散文詩

石川啄木

斎藤三郎編




曠野


 路に迷つたのだ!
と氣のついた時は、此曠野あらのに踏込んでから、もう彼是十哩も歩いてゐた。朝に旅籠屋を立つてから七八哩の間はみづたまりに馬の足痕の新しい路を、森から野、野から森、二三度人にも邂逅でつくわした。とある森の中で、人のゐない一軒家も見た。その路から此路へ、何時、何處から迷込んだのか解らない。瞬きをしてゐる間に、誰かが自分を掻浚つて來て恁麼こんな曠野に捨てて行つたのではないかと思はれる。
 足の甲の草鞋摺が痛む。痛む足を重さうに引摺つて、旅人は蹌踉よろよろと歩いて行く。十時間の間何も食はずに歩いたので、粟一粒入つてゐない程腹が凹んでゐる。餓と疲勞と、路を失つたといふ失望とが、暗い壓迫を頭腦に加へて、一足毎に烈しくなる足の痛みが、ずきり、ずきり、鈍つた心を突く。幾何いくら元氣を出してみても、直ぐに目が眩んで來る。耳が鳴つて來る。
 戻らうか、戻らうか、と考へながら、足は矢張前に出る。戻る事にしよう。と心が決めても、身體が矢張前に動く。
 涯もない曠野、海に起伏おきふす波に似て、見ゆる限りの青草の中に、幅二尺許りの、唯一條ひとすぢの細道が眞直に走つてゐる。空は一面の灰色の雲、針の目程の隙もなく閉して、黒鐵くろがねの棺の蓋の如く、重く曠野を覆うてゐる。
 そよとの風も吹かぬ。地球の背骨の大山脈から、獅子の如く咆えて來る千里の風も、遮る山もなければ抗ふ木もない、此曠野に吹いて來ては、おのづから力が拔けて死んで了ふのであらう。
 日の目が見えぬので、午前とも午後とも解らないが、旅人は腹時計で算へてみて、もう二時間か三時間で日が暮れるのだと知つた。西も東も解らない。何方から來て何方へ行くとも知れぬ路を、旅人は唯前へ前へと歩いた。
 軈てまた二哩許り辿つてゆくと、一條の細路が右と左に分れてゐる。
 此處は恰度曠野の中央まんなかで、曠野の三方から來る三條の路が、此處に落合つてゐる。落合つた所が、稍廣く草の生えぬ赤土を露はしてゐて、中央に一つみづたまりがある。
 潦の傍には、鋼線で拵へた樣な、骨と皮ばかりに痩せて了つた赤犬が一疋坐つてゐた。
 犬は旅人を見ると、なつかしげにぱたぱた細い尾を動かしたが、やをら立上つて蹌踉よろよろと二三歩前に歩いた。
 涯もない曠野を唯一人歩いて來た旅人も、犬を見ると流石になつかしい。知らぬ國の都を歩いてゐて、不圖同郷の人に逢つた樣になつかしい。旅人も犬に近いた。
 犬は幽かに鼻を鳴らして、旅人の顏を仰いだが、耳を窄めて、首を低れた。
 そして、鼻端はなつぱしで旅人の埃だらけの足の甲を撫でた。
 旅人はどつかと地面に腰を下した。犬も三尺許り離れて、前肢を立てゝ坐つた。
 空は曇つてゐる。風が無い。何十哩の曠野の中に、生命ある者は唯二箇ふたつ
 犬は默つて旅人の顏をみつめてゐる。旅人も無言で犬の顏を瞶めてゐる。
 若し人と犬と同じものであつたら、此時、犬が旅人なのか、旅人が犬なのか、誰が見ても見分がつくまい。餓ゑた、疲れた、二つの生命が互に瞶め合つてゐたのだ。
 犬は、七日程前に、どうした機會かで此曠野の追分へ來た。そして、何方の路から來たのか忘れて了つた。再び人里へ歸らうと思つては出かけるけれども、行つても、行つても、同じ樣な曠野の草、涯しがないので復此處に歸つて來る。三條の路を交る交る、何囘か行つてみて何囘か歸つて來た。犬は七日の間何も喰はなかつた。そして、犬一疋、人一人に逢はぬ。三日程前に、高い空の上を鳥が一羽飛んで行つて、雲に隱れた影を見送つたきり
 微かな音だにせぬ。聞えるものは、疲れに疲れた二つの心臟が、同じに搏つ鼓動の響きばかり。――と旅人は思つた。
 軈て、旅人は袂を探つて莨を出した。そして燐寸を擦つた。旅人の見た犬の目に暫時しばし火花が映つた。犬の見た旅人の目にも暫時火花が閃めいた。
 旅人は、燐寸の燃殼を犬の前に投げた。犬は直ぐそれに鼻端を推つけたが、何の香もしないので、また居住ひを直して旅人の顏を瞶めた。七日間の餓は犬の瞼を重く懈怠だるくした。莨の煙が旅人の餓を薄らがした。
 旅人は、どうやら少し暢然ゆつたりした樣な心持で、目の前の、痩せ果てた骨と皮ばかりの赤犬を、憐む樣な氣になつて來た。で手を伸べて犬を引寄せた。
 頭を撫でても耳を引張つても、犬は目を細くして唯おとなしくしてゐる。莨の煙を顏に吹かけても、僅かに鼻をふんふんいはす許り。毛を逆に撫でて見たり、肢を開かして見たり、地の上に轉がして見たり、痩せた尖つた顏を兩膝に挾んで見たりしても、犬は唯穩しくしてゐる。終には、細い尾を右に捻つたり、左に捻つたり、指に卷いたりしたが、少し強くすると、犬はスンと喉を鳴らして、弱い反抗を企てる許り。
 不圖、旅人は面白い事を考出して、そつと口元に笑を含んだ。紙屑を袂から出して、紙捻こよりを一本ふと、それで紙屑を犬の尾にゆはへつけた。
 犬はぱたぱたと尾を振る。旅人は、燐寸を擦つて、其紙屑に火を點けた。
 犬は矢庭に跳上つた。尾には火が燃えてゐる。犬は首をねぢつて其を噛取らうとするけれども、首が尾まで屆かぬので、きやん、きやんと叫びながらぐるぐる※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り出した。
 旅人は、我ながら殘酷な事をしたと思つて、犬の尾を抑へて其紙屑を取つてやらうと慌てて立上つたが、犬は聲の限りに叫びつづけて、凄じい勢ひでぐるぐる※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る。手も出されぬ程勢ひよく迅く※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る。旅人も、手を伸べながら犬の周圍を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り出した。
 きやん、きやんといふ苦痛の聲が、旅人の粟一粒入つてゐない空腹にこたへる。それはそれは遣瀬もない思ひである。
 尾の火が間もなく消えかかつた。と、犬の※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り方が少し遲くなつたと思ふと、よろよろと行つて、みづたまりの中に仆れた。旅人は棒の如く立つた。
 きやん、きやんといふ聲も、もう出ない。犬は痛ましい斷末魔の苦痛に水の中に仆れた儘、四本の肢で※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いて、すんすんと泣いたが、其聲が段々弱るにつれて、肢も段々動かなくなつた。
 餓ゑに餓ゑてゐた赤犬が、うして死んで了つた。
 淺猿しい犬の屍を構へた潦の面は、小波が鎭まると、宛然さながら底無しの淵の如く見えた。深く映つた灰色の空が、何時しか黄昏の色に黝んでゐたので。
 棒の如く立つてゐた旅人は、驚いて周圍まはりを見た。そこはかとなき薄暗が曠野の草に流れてゐる。其顏には、いふべからざる苦痛が刻まれてゐた。
 日が暮れた! と思ふ程、路を失つた旅人に悲しい事はない。渠は、急がしく草鞋の紐を締めなほして、犬の屍を一瞥したが、いざ行かうと足を踏出して、さて何處へ行つたものであらうと、黄昏の曠野を見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した。
 同じ樣に三度見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)したが、忽ち、
『噫、』
 と叫んで、兩手を高くさしあげたと思ふと、大聲に泣き出した。
『俺の來た路は何方だつたらう※(疑問符感嘆符、1-8-77)
 三條の路が、かれの足下から起つて、同じ樣に曠野の三方に走つてゐる。
[#改段]

白い鳥、血の海


 變な夢を見た。――
 大きい、大きい、眞黒な船に、美しい人と唯二人乘つて、大洋に出た。
 その人は私を見ると始終俯いて許りゐて、一言も口を利かなかつたので、喜んでるのか、悲んでるのか、私には解らなかつた。夢の中では、長い間思ひ合つてゐた人に相違なかつたが、覺めてみると、誰だか解らない。誰やらに似た横顏はまだ頭腦あたまの中に殘つてゐるやうだけれど、さて其誰やらが誰だか薩張當がつかない。
 富士山が見えなくなつてから、隨分長いこと船は大洋の上を何處かに向つてゐた。それが何日だか何十日だか矢張解らない。或は何百日何千日の間だつたかも知れない。
 其、誰とも知れぬ戀人は、毎日々々、朝から晩まで、燃ゆる樣なくれなゐの衣を着て、船首に立つて船の行手を眺めてゐた。
 それは其人が、己れの意志でやつた事か、私が命令してやらした事か明瞭はつきりしない。
 或日のこと。
 高い、高い、眞黒な檣の眞上に、金色の太陽が照つてゐて、海――蒼い、蒼い海は、見ゆる限りさざなみ一つ起たず、油を流した樣に靜かであつた。
 船の行手に、拳程の白い雲が湧いたと思ふと、見る間にそれが空一面に擴つて、金色の太陽をかくして了つた。――よく見ると、それは雲ぢやなかつた。
 鳥である。白い、白い、幾億萬羽と數知れぬ鳥である。
 海には漣一つ起たぬのに、空には、幾億萬羽の白い鳥が一樣に羽搏をするので、それが妙な凄じい響きになつて聞える。
 戀人は平生の如く船首に立つてくれなゐの衣を着てゐたが、私は船尾にゐて戀人の後姿を瞶めてゐた。
 凄じい羽搏の響きが、急に高くなつたと思ふと、空一面の鳥が、段々舞下つて來た。
 高い、高い、眞黒なますとの上部が、半分許りも群がる鳥に隱れて見えなくなつた。と、其鳥どもが、一羽、一羽、交る/″\に下りて來て、戀人の手の掌に接吻してゆく。肩の高さに伸ばした其手には、燦爛として輝くものが載つてゐた。よく見ると、それは私が贈つた黄金こがねの指環である。
 鳥は普通の白い鳥であるけれども、一度其指環に接吻して行つたのだけは、もう普通の鳥ではなくて、白い羽の生えた人の顏になつてゐた。
 程なくして、空中そらぢうの鳥が皆人の顏になつてしまつた。と、最後に、やや大きい鳥が舞下りて來て、戀人の手に近づいたと見ると、紅の衣を着た戀人が、一聲けたたましく叫んで後に倒れた。
 黄金の指環を喞へた鳥は、大きい輪を描いてますと周匝まはりを飛んだ。どうしたのか、此鳥だけは人の顏にならずに。
 私は、帆綱に懸けておいた弓を取るより早く、白銀しろがねの鏑矢をひようと許りに射た。
 矢は見ン事鳥を貫いた。
 鳥の腹は颯と血に染まつた。
と、其鳥は石の落つる如く、私を目がけて落ちて來た。私はひらりと身を飜して、劍の束に手をかけると、鳥は船尾の直ぐ後の海中に落ちた。
 白銀の矢に貫かれた白鳥の屍! 其周匝の水が血の色に染まつたと見ると、それが瞬くうちに大きい輪になつて、涯なき大洋が忽ちに一面の血紅の海!
 唯一點の白は痛ましげなる鳥の屍である。と思つた、次の瞬間には、それは既に鳥の屍でなくて、燃ゆる樣な紅の衣を海一面に擴げた、戀人の顏であつた。
 船が駛る、駛る。矢の如く駛る。海中の顏は瞬一瞬に後に遠ざかる。……
 空には數知れぬ人の顏の、羽搏の響きと、きぬ裂く如く異樣な泣聲。……
[#改段]

火星の芝居


『何か面白い事はないか?』
『俺は昨夜火星に行つて來た。』
『さうかえ。』
眞個ほんとに行つて來たよ。』
『面白いものでもあつたか?』
『芝居を見たんだ。』
『さうか。日本なら「冥途の飛脚」だが、火星ぢや「天上の飛脚」でも演るんだらう?』
其麼そんなケチなもんぢやない。第一劇場からして違ふよ。』
『一里四方もあるのか?』
『莫迦な事を言へ。先づ青空を十里四方位の大さに截つて、それを壓搾して石にするんだ。石よりも堅くて青くて透徹るよ。』
『それが何だい?』
『それを積み重ねて、高い、高い、無際限に高い壁を築き上げたもんだ、然も二列にだ。壁と壁との間が唯五間位しかないが無際限に高いので、仰ぐと空が一本の銀の絲の樣に見える。』
『五間の舞臺で芝居がやれるのか?』
『マア聞き給へ。其青い壁が何處まで續いてゐるのか解らない。萬里の長城を二重にして、青く塗つた樣なもんだね。』
『何處で芝居を演るんだ?』
『芝居はまだだよ。その壁が詰り花道なんだ。』
『もう澤山だ。止せよ。』
『その花道を、俳優が先づ看客を引率して行くのだ。火星ぢや君、俳優が國王よりも權力があつて、芝居が初まると國民が一人殘らず見物しなけやならん憲法があるんだから、それは/\非常な大入だよ。其麼そんな大仕掛な芝居だから、準備に許りも十ヶ月かかるさうだ。』
『お産をすると同じだね。』
『其俳優といふのが又素的だ。火星の人間は、一體僕等より足が小くて胸が高くて、最も頭の大きい奴が第一流の俳優になる。だから君、火星のアアビングや團十郎は、ニコライの會堂の圓天蓋よりも大きい位な烏帽子を冠つてるよ。』
『驚いた。』
『驚くだらう?』
『君の法螺にさ。』
『法螺ぢやない。眞實ほんとの事だ。少くとも夢の中の事實だ。それで君、ニコライの會堂の屋根を冠つた俳優が、何十億の看客を導いて花道から案内して行くんだ。』
『花道から看客を案内するのか?』
『さうだ。其處が地球と違つてるね。』
『其處ばかりぢやない。』
どうせ違つてるさ。それでね、僕も看客の一人になつて其花道を行つたとし給へ。そして、並んで歩いてる人から望遠鏡を借りて前の方を見たんだがね、二十里も前の方にニコライの屋根の尖端が三つ許り見えたよ』
『アツハハハ。』
『行つても、行つても、青い壁だ。行つても、行つても、青い壁だ。何處まで行つても青い壁だ。君、何處まで行つたつて矢張青い壁だよ。』
『舞臺を見ないうちに夜が明けるだらう?』
『それどころぢやない、花道ばかりで何年とかかかるさうだ。』
『好い加減にして幕をあけ給へ。』
『だつて君何處まで行つても矢張青い壁なんだ。』
『戲言ぢやないぜ。』
『戲言ぢやない。さ、そのうちに目が覺めたから夢も覺めて了つたんだ。ハツハハ。』
『酷い男だ、君は。』
『だつて然うぢやないか。さう何年も續けて夢を見てゐた日にや、火星の芝居が初まらぬうちに、俺の方が腹を減らして目出度大團圓になるぢやないか。俺だつて青い壁の涯まで見たかつたんだが、そのうちに目が覺めたから夢も覺めたんだ。』
[#改段]

二人連


 若い男といふものは、時として妙な氣持になる事があるものだ。ふわふわとした、影の樣な物が、胸の中で、右に左に寢返りをうつてじたばたしてる樣で、何といふ事もなく氣が落付かない。ほんを讀んでも何が書いてあるやら解らず。これや不可いかんと思つて、聲を立てて讀むと何時しか御經の眞似をしたくなつたり、薩摩琵琶の聲色になつたりする。遠方の友達へでも手紙を書かうとすると、隣りの煙草屋の娘が目にちらつく。鼻先を電車が轟と驅る。積み重ねておいたほんでも崩れると、ハツと吃驚して、誰もゐないのに顏を赤くしたりする。何の爲に恁うそわそわするのか解らない。新しい戀にそそのかされてるのでもないのだ。
 或晩、私も其麼氣持になつて、一人で種々いろ/\な眞似をやつた。讀さしの書は其方のけにして、寺小屋の涎くりの眞似もした。鏡に向つて大口を開いて、眞赤な舌を自由自在に動かしても見た。机の縁をピアノの鍵盤に擬へて、氣取つた身振をして滅多打に敲いても見た。何之助とかいふ娘義太夫が、花簪を擲げ出し、髮を振亂して可愛い目を妙に細くして見臺の上を伸上つた眞似をしてる時、スウと襖が開いたので、慌てて何氣ない樣子をつくらうて、開けた本を讀む振をしたが、郵便を持つて來た小間使が出て行くと、氣が附いたら本が逆さになつてゐた。
 たまらなくなつて、帽子も冠らず戸外へ飛出して了つた。暢然ゆつたり歩いたり、急いで歩いたり、電車にも乘つたし、見た事のない、狹い横町にも入つた。車夫にも怒鳴られたし、ミルクホールの中を覗いても見た。一町ばかりいきな女の跟をつけても見た。面白いもので、何でも世の中は遠慮する程損な事はないが、街を歩いても此方が大威張で眞直に歩けば、る人も、徠る人も皆途を避けてくれる。
 妻を持つたら、決して夜の都の街を歩かせるものぢやない、と考へた。華やかな、晝を欺く街々の電燈は、どうしても人間の心を浮氣にする。情死と決心した男女が恁麼こんな街を歩くと、屹度其企てを擲つて驅落をする事にする。
 さらでだにふらふらと唆かされてゐる心持を、生温かい夏の夜風が絶間もなく煽立てる。
 日比谷公園を出て少許すこし來ると、十間許り前を暢然ゆつたりとした歩調あしどりで二人連の男女が歩いてゐる。餘り若い人達ではないらしいが何方も立派な洋裝で、肩と肩を擦合して行くではないか、畜生奴!
 私は此夜、此麼こんなのを何十組となく見せつけられて、少からず憤慨してゐたが、殊にも其處が人通の少い街なので、二人の樣子が一層睦じ氣に見えて、私は一層癪に觸つた。
 と、幸ひ私の背後うしろから一人の若い女が來て、急足で前へ拔けたので、私は好い事を考へ出した。
 私は、早速足を早めて、其若い女と肩を並べた。先刻から一緒に歩いてゐる樣な具合にして、前に行く二人連に見せつけてやる積りなのだ。
 女は氣の毒な事には、私の面白い計畫を知らない。何と思つたか、急に俯いて一層足を早めた。二人連に追付くには結句都合が可いので、私も大股に急いで、肩と肩を擦れさうにした。女は益々急ぐ、私も離れじと急ぐ。
 たまらない位嬉しい。私は首を眞直にして、反返つて歩いた。
 間もなく前の二人連に追付いて、四人が一直線の上に列んだ。五六秒經つと、直線が少許歪んで、私達の方が心持前へ出た。
 私は生れてから、恁麼得意を覺えた事は滅多にない。で、何處までも末頼母しい情人の樣に、態度をくづさず女の傍に密接くつついて歩きながら滿心の得意が、それだけで足らず、ちよつ流盻ながしめを使つて洋裝の二人連を見た。其麼どんな顏をしてけつかるだらうと思つて。
 私は不思おもはず首を縮めて足を留めた。
 親類の結婚式に招ばれて行つた筈の、お父さんとお母さんが、手をとり合つて散歩ながらに家に歸る所だ!
『おや光太郎(私の名)ぢやないか! 帽子も冠らずに何處を歩いてゐるんだらう!』
 とお母さんが……
 私は生れてから、恁麼こんな酷い目に逢つた事は滅多にない!
[#改段]

祖父


 とある山の上の森に、軒の傾いた一軒家があつて、六十を越した老爺と五歳になるお雪とが、唯二人住んでゐた。
 お雪は五年前の初雪の朝に生れた、山桃の花の樣に可愛い兒であつた。老爺は六尺に近い大男で、此年齡としになつても腰も屈らず、無病息災、頭顱あたまが美事に禿げてゐて、赤銅色の顏に、左の眼がつぶれてゐた。
 親のない孫と、子のない祖父の外に、此一軒家にはモ一箇ひとりの活物がゐた。それはお雪より三倍も年老つた、白毛の盲目馬めくらうまである。
 老爺は重い斧を揮つて森の木を伐る。お雪は輕い聲で笑つて、一人其近間に遊んでゐる。
 大きい木が凄じい音を立てて仆れる時、お雪危ないぞ、と老爺が言ふ。小鳥が枝の上に愉しい歌を歌ふ時、『祖父さん鳥がゐる、鳥がゐる。』とお雪が呼ぶ。
 丁々たる伐木の音と、嬉々たるお雪の笑聲が毎日、毎日森の中に響いた。
 其森の奧に、太い、太い、一本の山毛欅ぶなの木があつて、其周匝まはりには粗末な木柵が※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らしてあつた。お雪は何事でも心の儘に育てられてゐるけれど、其山毛欅の木に近づく事だけは、堅く老爺からめられてゐた。
 老爺は伐仆した木を薪にして、隔日いちにちおき午前ひるまへに、白毛の盲目馬の背につけては、麓の町に賣りにゆく。其都度、お雪は老爺に背負はれて行く。
 雨の降る日は老爺は盡日ひねもす圍爐裏に焚火をして、じつと其火をみまもつて暮す。お雪は其傍で穩しく遊んで暮す。
 時として老爺は
『お雪坊や、お前の阿母おつかあはな、偉えこと綺麗な女だつたぞ。』
と言ふ事がある。
 其阿母が何處へ行つたかと訊くと、遠い所へ行つたのだと教へる。
 そして、其阿母が歸つて來るだらうかと問ふと、
『歸つて來るかも知れねえ。』
と答へて、そばを向いて溜息を吐く。
 お雪は、左程此話に興を有つてなかつた。
 五歳いつつになる森の中のお雪が何よりも喜ぶのは、
『祖父さん、暗くして呉れるよ。』
と言つて、可愛い星の樣な目を、堅く、堅く、閉づる事であつた。お雪は自分に何も見えなくなるので、目を閉づれば世界が暗くなるものと思つてゐた。
 お雪が一日に何度となく世界を暗くする。其都度、老爺は笑ひながら
『ああ暗くなつた、暗くなつた。』
と言ふ。
 或時お雪は、老爺の顏をつくづく眺めてゐたが、
『祖父さんは、何日いつでも半分暗いの?』
と問うた。
『然うだ。祖父さんは左の方が何日でも半分暗いのさ。』
と言つて、眇目すがめの老爺は面白相に笑つた。
 又或時、お雪は老爺の頭顱あたまを見ながら、
『祖父さんの頭顱には怎して毛がないの?』
『年を老ると、誰でも俺の樣に禿頭になるだあよ。』
 お雪にはその意味が解らなかつた。『古くなつて枯れて了つたの。』
『アツハハ。』と、老爺は齒のかけた口を大きく開いて笑つたが、『然うだ、然うだ。古くなつて干乾びたから、髮が皆草の樣に枯れて了つただ。』
『そんなら、水つけたらまたえるの?』
『生えるかも知れねえ、お雪坊は賢い事を言ふだのう。』
と笑つたが、お雪は其日から、甚麼日でも忘れずに、必ず粗末な夕飯が濟むと、いかな眠い時でも手づから漆の剥げた椀に水を持つて來て、胡坐あぐらをかいた老爺の頭へ、小い手でひたひたとつけて呉れる。水の滴りが額を傳つて鼻の上に流れると、老爺は、
『お雪坊や、其麼そんなに鼻にまでつけると、鼻にも毛が生えるだあ。』
と笑ふ。するとお雪も可笑くなつて、くつくつ笑ふのであるが、それが面白さに、お雪は態と鼻の上に水を流す。其都度二人は同じ事を言つて、同じ樣に笑ふのだ。
 夕飯が濟み、毛生藥の塗抹が終ると、老爺は直ぐにお雪を抱いて寢床に入る。お雪は桃太郎やお月お星の繼母ままははの話が終らぬうちにすやすやと安かな眠に入つて了ふのであるが、老爺は仲々寢つかれない。すると、こつそり起きて、圍爐裏いろりに薪を添へ、パチパチと音して勢ひよく燃える炎に老の顏を照らされながら、一つしか無い目に涙を湛へて、六十年の來し方を胸に繰返す。――
 生れる兒も、生れる兒も、皆死んで了つて、唯一人育つた娘のお里、それは、それは、親ながらに惚々とする美しい娘であつたが、十七の春に姿を隱して、山を尋ね川を探り、麓の町に降りて家毎に訊いて歩いたけれど、掻暮かいくれ行方が知れず。媼さんは其時から病身になつたが、お里は二十二の夏の初めに飄然ふらりと何處からか歸つて來た。何處から歸つたのか兩親は知らぬ。訊いても答へない。十月末の初雪の朝に、にはかに産氣づいて生み落したのがお雪である。
 翌年の春の初め、森の中には未だ所々に雪が殘つてる時分お里はまた見えなくなつた。翌日あくるひ、老爺は森の奧の大山毛欅の下で、裸體はだかにされて血だらけになつてゐる娘の屍を發見みいだした。お雪を近づかせぬ山毛欅がそれだ。
 二月も經たぬうちに媼さんも死んで了つた。――
 雨さへ降らなければ、毎日、毎日、丁々たる伐木の音と邪氣あどけないお雪のすずしい笑聲とが、森の中に響いた。日に二本か三本、太い老木が凄じい反響こだまを傳へて地に仆れた。小鳥が愉しげな歌を歌つて、枝から枝へ移つた。
 或晴れた日。
 珍らしくも老爺は加減がよくないと言つて、朝から森に出なかつた。
 お雪は一人樹蔭に花を摘んだり、葉に隱れて影を見せぬ小鳥を追ふたりしたが、間もなく妙に寂しくなつて家に歸つた。
 老爺は圍爐裏の端に横になつて眠つてゐる。額の皺は常よりも深く刻まれてゐる。
 お雪はこつそりと板の間に上つて――、老爺の枕邊に坐つたが遣瀬もない佗しさが身に迫つて、子供心の埒もなく、涙が直ぐに星の樣な目を濕した。それでも流石に泣聲を怺へて、眤と老爺の顏をみまもつてゐた。
 暫時しばらく經つと、お雪は自分の目を閉ぢて見たり、開けて見たりしてゐた。老爺の目が二つとも閉ぢてゐるのに、怎したのかお雪は暗くない。自分の目を閉ぢなければ暗くない。………
 お雪は不思議で不思議で耐らなくなつた。自分が目を閉づると、祖父さんは何日でも暗くなつたと言ふ。然し、今祖父さんが目を閉ぢてゐるけれども、自分はちつとも暗くない。……祖父さんは平常ふだん嘘を言つてゐたのぢやなからうかといふ懷疑うたがひが、妙な恐怖おそれを伴つて小い胸に一杯になつた。
 又暫時しばらく經つと、お雪は小さい手でと老爺の禿頭を撫でて見た。ああ、毎晩、毎晩、水をつけてるのに、些ともまだ毛が生えてゐない。『此頃は少許すこし生えかかつて來たやうだ。』と、二三日前に祖父さんが言つたに不拘かゝわらずまだ些とも生えてゐない。……
 老爺がウウンと苦氣に唸つて、胸の上に載せてゐた手を下したのでお雪は驚いて手を退けた。
 赤銅色の、逞ましい、逞ましい老爺の顏! 怒つた獅子ツ鼻、廣い額の幾條いくすぢの皺、常には見えぬ竪の皺さへ、太い眉と眉の間に刻まれてゐる。少許すこしばかり開いた唇からは、齒のない口が底知れぬ洞穴の樣に見える。
 お雪は無言で其顏を瞶つてゐたが、見る見る老爺の顏が――今まで何とも思はなかつたのに――恐ろしい顏になつて來た。言ふべからざる恐怖の情が湧いた。譬へて見ようなら見も知らぬ猛獸の寢息を覗つてる樣な心地である。
 するとお雪は、遽かに、見た事のない生みの母――常々美しい女だつたと話に聞いた生みの母が、戀しくなつた。そして、到頭聲を出してわつと泣いた。
 其聲に目を覺ました老爺が、
『怎しただ?』
と言つて體を起しかけた時、お雪は一層烈しく泣き出した。
 老爺は、一つしかない目を大きく※(「目+爭」、第3水準1-88-85)つて、妙に顏を歪めてお雪――最愛のお雪を見据ゑた。口元が痙攣ひきつけてゐる。胸が死ぬ程苦しくなつて嘔氣はきけを催して來た。老い果てた心臟はどきり、どきり、と、不規則な鼓動を弱つた體に傳へた。
(明治四十一年六月二十二、三日)





底本:「啄木全集 第二卷」岩波書店
   1961(昭和36)年4月13日新装第1刷発行
※「散文詩」は、底本編集時に、斎藤三郎が設けたまとまりです。
入力:蒋龍
校正:阿部哲也
2012年6月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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