕白者の輝方氏は近所の
鼻つ
垂しと一緒に、いつも盗みに出掛けたものだつた。或る晩などは
逃後れた輝方氏が女中に
掴まつて、恋女房の蕉園女史にしか触らせた事のない口の
端を思ひ切り
抓られたものださうだ。
その後二人が同じやうに、水野
年方氏の門に
入つた時、色々の世間話からその事が判つて、
「君だつたら葡萄
位呉れてやつてもよかつたんだ。」
と言つて笑つたさうだ。かういふ縁で二人は時々築地
通を散歩するのださうだ。
画家といふものは、
何うかすると
他所の葡萄を欲しがつたり、
相弟子の女画家に惚れたりするものなのだ。
鴈治郎と歌右衛門とが大阪での顔合せが、
梅玉父子の
意地張から急に
沙汰止みになつたので、
例のやうに大阪俳優の大顔寄せといふ事になり、旅興行の
延若へその旨を通じると、延若は承知しない。
従来興行政策の上から、鴈治郎には随分犠牲になつてゐる。
以前の延二郎ならば
兎も
角も、
亡父の名前を相続してみれば、さう/\お人好しに
許りはなつては居られない。
「今は
既う競争の時期に入つてゐるのや。どつちやが
捷つかまあ長い目で見てみなはれ。」
と
胡瓜のやうな長い
頤に、胡瓜のやうな
刺をちら/\させてゐる。
レオナルドとミケエルアンゼロとは
所謂文芸復興期の二大天才だが、この二人に就いてこんな話がある。或時レオナルドが
例のやうに長い
顎鬚を
扱きながら、
市街を散歩してゐると、五六人の若い市民が、ダンテの詩に就いて、
喧しく議論をしてゐるのに
衝突つた。
市民はレオナルドを見ると、
「先生
貴方の御意見は
如何です。」
と訊いてみた。すると丁度またミケエルアンゼロが
其処を
通り
懸つたので、レオナルドは、
「おゝアンゼロが来た。その事ならばあの男がよく知つてゐる筈だ。」
と言つた。アンゼロは
平常からレオナルドの長い顎鬚を
癪にさへてゐたので、
「君が自分で説明したら
可いぢやないか、君は
何時だつたか、
青銅で馬の
模型を作りかけて鋳上げる事もしないで、
打捨り
放しにしたぢやないか、いい
恥晒しだね。」
と吐き出すやうに言つた。レオナルドはそれを聞いて海老のやうに
真紅になつて
了つたさうだ。
鴈治郎と延若とを、レオナルドとアンゼロとに比べるのは、
藁と
黄金の
塊の目方を引くやうなもので、
天秤を神経衰弱にするに過ぎないが、
然し先輩後輩の関係だけには一寸似寄つた
節がある。
「時」はいつも若い者に味方をする、だが、人間はいつ迄も若くては居られない。
愛知医専教授中村豊氏(耳鼻咽喉専門)の説によると、芸妓といふものは大抵慢性喉頭
加答児に
罹つてゐる。それは無理に声を使ひ、無理に酒や煙草を飲み、無理に
夜更しをし、無理な借銭や、無理な恋をするといつた風に
凡てが無理づくめなからださうだ。唄でも
謡ふ時は
鶯のやうに
滑かだが
談話をすると
曳臼のやうな平べつたい声をするのは、咽喉を病んでゐる証拠ださうだ。
中村氏は一度呂昇の咽喉を見た事がある。
凡て女の声帯は細いのに呂昇のは男と同じ程度に大きく、咽喉もよく発達してゐるが、
扁桃腺が非常に
肥つて、どんなに
贔屓目に見ても
健全な咽喉とは言ひ兼ねたさうだ。余つ程扁桃腺を切らうかとも思つたが、その拍子に浄瑠璃を傷つけてもと思つて見合せたさうだ。
素人の浄瑠璃は鼻の先に巣くつてゐるが、呂昇のやうな
黒人のは、何処に隠れてゐるのか医者にも一寸判らないといふ事だ。
雲右衛門の咽喉は、大久保知事の頭のやうに滅茶々々に荒れて、声帯は手の着けやうも無い。一体
浪花節語りは、首を
縊められた
鶩のやうに、一生に一度出せばよい声を、ざらに絞り出すので誰でもが病的になつてしまふ。
先年大隅太夫が声が出なくなつて、約束の席に
差支へた時、高峰博士のアドレナリンの声帯注射を試みて、無事に席を済まさせた事があつた。これは声帯の充血を一時的に散らすので、長い効能は無いが、女でも
口説かうといふものはその三十分前にこれを注射して見るのも面白からう。
だが、或人の説によると、そんなに
手数の要る事をするよりも、その注射代だけ
手土産を持つて往つた方が、
屹度女の気に入るといふ事だ。
神様の数多い作品のなかで女が第一の傑作であるといふ事は、多くの婦人雑誌が主張する所で、自分もそれに就いては少しの異議もない。女の美しさ――それだけでも十分なのに、
加之にまた女の
狡さ――これを傑作と呼ばないのは
盲目である。
かういう神様の傑作も、
竈の前へ置きつ放しにしておくと、
何時となく
煤ばんで来る。すると
浅果な男心は直ぐ
我楽多のやうな、ぞんざいな
扱ひ
風を見せて、
何うかすると神様の傑作に対して敬意を失するやうな事になる。
この
頃西洋新聞を見ると、ある男女が結婚して四五年経つと、互に鼻に附き出して、顔を見るのも
厭になつた。そこで
寧そ別れようといふ事で、日を
定めて弁護士の
許に落合つて、その手続をする事に
談話を運んだ。
その日になつて、女は素晴しく着飾つて来た。身動きする
度に、
絹摩れの音がして、
麝香猫のやうな
香がぷん/\する。男は
眩ひがしさうになつて来た。
「見違へる程美しいぢやないか、
何うしたんだね。」
「いえね、
貴方にお別れすれば、
独身でも居られないしと思つて、嫁入口を捜しに往つたんですわ。」
「
怖しく早手廻しだな。
良いのが見つかつたらう。」
男は吐き出すやうにいふ。
「もう御存じなの、貴方にも
宜しくつて言つてたわ。」
女は一寸笑つてみせた。
男はいきなり女の手を取つて少し相談があると言つて、弁護士の
家を出て往つた。三十分後には、この二人は活動写真館に入つて、
夫婦鳩のやうに肩を並べて
戯け散らしてゐたさうだ。
謹んで世上の女に告げる。男は皆かうしたものだ。彼は「女」の鑑定家としては最も
与みし易いやくざ者である。
大杉
栄と伊藤
野枝とが例の恋愛事件に対する告白を読んで見ると、
孰れも理屈ばかり
列べてゐる。理屈などは
何うでもよい、栄といふ男と野枝といふ女とが
附着かねばならなかつた
真実の特殊の事情を告白する事が出来なければ嘘だ。
彼等は
他に是認されるやうにと思つて、単に自分達の
仕た事に筋道
許りを附けようとしてゐる。そして自分達二人の間の特殊の境遇と感情とを忘れようとしてゐる。
女を
捉まへたら、力一杯それを引き着けてゐなければならない。女は筋肉の
逞い男の腕の上でのみ
睡る事が出来る。女は狡猾な鳩のやうなもので、男がうつかり
掌面を
弛めると、直ぐぱた/\と飛び出す。そしてそれを男の油断からだとは思はないで、自分に羽があるからだと
穿違へる。
近頃は別れた女が、以前関係のあつた男を棚卸しをする事が
流行る。棚卸しの
対象としては、男は恰好の
代物である。どの男もどの男も女に対しては
悉皆共通の弱味を持つてゐるので、或る一人の棚卸しは、やがて男全体の棚卸しとなる事が出来る。もしか伊藤野枝のやうな女が、
「今だから白状しますが私の
先の亭主には尻尾があつてよ。」
と言ひでもすると、世上の男といふ男は、みんな頭を抱へ込んで、
「野枝め、俺に当てつけてるんぢや無からうか、確か俺にも尻尾があつたつけな。」
と恐縮するに
極つてゐる。
先年
巴里で、人の妻たるものに、有つて欲しい性質を投票させた事があつた。その時の投票に依ると、「慈愛」が一万三千八点。「整理」が一万八千四百四十点。「信任」が一万九百四点といふ結果であつた。この
頃のやうに女に油断が出来なくなつたら、いやそれは西洋の事だ、日本はまた別だなどと勝手な事は言はないから、
何卒男子保護政策として別れた
後に「亭主の棚卸しを
仕ない」といふ点に最高票を投じて貰ひたいものだ。
タゴオルが来ると、友人や
知辺やが
其辺ぢゆうから飛び出して、色々な勝手な事をいつてゐる。
「私はタゴオル家へ二晩泊つた。その晩詩人は歌を
唱つた。」
「僕はタゴオルの寝言を聞いた。寝言がすつかり韻が踏んであつたには驚いた。」
「私はタゴオルの外套を見た。左のポケツトには『詩』が入つて
居り、右のポケツトには『哲学』があつた。財布は――財布は確か
洋袴の隠しにあつたやうに思ふ。」
「詩人は僕の前で
欠伸をした。あの欠伸が解るのは、日本で野口米次郎氏位のものだらう。」
と言つたやうなもので、どれもこれも
御尤の事づくめだ。
さういふ人達がタゴオルの親友であるのは
夢更疑ふのでは無い。だが、実をいふと、そんなに詩人と懇意なのだつたら、もつと早くタゴオルの人物と
作物とを紹介して貰ひたかつたのだ。
聖母マリヤが昇天して、神様のお
側に居ると、色々な男や女が、
「マリヤ様の
昔昵懇だよつて極楽に入らさせて呉れさつしやれ。」
と言つて、ドヤ/\入つて来た。マリヤが
窃とその人達を見ると、
何れも見知らぬ顔で、なかに三四人以前耶蘇を生み落した当時、
「いたづらな阿魔つ子めが……」
と
途の
出会頭に石を
擲げつけた女達が
交つてゐたといふ事を何かの本で読んだ事がある。
タゴオルが
若しか
涅槃の国へでも往つたら、早速訪ねて往つて、お釈迦様か阿弥陀様かに紹介状を
認めて貰ひ度いといふのは、かういふ日本人に一番多からう。
乞食が
頭陀袋の充実をはかるやうに、早稲田派の文士は、絶えず生の充実をはかつてゐる。そのなかでも相馬御風君などは、書いてゐる論文でみると、散髪をする
閑もない程、人生の事ばかり思つてゐるらしい。ほんとに殊勝な事だ。もしかこの世界が私の手製だつたら、相馬君のやうな心掛のいゝ人には、
密と
内証で打明けてやりたいものだ。
「人生つてそんなに意味のあるものぢや無いのだよ。」と言つてね。
京都の西川一草亭氏は、相馬御風氏の論文を見て、こんなに
始終人生の事ばかり考へて居ては、
嘸肩が凝つて溜るまいと、自分の
実弟で
予て相馬氏と
知合の津田青楓に訊いてみた。
「相馬君つて毎日どんなにして暮してるね。
始終独語でも言つてるのかい、蟹のやうに。」
「
独語も言つて無いやうだね。」
「ぢや何をしてゐるね。」
一草亭は
好奇の目を光らせた。
「さうさなあ――よく将棊をしてるやうだがね。」
と津田氏はいつだつたか、相馬氏が歩と桂馬とを人生の秘密か何ぞのやうに、
緊り
掌面に握つてゐた事を思ひ出した。
「え、将棊をさしてるつて。」
一草亭氏は覚えず吹き出してしまつた。
「将棊をさすなんて、そんな……そんな
閑暇があるのかい。あんな忙しさうな議論を書きながら。」
それからといふもの、一草亭氏は二度ともう相馬氏の論文を読まなくなつたさうだ。
タゴオルが
到る所で歓迎されてゐるのは喜ばしい。『ギタンヂヤリ』の詩人は私の叔父でも
従兄でも無いが、詩人の尊敬せられるのは、軍人や政治家の持てるのと
異つて、見てゐて気持が
好い。だが、日本人が
印度の詩人に払ふ敬意の半分でも、自国の詩人に捧げる事を知つてゐたなら、日本はもつと幸福な国になつてゐられたに相違ない。
タゴオルの一家では、亡くなつた岡倉覚三氏に島を一つ買つて
配はうとした事があつた。相手は岡倉氏の事だ。買つて
配つたところで、格別礼も言はないで、一寸
領いてみせた位で、直ぐ受取つたに相違ない。
島を貰つて
何うする? なに心配するが物は無い。住み飽いたら売つてしまふばかりさ。現代仏蘭西の文豪アナトオル・フランスは友達が寄贈して呉れた書物は
碌に読みもしないで、セエヌ河の
河縁にある古本屋に売り飛ばしてしまふといふ事だ。そして
他が訊くと、
「なに、田舎の友人に送つてやつたのさ。」
と
何喰はぬ顔で済ましてゐるさうだ。
岩代猪苗代湖のなかに
翁島といふ小さな島がある。樹木のこんもり繁つた静かな島だが、これが先年三千円か
知らで売りに出た事があつた。幸田露伴氏がそれを欲しがつて、買つても
可いと言つてゐたが、買ひ度いと思つた時には三千円の工面がつかず、工面が附きかかつた時には、もつと
好い考へが起きて来たので到頭沙汰止みになつた。
好い考へといふのは、島を買つて棲むよりか、借金をしない方がずつと安静だといふ事だ。
その折露伴氏は、島が万一自分の者になつたら、どんな
訪問客でも
活きた
鱒の子を手土産に持つて来ないものは、面会を謝絶する事にしたい。そしてお客の持つて来た鱒の子は、
悉皆湖水のなかへ放して
遣つたら、幾年かの間に湖水は鱒で一杯になるだらうと言ひ/\してゐた。
露伴といふ人は色んな面白い事を思ひつく人だ。そしてもつと面白いのは、大抵それを実行しないで済ます事だ。
村井
吾兵衛が伊達家の入札で幾万円とかの骨董物を買込んだといふ噂を伝へ聞いた男が、
「幾ら名器だつて何万円は高過ぎよう。それにそんな物を
唯一つ買つたところで、
他の持合せと調和が出来なからうぢやないか。」
といふと、吉兵衛は女と金の事しか考へた事のない頭を、勿体ぶつて一寸
掉つてみせた。そして一言一句が五十銭づつの値段でもするやうに、
出し
惜みをするらしく
緩りした調子で、
「なに高い事は無いさ、幾万円払つた骨董が
宅の土蔵にしまひ込んであるとなると、
外に
沢山あるがらくた道具までが、そのお蔭で
万更な物ぢや無からうといふので、自然
値が出て来ようといふものぢやないか。」
と言つて笑つたといふ
談話だ。
今の
富豪が高い金を惜しまないで骨董品を集めるなかには、かうして狡い考へをするのが少くない。唯骨董品ばかりでは無い。一人娘に華族の次男を
聟養子にするなぞもそれだが、多くの場合に骨董に贋物が多いやうに、聟養子にやくざ者が多いのはよくしたものだ。
京都でさる知名の男が、自分の書斎を新築して立派に出来上つたが、さてその書斎の出来栄に調和するだけの額や軸物の持合せが少しも無い。買ひ集めるとなると、大枚の金が要る事だし、
寧そ
贋物で辛抱したら、格安に出来上るだらうと、
懸額から、軸物、屏風、
床の置物まで
悉皆贋物で取揃へて、書斎の名まで
贋物堂と名づけて納まつてゐた。
面白いのは、そこの主人が軸物よりも屏風よりも、もつと
甚い
贋物である事だ。――京都の
画家が
贋物を
拵へる事が
巧いやうに、京都の女は
贋物を産む事が上手だ。
孰れにしても立派な腕前である。
坪内逍遙博士は名高い洋服嫌ひで、洋服と言つてはフロツクコートが一着しか無い。そのフロツクコートといふのが、博士が大学を卒業した当時
拵へたもので、その後長年
箪笥の底に
蔵ひ込んで置いたが、博士になつた当座文部省へ出頭する時には、
恭しくそれを着込んでゐた。
息子の
士行氏が洋行から帰つて来た時、博士はぽんたの娘で士行氏と
許嫁の養女国子さんと、
件のフロツクコートを取り揃へて士行氏に呉れようとした。博士の
心算では息子は二つ返事でそのフロツクコートを
被て、国子さんと結婚するものだと思つて居たのだ。それに何の無理があらう、
二者とも文字通りに
箱入には相違なかつたのだから。
士行氏は
二者とも気に入らなかつた。国子さんには
什に言つたか知らないが、フロツクコートを見た時には、急に
歯痛でも起きたやうに、泣き出しさうな顔をして頼んだ。
「
阿爺さん後生ですから元々通り箪笥に蔵ひ込んで置いて下さい。
万一私が
沙翁物でも
演る事があつたら、その折着させて戴きます。何しろ結構な仕立で、
何卒樟脳をどつさり入れてね……」
博士はイプセンの
流行つた当時守り本尊の
沙翁をしまひ込んだと同じ程度の
鄭重さで、そのフロツクコートをまた箪笥に蔵ひ込んでしまつた。箪笥といふものは、博士の
宅にあつても、
俥夫の
宅にあつても感心な程腹の太いもので、亭主の
秘密も、女房の
臍繰も、流行品も流行後れも同じやうに飲み込んで、ちつとも厭な顔を見せない。
近頃そのフロツクコートを、博士の箪笥から引張り出さうと
目論んでゐる者がある。それは無名会俳優の
東儀鉄笛氏で、「
何うするのだ」と訊くと、
「一度申訳だけに舞台で
被て、あとは縫ひ返して子供の外套に
仕立るんだ、型は古いが
地が
好いんだからね。」
と虫のいゝ事を言つてゐる。
キツチナー元帥が不意の横死を遂げたのは、同盟国の為に気の毒に堪へぬ。元帥はあの通りの武断主義者で、
加之に独身主義者であつたから、随分敵も多かつたが、例の皮肉屋バアナアド・シヨウが『
新聞切抜』といふ一幕物で、元帥をモデルに扱つたのなぞは最も
悪戯がひどい。
キツチナー将軍が首相のアスキスと婦人選挙権と兵役強制法の事を論じてゐると、
其処へ婦人の
訪問客が来て、将軍を
調弄ふ。将軍が
蟷螂のやうに
怫とした顔をして、
「八
度戦争に出て、
生命懸けの働きをした者は自制の道を
弁へてゐますぞ。」
といふと、女は
鸚鵡返しに、
「八
度産褥で生命懸けの目に逢つた女は、ちつとやそつとの
悪口は利きませんよ。」
と言つて、
「もしか女が死んで
失くなつたら、
貴方は
寝室へ往つて双児を産みますか。」
と
我鳴り散らすので、将軍は苦虫を噛み潰したやうな顔をする。
「そんな事は医者に訊きなさい、私は赤面するばかりだ。」
そこへ女子参政反対運動の婦人が二人訪れて来て、
「男の手で女子参政論者を二
哩以外に放逐する事が出来なければ、女の私達が武器を取つて立ちます。」
と一人の婦人が
短銃を取り出す。キツチナー将軍が武器を取上げるのは私の職務だといふと、今一人の婦人が十八世紀式の
短銃を掴み出して、
「これをもお
取り
上ですか。」
と将軍の頭に突きつける。将軍は落付き払つて、
「それは武器ではない、
好奇心です。私の頭に
配ふよりも博物館に持つて往つた方が
宜しい。」といふ。
二人の婦人は
短銃を
揮り廻して、
「婦人に選挙権などは要らない、その代り兵役に就かせて呉れ。男子を奴隷とするには、ビスマークの
所謂鉄と血とが必要だ。さういへばビスマークも
屹度男装してゐた婦人に相違ない。歴史上の英雄豪傑は
悉皆婦人で世間体を
胡麻化すために男装をしてゐたまでです。」
トヾ、将軍が以前の婦人へ結婚申込をすると、婦人は娘に相談の電話をかける。それを警察へと思ひ違へをした将軍が、
「巡査にお引渡しは恐れ入る。私は本気なんです。」と
逡巡する。「お
齢は?」と婦人が訊くと、将軍が「五十二です」と答へる。すると娘の方から、
「でも
who's who には六十一歳とありますわ。」
といふので将軍が赤面をする滑稽などもある。
そのキツチナーも六十五歳、独身の
儘死んでしまつた。「独身」は女に好かれるものだが、それが主義となると打つて変つて女に嫌はれる。女は
狗のやうなもので余り好かれても
五月蠅くて迷惑するが、嫌はれても一寸困る。彼等は吠えつく
術を知つてゐるから。
奥
繁三郎氏の
母親は九十近くの
老齢で、今だに達者でゐるが、孝行者の奥氏は東京へでも旅をする時には、一番に
母親へ挨拶に
往く事を忘れない。すると
母親は、
定つたやうにいふ。
「東京へお
往きやす言うて、
誰ぞお
伴でもおすのかいな。」
「いゝえ、私一人です。」
「あんた一人で東京までようお
往きやすか。」と
母親はもう涙を一杯眼に浮べて「
繁も
可憫さうに、お
伴が
些とも
出来よらんのかいなあ。」とそつと溜息をする。
奥氏はどんな旅行をするにも、
母親の前では
屹度、
「一週間旅へ往つて来ます」
といふ。するとその
翌日から
母親はもう、
「繁はまだ帰つて来やはらんかいな。」と訊くので、
「まだ
昨日お
発ちやしたのやおへんか。」といふと、
「さうかいな、もう一週間も経つたやうに思へるさかい。」
と、
其辺を捜しでもするやうにうろ/\する。
親といふものは有難いもので、神様が人間を罪人扱ひにするのに比べて、親はいつ迄もその子を子供扱ひにする。親が神様になつては
可けないやうに、神様も親になつては可けないが、親には神様が真似の出来ない長所がある。それは子供の為には「馬鹿」になるといふ事で、神様より人間の偉い
点は
確にこゝにある。丁度「愚痴」を持つてゐる女が、それを持合はさない男より強いやうなものだ。
亡くなつた足立
通衛氏の告別式が大阪青年会館で行はれた時、
弔演説をした宮川
経輝氏は、
霊魂の一手販売人のやうな
口風で、
名代の雄弁を
揮つて、警察が干渉でもしなければ一日でも
喋舌り続けようとする
意気込を見せた。
宮川氏の説によると、足立氏は高知生れだけに武士魂を持合せてゐたが、同志社で基督魂を、
紐育で亜米利加魂を一つ
宛買ひ込んだので、紳士として
申分のない男になつたのださうだ。
宮川氏の説によると、かうした結構な魂を三つ迄持合せた紳士は、いつ亡くなつても構はないのださうだが、さも無い男は死ぬ前に、こんな魂を仕込まなければならないので、牛乳でも飲んで健康に注意しなければならない事になる。
雄弁もいゝが、時によると飛んだ
失策をする事がある。――チエホフの短篇に『雄弁家』といふのがある。お
喋舌の好きな男で、どんな腹の
空いた時でも追悼演説を頼まれると、直ぐ出掛けて往つて、宮川氏のやうに悲しさうな
詞を料理場の油虫よりも沢山並べ立てて呉れる。
ある時八等書記が
死くなつたので、
俥代をはずむで貰つて、告別式の演説に出掛けて往つた。
例の通り立板に水の弁舌で故人を褒め立ててゐると聴衆は変な顔をし出した。
それは無理もない、亡くなつた男は一生涯細君と
戦争を続けて来たのに、弁士は
独身者のやうに言つてゐる。また亡者は濃い
赤鬚を一生剃らなかつたのに、弁士はいつも顔を綺麗に剃つてゐたやうに言つてゐる。そのうち弁士も気が
注いてみると、向ふの
墓石の
側に、死んだ筈の書記が立つてゐるではないか。
「あ、亡者が生きてゐる。」
と叫んで、そつと司会者に訊くと、弁士が弔演説をしてゐる男は、今は課長に昇進して、亡くなつた男がその
後釜に
据つてゐたのを雄弁家がつい早飲込みにその男だと
穿違へて
了つたのだ。
帰り
途に
件の課長は何故俺を死人扱ひにして
加之に顔の棚卸しまでしたと言つて、雄弁家に喧嘩を吹き掛けたさうだ。
宮川氏が弔演説をした足立氏は、実際死んでゐたのだから
差支なかつたが、生きて居たらそんなに結構な魂なら三つとも買ひ取つて呉れと、宮川氏に
押談判をしたかも知れない。
馬来半島にヅリヤンといふ果物のある事は、一度でも船で
那処を通つた事のある人は皆知つてゐる筈だ。素敵に
美味い上に、素敵に
臭味をもつてゐる果物で、一度でもあの臭味を
嗅いだが最期、一生懸つたつて、それが忘れられる物ではない。
だが、
喰べ馴れて来ると、そんな臭味でさへ
堪らなく懐しくなつて来るさうで、ヅリヤンが市場に出盛る頃には、
女郎屋町でさへが不景気になるといふ事だ。
美味い果物を
鱈腹食つて
女買をしたところで、それを
喧しくいふ印度の神様でもないが、ヅリヤンが余り美味いのでつい財布の底を叩くやうな始末になるのだ。
独逸軍の
毒瓦斯に対して、ヅリヤンを砲弾代りに使つたらと
聯合軍に勧めた者がある。
命中つたが最期殻の
刺毛で
人間の五六人は殺せるし、
命中らなかつた所で、
巧く
爆けさへすれば激しい臭味でもつて一大隊位の兵士を窒息させるのは朝飯前だといふのだ。
土人達の習慣によると、ヅリヤンを盗んだ者は重く罰せられるが
熟れて
自然に落ちたのを拾つた者は、飛んだ
幸福者として羨まれるさうで、気の長い土人達は、ヅリヤンの
鈴生に
生つた木蔭で、朝つぱらから
煙管を
啣へて一日
凝と待ち通しに待つてゐるさうだ。巧く落ちたのを拾ふ事が出来れば、美味い果物にありつけるし、落ちて来なかつた
処で少しの損もない。そんな時には
定つたやうに昼寝をする事を知つてゐるから。
だが、待つてさへ居れば果物は大抵落ちて来るもので、支那では
袁世凱が落ちた。英国ではキツチナーが落ちた。袁世凱はヅリヤンの味を持たないで、その臭味だけを持つてゐた。キツチナーは味も臭味も無いが、
刺毛だけは鋭い。
犬養
木堂の硯の話は、あの人の外交談や政治談よりはずつと有益だ。その硯については面白い話がある。徳川の末期に
鶴笑道人といふ印刻家があつた。硯の
善いのを沢山持ち合せてゐたが、その一つに蓋に
大雅堂の筆で「天然研」と書いたのがあつた。阿波の殿様がそれを見て、自分の秘蔵の
研七枚までも出すから、取り替ては呉れまいかとの
談話があつたが、鶴笑はなか/\
諾とは言はなかつた。
呉れぬ物が
猶ほ欲しくなるのは、殿様や子供の持つて生れた性分で、阿波の殿様は、望みとあらば何でも呉れてやらうから、
達て「天然研」を譲つて貰ひたいと
執念く持ちかけて来た。鶴笑は一寸顔を
顰めた。
「ぢや仕方が無い、阿波の国半分だけ戴く事にしませう。」
と切り出した。鶴笑の積りではそれでも大分見切つた上の
申出らしかつた。何故といつて阿波の国は半分
割いた処で、別段
差支もなかつたが、硯だけは半分に割つては
何うする事も出来なかつた。あの内閣や政党を
毀す事の大好きな木堂ですら「
鋒」とやらを見るためには、硝酸銀で硯を焼かなければならぬ、そんな勿体ない事が出来るものぢやないといつてゐる位だから。
だが勘定高い殿様はそれを聞くと、
「仕方がない、この硯と鳴門の瀬戸は
俺の力にも及ばぬものと見えるて。」
と、溜息を
吐いてあきらめた。殿様がこの場合鳴門の瀬戸を思ひ出したのは賢い方法で、
人間の力で自由にならないものは
沢山あるのだから、その中からどんな物を引合ひに出さうと自分の勝手である。かうして
絶念がつけばそんな廉価な事は無い筈だ。
或人が
海北友松の画を
田能村竹田に見せた事がある。
「中井履軒さんの
鑑定書がついてゐるさかい、
正真物に相違おまへんて。」
といふ自慢なのだ。竹田がその
鑑定書を見ると、
「海北の画
驚目候、相違はあるまじく
存候。さりながら素人の目と医者と土蔵とは真実あてにならぬ物と
聞及び
候。」
と書いてあつたさうだ。
富岡鉄斎の画を持合せてゐる男が鉄斎の画には随分
贋造が多いと聞いて、
鑑定書を添へて置いたら、売物に出す時に便利だらうと思つて、
子息の謙蔵さんの
許にそれを持ち込んだ事があつた。
謙蔵さんは鼻眼鏡を掛けてゐる。大学の構内に転がつてゐる物は、
蜥蜴の
交尾んだのでも鄭重に眼鏡を通して見るが、大学以外の物はみんな眼鏡越しに見る事に
定めてゐる。その折も眼鏡越しにじろりと画を見てゐたが、ちよつと舌打をしたと思ふと、
「真赤の
贋物でさ。」
と吐き出すやうに言つた。
画の持主は
吃驚した。
「でも君、いつだつたか君の居る前で鉄斎翁に
画いて頂いたんぢや無いか。それをそんな……」
「それをそんな……」とは言つたが
絶念のいゝ人だつたからその
儘持つて帰つて、押入に突込んでしまつた。
画を逆さまに掛けて置いてそれが逆さまだと判るやうだつたら、
既う一
廉の鑑定家といつて
可い。その上の心得は余り画を愛しないといふ事だ。
北米の文豪マアク・トエインが、何時だつたか、
墺太利皇帝フランツ・ヨセフに
謁見した事があつた。その折或る新聞記者がトエインを訪ねて謁見の模様を訊くと、皮肉屋のトエインはにや/\笑つて、
「さればさ、お目に懸つたら
恁様に申上げようと思つて、十八語ばかりで立派な御挨拶を
拵へて御殿に
上つてみると皇帝は非常に鄭重なお言葉で色々御物語があるぢやないか、お蔭で十八語の用意はすつかり役に立たなくなつて、つい
例のお
喋舌をして
退けた。なにその十八語は
何う言ふのだつて? そんな事を今迄
記憶えて居て溜るものかい。」
と言つたさうだ。
タゴールも日本へ渡る迄には、日本人に会つたらこんな事も言はうと、腹のなかで十八語ばかりの立派な挨拶を持合はせてゐるらしかつた。日本の土を踏んで、数々の日本人に会つてゐるうちについその取つて置きの挨拶は何処かへ落して
了つたらしい。そして日本人の会合へ出ると、何時でも、
「富士の山のやうにあれ。」
と云ふ事に
定めてゐるらしい。
富士の山は御覧の通り結構な山だ。結構な山には相違ないが、
「富士の山のやうにあれ。」
と言ふのは「
阿父のやうにあれ」とか「
阿母のやうにあれ」とか言ふのとは違つて、少しぼんやりし過ぎてゐる。そのぼんやりし過ぎた事を言つたのはタゴールの賢い
所以で、彼は日本の
阿父や
阿母が余り理想的で無い事をよく知つてゐるのだ。
山県伊三郎氏が
先日朝鮮へ帰りがけに、関門の山陽ホテルに泊つた。その折訪ねて往つた男が何気なく、
「噂を聞きますと、この頃椿山荘をお売りになつたさうですね。お幾らでした。」
と訊いてみた。
すると、伊三郎氏は丁度口に頬張つてゐたチヨコレートをぐつと鵜飲みにして、
「そんなに
他の
懐中勘定を訊くのは、初めて結婚した男に、
『おい、
何うだつたい、花嫁さんの……』
と訊くやうなものぢやないか。誰が真面目に返辞するものか。」
と言つて、薬を飲まされる
家鴨のやうに、しつかり口を
噤んだが、物の三十分も経つたと思ふ頃、急に
爆けるやうに笑ひ出した。そして両手で腹を抱へて
可笑しさに溜らぬやうに肩を
揺ぶつてゐたが、
終ひには
眼頭に涙を一杯溜めて椅子の上を転げ廻つた。その恰好を一目でも
舅の山県公に見せたら、顔を
顰めて、椿山荘と一緒に養子の株をも売りに出したかも知れなかつた程だ。
お客は
吃驚した。
「何をそんなにお笑ひになりますか、
閣下……」
平素は「山県さん」とか、「
伊三はん」とか言ふ事に
定めてゐるが、「
閣下」と言つて相手が健康体に恢復するものなら、これに越した事は無からうと思つたのだ。このお客は一度間違つて、懸りつけの医者に「
閣下」と一
言いつた
丈で、そのお医者から薬代を
無代にして貰つた事があるので、それ以来まさかの時には、
例も「
閣下」を使ふ事に決めてゐる。
伊三はん
閣下は、
横つ
腹を押へた
儘、苦しさうな声で、
「何つて君、今の洒落さ。洒落が解らなかつたのかい。」
と言つて、また一
頻り可笑しさうに笑ひ崩れた。
お客は安心した。伊三はんは自分で自分が言つた洒落に感心して笑つてゐるのだ。
「
手数の懸らない人だな、養子には打つてつけさ。」
と
独語を言うて帰つて来た。そのお客は新聞記者だつたから、山県氏は
待設けたやうに
翌日の新聞をしこたま買込んで連絡船に乗込んだといふ。
先日硯と阿波侯についての話しを書いたが、姫路藩にも硯について逸話が一つある。藩の家老職に
河合寸翁といふ男があつて、頼山陽と硯とが大好きなので聞えてゐた。
頼山陽を硯に比べたら、あの通りの
慷慨家だけに、ぷり/\
憤り出すかも知れないが、実際の事を言ふと、河合寸翁は山陽よりもまだ硯の方が好きだつたらしい。珍しい硯を百面以上も集めて、百
硯箪笥といつて凝つた箪笥に
蔵ひ込んで女房や鼠などは滅多に
其処へ寄せ付けなかつた。
同じ藩に松平
太夫といふ幕府の御附家老があつて、これはまた「古松研」といふ紫石端渓の素晴しい名硯を持合せてゐた。何でもこの硯一つで河合家の百硯に対抗するといふ
代物で、山陽の
賞めちぎつた
箱書さへ
添はつてゐるので、硯好きの河合はいゝ
機会があつたら、何でも自分の方に
捲き上げたいものだと、始終神様に
願掛をしてゐたといふ事だ。
ある日河合と松平とは
例のやうに碁を打つてゐた。河合は
態と一二番負けて置いて、それからそろ/\、
「
何うも今日は
厭に
負が込む。こんな日には
賭碁でもしたら気が引立つかも知れない。
何うだい、貴公には古松研、拙者には
沈南蘋の名画があるが、あれを一つ賭けてみようぢやないか。」
と切り出してみた。
松平は二つ返事で承知をした。
「お気の毒だが、沈南蘋は拙者が頂くかな。」
などと
戯談を言ひ言ひ、また打ち始めたが、かね/″\お
賽銭を貰つてゐる氏神様のお力で、河合は手もなく松平を負かして、名高い「古松研」は到頭河合の手に渡つて了つた。
維新後河合家の名硯は、それ/″\百硯箪笥から飛び出して知らぬ人に買ひ取られて往つた。当地の八田氏の売立会に出てゐた「金星銀糸硯」なども、その一つだが、例の「古松研」は今は神戸の某実業家の手に入つて、細君以上に
可愛がられてゐるといふことだ。
新橋の
老妓桃太郎がその
往時、
雛妓として初めて座敷へ突き出された時、所謂
姐さんなる者から、仮にも
妓の忘るまじき三箇条の心得を説き聞かされた。
三箇条といふのは、第一、お客の
悪てんがうに腹を立てぬ事。第二、
晴衣の汚れを気にしない事。第三、七
里けつぱいお客に惚れない事、万一惚れねばならぬ時は、成るべくよぼ/\の
老人を見立てる事。
桃太郎はこの三箇条の心得を、ちやんと頭に畳み込んでお座敷に出た。桃太郎はその頃まだ男よりもチヨコレエトの方が好きな年頃だつたので、お座敷で客に惚れる程の冒険はしなかつた。よしんば
什冒険好きな女でも、チヨコレエトの代りに男に惚れるやうな
心得違はしない筈だ。女といふものは、十人が十人、先づチヨコレエトを
喰べて、それから
徐々男に惚れるものなのだ。
だが、桃太郎はあとの二箇条には、お座敷へ出る早々、ぶつ
突かつた。その時のお客は、若い医者で、どんな医者にも共通な
自惚だけはたつぷり持合せてゐた。で、耳を噛んだり、鼻先を押へたり、色々な
戯けた
振をして桃太郎に
調弄つた。
桃太郎はてんで頓着しなかつた。それが
癪に触ると言つて、お客は桃太郎の頭から
熱爛の酒をぶつ掛けた。酒は肩から膝一面に流れた。
紅い
長襦袢の色は
透綾の表にまで
滲み
透つて来たが、桃太郎は眉毛一つ動かさうとしなかつた。
姐さんはそれを聞いて、大喜びに喜んで、代りの晴着を
拵へて呉れた。お客は
酔から
醒めて、真青な顔をして謝りに来た。
匙加減や見立違ひで人を殺しておいて
詫言一つ言つた事のない医者にとつて、謝りに来るのは、魂を
嘔吐すよりも苦しかつたに相違ない。
巴里の辻々にある円太郎馬車が
廃められて、自動車が代るやうになつた時、その会社員を始め、乗りつけのお客さん達が、サン・シユルピイスのお寺で乗合馬車の葬式を
行つた事があつた。
旧教の坊さんが勿体ぶつて聖書を朗読すると、会葬者は声を合せて「アーメン」と唱へた。悧巧な耶蘇だつて、まさか乗合馬車のお
葬ひまでしようとは思はなかつたらうから、それに相応した文句は残さなかつたらうが、巴里の坊さんは別に引導には困らなかつたらしい。何故といつて、聖書で見ると、どんな
人間だつて乗合馬車位の「罪」は、
各自にみんな
背負つてるのだから。
式が済むと、円太郎馬車は送られて
火葬場へ往つた。二里余りの道中を
絹帽を
被つた会葬者はぞろぞろと続いた。
路傍の見物人は、
恰で名士の葬式にでも出会つたやうに、克明に帽子を脱いでお辞儀をしたといふ事だ。
日本では
往時から
文塚、筆塚、針塚といつたやうなものもあるが、東京新聞の漫画家が寄集まつて、島田三郎氏の漫画葬式をやつたのは面白い企てであつた。大阪のやうな土地柄では名妓の
落籍される場合などには、以前の関係筋が寄つて
集つて葬式をするのも面白からう。坊さんには矯風会の林歌子女史など打つて附けの尼さんだらう。あの人はお説教を聞かないでも顔だけ見れば悲しくなりさうだから。
画家といふものは、言ひ合はしたやうに、
画を覚える前に、
屹度酒の味を覚えるものだ。なかには生涯画の道が解らないで済ます癖に、酒だけは一人前になり切つてゐるのがある。
そのなかに洋画家の斎藤与里氏だけは不思議に酒の味を知らない。
先日氏の
許へ或人から一瓶の
進物を贈つて来た。丁度与里氏はその折頭の事を考へてゐたので(画家だつて、頭の事を考へてはならないといふ法は無い。彼等も世間並に頭を一つ持つてゐるのだから)、てつきりこれは
頭髪に塗る香油だと思つてしまつた。
成程
頭髪に塗つてみるとすつとして気持が
好い。だが
香気だけは余り感心しなかつたので、よく調べてみると、上等のウイスキイだつたさうだ。
ある名高い日本画家が
巴里に居た折の事、何処へ
往く折にも、人目に立たないやうに屹度一
壜提げてゐる。何の壜だと訊いてみても、にや/\笑ふばかりで一向それと打明けない。或時
珈琲店で落合つた
悪戯な友達の一人が、打明けなければかうすると言つて、首を
縊めにかゝると、
件の日本画家は川向ふの天主教の尼さんに
聴えないやうに
低声で
加之に京都
訛で、
「ぢや言ひまひよ。これ淫薬どつせ。」
と白状した。
友達は眼の色を変へて、その瓶を
引つ
手繰つた。そして一字づつ克明に壜の文字を読んでゐたが暫くすると、
「成程さうだ、まあ大事に
蔵つておいて、ちびり/\飲むんだな。」
と言つて、笑ひ笑ひ壜を返した。壜は安物のシヤンペン酒だつた。
京都大学の構内は博士も通れば土方も通る。博士は右のポケツトには
葉巻を、左のポケツトには「真理」を入れてゐる。だが、いつの時代でも大学は
葉巻の製造所で無いと同じやうに、「真理」の工場でも無いから、ポケツトの
葉巻も、「真理」も博士達の手製でない事だけは争へない。土方はそんな物の代りに弁当を
提げてゐる。弁当は言ふ迄もなく手製である。
その博士や土方に
交つて毎朝大学の構内を通る
十歳許りの子供がある。子供に
似気なくいつも歩きながらも
書物を読んでゐるので、よくそれを
見掛る男が、
「ちやんとした
身装をしてゐて、
可憫さうに貧乏人の二宮金次郎の真似でもあるまい。」
と心配した事があつた。
その子供が
先日学校で貰つた賞品を抱へて、
例のやうに大学の構内を通りかゝつた。すると、
擦違つた大学生の一人が、
「やあ褒美を貰つたな。一寸僕にも見せろ。」
とそれを
覗きにかゝつた。その大学生は幼稚園この
方まだ褒美といふものを貰つた事が無かつたので、
甚くそれが珍しかつたのだ。
子供は一寸小脇にそれを隠した。
「
無代ぢや見せないや、こゝに書いてある僕の名を読んだら見せる。」
「生意気な小僧だな、どれ/\。」
と言つて大学生は名前を見た。名前には「尋常科二年生
内藤戊申」と書いてあつた。
「内藤ボシンぢやないか、さあ/\褒美を見せろ。」
「ボシンぢや無いや。」
「ぢやイヌサルか。」
「馬鹿やなあ、シゲノブと読むんや。」と子供は一散に走り出した。「えゝ
齢してよう読みをらん、あほんだらめ。」
大学生は
悔しがつて、
何家の子供か知らと
訊ねてみると、文科大学の内藤湖南博士が
秘蔵つ
児だつたさうだ。
「道理で、寒山
拾得のやうな顔をしてたつけ。それにしても変てこな名をつけたものだなあ」
と、無学な大学生はその後も
頻とそれを気にしてゐる。
そのむかし池大雅が
真葛原の
住居には、別に玄関といつて
室も無かつたので、
軒先に
暖簾を
吊して、例の大雅一流の達者な字で「玄関」と書いてあつたさうだ。上田秋成が南禅寺常林庵の
小家にも、
入り
口に暖簾をかけて「
鶉屋」とたつた二字が
認めてあつたといふ事だ。
拗ね
者の金龍通人は自分の戸口に洒落た一
聯を
懸ておいた。聯の文句はかういふのだ。
「貧乏なり、乞食物貰ひ
入る
可からず」
「
文盲なり、詩人
墨客来る可からず」
乞食物貰ひも
五月蠅くない事もないが、それでも詩人墨客よりはまだ
愈な場合が多かつた。何故といつて、乞食は物を呉れて
遣れば、素直に帰つて
往くが詩人墨客は自分が納得出来るまで「知つたかぶり」を押売しないでは滅多に帰らなかつたから。
小説家の正宗白鳥氏は
他の
家へ
出入をするのに、がらりと
入口の
扉を
開けはするが、その手で滅多に閉めた事は無い。
尤もこれには主義のある事で、自分が
出入するのに
扉は是非開けなければならぬが、それを閉めて置かなければならぬ何等の理由も発見出来ないからださうだ。かういふ来客に取つては、大雅や秋成のやうな暖簾の玄関は
手数が要らないで
可い。
玄関に
狗を
繋いでゐる
家、九官鳥を飼つてゐる
家、
汚くるしい書生を飼つてゐる
家、猫がぞろ/\這ひ出して来る
家――そんな
家へは
添書をつけて悪魔でも送つてやり度くなる。
東京の絵画商人の
某が、京都で展覧会を開くために、今尾景年氏の
許へ、
半切の
揮毫を頼みに出掛けた。
高が半切だと聞いて、画家は会はうともしない。
「先生はお忙しうおすさかい、なか/\お
出来になりまへんぜ。」
と玄関番は
閾に突立つた
儘、
欠伸をしい/\言つた。玄関番といふものは、主人が奥で欠伸をする時分には、自分も
極つてそれをするものだ。
商人は四条派の
画家によく金を欲しがる持病があるのを知つてゐるから、
「それでは伺つた印に潤筆料だけ承はつて参りませう。」
と言つた。玄関番は
商人の前に片手を拡げてみせた。
「半切一枚五十円どつせ。」
商人は
懐中から財布を取り出した。
「それではこゝに五十円差上げて置きますから、お気に向いた時に一枚御揮毫を願つておきます。」
玄関番はそれを見ると、急ににこにこし出した。
「そんなら
最一度頼んで来まつさ。なに
理由を話したら先生の事やさかい、半切の一枚や二枚ちよつくらちよつと書いて呉りやはりますやろ。」
さういつて奥へ隠れたと思ふと、玄関番はまた表へ飛び出して来た。
「唯今先生がお会ひになりますさかい、まあ
何卒お上り……」
今度は
商人が承知しなかつた。
「折角ですが、私は絵をお頼みに上りましたんで、先生にお目に懸りに来たのではありませんから。」
と言つて、その
儘すた/\と帰つてしまつた。
流石に
商人は目が
敏捷かつた。絵は売る為めに註文したので、
画家に会つた為に売値を崩すやうな事があつても詰らなかつた。実際
画家のなかには、その人に会つたが為めに、折角
描いて貰つた
錦鶏鳥の
画までが厭になるやうな人も少くなかつた。
「先生はお忙しうおすさかい……」
先生がお忙しいのは、先生自身に取つても、お客に取つても
勿怪の
幸福であつた。
孰方も損をしないで済む事なのだから。
清教徒の英雄オリヴア・クロムヱルの
髑髏はオツクスフオード大学の図書館に珍蔵せられて、世界に名高いものだが、その後メエラント附近の牧師ヰルキンソンが発見したものが一つ、今
倫敦の考古学博物館に納まつてゐる。つまり頭をたつた一つしか
有たなかつた英雄に、
髑髏が二つ出た事になるのだ。
政治家や実業家の仲間には、「良心」を幾つも持つて、それを自慢にしてゐるのがある。その事を思ふと、クロムヱルの
髑髏が二つ出たところで格別
差支はない。
或はもつと捜したら、もつと出るかも知れない。
山科の
上醍醐寺の宝蔵に「
平中将将門」の
髑髏がある。桐の二重箱に入れて、大切に
蔵つてある。将門が醍醐の開基理源大師の
法力で
縛められ、
梟し
首に遭つたのを残念がつて、首が空を飛んで来たのを拾つたのだといふが、事に依つたら、大師が
申請けたのかも知れない。
ある夏醍醐に遊んでゐると、その頃の京都府知事大森
鍾一氏が山へ
上つて来た。山の坊さん連は知事に何を見せたものだらうかと色々詮議の末が、
「宋版の一
切経や
山楽の屏風を見せたところで、解りさうにもなし、やつぱり将門の
髑髏を見せるに限る。あれならばまさか貰つて帰るとも言ふまいから。」
と言ふので、宝蔵から例の
髑髏を出して見せた。
大森氏はためつすがめつ
髑髏を見てゐた。
恰ど
梅雨時分の事で、
髑髏からは官吏や会社の重役の
古手から出るやうな
黴臭い
香気がぷんとした。
「成程よくは判らないが、
矢張将門の
骨らしいな。こゝに
叛骨が出てる工合から見ると……」
暫く経つてから、知事は
擽つたさうな顔をして言つた。
「へえ……叛骨と申しますと……」
坊さんが安つぽさうな頭を突き出した。
「ここさ。こゝの骨さ、叛骨といふのは……」大森氏は扇の端で一寸
髑髏の
後部を
突ついた。「むかし
蜀の
曹操が
関羽の頭を見て、
此奴は叛骨が飛び出しているから
叛反をすると言つた……」
「へえ、その
方も
矢張り
叛反をおしやした。争はれんもんどすなあ。」
と坊さんは感心したやうに
頸窩へ手をやつた。
見ると、大森氏の頭にも、安つぽい坊さんの頭にも、それらしい骨が一寸飛び出してゐた。なに、飛び出してゐたつて心配するが物はない。
叛反にも色々ある。男爵になりたいのも、金持の檀家が欲しいのも、実際
叛反には相違ないのだから。
先日神戸高商の小川忠蔵、小久保
定之助の両氏が、英語専攻の学生に
饗ばれた返礼を、安上りだといつてカフエエ・オリエントでする事になつた。
饗ばれる学生は
多勢だし、饗ぶのは
唯二人だしするから、
珈琲屋位で済ます事に
定めたのは、流石に頭脳明晰であるが、さて肝腎の生徒にそれを伝へる段になると、急に頭が変になつて、
「おい、間違つちや
可かんぞ、会場はカフエエ・パウリスタだから。いゝかえ。」
と駄目まで押してしまつた。
その日は小久保氏に誘はれて、小川氏は雨の降る
間をカフエエ・オリエントに着いた。そして二人は
円卓を差向ひに煙草を
喫しながら、細君や丸善や
蚤の話をしてゐた。「細君」と「丸善」とは学校教員が住むでる世界の二大人格だが、蚤は
昨夜二人ともそれに
螫されて、とうと寝付かれなかつたからだ。
談話の種は切れたが、お客は唯の一人入つて来ない。
「
何うしたのだらう、厭に落付いてる。」
と
呟いた瞬間、小川氏の頭に「パウリスタ」の名がぼんやり浮び出して来た。
パウリスタへ集まつた学生達はいつ迄待つても主人役の二人が見えないので、
業を煮やしてぶつぶつ
呟いてゐる処へ、幽霊のやうに小川氏が入つて来た。
「君達は何だつて、こんな処へ
集つてるんだ、蠅のやうに。御馳走が
彼方で
待惚けてるぢやないか。」
「
彼方て何処です。」
「判つてるぢやないか。パウリスタだよ。」
神戸高商にはこんな人達が多いと見えて、或教授は歯医者へ行く途中、
咽喉が乾いて仕方がないので(学校教員だとて咽喉の
涸かぬといふ法はない)
珈琲店へ飛び込んで、
立続けに紅茶を二杯飲んだ。
そして代価を払つて立上ると、
「さあ、もう用事は済んだぞ。」
とその
儘今下りた
許しの電車の停留場へ来ると、忘れられた奥歯が急にづき/\痛み出したので、
「さうだ、俺は歯医者へ
往く筈だつたんだ。」
と慌てて歯医者へ駆けつけたさうだ。
珈琲店や歯医者を忘れる分には
差支ないが、細君と丸善とだけは何時迄も覚えてゐて貰ひたい。彼等は学校教師にとつての二大人格だから。そして
尋でに蚤もまた。蚤を忘れると、夜分寝付かれないから。
英詩人野口米次郎氏の頭の
天辺は
夙くから
馬鈴薯のやうな
生地を出しかけてゐた。氏は無気味さうに一寸それに触つてみて、
「これは帽子を
被りつけてゐるからさ。つまり一種の文明病だな。」
と言ひ/\してゐた。
サミユエル・ジヨンソンは自分の英辞書で「
大麦」という
語の下に、
「
英蘭では馬の餌。
蘇格蘭では人間の
食物。」
といふ皮肉な解釈を下したが、例の高木兼寛博士の説によると、日本人は英蘭の馬ではないが、麦飯さへ食つて
居れば、哲学を考へたり、女房と
啀み合つたりするのに少しの不足も無いさうだ。
高木氏は病家を診察して、病人が
鯛の刺身や吸物でも食べてゐるのを見ると、
「こんな物を食つちや
可かん。麦飯だけで十分さ。」
と言つて、
何うかすると自分でその御馳走をぺろりと食べてしまふ。そして、
「
俺は構はん、
俺は医者だからな。」
と済ましてゐる。
その麦飯主義もまだ十分で無いと見えて、高木氏はその後「
裸頭跣足」主義を標榜してゐるが、近頃また関西地方へお説教
旁出掛けて来るといつてゐる。「裸頭跣足」は言ふ迄もなく、帽子も
被らず、
履も
穿かない主義で、一口にいふと、日本人を
生蕃人にしようとするのだ。生蕃人を日本人にしようとするよりも、この方が
寧そ近道かも知れない。
何分氏の事だ。講演会の席上で上等のパナマ帽でも見つかると、例の調子で、
「そんな物を
被つちや
可かん。おや履まで穿いてるぢやないか。」
いきなり
引つ
手操つて自分の頭と足とに、それを
穿めるかも知れない。「
俺は構はん、
俺は医者だからな。」と言つて。
金森
通倫氏が政府の御用弁士で貯金の勧めをしてゐた頃ある処で、
「散髪なんか一々
理髪床でするには及ばない。めいめい
剪刀で
剪み切る事にしたら、散髪代だけ儲かる。」
と言つた。すると、正直な
聴客の一
人が、
「
貴方の頭はやはり御自分でお刈りになりますか。」
と訊いた。金森氏は酢を嘗めたやうな口元をして、
「私は自分では刈らない。私は貯金の
演説をするので、
貯金をするのは
貴方方ですから。」
と答へた。――口は調法なもの、出来る事なら、その口に帽子を
被せて、
尋でに上等な履まで穿かせてやりたい。
今の中村歌右衛門の父、
芝翫は随分常識外れの妙な癖で聞えた男だが、この俳優の数ある癖のなかで一番面白いのは、そら火事だといふと、どんな遠方でも構はない、
印半纏を引つかけて直ぐ飛び出した事で、火の
粉の散るなかをうろ/\駈けづり廻つて、
帰途には
茶飯の一杯も掻き込んで、いゝ気で納まつてゐた。
今一つ妙な癖は
指物が好きで、
閑さへあれば何かこつ/\指物師の真似事をしてゐたが、手際はから
下手な癖に講釈だけは
他一
倍やかましく、
鉋、
鋸などは名人の使つたのでないと手にしなかつた。なかでも一番文句が多かつたのは指物に使ふ木で、あゝでもない、かうでもないと
贅を言つてゐたが、一度なぞは一日土蔵に入つてこつ/\やつてゐて、日の
暮れ
方に
漸と外へ這ひ出して来た。
「かう見ねえ、立派な煙草盆が出来上ったよ
[#「出来上ったよ」はママ]。」
見ると
歪形の煙草盆を大事さうに
掌面に載つけてゐる。もしやと思つて土蔵を覗いてみると、
女房が一番大事の
唐木箪笥をすつかり
引つ
剥してしまつてゐたさうだ。
幸田露伴氏もよく指物をした。洒落た机が
拵へたい、それには
伐つてから百五十年以上経つた材木で無いと、狂ひが出来るからといつて、方々捜し廻つてゐるうち、
下谷の古い
薬舗で、恰好の看板を見つけて、
漸とそれを手に入れた。
脚には何がよからう、名人の吹いた尺八が面白からう。さうだ、それに限るといつて、
閑にまかせて方々の道具屋を尋ね歩いた。
「お
店には名人の吹いた尺八がありますまいか。四本ばかりでいゝんだが……」
仕合と道具屋は名人を
拵へる事にかけては、その道の師匠よりもずつと
傑れた腕を持つてゐるので、幸田氏は十日も経たぬうちに名人の吹いた尺八を三本まで手に入れた。
だが机の脚は馬の脚と同じやうに四本無くてはならない。あとの一本を
発見るために幸田氏は二週間程無駄足を踏んだ。二週間といへば十四日である。男が女を忘れるには七日あれば十分だ。女が男を忘れるには九日で不足はない筈だ。二週間も経つ
間に幸田氏はすつかり机の事を忘れてしまつた。忘れてよかつた。すべて自分に都合の悪い事は忘れるに越した事はないのだから。
今度
皇后宮大夫になつた大森鍾一氏は官吏は威容を整へなければならぬといふので、
何時も葉巻を
啣へる事に決めてゐる。又ある
知辺の言ふのでは、あれは三十年
前仏蘭西へ往つた時に覚えて来た癖ださうだが、それでも一向差支ない、折角仏蘭西まで往つて何一つ覚えなかつたとすれば、せめて葉巻の味位覚えて居ても
好いのだから。それに監獄へ入つて道徳を覚えて来たと自慢さへする者のある世の中だ、かういふ事は
公然に言つて貰ひ度い位のものだ。
大森氏が京都府知事時代に管内の郡部を巡視中、時々持合せの葉巻が切れる事がある。さういふ折には属官が田舎町の煙草屋を片つ端から尋ね歩く。属官にしても田舎町に葉巻の無い位は
弁へてゐるが、
凡て、何かの「長」になつてゐる者は、部下が
尻切蜻蛉のやうにきり/\
舞をするのを見るのが
楽みなものだといふ事を知つてゐる。で
彼方此方を捜し廻るのが、とゞの
果は京都にある夫人の
許へ、電報で葉巻を催促をする。
大森氏は同じ主義から、どんな酷暑の候でも、官吏は簡単な服装をしてはならないといふので、洋服の
釦一つ外した事がない。この意味から詰襟などは
巻煙草や
刻煙草と一緒に大嫌ひである。
ある夏内務部長の塚本
清治氏が白リンネルの詰襟で来ると、大森氏の顔は妙に
歪み出した。
「坂本君、
今時詰襟で歩いてゐるものは、郵便配達夫と電車の車掌とそれから……」
一息にここまで
驀し立てると、
後が続かなくなつたのと、
葉巻の
煙が咽喉に入つたのとで、大森氏は一寸言葉を切つて、大きな
嚏をした。そして苦しさうに涙を目に一杯溜めて、
「巡査と軍人だよ。」
と
喚くやうに言つた。
塚本氏はそれ以後滅多に詰襟を着なくなつたが、大森氏が今度宮内官になつて、詰襟を着るやうになつたのを見たら、どんなに言ふだらう。
ある時
書肆が徳富蘆花氏の原稿を貰ひに、
粕谷の田舎まで出掛けると、蘆花氏は
縁端に
衝立つて、大きな
欠伸をしい/\、
「この頃は誰にも面会しない事に
定めてるが、風呂の水を
掬むで呉れるなら会つても
可い。」
という挨拶なので、
書肆は不承々々に風呂の水を掬むだ。
書肆はへと/\になつて、
漸と
縁端に腰を
下すなり、原稿の
談話を切り出すと、蘆花氏は頭の
天辺から絞り出すやうな声で、
「原稿よか、もつと
好い物があげてある筈ぢやないか。」
といふので、
近眼の
書肆は慌てて膝頭から尻の
周囲を撫でまはしてみたが、そこには鉄道の無賃乗車券らしいものは無かつた。
旅行好きの
書肆の頭には、原稿より
好い物は、鉄道の無賃乗車券より
外には、何も無かつた。
「
何だんね、先生、何もおまへんやないか。」
大阪生れの
書肆は
怪体な眼つきをして、蘆花氏の顔を見た。
「労働の神聖さ。」
蘆花氏は写真版にあるトルストイのやうに、
眩しさうな眼つきをして言つた。そしてトルストイが使ひ馴れた草刈鎌でも捜すやうに、腰のあたりへ手をやつたが、そこには縄帯の代りに、メリンスの
兵児帯がちよこなんと結んであつた。
「労働の神聖さ」――
書肆は口のなかでそれを繰り返してみた。口のなかは
先刻の働きで
唾がから/\に乾いてゐたので、少し苦しかつた。
書肆は持合せの丸薬を二つ三つ取り出して噛んだ。すると気がすうとなつた。この時本物のトルストイが顔でも出したら、
書肆は食べ残りの丸薬をいきなり毛むくじやらの口へ押し込んだかも知れない。だが、蘆花氏にはそれも出来なかつた。
「あの人は
胡桃でも噛み割りさうな歯を持つてゐやはるさかい。」
書肆はかういつて
絶念めた。
北欧のある詩人は、外へ出掛ける時には、いつも両方のポケツトに草花の
種子を一杯詰め込んで、根の
下りさうな土地を見かけると所構はず何処へでもふり
撒いたさうだ。
京都の御所を通つた事のあるものは、御苑の植込に所嫌はず西洋
種の苜蓿が一面に
生へ繁つて、女子供が
皇宮警手の眼に見つからないやうに、そのなかに
蹲踞んで珍らしい四つ葉を捜してゐるのを見掛けるだらう。
この苜蓿は
丹羽圭介氏が明治の初年
欧羅巴へ往つた時、牧草としてはこんな
好い草はないといふ事を聞いて、その
種子をしこたま買ひ込んで帰つた事があつた。さて日本に着いてみると、牛どころかまだ人間の始末もついてゐない頃なので、欧羅巴で考へたのとは
大分見当が違つた。
さうかといつて、苜蓿を京都人に食べさせる訳にも
往かなかつたので(京都人は色が白くなるとさへ言つたら、どんな草でも喜んで食べる)丹羽氏は折角の
種子を、みんな
其辺へぶち撒けてしまつた。
それが次から次へと
蔓つて、今では御苑の植込は言ふに及ばず、京都一体にどこの
空地にも苜蓿の生へてない
土地は見られないやうになつてしまつた。
苜蓿によく似た葉で、
淡紅色の
可愛らしい花をもつ
花酢漿も京都にはよく見かける。この花の原産地は
阿弗利加の喜望峰だといふ事だが、あれなぞも何処かの男が禅坊主にでも食べさす積りで持つて来たものかも知れない。禅坊主は家畜の食べるものなら何でも口にする。唯一つ
貘の食べる「夢」を知らないばかりさ。「夢」は彼等にとつて余りに上品すぎる。
岡松参太郎博士の言葉によると、満洲に居る時は、頭がはつきりと澄んで細かい考へ事や計算やも
極楽に出来るが、台湾へ出掛けると、頭がぼんやりと
草臥れてしまつて、考へ事はとんちんかんに、計算は間違ひだらけになる。台湾に三日も過ごすと、満洲に三十日も居た程疲れが出るさうだ。
台湾のある製糖会社に大学出の支配人がゐる。年に一度同窓生の会合があると、いつも
遙々東京まで出掛けて来る。そして会が始まつて、皆の者が何か議論がましい事でも言ひ出すと、
怪訝な顔をしてそれに聴きとれてゐるやうだが、暫くすると椅子に
凭れた
儘ぐうぐう
鼾をかいて寝入つてしまふ。
一頻り
喋舌り疲れた
連中がどしんと一つ
卓子を叩いて、
「△△君、君のお考へは
何うだね。」
と訊くと慌てて椅子から飛び上つて、
「さうですね、僕の考へは……」
といつて、
極つたやうにポケツトから鉛筆を引張り出し、ちよつと
卓子の上に立ててみて、誰でも構はない、それが倒れかゝつた方の味方をする。
心安立の友達が、鉛筆もまんざら悪くはないが、いつもあれでは余り無定見ぢやないかといふと、支配人は砂糖臭い大きな
欠伸を一つした。
「でも僕には皆の喋舌つてゐる事が、てんで解らないんだもの。僕も今ぢやすつかり台湾向きだよ。」
この支配人のいふのでは、台湾では考へ事は
何うしても出来ない。唯二つの選択があるばかりだ。
譬へていつたら朝と晩、総督と
生蕃、砂糖と樟脳、成功と失敗といつたやうなもので、それを選ぶにしても鉛筆は人間の頭よりもずつと公平に判断するさうだ。
ある蜜蜂飼養家が何かの用事で印度へ渡つて見ると、野にも山にも花といふ花が咲きこぼれてゐるので、蜜蜂飼養家は躍り上つて喜んだ。
「印度つてこんなに花の多い
土地とは知らなかつた。こゝで蜂を飼つたら、しこたま蜜が
穫れるに相違ない。」
そして、急いで国へ帰るなり、蜜蜂をもつて又印度へ出掛けて往つた。
恰ど金持を見つけて
賭博打が
骰子を持つて又
珈琲屋へ出掛けて
往くやうに。
骰子ほど意地の悪い物は無い。蜜蜂は箱から取り出されて、美しい
香気を嗅ぐと
狂気のやうに花の中を転げ廻つたが、
何時まで待つても蜜を
拵へようとはしなかつた。それもその筈で、印度のやうに何時でも花のある土地では、蜜の
臍繰を拵へておく必要も無かつたのだ。蜜蜂飼養家は大事な蜂を失つた代りに、幾らか賢くなつて
郷土へ帰つて来た。人間といふものは賢くなるためには、
従来持つてゐた何物かを失はなければならない、とすると、
女房や馬に
遁げられるよりは、蜜蜂を
失くした方が、まだ
仕合だつた。
岩野泡鳴氏は文士や
画家が
片手間の生産
事業としては養蜂ほど
好いものは無いといつて、
一頻りせつせと蜜蜂の世話を焼いてゐた。そして蜂に
螫されない用意だといつて、細君が着古した
面をすぽりと頭から
被つてゐたが、蜂には螫されない代りに、とうと細君に螫されてしまつた。
蜜蜂を扱ふのに
面が要るやうだつたら、女を
扱らふにはそれを二枚重ねなければならぬ。臆病者に限つて剣は長いのを持つてる世の中だから。
今
中座で『マクベス』を
演つてゐる
東儀鉄笛氏に、誰かが、
「君も
義歯の数が殖えたやうだが、今のうちに恋でも
試つておいたら
何うだね。」
と言ふと、東儀氏はあの牛のやうな大きな眼をぐりぐりさせて、
「人間も
犢鼻褌一つで、子供の枕もとで蚊を焼いて歩くやうになつちや、もうから意気地もない。」
と
嘆してゐる。
旧文芸協会当時、東儀氏が例の明けつ放しの
気質から、ちよい/\松井須磨子に
心安立の
戯談でもいふと、
側で見てゐる島村抱月氏は気が気でなく、幾らか
誤解も手伝つて、
「東儀君、松井を
可愛がるのは
止して貰ひ度いもんだな。」
と倫理の教師のやうな悲しさうな顔をして、
「君が可愛がると子供が出来るが、僕が可愛がると頭が出来るんだからね……」
流石に島村君は学者だけに
巧い事をいふものだ。
「君が可愛がると子供が出来るが、僕が可愛がると頭が出来る。」
ほんとにさうだと東儀氏は感心をして、又と
戯談を言はなくなつた。
女に頭を
拵へるには、島村君のやうなセルの
袴を
穿いた
温和しい学者に可愛がつて貰ふのもよいが、一番良いのは恋人に棄てて貰ふ事だ。女は男に突き放されると、一度に十年も賢くなる。
ラフエエル前派の詩人ロゼツチが自分の詩集を、亡き妻の棺に納めて葬つたのを、
後になつて友達の勧めに
随ひ、妻の墓を掘かへして、詩集をとり返したのは名高い話だ。
新納武蔵守は薩摩武士の
生粋で例の
戯談好きな太閤様の歌にある、ちんちろりんのやうな長い鬚を生やした男だつたが、矢張り薩摩者に有りうちの、ちんちろりんのやうに雌を
可愛がるので聞えた男だつた。
ちんちろりんは随分な
嫉妬焼きで雌が
他の雄と
談話でもしてゐようものなら、いきなり相手を
後脚で蹴飛ばすさうだが、薩摩者もこの点ではちんちろりんに劣らぬ道徳家である。
新納武蔵に可愛がられてゐた若い
小間使があつた。ある日雨の
徒然に自分の居間で何だか
認めてゐると、丁度そこへ武蔵が入つて来た。(男といふものは猫のやうによく女の
内証事を
発見るものなのだ。)
はつと思つて、女が袖の下へそれを隠すと、武蔵はちんちろりんのやうな顔で袖の下を覗き込む。すると、女は意地になつて、よく小娘がするやうにその
反古を口の中に噛みしめて、ぐつと
嚥み
下してしまつた。
武蔵は女が隠し男に
遣る
文とでも
誤解へたものか、激しい嫉妬で顔は蟹のやうに
真紅になつた。そしていきなり女を手打にして腸のなかからその反古を引張り出した。
反古には優しい筆の
蹟で、
「人ならば浮名やたゝん小夜ふけて枕にかよふ軒の梅が香」
と
認めてあつた。武蔵も少しは歌を
咏んだ男だけに、ちんちろりんのやうな顔に涙を流して不憫がつた。
歌反古だつたから泣かれたやうなものの腸のなかから
鼈甲櫛の
勘定書でも出たらどんな顔をしたものか、一寸始末に困るだらう。
この頃発売禁止になつた『ボ
リイ夫人』の著者フロウベエルがある婦人と恋をした事があつた。婦人はある時
伊太利語を彫りつけた
葉巻入をこの小説家に贈つた所が、フロウベエルは小説の女主人公が自分の
情夫に贈物をする時に、その伊太利語をその
儘借用させた。
それを見た
恋女は、真剣な自分の恋を馬鹿にしてゐるといつて
くれ出した。
温和しいフロウベエルは色々に
弁解をしたが、
嫉妬焼きの女は
何うしても承知しないので、小説家もとうと本気になつて怒り出した。そして
薪ざつ
棒をふり上げて
擲り倒さうとした。(小説家だといつて薪ざつ棒を
揮りあげないものでもない。ニイチエは女を訪問する時には
鞭を忘れるなといつたが、鞭を忘れた時には薪ざつ棒でもふりあげねばなるまい。)
フロウベエルは薪ざつ棒をふりあげた。女は部屋の片隅に
顫へながら、まだ
家鴨のやうに我鳴り立ててゐる。この時小説家の頭に、
若しか擲り倒したら、女は直ぐ告訴するだらうなといふ考へが矢のやうに走つた。フロウベエルは薪ざつ棒を足もとに投げ出した儘、ふいと
室を飛び出したが、それきりもう帰つて来なかつた。
女が
口喧しいからといつて警察の手に引渡した男はない筈だ。それだのに男の手に薪ざつ棒を見ると、女は直ぐ法律の
腕に
縋らうとする。武器としての女の口は薪などと比べ物にはならない。薪は間違つて肉体を叩き潰すかも知れないが、女の舌は一度に
霊魂を窒息させてしまふ。
むかし雄略天皇は狩の
途すがら三
輪川に
洗濯をしてゐる田舎娘を御覧になつて、「
顔立のいゝ娘ぢや、大宮に召し抱へよう」とお約束になつた事があつた。その日の狩は獲物が多かつたと見えて、
夕方宮にお帰りになる頃には、すつかり田舎娘の事はお忘れになつてゐた。田舎娘は今日か明日かとお迎へを待つてゐるうちに、とうと八十年の月日を過して、
白髪頭の婆さんになつてしまつた。
むかし島原に美しい遊女がゐて、よく物忘れをするので聞えてゐた。何を忘れても覚えてゐなければならぬお客の顔さへ、その夜を過ぎるとけろりと忘れてゐるので、それが浮れ客の評判になつて、
「あんなに忘れつぽくはあるが、何処かに真実がありさうだから、貴方一人は忘られないといふ客もなくつちやならない。」
といふので、男が持前の
自惚から、みんな自分がその忘れられない男にならうと、せつせと通つて来るので、
甚く全盛を極めたさうだ。
この
頃近江の
矢橋で遊女梅川の墓が
発見られた。物好きな人の調べによると、梅川は忠兵衛に別れてから、幾十年といふ長い月日をこゝで暮し、八十三でころりと亡くなつたさうだ。
芝雀の
演る、福助の
演るあの梅川が八十三の皺くちや
婆になるまで生き
存らへてゐた事を考へるのは、恋をする者にとつて良い教訓である。何しろ長い間の事だ、梅川も
終ひには忠兵衛の名なぞは、すつかり、忘れてしまつて、
「忠兵衛つてあの
山雀の事で御座んすかい、もんどり上手の……」
と言つて、こくり/\
居睡でもしてゐたか判らない。さう言つたからとて、何も腹を立てるには及ばない。人生はそんなものなのだから。
竹のや主人、
饗庭篁村氏は
剽軽な面白い爺さんだが、夫人はなか/\の
確り
者なので、お尻の長い友達衆は、
平素は余り
寄付かない癖に、夫人が
不在だと聞くと、直ぐ駈けつける。篁村氏自身も夫人が旅立でもすると、
「おい、
女房が
不在になつたから遊びに来い。」
と
態々使を出して催促する。
ある夏の事、御多分に洩れぬ
幸堂得知氏が夫人の
不在を
覗つて無駄話に尻を腐らせてゐると、表を鰯売が通つた。幸堂氏は急に話を
止めた。
「おい、饗庭、あの鰯を呼んでくれ、今日は拙者が一つ御馳走をしてくれるから。」
鰯を買つた幸堂氏は
葱を買ひに主人を近所の八百屋に走らせた。茶気のある篁村氏は一銭がとこ葱を
提げて嬉しさうに帰つて来た。
平素女房にいたぶられてゐる亭主は女房の
不在に台所の隅で光つてゐる
菜切庖丁や、葱の尻尾に触つてみるのが愉快で溜らぬものだ。
「や、いゝ葱だね。
序でに気の毒だが、扇子の古いのを一本
発見出して呉れないか。」
「扇子? 扇子を
何うするんだい。」
篁村氏は片手に葱をぶら提げながら、神聖な夫人の居間を捜して破けた扇子を一本持ち出して来た。
幸堂氏は
料理人がするやうに、
手拭を
襷に
効々しく
袂を絞つて台所で
俎板を洗つてゐた。
「や、御苦労/\。ぢや君は
其処で見てゐ給へ。鰯はかうやつて
下すものなのさ。」
幸堂氏は無駄口を叩き/\
古扇子の骨の間に鰯の骨を
挿んで、さつと
扱くと魚は器用に三枚に
下された。
「な、なある程、
巧いもんだな。」
篁村氏は、帝劇で
松助の芸を賞めるやうに、禿頭をふり/\感心した。
小一時間も経つ頃、
漸と鰯の「ぬた」が出来上つて、食膳の皿に盛られると、
味利きだといつて、幸堂氏は一
箸口へ頬張つて、もぐもぐさせてゐたが、急に変な顔をして考へ出したと思ふと、はたと膝を叩いて笑ひ出した。
「
失敗つた。あんまり急いだもんだから、鰯の
鱗をふくのを、すつかり忘れちやつた。」
「さうかい……」と言つて、篁村氏も箸をつけたが、「なに、
美味く出来てるぢやないか。」とむしや/\食べ出した。ほんとに鰯の
鱗は
除つてなかつたが、不断
女房の
刺のある言葉を食べつけてゐる者にとつては、魚の
鱗などは何でもなかつた。
先日物忘れの事を書いたが、独逸の歴史家モムゼンは専門以外の事は何でも忘れつぽいので聞えた男で、ある時大学から帰つて自分の書斎に入ると、何を思ひ出したものか
卓子の
周囲を掃除し出した。見ると寝椅子の上に
古綿のやうなものがあるので、ぶつ/\言ひながらそれを引つ掴むで
反古籠のなかに
投り込んだ。
古綿は急に蛙のやうな声をして鳴き出した。古綿が蛙に化けるなぞは
羅馬の帝政時代にも無かつた事なので、流石にモムゼンも
吃驚した。で、
側へすり寄つてよく見ると、古綿のやうなのは、その頃生れたばかりの
孩児であつた。お蔭で学者は細君に
小つ
酷く叱り飛ばされてしまつた。無理はない、どんな学者の事業だつて、女の生む「
孩児」に比べると、ほんの
無益物に過ぎないのだから。
坪内逍遙博士が今の高田文相などと一緒に
高野に
上つた事があつた。見物も一通り済んで、いよいよ下山といふ事になると、博士はお寺の土間をうろうろして何だか捜し物でもしてゐるらしい。
「何か忘れ物でもあるんですか。」
高田氏は鷹揚に訊いたが、いつも
出掛には夫人にさう言はれつけてゐるので、言葉の調子に何処か女らしい
点があつた。
「
洋傘が見えないんです。
先刻ここへ置いたと思ふんだが……」
坪内博士は
薄暗い土間の隅つこを、鶏のやうに脚で掻き捜してゐる。
「
洋傘だつたら、君が
腋に
挟んでるぢやありませんか。」
高田氏は笑ひ笑ひ言つた。気がついて見ると、博士は大事の/\
繻子張の
洋傘は腋に挟んだまゝ、もう一本捜してゐるのだつた。
洋傘は二本あつても、一本を高田氏に呉れてやつたら事は済む。「真理」が二つあつたら、博士は首を
縊めなければならなかつたらう。
上田敏博士が亡くなつたのは、吾が文壇にとつて、京都大学にとつて、また償ふ事の出来ない損失といはなければならぬ。博士は
平素大学教授といふ名前を厭がつてゐたが、多くの大学教授のうちで、博士は京都大学の最も誇るべき人であつた。
たつた一人きりの愛嬢瑠璃子さんが、京都の
銅駝校を出ると、博士は東京芝の聖心女学院へ入学させるために夫人と一緒に瑠璃子さんを東京へ送り、自分は独身生活を営んで、冷い
弁当飯で過してゐたが、その寂しい生活が
大分健康に
障つたらしい。
オスカア・ワイルドは亜米利加の
婦人達は死んで天国へ昇るよりか、
巴里へ生れ代るのが
願望らしいと言つたが、上田博士は巴里と東京とが大好きで、瑠璃子さんを教育するにも、京都の学校へ入れるのは、
大分嫌だつたらしかつた。で、小学校を出ると直ぐ東京へ送つたが、それも普通の女学校よりか仏蘭西式の学校を選んだ。知恩院の境内で亡くならないで東京の町のなかで目を
瞑つたのは博士がせめてもの本望だつたかも知れない。
幸田露伴博士が京都大学の講師になつて来た時、家族を同伴しないのを何故だと
他に訊かれて、
「でも、子供に
京都語だけは覚えさせたくありませんからね。」
と言つた事があつた。それを
人伝に聞いた時、上田博士は、
「全くですね。」
と言つて、
煙脂焼のした前歯をちつと見せて笑つてゐた。数多い京都大学にこの二人のやうな東京好きはまたと無かつた。
亡くなつた上田敏博士が京都大学に初めて来た頃谷本梨庵博士は文科の創設者として早くから京都の土を踏むでゐたから、高等師範
以来の
顔昵懇といふので、色々京都についてお説教をしたものだ。
そのお説教の一つに、ダンテの名句に「見て過ぎよ」といふのがあるが、京都は実際見て過ぎればよい土地で、神社もお寺も拝むよりか見て過ぎるやうに出来てゐる。交通機関の電車にしてからが、(その頃京都にはまだ市の電車といふものは無かつた)横目で見て通ればよいので、あれに乗つては
時間が潰れて仕方が無いと言つてゐた。実際谷本博士は長年京都にゐながら、一度も電車に乗つた事はなかつた。そして
何時も横目で
車台を睨み/\てく/\歩いてゐたが滅多に電車にひけは取らなかつた。
独逸哲学と一緒に、
伯林の汽車の時間表まで
鵜呑にしてゐる桑木博士なども、
「谷本君のは長い経験から出たので、全く真理だよ。」
と
甚く感心してゐたが「真理」といふものは、独逸製以外に、京都でもちよい/\安手なのが出来るものと見える。
谷本博士はある日教授の
溜室で上田博士の顔を見ると、
「上田君一度君に御馳走をしたいと思つてるんだが、君は文壇の名士だから、名妓を引合はしたいと思つて、
彼是銓衡中なんだ。」
と、はつきりした日本語で言つてゐたが(念のため言つておくが、上田博士も谷本博士も
数個国の国語には通じてゐたが、
談話をする時には一番不完全な日本語でしてゐた)色々都合があつて、その御馳走もお流れになつたらしかつた。よしんば都合が無かつたにしても人間には忘れるといふ事があるから。
ほんとの事をいふと、谷本博士が名妓を引合せたいと思つてゐる頃には、上田博士はもうちやんとそんな者は知り抜いてゐたのだ。
むかし京都の島原に五雲といふ俳諧師が居た。
毎月二十五日には北野の天神へ怠らず
参詣つてゐたが、或日雨の降るなかを弟子が訪ねて
往くと、五雲は
仰向に寝て、両手を組んで枕に当てがひ、両足をあげて
地面を踏むやうな真似をしてゐる。
何うしたのですと訊くと、今日は北野へ参詣の
例日だが、雨が降るもんだからかうして北野へ
往復りするだけの
足数を踏んでゐるのだと言つた。
面白いのはこの足数も踏むに連れて、沿道の人家や立木やが次から次へと眼の前に幻となつて展開する事で、五雲は
仰向になつて、
「やあ、
那処にいつもの
両替屋の
寡婦が見える。」
と、独りで
娯しんでゐたさうだ。
亡くなつた上田敏氏は子供の時静岡へ
往く道中、てくてく歩きで箱根を越えた。丁度
梅雨晴れの頃で、ある百姓家の軒続きに、心臓形の青い葉が一面に
蔓つてゐる畑を見て、
「おや/\
菜がこんなに植わつてる……」
と
独語をいふと、そこに居合はした百姓が笑ひ/\、
「坊ちやま、これあ
菜ぢやござりましねえ、坊ちやまの食べさつしやる
甘藷でがさ。」
と教へて呉れたさうだ。
その
後大学の教室に立つて、
欧羅巴の近代文学を論ずるやうになつても、梅雨晴れの日光が硝子窓からちらちらするのを見ると、いつもその
菜の葉が幻のやうに想ひ出されると言つてゐた。
むかし京都で物好きな男が三四人集まつて鴨川のほとりで茶を
煎じて遊んだ事があつた。(
菅茶山が言つたやうに、京都は物静かで遊ぶには持つて来いの土地柄だが、とりわけお茶と恋をするには一番よい。)
水の講釈にかけては人一倍やかましい茶人達の事とて、あつちこつちの名水を
瓶に入れて
各自に持寄りをする事にきめた。で、集まつた水を一つ
宛煮て味はつてみたところが、矢張加茂川の水が一番
美味かつたさうだ。
或る通人がそれを聞いて、「
尤も
至極の事で、
他所の水は
瓶に
貯へて持ち寄りをしたのだから、
時間が経つて
死水になつてゐる。加茂川のは
掬み
立だけに水が
活きてゐる。美味いに不思議はない筈だ。」と言つた。
久保田
米僊は、大阪の
鱧も、京都へ持つて来て、一晩加茂川の水へ漬けておくと
屹度味がよくなると言つてゐたが、米僊は私に一度も鱧の御馳走をしなかつたから、嘘か
真実か保証する限りでない。
京都
俳優の随一人坂田藤十郎はよく江戸の
劇場へも出たが、その都度江戸の水は
不味くて飲めないからといつて、
態々飲み馴れた京の水を幾つかの大樽に詰め込んで、江戸まで持ち運んだものださうな。水自慢は
縹緻自慢と一緒で、自慢する人自身の
拵へ
物でないだけに面白い。
梅雨が明けて雷が鳴る頃になつた。雷といへば上州あたりには
雷狩をして、
捉へた奴を
料つて食べる
土地があるげに聞いてゐる。雷といふのは、多分
雷鼠の事で、
打捨つておくと、芋の根を
喰ひ荒して仕方がないさうだ。
不思議なのは、雷狩をした年の夏は、
屹度雷鳴が少いといふ事だ。この雷狩は山や野原でする
許りでなく、また
海つ
辺でもやる。
翡翠のやうに寂しい海岸に穴を掘つて、そこから顔を出して遊んでゐるのを漁師が
捉まへる事がある。
政事家が余り
喋舌り過ぎて大臣の椅子から滑り落ちるやうに、雷も
時偶図に乗り過ぎて海へ落ちる事がある。さういふ折に漁師が
水棹を貸してやらなければ、空へ帰る事が出来ないので乱暴者の雷も漁師だけには
極素直だといふ事だ。
京都は三
方山に囲まれてゐるので、夏になると雷が多い。空がごろごろ鳴り出すと、京都の女はチヨコレエトを食べさして、
蚕のやうにぶるぶるつと
身体を
顫はせる。
「
貴方はん、また
雷鳴どつせ。どないしまほ、
妾あれ聞くと頭痛がしまつさ。」
と言ひ言ひ、
嬌えるやうに男の顔を見る。
実のところは雷は嫌ひでも何でも無い。唯かういふと、男の眼に優しく美しく見られるといふ事を女の本能から知つてゐるのだ。男は
鈍いもので、この瞬間女を飛切り美しいものに見るばかりでなく、自分をも非常な勇者のやうに
思違へをする。
鈍間なる男よ、
汝はいつも女の前に勇者である。
東京三
越の「山と水」展覧会に、故人
角田浩々歌客が世界の各地から集めた石と一緒に、塚本工学博士が出品した瓶詰の黄河の水がある。
英国のある
停車場の駅長はグラツドストーンが落して往つた
履の
踵を拾つて、丁寧に箱入にして
蔵つておいたといふから、黄河の濁り水を克明に瓶に入れて持つて帰つたからといつて、別に
咎め
立もしないが、同じ持つて帰るなら、もつと美しい物を見つけて欲しかつた。
波斯で亭主に
死別れた
許しの、新しい
未亡人さんを訪ねると、
屹度棚の上に大事さうに瓶が置いてあるのが目につく。他でもない、波斯では
未亡人さんといふ
未亡人さんは、亭主に死別れてからは、毎日々々涙を
一雫も
零さないやうに小瓶に溜めておいて、それが二本溜まると、喪を
廃める事になつてゐるからだ。
一雫も零さないやうにするのは、何も
追懐の涙が神聖なからでは無い。成るべく早く瓶を詰めて、喪服を
着更へてしまひたいからだ。多いなかには亭主の事を
追懐しても一向涙なぞ出ないのがある。(それに不思議はない筈だ。涙は亭主の生きてゐる
間に、みんな絞り出してしまつたのだから。)そんな
輩は
涙脆い女を見つけて、一瓶幾らといふ値段で涙を買取つて、一日も早く喪を済まさうとする。
ある
皮肉家が、
古の詩人は血で書いた、
中頃になつては
墨汁で書いた、それが
極近頃になつては
墨汁に水を割つて書くやうだと言つたが、涙にしても水を割つたら、直ぐ瓶に詰まりさうなものだが、さうは
仕ないで、縁もゆかりも無い者からでも、矢張
正真物の涙を買ふところに、一寸女房の
情合が見えて
可笑しい。
目薬瓶に涙二杯! 男にとつて
申分のない値段である。
ラボツクは蟻の研究で聞えた人だが、ある時一匹の蟻をウイスキイの
洋盃に
投り込んで、したたか酒に酔はせた。
蟻はすつかり
喰べ酔つたが、それでも人間のやうに片手を
他の鼻先で拡げて金を貸せとも言はないで、唯もう
蹣跚と、
其辺を這ひ廻つてゐた。
仲間の蟻が、五六匹そこへ
遣つて来た。そして喰べ酔つた友達を見つけると、こんな不心得者を自分の巣から出したのを恥ぢるやうに、何かひそ/\合図でもしてゐるらしかつた。
暫くすると、仲間は
各自に酔ひどれを
啣へて巣のなかへ引張り込み、丁寧に寝かしてやつた。
酔が
醒めると、
件の蟻はこそ/\這ひ出して直ぐ
例の仕事にかゝつたさうだ。
一度他の巣の蟻がこの酔ひどれを見つけた事があつたが、その折は少しの
容捨もしないで、いきなり相手を啣へて水溜りのなかに
投り込んでしまつた。
人間にも女中や下男の厄介になつて暮すやくざな
輩があるやうに、蟻にも奴隷を置いて、その世話になつてゐるのがある。巣を
拵へ、
食物を集めるのに奴隷の手を
藉りるばかりでなく、どんなに
食物があつても、奴隷の手でそれを食べさせて貰はなければ
何うにも出来ないので、奴隷の機嫌でも損じると、
餓死するより仕方がない。
人間が牛や馬を養つてゐるやうに、蟻もまた家畜を飼つてゐる――といふと、何から何まで蟻は人間と同じやうだが、蟻には人間のやうな
懶惰者がゐないだけに、女を大事にする事を知つてゐる。何といふ結構な道徳であらう、女は
陶器皿と一緒で、同じ事なら大事に取扱つた方がよいのだ。――蜂は
閑さへあれば女王の顔を見て
娯しんでゐるさうだ。
今は故人の松下軍治がしたゝか者だつた事は知らぬ者もないが、
譬へば、金でも借りようとか
蔓でも
発見ようとかいふ
目論見で人を訪ねる事があるとする。(松下が金と蔓と、この二つ以外の用事で人を訪ねようなどは夢にも思はれなかつた事だ。)
先づ応接室に通されて、暫くすると隔ての
襖が
開いて主人の顔が見える。
「ヤ、入らつしやい。お久しぶりですな。」
松下のやうな男には、誰でもが挨拶だけは成るべく
叮嚀にしようとする。挨拶には別に
資本が掛らないで済む事だから。
「
何うです、この頃の暑さは。随分厳しいぢやありませんか。」
かう言つて、主人はにこ/\顔で椅子に腰を下さうとする。
この時松下は腹一杯の声で、
「御主人……」
と
喚くと同時に、手に持つた鉄扇で、思ひ切り強く
卓子を
叩しつける。(松下はこんな訪問には、いつも「体面」を置いて
往く代りに、机の
抽斗から鉄扇を持ち出す事に
定めてゐる。)
主人は
卓子の上の葉巻入と一緒に、
吃驚して椅子から飛び上らうとする、松下はじろりとそれを尻目にかけて、
「お気の毒だがお
冷水を一つ下さい。」
と静かに言ふ。この場合お冷水だらうが持参金つきの娘だらうが、相手の気に入る事なら、主人はどんな物でも
調へようと思つてゐる。かうなると、もう占めたもので、松下は
希望通り相手の魂でも引抜く事が出来る。
松下の
行り方は、
他人を見れば
敵と思つた封建時代の遺習で、型としては
既う
黴が生えてゐる。
往時の
閑人はこんな
輩に驚かないやうに、武士道や禅学で
胆を練つたものだが、今の人達は、武士道や禅学の代りに、お蔭で「生活難」で鍛へられてゐる。「貧乏」は鉄扇の音に
吃驚しないばかりか、鉄扇を質に入れる事さへ知つてゐる。
栂尾の明恵上人は雑炊の非常に好きな人であつた。ある時弟子の一人が師僧を慰める積りで、
極念入の雑炊を
拵へた。念入だといつたところで、何も鰹節を使つたといふ訳ではない。鰹節は猫と
真宗寺との好物で明恵はあんなものは好かなかつた。
明恵は何気なく膳に
対つたが、好物の雑炊が目につくとにつこり笑つた。そして、
「今日は御馳走だな。」
といつて、弟子の顔を見た。弟子は師僧の気に入つたのが嬉しいと見えて、
蒟蒻球のやうな顔を下げてお辞儀をした。
「お上人様が
平素からお好きでいらつしやいますから。」
明恵は箸を取つて一口頬張つたと思ふと箸を取つた右の指先で障子の桟を目にも止まらぬ速さで一寸撫でた。弟子は
吃驚して見つめてゐると、明恵は何喰はぬ顔でその指先を
嘗めて、それからまた雑炊を食べようとした。
「
蠱だらうかな。」
と弟子は考へたが、これまで一度だつてそんな真似は見た事も無かつたので、不思議さうに訊いた。
「お上人様、つかぬ事をお訊き申すやうですが、たつた今
貴僧様は障子の桟を撫でて、それをお嘗め遊ばした。あれは何のお蠱でございます。もしや、
食中毒の……」
明恵は尼さんのやうに口を
窄めて笑つた。
「いや、蠱でも何でもない、
其方が拵へて呉れた雑炊が余り
美味いものだから、つい障子の
埃を嘗めたのだ。」
成程障子の桟を見ると、埃が白く溜つてゐた。埃は正直なもので、掃除を怠けると、直ぐ溜るものだなと弟子は思つた。だが、雑炊が美味いからといつて、その埃まで嘗めなければならない
理由が判らなかつた。
明恵は言つた。
「余り雑炊が美味いので、つい
染着心でも出来ては怖ろしいと思つたものだから、そんな事の無いやうに一寸埃を嘗めたまでさ。」
弟子はそれを聞いて、師僧の雑炊を拵へるのはなかなか
難しいものだなと思つた。
大隈侯はどんな物でも鵜呑にする事が上手だが、唯それに砂糖をつけないでは承知しない。砂糖とは他でもない「高遠の理想」の事さ。
本阿弥光悦が書いた本法寺の額は「法」といふ字の扁が
二水になつてゐるので名高いものだ。光悦はあゝいふ洒落者だけに、本法寺の門前を流れてゐる水を、その
一水に
象つて、わざとさうしたのだといふ事だ。
むかし天龍寺
塔頭のある寺にあつた書院の杉戸は、探幽の筆として聞えてゐたが、戸には李白一人が
画いてあつて、滝らしいものが一向に書いてなかつた。これは
嵐山の
戸無瀬の滝を目の前に控へてゐるので、滝は
態と
描かなかつたのだ。
池坊の祖先
某は、六角堂に
立花の会があつた時、自分の花に態と
正心松を欠いて
活けておいた。何故だらうとそれが一座の人の噂の種となつてゐる頃、池坊は、
「松は今御覧に入れます。」
と言つて、障子を引明けると、庭にある
好い
枝振の松がうまく立花のなかに取入れられたさうだ。流石に池坊式でこれには
拵へ
事の
態とらしさがある。
竹内栖鳳氏は東本願寺の天井に、
天人飛行の絵を
画く約束で、もう幾年といふもの考へ込んでゐるが、まだ一向に出来上らない。
往時ある
処に狩野永徳の
描いた空飛ぶ
鴈の
間といふのがあつた。何でも
襖障子一面に葦と
雁とを
描き、所々に
鴈が
羽叩して水を
飛揚つてゐるのを
配つた上、天井には
雁の飛ぶのを下から見上げた姿に、
鴈の腹と翼の裏を
描いて
居つたといふので名高かつた。この伝で往くと、栖鳳氏の天人は
臍の
孔から
擽つたい
腋の下の皺まで
描かねばならなくなる。
なに、そんなに心配するが物はない。相手は
肉食妻帯の本願寺だ。いつそ光悦や探幽式に裏方や姫達を天人と見立てて、天井へは何も画かない事にしたら、どんな物だらう。
凡ての画家に勧める、自分の手に
画きこなせないものは
画かないに限る。
むかし徳川初代の頃に本願寺の役人に
下間某といふものがあつた。
乱舞にかけては
却々の
巧者人で、徳川家の前などでも、いつも召されて乱舞を舞つてゐた。
ある時、この男が紀州の道成寺に
詣つた事があつた。その折拍子を踏み/\石段を数へてゐたが、ふと
立停つて、不思議さうな顔をして
道伴に言つた。
「この
鐘楼の石段は
屹度一つだけ土にでも埋もれてゐるんぢや無からうか。今一つ
宛踏んで居るのに、
何うしても
段拍子に合はない。」
道連は
可笑しな事を言ふとは思つたが、相手があの通りの巧者人の事なので、笑つてばかり済ます訳にも
往かないので(世の中には笑つて済まされる事は沢山ある、金の事、女の事、それから……)土を掘り下げてみると、案の定下から石段が一つ出た。
京都の桂離宮は小堀遠州が
豊太閤に頼まれて、一世一代の積りで拵へた名園だが、ずつと
後になつて遠州の孫がその結構を見に庭へ入つた事があつた。木戸口を
潜つて、庭石を二つ三つ踏むだと思ふと、ひよいと立停つた
儘、
「どうも解らない。」
と、じつと考へ込んでしまつた。
案内の男が、
「何かお解りになりませんか。」
と訊くと、
「いや。この石だが、も少し右に置いてなければならん筈なのだ。」
と
独語のやうに答へる。考へてみると、一二年前に庭木を入れる事があつて、その折
件の庭石を
引つ
剥したまゝ、植木屋の手で勝手に据ゑ直してあつたのだ。
このやうに物にはちやんと拍子といふものがある。この拍子を
見別けるやうになると、物の巧者だといへる。だが断つておくが、諸君の夫人の顔立が拍子に
適はないからといつて、それは茶話記者の知つた事ではない。大きい声では言へないが、一体女は
初つ
端から拍子に合つたやうに拵へられてはゐないのだから。
伊勢の山田から二里ばかりの在所に磯村といふ
土地がある。言ひ伝へによると、
白拍子静が母の
磯禅師はこゝに住むでゐたのださうで、禅師の
血統はその後も伝はつてゐるが、
産れる娘は皆
醜婦揃ひである。
これは静が人並外れた美人だつたので、多くの男にも苦労をさせ、女自身にも悲しい事ばかり見て来たのを思ふと、もう美人は
懲り/\だとあつて、
「娘が生れます事なら、いつそ醜女にしてやつて下さい。」
と神様に祈願を
籠めたのが、お引受になつたのださうだ。
美人を生ませて下さいと、
願を籠めたところで、神様は滅多に承引しては下さらないが、
醜女を
孕ませて下さいと頼むと、大抵はお
引請になる。お引請になるのは、何も神様の手並が
拙くて、
醜女の方が丁度手頃なからでは更々ない。神様は女に哲学を教へようとなさるからだ。
女は美人に生れると、
悲哀が多い、「芸術」が必要な
所以だ。醜女に生れると
絶念めなければならぬ、「哲学」が無くてはならぬ訳である。哲学は蛇と共に女の一番嫌ひな物である。
希臘のある皮肉哲学者が
富豪に
饗ばれた事があつた。哲学者が
富豪に思想を説きたがるやうに、
富豪はまた哲学者に自分の住んでゐる世界を見せびらかしたいものなのだ。
その
富豪も皮肉哲学者に、自家の
邸宅を自慢したいばかりに、飾り立てた
客室から、
数寄を凝らした
剪栽の隅々まで案内してみせた。
「
如何でげせう、これでも先生方のお気には召しますまいかな、
俺としては
相応趣向も
凝した積りなんでげすが……」
かういつて、
富豪はその大きな顔を、哲学者の方へ
捻ぢ向けた。
哲学者はそれには何とも答へないで、いきなり
痰唾を
富豪の顔に吐きかけた。
富豪は
西洋茄子のやうに
真紅になつて
憤つた。
「何をしなさるんだ。
他の顔に
唾をしかけるなんて、余りぢやごわせんか。」
皮肉な哲学者は落つき払つたもので、
「いやはや余り結構づくめなお
邸宅なんで、
唾が吐きたくなつても、何処にも恰好な場所が見つからないもんですから、ついお顔を汚しましたやうな訳で……」
と別に
謝まらうともしなかつた。
勿論いつの時代でも
富豪の顔と
霊魂とは、数あるその持物のなかで、一番汚いに
極つてゐるが、それに
唾を吐きかけたのは流石に皮肉哲学者の
見つけ
物である。
一番無難なのは、哲学者なぞ御馳走しない事だが、もし
達て饗ばなければならないとすると(渋沢
男が孔子を先生扱ひにするやうに、一体
富豪は
凡て哲学者が好きらしい。何故といつて、孔子は色々
難しい事を聴かせて呉れる上に滅多に金を貸せなぞ言はないから)何を忘れても痰壺だけは用意しておく事だ。
むかし
通尖上人といふ坊さんがあつた。内外諸宗にわたつて博識の名が隠れもなく、自分にも
大分それを自慢に思つてゐた。
ある秋の
夜の事、お説教が済んで、上人はひどく気持が
善ささうな顔をしてゐた。一体お説教とか講演とかいふものは、よく出来た場合は
聴衆よりも
演者の方がずつと気持のいゝもので、基督のやうな真面目な男でさへ、名高い山の上のお説教を済ました
後は、すつかり
好い気持になつて、汚い癩病患者なども直ぐ
癒してやつた。だから、お説教の済んだあとで、
「どうも素敵でしたね。皆もすつかり感心しちまつて、もつと何か聴きたさうな顔をしてまさ。」
と言つてみるがいい。坊さんは
屹度お
袈裟の袖をたくしながら、手品の隠し芸でもして見せるに
極つてゐる。
通尖上人はすつかり上機嫌で、この分ぢやどんな難問が出ようとも、直ぐ解いて聞かせて呉れる。ほんとに吾ながら偉い
博識になつたものだと高慢さうな顔つきで、
附近をじろ/\見まはしてゐると、だしぬけに隔ての障子が破れて、なかから大きな鼻が一つ飛出した。おやと思ふうちに、鼻はまた
すつと引込んで障子はもとのやうになつた。
流石の通尖も、これには
度胆をぬかれてしまつた。変な顔をして暫く眼をぱち/\させてゐたが、すうと席を滑り下りたと思ふと、その
儘見えなくなつてしまつた。あとでよく調べてみると、
大樹寺といふのに入つて
専修念仏の
行をおこなひ済ましてゐたさうだ。よく/\
自力には懲りたものと見える。
寺内元帥なども、近頃少し高慢な相が見えて来た。今の内に誰か障子の
孔から大きな鼻でも覗かせてやらなければならぬ。
ある
画家の使つてゐる
紅の色が、心憎いまで立派なので、仲間は吸ひつけられたやうにその
画の前に立つた。そして不思議さうに訊いた。
「素晴しい
色彩ぢやないか、一体
何店で掘出して来たんだね。」
画家はそれに答へようともしないで、牛のやうに黙りこくつて、せつせと仕事に精出してゐたが、画が
描けるに連れて、身体はだん/\衰へて来た。そして
仕揚に今一息といふ際どい時になつて、
刷毛を手に持つた
儘、画の前に
突伏して倒れてゐた。仲間が死骸を片付けようとして見ると、
画家は耶蘇のやうに胸に
孔があいて、孔からは
真紅な血が流れてゐた。仲間はそれを見ると、
「
色彩だと思つたのは、自分の血だつたのか。」
声を揚げて驚いたといふ話がある。
四条派の名家だつた望月玉泉が、晩年に京都のある高等女学校に、邦画の教師として一週幾時間か
酸漿のやうな
真紅な顔を
覗けてゐた事があつた。
普通の絵具は生徒が買合せの安物の水絵具で辛抱してゐたが、緑青と
群青とだけは、自分の
宅から
懐中へ
捻ぢ込んで来てそれを生徒に売つてゐた。
「これは緑青と群青やで。どつちやも高い絵具やが、
貴女方はお弟子やさかい、
廉う負けといて一度分五銭にしときまつさ。」
玉泉はこんなに言つてその緑青と群青とを使つた生徒からは、その場で五銭
宛受取つて
袂に投げ込んでゐた。
生徒が
草花の写生でもすると、玉泉はじつと覗き込んで、
「よう出来よつたな。それに緑青をお塗りやすと、ぐつと引立ちよる。お塗りやすいな、緑青を……」
といつたやうな調子で、つい
懐中の緑青を押売する。
もしか自分の血が
好い絵具になる事を知つてゐたら、玉泉さんは緑青や群青の代りに
萎びた自分の胸を
切売したかも知れない。
慶安太平記の由井正雪が
大望を企てた時、その一味徒党には浪人ものが多かつた。これは当時の
法度として養子といふものを禁じた結果として、甚六でない二男三男四男五男……が有り余つた。
養子に
往くのは、
戦争に出かけると同じやうに敵をそつくり
生捕るか、さもなければ身一つで逃げ出すだけの気転が無くてはならぬが、それでも養子に
往けぬとなると、先を折られたやうな気持がするかして、こんな
輩は養子に
往けない鬱憤を晴らす為に大抵浪人になつた。
この浪人者をどんなにして救済したかといふ問題を提示したのは
穂積陳重博士。それをまた例の福本日南が、頭の禿に触られでもしたかのやうに博士に
喰つてかゝつて、
往時の事を
疝気に病むよりは、
寧そ博士の育てた高等遊民の救済法でも考へたがよからうと口を
尖らせた。
高等遊民も部類分けにすると色々あるが、なかで法学士が一番多い。この七月には又ぞろこんな
輩が東西の両大学から一千人近くもぞろ/\這ひ出して来るのだ。
彼等は今から養子口と
捌け
口とを同時に捜してゐるが、何処へ
往くにも紹介人や保証人が無くてはならぬ
今日、一度出た門を急に
後退りをして厄介ついでに成るべく人の好ささうな教授連に紹介やら保証やらを頼み廻つてゐる。
京大の
跡部博士なども、
「保証人になつたからといつて、証書に書いてある通りの責任を負はなければならぬものなら、自分の
伜の保証人になる者もあるまいて。保証書にあるやうな責任は負はない積りでこそ保証人にはなれるのだ。」
と言つて、頼まれると二つ返事でべたべたと印を
捺してゐる。
それで
好いさ、それで
好いさ。実際保証書などはそれで
好いが、どうか学問だけはよく吟味して教へて欲しいものだ。
石油王ロツクフエラアが、ある時自動車に乗つて出掛けようとすると、直ぐ
側に
何家の
児とも知れない
六歳ばかりの小娘が立つてゐて、この
富豪の顔をしげしげと見てゐるのに気がついた。
一体
富豪といふものは、十人が十人石のやうに冷たい顔をしてゐるもので、
平素人形や
阿母さんやの
莞爾した顔を見馴れてゐる子供にとつては、まるで別世界の感じがするに違ひない。
「
叔父ちやん、何処へ
往くの、自動車へ乗つて。」
子供は不思議さうに訊いた。もしか同じ問が
紐育の新聞記者からでも訊かれたのだつたら、ロツクフエラアは急に
感冒をひいたやうな顔をして、大きな
嚏でもしたのだらうが、相手が
可愛らしい子供だけに、にこ/\して、
「さあ、何処へ出掛けようね。叔父さんは
寧そ天国へでも
往きたいんだが。」
と、いつもに似げなく冗談口をきいた。
子供はそれを聞くと、
吃驚したやうに眼を
円くした。そして気の毒さうに言つた。
「お
止しなさいよ、叔父ちやん。天国へ
行くには油が足りない事よ。」
「さうか油が足りないか。」
ロツクフエラアは子供の言つた事を繰返し/\、首を
縊められた
家鴨のやうな顔をして、暫くは
其処に
衝立つてゐたさうだ。
「天国へ
往くには油が足りない。」
子供といふものは
巧い事を言ふものさ。
富豪はどこの国でも
皆油の足りない連中
許だ。
ある男が寺へ泊つた事があつた。夜が更けて眼が覚めてみると、誰だか障子の外でひそ/\話をしてゐるのが聞える。気になるものだから、起き上つて窓から見ると、あかるい月明りの下に男と女とが立つてゐる。男は二十四五の、
草臥れたやうな顔、女は六十ばかりの皺くちやな
媼さんで、
談話の模様でみると、親子といふやうな調子があつた。
男は幽霊か知らとは思つたが、それにしても二人の
年齢が一向
合点が
往かないので、その
儘夜明を待つた。東が
白んでから、二人が立つてゐた
附近へ往つてみると、小さな合葬の墓があつて無縁になつてゐる。訊いてみると、墓の
主人は大分以前二十四五で亡くなり、その女房は久しく生き延びて、
洗濯婆となつて暮しを立ててゐたが、二三年前に六十幾つかで死んだのでここに合葬したのださうだ。
それを聞いた寺の住職は、
「無縁だし、
加之に月がよいので、二人とも遊びに出たのだつしやろ。」
と言つてゐたが、二人とも丁度亡くなつた
年齢相応の姿をしてゐたのには笑はずには居られなかつた。
男にせよ、女にせよ、
連添に死別れてから、四十年も生き延びてゐると、
色々な面白い
利益になる事を覚えるものだ。
洗濯婆さんだつて六十迄も
存へてゐるうちには大英百科全書にもないやうな智識も
獲たに相違ない。さういふ智識から見れば、二十四五で死んだ亭主は
全で子供のやうで
喰ひ足りなかつたらうと思はれる。
それを思ふと、
情死する場合の他は、相手に二
世の約束だけはしない方がよい。多くの場合、女は男よりも
長生をするものだが、来世で皺くちやな女の顔を見るのは、男にとつて胃の薬を飲むよりも
辛いものだ。だが、それよりも辛いのは、
色々な事を知つた女が、
生で、無垢な昔馴染の男に出会つた時の事で、女はそんな時には、
極つたやうに頭の
地を掻き/\、その後
昵懇になつた男の数を
懐中で
数みながら、
「もう何時でせうね。」
と時間を訊きたがるものなのだ。よく言つておくが、女が時計の針を気にするのは、大抵逃げ出したい時に限る。
マベル・ボードマン嬢といふのは、米国の赤十字社でちやき/\の働き手だが、嬢の意見によると、赤十字の
勤務は、ひとり戦時のみでなく、
平常の衛生状態をも、もつと立派にし、そして出来る事なら天国へ送る死人の健康状態をも申分の無いものに
仕なければならないのださうだ。
嬢は先頃南米地方へ旅行をした事があつた。その折ある地方で、
皮膚の赤茶けた土人が、
地面に
蹲踞つて
玉蜀黍の
煙管で
脂くさい煙草をすぱすぱやつてゐるのを見かけた。
ボードマン嬢は
雌狗のやうに鼻を動かした。そして言つた。
「爺や、お前そんな脂臭い
呼吸をして天国へ往けるとお思ひかい。」
「ひひひ……」と土人は歯の抜けた口で笑ひ出した。「
脂臭え
呼吸だと言はつしやるが、おいら死ぬ時や
呼吸引き取りますだよ。」
むかし
道命といふ名高い坊さんがあつた。怖ろしく声の
美い人で、お経を
誦むと、その調子が自然に
律呂に
合つて、まるで音楽でも聴くやうな気持がするので、道命が
法華を誦むとなると、
大峰から、熊野から、
住吉から、
松尾から色々の神様が
態々聴きに来たものだ。そんな折には、道命は一寸後を振り向いてみて、
「今日も神様が来てるな……」
と、得意になつて一段と声を張り上げたものださうな。
道命は和泉式部と
好い仲だつた。(道命だつて男だから女を愛するのに不思議はないが、
僧侶といふ身分に対して
稍不都合だと思われる
向は、どうか成るべく内聞にして置いて欲しい。道命も名僧だし、和泉式部も聞えた
歌人の事だから。)ある夜式部の
家で寝て、
翌る朝何喰はぬ顔で寺へ帰つて、
例のやうに法華を誦みにかゝつた。
ふと
後方を振り返つてみると、いつも見馴れた立派な神様達の代りに薄汚い乞食のやうな仏様が一人居る。道命はお経を誦みさして訊いた。
「貴方は
誰方ですかい。」
仏様は一寸お辞儀をした。
「私は五条
西洞院辺にゐる仏ぢやが、つね/″\評判のお前様の読経を聴きたい/\と思つてゐたが、
平素は
梵天帝釈などのお
入来があるので遠慮してゐた。所が今日はお前様の
身体が
汚れてゐるから、
他様はお出でがない、そこで
遣つて来ましたぢや。」
成程気がついてみると、道命は前の夜和泉式部と
好い事をした口を、その
儘灑がないでお経を誦んでゐたのだつた。
ある時
門司で若い
芸妓が病気で亡くなつた。
流行つ
妓だけあつて、生きてゐる
間には、
色々な人に
愛相よくお世辞を言つてゐたが、亡くなる時には誰にも相談しないでこつそり息を引取つた。
枕許に坐つて看護をしてゐた妹芸者が、何か言ひ残す事は無いかと
訊ねると、
「三毛猫を
空腹がらさんやうに頼みまつさ。」
と言つて寂しさうに笑つた。
呉々も言つておくが、その芸者が最後まで気にかけてゐたのは、三毛猫の事で、
贔屓筋のお医者さんや、市会議員を
空腹がらせるなと言つたのでは更々ない。
その事が土地の新聞に載つたのがふとした事で
俳優の鴈治郎の目に止つた。鴈治郎はその折
玉屋町の自宅で、弟子に
按摩を
揉ませながら新聞を読んでゐた。で、その芸者の亡くなつた記事が目につくと「
呀」と言つたが、直ぐ顔を揚げて
忰の長三郎を呼んだ。
「長公、長公は居やへんか。」
長公は隣の
室から返事をした。
「何や、
阿爺さん。」
鴈治郎は声のする方を覗き込むやうに一寸首を伸ばした。
「そこに居よつたんか。お前あの門司の△△はんと関係があつたんやろ。そやなあ。」
長三郎は
他事でも訊かれたやうな軽い調子で答へた。
「ふん、関係しとつた。
何うしたんや、それが。」
「△△はん、死によつたぜ。」
「さよか。」
長三郎は起き上らうともしなかつた。彼は
腹這になつて、舶来の
玩具を
弄くつてゐるのだ。
親子が顔をも
赧めないで、平気で自分の
情事を話し合つてゐるのが俳優の家庭である。舞台で人生を
演活すためには、
平素からかうした
囚はれない情態が必要なのか、それとも舞台の心持が家庭生活にまで
伝染つてゆくのだらうか。
孰方とも
真実だらう。そしてもつと
真実なのは、親子のどちらもに取つてこれが一番都合がよいからであらう。
七月三十一日午後六時
過の事、阪神電車の梅田停留場から神戸行の電車に乗込んだ。
鈴が鳴つて電車がこれから出かゝらうとした時、席の真中程から
慌しく
衝立ち上つた若い男がある。
その男は
目敏く自分の両側を見渡した。
「
何うだ。みんな野郎ばかりだ。
女気といつたらこれつぱかしも居やしない。」
と誰かに話しでもしてるやうな調子で、
「次ぎを待たう、次ぎまで待たなくつちや仕方が無い。」
と言ひ捨ててあたふた下りて往つた。
皆は気が
注いたやうに
車のなかを見渡した。成程男ばかりだ。揃ひも揃つて、安つぽい顔に安つぽい帽子を
被つた男ばかりだ。
「成程野郎ばかりだな。はゝゝ……」
誰かが詰らなささうに笑つたが、それでも誰一人続いて下りようとはしなかつた。
下りた男は
何所の誰か判らない。女が好きなのか、男が嫌ひなのか、それも判らない。次ぎの電車で望み通りに若い美しい女と差し向ひに坐る事が出来たらうか、それもまた判らない。
女は教会へ
往くにも、地獄へ落ちるにも
好い
道連たるを失はない。
真実の事をいふと、
始終一緒に居ても厄介なものだが、さうかと言つて、離れても居られないのが女の取柄である。
男ばかりの電車は、少し
逆上気味で
獣のやうに風を切つて飛んだが、
漸と
大物まで来て一人の女を乗せる事が出来た。女といふのは、四十
近い、四角い顔をした、愛国婦人会の幹事でもしさうな女だ。
辛抱するさ、婦人会の幹事でも女には相違ないのだから。
英国の文豪キプリングが、ある時米国の雑誌が見たいから、五六種送つて欲しいと、
紐育にゐる友達の
許へ頼んでよこした事があつた。
米国の雑誌はいづれも広告の
頁がどつさりあるので、知られてゐる。キプリングの友達は、幾らか郵税を
倹約したい考へから、広告の頁だけ引裂いて、残つた内容を一
纏めにして送つて
寄した。
キプリングは包みを
解いてみると、雑誌はみんな広告の頁だけ引き裂かれてゐる。何故だらうとキプリングは小首を
傾げたが、それが郵税の
節倹からだと聞いて、文豪は蟹のやうにぶつぶつ
憤り出した。
キプリングの言ひ条では、米国の雑誌は広告欄が面白いので取柄がある。内容と広告と
孰方に新知識が多いと訊かれたら、誰だつて選択に迷はない筈だ。
「そんなに郵税が
節倹したかつたら、内容の方だけ引裂いて呉れればよかつたに。」
と、友達まで不平を申込んださうだ。
世の中には米国の雑誌みたいな人も少くない。法隆寺にゐる北畠男爵などはその一
人で、
暴風のやうなあの人一流の
法螺は一寸困り物だが、夏帽だけはパナマの良いのを着けてゐる。もしかキプリングの友達のやうに、郵税を
節倹しなければならないとすると、「男爵」は捨ててしまつても、あの帽子だけは撰びたいものだ。
むかし
滝川雪堂といふ男が百人組の
頭になつて、当直の
行厨につかふ食器を新しく
拵へた。その
蓋に食事をする
度に、見て心得になるやうな文句を書いて欲しいと、学者の
大郷信斎に頼んで
寄した。信斎は佐藤一斎
等の先輩で、
鯖江侯のお抱へ儒者であつた。
信斎は自分の学問の底を
叩いて、色々
利益になりさうな名句を拾ひ集めては比べてみたりした。そして
漸と出来上つたのが、
平の蓋に、
「
咬得菜根百事可做」
汁の蓋に、
「
不素餐兮」
飯の蓋に、
「
粒々皆辛苦」
といふ固苦しい文字であつた。言ふまでもなく
汪信民や、朱雲や、李紳の
往事から拾つて来て戒めたのだ。
役人とか会社の重役とかの弁当箱には是非書いておきたいやうな文句だが、
普通の人には一寸
咽喉に
支へさうで
可けない。こんな文句を毎日眼の前におきながら、弁当をぱくついてゐた雪堂といふ百人頭は
性来齦の
勁い、胃の腑の素敵に丈夫な男だつたらしい。
そこへ持つて
往くと、
売酒郎々が、所謂七
重の絹で七
度漉した酒を飲ませたといふ、東山の竹酔館は、表の
招牌も、
「この
肆の
下物、一は
漢書、二は
双柑、三は
黄鳥一
声」といふ洒落た文句で、よしんば
摘み
肴一つ無かつたにしろ、酒はうまく飲ませたに相違ない。
飯を食ふにも、酒を飲ませるにも、それと一緒に想像を喰べさせなければ嘘だ。肉皿に新しい野菜と想像とを一緒に
撮む事の出来る細君にして初めてお台所を
委せる事が出来る。
幸田露伴氏が今のやうに文字の考証や、お説教やに
浮身を
窶さない頃、春になると、
饗庭篁村氏などと一緒に面白い事をして遊んでゐた。
それは他でもない、仲間が五六人行列を作つて、味噌を盛つた小皿を
掌面に載せて野原に出る。そして真先に立つた一人が、
其辺の
道傍に芽ぐんでゐる草の葉を摘むで、それに味噌をつけて食べると、
後に続いた者は
順繰にその葉を
摘取つて食はなければならぬ。
先達は仲間を懲らさうとして、
態と名も知らぬ草の葉に手をつけるが、それがどんな変てこな草だらうが、先達が食つたとあれば、仲間は
厭でもそれを口にしなければならぬ。
偶には見る/\
先達の唇が
腫上るやうな毒草にも
出会したが、仲間は滅多に閉口しなかつた。
「なに、文久銭と蟹の
甲殻の他だつたら、味噌さへ附ければ、どんな物だつて食べられまさ。」
こんな事を言ひ合ひながら、負けぬ気になつて、味噌をつけてはばり/\毒草の葉を噛んだ。丁度
後になつてどんな物事にも理窟をつけては
嚥み込み嚥み込みするやうに。
で、
物の五丁も歩くと、今度は
先達を代へて、また同じやうな事を繰返すのだ。
間の悪い日になると夕方家に帰る頃には、皆の両唇が
腫み上つて
碌に物も言へなくなつたやうな事さへあつた。
「お蔭で食べられる草と、食べられない草との
見別はちやんと附くやうになりました。」
と露伴氏は今でも言ひ/\してゐるが、
真実に結構な事さ。
人間はひよつとした神様の
手違で、後の世に牛か馬かに生れ代る事が無いとも限らないのだから。
ある薩摩の殿様に、九十を過ぎても色々の道楽に
憂身を
窶さないでは居られないやうな達者な人があつた。
数ふる道楽のうちで、殿様は一番変り種の小鳥や
獣が好きで、自分の力で手に入れる事が出来る限り、いろんな物を飼つて
娯しんでゐた。
英雄僧マホメツトも
甚く小猫を
可愛がつたもので、ある日なぞ
衣物の裾に寝かしておくと、不意に外へ出掛けなければならない用事が持ち上つた。だが可愛い猫は起したくなしといふので、わざ/\大事の
衣物の裾を
剪刀でつみ切つて
起ち上つたといふ事だ。
政治家のリセリウもまた愛猫家として聞えてゐるが、死ぬる時には遺言で、莫大の遺産金まで猫に呉れてやつた。猫がその遺産金を
何う
費つたかは、自分がその相談に
与らなかつたから、よくは知らないが、唯愛国婦人会や赤十字社に寄附しなかつた事だけは事実らしい。
薩摩の殿様は、ある日籠のなかから、
栗鼠と
梟とを取出させて喧嘩をさせてみた。栗鼠も梟も
詮事なしに喧嘩をおつ初めたが栗鼠はふだん殿様が自分を
可愛がつて呉れるのは、自分の芸が見たいからだらうと思つて、籠のなかで
飜斗返りばかり稽古してゐたので、こんな喧嘩にはすつかり用意が欠けてゐた。で、梟のために散々に
啄かれた。
栗鼠は逃足になつて、いきなり殿様の
懐中に飛び込んだが、
悔しまぎれに厭といふ程主人の臍を噛んだ。
殿様はその
故で四五十日ばかり傷療治をしなければならなくなつたが、傷が治つた
後でも、別段賢くはなつてゐなかつた。賢くなるには余りに
齢を取り過ぎてゐたから。
老人といふものは、こんな場合にも、栗鼠が
狂者だつたとか、臍がうつかりしてゐたとか、
得て言訳をしたがるものなのだ。
女流文学者として盛名を伝へられてゐる某女史が、
一夏男の友達五六人と、信州辺のある山へ避暑旅行を企てた事があつた。
東京を立つて初めての
夜、一行は山の上の
旅宿で泊る事になつた。
旅宿には大きな部屋が無かつたので、一行は廊下を隔てた二つの
室に分宿しなければならなかつた。
女流文学者は、
「あたし女の事で、
草臥てますから、お先へ失礼します。」
と言つて、皆の食事が済むか済まないうちに、一つの
蚊帳に入つてしまつた。
男達五六人のなかに、一人の
美男子と一人の醜男とが
交つてゐた。顔の見つともないのは、頭の悪いのと同じやうに恥づべき事で、
葛城の神様などは、顔が醜いのを
恥しがつて、夜しか外を出歩かなかつたといふ事だ。それだのに一人の醜男は無遠慮に皆と同じやうに口を
開けて食つたり笑つたりしてゐた。
女流文学者はそれを心憎い事に思つた。そして出来る事なら、自分と同じ蚊帳には、片つ方の美男子を寝させたいものだと思つた。
女流文学者はいつの間にかぐつすり寝込んだ。そして
夜半過に眼をさまして見ると自分の次ぎの床には、例の醜男が口をあんぐり
開けて眠つてゐた。女流文学者は毎月
晦日には
定つて厭世観を起す例になつてゐるが、
然しこの瞬間ほど世の中を厭に思つた事はない。
女流文学者は信州の山から下りて来ると、
中つ
腹の気味で、
「私が醜男を避けて、美男子と一つ蚊帳に居たいと思つたのは、好色の念からでせう。ですが、恋愛は非難される場合もありませうけど、好色は美に伴ふもので、結構な事だと思ひますよ。」
と言ひ言ひしてゐる。
何も心配する事はない、好色は結構な事さ。油断すると醜男が同じ蚊帳に寝てるやうな、
儘ならぬ世の中だ。好色位結構な事にしておくさ。
ケエリイ・トオマス嬢といへば、かなり聞えた
女博士で、今は
威耳斯のブラン・モウル大学の校長を勤めてゐる。
トオマス嬢はある日の
夕方美しく刈込まれた学校の
校庭を散歩してゐた。
晩食は
消化のいゝ物でうまく食べたし、新調の
履は
繊細な足の裏で軽く鳴つてゐるので、
女博士はすつかりいい気持になつた。そして出来る事なら天国へ
往く折にも、こんな
消化のいい物を食つて、こんな軽い
履を
穿いてゐたいと思つた。
だしぬけに寄宿舎の一
室からけたたましい騒ぎが聞えた。拍手の音さへそれに
交つてゐる。
「何事だらう。」
と
女博士は静かな眉尻に一寸皺を寄せた。そして天国の
黄金の
梯子でも下りるやうな足つきをしてかたことと廊下を
歩んで、騒ぎの聞える一室の前に立つた。
トオマス嬢はとん/\と
扉を叩いた。
「どなた。」
内部から誰かが訊いた。
「
It is me. ミス・トオマスですよ。」
と
博士は静かに返事をした。
「違つてよ。」となかから
突走つた声が聞えた。「トオマス
博士だつたら、『
It is me』なんて
仰有らずに、『
It is I』と仰有つてよ。」
女博士は困つたなと思つてその
儘そつと逃げ出さうとしてゐると、
内部から
扉が
開いて
悪戯盛りの女学生が「ばあ」と言つて顔を出した。
岩野清子のやうに、自分の離婚問題にも、婦人全体のためだと気張つてゐる女は、かういふ折には
屹度「
We」とでも言ふだらう。ああいふ女は、物を考へる折には「
私」といふ事を忘れて、新聞の論説などと同じやうに「We」といつて考へ出すことになつてゐるから。
西依成斎は肥後生れの儒者で、京都の望楠書院で鳴らし、摂津の
今津へも十年ばかり住むでゐて
弟子取をしてゐたので、
京阪ではよく名前が通つてゐる。
その成斎の弟子に、
度々色街へ出掛けて、女狂ひに憂身を
窶してゐる男があつた。いろ/\と両親が異見をしてみても、一向
効力が無いので、
「一つ先生様の御力で……」
といふ事になつた。
成斎はその弟子を呼びつけた。そしてたつた今朱文公に会つた
帰り
途だといふやうな生真面目な顔をして、
「お前はこの頃
頻と色町に
出浮くさうだが、
怪しからん事だ、以後は
屹度慎んだがよからう。」
と
高飛車に叱りつけた。
弟子は先生の剣幕のひどいので、両手を膝の上に揃へて、鼠のやうに縮み上つてゐると、成斎は変な眼つきをしてその手首を見つめた。若い弟子の手首は
妓の握り易いやうに
繊細に出来てゐた。
「
廓通といふものは、第一金が掛るばかしでなく、
身体の養生にならない。
俺などはそんな遊びを
止めてから、今年でもう廿年にもなるが、その
故かしてこんなに達者になつた。」
と言つて、先生は大きな両手を、弟子の鼻先でふり廻してみせた。成程
腕つ
節は
勁さうに出来てゐるが、その二十年といふもの、金なぞたんまり握つた事の無ささうな
掌面だなと弟子は思つた。
弟子は
怖る/\先生の顔を見た。
「有難うございました。お言葉は夢にも忘れないやうに心掛けませう。」といつて叮嚀にお辞儀をした。
「で、一寸伺ひますが、先生は当年お幾つでいらつしやいます。」
成済は案外
叱言の
効力が早かつたのと、自分の達者な腕つ節に満足したらしく、声を
揚げて笑つた。
「
俺かの、
俺は当年九十三になる。」
「してみると……」
弟子は先生が道楽を思ひ止つたといふ二十年前の
齢を繰つてみた。そして眼を円くして驚いた。言ひ忘れたが、成斎は生涯独身で暮した男である。
亡くなつた上田敏博士は晩年、京都知恩院境内の源光院にある広岡氏の別荘に間借をして住んでゐた。
その広岡氏と博士とがある時祇園の
大友へ遊びに往つた。大学教授には二
種あつて、一
種は芸者を女中のやうに「お前」と呼びつけ、一
種はお嬢さんのやうに「あなた」と言つてゐる。博士は後者の方で、どの芸者をも「あなた」呼ばはりをするので、芸者の方でも「
敏さん/\」と近しくなつてゐた。
その頃から少し加減の悪くなつてゐた博士は一足先きへ帰つた。
夜半過ぎ広岡氏が
宅へ帰つてみると、博士はまだ起きて東京にゐる瑠璃子さんに手紙を書いてゐた。
博士は
階段から顔を
覗けた広岡氏を振りかへつた。
「まあ、お上りなさい。私が帰つてから何かはずみましたか。」
広岡氏はのこ/\上つて博士の前に坐つた。
「
奮みましたとも。あれから
妓達と一緒にクンカンなんか
行りましてね。
甚く
躁ぎましたよ。」
博士は「クンカン?」といつて、一寸小首を
傾げたが、その
儘起上つて書棚から新版の辞書を
引下して来た。そして物の十五分も黙りこくつてあちこちを繰つてゐたが、
漸と何か見つかつたらしく、上品な声で「はは……」と笑つた。実際上品な声で、
古文書の入つた桐の箱が笑ひでもしたら、あんな声をするだらうと思はれた。
博士は辞書を伏せて、
「クンカンぢやありません。カンカンですよ。あれはタンゴ
踊などと一緒に最新の流行ですが、もう日本に来てるとは驚きましたね。この次に往つたら是非見せて
戴きませう。」
広岡氏は辞書といふものは
色々な事を教へて呉れるものだと感心した。そしてそれからといふものは博士の前では忘れてもクンカンの事は
にも出さないやうにしてゐた。祇園の
芸妓は辞書と同じ
物識だとも思へないのだから。
三高教授の安藤
勝一
郎氏は人も知る音楽学校の安藤
幸子女史の亭主で、幸子女史と比べると、ずつと女性的の優しい顔立を持つてゐる。
良人は三高の語学教授で京都に住み、
細君は音楽学校のヴイオロニストで東京に居るのでは、
恰で七夕様のやうに夏休みを
娯む他には、いい機会もあるまい。
寧そ幸子女史が音楽の先生なぞ
止めてしまつて、京都へ来て世話女房になるか、それとも安藤氏が語学の教師を思ひ
止まつて、東京へ帰つて、
嬰児の
守でもするか、二つに一つ、どちらかに決めて
了へば
可かりさうなものだのにと飛んだおせつかいを言つてる
向も無いではない。
だが、心配するが物はない。必要は色々な事を教へるもので、安藤氏夫妻はこの頃になつて素晴しい発明をした。実際驚くべき発明で、こんな発明が猿のやうな日本人の頭から生れようとは、どんな
国贔屓の
人達でも
思ひ
懸けなかつた事だらう。
発明とは他でもない。汽車を利用する事で、安藤夫妻は、毎週土曜日の課業が済むと、一人は京都から、一人は東京から汽車に乗つて、静岡で落合ひ、日曜日一日を思ふ
様楽しく過して月曜日の朝までにはそれぞれ学校へ帰り着くといふ寸法だ。「日曜日」と「汽車」とは電話や
巡査さんと同じやうに、幾ら利用しようとも利用し過ぎるといふ法はないのだから。
恋をするものにとつて、こんな結構な
媒介があらうか、それを思ふと、今日まで兵隊や
氷詰の魚ばかし輸送してゐたのは勿体ないやうな気持がする。それから、これは
極内々の話だが、汽車には寝台車といふものがあつて、相当の料金さへ出せば、誰にも顔を見られず、一人で
帷のなかで思ひ出し笑ひが出来る仕掛になつてゐるさうだ。有難い世の中さ。
紋所といふもの、もとは車の紋から起きたといふ説があるが、
真実の事か
何うか知らない。徳川家が
葵を紋所に用ゐるやうになつたのにも、色々な伝説がある。
酒井家の説によると、家康の祖父清康が岡崎にゐた頃
戦があつた。酒井家の主人は気の利いた男だと見えて、
円盆に勝栗を盛つて主人の前へ差し出した。
清康はそれをじつと見て、
「ほゝう、勝栗ぢやの、これは縁起がいゝ。」
といつて、
硬つぱしい
掌面にそれを取り上げたと思ふと、ばりばり音をさせて噛んだ。
栗の下には葵の葉が二三枚
布いてあつた。その日の
戦は無事に徳川家の勝となつたので、清康は記念に葵の葉を紋所に使ふやうになつたといふのだ。
本多家ではまた
異つた伝説を持つてゐる。本多家の祖先
某はもと加茂の
社家であつたが、豊後の
本多荘に流されたので、本多を名乗るやうになつた。
加茂の社家だつただけに本多家では二葉葵を紋所に使つてゐると、それを清康が見て、
「いゝ紋ぢや、俺の
家で使ふ事にしよう。」
と言つて勝手に取り上げて
了つた。もと/\加茂の二葉葵には長い
葉茎がくつ附いてゐるのだが、清康はそんな物は
無益だといつて摘み切つてしまつた。家康の
祖父さんだけにこんな事にも
吝つたれだつたと見える。
ラフカヂオ・ヘルン又の名小泉八雲氏は
時偶日本服を着る事があつたが、羽織の紋にはヘルンといふ自分の名からもじつて
蒼鷺をつけてゐた。鷺はヘルン氏の紋として恰好な動物であつた。
京都にある若い
画家があつた。
画が
拙かつた
故か、
度々女に捨てられた。だが、
何うしても
絶念められなかつたと見えて、羽織の紋所には、捨てられた女五人の名前を書き込んで平気でそれを
著てゐた。羽織は最初に見捨てた女が
拵へてくれたので、
地は薄かつたが、女の心よりは長持もしたし、値段も幾らか張つてゐた。
獅子や
驢馬と共同生活を営んでゐた仏蘭西の女流画家ロザ・ボナアルは、何処に一つ女らしい
点のない生れつきで、
夕方野路でも散歩してゐると
野良がへりの
農夫達は、
「へい、檀那様、今晩は。」
と丁寧にお辞儀をして、別れ際に
後をふり
回つて、
「あの小柄な檀那衆はいつも今時分
此辺を
いてるな。」
と朋輩に言ひ言ひしたものださうな。
米国にメエリイ・ヲルカアといふ有名な婦人がある。この婦人は他の事でもつと聞えてもよいのだが、
幸か
不幸か、いつも男装をしてゐるので、それで一層名高くなつてゐる。
なぜ男装してゐるかに就いて、この婦人の
答へは
至極はつきりしてゐる。
「私にとつては
女着の
袴よりも、ヅボンの方がずつと気持がよござんすから。」
尤もな理屈で、かういふ勇気のある婦人は、素足がヅボンよりも気持がいゝ事を知つたら、思ひ切つてそのヅボンをも脱ぎ捨てるかも知れない。
ある時この婦人がマサチウセツツの
某市へ旅をした事があつた。途中で道を迷つて
甚く当惑してゐるところへ、
農夫が一人通りかゝつた。
農夫といふものは、どんな時にでも、どんな所へでもよく通りかゝるもので、基督がお説教をしたがつてる時にも、
追剥が物を欲しがつてる所にも
得て
農夫がそこへ通り合はせる。そして
霊魂を
奪られたり、外套を
引つ
剥されたりする。
農夫といふものは、四福音書へ出るにも、探偵小説へ出るにも、
極日当が
廉くて、
加之に物が解らないから
手数が掛らなくていゝ。男装婦人はその
農夫に訊いた。
「一寸お訊ねしますが、
某市へはこの道を
往きますか。」
「あゝ、おつ
魂消た。」
農夫は眼をこすり/\言つた。「
俺はあ、何にも知んねえだよ。お
前様のやうな
女子みたいな男初めて見ただからの。」
折角柔かい乳房を持ちながら、男のやうな硬い考へ方をする
婦人がある。正直な
農夫め、そんなのを見たら、どんなに言ふだらう。
蕪村の
画の門人に
田原慶作といふ男がある。ある日日の
暮れ
方に師匠を訪ねると、蕪村の
家では戸を締め切つてゐる。
宵つ
張の師匠だのに、今日に限つて早寝だなと慶作は思つた。(蕪村が宵つ張なのに何の不思議もない筈だ、彼は
画家であると共に、
夜更しが
附物の俳諧師でもある。よしんば俳諧師でなかつたにしたところで、
文部留学生の洋画家が、昼間はカルチエル・ラタンの居酒屋と
球突屋で暮し、夜になつて
漸と絵具箱を
担ぎ出すのが多いのを見ると、蕪村にしても夜
画をかいたかも判らないのだから。)
慶作は出直さうと思つて、
逡巡してゐると、寝鎮まつた筈の家の中から、ぱた/\物を
叩く音がして折々何か掛声でもするらしい
容子がある。
「
怪体やな。一遍訊いてみよか。」
慶作はとんとんと
表戸を叩いてみた。
すると、
内から「どなた?」といふ声がして、
扉は静かに開けられた。
確に蕪村の声に相違ないので、慶作は不審しながら、入つて
往くと、
其辺ぢゆうに
箒や
塵掃がごた/\取り散らされて、師匠はひとりで
窃々笑つてゐる。
理由を訊くと女房と娘とは女中を連れて
逗留がけで里へ帰つた。その
留守事に一寸芝居の真似をしてゐたのださうな。
「こなひだ、
芝耕の芝居を見て、すつかり感じたもんやさかい、ちよつくら真似てみたが、なか/\
出来よらんわい。」
蕪村は声を出して笑つた。
京都大学のある法学者は、家族がみんな
不在になると、すつくと逆立になつて、書斎からのそり/\這ひ出して来て、玄関から台所まで一廻り廻つて来る癖がある。法学者だけにこの男も色んな事に理窟をつけないでは承知しないが、たつた一つこの逆立だけには理窟をつけてゐない。理窟が無い筈だ、本人の積りでは逆立は芸術ださうだから。
男といふものは、女房の居る前では
公然に
行りかねる「芸術」をそれ/″\もつてゐるものだ。芝居の真似事だらうが、逆立だらうが、
女房が
不在になつたら、さつとお
浚へをするが
可い。――これは女にしても同じ事だが、女はかういふ時には、大抵パン菓子を食べるものらしい。それにしても立派な芸術だ。
最近
希臘の各地方を巡遊して帰つて来た京都大学の浜田青陵氏は(幾ら古い物好きな浜田氏だつて、まさか希臘ばかしを見て来た訳では無からうが、希臘だけは幾度見て来たといつても
差支ない)希臘ほど失望させられた
土地はない、
那地は唯想像でだけ楽しむでゐればいゝ国だと
甚くこき
下してゐる。
浜田氏の言ふのによると、希臘には道路が無い、旅館が無い、山には樹が無い、河には水が無い。やつと
旅屋を見つけて、泊り込むと、直ぐと南京虫がちくちく
螫しに来るので、
迚も寝つかれない。留学費のなかから買込むだ
大缶の
蚤取粉を、
惜気もなくばら
撒いてみたところで一向利き目が無い。
それから今一つの難渋は
洗湯の高い事で、入浴料が日本の
貨で一円二三十銭。浜田氏の白状によると、氏は二ヶ月余りの旅に湯に入つた事は唯の一回だけしか無かつたといふ事だが、それも
真実の事か
何うだか判らない。もしか原
勝郎君のやうな人が、
「なに、希臘では偉い学者はみんな湯に入らぬものなんだ。」
と言ひでもすると浜田氏はその口の下から、
「
真実は僕も一度だつてお湯に入つた事はなかつた。」
と白状するかも知れない。
だから、希臘人といふ希臘人は
皆垢まみれで、
側へ寄つてみると、(考古学者だつて、
偶には
活きた人間の側に寄らないとも限らない)酸つぱいやうな匂ひがぷんとする。
「ソクラテスやアリストオトルも矢張あんな
匂がしたかも知れないと思ふと厭になる。」
と浜田氏は鼻をしかめて厭がつてゐるが、そんなに厭がらなくともよからう。幾ら異教徒嫌ひの神様だつて、まさかソクラテスと浜田氏を同じ
檻には
打込むまいから。
湯好きな日本人にも随分な湯嫌ひが居ない事はない。
俳優の中村鴈治郎などもその一人で、彼はこの頃よく東京の
劇場へ出るが、あの通りに
白粉をべた塗りする
職業でありながら、一興行二十六日間一度だつてお湯に入る事はないさうだ。彼はそれが
為めに
清潔好きな東京の女に嫌はれるかも知れないが、持つて生れた癖だけに平気で
垢塗れで通してゐる。
むかし
観世の家元に
豊和といつて家の芸は
素より、
香聞にも一ぱし聞えた男がゐて、
金春流の
某と仲がよかつた。で、
閑な折にちよい/\遊びに
往くと、金春家では香好きな豊和への御馳走とあつて、いつも秘蔵の香を
いたものだ。
豊和はそれを嗅ぐたんびに、
「どうも
素的な香だ、何でも
曰く
附の物に相違ない。」
とは思つたが、迂濶に言ひ出して、主人に物惜みされても詰らないと思つて、
態と黙つてゐた。言ふ迄もなく、金春家の主人は香道には
極の素人で、
今時の文学者と一緒に蚊取線香の匂ひを嬉しがる方の男だつた。
ある時、香道の家元
蜂谷貞重が江戸に
下つて来た。豊和は蜂谷の顔を見ると、
懐中から懐紙に包んだものを取出して、蜂谷が
生命より
大切の鼻を
引拗るやうにしてそれへ押しつけた。
「一寸聞いてみて呉れ給へ。実は
先日から君が
下つて来るのを待ちくたびれて居たのだ。」
包は豊和がこつそり金春家から取つて来た香炉の灰であつた。
蜂谷は自慢の鼻を一寸その灰に当てがつたと思ふと、眼を円くして
吃驚した。
「これあ君、赤栴檀ぢやないか、
何うも素的なものを
いてるね。」
「え、赤栴檀だつて!」
豊和はさう言ふなり、直ぐ表へ駈出して往つて金春家を訪ねた。
豊和は何気ない
振で、色々と世間話を持出してゐたがふと思ひ出したやうな
口風で、
「時に近頃御無心の次第だが、
先日中いつもお
きになつてゐたあの御秘蔵の香ですな、あれを少しばかり戴かれますまいかな。」
と切出してみた。
金春の主人は金でも貸せといふのかと思ふと、香の話なので、
「いや、お安い御用で……」
と、その場で
件の香を小指の先ほど割つて呉れた。
豊和はそれを左の
掌面で戴いたと思ふと、しかと右の
掌面で押へつけた。そして嬉しまぎれに大きな声で言つた。
「や、有難う。今だから言ふがこの香こそ
名代の赤栴檀だよ。」
「え、赤栴檀だつて。」
金春家の主人はさう聞いて、直ぐ手を延ばして香を取り戻しにかゝつたが、豊和は
敏捷く
内懐中にしまひ込んでしまつた。
骨董好きの
富豪に教へる。いつ迄も秘蔵の骨董を失ふまいとするには、自分達の家族を成るべく
物識にしておくが一番手堅い。
むかし
公家の
某が死にかゝつてゐると、不断
顔昵懇の坊さんが出て来て(医者が来るのが遅過ぎる時には、きつと坊主が来るのが早過ぎるものなのだ)
枕頭で
珠数をさらさら言はせながら、
「早く念仏をお唱へなさらなくつちや。さもないと
中有でお迷ひになるかも判らないから。」
と
甚く心配さうな
容子で、最後の念仏を勧めにかゝつた。
看護の者がべそを掻いたやうな顔をして、
「中有と申しますと……」
と訊くと、坊さんは嘘をつく者に
附物の
小鼻を妙にぴくぴくさせて、
「広い
荒野でな、西も東も判りませんぢやて。」
と
低声で答へた。
その
談話を苦しい
間にも病人が
洩聞をした。病人は骨張つた顔を坊さんの方へ
捻ぢ向けた。
「お
上人、そんな
荒野にも秋が来ますと、虫が鳴きませうな。」
お上人は急に
行詰つたやうな表情をして、てれ隠しに一寸
空咳をした。無理もない、中有の野に虫が居るか居ないかといふ事は、どのお経にも書いてなかつた。お上人はもしか間違つてゐたら、お布施を返す積りで
独断の返事をした。
「さやうさ、野といひますから、虫もゐるにはゐませうて。」
公家は死顔に寂しさうな
笑を洩らした。
「虫さへ居る事なら、中有とやらに迷つてもいゝと思ひます。だからお念仏だけは申しますまい。」
坊さんは苦笑ひをして口の中でぶつ/\言つてゐたが、病人はとうとお念仏の一遍も唱へないで亡くなつてしまつた。その中有の野とやらには虫が居たか居なかつたか、今だにはつきりしない。
上田敏博士の
追悼会が
先日知恩院の本堂で営まれた時、九十余りの骸骨のやうな山下管長が緋の
袈裟を
被つて、叮嚀にお念仏を唱へた。そしてその声一つで博士も浄土へ送り込まれたやうな顔をして入つて往つた。
自分はそれを見た時、博士のやうな運命のために
騙し
打に遭つたものが、念仏の声
位で成仏出来るものかと思つた。よしまた成仏出来るにしても博士は成仏すまいと思つた。
生前仏道は信じなかつたものの大学教授だつたから無切符で浄土へ入れると言ふかも知れないが、博士も矢張その公家と一緒に、虫の声に心を
惹かされてゐるに相違ない。
中橋徳五郎氏は
頻りと狸の焼物を集めてゐる。京都の高台寺焼を始めいろんな瀬戸物屋へ自分で出掛けて往つて、狸だと見ると値段を問はず買ひ込んで来るので、今では百幾つも溜つてゐるといふ事だ。
成程よく見ると、中橋氏の顔はどこか狸に
肖たところがある。さういつた所で何も
むきになるにも及ぶまい。ソクラテスに「先生のお顔はブル・ドツグに
肖てますね。」といつた処で、まさか決闘を申込はしなかつたらう。それどころか、あの哲学者の事だもの、「そんな
狗がどこに居るね。」とその足で直ぐ訪ねて往つて、
幼昵懇のやうに狗と一緒に転げ廻つたかも知れない。
中橋氏は実業家(氏は今ではもう政治家の積りかも知れない、
恰ど
水が
塩辛蜻蛉になつたやうに)には珍しく
書物を読むが、狸にしても文字をよく知つてゐるのがある。むかし植木
玉の親類に居た狸などはそのいゝ例である。
この狸は
家の者の見ぬ
間には、下手な字で障子襖に皆の
棚下しをする。「誰こわくない」「誰少しこわい」といつたやうな調子で。ある時来客がその噂を聞いて能勢の黒札を狸が怖がる話をすると、いつの間にか後の障子に、「黒札こわくない」と書いてゐたさうだ。
その
家の
女房が芝居の
八百蔵が大の
贔屓だつたが、その頃不入続きで
悄気てゐると、狸は「八百蔵
大へいこ」と書いて済ましてゐたさうだ。――中橋氏の狸も例の金沢の選挙無効を聞いて「徳ちやん大あたり」と書く位の洒落気はあつてもよからう。
先日七十三の
老齢まで女遊びをしたといふ西依成斎の事を書いたが、成斎の生れた
家は、熊本在の水呑百姓で、両親は朝
夙くから
肥桶を担いで野良へ仕事に出たものだ。
そんな
間に育ちながら、成斎は野良仕事を助けようとはしないで、日がな一日青表紙に
囓りついてゐた。
親爺は幾度か叱り飛ばして
漸と芋畑に連れ出しはしたが、成斎は
鼬のやうにいつの間にか畑から滑り出して、自分の
家に帰つてゐた。百姓だけに
仇花は
拗つて捨てるものと思ひ込んだ親爺は、とうと成斎を
家から
投り出す事に決めた。
成斎は泣く泣く
家を出たが、それでも出がけに節用集一巻を
懐中に
捻ぢ込む事だけは忘れなかつた。節用集といつただけでは今時の若い人には解らないかも知れない。ある大学生が国史科の教授に「先生、赤穂義士の
仇討といふのは一体
京都であつた事なんですか、それとも
東京なんですか」と訊いた事があつたといふ程だから、節用集といふのは今の小百科全書の事だと言ひ添へて置きたい。
成斎はその節用集を抱へ込んで、
狗児のやうに
鎮守の社殿の下に潜り込んだ。そして節用集を読み覚えると、その覚えた
個所だけは紙を
引拗つて食べた。
書物を読み覚える頃には、腹もかなり空いてゐるので、節用集はその
儘飯の代りにもなつた訳だ。で、十日も経たぬ
間に、とうと大部な節用集一冊を食べてしまつたといふ事だ。
灰屋紹益は自分が
生命までもと思ひを掛けた吉野太夫が死ぬると、その
骨を墓のなかに
埋めるのは勿体ないからと言つて、酒に混ぜてすつかり飲み尽してしまつた。
だが、かういふ事は余り真似をしない方がいゝ。今時の書物は鵜呑にすると、頭を痛めるやうに胃の腑を損ねる。それから女の
骨を飲むなどは以ての外で、七周忌目に
箪笥の
抽斗から、亭主をこき
下した日記を
発見たからといつて、一度
嚥み
下した後では
何うとも
仕兼るではないか。
そして、そんな女なぞ居ないと誰が請合ふ事が出来るのだ。
達て嚥みたかつたら三周忌を過ぎてからでも遅くはない筈だ。
独逸では戦争から起る人口の減少を気遣つて、戦線に立つてゐる元気な
壮丁に、時々
休暇を呉れて
郷里に帰らせ、
婦人と見れば無差別に子種を
植付けようとしてゐる。
先日京大の松下
禎二博士と大阪大学の木下東作博士とが或所で落合つた時、木下氏がこの話を持ち出して、
「まさかとは思ふが、
真実か知ら。」
といふと、松下氏は自分が下相談にでも
与つたやうに、
「
真実だともさ、実際
行つてるんだよ。」
ときつぱり答へた。
「でも。……」と木下氏は兎のやうな長い耳を一寸
傾げた。「戦線に立つてる兵士の多くは
女房や娘やを持つてるだらうが、自分の家族がそんな目に遭つてるのが黙つて辛抱出来るだらうか知ら。」
「それは出来ようともさ。国家の
為めだからね。」とこの
齢まで細君をも迎へず、一人で研究室に閉ぢ籠つてゐる松下博士は、モルモツトの話でもしてゐるやうな平気な調子で言つた。「兎に角
行つてるのださうだ。」
「だが、まあ考へてみ給へ。」木下氏は大きな
掌面で汗ばんだ鼻先を一気に撫で下した。鼻はその邪慳さに
腹立でもしたやうに真赤になつた。「もしか自身に
奥様やお嬢さんがあるとして、君はその
人達がそんな
酷い目に遭つてるのを平気で辛抱してゐられるかね。」
「さうさなあ」と松下氏は初めて気がついたやうに木下氏の真赤な鼻先を見つめた。そして「吾輩自身の事にしてみると……」と
独語のやうに言つてゐたが、急に笑ひ出した。「成程こいつは
迚も辛抱出来ないわい。してみると、独逸もそんな乱暴なことは
行つて
居らんかな。やつぱり噂だけで、
真実は
行つてないんだらうて。」
学者に教へる。帽子を買ふ時には自分の頭に
被つてみる。
履物を買ふ時には自分の脚に
穿いてみる。そして男女問題は真先に自分の細君に当てはめて考へてみる事だ。唯こんな場合には
醜い細君よりは美しい方がずつと恰好なものだ、丁度帽子を
被る頭は禿げたのよりも、髪の毛の長いのが恰好なやうに。
ある婦人が
市街を歩いてゐると、一人の男が
横合から飛び出して来て、じつと
婦人の顔を見てゐたが、
暫くすると黙つて婦人の跡をつけた。婦人は立ち止つた。
「何故あなたは私に
蹤いていらつしやるの、そんなにして。」
「何故つて……」男は一寸
揉手をした。「実をいふと、
貴女に惚れつちまつたのでさ。」
婦人はそれを聞いてビスケツトのやうに乾いた唇を一寸へし曲げたが、直ぐ愛嬌笑ひをした。
「まあ、有難いわね。だが、一寸御覧なさい、あそこへ私の妹が来かゝつてるでせう。妹は私に比べると、それは美しいんですよ。同じ手間なら
貴方、妹にお惚れなすつたら
如何……」
男は直ぐ引返して婦人が教へて呉れた女に近づいてみた。それは美人どころか、鼻の
挫げた
狗のやうな顔をした女だつた。男はぶつくさと
呟きながら、
先刻の婦人を
追駈けた。
「どうも恐れ入りましたね、
他を
担ぐなんて。
貴女は見掛によらない性悪ですね。」
「性悪……」と婦人は立ち止つて男の顔を見た。
凡ての男はこんな時
履の
踵のやうな痛ましい表情をするものだ。「
何方が性悪なんでせう、もしか仰有る通り、貴方が私にお惚れなすつたのだつたら、あの女の
方を
追駈けはなさらなかつた筈ぢやなくつて。」
これは
土耳其の
昔譚にある話だが、寺内総督が政権
譲渡で大隈侯の
撞木杖の
周囲をうろ/\したのなぞは、すつかりこれに似てゐる。土耳其人だつて馬鹿には出来ない。
茶人橘広樹の
死際こそこの上もなく静かなものだつた。その日は大阪にゐる友達から、名高いお城の
黄金水を送つて来たからそれでお茶を煮るのだといつて、仲よしの田能村竹田やなぞを招いて気軽さうに働いてゐた。
火を吹きおこしたり、
水瓶を洗つたりしてゐるうち広樹は急に気分が悪くなつたといつて横になつた。竹田は今更茶でもないので、
枕頭に坐つて看病してゐると、
暁方に広樹は重さうな頭をもち上げて竹田を見た。
「いろ/\有難う、だが、今度は
迚も助かるまい。もう茶を立てる
間も無ささうだから、あの黄金水を飲んでお別れがしたいものだな。」
竹田は
水瓶を引張り寄せて一口飲んで広樹にさした。病人は鶴が水を飲むやうな口つきをして
美味さうに一口に飲みほした。そして今一度といつて竹田にさした。竹田はまた飲んだ。
広樹は枕に顔をもたせて「今歌が出来たから、一つ書留てくれ給へ」といふので、竹田は筆を執つた。
ちよろづと
こそむすぶべき黄金水
汲みかはすれば
水泡とぞ消ゆ
広樹は
懶さうに頭を
擡げてその
拙い歌を見てゐたが、
独語のやうに、
「おや、水の字がさし合ひになつてゐる。死ぬ迄の
気紛れに一つ考へ直してみよう。」
と言つてゐたが、暫くすると、
「さうだ、『泡と消えゆく』でよかつたんだ。」
と言つたかと思ふと、その
儘息が絶えてしまつたさうだ。
静かな死際だ。唯一つ慾をいふと、歌だけが余計だつた。日本人は地味で
生一
本で
別に
言分はないが、
唯一つ辞世だけは贅沢すぎる。死際にはお
喋舌は要らぬ事だ。狼のやうに黙つて死にたい。
独身哲学者で名の通つた田中王堂氏は、近頃耳の長い白兎を二匹飼つて、
閑さへあればその面倒を見てゐる。
「何だつてまたそんな気になつたのだ。」
と訊くと、独身哲学者はもじや/\した頭の毛に
掌面を
衝込んで、
智慧を駆り出しでもするやうに
其辺を掻き廻した。
「でも、近頃は世間が物騒になつて、滅多に
人交際も出来ないんだから、かうして兎と遊んでるやうな始末さ。」
多分
一頻り噂のあつた岩野清子女史との結婚問題を気にして、それで一寸
拗ね出したものらしい。
哲学者が結婚しても
差支ないのは哲学者が白兎を飼つても差支ないのと同じ
理由だ。唯兎は飼主の掌面から黙つて餌を拾ふばかしだが、女は時々飼主の指先を噛む事がある。
岩野氏夫妻がまだ大阪にゐた頃、
良人の泡鳴氏が新聞社に出掛けると、清子女史は時々良人の監督だといつて、自分も新聞社へ出掛けたものだ。そんな時には
屹度丸髷に
金縁眼鏡をかけて、すぽりと
面を
被いて、足には
履を
穿いてゐる。
女房だから丸髷を、
近眼だから眼鏡を、風が吹くから
面を
被つてゐるのに
仔細は無いが、何故また履を穿いてゐなければならないのか、その理由が解らない。訊いてみると女史はにこりともしないで、
「履は貰ひ物ですよ。」
と言つて、その貰ひ物の履の
踵で馬のやうに床板を
蹴つたさうだ。
神様の謎を知つてゐる筈の哲学者だつて、あながち女の急所を知りぬいてゐるとも限らない。兎で辛抱出来るものなら、
女房は取らぬに越した事がない。
達て取らなければならぬとすれば、履だけは穿かせないに限る。履は
険呑な上に
蹠を台なしにする。蹠の綺麗な女は
叱言一つ言はれずに亭主の顔をさへ踏みつける事が出来る。
少し以前の事、茶話記者がまだ京都に住むでゐる頃だつた。ある日
小栗風葉氏の弟子分にあたる岡本霊華といふ小説家がひよつくり訪ねて来た。何だか一人ぽつちでこの世に生れて来たやうな、寂しい顔をしてゐる男だ。
「時にだしぬけに失礼ですが、質屋の
通帳をお貸し下さいませんか。」
岡本氏は両手を膝の上に置いて言つた。
「え、質屋の
通帳を。」
私は
呆れて相手の顔を見た。相手は私の
家のどこかに質屋の
通帳の二つか三つは懸つてゐさうな眼つきをしてゐた。
「旅に出て来て一寸
費ひ過ぎたもんですから、羽織でも入れたいと思ひましてね。なに、決して御迷惑は掛けません。」
岡本氏はかういつてその入れたいといふ羽織の襟を指先で
扱いてみせた。細かい銘仙の
絣で大分皺くちやになつてゐる。
「そんなにしなくともいいでせう。少しで足りる事なら私が
立替ませうから。」
とでも言つたらこの小説家の気に入つたかも知らないが、実際の事をいふと、私はその折
他に貸す程の金を持合せてゐなかつたし、それに折角質屋の
通帳があると
睨むで来た小説家にもそれでは済まなかつた。
私は言つた。
「妙な事があればあるもんですね。
昨日丁度君のやうな人が来て、
通帳は借りて
往きましたよ。」
小説家はそれを聴いて、自分が「こゝには
通帳がある」と睨んで来た眼の違はなかつた事を満足して帰つて往つた。
通帳の手に入る、入らないは全く運と言つてもいゝのだから。
虎列拉が
流行り出した為め大阪名物の一つ、築港の
夜釣が出来なくなつたのは、釣好きにとつて近頃の恐慌である。
むかし釣好きの江戸つ児が
鱚を釣りに品川沖へ出た。ちやうど鱚釣に打つてつけの日和で、獲物も
大分あつたので、船のなかで持つて来た酒など取り出して少し飲んだ。
ほろ酔の顔を
擽つたい程の風に吹かせて、その男はまた釣り出した。すると、直ぐ一寸
手応がしたので、
「おいでなすつたな。」
と
独語を言ひ言ひ、
鉤を合はせてぐつと引揚げた。
鉤には誰かが
河豚にでも切られたらしい釣鉤と
錘具とが引つ懸つてゐるばかしで鱚らしいものは一
尾も
躍つてゐなかつた。
「へつ、
遣られたかな。」
と男は
呟きながら何気なくその
釣綸を引張り寄せると、ちらと釣竿の端が見え出した。
半分程引寄せてみると、これはまた結構な釣竿で、自分の持合せなどとは
迚も比べ物になりさうもない。
「いゝ竿だ、大分
金目の掛つた
拵へだぞ……」
こんな事を言ひ/\、竿の根元まで引揚げると、しつかり握り詰めた人間の片腕がずつと揚つて来た。
「や、死人が……」
釣好きの男は覚えず声を立てて、手を放さうとしたが、
打捨るには余りに結構な釣竿なので、
「気の毒だが余り結構だからこの竿だけは貰ふよ。」
と、言訳をしいしい、その片腕を
捉へて堅く握りつめた五本の指を
解いた。竿から外された片腕は黙つて沈んで行つた。
「金目の懸つた竿だけに
溺死ぬ場合にも心が残つて、あんなに
聢り握り
緊めてゐたのだらうて。」
と拾つた男は
後々まで噂をしながら、その竿で鱚を釣り、蟹を釣り、ある時は
剽軽な
章魚を釣つて笑つたりした。
だが、そんな金目な竿と一緒に溺れた男は誰だつたらう。左手に竿を握つてゐなかつたのを見れば、寺内伯で無かつた事だけは事実だ。それに考へてみると、時代も江戸の頃だ。まあ安心するさ。
岩野泡鳴氏は厭になつて自分が捨てて逃げた清子夫人と哲学者の田中王堂氏とが
怪しいといつて、
態々探偵までつけて二人の
行動を気をつけてゐたが、とうと辛抱出来ぬ節があつたと見えて、持前の
癇癪玉を破裂させた。
岩野氏が田中に当てつけた厭味を読むと、
「
汝は
燕の
不在に
燕の巣に入り、
夜の十二時過ぎ迄も話し込み早く帰れよがしに取扱はれても、それを自分に対する尊敬と思ふ程、それ程自信の深い好人物だ。」
「人の見限つた女でも、欲しければ貰つてやつても
可い。
然しまだ籍が抜けないのに
態々離婚訴訟の渦中に飛び込んでその女の旅先までも追ひゆき、女の
家へは行き度くないからだと
呆け顔。そして実は
何うだ、探偵の報告によると、口に婦人のやうな声を出させて、
度々ほくろの鼻をのつそりと女の門に入れるのはいつも午後の九時過ぎからである。
汝薄のろの哲学者よ……兎角汝は人の亭主の
明巣を
狙ひたがる。」
といふ激しい文句がある。
岩野氏のやうな、女を捨てる事を草履を
穿き換へる位にしか思つてない人でも、その草履を
独身者の哲学者が、つい足に突つ掛けるのを見ると、急にまた惜しくなつて、
嫉けて
妬けて溜らなくなるらしい。
そこが女の
附込み
所で、世の中の賢い女は、この急所をちやんと知りぬいてゐて、何喰はぬ顔で亭主を操縦する。さういふ女に懸つては、男は馬よりも忠実である。清子夫人がそんな女か
何うかはよく知らないが、唯この婦人を中心に泡鳴氏と王堂氏が
追つ
駆つこをしてゐるのは面白い。手製ではあるが二人とも日本一の文学者ださうだ。こゝでいふ日本一は
箕有電鉄の沿線にたんと転がつてゐる日本一と同じ意味である。
ベンヂヤミン・フランクリンが
女房を迎へようとした時、その女の母親は聟がねフランクリンの
職業は何かと訊いて寄こした。フランクリンは幾らか自慢のつもりで、
「新聞記者です。」
と答へた。
「え、新聞記者だつて……」女の母親は飛び上るばかり
吃驚した。「新聞記者のやうな、そんな忙しい
職業を
仕てる男に、
宅の娘は添はせたくないものですね。」
母親の積りでは、
可愛い娘の事だ、出来る事なら教会の牧師のやうな、日曜日にだけお
定りの御祈祷をして、あとの六日はぼんやりして過すやうな
閑な男に
遣りたかつたものらしい。
フランクリンの頃には亜米利加全国を通じて、たつた六
種の新聞しか無かつたといふからにはフランクリンの携はつてゐた仕事だつて、忙しいとは言ひ条
高の知れたものだつたに相違ない。だが、それすら忙しいからといつて、一度は縁談が破談になりかけたのだ。
ところが今では女の好みも大分移り変つて、聟選みをするには、成るべく男の
職業が忙しいのを好くといふ事だ。著作家や牧師のやうな
始終家ばかしに
燻つてゐるのは一番の困り者で、出来る事なら
船乗や海軍軍人のやうな月の半分か、一年の
何分一かを海の上で送つて、滅多に
家へ帰つて来ないのへ
嫁きたがるといふ事だ。
ある日本汽船が独逸の潜航艇に沈められたといふ噂の立つた時、ある男がその船の機関長の
不在宅を見舞つた。電報を見せて
悔みを言ふと、若い夫人は
毀れた
玩具人形のやうに胸をぺこ/\させて泣き出した。
「貞女かな。」
とお客はその泣声を聞きながら思つた。お客といふのは、ハム・サラダと貞女とが大の好物なのだ。
一
頻り泣き止んだ時、お客は機関長の
年齢を訊いた。
「
恰ど三十二なんですわ。」
追かけて
平素の好物を訊くと、夫人は
低声で答へた。
「カツレツと尺八が一番好きでございましてね。」
お客は
帰り
途に、会社に寄つて、同僚に
確めてみると、夫人の言葉は大抵間違で、機関長の
年齢は三十七。尺八が好きなのは船長で、無器用な機関長は吹く
術さへ知らなかつたさうだ。
夫人が
出鱈目を言つたに少しの不思議もない。
長の
不在に女は男を忘れてゐたに過ぎないのだ。尤もカツレツだけは機関長もよく食べさせられた。女といふものは、亭主の
不在には大抵一つ位は新しい料理を覚えてゐるものだ。そしてそれを亭主に頬張らせる事によつて
不在中の
色々な事は帳消しになると思つてゐる。
自分の
隣家に
謡曲の師匠が住んでゐる。朝から晩まで
引切なしに鵞鳥の締め殺されるやうな声で、
近傍構はず
謡ひ続けるのでその
喧しさといつたら
一通の沙汰ではない。
謡曲が済む頃になると、
其家の
忰が蓄音機を鳴らし出す。それがまた奈良丸の
浪花節一式と来てゐるので、
迚も溜つたものではない。
華族と法律とを
拵へる事を情慾のやうに心得てゐる国家が、何故「
音曲」に関する法律だけは
打捨り
放しにしてゐるのか
理由が分らない。
短銃は弾一つで人一人しか殺さないが、騒々しい音曲は近所隣りの良民をすつかり
狂人のやうにしてしまふ。実際自分などは下手な
謡曲を聴かされると気が荒くなつて直ぐに決闘でも申込みたくなる。
独逸の宰相ビスマルクが議会で反対党のヰルヒヨオから
小つ
酷く攻撃された事があつた。ヰルヒヨオは独逸のお医者さんだから、その攻撃に謡曲や蓄音機を持込んだ訳でもなかつたが、ビスマルクは鉄瓶のやうに湯気を立てて
怒つた。
で、相手の事務室に飛び込むなり、直ぐ決闘を申込んだ。ヰルヒヨオは
急きこんだ大宰相の顔をじろ/\見て、気味が悪い程落付いてゐた。
「いや
御申込みは
確に承知しました。だが、武器の
撰好みは申込まれた方の権利にある。ところで……」
とお医者さんは
薬焼のした指で棚にある壜の一つを指し示した。「私はあれを貴方と二人で飲みたいと思ふ。」
ビスマルクは英吉利製のヰスキイでもある事かと振り返つて壜を覗いてみた。壜にはこの政事家の好きな独逸語で「
虎列拉菌の培養液」と書いてあつた。
ビスマルクはそれを見ると、急に
悄気返つてゐたが、都合よく仲裁者が出て来て、決闘は沙汰止みになつて了つた。
自分は
隣家の謡曲家に決闘を申込む位は
厭はないが、武器に「謡曲」でも撰ばれはしなからうかと内心びく/\してゐる。あれは
何うかすると、決闘者ばかりか、介添人をも一度に頓死させてしまふから。
色街で
女買をするのを男の自慢のやうに心得てゐる男が一年程過ぎて
算盤を取つて見ると、
費が思つたよりは意外に
嵩んでゐるのに気が
注いた。
「これではどむならんわい。女買も悪くはないが、こんなに費用が掛つては一寸
考物やな。」
と、じつと両手を
拱んで思案に暮れてゐたが、ふと忘れ物をしてゐるのに気が注いてにやりとした。
忘れ物とは他でもない
女房の事だ。
女房といふものがあるのに、
態々外へ出て女買ひに
耽つたのは勿体なかつた。
「魔がさしたんやな。これからは一心に金を取り返さなならんわい。」
と、その男は気が注いたやうに
女房の顔を見た。
女房は板のやうに平べつたい顔をして笑つた。
その男はそれからといふもの
女房と寝る
度に、以前の放蕩を思ひ出して、一両
宛貯金筒に投げ込んで置いた。そして半ヶ年の後にその筒を
検べてみると、随分な高に
上つてゐるので、男も女も声をあげて喜んだ。
それからといふもの、夫婦は一生懸命になつて金を
貯めた。そして一年の後になつて勘定してみると、三百八十五両溜つてゐたさうだ。これは言ふ迄もなく
往時の訪だが、
往時だからといつて、一年は三百六十日しか無かつたのだ。
千利休がある時
昵懇の女を、
数寄屋に呼び込んで
内密話に
無中になつてゐた事があつた。世間の人は利休といふと、一生涯お茶の事しか考へなかつたやうに思ひ違へをしてゐるらしいが、利休はお茶と同じやうに色々世間の事も考へてゐた男なのだ。
利休の女房は、
余程の
疳癪持だつたと見えて、亭主と女との
逢曳を
勘づくと、いきなり刀を引つこ抜いて、数寄屋へ通ふ路地の木を滅茶苦茶に
伐りつけ、
加之に数寄屋に並べてあつた
大切の茶器を手当り次第に
叩き
破つて了つた。
ソクラテスの女房は、
何うかして機嫌の悪い時には、一
頻我鳴りたてた
揚句の
果が、いきなり
水甕の水を哲学者の頭に、滝のやうに
打ち
撒けたものだ。すると、哲学者は魚のやうに水のなかで溜息をついて、
「
雷鳴のあとに、夕立の来るのはお
定まりさ。」
といつて平気な顔をしてゐたさうだ。
利休は女房の
叩き
破つた茶器を、一つ一つ拾ひ上げて、克明にそれを漆で継いだものだ。そして女房のちんちんなどは素知らぬ顔で相変らずお茶を
啜つてゐた。
ある人がその茶器を不思議がつて
由緒を訊くと、利休は何気ない調子で、
「さればさ、茶器など申すものは、その
儘では一向面白味が御座らんから、
態と割つて漆を引いてみました。路地の木も同じ趣向で、あのやうに枝を一寸
伐り
透して置きましたが……」
と言つて、
態々立つて障子を
開けて見せて呉れたさうだ。
工学博士田辺
朔郎氏は、軍人軍属のためには靖国神社を始め、色々の
鎮魂の道具があるのに、学者や芸術家にはそんな設備が少しも無いのは国家として国民として片手落な次第だ。これだけは是非何とかしなければといふので
近々高野山に素晴しく大きな英霊塔を建立する考へださうだ。
考へは結構だが、自体学者や芸術家などいふ
連中には
旋毛の曲つたのが多いから、英霊塔を建てたからといつて、その
儘成仏はしなからう。尤も学者や芸術家は生前忙しく暮した
故で、まだ高野山を見ないで死んだ
輩も多からうから、博士の手で無賃乗車券でも配つたら、その人
達の
霊魂も一度は
屹度登山するに相違ない。
高野山には
色々な人のお
骨がたんと納まつてゐる。あれは
弥勒出世の暁に弘法大師が皆の手を執つてお迎へに出られる誓願があつたからださうだが、大師の考へでは
高々三十人位の積りらしかつたが今のやうにたんと納まつては一寸始末に困るだらう。そんな事から弥勒菩薩も今では一寸顔出しが出来なくなつたらしい。
むかし熊坂
長範が山で一稼ぎする積りで
夜が更けて高野へ登つた事があつた。大きな
伽藍は皆門を閉ぢてゐるなかに、
唯一つ小さな
灯の見える所がある。覗いてみると皺くちやな坊さんが一人立つてゐて、
附近には人間の骨がごろ/\転がつてゐる。長範は自分が
盗賊に来た事も忘れて
理由を訊くと、坊さんは例の弥勒出世の大師の誓願を説いて聞かせた。
長範はそんな事なら、自分も御一緒に願ひ度いと言ひ出した。長範の腕は盗みをするだけに寸も長かつたし、納骨には
打つて
附の代物であつたが、山でもまだ一稼ぎしなければならぬので、一寸
出し
惜みをした。で、石でもつて前歯を一つ叩き折つた。
「ぢや前歯を一つ納めて置きませう、
何卒お忘れのないやうに。」
と言つて駄目をおしてその歯を坊さんの手に載つけた。前歯はこれまで幾度か嘘を
吐いた歯ではあつたが、その歯が一本無くなつたからといつて
今後嘘を
吐くのに別段差支へる訳でもなかつた。
長範は
好い物を納めた。だが、時期が少し早過ぎた。もつと
齢をとつて、
入歯をする頃にしても遅くは無かつたのだ。弥勒は今だにぐづ/\してゐられるから。
むかし嵯峨に独照といふ僧が居た。
黄檗の
隠元が日本へやつて来た折、第一に
払子を受けたのは、この独照だつたといふからには、
満更の男では無かつたらしい。
この独照がまだ小さな庵室に籠つてゐる頃、ひと秋雨のしよぼ/\
降り
頻る夕方とん/\と門の
扉を叩くものがある。独照は何気なく出てみると、若い女が外に立つてしく/\泣いてゐる。
独照が「
何うかなすつたのかい。」と訊くと、娘は
艶めかしい京言葉で
理由を話した。それに依ると、娘は
中京辺の
商人の一粒種だが、今日店の者大勢と一緒に山へ
茸狩に往つた。初めて山へ来てみた嬉しさに、娘は一人で木立を分けてゐるうちに、つい連れにはぐれた。その内、日は暮れるし、雨は降り出すし、方々捜し歩いた末、
漸とここまで下りて来る事が出来た。
「ほんまに御気の毒さんどすが、今夜一
夜さだけお泊めやしてお呉れやす。」
女はかういつて丁寧に頭を下げた。
独照は女を
庫裏に連れ込み、
湿れ
徹つたその着物を脱がせて鼠色の自分の着物を
被せてやつた。そして囲炉裏に
榾をくべて、女はそこに
打捨らかした
儘、自分ひとり煎餅蒲団に
包まつてごろりと横になつた。
「まあ、いゝ気な
和尚さんやわ、御自分ひとりお蒲団に
包まつて。」
女は
蓑虫のやうに坊さんの
包まつた蒲団をめくりに掛つた。そしてその端の方に自分も小さく横になつた。
夜が更けて、本尊様が寝言でも仰有らうといふ頃、独照はがばと
跳起きた。
「何をする、
不届者めが……」
と、解けかゝつた帯を締め直して、その儘女を引きずり起して門の外へ押出してしまつた。女は扉につかまつて、
「あんまりどすえ、
和尚さん……」
と泣き入つてゐたが、独照は耳を
藉さうともしなかつた。
その噂が村の人に伝はつて心堅い和尚様だといふので、独照は立派な寺を建てて貰つた。
寺がいゝか、女がいゝか。いつ迄経つても味のある問題である。
トルストイ伯は、その名著『アンナ・カレニナ』のなかで、
塞耳維対
土耳其の
紛紜から、もしか戦争でもおつ
始まるやうだつたら、筆一本で
喧しく主戦論を吹き立てた人達だけで、別に中隊を組織して、一番前線にそれを使ふ事にしたい、「すると、
屹度立派な中隊が出来る。」と皮肉を言つてゐる。
イダ・ハステツド・ハアパア女史といふと、婦人参政権の賛成論者として
相応名を売つてゐるが、この女が最近
紐育の有名な新聞記者に会見を申込んで来た。それはこの記者を
生擒にして、新聞紙の上で
熾に賛成論を書き立てさせたら、屹度
効力があるだらうと思つたからだつた。
「婦人参政権ですつて? 今時そんな下らない……」と新聞記者は吐き出すやうに、「もしか私達の国が欧洲戦争に引張り出されるとして、誰が武器一つ取る事を知らない
輩に投票なんかするもんですか。」
とそつ
気なく言つたが、相手の険しい顔色を見ると、一寸
調弄つて見たくなつて、
「
奥様、
貴女だつたら
何うなさいます、もしか戦争でも始まりましたら。」
「はい、貴方のしてゐらつしやる通りに
遣りますわ。」と夫人は急に
雌鳥のやうに鼻息を荒くした。「お国の為めだからつて、
他の人達はみんな戦線に立つて血を流すやうに書き立てませうよ。そして自分一人は
編輯室の安楽椅子に
踏ん
反りかへつてね。」
高安月郊氏が同志社女学校で東西比較文学の講義をしてゐた頃、
講話の
序でから話題が「文学者と髯」といふ事にまで及んで来た。
高安氏の持論によると、詩人芸術家すべて傑出してゐる人物には、
定つたやうに髯が無いといふのだ。氏はその例として、ダンテ、ゲエテ、シルレル、ミルトン、シエリイ、キイツ、芭蕉、馬琴、
巣林子……などいふ名家を引張り出して来た。
談話に聴きとれてゐる女学生は、かういふ詩人の肖像を頭のなかで描き出してみた。大抵安雑誌の口絵で見覚えてゐるので、誰も彼も天然痘を
患つたやうな顔をしてゐるが、実際髯の無い事だけは確かであつた。
女学生は詩人や芸術家のなかから、髯の無い例を探り出すのが面白くなつて、てんでに自分達の記憶から
色々な人達の口元を思ひ浮べて見た。
「紫式部、清少納言、ヂヨオヂ・エリオツト、クリスチナ・ロセツチ……成程ほんとやわ、みんな髯があらへん。」
若い娘達は感心したやうに高安氏の顔を見た。成程この人にも髯といつては一本も生えてゐない。
女学生の眼は言ひ合はしたやうに、高安氏の立つてゐる講壇の
後方に注がれた。そこには写真版のロングフエロオの肖像が掛つてゐる。それを見ると、皆は一度に声を揚げて笑ひ出した。
高安氏は何気なく
後方を振向いてみると、ロングフエロオが悪性の風邪でも引込んだやうに、顎髯をもじや/\生やした
儘、後で苦り切つてゐるのが目についた。
氏は一流の
扱き
下すやうな調子で、「うん、この男か。この男なざ小詩人だから
全で問題にならん。」
この
談話を聴いた女学生は今ではそれ/″\
巣立をして人の
細君になつてゐるが、誰一人詩人や芸術家には
嫁いてゐないらしいから、髯の
有無は余り問題にはしてゐない。実際髯
抔は
何うでも
可い、問題は尻尾の
有無である。女の嫁きたがる男には狐の様によく尻尾を
引摺つてゐるのがある。
マリイ・アンチンといふ
猶太種の女は、火のやうな激しい性格で、今アメリカの各地方で
頻りと演説をし歩いてゐる。その演説といふのは、猶太人が伝説的に持ち伝へてゐる、神様がお約束の理想郷は、他でもない亜米利加の事だといふのだ。
成程聴いてみると、
尤もな話で、亜米利加には猶太人の好きな金は有り余る程あるし、
口喧しい神様は居無いし、
加之に男はみんな女に親切だといふから、
猶太種の女が理想郷とするに打つて附けの土地柄だ。そして今一ついゝ事には亜米利加人といふ奴は、こんなお世辞をいふと、
極つたやうににこ/\して、
「マリイ・アンチンはよく物の解つた女で、
加之に素敵な美人だ。」
と直ぐもう美人にして呉れる。
この女が最近
土耳其から帰つたばかしの男の友達と何処かで会つた。男は
色々な面白い旅行話を聞かせた後、指の
節をぽき/\鳴らしながら、
「さうだ、忘れてゐたが、土耳其には面白い二つの習慣があるんですよ。」
と妙に調子をはずませて話し出した。
「それはね猶太人と狗だと見ると、ふん
捕へるなり、直ぐ叩き殺してもいゝんですとさ。」
マリイ・アンチンの円い顔は銀貨の様に真青になつた。
「まあ、仕合せだつたわね、
貴君や私がそんな国に住んで居なかつたのはね。」
男の友達は眼を円くして
吃驚した。自分は
猶太種ではない。してみると、相手は自分を狗と間違へてゐるのだと思つて……。
元良勇次郎博士が、生前大学で心理学の講義をしてゐた頃、ある時何かの例証を和歌から引いた事があつた。(和歌といふものは、手際よく例をひくと、
旱天に雨を降らす事も、借金の日限を延ばす事も出来るものなのだ。)
博士はフロツクコオトの隠しから皺くちやな
手帛を取出して、一寸
洟をおし
拭うた。そして
例の几帳面な調子で、
「一体和歌といふものは、諸君も御存じかも知らんが、
三十一文字といつて、ちやんと三十一字から
成立つてゐる。こゝに一つ例をあげると……」
と博士は一寸言葉を切つて記憶から手頃な歌を一つ探り出さうとした。
甜瓜の恰好をした博士の頭のなかには、歌といつては『百人一首』が二つ三つ転がつてゐるに過ぎなかつた。博士は
顳を
拇指で押へた
儘じつと考へ込んでゐると、都合よく
道真公の歌がひよつくりと滑り出して来た。
「こゝに一つ例をあげると……」と博士は繰返して、「名高い百人一首にある歌だが丁度三十一文字で出来てゐる。」と叮嚀に
節高な指を折つて数へ出した。「
菅家、このたびは
幣もとりあへず
手向山……」
歌を
下の句まで
誦んでしまふと、忠実な博士の指は三十五文字を数へてゐた。それに何の不思議があらう、歌は第二句目で一字延びてゐる上に、博士は「菅家」といふ名前までも
数み込んでゐたのだから。
博士は数へた片手を
中に
浮けたまゝ、世間が厭になつたやうな顔をして棒立になつてゐたが、暫くするとぐつと唾を飲み込んだ。
「あゝこれは字余りでした。和歌にはちよい/\字余りといつて、普通のより文字が延びてゐるのがあります。丁度猿に尻尾の長いのがあるやうなもので……」
高芙蓉がある時弟子を集めて、
蒙求の講釈をしてゐた。「
車胤集螢」の章になると、高芙蓉は肝腎の
車胤の事なぞは忘れたやうに、これまで自分が見て来た方々の螢の話をし出した。そして最後に宇治の螢を引張り出して、「
那処の螢は大きいね。さやうさ、雀よりももつと大きかつたかな。何しろ
源三
位頼政の亡魂だといふんだからな。」と吹いてゐたさうだ。
笑つては
可けない。先生といふものは、大抵こんな事を教へるやうに出来てゐるものなのだ。
京都といふ土地は妙な習慣のあるところで、少し文字を
識つた男が四五人集まると、
屹度画箋紙か
画絹をのべて
寄書をする。亡くなつた上田敏博士は、そんな時には
定つたやうに、ヘラクリトスの、
「万法流転」
といふ
語を書きつけたが、それが少し堅過ぎると思はれる場合には、『松の葉』のなかから、気の利いた小唄を拾つて来てそれをさら/\と書きつけた。
博士は詩歌も
巧かつたし、警句にも富んでゐたから、自分の頭から出たそんな物を書きつけたらよかりさうなものだのに、
何うしたものか、何時でも「万法流転」と『松の葉』の小唄を借用してゐた。
むかし
王羲之が
山といふところに住んでゐた頃、近所に
団扇売の
姥さんがゐた。六角の団扇で一寸洒落た恰好をしてゐた。ある時王羲之の
家へも売りに来たが、こゝの主人は、唯の一本も買はないで、
加之にその団扇へべた/\楽書をした。(どこの国でも文学者や
画家などいふ
輩は、滅多に物を
購はないで、直ぐ楽書をしたがるものなのだ。)
それを見ると、
姥さんは火のやうに
憤つて、折角の売物を代なしにした、是非引取つて貰はうと懸合つたが、王羲之は黙つて財布を
揮つてみせた。財布には
散銭一つ鳴つてゐなかつた。
「何そんなに怒るがものは無いさ、
俺の楽書だと言つたら、誰でもが手を出すよ。」
王羲之は落着き払つてこんな事を言つた。
姥さんはぶつくさ
呟きながらも出て往つたが、町へ持つて出ると、色々な人が
集つて来た。
「なに王羲之の楽書だつて。」
と言つて、めい/\ふん
奪り合ひをして、高い値段で引取つて往つた。
姥さんはにこ/\もので帰つて来た。そして六角団扇をしこたま抱へ込んで、また王羲之の
許へやつて来た。
「さ、遠慮なしに、も一度楽書をして呉れさつしやれ。その代りには気に入つたのを一本お前さんに進ぜるからの。」
と言つたが、今度は王羲之の方が相手にならなかつた。
王羲之がどんな文句を
塗つたか、私はその団扇を買はなかつたから、そこ迄は知らない。
法隆寺の
雷爺北畠治房老人などが寄つて
集つて北畠
准后の墓に相違ないといつて、
態々発掘にかゝつた
室生寺の境内から、
碌な物といつては何一つ出て来なかつたのは面白い。もしか
親房卿から今の北畠男爵になる迄の歴とした系図でも出たら、法隆寺の老人も
煙草入のやうな口を
開けて喜んだに相違ないが、惜しい事をしたものだ。
支那の三国時代に
鍾といふ名高い書家があつた。この男が書いた草書は「
飛鴻海に戯れ、
舞鶴天に
游ぶが如し」とあるから、こんな人から手紙を貰つたところで仮名が振つてなかつたら少しも読めなかつたかも知れない。
この鍾
が先輩の韋誕といふ男に、
蔡の筆法を訊きに往つた事があつた。すると韋誕はそれを惜んで
何うしても
諾と言つて教へて呉れなかつた。
間もなく韋誕が死ぬると、鍾
は小躍りして喜んだ。そして人に知られぬやうにこつそりその墓を掘りかへして、棺のなかから蔡
の秘書を盗み出した。鍾
の書が急に
巧くなつたのは、それからだといふ話だ。
ある人が元の張伯雨といふ男の墓を掘つてみた。すると中から青い表紙の珍らしい書物が二冊見え出した。
「これだ/\。自分が見たいと思つてるのは。
奴さんやつぱり
懐中に
捻ぢ込んで御座つたな。」
と無駄口を言ひ/\、泥のついた手で先づその一冊を取り出した。そしてそれを
附近の乾いた石の上に置いて、今一冊の方を取り出さうとすると、その本はもう影も形も見えなくなつてゐた。
「
奴さん、惜しがつて引込めたな。無理もないさ、あんなに見せともなかつた本だからな。」
と、その男は幾らか気味も悪かつたので、一冊だけですつかり
絶念めて、また
以前のやうに墓へ土をかけて置いたさうだ。
新しい文科大学の卒業生が就職口に困つて、その周旋
方を井上哲次郎博士に頼みに往つた事があつた。博士はその朝何処かの新聞で二行ばかし自分を賞めてゐた記事があつた。それでも読んだかして
大分機嫌がよかつた。
「うむ、君一人位だつたら
何うにかならん事もなからう。今日はまあ
悠くり遊んで
往くさ。」
と言つて、色々な世間話をし出した。
一
頻り世間話が済むと、博士は、
「一寸こつちへ
蹤いて来たまへ、君にはまだ
自宅の
書庫を見せなかつたね。」
と
態々立つて自慢の書庫へ案内してくれた。大学でも
書物好きの友達を探し出す時の
外は、滅多に書庫に入つた事の無かつたその男は、一寸厭な顔をしたが、それでも不承々々に蹤いて往つた。
薄暗い書庫のなかには、色々な
書物がさつと一度に猫のやうな金色な眼を光らせて、この
昵懇の薄いお客を見つめた。博士は「真理」を掴むために特別に
拵へさせたらしい脂つ気の無い手で、隅の方を指さした。
「あすこが哲学、それから文芸、神学――とまあ、東西古今の書物で
目星しいものだけは残らず集めてあるがね。困つたのは火事だて。」と博士は火災保険の会社員のやうに一寸眉を
顰めて、「実際火事には困る。他の家財はみんな焼いたつて構はないが、この書庫だけは
失くし度くないからな。」
と心配さうに言つたが、ふと気がついたやうに
後方を振かへつて訊いた。
「君達はまだ
書物も格別溜つてゐなからうが、一体書庫はどんな設備にしたものかな。」
「書庫の設備ですか。」と卒業生はつい
浮かり口を滑らした。「そんな物は私達には要りません。読んだだけの書物はちやんと
此処に
蔵めてありますからね。」と調子に乗つて
雲脂だらけな頭を指さした。だが
真実の事をいふと、その頭のなかには探偵小説の二三冊と、女の手紙と、誤訳だらけのタゴオルの哲学がごつちやになつてゐるに過ぎなかつた。
博士はそれを見て、「ふふむ」と言つて、不機嫌な顔をしたが、座敷に帰るなり相手の頭を
見下して、
「就職口と言つたところで、何処にも椅子を
空けて君なぞ待つてる
処は無いんだから、自分にもせつせと捜さんければ
可かん。」
と素つ気なく言つたさうだ。
この
頃欧羅巴の西部戦線にゐる英軍の
塹壕内では、
彼方でも
此方でもキツチナア元帥に遭つたといふ風説が
盛に行はれてゐる。オウクネエ島附近で溺死した元帥が今頃
蘇生つてゐる筈もないが、それでも
彼方でも見た、
此方でも見た。なかには
埃塗れの手で、湯気の立つたスウプの皿を持つてゐるのを見掛けたと言ふからには、これも
満更嘘だとばかしは言はれない。
先年オスカア・ワイルドが
巴里の汚い宿屋で窮死した時も、その後二三ヶ月経つてから
彼方此方の町でワイルドを見掛けたといふ人がちよい/\あつた。
伊勢は寂照寺の画僧
月僊は乞食月僊と言はれて、幾万といふ潤筆料を
蓄め込んだ坊さんだが、その弟子に谷口月窓といふ男がゐて、
沈黙家で石のやうに手堅い
性れつきであつた。
沈黙家ではあつたが、世間並に
母親が一人あつた。この
母親がある時芝居へ
往くと、
隣桟敷に
予て
知合の
某といふ女が来合せてゐた。その女は大の芝居好きで、亭主に死別れてからは、
俳優の顔ばかり夢に見るといふ風な女であつた。
その日も二人は夢中になつて、芝居や
俳優の噂をした。
翌る日になつて、月窓の
母親が挨拶かた/″\その女を訪ねてゆくと、鼻の
尖つた嫁さんが出て来て不思議さうな顔をした。
「
阿母さんですか、
阿母さんは
貴女、亡くなりましてから、今日で三
月余りにもなりますよ。」
「え、お亡くなりですつて。でも、私は
昨夜芝居でお目に懸りましたが……」
「まさか。」
といつて嫁さんは相手にしなかつた。そして
何うかすると、
此方を
狂人扱ひにしさうなので、月窓の
母親は黙つて帰つたが、道々
蹠は地に着かなかつた。
石黒忠悳男は今では
閑にまかせて茶の湯を立てたり、
媒人をしたり、また喧嘩の仲裁をしたりして暮してゐる。その石黒男の
邸に長年
奉公めてゐる女中が、ある日の事、男爵の前に両手を突いて、
「檀那さま、一寸お願ひが御座いまして……」
と
結ひ
立の頭を下げた。
夫人に子種が無いからといつて、頑丈な田舎娘を女中に
傭ひ入れて、立派な男の子を
拵へた程の男爵ではあるが、近頃は
齢を取つてゐるので、別に女中から相談を持込まれる程の
悪戯も無かつた筈だ。それだけに男爵も一寸見当に困つた。
男爵は禿げた頭をつるりと
撫で
下した。
「何ぢや、
宿下りなら奥にでも頼んだがよからう。」
「いえ」と女中は言ひ
難さうに一寸膝の上を見つめた。「
甚だ申し兼ねますが、乃木さんのお手紙を二本ばかし戴かれますれば……」
「うむ、乃木の手紙が欲しいといふか。」
と男爵は今更のやうに気をつけて女中の顔を見た。
円々と肥えた顔に細い目が
開いてゐるので、いつも
膃肭臍のやうだとばかし思つてゐたが、今見ると何とかいつた芝
辺の女医者によく
肖てゐる。膃肭臍と女医者、大層な
違ぢや、
矢張り
邸にゐるお蔭だと男爵は思つた。
「乃木の手紙を欲しがるとは近頃感心なこつちや。だが、何故また二本要るかの。」
女中はもう貰へる物だとばかし思ひ込んで、丁寧に頭を下げた。
「はい二本御座いますと、帯が一本買へるさうに承はりました。」
石黒男は大きな
掌面で鼻先を撫で下されたやうに目をぱちくりさせた。よく見ると女医者に肖てゐた女中の顔は、やつぱり膃肭臍に生写しだ。
「俺はな、乃木がそんなに名高くなるとも思わなかつたので、手紙は残して置かなかつたよ。」
男爵はかう言つたきり、立ち上つて次の
室へ入つた。
「まあ勿体ない、お手紙をみんな
失くしちまつたんだつて。」と女中は膃肭臍のやうな細い眼で檀那の後姿を見送りながら惜しさうに
呟いた。「ほんとに手紙だけは残して置かなくつちや、誰が腹を切るか知れたもんぢやないんだから。」
昨日乃木さんの手紙二通で帯一本が出来る話を書いたが、乃木さんと同しやうに腹を切つて死んだ渡辺崋山の手紙は、今では
唯一通で帯が幾本も買へる。
崋山の手紙も今ではそんなに値段が高まつて来たが、
以前は
素麺箱に一杯で、たつた十円の時代もあつた。――断つておくが、素麺の値段は、今とその頃と大した
差違はない。
崋山の親友に
真木重兵衛といふ男がゐた。その重兵衛に
豊といふ遊び好きな孫があつて、ある時
廓返りに馬を連れて、古い素麺箱を一つ、豊橋のさる骨董屋に担ぎ込んだ。
骨董屋の主人はその素麺箱を見て、ぶつくさ
呟きながら
懐中から惜しさうに十円
紙幣を出して呉れた。豊はそれを持つて馬と一緒に帰つて往つた。その跡で骨董屋は素麺箱を引繰返して居ると、なかから皺くちやになつた崋山の手紙が、座敷一杯に転がり出した。
その日の夕方、骨董屋の店先へぬつと顔を出したのは、豊の
親父であつた。
「崋山の手紙を十円で引取つて呉れたさうで、色々有難う。だがあのなかには藩公に関係した秘密の手紙が
交つてるから、あれだけは返して貰はなくつちや。」と言つて、その手紙を五六通捜して持つて帰つた。
今豊橋辺にあつちこつち崋山の手紙が
散ばつて、虎の子のやうに大事がられてゐるが、あれはみんなこの素麺箱から転がり出したものなのだ。
石黒男爵の女中に教へてやりたい。乃木さんの手紙が無かつたら、崋山の手紙でも
好いのだ。崋山の手紙が無かつたら呉服屋の切手でも
好いではないかと言つて。
何方にしても女中は新しい帯さへ締める事が出来たらそれで結構なのだ。
仏蘭西の小説家エミイル・ゾラは、寺内伯と同じやうに新聞記者との会談を
甚く怖がつてゐた。例のドレエフス事件の折などは、自分も進んでその関係者の一
人となつただけに、新聞記者に
捉つて、大袈裟に畳み掛けた質問にでも
出会しはしなからうかと
怯々ものでゐた。
ところが、その事件の最中に或る新聞記者は是非ゾラに面会しなければならぬ用事が出来た。だしぬけに名刺を突き付けたところで、時節柄この文豪が直ぐお目に懸らうとも言ふまいし、記者はほとほと当惑した。
記者はそんな折に
例もするやうに煙草を
喫さうと思つて
上衣のポケツトに手を入れた。指先に触つたのは煙草では無くて、矢張その頃の文士の一人フランソア・コツペエの詩集であつた。
記者は
先刻友達に出会つた時、コツペエの詩集を読みさしの
儘、ポケツトに入れた事に気が
注いた。そしてその頃コツペエが風邪か何かで
臥つてゐるのを思ひ出すと、覚えず小躍りして叫んだ。
「さうだ、コツペエさんの御厄介にならう。」
記者はその脚で直ぐゾラを訪ねた。そして
受附の男を見ると急に悲しさうな顔をして、
「フランソア・コツペエが亡くなりました。御主人がまだ御存知でなければ一寸
報せて上げて下さい。」と
出鱈目な事を言つた。
間もなく、ゾラは右手にペンを持つた儘、あたふたと飛び出して来た。
「なにコツペエが亡くなつたつて。まあ、
此方へ通つて
委細しく話して聞かせて下さい。」
応接室へ通されると、年若な記者は
突如頭が
卓子に
打突かる程大きなお辞儀をした。
「まことに申訳が御座いません。コツペエさんはお風邪のやうには聞きましたが、お
生命に別条は御座いません。唯さうでも申さなければ、先生がお会ひ下さるまいと思つたものですから……」
かういつて、記者はまた一つお辞儀をした。
ゾラはそれを聴くと、鉄瓶のやうに湯気を立てて怒り出した。何しろあの通りの駄文家の事だから、
例の
長文句で
立続けに口汚く
罵つたに相違ないが、一
頻嵐が過ぎてしまふと、それでも一々記者の質問に答へて、自分の意見を聞かせて呉れたさうだ。
金尾文淵堂の主人といふと、どんな見ず知らずの大家の許へでも、その人が何か書いてゐるといふ噂を聞きつけると、
「ゲンコウイタダキタシ」
といふ電報を打つて
寄すので同業者間に名を知られてゐる。
徳富蘆花がエルサレム巡礼の
途に
上つた時、文淵堂の主人は
例の通りに幾通か電報を打つたが、相手が相手だけに一向手応へがないので、
態々見立てるのだといつて、神戸から門司まで蘆花君と一緒に薄汚い汽船の三等室に滑り込んだ。
船が播州沖を出かゝると、色々の世間話に取り交ぜて、それとなく原稿の事を切り出してみると、蘆花君は円い色眼鏡の奥からじろ/\本屋の顔を見つめた。本屋は魚のやうな冷い顔をしてゐた。
「原稿も原稿だが、それよりももつと
善い物をあげませう。」
蘆花君はこんなに言つて、立上つて甲板へ出た。
本屋は一刻も早くその「
善い物」が
見度さに
後から
蹤いて甲板に出た。船の前には
撮んで投げたやうな島が幾つか転がつてゐる。蘆花君は一寸後を振向いて見て、
「いゝ景色ですな。」
と言つたきり、大きな腕を胸の上で
拱んだ
儘、
大跨に
其辺を歩き廻つてゐたが、いつの間にか姿が見えなくなつた。
本屋は慌ててまた船室へ帰つてみた。蘆花君は薄暗い
室の隅つこで、
膝小節を抱へ込んだ儘、こくりこくりと
居睡りをしてゐる。
附近には
見窄らしい荷物が一つ
限で、何処にもその「善い物」は見つからなかつた。
船が門司に着かうとする時、本屋の
主人はそれとなくまた原稿の一件を切り出して見た。すると蘆花君は急に思ひ出したやうに、
「さうでしたつけな。いや、原稿も原稿だが、それよりももつと
善い物をあげませう。」
と、また同じ事を繰り返した。
「原稿より善い物つて何ですか。」
本屋は直ぐ訊きかへした。
「信仰です。」
蘆花君はトルストイのやうな口元をしてきつぱりと言つた。
頤にトルストイのやうな
々した髯のないのが口惜しかつた。
「先づ神をお信じなさい、その外の事はみんな詰りません。」
本屋の主人は眼を円くして蘆花君の顔を見た。そして
鸚鵡返しに、
「先づ原稿をお呉んなさい。その外の事はいづれ考へてからにしませう。」
と言ひたかつたが、相手を怒らせてもと、その儘別れて小蒸汽船に乗つた。
むかし支唐
禅師といふ坊さんが、
行脚をして出羽の国へ往つた。そして
土地の
禅寺に
逗留してゐるうち、その寺の
後方に大きな椎の木の
枯木があるのを
発見けた。
禅師は寺の住職に勧めて、その枯木を根から掘らせた。だん/\掘つて
往くうちに、椎の木のなかが深い
洞穴になつてゐるのに気が
注いた。
樵夫の
斧が深く幹に
喰ひ込むやうになると、急にばた/\と音がして、
洞穴のなかから何か飛び出した物がある。見ると
番ひの
梟で、厭世哲学者のシヨオペンハウエルのやうな眼をして、じつと
其辺を
してゐたが、暫くすると
背後の藪のなかへ逃げ込んでしまつた。
「
奴さん、巣をくつてたな、
洞穴のなかへ。」
こんな事を言ひ/\、
樵夫が
漸と
枯木を
伐り倒すと、なかから土で
拵へた
梟の形をした物が、三つまでころころと転がり出した。よく見ると、その一つには毛が生えて、ちよつぴり
撮むだやうな
嘴も伸びかゝつてゐたさうだ。
禅師の説によると、
梟は土を
捏ねて、それを暖めて
雛つ
児にするものださうで、禅師は古人の歌やら伝説やらを引張り出してそれを証明した。
側で聴いてゐた人は禅師の
物識に驚いたといふ事だ。
梟が土を
円めて
雛つ
児にするか、
何うかは真実疑はしいが、人間にはよくこんな真似をするのがある。官僚派が寄つて
集つて寺内伯を第二の
山県公に仕立てようとするなぞがそれで、伯の尖つた頭から
梟のやうに毛がむくむく生え出して来たらお慰みである。
ある男が
由緒のある古いお寺に
詣つた事があつた。そこには壁一面に
夥しい金ぴかの額が懸つて、額のなかには
各自にぐつと気取つた人達の顔が
描いてあつた。
参詣したその男は、案内の
僧侶に訊いてみた。
「ちよつと伺ひますが、これは何をなすつた方々で御座いますか。」
「さればさ。」と
僧侶は高慢さうな
咳払ひをした。「この方々はみんな海で難船した人達ぢやが、
平素神様御信心の
御利益で、不思議にも
生命拾いをなすつたぢや、その御礼とあつて、こんなにして額をあげて御座るのぢや。」
その男は、それを聞いて、も一度額の顔を見直した。成程誰も彼もが、神様のお力でも
藉りなければ、陸の上でも難船しさうな顔をしてゐる。
「いや、よく解りました。ところで……」とその男は皮肉さうな眼つきをして
僧侶の顔を見た。「
平素神様を御信心致しながら、それでも難船して死んだ人の額は何処に懸つて
居りますな。」
僧侶さんは兎のやうに口をもぐ/\させたが何とも答へなかつた。実際答へやうは無かつたのだ。何故といつて、そんな人達の額を懸けるにはお寺の壁は余りに狭かつたから。
著述家が書物を出版すると、見ず知らずの人から
たんと手紙が来る。その多くは
無代価で書物を貰はうとする
吝な
輩で「
平素から
貴君を尊敬してゐる」とか、「御著作は欠かさず読んでゐるが、近頃手許が苦しくて買へないから」とか言つたやうな文句がよくある。
なかには郵便切手を二三枚封じ込むで、郵税だけは
此方持ちにするから、書物だけ恵むで欲しいといふのがある。そんなのに
出会した場合、大抵の著作家は郵便切手だけは預りつ放しにして、一切取合はない。
かういふ虫の
好い事を言つて
寄す手紙の宛名は十人が八人まで女名前になつてゐる。女といへば大抵の無理は通るものと思つてゐるらしいが、実際多くの著作家のなかには女名前の手紙には、喜んで返事を書くやうな
甘つ
垂い
輩が居ないとも限らない。
米国にアリス・ヘガン・ライス夫人といふ女流作者がある。この人が著作を公にすると
毎度煩さい程いろんな手紙が舞ひ込んで来る。
ある時、テキサスの老軍人から来た手紙は「お前は幼い時別れた私の娘ぢやないか。」と、生みの娘扱ひに、ぞんざいな言葉で書いてあつた。また二人の男から同時に結婚の申込を封じ込むだ手紙を受取つた事があつた。
シカゴの或るお婆さんは、「私は
聾で
加之に
唖です。気の毒だとお思ひなら、
貴女の書物を一冊送つて呉れ」と申込んで来た。これには流石の女流作家も弱らされたが「私は聾や唖を好かないから。」と返事を出して、
漸と
免れた。
可笑しかつたのは何処かの小娘の
寄した無心状で、
「先生、あなたの直筆で書いた物を送つて下さい。
何卒リチヤアド・デヰスさんや、マリイ・ヰルキンスさんの真似をして下さいますな。あの人達は私の切手を取つちまつてよ。」
と書いて、手紙の端にアラビヤ
護謨で滅多に
剥れないやうに切手が貼つてあつた。言ふ迄もなくデヰスやヰルキンスは、切手を取りつ放しにした
連中である。
最近米国のある雑誌の主催で「短篇小説競技会」といつたやうなものが催された。一体短篇小説はどの程度まで文字が切り詰められるものかといふ、言はば一種の
悪戯から思ひ立たれたものだ。
応募原稿は総て三万余通、世界の各方面から送つて
寄されたもので、なかには仏蘭西の塹壕のなかで書いた物さへあつた。内容には色々な世相を
描してゐるが、秀れたものは、矢張り恋愛と戦争を書いたものに多かつた。
唯一の規定は「総語数一千五百以下たるべし」といふ一箇条で、これより長いものは取上げない。原稿料は無論払つたが、その払ひ方が随分奇抜で、書いた物には払はないで、書かなかつた物にだけ払ふといふ
約束なのだ。
といふのは、応募原稿が規定の千五百語より少かつた場合には、その少い語数だけ一語十
仙の割合で原稿料を払ふのだ。だから、千五百語ぽつきりで書き上げた人は、どんな立派な短篇小説を書いたつて、
鐚一
文も貰へない。もしかそれを千四百九十語で書き上げてゐたら、一
弗だけ貰ふ事が出来るし、たつた十語で済ます事が出来たら、百四十九弗貰ふといふ勘定だ。
数多い応募原稿のうちで、一番長いのが千四百九十五語で、その作者は原稿料
大枚五十仙を貰つた。一番短いのは七十六語で、その作家は雑誌社から百四十二弗四十仙を貰つて、にこ/\してゐたさうだ。
もしか、こんな事が日本で出来たなら、多くの不仕合せな女は、自分が持合せてゐる離縁状を書留郵便で送つたがよからう。たつた
三行半で、あれだけ意味の長い物語は、どんな小説家だつで書きやうがない。応募者は少くとも百四十二弗四十仙位は手に握れる勘定だ。それだけあつたら第二の男を
拵へる支度に不足はない筈だ。
つい先頃島崎藤村氏と一緒に仏蘭西から帰つて来た正宗得三郎氏、あの人が洋行
前大阪で自作の展覧会を開いた時、ある文学者がそれを見に
往くと、正宗氏は多くのなかから一つの絵を
指して見せた。
「君にはこの絵がお気に入りませう、僕には何だかさう思へる。」
と言つて笑つてゐる。
文学者はその絵を見た。こんもり繁つた雑木林のなかから、田舎家の白壁が見えて、夕日が明るくそれに
射つてゐて、いかにも気持の
好い
画だ。文学者は
平素からこんな画を一枚壁にかけて、その下で馬のやうに
欠伸でもしてゐたいと思つてゐたが、今多くの人の前で自分の
選好みを
他に言ひ当てられてみると、何だか
癪に触つて一寸
頭を
掉つてみたくなつた。
「さうですな、絵はなか/\よく出来てゐるが、好き嫌ひから言ふと余り好きません。それよか――」と文学者は盲滅法に隅にある一枚の絵を
指した。「あの方がずつと気に入りました。」
「あれが?」と正宗氏は腑に落ちなささうな顔をしてちらとその絵を見返つたが、「へえあれが気に入つた。ぢや、差し上げますから持つて帰つて下さる?」
その一
刹那、文学者は
失敗つたと思つた。それによく見ると、自分が
指した絵は絵柄から言つても
前のとは
比較にならぬ見劣りがしてゐるし、幅も思ひ切つて大きく、持つて帰つたところで、自分の
家にはそれを懸けるやうな場所すらない。
「いや、僕は
他から
貰物をするのは、余り好かないから。」
と文学者は泣き出しさうな顔をして手を掉つたが、正宗氏はそんな事には頓着なく、大きな絵を壁から引き下して文学者の前に突きつけた。
欧羅巴戦争は、交戦国に
寡婦さんをたんと
拵へたやうに、日本には成金をたんと生み出して呉れた。
寡婦さんと成金と、どちらも新生活の
翹望者たる点において同じである。
神戸に成金が一人ある。しこたま金が出来てみると、
女房の顔と
現在の
住家とが何だか物足りなくて仕方がない。だが、
女房の顔は
何うにも手の着けやうが無いので、
住家だけを
新に拵へる事に
定めた。
自分の財産から割り出して、建築費をざつと十二三万円と
定めて、ぼつ/\普請に
取り
蒐つたが、
住家が八九分
方出来上つた頃には、株の上景気で財産が二三倍
方太つてゐるのに
気注いた。
「困つたな、ああして拵へはしたものの、今の
俺の身分では、あんな安つぽい
家には入れんからな。」
かう言つて、成金は
女房の方を振向いた。
女房は有合せの顔で一寸笑つてみせた。
成金は建ち上つた
家を、その
儘番頭に呉れてやつて、自分はまた現在の財産から割出して四十万近くの建築費を見込むで、素晴しい
邸を拵へにかかつた。が、間が悪い時には悪いもので、邸がまだ半分も出来上らない昨今、
身代はまたバアクシヤア
種の豚のやうに留め度もなく
肥り出して来た。
成金は
算盤を
弾いて泣き出しさうな顔になつた。
「厭になるよ。こんなに身代が肥つて来ちや、今度の邸が出来上つたからつて、
俺の身分として今更あんな
土地にも
引込めなからうしさ。」
と、ぶつ/\
呟きながら、その男は今度の
新建をも誰ぞ貰つて呉れ手は無からうかと、人の顔さへ見ると
無理強に押しつけてゐるさうだ。
何事も急ぐには及ばない。暫くする
間に貰ひ手は
屹度出来て来る。その折こそ成金が住み馴れた古家と古女房を初めて身分相応だつたと気の
注く時である。
貫名海屋の系統を伝へた谷口
藹山が、まだ京都の
下長者町に居た頃、南画好きのある男が
態々大阪から訪ねて往つて弟子入りをした。
藹山は娘と二人で
其処に住んでゐたが、その日は娘に留守番でも言ひつかつたと見えて、皺くちやな藹山は、
「今日は誰も居ぬでの……」
と断つて薄茶一服立てようともしなかつた。その代り薄茶よりも水つぽい南画の講釈をくど/\と言つて聞かせた。
南画を習はない先に、南画は
迚も習へないものだと知つたその男は、折を見て帰らうとすると、藹山は押へるやうな手つきをして引留めた。
「一寸待ちな。今娘が帰つて来たさかい、お引合せする。」
その男は南画も好きだつたが、それ以上に女が好きであつた。南画にはまだ解らない
点もたんとあつたが、女の事だけは何も
角も大抵知り抜いた積りでゐた。それだけに娘に引合せると聞いては帰る訳にも
往かなかつた、で、居ずまひを直したり、一寸襟に手をやつたりした。
間もなく隔ての襖が
開いてお茶が運び出された。
「これが
俺の娘や、
不束者での……」
といふ藹山の言葉に、初めて気が附いたやうに、その男は
鄭寧にお辞儀をした。そして顔を上げて相手を見た時
吃驚した。
娘さんは小皺の寄つたお婆さんなのだ。
よくよく考へてみると、不思議でもない。その頃藹山はもう七十の上を越してゐたらしかつたから、五十
近い娘があつたところで、別段腹を立てる程の事でも無かつた。
その男はお茶も
碌に飲まないで、そこ/\に挨拶して帰つた。そして二度と藹山の門を
潜らうともしなかつた。
ある
劇場の楽屋で、松崎天民氏が亡くなつた高田実に訊いた事があつた。
「君達も今は劇は芸術だからつて、高く
止つてゐるが、芝居に足を
踏ん
込むだ
抑々は、まさか芸術家になつてみたいと思つた訳でも無かつたらう。」
といふと、高田は血色の悪い顔を一寸しやくつてみせて、
「さうですとも。僕が
俳優になつた動機は、唯女に惚れて貰ひたかつたからです。その外の事は、みんな後から附けた理窟でさ。」
と言つて、乃木大将のやうな口をして「ははは」と声を出して笑つた。
「ところで、君は今自分の
演つてゐる芝居を
真実に芸術的だと思つてますか。」
と
傍にゐた男が訊くと、高田は赤禿の
鬘をすつぽりと
冠つたばかしの頭を強く
揮つた。
「何の/\。中途半端の
贋物ばかりでさ。私も
何日迄もこんなでは詰らないから、自信のある物をも
演つてみたいとは思ひますが、何しろ一
時金が入つたに連れて、
生活の程度を身分不相応に引揚げてるでせう。その
故で自然
収入があるやうにと思つて見物に
媚びる事になります。」と言つて、
白粉刷毛で鼻先をぞんざいに塗りたくつた。「好きな茶器も、つい買ひ度くなりますね。」
何でも噂によると、高田は一つ一万円もする
贋の
急須を大事に
蔵ひ込むでゐたさうだ。――贋の急須が買ひ度さに、贋の女の気に入りたさに、男といふものは、せつせと飛んだり跳ねたりする。
強ち高田ばかりではない。キングスレエも言つたぢやないか――「稼がにやならぬ男の身」さ。
イネズ・ミルホオランド・ボアス
ン女史といふと、米国の女権論者のちやき/\で、
加之に数へる程しか無い女流弁護士の一
人として
相応名を売つてゐる女だ。
この女弁護士と同じ建物のなかで、隣り合せに住んでゐる男が、ある時洋服を一着盗まれた。色々詮議の末が、門番の
黒人に嫌疑がかゝつて、
黒人は自分の部屋で
朝食を食つてゐるところを押へられた。(忘れても用心しなければならないのは、
凡ての
訪問客は大抵朝早く来るといふ事だ。)
黒人は女弁護士に手紙を出して、熱心に自分の弁護を頼んだ。
黒人を法廷で弁護するのは、
黒人を天国へ引張りあげるよか、ずつと愉快な事に相違ない。何故といつて、天国へ引揚げられた
黒人は、
多時地獄へ落ちてゆくが、牢屋から出て来る
黒人は、また同じ弁護士の事務室に顔出しするに
極つてゐるから。
女弁護士はその弁護を
引請けて、法廷に立つた。そして色々の方面から熱心に
喋舌つた
効があつて、
黒人は
巧く無罪になつた。
黒人はその翌日朝早く女弁護士の事務室に入つて来た。そして、
「先生
昨日は色々どうも有り難う御座いやした。」と白い歯を見せて
追従笑ひをした。「実際あの服は
私がちよろまかしたに相違ありやせんが、先生の弁護を聞いてると、
何うやら
私が盗んだつてえのも怪しくなつて来やした。事によつたら、
私の仕事ぢや無かつたかも知れやせんぜ。」
例の
涜職議員の公判記録を読んでみると、ある議員などは、自分で自分の
附会た議論に感心して、洋服を盗んだ
黒人のやうに、涜職事件を、
結局は政事家らしい行動とでも思つてゐるらしく見られる。こんな人達は手で犯した罪よりも、ずつと大きな罪を頭の中で犯してゐる。
亡くなつた高田実は、道頓堀の
劇場へ出る時には、いつも日本橋
北詰にある
定宿へ泊つたものだ。その
旅館は高田を始め、新旧俳優の多くが巣のやうにしてゐるが、松井須磨子なども、文芸協会の
往時から、いつも
其家に泊つてゐる。
ある時、須磨子が湯上りの
身体に派手な
沿衣を
引掛けてとんとんと
階段を
上つて自分の居間に入ると、ふと
承塵に懸つた額が目についた。
従来も幾度かこの部屋に泊り合はせてはゐたが、ついぞ目に着かなかつたものだ。さうかと言つて何も須磨子を責めるには及ばない。世の中には結婚後八年目に初めて
女房の
笑窪を
発見たものがある。亭主が
有卦に
入つて
従来隠してゐた
真実の
年齢を打明けると、
女房も、
「まあ、さうなの。ぢや私も言つてしまふわ。私かう見えても
真実は
三十なのよ。」
と、すつかり白状して初めて笑窪を見せたといふ事だ。つまり亭主は
女房の
年齢で笑窪を二つ
購つた事になつた。
須磨子が見つけた額には、気取つた筆で無意味な文字を二三字
擲り
書にして、渓水と落款があつた。須磨子は、
疳走つた声で「ちよいと先生」と呼んだ。すると隔ての襖が開いてセルの
袴を
穿いた先生がぬつと入つて来た。先生は言ふ迄もなく島村抱月氏である。
須磨子は抱月氏の顔を見て、
「この額の渓水つて
誰なの。」
と一寸
嬌えたやうな口を利いた。抱月氏は怠儀さうに額を見た。
「さあ、渓水といふと……金子堅太郎かな。確かあの人が渓水といつたやうに思ふ。」
と言つて
胡散さうな顔をした。
丁度そこへ襖を
開けて入つて来た座員の一
人がそれを見て、
「この額ですか、こりや貴方、高田実ぢやありませんか。」
といふと、抱月氏は須磨子と目を見合せて、
「何だ、高田か。そんな物を吾々の部屋へは懸けて置かれないね。
取外したら
可いでせう。」
と詰らなささうな顔をしたが、それでも別に手を延ばして
取り
下さうともしなかつた。なに、気に入らないものは目を上げて見なければ
好いのだから。
然し金子堅太郎と高田実と
何方が人間らしい仕事をしたかといふ段になると、誰でもが高田の方へ
団扇をあげる。
近頃東京の文学者仲間に妙な神様が流行してゐる。神様といふのは、ある鉱山師の女房で、その女は何処かで掘出して来たらしい大黒さんを座敷に
祠り、そこに引籠つて、
躄を立たせたり、一寸した頭痛持を
癒したりしてゐる。
お弟子は随分あるが、世間に聞えてゐる人達には、
生田長江、小山内薫、
沼波瓊音、栗原
古城、山田耕作、岡田三郎助などいふ
顔触がある。なかにも沼波瓊音氏は家族を挙げて、その
女神様の
許に
入浸りになつてゐる。
千里眼問題このかた、かうした女の好きな
福来友吉博士が、ある時沼波氏を訪ねると、主人は
乗地になつて女神様のお蔭話を持ち出した。福来博士も夢中になつて膝を進めてゐると、急に夕立がざつと降り出して来た。
「困つたな。雨が降つて来た。僕は雨傘を用意して来なかつたが……」
と、福来博士は心配さうな顔をして空を見上げた。博士は心理学者だけに人間の事はよく注意してゐるが、お
天道様は
雨降か
雪降かで無ければ余り気には掛けてゐなかつた。
その顔色を見て取つた沼波氏は、
「なに雨ですか。雨だつたらお
帰途までには
屹度止めて上げませう。」
と平気な調子で言つた。博士は一寸返事に困つた。
「いや、雨傘が拝借出来たら……」
「雨傘は荷厄介ですから」と沼波氏は
蠱術のやうに一寸自分の鼻を
抓んでみせた。「いつそ雨を止めてしまひませう。」
暫くして福来博士が帰る頃になると、果して夕立はからりと
霽れ上つてゐた。博士はそれを見てすつかり沼波氏の神通力に驚いてしまつた。――霽れたのに何の不思議があらう。相手は
気短の夕立で、博士はお尻の長い話し好きである。
文展がまた開けた。入選した
画家の苦心談を読んでみると、大抵影に忠実な細君が居て、
塩断茶断をしたり、神様に百日の願を掛けたりしてゐる。女といふものはよく目端の利くもので、
平素から
良人の腕前はちやんと
見貫いてゐるから、その
力量一つで
迚も
背負ひ切れないと見ると、直ぐ神様の
許へ駈けつける。
日本の
画家がかうした目端の利く、忠実な女房を
ざらに持つてゐるのは
実に結構な事だが、支那では女の出来が日本ほど思はしくないので
那地の
画家は
女房の他に今一つ豆猿を飼つてゐる。
豆猿といふのは、ポケツトや
掌面のなかにでも
円め込んでしまはれさうな小さな猿で、支那でも湖南あたりにしか見受けられない
奴さんだ。
この豆猿は大層木炭が好きで、お
腹が
空くと、直ぐ木炭を
強請つて食べる。だが、
画家といふものは、
時々木炭を
購ふ
銭にも事を欠くもので、そんな時には猿は
定まつたやうに
墨汁の使ひ残しを
嘗める。
何処の
画家でも
墨汁の使ひ残しに難渋するもので、幾ら忠実だからと言つて、
女房にそれを食べさす訳にも
往かないが、豆猿は好物だけに
舌鼓を打つてぺろりとそれを嘗め尽してしまふ。
だが、豆猿の好きなのは使ひ残しの
墨汁の事で、文展に落選した
女画家の涙までも嘗めて呉れるか、
何うかは
請合はれない。豆猿は余り水つぽい物は好かないさうだから。
米国はヰスコンシンの上院議員ラ・フオレツト氏の愛嬢フオラ・ラ・フオレツト女史は
彼国でも新しい女として名高い人で、先年脚本作家のヂヨルヂ・ミツドルトン氏と結婚したが、結婚後も
良人の姓は名乗らないで、矢張
里方の娘の
儘で押通してゐる。
何故そんなにするのだと訊くと、女史は、「真理」や「婦人問題」を語るには勿体ないやうな美しい唇から、「何事も婦人の独立のためです。」
と、きつぱり返事をする。
フオラ女史のお友達に、婦人運動に憂身を
窶してゐる或る貴婦人があつた。この婦人がある時、民主党議員クラウド・キチン氏の夫人を訪ねた事があつた。
女同士は
夙くからの
知己ではあつたが、亭主のキチン氏と貴婦人とはまだ一度も会つた事が無かつた。
丁度お天気の
好い日だつたので、キチン氏は薄汚い園芸服に破けた
麦稈帽を
被つて、せつせと玄関前の花壇で働いてゐた。
婦人は花壇の前で
立停つた。
凡ての女は男が
草掻をもつて、
土塗れになつてゐるのを見るのが、好きで溜らぬものらしい。婦人は一寸鼻眼鏡に手をやつて訊いた。
「爺や、
御精が出るね。お前こちらの
奥様のお宅に長らく御奉公してるの。」
「さうですね。もう
相応になりますな。」
「こちらはお給金は
善いのかい。」
「いや、もう
漸と食つて
往けるだけでさ、てんと詰りません。」
園芸服のキチン氏は、せつせと土を
穿くりながら答へた。
婦人は一
足前へ乗り出して、身を
屈めるやうにして、
「ぢや、
宅へ来たら
何うだい、食べるだけの、お
小遺も上げるよ。」
「有難う。」と麦稈帽は一寸お辞儀をした。「だが、一生涯こちらの
奥様とここに御厄介になる約束をしてしまつたもんですからね。」
「え、一生涯! まあ
可憫さうに。」と婦人は小皺の寄つた顔をくしや/\させた。「そんな約束が何処にあるもんかね。まるで奴隷だわね。」
「さうかも知れませんね。」とキチン氏は土塗れの手をして立ち上つた。「だが、私共ではそれを結婚と申しますよ。奥さん。」
文展の彫刻部に『
瓢箪鯰』を出品した
米原雲海氏は、この頃
夜の眼も眠らないで、せつせと仁王さんを刻んでゐる。仁王さんは
丈六のかなり大きい木像だ。
信濃の善光寺から七八里ばかしの村に近郷切つての
富豪がゐる。
女房は世間並に一人あるが、
醜婦で
稼ぎ
人で、
加之に子供を生む事を知らないので、金は溜る一方であつたが、夫婦とも揃ひも揃つた
吝嗇坊で、寄附事といつたら
鐚銭一つでも出し惜みをした。
先頃村に火事が起きて、近所は丸焼に焼けてしまつたが、その
富豪の
邸のみは
奇異と無事に助かつた。
富豪はこれも全く神仏のお影だ、何か御恩報じしなければなるまいが、それにしては何処の仏さんに
定めたものだらうかと一寸思案をした。
幸ひ長野には善光寺がある。自分の村からは汽車でも通へるので、お影を授かるには一番便利だからと、
富豪は善光寺へ仁王さんを寄附する事にした。
善光寺の如来さんは、
富豪の殊勝な心掛に感心して、何か
心許りのお礼をして
遣らねばなるまいと思つた。
幸富豪には子供が無かつたので、如来さんは子供を一人授ける事に
定められた。別に仏さんのお
腹を痛める訳でも無いので、お礼にはこんな手頃なものは無かつた。
富豪の
女房は程なく一人の子供を生み落した。その子の顔を見ると、
富豪は急に仁王さんの寄附が惜しくなつて来た。仁王さんには大抵一万円もかゝる予算だつたから。富豪は取りあへず寄附の申込みを取消して来た。
それを聞くと、善光寺の
世話方も
吃驚したが、一番
魂消たのは
矢張如来さんであつた。今更子供の
取消も出来ないので、困つた事をしたものだと、
可愛らしい顔を
顰めてゐたが、
仕合と
小才の利いた男が、
「今更そんな事を言つては、出来た
嬰児にどんな
罰が当るかも知れないから。」
と言つて、
漸と
富豪を説き伏せる事が出来た。
二度ある事は三度あるで、又子供が出来でもすると、どんな事にならうかも知れないからと、米原氏はせつせと仁王さんを
彫急いでゐるのだ。
維也納のある医者の報告によると(医者といふものは色々な報告をする。吾々はその報告に依つてナポレオンが男色好きだつた事や、医者自身が余り人間の事に通じてゐないのを知る事が出来る)、ある
墺太利の婦人は四十五歳の間に三十回姙娠して三十六人の子供を生んだ。そのうち四回は
双児を産み、一回は三
児を生んだといふ事だ。
今
市俄古に住んでゐる、
米国の
首歌妓シユウマン・ハインク女史は、無論声楽家としても聞えてゐるが、それよりも子供のたんと有る音楽家として名が通つてゐる。
ハインク女史が舞台へ立つて一寸愛嬌笑ひでもしてみせると、
屹度大向うから、
「
阿母さん、しつかり頼みますぜ。」
といふ掛声がかゝる。成程乳房のだらりと垂れた工合から、
下腹のだらしなさ加減が、誰の眼にも子福者とは直ぐ判る。
ある時若い
画家が女史を訪れて来て、肖像画を
描かせて呉れと頼んだ。「
阿母さん」はぷくぷくした自分の
下つ
腹の
辺を眺めて、
逡巡してゐると、若い
画家はにこ/\しながら一寸
愛相をいつた。
「お気遣ひなさいますな、奥様。出来るだけ正直にやりますから。」
「いえ/\」と女史は笑ひ/\
首を
掉つた。「私何も正直に
描いて戴きたいんぢやありませんわ。どうぞ出来るだけ
御贔屓振をお見せなすつてね。」
画家はこの一
刹那女史の顔中の皺が一緒くたになつてお辞儀をしてゐるやうに思つたといふ事だ。
人間に性慾の錯乱があるのは、誰でもが
熟く知つてゐる事だが、鳥類にもそれがある。
唯鳥類にそんな間違があるからといつて、余り
喧しく言ひ立てる事だけは
止して貰ひたい。鳥は人間程道徳的でないから、事によると顔を
赧めるかも知れない。
ある学者の報告によると、その男の飼つてゐた一羽の
孔雀は、どうかすると
鶏小舎のなかへ忍び込んで、おめかしやの
雄鶏の
後をせつせと追ひ廻したさうだ。孔雀はその前の年に雌に死別れた
男鰥だつたのに、
雌鶏には一向見向きもしないで、
鳥冠の
紅い
雄鶏ばかりをつけ廻してゐた。
また或る
鵞鳥は、自分の雌を殺されて(雌が牧師の胃の腑に納まつたか
何うかは知らないが、牧師は気持よささうに鵞鳥の殺されるのを見てゐた)このかた、同じ
家の
狗に惚れだした。狗が外から帰つて来ると、嬉しさうに我鳴り立てるし、狗が日向ぼつこでもすると、自分もその前に
蹲踞込んで、太い
嘴で相手の鼻つ先を
突き廻したりする。
飼主が見かねて、雌を一羽当てがつたが、鵞鳥はそれに振向きもしないで、狗が迷惑さうな顔をするにも
頓着なく、相変らずべたべたしてゐたさうだ。
政党にもよく性慾の錯乱がある。政友会はその何よりも
好い例である。
米国の戦時通信記者として名高いゼエムス・バアンス氏が、今度の戦争の当初、
白耳義にゐた折の事、ある日ブラツセルの
市街を
いてゐると、
前方から独逸の自動車が一
輛風を切つて飛んで来た。その一刹那バアンス氏の頭には、
「
奴さん、てつきり
独探だな。」
といふ考へが矢のやうに
閃いた。
と、見ると、その
後から白耳義の自動車が一台、
獣のやうに
唸りを立てて追駆けて来るのが目についた。
「面白いぞ、どんな芸当をやるだらうな。」
バアンス氏は胸をわく/\させながら、この自動車の
駈けつ
競に
見惚れてゐた。
白耳義の自動車は、全速力を出して
漸と追着いたと思ふと、獣が餌を
捉へる折のやうに、いきなり運転手台を、相手の尻つ骨に乗り揚げて、車台も
前輪も滅茶滅茶に押し潰してしまつた。
「
巧いぞ。とうと
遣つつけた。」
とバアンス氏は直ぐ現場に駆けつけてみた。
擦り
創一つ負はなかつた白耳義の運転手は、にこにこもので
其辺の
群集を見廻してゐたが、ふとバアンス氏の亜米利加式の顔が目につくと、いきなり帽子を脱いで頭の上で
揮りまはした。
「いよう、亜米利加の先生……」と運転手は大きな声で我鳴り立てた。「今の芸当だね、あれを何処で習つたと思はつしやる。一年前
紐育の
大通で、せつせと
辻自動車を
扱き使つたお蔭でさ。」
「紐育の大通で習つたからだと言つてたよ。
彼奴めが……」
とバアンス氏は、それからといふもの、会ふ人
毎にお国自慢をしてにこ/\してゐる。アメリカ人といふ奴は、巾着切でも、人殺しでも
良い、これはアメリカから習つたのだとさへ言へば、自分の財布を
掏られても、女房の
心の臓を引抜かれても平気でゐる。
上田敏博士が文科大学教授として初めて京都の土を踏んだ時、腹が空いてゐたので、
停車場近くの或る
旅館へ飛込んで、
昼飯を
急き立てたことがあつた。
女中がいそいそ持ち出して来た膳部を見ると鯛の塩焼だの、
鱸の洗ひだのがごたごた一
所に並べてあつた。博士は水つぽい
吸物を
啜りながら、江戸つ子に
附物の、東京以外の土地は
巴里だらうが、天国だらうが、みんな田舎だと
見下したやうな調子で、
「ほう、京都にも鯛や鱸があるんだね。一体何処から来る?」
と訊いてみた。
女中は博士の好きな
希臘彫刻のやうな冷い顔をして、眉毛一つ動かさないで、
「須磨や明石のあたりから。」
と言つて、その
儘じつと
唇を
噤んだ。
博士はその
折鯛の塩焼を
突ついてゐたが、
吃驚して箸を持つた儘女中の顔を見た。女中は笑つたら所得税でも掛るやうに、両手を膝の上に重ねて、ちやんと済ましてゐる。
博士はその折、女中が自分の
膝側に朱塗の
櫓のやうな物を置いてゐるのを見つけた。それを漬物台と知らうやうのない博士は一寸覗き込むやうにして、
「
姐さん、その櫓みたいな物には、何が入つてるんだね。」
と訊いてみた。
女中は矢張眼を伏せたまゝ、『千本桜』の
若葉の
内侍のやうに上品に口をつぼめて、
「海の物やら山の物やら。」
と答へた。そしてその海の物や山の物を出し惜しみをするやうに、
心持後ろへ引張つた。
博士はトラムプの
水兵が『百人一首』のなかに紛れ込んだやうな、勝手違ひな変な顔をして、二度ともう口を利かうとしなかつた。そして
昼飯を済ますなり、直ぐ表へ飛び出して、逃げるやうに大学の構内へ
俥を走らせた。大学は
世間体最高学府といふ事にはなつてゐるが、誰一人この女中程上品な口を利かなかつたし、それに揃ひも揃つてお
喋舌が過ぎた。
ある牧師がすつかり上機嫌でいつものやうに、
杖を
小腋に抱へ込んで
市街をぶらぶら散歩してゐると、ふと
途の片側に乞食が一人
衝立つて、
往来の人にお
鳥目をねだつてゐるのが目についた。
牧師は自分の
住つてゐる界隈に、乞食が
迂路つかうなどとは夢にも思はなかつた。(何処の国でも宗教家といふものは、
富豪のなかに住んで、「貧乏」を説くのが好きなものだ。)で、づか/\とその
側に歩み寄つたと思ふと、いつもお寺でするやうに、額へ一寸手を当てがつて、
「神よ、この哀れなる者をお恵み下さい。」
と言つて、その
儘立ち去らうとした。
「ちよいと旦那様……」と乞食は牧師を呼びとめた。「
御祈祷は有難うがしたが、神様は
迚も
俺らが
許には御座らつしやるまいから、
此方から出向きますべい。近頃御無心な次第ぢやが、その
杖をお貸し下さるまいかな。」
と乞食は
垢塗れの手でその
杖に触らうとした。
牧師は慌てて
杖を
引込めた。
杖といふのは、さる
富豪の
寡婦さんが贈つて来たもので、匂ひの高い木に
金金具が贅沢に打ちつけてあつた。牧師は死ぬる時は天国にまで持つて
往く積りで、この世では成るべく
汚すまいとして、いつも小腋に抱へ込んで歩いてゐたものだ。
牧師は叱るやうに言つた。
「基督も『
窄き門より
入れよ』と仰有つたぢやないか、お前達がこんな
杖なぞ持つてたら窄い門を入るのに邪魔にならあ。」
「へへへ……」と乞食は無気味な笑ひ方をした。「御心配さつしやりますな。その窄い門とやらに入ります前に、
俺ら
杖を売る事を知つとりますな。」
これは
英吉利のある田舎町であつた事で、大阪であつた事ではない。大阪では牧師は乞食などに
見向もしない。そして
杖や聖書の代りに汽車の時間表をポケツトに入れてゐる。彼は神様よりも
可愛い
女房子が、郊外の家に待つてゐるのを知つてゐる筈だから。
ずつと
以前、丁度この頃のやうな秋日和に東京の近郊、
雑司が
谷の
附近を
いてゐると、一人の洋画家が古ぼけた
繻子張の
蝙蝠傘の下で、
其辺の野道をせつせと写生してゐた。
そこには美しい
灌木が二三本風に吹かれて立つてゐた。洋画家はそれを
描かうとして、幾度か
刷毛を取り直してゐたが、
何うしても思ふやうに
描けないので、
自暴を起したらしく、すつと
起ち上つたと思ふと、いきなり駈け寄つて、手当り次第にその灌木をへし折つてしまつた。この洋画家は誰でもない、中村
不折である。
その不折が
喧しく言ひ立てる
王羲之は、大層鵞鳥が好きだつた。その頃近所に
姥さんが居て、鵞鳥を一羽飼つてゐた。美しく鳴くので王羲之はすつかりそれに惚れ込んでしまつて、姥さんの顔さへ見ると、
「どうだ、あの鵞鳥を売つて呉れないか、値段は幾らでも出すから。」
と
懸合つてみるが、姥さんはなか/\
諾と言はなかつた。
ある時仲のいゝ友達が王羲之を訪ねて来て、
例のやうに鵞鳥の
談話をし出した。王羲之は、
「鵞鳥といへば、近所の姥さんが素晴しく立派なのを飼つてる。
後から見に出掛けよう。」
と言つて、
態々使を立て、姥さんにその由を申込んで置いた。
暫く
経つて出掛けてみると、姥さんは色々の御馳走を出して
饗応して呉れた。
「御馳走も結構だが、
例の一件だね、
那奴を一寸見せて貰つた上で、ゆつくり戴きたいもんだね。」
と王羲之が言ふと、姥さんは
気もない顔でこんな事を答へた。
「あの鵞鳥の事を言はつしやりますのか。あれは
汝折角のお越ぢやからと思つて、たつた今絞め殺して汁の身に入れときましたぢや。」
アメリカのペンシルヴアニヤ州のクリヤフイルド市にヘンズレエといふ
今歳とつて十九になる
妙齢の娘がある。町内きつての
縹緻よしなので、そんぢよ
其辺の
放蕩息子がそれとなく言ひ寄るが、娘はてんで見向きもしなかつた。
ところが、近頃
米墨両国の間に、行違ひが
頻に起きるので、米国政府は国境に向つてどん/\兵隊を送り出す。それを見たヘンズレエ嬢は、毎日朝つぱらから
停車場に詰めて、兵士を載せた汽車がプラツトフオームに着くと、
飛蝗のやうに飛んで往つて、汽車の窓に
捉まつた
儘、誰彼の容捨なく
接吻をする。
兵士達はみんな大喜びに喜んで雀のやうに口を鳴らしてゐる。何でも今日まで千名
許しの兵士を喜ばせたさうで、
意固地な牧師の
細君などはおつ
魂消てしまつて、
「まあ、飛んでもない。今に神様のお怒りで、
鶏卵とキヤベツの値が上るに違ひない。」
と言つてゐるが、ヘンズレエ嬢は済ました顔で、
「お国の
為めだと思へば
接吻位何でもない。」
と
洒蛙々々してゐる。
林歌子や矢島
楫子などのお婆さんが
棒頭になつて、二百余名の婦人達が
飛田遊廓の取消請願をその筋に持出したのは近頃結構な事だ。――実際結構な事には相違ないが、あの人達がもつと若く、もつと美しかつたなら、一段と結構な事に相違なかつたらう。
「真理」や「道徳」は、今日まで長い間気の弱い男や、醜い女と
道伴となつたので
懲々してゐる。近頃は強い男と、美しい女と一緒でなければ滅多に尻を揚げようとはしない。
婦人運動者にお勧めする。大抵の事は辛抱するが、
何うか善い事をする時に、泣き顔だけは見せないやうに願ひたい。
英国の名高い俳優
某がある時、
倫敦の
煤ぼつた
市街をぶら/\歩いてゐると、大きな紙包を抱へ込んで、ある雑貨屋から飛び出して来た男が、ふと俳優の顔を見るなり、急ににこ/\してその前に
立ち
跨かつた。
「いよう久し振だな。」その男は言つた。「馬鹿に
艶々した顔をしてるぢやないか、何を食つてるんだね、近頃は。」
その
俳優は名代の食道楽で、数ある珍味のなかで、とりわけ牛の脳味噌と女の
心の臓とが一番好きだつた。紙包を抱へた男が「何を食つてるね。」と訊いたのは、その実「どんな女が出来たかな」といふ積りであつたらしかつた。
「うむ、
雛児ばかり
食つてるのさ。」と
俳優は
可愛らしい口元をして言つた。「君も知つてるだらうが、今度の
劇に僕の持役は、そら
泥的と来てるだらう。実を言ふと、僕はこの
齢になつて、まだ泥棒をした事が無いんだから、
巧く往けるやうにと思つて、毎日
宅の
鶏小舎から雛児を盗んでは、それを
料つてるんだあね。」
「へえ、雛児を盗んでるつて毎日……」
と友達は大事さうに紙包を左の
腋下に持ち替へながら、
可笑しさうに
首を振つた。
「うむ、毎日
食つてるが、今日でもう卅
羽も食つたかな。お蔭で顔もこんなに若くなり泥的もすつかり巧くなつたよ。」
と
俳優は自慢さうに、雛児を盗み出す自分の両手でもつて顔を撫でてみせた。
中村鴈治郎が、
北陽の
芸妓喜代治と、だらしのない恋をしてゐるのは、鴈治郎自身の
言ひ
前によると、いつ迄も色気を無くさないで、若くありたい為めの事らしい。
成程聞いてみると、結構な訳だが、唯それだけの事なら、いつそ英吉利の
俳優と同じやうに、自分
許の雛児を盗み出したが、一番手つ取早い。雛児の卅
羽も取り出すうちには、顔も
艶々しくなる上に、立派な芸さへ覚える事が出来る。
むかし唐の
欧陽詢が馬に乗つて、ある
古駅を通りかゝると、崩れかゝつた
道つ
端に、苔のへばりついた
旧い石碑が立つてゐるのが目についた。碑の文字は
瞥見にも棄て難い味はひがあつた。
丁度そこへ百姓が一人通りかゝつた。手には引いたばかしの大根を
提げてゐる。欧陽詢は「一寸……」と言つて呼びとめて訊いてみた。
「この碑は
誰の書だね、お前知つては居なからうな。」
「知らねえと思ふ
人間に何故聞かつしやるだ。」と百姓は
蟷螂のやうに
くれた顔をあげた。「これはあ、
索靖といふ
偉え方の書だつぺ。」
「ふむ、索靖か」
と、欧陽詢は百姓の方には見向きもしないで、馬を
駐めた
儘、じつと石碑の文字に
見惚れてゐた。馬は
幸福と文字の
鑑定が出来なかつたので、その
間にせつせと道つ端の草を食べてゐた。
暫くすると、欧陽詢は気が
注いたやうに馬を
促立てた。馬は食べさしの草を
啣へた儘ぽか/\と歩き出した。
漸と
小一
丁も来たかと思ふと、欧陽詢はだしぬけに手綱を引張つて馬を
後退らさうとする。馬はむら
気な主人の仕打を笑ふやうな顔をして、また後退りをした。
欧陽詢は馬から飛び下りて、石碑の前に立つた。そして、
「
巧いな。」
と言ひ言ひ、小首を
傾げた儘いつ迄も/\じつと文字に
見惚れてゐたが、とうと
立ち
草臥れたかして、馬の
背から敷物を取り下してその上にべつたり尻をおろした。
そしてその晩も、
翌る晩も、また翌る晩もその石碑の
下に野宿をして、じつと石碑の文字に
惚々してゐるので、馬はとうと腹を立てて、
其処の
草つ
原にごろり横になつた。横になつたからと言つて、馬は猫や大学教授のやうに哲学なぞは考へない。馬は日本の実業家と同じやうに食ふ事と雌の事ばかり考へてゐる。
欧陽詢が馬を起して、
漸と石碑のとこを去つたのは、丁度四日目の朝だつたさうで、彼が索靖の文字にどんなに心を
牽かされたかが、これでよく判る。
文展には色々の大家名家が数知れず出品してゐるが、ある批評家は、あのなかを
唯四十五分で見歩く事が出来ると自慢してゐる。欧陽詢と
好い比べ物である。
露西亜の文豪プウシキンは自分が職業的詩人で無いのを見せるために、
他と話す時には成るべく文学の事なぞは話さないで、馬だの、
骨牌だの、料理だのの事ばかし話してゐたといふ事だ。
その癖
亜剌比亜馬とは
何んな馬をいふのか、一向
区別がつかず、骨牌の切札とはどんなものか、それも知りもしなかつた。とりわけ
酷いのは料理で、仏蘭西式の本場の庖丁加減よりも、
馬鈴薯の
天麩羅が好きで、何かといふとそればかりを頬張つた。
名士の好物調べも一寸面白いものだが、こゝに少しばかり挙げると、頼山陽は餅、
梁川星巌は羊羹、佐藤一斎は
蕎麦、大橋
訥庵は鰻の蒲焼、鈴木
重胤は
五目鮨が大好きであつた。
菊池容斎は
寺納豆、藤田東湖は訥庵と同じやうに鰻の蒲焼、森
春濤は
蚕豆、
生方鼎斎はとろゝ汁、
椿椿山は
猪肉、藤森弘庵は鼠のやうに
生米を
囓るのが好きで好きで溜らぬらしかつた。
ある西洋の学者の説によると、人間一生の間に食べるものは、七千二百九十一貫六百四十八
匁の
食物と六千六百四貫六百四十匁の飲料とが要るさうだ。女は男よりも比較的菓子が好きで、女一生の間に食べる菓子類は、ざつと見積つたところで四百十九貫三百二十八匁を下るまいとの事だ。
女の名家がどんな物を好くかといふ事は、余り興味の無い事で、女は男のお世辞とお菓子とを等分に好くと思へば
間違はない。だが、
何方も人によつて砂糖の加減をしなくてはなるまい。
むかし柴田
是真が鈴木南嶺の
添書を持つて京都へ入つて来た。「笠につく蝶と一つに都入り」といふのは、その時の句ださうで、一向詰らないものだが、こんな句よりも京都に来て山陽や
景樹や豊彦やに会つたのは、彼の生涯にとつて忘れられない事柄だつた。
是真はその折塩川文麟をも訪ねた。文麟は、
「折角の
珍客やさかい、一
献やりまほか。」
と、是真を
木屋町の料理屋に案内した。
料理屋の二階からは、紫ばんだ東山の夕景色が絵の様に見えた。灰色の
靄の底に鴨川の水が白く流れてゐるのも捨て難い
趣であつた。文麟はそれを指ざしながら言つた。
「どうどす。お江戸は将軍家のお
膝下やさうどすが、まさかこんな
美い景色はたんとおすまい。」
先刻から文麟の
土地自慢に虫の居所を悪くしてゐた是真は、それを聞くと、
「ほんまにたんとおへんな。」
と
調弄気味に
京訛を一寸
模てみせて、
「だけどさ、京都にはこの景色が
描ける
画家はたんと有るまいて。」
と、江戸ツ子一流の
い皮肉を投げつけたので、文麟は目を白黒させたといふ事だ。
それは京都の景色の事。今大和の法隆寺村に隠棲してゐる北畠治房
男の
狂人染みた眼の色から
顎髯の長く胸元に垂れかゝつた恰好を、ある洋画家が
甚く
賞め立てておいて、
「
如何です、私に一つ
描かせて下さいませんか。」
と頼んでみた。
すると老人はじろりとその
画家の顔を見た。
「お前は油絵
描きだつたな。」
「さうです、油絵
描きです。」と
画家は無気味さうに答へた。
「五六年司馬江漢でも研究しろ。」と老人は
喚くやうに言つた。「そしたら
描かせんとも限らん。」
画家はその声に
吃驚して
弾機細工のやうにお辞儀をしたが、その瞬間、この老人がそれ迄達者でゐるだらうかと思つて、また一つお辞儀をした。
京都高等工芸の中沢岩太博士が洋画を
描くのは、世間によく聞えた事実で、博士自身は、
「
閑な折、ちよい/\浅井黙語君に見て貰つたといふばかしで、てんでお話にもならんさ。」
と言つてはゐるが、
真実はいつぱし
画家の積りでゐるらしい。
以前菊池
大麓氏が文部大臣を勤めてゐた頃、ある宴会で誰かがこの話を持ち出した。すると、大麓氏は、「へえ、中沢君が油絵を
描く。」と言つて、不思議さうに
卓子の
向側にゐた中沢博士の顔を見た。「それは初耳だ、
真実ですか。」
中沢博士は「ははは……」と言つて、あんぐり口を
開けて笑つたばかしで、別に
描くとも
描かないとも
判然返事をしなかつたが、腹の
内では、
「大麓め、まだ俺の絵を見た事も無いと見えるな、迂濶だなあ。」
と位は思つてゐたらしかつた。
大麓氏は大臣らしい物の言ひ方をしようと思つて
注ぎさしの
平野水を一杯ぐつと飲んだ。
「ぢや、是非一枚
描いて貰はう、中沢君の物なら、吾輩喜んで書斎に
掲ける。」
大麓はかういつて、両手を胸の上で
Xといふ字に
拱んだ。根が数学者だけに文字の恰好もよかつた。
「有難う。」と言つて中沢氏は禿げた頭を一寸下げた。「折角ですが、お断りしませう。吾々は服務規則で上役に物を贈る事は出来ませんからな。」
「成程な。」と言つて大麓さんも口を
開けて大臣のやうに作り声をして笑つた。
その後奥田義人氏が文部大臣になつた時、ある所で中沢博士と顔が合ふと、奥田氏も大麓さんと同じやうに油絵を一枚呉れろと言ひ出した。(大臣などいふものは、誰でも同じ事を
仕たり、言つたりするよか仕方がないのだ。)
それを聞くと、中沢博士はまた「有難う。」と言つて頭を下げたが、以前に比べると、余り禿げ過ぎてゐるので、一寸手加減をした。「折角ですが、お断りしませう。吾々は服務規則で上役に物を贈る事は出来ませんからな。」
「成程な。」と言つて、奥田氏はにや/\笑つてゐたが「だが君、それは値段のある物の事だらう。まさか君の
描いた絵が値段もあるまいぢやないか。」
「なんぼ悧巧でも、美術の
鑑賞はまた別の物さ。」
画家はよくこんな事をいふが、中沢博士もそれからといふもの、奥田氏に対してこんな考へを
有つて居るかも知れない。博士も
画家の一人だから。
オルガ・サマロフ女史がある時音楽会を開いた。女史がいつも出演する折のやうに、その
夜も
聴衆は会場にぎつしり詰つて、身動きの出来ない程であつた。
そこへ髪の毛の長い、お洒落な紳士が一人入つて来た。一体どこの芝居でも、どこの音楽会でもお洒落な男や女は大抵人が一杯詰まつた頃に、のつそり入つて来るものなので、彼等はかうして満場の視線を自分の身一つに集める事に、ぞく/\した嬉しさを感ずる。
だが、その紳士は余り念入りに髪の毛に香水を振りかけてゐた
故で、入つて来るのが二分
方遅過ぎた。何処を見渡しても椅子一つ
空いてゐないので、紳士は少しどぎまぎした。
もともと見え張りの男だけに椅子が無いなと気が
注くと、いきなりその晩の演奏者サマロフ女史の
許へ駈けつけた。
「どこも椅子が無くて閉口してゐる所なんです。
貴女のお口添で一つ捜して戴けないでせうか。」
女流音楽家はじろりと相手の顔を見た。
「私の坐る席が一つ明いてます、何ならお使ひになつても苦しくありません。」
「有難う、何処で御座います。」
と紳士はぴよこ/\お辞儀をした。
「ピアノの前なんです。」
女史は
気もない
風で言つた。紳士は
吃驚して馬のやうな顔をした。
大阪劇団の恩人として、優に大近松以上の手柄を興行上に残した竹田出雲の墓は、今日迄かいくれ判らなかつたのを、今度浄曲研究家
木谷蓬吟氏の手で
偶然発見せられた。
それは
生玉寺町青蓮寺の墓地で、この寺は明治三年神仏
混淆の時にお廃止になつた生玉
東門の遍照院の後身である。
出雲の法名は「
文明院岑松立顕居士」で、同寺保存の旧過去帳を見ると、宝暦六年十一月四日歿といふ事になつてゐる。
従来の記録に十月二十一日とあるのに比べると、十二三日生延びてゐた事になる。歴史や記録やは、時によると医者よりも手荒い療治をする事があるものだ。
この
墓地には、出雲の
外に、その
女房子と、
親父の
近江、兄弟など六十幾人かの墓が並んでゐる。過去帳にも竹田氏一族五十余名の名前がちやんと書き残してあるのを思ふと、竹田一族が寛文以後七八十年の間
豊に生活を送つてゐた事がよく判る。出雲の父近江は竹田のからくり芝居の元祖で、自分が発明した砂からくり、水からくりの人形自動劇を竹田の芝居で打つて素晴しい成金となつたのは、その頃
流行つた、
「大阪道頓堀竹田の芝居
銭は安いが面白い。」
といふ俗謡でもよく推察し得られる。
出雲は二男か三男からしく、
相応な
資本を父から
頒けられると、それでもつて竹本座の
操り芝居を買取つて、座主、興行
主、兼作者として奮闘し、正面の
床を横に、
人形遣ひを三人に改めたり、背景や変り道具を試みるといつた風に、色々と舞台
向の改革を施して、その多くは成功した。
かういふ劇界の功労者の墓が、蓬吟氏の手で
発見られたのは喜ばしい事だ。今
浪花座で『忠臣蔵』を
演つてゐる鴈治郎なども、お
軽の
道行のやうな
濡事を実地
行る
閑があつたら一度青蓮寺に
参詣つたがよからう。
亜米利加のある田舎に居酒屋があつた。そこの
女将は娘のうちから出嫌ひの上に、店の仕事が忙しづくめなので、十年
許りといふもの、滅多に戸口から外へ出なかつた。
さうかうする
間、女将は多くの居酒屋の亭主にあるやうに、むくむく
肥り出した。脂ぎつた顔が
河馬のやうにだらしなくなりかけると、客足は現金なもので毎日のやうに
寂れ出した。
つい
手許が不如意なので、女将は租税を納めるのを怠つた。一体租税とか
女房から頼まれた手紙とかいふものはよく忘れ勝なもので、そんな物を忘れたり、怠つたりした所で、一向
掛構ひの無ささうなものだが
土地の収税吏は怖い顔をして催促に出掛けて来た。
収税吏は痩せた男だつた。痩せてゐるだけに女将の脂ぎつた顔を見ると、つい胸が悪くなつて、
悪口の二つ三つを投付けた。すると女将はいきなり大きな
掌面でもつて収税吏の
横つ
腹を押へてぐつと締めつけた。
羸弱な役人の腹は
薄荷酒の
空壜のやうな恰好になつた。
収税吏は女将の手許を潜りぬけて、空壜のやうに表へ転がり出したと思ふと、直ぐ巡査を連れて戻つて来た。暴行犯として女将を拘引しようといふのだ。
巡査は女将の手首を
掴へて、表へ引張り出さうとはするが、肥つた女の
体躯が入口に一杯になつて
何うにも仕方が無い。強ひて拘引しようとすれば、入口を
毀さなければならぬ。巡査にそんな力は与へられてゐないので、二人は
仕末に困つて、ぶつ/\言ひながら引揚げたさうだ。
画家の
田能村直入は、晩年
年齢を取る事が大好きになつて、太陽暦で八十の
齢を迎へてまだ二
月と経たぬうちに、旧暦のお正月が来ると、
「さあ、俺も八十一になつたぞ。」
と、すつかりその積りで、
他に齢を問はれると、「確か八十一ぢやつたかな。」と答へたものだ。
他がそれを
真実に受けると、直入はいゝ気になつて盆節季や、祇園祭といつたやうに、世間が酒や金勘定に夢中になつて、
画家の事なぞ、すつかり忘れてゐる頃に、また一つ
宛年齢を殖やしておく。
偶にそれに気付いたらしい相手が、
「へい、八十八におなりやす? でも、昨年の春どしたか、八十三やさうに、お聞き申しましたが……」
と
胡散さうな顔でもすると、直入は急に風邪でも引いたやうに
嚏をして、
「齢をとると、月日が短かうての。」
と言ひ言ひしたものだ。
鈴木松年氏はこの二三年来外へ出掛ける時には、いつも
珠数を一つ
袂の底へ投げ込んで置く事に
定めてゐる。だが
偶に
清水へ参る時はあつてもそんな折には袂の珠数はすつかり忘れてしまつて、松年氏は観音様の前へ立つなり、持合せの両手を合せて、一寸お辞儀をする。その両手といふのは、
従来幾度か観音様を半殺しにした事があるので、仏様はそれが目につくと、急に
生娘のやうに真青な顔になつて、
平素のたしなみも何も忘れてお
了ひになる。
ある人がそんなに使ひもしない珠数を何故袂に入れておくのだと訊くと、松年氏は、
「俺も御覧の通り
老が寄つたでの」と死神に立聴きでもされないやうに、急に声を低めて、「何時何処で死ぬかも知れんやらう、そんな折に
他が袂を触つてみて、松年さんは偉い、ちやんと死ぬる日を知つてはつて、袂に珠数を入れときやしたと言つて感心するやらう。」と言つたといふ事だ。
序でに松年氏に教へる。片つ方の袂には毎日一銭銅貨を一つ入れておく事だ。頓死でもしたらその
儘六道銭にもならうし、死ななかつたら代りに夕刊新聞を買ふ事が出来る。夕刊には
画家の知らない、色んな面白い世界が載つてゐる筈だ。
画家仲間の
達者人といはれた富岡鉄斎翁も近頃
大分耄けて来た。
狡い道具屋などはそれを
好い事にして、よく
贋物を持ち込んでは、
巧く
箱書を取らうとする。
先日もある男が一
幅そんなのを抱へ込むで来た。
鉄斎翁は眼鏡を
透して、うそ/\見てゐたが、
「よう
出来とるな。この
蟇の顔が何とも言へんな。いつ頃の作やつたかなあ。」
とその男の顔を見た。絵は蟇仙人の図で、蟇が人間の顔をしてゐる代りに、人間は蟇のやうな顔をしてゐた。
「確か二十年ばかし前のやうに記憶しとりますが……」
その男はかう言つて頭を一つ下げた。その頭は三月前の事も何一つ記憶してはゐなかつた。
「そや/\。確かさうやつたなあ。」と鉄斎翁は
惚々と
贋の
画に見とれてゐた。「
俺もあの頃は達者に
画いたもんや、
迚も今はこんな真似は
出来上らんて。」
かういつた風で、いつも
偽物に箱書をしたり、薄茶でも一服
饗応はれると、出先で直ぐ席画を
描いたりするので、家族連の心配は一
通でない。新画の高い今時、そんな
勿体ない事があるものかと、鉄斎が
外出をする時には、途中が危いからと言つて、
屹度附人を一人当てがふ事にしてゐる。
附人の役目は鉄斎翁に何も書かさないで、お
喋舌さへさせて置けばよい事になつてゐる。鉄斎のやうな
老人だからといつて、
時偶「真理」を
喋舌らない事もないが、今の世の中では口で言つた「真理」は、紙に
描いた雀一羽程の値段もしないので、鉄斎は手を
懐中に入れた
儘安心していろんな事を
喋舌る事が出来る。
家族といふものは、みんな親切なものさ。
今芸術座の理事をしてゐる中村
吉蔵氏は、
他が大阪一流の
芸妓はと訊くと、急に
莞爾して、
「
大和屋の
若久さ。」
と答へる。
「ぢや、三流どこではどんなのが居るね。」
と訊くと、
「やつばり大和屋の若久かな。」
と云つて、にや/\してゐる。実の所を言ふと、中村氏が知つてゐるのは、数多い大阪の
芸妓を通じて、若久一人しか無いのだ。
その中村氏が以前まだ早稲田の学生で居た頃、ある新聞の懸賞小説に当選して、
大枚三百円かの賞金を貰ふ事になつた。
その折新聞社の会計係が、三百円の小切手を渡すと、中村氏は大事に
懐中に
蔵ひ込んであつた右の手を出してそれを受取つた。受取るには受取つたが、三百円といへば一円紙幣で三百枚、五十銭銀貨で六百枚の事だとばかし思つてゐた中村氏は、
「随分
嵩張るだらうからな。」
と、下宿を出る時、手織木綿の風呂敷を用意までして来てゐたので、
薄つ
片な小切手を見ると変な顔をした。
「これは何ですか。」
中村氏は
駝鳥のやうな長い首を会計課の窓に
覗けて言つた。
「それは三百円の懸賞金です。」
会計係が
窃々笑ひながら答へると、中村氏は腑に落ちなささうな顔をして、小切手を裏返してみたり、
透してみたりしてゐたが、暫くすると、
「
何うも困りますな、こんな物で戴いては。矢張一円紙幣か銀貨かで戴きませう、その方が都合ですから。」
と言つて、小切手を窓口から押し返した。
会計係が解り易い日本語で、小切手の決して心配な物で無い事、銀行へ持つて
行けば
何時でも好きな銀貨や銅貨に替へて呉れる事を説き聞かすと、中村氏は幾らか納得が往つたやうな
素振で、地球でも
包まれさうな大風呂敷に、その小切手一枚を畳み込んで大事に持つて帰つたさうだ。
だが、笑つては
可けない。習ふよりは馴れろで、今では中村氏も芸術座の為めには手形を振出す事をすら知つてゐる。
茨城の北相馬郡
桑原村といふ
土地に
伝右衛門といふ爺さんが居た。一体茨城の人には、人間では水戸烈公より
外に偉い人はなく、山では筑波山の外に山らしい山は無いと思つてゐるのが多いが、伝右衛門もその一人で、仕合せと
文字を知らなかつたから、烈公の方は
絶念めて、
閑さへあると筑波山へばかり登つてゐた。
ある夏、
草鞋作りにも
飽いたので、ひよつくり思ひ立つてまた筑波山へ登つた。すると、
俄に空が曇つて雷がごろごろ鳴り出したと思ふと、夕立がざあつと降つて来た。伝右衛門は慌てて
其辺の
掛茶屋に駈け込んで
雨上りを待つ事にした。
見ると、茶店の
縁端には、誰に
注いだともないお茶が一つ置いてあつた。
咽喉の渇いてゐた伝右衛門がそれを飲まうとすると、茶店の
媼さんは慌てて止めた。
「
止しにさつしやれ。お前には
此方のを上げますべい。それは雷様に上げてあるのだからの。」
伝右街門が不思議な顔をして、雷様がお茶を
食るのかいと訊くと、
「
食るともさ。」と媼さんは茶飲友達の噂でもするやうに「雷さまは、えらお茶が好きだあよ。」と言つた。
「へえ、そんなにお茶が好きなのかい。」と伝右衛門は感心したやうに首を
掉つた。「そんなだつたら
家へ来れば浴びる程お茶を
饗応つてやるのに。」
それから五六日経つと、
大雷が鳴つて雨がどしや
降に降り出した。
窒扶斯の熱度表のやうな
雷光がぴかりと光つたと思ふと、大隈侯のやうな顔をした雷さまがにこにこもので一人伝右衛門の家へ転げ落ちて来た。
そして台所の
附近をうろ/\捜し廻つてゐたが、お茶が入れてないのを見ると、急に
難かしい顔をして
薬鑵の湯を台所一杯にぶち
撒けて引き揚げて往つた。
伝右衛門は
吃驚して尻餅をついたが、でもまあ、雷様でよかつた。それが大隈侯だつたら、代りに酒でも菓子でも出せといつてその
儘居据わつたかも知れない。
文学者や
画家の
許へは、何ぞと言つては書いた者を
強請りに来る
輩が少くない。とりわけそれに幾らかの市価があるといふ事になると、色々の
手段を尽して引出しに来る。
この頃竹内栖鳳氏の
画がづば抜けて値が高いので、栖鳳氏の
許へは取り替へ引き替へ色々の事を言つて、
無代の画を
描かしに来る者が多いといふ事だ。
先日もこんな事があつた。
それは
幸野楳嶺の
幅を持合せて居る男が、一度
手隙にその画を鑑定して貰ひ度いと言つて来たから起きた事なので、
箔をつけるといふ事は、滅多に人に会はない事だと思つてゐる栖鳳氏も、
外ならぬ師匠の画の事なので、不承不承に会う事にした。
その男は楳嶺の画を抱へて入つて来た。画は尺八か
何かの大きさで、随分手の込んだ密画で、出来も決して悪い方では無かつた。
「これや立派なもんや。」と栖鳳氏は言つたが、
例の癖で直ぐ有合せのお上手が言つて見たくなつた。「
宅にも
前方からこんな出来のが一幅欲しい欲しい思つてましたんやが、さて欲しいとなると、
却々手に入りよらんでなあ。」
その男は目の前の機会を取逃さなかつた。
「そんなにお気に召しましたか。」と覚えず膝を乗り出した。「そんなら物は御相談でございますが、実はこの幅は手前共の床の間には
幅つたくて困つてゐる所なんです。で、一つ何でも結構で御座いますから、先生の
小幅と御交換が願へましたら……なに、ほんの一寸した小幅で結構でございますから。」
「成程な。」栖鳳氏はにやにや笑ひ出した。「交換いつた所で、手の込むだ師匠の密画と換へるのやさかい、私が粗末な略画を
描いたんぢや師匠に済まんし、いつそ換へるなら私もこの大きさでこの位の密画を
描かんならんが……」
「いや誠に有難うございます。」
と言つて、その男は蠅取蜘蛛のやうに畳の上に平べつたくなつた。畳の目は一度に皺くちやになつて笑ひ出した。
「そいぢや、お
宅の床の間には、師匠のこの幅は
懸らんで、私のは懸る事になりますな、同じ大きさの
幅でゐて。」と栖鳳氏は一寸
窄口をして笑つた。「ところで、私が
描くにしても、この位の密画やと四五年は懸るさかい、この
幅はまあ持つて
往んで、懸けて置いて下さい。」
南画家富岡鉄斎老人の幼友達に、京都は新町丸太町辺に住んでゐる
丸兵といふ
傘屋の爺さんがゐる。
爺さんはいつも仕事場に坐ると、
「
俺が一日怠けでもしようもんなら、京の奴ら、
悉皆ぐしよ濡れになるやらう。
可哀さうなもんや。」
と
独語を言ひ/\
傘を貼つてゐる。実際爺さんの
心算では、
傘貼りは一ぱし
他助けの仕事らしいが、それに少しの嘘も無い、何故といつて京都人は
霊魂よりも着物がずつと値段の張つてゐる事をよく
判へてゐる人種だから。
その爺さんの
家に秘蔵の拍子木がある。それには
池大雅が例の達筆で、
「火の用心」
と書き残してゐるので、それが鉄斎老人の耳に入ると、(老人は名代の
金聾だが、耳で聞えぬ事は目で読む事が出来る)
例の癖で何とかして自分の手に入れたくなつて来た。
鉄斎老人は久し振に
傘屋を訪ねた。そして
蛤御門の
戦や、桃太郎の鬼が島征伐などの昔話をして、二人とも目頭に涙を浮べて喜んだ。話に油が乗つて来ると、鉄斎老人は例の大雅堂の拍子木の事を持出して、あれを譲つては呉れまいかと切り出した。
傘屋の爺さんは、
貼り
立の
傘に油を塗るやうに、皺くちやな
掌面で顔を撫でまはした。そして、
「よろしおす。
傘屋におした所で何の役にも立ちよらんが、
貴方さん
許やと拍子木にも値打が出ますやろからな。」
と二つ返事で承知をして、拍子木を取り出して鉄斎老人の膝の上に置いた。
老人は拍子木を貰つた礼に何を返したものだらうかと色々思案の末が、矢張
仏手藷のやうな山水を
画いていつもの禿山の代りに
精々木立のこんもりした所を見せて送ることに決めた。――
何んといふ立派な考へであらう、どんなにどつさり立木を
描いた所で、木は有合せ物で、
画家の
懐中一つ痛めずに済む事なのだから。
御影に住んでゐる男が、国元に
相応な
田畑を持つてゐるので、小作米の揚つたのを汽車で送らせて、御影の家で
貯へてゐるのがある。そんな田畑があるなら、それを売払つて、その
銭で白米を買つたなら、
善かりさうなものだが、その田畑は亡くなつた
親父が
拵へたものだけに、その男の自由にもなり兼ねるらしい。
御影の家には米を貯へる倉が無い。御影にだつて倉の附いてゐる
家も無い事もないが、そんな
家は得て家賃が高い。で、その男は送つて来た米俵を、内庭に高く積み、その上へ大きな金網を
蔽せて
鼠除をしてゐる。
ところが、この頃の夜長にふと気が
注いてみると、金網の中に何かぱり/\音をさせて米を
噛つてゐる物がある。カーキ色の軍人が軍器を噛るやうな音だ。その男は
蝋燭をつけて俵の下を覗いてみると、大きな鼠がうろ/\してゐる。
その男は金網を調べてみたが、何処に一つ
毀れた所も無かつた。で、この鼠は以前子鼠であつた頃網の目を
潜つてちよく/\走り込んだものと判つた。
だが、さる
物識の説によると、基督が言つたやうに人は
麺麭のみで生きるものでないと同じく、鼠も米のみで生きる事は出来ない。人間に宗教が要るやうに、鼠には
水気のある菜つ葉が必要だ。
その菜つ葉を鼠が
何うして
獲たかといふと、それは朋輩の力を借りて、台所の隅から持つて来て貰ふ
外には仕方が無かつた。彼等は長い間金網の内と外で米と菜つ葉とを交換してゐたのだ。
恰ど神戸の貿易商が絹とお茶とを積み出して、代りに毒薬と
護謨細工の人形とを持つて帰るやうに……。
アメリカにオテイス・スキンナアといふ聞えた
俳優が居る。
浪漫的な芸風で、
倫敦や
巴里や
伯林などで興行した時も、
相応な評判を取つたものだ。
この俳優がある時
紐育の舞台へ出るために、夫人と一緒に、その頃
住つてゐたフイラデルヒヤから紐育行きの汽車に乗り込んだものだ。
スキンナアは汽車中の二時間ばかしで、今度の持役の
台詞を、すつかり
記憶え込む積りで、外套の大きな隠しから
台詞書きを引張り出した。そして
低声でそれを
暗誦し出した。時々顔を
顰めたり、鼻先で
掌面をぱつと
開けたりして。
夫人は
例の事なので
良人の方には見向きもしないで、せつせと
韈を編むでゐた。女といふものは韈を編む時には、
「ほんとに私は親切者だわ、一寸の暇も無駄にしないで、こんなにして
家の人のを編んでるんだもの。」と思ひ/\、針を運ぶものだが、ついその「親切」を見せびらかす積りで、韈の丈を余り長くするので、良人は永久に足の裏が韈の底に届かぬやうな事になる。
夫人が
編さしの韈を膝の上に引伸ばしてじつと良人の足と見比べてゐると、後から右肩をちよい/\
突くものがある。振り向いてみると髪の毛の縮れた五十婆さんで、手には十五六の小娘の読みさうな恋愛小説を持つてゐる。
婆さんは夫人に耳打をした。「お気の毒さまですね。
私すつかり身につまされちまつた。と言ふのはね……」と小説本を大事さうに畳みながら、「
家の人も
恰ど御主人と同じやうな病気でね。」
スキンナアは
狂人と見違へられたのだ。だが、怒るにも及ぶまい、すべての女は自分の亭主以外の
男子は大抵
狂人か馬鹿だと思つてゐるのだから。
露西亜の若い、ハイカラ紳士が気取つた身振で
巴里の料理屋に入つた。別段お
腹が空いてもゐなかつたが、滑らかな仏蘭西語で献立を註文するのが嬉しくてならなかつたのだ。
紳士が
稍反身になつて
卓子の前の椅子に腰をおろすと、鵞鳥のやうに白い
上つ
張を着た給仕人がやつて来て註文を聞いた。紳士は一寸その方へ顎をしやくつて、
“Une portion de bifteck aux pomme de terre”(
馬鈴薯つきのビフテキ)と一皿
命けて、「
何うだ、
巧からう」といつたやうに
四辺を見廻した。
すると、丁度帳場にかゝつた古時計が悲しさうに午後三時を打つた。紳士はそれを自分を褒めて呉れたもののやうに思つて、
態々懐中時計を引張り出して、今正規の時間に合はした
許りの針をまた古時計の通りに
引直した。古時計は年を取つて
気短になつてゐたので卅分ばかり進んでゐた。
直ぐ隣りの
卓子にまた一人お客が入つて来た。指先で軽く給仕人を呼んで
“Garon bifteck pomme”(ちよいと、じやがテキをね。)と言つて、どかりと椅子に腰をおろした。何処から見ても五
分の
透もない
巴里ツ子である。
「隣の奴め
馬鈴薯テキと言つたな。」と思ふと、ハイカラ紳士は顔から火が出るやうに
恥しくなつた。「
Bifteck pomme ――それに比べると、俺の仏蘭西語はまるで鼠のやうに長い
尻つ
尾を
生やしてら。」
紳士は泣き出しさうな眼付きして古時計を見た。古時計はナポレオン三世のやうな
気忙しさうな顔をして、露西亜人などには
頓着なく息を
奮ませてゐる。紳士はいつになく露西亜が恋しくなつて来た。
だが、その露西亜へ帰つて来ると、紳士は何処の料理屋へ往つても、巴里へでも聞えさうな大きな声で、「Bifteck pomme」と
誂へる事に
定めてしまつたさうだ。
囃子方の六
合新三郎は西洋料理屋に入つて、ライスカレーの註文をするのに、
「おい、辛子のおじやを持つて来い。」
と言つたといふ事だ。新三郎が仏蘭西語で註文しなかつたのは無理もないが、「辛子のおじや」は聞いて呆れる。恥ぢよと言つた所で、恥ぢもすまいから困る。
ある美顔術師が千里眼問題で名を売つた
福来友吉博士を訪問した事があつた。すると盛装した夫人がひよつくり応接室へ顔を出して、これから或る婦人会へ出掛けるといふ挨拶なので、美顔術師は、
「ぢや、一寸お待ちなさい、こゝでお化粧して上げますから。」
と言つて
引とめた。
美顔術師は
掌面でパラピンのやうに夫人の顔を
弄つてゐたが、暫くすると、見違へる程美しくなつた。そこへ入つて来た福来博士は
吃驚して
艶々した夫人の顔を見てゐたが、
漸とそれが自分の最愛の妻だと判ると、実験心理学でごちや/\になつた頭を
鄭寧に下げてお辞儀を一つした。
先刻から夫人のお
連が玄関で待つてゐる由を聞いた美顔術師は、何も
序でだからその人の顔をも一緒に
弄つてやらうかと云ひ出した。すると博士夫人は生み
立の卵のやうな顔を一寸
顰めた。
「
止して置いて下さいな。そんなに
仕て戴くと、折角の私の顔が晴れなくなつちまふわ。」
と、
達て
留め
立をしたといふ事だ。
美顔術師の所へ通う多くの婦人連は、途中でその美顔術師に遭つても、
外つ
方を向いて成るべく素知らぬ顔をする。そして
後から直ぐ訪れて来て、
「お宅に通ふのが知れると、直ぐ
何の
角のと言ひ触らされるんですからね。」
とお詫をする。
だから美顔術師となるものの第一の心得は、途中で自分のお得意に出会つても、成るべく素知らぬ顔をする事だ。――一寸
内証で言つておくが、これは亭主にとつても同じ事で、女房に好かれようと思つたら、途中で自分の
連合に出会つても、成るべく
外つ
方を向いてゐる事だ。女といふものは、亭主持で居ながら、外へ出ると
処女か
独身者からしい顔をしたがるものなのだ。
住友の鈴木
馬左也氏が中学時代に
甚く世話になつた教師がある。その後教師は職に離れて色んな事に手を出してみるが、多くは失敗続きなので、馬左也氏はそれが気の毒さに泣き付かれる
儘に二度ばかり千円程出した。
教師はそれを持つて、何かまた
事業を
目論んだらしかつたが、それも結果が悪かつたかして、また馬左也氏の応接間へひよつくり出て来た。そして
閾際に立つて
鄭寧に
胡麻白頭を下げてお辞儀をした。
物が欲しくて来たものは、閾際でお辞儀をする。喧嘩がしたくて来たものは、
卓子に
捉まつてお辞儀をするものだと知つてゐる馬左也氏は、直ぐ老教師の用事を
見貫いて苦い顔をした。
「貴方にも困りますな。さう
繁々お
来になつては。無論私は以前御厄介にもなつた事があるし、今は幾らか
金銭の融通もつく身分ですから、出来るだけはお尽ししたいが……」
と言つて氏は机の
抽斗から紙入を取出した。そしてその中の幾枚かを紙に包んで、老教師の前に出した。
「今日はこれでお帰りが願ひ度い。そして
今後は私の事は一切お忘れになるやうに。」
老教師はその紙包を戴いて
何事があつても、馬左也氏の名前
丈は忘れまいと
胡麻白の頭を幾度か下げて
引下つた。
それから一週間程経つて、馬左也氏はある骨董物の
売立会で、茶匙を一本二千円で買つた。茶匙がそんな値打のあるものか
何うか、馬左也氏はよく知らなかつたが、道具屋がさう言つたから、それに違ひあるまいと思つた。
馬左也氏は二千円を払つて茶匙を受取つた時、覚えず
はつと思つた。(馬左也氏はちよい/\参禅をするが、禅に入つた人はよく
はつと思ふものなのだ。)
「自分は
先日以前の教師が困つてゐるのを見ながら、つい
金銭の
出惜みをした。それが今二千円も
奮んで茶匙一本を買ふなんて、何て矛盾した事だらう。」
と気が
注いてみると、
何うしてもその茶匙を
弄くる気になれなくなつた。
で、その
後は「良心」が
吃驚すると
可けないからと言つて、茶匙は道具箱に
納ひ込んで滅多に見ない事に決めてゐる。茶人馬左也氏に教へる。もつと
善い「良心」の保護法は、その茶匙をその儘老教師に呉れてやる事だ。すると、恩人に物を恵んだといふ満足の
外にその匙が
真実は十円の値段がなかつたといふ事を知る事が出来る。
近頃市電の運転車輛が
甚く少いので、何処の停留場にも、
乗客が一杯
集つて、険しい眼を光らせながら、
「もう小一時間も立たせやがる。これだけの
閑があつたら地獄へでも
用達に
往けら。」
「電鉄の杉山め、車輛を
処女のやうに
労はつてるから
可笑しい。」
と、口々に
呟いてゐる。
その杉山清次郎氏が、電鉄部長といふ職掌柄から、市電の
操車振を見ようとして時々電車で市内を乗り廻す事がある。すると辻々に立つてゐる監督がそれを
発見るが早いか監督詰所に駆け込むで、その電車が通つて
往く
途々の箱番へ直ぐ電話をかける。
「おい、君は
本町交叉点かい。今
飛行機が君の方へ飛んだから用心するんだぞ。」
電話を受取つた監督詰所では、
居睡りを
止め、笑ひ話を切り上げて、見合でもしさうな顔をしてきちんと取済ましてゐる。すると、杉山氏は電車の窓から色の黒い顔を覗けてみて、
「俺が
口喧しく言ふもんだから、みんなあの通りに一生懸命に
行つてら。」
と「小細工」やら「電気の知識」やら
混雑に入つた頭を撫でて喜んでゐる。
「何故飛行機なんて
綽名がついたんだね。」
と監督の一人に訊いてみると、
「何だつて
貴方、しよつちゆう羽を拡げてぶう/\
唸り散らしてるんですもの、
加之に目方が軽くつてね……」
先年横山大観、
寺崎広業、山岡
米華の諸氏が
連立て支那観光に出掛ける
途すがら神戸へ立寄ると、
土地の
富豪連が
寄つて
集つて三人を
招待した。
一体
富豪が
他を
招待するのは、何か見せつけ度いとか、何か
強請り度いとかいふ時に限る事で、もしかお客が一
向物に感心しなかつたり、何一つ
持合の無い男だつたら、
富豪といふものは二度ともうそんな人を
招侍しようとはしない。
神戸の
富豪もちやんとさういふ型に
嵌つてゐたから、宴会半ばになると、そろ/\
画絹を引張り出して三人の
画家の前に拡げ出した。
「何か一寸したもので結構です、
後の記念になる事ですから。」
かういつて、缶詰のなかへ石を入れる事を忘れない頭を
鄭寧に下げた。
それを見た大観は急に
喰べ酔つたやうな顔をし出した。
蹣跚と立ち上つて、
「何か一つ
遣つ
付けませうかな。」
と、だらしなく画絹の前に坐ると変な
手附で
馬鈴薯のやうなものを
さつと
塗くつた。そしてとろんこの眼で
凝と見てゐたが「
此奴あ
可かん。」と言つて、画絹をさつと放り出した。
で、今度はまた新しい画絹の上に、
蝌蚪のやうなものを
描きかけたが、「駄目だ、駄目だ。」と
呟いてまた
其辺へおつ
投り出した。
すると最前からそれを見て居た
富豪連は、いつの間にか
各自にそつと画絹を抱へ込んで
遁げ出した。そして言ひ合はせたやうに米華の前に
集つて来た。
「山岡さんはいつ見てもお若いですな。――どうぞお
尋でに一寸……」
米華は山のやうな画絹を前に、汗みづくになつて滝を
描き、山を
描き、鶴を
描き、亀を
描き、
洋妾のやうな観音様を
描き、神戸市長のやうな馬を
描きしてゐるうちに、到頭
眩がして自分にも判らぬやうな変な物を
描き出した。
「
巧いぞ……」
だしぬけに後で大きな声で
喚く者があるので、皆が
吃驚して振りかへると、両手を
懐中に大観が
欠伸をしい/\
衝立つてゐた。
なに、広業が居ないつて。――そんな筈はない。
敏捷い広業は画絹が取出されたのを見ると、いつの間にか
厠に滑り込んで、その
儘そこで
居睡をしてゐたのだ。
先日藤田家の茶会に、故人
香雪軒の遺愛品として陳列せられてゐた
漢田村文琳の
茶入については面白い話がある。
あれは以前
某の売立会で、馬越恭平氏の手に入りかゝつたのを、横つちよから飛び出した藤田伝三郎氏が、一目見るなり欲しくて欲しくて溜らず、
「
達ての頼みだ、是非譲つて欲しい。」
と、きつい所望に、馬越氏も止むを得ず譲る事にしたものだ。
馬越氏の腹では、
「藤田があんなに欲しがつた茶入だ。千円も贈つて来るかな。」
と、その千円が手に
入つたら、
腹癒に一つ思ひ切つて
洒落た茶会でも開いてやらうと、
心待にしてゐると、
其処へ届いたのは藤田氏からの一封で、
開けて見ると六千円の小切手が一枚無雑作に包んであつた。
馬越氏が最初の心積りだと、それだけ有つたら洒落た茶会の六七度は出来る筈だつたが、馬越氏は茶会の代りに一度
にやつと笑つて、それで済ましてしまつた。そしてこんな場合、笑つて済ます事の出来る自分は、何といふ悧巧者だらうと、つく/″\感心をした。
さういふ履歴附の文琳の茶入が陳列されるといふので、廿一日の茶会には東京から名高い五人組の茶人が
下つて来た。五人組といふのは、益田孝、朝吹英二、加藤正義、野崎広太、高橋義雄といふ
顔触。
五人はその茶入の前に来ると、一斉に眼を光らせた。成程結構な茶入だ、滅多に
獲られない名器だなと思ふと、五人の頭に言ひ合はせたやうに馬越氏の事が浮んで来た。
「馬越は何処に居るだらう。惜しい物を手離したもんだな。」
「確か
大連に旅行してる筈だ、電報をやらうか。」
「よからう。皆で一緒に笑つてやれ。」
といふので、その場で直ぐに電報が打たれた。
大連の
旅館で馬越氏は五人名前の電報を受取つた。
「タムラブンリンミタ バカヤロウ」
幾度読み返してみても同じ事なので、馬越氏はお婆さんのやうな顔を
歪めて
にやつと笑つた。そしてこんな場合笑つて済ます事の出来る自分は、何といふ悧巧者だらうと
熟々また感心をした。
京大文科の教授某氏の
家に、
昔時から持伝へた封印つきの仏様がある。何でも
純金で出来上つたものださうで、封を解くと眼が潰れるかも知れないといふ言伝へになつてゐた。
教授某氏は、物心のつく時分から、一度
開けてみたくて仕方がなかつたが、その都度信心深い
阿母さんに止められて残り惜しさうに思ひ
止つてゐた。
すると、近頃
阿母さんが亡くなつたので、教授は一七
日の
回向を済ますと、直ぐ封を解きにかゝつた。大学教授といふものは
凡て「真理」を窮めるために生きてゐるものだが、某氏が
龕を
開けにかゝつたのは、何も研究の為めでは無かつた。実をいふと、それを売つて
纏まつた金が握りたかつたのだ。仏様は
交りつ
気なしの
純金だと聞いてゐたから。
教授は
怖る/\
龕の
扉を開けにかゝつた。定めし
黄金の
眩しい光でも
射す事だらうと、心持眼を細くしてゐると、なかから転げ出したのは鼠のやうな真黒な仏さんだつた。
教授は慌ててそれを取り上げた。そして眼を一杯に
開けてじろ/\見廻したが、何処に一つ
純金らしい光は無かつたし、それに
持重りが少しも無かつた。
「
訝しいな。こんな筈ぢや無かつたつけが……」
と、教授は
腑抜のした顔でそれをもじや
繰つてゐるうち、ふと仏様の笑顔が家主の
因業爺のやうに見え出した。
「糞ツ、勝手にしろ。」
と教授は
膨れつ
面をして
床の
間にそれを投げつけた。仏様は将棋の桂馬のやうな足音をさせて、
其辺を飛び廻つた。
その瞬間教授の頭に
茸のやうにむくりと持上つたものがある。
理髪床の
親仁が好く
地口といふものだ。
「俺は
キンの像が欲しかつたのだ。そして飛び出したのは御覧の通り
キ(木)の仏様だ。つまり俺には
ン(運)が無いんだな。」
かういつて教授は泣き出しさうな顔をして笑つた。
拙い洒落だが、それでも納得出来れば無いよりは
愈だ。丁度田舎者の
腹痛が
買薬で間に合ふやうなものだから。
故人井上
馨侯が素晴しい癇癪持だつた事は名高い事実だ。故人は自分でもよくそれを
弁へてゐて、自分の都合の悪い時には、滅多に癇癪を起さなかつたから
猶始末に困つた。
数多い故人の
昵懇のなかで、
鴻池H氏のみは、よく侯爵に対する手心を知つてゐて、滅多に疳癪玉を
弾けさせなかつた。もし井上侯を猛獣に
譬へるなら、H氏は差し詰め
手練な猛獣使ひといふ事になる。猛獣使ひが余り名誉な
職業で無いと同じやうに、井上侯を
手管に取るのも、大して立派な
事業では無かつた。
H氏が東上して井上侯を訪問する場合には、いつも鴻池の埃臭い土蔵から一つ二つ
目星い
骨董物を持参する事を忘れなかつた。
「ええ、御前、これは光悦の
赤茶で御座いますが、形が俵形で面白いと存じましたから、一寸お目に懸けます。」
「なに光悦の赤茶
ぢやと。」
侯爵は嬉しさうににこ/\して「ほゝう、これは又面白い出来ぢやの、成程俵形で……」と皺くちやな
掌面で
弄くり廻して悦に入つてゐる。こんな時には、よしんば鼻先を
抓まれたつて侯爵は決して腹を立てない。赤茶
は
脆つこい物で、腹を立てると
毀れるといふ事を知つてゐるから。
かういふ
理由で、H氏が上京する報知が来ると、井上侯はいつも迎へ車を
停車場まで
寄す事を忘れなかつた。もしかH氏が乳母車で乗りつけ度いと言ひ出したら、侯爵は
態々乳母車を
停車場まで廻したかも知れない。
だが、井上侯が亡くなると、H氏は長い目録を侯爵家に持出した。そして、
「これだけの品は
予て老侯にお目に懸けて置きましたから、お調べの上お返し下さいますやうに。」
といふ挨拶なのだ。
もしか老侯が地獄で(井上侯が地獄に入つてないと誰が言ふ事が出来る)この事を聞いたなら、持前の疳癪玉を破裂させて、一度
婆婆へ帰るとでも言ひ出すかも知れないが、まあ安心するが
可い、地獄には乗りつけの乳母車は往つてゐない筈だから。――乳母車が死んだらその
儘天国へ
往く事が出来る。
島村抱月氏はよく
欠伸をするので友達仲間に聞えた男だ。会つて
談話をしてゐると、物の二分間も経たないうちに
狗のやうにあんぐり口を
開いて大きな欠伸をする。まるで
霊魂でも
吐出しさうな欠伸だ。
五六年前島村氏が神経衰弱とやらで暫く京都に遊んでゐた事があつた。ある日ひよつくり思ひ立つて岡崎にゐる上田敏博士を訪ねた。相手が上田敏氏と島村抱月氏の事だから、
羅甸語
交りで詩人ホラチウスの話でもしたに相違ないと思ふ人があるかも知れないが、実際は二人とも調子の低い日本語で、
「京都は寒いですね、すつかり風邪を引いちやつて……」
「それは
可けませんね、私も二三日
前から少し風邪気味なんですが……」
と、土地で引いた鼻風邪の話をしたに過ぎなかつた。
だが、二言三言そんな
談話をしてゐるうち、島村氏はお
定りの大きな欠伸を出した。そしてそれを手始めに、一時間足らずの
談話に三十七の欠伸をしたので流石に上田氏も
吃驚した。そして島村氏の帰つた
後で、夫人と顔を見合せて言つた。
「よく欠伸をするとは聞いてゐたが、それにしても余り
甚い。余程
身体が
何うかしてゐると見える。」
さう言つて島村氏の健康を気遣つた上田氏は、
不図した病気から
脆くも倒れてしまひ、
草臥れて欠伸ばかり続けてゐた抱月氏は、その
後ずつと健康を
恢復してぴち/\してゐる。そして近頃ではその名代の欠伸も滅多に見られなくなつた。
何でも噂によると、須磨子が欠伸が嫌ひだから自然癖が直つたのだともいふが、事によるとさうかも知れない。一に武士道、二に小猫の尻つ尾、三に
竈の油虫……すべて女の嫌ひなものは滅びてゆく世の中である。
書家細井広沢がまだ
壮かつた頃、ある日
僧侶が一人訪ねて来て、
「私は房州
某寺の住職でござるが、先生の
御作を戴いて、永く寺宝として
後に伝へたいものだと存じますので。」と
所禿のある頭を
鄭寧に下げた。「
甚だ勝手がましいお
願では御座るが、百
幅程御寄進が願へますまいか。」
といふ挨拶なのだ。
広沢は自分の書いた物で、仏様に
結縁が出来る事なら、こんな結構な事は無からうと思つて、
安受合に
引請けた。そして
僧侶を待たせておいて直ぐその場で書き出した。
三十幅四十幅と書いてゐるうちに、広沢は
徐々厭になり出した。仏様のお引立で極楽に往つたところで、そこで好きな書が書けるか
何うか疑はしいし、それに仏様が書を奉納したからといつて、
贔屓目に見てくれるか
何うかも判らなかつた。
僧侶の話では、仏様はそんな物よりもお
鳥目の方が好きらしかつたから。
広沢は五十幅目を
書き
畢ると、
草臥れたやうに筆を投げ出した。
「これで
止にしときませう。もう厭になりましたから。」
僧侶が驚いて、うろ覚えの華厳経の
言語など引張り出して色々頼んでみたが、広沢は二度と筆を執り上げようとしなかつた。
僧侶はぶつ/\
呟きながらも、流石に三つ四つお辞儀をして帰つた。
後になつて聞くと、広沢がその折寄進した書が、房州路のあちこちの宿屋に一枚
宛散ばつてゐる。
理由を
質してみると、あの
僧侶が道筋の宿屋々々で、
旅籠銭の代りに、その書を置いて往つたといふ事が判つた。
広沢は
善い事をした。お慈悲深い仏様さへ手の届かなかつた
売僧を一人助けた上に、自分の書が田舎の房州路でさへ旅籠銭の代りになるといふ事を知つたのだから。
殺人狂入江三郎を護送した巡査に聞くと、三郎の両手を縛るのに革製の手錠を
穿めると、彼は手首を前後に振つてみて、革の裏表がきゆつ/\と擦れて鳴る音にじつと耳を
引立ててゐる。そして、
「これは
好い音がする、やつぱり手錠は革に限りますな。」
と、その手錠を娯む色が見える。
革製の手錠を試しに金属製のに取換へてやると、矢張同じやうに手首をかち/\鳴らせてみて、
「うむ、これも
好い音がする。なか/\
好い手錠だ。」
と、骨董好きが
古渡りの
茶でも見るやうな、うつとりした眼つきで自分の手首に
穿つた手錠に
見惚れてゐる。
今度はその手錠を
解いて麻縄で縛つてみると、三郎は以前と同じやうに手首を振つてゐたが、急に
険しい
眼附になつて、
「
何にも音がしない、こんな手錠は厭だ。」
と、そこいら一杯に唾を吐き出した。その手錠から、巡査の
面附から、署長の小鼻から、まるで汚い物づくめなやうに顔を
顰めながら。
手錠といふと、数年前
西伯利亜の監獄にゐる或る囚徒が本国の文豪ゴリキイに手錠を一つ送つて
寄した。自分が牢屋で
拵へた記念品だから、遠慮なく納めて呉れと言つた。
牢屋で
拵へる物にも色々ある。そのなかで手錠は少し気味が悪かつたし、
加之に銀貨や女の鼻先と同じやうに
手触が冷た過ぎた。だが、
旋毛曲りのゴリキイは顔を顰めてそれを受取つた。そして新聞紙でそのお礼状を発表した。
お礼状の文句に「露西亜は詰らぬ凡人を西伯利亜へ送るが、西伯利亜からはドストイエフスキイ、コロレンコ、メルシンなどいふ偉い男が帰つて来た。多分将来もそんな事だらう。」といふ一節があつた。
むかし
王献之の書が世間に評判が出るに連れて、何とかして
無償でそれを手に入れようといふ、虫の
善い事を考へる
向が多く出来て来た。
さういふ狡い
輩のなかに、一人頓智のいゝ若者が居た。この若者もそれだけの才覚があつたら、美しい女を手に入れる方法でも考へたが良かつたらうに、世間並に王献之の書を手に入れようと夢中になつた。
で、白い切り立ての
紗で特別仕立の
上つ
張のやうなものを
拵へ、それを着込んでにこにこもので王献之の
許へ着て往つた。王献之は
熟々それを見てゐたが、
「
良い紗だな。こんな奴へ一つ腕を
揮つて書いてみたら面白からうな。」
と
独語のやうに言つた。
若者はきさくに上つ張を脱いで、書家の前に投出した。
「無けなしの
銭で
拵へたんですが、貴方の事ならよござんす、一つ思ひ切り腕を揮つてみて下さい。」
王献之は大喜びで、いきなり筆を取つて、草書楷書と手当り次第に好きな字を書き散らした。そして、
「や、近頃になく良く出来た。お蔭で思ふ存分腕が揮へたよ。」
と言つて、そつと筆をさし置いた。
側にゐた弟子の誰彼は舌打しながら
凝と
見惚れてゐた。
若者は手を出してその
上つ
被をさつと
掻つ
浚つたと思ふと、いきなり駆けだした。だが少し遅かつた。門を出る頃には、もう弟子の誰彼に追ひつかれて、
上つ
被は滅茶々々に
引つ
奪られ、若者の手には片袖一つしか残つてゐなかつた。若者がその片袖を売つて酒を飲んだか、
何うかといふ事は私の知つた事ではない。
今、仙台の第二高等学校にゐる
登張竹風は、酒に酔ふと、筆を執つて
其辺へ落書をする。障子であらうと、
金屏風であらうと一向
厭はないが、とりわけ女の
長襦袢へ書くのが好きらしい。
昵懇芸者のなかには、
偶には竹風の書いた長襦袢を、呉服屋の書出しなどと一緒に叮嚀に
蔵ひ込んでるのもあると聞いてゐる。
そんな事になつてはもう仕方が無い。国家は法律によつても、女の長襦袢を
拙い書画の酔興から保護しなければならぬ。
先日横山大観氏が
席上揮毫で、
画絹の
書損ひをどつさり
拵へて、神戸の
富豪の胆を潰させた事を書いたが、人間の胆といふものは、
大地震や
大海嘯の前には平気でゐて、
却つて女の一寸した
嚏や、
紙片の書潰しなどで、潰れる事があるものなのだ。
高浜虚子氏が以前
何かの用事で大阪に遊びに来た事があつた。その頃
船場辺の
商人の
坊子連で、新しい俳句に夢中になつてる連中は、ぞろぞろ一
団りになつて高浜氏をその
旅宿に訪問した。
博労が馬の話をするやうに、俳人といふものは寝ても覚めても俳句の話で持ち切つてゐるものだ。
坊子連は俳句が十七字で出来上つてゐるのは、離縁状が三
行半なのと同じやうに
定つた型である事、その離縁状が
偶に四
行になつても構はないやうに、俳句にも字余りがある事、その字余りは成るべく三十字迄にしておき度い、何故といつて三十一文字になると、和歌に
差支へるからといふやうな事を話し合つて、鼻を鳴らして喜んだ。
そのうち一人の
坊子が
懐中から
短冊を一束取り出した。そして、
「先生、何でもよろしおますよつて、御近作を一つ……」
といつて、大阪人に
附物の茶かすやうな笑ひ方をした。
高浜氏は黙つてその短冊を取り上げて太いぶつきら棒な字で何だか五文字程
認めたと思ふと、急に厭な顔をして、
「
拙いな、
何うしたんだらう……」
と言つて、さつとその短冊を引裂いた。
かうして高浜氏は
続け
様に五六枚ばかし
暴に引裂いた。短冊は
本金を使つた
相応上等な物だつたので、勘定高い
坊子は、その
度に五十銭が程づつ顔を歪めてゐたが、やつと高浜氏が最後の一枚に何か
認めて投出して呉れた時にはとうと泣出しさうな顔になつてゐた。
そこに居並んでゐた連中はみんな
懐中にそれ/″\短冊を忍ばせてゐたが、
何も
彼も引裂かないでは承知し兼ねまじき高浜氏の
顔色を見て、誰一人それを取出さうとはしないで、
匆々に座を立つて帰つて来た。
その連中も今ではもう一
廉の俳人気取りで、田舎者の前などで、
矢鱈に短冊の書損ねを行つてゐる。何事も進化の世の中である。ダアヰンもさう言つてゐた。
米国の大統領ウヰルソン氏は、二度目の今の夫人を迎へてからは、日曜日日曜日に一度だつて教会へお参りするのを忘れたことが無い。――実際あの
齢でゐて、あのやうに若い美しい
後添を貰ふ事の出来たのは、
外ならぬ神様のお蔭で、幾度お礼を言つたつて、言ひ過ぎるといふ訳のものではない。
先日独逸の潜航艇問題が起きた時、ウヰルソン氏は色々心配の余り、幾日か
夜徹をして仕事に精を出した。で、その問題も先づ無事に片がつくと、大統領は久し振で
可愛い夫人の
腕に
凭りかかつて教会に往つた。
教会にはあいにく神様がお
不在だつたので、若い牧師が留守番をしてゐた。(事によつたら、その牧師が居た
故で、神様の方が逃出されたのかも知れない。)その牧師はいつも判り切つた事を長つたらしく
喋舌り続けるので名高い男だつた。
その日も牧師はフライ鍋の底を掻くやうな声をして、神様の吹聴を長々と述べ出した。何でもその説によると、
地面に起きる事も、海の上で持上る事も何一つ神様の摂理で無いものはない。近頃米国の近海で起きた独逸の潜航艇問題の如きも、みんな基督が心あつて
行つた事だといふのだ。
「さうか知ら。ぢや、基督はちやんと潜航艇の事まで御存じなんだな。」とウヰルソン氏は
睡さうな眼で牧師の顔を見ながら
凝と考へてゐたが、そつと夫人の方を振向いて「私にはどうもあの人の言ふ事がさつぱり判らん。」と
呟いた。
夫人は気の毒さうに、三毛猫でもあやすやうに大統領の頭を撫でて言つた。
「ぢや、帰つてゆつくりお
寝みなさい、すると少しは
善くなつてよ。」
この言葉は日本でもその
儘真理で、実際牧師のお説教を聴くよりも、
一寝入寝ておきた方がずつと
利益になる事が多い。だが唯一つ感心なのは、ウヰルソン氏に解り兼ねた牧師のお説教が、
何うやら夫人には
了解めたらしい事だ。猫の声、あかんぼの声――すべて男に解らないものを読みわけるのが女の能力である。
先日ある婦人会で大阪府知事の夫人栄子氏と広岡浅子氏とが一緒になつた。この婦人会は大阪市の有力な夫人が集まつて、
姉さんごつこのやうな事をして遊ぶ為に
拵へてあるのだが、広岡のお婆さんが、何ぞといふと我鳴り立てるので、近頃出席者がぽつぽつ減り出した。
その日も思つた程
顔触が集まらないので、お婆さんは
徐々れ出した。
「
何うしてこんなに顔触が少いんでせうね。今のお若い方はどうも因循で困る。」
と当て附けがましく言ふので、誰よりも若い積りの大久保夫人は一寸
調弄気味になつた。
「広岡さん、貴方が何ぞといつてはお叱りになるもんですから、つい皆さんの足が
遠退くんでせうよ。」
お婆さんは大きな膝を夫人の方へ
捩ぢ向けた。椅子はその重みに溜らぬやうに、お婆さんの腰の下で
蛙のやうに泣き声を立てた。
「何ですつて、
夫人。私の
叱言が過ぎるから、会員が減るんですつて。ぢや、もうこれからは一切この会へ寄りつきませんからね。」と顔を歪めて
喚くやうに我鳴り立てたが、隅つこに小さくなつてゐた
何家かの
未亡人さんが覚えず
くすりと笑つたので、今度はその方へ捩ぢ向いた。「今のお若い婦人方は大抵男子の
玩弄物になつて満足してゐるんだから困る。」
「さうかも知れませんが、少くとも私はさうぢやありません。」と大久保夫人は笑ひ/\言つた。「私は母として子供を立派に育て上げるといふ真面目な仕事を持つてますから。」
「子供を?」と広岡のお婆さんは
吃驚した顔をした。お婆さんは女が子供を生むといふ事は少しも知らなかつた。少くともすつかり忘れてゐたのだ。「成程
貴女はたんと子供さんをお持ちだ。さうして
皆男の子供さんだと聞いてゐる。どんなに立派におなりか、今から目をあいて見て
居らう。」と言つて婆さんは
起ち上つた。
大久保の子供達は皆
稚い。それがすつかり大人になるまで婆さんは生き伸びる積りでゐるらしい。大変な事を約束したものだ。
近頃その筋の手で、大和唐招提寺にある国宝の修繕をするに就いて、偶然にもそこの
金堂で素晴しい大発見をした。発見といふのは、寺の敷地が伝説通り
新田部親王の
邸跡に相違なかつたとか、開基の
鑑真和尚が胃病患者だつたとかいふ、そんな無益な問題では無い。
問題はずつと大きい。それは
外でもない、あの堂に安置してある等身大の
梵天の立像に手を入れる時、台座を
外してみると、その
箝め
合せの所に、男子の局部が二つ
描いてあつたといふ事だ。
その横に同じ墨色で二三の文字が
落書してある、その文字の字体から見ると、この
可笑しな楽書は、徳川時代に幾度か行はれたらしい修繕当時の
悪戯では無く、全くこの木像を刻んだ最初の仏師の楽書に相違ないといふ事が判る。
してみると、楽書としては随分古いもので、
何によらず古いものでさへあれば珍重がる京都大学などでは、この
剽軽な楽書の研究に、一生を棒に振つても
悔いないだけの学者が出なければならぬ筈だ。
往時から仏像の創作には、一
刀一
礼とか、精進潔斎とか
喧しく言ひ伝へられてゐるが、まんざらさうばかりでもないのはこの楽書がよく証拠立ててゐる。――と言つたところで、仏様を
涜す積りではさら/\ない。仏様は何事も御存じで、知らないのは坊さんと学者ばかりである。
自動車に乗る人は多いが、実業の日本社の増田義一氏ほどそれを上手に使ひこなす人も少い。増田氏は西洋へ往つて、頭のなかに何も入れて来なかつた代りに、新型の自動車を一台買ひ込んで来た。
増田氏は朝早く
自宅を出る時には、いつも背広に
中折帽といふ身軽な
扮装で、すつと自動車のなかに乗込む。そして南紺屋町の社へ駈けつけると、
のやうに車を飛び出し、二つ三つ指図をして、やがてまたゆつたりと自動車の人となる。
増田氏は雑誌社を経営してゐる他に、色々な会社へ頭を突込んでゐる。自慢の自動車が
獣のやうな声を立てて、関係会社の前へ来て止まると、増田氏は
扉のなかから、
山高にモーニングといふ
扮装ですつと出て来る。
居心地のいゝ会社の椅子に暫くモーニングの
背を
凭らせて、こくり/\お
定りの
居睡をすると、増田氏は大きな
欠伸をしい/\のつそりと立ち上る。そして
一ぱし立派な仕事を
遣つてのけた積りで、上機嫌で受附のぼん/\時計にまで会釈をしながら、のつそり自動車に乗り込む。
それから二十分経つて、増田氏の自動車がある宴会の式場へ横づけになると、氏はいつの間にか婦人雑誌の口絵から抜け出して来たやうな
絹帽にフロツクコートといふ、りうとした
身装で、
履音軽く
扉のなかから出て来る。
「まるで活動役者のやうな
早業ぢやないか。」
とそれを見た或人が不思議がつて訊くと、増田氏はその男を
態々自動車へ引張り込んで、
衣裳箱から料紙インキ壺の特別装置まで、自慢さうに説明して聞かせたさうだ。
結構な自動車さ。こんな自動車に乗つて、一度天国へでも往つたらどんなものだらうて。
先日東京の銀行集会所へ全国の
重立つた銀行家が集まつて、地震学で名高い大森博士を
招待して、講演を頼んだ事があつた。実業家が地震や天国の
談話を聞いた所で仕方がないが、彼等は学者に勝手な事を
喋舌らして
於いて、そして
後から、
「どうも学者などいふものはあんな迂遠な事ばかし考へてゐて、よく生きて往かれるもんですな。」
と笑ひ話にする事が好きなのだ。
それを見て取つた大森氏は講壇の上から銀行家の禿頭を
見下して、
「諸君は朝から晩まで金を
弄くり廻してゐられるが、一体一億円の金塊の大きさは
何の位あると思ひます。」
と変な事を言ひ出した。
銀行家は「さあ」と言つたきり顔を見合せて誰一人返事をするものが無かつた。大森氏はにやりと笑つて、
「お答へが無いのに無理もありません。銀行家だからといつて、まさか金塊を
懐中に入れてゐる訳でもありますまいから、一億円の金塊は
恰度三尺立方の
嵩があります。
序でに今一つ訊きますが、富士山の高さ程一円紙幣を積むと
幾干になるとお思ひですか。」
と
全で小学校の生徒にでも訊くやうな事を言ひ出した。
銀行家は今度もまた「さうさ、なあ」と言つたきり誰一人返事をする者が無かつた。大森氏は小学教員のやうな安手な勿体振をつけて、
「三千七百万円になります。」
と言つて聞かせた。
先刻からこんな問答に
業を煮やしてゐた森村市左衛門氏は、「大森さん」と言つて
衝立ち上りながら、
「一寸伺ひますが、
往時一
夜のうちに琵琶湖とか富士山とか出来たと言ひますが、富士山を取崩したら、見事琵琶湖が埋まるでせうかな。」
と切り出した。居合せた銀行家は、「森村のお爺さん、
巧くやつたな。」とにやにや笑つて大森氏の顔を見た。
大森氏は「さやう」と言つて、森村氏の禿頭を見た。頭はニツケルのやうに光つてゐた。「御殿場を
標準にして富士山を横断すると、それだけでもつて琵琶湖が十七程埋め立てられる事になります。」
森村氏は「なる程な。」と言つて、そのニツケルのやうな頭を両手に抱へて笑ひ出した。頭のなかでは「耶蘇教」と「貯金」と「長生術」とが
混雑になつて
揺ぶれてゐた。
東京市電気局が、まだ東京鉄道会社だつた頃の車掌運転手の制帽は、白い線を巻きつけて、技術が熟練して来ると、その線を一本二本と殖やしてゆくので、よく第一高等学校のそれと間違へられたものだ。
学習院の
平素の制服といふのは、
釦のない
詰襟のホツク
留だが、
加之に帽子の
徽章が桜の花になつてゐるので、どうかすると海軍士官に間違はれる。
その学習院に洋画の教師を勤めてゐる岡野栄氏が、ある日の事青山三丁目から電車に乗り込んで吊り皮に
垂下つてゐると、
直前に腰を掛けてゐる
海驢のやうな顔をした海軍大尉が、急に挙手注目して席を譲つて呉れた。
岡野氏も
画家の事だから、
画家に無くてならない
暢気さ加減は十分持合せてゐた。
「大尉め、どこか近くの停留場に下りるんで、
婦人の
乗客もあるのに
態々画家の俺を見立てて譲つて呉れたんだな。若いのに
似合ぬ
怜悧な軍人だ、さういへばどこか見所がありさうな顔をしてるて。」
岡野氏はこんな事を思ひながら、一寸顎をしやくつて、その
儘そこへ腰を下した。
だが、その軍人は次の停留場でも、そのまた次ぎの停留場でも下りなかつた。それを見た岡野氏は、やつと自分の服装に気が付いてはつと思つた。
「成程俺を海軍軍人に見立てたんだな。相手が大尉だから先づ中佐格かな。」
岡野氏はいつもの停留場へ来ると、その中佐のやうな気持で、胸を
反らしながら電車を下りて往つた。
それ以後お礼心の積りで、馬でも
描く折には岡野氏はいつもその海軍士官の顔をモデルに取る事を忘れないやうにしてゐる。結構な心掛で、詩人ダンテがその傑作のなかで、
因業な家主を地獄に
堕した事を考へると、岡野氏が馬の顔を士官に似せたのは思ひ切つた優遇である。何故といつて、馬は士官のやうに制服制帽で人を見分けるやうな
愚な真似はしないから。
先日亡くなつた喜劇
俳優渋谷天外は、何処へ
往くのにも、
紫縮緬の小さな包みを
懐中にねぢ込むで置くのを忘れなかつた。
「何をそんなに
大切がつてるんだね。」
と
他人が訊くと、
「これだつか、喜劇の
酵母だつせ。」
と言ひ/\、自慢さうに膨らむだ
懐中を叩いたものだ。
帛紗包みのなかに入つてゐるのは他でもない、
小本の『膝栗毛』の一冊で、この
剽軽な喜劇
俳優は、借金取に
出会すか、救世軍を見るかして、気が真面目に
鬱ぎ出すと、早速その紫縮緬の包みを
解いて、『膝栗毛』を読み出したものだ。
「すると、何時の間にかおもしろくなつて、つい
俄師の気持になられまんがな。
廉いもんだつせ、本は古本屋で五十銭だしたよつてな。」
と言ひ/\してゐた。
伊東胡蝶園の祖父伊東玄朴は蘭書の
蒐集家として聞えてゐたが、数多いその書物のなかで、
唯一つだけ風呂敷包みにして、その上に封印までして、
何うしても
他人に見せなかつた。
仲よしの高野長英が、それを見つけて、
「どんな本だ、一寸でいゝから見せてくれ。」
と
強請むと、慌てて膝の下に押し隠して、
「
可けない/\。これを読むと
狂人になる。」
と顔色を違へて
謝絶るので、
「へえ、
狂人になる。気味の悪い本だな。」
と、長英はそんな本を読まない内から
狂人になりかけてゐた頭を
掉つて不思議がつたといふ事だ。
玄朴が封印をしてゐた本は
外でもない
和蘭版の「民法」の本で、旧幕時代でこんな本を読まうものなら、さしづめ
狂人にでもならなければなるまいと、お医者だけに玄朴は考へたものらしい。尤もの事だ、日本には今だに
狂人になる本はどつさりある。