○○郡教育会東部会の第四回実地授業批評会は、十月八日の土曜日にT――村の第二尋常小学校で開かれる事になつた。選択科目は尋常科修身の一学年から四学年までの合級授業で、謄写版に刷つた其の教案は一週間前に近村の各学校へ教師の数だけ配布された。
隣村
[#「隣村」は底本では「隣付」]のS――村からも、本校分校合せて五人の教師が揃つて出懸ける事になつた。其の
中には赴任して一月と経たぬ女教師の矢沢松子もゐた。『貴方もお出でになつては
何うです?』
斯う校長に言はれた時、松子は無論行くべきものと思つてゐたやうに、『参ります。』と答へた。山路三里、往復で六里あると聞いても、左程驚きもしなければ、躊躇する
態もなかつた。
机を向ひ合してゐる准訓導の今井多吉は、それを見ながら
前の女教師を思出した。独身にしては
老け過ぎる程の齢をしてゐた其の女の、
甲高い声で生徒を叱り飛ばした後で人前も憚らず不興気な顔をしてゐる事があつたり、「女」といふを看板に事々に労を惜んで、楽な方へ楽な方へと廻つてばかりゐたのに比べて、齢の若いとは言ひながら、松子の何の不安も
無気に
穏しく自分の新しい境遇に処して行かうとする明い心は、彼の単調な生活に取つて此頃一つの興味であつた。
前の女教師の片意地な
基督教信者であつた事や、
費用をはぶいて郵便貯金をしてゐる事は、それを思出す多吉の心に何がなしに失望を伴つた。それだけ松子の思慮の浅く見える物言ひや、子供らしく口を
開いて笑つたりする
挙動が、彼には埃だらけな日蔭のやうに沈んでゐる職員室の空気を明くしてゐるやうに思はれた。
『今井さんは
何うです?』と、校長は人の好ささうな顔に笑ひを浮べて言つた。
『煎餅を喰ひにですか。』と若い准訓導は高く笑つた。『行きますとも。』
校長も笑つた。髯の赤い、もう五十
面の首席訓導も笑つた。此前の会が此の学校に開かれた時、茶受に出した麦煎餅を客の手を出さぬうちに今井が一人で喰つて了つた。それが時々此の職員室で思出されては、其の都度新らしい笑ひを繰返してゐたのである。話に聞いてゐる松子も、声を出して一緒に笑つた。
それは二三日前の事であつた。
其の日が来た。秋の半ば過の朝霧が
家並の茅葺屋根の上半分を一様に消して了ふ程重く濃く降りた朝であつた。S――村では、霧の中で鶏が鳴き、赤児が泣き、馬が
嘶いた。山を負うた小学校の門の前をば、村端れの水汲場に水汲みに行く大きい桶を担いだ農家の女が
幾人も
幾人も、霧の中から現れて来て霧の中へ隠れて行つた。日の出る時刻が過ぎても霧はまだ消えなかつた。
宿直室に
起臥してゐる校長が
漸々起きて顔を洗つたばかりのところへ、二里の余も離れた処にある分校の目賀田といふ老教師が先づ来た。草鞋を解き、腰を延ばし、端折つた裾を下して職員室に入ると、挨拶よりも先に『何といふ霧でしたらう、まあ。』と言つて、呆れて了つたといふやうな顔をして立つた。
取敢へず、着て来た色の
褪めた木綿の紋付を脱いで、小使が火を入れたばかりの火鉢の上に
翳した。羽織は
細雨に遭つたやうにしつとりと濡れてゐて、白い水蒸気が渦巻くやうに立つた。『慣れた路ですけれども、足許しか見えないもんだから何だか知らない路に迷つてゐるやうでしてなあ。いや、五里霧中とは昔の人はよく言つたものだと思ひました
哩。……
蝙蝠傘を
翳してるのに、拭いても拭いても顔から雫が
滴るのですものなあ。』こんな事を言ひながら
頻りと
洟水を啜つた。もう六十からの
老人であるが、資格はただの准訓導であつた。履歴を
訊せば、藩の学問所の学頭をした人の
嗣で、県政の布かれてからは長らく漢学の私塾を開いてゐたとかいふ事である。
羽織が
大概乾いた頃に女教師が来た。其の
扮装を見上げ見下して、目賀田は眼を円くした。
『貴方は下駄ですかい?』
『え。』
又見上げ見下して、『
真箇に下駄で行くのですかい?』
『そんなに悪い路で御座いませうか?』
『下駄では少し辛いでせうよ、矢沢さん。』と校長が宿直室から声を懸けた。
『さうでせうか。』と言つて、松子は苦もなく笑つた。『大丈夫歩いてお目にかけますわ。慣れてるんですもの。』
『坂がありますよ。』
『大丈夫、先生。』
『そんな事を言はないで、今のうちに草鞋を買はせなさい。
老人は悪い事は言はない。三里と言つても随分上つたり下つたりの山路ですぞ。』
さう言つて目賀田は、目の前に嶮しい坂が幾つも幾つも見えるやうな目付をした。松子は又笑つた。心では自分が草鞋を穿いて此の人達と一緒に歩いたら、どんな格好に見えるだらうと想像して見た。そして、何もそんなにしてまで行かなくても可いのだと思つてゐた。
さうしてるところへ、玄関に下駄の音がして多吉が入つて来た。
『
貴方もか、今井さん?』と目賀田が
突然問ひかけた。
『何です?』
『貴方も下駄で行くのですかい?』
『ええ。何うしてです?』
『何うしてもないが、
貴方方が二人――貴方は男だからまあ可いが、矢沢さんが途中で歩けなくなつたら、
皆で山の中へ捨てて来ますぞ。』
言葉は笑つても、心は
憎悪であつた。
多吉は、『それあ面白いですね。誰でも先に歩けなくなつた人は捨てて来る事にしませう。』声を高くして、『ねえ、先生。』
障子の
彼方にはがちやりと膳部の音がした。校長が、『私は可いが、目賀田さんがそれぢやあ却つてお困りでせう。』
『
老人は別物さ。』と目賀田も言ふ。
多吉は子供らしく笑つた。
『然し、靴なんかよりは下駄の方が余程歩きいいんですよ。――それあ草鞋は一番ですがね。貴方は
矢張草鞋ですか?』
『
俺かな? 俺は草鞋さ。』
さう言つて老人は横を向いて了つた。「可愛気のない人達だ。」と眼が言つた。
やがて髯の赤い首席の
雀部が遅れた
分疏をしながら入つて来た時、校長ももう朝飯が済んだ。埃と
白墨の
粉の
染みた詰襟の洋服に着替へ、黒い
鈕を懸けながら職員室に出て来ると、目賀田は、
補布だらけな
莫大小の股引の脛を火鉢に
焙りながら、
緩りとした調子で雀部と今朝の霧の話を始めてゐた。其の容子は、これから又
隣村まで行かねばならぬ事をすつかり忘れてゐるもののやうにも見えた。故意に出発の時刻を遅くしようとしてゐるのかとも見えた。
『蝙蝠傘を
翳してるのになあ、
貴方、それだのに此の禿頭から
始終雫が落ちてくるのですものなあ。』
こんな事を言つて、
後頭にだけ少し
髪の残つてゐる滑かな頭をつるりと撫でて見せた。
皆は笑つた。笑ひながら多吉は、此の老人にもう其の話を
結末にせねばならぬ暗示を与へる事を気の毒に思つた。それと同時に、何がなしに此の老人が、頭の二つや三つ擲つてやつても
可い程
卑しい人間のやうに思はれて来た。
校長にも同じやうな心があつた。老人の
後に立つてゐて、お付合のやうに笑ひながら
窓側の柱に懸つてゐる時計を眺め、更に大形の懐中時計を
衣嚢から出して見た。
雀部は漸く笑ひ止んで、
揶揄ふやうな口を利いた。
『あの帽子は何うしたのです? 冠つて来なかつたのですか?』
『あれですか? あれはな、』目賀田は何の為ともなく女教師の顔を盗むやうに見た。『はははは、
遺失して了ひました
哩。』
『ほう。惜い事をしたなあ。
却々好い帽子だつたが……。もう三十年近く冠つたでせうな?』
『さあ、何年から。……自分から言つては
可笑しいが、買つた時は――新しい時は見事でしたよ。
汽船で死んだ伜が横浜から土産に買つて来て呉れたのでな。
羅紗は良し――それ、島内といふ郡長がありましたな。あの郡長が巡回に来て、大雨で一晩泊つて行つた時、手に取つてひつくら返しひつくら返し見て褒めて行つた事がありました哩。――外の事は何にも褒めずにあの帽子だけをな。』
『何うして
遺失したんです?』と多吉は真面目な顔をして訊いた。
『それがさ。』老人は急に
悄気た顔付をして若い教師を見た。それから其の眼を雀部の髯面に移した。
『先月、それ、郡視学が
巡つて来ましたな?』
『はあ、来ました。』
『あの時さ。』と目賀田は少し調子づいた。『考へて見れば好い
面の皮さな。
老妻を虐めて
を
殺さしたり、罎詰の正宗を買はしたり、
剰にうんと油を絞られて、お帰りは停車場まで一里の路をお送りだ。――それも
為方がありませんさ。――ところで汽車が発つと何うにも胸が収まらない。
例よりは少し
小つ
酷く
譴られたのでな。――
俺のやうな
耄碌を捕まへてからに、ヘルバロトが何うの、ペスタ何とかが何うの、何段教授法だ児童心理学だと言つたところで何うなるつてな。いろはの
いは何う教へたつていろはの
いさ。さうでせう、雀部さん?
一二が二は昔から一二が二だもの。………』
女教師は
慌て首を
縮めて、
手巾で口を抑へた。
『まあさ、さう笑ふものではない。
老人の愚痴は老人の愚痴として聞くものですぞ。――いや、先生方の前でこんな事を言つちや済まないが、――まま、そ言つたやうな訳でね、停車場から出ると
突然お芳茶屋へ飛込んだものさ。ははは。』
『解つた、解つた。そして酔つて了つて、誰かに持つて行かれたかな?』と雀部は煙草入を
衣嚢に蔵ひながら笑つた。
『いやいや。』目賀田は骨ばつた手を挙げて
周章へて打消した。『誰が貴方、犬ででもなけれあ、あんな
古帽子を持つて行くもんですかい。冠つて出るには確に冠つて出ましたよ。それ、あのお芳茶屋の娘の何とかいふ子な、去年か
一昨年まで
此方の生徒だつた。――あれが貴方、むつちりした手つ手で、「はい、先生様。」と言つて渡して呉れたのを、俺はちやんと知つてる。それからそれを受取つて冠つたのも知つてますものな。――ところがさ、
家へ帰ると
突然老妻の奴が、「まあ、そんなに酔つ払つて、……
帽子は何うしたのです?」と言ふんでな。はてな、と思つて、
斯うやつて見ると、それ。――』
手を頭へやつて、ぴたりと叩いて見せた。『はははは。』多吉はそれを
機に椅子を離れた。
『浮気だものな、此のお
老人は。』さう言つて雀部ももう此の話の尻を結んだ積りであつた。
『莫迦な。』目賀田はそれを
追駆けるやうに又手を挙げた。『
貴方ぢやあるまいし。……若しや袂に入れたかと思つて袂を探したが、袂にもない。――』
『出懸けませうか、
徐々。』
手持無沙汰に立つてゐた校長がさう言つた。『さうですね。』と雀部も立つ。
『もう時間でせうな。』後を振向いてさう言つた目賀田の顔は、愈々諦めねばならぬ時が来たと言つてるやうに多吉には見えた。老人はこそこそと
遁げるやうに火鉢の傍から離れて、隅の方へ行つた。
校長は
蔵つた懐中時計をまた出して見て、『恰度七時半です。――恰度可いでせう。授業は十一時からですから。』
『目賀田さんは御苦労ですなあ。』両手を
衣嚢に入れてがつしりした肩を怒らせながら、雀部は同情のある口を利いた。
『年は
老るまいものさな。………
何有………然し五里や十里は………まだまだ………』
断々に言ひながら、体を
揺り上げるやうにして裾を端折つてゐる。
そして今度は羽織に袖を通しかけて、
『時にな、校長さん。』と言ひ出して。『
俺の処の六角時計ですな、あれが何うも時々針が止つて
為様がないのですが、役場に持つて来たら直して貰へるでせうな?』
話の続きは玄関で取交された。
臨時の休みに校庭はひつそりとして広く見えた。隅の方に四五人集つて何かしてゐた近処の子供等は、驚いたやうに頭を下げて、五人の教師の後姿を見送つた。教師達の出て行つた後からは、毛色の悪い
一群の
が
餌をあさりながら校庭へ入つて行つて。
霧はもう名残もなく
霽れて、澄みに澄んだ秋の
山村の空には、物を温めるやうな朝日影が斜めに流れ渡つてゐた。村は朝とも昼ともつかぬやうに唯物静かであつた。
水銀のやうな空気が歩みに随つて顔や手に当り、
涼気が
水薬のやうに
体中に染みた。「
頭脳が透き通るやうだ。」と多吉は思つた。暫らくは誰も口を利かなかつた。
村端れへ出ると、
殿になつて歩いて来た校長は、
『今井さん。今日は不思議な日ですな。』と呼びかけた。
『何うしてです?』
『靴を穿いた人が二人に靴でない人が三人、髭のある人が二人に髭のない人が三人、皆二と三の関係です。』
『さうですね。』多吉は物を捜すやうに皆を見廻した。そして何か見付けたやうに、
俄かに高く笑ひ出した。
『さう言へばさうですな。』と背の高い雀部も
振回つた。『和服が三人に洋服が二人、
飲酒家が二人に飲まずが三人。ははは。』
『
飲酒家の二人は誰と誰ですい?』目賀田は不服さうな口を利いた。
『貴方と私さ。』
『
俺もかな?――』
後の言葉は待つても出なかつた。
雀部は元気な笑ひ方をした。が、其の笑ひを中途で罷めて、
遺失物でもしたやうに体を
屈めた。見ると
衣嚢から
反古紙を出して、朝日に融けかけた路傍の草の葉の霜に濡れた靴の先を拭いてゐた。
拭きながら、『ははは。』と笑ひの続きを笑つた。『目賀田さんは
飲酒家でない積りと見える。』
多吉は吹出したくなつた。月給十三日分で買つた靴だと何日か雀部の誇つた顔を思出したのである。雀部の月給は十四円であつた。多吉は心の中で、「靴を大事にする人が一人………」と数へた。
『蝙蝠傘も目賀田さんと矢沢さんの二人でせう。皆二と三の関係です。』校長はまた言つた。
『それからまだ有りますよ。』多吉は
穏しく言つた。
『
老人が三人で若い者が二人。』
『私も三人のうちですか?』
『可けませんか?』
多吉は
揶揄ふやうな眼付をした。三十五六の、齢の割に頬の
削けて血色の悪い顔、口の
周匝を囲むやうに下向きになつた薄い髭、濁つた力の無い
眼光――「
戯談ぢやない。これでも若い気か知ら。」さういふ思ひは真面目であつた。
『貴方は髭が有るから
為方がないですよ。』
松子は吹出して了つた。
『校長さん、校長さん。』雀部は靴を拭いて了つて歩き出した。『矢沢さんは一人で、あとは皆男ですよ。これは何うします?』
『さうですな。』
『………………………………………………………………………………………』
『これだけは別問題です。さうして置きませう。』
雀部は
燥ぎ出した。『私が女に生れて、矢沢さんと手を取つて歩けば
可かつたなあ。ねえ、矢沢さん。さうしたら――』
『貴方が女だつたら、…………………………』四五間先にゐた目賀田が
振回つた。『……
飲酒家の背高の赤髯へ、…………………………』
言ひ方が如何にも憎さ気であつたので、校長は腹を
抱へて了つた。松子もしまひには
赧くなる程笑つた。
程なく土の黒い
里道が往還を離れて山の裾に添うた。右側の田はやがて畑になり、それが段々幅狭くなつて行くと、岸の高い渓川に朽ちかかつた橋が架つてゐた。
橋を渡ると山であつた。
高くもない雑木山芝山が、
逶り
つた路に縫はれてゐた。然し松子の足を困らせる程には峻しくもなかつた。足音に驚いて、幾羽の雉子が時々藪蔭から飛び立つた。けたたましい羽音は其の度何の反響もなく頭の上に消えた。
雑木の葉は皆
触れば折れさうに
剛つて、濃く淡く色づいてゐた。風の無い日であつた。
芝地の草の色ももう黄であつた。処々に脊を出してゐる黒い岩の
辺などには、誰も名を知らぬ白い小い花が草の中に見え隠れしてゐた。霜に襲はれた山の気がほかほかする日光の底に冷たく感じられた。校長は、何と思つたか、
態々それ等の花を摘み取つて、帽子の縁に
して歩いた。
目賀田は色の褪せた
繻子の蝙蝠傘を杖にして、始終皆の先に立つた。物言へば疲れるとでも思つてゐるやうに言葉は少かつた。校長と雀部が前になり後になりして其の
背後に
跟いた。二人の話題は、
何日も授業批評会の時に最も多く口を利く××といふ教師の噂であつた。雀部は其の教師を常から名を言はずに「あの
眇目さん」と呼んでゐた。意地悪な
眇目の教師と
飲酒家の雀部とは、
少い時からの競争者で、今でも仲が好くなかつた。
多吉と松子は
殿になつた。
とある芝山の頂に来た時、多吉は
路傍に立留つた。そして、
『少し先に歩いて下さい。』と言つた。
『何故です?』
『何故でも。』
其の意味を解しかねたやうに、松子はそれでも歩かなかつた。
すると多吉は
突然今来た方へ四五間下つて行つた。そして横に
逸れて大きい岩の蔭に体を隠した。岩の上から帽子だけ見えた。松子は初めて気が付いて、一人で
可笑くなつた。
間もなく多吉は其処から引き返して来て、松子の立つてゐるのを見ると、笑ひながら近づいた。
『何うも済みません。』
『私はまた、何うなすつたのかと思つて。』
二人は笑ひながら歩き出した。と、多吉は後を向いて、
『
斯うして二人歩いてる方が
可いぢやありませんか?』
そして返事も待たずに、
『少し遅く歩かうぢやありませんか。………
何うです、あの格好は?』
多吉は坂下の方を指した。
『ええ。』松子は安心したやうな眼付をした。『目賀田先生はああして先になつてますけれども、
帰途には
屹度一番後になりますよ。』
『其の時は二人で手を引いてやりますか?』
『厭ですよ、私は。』
『止せば
可いのに下駄なんか穿いて、なんて言はれないやうだと可いですがね。』
『あら、私は大丈夫よ。屹度歩いてお目にかけますわ。』
『尤も、
老人が先にまゐつて了ふのは順序ですね。御覧なさい。ああして年の順でてくてく坂を下りて行きますよ。ははは。面白いぢや有りませんか?』
『ええ。先生は随分お口が悪いのね。』
『だつて、面白いぢやありませんか? あつ、
躓いた。御覧なさい、あの目賀田
爺さんの格好。』
『ほほほほ。………ですけれど、私達だつて矢張坂を下りるぢやありませんか?』
『貴方もお婆さんになるつて意味ですか?』
『まあ厭。』
『厭でも応でもさうぢやありませんか?』
『そんなら、貴方だつて同じぢやありませんか?』
『僕は厭だ。』
『厭でも応でも。ほほほほ。』
『人が悪いなあ。――然し考へて御覧なさい。僕なんかお爺さんになる前に、まだ何か成らなければならんものがありますよ。――ああ、
此方を見てる。』
俄かに大きい声を出して、『先生。少し待つて下さい。』
半町ばかり下に三人が立留つて、一様に上を見上げた。
『何うです、あの帽子に花を
した
態は?』多吉は少し足を早めながら言ひ出した。『脚の折れた歪んだピアノが好い音を出すのを、死にかかつたお婆さんが恋の歌を歌ふやうだと何かに書いてあつたが、少々似てるぢやありませんか? 貴方が僕の小便するのを待つてゐたよりは
余程滑稽ですね。』
『随分ね。私は何をなさるのかと思つてゐただけぢやありませんか?』
『いや失敬。戯談ですよ。貴方と校長と比べるのは酷でした。』
『もうお止しなさいよ。校長が聞いたら怒るでせうね?』
『あの人は一体ああいふ真似が好きなんですよ。それ、
此間も感情教育が
何うだとか
斯うだとか言つてゐたでせう?』
『ええ。あの時は私
可笑くなつて――』
『
真個ですよ。――優美な感情は好かつた。――あんな事をいふつてのは一種の生理的なんですね。』
『え?』
『貴方はまだ校長の細君に逢つた事はありませんでしたね?』
『ええ。』
『大将細君には頭が上らないんですよ。――
聟ですからね。それに
余り子供が多過るもんですからね。』
『………』
『実際ですよ。
土芋みたいにのつぺりした、真黒な細君で、眼ばかり光らしてゐますがね。ヒステリイ性でせう。それでもう五人子供があるんです。』
『五人ですか?』
『ええ。こんだ六人目でせう。またそれで
実家へ帰つてるんださうですから。』
『もうお止しなさい。聞えますよ。』
『大丈夫です。』
さう言つたが、多吉は
矢張りそれなり口を
噤んだ。
間隔は七八間しかなかつた。
雀部は下から
揶揄つた。『…………………………今井さん、矢沢さん。』
校長も
嗄れた声を出して呼んだ。『少し早く歩いて下さい。』
『急ぎませう。急ぎませう。』と松子は後から
迫き立てた。
追着くと多吉は、
『貴方方は仲々早いですね。』
『早いも遅いもないもんだ。何をそんなに――話してゐたのですか?』雀部は両手を上衣の
衣嚢に突込んで、高い体を少し前へ屈めるやうにしながら、眼で笑つて言ふ。『目賀田さんは、若い者は放つて置く方が
可いつて言ふ説だけれども、私は少し――ねえ、校長さん。』
『全く。ふふふふ。』
『済みませんでした。下駄党の敗北ですね。――だが、今私達が何をまあ話しながら来たと思ひます?』
『…………………………?』
と目賀田が言つた。すると校長も、
『何だか知らないが、遠くからは何うも………』
『困りましたなあ。そんな事よりもつと面白い事なんですよ。――貴方方の批評をしながら来たんですよ。』
『私達の?』
『何ういふ批評です?』
雀部と校長が同時に言つた。
『えゝ、さうなんです。上から見ると、てくてく歩いてるのが面白いですもの。』
『それだけですか?』
『怒つちや可けませんよ。――貴方方が齢の順で歩いてゐたんでせう? だから屹度あの順で死ぬんだらうつて言つたんです。はははは。上から見ると
一歩一歩お墓の中へ下りて行くやうでしたよ。』
『これは驚いた。』校長はさう言つて、
態とでもない様に眼を
円くした。そして、もう一度、『これは驚いた。』
「何を驚くのだらう。」と、多吉は可笑く思つた。が、彼の予期したやうな笑ひは誰の口からも出なかつた。
稍あつて雀部は、破れた話を繕ふやうに、
『すると何ですね。私は二番目に死ぬんですね。厭だなあ。あははは。』
『今井さんも今井さんだ。』と、目賀田は
不味い顔をして言ひ出した。『俺のやうな
老人は死ぬ話は
真平だ。』
青二才の無礼を
憤る心は充分あつた。
『さう一概に言ふものぢやない、目賀田さん。』雀部は皆の顔を見廻してから言つた。『私は今井さんのやうな人は大好きだ。竹を割つたやうな気性で、何のこだはりが無い。言ひたければ言ふし、食ひたければ食ふし………今時の若い者は
斯うでなくては可けない。実に面白い気性だ。』
『そ、そ、さういふ訳ぢやないのさ。雀部さん、
貴方のやうに言ふと角が立つ。
俺も好きさ。今井さんの気性には俺も惚れてゐる。………たゞ、俺の嫌ひな話が出たから、それで嫌ひだと言つたまでですよ。なあ今井さん、さうですよなあ。』
『全く。』校長が引取つた。『何ももう、何もないのですよ。』
『困つた事になりましたねえ。』
さう言ふ多吉の言葉を雀部は奪ふやうにして、
『何も困る事はない。………それぢや私の取越苦労でしたなあ。ははは。これこそ墓穴の近くなつた証拠だ。』
『いや、今も雀部さんのお話だつたが、食ひたければ食ひ、言ひたければ言ふといふ事は、これで
却々出来ない事でしてねえ。』
校長は此処から話を新らしくしようとした。
『また麦煎餅の一件ですか?』
斯う言つて多吉は無邪気な笑ひを
洩した。それにつれて皆笑つた。危く破れんとした平和は何うやら
以前に還つた。
老人も若い者も、次の話題の出るのを心に待ちながら歩いた。
すると、目賀田は後を振向いた。
『今井さん。今日は
俺も煎餅組にして貰ひませうか。飲むと
帰途が
帰途だから歩けなくなるかも知れない。』
「勝利は此方にあつた。」と多吉は思つた。そして口に出して、『今日は帽子が無いから可いぢやありませんか?』
『今日は然し麦煎餅ぢやありませんよ。』
雀部は言葉を
んだ。
『何でせう?』
『栗ですよ。栗に違ひない。』
『それはまた何故ね?』と目賀田は
穏しく聞いた。
『田宮の
吝嗇家だもの、一銭だつて余計に金のかかる事をするもんですか。屹度昨日あたり、裏の山から生徒に栗を拾はして置いたんでせうさ。まあ御覧なさい、屹度当るから。』
『成程、雀部さんの言ふ通りかも知れませんね。』
二三度首を傾げて見てから、校長も同意した。
坂を下り尽すとまた
渓川があつた。川の縁には若樹の
漆が五六本立つてゐて、目も覚める程に熟しきつた色の葉の影が、黄金の牛でも沈んでゐるやうに
水底に映つてゐた。川上の落葉を載せた清く浅い水が、飴色の川床の上を幽かな歌を歌つて流れて行つた。S――村は其処に尽きて、橋を渡ると五人の足はもうT――村の土を踏んだ。
路はそれから少し幅広くなつた。
出つ
入りつする山と山の間の、土質の悪い畑地の中を緩やかに
逶つて東に向つてゐた。日はもう高く
上つて、路傍の草の葉も乾いた。畑の中には一軒二軒と圧しつぶされたやうな低い古い茅葺の農家が、其処此処に散らばつてゐた。狼のやうな顔をした雑種らしい犬が、それ等の家から出て来て、遠くから臆病らしく吠え立てた。
多吉にも松子にも何となく旅に出たやうな感じがあつた。出逢つた男や女も、多くはただ不思議さうに見迎へ見送るばかりであつた。
偶に礼をする者があつても、行違ふ時はこそこそと
擦抜けるやうにして行つた。
居村の路を歩く時に比べて、親みの代りに好奇心があつた。
『田が少いですね。』
多吉は
四辺を見渡しながら、そんな事を言つて見た。山も、木も、家も、出逢ふ人も、皆それぞれに特有な気分の中に落着いてゐるやうに見えた。そして其の気分と不時の訪問者の自分
等とは、何がなしに昔からの他人同志のやうに思はれた。読んだ事のない本の名を聞いた時に起す心持は、やがて此の時の多吉の心持であつた。
『粟と稗と蕎麦ばかり食つてるから、此の村の人のする糞は石のやうに堅くて真黒だ。』雀部はそんな事を言つて多吉と松子を笑はせた。さういふ批評と観察の間にも、此の中老の人の言葉には、自分の生れ、且つ住んでゐる村を誇るやうな響きがあつた。
『此の村の女達の半分は、今でもまだ汽車を見た事がないさうです。』といふ風に校長も言つて聞かせた。
それ等の言葉は必ずしも多吉の今日初めて聞いたものではなかつた。然し彼は、汽車に近い村と汽車に遠い村との文化の相違を、今漸く知つたやうな心持であつた。地図の上では細い筆の軸にも隠れて了ふ程の二つの村にもさうした相違のあるといふ事は、若い准訓導の心に、何か知ら大きい責任のやうな重みを加へた。
それから
彼此一里の余も歩くと、山と山とが少し離れた。其処は七八
町歩の不規則な形をした田になつてゐて、刈り取つた早稲の仕末をしてゐる農夫の姿が、
機関仕掛の
案山子のやうに
彼方此方に動いてゐた。田の奥は山が又迫つて、二三十の屋根が重り合つて見えた。
馬の足跡の多い
畝路を歩き尽して、其の部落に足を踏み入れた時、多吉も松子もそれと聞かずにもう学校の程近い事を知つた。物言はぬ人のみ住んでゐるかとばかり森閑としてゐる秋の真昼の山村の空気を揺がして、其処には音とも声ともつかぬ、遠いとも近いとも判り難い、一種の底深い
騒擾の響が、忘れてゐた自分の心の声のやうな親みを以て、学校教師の耳に聞えて来た。
何となく改まつたやうな心持があつた。草に
埋れた溝と、梅や桃を植ゑた農家の垣根の間の少し上りになつた
凸凹路を、まだ二十歩とは歩かぬうちに、行手には二三人の生徒らしい男の児の姿が見えた。其の一人は
突然大きい声を出して、『来た。来た。』と叫んだ。
年長の一人はそれを制するらしく見えた。そして一緒に、敵を見付けた斥候のやうに駈けて行つて了つた。目賀田は立止つて端折つた裾を下し、校長と雀部をやり過して、其の後に
跟いた。
雨風に朽ちて形ばかりに立つてゐる校門が見えた。農家を造り直して見すぼらしい茅葺の校舎も見えた。門の前には両側に並んでゐる二三十人の生徒があつた。大人のやうに背のひよろ高いのもあれば、海老茶色の毛糸の長い羽織の紐を
総角のやうに胸に結んでゐるのもあつた。一目見て上級の生徒である事が知れた。
『甘くやつてる
哩。』と多吉は先づ可笑く思つた。それは此処の学校の教師の周到な用意に対してであつた。
一行が前を通る時に、其の生徒共は待構へてゐたやうに我遅れじと頭を下げた。「ふむ。」と校長も心に
点頭くところがあつた。気が付くと、其の時はもう先に聞えてゐた
騒擾の声が鎮まつてゐて、校庭の其処からも此処からもぞろぞろと子供等が駈けて来て交る交る礼をした。
水槽の水に先を争うて首を突き出す牧場の
仔馬のやうでもあつた。
『さあさあ、
何卒。』ひどく
訛のある大きい声が皆の眼を玄関に注がせた。其処には背の低い四十五六の男が立つて、揉手をしながら愛相笑ひをしてゐた。色の黒い、
痘痕だらけの、蟹の甲羅のやうな
道化た顔をして、
白墨の粉の着いた黒木綿の紋付に裾短い袴を穿いた――それが真面目な、教授法の熟練な教師として近郷に名の知れてゐる、二十年の余も同じ山中の単級学校を守つて来た此処の校長の田宮であつた。
『もう皆さんはお揃ひですか。』
『さうであす。
先刻から貴方方のお出をお待ち申してゐたところで
御あした。』
『お天気で何よりでしたなあ。』
『
真個にお陰さまであした。――さあ、ままあ
何卒。』
『□□の先生はもう来ましたか。』と雀部は路すがら話した
眇目の教師の事を聞いた。
『××さんは今日の第一着であした。さ、さ、まあ――』
『
何卒お先に。』と目賀田は校長を顧る。
『私は一寸、便所に。』
さう言つて校長は校舎の裏手に廻つて行つた。雀部は靴を脱いで上り、目賀田は危つかしい手つきをして草鞋の紐を解きかけた。下駄を穿いた二人はまだ外に立つてゐた。生徒共は遠巻に巻いて此の様を物珍らし気に眺めてゐた。
『生徒が門のところで礼をしましたね。』
女教師が多吉に囁いた。
『ええ。今日は授業批評会ですからね。』と多吉も小声で言ふ。
『それぢや臨時でせうか。』
『臨時でなかつたら馬鹿気てゐるぢやありませんか。――批評会は臨時ですからね。』
『ええ。』
『生徒は単純ですよ。
為ろと言へは
為るし、
為るなと言へば
為ないし、………学校にゐるうちだけはね。』
其処へ校長が時計を出して見ながら、便所から帰つて来た。
『
恰度十時半です。』
『さうですか。』
『恰度三時間かかりました。一里一時間で、一分も違はずに。』
さう言つた顔は如何にもそれに満足したやうに見えた。
多吉は何がなしに笑ひ出したくなつた。そして松子の方を向いて、
『貴方がゐないと、もつと早く来られたんですね。』
『恰度に来たから可いでせう。』靴を脱ぎながら校長が言つた。
「何が恰度だらう。」と、多吉はまた心の中に可笑くなつた。「誰も何とも
定めはしないのに。」
『そんなら私、
帰途には早く歩いてお目にかけますわ。』
松子は鼻の先に皺を寄せて、甘へるやうに言つた。
それから半時間ばかり
経つと、始業の鐘が
嗄れたやうな
音を立てて一しきり騒がしく鳴り響いた。多くは
裸足の儘で
各がじし校庭に遊び戯れてゐた百近い生徒は、その足を拭きも洗ひもせず、吸ひ込まれるやうに暗い屋根の下へ入つて行つた。がたがたと机や腰掛の鳴る音。それが鎮まると教師が児童出席簿を読上げる声。――『淵沢長之助、木下勘次、木下佐五郎、
四戸佐太、佐々木
申松………。』
『はい、はい………』と生徒のそれに答へる声。
愈々批評科目の授業が始つた。『これ前の修身の時間には、皆さんは何を習ひましたか。何といふ人の何をしたお話を聞きましたか。誰か知つてゐる人は有りましえんか。あん? お梅さん? さうであした。お梅さんといふ人の親孝行のお話であした。誰か二年生の中で、今其のお話の出来る人が有りましえんか。』――斯ういふ風に聞き苦しい田舎教師の言葉が門の外までも聞えて来た。門に向いた教室の格子窓には、窓を脊にして立つてゐる参観の教師達の姿が見えた。
がたがたと再び机や腰掛の鳴る音の暗い
家の中から聞えた時は、もう五十分の授業の済んだ時であつた。生徒は我も我もと先を争うて明い処へ飛び出して来た。が、其の儘家へ帰るでもなく、
年長の子供等は其処此処に立つて何かひそひそ話し合つてゐた。門の外まで出て来て、『お
力い、お力い。』と体を
屈めねばならぬ程の高い声を出して友達を呼んでゐる女の子もあつた。
教師達は五人も六人も玄関から出て来て、交る交る裏手の便所へ通つた。其の中には雀部もゐた、多吉もゐた。多吉は大きい
欠呻をしながら出て来て、笑ひながら
其処辺にゐる生徒共を見廻した。多くは手織の麻か
盲目地の無尻に同じ股引を
穿いたそれ等の
服装は、彼の教へてゐるS村の子供とさしたる違ひはなかつた。それでも「汽車に遠い村の子供」といふ感じは何処となく現れてゐた。生徒の方でも目引き袖引きして此の名も知らぬ若い教師を眺めた。
『おいおい。』さう言ひながら多吉は子供等の群に近づいて行つた。『お前達は善い先生を持つて
幸福だね。』
子供等は互ひに目を見合つて返事を譲つた。前の方にゐたのは逃げるやうに皆の後へ廻つた。
『お前達は何を一番見たいと思つてる?』多吉はまた言つた。
それにも返事はなかつた。
『何か見たいと思つてる物があるだらう?………誰も返事をしないのか? はははは。T――村の生徒は石地蔵みたいな奴ばかりだと言はれても可いか?』
子供等は笑つた。
『物を言はれたら直ぐ返事をするもんだ、お前達の先生はさう教へないか?
此方から何か言つて返事をしなかつたら、殴つても可い。
先方で殴つて来たら此方からも殴れ。もつとはきはきしなけあ可かん。』
『
己あ軍艦見たい、先生。』
道化た顔をしたのが後の方から言つた。
『軍艦? それから?』
『己あ蓄音機だなあ。』と他の一人が言ふ。
『ようし。軍艦に蓄音機か。それでは今度は直ぐ返事をするんだぞ。可いか?』
『はい。』と皆一度に言つた。
『お前達は汽車を見た事があるか?』
『有る。』『無い。』と子供等は口々に答へた。
『見た事があるけれども、乗つた事あ無い。』
脊の高いのが皆の
後から言つた。
『さあさあ
皆帰れ帰れ。』といふ大きな声が其の時多吉の後から聞えた。皆は玄関の方を見た。其処には此処の校長が両手を展げて敷居の上に立つてゐた。
『今井先生、さあ何卒。』また声を大きくして、『今日は学校にお客様があるのだから、お前達がゐて騒がしくてはならん。』
多吉は笑ひながら踵を返して、休みの日にS――村へ遊びに来たら、汽車を見に連れてつてやると子供等に言つた。そして中へ入つて行つた。
校庭のひつそりした頃に、腰の曲つた小使が草箒を持つて出て来て、玄関から掃除に取りかかつた。草鞋、靴、下駄、方々から集つた教師達の履物は丁寧に並べられた。皆で十七八足あつた。其の中に二足の女下駄の、一つは
葡萄茶、一つは
橄欖色の緒の色が引き立つてゐた。
* * * *
* * * *
『此処でまた待つて居ますか?』
多吉は後に
跟いて
[#「跟いて」は底本では「踉いて」]来る松子を
振回つて言つた。
『ええ。少し寒くなつて来たやうですね。』
多吉は無雑作に路傍の石に腰を掛けた。松子は少し離れて
納戸色の傘を杖に
蹲んだ。
其処はもうS――村に近い最後の坂の
頂であつた。二人は幾度か斯うして休んでは、寄路をして遅れた
老人達を待つた。待つても待つても来なかつた。さうして又歩くともなく歩き出して、
遂々此処まで来てしまつた。
日はもう午後五時に近かつた。光の海のやうに明るい雲なき西の空には、燃え
落る火の玉のやうな晩秋の太陽が、中央山脈の上に低く沈みかけてゐた。
顫へるやうな弱い光線が斜めに二人の横顔を照した。そして、
周匝の木々の葉裏にはもう夕暮の
陰影が宿つて見えた。
行く時のそれは
先方にゐるうちに大方癒つてゐたので、二人はさほど疲れてゐなかつた。が、流石に斯うして休んでみると、多吉にも膝から下の充血してゐる事が感じられた。そして頭の中には話すべき何物もなくなつてゐるやうに軽かつた。
授業の済んだ後、栗が出た、酒が出た、栗飯が出た。そして批評が始つた。然し其の批評は一向にはずまなかつた。それは一つは、思掛けない出来事の起つた為であつた。
『それでは
徐々皆さんの御意見を伺ひたいものであす。』さう主人役の校長が言出した時、いつもよく口を利く例になつてゐる頭の禿げた
眇目の教師が、俄かに居ずまひを直して、八畳の一間にぎつしりと座り込んでゐる教師達を見廻した。
『批評の始る前に――と言つては今日の会を踏みつけるやうで誠に済まない訳ですが――実は一つ、私から折入つて皆さんの御意見を伺つて見たい事があるのですが………自分一個の事ですから何ですけれども、然し何うも私としては黙つてゐられないやうな事なので。』
一同何を言ひ出すのかと
片唾をのんだ。常から笑ふ事の少い
眇目の教師の顔は、此の日殊更苦々しく見えた。そして語り出したのは次のやうな事であつた。――先月の末に郡役所から呼出されたので、何の用かと思つて行つて見ると、郡視学に別室へ連れ込まれて意外な事を言はれた。それは外でもない。自分が近頃………………………………………………といふ噂があるとかで、それを詰責されたのだ。――
『実に驚くではありませんか? 噂だけにしろ、何しろ私が先づ第一に、独身で斯うしてゐなさる山屋さんに済みません。それに私にしたところで、教育界に身を置いて
彼是三十年の間、自分の耳の聾だつたのかも知れないが、今迄つひぞ悪い噂一つ立てられた事がない積りです。自賛に過ぎぬかも知れないが、それは皆さんもお認め下さる事と思ひます。……実に不思議です。私は学校へ帰つて来てから、
口惜しくつて口惜しくつて、男泣きに泣きました。』
………………………………………………………………………………………。
『………口にするも
恥づるやうなそんな噂を立てられるところを見ると、つまり私の教育家としての信任の無いのでせう。さう諦めるより外仕方がありません。然し何うも諦められません。――一体私には、何処かさういふ噂でも立てられるやうな落度があつたのでせうか?』
一同顔を見合すばかりであつた。と、多吉はふいと立つて外へ出た。そして便所の中で体を
揺つて一人で笑つた。苦り切つた××の
眇目な顔と其の話した事柄との不思議な取合せは、何うにも斯うにも可笑しくつて耐らなかつたのだ。「あの
老人が男泣きに泣いたのか。」と思ふと、又しても新らしい笑ひが口に上つた。
多吉の立つた後、一同また不思議さうに目を見合つた。すると誰よりも先に口を開いたのは雀部であつた。
『何うも驚きました。――然し何うも、郡視学も郡視学ではありませんか? ××さんにそんな莫迦な事のあらう筈のない事は、
苟くも
瘋癲か
白痴でない限り、
何人の目も一致するところです。たとへそんな噂があつたにしろ、それを取上げて
態々呼び出すとは………』
『いや今日私のお伺ひしたいのは、そんな事ではありません。視学は視学です。………それよりも一体何うしてこんな噂が立つたのでせう?』と、語気が少し強かつた。
『誰か生徒の父兄の中にでも、何かの行違ひで貴方を恨んでる――といふやうなお心当りもありませんのですか?』
仔細らしい顔をした一人の教師が、山羊のやうな
顋の髯を撫でながらさう言つた。
『断じてありません。色々思出したり調べたりして見ましたけれども。』と強く頭を振つて××は言つた。「此の一座の中になくて何処にあらう?」といふやうな怒りが眼の中に光つた。或者は
潜かに雀部の顔を見た。
それも然し
何うやら
斯うやら収りがついた。が、
眇目の教師はそれなり余り口を利かなかつた。従つて肝腎の授業の批評は一向
栄えなかつた。シとス、チとツなどの教師の発音の訛りを指摘したのや、授業中一学年の生徒を閑却した傾きがあつたといふ説が出たぐらゐで、座は何となく白けた。さうしてる処へ其の村の村長が来た。盃が俄かに動いて、話は全くの世間話に移つて行つた。
三時になつて一同引上げる事になつた。門を出た時、半分以上は顔を
赧くしてゐた。中にも足元の
確かでない程に酔つたのは目賀田であつた。
路の
岐れる毎に
人数が減つた。とある路傍の屋根の新しい大きい農家の前に来た時、其処まで一緒に来た村長は、皆を誘つて其の家に入つて行つた。其処には村の誇りにしてある高価な村有
種馬が飼はれてあつた。
家の
主人は喜んで迎へた。そして皆が
厩舎を出て裏庭に廻つた時は、座敷の縁側に
薄縁を布いて酒が持ち出された。それを断るは此処等の村の礼儀ではなかつた。
多吉と松子は、稍あつてから一足先に其の家を出て来たのであつた。
二人は暫くの間坂の
頂に推黙つてゐた。
『屹度酔つてらつしやるのでせうね?』
『ええ、さうでせう。
真個に
為様がない。』
と言つて、多吉は巻煙草に火を点けた。
然し二人は、日の暮れかかる事に少しも心を急がせられなかつた。待つても待つても来ない
老人達を何時までも待つてゐたいやうな心持であつた。
稍あつて多吉は、
『僕も
年老つて
飲酒家になつたら、ああでせうか? 実に意地が汚ない。目賀田さんなんか盃より先に口の方を持つて行きますよ。』
『ええ。そんなに
美味いものでせうか?』
『さあ。………僕も一度うんと飲んだ事がありますがね。何だか変な味がするもんですよ。』
『
何時お上りになつたんです?』
『兄貴の婚礼の時。皆が飲めつて言ふから、何糞と思つてがぶがぶやつたんですよ。さうすると体が段々重くなつて来ましてねえ。莫迦に動悸が高くなるんです。これあ変だと思つて横になつてると、目の前で話してる人の言葉がずつと遠方からのやうに聞えましたよ。………それから
終に、綺麗な
衣服を着た兄貴のお嫁さんが、何だか僕のお嫁さんのやうに思はれて来ましてねえ。僕はまだ嫁なんか貰ふ筈ぢやなかつたがと思つてるうちに、何時の間にか眠つちやつたんです。』
『面白いのね。お
幾歳の時です?』
『十七の時。』
多吉は腰掛けた石の冷気を感じて立ち上つた。そして今来た方を見渡したが、それらしい人影も見えなかつた。
『何うしたんでせう?』
『
真個にねえ。………斯うしてると川の音が聞えますね。』
『川の音?』
二人は耳を澄ました。
『聞えるでせう?』
『聞えませんよ。』
『聞えますよ。此の下に川があつたぢやありませんか?」
『さう言へば少し聞えるやうですね。………うむ、聞える。
彼処まで行つて待つてることにしませうか?』
『さうですね。』
『実に詰らない役だ。』
『真個にね。私がゐなかつたら先へいらつしやるのでせう?』
『はは。』と多吉は高く笑つた。
二人は坂を下つた。
渓川の水は暮近い空を映して
明かつた。二人は其の上の橋の、危なげに丸太を結つた欄干に背を
靠せて列んだ。其処からはもう学校まで十一二町しかなかつた。
『此処で待つて来なかつたら何うします?』
『私は何うでも可くつてよ。』
『それぢや先に帰る事にしますか?』
『帰つても可いけれども、何だか
可笑いぢやありませんか?』
『そんなら何時まででも待ちますか?』
『待つても可いけれど………』
『日が暮れても?』
『私何うでも可いわ。先生の可いやうに。』
『若しか待つてるうちに日が暮れて了つて、真暗になつたところへ、山賊でも出て来たら何うします?』
『厭ですわ、
嚇かして。』
『其処等の藪ががさがさ鳴つて、豆絞りの手拭か何か頬冠りにした奴が、にゆつと出て来たら?』
『出たつて可いわ。先生がいらつしやるから。』
『僕は先に逃げて
了まひますよ。』
『私も逃げるわ。』
『逃げたつて
敵ひませんよ。後から襟首をぐつと捉へて、生命欲しいか金欲しいかと言つたら何うします?』
『お
金を遣るわ。一円ばかししか持つてないから。』
『それだけぢや足らないつて言つたら?』
『そしたら………そしたら、先に逃げた先生がどつさり持つてるから、あの方へ行つてお取りなさいつて言つてやるわ。ほほほ。』
『
失敗つた。此の話はもつと暗くなつてからするんだつけ。』
『随分ね。………もう驚かないから可いわ。』
『
真個ですか?』
『真個。驚くもんですか。』
『それぢや若し………若しね、』
『何が出ても大丈夫よ。』
『若しね、………』
『ええ。』
『
罷めた。』
『あら、何故?』
『何故でも罷めましたよ。』
多吉は真面目な顔になつた。
『あら、聞かして頂戴よう。ねえ、先生。』
「…………………………………………。」と多吉は思つた。そして、『罷めましたよ。貴方が
喫驚するから。』
『大丈夫よ。何んな事でも。』
『真個ですか?』
多吉は駄目を推すやうに言つた。
『ええ。』
『少し寒くなりましたね。』
松子は男の顔を見た。もう日が何時しか沈んだと見えて、
周匝がぼうつとして来た。渓川の水にも色が無かつた。
松子は、と、くつくつと一人で笑ひ出した。笑つても笑つても
罷めなかつた。終には多吉も為方なしに一緒になつて笑つた。
『何がそんなに可笑いんです?』
『何でもないこと。』
『厭ですよ。僕が莫迦にされてるやうぢやありませんか?』
『あら、さうぢやないのよ。』
松子は
漸々笑ひを引込ませた。
「女には皆――の性質があるといふが、真個か知ら。」と不図多吉は思つた。そして言つた。『女にも色々ありますね。
先のお婆さんは
却々笑はない人でしたよ。』
『先のお婆さんとは?』
『貴方の前の女先生ですよ。』
『まあ、可哀相に。まだ二十五だつたつてぢやありませんか?』
『独身の二十五ならお婆さんぢやありませんか?』
『独身だつて………。そんなら女は皆結婚しなければならないものでせうか?』
『二十五でお婆さんと言はれたくなければね。』
『随分ね、先生は。』
『さうぢやありませんか?』
『先の方とは、先生はお親しくなすつたでせうね?』
『
始終怒られてゐたんですよ。』
『嘘ばつかし。大層真面目な方だつたさうですね?』
『ええ。時々僕が飛んでもない事を言つたり、子供らしい真似をして見せるもんだから、其の度怒られましたよ。それが又面白いもんですからね。』
『………飛んでもない事つて何んな事を仰しやつたんです?』
『女は皆――の性質を持つてるつて
真個ですかつと言つたら、貴方とはこれから口を利かないつて言はれましたよ。』
『まあ、随分
酷いわ。………誰だつて怒るぢやありませんか、そんな事を言はれたら。』
『さうですかね。』
『怒るぢやありませんか? 私だつて怒るわ。』
すると今度は多吉の方が
可笑しくなつた。笑ひを
耐へて、
『今怒つて御覧なさい。』
『知りません。』
『あははは。』多吉は遂に吹出した。そしてすつかり敵を侮つて了つたやうな心持になつた。
『矢沢さん。先刻僕が何を言ひかけて罷めたか知つてますか?』
『仰しやらなかつたから解らないぢやありませんか?』
『僕が貴方を――――ようとしたら、何うしますつて、言ふ積りだつたんです。あははは。』
『可いわ、そんな事言つて。………
真個は私も多分さうだらうと思つたの。だから可笑しかつたわ。』
其の笑ひ声を聞くと多吉は何か
的が
脱れたやうに思つた。そして女を見た。
周匝はもう薄暗かつた。
『まあ、何うしませう、先生? こんなに暗くなつちやつた。』と、暫らくあつて松子は俄かに気が
急き出したやうに言つた。
多吉には、然し、そんな事は何うでもよかつた。――――ものが、急に解らないものになつたやうな心持であつた。
『可いぢやありませんか? これから真個に
嚇して、貴方に本音を吐かして見せる。』
『厭私、
嚇すのは。』
『厭なら一人お帰りなさい。』
『ねえ、何うしませう? あれ、あんなにお星様が見えるやうになつたぢやありませんか。』
『そんなに
狼狽へなくても可いぢやありませんか、急に?』
『ええ。………ですけれども、何だか変ぢやありませんか?………………………………………………………………………。』
『ははは。………あれあ滑稽でしたね。』………………………………………………………………………。
『あの
老人が…………………………………………と思ふと、僕は耐らなくなつたから便所へ逃げたんですよ。』
『ええ。先生がお立ちになつたら、皆変な顔をしましたわ。』
『だつて可笑いぢやありませんか。あの女の人も一緒になつて憤慨するんだと、まだ面白かつた。』
『可哀相よ、あの方は。………………………………………………………………………………………。………
真個に私あのお話を聞いてゐて、
恐くなつたことよ。』
『何が?』
『だつてさうぢやありませんか?……………………………………………………………………………………。あの方のは噂だけかも知れないけれども、噂を立てられるだけでも厭ぢやありませんか?』
『僕は唯
可笑かつた。口惜しくつて男泣きに泣いたなんか
振つてるぢやありませんか?』
『一体あれは
真個でせうか? 誰か中傷したんでせうか?』
『さあ。貴方は何と思ひます?』
『解らないわ。………。』
『我田引水ですね。』
『ぢやないのよ。ですけれども、何だかそんな気がするわ。』
『男の方では…………………………………?』
『ええ。まあそんな………。そしてあの山屋さんて方、屹度私、意志の弱い方だと思ふわ。』
『さうかも知れませんね。………』
『ですけれど、誰でせう、視学に密告したのは?』
『それあ解つてますよ。――
老人達があんな子供らしい
悪戯をするなんて、可笑いぢやありませんか?』
『真個だわ。………私達の知つてる人でせうか?』
『知れてるぢやありませんか?』
『雀部先生ね。屹度さうだわ。――大きい声では言はれないけれども。』
『あ、お待ちなさい。』
と言つて多吉は聞耳を立てた。
渓川の水がさらさらと鳴つた。
『声がしたんですか?』
『黙つて。』
二人は坂を見上げた。空は僅かに
夕照の名残をとどめてゐるだけで、光の
淡い星影が三つ四つ数へられた。
『あら、変だわ。声のするのは
彼方ぢやありませんか?』と、稍あつて松子は川下の方を指した。
『さうですね。……変ですね。』
『若しか外の人だつたら、私達が此処に
斯うしてるのが可笑いぢやありませんか?』
『ああ、あれは雀部さんの声だ。さうでせう? さうですよ。』
『ええ、さうですね。何うして
彼方から……』
多吉は両手で口の
周囲を包むやうにして呼んだ。『先生い。何処を歩いてるんでせう?』
『おう。』と
間をおいて返事が聞えた。確かに川下の方からであつた。
間もなく
夕暗の川縁に三人の姿が
朧気に浮び出した。
『何うしてそんな方から来たんです?』
『今井さん一人ですか?』
『矢沢さんもゐます。余り遅いから今もう先に帰つて了はうかと思つてゐたところでした。』
『いや、済みませんでした。』
『
何うしてそんな方から来たんです? 其方には路がなかつたぢやありませんか?』
『いや、失敗失敗。』
それは雀部が言つた。
『狐にでも
魅まれたんですか?』
『今井さん、
穏しく
貴方と一緒に先に来れば可かつた。』へとへとに疲れたやうな目賀田の声がした。
『いやもう、狐なら可いが、雀部さんに
魅まれてさ。』
『それはもう言ひつこなし。降参だ、降参だ。』と雀部がいふ。
其の内に三人とも橋の上に来た。
『ああ疲れた。』校長は欄干に片足を載せて腰かけた。『矢沢さん、どうも済みませんでした。』
『いいえ。何うなすつたのかと思つて。』
『真個に済みませんでしたなあ。』と雀部は言つた。『多分もう学校へ帰つてオルガンでも弾いてらつしやるかと思つた。』
『今井さん、まあ聞いて下さい。』目賀田老人は腰を延ばしながら訴へるやうな声を出した。『………
彼処で、止せば可いのに
可加減飲んでね。雀部さん達はまだ
俺より若いから可いが、俺はこれ此の通りさ。そしたら雀部さんが、近路があるから其方を行つて、貴方方に追付かうぢやないかと言ふんだものな。賛成したのは俺も悪いが、それはそれは酷い坂でね。
剰に
辛と此の川下へ出たら、何うだえ
貴方、
此間の
洪水に流れたと見えて橋が無いといふ騒ぎぢやないか。それからまた
半里も斯うして上つて来た。いやもう、これからもう雀部さんと一緒には歩かない。』
『ははは。』と多吉は笑つた。
『然しまあ可かつた。彼処に橋が有つたら、危くお二人を此処に置去りにするところでしたよ。』
『私はもう黙つてる。何うも四方八方へ私が済まない事になつた。』と雀部は笑ひながら頭を掻いた。
『ところで、
何方か紙を持つてませんかな? 俺は今まで
耐へて来たが………一寸皆さんに待つて貰つて。』
紙は松子の袂から出た。
『少し臭いかも知れないから、も少し先へ行つて休んでて下さい。今井さん、これ頼みます。』
さう言つて目賀田は
蝙蝠傘を多吉に渡し、痛い物でも踏むやうな腰付をして、二三間離れた橋の袂の藪陰に
蹲つた。禿げた頭だけが
薄すりと見えた。
『置去りにしますよ、目賀田さん。』
さう雀部は
揶揄つた。然し返事はなかつた。
四人は橋を渡つた。そして五六間来ると其処等の山から切出す
花崗石の石材が路傍に五つ六つ
転してあつた。四人はそれぞれ其上に腰掛けた。
『ああ疲れた。』
校長はまた言つた。
『真個に疲れましたなあ。』と雀部も言つた。
『斯う疲れると、もう何も彼も要らない。………彼処の家でも皆で二升位飲んだでせうね?』
『一升五合位なもんでせう。皆下地のあつたところへ酒が悪かつたから、
一層利いたのですよ。』
『此処へもう、寝て了ひたくなつた。』
校長は薄暗い中で体をふらふらさしてゐた。
『目賀田さんは随分弱つたやうですね。』と多吉が言つた。
『いや真個に気の毒でした。彼処の橋のない処へ来たら、子供みたいにぶつぶつ言つて歩かないんだもの。』
『あの
態ぢや
何うせ学校へ泊るんでせうね?』
『
兎ても帰れとは言はれません。』校長が言つた。『一体お
老人は、今日のやうな遠方の会へは出なくても可ささうなもんですがねえ。』
『校長さん、さうは言ひなさるな。誰が貴方、好き好んで出て来るもんですか? 高い声では言はれないが、目賀田さんは私あ可哀相だ。――老朽の准訓導でさ。
何時罷めさせられるかも知れない身になつたら………』
『それはさうです。全くさうです。』
『それを今の郡視学の奴は、あれあ莫迦ですよ。何処の世に、
父親のやうな
老人を捉へてからに何だの
彼だの――あれあ余程莫迦な奴ですよ。莫迦でなけれあ人非人だ。』
酒気の名残があつた。
『解りました。』と、舌たるい声で校長が言つた。
話が切れた。
待つても待つても目賀田は来なかつた。
遂々雀部は大きな
呻をした。
『ああ眠くなつた。目賀田さんは何うしたらうなあ。まさかあの儘寝て了つたのぢやないだらうか。』
『今来るでせう。ああ、小使が
風炉を沸かしておけば可いがなあ。』
さう言ふ校長の声も半分は
呻であつた。
水の音だけがさらさらと聞えた。
「己はまだ二十二だ。――さうだ、たつた二十二なのだ。」多吉は何の事ともつかずに、さう心の中に思つて見た。
そして巻煙草に火を点けて、濃くなりまさる
暗の中にぽかりぽかりと光らし初めた。
松子はそれを、隣りの石から
凝と目を据ゑて見つめてゐた。
〔「新小説」明治四十三年四月号〕