不意に陽がかげって頭の上へ
南は新しい
雨はもうぼろぼろ落ちてきた。こうした雨は何処かですこし休んでおれば通り過ぎる。何処か休む処はないかと思って眼をやった。其処は小さな聚落で家の
雨は
「これは南の
それは時おり途中で見かける顔であったが、無論名も知らなければ口を
「すこし雨をやまさしてください」
「どうか、お入りくださいませ、いけませんお天気でございます」
南は主人の後から
「ちょっと掃除をいたします」
主人は急いで
「どうか、かまわないでください、すぐ失礼しますから」
「どうかごゆっくりなすってくださいませ、こんな
主人は次の室へ往って茶を持ってきた。陋いので坐るのを躊躇していた南も坐らない訳にゆかなかった。
「では、失礼します」と言って坐った南は、主人の名が知りたくなったので、「厄介になって、名を知らなくちゃいけないが、あなたの名は、何というのです」
「わたくしでございますか、わたくしは、
主人の廷章はまた次の室へ往ったが、其処で何を
「お口にあいますまいが、お一つ」
廷章に杯をさされて南はどぎまぎした。
「これは、どうも」
肴には鶏の雛を煮てあった。
「どうか、お肴を」
南は気が
「これは結構だ」
南は廷章の隙を見てまた次の室の入口の方を見た。其処には此方を
そのうちに雨が止んで
翌日になって南は、
南は少女を忘れることができなかった。その翌翌日、南は酒と肴を持ってまた廷章の家へ往った。廷章は南のそうするのは賤しい身分の者にも隔てをおかない有徳な人となりの致すところだと思って酷く感激した。
「どうか一度
廷章はかの少女を伴れてきた。少女は父親の
南はこうして紹介せられておれば、手に入れることはぞうさもないと思った。南が口を利こうとしたところで、少女は
廷章の家は廷章と少女の二人
南は
三月位して南はまた廷章の家へ往った。少女は何か用ありそうに二人の話している室へ入ってきた。南はもう廷章に遠慮しなくてもいいので、眼に笑いを見せて睨む真似をした。少女は両手を顔へぴたりと当てて、小鳥のように走って表入口の方へ出て往った。
「これ、お客様に御挨拶をしないのか」
廷章は南を見て笑った。南は一時間位の後、次の室の入口に此方を
「いらっしゃい」
「いやよ」
少女はそのままひらひらと
「いやよ、放してよ」
「なぜ、そんなに僕を嫌うのです」
「でも、いやよ、放してよ」
「まあ、じっとしていらっしゃい、いいじゃないの」
「だめよ、わたし、こんな百姓でも、ちゃんとお嫁に往かなくちゃならないのですもの、そんなみだらなことはいやよ」
南は口実が見つかった。
「僕は、あなたを
「ほんとう」
「ほんとうですとも」
「きっと」
「きっとですとも」
「じゃ、
「盟いますとも」
窓の外には晴れた空が覗いていた。南はそれに指をやった。
「あの、天に盟います」
少女は南の指をやった方を見た。
「きっと盟う」
「盟いますとも」
南はそう言って少女を抱きしめるようにした。
南はその日から廷章の留守に廷章の家へ往くようになった。
「いつまでも、こんなことをしてるのはいやよ、どうか、お父さんに話して、正式に結婚してよ」
南は賤しい農民の女と結婚するのは困ると思ったが、女の
晋陽の
「あなたは、あのお嬢さんと結婚なされては如何です」
その女の美しいということは南も聞いていた。
「そうですね」
「彼処の旦那様が、あなたのことをほめていらっしゃいますから、あなたが結婚なさる腹なら、すぐ
「そうですね」
「お嬢さんは美しいかたですし、お金はどっさりありますし」
なるほどその大家には巨万の富があった。南の心は動いた。
「それじゃ、纏めてもらいましょうか」
媒婆が帰った後で南はまた廷章の家へ往った。
女は南に云った。
「早く結婚してよ、わたし体の具合がすこしへんよ」
女は妊娠していたのであった。南はその日かぎり女の
南に棄てられた女は一人で苦しんでいた。女の体の異状は外見にも解るようになった。廷章は驚いて女をせめた。女は南との関係を話した。廷章はやや安心して人を南の許へやって女を引き取らそうとした。南は
女はその夜家を出て児を探しに往った。児は星の下で仔犬のうなるような声をして泣いていた。女は児を抱いて南の家へ往った。
「どうか旦那に逢わしてください」
朝になって南は門口へ出た。門口には児をひしと抱いた女が、その児と二人で冷たくなっていた。
廷章は女のいないのに気が注いて、驚いて室の中から家の周囲を探したが、何処にもその姿は見えなかった。廷章は自分のしうちがあまり残酷であったと思って後悔すると共に、女に万一のことがあってはならないと思って、はらはらしながら家を出て探しに往った。
それはもう
児を棄てた場処には児はいなかった。何か児の身に変ったことがあったのではないかと思って注意したが、べつに変ったこともないので、
廷章の足はいつの間にか晋陽の城市の方へ向いていた。晋陽の城門はとうに開いていた。城門を出入する人びとの頭の上を低く燕が飜っていた。廷章は城門を入って往った。其処は晋陽の
廷章はその人群の中へ往った。其処には児を抱いた若い女が児と
「ええそれは、南三復の
吏の一人はそれを遮った。
「なにを申す、めったなことを申してはならんぞ、この女と児は、その方の
「これは、わたくしの女でございます、南三復と関係してこの児を生みました、二人は南三復に殺されました」
吏はまた叱った。
「これ、そんなことをもうしてはならんというに、南は有名な世家だ、そんなことをする人柄じゃない」
「いや、南でございます、南三復はわたくしの家へ来て、わたくしの眼を窃んで、わたくしの女をだまして、児を生ませました、村の衆も知っております」
「それでは、府廨へこい、府廨で検べる」
吏は女と児の死体を
南はすずしい顔をして外出ができるようになった。その南の許へかの媒婆が来た。
「へんなことを聞いたものでございますから、心配しておりましたが、何もなくて結構でございました」
「いや、あんな奴にかかりあっちゃかなわないね、そこいらあたりの若い奴と、いたずらしたのを、僕が時おり往ったものだから、僕になすりつけて、ものにしようとしたものだよ、いくらなんだってあんな土百姓の女なんかに、手出しなんかするものかね」
「そうでございますとも、先方の旦那が、厭な噂があるが、ほんとかと仰しゃるものですから、わたしもそう言ったのですよ、なんぼなんだって、世家の旦那が、あんな汚い土百姓の女なんかに、手出しなんかするものですかって、ほんとに災難でございましたね」
「とんだ災難さ、いつか別荘へ往ってて、帰りに雨に逢ったものだから、雨をやまそうと思って往ってみると、酒なんか出すものだから、感心な百姓だと思って、別荘の往復に、時どき寄って、ものをくれてやったりなんかしたが、先方は初めから女を
「そうでございますよ、これというのも、奥様を早くお定めにならないからでございますよ」
「そうかも知れないね」
「そうでございますよ、だから、わたしも早く、あれを纏めようとしてるのですよ、旦那の方には、確かに異存はございますまい」
南は早く結婚して悪評を消したかった。
「ないさ、纏まりそうかね」
「こんなことがなかったら、とうに纏まっておりますよ、いつもわたしが申しますように、先方ではあなたのことをほめていらっしゃいますし、お嬢様もすすんでおりますから」
その夜のことであった。南と女を結婚させてもいいと思っている大家の主人は、自分の室で
「お前は何人だ」
女は首を垂れているので顔は見えなかった。
「賤しいものでございますから、名を申しあげてもお解りになりますまい」
「なにしに来た」
「
主人は驚いて逃げようとした。主人は卓に
「旦那様、南さんに昨日逢ってまいりましたが、やっぱりわたしが申したとおり、南さんは百姓のわなにかかったものでございますよ、いつか別荘の帰りに雨に逢って、雨宿りに往って酒を出されたものですから、感心な百姓だと思って、ものを持っててやったりなんかしたものですから、先方はものにしようとして、あんなことになったのですって」
「そうかね」
主人はふと、怪しい夢のことを思いだした。
「確かに、南さんが手を出したものじゃないかね」
媒婆は笑った。
「そんなことがあってたまるものですか、あんな世家の旦那が、何の
主人はその人柄より南の家の金に心が往っていた。金があれば面倒を見てやらなくてもいい、それに女も幸福である。
「では、定めようか」
話は纏まったが、南は
晋陽屈指の大家を親に持った、新人の
「どうしたの、淋しいの」
南は抱いて頬ずりしてやりたいように思った。
新人の顔はますます悲しそうになって涙が後から後から湧いた。
「お母さんが、こいしいの」
南は新人の気を換えようとした。新人はとうとう顔に手を当てた。
「どうしたの」
南はその肩に手をかけた。
「どうもしないのですの」
新人は
南はその夜、
三四日してのことであった。南は
「なぜ、そんなにする、何人かに逢いたいのじゃない」
「そ、そ、そんな、ことが」
新人は酷く惶てたようにした。それは秘密を見知られた時にでもするような惶て方であった。南はてっきりそうだと思った。
「…………」
南がまた何か言いかけたところで、室の外で声がした。
「お客様でございます」
それは南の家に久しくいる
「これは、お父様ですか」
「なにね、これが来てから夢見が悪いものだから、心配になってね、べつに変ったこともないようだね」と言って、南にやっていた眼を女に移した父親は、眼をった。「こりゃ、家の女じゃない、家の女は何処へ往ったのだ」
南は驚いて新人の方を見た。新人は正面に南の方を見ていた。それは今まで見ていた悲しそうな新人の顔でなくて、輪廓の整った廷章の女の顔であった。南は頭ががんとなって気を失った。同時に怪しい新人は朽木を倒すようにどたりと床の上に倒れた。
「大変です、大変です、奥様が大変です」
新人の父親が締めかけにしてあった室の扉を蹴開くようにして入ってきた者があった。それは新人に随ってきている
「奥様が、ど、どうした」
「奥様が桃の樹で大変です」
新人の父親はいきなり駈けだした。
婢はその後から随って往った。
南は喚びさまされてやっと正気づいた。南は起きあがりながら見のこした夢の跡を追うように前を見た。其処には廷章の女の冷やかな死体が横たわっていた。南は恐ろしいので外へ逃げだした。
「旦那様、奥様が大変でございますよ」
南の傍には媼がいた。媼の頭には新人の凶変のみが映っていた。媼は南を引きずるようにして後園へ往った。
後園の桃園では女の死体をおろした岳父が狂気のようになって、婢のはこんできた薬湯を口や鼻から注ぎ込んでいた。
「
岳父は薬湯の器をほうりだして叫んだ。岳父は女の蘇生しないのはもうその魂が野に迷いでたがためであると思った。婢は近くの
混惑の裡にあやつり人形のようになっていた南は、要人に注意せられて心をひきしめなくてはならなかった。要人は父親の代からいる老人であった。要人は怪しい死体の始末に困っていた。
「旦那、あのへんな死骸ですが、どうしたものでしょう」
「そうだな」
南にもどうしていいか解らなかった。
「ぜんたい、どうした死骸でしょう」
「ありゃ、どうも、あの廷章の女の死骸だよ」
「そうですか」と言って要人は、何か考え込んだが、「悪い奴があって、奥様を殺しておいて、あんな死骸を持ち込んできたかも解らないですが、これが表沙汰になると、どんな
南も表沙汰にして自分の罪悪が現れるようなことがあっては困ると思った。
「そうだ、それがいい」
要人は怪しい死体を持って廷章の家へ往った。廷章は半ば疑いながら土地の習慣に従って浅く土をかけて葬ってある女の棺を開けてみた。棺の中には嬰児の死体ばかりあって女の死体はなかった。踏みにじられてその
事件はそのままになってもその噂がぱっと拡がったので南が結婚しようと思っても女をくれる者がなかった。南はとても家の近くではいけないと思ったので遠くの方を物色した。そして二三年の後にやっと
その比晋陽の付近に何人いうとなく一つの噂が伝わってきた。それは良家の女を選んで後宮へ入れるという噂であった。
その時南の家へ二梃の
「
後の輿から年とった女の声がした。
「わたくしは曹からまいりました、旦那様にお取りつぎくださいまし」
者は曹からと聞いていそいで南の処へ往って取りついだ。南は曹から何の用事で来たろうと思って出て往った。門口には輿から降りたばかりの十五六の背のすらりとした少女と老婆が立っていた。
「これは南の旦那様でございますか、わたくしは曹からまいりましたものでございます、あなた様もお聞きになっていられるだろうと思いますが、
南も
「それは、どうも、遠い処を大変でした」と言ったが、いくら
「後からまいります、それにこんな場合でございますから、充分には調いませんでしたが、それでもすこし
ぐずぐずしていて邪魔が入ってはならないと、輿を急がしてきたので従者も奩妝も後になったものであろう、南は老婆の心地に対して何か報いなければならないと思った。
「そうでしたか、それは大変でした、さあどうか」
南は早く女を室の中に入れたかった。女は恥かしそうに俯向いていた。
「それでは、お嬢様をお願い申します、わたくしは、これから帰って、無事にお嬢様をお送り申したということを申しあげないと、旦那様と奥様が、御心配なされておりますから」と言って、女の方に向いて、「では、わたくしは、これから帰りますから、お大事に」
南はいくらなんでも遠い路を来ているから、ちょっと休んで往ってはどうだろうと思った。
「お茶でも飲んで往ったら、どうですか」
「ぐずぐずしておりましては、帰りが
老婆はそう言ってから一方の輿に乗って帰って往った。南は急いで女の傍へ往った。
「さあ、室へ往こうね」
女は俯向いたなりに何か言って頷いた。南はそこで前に立って閨房の方へ往った。女はひらひらと随いてきた。
南は女と向きあって坐った。女はやはり俯向いていた。南は早く女のはにかみを
「お母様のおっぱいが飲みたくはないの」
女は小声で笑った。
「お人形を持ってお嫁に往った人があるというが、あなたじゃない」
女はまた小声で笑った。
「遠い処を来たから、
女はその時顔をあげた。白い面長な
(何人だろう)
南は心に問いながら見なおした。見なおして南ははっと思った。それは女の眼の周囲に廷章の女に似た処があったがためであった。南を包んでいたふっくらとした心地は消えてしまった。
女は起って
南は傍に腰をかけていた。南は
「旦那、ちょっといらしてください」
南は要人に声をかけられて夢が覚めたようになって外へ出た。要人は小声で囁くように言った。
「旦那、曹の方の人はこないじゃありませんか、どうしたというのでしょうね」
そう言われてみると従者も奩妝もあまり着くのが遅いのであった。
「どうしたのだろう」
「途でまちがいでもあったのでしょうか」
「そうだなあ、あの女が来たのは、午であったから、もう
「奥様に伺ってみたら、どうでございます」
「そうだな、あの女も疲労れたとみえて眠ってるが、起して聞いてみてもいい、まちがいがあるといけないから」
「そうでございますよ、この節は物騒ですから」
「そうだ、じゃ起して聞いてみよう、お前もくるがいい」
南は要人を伴れて中へ入ったが、
「まだ睡いの、よく眠るじゃないか」
女はぐっすり眠っているのか眼を覚さなかった。
「大変疲労れたとみえるね、よく眠るじゃないか」南はそう言い言い
女の感触は冷たかった。それに動きもしなかった。南は不思議に思って被をそっと除った。女は冷たくなっていた。南はのけぞって倒れた。
要人は南を介抱すると共に使いを曹へやった。曹では女を送って往ったことはないといって使いを帰してきた。南の家ではまた怪しい死体の処置に困った。
その時
「怪しい死体を見せてもらいたい」
南も厭とは言えなかった。南は孝廉を案内して死体を置いてある室へ往った。孝廉は死体を一眼見て叫んだ。
「嬢だ、嬢だ、家の嬢だ、嬢の死体を盗んだ者は、此処の悪党だ、ふん縛れ」
従者は南を取って押えて縄をかけた。孝廉はそれを府庁に送った。府庁でも南の家の再三の怪事を見て、南の悪行の報いであるとし、