唐の開元年中、
夜霧がひきちぎって投げられたように、ほの白くそこここに流れていた。車の
路は小さな峰の上へ往った。路の上へ出ると元振はちょっと馬を控えた。黒い山の背がやはり
「人家だ」
元振は眼を輝かした。人家ならどうにでも頼んで、一晩泊めて貰おうと思った。
馬は勾配の緩い路を静かにおりはじめた。今のさきまで人家のある処まで往こうと思って、それがために気を張っていた少年は、人家を見つけると共に疲労を覚えてきた。彼は早くその家に往き着こうと思って馬を急がした。
支那の里程で三里ばかり往ったところで、
元振は馬からおりて、それを門口の立木に繋いで門を入った。家の中はしんとして何の音も聞えなかった。元振は入口の戸を静に叩いた。
「もし、もし、お願いいたします」
元振は声をかけてまた戸を叩いたが、依然として応がないので、彼は中へ入って声をかけるつもりで戸に手をかけてみた。戸はがたがたと
「もし、もし、すこしお願いいたしたいのですが」
元振は大声をした。それでも応もなければ人の出てきそうな気配もない。元振は首を
「
元振はまた言って暫く立っていたが、依然として応がなかった。元振はいつまでも立っている訳にゆかないので、思いきって上へあがった。
力のない声で泣いている泣声が聞えた。元振はちょっと立ちどまって耳を傾げたが、中へ入って
「もし、もし、すこしお願いいたします、私は旅の者ですが」
元振がこう言ったが、聞えないのか女は顔をあげなかった。元振は女を驚かしては気の毒だと思ったが、思い切って中へ入った。
女は顔をあげた。顔をあげて元振の方を一目見ると、さも怖ろしそうに顔に袖をあてて体を震わした。
「私は郭元振という者です、宿をとり損ねて日が暮れましたから、是非お宿を拝借しようと思って、門口から声をかけましたけれども、
女は顔の袖を
「お見かけすると、隣の室に酒宴の準備をしてあるようですが、全体どういう事情で、貴女は泣いていらっしゃるのです」
「私は今晩、神様の
元振は驚いた。
「人身御供、何という神の人身御供になります」
「この村に、
「村の者は皆どうした」
「私をここへ置いてから、皆逃げて帰りました、どうぞ私を助けてくださいませ」
元振は腰の剣に心を向けた。
「よし、助けてやろう、どんな神か知らないが、人身御供を求めるような神は邪神だ、助けられなかったら、いっしょに死のう」
「どうか、助けてくださいませ」
「その邪神は、いつくる」
「
「では、運を天にまかして、邪神を待とう、心配しないで、ここに待っていなさるがいい」
元振は次の室へ往って料理の卓に向い、思うさまに
夜半近くなって元振は入口の戸を開けて外の方を見た。二三本の
「
紫の衣服は外へ出て往った。引き違えて黄色な衣服を着た者が入ってきた。
「相公がいらっしゃる」
黄色な衣服を着た者もそう言って出て往った。元振は相公と言えば大臣宰相だ、俺が
扉がまた開いて十人ぐらいの者が入ってきた。冠を着けた逞しい者がその中に交っていた。元振はそれが邪神の烏将軍だろうと思った。邪神らしい者は元振を見た。
「相公は、何故、ここにいらっしゃいます」
「今晩は、目出度い婚礼の酒宴があるということを路で聞いたから来た」
邪神は喜んだ。
「これはありがたい、では、席に着いて貰おう」
邪神の一行が酒宴の席へ入ったので元振は後から随いて往った。邪神は
「貴郎は、鹿の
「鹿の肉は好きだが、この辺は鹿があまりいないから、
元振は腰に付けていた
「これは、鹿の脯でございます」
元振は剣を抜いてその脯を一きれ切って左の手でさしだした。邪神は喜んで片手を出した。脯を載せた元振の手は邪神の手首に
切り取った邪神の手は毛の荒い
朝、元振と女が話していると村の人が来た。村の人は女の死骸を収めにきたところであった。村の人は無事な女と元振を見て驚いた。その村の人の眼に野猪の片腕が見えた。
「村の鎮守様だ、神様の手を切るとは
村の人は口ぐちに怒りだした。
「人身御供をとるような神は邪神だ、天地に
村の人も元振の道理ある
大きな塚穴があって前足の一方を切られた野猪が唸っていた。村の人は塚穴の口で火を
元振は助けた女を伴れて出発した。その元振は後に唐の宰相となった。