此の話は、私が少年の時、隣家の老人から聞いた話であります。其の老人は、壮 い時師匠について棒術を稽古しておりましたので、夏の夜など私に教えてくれると云って、渋染にした麻の帷子の両肌を脱いで、型を見せてくれました。ちっぽけな私は、老人の云うなりに、長い太い樫の棒を持って前へ出て、かちかちと老人の棒に当てました。棒は敵の頭と股間を狙って打ち込むのであります。
「もっと、力を入れて、もっと、力を入れて」
と、老人は云いました。私が顔を真紅にして、一生懸命に打ち込んでまいりますと、
「そう、そう、そうだ」
と、云って老人は褒めてくれました。そんな老人でありますから、旅行するには竹の中へ末込 銃のすやを仕込んだ杖などを持って往きました。其の老人が某日 物置の庭で、繩を綯いながら話してくれた話は、老人が己 で知っている話か、それとも何か書物にでもあった話か其処は私には判りません。
路は谷に沿うておりました。其の路を一人の旅人は、上へ上へと登りながら前の方を見ますと、円い膨らみのある山が重なっておりました。もう夕方で、微紅い陽が「もっと、力を入れて、もっと、力を入れて」
と、老人は云いました。私が顔を真紅にして、一生懸命に打ち込んでまいりますと、
「そう、そう、そうだ」
と、云って老人は褒めてくれました。そんな老人でありますから、旅行するには竹の中へ
旅人は疲れた足を休めずに、登り続けました。何時の間にか足もとで鳴っていた渓川の水の音が聞えなくなって、渓は遙の下の方になってしまいました。
峠に近くなったところで、日が暮れて
五六町ばかり登ったところで、路が
狭い板葺の家の中に、主人らしい男が
「むこうの村へ往く者でありますが、泊めていただくことはできますまいか」と云いました。
「ちょうど好い処へ来た、私はちょっと下の村まで往って来ねばならんから、留守居をしておくれ」と、
旅人は草鞋を解いて、簀子を敷いた縁側を跨いて[#「跨いて」はママ]地炉の傍へあがりました。主人は自在鉤につるして火の上にかけてあった茶釜から、茶を汲んでくれました。旅人は茶碗を見ると、今まで忘れていた咽喉の乾きをおぼえましたので、礼を云い云い、それを一息に飲みました。
「実は今日夕方、女房が病気で死んだから、下の村にいる親類へ知らして来たいと思うたが、
旅人は大変な処へ来あわしたものだと思って、心では後悔しましたが、人情として厭とは云えないし、もしまた厭と云えば、其処を出なければなりませんが、真暗に暮れてしまっては、とても
主人は棚から皿に盛った物をおろして来て、
「飯があると好いが、飯は今晩喫ってしまったから、此の、枕団子のあまりでもあげよう」と、云って前に置いてくれました。それは粟の団子でありました。
こうした場合、こんな団子を他の家で出してくれたなら、どんなにか嬉しいか判りませんが、死人が鬼魅の悪いうえに、死人の枕頭に置いた枕団子のあまりだと聞いては、とても口にする気にはなりません。で、
「私は、下の村で
主人はそれをほんとにしました。
「そんなら、腹が空いて来たら喫うが好え」と云って、それから
「これから一走り往ってくるから、寝てておくれ」
旅人は小さな声で返事をしました。主人は小さな松明に火をつけて、草履を穿いて出かけました。旅人は地炉にかけた茶釜を見つめながら、主人の跫音に耳をやっておりましたが、其の跫音は次第次第に遠退いて、やがて聞えなくなりました。
旅人の眼は、死骸の方に往きました。地炉の火のぼんやりさした死骸の頭はむこう向きになって、此方には束ねた黒髪がありました。枕頭には、
何時の間にか風が出て、裏の方で何かかたかたと鳴りました。旅人の体はぞくぞくとして、水をかけられたようになりました。旅人はふと気が注いて、「こんな臆病なことではならん」と思いました。で、強いて気を落着けようとして腹部に雙手を当てました。それでも死骸を見るのは鬼魅が悪いので、眼は茶釜より他にはやりません。
しかし、何となしに死骸の方が気になります。やらないとしても、其の眼は何時の間にか死骸の方に往きます。旅人はまた、「こんなことでどうする、男じゃないか、こんなことが怖くてどうする」と思って、強いて勇気を出そうとしましたが、其の一方から死骸のことが気になりだしました。
旅人の頭に、髪を揮り乱した真蒼な顔をした怪しい姿が映りました。旅人は唇を噛みしめて眼をつむりました。そして、気が稍静まったので眼を開けました。其の眼は、また死骸の方へ往きました。
ちょうど其の時でありました。死骸の顔のある方から蒼白い痩せこけた一本の手がすうと出て、枕もとの団子を一つ掴んで引込みました。旅人の頭には血が登りました。旅人はふらふらとなって縁側に出ましたが、逃げ出すのも恐ろしいので、縁側に腰をかけて、怖ごわまた死骸の方を見ました。と、冷たい氷のような毛もくじゃらな手が縁の下から出て、旅人の右の足を撮みました。旅人はもう気を失いました。
「おい、おい、どうした」と云って、揺り起す者の声に、旅人は正気づいて眼を開けました。傍には下の村へ往った
「どうした、どうした」と、主人はまた云いました。
旅人は縁側に仰向きになって倒れておりました。
「ああ、ああ」と、旅人はそれからさきは云わずに顫えておりました。
「どうした、何か怖いことがあったか、下からも人が来て呉れたから、もう何も怖いことはない」と、主人が云いました。
旅人は起きあがりました。
「まあ、上へあがるが好い」と、主人は
旅人も気が丈夫になったので、おずおずと地炉の傍へ寄りました。
「どうした、どんなことがあった」と、主人は問いました。
「其処から蒼い手が出て、団子を執りました」と、旅人は恐る恐る死骸の方へ手をやりました。
主人は判ったと云うような顔をしました。
「いや、それは気の毒なことをした、小供が母親が死んだと云っても、どうしても聞かずにいっしょに寝ると云うから、寝さしてあったから、それが執ったものだ、何も怖いことはない」と、云って主人は起って往って、死人にかけてある蒲団をまくりました。
其処には死人の胸にだきついて、四つばかりの小供が睡っておりましたが、隻手には何か握っておりました。
「執ったなりに、喫わずに持っている」と、主人は悲しそうな声で云いました。
旅人はそれでも安心ができませんでした。
「それから他に何かあったかな」と、主人が云いました。
「縁側に腰をかけると、冷たい毛もくじゃらの手が足にかかりました」と、旅人は云いました。
すると主人は淋しい笑い声を立てました。そして、主人は縁側に往って、敷いてある簀子を剥いで、
「これだ、これだ」と云いました。
旅人は何んであろうかと思って、傍へ寄って往きました。十匹位の子猿が簀子を剥いだ音に驚いて、暗いなかに坊主頭を見せてがさがさ騒いでおりました。