その美貌の青年が
「もし、もし」
と、いって声をかける者があった。青年はどうした人だろうと思ってその方に眼をやった。そこには白髪の
「突然、こんなことを申しましてはすみませんが、私は家に病人があるものでございますが、市へ往って
青年の耳にはすぐお礼の詞がひっかかったが、どうして厭伏をして良いか解らなかった。
「厭伏ってどんなことですか」
「なんでもない、ちょいとしたことなのです、家へいらしてくださいますなら、すぐ解ります」
そんなことで病人が癒せて礼がもらえるなら、この際大いに助かると青年は思った。
「私で
「それはどうも有難うございます、どうかお願いいたします」
「
「すぐですが、車を持っておりますから」
老嫗はちょっと
「あの車ですか」
「そうでございます、どうかあれで」
老嫗がもう
「さあ、どうか」
老嫗の言うままに青年が乗ると、老嫗はその後から続いて乗りながらまず昇降口の扉を締め、それから左右の窓の扉を締めた。と、同時に車が動きだした。青年は車は
「お窮屈でしょうが、すぐでございますから」
青年と並んで腰をかけている老嫗は、微暗い箱の中に黒い若わかしい眼を見せていた。
「どういたしまして」
青年はいい気もちになっていた。車は速かった。車の響は

車は平坦な
車の足が遅くなって曲り曲りしたかと思うとぴったり停まった。
「やっとまいりました」
老嫗の初めの詞と違ったきびきびした詞が聞えた。老嫗は起って昇降口の扉を開けてまず
「さあ、どうか」
青年はどんな家だろうと思って老嫗の後からおりた。そこに花や鳥を彫刻した柱を
「さあ、いらしてください」
青年はあっけに取られていたが、老嫗の詞を聞いて吾に返った。
「ここはどこですか」
「いらしてくだされたら、すぐお解りになります」
「そうですか」
「では、いらしてください、まいりましょう」
青年は老嫗に魂を掴まれたように老嫗に随いて歩いた。下には
「ここは、ここは、どこでしょうか」
老嫗は青年の詞を押えつけるように言った。
「ここへ来たからには、もう何も言わないが良い、ここは人間のくる処ではありません」
人間のくる処でないというなら仙界であろう。青年の心は震えた。そこには若い女が集まっていた。老嫗はその女達の方に向って言った。
「旦那様がいらしたのに、仙妃は何故お早くお出ましにならないでしょう」
心の震えている青年の耳には、それが何のことか解らなかった。と、間もなく
「あの方が仙妃であらせられる、そそうのないように」
青年はそれを聞くとそのままそこへべったりと這いつくばってしまった。
「は」
青年の前に来た仙妃は笑って青年を見おろした。
「お
青年は
「お前は仙縁があるから、ここへくることができた、お前を幸せにしてあげるから懼れることはない」
青年は夢の中の人のような気になって起ちあがった。仙妃は青年の手を握ったままで歩きだした。若い女達は二人を中にして歩いた。
一行はすぐ近くの
「お前は人間界で何をしてる」
仙妃の片手は青年の肩にかかっていた。青年は
「私は
「名は何という」
「――といいます」
「年は幾歳」
「――でございます」
「両親があるか」
「――――」
「毎日、どんなことをしてる、面白いことがあるか」
「貧乏で、食物のことに困っておりますから、面白いことはございません」
「食物に何故困る、何でも食べる物があるではないか」
「それが貧乏人でございますから」
「それでは、私が困らないようにしてあげよう、お前には家内があるか」
「家内もございません、貧乏でございますから、持つことが
「それは可哀そうである」
「は」
「これから、もう何も困ることはない、私が幸せにしてあげる」
「有難うございます」
「そんなに、
仙妃は青年の肩にかけていた手にねっとりと力を籠めた。青年は初めて仙妃の顔を見た。色の青黒い眼尻の切れあがった、きりりとした男のような眼をした仙妃の顔は青年の心を軽くした。
窓の真珠の簾を照らしていた陽の光が薄れて、銀燭が青い焔を吐きだしたところで、青年と仙妃の前には
侍女達は仙妃と青年に酒を注いだ。青年は不安がないでもなかったが、仙妃の態度が未だ
「
仙妃は青年の顔を楽しむようにして見ていた。
「は」
朝夕の食料に不足していた小吏の心は、仙妃よりも山海の珍味の方に往っていた。
「これをおあがり」
仙妃は青年に肴を取ってやることがあった。
「は」
青年は象牙の箸と玉の盃をおかなかった。仙妃も酒を飲んで
そのうちに青年は酒にも肴にも飽いてきた。仙妃の手はまた青年の手にかかっていた。
「お前、もう飽いたならあっちへ往こう」
「は」
青年が起つと仙妃も起って、そのまま青年を
「私はお前と宿縁があったから、お前を
小吏不敢辞、遂侍仙妃枕席。とろとろと燃える燈の光は仙妃の左か右かの
朝になると仙妃は、
「お前をいつまでもここにおきたいが、そんなことをしては、天の咎めがある」
と、言って傍の箱から衣裳を取り出してそれを青年の前において、
「これを
青年は仙宮を出てまた元の貧しい盗尉部の小吏になるのが厭であったが、そのままいることもできないのでその衣裳をもらって帰ることにすると、仙妃はかの老嫗を呼んで言いつけた。
「この方をお送りするが良い」
そこで老嫗はもじもじしている青年を伴れて外へ出、昨日の処へ往くともう前日と同じような車が待っていた。
「さあ、お乗りください」
青年が乗ると老嫗は続いて乗りながら、前日と同じように昇降口の扉も窓の扉も締めてしまった。同時に車は走りだした。そして、前日のように
「さあ、帰りました」
老嫗は昇降口の扉を開けて青年が降りられるように体を片寄せた。青年は車を離れるのが残り惜しいような気がしたが、降りないわけにゆかないのでそのまま降りた。仙妃からもらった衣裳をしっかり持って。
そこは前日車に乗った処であった。青年がぼんやりと前日のことを頭に浮べたところで、車は飛ぶようにむこうの方へ往ってしまった。
青年は仙妃のことが忘れられないので、その翌日から仙妃にもらった衣裳を身に着けて歩いた。それは普通の民家でこしらえる
「この衣裳は仙妃からもらいました」
青年は老嫗に伴れて往かれて仙妃に逢い、仙妃と
「その仙妃というのは、どんな女であったのか、美しい女であったか」
「あまり美しい女ではありません、背の低い肌の青黒い女でありました」
「他にどこか、これという
その時青年は仙妃の眉尻に小さな疵痕のあったことを思いだした。
「右か左かの眉尻に小さな疵痕がありました」
それを聞くと問官はふふふと笑った。そして、
「よし、よし、解った、確かにそれは仙妃じゃ、仙妃にもらったものじゃ、
と、言って青年を
これは晋の賈后の逸話で、この話は早くから日本で翻案せられて吉田御殿類似の話になっている。谷崎潤一郎君の小説の中にもこの話をむしかえしたものがある。