ヴオルガ河岸のサラトフといふ處で、汽船アレクサンダア二世號が出帆しようとしてゐた時の事だ。客は恐ろしく込んでゐた。一二等の切符はすつかり賣切れて了つて、三等室にも林檎一つ落とす程の隙が無く、客は皆重なり合ふやうにして坐つた。汽笛の鳴つてからであつたが、船の副長があわたゞしく三等客の中を推し分けて來て、今しがた金を盜まれたと言つて訴へた一人の百姓の傍に立つた。
『ああ旦那、金はもう
『何處に有つた?』
『其處にゐる軍人の
『その軍人てのは
『それ其處に寢てるだあ。』
『よし、それぢあ其奴を警察に渡さなくちやならん。』
『警察に渡すね? 何故警察に渡すだね?
さうして此事件は終つた。
右は教授パウル・ミルヨウコフ氏が嘗て市俄高大學の聘に應じて講演し、後同大學から出版された講演草稿『露西亞と其の危機』中、教授自らの屬する國民――露西亞人の性格を論じた
明治四十三年五月下旬、私は東京市内の電車の中で、次のやうな事實を目撃した。――雨あがりの日の午前の事である。品川行の一電車が上野廣小路の停留場を過ぎて間もなく、乘合の一人なる婦人――誰の目にも上流社會の人と見えるやうな服裝をした、然しながら其擧止と顏貌とに表はれた表情の決して上品でない、四十位の一婦人が、一枚の乘換切符を車掌に示して、更に次の乘換の切符を請求した。
『これは可けません、これは廣小路の乘換ぢやありませんか?』
『おや、さうですか? 私は江戸川へ行くんですから、須田町で乘換へたつて
『須田町からつても行けますが、然し此の切符は廣小路の乘換に切つてありますから、此方へ乘ると無効になります。』
『ですけども行先は江戸川に切つて有るでせう?』
『行先は江戸川でも乘換は廣小路です。』
『同じ江戸川へ行くんなら、何處で乘換へたつて
『さうは行きません。切符の裏にちやんと書いてあります。』
『それぢやあこれは無効ですか? まあ何て私は馬鹿だらう、田舍者みたいに電車賃を二度取りされてさ!』
『誰も二度取りするたあ言ひやしません。切符は無効にや無効ですけれど、貴方が知らずにお間違ひになつたのですから、切符は別に須田町からにして切つて上げます。』
『いいえ要りません。』貴婦人はさう言つた。犬が尾を踏まれて噛み付く時のやうな調子だつた。『私が間違つたのが惡いのですから、別に買ひます。』
そして帶の間から
『そんな事をなさらなくても可いんです。切符は上げると言つてるのですから。』言ひながら車掌は新らしい乘換切符に鋏を入れた。
『いゝえ可う御座んす。私が惡いのですから。』と貴婦人は復言つた。
幾度の推問答の末に、車掌は今切つた乘換切符を口に啣へて、職務に服從する恐ろしい忍耐力を顏に表しながら、貴婦人の爲に新らしく往復切符を切らされた。
そればかりでは濟まなかつた。車掌が無効に歸した
『それは私が貰つて行きます。こんな目に遭つたのは私は始めてゞすから、記念に貰つて行きます。
『不用になつた乘換切符は車掌が頂くのが規則です。』
『車掌さん方の規則は私は知らないけれど、用に立たない物なら一枚位可いぢやありませんか?』
『さうですか!』卒氣なく言つて、車掌は貴婦人の意に從つた。そして近づきつゝある次の停留場の名を呼びながら車掌臺に戻つた。
貴婦人は其一枚の切符を丁寧に四つに疊んで、紙入の中に
『待合の
其の時の心は、蓋し、此の文を讀む人の想像する通りである。そして私は、其烈しい厭惡の情の間に、前段に抄譯した、ヴオルガ河の汽船の中に起つた事件を思ひ起してゐた。――日本人の國民的性格といふ問題に考へを費すことを好むやうになつた近頃の私の
私は毎日電車に乘つてゐる。此電車内に過ごす時間は、色々の用事を有つてゐる急がしい私の生活に取つて、民衆と接觸する殆ど唯一の時間である。私は此時間を常に尊重してゐる。出來るだけ多くの觀察を此の時間にしたいと思つてゐる。――そして私は、殆ど毎日のやうに私が電車内に於て享ける不快なる印象を囘想する毎に、我々日本人の爲に、竝びに我々の此の時代の爲に、常に一種の悲しみを催さずには居られない。――それらの數限りなき不快なる印象は、必ずしも我々日本人の
若しも讀者の中の或人が、此處に記述した二つの事件によつて、私が早計にも日露兩國民の性格を比較したものと見るならば、それは甚だしい誤解である。――私は私の研究をそんな單純な且つ淺いものにしたくない。此處には唯、露西亞の一賤民の愛すべき性情と、明治四十三年五月下旬の某日、私が東京市内の電車に於て目撃した一事件とを、アイロニカルな興味を以て書き列べて見たまでである。(五月四日夜東京に於て)
(明43・7「曠野」)