半生を放浪の間に送つて來た私には、折にふれてしみじみ思出される
私が初めて札幌に行つたのは明治四十年の秋風の立初めた頃である。――それまで私は凾館に足を留めてゐたのだが、人も知つてゐるその年八月二十五日の晩の大火に會つて、幸ひ類燒は免れたが、出てゐた新聞社が丸燒になつて、急には立ちさうにもない。何しろ、北海道へ渡つて漸々四ヶ月、内地(と彼地ではいふ)から家族を呼寄せて
私は少し許りの疊建具を
九月十何日かであつた。降り續いた火事後の雨が
恁くして北海道の奧深く入つて行くのだ。恁くして、或者は自然と、或者は人間同志で、内地の人の知らぬ劇しい戰ひを戰つてゐる北海道の生活の、だん/\底へと入つて行くのだ――といふ感じが、その時私の心に湧いた。――その時はまだ私の心も單純であつた。既にその劇しい戰ひの中へ割込み、底から底と潜り拔けて、遂々敗けて歸つて來た私の今の心に較べると、實際その時の私は單純であつた。――
小雨が音なく降り出した來た。氣が付くと、同車の人々は手廻りの物などを片付けてゐる。小娘に帶を締直して遣つてゐる母親もあつた。既う札幌に着くのかと思つて、時計を見ると一時を五分過ぎてゐた。窓から顏を出すと、行手に方つて
乘客の大半は此處で降りた。私も小形の鞄一つを下げて
『君の家は近いね?』
『近い? どうして知つてるね?』
『子供を抱いて來てるぢやないか。』
改札口から廣場に出ると、私は一寸停つて見たい樣に思つた。道幅の莫迦に廣い停車場通りの、兩側のアカシアの
『この
『好い! 何時までも住んでゐたい――』
實際私は然う思つた。
立見君の宿は北七條の西何丁目かにあつた。古い洋風擬ひの建物の、素人下宿を營んでゐる林といふ
私もその家に下宿する事になつた。尤も空間は無かつたから、停車場に迎へに來て呉れたも一人の方の友人――目形君――と同室する事にしたのだ。
宿の
姉は眞佐子と言つた。その年の春、さる外國人の建ててゐる女學校を卒業したとかで、體はまだ充分發育してゐない樣に見えた。妹とは
その外に遠い親戚だという
或朝、私が何か搜す物があつて鞄の中を調べてゐると、まだ使はない繪葉書が一枚出た。青草の中に
『マア、綺麗な…………』
と言つて覗き込む。
『上げませうか?』
『
手にとつて嬉しさうにして見てゐたが、
『これ、何の花?』
『
『
すると、其日の晝飯の時だ。私は例の如く茶の間に行つて同宿の人と一緒に飯を食つてゐると、風邪の氣味だといつて學校を休んで、咽喉に眞綿を捲いてゐる民子が窓側で幅の廣い
『民イちやん、貴女何ですそれ、また姉さんの飾紐を。』
『貰つたの。』とケロリとしてゐる。
『嘘ですよウ。其色はまだ貴女に似合ひませんもの、何で姉さんが上げるものですか?』
『
『そんなら可いけど、此間も眞佐アちやんの繪具を
私は列んでゐた農科大學生と話をし出した。
それから、飯を濟まして便所に行つて來ると、眞佐子は
『何です、その花?』と私は何氣なく言つた。
『スヰイトピーです。』
よく聞えなかつたので聞直すと、
『あの遊蝶花とか言ふさうで御座います。』
『さうですか、これですかスヰイトピーと言ふのは。』
『お好きで
『さう!可愛らしい花ですね。』
見ると、耳の根を
『島田さん、もう
『ありません。その内にまた好いのを上げませう。』
『マア、お客樣に其事言ふと、母さんに叱られますよ。』と、姉が妹を
『ハハヽヽヽ。』と輕く笑つて、私は室に入つて了つた。
『だつて、折角戴いたのは姉ちやんが取上げたんだもの…………』と、民子が不平顏をして言つてる樣子。
眞佐子は、口を抑へる樣にして何か言つて慰めてゐた。
私は毎日午後一時頃から社に行つて、暗くなる頃に歸つて來る。その日は
その翌日、私の妻が來た。
が、心がけては居たのだが、
『然うですねえ。それでは恁うなすつちや如何でせう。貴方のお室は八疊ですから、お家の見付かるまで當分此處で我慢をなさる事になすつては? さうなれば目形さんには別の室に移つて頂くことに致しますから。何で御座いませう、貴方方もお三人
『まだ年老つた母があります。外にもあるんですが、それは今直ぐ來なくても可いんです。』
『マァ然うですか、阿母さんも御一緒に! ………それにしても立見さんの方よりは窮屈でない譯ですわねえ、當分の事ですから。』
話はそれに決つて、妻は二三日中に家財を纏めて來ることになつた。女同志は重寶なもので、妻は既う内儀と
眞佐子は、妻の來るとから私の子供を抱いて、のべつに頬擦りをし乍ら、家の中を歩いたり、外へ行つたりしてゐた。泣き出しさうにならなければ妻の許に伴れて來ない。
『
『
二人限になつた時、妻は何かの序に恁事を言つた。
『眞佐子さんは少し藪睨みですね。穩しい方でせう。』
軈て出社の時刻になつた。玄關を出ると、其處からは見えない生垣の内側に、私の子を抱いた眞佐子が立つてゐた。私を見ると、
『あれ、
『重くありませんか、其に抱いてゐて?』
『否、孃ちやん、サア、お土産を買つて來て下さいツて、マア何とも仰しやらない!』
と言ひながら、耐らないと言つた
歸つて來た時は、小樽へ歸る私の妻を停車場まで見送りに行つた眞佐子も、今し方歸つた許りといふところであつた。その晩は、立見君は牧師の家に出かけて行つたので、私は室にゐて手紙などを書いた。茶の間からは女達の話聲が聞える。眞佐子は私の子供の可愛かつた事を頻りに數へ立てゝてゐる、立見君の細君もそれに同じてはゐたが、何となく氣の乘らぬ聲であつた。
翌日は社に出てから初めての日曜日、休みではないが、明くる朝の新聞は四頁なので四時少し前に締切になつた。後藤君はその日缺勤した。歸つて來て寢ころんでゐると、後藤君が相變らずの要領を得ない顏をして入つて來て、
『少し相談があるから、今夜七時半に僕の下宿へ來給へ。僕は
と言つて出て行つた。直ぐ戻つて來て私を玄關に呼出すから、何かと思ふと、
『君、祕密な話だから、一人で來てくれ給へ。』
『好し、一體何だね? 何か事件が起つたのかね?』
『君、聲が高いよ。大に起つた事があるさ。吾黨の大事だ。』と、黄色い齒を出しかけたが、直ぐムニャ/\と口を動かして、『兎に角來給へ。成るべく僕の處へ來るのを誰にも知らせない方が好いな。』
そして右の肩を揚げ、薄い下駄を引擦る樣にして出て行つて了つた。「よく祕密にしたがる男だ!」と私は思つた。
私はその晩の事が忘られない。
夕飯が濟むと、立見君と目形君は、教會に行くと言つて、私にも同行を勸めた。私は社長の宅へ行く用があると言つて斷つた。そして約束の時間に後藤君の下宿へ行つた。
座にはS――新聞の二面記者だといふ男がゐた。後藤君は私を其男に紹介した。私は、その男が所謂「祕密の相談」に關係があるのか、無いのか、一寸判斷に困つた。片目の小さい、始終唇を甜め廻す癖のある、鼻の先に新聞記者がブラ下つてる樣な
少し經つと、後藤君は私に、
『君は既う先に行つたのかと思つてゐた。よく誘つて呉れたね。』
これで
『まだ七時頃だらうね?』
『
『待ち給へ。』とS――新聞の記者が言つて、帶の間の時計を出して見た。『七時四十分。何處かへ行くのかね?』
『あゝ、七時半までの約束だつたが――』
『然うか。それでは僕の長居が邪魔な譯だね。近頃は方々で邪魔にしやがる。處で行先は何處だ?』
『ハハヽヽ。然う一々
『
『凄じいね。ところで今夜はマアそれにして置くから、お慈悲を以て、これで御免を蒙らして頂かうぢやないか?』
『好し、好し、今歸つてやるよ。僕だつて然う
『何を考へるのだ、大先生?』
『マ、マ、一寸待つてくれ。』
『金なら持つてないぜ。』
『畜生奴! ハハヽヽ、
『それは結構だ。』
『
『
『莫迦に僕を邪魔にする! が、マア
そして室を出しなに後を向いて、
『君等ア
その男を送出して室に歸ると、後藤君は
『
『あれで君、彼奴はS――社中では敏腕家なんだ。』
『
『君は案外人嫌ひをする樣だね。あれでも根は
『但し君は人を訛すことの出來ない人だ。』
『然うか…………も知れないな。』と言つて、グタリと頤を襟に埋めた。そして、手で頸筋を撫でながら、
『近頃此處が痛くて困る。少し長い物を書いたり、今の樣な奴と話をしたりすると、屹度痛くなつて來る。』
『神經痛ぢやないか知ら。』
『然うだらうと思ふ。神經衰弱に罹つてから既う三年許りになるから
『醫者には?』
『かゝらない、外の病氣と違つて藥なんかマア利かないからね。』
『でも君、構はずに置くよりア可かないか知ら。』
『第一、醫者にかゝるなんて、僕にア其暇は無い。』
然う言つて首を
『暇が無いんぢやない、實は金が無いんだ。ハハヽヽ。あるものは借金と不平ばかり。然うだ、頸の痛いのも近頃は借金で首が廻らなくなつたからかも知れない。』
後藤君は取つてつけた樣に寂しい高笑ひをした。そして冷え切つた茶碗を口元まで持つて行つたが、不圖氣が付いた樣に、それを机の上に置いて、
『ヤア失敬、失敬。君にはまだ茶を出さなかつた。』
『茶なんか奈何でも可いが、それより君、話ツてな何です?』
『マア、マア、男は其に急ぐもんぢやない。まだ八時前だもの。』
然う言つて藥鑵の葢をとつて見ると、湯はある。出がらしになつた急須の茶滓を茶碗の一つに空けて、机の下から小さい
ギシ/\する茶壺の葢を取つて、中葢の取手に手を掛けると、其儘後藤君は凝乎と考へ込んで了つた。左の眉の根がピクリ、ピクリと神經的に
やゝやあつてから、
『君、』と言つて中葢を取つたが、その儘茶壺を机の端に載せて、
『僕等も出掛けようぢやないか! 少し寒いけれど。』
『何處へ?』
『何處へでも可い。歩きながら話すんだ。
『何をしてるね、隣の奴は?』
『其聲で言ふと聞えるよ。
『一體マア何の話だらう? 大層勿體をつけるぢやないか? 葢許り澤山あつて、中に
『ハハヽヽ。マア出懸けようぢやないか?』
で、二人は
札幌の秋の夜はしめやかであつた。其邊は
『あゝ、月がある!』然う言つて私は空を見上げたが、後藤君は默つて首を低れて歩いた。痛むのだらう。吹くともない風に肌が緊つた。
その儘少し歩いて行くと、區立の大きい病院の背後に出た。月が雲間に隱れて
『やアれ、やれやれやれ――』といふ異樣の女の叫聲が病院の構内から聞えた。
『何だらう?』と私は言つた。
『狂人さ。それ、其處にあるのが(と構内の建物の一つを指して、)精神病患者の隔離室なんだ。夜更になると僕の下宿まで
その狂人共が暴れてるのだらう、ドン/\と板を敲く音がする。ハチ切れた樣な甲高い笑聲がする。
『疊たゝいて
それは鋭い女の聲であつた。私は足を緩めた。
『狂人の多くなつた丈、我々の文明が進んだのだ。ハハヽヽ。』と後藤君は言出した。『君はまだ那聲を聞かうとするだけ若い。僕なんかは其暇はない。聞えても成るべく聞かぬ樣にしてる。他の事よりア此方の事だもの。』
然うしてズシリ/\と下駄を引擦り乍ら先に立つて歩く。
『實際だ。』と私も言つたが、狂人の聲が妙に心を動かした。普通の人間と狂人との距離が其時ズッと接近して來てる樣な氣がした。『後藤君も苦しいんだ!』其事を考へ乍ら、私は足元に眼を落して默つて歩いた。
『ところで君、
『初めよう。僕は先刻から待つてる。』と言つたが、その實、私は既う大した話でも無い樣に思つてゐた。
『實はね、マア好い方の話なんだが、然し餘程考へなくちや決行されない點もある――』
然う言つて後藤君の話した話は次の樣なことであつた。――今度小樽に新らしい新聞が出來る。出資者はY――氏といふ名のある事業家で、創業資は二萬圓、維持費の三萬圓を年に一萬宛注込んで、三年後に獨立經濟にする計畫である。そして、社長には前代議士で道會に幅を利かしてゐるS――氏がなるといふので。
『主筆も定つてる。』と友は言葉を
『成程。段々面白くなつて來たぞ。』
『無論その時君の話もした。』と熱心な調子で言つた。暗い町を肩を並べて歩き乍ら、稀なる往來の人に遠慮を
『それア
『其處だテ。奈何も其處だテ――』
『何が?』
『主筆は十月一日に第一囘編輯會議を開く迄に顏觸れを揃へる責任を受負つたんで、大分
『十月一日! あと九日しかない。』
『然うだ。――實はね、』と言つて、後藤君は急に聲を高くした。『僕も大いに心を動かしてる。大いに動かしてゐる。』
然うして二度許り右の拳を以て空氣を切つた。
『それなら可いぢやないか?』と私も聲を高めた。『
『其處だ。君はまだ若い、僕はも少し深く考へて見たいんだ。』
『奈何考へる?』
『詰りね、單に條件が可いから行くといふだけでなくね。――それは無論第一の問題だが――多少君、我々の理想を少しでも實行するに都合が好い――と言つた樣な點を見付けたいんだ。』(未完)