石川啄木




  啄木鳥

いにしへ聖者が雅典アデンの森にきし、
光ぞ絶えせぬみ空の『愛の火』もて
にたる巨鐘おほがね無窮むきゆうのその声をぞ
染めなす『緑』よ、げにこそ霊の住家。
聞け、今、巷にあへげるちり疾風はやち
よせ来て、若やぐ生命いのちの森の精の
きよきを攻むやと、終日ひねもす啄木鳥きつつきどり
巡りて警告いましめ夏樹なつきずゐにきざむ。

きしは三千年みちとせ永劫えいごふなほすすみて
つきざる『時』の、無象の白羽の跡
追ひ行く不滅の教よ。――プラトオ、汝が
浄きを高きを天路のはえと云ひし
霊をぞ守りて、この森不断のかて
くしかるつとめを小さき鳥のすなる。

  隠沼

夕影しづかにつがひ白鷺しらさぎ下り、
まきの葉れたる樹下こした隠沼こもりぬにて、
あこがれ歌ふよ。――『そのかみ、よろこび、そは
朝明あさあけ、光の揺籃ゆりごに星と眠り、
悲しみ、なれこそとこしへ此処ここちて、
我がふくめる泥土ひづちけ沈みぬ。』――
愛の羽寄り添ひ、青瞳せいどううるむ見れば、
築地ついぢの草床、涙を我もれつ。

あふげば、夕空さびしき星めざめて、
しぬびの光よ、あやなきゆめごとく、
ほそ糸ほのかに水底みぞこくさりひける。
哀歓かたみの輪廻めぐりなほも堪へめ、
泥土ひづちに似る身ぞ。ああさは我が隠沼、
かなしみみ去る鳥さへえこそ来めや。

  マカロフ提督追悼の詩

(明治三十七年四月十三日、我が東郷大提督の艦隊大挙して旅順港口に迫るや、敵将マカロフ提督これを迎撃せむとし、倉皇さうくわうれいを下して其旗艦ペトロパフロスクを港外に進めしが、武運やつたなかりけむ、我が沈設水雷に触れて、巨艦一爆、提督もまた艦と運命を共にしぬ。)

嵐よもだせ、やみ打つそのつばさ
夜の叫びも荒磯ありその黒潮も、
潮にみなぎる鬼哭きこく啾々しうしう
しばうなりをしづめよ。万軍の
敵も味方も汝がほこ地に伏せて、
今、大水の響に我が呼ばふ
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。
彼を沈めて、千古のなみ狂ふ、
弦月遠きかなたの旅順口りよじゆんこう

ものみな声を潜めて、極冬こくとう
落日の威に無人の大砂漠
劫風ごふふう絶ゆる不動の滅の如、
鳴りをしづめて、ああ今あめつちに
こもる無言の叫びを聞けよかし。
きけよ、――敗者のうらみか、暗濤の
世をくつがへす憤怒ふんぬか、ああ、あらず、――
血汐をみてむなしく敗艦と
共にかくれし旅順の※(「さんずい+區」、第3水準1-87-4)こくおうり
彼が最後のひとみにかがやける
偉霊のちから鋭どき生の歌。

ああおほいなる敗者よ、君が名は
マカロフなりき。非常の死の波に
最後のちからふるへる人の名は
マカロフなりき。胡天こてんの孤英雄。
君をおもへば、身はこれ敵国の
東海遠き日本の一詩人、
敵乍かたきながらに、苦しき声あげて
高く叫ぶよ、(鬼神もひざまづけ、
敵も味方もほこ地に伏せて、
マカロフが名にしばしは鎮まれよ。)
ああおほいなる敗将、軍神の
選びに入れる露西亜ロシアの孤英雄、
無情の風はまことに君が身に
まこと無情の翼をひろげき、と。

東亜の空にはびこる暗雲の
乱れそめては、黄海波荒く、
残艦哀れ旅順の水寒き
影もさびしき故国の運命さだめに、
君はちにき、み神の名を呼びて――
亡びのやみの叫びの見かへりや、
我と我が威に輝やく落日の
雲路しばしの勇みを負ふ如く。

さかんなるかなや、故国の運命を
になうて勇む胡天こてんの君が意気。
君は立てたり、旅順の狂風に
檣頭しやうとう高く日を射す提督ていとく旗。――
その旗、かなし、波間にきこまれ、
見る見る君が故国の運命と、
世界をづるちからも海底に
沈むものとは、ああ神、人知らず。

四月十有三日、日は照らず、
空はくもりて、乱雲すさまじく
故天にかへる辺土の朝の海、
(海も狂へや、鬼神も泣き叫べ、
敵も味方もほこに伏せて、
マカロフが名にしばしはひざまづけ。)
万雷波にをどりて、大軸を
くだくとひびく刹那せつなに、名にしおふ
黄海の王者、世界の大艦も
くづれ傾むく天地の※(「さんずい+區」、第3水準1-87-4)こくおうり
血汐を浴びて、腕をばこまぬきて、
無限の憤怒、怒濤どたうのかちどきの
渦巻く海に瞳をらしつつ、
大提督は静かに沈みけり。

ああ運命の大海、とこしへの
憤怒のかしらもたぐる死の波よ、
ひと日、旅順にすさみて、千秋の
うらみのこせる秘密の黒潮よ、
ああなれ、かくてこの世の九億劫おくごふ
生と希望と意力ちからを呑み去りて
幽暗不知のさかひに閉ぢこめて、
如何いかに、如何なるあかしを『永遠の
生の光』にことわり示すぞや。
が迫害にもろくも沈み行く
この世この生、まことになれが目に
映るが如く値のなきものか。

ああんぬかな。歴史の文字は皆
すでに千古の涙にうるほひぬ。
うるほひけりな、今また、マカロフが
おほいなる名も我身の熱涙に。――
彼は沈みぬ、無間むげんの海の底。
偉霊のちからこもれるその胸に
永劫えいごふたえぬ悲痛の傷うけて、
その重傷おもきずに世界を泣かしめて。

我はたまどふ、地上の永滅えいめつは、
力を仰ぐ有情の涙にぞ、
仰ぐちからに不断の永生の
流転るてん現ずるたふときひらめきか。
ああよしさらば、我が友マカロフよ、
詩人の涙あつきに、君が名の
叫びにこもる力に、ねがはくは
君が名、我が詩、不滅のまこととも
なぐさみて、我この世にたたかはむ。

水無月みなづきくらき夜半よはの窓にり、
燭にそむきて、静かに君が名を
思へば、我や、音なき狂瀾裡きやうらんり
したしく君が渦巻く死の波を
制す最後の姿をるがごと
かうべは垂れて、熱涙ねつるゐせきあへず。
君はやきぬ。逝きてもなほ逝かぬ
そのおほいなる心はとこしへに
偉霊を仰ぐ心に絶えざらむ。
ああ、夜の嵐、荒磯ありそのくろ潮も、
敵も味方もそのぬか地に伏せて
火焔ほのほの声をあげてぞ我が呼ばふ
マカロフが名にしばしは鎮まれよ。
彼を沈めて千古の浪狂ふ
弦月遠きかなたの旅順口。

  眠れる都

(京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を開けば、竹林の崖下、一望いらかの谷ありて眼界を埋めたり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に月照りて、永く山村僻陬へきすうの間にありし身には、いと珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)さうさう筆を染めけるものすなはちこの短調七れんの一詩也。「枯林」より「二つの影」までの七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の仮住居になれるものなりき)

鐘鳴りぬ、
いと荘厳おごそか
夜は重し、いちの上。
声は皆眠れる都
瞰下みおろせば、すさまじき
野の獅子ししの死にも似たり。

ゆるぎなき
霧の巨浪おほなみ
白う照る月影に
氷りては市を包みぬ。
港なる百船ももふねの、
それのごと燈影ほかげるる。

みおろせば、
眠れる都、
ああこれや、最後をはりの日
近づける血潮の城か。
夜の霧は、墓の如、
ものみなを封じ込めぬ。

百万の
つかれし人は
眠るらし、墓の中。
天地あめつちを霧は隔てて、
照りわたる月かげは
あめの夢地にそそがず。

声もなき
ねむれる都、
しじまりの大いなる
声ありて、霧のまにまに
ただよひぬ、ひろごりぬ、
黒潮のそのどよみと。

ああ声は
昼のぞめきに
けおされしたましひの
打なやむ罪のうなりか。
さては又、ひねもすの
たたかひの名残なごりの声か。

我が窓は、
にごれる海を
めぐらせる城の如、
遠寄とほよせに怖れまどへる
うたの胸守りつつ、
月光をくまなく入れぬ。

  東京

かくやくの夏の日は、今
子午しご線の上にかかれり。

煙突の鉄の林や、煙皆、煤黒すすぐろき手に
何をかもつかむとすらむ、ただひたに天をぞせる。
百千網ももちあみ巷巷ちまたちまたに空車行く音もなく
あはれ、今、都大路に、大真夏光動かぬ
寂寞せきばくよ、霜夜の如く、百万の心を圧せり。

千万のいらか今日こそ色もなく打しづまりぬ。
紙の片白き千ひらをきて行く通魔とほりまありと、
家家の門や又まど、黒布に皆とざされぬ。
百千網都大路に人の影暁星の如
いとまれに。――かくて、骨泣く寂滅じやくめつ死の都、見よ。

かくやくの夏の日は、今
子午線の上にかかれり。

何方いづかたゆ流れ来ぬるや、黒星よ、真北の空に
飛ぶを見ぬ。やがて大路の北のはて、天路にそそ
層楼の屋根にとまれり。唖唖ああとして一声、――これよ
凶鳥まがどりの不浄のからす。――骨あさる鳥なり、はたや、
死の空にさまよひ叫ぶ怨恨ゑんこん毒嘴どくはしの鳥。

きぬ、二度。――いかに、其声のなほ終らぬに、
何方ゆ現れ来しや、幾尺の白髪かき垂れ、
いな光る剣ささげし童顔のおきなあり。ああ、
黒長裳くろながも静かにくや、寂寞の戸に反響こだまして、
くつの音全都に響き、唯一人大路を練れり。
有りとある磁石の針は
子午線の真北を射せり。

  吹角つのぶえ

みちのくの谷の若人、牧の子は
若葉衣の夜心に、
赤葉の芽ぐみ物ゆる五月さつきの丘の
かしは木立をたもとほり、
落ちゆく月を背に負ひて、
東白しののめの空のほのめき――
あめの真白きもとゆ湧く水の
いとすがすがし。――
ひたひたと木陰地こさぢに寄せて、
足もとの朝草小露明らみぬ。
風はもすずし。
みちのくの牧の若人露ふみて
もとほり心角くだ吹けば、
吹き、また吹けば、
渓川たにがは石津瀬いはつせはしる水音も
あはれ、いのちの小鼓こつづみの鳴の遠音とほね
ひびき寄す。
ああ静心しづごころなし。
丘のつづきの草の
白き光のまろぶかと
ふとしも動く物の影。――
くぼみのかこひの中に寝て、
心うゑたる暁の夢よりさめし
小羊の群は、静かにひびき来る
角の遠音にあくがれて、
埓こえ、草をふみしだき、ひたに走りぬ。
暁の声するかたの丘のに。――
ああよろこびの朝の舞、
新乳にひちの色の衣して、若き羊は
角ふく人の身をめぐり、
すずしき風にかはし、また小躍こをどりぬ。
あはれ、いのちの高丘に
誰ぞ角吹かば、
我もまたこの世の埓をとびこえて、
野ゆき、川ゆき、森をゆき、
かの山越えて、海越えて、
行かましものと、
みちのくの谷の若人、いやさらに
角吹き吹きて、静心なし。

  年老いし彼は商人

年老いし彼は商人あきびと
くつかばん、帽子、革帯かはおび
ところせくならべる店に
坐り居て、客のくるごと
尽日ひねもすや、はた、電燈の
青く照る夜もくるまで、
てらてらに禿げし頭を
ゐやあつく千度ちたび下げつつ、
なれたれば、いとなめらかに
数数の世辞をならべぬ。
年老いし彼はあき人。
かちかちと生命いのちを刻む
ボンボンの下の帳場や、
簿記台ぼきだいの上にれたる
その頭、いと面白おもしろし。

その頭るる度毎たびごと
彼が日は短くなりつ、
年こそは重みゆきけれ。
かくて、見よ、髪の一条ひとすぢ
落ちつ、また、二条、三条、
いつとなく抜けたり、つひ
面白し、禿げたる頭。
その頭、禿げゆくままに、
白壁の土蔵どざうの二階、
黄金の宝の山は
(目もはゆし、やみの中にも。)
積まれたり、いとうづたかく。

埃及エジプトの昔の王は
わが墓の大金字塔だいピラミド
つくるとて、ニルの砂原、
十万の黒兵者くろつはもの
二十年はたとせえきせしといふ。
年老いしこの商人あきびと
近つ代の栄の王者、
幾人の小僧つかひて、
人の見ぬ土蔵の中に
きづきたり、宝の山を。――
これこそは、げに、目もはゆき
新世あらたよ金字塔ピラミドならし、
霊魂たましひの墓のしるしの。

  辻

老いたるも、或は、若きも、
幾十人、男女や、
東より、はたや、西より、
坂の上、坂の下より、
おのがじし、いとせはしげに
此処ここ過ぐる。
今わが立つは、
海を見る広きちまた
四の辻。――四の角なる
家は皆いといかめしし。
銀行と、領事のやかた
新聞社、残る一つは、
人の罪ぎて行くなる
黒犬を飼へる警察。

此処過ぐる人は、見よ、皆、
空高き日をもあふがず、
船多き海も眺めず、
ただ、人の作れるみちを、
人の住む家を見つつぞ、
人とこそ群れて行くなれ。
白髯はくぜんおきなも、はたや、
絹傘きぬがさの若き少女をとめも、
少年も、また、靴鳴らし
煙草たばこ吹く海産商も、
たけ高き紳士も、孫を
背に負へるせしおうなも、
酒肥さかぶとり、いとそりかへる
商人あきびとも、物乞ふ等も、
口笛の若き給仕も、
家持たぬき人人も。

せはしげに過ぐるものかな。
広き辻、人は多けど、
相知れる人や無からむ。
並行けど、はた、相へど、
人は皆、そしらぬ身振、
おのがじし、おのが道をぞ
急ぐなれ、おのもおのもに。

心なき林の木木も
りて枝こそかはせ、
年毎に落ちて死ぬなる
木の葉さへ、朝風吹けば、
朝さやぎ、夕風吹けば、
夕語りするなるものを、
人の世はまばらの林、
人の世は人なき砂漠。
ああ、我も、わが行くみちの
今日ひと日、語る伴侶ともなく、
この辻を、今、かく行くと、
思ひつつ、歩み移せば、
けたたまし戸の音ひびき、
右手なる新聞社より
駆け出でし男幾人いくたり
腰の鈴高く鳴らして
駆け去りぬ、四の角より
四の路おのも、おのもに。
今五月、れたるひと日、
日の光曇らず、海に
きば鳴らす浪もなけれど、
急がしき人の国には
何事か起りにけらし。

  無題

札幌さつぽろ一昨日オトツヒ以来
ひき続きいと天気よし。
夜に入りて冷たき風の
そよ吹けば少しくもれど、
秋の昼、日はほかほかと
タケひくき障子しやうじを照し、
寝ころびて物を思へば、
我が頭ボーッとする程
心地よし、流離りうりの人も。

おもしろき君の手紙は
昨日見ぬ。うれしかりしな。
うれしさにほくそ笑みして
読みへし、我が睫毛マツゲには、
何しかも露の宿りき。
生肌ナマハダの木の香くゆれる
函館よ、いともなつかし。
木をけづる木片大工コツパダイク
おもしろき恋やするらめ。
新らしく立つ家々に
将来の恋人共が
カアちゃんに甘へてや居む。
はたや又、我がなつかしき
白村に翡翠ひすゐ白鯨
我が事を語りてあらむ。
なつかしき我がターちゃんよ、――
今様イマヤウのハイカラの名は
敬慕するかはせみの君、
外国とつくにのラリルレことば
酔漢ヱヒドレの語でいへば
m…m…my dear brethren !――
君が文読み、くり返し、
我が心青柳町の
裏長屋、十八番地
ムの八にかへりにけりな。

世の中はあるがままにて
どうかなる。心配はなし。
我たとへ、柳に南瓜かぼちや
なった如、ぶらりぶらりと
貧乏の重い袋を
痩腰に下げて歩けど、
本職の詩人、はた又
兼職の校正係、
どうかなる世の中なれば
必ずや怎かなるべし。
見よや今、「小樽日々にちにち
「タイムス」は南瓜の如き
つるの手を我にのばしぬ。
来むとする神無月かみなづきには、
ぶらぶらの南瓜のさが
校正子、記者に経上ヘアガ
どちらかへころび行くべし。

一昨日オトツヒはよき日なりけり。
小樽より我が妻せつ子
朝に来て、夕べ帰りぬ。
札幌に貸家なけれど、
親切な宿の主婦カミさん、
同室の一少年と
猫のふん他室へ移し
この室を我らのために
貸すべしと申出でたり。
それよしと裁可したれば、
明後日妻は京子と
なべ蒲団ふとん鉄瓶てつびん茶盆ちやぼん
たづさへて再び来り、
六畳のこの一室に
新家庭作り上ぐべし。
願くは心休めよ。

その節に、我のち
君達の好意、残らず
せつ子より聞き候ひぬ。
焼跡の丸井の坂を
荷車にぶらさがりつつ、
 (ここに又南瓜こそあれ、)
停車場に急ぎゆきけん
君達の姿思ひて
ふき出しぬ。又其心
打忍び、涙流しぬ。

日高なるアイヌの君の
行先ぞ気にこそかかれ。
ひょろひょろの夷希薇いきびの君に
事問へど更にわからず。
四日前に出しやりたる
我が手紙、未だもどらず
返事来ず。今の所は
一向に五里霧中ごりむちゆうなり。
アノ人の事にしあれば、
瓢然へうぜんと鳥の如くに
何処へかかけりゆきけめ。
タイしたる事のなからむ。
とはいへど、どうも何だか
気にかかり、たより待たるる。

北の方旭川なる
丈高き見習士官
遠からず演習のため
札幌に来るといふなる
たより来ぬ。豚鍋つつき
語らむと、これも待たるる。

待たるるはこれのみならず、
願くは兄弟達よ
手紙れ。ハガキでもよし。
函館のたよりなき日は
何となく唯我一人
荒れし野に追放されし
思ひして、心クサクサ、
わけもなく我がかたはらの、
猫の糞しやくにぞさわれ。

猫の糞可哀相かはいさうなり、
鼻下の髯、二程のびて
物いへば、いつも滅茶苦茶、
今もなほ無官の大夫、
実際は可哀相だよ。

札幌は静けき都、
秋の日のいと温かに
あぶの声おとづれ来なる
南窓ミナミマド、うつらうつらの
我が心、ふと浮気ウハキし、
筆とりて書きたるフミ
見よやこの五七の調よ、

其昔、髯のホメロス
イリヤドを書きし如くに
すらすらと書きこそしたれ。
札幌は静けき都、夢に来よかし。

   反歌
白村が第二の愛児マナゴ笑むらむかはた
泣くらむか聞かまほしくも。
なつかしき我が兄弟オトドヒよ我がために
文かけ、よしや頭掻かずも。
北の子は独逸ドイツ語習ふ、いざやいざ
我が正等タダシラ競駒クラベゴマせむ。
うつらうつら時すぎゆきて隣室の
時計二時うつ、いざ出社せむ。
  四十年九月二十三日
             札幌にて 啄木拝
並木兄 御侍史

  無題

一年ばかりの間、いや一と月でも
一週間でも、三日でもいい。
神よ、もしあるなら、ああ、神よ、
私の願ひはこれだけだ。どうか、
身体からだをどこか少しこはしてくれ痛くても
かまはない、どうか病気さしてくれ!
ああ! どうか……

真白な、やはらかな、そして
身体がフウワリと何処までも――
安心の谷の底までも沈んでゆく様な布団ふとんの上に、いや
養老院の古畳の上でもいい、
何も考へずに(そのまま死んでも
惜しくはない)ゆっくりと寝てみたい!
手足を誰か来て盗んで行っても
知らずにゐる程ゆっくり寝てみたい!

どうだらう! その気持は! ああ。
想像するだけでも眠くなるやうだ! 今てゐる
この著物を――重い、重いこの責任の著物を
脱ぎててしまったら(ああ、うっとりする!)
私のこの身体が水素のやうに
ふうわりと軽くなって、
高い高い大空へ飛んでゆくかも知れない――「雲雀ひばりだ」
下ではみんながさう言ふかも知れない! ああ!
    ――――――――――――――
死だ! 死だ! 私の願ひはこれ
たった一つだ! ああ!

あ、あ、ほんとに殺すのか? 待ってくれ、
ありがたい神様、あ、ちょっと!

ほんの少し、パンを買ふだけだ、五―五―五―銭でもいい!
殺すくらゐのお慈悲じひがあるなら!

  新らしき都の基礎

やがて世界のいくさは来らん!
不死鳥フエニツクスの如き空中軍艦が空に群れて、
その下にあらゆる都府がこぼたれん!
いくさは永く続かん! 人々の半ばは骨となるならん!
しかる後、あはれ、然る後、我等の
『新らしき都』はいづこに建つべきか?
滅びたる歴史の上にか? 思考と愛の上にか? 否、否。
土の上に。然り、土の上に、何の――夫婦と云ふ
定まりも区別もなき空気の中に
果て知れぬあをき、蒼き空のもとに!

  夏の街の恐怖

焼けつくやうな夏の日の下に
おびえてぎらつく軌条レールの心。
母親の居ねむりのひざからり下りて、
ふとった三歳みつつばかりの男の児が
ちょこちょこと電車線路へ歩いて行く。

八百屋の店にはえた野菜。
病院の窓の窓掛まどかけれて動かず。
とざされた幼稚園の鉄の門の下には
耳の長い白犬が寝そべり、
すベて、限りもない明るさの中に
どこともなく、芥子けしの花が死落しにおち、
生木なまきひつぎ裂罅ひびの入る夏の空気のなやましさ。

病身の氷屋の女房が岡持を持ち、
骨折れた蝙蝠傘かうもりがさをさしかけて門を出れば、
横町の下宿から出て進み来る、

夏の恐怖に物言はぬ脚気かつけ患者のはうむりの列。
それを見て辻の巡査は出かかった欠呻あくびみしめ、
白犬は思ふさまのびをして、
塵溜ごみための蔭に行く。

  起きるな

西日をうけて熱くなった
ほこりだらけの窓の硝子ガラスよりも
まだ味気ない生命いのちがある。

正体もなく考へに疲れきって、
汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる
まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、
硝子越しの夏の日が毛脛けずねを照し、
その上にのみひあがる。

起きるな、超きるな、日の暮れるまで。
そなたの一生に冷しい静かな夕ぐれの来るまで。

何処かでなまめいた女の笑ひ声。

  事ありげな春の夕暮

遠い国にはいくさがあり……
海には難破船の上の酒宴さかもり……

質屋の店にはあをざめた女が立ち、
燈火あかりにそむいてはなをかむ。
其処そこを出て来れば、路次の口に
情夫まぶの背を打つ背低い女――
うす暗がりに財布さいふを出す。

何か事ありげな――
春の夕暮の町を圧する
重くよどんだ空気の不安。
仕事の手につかぬ一日が暮れて、
何に疲れたとも知れぬ疲れがある。
遠い国には沢山の人が死に……
また政庁に推寄おしよせる女壮士のさけび声……
海には信夫翁あはうどりの疫病……

あ、大工だいくの家では洋燈ランプが落ち、
大工の妻がび上る。

  騎馬の巡査

絶間たえまなく動いてゐる須田町の人込ひとごみの中に、
絶間なく目を配って、立ってゐる騎馬きばの巡査――
見すぼらしい銅像のやうな――。

白痴の小僧は馬の腹をすばしこくくぐりぬけ、
荷を積み重ねた赤い自動車が
その鼻先を行く。

数ある往来の人の中には
子供の手をいた巡査の妻もあり
実家さとへ金借りに行った帰りみち
ふとの馬上の人を見上げて、
おのが夫の勤労を思ふ。

あ、犬が電車にかれた――
ぞろぞろと人が集る。
巡査も馬を進める……

  はてしなき議論の後(一)

暗き、暗き曠野くわうやにも似たる
わが頭脳の中に、
時として、いなづまのほとばしるごとく、
革命の思想はひらめけども――

あはれ、あはれ、
かの壮快さうくわいなる雷鳴らいめいつひに聞え来らず。

我は知る、
その電に照し出さるる
新しき世界の姿を。
其処そこにては、物みなそのところを得べし。

されど、そは常に一瞬にして消え去るなり、
しかして、この壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。

暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に
時として、電のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども――

  はてしなき議論の後(二)

われらのつ読み、且つ議論をたたかはすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜ロシアの青年に劣らず。
われらは何をすべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたるこぶしたくをたたきて、
V NARODナロード !’と叫び出づるものなし。

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

此処ここにあつまれる者は皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらのつひに勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

ああ、蝋燭らふそくはすでに三度も取りかへられ、
飲料のみもの茶碗ちやわんには小さき羽虫の死骸しがい浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

  ココアのひとさじ

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
うばはれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵にげつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常につかなしみなり。

はてしなき議論の後の
めたるココアのひとさじすすりて、
そのうすにがき舌触したざはりに
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

  書斎の午後

われはこの国の女を好まず。

読みさしの舶来の本の
手ざはりあらき紙の上に、
あやまちてこぼしたる葡萄酒ぶだうしゆ
なかなかにみてゆかぬかなしみ。

われはこの国の女を好まず。

  激論

われはかの夜の激論を忘るることあたはず、
新らしき社会にける「権力」の処置にきて、
はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと
我との間にき起されたる激論を、
かの五時間にわたれる激論を。

「君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家せんどうかの言なり。」
かれはつひにかく言ひ放ちき。
その声はさながらゆるごとくなりき。
しその間に卓子テエブルのなかりせば、
かれの手は恐らくわがかうべを撃ちたるならむ。
われはその浅黒き、大いなる顔の
男らしき怒りにみなぎれるを見たり。

五月の夜はすでに一時なりき。
る一人の立ちて窓を明けたるとき、
Nとわれとの間なる蝋燭らふそくの火は幾度か揺れたり。
病みあがりの、しかして快く熱したるわがほほに、
雨をふくめる夜風のさはやかなりしかな。

さてわれは、また、かの夜の、
われらの会合に常にただ一人の婦人なる
Kのしなやかなる手の指環ゆびわを忘るることあたはず。
ほつれ毛をかき上ぐるとき、
また、蝋燭のしんるとき、
そは幾度かわが眼の前に光りたり。
しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。
されど、かの夜のわれらの議論に於いては、
かのぢよは初めよりわが味方なりき。

  墓碑銘

われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今もなほ尊敬す――
かの郊外の墓地のくりの木の下に
かれをはうむりて、すでにふた月を経たれど。

に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは、
「同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論することあたはず、
されど、我には何時いつにてもつことを得る準備あり。」

「彼の眼は常に論者の怯懦けふだ叱責しつせきす。」
同志の一人はかくかれを評しき。
しかり、われもまた度度たびたびしかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者――一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、つ快活に働き、
ひまあれば同志と語り、またよく読書したり。
かれは煙草たばこも酒も用ゐざりき。

かれの真摯しんしにして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれははげしき熱にをかされて、病の床によこたはりつつ、
なほよく死にいたるまで譫話うはごとを口にせざりき。

「今日は五月一日なり、われらの日なり。」
これ、かれのわれにのこしたる最後の言葉なり。
この日のあした、われはかれの病を見舞ひ、
その日のゆふべ、かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの広きひたひと、鉄槌てつつゐのごときかひなと、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
まなこつぶれば今も猶わが前にあり。

彼の遺骸ゐがいは、一個の唯物論ゆゐぶつろん者として
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰びたる墓碑銘ぼひめいは左の如し、
「われは何時いつにても起つことを得る準備あり。」

  古びたる鞄をあけて

わが友は、古びたるかばんをあけて、
ほの暗き蝋燭らふそく火影ほかげの散らぼへる床に、
いろいろの本を取り出だしたり。
そは皆この国にて禁じられたるものなりき。
やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、
「これなり」とわが手に置くや、
静かにまた窓にりて口笛を吹き出したり。
そは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。

  げに、かの場末の

げに、かの場末の縁日の夜の
活動写真の小屋の中に、
くさきアセチレン瓦斯ガスただよへる中に、
鋭くも響きわたりし
秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。
ひょろろろと鳴りて消ゆれば、
あたりたちまち暗くなりて、
薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。
やがて、また、ひょろろと鳴れば、
れし説明者こそ、
西洋の幽霊いうれいごとき手つきして、
くどくどと何事を語り出でけれ。
我はただ涙ぐまれき。

されど、そは、三年みとせも前の記憶なり。
はてしなき議論の後の疲れたる心を抱き、
同志の中の誰彼たれかれの心弱さを憎みつつ、
ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、
ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。
――ひょろろろと、
また、ひょろろろと――

我は、ふと、涙ぐまれぬ。
げに、げに、わが心のゑてむなしきこと、
今もなほ昔のごとし。

  わが友は、今日も

我が友は、今日もまた、
マルクスの「資本論キヤプタル」の
難解になやみつつあるならむ。

わが身のまはりには、
黄色なる小さき花片はなびらが、ほろほろと、
何故なぜとはなけれど、
ほろほろと散るごときけはひあり。

もう三十にもなるといふ、
身のたけ三尺ばかりなる女の、
赤きあふぎをかざして踊るを、
見世物みせものにて見たることあり。
あれはいつのことなりけむ。

それはさうと、あの女は――
ただ一度我等の会合に出て
それきり来なくなりし――
あの女は、
今はどうしてゐるらむ。

明るき午後のものとなき静心しづごごろなさ。

  家

今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事をへて帰り来て、
夕餉ゆふげの後の茶をすすり、煙草たばこをのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひょっと心に浮び来る――
はかなくもまたかなしくも。

場所は、鉄道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさっぱりとしたひとかまへ、
高からずとも、さてはまた何の飾りのなしとても、
広き階段とバルコンと明るき書斎……
げにさなり、すわり心地のよき椅子いすも。

この幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、
思ひしごとに少しづつ変へし間取りのさまなどを
心のうちにゑがきつつ、
ランプのかさの真白きにそれとなく眼をあつむれば、
その家に住むたのしさのまざまざ見ゆる心地して、
泣く児に添乳そへぢする妻のひと間の隅のあちら向き、
そを幸ひと口もとにはかなき笑みものぼり来る。

さて、その庭は広くして草の繁るにまかせてむ。
夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に
音立てて降るこころよさ。
またその隅にひともとの大樹を植ゑて、
白塗の木の腰掛を根に置かむ――
雨降らぬ日は其処そこに出て、
かの煙く、かをりよき埃及エジプト煙草ふかしつつ、
四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の
本のページを切りかけて、
食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、
また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる
村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく……

はかなくも、またかなしくも、
いつとしもなく、若き日にわかれ来りて、
月月のくらしのことに疲れゆく、
都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
はかなくも、またかなしくも
なつかしくして、何時いつまでもつるにしきこの思ひ、
そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
はじめより空しきことと知りながら、
なほ、若き日に人知れず恋せしときの眼付して、
妻にも告げず、真白なるランプの笠を見つめつつ、
ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。

  飛行機

見よ、今日も、かの蒼空あをぞら
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。





底本:「日本文学全集 12 国木田独歩 石川啄木集」集英社
   1967(昭和42)年9月7日初版
   1972(昭和47)年9月10日9版
親本:初版本
入力:j.utiyama
校正:八巻美惠
1998年11月11日公開
2005年12月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について