一
「どうじゃ、お梅、今日はだいぶ気あいがよさそうなが、それでも、あまり歩いてはよろしくない、
「いえ、いえ、わたしは、やっぱりこれがよろしゅうございます」
お梅は
「お楊枝を買うことを忘れておりました、お慰みに御覧あそばしませぬか」
お槇はお梅をはじめ一行を誘って楊枝店へ往った。楊枝店には前日から雇われている四谷左門の養女のお
「これこれ、
お袖は知らぬ顔をしていた。喜兵衛は
「此の女めは、何をうっかりしておる、早く出さぬか」
お袖がやっと顔をあげた。
「あなたは、
「さようじゃ」
「それなれば、売られませぬ」
「なんじゃと」
「
尾扇が喜兵衛の後からぬっと出た。
「こいつ出すぎた女め、そのままにはさしおかぬぞ」
傍へ来ていた
「まあ、まあ、どうしたものだ、そんな
喜兵衛は尾扇を
「打っちゃって置くがいい、参詣のさまたげになる」
喜兵衛はお梅たちを
「お袖さん、大事の体じゃないか、つまらんことを云ってはならんよ。それにしても考えてみれば、四谷左門の娘御が、楊枝店の雇女になるなんどは、これも
直助はお袖に寄りそうた。お袖はむっとした。
「
「おまえだって、こんな処へ来る世の中じゃないか、そんな事を云うものじゃねえやな」
直助はお袖の肩へ手をかけた。
「ええもう知らないよ」
お袖は其の手を
「あんなに強情な女もないものだ」
二
「ぜんたい、どうしたのだ」
其処へお袖が入ってきた。
「おう来たのか、来たのか」
お袖は手さぐりで直助の傍へ寄って往った。
「待ちかねたよ、お袖さん」
「え」
お袖は其処ではお
「驚くこたあねえよ、おれだよ」
お袖は其の声で初めて直助と云うことを知った。
「まあおまえは」
お袖はいきなり
「まあ、まあ、お袖さん」
直助はお袖の
「なんぼなんでもおまえと此の顔が」
「逢わされねえのはもっともだが、お袖さん、おまえは孝行だのう」
お袖は袂で顔をおおって何も云わなかった。
「まあ坐るがいい、おめえがこんな商売をするのも、みんな親のためだ、おれは何もかも知っている」
「は、はい」
「だからさ、おれの云うことを聞いて、今日かぎり、きれえさっぱりと足を洗ったらどうだ。こんなことが親御に知れたら、昔かたぎの左門さまじゃ」
「わたしも、それが」
「そうだろうとも」懐の紙入から金を出して、「まあ、此の金で、左門さまに
お袖は直助の顔をしみじみと見た。
「すみません」
「なに、そんな遠慮はいらねえ、そのかわり、
「でも、そればっかりは」
「いいじゃねえか、いつまでもそうつれなくするものじゃない」
直助はお袖を引っぱるようにして室の中へ入った。其処へ宅悦の女房のお
「お紋さん、ちょっと」
お袖は困っているところであった。お袖はすぐ起って出て来た。
「なに、おばさん」
「お客さんだよ」
お色はお袖を他の室へ伴れて往った。
「おとなしいお客さんだから、大事にしておやりよ」
お色は其のまま往ってしまった。お袖はちょっと考えていたが、思いきって障子を開けて入った。
「お休みになりまして」
客がもそりと体を動かした。
「一人で寝るくらいなら、こんな処へ来るものか、
お袖は寄らなかった。
「お願いがございます」
「なんだ」
「わたしの家は、もと武家でございましたが、
お袖は
「そう聞けば、気のどくだが、親のために
「いえ、そう云うわけでも」
「そんなら何もいいじゃねえか」
客の手がお袖に来た。
「あれ」
お袖は思わず飛びのいた。其のはずみに行燈にかけてあった風呂敷がぱらりと落ちた。同時に二人が声をたてた。
「やあ、そちは女房」
「おまえは、
客はお袖の許婚の
「これお袖、このざまはなんだ、男ほしさのいたずらか。あきれて物が云われねえ」
お袖は
「そりゃ、あんまりむごい与茂七さん。おまえこそ、現在わたしと云う女房がありながら、こんな処へ来なさるとは」
お袖には後暗いことはなかった。二人の心はすぐ解けあった。
間もなく与茂七とお袖は宅悦の家から『藪の
「目あては提燈だ」
三
「非人に提燈はいらぬもの、これも貴殿へ」
と云って往ってしまった。庄三郎は
「こんな
庄三郎はそれから
「与茂七、恋の仇じゃ、思い知ったか」
頬冠の男は直助であった。直助は『藪の内』と書いた提燈を目あてにしていたので、庄三郎を与茂七とのみ思いこんでいた。
「これでもか、これでもか」
「これでいい、これでいい」
直助は思いだして出刃を傍の垣根の中へ投げすてた。と、
「おのれ、老ぼれ」
「おのれ、悪人」
左門は斬られて血みどろになっていた。伊右衛門が追いすがってまた一刀をあびせた。左門は倒れてしまった。伊右衛門はそれに止めをさした。
「強情ぬかした老ぼれめ、刀の
其の時傍の闇から直助が顔を出した。
「そう云う声は、たしかに民谷さん」
伊右衛門は直助の方をきっと見た。
「奥田の
其の時向うの方で下駄の音がした。伊右衛門と直助は祠の後へ隠れた。下駄の音は近よって来た。それは
「こんな遅くまで、父さんは何をしていらっしゃることやら」
小提燈を
「これは、どうも」
小提燈の女は丁寧に頭をさげた。辻君姿の女は其の顔に眼をつけた。
「あ、おまえは妹」
小提燈の女も
「あなたは
辻君姿の女はお岩で、小提燈の女はお袖であった。お岩は物乞に往っている父親の左門を、お袖は途中で別れた与茂七の後を追うて来たところであった。お袖はお岩のあさましい姿をはっきり見た。
「あなたは、まあ、あさましい、辻君などに」
お岩はお袖の顔をきっと見た。
「おまえこそ、与茂七さんと云うれっきとした
「え、それは」
「これと云うのも貧がさすわざ、
「それはわたしも同じこと、恥かしい勤めはしても、肌身までは汚しませぬ。それにこんなことをしていたばかりに、今晩与茂七さんに逢うて、
「わたしも
其の時お岩は地べたで何か見つけた。
「おまえの傍に、それ血が」
お袖は提燈をかざした。其の
「あ、たいへん、こりゃ
「こりゃ与茂七さん」
お岩は左門の死体に、お袖は与茂七の死体にすがりついて泣いた。祠の陰から此の容子を見ていた伊右衛門と直助が、わざとらしく跫音を大きくして出て来た。
「女の泣声がする、ただ事ではないぞ」伊右衛門はそう云いお岩の傍へ往って、「おまえは、お岩じゃないか」
お岩は顔をあげた。
「あ、おまえは伊右衛門さん」
直助はお袖の傍へ往った。
「
お袖は泣きじゃくりしていた。
「
お岩とお袖は悲しみのあまり自害しようとした。伊右衛門は芝居がかりであった。
「うろたえもの、今姉妹が自害して、親、
お岩はそこできっとなった。
「それでは、別れた
伊右衛門はお岩を
「別れておっても、去り状はやってないから、やっぱり夫婦、
直助はお袖を云いくるめた。
「こうなるからは、是非ともおまえの力になる」
四
「はい、はい、お薬でござりますか」
宅悦が屏風の中へ入って往くと、伊右衛門は舌打ちした。
「此のなけなしの中へ、
宅悦は屏風の中から出て七輪へ薬の土瓶をかけて
「お岩の薬か、生れ子の薬か」
「これは、お岩さまのでござります」
其の時
「民谷氏、小平めをつかまえましたぞ、
「これは
其処へ
「てめえ故に、な、おれまでが、難儀しておるぞ」
伊右衛門は惨忍なことを考えていた。小平ははらはらしていた。
「どうぞ、おゆるしなされてくださりませ」
「ならん、たわけめ、
小平は身をふるわせた。
「旦那さま、お慈悲でござります、そればかりは、どうぞ」
長兵衛がついと出た。
「やかましい」と怒鳴りつけて、それから
官蔵、伴助、宅悦の三人は、長兵衛に促されて手拭で小平に猿轡をはめ、まず
「お頼み申しましょう」
伊右衛門はそれと見て、三人に云いつけて小平を
「さあ、どうか、これへこれへ。御近所におりながら、
「ありがとうござります、主人喜兵衛はじめ、
お槇はそこで贈物を前へ出した。伊右衛門はうやうやしかった。
「これは、これは、いつもながら御丁寧に、痛みいります、
「かしこまりました」それから
伊右衛門はそれを取って戴いた。
「これはお心づけ
其の時屏風の中で
「おお、ややさま、男の子でござりまするか」
伊右衛門は頷いた。
「さようでござる」
「それはお芽出とうござります、それでは」
お槇の一行が帰って往くと、長兵衛と官蔵がもう樽の口を開け、重詰を出して酒のしたくにかかった。伊右衛門はにんまりした。
「はて、せわしない手あいだのう」
五
伊右衛門は喜兵衛の家から帰って来た。伊右衛門は喜兵衛の家へ礼に往ったところで、たくさんの金を眼の前へ積まれて、一家の者から、
「ぜひとも
と云われたので、
「お岩と云う、れっきとした女房があり、それに
と云って、ていさいのいいことを云った。するとお梅が帯の間から
「伊右衛門殿、わしを殺してくだされ」
と云って、お梅の可愛さのあまり、伊右衛門とお岩の仲を割くために血の道の妙薬と云って、顔の
伊右衛門はそこでお梅を女房にすることにして帰って来たところであった。伊右衛門は上へあがってお岩の寝ている蚊帳の傍へ往った。
「油を買ってきたの」
お岩は伊右衛門の留守に、油を買いに往った宅悦が帰って来たのだと思った。伊右衛門は顔をさし出すようにした。
「おれだよ」
お岩は其の声で伊右衛門だと云うことを知った。
「伊右衛門殿」
「うむ、今帰ったが、さっきの薬を飲んだか」
「はい、
「そうか、顔が」
「痺れるようでござりました」
お岩はそう云いながら蚊帳の裾をめくって出て来た。伊右衛門は其の顔に注意した。お岩の顔は紫色に
「や、かわった、かわった」
お岩はさっき宅悦が
「私の顔に、何か変わったことでも」
伊右衛門はあわててそれを
「な、なに、ちょっとの間に、おまえの顔色がよくなったから、やっぱり
お岩は何かしら不安であった。
「顔色がよくなっても、私はなんだか」と云いかけて、急にしんみりして、「もし私が死んでも、此の子のために当分
お岩は醜くなった眼に涙を浮べた。伊右衛門はかんで吐き出すように云った。
「後妻か、そりゃ持つさ、一人でいられるものか。おまえが死んだら、すぐ持つつもりじゃ」
「え」
「そんなことは、あたりまえじゃないか」
「まあ、なんと云う薄情な」
「どうせおれは薄情だ、こんな薄情者にいつまでもくっついてないで、
伊右衛門は今夜喜兵衛がお梅を伴れて来ることになっているので、それまでに何とかしてお岩を追いだすようにしなくてはならなかった。お岩は歯をくいしばった。
「何と云う情ないことを、こんな可愛い児まであるに」
「何が可愛い、そんなに可愛けりゃ、くれてやるから伴れて往け。きさまのような
「何と申します、いつ私が不義をいたしました」
「しらばくれてもだめだ、きさまは
「あんまりな、そりゃ、あんまりでござります」
お岩は泣きくずれた。伊右衛門はふと思い出したことがあった。
「そうは云っても、
お岩は其の手にすがりついた。
「あ、それは
伊右衛門はじろりと見た。
「いけねえのか」
「そればっかりは、どうぞ」
お岩は一所懸命であった。伊右衛門はしかたなく櫛を投げだした。
「それじゃ、何か出せ、急に金のいることができた」
出せと云っても金になるような物は、これまで全部持ち出しているのであった。お岩は暫く考えていたが、思いだしたようにして
「それでは、私の」
お岩は帯を解き、襦袢一枚になって、泣く泣く其の衣服を伊右衛門の前へさし出した。伊右衛門はそれをひったくるようにした。
「これだけじゃ、しょうがない。そうじゃ、蚊帳がある」
お岩はあきれた。
「其の蚊帳を持って往かれては、坊やが」
「我鬼なんかどうでもいい、蚊がくうなら、親のやくめじゃ、追ってやれ」
伊右衛門はさっさと蚊帳をはずして、泣きしずむお岩を尻眼にかけて出て往った。
六
お岩は苦しい体をひきずるようにして、台所から
「いくらなんでも、あんまりじゃないか、こんなに蚊がいるのに」
宅悦はお岩の
「ひどいことをするものだ、男のわしでさえ
宅悦はお岩の手を執って引き寄せた。お岩は驚いて其の手を
「あれ滅相な、其の方は、まあ武士の女房に」
宅悦はいやしい笑いかたをした。
「いくら、おまえさまばかりが操をたてても、伊右衛門さまの心は、とうから変っております。今のうちに、わたしの云うことを聞く方が、おまえさまのためでござります」
「いくら
お岩はいきなり小平のさしていた刀を執って脱いた。宅悦はうろたえた。
「あ、あぶない」
宅悦はお岩に飛びかかって、其の刀をもぎ取ろうとした。お岩はそれを取られまいとして争っているうちに、どうした
「は、はなして」
お岩は刀の方へ駈け寄ろうとした。宅悦はあわてた。
「ま、まあ、静にしてくだされ、今云ったのは、皆嘘でござります。いくら私が
「え、私の顔がどうかなって」
「可哀そうに、何も知らずに
宅悦は
「
お岩は身をふるわせて泣きだした。宅悦は
「いやがるわたしをおどしつけて、みだらなことをさしたのも、今夜喜兵衛の孫娘と
お岩はこれを聞くと狂人のようになった。
「もう此のうえは、死ぬより他はない」きっとなって、「息のあるうちに喜兵衛殿に礼を云う、
宅悦はふるえていた。
「産後のおまえさまが、鉄漿をつけては」
「大事ない、早う、早う」
宅悦はお岩が狂人のようになっているので、何とかして止めようとしたが止められなかった。宅悦はしかたなく鉄漿の道具を持って来た。お岩は体をふるわしながら鉄漿を付け、それから髪を
「やや、
宅悦は泣きだした
「これ、お岩さま、もし、もし」
宅悦はお岩の傍へよって片手を其の肩へかけた。お岩の体はよろよろとなって倒れかかった。其処には鴨居に刺さっていた刀が落ちかかっていたので、お岩の
「う、う」
どす黒い血がお岩の顔から体を染めた。宅悦はふるえあがった。
「た、たい、へんだ、たいへんだ」
其の時
「こん畜生、死人に猫は禁物だ」
宅悦は猫を追った。其の途端に欄間の上から大きな鼠が猫を
「按摩か、首尾はよいか」
宅悦は夢中になっていた。
「たいへん、たいへん、たいへん、お岩さまがたいへんだ。それに、大きな鼠が、猫が」
宅悦は狂人のようになって走った。伊右衛門は訳が判らなかった。
「なんだ、鼠がどうしたのだ。鼠、鼠と云って逃げやがったが、首尾がわるいのか。それでは、
足もとで嬰児が泣きだした。伊右衛門はびっくりした。
「あ、もうすこしで、踏み殺すところじゃ。お岩は何処へ往った、おい、お岩」
其の時また
伊右衛門はすばやく嬰児を抱きあげて、きょろきょろと
「や、こりゃお岩が死んでおる」刀を見つけて、「こりゃ小平めの
伊右衛門は一方の襖をあけた。其処には小平が昼のままの姿で押しこめられていた。伊右衛門はいきなり小平を引きずり出して、
「やい、小平、よくもよくも
「めっそうな、たった今まで、両手も口も
「それでも、それそれ、両手が動くじゃないか。さあ、云え、なんでお岩を殺した」
「そう云わっしゃるなら、わたしがお岩さまを殺した
「べらぼうめ、
「それでは、あれは、彼の質屋に」
小平が走って往こうとする
「お岩の
其処へ秋山長兵衛と関口官蔵が入って来た。長兵衛は眼をみはった。「民谷
伊右衛門は小平をずたずたに斬りきざんでいた。
「不義者を成敗したのだ」
伊右衛門はそれから長兵衛と官蔵に頼んで、お岩と小平の死骸を
七
伊右衛門は屏風を開けてお梅の傍へ往こうとした。伊右衛門は其の夜遅くなって喜兵衛がお梅を伴れて来たので、祝言の
「どうじゃ、お梅」
伊右衛門はお梅の枕元へ座って、恥かしそうに
「伊右衛門さま、どうぞ末なごう」
と云って顔をあげたが、それはお梅でなく物凄いお岩の顔であった。
「あ」
伊右衛門は傍にあった刀を脱いて斬りつけた。首は刀に従って前へころりと落ちたが、落ちた首はお梅であった。
「やっぱりお梅であったか」
伊右衛門はうろたえて隣の
「喜兵衛殿、たいへんじゃ」
伊右衛門は喜兵衛を起した。それは喜兵衛でなくて嬰児を咬い殺して口を血だらけにしている小平であった。小平は伊右衛門を見た。
「旦那さま、薬をくだされ」
伊右衛門は飛びあがった。
「わりゃ小平め、よくも子供を殺したな」
伊右衛門の刀はまた其の首に往った。同時に首はころりと落ちたが、それはやっぱり喜兵衛の首であった。
「さては、死霊のするしわざか」
其のまわりには青い火がとろとろと燃えていた。
伊右衛門は刀を
八
傍には
「火を借してもらいましょう」
直助はすまして
「お点けなされませ」そして笠の中を覗いて、「伊右衛門さんお久しゅうござります」
伊右衛門は驚いた。
「そう云うてめえは、直助か」
「其の直助も、今では鰻掻の権兵衛」
話のうちに
「ああ、鮒か」
其のうちに他の標が動きだした。
「そりゃ、またかかった」
伊右衛門は調子にのって大きな声をしながらあげた。それには
「や、
伊右衛門はそれを知った直助にあいずをした。そこで直助はお弓のあいてになった。
「生きてる者に、なんで卒塔婆をたてる、伊右衛門が死んでから、今日でたしか四十九日」
お弓は無念でたまらないようにした。伊右衛門はそろそろと
「なるほど、おまえは、悪党だ」
伊右衛門はにやりと笑った。
「これもおぬしに習ったからよ」
此の時長兵衛が
「民谷氏、此処にござったか」
名を云ってはいけなかった。
「これさ、これさ」
「なるほど、これは。だがこなたの巻きぞえをくってはならぬから、遠国に往くつもりでござる、どうか路銀を」
「やろうにもくめんがつかぬ」
「くめんがつかねば、訴え出ようか」
「さあ、それは」
伊右衛門はしかたなしに母親からもらっている墨付を長兵衛にやって帰し、それから竿をあげて帰りかけた。と、前の流れへ杉戸が流れて来たが、それが不思議に立ちあがったので、かけてあった
九
お袖は山刀を持ってせっせと
淡い冬の夕陽のふるえている店頭には、物干竿にかけた一枚の
「此の
其の衣服はお岩の着ていたものであるが、お袖はお岩が死んだことを知らないので、そうと断定することができなかった。直助がそこへ帰って来た。
「これ、日が暮れかかったのに、
直助が家へ入るのでお袖は追って入った。
「米屋さんが米を持って来たから、
「そうか」そして考えついて
お袖はそれを見て驚いた。
「おや、その櫛は、そりゃ何処で拾ったのです」
「二三日前に、
「ある段か、これは
「おい、これ、馬鹿な事を云うな、世間には
直助はそれから質屋へ往こうとした。お袖は其の手にすがった。
「衣服は違ってても、櫛はたしかに姉さんの櫛、どうぞ、そればっかりは」
「てめえも
お袖は直助にせまられても与茂七の
「今のは、たしかに女の手だ」
直助が考えこんでいるところへ、お袖が膳を持って出て来たが、直助が落としてある櫛を見つけた。
「姉さんが、大事がらしやんす櫛じゃと云うに、こんなにして」
お袖は櫛を拾いあげたが、やっぱり米屋のことも気になるのであった。
「
と云って直助を質屋へやろうとした。そこで直助は、
「そうか、それじゃ往って来ようか」
と云ってお袖から櫛を取ろうとした。と、また盥の中から痩せた手が出て直助の櫛を持った手をつかんだ。
「あ」
直助は驚いてまた櫛を投げだした。が、それはお袖には見えなかった。
「おまえさん、何をそんなに。櫛を何処へやったのですよ」
「盥の中にあらあな、おまえが持ってくがいいや」
お袖は盥の中を覗きこんだが、櫛らしいものは見えなかった。お袖はちょっと其の辺へ眼をやった後で、そっと
「鼠が、鼠が」
鼠は仏壇へ往って
一〇
お袖は按摩の宅悦からお岩が伊右衛門のために殺されて神田川に投げこまれたと云うことを聞いて驚いた。それも姉が小平と不義をしたと云って、小平とともに杉戸へ打ちつけられたと聞いては、泣くにも涙が出なかった。直助はお袖を慰めた。
「憎い奴は伊右衛門じゃ、まあ気を落とさずに時節を待つがいい、きっと俺が
お袖は手酌で一ぱい飲んでそれを直助にさした。
「さ、一つ飲んでくださんせ」
直助は盃を執ってお袖に酌をしてもらった。
「これは、御馳走。それにしても女の身では、酒でも飲まずにはいられまい、他人のおれでさえ」
「其の他人にせまいために、女のわたしからさした盃」
「そうか」
「もし、もう祝言はすんだぞえ、親と夫の百ヶ日、今日がすぎれば、今宵から」
「そんならおぬしは」
「操を破って操をたてるわたしが心」
二人は立ててある屏風の中へ入ったところで、表の戸をとんとんと叩く者があった。直助が頭をあげた。
「
声に応じて外から男の声がした。
「すまねえが、線香を一
直助は
「気のどくだが、品ぎれだよ」
「それなら、此処にある
「だめじゃ、そりゃ一本が百より安くはならねえ、他へ往って買わっしゃるがいい」
外の男はちょっと黙ったが、すぐあわてて声をたてた。
「あれ、あれ、
直助は飛び起きて雨戸を開けた。其処に一人の男が立っていた。
「これはどうも、つい置き忘れておりまして」
直助は洗濯物を執って入ろうとして
「
直助は家の内へ飛びこんで、ぴしゃりと雨戸を締めて押えた。お袖も驚いて出て来た。
「何処に、何処に
其の時外の男の声がした。
「わたしは
お袖が其の声を聞きつけた。
「どうやら、聞きおぼえのある声じゃ」
直助が手を
「いけねえ、それが
「それでも」
お袖は首をかしげながら起きて往って雨戸を開けた。外の男は与茂七であった。
「おや、おまえは、与茂七さん」
「お袖か、わしは、おぬしの所在を探しておったが、かわった処で、はて
「わたしよりおまえさんは、いつぞやの晩、観音裏の田圃道で人手にかかって」
「あれか、あれなら奥田庄三郎だ。
「あ」
直助の驚く一方で、与茂七はお袖を見た。
「して此の人は、なんで今時分来てござる」
お袖はちょっと困ったが、宅悦の置いて往った杖に気が
「お、お、それ、按摩じゃわいな」
お袖は死んだと思っていた与茂七が不意に現れたので、身の置きどころに困っていた。お袖は与茂七の
「一旦、おまえに大事を頼み、女房となったうえからは、やっぱり女房、与茂七殿に酒を飲まして、わたしが手引する」
そこで直助は外へ出て
「寝酒をすすめて寝かしたうえで、
それで与茂七も外へ出た。お袖はそこで時刻をはかって行燈の燈を消した。それと見て直助は出刃を、与茂七は刀を脱いて家の内に入って、屏風の中を目あてに刺しとおした。同時に女の悲鳴が聞こえた。二人は目的を達したと思って屏風をはねのけた。屏風の中にはお袖が血みどろになっていた。其のとたんに月が射した。二人は
「これはどうした」
「これは」
お袖はやっと顔をあげた。
「与茂七さん、どうか、ゆるしておくれ。それから、直助さんは、養父と姉の讐を討った後で、どうか、小さい時に別れた
お袖には幼い時に別れた一人の兄があった。お袖は苦しそうに懐から一通の書置と、
「
直助はどしりと其処へ坐るなり、其の刀を
「与茂七殿、聞いてくだされ」
お袖が探していた幼い時別れた兄は、直助であった。直助は臍の緒の書きつけによって、先刻祝言の盃を交したお袖が妹であったことを知り、其のうえ、観音裏で与茂七と思って殺したのは、もと
一一
伊右衛門は秋山長兵衛を伴につれて鷹狩に往っていた。二人は
空には月が出て
長兵衛がそれと見て中を
「美しい女が糸車を廻しております」
「なに美しい女」
「さようでござります」
「それでは其の方が案内して、鷹のことを問うてみぬか」
そこで長兵衛が中へ入って往った。
「鷹がそれて行方が判らなくなったが、もしか
鷹は行燈の上にとまっていた。娘は
「此処におります」
長兵衛は驚いた。
「いや、こいつは
伊右衛門は長兵衛の知せによって中へ入り、やがて腰の
「そなたの名は」
其の時一枚の短冊が風に吹かれてひらひらと飛んで来た。娘はそれを
「わたしの名はこれでござります」
と云ってさしだした。それには、「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の」と百人一首の歌が書いてあった。伊右衛門は
「これが
「岩にせかるる其の岩が、私の名でござります」
伊右衛門はやがて娘を自由にして帰ろうとした。と、娘がその袖を控えたがその娘の顔はお岩の顔であった。
「あ」
伊右衛門は飛びあがった。同時に伊右衛門の手にしていた鷹が大きな鼠になって伊右衛門に飛びかかって来た。
「さてこそ執念」
伊右衛門は刀を抜いた。そして、無茶苦茶になって其の
一二
「これこれ、またおこりましたか。
伊右衛門ははっと思って眼をあけた。伊右衛門はお岩の亡霊に悩まされるので、
外には雪が降っていた。伊右衛門は行燈に燈を入れ、それから門口の流れ
「産後に死んだ女房子の、せめて未来を」
するとかけた水が
伊右衛門は驚いて庵室の内に入った。中にはさっき狂乱して引きちぎった
「お岩、もういいかげんに
と、お岩がゆらゆらと寄って来て、抱いていた嬰児を伊右衛門の前へさし出した。
「死んだと思ったら、それでは
伊右衛門はうれしそうにその嬰児をお岩の手から執った。同時にたくさんの鼠が出た。伊右衛門は驚いたひょうしに抱いていた嬰児を執り落した。嬰児は畳の上にずしりと云う音をたてた。それは石地蔵であった。其の時傍にいた母のお
「おのれ」
伊右衛門は刀を抜いて其の
「伊右衛門待て」
と云って駈け出して来た者があった。それは与茂七であった。
「其の方は与茂七か」
伊右衛門はきっとなって身がまえした。与茂七は刀を脱いた。
「お袖のためには義理の姉、お岩の
「なにを」
伊右衛門は与茂七を斬り伏せようとした。と、何処からともなく又
「おのれ」
と云って肩から