路に迷つたのだ!
と氣のついた時は、此
足の甲の草鞋摺が痛む。痛む足を重さうに引摺つて、旅人は
戻らうか、戻らうか、と考へながら、足は矢張前に出る。戻る事にしよう。と心が決めても、身體が矢張前に動く。
涯もない曠野、海に
日の目が見えぬので、午前とも午後とも解らないが、旅人は腹時計で算へてみて、もう二時間か三時間で日が暮れるのだと知つた。西も東も解らない。何方から來て何方へ行くとも知れぬ路を、旅人は唯前へ前へと歩いた。
軈てまた二哩許り辿つてゆくと、一條の細路が右と左に分れてゐる。
此處は恰度曠野の
潦の傍には、鋼線で拵へた樣な、骨と皮ばかりに痩せて了つた赤犬が一疋坐つてゐた。
犬は旅人を見ると、なつかしげにぱたぱた細い尾を動かしたが、やをら立上つて
涯もない曠野を唯一人歩いて來た旅人も、犬を見ると流石になつかしい。知らぬ國の都を歩いてゐて、不圖同郷の人に逢つた樣になつかしい。旅人も犬に近いた。
犬は幽かに鼻を鳴らして、旅人の顏を仰いだが、耳を窄めて、首を低れた。
そして、
旅人はどつかと地面に腰を下した。犬も三尺許り離れて、前肢を立てゝ坐つた。
空は曇つてゐる。風が無い。何十哩の曠野の中に、生命ある者は唯
犬は默つて旅人の顏を
若し人と犬と同じものであつたら、此時、犬が旅人なのか、旅人が犬なのか、誰が見ても見分がつくまい。餓ゑた、疲れた、二つの生命が互に瞶め合つてゐたのだ。
犬は、七日程前に、
微かな音だにせぬ。聞えるものは、疲れに疲れた二つの心臟が、同じに搏つ鼓動の響きばかり。――と旅人は思つた。
軈て、旅人は袂を探つて莨を出した。そして燐寸を擦つた。旅人の見た犬の目に
旅人は、燐寸の燃殼を犬の前に投げた。犬は直ぐそれに鼻端を推つけたが、何の香もしないので、また居住ひを直して旅人の顏を瞶めた。七日間の餓は犬の瞼を重く
旅人は、
頭を撫でても耳を引張つても、犬は目を細くして唯
不圖、旅人は面白い事を考出して、
犬はぱたぱたと尾を振る。旅人は、燐寸を擦つて、其紙屑に火を點けた。
犬は矢庭に跳上つた。尾には火が燃えてゐる。犬は首をねぢつて其を噛取らうとするけれども、首が尾まで屆かぬので、きやん、きやんと叫びながらぐるぐるり出した。
旅人は、我ながら殘酷な事をしたと思つて、犬の尾を抑へて其紙屑を取つてやらうと慌てて立上つたが、犬は聲の限りに叫びつづけて、凄じい勢ひでぐるぐるる。手も出されぬ程勢ひよく迅くる。旅人も、手を伸べながら犬の周圍をり出した。
きやん、きやんといふ苦痛の聲が、旅人の粟一粒入つてゐない空腹に
尾の火が間もなく消えかかつた。と、犬のり方が少し遲くなつたと思ふと、よろよろと行つて、
きやん、きやんといふ聲も、もう出ない。犬は痛ましい斷末魔の苦痛に水の中に仆れた儘、四本の肢でいて、すんすんと泣いたが、其聲が段々弱るにつれて、肢も段々動かなくなつた。
餓ゑに餓ゑてゐた赤犬が、
淺猿しい犬の屍を構へた潦の面は、小波が鎭まると、
棒の如く立つてゐた旅人は、驚いて
日が暮れた! と思ふ程、路を失つた旅人に悲しい事はない。渠は、急がしく草鞋の紐を締めなほして、犬の屍を一瞥したが、いざ行かうと足を踏出して、さて何處へ行つたものであらうと、黄昏の曠野を見した。
同じ樣に三度見したが、忽ち、
『噫、』
と叫んで、兩手を高くさしあげたと思ふと、大聲に泣き出した。
『俺の來た路は何方だつたらう』
三條の路が、
[#改段]
變な夢を見た。――
大きい、大きい、眞黒な船に、美しい人と唯二人乘つて、大洋に出た。
その人は私を見ると始終俯いて許りゐて、一言も口を利かなかつたので、喜んでるのか、悲んでるのか、私には解らなかつた。夢の中では、長い間思ひ合つてゐた人に相違なかつたが、覺めてみると、誰だか解らない。誰やらに似た横顏はまだ
富士山が見えなくなつてから、隨分長いこと船は大洋の上を何處かに向つてゐた。それが何日だか何十日だか矢張解らない。或は何百日何千日の間だつたかも知れない。
其、誰とも知れぬ戀人は、毎日々々、朝から晩まで、燃ゆる樣な
それは其人が、己れの意志でやつた事か、私が命令してやらした事か
或日のこと。
高い、高い、眞黒な檣の眞上に、金色の太陽が照つてゐて、海――蒼い、蒼い海は、見ゆる限り
船の行手に、拳程の白い雲が湧いたと思ふと、見る間にそれが空一面に擴つて、金色の太陽を
鳥である。白い、白い、幾億萬羽と數知れぬ鳥である。
海には漣一つ起たぬのに、空には、幾億萬羽の白い鳥が一樣に羽搏をするので、それが妙な凄じい響きになつて聞える。
戀人は平生の如く船首に立つて
凄じい羽搏の響きが、急に高くなつたと思ふと、空一面の鳥が、段々舞下つて來た。
高い、高い、眞黒な
鳥は普通の白い鳥であるけれども、一度其指環に接吻して行つたのだけは、もう普通の鳥ではなくて、白い羽の生えた人の顏になつてゐた。
程なくして、
黄金の指環を喞へた鳥は、大きい輪を描いて
私は、帆綱に懸けておいた弓を取るより早く、
矢は見ン事鳥を貫いた。
鳥の腹は颯と血に染まつた。
と、其鳥は石の落つる如く、私を目がけて落ちて來た。私はひらりと身を飜して、劍の束に手をかけると、鳥は船尾の直ぐ後の海中に落ちた。
白銀の矢に貫かれた白鳥の屍! 其周匝の水が血の色に染まつたと見ると、それが瞬くうちに大きい輪になつて、涯なき大洋が忽ちに一面の血紅の海!
唯一點の白は痛ましげなる鳥の屍である。と思つた、次の瞬間には、それは既に鳥の屍でなくて、燃ゆる樣な紅の衣を海一面に擴げた、戀人の顏であつた。
船が駛る、駛る。矢の如く駛る。海中の顏は瞬一瞬に後に遠ざかる。……
空には數知れぬ人の顏の、羽搏の響きと、
[#改段]
『何か面白い事はないか?』
『俺は昨夜火星に行つて來た。』
『さうかえ。』
『
『面白いものでもあつたか?』
『芝居を見たんだ。』
『さうか。日本なら「冥途の飛脚」だが、火星ぢや「天上の飛脚」でも演るんだらう?』
『
『一里四方もあるのか?』
『莫迦な事を言へ。先づ青空を十里四方位の大さに截つて、それを壓搾して石にするんだ。石よりも堅くて青くて透徹るよ。』
『それが何だい?』
『それを積み重ねて、高い、高い、無際限に高い壁を築き上げたもんだ、然も二列にだ。壁と壁との間が唯五間位しかないが無際限に高いので、仰ぐと空が一本の銀の絲の樣に見える。』
『五間の舞臺で芝居がやれるのか?』
『マア聞き給へ。其青い壁が何處まで續いてゐるのか解らない。萬里の長城を二重にして、青く塗つた樣なもんだね。』
『何處で芝居を演るんだ?』
『芝居はまだだよ。その壁が詰り花道なんだ。』
『もう澤山だ。止せよ。』
『その花道を、俳優が先づ看客を引率して行くのだ。火星ぢや君、俳優が國王よりも權力があつて、芝居が初まると國民が一人殘らず見物しなけやならん憲法があるんだから、それは/\非常な大入だよ。
『お産をすると同じだね。』
『其俳優といふのが又素的だ。火星の人間は、一體僕等より足が小くて胸が高くて、最も頭の大きい奴が第一流の俳優になる。だから君、火星のアアビングや團十郎は、ニコライの會堂の圓天蓋よりも大きい位な烏帽子を冠つてるよ。』
『驚いた。』
『驚くだらう?』
『君の法螺にさ。』
『法螺ぢやない。
『花道から看客を案内するのか?』
『さうだ。其處が地球と違つてるね。』
『其處ばかりぢやない。』
『
『アツハハハ。』
『行つても、行つても、青い壁だ。行つても、行つても、青い壁だ。何處まで行つても青い壁だ。君、何處まで行つたつて矢張青い壁だよ。』
『舞臺を見ないうちに夜が明けるだらう?』
『それどころぢやない、花道ばかりで何年とか
『好い加減にして幕をあけ給へ。』
『だつて君何處まで行つても矢張青い壁なんだ。』
『戲言ぢやないぜ。』
『戲言ぢやない。さ、そのうちに目が覺めたから夢も覺めて了つたんだ。ハツハハ。』
『酷い男だ、君は。』
『だつて然うぢやないか。さう何年も續けて夢を見てゐた日にや、火星の芝居が初まらぬうちに、俺の方が腹を減らして目出度大團圓になるぢやないか。俺だつて青い壁の涯まで見たかつたんだが、そのうちに目が覺めたから夢も覺めたんだ。』
[#改段]
若い男といふものは、時として妙な氣持になる事があるものだ。ふわふわとした、影の樣な物が、胸の中で、右に左に寢返りをうつてじたばたしてる樣で、何といふ事もなく氣が落付かない。
或晩、私も其麼氣持になつて、一人で
たまらなくなつて、帽子も冠らず戸外へ飛出して了つた。
妻を持つたら、決して夜の都の街を歩かせるものぢやない、と考へた。華やかな、晝を欺く街々の電燈は、
さらでだにふらふらと唆かされてゐる心持を、生温かい夏の夜風が絶間もなく煽立てる。
日比谷公園を出て
私は此夜、
と、幸ひ私の
私は、早速足を早めて、其若い女と肩を並べた。先刻から一緒に歩いてゐる樣な具合にして、前に行く二人連に見せつけてやる積りなのだ。
女は氣の毒な事には、私の面白い計畫を知らない。何と思つたか、急に俯いて一層足を早めた。二人連に追付くには結句都合が可いので、私も大股に急いで、肩と肩を擦れさうにした。女は益々急ぐ、私も離れじと急ぐ。
たまらない位嬉しい。私は首を眞直にして、反返つて歩いた。
間もなく前の二人連に追付いて、四人が一直線の上に列んだ。五六秒經つと、直線が少許歪んで、私達の方が心持前へ出た。
私は生れてから、恁麼得意を覺えた事は滅多にない。で、何處までも末頼母しい情人の樣に、態度をくづさず女の傍に
私は
親類の結婚式に招ばれて行つた筈の、お父さんとお母さんが、手をとり合つて散歩ながらに家に歸る所だ!
『おや光太郎(私の名)ぢやないか! 帽子も冠らずに何處を歩いてゐるんだらう!』
とお母さんが……
私は生れてから、
[#改段]
とある山の上の森に、軒の傾いた一軒家があつて、六十を越した老爺と五歳になるお雪とが、唯二人住んでゐた。
お雪は五年前の初雪の朝に生れた、山桃の花の樣に可愛い兒であつた。老爺は六尺に近い大男で、此
親のない孫と、子のない祖父の外に、此一軒家にはモ
老爺は重い斧を揮つて森の木を伐る。お雪は輕い聲で笑つて、一人其近間に遊んでゐる。
大きい木が凄じい音を立てて仆れる時、お雪危ないぞ、と老爺が言ふ。小鳥が枝の上に愉しい歌を歌ふ時、『祖父さん鳥がゐる、鳥がゐる。』とお雪が呼ぶ。
丁々たる伐木の音と、嬉々たるお雪の笑聲が毎日、毎日森の中に響いた。
其森の奧に、太い、太い、一本の
老爺は伐仆した木を薪にして、
雨の降る日は老爺は
時として老爺は
『お雪坊や、お前の
と言ふ事がある。
其阿母が何處へ行つたかと訊くと、遠い所へ行つたのだと教へる。
そして、其阿母が歸つて來るだらうかと問ふと、
『歸つて來るかも知れねえ。』
と答へて、
お雪は、左程此話に興を有つてなかつた。
『祖父さん、暗くして呉れるよ。』
と言つて、可愛い星の樣な目を、堅く、堅く、閉づる事であつた。お雪は自分に何も見えなくなるので、目を閉づれば世界が暗くなるものと思つてゐた。
お雪が一日に何度となく世界を暗くする。其都度、老爺は笑ひながら
『ああ暗くなつた、暗くなつた。』
と言ふ。
或時お雪は、老爺の顏をつくづく眺めてゐたが、
『祖父さんは、
と問うた。
『然うだ。祖父さんは左の方が何日でも半分暗いのさ。』
と言つて、
又或時、お雪は老爺の
『祖父さんの頭顱には怎して毛がないの?』
『年を老ると、誰でも俺の樣に禿頭になるだあよ。』
お雪にはその意味が解らなかつた。『古くなつて枯れて了つたの。』
『アツハハ。』と、老爺は齒のかけた口を大きく開いて笑つたが、『然うだ、然うだ。古くなつて干乾びたから、髮が皆草の樣に枯れて了つただ。』
『そんなら、水つけたら
『生えるかも知れねえ、お雪坊は賢い事を言ふだ
と笑つたが、お雪は其日から、甚麼日でも忘れずに、必ず粗末な夕飯が濟むと、いかな眠い時でも手づから漆の剥げた椀に水を持つて來て、
『お雪坊や、
と笑ふ。するとお雪も可笑くなつて、くつくつ笑ふのであるが、それが面白さに、お雪は態と鼻の上に水を流す。其都度二人は同じ事を言つて、同じ樣に笑ふのだ。
夕飯が濟み、毛生藥の塗抹が終ると、老爺は直ぐにお雪を抱いて寢床に入る。お雪は桃太郎やお月お星の
生れる兒も、生れる兒も、皆死んで了つて、唯一人育つた娘のお里、それは、それは、親ながらに惚々とする美しい娘であつたが、十七の春に姿を隱して、山を尋ね川を探り、麓の町に降りて家毎に訊いて歩いたけれど、
翌年の春の初め、森の中には未だ所々に雪が殘つてる時分お里は
二月も經たぬうちに媼さんも死んで了つた。――
雨さへ降らなければ、毎日、毎日、丁々たる伐木の音と
或晴れた日。
珍らしくも老爺は加減がよくないと言つて、朝から森に出なかつた。
お雪は一人樹蔭に花を摘んだり、葉に隱れて影を見せぬ小鳥を追ふたりしたが、間もなく妙に寂しくなつて家に歸つた。
老爺は圍爐裏の端に横になつて眠つてゐる。額の皺は常よりも深く刻まれてゐる。
お雪は
お雪は不思議で不思議で耐らなくなつた。自分が目を閉づると、祖父さんは何日でも暗くなつたと言ふ。然し、今祖父さんが目を閉ぢてゐるけれども、自分は
又
老爺がウウンと苦氣に唸つて、胸の上に載せてゐた手を下したのでお雪は驚いて手を退けた。
赤銅色の、逞ましい、逞ましい老爺の顏! 怒つた獅子ツ鼻、廣い額の
お雪は無言で其顏を瞶つてゐたが、見る見る老爺の顏が――今まで何とも思はなかつたのに――恐ろしい顏になつて來た。言ふべからざる恐怖の情が湧いた。譬へて見ようなら見も知らぬ猛獸の寢息を覗つてる樣な心地である。
するとお雪は、遽かに、見た事のない生みの母――常々美しい女だつたと話に聞いた生みの母が、戀しくなつた。そして、到頭聲を出してわつと泣いた。
其聲に目を覺ました老爺が、
『怎しただ?』
と言つて體を起しかけた時、お雪は一層烈しく泣き出した。
老爺は、一つしかない目を大きくつて、妙に顏を歪めてお雪――最愛のお雪を見据ゑた。口元が
(明治四十一年六月二十二、三日)