竇氏

田中貢太郎




 不意に陽がかげって頭の上へおおいをせられたような気がするので、なんふくっているろばから落ちないように注意しながら空を見た。空には灰汁あくをぶちまけたような雲がひろがって、それを地にして真黒な龍のような、また見ようによっては大蝙蝠おおこうもりのような雲がその中に飛び立つように動いていた。そのころの日和癖ひよりくせになっている驟雨とおりあめがまた来そうであった。
 南は新しい長裾ざんさいを濡らしては困ると思った。南は鞭の代りに持っている羅宇らうの長い煙管きせるを驢に加えた。其処は晋陽しんようの郊外であった。晋陽の世家きゅうかとして知られているこの佻脱こざいしの青年は、そのころ妻君を歿くして独身の自由なうえに、金にもことを欠かないところから、毎日のように郊外にある別荘へ往来して、放縦な生活を楽しんでいた。
 雨はもうぼろぼろ落ちてきた。こうした雨は何処かですこし休んでおれば通り過ぎる。何処か休む処はないかと思って眼をやった。其処は小さな聚落で家の周囲まわりにれの樹を植えた泥壁の農家が並んでいた。南は其処に庭のちょいと広い一軒の家を見つけた。自分でもその聚落のことを知っており、また聚落の者で自分の家を知らない者はないと思っている南はすこしも気を置くことなしにその門の中へ入って、驢から飛びおりるなり、それを傍の楡の樹に繋いでとかとか簷下のきしたへ往った。
 雨は飛沫しぶきを立てて降ってきた。南はその飛沫を避けて一方の手で長裾にかかった涓滴しずくをはたいた。南の姿を見つけて其処の主人が顔をだした。
「これは南の旦那だんなでございますか」
 それは時おり途中で見かける顔であったが、無論名も知らなければ口をいたこともない農民であった。
「すこし雨をやまさしてください」
「どうか、お入りくださいませ、いけませんお天気でございます」
 南は主人の後からへやの中へ入った。其処はますのような狭い室であった。
「ちょっと掃除をいたします」
 主人は急いでほうきを持って室の中を掃いた。南は主人が自分を尊敬してくれるので悪い心地きもちはしなかった。
「どうか、かまわないでください、すぐ失礼しますから」
「どうかごゆっくりなすってくださいませ、こんなきたない処でございますが」
 主人は次の室へ往って茶を持ってきた。陋いので坐るのを躊躇していた南も坐らない訳にゆかなかった。
「では、失礼します」と言って坐った南は、主人の名が知りたくなったので、「厄介になって、名を知らなくちゃいけないが、あなたの名は、何というのです」
「わたくしでございますか、わたくしは、廷章ていしょうと申します、姓はとうでございます」
 主人の廷章はまた次の室へ往ったが、其処で何をはじめたのかことことという音がしだした。その物音に交って人声も細ぼそと聞えてきたが、窓の外の雨脚に注意を向けている南の耳には入らなかった。その南の雨に注意を向けている眼に酒と肴を運んできた廷章の姿がふいと映った。自分を尊敬していることは知っていても酒まで出すとは思わなかった南は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。南の眼はそれから廷章の入ってきた次の室の入口の方へ往った。入口には料理を手伝っていたらしい少女が縦半身を見せていた。それは粗末な服装なりはしているが、十五六の顔の輪廓のととのった美しいむすめであった。南はその顔を見のがさなかった。
「お口にあいますまいが、お一つ」
 廷章に杯をさされて南はどぎまぎした。城市みやこの世家の来訪を家の面目として歓待している愚直な農民には、南のそうしたたわけた態度などは眼に入らなかった。
「これは、どうも」
 肴には鶏の雛を煮てあった。
「どうか、お肴を」
 南は気がいて箸を持ったが、肴の味もその肴が何であるかということも解らなかった。
「これは結構だ」
 南は廷章の隙を見てまた次の室の入口の方を見た。其処には此方をぬすみ見するようにしている少女の眼があった。少女はあわてて往ってしまった。南は廷章に覚られないように杯を持って、再び現れてくる少女の顔を待っていたが、それっきり少女は顔を出さなかった。
 そのうちに雨が止んで微陽うすびが射した。雨の止んだのにいつまでもいるわけにいかなかった。南は詮方しかたなしに帰ってきた。
 翌日になって南は、たべものたんものを持って廷章の家へ往った。南はそうして少女の顔を待っていたが少女は出てこなかった。南は失望して帰ってきた。
 南は少女を忘れることができなかった。その翌翌日、南は酒と肴を持ってまた廷章の家へ往った。廷章は南のそうするのは賤しい身分の者にも隔てをおかない有徳な人となりの致すところだと思って酷く感激した。
「どうか一度こどもに逢ってやってくださいませ」
 廷章はかの少女を伴れてきた。少女は父親の背後うしろに顔をふせていた。
 南はこうして紹介せられておれば、手に入れることはぞうさもないと思った。南が口を利こうとしたところで、少女はあかくなっている顔をちらと見せておじぎするなり逃げるように出て往った。
 廷章の家は廷章と少女の二人生活ぐらしであった。南はまた少女の顔を待っていた。間もなく少女の顔は次の室の入口に見えた。南は眼で笑ってみせた。少女は顔をそむけて一方の耳環の碧い玉を見せた。南はその碧い玉に少女の心の動きを見た。
 南はよろこんだ。南はその後でも一度少女の赧くなっている横顔を見たが口を利くまでに至らなかった。
 三月位して南はまた廷章の家へ往った。少女は何か用ありそうに二人の話している室へ入ってきた。南はもう廷章に遠慮しなくてもいいので、眼に笑いを見せて睨む真似をした。少女は両手を顔へぴたりと当てて、小鳥のように走って表入口の方へ出て往った。
「これ、お客様に御挨拶をしないのか」
 廷章は南を見て笑った。南は一時間位の後、次の室の入口に此方を正面まともに見て笑いを見せている少女の顔を見た。
「いらっしゃい」
「いやよ」
 少女はそのままひらひらとかくれて往った。期待していたものが急に近づいたのであった。南は三日おき四日おきに廷章の家へ往って、ますます少女に接近した。
 某日あるひ、その日は酒と肴を持って廷章の家へ往ったところで、廷章は野良へ往って留守であった。南は一人で酒を飲みながら機会を待っていた。少女は傍へ来た。南はいきなりその肩に手をかけて引き寄せた。
「いやよ、放してよ」
「なぜ、そんなに僕を嫌うのです」
「でも、いやよ、放してよ」
「まあ、じっとしていらっしゃい、いいじゃないの」
「だめよ、わたし、こんな百姓でも、ちゃんとお嫁に往かなくちゃならないのですもの、そんなみだらなことはいやよ」
 南は口実が見つかった。
「僕は、あなたをもてあそぶつもりじゃないのです、あなたはお父さんから聞いてるかも解らないが、僕は家内がないのです、僕はあなたに結婚してもらいたいのです」
「ほんとう」
「ほんとうですとも」
「きっと」
「きっとですとも」
「じゃ、ちかってくれて」
「盟いますとも」
 窓の外には晴れた空が覗いていた。南はそれに指をやった。
「あの、天に盟います」
 少女は南の指をやった方を見た。
「きっと盟う」
「盟いますとも」
 南はそう言って少女を抱きしめるようにした。
 南はその日から廷章の留守に廷章の家へ往くようになった。某日あるひむすめは南の耳に囁いた。
「いつまでも、こんなことをしてるのはいやよ、どうか、お父さんに話して、正式に結婚してよ」
 南は賤しい農民の女と結婚するのは困ると思ったが、女の心地きもちこわばらしては面白くないので、頷いて見せた。

 晋陽のある大家へ出入している媒婆ばいばがあって、それが某日南の家へきた。
「あなたは、あのお嬢さんと結婚なされては如何です」
 その女の美しいということは南も聞いていた。
「そうですね」
「彼処の旦那様が、あなたのことをほめていらっしゃいますから、あなたが結婚なさる腹なら、すぐまとまりますが」
「そうですね」
「お嬢さんは美しいかたですし、お金はどっさりありますし」
 なるほどその大家には巨万の富があった。南の心は動いた。
「それじゃ、纏めてもらいましょうか」
 媒婆が帰った後で南はまた廷章の家へ往った。
 女は南に云った。
「早く結婚してよ、わたし体の具合がすこしへんよ」
 女は妊娠していたのであった。南はその日かぎり女のもとへ往かないようになった。
 南に棄てられた女は一人で苦しんでいた。女の体の異状は外見にも解るようになった。廷章は驚いて女をせめた。女は南との関係を話した。廷章はやや安心して人を南の許へやって女を引き取らそうとした。南はことばを左右にしてしっかりした返事をしなかった。そのうちに女は分娩した。廷章はどうしても女と児を引き取らそうとしたが、南は依然として詞を曖昧にして応じなかった。廷章は怒って児を棄てた。
 女はその夜家を出て児を探しに往った。児は星の下で仔犬のうなるような声をして泣いていた。女は児を抱いて南の家へ往った。
「どうか旦那に逢わしてください」
 ※(「門<昏」、第3水準1-93-52)もんばんは児を抱いた若い女の来たことを取りついだ。南は逢わなかった。南はその夜門の外で女と児の啼く声を徹宵よっぴて聞いたが、黎明よあけごろからぱったり聞えなくなった。
 朝になって南は門口へ出た。門口には児をひしと抱いた女が、その児と二人で冷たくなっていた。

 廷章は女のいないのに気が注いて、驚いて室の中から家の周囲を探したが、何処にもその姿は見えなかった。廷章は自分のしうちがあまり残酷であったと思って後悔すると共に、女に万一のことがあってはならないと思って、はらはらしながら家を出て探しに往った。
 それはもうよあけであった。歩いているうちに女はもしかすると棄てた児に心をかれて探しに往ったのではあるまいかと思いだした。廷章は村はずれの児を棄てた場処へ足を向けた。
 児を棄てた場処には児はいなかった。何か児の身に変ったことがあったのではないかと思って注意したが、べつに変ったこともないので、何人だれか慈悲深い人に拾われて往ったのか、それとも女が伴れて往ったのかと思った。女が伴れて往ったとしたら何処へ伴れて往ったろう。
 廷章の足はいつの間にか晋陽の城市の方へ向いていた。晋陽の城門はとうに開いていた。城門を出入する人びとの頭の上を低く燕が飜っていた。廷章は城門を入って往った。其処は晋陽の大街おおどおりで金色の招牌かんばんを掲げた商店が両側に並んでいた。廷章はその大街を暫く往って右に折れ曲った。其処に南三復の家があって数多たくさんの人が朝陽を浴びてその前に集まっていた。
 廷章はその人群の中へ往った。其処には児を抱いた若い女が児と同時いっしょに死んでいるのを、晋陽の府廨やくしょから来たやくにん検案けんあんしているところであった。廷章は狂気きちがいのようになって叫んだ。
「ええそれは、南三復の羅刹おにに殺されました、南三復が殺しました」
 吏の一人はそれを遮った。
「なにを申す、めったなことを申してはならんぞ、この女と児は、その方の知己しりあいか」
「これは、わたくしの女でございます、南三復と関係してこの児を生みました、二人は南三復に殺されました」
 吏はまた叱った。
「これ、そんなことをもうしてはならんというに、南は有名な世家だ、そんなことをする人柄じゃない」
「いや、南でございます、南三復はわたくしの家へ来て、わたくしの眼を窃んで、わたくしの女をだまして、児を生ませました、村の衆も知っております」
「それでは、府廨へこい、府廨で検べる」
 吏は女と児の死体をかつがせ、廷章を伴れて引きあげて往ったが、廷章の詞は理路整然としていて誣告じょうだんでもないようであるから、南を呼びだすことにしてつうちを南の家へだした。南は恐れて晋陽の令をはじめ要路の吏に賄賂を用いたので、断獄さいばんはうやむやになって南はそのままになり、廷章は女と児の死体をさげわたされて事件は落着した。
 南はすずしい顔をして外出ができるようになった。その南の許へかの媒婆が来た。
「へんなことを聞いたものでございますから、心配しておりましたが、何もなくて結構でございました」
「いや、あんな奴にかかりあっちゃかなわないね、そこいらあたりの若い奴と、いたずらしたのを、僕が時おり往ったものだから、僕になすりつけて、ものにしようとしたものだよ、いくらなんだってあんな土百姓の女なんかに、手出しなんかするものかね」
「そうでございますとも、先方の旦那が、厭な噂があるが、ほんとかと仰しゃるものですから、わたしもそう言ったのですよ、なんぼなんだって、世家の旦那が、あんな汚い土百姓の女なんかに、手出しなんかするものですかって、ほんとに災難でございましたね」
「とんだ災難さ、いつか別荘へ往ってて、帰りに雨に逢ったものだから、雨をやまそうと思って往ってみると、酒なんか出すものだから、感心な百姓だと思って、別荘の往復に、時どき寄って、ものをくれてやったりなんかしたが、先方は初めから女を媒鳥おとりにして、ものにするつもりでかかってたものだよ、酷い目に逢ったよ」
「そうでございますよ、これというのも、奥様を早くお定めにならないからでございますよ」
「そうかも知れないね」
「そうでございますよ、だから、わたしも早く、あれを纏めようとしてるのですよ、旦那の方には、確かに異存はございますまい」
 南は早く結婚して悪評を消したかった。
「ないさ、纏まりそうかね」
「こんなことがなかったら、とうに纏まっておりますよ、いつもわたしが申しますように、先方ではあなたのことをほめていらっしゃいますし、お嬢様もすすんでおりますから」
 その夜のことであった。南と女を結婚させてもいいと思っている大家の主人は、自分の室で簿書ちょうめんを開けて計算をしていたが、ものの気配がするので顔をあげた。頭髪かみのけを解いて両肩のあたりに垂らした小柄な女が嬰児あかんぼを抱いて前に立っていた。
「お前は何人だ」
 女は首を垂れているので顔は見えなかった。
「賤しいものでございますから、名を申しあげてもお解りになりますまい」
「なにしに来た」
当方こちらのお嬢さんを南三復の奥さんになされようとしておりますから、それであがりました、どうか南三復の奥さんになさらないようにしてくださいまし、そうでないと、お嬢さんの生命を奪らなくては、ならないようになりますから」
 主人は驚いて逃げようとした。主人は卓にもたれてうたたねをしていたのであった。朝になったところで、媒婆が来た。
「旦那様、南さんに昨日逢ってまいりましたが、やっぱりわたしが申したとおり、南さんは百姓のわなにかかったものでございますよ、いつか別荘の帰りに雨に逢って、雨宿りに往って酒を出されたものですから、感心な百姓だと思って、ものを持っててやったりなんかしたものですから、先方はものにしようとして、あんなことになったのですって」
「そうかね」
 主人はふと、怪しい夢のことを思いだした。
「確かに、南さんが手を出したものじゃないかね」
 媒婆は笑った。
「そんなことがあってたまるものですか、あんな世家の旦那が、何の好奇ものずきに土百姓の汚い女なんかに、手を出すものですか、金は唸るほどあるし、女が欲しけりゃ、いくらでも娟好きれいな女が手に入るじゃありませんか、こんなことになったのも、あんな土百姓にでも、ちょっとした恩になると、それをそのままにしていられないという、立派な人柄からきたものでございますよ」
 主人はその人柄より南の家の金に心が往っていた。金があれば面倒を見てやらなくてもいい、それに女も幸福である。
「では、定めようか」

 話は纏まったが、南はゆいのう[#「占のあたま/(冂<メ)/禽のあし」、229-10]を贈ってやくそくしたが、早く結婚する必要があるので、媒婆をせきたてて日を選まし、その日になると習慣に従って新人しんふじんを迎えに往った。
 晋陽屈指の大家を親に持った、新人の奩妝よめいりどうぐ豊盛とよさかであった。南はその夜赤い蝋燭ろうそくのとろとろ燃える室で新人とさし向った。新人は白い娟好な顔をしていたが、双方の眼に涙があった。
「どうしたの、淋しいの」
 南は抱いて頬ずりしてやりたいように思った。
 新人の顔はますます悲しそうになって涙が後から後から湧いた。
「お母さんが、こいしいの」
 南は新人の気を換えようとした。新人はとうとう顔に手を当てた。
「どうしたの」
 南はその肩に手をかけた。
「どうもしないのですの」
 新人はかすかに言った。南はうるさくその理由わけを聞くこともできなかった。
 南はその夜、こおりのように冷たい新人と枕席まくらを共にした。南は望んでいた情調を味わうことができなかった。
 三四日してのことであった。南は閨房おくのまで新人とさし向っていた。新人はやはり悲しそうな顔をしていたが、それでも何処かに艶めかしいところのあるのが眼に注いた。南はそれに嫉妬を感じた。それは女がこんなにするのは他に関係していた男があって、それと別れたのでそれで悲しんでいるのではないかという疑いからであった。
「なぜ、そんなにする、何人かに逢いたいのじゃない」
「そ、そ、そんな、ことが」
 新人は酷く惶てたようにした。それは秘密を見知られた時にでもするような惶て方であった。南はてっきりそうだと思った。
「…………」
 南がまた何か言いかけたところで、室の外で声がした。
「お客様でございます」
 それは南の家に久しくいるばあやであった。南はその来客の何者であるかということを考えるよりも、こうした閨閣けいごうの中へ遠慮もなく入ってくる客の礼儀をわきまえない行為に対して神経を尖らした。と、一方の扉が開いて外の人がずかずかと入ってきた。それは新人の父親であった。
「これは、お父様ですか」
 岳父しゅうとのくる時期でもないし、それに前触れもなかったので南は思いもよらなかった。南はあたふたと起って迎えた。
「なにね、これが来てから夢見が悪いものだから、心配になってね、べつに変ったこともないようだね」と言って、南にやっていた眼を女に移した父親は、眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)った。「こりゃ、家の女じゃない、家の女は何処へ往ったのだ」
 南は驚いて新人の方を見た。新人は正面に南の方を見ていた。それは今まで見ていた悲しそうな新人の顔でなくて、輪廓の整った廷章の女の顔であった。南は頭ががんとなって気を失った。同時に怪しい新人は朽木を倒すようにどたりと床の上に倒れた。
「大変です、大変です、奥様が大変です」
 新人の父親が締めかけにしてあった室の扉を蹴開くようにして入ってきた者があった。それは新人に随ってきているじょちゅうの一人であった。
「奥様が、ど、どうした」
「奥様が桃の樹で大変です」
 新人の父親はいきなり駈けだした。
 婢はその後から随って往った。戸外そとには霧のような雨が降っていた。庭へおりると婢がさきにたって後園の方へ往った。其処には桃園ももぞのがあって、青葉の葉陰に小さな実の見えるその樹の一株に青い紐を懸けて縊死いししている者があった。それは新人であった。
 南は喚びさまされてやっと正気づいた。南は起きあがりながら見のこした夢の跡を追うように前を見た。其処には廷章の女の冷やかな死体が横たわっていた。南は恐ろしいので外へ逃げだした。
「旦那様、奥様が大変でございますよ」
 南の傍には媼がいた。媼の頭には新人の凶変のみが映っていた。媼は南を引きずるようにして後園へ往った。
 後園の桃園では女の死体をおろした岳父が狂気のようになって、婢のはこんできた薬湯を口や鼻から注ぎ込んでいた。
たまよせじゃ、魂よせじゃ」
 岳父は薬湯の器をほうりだして叫んだ。岳父は女の蘇生しないのはもうその魂が野に迷いでたがためであると思った。婢は近くの巫女みこの家へやられた。巫女は婢といっしょに来て新人の死体の傍へ草薦こもをしいて祈った。怪しい猿か何かの叫ぶような巫女の声が暫く続いたが、魂は還ってこないのか新人は蘇生しなかった。岳父は泣きながら女の死体を引き取って帰って往った。
 混惑の裡にあやつり人形のようになっていた南は、要人に注意せられて心をひきしめなくてはならなかった。要人は父親の代からいる老人であった。要人は怪しい死体の始末に困っていた。
「旦那、あのへんな死骸ですが、どうしたものでしょう」
「そうだな」
 南にもどうしていいか解らなかった。
「ぜんたい、どうした死骸でしょう」
「ありゃ、どうも、あの廷章の女の死骸だよ」
「そうですか」と言って要人は、何か考え込んだが、「悪い奴があって、奥様を殺しておいて、あんな死骸を持ち込んできたかも解らないですが、これが表沙汰になると、どんな結果はめになるかも解りませんから、廷章の方へ、じかにわたりをつけようじゃありませんか」
 南も表沙汰にして自分の罪悪が現れるようなことがあっては困ると思った。
「そうだ、それがいい」
 要人は怪しい死体を持って廷章の家へ往った。廷章は半ば疑いながら土地の習慣に従って浅く土をかけて葬ってある女の棺を開けてみた。棺の中には嬰児の死体ばかりあって女の死体はなかった。踏みにじられてその枉屈おうくつを述べることもできないで泣いていた廷章は激怒した。廷章は要人の金を出すからという妥協に耳をかさないで、府庁やくしょに訴えた。府庁でもあまり奇怪なことであるから手の下しようがなかった。南は万一のことがあってはならないと思ってまた賄賂を用いたので、その事件もそのままになってしまった。
 事件はそのままになってもその噂がぱっと拡がったので南が結婚しようと思っても女をくれる者がなかった。南はとても家の近くではいけないと思ったので遠くの方を物色した。そして二三年の後にやっとそうという進士の女と結婚することになった。
 その比晋陽の付近に何人いうとなく一つの噂が伝わってきた。それは良家の女を選んで後宮へ入れるという噂であった。やくそくしてむかえられる日を待っている女の家では驚惶きょうこうして吾も吾もと女を夫の家へ送った。
 その時南の家へ二梃の輿こしが来た。※(「門<昏」、第3水準1-93-52)もんばんは出て往って聞いた。
何方どなた様でございましょう」
 後の輿から年とった女の声がした。
「わたくしは曹からまいりました、旦那様にお取りつぎくださいまし」
 ※(「門<昏」、第3水準1-93-52)者は曹からと聞いていそいで南の処へ往って取りついだ。南は曹から何の用事で来たろうと思って出て往った。門口には輿から降りたばかりの十五六の背のすらりとした少女と老婆が立っていた。
「これは南の旦那様でございますか、わたくしは曹からまいりましたものでございます、あなた様もお聞きになっていられるだろうと思いますが、今朝こんど朝廷で女を選んで後宮に入れるということでございますから、もしそんなことにでもなると、困りますから、式はまだあげませんから、急にお嬢様をお伴れ申しました」
 南も嬪御ひんぎょの噂を聞いて心配しているところであった。
「それは、どうも、遠い処を大変でした」と言ったが、いくら倉卒そうそつの際でも女を送ってくるには五人や十人の従者は来ているだろう、それは何処にいるだろうと思った。「そして、他の方は」
「後からまいります、それにこんな場合でございますから、充分には調いませんでしたが、それでもすこし奩妝おこしらえを持ってまいりました」
 ぐずぐずしていて邪魔が入ってはならないと、輿を急がしてきたので従者も奩妝も後になったものであろう、南は老婆の心地に対して何か報いなければならないと思った。
「そうでしたか、それは大変でした、さあどうか」
 南は早く女を室の中に入れたかった。女は恥かしそうに俯向いていた。
「それでは、お嬢様をお願い申します、わたくしは、これから帰って、無事にお嬢様をお送り申したということを申しあげないと、旦那様と奥様が、御心配なされておりますから」と言って、女の方に向いて、「では、わたくしは、これから帰りますから、お大事に」
 南はいくらなんでも遠い路を来ているから、ちょっと休んで往ってはどうだろうと思った。
「お茶でも飲んで往ったら、どうですか」
「ぐずぐずしておりましては、帰りがおそくなりますから、では、確かにお嬢様をお渡し申しました」
 老婆はそう言ってから一方の輿に乗って帰って往った。南は急いで女の傍へ往った。
「さあ、室へ往こうね」
 女は俯向いたなりに何か言って頷いた。南はそこで前に立って閨房の方へ往った。女はひらひらと随いてきた。
 南は女と向きあって坐った。女はやはり俯向いていた。南は早く女のはにかみをって歓を求めようとした。
「お母様のおっぱいが飲みたくはないの」
 女は小声で笑った。
「お人形を持ってお嫁に往った人があるというが、あなたじゃない」
 女はまた小声で笑った。
「遠い処を来たから、疲労つかれたんじゃない、すこし休んだらどう」
 女はその時顔をあげた。白い面長な娟好きれいな顔が見えた。南はその顔が何人か知っている人の顔に似ているように思った。
(何人だろう)
 南は心に問いながら見なおした。見なおして南ははっと思った。それは女の眼の周囲に廷章の女に似た処があったがためであった。南を包んでいたふっくらとした心地は消えてしまった。
 女は起ってねだいの上にあがった。南はぼんやりそれを見ていた。女は榻にあがって横になるなり、かいまきを取って顔の上から被った。
 南は傍に腰をかけていた。南はいて新人に歓を求める場合を頭に描きなどして、厭な不吉な追憶を消そうとしたが消えなかった。そのうちに日が暮れかけた。後からきていると言った従者と奩妝こしらえは着かなかった。要人の老人は室の口へ来て南を呼んだ。
「旦那、ちょっといらしてください」
 南は要人に声をかけられて夢が覚めたようになって外へ出た。要人は小声で囁くように言った。
「旦那、曹の方の人はこないじゃありませんか、どうしたというのでしょうね」
 そう言われてみると従者も奩妝もあまり着くのが遅いのであった。
「どうしたのだろう」
「途でまちがいでもあったのでしょうか」
「そうだなあ、あの女が来たのは、午であったから、もうとうに着かなくちゃならないが、どうしたのだろう」
「奥様に伺ってみたら、どうでございます」
「そうだな、あの女も疲労れたとみえて眠ってるが、起して聞いてみてもいい、まちがいがあるといけないから」
「そうでございますよ、この節は物騒ですから」
「そうだ、じゃ起して聞いてみよう、お前もくるがいい」
 南は要人を伴れて中へ入ったが、吃驚びっくりさしてはいけないと思ったので、榻の傍へそっと往って声をかけた。
「まだ睡いの、よく眠るじゃないか」
 女はぐっすり眠っているのか眼を覚さなかった。
「大変疲労れたとみえるね、よく眠るじゃないか」南はそう言い言い隻手かたてを女にかけながら、「ちと眼を覚したら、どう」
 女の感触は冷たかった。それに動きもしなかった。南は不思議に思って被をそっと除った。女は冷たくなっていた。南はのけぞって倒れた。
 要人は南を介抱すると共に使いを曹へやった。曹では女を送って往ったことはないといって使いを帰してきた。南の家ではまた怪しい死体の処置に困った。
 その時ちょうという孝廉があって、その女が歿くなって葬式をしたところで、一晩おいて盗賊の為に棺を破られ死体と同時いっしょに入れてあった宝物も共に奪われた。孝廉は怒り悲しんで憎むべき盗賊の詮議をさしていたところで、南の家に怪しい死体が新人になってきたという噂が聞えてきたので数人の従者を伴れて南の家へ往った。
「怪しい死体を見せてもらいたい」
 南も厭とは言えなかった。南は孝廉を案内して死体を置いてある室へ往った。孝廉は死体を一眼見て叫んだ。
「嬢だ、嬢だ、家の嬢だ、嬢の死体を盗んだ者は、此処の悪党だ、ふん縛れ」
 従者は南を取って押えて縄をかけた。孝廉はそれを府庁に送った。府庁でも南の家の再三の怪事を見て、南の悪行の報いであるとし、つかあばくの罪に問うて南を死刑に処した。





底本:「中国の怪談(二)」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年8月8日初版発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
   1970(昭和45)年11月30日発行
入力:Hiroshi_O
※「要路の吏に賄賂を用いたので」「蹴開くようにして入ってきた者があった」は、それぞれ「要路の吏に賄路を用いたので」「蹴開くようにして入ったきた者があった」でしたが、親本を参照して直しました。
校正:門田裕志、小林繁雄
2003年8月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について